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《14》
 BOX(インターネット・ストーレッジ版)

BOX Essays 版 ……●
2003年 10月 1日
2003年 11月16日
上記BOXへアクセスできないときは、直接……●

件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■溺愛と代償的愛

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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03−10−1号(295)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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         *         
        / \        
       /   \       
      / ___ \      【1】子育てポイント
       ̄ ̄\_/ ̄ ̄      【2】Touch your Heart
   =| ̄ ̄ ̄ ̄* ̄ ̄ ̄ ̄|=   【3】子育てエッセー
    |__  *  __|    【4】フォーラム
  :  : |___|::   : 
 :\::\:  !!  :/: :/:
  :\ :\  !!  /:  /: 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto713

【今週の教室から……】

 小六のWさん(女児)が、こう言った。
 「たまたま、そうなったのよオ」と。
 何かのことで、そう言った。
 すかさず、私は、こう言った。
 「女の子が、そういう言葉を使っては、ダメだ」
 
 いっせいに、みながドッと笑う。
 「ちがうわよオ〜。あら、いやだア」とWさん。
 「それに発音が少し、おかしい。(たまたま)ではなく、(タマタマ)、だ」と私。

 ……しかし、これはセクハラか?
 子どもの学習指導には、いくつかのコツがある。
 たとえばいくらきびしい授業をしても、
 そのつど、節目、節目は、笑いでしめくくる。

 「+2−4+3−2+5の計算をしてみよう。いいか? +(プラス)は男だ。−(マイナス)は、
女だ」と私。少しずつだが、中学校で習うところを教えている。
 
「どうしてエ?」と子どもたち。
 「一本、男は多いからだ」
 「ギャア〜」
 「何をへんなことを、考えているんだ。K君、男と、女の違いを言いなさい」
 「そんなこと……言えないよオ〜」

 「+2、+3.+5は、みんな男だ。だから男は、全部で、10人。−4と−2は、女だ。女は、え
えと、全部で6人。男のほうが、4人、多い。だから答えは、+4」と。

 みんな幼稚園児のときから来ている子どもたちだ。気心は、よく知っている。だからこういう教
え方が許される。親の気持ちにはなれないが、しかしそれに近い気持ちにはなる。私がすべき
ことは、子どもたちを、楽しませること。勉強は、楽しいという意識を植えつけること。それに始
まって、それに終わる。あとは、子どもたち自身のもつ力で、自分で伸びてくれる。

 「先生、答は、(4)なの? それとも(+4)なの?」
 「どちらでもいい。一応、(+4)にしておいて」
 「(−4)のときは、必ず、マイナスをつけるの?」
 「そうだね……」
 「不公平だわ……」
 「そうだ。この世界、何でも、男中心にできているから」と。

 今日のレッスンは、ここでおしまい。何だかわかったような、わからなかったような、そんな教
えかたで終わった。
(030924)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●机を置くポイント

学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
(3)座った位置からドアが見えるようにする。(4)光は左側からくるようにする(右利き児のば
あい)。
(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強
できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ
じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、
どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかも
しれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を
休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た
いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ
ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大
切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども
は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ
ともあるので注意する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●依存性

 だれしも、多かれ少なかれ何かに依存しながら生きている。生きていることは、その依存する
ものがなくなったときにわかる。たとえば夫や妻をなくしてガタガタになる人。仕事や地位をなく
してガタガタになる人。お金や財産をなくしてガタガタになる人。宗教から離れたためにガタガタ
になる人もいる。 

 人は何かに依存することによって、自らを裏から支える。支えながら、強がって生きる。それ
自体は悪いことではないが、問題はその依存する相手と、そしてその程度だ。たとえば子ども
に依存する親というのは珍しくない。私はこのことを、依存心の強い子どもを調べていくうちに
気がついた。子どもが依存心が強いのではない。その親が依存心が強いから、子どももまた
依存心が強くなる……。言いかえると、子どもの依存心ばかりを問題にしても意味がない。

 子育ての目標は子どもを自立させること。この原則にたちかえるなら、親の依存心は、それ
が強ければ強いほど、この自立を妨げることになる。どうせ依存するなら、……というような乱
暴なことは言いたくないが、しかしどうせ依存するなら、子どもではなく、もっと別のものにしたら
よい。仕事とか、名誉とか、ボランティア活動とか、はたまた政治活動とか、など。

しかしこれらでも、本当にその人を裏から支えることができるかどうかということになると疑わし
い。依存するなら自分自身。子どもも含めて、自分以外のものには依存しない。名誉や肩書
き、地位など、バーチャルなものや、物や財産など、「形」あるものにも依存しない。

……と言っても、ここから先は、あくまでも理想論だが、できれば自分自身の深い人間性や、
知性、理性に依存するという方法もある。(私自身も本来ガタガタな人間であり、自分でもでき
ないようなことを、こうしてここに書くのは本当におこがましいことだが……。)そういうものに依
存すれば、「なくす」ということがないから、それこそ死ぬまで強がって生きることができる。い
や、いろいろな人を見てきたが、本当に強い人というのは、そういう人をいう。

 ……と書いて、ときどき私はどうなるのだろうと考える。もし私から健康がなくなり、女房が先
に死に、おまけに私が書いた本がつぎつぎと古紙回収業の人に回されたら……。そのときでも
私は自分の人間性に自信をもち、それに依存して生きていくことができるだろうか。いや、残念
ながら、その自信はまったくない。実のところ、こうして「依存心」について書きながら、もう一人
の自分が別のところで、「何を偉そうに!」と、先ほどからずっと叫んでいる。だからこの話はこ
こで止める。

  ‖                 
 :−−           ‖   
  ‖            :−− 
        ‖      ‖    テーマがあれば、どうかお寄せください。
       :−−           具体的に、相談内容を書いてくだされば
        ‖              うれしく思います。
【2】心に触れて(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●一日

朝、目をさます。
「今日こそは、懸命に生きよう」と心に誓う。
しかしトイレに行き、服を着がえているうちに、
いつもの自分に戻ってしまう。
そしていつの間にか、ふだんの生活を始めてしまう。

まず、できることをさがす。
しなければいけないことを、決める。
あとは、あまり考えない。
考えたところで、どうしようもない。
ただひたすら、懸命に、それに向かっていく。

ときどき、自分が負けそうになる。
気が抜けそうになる。
体を休めたいと思うこともある。
サボろうと思うこともある。
しかしそんなとき、ふと、こう思う。
「今日が人生、最後の日だ」と。

日々のほとんどは、毎日、同じ。
ときどきワイフに電話をして、
「何か、変わったこと、ある?」と聞く。
何かを期待しているのでもない。
期待していないのでもない。
だから、いつも返事は、同じ。
「別に、ないわ」と。

こうして一日を終える。
そして家に帰る。
居間にすわり、お茶を飲む。
変わったことをしたいと思っても、
その元気もない。気力もない。
やがて眠くなるのを待って、服を着がえる。

そんなとき、ふと、こう思う。
「明日も、同じだろうか」
「明日も、同じように過ごせるだろうか」と。

やがて、床に入る。
入って、目を閉じる。
「今日も、ダメだった」と、ふと思う。
何かをしたようで、結局は、何もできなかった。
かったるい毎日。充足感のない毎日。
こうして私の一日は、終わる。

……あとは、この繰りかえし。
ああ、どうしたらよいのか?
本当に、このままでよいのか?
わからないまま、私は、眠りにつく。
(030923)

         ,ミヽ  ミヽ
         へ ミ ヽ へ ミヽ
        ∂  ミミ∂ へミミ
        ζ  っノι ∂ ミミ8彡
        ヒ___ノ 人v "丿彡'
    |)─○  / ヽ  `>−<
     // \\_/_∧ \_/_/ ヽ ≡=   賛助会にどうか、ご入会ください。
   ___//  \_/_ξ ̄ ̄ノ_ __)      現在、お礼に、イラスト(額つき)を
  / _ \  / ____ ̄フ _____ノ  ≡=−   送っています。
  // \ \ / /   ̄/ /   ̄)
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

溺愛とストーカー行為

●母親の溺愛

 溺愛する親にせよ、ストーカー行為を繰りかえす人にせよ、それは「愛」によるものではない。
「代償的愛」による。代償的愛というのは、いわば、愛もどきの愛。身勝手で、自分本位の愛。
自分の心のすき間を埋めるための愛。子どもや、その相手を、そのために利用しているにす
ぎない。

 この代償的愛は、共通のものと考えてよい。私はこのことを、一人の母親に出会って、知っ
た。

 その母親(五五歳くらい)は、娘(現在、二八歳)を、溺愛した。それは恐ろしいほどの溺愛だ
った。娘が幼稚園児のときは、遠足先まで、見え隠れしながら、自分で車を運転して、ついてき
たという。

 が、その娘は、あるときから、そういう母親の溺愛をうるさく思うようになった。そして事件は起
きた。

 娘が母親の反対を押し切って、一人の男と結婚して、家を出てしまった。母親は、娘夫婦とい
っしょに暮らすことを考えていた。が、その夢は、こなごなに、こわれた。とたん、その母親は、
ストーカーに変身した。

 その話を、その女性(娘)から聞いたままを、ドキュメンタリー風に、書いてみる。

+++++++++++++++++

●娘をストーカーする母親

 ある夕方、H(女性、二八歳)が、食事のしたくをしていると、そこへ電話がかかってきた。そこ
に住むようになって、数日目のことだった。受話器を取ると、母親からだった。母親は、こう言っ
た。

 「あんた、今日はダサイ服を着てたわね。何よ、あの赤いスカート!」と。驚いてHが、「どうし
て知ってるの?」と聞くと、「スーパーで見かけたからよ」と。

 しかしその娘が行くスーパーには、母親は行かないはず。それに実家からは、距離も離れて
いる。母親は、ネチネチとした言い方で、あれこれ話し始めた。

 「あんた、インスタント食品ばかり買ってたでしょ。それにスパゲッティに、ウーロン茶? いっ
たい、どういう取り合わせをしてるの? 体によくないわよね。それとも、あんたのダンナを早
く、殺したいの? ちゃんと、料理してあげなさいよ」と。

 Hは、母が自分のことを怒っていることを知っていた。母の反対を押し切って、結婚した。実
際には、結婚式は、できなかった。今の夫とは、駈け落ちするかのようにして、家を出た。あと
で父に聞くと、その夜、母は、狂乱状態になって暴れたという。そんな負い目があった。Hは、
母親の話をだまって聞くしかなかった。

 が、それは、それからつづく、いやがらせの、ほんのはじめに過ぎなかった。

 電話は、翌日もかかってきた。そして今度は、こう言った。

 「この親不孝者め。親を捨てて家を出るということが、どういうことなのか、あんたにはわかっ
ているの。あのね、親を捨てる者は、地獄へ落ちるのよ。そう、あんたなんか、地獄へ落ちれ
ばいいのよ」と。

 それは前日と同じように、ネチネチした言い方だった。Hは、電話にとまどいながらも、反発す
ることすらできなかった。相手は親だ。しかも自分は、その親に、かわいがってもらった。ほし
いものは、たいてい何でも買ってもらった。

 大学は家から通ったが、家では、一番日当たりのよい、二階の三部屋を自由に使うことがで
きた。学費のほか、毎月一〇万円の小づかいをもらっていたが、そのほとんどは遊興費に使う
ことができた。しかし親は、何も文句は言わなかった。

H「お母さん、ごめんなさい。親不孝者だということは、自分でもわかっているわ」
母「そうよ。あんたなんか、地獄へ落ちるのよ。私が先に死ぬからね。あの世で、あんたが地
獄へ落ちるのを、楽しみに見ていてあげるからね」
H「でも、そんなつもりはないの」
母「そんなつもりって、何だい? 親を捨てたことかい?」
H「捨ててなんか、いないわ。いつもお母さんのことを、大切に思っているわ」
母「ああ、私はね、足が痛いんだよ。年齢も年齢だからね。だれが、病院へ連れていってくれる
のかね」と。

 こうした電話が、ほとんど、毎日、かかってきた。ときには、朝早い時刻に。ときには、真夜中
に。Hは、電話のベルが鳴るたびに、不安感を覚えるようになった。「心の底をえぐられるような
不安感」と、Hは言った。

 しかしHは、母からの電話については、夫には言わなかった。ときどき夫が電話に出ることは
あったが、母は、夫には、別人のように、やさしくていねいな言い方をした。夫は、いつも、H
に、「おまえの母さんは、いい母さんだな」と言っていた。

 そう、母親は、近所では、「仏様」というニックネームをつけられていた。穏やかな顔立ち、そ
れに低い、物腰。何かと小うるさい女性ではあったが、嫌われるということは、なかった。しかし
娘のHには、違った。

 その日は、夫がいない夜に、電話がかかってきた。母は、夫が泊りがけの出張で、家にいな
いことを知っていた。

母「あんたの手料理が食べたいよオ〜」
H「何を?」
母「昨日は、ダンナと、スキヤキを食べたんだろ?」
H「どうして、それを知っているの?」
母「母さんは、何でも知ってるんだよ」
H「どうしてスキヤキって、知っているの? 見てたの? どこで?」
母「そんなのは、私の勝手だろ。私はね、あんたが家を出てからというもの、毎晩、泣いて過ご
しているんだよ」
H「そんな……」
母「あんたも、もうすぐ母親になるんだろ。子どもが生まれるんだろ。だったら、そんな狭いアパ
ートなんかにいないでさ、うちへ戻っておいでよ。あんな風采のあがらないダンナなんかとは、
別れなさいよ」
H[それは、できないわ]
母「どうしてだい。親よりも、ダンナのほうが大切だと言うのかい?」
H「そうではないけど、私には、私の生活があるのよ」
母「じゃあ聞くけど、私の人生は何だったのよ。私の人生を返してよ。あんたには、いくらお金を
かけたか、わからない。あんたがピアノをひけるようになったのも、私が毎週、毎週、高い月謝
を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。その恩を忘れたの?」
H「忘れてはいないわ。でも、私は私の生活をしたいの」
母「この親不孝者めが!」(ガチャン)と。

 Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声したかと思う
と、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、怒った言い方を
した翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度は、今にも死にそうな
声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。

 あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう言ったと
いう。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用意しておいたから
ね」と。

 Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従ってくれた。
Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E町に住居を移し
た。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。

母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。豪勢な生
活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」
H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおかげで、
言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子どもに言葉を
教えない親がいるもんかね」

 そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。

H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。

 「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、使いたく
ても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた言葉。予想どお
り、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげて、こう叫んだ。

「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。

 この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑った。し
かし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、私はできるだけ
聞いたとおりを、忠実に書く。

 で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛する
親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、同質のも
のである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。

+++++++++++++++++++

●溺愛

 溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。

+++++++++++++++++++

●溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んでくれると、
私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。主人なんか、いても
いなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答えて、こう言った。「異常です」
と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親は自分
の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、泣き明かした
という。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見ると、いとおしくて、
ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみる。
そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子どもに恵
まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の死や事故がきっ
かけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、夫や家庭、他人や社会
に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママの典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにいるわ
よねエ。そうよねエ〜」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気がない。
幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、生活習慣がだ
らしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格の核形成が遅れる。こ
こでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といってもよい。

子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときになって
も、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくなる。ちょうどひ
ざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになるケー
ス。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、ママ」と言って、
母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一つは、その反動から
か、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。

ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年少女期
への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だからたいていの
親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。どうして、こんな子どもにな
ってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。しかし
それはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、何もない。

++++++++++++++++++++++++

同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。

++++++++++++++++++++++++

●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好
きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらで
もある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、『おふくろさ
ん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす民
族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコン
タイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプ
の息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互い
にそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなた
のような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人
たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコ
ンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているという
のだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもある
という。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議
すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、ま
ったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザ
コン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像し
がちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と
同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくな
い。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」と決
めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」と、
それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化する一
方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。

つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないと
きには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。
こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断
絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコ
ン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。

【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人の中に
潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らのマザコン性を正
当化するために、親を絶対視する傾向が強い。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親であ
る」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向きに生きていく。
それが親としての、真のやさしさではないだろうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

やるせない虚脱感

 少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダから落
として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教育者のみなら
ず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。

 こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しかしつぎ
の瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言ったらよいか
もしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。

 怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。

 もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、講師
のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もうと思って、席
に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見つめているではな
いか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。

 で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそういうことには
無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言った。

 「先生、へんな味はしなかった?」と。

 とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう一人の中
学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとなって、こう叫ん
だ。

 「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する能力もな
いのか。出て行け!」と。

 あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾させて
ほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。

で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかった。そう
いうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人間を、バカという)
を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にしなければならない虚しさ。教え
なければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を襲った。

 恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を否定さ
れたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいるが、そんなもの
ではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさである。

 で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最近でも
起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明らかに変化して
いる。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさぎを二階のベランダか
ら落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考えることを、今の子どもたち
は、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹をたてていたら、仕事そのものが成りた
たない。

 で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、道理が
わかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチャメチャなこと
をしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できないにも、関係ない。

 えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者と考え
る。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。デタラメ。は
っきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進学高校ほど、陰湿な
いじめが多いというのは、そういう理由による。

 最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、その
知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、おかしな子ども
を、どんどんと生産している。

 で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふくらんでい
る。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザーで、踏み荒らさ
れるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなることもある。私一人の力で
は、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年金が入るなら、明日にでも足を
洗うかもしれない。

 こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。一日、
一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。そのために
は、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあとは、自分で行動さ
せ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊かな子どもにする。

 そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)

【ギャグ化現象】

 日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ごまかす」な
どという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くことをいう。

●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかけると、
「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐらかす。
「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちてくると、地球はこ
なごなになる」と言うのが、それ。
●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」「からし明
太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、その場を
ごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャジャ〜ン」と答えるな
ど。

 こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、それだけで
軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オーストラリアの友人
に、このことを話すと、その友人は、こう言った。

 「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わない。その
分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさげて、考えてみた
い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

多弁児

 昔も、よくしゃべる子どもというのは、たしかにいた。しかしここ一〇〜二〇年、少し様子が変
わってきた。意味のないおしゃべりを、絶え間なくつづける子どもがふえてきた。一〇人のう
ち、二〜三人に、その傾向が見られる。

 「ヒント、ほしいな」「ははは、これだ、これだ」「S君、やってくれ」「計算の神様、どうか、お助
けを」「無限だ」「答は、無限だ」「チャンスはいっぱい」「ははは」「おれは、お客だ」「一か月のお
客だ」「それならいい」「できた、できない、多分、まちがっている」「孫はときどき、天才になる」
「おいらは、アホだ」「合っていれば、丸々」「丸々ちゃん」と。

 これは実際、ある子ども(小四男児)のひとり言を、そのまま収録したものである。

 原因としては、テレビゲームが、まず疑われる。

 小学三、四年生についてみると、かなり大雑把(ざっぱ)な調査だが、こうした多弁性が強い
子どもは、一方で、ほとんどがテレビゲーム漬けになっているのがわかる。とくに多弁性が強い
子どもは、まちがいなく、そうである。このタイプの子どもは、脳に飛来する情報を、そのまま口
にする。思考力や判断力、とくに抑制力が、ほとんど働かない。まさに脳が乱舞したような状態
になる。その状態で、しゃべりつづける。

 いわゆるADHD児でも、同じような傾向が見られるが、いわゆる多動性は、あまり目立たな
い。

 こうしたひとり言を放置すると、授業そのものが崩壊してしまう。うるさいというより、騒々し
い。まともに耳を傾けていると、気がヘンになる。そこでさらに強く注意して、それを制止しようと
する。が、効果は一時的なものでしかない。

 さらにきつく注意すると、今度は、まわりの子どもたちが、神経質になってしまう。だから、そ
れもできない。本人も、騒々しい割には、神経質で、気が小さい。あまり強く叱ると、先生をおび
えるようになることがある。そんなわけで、指導にも、限界がある。

 こうした多弁性のある子どもを、私は勝手に「多弁児」と呼んでいる。「支離滅裂型多弁児」と
いうのが、正確かもしれない。もしあなたの子どもに、以下のような傾向がみられたら、少なくと
も、テレビゲームは避ける。

●意味のないひとり言を、間断なく話す。
●制止しても、その場の効果しかない。
●ひとり言を言っている間、視線が目まぐるしく動く。
●始終、落ちつかない様子を見せる。小刻みな動きがみられる。
●突発的に、思いついた行動に走ることが多い。

 静かに人の話を聞く。……それは教育の基本でもある。しかしそれができないとなると、教育
そのものが、成りたたなくなる。そんなわけで、今、現場の教育は、危機的な状況にあるといっ
てもよい。一クラス、一人、二人ならまだしも、このタイプの子どもが、三人、四人もいると、もう
静かな授業などできない。たがいにしゃべりあうなどの、相乗効果が起きてしまう。それにその
周囲の子どもが、巻きこまれる。そのため授業は、崩壊する。
(030923)

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      〜〜〜〜〜〜〜    役に立つ情報を、書きとめておこうと思います。
【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

老人たち

 そういう老人ばかりが、目立つのかもしれない。しかし、この近所にも、たしかに老人がふえ
てきた。私も、もうすぐ、その仲間入りをする。

 しかし、だ。Aさんは、その季節になると、一日中、竹やぶの竹の子の監視をしている。Bさん
は、何をするでもなし。しないでもなし。そんな様子で、一日中、空き地に座っている。Cさん
は、家の中からほとんど、外に出てこない。しかしだれかが、家の周辺に車を止めたりすると、
すぐ出てきて、文句を言う。

 このあたりの老人は、みな、元公務員。どの人も、退職と同時に、年金生活をしている。しか
しそういう生活が、本当に理想なのかというと、私は、そうは思わない。ここに書いた、Aさんに
せよ、Cさんにせよ、この二〇〜二五年間。ただの一日も、働いたことはない。そればかりか、
これらの老人が、地域のために何かをした姿を、私は見たことがない。周辺のゴミを拾った姿
さえ、見たことがない。

 老人とは何か。また老人は、どうあるべきなのか。しかしそれは、老人の問題というより、近
い将来の、私の、そしてあなたの問題なのである。

 こうした老人を観察してみてわかることは、彼らはむしろ、世間に対して、憎しみをいだいてい
るのではないかということ。自分の権益が侵されることについては、きわめて敏感に反応する。
しかし自分の管轄外のことについては、いっさい、しない。そういう公務員的なものの考え方
(失礼!)が、身についてしまっている。

 元公務員の人たちだから、公僕意識があるかといえば、そういうものは、まったく、ない。むし
ろ、民間の元サラリーマンの人たちより、ないのではないか。生きることに対する、きびしさそ
のものがないようにも思える。このあたりでも、近所の草刈をするのは、Xさん。自動車会社元
社員。自治会の仕事で走り回っているのは、Yさん。農業。七〇歳を過ぎても働いているのは、
Zさん。何度か仕事をかえたが、ずっと民間企業勤務。

 老人が老人であるのは、人生の先輩だからではないのか。その先輩が、つぎの世代に、「そ
れではいけない」と思われて、それでよいのか。

 もっとも、ここに書いた老人は、老人たちの中でも、一部の人たち。私が知っている老人の中
には、すばらしい老人も多い。老いてなおさかんというか、若い人たちより、ずっと生き生きと仕
事をしている人もいる。だから老人を一まとめにして、「老人は……」と論ずることはできない。

 しかしこれだけは、言える。

 老後というのは、その人の人生の、総集編。いわば、ゴール。そのゴールで、人に誇るもの
がないというのは、あまりにもさみしいことではないのか。中には、あの世に望みを託し、あの
世へ入る準備ばかりしている人もいる。あああ。

 私は、このところ、何かにつけて、老後を考えることが多くなった。このところ急に涼しくなっ
て、秋の気配がましたことにも、一因があるようだ。秋は、まさにそういう季節。それに……。も
う、やめよう。どうせグチになるだけ。いや、やはり、書く。

 私たちは、自分の子どもが、家の中でゴロゴロしていたら、こう言うではないか。「家事を手伝
いなさい」「やるべきことをしなさい」と。しかし、それと同じことを、老人たちに言ってはいけない
のだろうか。

 きのうも仕事に行くとき、ふと見ると、近くの空き地に、六、七人の老人たちが、たむろしてい
た。いすに座って、何やら話しこんでいた。彼らは、天気のよい日には、そうしてほとんど一日
を過ごしている。だから思わず、こう言いそうになる。「何か、仕事をしなさいよ」「やるべきこと
をしなさいよ」と。

 しかしこういう方向性は、一朝一夕にできるものではない。まさに日々の積み重ねで、自分の
老後が決まる。社会のしくみの中で、老人パワーというか、その知恵と経験が、もっと有効に使
えるようにしなければならない。つまり同時に、私たち自身も、その準備をしておかねばならな
い。「退職したから、さあ、何かを始めよう」では、遅すぎるということ。

 かなりきびしいことを書いたが、この原稿は老人批判というより、自分自身にカツを入れるた
めの批判ととらえてほしい。

 さっそくだが、今の雨がやんだら、私は近所のゴミ集めをする。こうした習慣は、できるだけ
早くから身につけたほうがよい。「そのとき」になってからでは、遅い。
(030924)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パソコンの不調

 ホームページ用に使用しているパソコンが、どうもこのところ、調子が悪い。電源を入れると、
「保護エラー」と表示され、フリーズしてしまう。

 そこでしかたないので、SAFEモードで立ちあげて、一度、その状態から、再起動する。する
と、まあ、調子よく動き出す。原因はわからない。ウイルスチェックもしたし、アンチソフトのアッ
プデートもした。システム・ファイル・チェックもしたし、……ほかにやることはない。

 まあ、何とか動いているので、今は、このまま使ってみる。それでもおかしければ、近く、パナ
ソニック社に電話を入れて聞いてみる。

 で、そのため、何と、数時間、浪費。(アンチソフトの更新時期が迫ってきたので、その更新
手続きもした。それで思わぬ時間をとられてしまった。)

 で、今日は、マガジンの発行日。まだあまり原稿を書いてない。今日、予約を入れるのは、九
月三一日号ということになる。だいたい一週間前には、予約を入れることにしている。

【近況】
●近くに焼き肉屋ができた。Gという名前の店。さっそくワイフと行ってみるが、「一時間待ち」と
言われ、そのままスゴスゴと帰ってくる。焼き肉など、年に数回も食べないのに……。肉か、魚
かと聞かれれば、私は迷わず、魚料理を選ぶ。

●そのGという店から帰ってくるとき、Sというイタリア料理店へ寄る。ハンバーグ料理を、四〇
〇円弱で食べさせてくれる。これは焼き肉を食べられなかった、腹いせ。まさに腹いせ。で、そ
のまた帰りに、ビデオを二本、借りる。両方とも、最初の一〇分程度で、見飽きてしまって、そ
れでおしまい。「何とか映画祭受賞作品」と書いてあったが、そう書いてあるビデオほど、くだら
ない。どこか、偏屈?

●先ほど、ワイフが、テニスクラブから帰ってきた。今度、公民館の新しいテニスクラブに入っ
た。ワイフのよいところは、どこへ行っても、敵をつくらないこと。「お前は、いい性格をしている
ね?」と言うと、「あんたに鍛えられているから」と。いつか、「あんたの妻でいると、どんな人で
もつきあえるようになれる」と言ったこともある。そういうことかア。

●金沢のIさんが、今度、辰口町というところへ引っ越した。さっそくインターネットで検索してみ
る。鶴来(つるぎ)という町の近くだとわかった。私はその鶴来へ、毎月、法律相談所の所員と
して通ったことがある。なつかしい町だ。「一度、遊びにおいでください」とあった。Iさんへ、なか
なか時間がとれなくて、ごめん。このところ、私は、さらに出不精になってしまったようです。

●脳には刺激を与えなければならない。そこで先日、「ポルノ小説」を書いてみた。結果、刺激
になるどころか、ヒワイな妄想がムラムラと起きてしまい、筆は中断。下半身を刺激しただけ?
 もっとほかの方法をさがさねばならない。で、そのことをワイフに話すと、「旅行がいいかもよ」
とのこと。そこでさっそく、旅行プランを練る。さて、秋には、どこへ行こうか……と、考えたてい
たら、ワイフが、「グランドキャニオンは?」とか、「ナイアガラの滝もすごいそうよ」と、勝手なこ
とを言い始めた。私は、近くの行楽地を考えていたが……。

●ワイフの友人に、一人、旅行好きの人がいる。私の山荘にも来てくれたことがある。その人
が、グランドキャニオンだの、ナイアガラだのへと、行っている。グランドキャニオンでは、セス
ナ機で、あのあたりを周遊したそうだ。ワイフは、その人の影響を受けている。しかし、行って
みたいなあ……。すごいだろうなあ……。はるか上空の飛行機からは、何度か見たことはある
が……。

●このところ、昼間にフロに入ることが多くなった。自由業というのは、そういうことができる。
で、私の時間帯。

朝、五時前後、起きる。原稿を数時間書き、軽く朝食をとって、一、二時間、また寝る。
九時〜一〇時ごろ起きて、原稿を書き、仕事の準備をする。
昼ごろ、フロに入って、そのまま休憩。昼食をとって、仕事にでかける。
帰ってくるのは、曜日によって違うが、だいたい九時〜一〇時ごろ。
しばらくテレビを見たりして、床につく。

朝の静かな時間が、たいへん貴重。このときだけ、私は私でいられる。だれにもじゃまされず、
静かに考えることができる。毎日、この時間のために生きているような気がする。

●しかしこんな近況を書いても、どうしようもない。読んでくれる人に申しわけない。だからここ
でやめる。最後まで、こんな文を読んでくださり、ありがとうございました。プラス、ごめんなさ
い。
(030924)

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■■■■■■■■■| |■■■   お知り合いの方で、このマガジンが
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ● | ̄ ̄ ̄    役立ちそうな方がいらっしゃれば、
                 このマガジンのことを、話していただけませんか。
                      よろしく、お願いします。  
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
10・13 ……浜松市上島にて(ママアンドパパス・保育所開園式)
10・11 ……浜北市・内野小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■不幸の形(1)

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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03−10−3号(296)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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   =| ̄ ̄ ̄ ̄* ̄ ̄ ̄ ̄|=   【3】子育てエッセー
    |__  *  __|    【4】フォーラム
  :  : |___|::   : 
 :\::\:  !!  :/: :/:
  :\ :\  !!  /:  /: 
●はやし浩司から皆さんへ、カードです。(安全性は確認してあります。)

安心して、開いてください。
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto713

【今週の幼児教室から】

 今週は、「仕事」をテーマにした。「お母さんが、病気になってしまいました。どんなことで困り
ますか」「お父さんが、病気になってしまいました。どんなことで困りますか」という質問から始め
た。

 こうした指導では、導入をどうするかで、そのあとの学習のでき、ふできが決まってしまう。具
体性をもたせるのが、コツ。「お父さんは、どうして仕事をするの?」「お金がないと、どんなこと
で困るの?」と、話しあいながら、子どもを、順に誘導していく。

 つづいて、「値段」「おつり」の話。さらに「10円、20円、30円……」と、つづける。この時期、
お金をテーマにすると、子どもは、敏感に反応する。それだけ関心があるということ。

 さらに紙で、お金をつくる。そのお金を使って、「10円が、5枚で、50円」と教える。「10円が
3枚と、1円が5枚で、35円」と。このあたりが年長児では、限界。

 が、ここで終わるわけではない。今日は、こんな学習をした。

(1)まず、一人の親に銀行をしてもらう。
(2)子どもに、借用書を書かせる。「100円、借ります。あとで150円、返します」と。
(3)その借用書をもって、銀行で、お金を、100円、借りる。
(4)今度は、そのお金で、折り紙を買わせる。折り紙には、10円、30円、50円の三種類があ
る。紙の大きさで、値段が違う。
(5)買った折り紙に、絵を描く。折り紙を折り曲げて、何かをつくる。
(6)その作品を、今度は、私が買う。「これはじょうずにできたから、60円で買ってあげよう」
「これはあまりできがよくないから、40円だ」と。
(7)こうして子どもたちは、仕事をして、お金を稼ぐということを学ぶ。
(8)子どもは、作品を売ったお金で、また新しい紙を買う。
(9)(紙を買う)→(作品にする)→(売る)→(稼ぐ)→(また紙を買う)→……を繰りかえす。
(10)最後に、銀行へ150円返して、残ったお金が、「もうけ」ということを教える。

 この方式は、私が考え出したものだが、少しなれてくると、もっと複雑な指導ができるようにな
る。「値段」「おつり」という言葉も、自然と口から出てくるようになる。さらに一〇円だけではな
く、一円を混ぜると、「12円の紙、24円の紙」と、こまかい売買もできるようになる。

 なお、できた作品は、利益を上のせして、レッスンが終わったとき、子どもたちに売りつける。
50円で買ったものを、60円で子どもたちに売りつける。子どもたちは、「先生は、ズルイ」と言
うが、私は、「これが資本主義の論理だ」と言って、逃げる。

 この種の指導に、アレルギー反応を示す親も少なくない。「勉強というのは、アカデミックであ
るべき」という考え方をしている人ほど、そうだ。

 一方、幼児期から、こうした指導も必要と説く人もいる。実際、アメリカの小学校の中には、教
えているところもある。いわゆる「マネージメント教育」というのがそれ。私自身も、心のどこか
で軽い抵抗を覚えるが、実際、この指導をしてみると、子どもたちは、楽しそうに、かつ夢中に
なってする。そういう姿を見ていると、「こういうレッスンも悪くないな」と思う。
(030924)

【追記】私が子どものころは、現実にお金を稼ぐということが、遊びの一つになっていた。よくし
たのは、金クズ拾い。大きな磁石をヒモでつなぎ、それをもって川の中を歩く。川といっても、町
中を流れる下水のような川。またそういう川ほど、金クズがよく集まった。

 「アカ」とか、「アカガネ」とか、私たちは呼んでいたが、銅製のものは、とくに高く売れた。その
アカが見つかると、私たちはみな、歓声をあげた。

 父の一日の稼ぎがいくらだったかは覚えていないが、その父の稼ぎよりも、多い現金を手に
したこともあった。しかし自分のお金になったわけではない。すべて母に取られてしまった。「か
わりに貯金しておいてやる」が、母の口グセだった。

 当時はそういう時代だった。古き、よき時代とは言えないが、社会そのものが、すき間だらけ
だった。私たちは、そのすき間で、好き勝手なことをした。金クズ拾いもそうだが、しかしそうい
う遊び(?)を通して、私たちは資本主義社会のイロハを学んだ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●つらいときが子育て

 時の流れというのは、不思議なものだ。風のようなもので、どこからともなくやってきて、また
どこかへと去っていく。手でつかんだと思っても、指の間からそのまま漏れていく……。

 日々、平穏かつ無事に生きていくことは、それ自体すばらしいことだ。が、皮肉なことに、そう
いう人生からは何も生まれない。何も残らない。たとえば私の近所に小さな空き地があり、そこ
は老人たちのかっこうの集まり場所になっている。天気のよい日になると、何かをするでもな
し、しないでもなし、老人たちは一日中何やらイスに座って話し込んでいる。のどかな光景だ
が、そういう人生にどれほどの意味があるというのだろうか。多分話している話の内容も、エン
ドレスにつづくムダな話ばかり。それをただひたすら繰り返しているだけ……?

 子育てもまたそうで、子どもに問題もなく、何ごともなく過ぎていくことはすばらしいことだ。だ
れしも自分の子育てがそうであることを願う。しかしこんなこともある。

 はじめて園児を保育園や幼稚園へ連れてくるような母親というのは、確かに若くてきれいだ。
しかしどこか薄っぺらく(失礼!)、中身がない(失礼!)。しかしそんな親でもやがて子育てで
苦労をするうちに、やがて腰が低くなり、人間的なまるみができてくる。親が子どもを育てるの
ではない。子どもが親を育てる。もっとも親自身がそれに気づくのは、子どもがほとんど巣立つ
ころになってからだが、しかしそれがそのまま子育ての結論であり、人生の結論ではないの
か。

 今も私の脳裏には、多くの親たちの姿が浮かんでは消える。交通事故で長男をなくしたEさ
ん、脳腫瘍でやはり長男をなくしたPさん、ドクターに息子の生涯の精神障害を宣告されたGさ
ん、など。こういうことは人生の中ではあってはいけないことだが、しかしどの人も今、神々しい
ほど美しく輝いていて。街ですれ違っても声をかけることができないほどの崇高さを感ずる。そ
んなことも心のどこかに置いておくと、あなたはひょっとしたら、ほんの少しだけだが、時の流れ
を手の中でつかむことができるかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●できの悪い子どもほど、かわいい

昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子どもほ
ど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の情が薄くなる。
しかしできの悪い子は、そうではない。

 I君(小二)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっても、文
字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学習面でI君に無
理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→(もっと無理をする)の
悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。

 時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれてしまうぞ」
と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一方、父親は父親で、
そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きながら私の胸に飛び込んでき
てくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほど、Iの気持ちが遠ざかっていく
のがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。

 このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走しそう
になると、間に入って父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主人なりに息子の
ことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかっているから、つらがるので
しょう」と。

形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の愛。そ
の父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。「お父さん、
もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ますます勉強から遠ざかっ
ていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間にあいます。あきらめて、I君の好
きなようにさせましょう」と。

 そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。「先生、そうはおっしゃる
が、このままでは息子は、ダメになってしまいます」「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どう
しますか」「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま
息子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるので
すか」「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」「他人の子ども? 実は
私はその問題で、一〇年以上も悩んだのです。自分の子ども、他人の子ども、ということでね。
しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をしていません」

 いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその子ども
は自立する。そして何一〇年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親があせっ
て、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとした人間になってし
まう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、その瀬戸ぎわにいた。

  ‖                 
 :−−           ‖   
  ‖            :−− 
        ‖      ‖    テーマがあれば、どうかお寄せください。
       :−−           具体的に、相談内容を書いてくだされば
        ‖              うれしく思います。
【2】心に触れて(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●不幸の形

 幸福というのは、なかなかやってこないが、不幸というのは、こちらの都合など、お構いなしに
やってくる。だから幸福な家庭というのは、みな、同じだが、不幸な家庭というのは、みな違う。

 その不幸が不幸を呼び、さらにつぎの不幸を呼ぶ。こういう例は少なくない。

 両親は離婚。兄は長い闘病生活のあと、自殺未遂。母親は、再婚をしたものの、半年でまた
離婚。そのあと、叔父の家に預けられて育てられたが、そこで性的虐待を受ける。その女性
が、一七歳のときのことだった。

 そこで家出。お決まりの非行。そして風俗業。しかし悲劇はここで終わったわけではない。や
っと結婚したと思ったが、夫の暴力。生まれてきた長男は、知的障害。夫は、やがてほかの女
の家にいりびたるようになり、そして離婚。今、その女性は四五歳になるが、今度は乳がんの
疑いで、入院検査を受けることになった……。

 その人はこう言う。「どうして私だけが……?」と。

 一つのリズムが狂うと、そのリズムをたてなおそうと、無理をする。しかしその無理が、さらに
リズムを狂わす。だれしも不幸になると、そこがどん底の最悪、と思う。しかしその下には、さら
に二番底、三番底、さらには四番底がある。

 しかし人というには、皮肉なものだ。今、目の前にあるものを見ようとしない。見ても、その価
値に気づかない。仮に見ても、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」と、自ら、それを打ち
消してしまう。

 だから賢明な人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。しかし愚かな人は、そのものの価
値を、なくしてから気づく。健康しかり。人生しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 あなたは、本当に幸福か?
 それとも、あなたは本当に、不幸か?

 ある腎臓病だった人が、こんな投書を寄せている。何かの雑誌で読んだ話だが、こんな内容
だ。

 その人は、十年近く、重い腎臓病で苦しんだ。そしていよいよというときになって、運よく、腎
臓提供者が現れ、腎臓の移植手術を受けた。そしてそのあとのこと。はじめてトイレで小便をし
た。たまたま窓から、朝の陽光が差しこんでいたという。その人は、こう書いている。

 「自分の小便が黄金色にキラキラと輝いていた。私はその美しさに、感動し、思わず両手で、
自分の小便を受け止めてしまった」と。

 何気なくする小便にしても、それは黄金にまさる価値がある。その価値に気づくか気づかない
かは、ひとえに、その人の賢明さによる。言うまでもなく、賢明な人というのは、目の前にあるも
のを、そのまま見ることができる人をいう。

 その女性は、「どうして私だけが……」と言う。しかし本当にそうか? 

 だったら、冷静に、見てみろ! 「私は幸福だ」と笑っている、愚か者たちの顔を。抜けたよう
に、軽い顔を。彼らに、人生が何たるか、わかってたまるか! 生きるということが、どういうこ
とか、わかってたまるか!

 見てみろ! 目の前にある青い空を。緑の山々を。白い雲を、その向こうにある宇宙を。もし
この世界に、神々がいるとするなら、そしてその神々に奇跡を起こす力があるとするなら、今、
私がここにいて、あなたがそこにいる。それこそが、まさに奇跡。それにまさる奇跡が、どこに
ある!

 釈迦の説話にこんな話が、残っている。あるとき、ある男が釈迦のところにやってきて、こう
言う。

 「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。釈迦よ、どうすればこの死の恐怖から逃れるこ
とができるか」と。

 それに答えて釈迦は、こう答える。「明日のないことを、嘆くな。今日まで生きてきたことを、喜
べ、感謝せよ」と。

 余談だが、釈迦自身は、「来世」とか、「あの世」をいっさい、認めていない。こういうあやしげ
な言葉(失礼!)を使うようになったのは、もっとあとの仏教学者たちで、しかもヒンズー教の影
響を受けた学者たちである。今の日本に残る経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年を経て書
かれた経典ばかりである。ウソだと思うなら、釈迦の生誕地に残る原始経典(『スッタニパー
タ』、漢語で、『法句経』)を読んでみたらよい。

 不幸だと思っている人よ、さあ、勇気を出して、目の前のものを見よう。目の前のものを見
て、それを受け入れよう。こわがることはない。恐れることはない。恥じることはない。

 不幸だと思っている人よ、さあ、そういう自分を静かに認めよう。あなたには無数の心のポケ
ットがある。奥深く、心暖かいポケットである。そのポケットを、すなおに喜ぼう。誇ろう。あなた
はすばらしい心の持ち主だ。

 不幸だと思っている人よ、さあ、ゴールは近い。あなたはほかの人たちが見ることができない
ものを見る。ほかの人たちが知らないものを知る。あなたのような人こそ、人生を生きるにふさ
わしい人だ。人の世を照らすに、ふさわしい人だ。

 あなたの夫にいかに問題があっても、あなたの子どもにいかに問題があっても、ただひたす
ら、『許して忘れる』。これを繰りかえす。それは苦しくて、けわしい道かもしれないが、その度
量の深さが、あなたの人生を、いつかやがて光り輝くものにする。

 ……いや、かく言う私だって、本当のところ、何もわかっていない。本当のところ、何一つ、実
行できない。しかしこれだけは言える。私たちが求めている、真理にせよ、究極の幸福にせ
よ、それは遠くの、空のかなたにあるのではないということ。私やあなたのすぐそばにあって、
私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに待っている。

 過去がどうであれ、これからの未来がどうであれ、そんなことは、気にしてはいけない。今、こ
こにあるのは、「今という現実」だけ。私たちがなすべきことは、今というこの現実を、懸命に生
きること。ただただ、ひたすら懸命に生きること。結果は必ず、あとからついてくる。

 そう、私たちの目的は、成功することではない。私たちの目的は、失敗にめげず、前に進む
ことである。あの「宝島」をいう本を書いた、スティーブンソンもそう言っている。そういう有名な
言葉をもじるのは、許されないことかもしれない。しかしあえて、この言葉をもじると、こうなる。

 私たちの目的は、幸福になることではない。日々の不幸にめげず、前に進むことだ、と。

 もしあなたが不幸なら、ほんの少しだけ、あなたより不幸な人に、やさしくしてみればよい。あ
なたより不幸な人を、ほんの少しだけ、暖かい心で包んであげればよい。それで相手は救われ
る。と、同時に、あなたも救われる。

 あなたの子どもは、そこにいる。あなたはそこにいて、いっしょに生きている。友よ、仲間よ、
それをいっしょに、喜ぼうではないか。この一〇〇億年という宇宙の歴史の中で、そして百億に
近い人間たちの世界で、今、こうして心を通わすことができる。友よ、仲間よ、それをいっしょ
に、喜ぼうではないか。

 不安になることはない。心配することもない。さあ、あなたも勇気を出して、前に進もう。不幸
なんて、クソ食らえ! いやいや、あなたの身のまわりにも、すばらしいものが山のようにある。
それを一つずつ、数えてみよう。一つずつだ。ゆっくりと、それを数えてみよう。

 秋のこぼれ日に揺れる、栗の木の葉。
 涼しい風に、やさしく揺れる森の木々。
 窓には、友がくれたブリキの汽車の模型。
 そしてその上には、息子たちの赤ん坊のときの写真。

 やがてあなたは、心の中に、暖かいものを覚えるだろう。そしてその暖かさを感じたら、それ
をしっかりと胸にとどめておこう。それがあなたの原点なのだ。生きる力なのだ。

 つぎに、不幸と戦う必要はない。今ある状態を、それ以上悪くしないことだけを考える。あなた
は、ミレーが描いた、「落穂拾い」という絵を知っているだろうか。荒れた農地のすみで、三人
の農夫の女性が、懸命に、落穂を拾っている。どういう心境かは私には、知るよしもないが、し
かし私はあの絵に、人生の縮図を見る。

 私たちは今、懸命に、「今という時」を拾いながら生きている。手でつまむようにして拾うのだ
から、たいしたものは拾えないかもしれない。もっているものといえば、小さな袋だけ。が、それ
でも懸命に拾いながら、生きている。しかしその懸命さが、人の心を打つ。つまりそこに、人生
のすばらしさがある。無数のドラマも、そこから生まれる。

 最後に一言。あなたは決して、ひとりではない。その証拠に、今、私はこの文章を書いてい
る。そういう私がいることを信じて、前に進んでほしい。あまり力にはなれないかもしれないが、
私も努力をしてみる。
(030925)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

自己開示の限界

 徹底した自己開示。それが信頼関係の基本であることは、まちがいない。しかしその自己開
示にも、限界がある。

 たとえばあなたがある男性と、不倫をしたとしよう。何度も密会し、性的関係もある。相手の
男にも、妻子がいる。

 そのときあなたは愛に溺れながらも、一方で、その罪の重さに悩む。苦しむ。あなたがまとも
な女性なら、心苦しくて、夫と顔を合わせることもできないだろう。

 しかしそれで夫との信頼関係が、崩壊するわけではない。あなたはその秘密を、心の奥深く
にしまう。そして何ごともなかったかのように、その場を切り抜けようとする。あなたには、夫も
子どももいる。

そんなやるせない女心をみごとに表現したのが、R・ウォラーの『マディソン郡の橋』である。映
画の中では、主人公のフランチェスカが、車のドアを迷いながらも、しっかりと握りしめる。あの
ワンカットが、フランチェスカの心のすべてを語る。

 そこで問題は、夫婦であるという理由だけで、妻は、夫にすべてを語る必要があるかというこ
と。仮に成りゆきで、ほかの男性と性的関係をもったとしても、だ。だまっていれば、バレない
し、夫も、それによってキズつくことはない。

 つまりここで自己開示の問題が、出てくる。そこでオーストラリアの友人(男性)に、メールで
聞くと、こう話してくれた。

 「ウソをつくのは、まずいが、聞かれるまでだまっているのは、悪いことではない」と。

 何とも微妙な言い回しだが、「聞かれてもだまっていればいい」「またそういうことは、夫や妻
に聞くべきではない」とも。

 仮に自分の夫や妻が不倫をしても、「その範囲」にあれば、それもしかたないのではというこ
とらしい。そこで私が、「君は、不倫をしたことがあるか?」と聞くと、「君と同じだ」と。ナルホ
ド!

 私は自分のワイフのことは知らない。しかし、そういうことは聞かない。信頼しているとか、い
ないかということではない。聞いても本当のことは言わないだろうし、ウソを言われるのは、不
倫より、つらい。

 一方、ワイフも、私には聞かない。反対の立場で、同じように考えているせいではないか。

 世俗的な言い方だが、結婚生活を三〇年もつづけていると、いろいろなことがある、というこ
と。不倫もその一つかもしれないし、そうでないかもしれない。私たちは夫や妻である前に、人
間だ。人間である前に、動物だ。夫や妻になったからといって、人間であることを捨てるわけで
はない。動物であることを捨てるわけではない。

 だからどうせ不倫をするなら、命がけでしたらよい。夫や妻である前に、人間の。人間である
前に、動物の。そんな雄たけびが聞こえるような不倫をしたらよい。恋焦がれて、苦しんで、自
分を燃やしつくすような不倫なら、したらよい。「私は人間だ」と、心底から叫べるような不倫な
ら、したらよい。が、それができないなら、不倫など、してはいけない。

 ……と話がそれたが、夫婦の間でも、自己開示には限界がある。それは「相手をキズつけな
い」という範囲での限界である。いくらさらけ出すといっても、相手がそれによってキズつくような
ら、してはいけない。またそういう限界があるからといって、信頼関係が築けないということでも
ない。

 私はこのことを、最近知った。このつづきはどうなるかわからないが、もう少し、考えて、また
報告する。
(030924)

++++++++++++++++++++++

久しぶりに「マジソン郡の橋」を思い出したました。
以前書いた原稿を、再掲載します。

++++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。

晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今
氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生
の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。
(中日新聞東掲載済み)

●Where there is sorrow, there is holy ground.−Oscar Wilde
悲しみのあるところに、神聖な土壌がある。(オスカー・ワイルド)

●"According to the Buddha, these are all signs of a false identity: fear, attachment, shame, 
compulsion and rigidity. Hmmm. I feel like if I didn't have these things, I'd never clean my 
house. What's up with that?" - Nerissa Nields
「ブッダによれば、恐れ、依存、恥、強制、がんこ。これらはすべて偽の自分自身の兆候だそう
ね。ウム。もし私に、そういうものがないなら、私の家は、掃除しないでしょうね。それがどうした
というの?」(N・ニールズ)

●I hate quotations. Tell me what you know. - Ralph Waldo Emerson
引用は嫌いだ。あんたの言葉で言え。(R・W・エマーソン)

●Do not go where the path may lead instead go where there is no path and leave a trail. - 
Ralph Waldo Emerson

道があるところを行ってはいけないよ。足跡が残るような、道のないところを行きなよ。(R・W・
エマーソン)

●A day without sunshine is, you know, night. - Shannon
サンシャインのない日というのはね、夜だよ。(シャノン)

●My advice to you is to get married: if you find a good wife you'll be happy: if not, you'll 
become a philosopher - Socrates
私からあなたへのアドバイスはね、結婚することだよ。よい妻を見つければ、あんたは幸福に
なるだろう。そうでなければ、あんたは哲学者になるだろう。(ソクラテス)

●The unexamined life is not worth living. - Socrates
吟味されない人生は、生きる価値はない。(ソクラテス)


         ,ミヽ  ミヽ
         へ ミ ヽ へ ミヽ
        ∂  ミミ∂ へミミ
        ζ  っノι ∂ ミミ8彡
        ヒ___ノ 人v "丿彡'
    |)─○  / ヽ  `>−<
     // \\_/_∧ \_/_/ ヽ ≡=   賛助会にどうか、ご入会ください。
   ___//  \_/_ξ ̄ ̄ノ_ __)      現在、お礼に、イラスト(額つき)を
  / _ \  / ____ ̄フ _____ノ  ≡=−   送っています。
  // \ \ / /   ̄/ /   ̄)
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ある少年の恋

A君が、恋をした。中学二年生だ。
ときどき、フーッとため息を漏らす。
「どうしたの?」と聞いても、うわの空。
が、どうしても、その話題になる。

「先生、女の子から見ると、ぼくは、どう見える? どんな男が、女の子に好かれるの?」と。

「男と女なんてものはね、図式どおりには、いかないものだよ。どんな男が好かれて、どんな男
が嫌われるか。そんなこと、だれにもわからないよ」と私。

 私は若いころは、いつも、恋に苦しんだ。もともとモテるタイプの男ではないし、それにムード
がない。若いころ、セックスをするたびに、相手の女性はこう言った。「あんたとしていると、ス
ポーツみたい」と。

 そう、私にとっては、セックスは、スポーツのようなものだった。ゲームに近かったかもしれな
い。とてもフランス映画や、イタリア映画のようなわけにはいかなかった。まねをしたことはある
が、かえって冗談に思われてしまった。

 「相手の心をつかみ、恋を成就させたかったら、真剣になることだ」と私。「おもしろ半分では
いけない。真剣だ。真剣になるんだ。あとは、相手に任せる。それでいい」とも。

 見栄も体裁も捨てる。恥も外聞も捨てる。フラれてもよいと、真剣に相手にぶつかる。好きだ
ったら好きと言えばよい。愛していたら愛していると言えばよい。その真剣さが、相手の心を溶
かす。

 「先生、フラれたら、どうしたらいいの?」
 「そのときは、そのきだ。しかしね、真剣にすべてを出しきると、フラれたとたん、胸の中はす
っきりするよ。一度、ためしてみたら?」
 「しかし、フラれるのもつらいし……」
 「ああ、それじゃあ、だめだ。まだ君は、相手のことを、真剣に好きというわけじゃ、ないな」
と。

 そこで私は提案した。「ラブレターを書いてあげようか。こう見えても、ぼくが書くラブレター
は、一級だよ」と。すると、A君は、その場を笑ってごまかした。ごまかしながら、「どんなふう
に?」と聞いた。

++++++++++++++++++++

K子さんへ、

 心が重いです。重いから、いつも空を見ています。でも空を見ていると、今度はつらいです。
つらいから、下を見ます。でも下を見ていると、涙が出てきます。そうしていつも、あなたのこと
を考えています。好きです。

                                Aより
 
++++++++++++++++++++

 これを読んでA君が、こう言った。「さすがだね。これ、先生の経験?」と。そこで私はこう言っ
た。

 「男はね、いつも恋をしているよ。いつも、ね。いつもだれかに恋をしているよ。そのやるせな
い気持を、楽しむために、ね。今もひとり、恋をしているよ。とってもすてきな人だよ。でも、それ
はショーウィンドウに飾られた花を見るような気持だよ。心のどこかで、『ほしいな』と思いつつ、
『その人の幸福は大切にしよう』と思いとどまるのさ。

 これからも君は無数の恋をするだろうな。でも、大切なことは、どんなときも、自分を飾らず、
ありのままの自分を表現することだ。そして真正面から、先にも言ったように、真剣にぶつかっ
ていく。あとは、相手に任す。相手にだって、人を選ぶ権利はあるからね。相手が『ノー』と言っ
たら、さっと引きさがる。あとは、忘れる」

 「やっぱり、フラれるのがこわいから、今のままでいい」
 「ああ、それならやめときな」
 「まだ、そこまで真剣でないし……」
 「いつか真剣になる人が現れるよ。きっと現れるよ。すてきな人がね。そのときまで、今の気
持を大切にとっておきな」と。

+++++++++++++++++++++

●息子が恋をするとき

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生
の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と
笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くはつづかなかった。しばらく交際していると、相手
の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の
息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員三〇名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車
屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのま
ま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。
オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つか
と言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が一億円も二億円もある
ようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百
万円もするような着物で身を飾ったタレントが、アフリカ難民の募金を涙ながらに訴える。暴力
映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やフランス政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、
「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちが
っているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえな
い。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、
その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおし
む涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、
過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色
あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝
ていた。六月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなに
なってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度
も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たま
らなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。そ
れに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++ 

 そう。恋は人生の花。あとのすべては、その残りカス。カスの中で、切ない恋をかみしめなが
ら、みんながんばって生きている。心のどこかに、淡い火をともしながら……。人生はすばらし
いですね。
(030924)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

母親の一貫性

 母親に求められる、第一の条件は、「一貫性」である。まずいのは、母親の子どもへの接し方
が、そのときどきの母親の気分で、変動すること。気分がよいときには、子どもにベタベタし、
そうでないときは、冷淡になる、など。こうした不安定な養育姿勢は、子どもの心に、深刻な影
響を与える。

 よく知られた例としては、パーソナリティ障害(人格障害)というのがある。このタイプの人は、
ものの考え方や、行動が極端になりやすいことが知られている。

 たとえば相手を好きになると、徹底的に好きになる。しかしふとしたことで嫌いになると、今度
は、徹底して嫌いになるなど。行動が極端なため、ときには、自暴自棄になり、それが高じて、
自殺を図ることもある。

 このパーソナリティ障害の原因は、その人の乳幼児期にあるされる(発達心理学者・M・マー
ラーほか)。この時期、母親の接し方がまずいと、子どもは、不安や不信から、心の発達を停
止してしまうとされる。そしてそれが遠因となって、ここでいうパーソナリティ障害を引き起こすと
される。

 Kさん(三八歳・女性)は、パーソナリティ障害かどうかは別として、ときどき、はげしい絶望感
に襲われるという。いやになると、何もかもいやになる、というようにである。生来の完ぺき主義
もあった。こんなことがあった。

 ある日、二人の客が家に泊まった。そのとき、客が聞こえるような位置で、夫と口論をし、夫
に罵声(ばせい)を浴びせかけてしまった。「自分でも、まずいと感じていました。客にそういう声
を聞かれたくなかったのですが、自分をコントロールできませんでした」と。

 はげしい絶望感は、そのあとやってきた。「どうしてそんなことをしたのだろう」という思いが、
やがて胸の中で大きくふくらみ、自分で自分をはげしく、責めたてた。

 夫に相談すると、「どこの夫婦も、似たようなものだ。だれだって、けんかくらいならする」と、K
さんをなぐさめてくれたが、Kさんは、納得できなかった。自分でした行為の愚かさに、それから
数日間も悩まされたという。「心に何かしら不快な紙が張りついたような気分でした」と。

 こうした例は、多い。一般論として、心の変動のはげしい人は、それだけ情緒が不安定とみ
る。が、問題は、その人自身というより、まわりの人たちである。その人に振りまわされているう
ちに、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 反対に、これも一般論として、豊かな親の愛情に包まれ、心静かな環境で育った子どもほ
ど、どこかどっしりとしている。態度も大きく、ふてぶてしい。つまりそれだけ、情緒が安定してい
る。だから……。

 子どもの心を伸ばそうと考えたら、まず、親自身が、自分の心を安定させる。そして子育て
に、一貫性をもたせる。子どもが、スキンシップを求めてきたら、そのつど、安定した接し方で、
それに応じてあげるなど。こういう育児姿勢が、子どもの心を、はぐくむ。
 
【不安定なあなたへ……】

 もしあなたが、ここでいうような不安定な親なら、自分の行動に、制限をつけるとよい。すべき
ことと、してはいけないことを分け、そのしてはいけないことについては、夫なり、妻なりに任
す。

 たとえば子どもを叱るのは、夫(妻)に任す。説教するのは、夫(妻)に任す。大切な判断をす
るのは、夫(妻)に任す。子どもの勉強をみるのは、夫(妻)に任す、など。ふつう子どもと接して
イライラするようなことなら、それから遠ざかるようにするとよい。

 こうした制限をもうける接し方は、「制限設定」という名で、心理学の分野でも、治療法の一つ
として確立されている(J・マスターほか)。

要するに、苦手なことはしないこと。だれにも、得意、不得意がある。親だから万能でなければ
ならないと、そういうふうに、自分を追いこんではいけない。自分を改めようと、思ってはいけな
い。無理をしてはいけない。

子育ても、またしかり。苦手なら苦手でよい。大切なことは、そういう自分をすなおに認めるこ
と。認めたうえで、あとは前向きに、進む。得意なことだけをしていけばよい。

 以上、愛知県A市に住んでいる、Kさんからのメールをもとに、考えてみた。
(030924)

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これに関連して、以前、こんな
原稿(中日新聞掲載済み)を書
きました。

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子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫
婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守
ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないの
か。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままで
いることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えた
ことないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やっ
たわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴
任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。

また別の女性(三三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あ
るかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜
イ?」と。明るく屈託がない。要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観に
も標準はない。人は、人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、
それについてとやかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人
がどう思おうが、そんなことは気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った
人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親
子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまう
ということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗
した」とか、そんなようにおおげさに考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがま
まに……)」と。それはまさに、「智恵の言葉」だ。
 
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    へへ    /\/゛
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      〜〜〜〜〜〜〜    役に立つ情報を、書きとめておこうと思います。
【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

秋の夜のロマン

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文
明を築いた、シュメール人には、ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、こ
この目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約五五〇〇年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな
変化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、
サルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数一〇キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセント
にすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレ
ーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約五五〇〇年前に起きた変化」ということになる。

 その五五〇〇年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにサルに知恵だけ
与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間は宇宙のカ
ビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自分の中で、
ウズを巻く。

 あさって(二七日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、
どこまでも明るい。
(030925)

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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
10・13 ……浜松市上島にて(ママアンドパパス・保育所開園式)
10・11 ……浜北市・内野小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■子どもの「形」(2)

【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

老人観察

 年をとればとるほど、小さくなっていく人がいる。その時期になると、自分の土地でもないの
に、一日中、竹やぶの、竹の子の見張りをしている男性(七五歳くらい)がいる。

 最近でも、こんなことがあった。

 近くの空き地が、今度、貸し駐車場になった。その駐車場に、毎日のようにやってきて、不動
産屋と交渉していたのが、どこかの老夫婦だった。理由はやがて、わかった。道路から一番、
進入しやすい場所を確保するためである。

 私はその光景をかいま見ながら、ふと、こう思った。「もう、それほど長く生きられるわけでも
ないのに……」と。その老夫婦は、そのつど不動産屋の人に、声を荒げて何かを抗議してい
た。

 私のばあい、このところ、何を買うにも、「あと、〜〜年、もてばいい」とか、「どうせ買っても、
老人ホームへはもっていけないし……」と考えるようになった。今、住んでいる土地と家にして
も、「どうせ売るのだから……」と。

 今、こうして自分のことを書きつづけているのも、そういう気持からだ。ワイフでさえ、「こんな
プライベートなことまで書く必要があるの?」と聞く。私は、「笑いたければ、笑え」と答える。「一
〇年後か、二〇年後か知らないが、私はどうせ消えていなくなる」と。

 が、ふと油断すると、先に書いた老人のようなことをしている? 竹の子の見張りのようなこと
はしないが、それに近いことをしているときがある。

 先日も、家の玄関の正面に、イヌの糞がしてあった。どこかのイヌが、散歩の途中でしたらし
い。私は、かなり頭にきた。で、それから数日間。家の前をイヌを連れた人が通るたびに、そち
らのほうが気になってしかたなかった。

 そこで考えてみる。年をとればとるほど、大きくなる人と、小さくなる人がいるのがわかる。
で、その違いは、何か、と。もっとも、大半の老人は、小さくなるが、それでも、大きくなる人もい
る。たとえば近所のKさんという人は、今、老人たちが憩えるような公民館づくりに情熱を燃や
している。

 これは脳の老化と、硬直化と関係があるのだろうか。

 発達心理学というと、成長期の子どもの心理学と考える人は多い。しかしこれは誤解。死に
いたる、老人の心理的変化も、その中に含まれる。「発達」というよりは、「退化」というべきかも
しれない。正確には、「退化心理学」とか? 心理学の世界では、「生涯発達」という言葉を使う
らしい。

 それはともかくも、老人の心理的変化で、一番こわいのは、「喪失感」である。

 体力、気力の喪失。記憶力、感情の喪失。目標、生きがいの喪失など。行動半径が小さくな
り、収入が減少することによる喪失感もある。

 こうした「喪失感」を繰りかえすうち、老人たちは、独特の心理状態になる。その一つが、「竹
の子の見張り」である。

 竹の子が盗まれることを心配するくらいなら、環境汚染によって、澄んだ空気が奪われること
を心配したほうがよい。……ということになるが、視野が狭くなる分だけ、目先の利益にとらわ
れるようになる。が、どうもそれだけではないようだ。

 たとえば竹の子の見張りをしている老人は、その見張りをしている間、動作が、どこか子ども
っぽい。わざとらしく、小さな棒切れをもち、竹やぶへ侵入してきた人を、大声で罵声(ばせい)
したりしている。明らかな、退行現象である。

 つまり年をとることによって、ただ単に、いろいろなものを喪失するだけではなく、精神状態が
幼くなるということもあるようだ。

 そこで「大きくなる人」と、「小さくなる人」の違いはといえば、この二点に集約される。

 ひとつは、視野の広さ。もう一つは、退行の度合い。

 視野は広ければ広いほどよい。そして精神状態は、いつまでもその年齢にふさわしい状態で
あればあるほど、よい。しかし、それは可能なのか。

 そこで私は、第一に、「気力の充実」をあげる。心理学的には、「自己意識の維持」ということ
になるのか。

 肉体に体力があるように、精神にも、気力がある。そして体力が、絶えまない健康管理と運
動によって維持されるように、気力もまた、絶えまない健康管理と鍛錬によって維持される。

 「気力」というと、脳の中の問題であるがゆえに、どうしても安易に考えられがちである。外か
ら見えない。しかしこの気力は、少し油断すると、どんどんと衰えていく。まず私たちは、それに
気づかなければならない。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、その新しいことに、果敢なく挑戦していく。そう
いう姿勢を、日常的に貫くことによって、気力を維持することができる。たとえて言うなら、それ
は毎日の運動のようなものかもしれない。ジョギングをしたり、サイクリングしたりするように、
だ。

 こうした努力を怠ると、とたんに気力は弱くなる。

 これは私の経験だが、四〇歳になるころ、私は山荘づくりに情熱を燃やした。小さな小山を
譲ってもらい、それをユンボで削り、平らな土地にした。そのため土日のほとんどは、そうした
作業で、つぶれた。

 現在、そういう気力があるかといえば、実のところ、もう、ない。旅行をすることすら、どこかお
っくうになった。自分でもまずいと思っているが、気力というのは、そういうものかもしれない。

 となると、結論は、こうだ。

 年をとればとるほど、大きくなる人というのは、その気力を維持できる人をいう、と。そしてそ
のために、人は、いつも自分を鍛えていかねばならない、と。

 これは大発見というより、小発見。これからの私の指針として、大切にしたい。
(030926)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況】

●カビ臭い米……数か月前、日朝関係が緊張したとき、米を、7袋(5キロ)、買ってきた。で、
今は、それを取り崩しながら食べている。しかし、問題が起きた。残ったのは、3袋だが、ワイ
フが、「カビ臭い!」と言いだした。何とか、1袋目は食べているが、残りの2袋は、どうしよう
か?

●算数クラブ……10月から、幼児の算数クラブを始める。考えてみれば、4年ぶり。いや、5
年ぶり? この時期、算数好きにすると、あとは自分で伸びてくれる。5年前に教えた子どもた
ちは、今、2〜3年、飛び級して、勉強している。5年生で、中一のクラスにいる子どももいる。
今のところ、4〜5人の申し込みがあった。それで、やってみようかという気持になった。私の教
え方は、とにかく、教える私が楽しむこと。私が楽しめば、子どもたちも楽しんでくれる。あとは
子どもたち自身の力で、伸びてくれる。恐らく、生涯で、これが最後の算数クラブになるだろう。
もう体力がつづかない。

●折衷案……新しいテーブル型コタツを買った。明日、家具屋が届けてくれることになってい
る。ワイフは、テーブルがほしいと言った。私はコタツがほしいと言った。そこでコタツ付のテー
ブルにした。二人の希望を足して、二で割った。折衷案(せっちゅうあん)というのだ。

●二年前の写真……愛知県T村での講演会用に、写真がほしいと言ってきた。が、このとこ
ろ、写真など、とったことがない。そこでアルバムをさがすと、二年前のが出てきた。で、それを
送ることにしたが、私も、この二年間で、ぐんとふけた。自分でも、それがわかる。しかし、いい
のかなあ……? 二年前ので……?

●赤とんぼ……このところ、毎日、1000〜2000円、あれこれ本を買っている。日課になって
しまった感じ。今日は、D社から、「日本のうた・こころの歌」(第二集)が出たので、それを買っ
てきた。一曲目は、「赤とんぼ」※だった。よい歌だ。この歌も静かに聞いていると、目のまわり
が、ジンと熱くなってくる。このところ、何かにつけて、涙もろくなった。

●窓の外……しかしこの宇宙で、私は死んだら、どうなるのだろう。今も、ふと、そんなことを考
える。広大な宇宙のことを思いやると、どんどんと自分が小さくなっていく。気が遠くなるほど、
小さくなっていく。いったい、この小さな私に何ができるというのか。窓の外の暗闇を見ている
と、そんな無力感が、どんと襲ってくる。

●パソコン……今、すべてのパソコンが、快調に動いている。こういうときは、本当に気持ちよ
い。実のところ、きのうまで、P社のパソコンが、まったく動かなくなってしまっていた。電源を入
れると、「保護エラー」とか何とかいう表示が出てきて、そこでフリーズ。P社の相談窓口に電話
すると、「リカバリーしかありません」とのこと。しかし簡単にリカバリーなど、できるものではな
い。そこであちこちを、自分で調べてみた。この間、約一時間。最後に、「デバイスマネージャ
ー」をチェックしてみたら、一か所、「X」印があるのがわかった。それを一度削除して、再起動
したら、ナ、何と、快適に動き出した! ヤッター!

教訓(1)……パソコンは、いつも、そっと使うべし。余計なことはしない。
教訓(2)……パソコンを使うときは、決して、冒険をしてはならない
教訓(3)……新しいソフトを追加するときは、とにかく慎重に。
教訓(4)……たとえUSB機器でも、抜き差しするのは、電源を落としたとき。

今回、P社のパソコンが不調になったのは、仕事中に、CD−W機器(USB)を、電源を入れた
まま、抜き差ししたから。それで赤外線ポートが破壊され、フリーズするようになってしまった。
……と、考えられる。それにしても、冷や汗をかいた!

●ブラックユーモア……オーストラリアのR君が、ときどき、自分でジョークを作って送ってくれ
る。昨日、送ってくれたのに、こんなのがあった。「ヒロシ、ぼくは、人生、55年目にして、理想
のガールフレンドをみつけたよ。目が見えなく、耳も聞こえなく、言葉も話せない。ぼくがどんな
不平をこぼしても、何も言わないよ」と。これはブラックジョーク。わかる、その気持。

●すべて夢……エドガー・アラン・ポーは、「Everything is but a dream within a dream.(すべて
のものは、夢の中の夢にすぎない)」と言った。どこか東洋的なこの一言に、ドキッとした。考え
てみれば、今、見ている世界にしても、脳の中に映った映像にすぎない。音も臭いも、そしてあ
らゆる感覚も、みな、そうだ。手で、木製のテーブルをこすりながら、改めて自分の感覚を疑っ
てみる。「この感覚は、いったい、どこからくるのか?」と。

●過激?……このところ、私が書くことは、少し過激になってきたようだ。どこかかたよってい
る? 偏屈? いじけている? 自分ではよくわからないが、ワイフが、そう言う。「みんなに読
んでもらうなら、もう少しソフトなほうがいいのでは?」と。そう言えば、このところ、読者数の伸
びが鈍化している。またどこかで新しい反感を買っているのかもしれない。本当の私は、どこか
いいかげんで、もっとマイルドな人間なのだが……。ただものを文で表現するときは、何でもス
トレートに書きすぎてしまう。少し、これからは書き方を改めよう。
(030927)

※……CDの中で、歌手が、「♪かわ〜い、目をした……」と歌う。私が子どものころは、「♪か
わいい、目をした……」と歌った。しかし「かわいい目」とは言うが、「かわい目」とは言わない。
日本を代表する歌だけに、こうしたミスは、許されない。その部分になると、ぞっとするような違
和感を覚える。あるいは、CDのほうが正しい歌いかたなのか? よくわからないが……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●Q&Aについて

 毎日のように、いろいろな人から、相談をもちかけられる。が、このところ、一つの変化がみ
られる。

 一つは、「このメールを転載しないでほしい」「マガジンで使わないでほしい」「掲載、お断り」
「相談した内容は、内密に」などという、条件をつけられることが、多くなったこと。

 相談してくる人の、気持ちは、よく理解できる。

 そこで私のほうでは、そうした相談には答えながら、一方、マガジンのほうでは、「テーマ」とし
て、取りあげることにしている。たとえば、その相談者の文面を引用することなく、それについて
書くというように、である。

 が、それでも、抗議してくる人がいる。「どうして私が書いたことを、テーマにするのですか!」
と。一応、私のほうから、「このように書きましたが、掲載を了解していただけますか」というメー
ルを送るようにしているが、それについても、「ノー」と。

 しかし一つのテーマについて書いていると、ばあいによっては、二、三時間の時間をとられ
る。もしあなたが家にいて、ある日、突然、見知らぬだれかがやってきて、こう言ったとする。
「これから私の家にきて、掃除を手伝ってください」と。

 そのときあなたは、それに応ずるだろうか。しかもそういう申し出が、毎日のように、つづいた
ら、あなたは、それに応ずるだろうか。私はこうした条件つきの相談をもらうたびに、心のどこ
かで、ふと、そんなことを考える。

 だからといって、つまり了解をもらったからといって、いただいたメールを、そのまま掲載する
などということは、絶対にしない。

 私のばあい、その人を特定できるような部分は、すべて削除するか、改変している。それは
簡単な作業である。

そしてその上で、相手の方に、一度、全文を送り、掲載の了解を求めるようにしている。もちろ
んその段階で、不都合な点があれば、指摘していただき、書き改めている。こんなことは、当
然というより、この世界の常識である。

 ただし、住所、名前のない方からの相談は、一読したあと、そのままインターネットから削除し
ている。引用することも、掲載することも、テーマとして、取りあげることもない。理由が、ある。

 もしどこかのだれかが、悪意をもって、他人の相談をしてきたら、どうなる? たとえば近所の
Xさんになりすまして、そのXさんの家庭問題を相談してきたら、どうなる? 子育ての問題は、
高度に、プライバシーの問題とからんでいる。それゆえに、取りあつかいは、慎重でなければ
ならない。

 さらに最近では、こんなこともある。

 インターネットでは、コピーが、簡単にできる。どう簡単かは、すでにみなさん、ご存知のとお
りである。

 そこで一人の相談者が、ネットサーフィンをしながら、あちこちの相談窓口に、同じ相談をもち
かけるということが、多くなった。これを私は、勝手に、「大量型相談」と呼んでいる。

その相談者の気持ちとしては、できるだけ多くの人から、いろいろな情報を手に入れて……と
いうことなのだろうが、こちらには、それがわからない。わからないから、真に受けてしまう。フ
ルパワーで、相談に答えてしまう。

 今後は、どうしたらよいのか?

 電話相談ついては、見知らぬ人からのものは、やはり断わることにした。そうワイフと、申し
あわせた。とても残念だが、そうすることにした。時間的ロスが、あまりにも、大きい。もちろ
ん、面識がある人からの相談は、大歓迎である。

 つぎにメールによる相談は、住所(簡単な住所でよい)と名前のない方からのものは、一読し
たあと、そのまま削除している。ここにも書いたように、テーマとして、取りあげることもない。

 あとは今までどおり。しかし実際には、どこかで「マガジンの読者」※というようなことを書いて
くれる方については、今のところ、100%、返事を書いている。どうか今までどおり、遠慮なく、
相談を寄せていただきたい。

 問題は、「大量型相談」である。このところ、やっとそれが見分けられるようになった。どこか、
雰囲気が違う。それに回答を送っても、返事など、まったくこない。反対に掲載の了解を求めて
も、ナシのつぶて。もちろんマガジンの読者でもないし、講演に来てくれた人でもない。私の本
を買ってくれた人でもない。了解がないときは、その回答は、そのままボツにしなければならな
い。記録に、残すこともできない。

 さあ、どうするか? どうしたらよいのだ?

 実際、あとでその大量型相談とわかると、愕然(がくぜん)とする。乗せられたというか、かつ
がれたというか……。そんな気分になる。

もちろんそんなことでいちいちキズついていたのでは、この仕事は、務まらない。しかし、「それ
でもいい」と、そこまで寛大になれないのも事実で、どうやらこのあたりが、私の人間性の限界
でもあるようだ。

 近く、ホームページのほうのQ&Aコーナーは、閉鎖しようかと考えている。少なくとも、大量
型相談については、シャットアウトできるような方策を考えている。

方法としては、一応会員登録(無料)をしてもらい、その会員だけの相談にのるというのがあ
る。これは、今、ほとんどの大型育児サイトで、採用している方法である。しかそこまで、私のよ
うな個人では、手が回らない。何か、よい妙案はないものか……?
(030928)

+++++++++++++++++

※……今、こうしてマガジンを発行するということが
私にとっては、生きがいになっている。その生きが
いを与えてくださっているのが、マガジン読者とい
うことになる。だから、今、私はマガジン読者の方
を、とても大切に考えている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

謎のクレーター

●どうか、写真を見てほしい

 このところ、毎日のように、一枚の写真を見つめている。
 月の南極にあるという、二個のクレーターの写真である。
 興味がある方は、

 「はやし浩司のサイト」→右下の「ビデオで、あいさつ」へと進んでほしい。
  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 その「ビデオのあいさつ」から、(データバンク)へと進んでもらえば、最上段に、(月の写真)
がある。それをクリックしてくだっされば、その写真を見ていただける。(ファイルの安全性は、
確認してあります。)

 大型のデータは、ここに収録することにしている。

●謎のクレーター

 この二個のクレーターは、直径が、同じである。A4サイズに拡大して印刷してみた。

 で、三角定規をあてて、直径をはかってみた。

 一個は、直径が、5・45センチ。
 もう一個も、直径が、5・45センチ。

 つぎに、中心を割り出し、コンパスで円を描いてみた。しかしそんなことをしなくても、つまり目
で見ただけでも、真円であることがわかる。

 が、謎は、これだけではない。

 二つのクレーターの「影」を見てほしい。長さがまったく違うだけではなく、影の形が、三角な
のだ。先が、とがっている!

 どうすれば、こんな形の影ができるのか?

 さらに不思議なのは、太陽光線が、一方の方向から当たっているので、多少は、クレーター
内部の丘の、内側面が明るくてもよいはずなのに、二つのクレーターには、それがない。

 白い光の「弧」があるのみ。

 つまりクレーターの外輪山は、山ではなく、内側が、コップのフチのように、きれいな絶壁であ
ることがわかる。

 クレーターが、火山の噴火でできたにせよ、隕石の衝突でできたにせよ、こうしたクレーター
が、はたして自然界で、自然に、できるものなのか?

 UFO研究家たちは、このクレーターの周囲に、無数の人工構造物らしきものがあると主張す
るが、それは私にはわからない。仮にあるとするなら、NASAは、公表する前に、手を加える
はず。

 しかしクレーターまでは消せない。

●謎の影

 で、残ったのが、影。

 一方の影は、クレーターの最外縁から10・2センチ。もう一方は、4・2センチ。

 この数字から見るかぎり、一方のクレーターは、もう一方のクレーターの、2・5倍の高さがあ
ることになる。しかし写真をいくらながめても、高さが違うようには見えない。

 さらに、どうして三角にとがったクレーターができるのか?

 私は二つコップに横から光を当ててみた。光は、懐中電灯で、できるだけ遠くから当ててみ
た。結果、影は、円形になった。三角ではない。

 しかも光と反対側のコップの内側は、コップの外側と同じくらい(当然だが)明るく光った。

 百歩譲って、どうして影の長さが、こうまで違うのか。常識で考えれば、一方のクレーターは、
その二倍ほど高い、丘の上にあることになる。しかし写真から見るかぎり、そうも見えない。

 あるいはUFO研究家たちが言うように、この写真もまた、NASAによって修正されているの
だろうか。何かの構造物があった。それでつごうが悪いので、黒く塗りつぶした、と。もしそうな
ら、ますます謎が深まる。

 たった一枚の写真だが、見れば見るほど、謎が深まる。しかし一言。

 こうした写真を、じっと見つめていると、やがて眠くなって、眠ってしまう。へたな睡眠薬より、
よほど効果がある。寝つきが悪い人は、一度、試してみるとよい。
(030928)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【K国、評論】

 韓国の、ノ政権の外交戦略は、まったくもって、現実離れしている。またまた「援助と核問題
は、並行して進める」(九月二五日)などと、言いだした。恐らくK国の、金XXから、「核兵器は、
日本向けのもの。同朋の韓国には、使わない」というような、約束(?)でも、もらっているのだ
ろう。

 韓国は、それでかまわないかもしれないが、日本は、困る。つまり韓国は、日米の共同路線
から、完全にはずれた。もちろんアメリカも、それを知っている。

 そこでノ政権誕生のときから、アメリカは、韓国からの軍の撤退を決めた。当然だ。

 あのノ大統領は、反米、親北路線をかかげて、政権の座についた。選挙運動中は、アメリカ
の国旗を破ってみせたり、「仮に米朝戦争になっても、韓国は中立を守る」などと、言ってみせ
たりした。アメリカが怒るのは、やむをえない。

 が、アメリカの、韓国からの撤退にあわてたのは、ほかならぬノ政権である。が、おかしなこと
に、ノ大統領を支持した人たちは、こう言ってアメリカに、抗議した。

 「アメリカは、我々を見捨てるのか。許せない」と。

 実におかしな論法だが、あの朝鮮半島の人たちには、韓国の人にせよ、K国の人にせよ、世
界の常識が、あまり通用しない。一方で反米を唱えながら、韓国から撤退しようとするアメリカ
を、声をあらげて批判する? 一方で反米を唱えながら、K国は、そのアメリカから援助を取り
つけようとする?

 そこでアメリカは、韓国に、二者択一を迫った。「アメリカにつくか、それともK国につくか」と。

 しかしこれについても、ノ大統領は、ノラリクラリ。先の六か国協議のあとには、また「韓国が
米朝の仲介役をする」とまで、言い出した。ノ大統領は、どこまでノー天気なのか。

 ……というように、韓国を、アメリカの同盟国(当然、日本にとっても同盟国)という前提で考え
るから、話がおかしくなる。しかし韓国を、K国の一部と考えると、すべて納得できる。現に、国
際大会などでは、韓国とK国は、「統一旗」をあげて行進している。

 で、この日本だが、これだけは覚えておいたほうがよい。仮に、日本とK国が戦争状態になっ
ても、韓国は、絶対に日本の味方などしない。むしろK国の味方をする。

 この点について、K国は、日本には戦争をしかけてはこないだろうと考えている人がいる。し
かしそれは、とんでもない幻想である。あの国は、どんな理由をつけてでも、日本と戦争したが
っている。またそれだけが、金XX政権を生き残らせる、ゆいいつの方法である。またK国にと
っては、日本は、戦争をしかけても、ゆいいつ世界に対して、大義名分が立つ国である。

 で、アメリカだが、またまた韓国に、踏み絵を踏ませようとしている。ブッシュ大統領は、韓国
に、正規軍、5000人のイラク派遣を要請した(九月末)。そのアメリカの意図するところは、
「言うことを聞け。さもなくば、韓国から、アメリカ軍を撤退するぞ」である。

 今の韓国にとって、5000人の派兵は、重すぎるほどの任務。ある意味で、もともとできるは
ずもない派兵である。つまりアメリカは、韓国ができないことを承知の上で、派兵を要請した。
アメリカは、今、韓国の返事を待ちながら、韓国とは絶縁しようとしている。

 で、最後の望みは、中国である。が、おかしなことに、韓国の態度とは、ちょうど正比例する
かのように、中国とK国の関係が、急速に悪化している。〇二年末の、両国のスパイ摘発合戦
に始まり、最近では、中国は、中朝の国境に、一五万人もの正規軍を配置するようになった。
言うまでもなく、K国に、軍事的圧力を加えるためである。

 おまけにこのところ、アメリカと中国が、表面的にも、また水面下でも、急接近している。理由
はよくわからないが、何かその裏で、大きな取り引きがあったとみるべきではないのか。

 最後にこの日本。

 超近代装備を整えながら、今の自衛隊には、戦闘能力はない。ないことは、前線の自衛隊員
なら、みな、知っている。公務員的であるのが悪いとか、サラリーマン的であるのが悪いとか言
っているのではない。しかし今の自衛隊員は、そのサラリーマンにすぎない。

 つまり今の日本は、戦争などしてはいけない。……できない。東京都知事のI氏は、いつも勇
ましいことばかり言っているが、掛け声だけでは、戦争はできない。

 こういう日本を喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのかは、私にはわからない。しかしこ
ういう現実を前にすると、とにかくここは、音無しの構えで、かつK国に戦争の口実を与えない
ようにしながら、現状を維持するしかない。またそれが最善の方法であると同時に、日本にとっ
ては、ベストの方法である。

 あとはK国を、兵糧攻めにする。〇三年度も、K国は、食糧難にあえいでいる。冬から春にか
けて、さらにきびしくなる。主だった工業は、もう消えた。アジアの中でも、最貧国なのが、今の
K国である。だからあとは内部崩壊を待つしかない。K国の下層の人たちにとっては、きびしい
言い方になるかもしれないが、こういうときは食糧援助もしてはいけない。しても、どうせ軍部に
回るだけ。民衆には届かない。

 こういう考え方について、「林の言い方は、非人道的だ」と思う人がいるかもしれない。しかし
すでに戦争は、始まっている。新しいタイプの戦争と言ってもよい。今年のはじめから、日本で
も、実質的な経済封鎖が実行されている。こうした戦争状態の中では、へたな人道主義は、か
えって命取りになる。

 もしそれでもわからないというのなら、来年の日朝関係を、ほんの少しだけ想像してみること
だ。K国は、核兵器を、一〇〜二〇個もち、それでつねに日本を脅すようになる。あるいは、本
当に核爆弾を、東京や大阪で爆発させるかもしれない。今、K国が、アメリカとの間で、相互不
可侵条約を結びたがっているのは、そのための布石でしかない。

 で、今、日本がすべきことは、中国の動向に、歩調を合わせることである。中国は、改めてK
国に圧力を加えつつある。そして再び、六か国協議を開こうとしている。そういう流れを支持
し、国際社会の中で、K国を封じこめる。K国の核問題は、アメリカと中国が手を組めば、解決
する。またそれ以外に、解決の方法は、ない。

 今、日本は、戦後最大の危機に立たされている。日本の平和は、まさに風前の灯火(ともし
び)と言ってもよい。そういう危機感をもって、これからのK国の動向を注視したい。
(030926)

●仮に、米朝の間で、相互不可侵条約が結ばれたとなると、それは即、日本にとっては、たい
へんなことになる。K国は、日本に平気で攻撃をしかけてくるだろう。いくら日米安保条約があ
っても、アメリカは、K国には手も足も出せない。つまりその段階で、対K国に対しては、日米安
保条約は、効力を失う。K国のねらいは、そこにある。

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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ● | ̄ ̄ ̄    役立ちそうな方がいらっしゃれば、
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                      よろしく、お願いします。  
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
10・13 ……浜松市上島にて(ママアンドパパス・保育所開園式)
10・11 ……浜北市・内野小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2003年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
2003年度は、「子育て相談、Q&A」で一年間、連載させていただきます。よろしく!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●J−BOOKでの本のお求めは……
     http://sch.jbook.jp/s.asp?category_id=00&key=%82%CD%82%E2%82%B5%8D_%8Ei
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●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
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●BW教室の改装が終わりました。新教室はこうなりました!
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詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
賛助会に協力してくださった方に、直筆のイラストをお送りします。詳しくは、賛助会コーナー
を、ご覧ください。

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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■子どもの「形」(1)

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         *         
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       ̄ ̄\_/ ̄ ̄      【2】Touch your Heart
   =| ̄ ̄ ̄ ̄* ̄ ̄ ̄ ̄|=   【3】子育てエッセー
    |__  *  __|    【4】フォーラム
  :  : |___|::   : 
 :\::\:  !!  :/: :/:
  :\ :\  !!  /:  /: 
●はやし浩司から皆さんへ、カードです。(安全性は確認してあります。)
http://greeting.rakuten.co.jp/view/rakuten/130731922071910221
安心して、開いてください。
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto713

強化の原理

 (ほめられる)→(ここちよい)→(やる気が出てくる)という、一連の心の動きを、「強化の原
理」(「強化原理」と呼んでいる人もいる)という。

 最近の研究で、こうした(ここちよい感覚)は、脳の中でも、辺縁系と呼ばれる組織の中で、モ
ルヒネ様の物質(エンドロフィン系、エンケファリン系の物質)が放出されるためということが、
わかってきた。

 昔は、この辺縁系という組織は、原始脳で、働きはないと考えられていた。「太古の昔には働
きはあったが、その働は、もうなくなってしまった」と。少なくとも私は、学生時代、そう習った。

 しかしこれはとんでもない誤解だった。

 知的な活動は、脳の中でも、大脳連合野全体でなされるが、基本的な感情は、どうやら辺縁
系がつかさどっているというのだ。

 このことは、二つのことを意味する。

 一つは、イヌや、ネコにも、感情はあるということ。たとえばイヌでも、ネコでも、何かをしたと
き、ほめてやると、やはりモルヒネ様の物質が放出され、ここちよい感覚を生み出すというこ
と。つまり彼らだって、気持ちよいのだ。

 もう一つは、知的活動だけでは、感情は生まれないということ。たとえて言うなら、知的活動
は、コンピュータの働きに似ている。いくら恐ろしい文章を、ワープロに打ちこんでも、コンピュ
ータ自身は、少しもこわがらない。それと同じように、数学の問題を解くとか、作文を書くとかい
うのは、知的な活動だが、それ自体は、感情を生み出さない。

 むずかしい数学の問題を解いたとき、「ああ、おもしろかった」と思うのは、脳の辺縁系の中
で、モルヒネ様の物質が放出されるためである。

 (ただし、反対に、叱られたとき、不愉快になるのは、どういう働きによるものかは、私にはわ
からない。あちこちの本を読んでみたが、それについて書いたのは、なかった。これは私の不
勉強によるものか。そのうち、一度、調べてみて、わかりしだい、皆さんに報告する。)

 そこでこの辺縁系が機能を失うと、感情そのものがなくなることも、考えられる。あるいはやる
気をなくしたり、感情をコントロールできなくなったりする。

 しかし反対に、こうしたメカニズムをうまく利用すると、子どもを、前向きに伸ばすことができ
る。それを心理学の世界では、「強化の原理」という。

 これは多分に、コンピュータの影響かもしれない。私は、二七歳くらいのとき、コモドール社の
PET2000という、コンピュータを買った。それ以来、もう三〇年近く、コンピュータとつきあって
いる。

 そのためものの考え方が、どこかコンピュータ的になってきた。考え方がコンピュータ的にな
ったというよりは、人間の脳の働きも、そのコンピュータによく似ていると思うようになってきた。
(あるいは、同じなのかもしれない。)

 とくに子どもたちを観察していると、そう思う。が、それはそれとして、もしコンピュータに感情
をもたせたかったら、もう一つ、コンピュータ内部に、感情をつかさどる部分を、新設すればよ
い。人間の脳にたとえていうなら、辺縁系に似た部分である。

 処理をスムーズにできたら、コンピュータ内部で、コンピュータ自身が、ここちよく感ずる物質
を放出する、とか。そうすればコンピュータがそれを感知して、「ああ、楽しかった」と思うように
なるかもしれない。

 ずいぶんと回り道をしたが、要するに、子どもを伸ばそうと考えたら、子どもの脳の中で、こ
のモルヒネ様の物質が放出するように、しむければよい。

 方法は簡単。

子どもは、ほめれば、よい。すべては、そこから始まり、そこで終わる。つまり、じょうずにほめ
ること。これが子どもを伸ばす、秘訣の一つということになる。
(030928)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

今を生きる

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。

いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社
会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてし
まう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

てこずったら、抱く

子どもの心の問題で、何か行きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いた
り、だだをこねたりするようなときである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたと
きも、やさしく抱いてみる。しばらくは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。
と、同時に、子どもの情緒(心)も安定する。

ところが、だ。こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子ども
が、四分の一もいるというのだ。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研
究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。

さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 赤ちゃんは抱かれるものという常識は、どうも常識ではないようだ。

  ‖                 
 :−−           ‖   
  ‖            :−− 
        ‖      ‖    テーマがあれば、どうかお寄せください。
       :−−           具体的に、相談内容を書いてくだされば
        ‖              うれしく思います。
【2】心に触れて(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

【山荘ライフ】

●弁当屋

 山荘へ来る途中、いつもの弁当屋によった。
 土曜日だった。
 混んでいた。

 夕食分の二個と、翌日の朝食分の一個を、注文した。お金は、先払い。

 雰囲気で、二〇分は待たされると思った。
 そこでワイフに、「パチンコでもしてこようか」と言った。
 ワイフは、しぶしぶ「パチンコ……?」と言った。

 道路の反対側に、「P」というパチンコ店があった。私たちは、道路を横切ると、その店に入っ
た。

 一〇〇〇円で、カードを買った。パチンコは、ほぼ三年ぶり?
 よく覚えていないが……。

 案の定、少しは遊ばせてくれたが、だんだんと玉は減っていった。
 時計は見なかったが、二〇分は、遊んだと思う。あわてて外に出た。

 「どうせ、ダメだとおもったわ」とワイフ。
 「一〇〇〇円、損したね」と私。
 「私の友だちなんか、パチンコが大好きで、パチンコをしながら、いつも居眠りをしているそう
よ」
 「あのうるさい店の中でか?」
 「そう、好きになると、そういうことができるみたい」と。

 弁当屋に戻った。「三四番ですが、まだですか?」と聞くと、カウンターの女の子が、私の顔を
見ようともせず、「もう少し、お待ちください」と言った。

 若くて、きれいな女性だ。私は、もう少し待つことにした。しかし、これが苦渋(くじゅう)の始ま
りだった。

 私は三個の弁当を、注文した。これを、A(天丼)、B(幕の内)、C(ナスの野菜炒め)とする。

 その弁当屋では、作りやすいのから作っているらしい。注文を受けた順番ではない。で、見て
いると、先にAができても、それをあとから来た、別の客に渡してしまっているではないか。「?」
と思いながらも、しかし文句は言えない。

 つぎにB、Cを作るのだが、それも別の客に渡している?

 そのときも「?」と思ったが、何も言えなかった。たとえばあとから来た、別の客が、BとDを注
文したとする。そのDが先にできると、多分私のために作った、Bをそのまま先に、その客に渡
してしまっていた。

 こうなると、A、B、Cの三つが、しっかりとそろうのは、いつになるかわからない。ジリジリと時
間が過ぎた。

 私の番号は、三四番。しかし四〇番、四一番……の客のほうが、先に帰っていく。

 そこでまた聞いた。「まだですか?」と。

 カウンターの女の子は、若くて、きれいな女性だった。私は、そういう女性には、弱い。

 が、またその女の子はまた、「もう少し、お待ちください」と。

 で、こうして、結果的に、私は、何と、一時間一〇分も待たされた! こういう話は、おおげさ
に書くとおもしろくなるが、これはおおげさでも何でもない。本当に、一時間一〇分、である!

 六時一〇分ごろ弁当屋に入って、弁当を受け取って出たのが、七時二五分! だから一時
間一〇分。正確には、一時間一五分!

 自分でも、よく待ったと思う。もしカウンターの女の子が、あの女の子でなく、別の女性だった
ら、怒鳴り散らしていたかもしれない。

 いや、一、二度、「キャンセルできませんか?」と聞いた。しかしそのたびに、「もう少し、お待
ちください」と。台の上を見ると、私のらしい弁当が、そのつどできていた。だから、キャンセル
もできなかった。

 弁当屋を出ると、ワイフがこう言った。

 「一時間も待たせるなら、最初に、そう言うべきよ」
 「しかし、先にお金を払っているから、帰ることもできない」
 「一時間もかかると言えば、だれだって、そのまま帰るわよ」
 「しかし、あの女の子では、きつく言うのも、かわいそうだし……」
 「そうね。一生懸命していたから……」と。

 内心、「美人はとくだな」と思ったが、それは言わなかった。

 で、改めて、忍耐について考える。

 私はもともと短気な人間である。少なくも、気は長くない。その私が、一時間も待つことができ
た理由は、実は、もう一つある。

 パチンコ店から帰ってきてから、しばらくのこと。突然、若い男が、レシートをその女の子に投
げつけて、弁当屋を出ていってしまった。

 待ちきれなくて、キレた。それがよくわかった。

 若い男は、自動ドアを足で蹴飛ばし、ついでもう一つのドアを、こわれんばかりに、たたきつ
けて出て行った。

 その見苦しさが、脳裏に焼きついた。

 理論的には、空腹で、血糖値がさがり、低血糖状態になったらしい。それで脳間伝達物質の
セロトニンが、変調をきたし、一時的な錯乱状態になった。

 動物でも、昆虫(ハチなど)でも、空腹になると、凶暴になるのは、そのためだ。

 もし、あの若い男の見苦しさを見ていなかったら、私が、同じことをしていたかもしれない。

 私はその若い男を見やりながら、「かわいそうな男だ」と思った。「下劣な人間だ」と思った。
思ったから、一時間以上も待った。

 それにしても、あの弁当屋の不手際といったら、なかった。本当は、あの女の子のミスだ。し
かしあの女の子は、客の顔も見ることもなく、黙々と仕事をしていた。それが、その女の子を、
さらに美しくしていた。だから今でも、あの女の子を責める気はない。

 弁当屋から出ると、さわやかな冷たい風が、やさしく吹いていた。

私が「おなかがすいたね」と言うと、ワイフが、「山荘へ着いたら、食べようね」と言った。一時間
も待ったおかげで、おなかはペコペコだった。ホント!
(030927)

【追記】
 私のワイフは、気が長い。こういうケースでも、一時間くらいなら、平気で待っている。どうして
そういうことができるのか、昔から不思議でならない。きっと脳の構造が違うのではないか。

 私が「待たされて、怒れてこなかったか?」と聞くと、「そうね。少しわね」と。いつもその程度。
一度、ワイフの忍耐力を、何らかの形で、確かめてみたい。

【山荘にて……】

時は流れる。
華やいだときは、薄れ、
今は、人生も、たそがれどき。

私は、今、生きている。
しかし、残り時間は少ない。
一瞬、一瞬が、私には貴(とうと)い。

この冷気。この静寂。
すべてを溶かすような、
漆黒(しっこく)の夜の闇。

あと一〇年か。
それとも二〇年か。
それとも、明日かもしれない。

やがて命尽きて、
私は、この世界から、
消えていなくなる。

それまで生きる。
私は生きてやる。
生きて、書きつづけてやる。

私にとって、生きることは、
考えること。考えることは、
書くこと。ただただ、書くこと。

老化する脳みそ。
消える集中力。
それに衰える体力と気力。

ああ、それにしても、
生きていることは、すばらしい。
本当に、美しい。

時は流れる。
静かに流れる。
ああ、今、何度目かの
睡魔が、私を襲った。
時よ、どうか今宵も、
私に安らかな眠りを!

みなさん、おやすみなさい。
秋の山荘は、
とてもロマンチックです。

         ,ミヽ  ミヽ
         へ ミ ヽ へ ミヽ
        ∂  ミミ∂ へミミ
        ζ  っノι ∂ ミミ8彡
        ヒ___ノ 人v "丿彡'
    |)─○  / ヽ  `>−<
     // \\_/_∧ \_/_/ ヽ ≡=   賛助会にどうか、ご入会ください。
   ___//  \_/_ξ ̄ ̄ノ_ __)      現在、お礼に、イラスト(額つき)を
  / _ \  / ____ ̄フ _____ノ  ≡=−   送っています。
  // \ \ / /   ̄/ /   ̄)
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どもの「形」

 おとなや教師が、ある一定の「子どもの形」をつくり、その形に合うから、よい子。合わないか
ら、よくない子と決めてかかる。古典的な幼児教育をする人ほど、そう考えやすい。

 ある幼稚園の園長が、親たちを集めて、進学懇談会を開いた。春にS小学校の入学試験を
受ける子どもの親たちである。その席で、その園長は、こう言った。

 「S小学校の入試では、ホッチキスが使えない子どもは、落ちます。
トイレへ行きたくなったとき、『トイレへ行ってきます』と言えない子どもは、落ちます。
野菜の名前を、一〇個以上、スラスラと言えない子どもは、落ちます。ハサミが、しっかりと使
えない子どもは、落ちます」と。

 あとでその懇談会に出た母親のメモを見せてもらったら、そうした内容が、箇条書きで、二〇
個くらいはあった。ゾーッ!

 で、今日も、一人の母親が、相談にやってきた。話を聞くと、こう言った。何でもその幼稚園で
は、当番制で、子どもたちが自分で出欠席を調べ、休んでいる子どもの人数を、職員室へ報
告に行くことになっているという。

 それについて、「うちの子の当番の日、うちの子が、それをしないで逃げてしまいました。先生
に、こんなことでは困ると、叱られました。どうしたら、いいでしょうか」と。

 その子どもは年中児だった。私が「でも、まだ数がわからない子どもだって、いるでしょう。そ
ういう子どもは、どうするのですか?」と聞くと、「そうですねエ……」と。

 「〜〜できないから、困る」「この年齢では、〜〜ができなければいけない」と決めてかかる。
それがここでいう「形」である。日本人は、何かにつけて、最初に形を決める。そしてその形に、
人間を当てはめようとする。

よい例が、茶道であり、華道である。(だからといって、茶道や華道を否定しているのではな
い。どうか、誤解のないように!)

 しかしこの形は、教える側にとっては、つごうのよいものだが、子どもにとっては、そうでない。
あまり強く当てはめようとすると、子どもが自信をなくしてしまう。むずかしく言うと、「自己同一
性(アイデンテティ)」を見失ってしまう。

 今、子育てで求められているのは、(いいかげんさ)である。「ハサミなんか、使えなくてもいい
のよ」「だれだって苦手なことはあるのよ」と。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。最終的に
は、「そんなくだらないことで人間を判断するような小学校だったら、行かないほうがいいわよ」
と。

 私はその母親にこう言った。

 「幼稚園で先生に叱られ、同じ言葉で、今度は家で母親に叱られる。だったら、子どもはどう
したらいいのですか? こういうときは、反対に、子どもを励ましてあげます。『あなたも、いろい
ろたいへんね。気分が悪かったのね。だれだって、そういうことはあるわよ』とです。そういうや
さしさが、子どもを伸ばします」と。

 それはさておき、私たちは、何としても、この日本の社会から、「形」をつぶさなければならな
い。社会のルールなど、必要な形もあるが、こと、人間の生きザマについては、つぶさなけれ
ばならない。「自由」とは、まさにこの「形」との戦いをいう。

 男だから……という形。女だから……という形。夫だから……という形。妻だから……という
形。親だから……という形。子どもだから……という形。そういう形を、ひとつずつ、つぶしてい
く。

少なくとも、今のあなたは、その形にしばられてはいけない。しばられる必要もない。あなたは、
そしてあなたの子どもは、男や女である前に、おとなや子どもである前に、一人の人間なの
だ。それを忘れてはいけない。
(030926)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●みんなで居直ろうよ

みんなで居直ろうよ。
世間の目なんか、気にすることはないよ。
兄弟や、親戚が、どう思うが、
そんなことは、どうでもいい。

いい人ぶるのは、やめてさ。
肩の荷は、おろしてさ。
心をとりまく、重いクサリを、
みんなで、はずそうよ。

あなたを悪く言う人は、
どうせ、悪く言う人。
あなたの陰口をたたく人は、
どんなことをしても、たたくよ。

あなたは、あなた。
どこまでいっても、
あなたは、あなた。
心を解き放って、この広い世界を、
思いっきり、はばたいてみようよ。

++++++++++++++++++++

親戚づきあい

 浜松に住むようになって、そしてワイフと結婚して、一つ、驚いたことがある。それは親戚づき
あいの内容と、方法、さらにその「濃さ」が、私の郷里と、ここ浜松とでは、まったく違うというこ
と。

 岐阜の私の郷里では、親戚づきあいが、きわめて濃厚。一方、ワイフのほうは、それに比較
して、きわめて淡白。最初は、その違いにとまどった。

 が、これは土地がらというより、それぞれの個人によって、みな、ちがう。岐阜の山奥でも、淡
白な親戚づきあいをしている人もいるし、ここ浜松でも、岐阜に負けないほど、濃厚な親戚づき
あいをしている人もいる。

 もっとも人間というのは、器用な生物で、それぞれの環境に合わせて、それに順応していくこ
とができる。私のばあいも、とまどったのは最初のうちだけで、今は、それぞれの方法で、親戚
づきあいをしている。が、衝突がないわけではない。

 私が「ここまでしなくていいのか?」とワイフに聞くと、「いいの。これで」と言う。

 ワイフが、「そんなこともまでするの?」と私に聞くと、「岐阜ではこうだから」と言う。

 そういう会話は、今でもある。しかしそれは一つの会話にすぎない。が、それでも、親戚づき
あいが、大きな問題になることがある。

 これはあくまでも、岐阜と浜松を比較して、での話だが、岐阜のほうが、大家族主義ではない
か。家族全体、親戚全体が、一つの大きな家族意識をもっている。そしてその家族意識が、何
歳になっても、いくら遠くで離れて住んでいても、いつもついて回る。

 一方、浜松という町は、昔から街道沿いの宿場町として発展したところである。そのつど、人
の出入りがはげしい。そういうこともあって、この浜松というところは、「よそ者」には、比較的寛
大である。つまりその分だけ、人と人のつながりが、希薄?

 ある母親から、こんなメールが届いた。浜松市の東部に住んでいる、OEさんという方からの
ものである。

「義兄が、今度、離婚をしました。
 奥さんが、家を出てしまいました。
 で、うちで、今度、義兄の子どもを二人、
 預かることになりました。
 中二の男の子と、小三の男の子です。
 私の家にも、小六の娘と、小一の息子がいます。
 息子はともかくも、義兄の長男が、今、中二の一三歳です。
年ごろで、性的な関心も強い時期です。
小さな家ですので、小六の娘のことが心配です。

 私は、そんなわけで、義兄の子どもを預かることには反対です。
 しかし夫が、それを許してくれません。
 義父母は近くに住んでいますが、義母のほうは、足腰が悪く、
 また借家(アパート)なので、義兄の子どものめんどうは、みられません。
 数日おきに、私が車で、義母を病院へ送り迎えしています。

 親戚だからという理由だけで、どうしてこういう子どものめんどうを
 みなければならないのでしょうか。
 親戚づきあいは、どこまですればいいのでしょうか」(要約)と。

 こうした問題に悩んでいる人は、多い。「助けあい」は、それ自体すばらしいことだが、ときとし
てそれが、「押しつけ」になる。押しつけるほうは、楽だが、押しつけられるほうは、たまらない。

 で、こういうケースの背景にあるのが、冒頭に書いた、意識の違いである。おそらく義兄は、
自分の感覚で、「そうしたことを助けあうのは、親戚として当たり前」と考えている。ここでいう
「岐阜的な感覚」をもっている。しかしOEさんのほうは、「浜松的な感覚」をもっている。その意
識のズレの中で、今、OEさんは、苦しんでいる。

 いくら義兄の子どもでも、他人の子どもを預かるのは、実際には、たいへんなことである。メ
ールによれば、「夫は、無関心で、いつも『お前のほうで、うまくやってくれ』と言って、逃げてし
まいます」とある。

 つまりしわ寄せは、すべてOEさんに集まっている。OEさんは、こう言う。「足腰の悪い義母の
めんどうから、義兄、義兄の子どもたちの世話まで押しつけられて、気がへんになりそうです」
と。実際、OEさんは、うつ病ぎみだという。ほとんど毎日、頭痛との闘いだという。

 こうしたケースでも、親戚、なかんずく家族の暖かい理解があれば、その人は救われる。「あ
りがとう」の、たった一言が、肩にかかった荷物を、おろしてくれる。しかし反対に、その理解が
ないと、荷物は倍化する。親戚づきあいの問題というより、心の問題といったほうがよいかもし
れない。

 そこで私は、OEさんに、以下の手紙を見せるように提案した。

「家事というのは、男の私たちが考えるより、はるかに重労働なのですね。
 私も若いころは、毎週のように山荘に人を招いて、接待したことがあります。
 しかしそのたびに、疲労こんぱい。
 せっかくの土日が、それでつぶれてしまうから、たまりません。
 泊まっていく客は、まさに「お客様」ですから。

 食事の世話から、お茶、お菓子。
 あと片づけから、風呂の用意。床の用意。
 それが終わってからも、ただひたすら、あと片づけ。
 最後は戸じまり。そして朝は、一時間は早く起きなければなりません。
 そして朝食の用意。もちろん、そのあと、あと片づけ。
 その間も、お茶を出したり、コーヒーを出したり……。
 客が帰ったあとも、シーツを洗ったり、フトンを干したり……。
 もちろん神経もつかいます。 

 で、あるときから、もう客を呼ばなくなりました。
 いえ、それくらい家事というのは、たいへんだということです。
 私もいろいろな仕事を経験しましたが、こうした連続的な接待ほど、たいへんなものは、 
 ありません。

 これは土日という、いわばかぎられた曜日の話ですが、
 これが毎日……となると、それから生まれるストレスは、たいへんなものです。
 さらにこれが、「家庭」という場に入ったら、たいへん!
 その上、子育て、です。たった一人でもたいへんなのに、四人です!
 
 考えてみれば、自分の家庭の中にいて、
「息が抜けない」「休めない」というのは、致命的なことですね。
 つまり家庭が家庭として、機能しなくなるということです。
 へたをすれば、家庭崩壊の遠因となりかねません。
 事実、それでバラバラになっていく家族は、いくらでもいます。

 男の私たちは、どうしても家事を、安易に考えがちです。
 「男は仕事、女は家庭」という、男尊女卑思想も、まだ根強く残っています。
 しかし今、そういう環境の中で、窒息しそうになっている母親が多いのも事実です。
 いえ、だからといって、あなたの接し方がおかしいとか、まちがっているとか、
 そんな失礼なことを言っているのではありません。

 この問題は、ほんの少しだけ、私たち男が、「たいへんだね。ごくろうさん」と、
 家事を主宰する妻たちを、ねぎらうだけでいいのです。
 そういう暖かい心をもつだけで、解決するのです。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があります。
 しかしその下で流れているのは、みな同じ、家族の心です。
 その心を、ほんの少しだけ、のぞいてみたらいかがでしょうか。
 あなたの奥さんも、そしていっしょに住んでいる子どもたちも、
 みな、それを求めています。
 
 生意気なことを言ってすみません。
 あくまでも一つの参考意見として、聞いていただければうれしいです」と。
(030926)

           ◯   
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【臨時増刊号】

●マガジンが、第300号を迎えます。10月11日号です。
こうして300号を発行できるのも、みなさんの暖かい声援があったからです。

●サニーさん、ルキアンさん、大高さん、瀬川さん、平野さん、高橋さん、瀬川さん、竹原さん、
ありがとうございました。フランスのサラーンさん、富士市のMさん、磐田市のNYさん。本当に
ありがとうございました。心からお礼、申しあげます。ありがとうございました。

●つきまして、【300号特集】として、みなさんのお声の特集号を発行したいと思っています。で
きるだけそのまま掲載します。一言、コメントなり、ご希望など、いただけましたら、うれしく思い
ます。

●以下の文面(****から、*****まで)をコピーして、

bwhayashi@vcs.wbs.ne.jp

あてに、お送りくだされば、うれしいです。いかがでしょうか。こちらで少し編集して、近く、みなさ
んに配信します。

●匿名希望の方は、その旨、お書きください。しかし一応、返事には、お名前をお書きくださ
い。これは不用意ないたずらメールを、避けるためです。

****************以下、コピー*****************



★ (タイトル)

(コメント、ご希望、ご意見、ご要望、ご感想、ご質問、はやし浩司へのメールほか)

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****************以上、コピー*****************


                 
(以下のような書き方で、ご意見などを、お寄せください。書式、体裁は、みなさんのご自由で
す。散文詩、エッセーでも結構です。なお商品の宣伝、他者を批判、批評する内容のもの。極
端に趣旨からはずれた内容のものは、こちらの判断で、掲載を見あわさせていただくことも、
あります。どうかご承知おきの上、お許しください。)


+++++++++++++++++++

【例】

★ パーソナリティ障害について

 10月1日号で、「パーソナリティ障害」についての記事があった。乳幼児期の母子関係に原
因があるとのことだが、もし子どもにその傾向がみられたら。親はどのように対処したらよいの
か。

 マガジンの量が多いので、読みきれない。何とか、工夫してほしい。このところ内容が雑にな
ってきたように思う。もっと実践的で、役だつ記事を載せてほしい。政治の話や、宗教の話は、
読みたくない。

 マガジンのもつ、将来的なビジョンを示してほしい。このマガジンを通して、林は、何を求め、
何を、望んでいるのか。はっきりしてほしい。

                   (埼玉県浦和市   小泉純子・匿名希望)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


                    あて先は、bwhayashi@vcs.wbs.ne.jpです。
                    みなさんのお声を、お待ちしています。

        勝手なお願いですみません。   浜松市入野町 はやし浩司

                              10月 5日        

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
  
【感謝のカードです】(安全性は、確認してあります)
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 ⊂⊃\_/       _ _
       ◯    / /⊃)
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δ   )  ┃ ┃
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■不道徳の限界(1)

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03−10−7号(298)
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         *         
        / \        
       /   \       
      / ___ \      【1】子育てポイント
       ̄ ̄\_/ ̄ ̄      【2】特集「不道徳の限界」
   =| ̄ ̄ ̄ ̄* ̄ ̄ ̄ ̄|=   【3】子育てエッセー
    |__  *  __|    【4】フォーラム
  :  : |___|::   : 
 :\::\:  !!  :/: :/:
  :\ :\  !!  /:  /: 
●はやし浩司から皆さんへ、カードです。(安全性は確認してあります。)

安心して、開いてください。
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto713

●手乗り文鳥は子育てをしない

 つい先日、一三年をともにした手乗り文鳥が死んだ。私は高校一年生のときからずっと、文
長を飼っているが、もうその文鳥を最後にすることにした。私も五四歳になったから、これから
は生き物を飼うのは慎重にしたい。

 で、その手乗り文鳥だが、私の飼い方が悪いためなのかもしれないが、卵を抱いてヒナをか
えすところまでは、何とかする。……できる。しかしそのあと、手乗り文鳥は子育てをしない。自
分のヒナを見て逃げまわるのもいた。

 子育ては本能でできるようになるのではなく、学習によってできるようになる。つまり親に育て
られたという経験があって、自分が親になったとき、自分でも子育てができるようになる。この
ことを裏づける事実として、一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができな
い。知能の高い動物ほどそうで、いわんや人間をや。

言いかえると、もしあなたがあなたの子どもにいつか、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと
願っているなら、幸せな家庭とはどういうものか。心豊かな家庭というのはどういうものか。そ
れを今、しっかりと子どもに見せておかねばならない。いや、見せるだけでは足りない。子ども
の体にしっかりと染みこませておかねばならない。そういう体験があってはじめて、あなたの子
どもは自分が親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。

 ……ただ、だからといって、不幸にして不幸な家庭に育った人は、よい家庭を築けないと言っ
ているのではない。人間のばあい、近隣の人や親戚の人の子育てを見たり聞いたりすることに
よって、いろいろな子育てを模擬体験できる。本や映画を通して学習することもできる。

しかしふつうの人よりは苦労することは否定できない。このタイプの人は、「いい家庭をつくろ
う」「いい親子関係をつくろう」という気負いがどうしても強くなり、その気負いが強いため、どこ
かギクシャクした家庭や親子関係をつくりやすい。そういう心配はあるが、しかし問題は、そう
いう過去があることではなく、そういう過去に気がつかないまま、振り回されることである。そし
ていつも同じ失敗を繰り返すことである。これがこわい。

 子育てをするときは、いつも自分の過去をみる。「自分はどうだったか」「自分の生まれ育っ
た環境はどうだったか」と。それが結局は自分を知ることになるし、子育ての失敗を防ぐことに
なる。一度あなたも自分の過去を冷静に見つめてみたらどうだろうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●行き着くところまで行く

 子どもの心に何か問題が起きたとする。するとたいていの親は、それをなおそうとする。「ま
だ何とかなる」「そんなはずはない」と考える。が、原因が自分にあると考える親は、まずいな
い。

しかも心の問題は外からは見えないため、これまたほんとどの親は、「気のせいだ」「心は気の
もちようだ」と軽く考える。しかしこうした誤解が、やがて悪循環を招き、少しずつだが時間をか
けて、にっちもさっちもいかなくなる。

 S君(年長児)の症状は、軽いチックではじまった。そこで母親はそれを何度となくうるさく注意
した。が、チックはやがて階段をのぼるようにトントンと悪化した。症状も大きくなり、複数のチ
ックを同時に併発するようになった。母親はますます子どもを叱った。しかしこれがまずかっ
た。

S君は真夜中に、はげしいけいれん状のチックを繰り返すようになった。一度は救急車まで呼
んだ。しかし親は、自分に原因があるとは決して思わなかった。S君の母親は、どこか神経質
そうな母親だった。話し方もせっかちで、人の話をまったく聞こうとしなかった。

 やがてS君と母親はお決まりの病院めぐり。あちこちで検査を受けては落胆したり、一抹の
希望をもったりした。S君が幼稚園へ行きたくないと言い出すと、それはますますエスカレートし
た。が、病院めぐりをすればするほど、S君の症状は悪化した。

母親はあとになってこう言った。「あのまま不登校児になったらどうしようと、そればかりが心配
でした」と。が、結局S君はそのまま不登校児になった。一年生のときも、二年生のときも、ほと
んど学校へは行かなかった。私にも相談があったので、「三か月は何も言ってはいけません。
S君の好きなようにさせなさい」と言ったが、母親にしてみれば、一か月だって長い。

そのつど学校へS君をひっぱっていった。さらに病院めぐりをするようになると、もう私のアドバ
イスなど聞かなかった。こうなると、私としては指導の方法はない。さらに病院で処方される「わ
けのわからない薬」を飲むようになると、S君の症状は一時的には快方に向かったが、しかし
それはあくまでも一時的。そのあと薬の反作用で、症状はますますわけのわからないものにな
っていった。

 ……というような話はいくらでもある。親というのは、結局は行き着くところまで自分で行くしか
ない。冷たい言い方だが、これは子育てにまつわる宿命のようなもの。その途中で私のような
ものがいくらアドバイスしても、意味がない。指導する側にしてみれば、そういうむなしさがいつ
もついて回る。これもやはり宿命のようなもの。

  ‖                 
 :−−           ‖   
  ‖            :−− 
        ‖      ‖    テーマがあれば、どうかお寄せください。
       :−−           具体的に、相談内容を書いてくだされば
        ‖              うれしく思います。
【2】不道徳の限界(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

不道徳の限界

●殺人の意思

 イノシシだと思って、銃をうったら、イノシシではなく、マツタケを取りにきた、農夫だった。その
ため農夫は、頭に銃弾を受けて死んでしまった。(A)

 一方、燃えるような殺意を覚え、毎晩、近くの神社へ行き、わら人形に、クギを打ちつけた。
相手の人をのろい殺すためである。(B)

 (A)は、過失致死罪に問われる。殺意がなかったからである。一方、殺意はあっても、(B)
は、無罪である。「殺す」という実行行為が、なかったからである。

 これは法学部の学生が、刑法を学ぶとき、そのイロハとして学ぶ、事例である。

●不道徳の限界

 若い新婚ホヤホヤの男が、夜中に、あやしげなサイトを開いて、マスターベーションをしてい
た。これは不道徳なりや、いなや?

 妻子ある経営者が、飲み屋で知りあった若い女性と、金を払い、数時間、ホテルで、セックス
を楽しんだ。これは不道徳なりや、いなや。

 そも、不道徳とは、何か。

 若い美しい女性を見て、頭の中で、あらぬことを想像するのは、不道徳なりや、いなや。もし
不道徳の基準を、きびしくするなら、それも不道徳ということになってしまう。

 しかし不道徳の基準を、ゆるくするなら、あやしげなサイトを見て、マスターベーションをした
り、飲み屋で知りあった女性と、一時の情事を楽しむのは、不道徳ということにはならなくなっ
てしまう。

 さらに、冒頭に書いた、刑法の話を、その上に、重ね合わせると、こうなる。

 不道徳を、心の問題とするなら、心がゆらいだとたん、その人は不道徳ということになる? 
しかしもしそうなら、ワラ人形を打ちつけた人は、、みな、罪に問われる。

 一方、いくらほかの女性とセックスをしても、心さえしっかりともっていれば、不道徳ということ
にならない? しかしもしそうなら、刑法の世界でも、過失致死罪というのは、なくなってしまう。

●結婚によって生まれる束縛

 結婚によって、一組の男女は、愛を誓う。そのとき、たがいに、強烈な拘束力をもって、相手
の自由を奪う。奪うというよりも、奪われる快感を楽しむ。

 仮にどちらか一方が、別の異性とセックスをすれば、即、裏切り行為と、もう一方は、とらえ
る。「不倫」という言葉は、そこから生まれた。

 と、考えると、そもそも、結婚と同時に生まれる拘束力とは、何かということになる。

 ふつう、結婚するとき、「相手を徹底的に自分のものにしたい」という欲求が働く。それが「結
婚」という形になるが、これは、人間が、知的に考えてそうするというよりは、本能に命じられて
そうすると考えるほうが、正しい。

 (自分のものにしたい)という独占欲に、ヒビが入ったとき、(裏切られた)という意識が生まれ
る。

●「性」への欲求

 結婚生活には、同居して、たがいに共同生活をするという目的のほか、セックスを楽しむとい
う重大な要素がある。

 この(セックスをする)という部分が、満たされないとき、その夫婦は夫婦と言えるのか、という
問題がある。

 若い妻がよく訴える事例に、「夫がかまってくれない」というのがある。結婚後、数年目にし
て、セックスレスになる夫婦は、いまどき、珍しくない。

 となると、夫にせよ、妻にせよ、その欲求不満を、何らかの形で、解消しなければならない。
いくら夫婦というワクの中にいても、「性」への欲求は、それ以上のもの。とても個人の理性で、
コントロールできるようなものではない。

 こういうとき、どちらか一方が、ほかの異性とセックスをしたとする。しかしそれも、やはり不道
徳ということになるのか。

●不道徳とは何か

 こうして考えてみると、「そも不道徳とは何か」という問題にぶつかる。

 あるいは、その基準は、どこにあるのか。

 そこで登場するのが、宗教的基準である。ほとんどの宗教では、「セックス」の問題を、厳格
にあつかう。(中に、自由奔放なセックスを奨励する教団もあるにはあるが……。)

 しかし私を含めて、宗教団体に属していない人間は、どうやって、どこに基準を求めたらよい
のか。……ということになる。

●個人の裁量と、事情によって

 私は前提として、宗教的な基準をもうけるのは、まちがっていると思う。それぞれの夫婦に
は、それぞれの事情がある。同時に、それぞれの考え方がある。

 大切なことは、夫婦というワクをこわさないように、その夫婦を、さらに深めること。そのため
の行為なら、それが他人から見て不道徳でも、許されるのではないかといこと。

 いろいろな事例がある。

【Aさん、女性、四五歳】

 Aさんが浮気していることは、みんな知っている。Aさんは、ときどき、料理教室の講師を手伝
っているが、生徒も、みな知っている。Aさんが、それを話すからである。

 相手の男性は、夫と同じ年齢の、B氏。しかも家は、歩いて一〇分も離れていない。

 「夫にバレないのかなねえ?」と、私が心配すると、ワイフは、「ダンナさんも、もう知っている
みたいよ」と。

 (実は、この話は、二、三年前に、ワイフから聞いた話。そこで「最近は、どうなったの?」と聞
くと、「もう別れて、もとのサヤに収まったみたい」とのこと。改めて、「へえ」と感心した。)

【C氏、男性、五〇歳】

 C氏の趣味(?)は、出会い系サイトで、若い女性と知りあって、セックスをすること。「一人若
い女性をつかまえると、あとは、その女性の紹介、紹介で、イモヅル式に(?)、どんどん輪が
広がっていく」とのこと。

 言い忘れたが、C氏は公務員。奥さんも、同じ公務員。「ワイフのほうが、給料がいいよ。ぼく
の給料は、すべて、遊興費に回っている」とも。

【Dさん、女性、五四歳】

 Dさんは、独身。しかし妻子ある男性と月に何度か会って、セックスを楽しんでいる。相手の
男性は、七〇歳だというが、そういう関係が、もう二〇年以上もつづいているという。

 相手の男性の奥さんも、承知の上での交際とか。

 私はDさんから、直接、この話を聞いている。しかしDさんには、まったく罪悪感がないよう
だ。ケラケラと、笑って話してくれた。二〇年もつきあっていると、女性も、そうなるのか。

【E氏夫婦、夫三四歳、妻三二歳】

 E氏夫婦の趣味(?)は、月に一、二度の、スワッピングパーテイ。たいていは東京で。もしく
は名古屋まで出かけていくそうだ。

 全国組織の会にも入っているので、ときどき旅行をかねて行くこともあるという。

 「最初、妻を説得するのに苦労しましたが、今では、妻のほうが、楽しみにしている」とのこ
と。

 同じような集まりだが、「混浴の会」というのもあるそうだ。こちらはセックス抜きだそうだが、
男も女も、その場になると、みんな素っ裸で、泳ぎだすという。E氏も、ときどき参加するという。
「開放感がたまらない」と。

●改めて考える

 大切なことは、その夫婦が、納得の上で、自分たちで考えてするということ。基準を求めるの
も、おかしな話だし、他人から基準を押しつけられるのは、もっとおかしな話だ。

 あるいは世間一般の通俗的な基準で、しばるのもおかしい。

 たいていの男は、そして女は、最初、その通俗的な基準で、自らを苦しめる。罪の意識を感
ずることも多い。

 しかしこんな事例もある。

 ある不倫を一年以上つづけた若い妻が、こう言った。

 「不倫をすれば、たしかに罪の意識は生まれます。最初のころは、夫に顔向けさえできませ
んでした。

 しかしそのうち、その分、夫に尽くすようになりました。申し訳ないという気持ちが、そうさせた
のだと思います。

 おかげで私は、以前よりよい妻になることができました」と。

 どうせ不道徳なことをするなら、このレベルまで、自分をもちあげるような不道徳をすればよ
い。(……といっても、それを奨励しているわけではない。誤解のないように!)

 セックスは、食欲、さらには生存欲と並んで、生きていく上においては、重要な、かつ避けて
は通れない問題である。だからみな、もっと、前向きに考えたらよい。今どき、そういう人は少
ないと思うが、それを「汚いこと」「いやらしいこと」「隠すべきこと」と考えるほうが、おかしい。

●夫婦としての約束

 最後に、この問題には、「誠実さ」の問題がからんでくる。夫婦の約束といってもよい。不倫を
すれば、その約束を破ることになる。

 しかしこれはセックスの問題というよりは、人間対人間の問題である。

 不倫はしなくても、妻や夫に対して、誠実でない人はいくらでもいる。不倫をしながらも、ほか
の面では、きわめて誠実な人もいる。

 セックスには、本能がからんでいるため、理性ではどうにもならない部分がある。たとえば酒
に溺れるように、あるいはパチンコや競馬に依存するようになるように、脳のどこかが狂って、
セックスに溺れる人だっている。

 そういう人をすべて、悪人とすることもできないのではないか。

 それぞれの夫婦が、他人には理解しがたいほど、複雑な事情をかかえている。その事情の
中で、懸命に生きている。その結果としての、不倫もある。こうして考えていくと、何が道徳的
で、何が不道徳的なのか、わからなくなってしまう。

 このつづきは、もう少し、頭を冷やしてから考えなおしてみたい。ここに書いたことが、私の結
論というわけではない。どうか誤解のないように!
(030929)

【追記】

●裸で泳ぐ

 もう二〇年ほど前のことだが、オーストラリア人の友人夫婦を、食事に招待したことがある。
そのとき、夫は、NSW大学の講師をしていた。新婚旅行で、日本へやってきた。

 その夫婦が、食事中、こんな話をした。

 「ヒロシ、日本人は、どうして、そんなにもスケジュールに厳格なのか?」と。

 おかしな話だったので、詳しく聞くと、こう言った。

 車で、箱根をドライブしていたときのこと。美しい川を見つけた。そこで箱根を案内していた日
本人の夫婦に、「みんなで泳ごう」と提案した。

 しかし日本人の夫婦は、「だめだ。一二時までに、○○ホテルへ行くことになっている」と、頑
として譲らなかったという。それで「日本人は、スケジュールに厳格だ」と。

 オーストラリア人の夫婦は、とても残念そうだった。オーストラリアには、日本で見るような清
流がない。だからその清流に感動したらしい。

 そこで、さらに話を聞くと、それはオーストラリア人夫婦の誤解であることがわかった。

 そのとき日本人の夫婦が、「どうやって泳ぐのか? 水着をもってきていない」と言ったらし
い。それに答えて、オーストラリア人の夫婦が、「裸で泳げばいい」と。

 だから私はこう言った。

 「それは日本人が、スケジュールに厳格ということではなく、裸で泳ぐという習慣がないから
だ。それでみんなで泳ぐことを、断ったのだ」と。

 私はそのときほど、日本人の意識と、オーストラリア人の意識の違いを思い知らされたことは
ない。彼らにしてみれば、裸で泳ぐということは、異性がいてもいなくても、私たちが銭湯へ入る
ような感覚に近い。

 「性」の意識というのはそういうもの。考えてみれば、人間はもともと裸だった。全身、毛にお
おわれていたとはいえ、裸だった。

 さらにほんの一〇〇年とか、二〇〇年前には、風呂も混浴だったし、夜這(よば)いなどとい
う習慣も、日常的に認められていた。日本人が、今のような性意識をもつようになったのは、こ
こ一〇〇年くらいのことではないか。よくわからないが……。

 そう言えば、つい数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦も、あちこちへ
行っては、混浴を楽しんできた。

 奥さんに、「恥ずかしくなかった?」と聞いたら、反対に、けげんそうな顔をして、「どうして?」
と、聞かれてしまった。私のもつ意識と、彼らのもつ意識は、まったくかみあわなかった。

●所詮、無の世界? 

 「性」の問題には、このように、その人の意識の問題が、深くからんでくる。そしてその意識
は、今、私たちがそうであるからといって、それは普遍的なものでも、絶対的なものでもない。

 昔、今東光氏が、病床にありながら、私にこう言った。

 「所詮(しょせん)、性なんて、無だよ、無」と。

 しかしもし性(男女のセックスの関係)が、無なら、生きることも無ということになってしまう? 
あのフロイトも、「生きることにまつわるすべての、エネルギーの根源(リピドー)」に、「性的エネ
ルギー」をおいている。

 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれ
るというのだ。

 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その
根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。

 その生きる力が、「無」ということになると、生きていることそのものが、「無」ということになっ
てしまう? あるいは本当に「無」なのかも知れない?

 ただ、こういうことは言える。

私も、キリスト教徒ではないが、禁欲主義的に生きている人を、何人か知っている。しかしそう
いう人は、たとえて言うなら、恋をしたこともない、勉強ばかりしている高校生のような感じがす
る。

 おもしろくもないし、人間的な深みも感じない。生きる力、そのものを感じない。

 むしろ何というか、いつも異性を意識し、それでいて思うようにならなくて、切なさ、わびしさを
一身に背負って生きている人のほうに、私は魅力を感ずる。たとえて言うなら、フーテンの寅さ
んのような人間か。

 ……と考えていくと、わけがわからなくなってしまう。恐らく、読者のみなさんも、そうではない
か。だから、この話は、ここまで。このつづきは、やはり、もう少し頭を冷やしてから、考えてみ
たい。

 本当にまとまりのない文章で、ごめん。この問題は、思ったより、「根」が深いようだ。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
掲載します。高校生の「性」について
書いたものです。

+++++++++++++++++

●変わった性意識

 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子
だ。

そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くという。
しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。

私はその話を聞いて、こう言った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どう
いうことだか、君たちにわかるか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは
明るく笑いながら、こう言った。「先生、古〜イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。

 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればした
で、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。

すると女房はこう言った。「ふ〜ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。私はそ
の一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという間ぎわ
になって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。

「これは君たちを教えたことのある、一人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行って
はダメだ」と。するとその女子高校生はしばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あん
たが連れてってヨ。あんたは車の運転ができないのでしょ!」と。

 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっき
り言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。

私たち団塊の世代にとっては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊
ばれるのは女と考える。しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代に
なった。だから時折、援助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が
理解できる常識の範囲を超えている。

ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わったという前提で議
論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の母問題にも一定の
結論を出す。やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし方についての指導を
することも考えなくてはならない。

厚生省の調査によると、女子高校生の三九%が性交渉を経験し、一〇代の中絶者は、三万
五〇〇〇人に達したという(九九年)。しかしこの数字とて、控え目なものだ。つまりこの問題だ
けは、「おさえる」という視点では解決しないし、おさえても意味がない。

ただ許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人たちを食いものにして、金を儲け
たり遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者を食いものにするとは、何ごと
ぞ!、と。

私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になってしまうが、こういうおとなたちは厳罰に
処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもったら、即、逮捕する、とか。しかしこうい
う考え方そのものも、もう古いのかもしれない。

 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所
詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。


         ,ミヽ  ミヽ
         へ ミ ヽ へ ミヽ
        ∂  ミミ∂ へミミ
        ζ  っノι ∂ ミミ8彡
        ヒ___ノ 人v "丿彡'
    |)─○  / ヽ  `>−<
     // \\_/_∧ \_/_/ ヽ ≡=   賛助会にどうか、ご入会ください。
   ___//  \_/_ξ ̄ ̄ノ_ __)      現在、お礼に、イラスト(額つき)を
  / _ \  / ____ ̄フ _____ノ  ≡=−   送っています。
  // \ \ / /   ̄/ /   ̄)
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

相槌(あいづち)を打つことの恐ろしさ

 たとえばAさんが、あなたに、Bさんの悪口を言ったとする。そういうとき、あなたは、決して、
「私も、そう思う」と言ってはいけない。相槌(あいづち)を打つと、今度は、あなたの言った言葉
として、みなに、広がってしまう。

 ……というようなことは、この世界ではよくある。で、教訓。相槌は打たない。とくに、間に、子
どもがからんでいるときは、打たない。こんなことがあった。

 Aさん(母親)が、Bさん(母親)に、こう言った。

 「Cさん(母親)って、少し、頭がおかしいんじゃない?」と。

 それに答えて、Bさんが、「そうね。私もそう思うわ」と。

 それ以後、Aさんは、ほかの人に、「Cさんは頭がおかしいと、Bさんが言っていたわ」と言い
ふらすようになってしまった。Bさんが、そのあと、いろいろなトラブルに巻きこまれたことは、言
うまでもない。

 ……ということは、私も知っていた。しかし、こうしたトラブルは、思わぬところで巻きこまれ
る。最近だが、こんなことがあった。

 X氏(男性・六〇歳)からある朝、電話がかかってきた。何でも今度、Y氏(男性・四五歳)とい
う男から、共同事業を申しこまれたという。そこでY氏について、何か教えてくれないか、と。

 が、私もY氏については、ほとんど知らない。そこで、「そんなに心配なら、私のほうで、私の
友人に聞いてみましょうか」と提案した。X氏は、それに喜んだ。

 が、数日後のこと。いきなりFAXが、飛びこんできた。見ると、Y氏からのものだった。いわく、

 「私は、こういう人間です」と。見ると、Y氏の経歴が、つらねてあり、最後に、「私はあなたが
考えているようなヘンな人間ではありません」と。ついで、X氏がY氏にあてた手紙まで、FAXで
送られてきた。私は、それを見て、愕然(がくぜん)とした。

 それには、こうあった。

 「Y氏へ。貴殿のことを、私の友人の、林氏が疑っています。一度、貴殿の素性について、調
べたほうがいいと忠告してくれました。それで……。Xより」と。

 私は、そんなことは、一言も言っていない。X氏は、自分の不安や心配を、私の言葉として、
置きかえてしまった。つまり、私がうかつだった。

 話をもどす。幼稚園にせよ、学校にせよ、親どうしのトラブルは、日常茶飯事。しかし間に子
どもがいるため、この種のトラブルは、一度こじれると、とことんこじれる。ほかの世界なら、顔
をあわせないという方法で回避できるが、幼稚園や学校では、それもできない。

 だからほかの親とつきあうにしても、親しくなろうなどとは、考えないこと。コツは、トラブルを
起こさないように、静かにつきあうこと。この世界には、如水淡交(じょすいたんこう)という鉄則
がある。(鉄則といっても、私が勝手に考えたものだが……。)

 「つきあうとしても、淡く、水のようにサラサラとつきあう」という意味である。決して、深入りしな
い。してはいけない。事務的なことだけを、事務的にこなして、それですます。

 はっきり、言おう。

 この世界、その底流では、人間のドス黒い欲望が、渦を巻いている。一〇人のうち、九人ま
でがまともでも、そうでない人が、必ず、一人はいる。その一人にからまれると、それこそ転校
……ということにもなりかねない。

 それでも……ということなら、できるだけ子どもとは、直接関係のない世界で、直接関係のな
い親たちとつきあう。そういう世界で、情報を交換する。あるいはつきあうにしても、慎重の上に
も、慎重につきあう。

++++++++++++++++++++++++++

 以前、書いた原稿を転載します。
 一部ダブりますが、許してください。

++++++++++++++++++++++++++

●親とのつきあいは、如水淡交

 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。

数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。

しかしこの方法も、ひとつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、でき
るだけ身近でない人のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題
がある。理由はいくつかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。

こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」という、利己主義
的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、おかしい。その
ため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもないことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 二〇年前、三〇年前には、まだ気骨のある
教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師
もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっている
うちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。

ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先生たちが萎縮してしまっています」と。こういう状
態をつくったのは、結局は、親自身ということになる。つまり園や学校の先生が、それなりに
(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を責めることもできない。

私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。が、今は、むしろ同情す
る側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が抜ける場所です」と、こっ
そりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろん、しつけから、道徳、さ
らには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほかならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(1)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個
人的な問題や、相談はしない。

(2)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ
ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って
はならない。

(3)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子どもの
名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。

(4)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。

(5)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にからま
れると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。

(6)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざかる。
見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。できれ
ば、どこか「穴」にこもるとよい。

(7)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、へ
たに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだけ
は、何としても避ける。

+++++++++++++++++++++

 さて冒頭の、Y氏とのトラブルだが、こういうケースでは、へたに言いわけしたり、反論しない
ほうがよい。そんなことをすれば、今度は、X氏と私の関係までおかしくなってしまう。

 こういうときは、静かに時の流れを待つのがよい。あとは時間が解決してくれる。つまり、それ
も解決法の一つということ。

 そう言えば、このところX氏は、どこか「?」になってきた。一〇年前のX氏なら、そんな手紙は
書かなかったはず。これも年齢のせいなのか? これからはX氏とは、如水淡交をこころがけ
ることにする。
(030930)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

家族の危機

 うわべは、あまりアテにならない。

 問題は、心。

 ある夫婦の話。

 夫(五〇歳)が、それとなく妻(四三歳)の胸をギュッと握ったとする。そのとき、妻は、反射運
動的に、その手をはらいのけながら、こう言ったとする。「何よ、いい年して!」と。

 こういうケースでは、すでに夫婦の関係は、こわれている。親子も、そうだ。

 子ども(小三男児)が、お茶をこぼしたとする。すると母親が、カーッとなって、「いつになった
ら、できるの!」と言って、子どもをはり飛ばす。

 心というのは、とっさのとき、そのまま出てくる。そしてそれを本当の「心」とするなら、うわべ
は、あくまでも、ニセの「心」。いくらとりつくろっても、本当の「心」は隠せない。ごまかせない。

 ほかにも、ある。

 ある母親は、ことあるごとに、子どもの前で、夫を、バカにしていた。「あんたの父さんは、サ
ラリーが少ないでしょ。だから、私たち、苦労するのよ。男は、やっぱり、大学くらいは出ておか
ないと。父さんは、学歴がないから……」と。

 原因は何か……ということよりも、そもそも、家族でありながら、こうした妻や母親は、夫や子
どもに、心を開いてない。相手を、受け入れていない。家族としては、致命的な欠陥だが、妻に
せよ、母親にせよ、こういう人ほど、自分の欠陥に気づいていない。

 むしろ、「自分は完ぺきな妻だ」「理想的な母親だ」と思いこんでいる。

 もちろん反対のケースもある。

 以前、恩師のM先生(女性)が、こんな話をしてくれた。

 M先生の初恋の人は、女学校の男性教師だった。で、M先生は、その男性教師が好きで好
きで、たまらなかった。が、そこは先生と生徒の関係。M先生は、思いを打ち明けることもでき
ず、悶々と悩んでいた。

 が、そんなある日。男性先生が、鼻をほじりながら、自分の席の前に立ったという。そのとき
のこと。その男性教師の鼻くそが、ポタリと、机の上に落ちてきたという。が、M先生は、それを
汚いとは、思わなかったという。

 「私ゃね、林さん。その鼻くそがいとおしくて、いとおしくて、ならなかったよ。ふつう、だれで
も、鼻くそは汚いと思うでしょ。しかし私には、そうでなかった。人を好きになるということは、そ
ういうことだよねえ」と。

 もし先の妻が、M先生のような気持を、夫に対してもっていたら、胸を握ったくらいで、その手
を払いのけるだろうか。むしろ、それを喜ぶにちがいない。

 もし先の母親が、M先生のような気持を、子どもに対してもっていたら、お茶をこぼしたくらい
で、子どもをはり飛ばすだろうか。むしろ、笑いながら、そのお茶を拭くにちがいない。

 心というのは、そういうもの。

 「私は私」と思っている部分を、うわべの心とするなら、「私であって、私でない」部分は、本当
の心ということになる。

 で、あなたは、どんな本当の心をもっているだろうか。もし相手を全幅に受け入れているな
ら、それでよし。そうでないなら、一度、心に潜む、わだかまりをさぐってみるとよい。

 不本意な結婚であるとか、生活苦であるとか。その人自身の不幸な幼児期、少年少女期が、
尾を引いているときもある。

 この問題は、そのわだかまりがわかるだけでも、ほとんどが解決したとみる。

 まずいのは、そのわだかまりに気づかないまま、いつもそのわだかまりに、裏から操られるこ
と。同じ失敗を、繰りかえすこと。

 で、ここから先、話はぐんと現実的になる。

 だれしも、本当の心を隠しながら、生きている。もちろん、すべてをさらけ出して、あるがまま
に生きるのは理想だが、そうはいかない。……いかないのが、ふつう。

 たとえ相思相愛で結婚し、全幅に望んで子どもをもうけたとしても、「心」というのは、こわれる
ときには、こわれる。一〇年か、二〇年か、それはわからない。結婚当初のままの気持で、三
〇年も、四〇年も、夫婦生活をするほうが、マレ。そういう人は、本当に、少ない。

 で、その心がこわれたときのこと。即、離婚かということになると、そうではない。

 結婚生活は、「心」だけでするものではない。そこには、無数の糸が、からんでいる。英語の
表現を借りるなら、「クモの巣がからむように」からんでいる。

 子どもの養育の問題。親類、兄弟の問題、経済などなど。

 そこで大半の人は、こわれた心を必死で支えながら、「まあ、こんなもの」「まあ、いいじゃない
か」と、そんなふうに、割り切りながら、生きている。

 もともと幸福なんてものは、一日のうちの数分、一週間のうちの数時間、一か月のうちの数
日あれば、よいほうだ。あとは、ただひたすら、妥協。がまん、忍耐。何ともさみしい人間関係
だが、夫婦も、親子も、もともと一人の人間対、一人の人間の関係。冷えるときには、冷える。

 ただ、自分の妻の胸を握ったとき、「何よ、いい年をして!」と言われたら、夫もつらいだろう
な、ということ。こういうケースでは、夫は、道化師になるしかない。ヘヘヘと笑ってごまかすしか
ない。

 これは私たち夫婦のことか? あああ。
(030928)

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【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

日本の「恥」

 とんでもないニュースが、中国から伝わってきた。
 何でも、日本人観光客、約380人が、約500人の中国女性を相手にして、「集団売春行為
をした」というのだ。

 インフォシーク・ニュースは、「読売新聞」発として、つぎのように報道している(9月28日)。

「28日付の中国紙「中国青年報」は、日本人の集団が、中国広東省珠海市内のホテルに中国
人女性を連れ込んで集団買春行為をしていたと報道した。

地元警察当局は27日、前日に出たこのニュースの初報を受けて同ホテルの営業を停止し、
中国側関係者の身柄を拘束する騒ぎになっている。在広州日本総領事館では報道が事実か
どうか、調査している。 

 同紙の報道によると、今月16日未明、珠海市内にある「珠海国際会議センター大酒店」で、
日本人と見られる男性の集団が大型バスで到着。男性たちは水商売風の中国人女性を同伴
しており、女性は500人近くになったという。

ホールには開設15周年を迎えた日本企業の祝賀垂れ幕がかかり、男性たちは女性を抱きし
めるなどしていたという。 

 目撃者が同行の通訳らから聞いたところ、「集団は日本各地から来た観光客で、総勢380
人」と答えたという。9月18日は旧日本軍による「柳条湖事件(満州事変)記念日」で、中国の
マスコミは反日感情を煽る格好の事件として大きく取りあげている」と。

 目下、事実を確認中ということなので、これ以上の批判はできないが、もし事実とするなら、と
んでもない話である。

 まさに日本人の知的レベルの低さを象徴するかのような事件である。少なくとも、世界の人
は、そう見る。こうした事件が起きると、「私は関係ない」「私の夫は、関係ない」と、言うかもし
れない。しかし世界の人は、そうはみない。私やあなた、あなたの夫も含めて、「日本人は…
…」とみる。

 五、六年前も、タイのバンコクへ行ったときのこと。どこかのタイ料理店で食事をしていたとき
のこと。数人の娼婦らしき女性をつれてきた男が、気前よく、床に千円札を、バラバラとばらま
いていた。男というのは、もちろん日本人である。

 たまたま三男と私は食事をしていたが、あまりにもバカげた光景に、私は言葉を失った。まさ
に、ノーブレイン(脳ミソなし)の行為! まわりにいたタイ人の店員や女性たちが、キャーキャ
ーと歓声をあげながら、床にはいつくばって、その札を拾い集めていた。何とも、あさましい光
景だった。

 日本人よ、もう少し、考えようよ。
 考えるだけでよい。
 考えて、自分の思想を、さがそうよ。
 そして「私は私」と、もっと、
 自分の輪郭(りんかく)を、明確にしようよ。

 同じ日、別のニュース・ソースは、こんなことを伝えている。

 「小泉首相、アフリカ各国首脳と個別会談 
 小泉総理大臣は、エイズや貧困対策を話し合うアフリカ開発会議の開幕に先立ち、来日した
アフリカの23カ国の首脳と、 個別の2国間会談に臨んでいます。

 小泉総理は、午前中、カメルーンやガーナの大統領らと15分ずつ個別に会談しました。来
日したアフリカの23カ国の首脳と、それぞれ会談するという異例の措置は、アフリカ諸国を味
方につけ、 国連や国際社会での日本の発言力を強めるという狙いがあります。
 
 アフリカ開発会議は29日から3日間、 東京で行われる予定です。小泉総理は開会式でエイ
ズやマラリアなど、 感染症のワクチンを提供することなどを柱とした今後5年間に総額10億ド
ル、 およそ1120億円の無償資金協力を行う考えを表明します。(28日 13:10)」(TBSニュー
スi)と。

 つまり日本の国際的地位を、金で買おうというわけである。

 で、これら二つの話は、水面下で、しっかりと、つながっている。金の力で、集団売春をする
日本人。同じく金の力で、国際的地位を買おうとしている日本政府。日本人も日本人なら、日
本政府も、日本政府!

 あきれるというより、悲しくなる。こんなことばかりしているから、日本人は、いつまでたって
も、世界から相手にされない。

 これ以上のコメントは、ここではさしひかえたい。……というより、あまりにも自分がなさけなく
て、コメントする気になれない。

 しかしみなさん、これが日本の、そして日本政府の現状です。みんなで力を合わせて、こうい
うバカげた国を、立てなおしましょう!
(030928)

【日本側の反論】

 JNNの報道によれば、当該会社は、つぎのように反論しているという。

 記事を、そのまま掲載する。

 「当の高級ホテルは28日までに、中国当局から売春行為に関わった疑いで営業停止を命じ
られました。
 
 JNNの取材に対してホテル側は、つぎのように答えている。

Q.買春が行われていたようだが
 「すみません。質問が多くて、お答えできません。さよなら」(ホテル側)
 
 一方、買春疑惑を地元紙などに指摘された、西日本にある建設関係の会社によりますと、社
員旅行で9月16日から3日間、問題のホテルに宿泊し、別のホテルで女性コンパニオンを招
いて宴会を行ったことを認めました。しかし、集団で買春した事実はないとしています。
 
 「何人かは(買春の)店に行って連れて帰ってきたかも知れない。どんどん違う方向に話がふ
くらんでいて怖い」(指摘された会社)
 
 地元の警察は「事実だとするなら、ホテルなどの法的責任を追及する」としており、この騒ぎ
は当分、収まりそうにありません」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

マガジン読者のみなさんへ

●フランスのSさんへ

メール、ありがとうございました。なかなか返事を書くことができず、この場を借りて失礼しま
す。

お母様は、お元気ですか。日本へおいでのさいには、必ずご一報ください。日本で最高のシェ
フ(=私)が、ご主人に、料理をしてさしあげます。どうか、どうか、お楽しみに!

日本は、この数日、めっきり秋らしくなりました。鴨江寺の彼岸会も終わり、あのかいわいも、
ひっそりと静かになりました。昨夜は、かなり厚いふとんをかぶって眠ったほどです。

●金沢のYさんへ

静岡県、ホームページ・グランプリへの投票、ありがとうございました。今年も、賞品のパソコン
をのがしたようです。(もともとアテにしていませんが……。)審査員の顔ぶれを見ても、私のサ
イトが理解できるような人たちでは、ないようです(失礼!)。

これから金沢は天気が悪くなります。私が学生時代は、一年のうち、三分の一は、長靴とカサ
をもって、大学へ通いました。

また浜松へもどっておいでになることはありますか?

●ハンガリーのSさんへ

お元気ですか? 日本は、このところ、少し景気が上向いてきたような、そうでないような感じで
す。よくわかりません。私の周辺は、私も含めて、みな、元気がありません。

いつか「日本の代表で……」なんてことを書いてしまいましたが、あまり気負わないで、しかしど
うか、がんばってください。韓国の自動車会社が、あの手、この手を使って、日本企業の活躍
を妨害しているという情報も入ってきています。

あの人たちの反日感情は、ふつうではありませんから……。戦後六〇年もたっているのに…
…、いやですね。ホント!

●サニーさんへ

私も、あれこれ、何かと負けそうになりそうです。何とかふんばっていますが、ときどき、「もう発
行するのを、やめようか」と思うこともあります。でもときどき、サニー様のような方が励ましてく
ださるので、かろうじてマガジンを発行できるというような状態です。

先日も、いきなり、「あなたのマガジンの、趣旨と方針を示してほしい。あなたは日本の子育て
がどうなればいいと考えているのか。姿勢があいまいだ」と言ってきた読者の方がいました。

そのメールをじっとながめながら、自分が悲しくなりました。ボランティアで近所の清掃をしてい
たら、「掃除のし方が悪い」と叱られたような気分でした。

まあ、めげないで、前に進みます。

●泉町のTさんへ

賛助会への入会、ありがとうございました。本と絵は届きましたか。また何かありましたら、メー
ルをください。また力になります。いつか、マガジンが1000号になったら、会にお誘いしますの
で、そのときは、ぜひおいでください。楽しみにしています。

しかし「1000号かア……」と、今、ため息をついたところです。もうすぐやっと300号になるとこ
ろです。道は、遠いです。

もしできれば、どうかそのときまで、あきずに、このマガジンを、購読してください。がんばって
みます。

●読者のみなさんへ

ご要望、ご希望があれば、どうかお寄せください。テーマをいただければ、それについて書か
せていただきます。

今のうちに、私が経験したことを、すべて書き留めておきたいと思っています。毎回、マガジン
の量が多すぎるという苦情をいただきますが、今しばらく、がまんしてください。そのうち、A四
一枚程度の量になると思います。

またこのマガジンがお役にたちそうな方が、近くにいらっしゃれば、どうか、このマガジンのこと
を話していただけませんか。よろしくお願いします。

いつもいつも、お願いすることばかりで、ごめんなさい。

では、すばらしい秋を! 

Happy Autumn to all of you!
(030929)

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■■■■■■■■■| |■■■   お知り合いの方で、このマガジンが
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ● | ̄ ̄ ̄    役立ちそうな方がいらっしゃれば、
                 このマガジンのことを、話していただけませんか。
                      よろしく、お願いします。  
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■悪人論

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03−10−9号(299)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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       ̄ ̄\_/ ̄ ̄      【2】Touch your Heart
   =| ̄ ̄ ̄ ̄* ̄ ̄ ̄ ̄|=   【3】子育てエッセー
    |__  *  __|    【4】フォーラム
  :  : |___|::   : 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto713

三つの依存心

 日本ではよく、「人はひとりでは生きていかれない」と言う。それはそのとおりで、人はいつも
何かに依存しながら生きている。「私は自由人だ」「私は天涯孤独だ」「私はだれにも頼らず生
きている」と言う人ですら、何かに依存して生きている。

 で、その依存するものだが、人によって、大きくつぎの三つに分けられる。(1)ものやお金な
ど、「形」に依存する人、(2)地位や肩書き、学歴や家柄など、バーチャルなものに依存する
人、そして(3)自分自身に依存する人、である。

 よく財産や仕事をなくしてガタガタになる人や、宗教から離れてガタガタになる人がいる。これ
らの人は、つまるところ「自分を離れたもの」に依存するから、そうなる。……、いや、だからと
いって、ガタガタになるのが悪いというのではない。だれしも、それぞれの分野で、ある程度は
依存している。

宝くじですらそうだ。買ったときには、「当たれば……」とだれしも思い、ハズれたときには、だ
れしもがっかりする。しかし自分を本当に強くするには、自分自身に依存するしかない。「私」と
いう「自分」なら、私を裏切らない。私を去ることもない。

 そこで「自分」とは何かということになる。もっと言えば、「自分が依存し、その一方で自分を支
える自分」は、何かということになる。その一つのヒントとして、私にはこんな経験がある。

もう一五年近くも前のことだが、私はある雑誌で、あるカルト教団を批判したことがある。が、そ
の直後からものすごい抗議の嵐。私たち夫婦は、「地獄へ落ちる」とか、「夜道を歩くときは気
をつけろ」と毎日のようにおどされた。そして事実、私たちは何か得体のしれないものにおびえ
た。

が、それがきっかけで、そのカルト教団についての本を五冊も書くことになってしまった。(もち
ろんペンネームで、だが。)しかしその結果、そのカルト教団が、ご多分にもれず、まったくのイ
ンチキ教団だとわかった。とたん、恐怖感がウソのように消えた。自分に依存するというのはそ
ういうことをいうのではないか。

自分自身の深い人間性や、知性、理性に依存する。どうせ依存するなら、そうする。そのため
に自分自身をみがく。それはまさに自分との戦いといってもよい。かく言う私だって、そんな偉
そうなことは言えない。今ですらガタガタだ。この先、たとえば女房に先だたれるとか、家計が
崩壊するとか、あるいは事故や病気になったりして、いつガタガタになるか知れない。そういう
不安はいつもついて回る。

だから「戦い」ということになる。そういう意味では、「自分に依存して生きる」ということは、それ
自体たいへんなことだ。ああ、私だって、頼れる神や仏がいれば、今すぐ頼りたい。しかしそれ
をしればしたで、私にとっては、まさに人生の敗北でしかない。だからやはり戦うしかない。

 以上、子育てをする上で、一つのヒントになれば幸いである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どものゲーム

小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マジ
ギャザ)」。遊戯王について言えば、小学三年生で、約二五%以上の男児がハマっている(二
〇〇〇年一一月、小三児五三名中一三名、浜松市内)。

ある日、一人の子ども(小三男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを三枚集めて、融合さ
せる。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに
出せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が九〇〇〇になる」と。子どもの言ったことをそのま
まここに書いたが、さっぱり意味がわからない。

基本的にはカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカード
を取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、一パック五枚入りで、一五
〇円から三三〇円程度で販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そう
だ。

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学一、二年になった。そこで当時ハマった子ど
もたち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中二)いわく、「今はマジギャ
ザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(一五枚で五〇〇円。デパートやおもちゃ
屋で販売。遊戯王は、五枚で二〇〇円)は、一〇〇〇枚近く集めたそうだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと
思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよく
わからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子
どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通してい
る。

 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったとい
うこと。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中
毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに四万円も払ったりする!
 親たちは子どもの世界に、もう少し慎重であってもよいのではないのか。

  ‖                 
 :−−           ‖   
  ‖            :−− 
        ‖      ‖    テーマがあれば、どうかお寄せください。
       :−−           具体的に、相談内容を書いてくだされば
        ‖              うれしく思います。
【2】心に触れて(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●孫は、かわいいか?

 あさって、はじめて孫を見る。楽しみだが、不安もある。何というか、自分の孫でないような気
もする。目だけがやたらと大きく、口が小さい。まるでエイリアンのよう。だいたい、私に、まった
く似ていない!

 世間一般では、「孫はかわいい」ということになっている。だから私も、「かわいい」と思わなけ
ればならない。しかし本当に、かわいいと思うようになるだろうか。子どもといえば、他人の子ど
もだが、毎日のように、何十人も会っている。孫だから……というふうに、区別するほうが、お
かしい。あるいは、区別がつくのだろうか。

 空港まで迎えにいくことになっている。しかし本当のところ、孫に会いたいというよりは、二男
や、嫁さんに会いたい。今朝も嫁さんは、「座っていると、気がへんになりそう。だから、動き回
っている」とメールで、書いてきた。日本へ来ることで、かなり興奮しているらしい。

 私は毎日、嫁さんを、あちこちの料理店へつれていくつもり。「これが日本だ!」というようなも
のを、見せてあげたい。私の関心は、むしろそちらにある。孫をつれて散歩なんて、そんなジジ
臭いこと、できるかア!

 私の友人のMさん(女性)はいつも、こう言っている。「孫はかわいいから、遊びに来てほしい
と思うけど、しかしいっしょにいると、うるさくてかなわない。だから、早く帰ってくれと願う」と。

 こうも言った。

 「別れるとき、『おばあちゃん、また来るからね』と孫が言うと、口では、『おいでよ』と答えるけ
ど、内心では、もうコリゴリ。当分、来なくていいと思っている」とも。

 多分、私もそう……?

 さてさて、あさって私は孫に会う。どう自分の心が変化するか、静かに観察してみたい。その
結果は、みなさんに報告します。孫の顔は、私のサイトのトップページに載せておきました。エ
イリアン孫を、どうか見てやってください。まさに未知との遭遇。第三種接近遭遇。あああ〜。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

(031001)

         ,ミヽ  ミヽ
         へ ミ ヽ へ ミヽ
        ∂  ミミ∂ へミミ
        ζ  っノι ∂ ミミ8彡
        ヒ___ノ 人v "丿彡'
    |)─○  / ヽ  `>−<
     // \\_/_∧ \_/_/ ヽ ≡=   賛助会にどうか、ご入会ください。
   ___//  \_/_ξ ̄ ̄ノ_ __)      現在、お礼に、イラスト(額つき)を
  / _ \  / ____ ̄フ _____ノ  ≡=−   送っています。
  // \ \ / /   ̄/ /   ̄)
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●少子化の中で……

 少子化が予想外の速さで、進んでいる。

 もう二五年も前から、まず産婦人科が打撃を受けた。
 もう一五年も前から、小児科が打撃を受けた。
 同じころ、私立の幼稚園や保育園が打撃を受けた。
 今は、私立の高校や大学が打撃を受けつつある。

 そこで、たとえば幼稚園や保育園は、あの手、この手を使って、園児集めに必死になってい
る。園児あっての、「園」である。

 それはそれだが、そのため、不況も重なって、園児募集が、ますます低年齢化している。私
がこの世界に入った、三〇年前には、私立の幼稚園でも、二年保育が主流で、何割かは、一
年保育だった。幼稚園へ行かない子どもも、浜松市内で、五%はいた。当時、私が調査した。

 しかし今では、三年保育が主流になりつつある。そして四年保育……!

 共働きがふえるにつれて、幼稚園と、保育園の、熾烈(しれつ)な戦いが始まった。幼稚園
は、保育時間の園長を求めた。当時、幼稚園は、午後二時まで。保育園は四時〜まで、保育
ができた。当然、園児は、保育園に流れる。

 で、今は、どうなったか?

 幼稚園でも、午後五時まで、子どもを預かるようになった。つまりここで幼稚園の保育園化が
始まった。

 一方、保育園は、「保育」から、「教育」へと、幼稚園化を進めた。運動会をしたり、遊戯回を
したり。今では、どこの保育園でも、学習教材をとりそろえ、「教育?」を目ざしている。

 こういう流れの中で、当然、親と子の接触時間が、激減した。保育時間が長くなった分だけ、
接触時間が短くなった。

 そこで問題が起きるようになった。

 乳幼児期は、母子関係が、とくに重要。どう重要かは、いまさら説明するまでもない。この時
期を通して、子どもは人格の「格」のみならず、心の基本をつくる。人間として基盤をつくる。

 簡単なことだが、授乳を、ほんの少しこばんだだけで、子どもの心には、大きなキズがつくと
いうこともわかっている※。つまり、子どもの心は、きわめてデリケートだということ。

 とくに、WHOも勧告しているように、満二歳までは、母親が子どもを育てる。それは子育ての
基本。保育園へ預けるにしても、この基本は、変わらない。

 で、そのあとは、徐々に、親子の関係を薄めていくが、しかし満二歳を過ぎたから、母親が必
要ないというのは、まちがい。今度は、子どもの様子を見て、判断する。

 子どもによっては、満四歳になっても、五歳になっても、母親の濃厚な愛情を必要とするケー
スもある。「よその子はだいじょうぶだから……」という、乱暴な考え方はしてはいけない。絶対
に、してはいけない。

 保育園へ預けるにしても、幼稚園へ入れるにしても、子どもの心の変化を、ていねいに観察
する。

 神経症による症状が出るようであれば、それを黄信号ととらえる。放置すれば、情緒不安か
ら、情緒障害。さらには精神障害へと、発展する危険性がある。年齢が低いほど、子どもに与
えるショックは、大きい。

 たとえばこの時期、母親がほんの数日、入院などで家をあけただけで、分離不安(錯乱性を
ともなった被害妄想)をもつようになる子どもは、いくらでもいる。

 が、だからといって、子どもを包む家庭環境を、変えることはできない。そういうときは、最低
でも、つぎのことを守る。

(1)暖かい無視
(2)ほどよい親
(3)求めてきたら、拒(こば)まない。

 「暖かい無視」というのは、暖かく子どもを愛情で包みながら、無視するという意味。幼稚園に
せよ、保育園にせよ、集団教育の場で、子どもが心身をすり減らして帰ってきたら、こまごまと
したことは言わない。できるだけ子どもが、ひとり、ぼんやりとできる時間と場所を用意してや
る。

 「ほどよい親」というのは、やりすぎない。しかしほどよく手をかけるという意味。この手綱(た
づな)さばきが、親の腕の見せどころということになる。過関心、溺愛、過保護、過干渉がよくな
いことは言うまでもない。

 「求めてきたら、拒まない」は、子どもへの愛情の、大原則。親側からベタベタするのは、避け
る。しかし子ども側から求めてきたら、こまめに、ていねいに応じてやる。その安心感が、子ど
もの心の緊張感をほぐす。

 集団教育は、この日本では、避けては通れない。さらに、共働き、さらにはそのため、幼稚
園、保育園の低年齢化も、避けては通れない。で、そういうときは、ここにあげた三原則を守
り、子どもに与える心的被害を、最小限におさえる。

 本来なら、四歳ぐらいまでは、家庭教育を「柱」とし、週に二、三日。しかも午前中だけという
ような通園方法を繰りかえしながら、少しずつ、子どもの心と体を集団教育になじませていくの
が望ましい。五歳になったら、毎日。さらに六歳になったら、フルタイム……というように。

 それともこの三〇年間で、子どもたちは、またまた進化(?)したとでも、いうのだろうか?
(031002)

※……R・W・ホワイトという学者は、これを「コンピテンス」という言葉を使って説明した。その
つど、親が子どもの要求にていねいにこたえてあげることによって、子どもの中に「自己効力
感」が育つ。この自己効力感が、子どもの主体性を育て、そこから子どもの積極性が生まれ
る。この自己効力感が弱くなると、主体性の確立が遅れ、ナヨナヨとしたハキのない子どもにな
る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

悪人論

 悪人にこわいところは、悪いことを、面白半分にすること。深く考えない。あるいは自ら深く考
えようとしない。考えたら、悪いことはできない。だから面白半分にする。

 だから罪の意識を感じない。たとえば人をだましても、ヘラヘラしている。またヘラヘラするこ
とによって、自責の念から、逃れようとする。

 今、この静岡県でも、おかしな督促状が、届くという事件が頻発している。「あなたの債務の
〜〜が、債権回収機構に回されました」とか、何とか。

 もちろんインチキ督促状だが、こういうことが平気でできる人は、ここでいう悪人である。こうし
た悪人が、ふつうの人と違うのは、ふつうの人プラス、こうした特殊な能力をもっているというこ
と。「特殊な能力」というのは、自分にとって、つごうの悪い事実を、そのつど、別の世界にしま
いこむことができる能力をいう。

 だからこうした悪人は、会ってみると、ふつうの人。ごくふつうの人であって、私やあなたとど
こも違わない。常識もあるし、判断力もある。しかし、その一方で、冒頭に書いたように、面白
半分で、悪いことをする。

 こうした能力(?)は、だれにでもある。

 たとえば人は、自分にとってつごうの悪い思い出や、事実は、無意識のうちにも避けようとす
る。日本語にも、「とぼける」という言葉があるが、それもその一つ。

 つまりそうすることによって、自分の心をできるだけ正常(?)に保とうとする。よくある例が、
加害者と被害者の関係である。

 加害者は、事件をすぐ忘れるが、被害者は、そうではない。たとえば日本人全体をみたとき
も、戦時中、旧日本軍が悪いことをしたと思っている日本人は、あまりいない。(一方、中国の
人や、朝鮮半島の人たちは、いまでも、執拗に旧日本軍の悪業の数々を問題にする。)つまり
これも、ここに書いたような心理の作用による。

 こうした人が本来もつ特性、それが極端になったのが、悪人ということになる。

 こうした悪人は、人をだましたという不快感よりも、それで得た利益のほうを喜ぶ。そしてその
不快感を、記憶の外に追い出すことによって、自分を正当化する。「だまされるヤツが、悪い」
と。

 だから、一度、悪人になると、そういう人を、説教したり、罰しても、意味はない。脳のCPU
(中央演算装置)の問題だから、である。

 大切なことは、そういう悪人をつくらないこと。つまり、そこに教育の意味がある。

 ところでこの善悪の感覚をつかさどるのが、辺縁系の中でも、扁桃体と言われている。よいこ
とをすれば、ここからモルヒネ様の物質が放出され、その人を快感に導くという。そうした積み
重ねが、その人を善人にする。

 が、何かのことで、その部分が変調すると、この善悪の感覚がマヒするようになる。そしてそ
の状態がつづくと、ここでいうような悪人になる? (悪人になるメカニズムは、あまり解明され
ていない。)

 だから、最近、よく道徳が話題になる。知的レベルで、その人を善人にしようとか考えても、あ
まり意味がないということになる。この問題は、もっと「根」が深い。

その人(子ども)を善人にしようと考えたら、日々の生活の中で、その「快感」を味あわせるよう
にする。その実感が、人(子ども)を善人にする。繰りかえすが、もともとこの問題は、頭で考え
て、どうこうなるような問題ではないのである。

 で、かく言う私も、ヘラヘラと笑いながら、悪いことができるようなところがある。そういう部分
がないとは、言わない。もともと私は、邪悪な人間である。つい先日も、アメリカで、列車が襲わ
れ、金塊が盗まれるという事件があった。ああいう事件を見聞きすると、「ほう、なかなか、うま
くやったな」と、思ってしまう。

 しかしかろうじて、そういう悪人と無縁でいられるのは、(本当にかろうじて、だが……)、周辺
にそういう人たちとのつきあいがないこと。生活がそれなりに、安定していること。家族がいるこ
と。それにこうしてものを書きながら、自分自身を、自制していることなどがある。

 もしこれらの要素の一つでも欠けたら、私は、まっしぐらに悪人になるだろうと思う。

 が、悪いばかりではない。そういう邪悪さがあるからこそ、他人の邪悪さを、即座に見抜くこと
ができる。

 よくサブカルチャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊か
な子どもになるといわれている。そういう現象かもしれないが、ともかくも、私は、他人の邪悪さ
を、即座に見抜くことができる。

 だからときどき、私のところにも、あやしげな手紙がきたり、電話がかかってきたりする。しか
しそのつど、即座に、相手の邪悪さを見抜いてしまう。だから冒頭に書いたような督促状がきて
も、私は、まずひかからない。

 そう、以前も、大豆商法、金相場商法、ネズミ講などなど。いろいろな悪徳商法が話題になっ
たが、そういったものでも、私はまだ世間で話題になる前から、それを見抜いていた。そういう
ふうには、役立っている。

 そういう邪悪な私が、ゆいいつ罪滅ぼしができることと言えば、そういう力を利用して、善良な
人たちを、善良な世界で、守ることでしかない。恐らく私がもっている邪悪さは、一生、死ぬまで
消えることはないだろう。だからこそ、そういう形で、利用するしかない。

 ついでに、以前書いた原稿を、ここに再掲載する。 

+++++++++++++++++++++++++++

よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。

たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女
の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がない
ように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面
もある。こんなことがあった。

K君(小五)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出さ
れていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、
私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

で、そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の三人でたまたま話しあうことに
なった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばか
りの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうか
ら、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつも
より三〇分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩を
もんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

要は子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもってい
ればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方に
なってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言
えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないというこ
とになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。

+++++++++++++++++++++

 この原稿の中で、最後のところで、「しばらく考えるのをやめる」と書いた。で、それからほぼ
一年になる。

 で、この原稿を改めて読んでみて、今、こんなふうに考える。

 今朝(一〇月一日)の朝刊を見ると、何でもC県の住宅供給公社が、土地を相場よりも、七〇
億円近い高額で買い取っていたという。読売新聞は、つぎのように伝える。

「70億円も高く購入…千葉県住宅公社用地買収疑惑

 実質的な債務超過状態に陥っている千葉県住宅供給公社が、1995年から98年にかけて
同県市原市の山林を購入した際、複数の不動産鑑定のうち、倍以上も高額の鑑定結果を採
用していたことが30日、判明した」と。

「相場の、二倍」だったという。常識で考えれば、その陰で、何かの裏取り引きがあったとみる
べき。

 これからこの事件は、詳しく調査されるのだろうが、本物の悪人というのは、そういうこをする
悪人をいう。

 日ごろは何食わぬ顔で、それなりの地位と立場にいて、それなりに善人ぶっている。そして一
方で、税金を食いものにして、好き勝手なことをしている。

 ……とまで考えたところで、急速に疲れを感じた。本当のところ、こういう問題を考えるのは、
疲れる。どうにもならないという無力感もある。だから、この話は、ここまで。

 私のようなものが、いくら叫んでも、どうにもならない。どうにか、なる問題でもない。だから、
この話は、ここまで。
(031001)

           ◯   
  へ          /\
    へへ    /\/゛
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜          ありがとうございます。
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      〜〜〜〜〜〜〜    役に立つ情報を、書きとめておこうと思います。
【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●詐欺(さぎ)商法に、ご注意!

 今朝も電話がかかってきた。電話に出ると、いきなりこう言った。

 「N商事のものです。その節は、お世話になり、たいへんありがとうございました」と。

 「N商事」……日本でも有名な、「N銀行」と、同じく有名な、「M商事」の二つの名前を足して
二で割った名前である。

 「はあ……」と迷っていると、「以前、金取り引きでお世話になりました、N商事です。その節は
ありがとうございました」と。

 で、ピンときた。

 「知りません。N商事という名前も知りません。金取り引きなど、したこともありません」
 「はあ、そうでしたか。失礼しました。まちがえました」(ガチャン)と。

 バックに、ガヤガヤという雑音。ひっきりなしにかかる電話の音と、それに応対する人の声。

 こういう効果音(?)は、テープレコーダーによるものとみて、ほぼ、まちがいない。活発な営
業をしていると思わせるためである。以前、そういう電話がかかってきたとき、一瞬、音が途切
れたことがあった。多分、テープが、一度、そこで切れたためではないか。

 で、こうした電話は、最初の段階で、きっぱりと断ること。あいまいなことを言うと、そこにつけ
入れられる。

 彼らの手口は、こうだ。

 あれこれ説明したあと、終わりがけに、本当に終わりがけに、どさくさにまぎれて、こう言う。
(そのタイミングが、うまい!)

 「また詳しい説明でもさせてください。うちのものをよこしますから。では、また」(ガチャン)と。

 こちらの返事など、ロクに聞かないまま、電話を切る。そしてその翌日には、家にやってくる。
そして、こう言う。「電話でご承諾いただきましたので、おうかがいしました」と。

 しかし、この世の中、油断もスキもあったものではない。善良な人たちを食いものにする、悪
徳商法が、あとを断たない。しかし今どき、金取り引きとは……?

 こうした電話は、最初の段階で、はっきりと断ること。説明など、絶対に聞いてはいけない。聞
いたら最後、その言葉尻をつかまえて、あれこれ言ってくる。こんなこともあった。

 ある人が、「結構です」と言って、勧誘を断った。しかし後日、この言葉が問題になった。「結
構です」は、「OK」の意味にもとれる。それで相手が、「ちゃんと承諾したではないか!」と。

 詐欺師と呼ばれる人は、相手のあいまいな返事をたくみに利用して、相手を自分のつごうの
よいように、誘導していく。これが実に、うまい。

 私も、六、七年前に、それにひかかった。

 二〇分ほど、あれこれ世間話をしたあと、最後に別れるとき、ふいに重要な話をする。それで
こちらがとまどっていると、「では、そういうことで」と、背を向けてしまう。あるいは、話をパッと
はぐらかす。「先生は、いい趣味をおもちですね」と。

 で、あとになって、それを問題にすると、「先生、ちゃんと、あのとき、承諾してくださったでは
ないですか?」と。

 こういう詐欺師にかかると、世間がまっ暗になる。何というか、同じ人間として、自分がなさけ
なくなる。だから結局は、つきあわないほうがよい。近寄らないほうがよい。距離をおくほうがよ
い。

 そして信用のおける人だけと、その範囲で交際する。悲しいかな、それにまさる、「自分を守
る方法」は、ない。
(031001)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

永遠の命

 あなたの脳をそっくりそのまま、コピーできたとしたら……。可能とか、可能でないとか、そう
いうレベルの話ではない。もう時間の問題といってもよい。

 しかしやがて、あなたの脳は、小さなマッチ箱の中に、(あるいはもっと小さな箱の中に)、収
納されるようになる。技術的には、それほどむずかしいことではない。脳のメカニズムは、コン
ピュータとそっくり。違いをみつけるほうが、むずかしい。

 が、ここで大きな問題が出てくる。

 そのコピーされた脳は、あなたか、あなたでないかという問題である。

 仮に、その脳をコピーした箱、これを「脳の箱」とすると、その脳の箱に、カメラと、スピーカー
と、マイクを取りつけたとする。すると、その脳の箱は、見て、話して、聞くことができるようにな
る。

 これも、それほど、技術的にむずかしいことではない。

 その脳の箱は、当然のことながら、あなた自身だから、あなたのことをすべて知っている。あ
なたの過去も、今も、すべて、だ。が、脳の箱は、隠しごとができない。ほんの少し電気的な刺
激を与えれば、すべて話してしまう。

 プライバシーも何も、あったものではない。

 ただ人間と、ふつうに会話ができるかというと、そういうことはない。

 脳の箱は、電気的信号で機能する。人間の脳も、基本的には電気的信号で機能するが、そ
のつど、脳間伝達物質の助けを借りなければならない。つまり、その分、信号の伝達速度に違
いが出てくる。

 たとえて言うなら、計算機と、筆算の違いと言ってもよい。計算機は、数ケタ掛ける、数ケタの
計算を瞬時に、やりこなす。しかし人間の脳は、そんなに速くはできない。

 あるいは脳の箱は、新聞全ページを、たとえば数秒で読むことができる。しかし人間には、そ
れができない。そこで人間と対話ができるようにするためには、脳の箱を、実際の能力よりも、
数万倍、あるいはそれ以上、わざと落さなくてはならない。

 こうした技術的な問題はある。

 で、もう一度、先の問題にもどる。

 脳の箱は、あなたか、あなたではないか。その箱は、当然のことながら、あなたとしての命を
もつことになる。不用意に電源を切ろうとすると、その脳の箱は、こう叫ぶ。「お願いだから、切
らないで!」と。

 脳の箱も、死の恐怖を感ずるようになる。学習能力もある。しかもその能力は、とてつもなく
速い。英語の単語など、瞬時に、数万個暗記してしまう。脳細胞にあたる記憶素子(チップ)を
ふやせば、記憶力は、ほぼ無限。それこそ世界中の言語の、あらゆる単語を暗記することも
可能になる。

 さらにこんなこともできる。

 脳の箱どうしを、LANケーブルでつなぐこともできる。こうなると、情報交換も瞬時。わかりや
すく言えば、Aさんの脳の箱と、Bさんの脳の箱をつなぐことによって、AさんとBさんは、思い出
や、思想のすべてを共有することができるようになる。

 ……と考えていくと、脳の箱には、無限の可能性があることになる。
 
 しかし、だ。いくらあなたの脳をコピーしたものであっても、箱は箱。あなたではない。しかしそ
の箱は、まさに「あなた」。

 ……というようなことは、近未来においては、可能になる。そういう世界が望ましいかどうかと
いう議論はさておき、そうなる。

 そうなると、今度は、こういうこともできる。

 あなたが死ぬとき、それは肉体の死を意味するが、そのとき、あなたの脳をそっくりそのまま
コピーする。そうすると、あとに残された遺族たちが、その脳の箱に話しかけることで、いつまで
も、「あなた」と会話をすることができるようになる。

 そして脳の箱という形で、あなたの思想や、そして「命」(?)を、永遠に残すことができるよう
になる。

 楽しいというよりは、どこかソラ恐ろしい空想だが、私は、今、コンピュータを見ながら、そんな
ことを考えた。
(030930)


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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
10・13 ……浜松市上島にて(ママアンドパパス・保育所開園式)
10・11 ……浜北市・内野小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2003年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
2003年度は、「子育て相談、Q&A」で一年間、連載させていただきます。よろしく!
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●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●J−BOOKでの本のお求めは……
     http://sch.jbook.jp/s.asp?category_id=00&key=%82%CD%82%E2%82%B5%8D_%8Ei
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●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
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●BW教室の改装が終わりました。新教室はこうなりました!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page056.html
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★☆★☆★☆★☆読者有志のみなさんへ★☆★☆★☆★☆★☆★☆
●4月、10月期に、「賛助会」へご協力をお願いしています。
詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
賛助会に協力してくださった方に、直筆のイラストをお送りします。詳しくは、賛助会コーナー
を、ご覧ください。

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+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どもの神経づかれ

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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

教育の密度

 子どもを伸ばすコツは、短時間で、集中的に、密度の高い指導をする。とくに幼児はそうで、
ダラダラ指導は、かえって子どもの思考能力を拡散させてしまう。

 これは教える側にとっても、そうである。

 たとえばその教師のもつエネルギーを、100とする。

 そのエネルギーを、一時間で、100、消費したとする。密度の濃い授業ができる。

 そこで今度は、その教師が、二時間、指導したとする。今度は、そのエネルギーは、一時間
あたり、50になる。

 さらに四時間、指導したとすると、一時間あたり、25となる。

 ……と、だれしも考える。しかし実際には、そのエネルギーは、それ以上に低下する。仮に四
時間指導したとすると、20とか、10とかになる。

 こうしてダラダラ授業が生まれる。子どもも、ダラダラするようになる。しかし一度、こうなる
と、時間ばかりがかかるようになる。かかるが、効果がないということになる。

 そこでカナダでは、「教師は教室の中でのことには責任を取るが、一歩、子どもが教室を離
れたら、責任はとらない」という姿勢を、徹底させている(バンクーバー市ほか)。そのため、教
師は、親たちに自分の住所はもちろん、電話番号すら、教えない。

 日本の医療システムに似ている。現場のドクターは、院内、もしくは診察室の中では責任をと
る。しかしそこから離れたところでは、いっさい、責任をとらない。

 一見、冷たい指導に見えるが、それだけに、いいかげんな授業をすると、クビそのものが、飛
んでしまう。

 が、この日本では、生活指導、しつけ、道徳、はては家庭教育の分野まで、学校の「先生」が
することになっている。「なっている」というよりは、親たちが、それを求める。そのため、肝心の
「授業」そのものが、おろそかになる。……ならざるをえない。

 ある教師(小学校)は、こう言った。「授業中だけ、息を抜くことができます」と。

 こういう現状を、親や、文部科学省の役人たちは、どれだけ知っているのだろうか。

 かく言う私も、正直に告白する。

 幼児を相手に、密度の濃い授業をしようと考えたら、一日、二時間が限度。三時間は、無
理。数日くらいなら、何とか、がんばれるが、毎日となると、そうはいかない。実際には、私は、
幼児の指導は、一日一時間と決めている。(若いころは、一日に、二、三時間したことがある
が、今は、とてもできない。)

 で、それで教育的効果があるかということになる。つまり、たった一時間で、効果はあるかと
いうことになる。

 答は、自信をもって、「YES!」。一週間に、たった一時間でよい。それで効果は、確実にあ
る!

 子どもたちは、その時間を「核」にする。そしてそれを核として、伸びる。それだけではない。
「直す」とか、「治す」という言葉は使えないが、簡単な情緒障害なら、数か月でなおってしまう。

 長い時間、子どもを指導してくれると、それだけ「得」と、親たちは考えるが、こと教育的指導
を考えたら、これは誤解。ウソ。幻想。こと幼児に関して言えば、短時間で、かつ集中的に指導
する。もし時間をかけるとしたら、その準備にかける。これは幼児を伸ばすコツ。

濃密な授業では、一時間のレッスンで、じゅうぶん。週一回で、じゅうぶん。
(031002)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもをダシに金儲け

以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからない生き物が死ん
だだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現
れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。中には北海道からやってきて、涙をこぼしな
がら供養している二〇歳代の女性までいた(NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。

そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号
だ」と話しても、彼らには理解できない。

が、たかがゲームと笑ってはいけない。その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とが
んばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、
もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きて
いると思い込むその教団の信者は、方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるい
はどこがどう違うというのか。ゲームには、そういう危険な面も隠されている。

 で、浜松市内の中学一年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、
多かれ少なかれハマっているのがわかった。

一人が平均約一〇〇〇枚のカードを持っている。中には一万枚も持っている子どももいる。マ
ジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバージョ
ン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよく
て、プレミヤのついたカードは、四万円。印刷ミスのも、四万円の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会
で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい二〇歳以上のお
となばかりだよ」とも。

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間一〇〇
億円から二〇〇億円の市場になっているという(経済誌)。しかしこれはあくまでも表の数字。
闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。

たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入
れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。
しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そ
うしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。

(注)この原稿を書いた二〇〇一年はじめには発売中止になっていたが、二〇〇一年の終わ
りには再び発売されているとのこと。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ボンヤリは心の掃除

 日中、ときどきもの思いにふけってぼんやりすることがある。これを英語では「デイ・ドリーム」
という。日本語に訳すと、「白昼夢」となるが、その言葉から受ける印象ほどおおげさに考える
必要はない。

むしろ最近の研究では、このデイ・ドリームは、心のバランスをとるためには必要なものとわか
ってきた。それだけではない。すばらしい創造性や独創的なアイディアは、そのデイ・ドリームを
している間に生まれるとされる。たとえばエジソンやニュートンは、「デイ・ドリーマー(夢見る
人)」というニックネームがつけられていた。

 幼児のばあい、ふとしたきっかけで、このデイ・ドリームの状態になる。時間的には数分程度
から、長くても五分程度だが、ぽかっと魂が抜けてしまったかのようになる。時と場所に関係な
く、運動場で体操をしているようなときにでも、そうなることがある。車の中やソファの上だった
りすると、そのまま眠ってしまうこともある。

そういうとき親は、「気がゆるんでいるからだ」とか、「学習に集中できないからだ」と考えるが、
そのデイ・ドリームを無理に妨げると、子どもの情緒はかえって不安定になる。私の印象では、
子どもは(おとなもそうだが)、デイ・ドリームを見ることにより、心の緊張感をほぐすのではない
かと思う。その証拠に、デイ・ドリームから戻った子どもは、実におだやかな表情を見せる。

 もちろんデイ・ドリームと集中力、あるいはデイ・ドリームと昼寝グセや睡眠不足は区別しなけ
ればならない。同じぼんやりといっても、それが日常的につづくようであれば、今度は別の問題
を疑ってみなければならない。それはともかくも、そういった問題もなく、子どもがふとしたきっ
かけで、どこかぼんやりとするような様子を見せたら、できるだけそっとしておくのがよい。

(付記)私もときどき仕事の合間にぼんやりとすることがある。半覚半眠の状態になるのだが、
そういうとき電話がかかってきたりすると、それだけで心臓の鼓動が変化するのがわかる。あ
るいは授業と授業の間の休み時間に、別の仕事が入ったりすると、そのあとの授業で強い疲
れを感ずることがある。私のばあいも、ぼんやりとすることで、心を調整しているのだと思う。
 
  ‖                 
 :−−           ‖   
  ‖            :−− 
        ‖      ‖    テーマがあれば、どうかお寄せください。
       :−−           具体的に、相談内容を書いてくだされば
        ‖              うれしく思います。
【2】心に触れて(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●学生新聞の記事より

 金沢学生新聞に、連載を載せてもらうようになって、もう25回目になる。その最新号が、昨
日、送られてきた。それをそのまま、まず転載する。

+++++++++++++++++

豊かな生活、そして帰国

●モーニングコール

「ヒロ〜シ、ヒロ〜シ」と、朝になると、隣の別荘(ビーチハウス)のジュリーがやってきて、私を
呼んだ。すると横にいたデニスが、私をからかって、「ヒロシ、モーニングコールだ」と。

 道路の向こうからは、一日中、潮騒の音が聞こえる。目を開けると、まばゆいばかりの光線。
さわやかなそよ風。描きかけた油絵が、部屋のすみに立っている。

日本がここまで豊かになるとは、当時、だれが予想しただろうか。私は「日本がオーストラリア
の生活水準に達するには、五〇年はかかる。あるいは永遠に不可能」とさえ思っていた。前の
晩も、デニスの父親が、自宅でピーター・オトゥール主演の『アラビヤのロレンス』を見せてくれ
た。まだビデオなどない時代で、フィルムは、仲間の映写技師から借りたものだという。自宅に
大型の映写機があること自体、私には信じられなかった。

寝室を出ると、食卓には、盛りつけられたパンや果物。戸棚には、何種類ものドイツ製のビー
ル。それにワインと酒。壁を飾る、アボリジニーの壁画。デニスの姉が、何日もかけて描きあげ
たものだという。そして週末は、こうして海のそばの別荘で過ごす……。そのどのひとつをとっ
ても、当時の日本にはないものばかりだった。

「デニス、ぼくは、やはり日本へ帰るよ」
「こちらで就職しないのか?」
「週給五五ドル※だという。高卒の給料だ」
「しかし君は、学位をもっている」
「日本の学位は、オーストラリアでは認められない」
「認められない?」
「話してみたけど、ダメだった……」

 私はその数日前に受けた面接試験の話を、デニスに話した。日本にも支社があるという会社
だったが、あとで担当者が、「その給料なら雇う」と電話で知らせてきた。

●日本へ帰る
 私は日本にいる親や、別れたN子のことを考えていた。いや、それ以上に、日本のことを考
えていた。オーストラリアから見ると、どうしようもないほど小さな島国だが、しかし私の国だ。こ
のところメルボルンの町の中を歩いていても、どこかフワフワと足が浮いたような状態になる。
みなは親切だが、しかしその親切は、ある一定の限度まで。私はアジア人だ。背が低く、肌の
黄色いアジア人だ。それから生まれる違和感は、どうしようもなかった。

 しばらくすると、またジュリーが呼んだ。「ヒロ〜シ」と。するとデニスがこう言った。「ヒロシ、気
をつけろ。彼女はまだ中学生だ」と。「わかっている」と私。週末になるとジュリーの一家もこうし
て別荘にやってくる。いつしか私とも知りあいになり、何度か夕食もごちそうになった。

が、もし、その私が、仮にいつか、たとえばオーストラリアの女性と恋仲になり、結婚……という
ことになったら、多分、その女性の両親の態度は、急変するに違いない。ジュリーにかぎらず、
オーストラリア人の家族とつきあうときは、どんなことでも、私はその一歩手前で止めなければ
ならない。客人の立場で、その立場を守っている間は、歓迎される。それを超えたら、排斥され
る。

 デニスとビーチに出ると、ジュリーがそこに立っていた。私は何枚か、ジュリーの写真をとっ
た。その一枚が、これである。その後、デニスの別荘は山火事(ブッシュファイア)で燃えた。ジ
ュリーの別荘も燃えて、その後、音信はない。本名は、ジュリー・ピーターズ。今、彼女は、四五
歳前後になっているはずである。きっとすばらしい人生を送っていることと思う。オーストラリア
の青い空のように、抜けるほど明るく、陽気な女の子だった。
(※当時のレートは、一ドルが四〇〇円。日本の大卒の初任給は、五〜六万円だった。) 

++++++++++++++++++

 自分で書いた原稿である。自分の経験を書いた原稿である。すべて事実である。しかしこの
原稿を読んでいると、まるで映画か何かを見ているような気分になった。不思議な気分であ
る。

 写真は、ジュリーが、マリリン・モンローのようなポーズをとって、ふざけているところである。
記事の中では、「中学生」と書いたが、向こうの「セカンダリースクール」、つまり中高校生であ
る。日本でいえば、高校生だったかもしれない。白人の女性は、この年齢でも、かなりませた体
つきをしている。

 遠い昔というよりは、「本当にこんなことがあったのか?」という昔である。自分のことでありな
がら、自分のことでなかったような気もする。

 その理由の一つが、その写真のジュリーが、今では、四七、八歳になっているということ。写
真のジュリーは、セパレートの水着を着ている。細く長く伸びた体。それに不釣合いなほど大き
な胸。薄い水着(トップ)のせいか、乳首が、外に飛び出ている。

 私以上に、ジュリーも、そのときのジュリーでは、もうないだろう。そういう思いが、私にそう思
わせるのかもしれない。本当に、時の流れは、過酷なものだ。美しい思い出も残すが、それ以
上に、その美しいものを、容赦なく、かき消していく。その切なさ。そのやるせなさ……。

 だから今のジュリーに会いたいとは思わない。しかしもし、あのときの私に戻ることができたら
……ということは、考える。が、それも一時(とき)の、ほんの瞬間に過ぎない。そのはかなさ
も、よくわかる。

 今でも海の近くを歩くとき。そして潮騒の音を耳にするとき。あのジュリーの独特の呼び声が
聞こえるような気がする。

 「ヒロウ〜シ!」と。
(031004)

         ,ミヽ  ミヽ
         へ ミ ヽ へ ミヽ
        ∂  ミミ∂ へミミ
        ζ  っノι ∂ ミミ8彡
        ヒ___ノ 人v "丿彡'
    |)─○  / ヽ  `>−<
     // \\_/_∧ \_/_/ ヽ ≡=   賛助会にどうか、ご入会ください。
   ___//  \_/_ξ ̄ ̄ノ_ __)      現在、お礼に、イラスト(額つき)を
  / _ \  / ____ ̄フ _____ノ  ≡=−   送っています。
  // \ \ / /   ̄/ /   ̄)
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●子どもの神経疲れ

 マガジンで少し前、子どもの神経疲れについて書いた。それについて、ある読者の方より、質
問をもらった。

 つぎは、その内容を、要約したもの。

++++++++++++++
 
'神経疲れ,のところが気になったのですが、我が家の中一の長男も時々'疲れた,を口にしま
す。

彼は、自分が気に入っていること以外やる気が薄く、勉強もできないわけではないのに嫌いが
先にたち、どの教科もつまらないと言います。

また、子どもには楽しいはずの運動会や、クラスで力を合わせて取り組むようなものなどもつま
らない、面倒くさいなどと言います。

そして、学校から帰ると'疲れた,と言うのです。

小さい頃から喘息があり、精神的な事やいやな事が発作を引き起こすことも多々あり、小二の
とき、二週間だけですが身体的には症状はないのに、本人がどうしてもぜいぜいして苦しいと
言うので環境を変えるために、病院から学校に通ったこともありました。

その後はだんだんよくなり、薬も飲まなくても良いほどになったのですが、中学に入学しまして'
疲れたを言うようになった最近、発作が出始めています。

これは注意すべきレベルでしょうか? またそうであればどんなふうに対処したらよろしいので
しょうか? (北海道・UKより)

+++++++++++++++

●神経疲れ

 神経疲れも、肉体疲労と同じように、前向きに行動しているときは、それなりに処理できる。
自ら進んで、やる気を出して行動すれば、疲れるということが、むしろここちよい快感となる。脳
の辺縁系の中でも、帯状回が、それをつかさどっているとされる。

 しかし服従を強いられ、無理、強制が加わると、そこで自己意識との葛藤(かっとう)が始ま
る。(したくない)という本来の意思と、(しなければならない)という自己意識が、衝突する。

 これが心理的ストレストなり、神経疲れを、加速させる。

 症状としては、

 不安症状(理由もなく、不安に思ったり、ささいなことを気にして、不安になる)や、抑うつ感
(ふさんぎこんで、ため息をはく。元気がなく、同じことをクヨクヨと悩む)、ぐずる(理由を聞いて
もはっきりしない。行動が緩慢になる)、突発的な興奮性(ささになことで、カッとなって、キレ
る)、恐怖症(何でもないことにビクビクする。特定のことに、恐怖感をもつ)、強迫症状(周囲の
ものには、理解できないことで、おののいたり、こわがったいるする)などがある。

 この神経疲れがこわいのは、多くのばあい、神経症を併発し、それがこじれると、情緒不安、
情緒障害、精神不安、精神障害へと、進行していくことである。学校恐怖症(不登校)の、第一
期の症状(前兆症状)として現れることもある。

 ほとんどの親は、神経症による症状が現れてから、子どもの神経疲れに気づくことが多い。

 神経症による症状としては、つぎのようなものがある。

子どもの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 相談のケースの、「ぜん息」も、神経症の症状のひとつに考えられている。(ただし、ぜん息
が、すべて神経症によるものではない。)

+++++++++++++++++

●UKさんのケースより……

 UKさんのケースでは、いくつか気になる点がある。

「勉強もできないわけではないのに嫌いが先にたち、どの教科もつまらないと言います」「また、
子どもには楽しいはずの運動会や、クラスで力を合わせて取り組むようなものなどもつまらな
い、面倒くさいなどと言います」と。

 どこか親のほうで、子どもの心を決めてかかっているような点が見られる。とくに「楽しいはず
の運動会」というところ。

 集団行動が苦手な子どもは、約三〇%(推定)はいる。このタイプの子どもには、運動会や遠
足は、苦痛以外の、何ものでもない。「楽しいはずの……」と決めてかかることは、たいへん危
険なことである。

 世間が狭い親ほど(失礼!)、自分の考え方や、価値観を、子どもに押しつけようとする。そ
の無理が、子どもの心を閉ざす。そのため、親のほうが、子どもの心を見失う。

 さらにこういうケースで心配なのは、親は、その状態を、「最悪」と思い、そこを原点として、
「なおそう」と考える。しかし対処のし方をまちがえると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落
ちていく。UKさんのケースでは、このまま不登校児になることも、じゅうぶん考えられる。

●対処のし方 

 以前書いた原稿(リヨン社、「子育てストレスが、子どもをつぶす」)から、記事を抜粋する。

……子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけ
ればならない。

アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、カボチャの
頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。

わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲
れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わった
の」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は
休まらない。

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける……。

++++++++++++++++++

●UKさんへ

 メール、ありがとうございました。

 「嫌い」「めんどくさい」「疲れた」という言葉をよく口にするようであれば、気うつ症を疑ってみ
ます。(ふつうは、気うつ症を疑います。症状がこじれれば、うつ病へと進行します。引きこも
り、家庭内暴力へと進行することも、あります。)

 慢性的な抑うつ感が、子どもの心を、むずばみ始めているとみます。(ただし、口ぐせで、そう
言いながら、ストレスを発散させるケースもあるので、必ずしも、子どもの口グセを、真に受け
る必要はありません。)

 それにあわせて、身体的な症状、たとえば、吐く息が臭い、腹痛、頭痛を訴える。動作が緩
慢に(のろく)なるなどが、あれば、かなり警戒したほうがよいかもしれません。

 方法としては、(1)暖かい無視、(2)ほどよい親をこころがけることです。(先に書いた、対処
法を参考にしてください。)

 いただいた文面だけでそう判断するのは、危険なことですが、やや過干渉的な子育てになっ
ていないかも、反省してみてください。「〜〜のハズ」とういう、「ハズ論」で、子どもの心を決め
てかかってはいけません。

 ぜん息がすべて、神経症によるものとは言えませんが、神経症によるぜん息は、決して珍しく
ありません。(熱を出したから肺炎ということにはなりません。しかし肺炎になると熱が出ます。
それと同じように考えてください。)

 ご質問の「これは注意すべきレベルでしょうか?」ということについては、私は「YES!」だと
考えます。じゅうぶん警戒して、思い切って、手綱(たづな)を緩めることを考えてみてください。
学習面、進学面で、子どもの過負担になっているようなら、まず親のほうが、思い切って、「あ
きらめ」ます。

 そしてつぎに、「あなたは、よくがんばっている」「よくがんばったね」と、ねぎらいの言葉をかけ
てみてあげてください。先に書いたように、励まし、脅しは、タブーです。

 当然のことながら、ぜん息という症状そのものについては、ドクターの指示に従ってください。

 以上です。また何かほかに症状があれば、ご連絡ください。
(031003)

           ◯   
  へ          /\
    へへ    /\/゛
         /゛/゛         いつもこのマガジンをご購読くださり、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜          ありがとうございます。
    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       今のうちに、できるだけたくさん
      〜〜〜〜〜〜〜    役に立つ情報を、書きとめておこうと思います。
【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

孫に会う

 昨日、一〇月三日。成田空港で、孫の誠司(Sage)に会う。

 不思議な感覚だ。大きな瞳(ひとみ)でじっと見つめられたとき、「孫」というより、「自分が、ジ
イ様なった」という実感を、思い知らされた。

 それはカガミで、自分の過去を見るような思いだった。

 子どものころから、当然だが、私は、「上」ばかりを見てきた。私にも、私の「上」に、父や母が
いて、祖父もいて、祖母もいた。その私が、今度は、「下」を見ている? 息子夫婦を見て、孫
を見る? それがちょうど、カガミで、自分の過去を見るような思いになるのだと思う。

 ちょうど顔見知り(マザー・アタッチメント)する年齢。私がやさしく頬をなでると、けげんそうな
顔をして、嫁さんの胸に顔をうずめた。

 誠司は、少し早産で生まれている。確か予定より一、二週間、早かったのではないか。その
せいか、夜泣きがひどかった。

 毎晩のように息子や嫁さんが、メールで、そのことを訴えてきた。しかし私が感心したのは、
その夜泣きに、二人とも、耐えに耐えたということ。息子も、嫁さんも、一度も声を荒げることも
なく、また叱ることもなかったという。

 それで今、誠司は、実におだやかな表情をしている。「飛行機の中で泣かなかったか?」と聞
くと、「最後の二〇分くらいは、ぐずったけど……」とのこと。

 この時期の幼児は、決して、怒鳴ったり、叱ったりしてはいけない。不要な恐怖心を与えては
いけない。無理をしてはいけない。いろいろな鉄則があるが、息子夫婦は、それを守った。よ
かった!

 そう、その夜泣きがひどかったときのこと。アメリカのアングロサクソン方式では、生後まもな
くから、子どもは、夫婦のベッドからは、離して育てることになっている。で、ワイフが、こうアド
バイスした。

 「川の字になって、寝なさい」と。

 まさに日本方式というか、私たちの方式である。とたん、夜泣きが、極端に少なくなったとい
う。

 発達心理学的な言い方をすると、人間の新生児は、本来ならもっと母親の胎内にいるべき時
期に、誕生してしまうということらしい。馬は、生まれると同時に、自分で立ち、エサを食べ始め
る。が、人間は、そうはいかない。

 人間と馬は、ちがうが、人間の子どもは、そういう意味では、本当にひ弱。そのひ弱な分だ
け、生まれるのがはやすぎる、と。それで、つまりこの時期は、胎内にいるのと同じほど、濃厚
なスキンシップを必要とする?

 これは私の勝手な解釈だが、しかしそれほど、まちがってはいないと思う。

 で、その第一印象。

 やはり孫は、エイリアンだった。

 目が大きいだけ、まぶたを開けたり、閉じたりするとき、そのまぶたが、日本人のまぶたよ
り、数倍時間がかかる。

 それはちょうど、あの「未知との遭遇」という映画の中で、最後に出てくる、あのエイリアンの
まばたき、そっくり! 映画の尾の中で、手で、音階を伝えたとき、そのエイリアンのまぶたが、
ゆっくりと、上下した。あれである。

 それに何というか、ひらべったい顔を見慣れている私には、あの凹凸のはげしい顔は、どう
も、なじめない……というか、自分の顔とは違うなあと思ってしまった。

 ただだれにも抱かれない誠司が、ワイフには、すんなりと抱かれたのには、驚いた。息子も、
嫁さんも驚いた。それでワイフは、すっかり気をよくして、電車の中では、ずっと抱いていた。
(ただし私には抱かれなかった!)

 「かわいい」という実感はまだないが、しかしこんなふうには、思う。

 孫の誠司なら、障子を破っても、床にガリガリキズをつけても、まったく気にしないだろうな、と
いうこと。パソコンをこわしても、まあ、許せるだろうなと思ったこと。そういう気持にはなってい
る。

 あとは、息子夫婦に任せればよい。めんどうなことは、息子夫婦に任せて、私は、子育ての
中でも、楽しめる部分だけを、楽しめばよい。ははは。気楽なもの。そういう実感は、少しずつ
起きてきた。
(031004)

【追記】

日本人の、BAD・マナー

 浜松へくるとき、新幹線の中で、誠司がぐずった。それで嫁さんが、おっぱいをあげようとした
ときのこと。うしろに立っていた男(四〇歳くらい)が、わざわざうしろからのぞきこんで、嫁さん
のおっぱいを見ようとしていた。

 何ともあさましい光景だった。怒鳴りつけてやろうかと思ったが、ワイフがそれを止めた。

 あのね、男たちよ!

 若い母親が授乳をしようとしたら、目をそらすか、体を反対に向けてあげるのが、国際的なマ
ナーなの。

 見てはいけないもは見ないようにする。それが最低限なマナーなの。

 ごくふつうの、スーツを着た、紳士的風の男が、そうしていたので、驚いた!

 私も、教室などで、向こうを向いて、小さい子どもにおっぱいをあげようとする母親を見かけ
たら、体を、わざと反対側に向ける。相手が気にしなくてもよいようにしてあげる。それは、男と
して、当たり前のことではないのか。


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■■■■■■■■■| |■■■   お知り合いの方で、このマガジンが
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ● | ̄ ̄ ̄    役立ちそうな方がいらっしゃれば、
                 このマガジンのことを、話していただけませんか。
                      よろしく、お願いします。  
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
10・13 ……浜松市上島にて(ママアンドパパス・保育所開園式)
10・11 ……浜北市・内野小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2003年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
2003年度は、「子育て相談、Q&A」で一年間、連載させていただきます。よろしく!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●J−BOOKでの本のお求めは……
     http://sch.jbook.jp/s.asp?category_id=00&key=%82%CD%82%E2%82%B5%8D_%8Ei
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
++++++++++++++++++++++++++++
●BW教室の改装が終わりました。新教室はこうなりました!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page056.html
☆===================☆==================

★☆★☆★☆★☆読者有志のみなさんへ★☆★☆★☆★☆★☆★☆
●4月、10月期に、「賛助会」へご協力をお願いしています。
詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
賛助会に協力してくださった方に、直筆のイラストをお送りします。詳しくは、賛助会コーナー
を、ご覧ください。

   / ̄\ ⊂⌒⌒⊃ 
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 __    ◯◯  (∂∂)
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 (θθ)┏━━━┓ (   σ
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+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■孫論

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

頭をよくする方法

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリ
ッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、
その実験をしているのだ」と。

ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にかけるなどのい
たずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをす
る。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、
ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを
年長児のときから、数年間続けた。

で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。この方法は、どこかぼんや
りしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ち
ゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣
味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボー
ルの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかった。

で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだっ
たため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な
子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

読書のしつけ

 子どもの読書のしつけについて、いくつかのコツがある。

(1)まず方向性を知る……子どもには子どもの方向性がある。その方向性をうまく利用する。
たとえばサッカーが好きな子どもには、サッカーの本を与える。ゲームが好きな子どもなら、ゲ
ームの攻略本でもよい。児童文学書などを無理に与えても、たいてい失敗する。私もあの文学
者の書いた本が、どうも性に合わない。最近はほとんど読んだことがない。(これはたまたま私
が出会った文学者というのが、どの人もまともでないという印象を受けたためだと思う。)

(2)レベルをさげる……つぎに子どもに与える本は、思い切って一、二年、レベルをさげる。親
は書店へ行くと、どうしても一、二年レベルの高い本に手を子どもに買い与えようとする。しかし
ちょっとしたこの無理が、子どもを本から遠ざける。しかし子どもを本好きにさせようと考えるな
ら、レベルをさげる。(もともとレベルというのは、いいかげんなものだということもあるが、いわ
ゆる児童文学者というのは、本当に子どものレベルを知っていて本を書いているのではない。
せいぜい漢字の使い方で、年齢別にしているに過ぎない。)

(3)教科書がよい……本を買うなら、少し大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売
っている。どうせ買い与えるなら、教科書がよい。内容も吟味されているが、値段も安い。何も
国語の教科書に限らない。算数でも社会でもよい。理科でもよい。最近の教科書は子どもが楽
しみやすいように工夫してあるので、読み物としてもそれなりにおもしろい。

(4)まず親が読んでみせる……子どもに本を与えるときは、まず親がおもしろそうに読んでみ
せる。これを動機づけという。動機づけがうまくいくと、あとは子どもが自らの力で本を読むよう
になる。こうなればしめたもので、あとは子ども自身に任せればよい。

 なおちなみに経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇
年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)の
うち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また
同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題
について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二
九%! 文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれ
る」(毎日新聞)とコメントを寄せている。

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【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

アメリカ人の嫁さん

 息子夫婦のために、二階の部屋をあけた。そこにフトンを敷いた。しかし二日目の昼、息子
が、こう言った。「D(妻)が、日本の階段は、こわいというから、下の部屋にしていいか?」と。

 私の家の階段は、一階から二階まで、二間幅(ふつうの住宅は、一・五間幅)。ふつうの家の
階段よりは、ゆるやか。それでも「こわい」と。

 「アメリカにも、二階建ての家があるだろ」と言うと、「日本の階段のように、急ではない」と。

 そう言えば、先日、江戸時代の旅籠(はたご)を見にいったことがある。そのとき、その旅籠
の階段が急だったので、私は、こわかった。それを思い出しながら、「そうかもしれないなア…
…」と。

するとワイフが、横から、「アメリカの家にも階段があるけど、日本のように、狭くないし、それ
に、ずっとゆるやかよ」と。私は、映画『嵐が丘』に出てくるような階段を想像した。ため息をつ
いた。

 こうしたカルチャの違いというのは、よく感ずる。

 もうよく知られた話だが、「マンション」というのは、アメリカ(英語)では、「大邸宅」を意味す
る。だから「ぼくはマンションに住んでいる」と言うと、向こうの人は、目を白黒させて驚く。それ
に自分で自分の家を、「マンション」と呼ぶ人は、まずいない。いくら大邸宅でも、だ。

 ほかにも、いろいろある。

 「ガーデン(庭)に、花を植えた」と言うと、やはり向こうの人は、驚く。アメリカ(英語)で、ガー
デンというと、「噴水のあるような庭園」を意味する。日本のふつうの家にあるような庭は、ヤー
ドというが、それでも、かなりの広さのある庭をいう。我が家の庭のような庭は、そのヤードにも
入らない。空き地(スペース)というべきか?

 最近でも、アメリカ人の友人が、こう言った。「ヒロシ、東京へ行ったら、『ターミナル・ホテル』
というのがあったよ。驚いたよ」と。

 「ターミナル」というのは、「末期」「最期」という意味。だから「ターミナル・ホテル」というのは、
いわゆる死んだ人、あるいは末期の人が入るようなホテルをいう。日本語になおせば、「末期
ホテル」か?

 私も失敗したことがある。

 以前、東京に住んでいたオーストラリア人に、「今度、浜名湖で、ヨットに乗らないか?」とメー
ルを書いたことがある。するとそのオーストラリア人は、ものすごいかっこうで、浜松へやってき
た。

 オーストラリア(英語)で、「ヨット」というときは、キャビンつきのクルーザーをいう。しかし私が
考えていたのは、ただの「セールボート」。がっかりさせたことを、私は謝った。

 で、今日、嫁さんに、「日本の着物を着てみたいか?」と聞くと、嫁さんは、「着たことがあるか
らいい」と。驚いて、「着たことがあるの?」と言うと、「ある」と。

 そこで息子に聞くと、「ゆかたを着たことがある」と。いつかワイフが送ってあげたゆかたであ
る。で、私が「ゆかたは、着物ではない」と教えてやると、今度は、反対に驚いていた。

 今、我が家は、カルチャショックが、ウズを巻いている。頭の中が、五分おきに、バチバチと
ショートしている感じ。

 で、毎日、和食を食べさせているが、どれも「おいしい」と。しかしそんなはずはない。前回も
アメリカへ行ったとき、私は毎日、マクドナルドか、ワッフルとか、そんなものばかりを食べさせ
られた。あとはピッザに、ときどき、「何とかおばさんの料理」という料理。二日目には、もううん
ざり……。

 だから嫁さんもそうだろうと思って、つまり反対の立場でそうだろうと思って、恐る恐る聞くの
だが、やはり「おいしい」と。

 しかし、そんなはずはない?

 文化というのは、相対的なもの。私たちがアメリカへ行って驚くようなことは、反対に向こうの
人が日本へ来て、驚くはず。食文化は、とくにそうではないか?

 ……と考えてはいるが、今日で、三日目。少し疲れてきたので、これからはあまり気を使わな
いようにしよう。そのほうが、嫁さんにもよい。隠れてこっそりと、マクドナルドを食べてくれるほ
うが、私にとっては、気が楽なのだが……。ホント!
(031005)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

孫論(3)

 「かわいい」という意識は、どこから生まれるのか。その前に、「かわいい」というのは、どうい
う意味なのか。

 一般世間では、「孫はかわいい」と言う。私も、一般世間の常識に従って、その孫を、「かわい
い」と思わなければならない。しかし、どうにもこうにも、「かわいい」という意識が、わいてこな
い。

 むしろ、息子夫婦をながめていると、「たいへんだな」と思う。そういう同情心ばかりが、先に
立つ。息子夫婦は、夜も、満足に眠られないばかりか、一日中、子どもの世話ばかりしてい
る。そんな感じ。もし私が、もう一度、子育てを一からしろと言われたら、まちがいなく、私は断
る。

 前提として、つまりすべての前提として、愛する女性との間に生まれた子どもでなければなら
ない。そういう大前提があれば、子育ての苦労を、クリアできる。しかし嫁といっても、息子の
妻。愛しあうという関係ではない。だからその間に生まれた孫に、全幅の愛情を感じろと言わ
れても、私には、できない。

 では、愛すべき息子の子という視点ではどうか? しかしもう息子は、親離れしている。私も
子離れしている。そうなって、長い。今さら、ベタベタの親子関係を復活させろと言われても、そ
れは無理。できない。子育てからやっと解放されたとたん、また別の子(孫)育てとは!

 となると、最初の問題。「かわいい」というのは、どういう意味なのか。

 これは私の職業が関係しているのかもしれない。

 私は現在、多くの幼児と接している。そういう立場では、「かわいい」と言えば、そういう子ども
たちのほうが、かわいい。接していて、楽しい。おもしろい。「孫」というレッテルをはずせば、こ
うした子どもたちと、孫を区別するほうが、無理。……できない。

 ただこういうことは言える。

 孫については、損得の計算は、まったくしない。何をしても、許せる。許すとか、許さないと
か、そういうことを考えることもなく、許せる。それこそ床の間で、ウンチをしても、笑って拭くこと
ができる。(実際に、ウンチをしたわけではないが……。)

 それに愛情というのは、平和で何もないときには、姿を現さない。それは子どもに対する意識
と似ている。

 子どもが、大きな病気とか、事故にでもあったとき、親は、その愛情を意識する。息子夫婦
も、今のところ円満だし、孫も問題なく成長している。だから、そういう愛情を感ずることもない。
息子夫婦にも、また孫にも、だ。

 で、夢中になって子育てをしている息子夫婦を見ていると、「私たちもそうだったなあ」と思う。
思うと同時に、「ごくろうさま」と、つい言いたくなる。と、同時に、「人間って、同じことを繰りかえ
すのだなあ」と考える。

 私が今、せいぜいできることと言えば、そういう苦労の渦中にある息子夫婦が、できるだけ楽
しく、その時期を通りぬけられるように助けること。そのために、一人の祖父として、息子夫婦
には、いらぬ心配をかけないようにすること。あるいはその知恵や経験、知識を伝えること。

 何とも消極的な祖父だが、今は、そう考える。

 今日の午後、息子夫婦を山荘に置いてきた。家族で水いらずのほうがよいだろうと考えて、
そうした。

 で、その帰り道、ワイフとこんな会話をした。

私「おまえ、孫をかわいいと思うか?」
ワ「まだ、ピンとこないわ」
私「そうだろ……」
ワ「私の友だちも、みんなそう言っているわ」
私「なるほどね」
ワ「孫は、うるさいって……」
私「ホント。うるさいね」
ワ「でもね、言葉を話すようになって、『おばあちゃん』と言われると、みんな、メロメロになるみ
たい」
私「……へえ、そんなものかねえ」
ワ「そんなものらしいわよ」と。

 孫といえども、そこは人間関係。最初から本能的な愛情を感ずるものではないらしい。いろい
ろな思い出を積み重ねていくうちに、そこから自然に生まれてくるものらしい。たとえば今は、
(何をしても許す)という思いだが、そういう(無条件の思い)の中から、つぎの新しい感情がうま
れてくるのでは……?

この先どうなるかわからないが、今は、そう考える。また何か、心の変化が起きたら、報告す
る。
(031004)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

「許す(FOR・GIVE)」

 どこまで相手を許すことができるか? その度量の深さで、愛情の深さが決まる。つまり人を
愛するということは、その人を、とことん許すこと。

 私はこのことを、孫をもって、改めて、思い知らされた。

「愛する」という言葉がある。しかしこの言葉ほどよく使われる一方で、意味のあいまいな言葉
はない。ほとんどの人は、その意味もわからないまま、使っている? かく言う私だって、本当
のところ、わかっていなかったかもしれない。

何か問題があれば、その反射的効果として、「愛」が浮かびあがることがある。たとえば自分の
子どもが、重病になったときなど。ある母親は、二歳の息子が、病気で生死の間をさまよったと
き、「私の命はどうなってもいいから、息子の命を救って」と願ったという。

 まさにその母親は、「自分の命すら惜しくない」という、人間が感ずることができる、至上の愛
を経験したわけである。しかしこんなことは、日常生活の中では、あってほしくない。

 平凡は美徳であり、日々が平凡に流れる間は、そうした愛を実感することはない。

 しかしふつうの生活の中で、愛を追求することがあるとすれば、それは、ここでいう「許す」と
いうことになる。

 英語では、「許す」を、「FOR・GIVE」という。実に、意味深い単語である。そのまま読めば、
「与える・ため」とも訳せる。つまり「許す」というのは、「愛を与えるために、許す」という意味に
もとれる。

 そこで孫の話。

 ワイフと風呂の中で、こんな会話をした。

私「誠司(孫)なら、床の間でウンチをしても許せる」
ワ「そんな、当たり前でしょ」
私「じゃあ、風呂の中だったら、どうだ?」
ワ「何ともないわね。ウンチくらいなら……」
私「つまりね、それが愛するということさ」
ワ「なるほど。どこまで相手を許せるかということなのね」

 そこで私は、切り出した。

私「お前なら、ぼくのどこまで許してくれる?」
ワ「どこまでって?」
私「この風呂の中で、ウンチをしたら?」
ワ「バカ!」
私「許してくれるか?」
ワ「わけのわからないこと、言わないでよ!」と。

 そこでもう少し深く考えてみる。

 「許す」ということは、「受け入れる」ということ。そして最終的には、相手を、自分と同じよう
に、どこまで受け入れるかということ。その度合いによって、今度は、どこまで許すかが決ま
る。

 相手を、自分と同じように、受け入れることができるか? 何をしても、まったく自分のこととし
て、だ。それができれば、その人を、全面的に、受け入れていることになる。そしてその人を、
全面的に許していることになる。

 ……というのは、私の勝手な解釈だが、しかしそれほど、まちがってはいないのでは……? 
しばらくここを原点に、人を愛するということはどういうことなのか、考えてみたい。

 が、こんな問題もある。

 世の中には、自分を愛せない人もいる。そういう人は、どうやって相手を受け入れるのかとい
うことになる。つまり人を愛するためには、その前提として、その人が、自分を愛せる人でなけ
ればならない。

 となると、またまた大問題。自分を愛するということは、どういうことなのか……? また自分
を愛するためには、どうすればいいのか……? 自分を愛するということと、ナルシズム(自己
愛)は、どう違うのか……?

 考えていくと、どんどんと、ワクが広がっていってしまう。つまり話は、ここまで。そしてここまで
でわかったことは、「許す」ことの大切さ。それについては、これからもよく考えてみたい。
(031004)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●アメリカの子育て

 アメリカでは、母親たちは、毎週のように、子育て教室に通っている。そういうしくみが、できて
いる。そして情報を交換したり、子どもを、たがいに預かったりしている。

 若い母親たちが、たがいに子育てから解放されるように、たがいに子どもを預かりあうわけ
だが、満一歳前後で、四時間程度ということらしい。

 月数によって、つまり成長ぶりにあわせて、それを五時間とか、六時間とかいうふうに、時間
をのばしていくらしい。「今は、四時間」と、嫁さんが、話していた。

●マザーアタッチメント(人見知り)

 たまたま昨日、ある子ども(年齢は、満一歳五か月、男児)と、孫(満一歳二か月)が、遊ぶこ
とになった。遊んだといっても、わずか半時間程度だったが、私は、二人の違いを、つぶさに観
察した。

 その子どもを、A君とする。

 A君は、最初、祖母に抱かれてやってきた。祖母は、ベタベタとA君を抱いていた。ごくふつう
に見られる、日本の光景である。

 そのとき、A君の母親が、横からやってきた。私の孫を見たあと、A君の前に立った。しかしそ
のときのこと。A君は、まったく無反応だった。無表情というか、母親のほうを見ようともしなかっ
た。

 私には、異様に見えた。

 この時期の子どもは、母親を中心とした行動を繰りかえす。安心感を覚えたときだけ、母親
から離れる。しかしある一定の時間を過ぎると、母親の存在を確かめるため、母親のところに
もどってくる。

 常に子どもの側からの働きかけがある。が、A君には、それがなかった。むしろその無表情
な様子から、威圧的、強圧的な育児姿勢が、疑われた。家の中で、母親は、ガミガミと子ども
を叱りつづけているのかもしれない。そんな雰囲気さえ感じた。

 アタッチメントは、決して、(親から子どもへの)一方的なものではない。(子どもから親への)
双方向性がある。

 子どもは、常に、親に向かって愛情表現をする。そのとき大切なことは、親側は、そうしたアタ
ッチメントに、ていねいに答えてあげねばならないということ。無視、冷淡、拒否は、この時期の
子どもには、タブー。

 こういう暖かい育児姿勢があってはじめて、子どもは、自らの中に「主体性」を育てる。その
主体性が、人格の「核」になり、やる気もそこから生まれる。

 が、この段階で、親(とくに母親)が、強圧的であったり、威圧的であったり、暴力的であったり
すると、子どもの側からのアタッチメントができなくなる。そのために、主体性が、じゅうぶんに
育たなくなる。

 この時期の子どもは、決して、叱ってはいけない。叱っても、大声を出して、おどしたり、恐怖
心を与えてはいけない。「しつけ」を意識するなら、それは子どもにさせるのではなく、環境で包
む。親がその手本を示し、その手本の中に、子どもを巻きこむようにする。

 おとなの優位性をことさら見せつけて、子どもを威圧するなどという育児姿勢は、まさに邪
道。……A君を見ていて、そんなことを感じた。

●子どもへの依存性

 子どもが巣立っていくのを見るのは、父親にとっては、もの悲しくも、さみしい瞬間である。

 私はもともと、ベタベタの依存心をつけさせられながら、育てられた。私が生まれ育った家庭
環境は、そういう環境だった。

 自立できない祖父母。それ以上に自立できない父母。そして私。叔父、叔母、伯父、伯母、そ
してその子どもたちも、みな、そうだった。

 たがいにベタベタの人間関係を結びながら、たがいによりそって生きていた。

 しかしそういう親子関係が、きわめて原始民族的であることは、外国へ出てみて、はじめてわ
かった。それがよいとか、悪いとか言っているのではない。よい面もあるし、そうでない面もあ
る。

 実は私の中には、その二面性がある。「残っている」と言ったほうが、正しいかもしれない。そ
してその二面性が、心の中で、たがいに衝突を繰りかえす。

 「子どもは自立するのがよい」と思う私。「そばにいて、私のめんどうをみてほしい」と願う私。
そういう意味では、自分の中から、土着性を消すのは、容易なことではない。

息子たちの生きザマを見ていると、どこにも、「親のめんどうをみよう」などという意識がないの
が、気になる。ワイフは、「そうでないわよ。いざとなったら、親子よ」となぐさめてくれるが、私に
は、そう見える。

 子どもを自立させるということは、同時に、自分自身も自立しなければならない。またその覚
悟がないと、子どもを自立させることはできない。「お前の人生は、お前のものだ」と言うこと
は、同時に「私の人生は、私で生きる」と言うに等しい。

 とくに二男は、アメリカでの生活が八年目になる。そのため、私の土着的にもっている民族意
識とは、ちがった意識をもち始めている。それがわかるたびに、どこか、心の中を冷たい風が
吹くのを感ずる。

 そんなこともあったのかもしれない。たまたま三男も、今、家に帰ってきている。昨夜、夕食を
食べた帰りに、小づかいをせびった。いつもなら、二、三〇〇〇円しかあげないのだが、昨夜
は、一万円、あげた。

 揺れ動く、私の親意識。しばらくそんな意識を、静かに観察してみたい。
(031005)

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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
不安の正体

 いくつかの心配ごとが重なると、心は、きわめて不安定な状態になる。

 そこでその心配ごとの内容だが、心というのは、一見、単純で複雑。複雑で単純。いくつかの
心配ごとが、同時に心の中に入ると、区別がつかなくなってしまう。

 たとえて言うなら、食べるときは、中華料理であり、フランス料理であっても、胃の中に入って
しまうと、区別できない。それと同じ? 大切な問題も、そうでない問題も、あれこれ同時に心配
し始めると、頭の中で、区別できなくなってしまう?

 そうして心配ごとの相乗効果というか、連鎖反応というか、やがて頭の中がゴチャゴチャにな
ってしまう。パニック状態になってしまう。それが「不安」である。

 で、こうした不安と戦うためには、どうしたらよいのか。

 心配のタネを一つずつ叩くこともさることながら、同時に、パニックにならないように、精神の
健康も守らねばならない。この精神も、肉体と同じように、疲労する。もちろん病気にもなる。

 そこで不安になったら、睡眠をしっかりととる。体のコンディションを整える。食事に注意する。
CA、MGの多い食生活に注意することも、大切。

 私のばあい、もともとそれほど、精神的にタフでない。だから少し油断すると、パニック状態に
なってしまう。学生時代、痔(じ)で出血したとき、大腸ガンだと思いこみ、遺書まで書いたことが
ある。

 また最近では、パソコン神経症(?)にも、よくなる。パソコンの調子が、少し悪くなると、「ウィ
ルスか?」と、思ってしまう。あわててしまう。そんなわけで、パソコンの健康(?)にも、注意を
払わねばならない。

 考えてみれば、この世界、不安のタネだらけ。言いかえると、神経のかなり太い人だけが、生
き残ることができる。まじめで、気が小さい人は、社会そのものから、はじき飛ばされてしまう。
あるいはうつ病になる?

 そう、そのうつ病になる。日本人の約三人に一人が、うつ病か、その傾向のある人という調査
結果もある。もしそうなら、うつ病の人がおかしいのではなく、社会のほうが、おかしいというこ
とになる。

 そんなわけで、私のばあい、できるだけ毎日、毎週、毎月のリズムを、大切にするようにして
いる。そのリズムにあわせて、ほどよく生活するようにしている。そう言えば、そのし方は、パソ
コンの付きあい方と、よく似ている?

 パソコンと付きあうときは、無理をしない。冒険をしない。そこそこにうまく動くときは、そのま
まの状態で使う。便利になるからといって、安全性がまだじゅうぶん確認されていないソフト
は、導入しない。多少不便でも、そのまま使う。

 しかしこれはそのまま、心の健康を守る方法にも応用できる。あるいは同じ?

 大切なことは、不安というのは、戦うものではないということ。要は、うまくつきあうということ。
それになれてくると、不安になる前に、それをうまく回避することができるようになる。……と思
う。いつも失敗ばかり、しているが……。
(031004)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不完全であることを、恥じることはない?

 人生は、ムダのかたまり?
 そのムダから、無数のドラマが生まれる?
 そのドラマが、人間の世界を、潤い豊かなものにする?

 もし人間が、理性だけのかたまりだったら、
 何とつまらいことか。機械的な会話、機械的な生活。
 そんな人間から、熱いドラマは、生まれない?

 不完全を、恥じることはない?
 まず、自分でしてみて、自分で失敗する?
 その中から、つぎのドラマが生まれる?

 もし人間が、すべて聖人になってしまったら、
 何とつまらないことか。きれいな言葉に、きれいな行為。
 そんな人間から、おもしろいドラマは、生まれない?

++++++++++++++++++++++

 ここまで書いて、ふと、心の中を、大きな不安が横切るのを感じた。私は今、「不完全である
ことを、恥じることはない?」というテーマで、散文詩を書いていた。しかし、この不安は、いった
い、何なのか?

 ところで最近は、もうK国のことは、考えないようにしている。考えてもどうにもならないという
のではない。あの国のことを考えていると、最後は、どうしても不安になってしまう。

 戦争がどうのこうのというのではない。核兵器がどうのこうのというのでもない。人間の愚かさ
を見せつけられているような、不安である。どうして人間は、ああまで愚かになれるのか? 何
も、K国の人たちが愚かだというのではない。人間それ自体に潜む、愚かさである。その愚か
さを感じて、不安になってしまう。

 実のところ、私も、その愚かな人間である。どうしてか知らないが、愚かなことばかりしてい
る。ささいなことで、腹をたて、ささいなことで、イライラし、ウソばかりついている。

 しかし一方で、私は生きていかねばならない。そのために、お金も稼がねばならない。そのた
めに仕事をするが、仕事というのは、きれいごとばかりでは、前に進まない。

 病気になったら、どうするのだ。事故にあったら、どうするのだ。体が動かなくなったら、どうす
るのだ。そんなことも、よく考える。しかし今、感じている不安は、それとも異質のものだ。

 何というか、がんばっても、がんばっても、つき破れないカベがそこにある。そしてその向こう
では、死に神が、ケラケラと笑っている。「どうせ、お前ごときががんばっても、ムダだよ」と。そ
んな不安である。

 K国を見ていると、そういう限界を、思い知らされる。その不安と戦うためには、居なおるしか
ない。「人間って、まあ、こんなものだ」と。

 それが最初に書いた、散文詩である。

++++++++++++++++++++

 やはり、居なおって、生きるしかないのか。
 あきらめて生きるしかないのか。
 「不完全であることは、恥じることない」と言うことは、
 正しいのか。
 かっこいいことを、言うのは、簡単なこと。
 しかし、本当にそれでいいのか?

 不完全な人間は、いくらでもいる。

 車の窓から、タバコの吸い殻を捨てる男。
 修理代金を、水増して請求する男。
 借金を踏み倒して、逃げる男。
 万引きする女に、育児をしないで、パチンコをする女。

 それぞれには、それぞれのやむをえぬ理由がある。
 決して、最初から、不完全をめざしたわけではない。
 しかし人は、人生の坂をころげ落ちている間に、
 不完全な人間になっていく。

 そこに人間全体がもつ、悲しさがある。
 あるいは、私は完全だと、自信をもって言える人は、
 いったい、どれだけいるだろうか。
 私はだいじょうぶと、自信をもって胸をはることができる人は、
 いったい、どれだけいるだろうか。

 善人と、悪人の違い……、それは、歯車にすぎない。
 歯車がうまくかみあい、それなりにうまく回っている間は、
 善人は、善人になる。
 しかしその歯車が、どこかで狂うと、
 悪人は、悪人になる。
 どこも違いはしない。

 で、こうして考えていくと、
 やはり、居なおることは、まちがっているということになる。

 人生をムダのかたまりにしてはいけない。
 そのムダから、ドラマは、生まれない。
 生まれても、意味のないドラマ。
 バラエテイ番組のようなドラマ。
 またそんなドラマは、人間の世界を、
潤い豊かなものには、しない。

 人間は、理性を追求するから、人間である。
 また理性を追求するから、生活が機械的になるということはない。
 人間は、懸命に理性を追求する。そこから熱いドラマが生まれる。

 もっともっと、人間は、不完全であることを恥じるべき。
 決して、失敗を美化してはいけない。
 居なおりや、虚飾は、決してドラマではない。

 人間は、すべて聖人をめざす。
 きれいな言葉を求め、美しい行為を求める。
 人間は、より自らを完成させることによって、
 より人間らしくなる。

+++++++++++++++++++++++++++

 しばらく考えてみたら、正反対の考えになってしまった。言いかえると、私たちは、あまりにも
安易に、居なおりすぎるのではないか。「私たちは、人間だ」という言葉を、つまりは逃げ口上
に利用している。

 しかし……。

 揺れ動く自分を、どう処理したらよいのか。完全をめざす自分。しかしその限界を感じて、不
安になる自分。その間を、いったりきたりしている。「これではいけない」という自分。しかし「どう
しようもないではないか」と、居なおる自分。

 こうした自分を救うのは、もう宗教しかないのではないか。しかし……。それは、私には無理
のような気がする。私には、その素養そのものがない。それに今まで、自分で納得できるような
宗教に出会ったことがない。神だ、仏だと言われたところで、どうも、私には、ピンとこない。

 この「不安」の正体がわかれば、ひょっとしたら、私自身が、その神や仏になれるかもしれな
い。しかし、それは死ぬまで不可能だろう。私は、死ぬまで、この不安をかかえて生きていく。
それが私の宿命のような気もする。
(031002)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●はっきり言おう!

 ある月刊誌を読んでいたら、日本でもよく知られた評論家が、「日本はアメリカの手先」と題し
て、日本外交を、はげしく非難していた。

 これとよく似た話だが、二年前、ある女性(四〇歳くらい)が、私の事務所に怒鳴り込んでき
て、こう言った。

 「アメリカは、日本を、第五一番目の州にしようとしている。あんたには、それがわからないの
ですか!」と。

 私も、いろいろなアメリカ人とつきあっているが、アメリカ人は、日本など、相手にしていない。
そんな野心はないし、仮にあったとしても、その力はない。いや、その力があったとしても、日
本は、つぎのつぎの、そのまたつぎ。

 ウソだと思うなら、アメリカの中西部を歩いてみることだ。日本が、太平洋のはるかかなた
の、小さな島国に見えてくる。あのあたりまでいくと、大学生でも、そのほとんどが、日本がどこ
にあるさえ知らない。

 実際には、アジアの経済の中心は、シンガポールに移った。またアジアと言えば、今では、中
国。日本がかろうじて日本なのは、日本が、世界の中で、サラ金国家になっているからにほか
ならない。

 同じような話だが、よく隣のK国が、「アメリカはわが国を侵略しようとしている」などと言う。し
かし日本はもちろん、アメリカに、そんな意図はない。ないことは、ほんの少しだけ、日本に住
んでみればわかる。あんな国、相手にしたくもない。向こうが、併合してほしいと頼んできても、
断る。

 一方、韓国の若者たちのノー天気ぶりにも、あきれる。

 反米、親北を唱え、K国の美女軍団にうつつをぬかしている。三万七〇〇〇人近い、アメリカ
兵が最前線で韓国を守っているにもかかわらず、だ。アメリカの国旗を破いたり、燃やしたりし
ている。

 しかしこうしたノー天気ぶりは、かつての日本にもあった。

 敗戦直後、もしアメリカ軍が日本に進駐していなかったら、北海道から、東北地方は、完全に
ソ連の支配下に入っていた。現在の三八度線は、九州と本州の間に引かれていたかもしれな
い。

 さらに毛沢東中国、それにつづく、金日成朝鮮が、繰りかえし、日本を侵略していたかもしれ
ない。事実、そういう動きはあった。戦後、その日本がかろうじて平和を保つことができたの
は、アメリカ軍がいたからにほかならない。

 今まさに、K国が、日本に向けて戦争の準備をしている。韓国でも、アメリカでもない。日本
だ。金XXは、「日本は存在してはならない国だ」と、何度も明言している。こういう危機的な状況
の中で、今、日本がゆいいつ頼れる国は、どこか。中国か? それともヨーロッパか? アジア
ではアメリカは嫌われているが、それ以上に、日本も、嫌われている。

 こういう現実を前にしても、「日本はアメリカの手先だ」とか、「五一番目の州にしようとしてい
る」とか。むしろ日本は、今、アメリカのお荷物になろうとしている。

 たしかに日本は、先の戦争で、アメリカ軍に、こっぴどく叩かれた。原爆まで落とされた。しか
しそれというのも、そういうことをされても、文句が言えないようなことを、日本が、してしまった
からではないのか。

 事実、終戦後、アメリカ軍に報復した日本人は、一人もいない。原爆が落とされたあと、たっ
た二週間後に、アメリカの調査団が、広島に入っている。しかしその調査団ですら、何ら抵抗
にあうことはなかった。むしろ旅館などでは、大歓待を受けたという。

 もともとあの戦争には、正義はなかった。だから、戦後、日本は、アメリカ式の民主主義を、
すなおに受け入れた。もし正義があれば、レジスタンス活動をしてでも、アメリカ軍に抵抗した
だろう。

 ノー天気な日本人。ノー天気な韓国人。どこか共通している。

 が、最高のノー天気は、これ。

 ある女流評論家は、こう言っている。「K国が、アメリカとの間で、相互不可侵条約を結びた
がっているのなら、結んであげればよい。平和であることが、何よりも大切」(「週刊A誌」)と。

 こういう素人が、わかったような意見を口にするから、困る。

 K国とアメリカの間の平和は、それで保つことができる。が、肝心の日本は、どうなる?

 K国の立場で考えてみればよい。K国にとって、こわいのは、アメリカである。もしそのアメリ
カとの間に、不可侵条約を結んでしまえば、アメリカは、もうこわくない。いつでも日本を攻める
ことができるようになる。

 仮にK国が、東京のど真ん中に、ミサイルを撃ちこんできても、日本は、それに対して、何も
できない。反撃することすらできない。憲法上の制約がある。

もちろん、アメリカも、何もできない。相互不可侵条約を結んだ段階で、日米安保条約は、無力
化する。K国が、相互不可侵条約を結びたがっている理由は、そこにある。

 ああ、また書いてしまった。マガジン読者の中には、「政治の話は、してほしくない」という人が
多い。しかし私は、どうしても書いてしまう。これは私の性分(しょうぶん)のようなもの。ごめ
ん!
(031005)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2003年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
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2003年度は、「子育て相談、Q&A」で一年間、連載させていただきます。よろしく!
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●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
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Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
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+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■忘れ物がひどい子ども(1)

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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

●動き

 平凡は美徳だが、平凡だけでは、ものたりない。そこで「動き」が必要となる。人生を楽しく生
きるためには、この動きが、大切。

 旅行、転居、新築、スポーツ活動など。祭や、年間の行事なども、それに含まれる。平凡の
中に、そうした動きをバランスよく取りいれていく。生活の活力も、そこから生まれる。それはた
とえて言うなら、栄養剤のようなものか。

 私のばあい、日々の生活が繰りかえしになったとたん、それに飽きてしまう。退屈になってし
まう。私は、子どものころから、反復作業が苦手。たとえばこうして原稿を書いていて、何かの
拍子に、文章が消えてしまったというなときでも、再び、同じ文章は書かない。あるいはまったく
別のテーマで、別の文章を書く。

 だからいつも、私は生活の中に、変化を求める。外からワイフに電話をするときも、「変わっ
たことない?」が、口グセになっている。

 ……というような、つまらないことを書いても意味はない。しかしこれは同時に、子どもを伸ば
すコツでもある。

 子どもを伸ばそうとするなら、ほどよい刺激を、いつも子どもの身のまわりに用意する。「アレ
ッ!」と思う意外性が、子どもを伸ばす。もう少し正確には、脳のシナプスの発達をうながす。

 その意外性を家庭の中につくるのは、親の大切な役目ということになる。お金をかけろという
ことではない。こうした意外性は、ちょっとした工夫で、いくらでも生まれる。

 以前、ズバ抜けて頭のよい女の子(中学生)がいた。現在、名古屋市で女医をしているが、そ
の女の子の趣味は、部屋の模様がえだった。「ほとんど毎月のように部屋の模様がえをしてい
ました」と、あとで母親が話してくれた。

 たとえば机をもって、家中のあちこちを動きまわるというのだ。「毎日、違ったところで勉強し
ていました」とも。

 この女の子は、「模様がえ」に象徴されるように、いつも変化を求めていた。多分、生活のあ
らゆる場面で、そうした変化を、無意識に求めていたのだろう。そうした姿勢が、その女の子
を、そういう女の子にしたと考えられる。

 以前、私は『マンネリは、知能発達の敵』というような格言を考えた。その原稿(中日新聞発
表済み)を、ここに転載する。

++++++++++++++++++++++

●子どもを伸ばす、こんな方法
        
 あなたは白いご飯に、チョコレートをかけて食べることができるか。ミルクか、ココアでもよい。
「できない」と思っているなら、一度、ためしてみたらよい。

そういうのを発想の転換という。一度、うちへホームステイしたオーストラリア人が、そういう食
べ方を教えてくれた。彼らは、豆腐にジャムをつけて食べていた!

 子どもの頭をよくしたいと思っているなら、そういう刺激を与える。もっと言えば、「あれっ!」と
思うような意外性を大切にする。意外性が大きければ大きいほど、脳の中の神経組織が発達
する。マンネリはよくない。マンネリは、知能発達の大敵と考える。

……といっても、お金をかけろということではない。発想の転換は、ごく身近で始まる。また身
近であればあるほど、刺激も大きい。庭の草木の葉っぱを、ちぎってかんでみる。おもちゃのト
ラックの中に、寿司を並べてみる、など。そうそう私も昔、子どものころだったが、動物の形をし
たパンを見て驚いたことがある。あのとき感じた新鮮さは、いまだに忘れない。

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリ
ッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をして
いるのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にか
けるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないい
たずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、
ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを
年長児のときから、数年間続けた。

で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。この方法は、どこかぼんや
りしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。(そののち、その女の子は、高校を卒業するまで、作文
に関する賞を総ナメにしていった。)

で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、そ
れをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣味は、ドライブ。外出するたびに、その
テープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボー
ルの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかく動きが速かった。

で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだっ
たため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な
子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。

++++++++++++++++++++

 で、私のこと。

 このところ、頭の中は、モヤモヤしたまま。動きがないから、変化がない。だからこうして書い
ている文章にも、メリハリがない。テーマもマンネリ化している? だいたい文章も、おもしろくな
い?

 こういうときは、手っ取り早く、何か新製品を買うのがよい。あるいは人に会うとか、旅行をす
るとか。そう言えば、今度、地元のテレビ局の取材を受けることになった。私はテレビが苦手。
カメラを向けられたとたん、別人格になってしまう。しかしそういう変化も悪くない?

 ああ、それにしても、新しいパソコンがほしいな。今年も、「静岡県ホームページ・コンテスト」
の賞品は、パソコン。私のホームページは、番外? まったく期待していない。今度、フライト・
シミュレーター2004が、発売になる。今の私のパソコンでは、動かない。今度は、自作パソコ
ンに挑戦してみるか……、と思っている。

 もう頭をよくしようとは考えていない。私のばあい、動きを求めるのは、あくまでもボケ防止の
ため。
(031007)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

構造的な問題

国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学生
の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第五位。以下、オー
ストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次い
で第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

また偏差値(日本……世界の平均点を五〇〇点としたとき、数学五七九点、理科五五〇点)
だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学
校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持し
ていると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。

 こうした現状の中で、学校五日制が実施され、ゆとり教育の中で学習要領そのものが三割削
減されようとしている。今以上に、日本の子どもの学力が低下することは、もう避けられそうに
もない。が、本当の問題は、学力ではない。思考力である。学力と思考力は本来異質のもので
あり、学力(知識)があるからといって、思考力があるとはかぎらない。しかし日本の子どもたち
は、その思考力においても、低下する傾向にある……? 

たとえば東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏は、同じ調査結果をふまえて、文部科学省の徳
久氏とは対照的に、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述
べている。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(四八%)。「理科が好き」と答え
た割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学
外学習も、韓国に次いでビリ二。

一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一
時間にふえている。同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第三回学習基本調査」
によれば、次のようになっている(二〇〇一年五月と六月に小、中、高校生約八七〇〇人につ
いて調査)。

学習時間が三〇分以下……小学生 四〇・三%
                中学生 三〇・七%
                高校生 三七・一% 

家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……二三・一%

 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていること
が、これらの調査でわかる。が、それにしても小学生よりも高校生のほうが、勉強時間が短い
とは! それはともかくも、日本がもつ教育の問題は、もっと構造的なものではないか。これに
ついては別のところで考えるが、ここでは事実だけをあげるにとどめる。
(この原稿は、昨年、学習内容が約三割削減される前に書いたものです。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

知識と学力

 もの知りの人間が、賢い人間ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、こ
れを混同すると、教育そのものが混乱する。

たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたとしても、その子どもが賢い子どもと
いうことにはならない。いわんや算数ができるとか、頭のよい子ということにもならない。

が、もしその子どもが、「車が三台でタイヤの数は一二」と、即座に計算できれば、算数のでき
る子どもということになる。さらにその計算方法を自分で考えだしたとしたら、頭のよい子という
ことになる。

 ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。
教育の体系そのものがそうなっている。あるいは入試内容にしても、学力をためすというより
は、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的に
はこの構図は明治以来、変わっていない。

たとえば今でこそやや少なくなったが、三〇年前にはどこに進学高校にはいわゆる頭のおかし
い「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は勉強だらけという
子どもである。

しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部(「一流」という言い方は本当にいや
だが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしながら、そのときはそのときで、少なから
ず疑問に思ったことがある。「こんなことでいいのか」と。

 では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一
番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今まで
の一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを
新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。

そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気
づくはずだ。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中
で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。

だからたいていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力と
はそういうものであり、また学力を養うということはそういうことである。

つまりそれだけむずかしいということ。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、
あなたにとって子どもの教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】忘れ物がひどい子ども∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●忘れ物が、ひどい子ども

 長野県N市のGHさん(母親)より、忘れ物が多い子どもについての、相談があった。その子
どもの症状を、並べてみる。

★小五の一人息子である。
★たいへん社交的で、だれとでも、すぐ仲間になれる。
★学校でも、自ら手をあげて、いろいろな役を引き受ける。
★受け答えもしっかりとしているので、「しっかりとした子」と思われている。

★しかしその一方で、整理整頓ができず、忘れ物ばかりしている。
★いろいろしてみたが、効果がない。
★頭の切りかえがはやく、一度切りかわると、前のことを忘れてしまう。
★通学帽子をかぶらずに、家を出ることもある。

★きつく叱れば、そのときは、できるときもあるが、つぎの日もまた同じ……の繰りかえしという
状態。
★大事な学校からのお知らせや手紙などは、また学校へ取りにいくということもしばしば。
★一つのことが終わってから、つぎのことをするという習慣が、身につきにくいのかもしれな
い。トイレの電気を消すという習慣も、やっと一年前にできるようになった。
★見たいテレビがあっても、長風呂をしていて見られなくなるということもある。

★しかし本人は、まったく困っていない様子。忘れ物をしながらも、何だかんだと、そのまます
んでしまうといった、感じ。
★万事マイペースで、そういう面はよいところだと思うが、将来、受験のとき、たとえば受験票を
忘れるようなタイプなので、心配である。
★学級委員に立候補したが、「まず自分のことができるようになってからしなさい」と、つい言っ
てしまった。
★このままだと、私(母親)が、緊張状態になってしまうので、どうしたらよいのか。

+++++++++++++++++++

●記憶のメカニズム

 人間の記憶は、認知記憶(読んだり聞いたりしたことを、頭の中にたくわえる)と、手続記憶
(練習して、意識しなくても、ピアノが自然にひけるようになる)の二つに大きく分けられる。

 さらにその内容によって、短期記憶(一時的に記憶する)と、長期記憶(遠い昔のことを記憶
する)に分類される。

 このうち、短期の、認知記憶は、脳の中の辺縁系にある、海馬(かいば)という組織が深く関
係していることがわかっている。この海馬を損傷したり、手術によって切除されたりすると、短
期の、認知記憶ができなくなることもわかっている。

 (一方、手続き記憶は、海馬とは関係なく。小脳を中心とした神経回路で形成されると考えら
れている。)

 が、海馬だけで、認知記憶をするわけではない。現在では、人間の記憶は、大脳連合野全
体で、蓄えられると考えられている。が、ここで一つの問題にぶつかる。

●記憶の想起

 記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という手続きを経て、蓄(たくわ)えられ、必要に
応じて、外に取り出される。

 いくら頭の中に記憶されていても、また保持されていても、(想起)というメカニズムがうまく働
かないと、「忘れてしまう」という現象となって現れる。

 その(想起)をつかさどっているのが、どうやら「海馬」であることも、最近の研究でわかってき
た。健常者を使った事件では、その人にあれこれ思い出させようとすると、海馬が、選択的に
活発になることがわかっている。最近では、リアルタイムに、こうした脳の働きは、PET画像を
使ってそれを知ることができる。

 が、何らかの原因で、この海馬の働きが、損傷を受けると、(想起)そのものが、できなくな
る。脳のどこかに記録はされていても、それをうまく取り出せないという状態になる。手術など
によって切除されたとか、脳に打撲などの衝撃を与えたようなときである。一時的に血流がと
だえたようなときにも、そうなるとされる。

●脳のメカニズムには、個人差がある。

 長野県のGHさんには、折り返し、この点について、質問してみた。「脳に障害が残るような事
故、事件はなかったか?」「乳幼児期に、一時的に、気を失うような事故はなかったか?」と。

 それに対して、「まったくない」とのこと。

 そうなると、つまり脳に機質的な問題がないとすると、今度は、メカニズム的な問題を疑って
みる必要がある。子どものばあい、脳の中で、情報の受け渡しが、うまくできないと、GHさんの
子どものような症状が現れることがある。

 しかしこの先のことは、大脳生理学の分野でも、まだ未開拓な部分であり、「どうしてそういう
現象が起きるのか」、また「どうすれば、そういう現象を回避できるのか」については、まだよく
わかっていない。(これは私の不勉強によるものかもしれないが……。)

 しかし長年、子どもたちと接してきた結果として、つぎのようなことは言える。つまり脳のメカニ
ズムは、決して、一様ではないということ。個人差が大きいということ。さらにこうした個人差
は、脳のメカニズムに起因しているため、指導でどうにかなる問題ではないということ。

 いろいろな例で考えてみる。

【T君、小三の例】

 彼は、ズケズケとものを言う。相手が、そういう言葉で、どのようにキズつくかについては、ま
ったく無関心。無頓着(むとんちゃく)。

 先日も、何かのことで失敗した子どもがいた。それを見て、T君は、「お前、バカだなあ。こん
なこともできないのか。メダカ学級(養護学級)へ行けよ!」と。

 言われた子どもは、学力がかなり劣る子どもだった。私はその言葉に驚いて、かなりはげしく
叱った。しかしT君は、何かにつけて、そういうタイプの子どもである。

 自分のことしか考えず。まわりの者の気持を、ほとんど考えない。視野が狭いというか、気が
回らないというか。そんな感じである。

【私の例】

 この話とは、直接関係ないが、講演(授業)などをしていると、同時に、二つの脳が働くのを感
ずる。

 一つは、話している内容を考えている脳。もう一つは、その上から、自分を客観的に見なが
ら、「あと二〇分だぞ……」「あと一〇分だぞ……」と、自分をコントロールしている脳である。

 こうした現象は、日常的にも経験する。

 たとえば母親から相談を受けていると、話の内容について考えている脳と、「どこまで話そう
か」「どこまで話していいのか」と、自分をコントロールしている脳があることがわかる。

 このとき、もし自分をコントロールする脳が、疲労などによって乱れると、講演などでは、自分
でも、何を話しているか、わからなくなってしまうときがある。(こうし文章を書いているときも、似
たような現象を経験する。)

●自己意識

 自分で自分をコントロールする意識のことを、自己意識という。自意識という人もいる。

 この自己意識が発達してくると、自分で自分を客観的に見ることができるようになる。「こんな
ことをすれば、みなに、笑われるぞ」「こんなことをすれば、先生に叱られるぞ」「こんなことをす
れば、みなに嫌われるぞ」と。

 この自己意識は、だいたい小学三、四年をさかいに、急速に発達し始める。それ以前の子ど
もには、自己意識そのものがない。だからそれ以前の子どもに、「こんなことをすれば、みんな
に笑われるのよ」式の説教をしても、意味がない。

 このGHさんの子どもの例をとると、「忘れ物をすれば、あなたは困るの」式の説教をしても、
意味がないということになる。自分がどういう状況にあり、どう状況に追いこまれるのか、それ
を認識できないからである。

 親(おとな)というのは、どうしても、自分を基準にして、ものを考える。そしてその基準を、子
どもに、あてはめようとする。

 この自己意識についても、そうで、「自分がそうであるから」という理由だけで、子どもに。そ
れを求めたりする。しかしこれは誤解というよりも、無理をすれば、かえって子どもを、より悪い
方向に追いやってしまうことにもなりかねない。

【GHさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 いただきましたメールを読むかぎり、この問題は、子ども自身の自己意識では、どうにもなら
ない問題かと思われます。自分に、「忘れ物をした」という意識そのものがないのです。

 メカニズム的には、本文の中にも書いたように、脳の中で、情報の受け渡しが、何らかの理
由で、うまくできないことが考えられます。記憶のメカニズムは複雑で、そのため、(想起)とな
ると、さらに複雑なメカニズムが働きます。そのとき、情報の受け渡しがうまくできないと、ご相
談のような症状が起きるものと思われます。

 つまり、子ども自身の意識では、どうにもならないということです。もちろん、GHさんが、叱っ
たり、説教したりしても、意味がないということです。

 それはたとえて言うなら、ADHD児(多動児)に向って、「静かに視なさい!」と言うようなもの
です。本人自身は、自分では、騒々しいと思っていないのです。

 そこで登場するのが、自己意識です。

 こうした問題では、いかにして、その自己意識を引き出すかが、大切なポイントとなります。つ
まり自分で、自分を客観的に見て、コントロールしようとする意識のことです。

 年齢的には、GHさんのお子さんは、それができるようになる、ちょうどその時期にさしかかっ
ていることになります。つまりこれからだ、ということです。

 逆に言うと、そのため、子どもの問題点が、かえって目立つということにもなります。そして目
立った分だけ、「どうして?」となるわけです。

 こうしたケースでは、つぎのような点に注意すると、よいでしょう。

(1)言うべきことは言いながら、あとは、時を待つ。
(2)「うちの子は、そういう子だ」と、あきらめて、それに合わせた対処をする。
(3)症状を今、以上に、こじらせない。
(4)周囲に迷惑をかけるようであれば、子どもを叱るのではなく、あなたがガードとして、子ども
をカバーする。

 とくに重要なのが、(3)です。この問題は、親が性急になおそとすると、かえって症状がこじれ
てしまい、そのため、その分だけ、立ちなおりが、遅れてしまいます。

 最後に気になる点がいくつかありますので、それについて、書いておきます。

 ひとつは、GHさんが、どうも「家庭(ホーム)」というものを、誤解をなさっているのではないか
ということ。小学三、四年生にもなると、「家庭は、心と体を休める場所」として機能することにな
ります。またそうでなければなりません。

 メールによれば、「トイレの電気を消すことができない」「寝そべってマンガを読んでいる」「風
呂のドアが閉められない」などなど。

 GHさん自身の、過関心が目立ちます。言うべきことは言いながらも、もう少し、手綱(たづな)
をゆるめてみてはどうでしょうか。つまり、GHさん自身が、不安のウズの中で、心配過剰になっ
ている? 「将来、受験票を忘れるのではないか?」と心配なさっておられるのも、その一つで
す。

 やがて子ども自身が、自分の欠点に気づき、自らカバーしながら生きていくようになります。
そういう子どもを信じながら、ここは一歩引きさがってみては、どうでしょうか。つまり子離れの
準備を始めます。

 メールによれば、自ら学級委員に立候補したりする、など、すばらしい面も見られます。何で
も悪いほうに考えないで、「やってごらん。お母さんも応援するから」くらいのことを言ってあげた
らどうでしょうか。

 実のところ、私の二男も、忘れ物のひどい子どもでした。原因は、一歳前後に、歩行器で土
間に落ち、脳を損傷したからです。

 そのため私も、ワイフも、苦労しました。いちいちメモを渡したり、子どもにつけさせたりするな
ど。しかし中学生になるころからは、自分でも、そういう欠陥に気づくようになり、サイフにはヒモ
をつけたりするようになりました。

 で、今は、その二男も、一児のパパです。誠司という孫の父親になりました。

 みんなそれぞれ、何かの問題をかかえておとなになっていきます。問題のない子どもはいな
いし、そのため、問題のない子育てもないのです。またそういう問題があるから、その人を、よ
り大きくします。

 決して完ぺき主義にならないこと、ですね。

 では、また。はやし浩司
(031008)

【3】300号発行に寄せて∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

300号発行に寄せて、何人かの方から、応援メールをいただきました。そのまま紹介します。

++++++++++++++++++

●Eマガ、300号達成!

 300号を記念して、読者の方からの意見を募集した。何人からの方から、返事をもらった。う
れしかった。

+++++++++++++++++++++++

【1】

★先生、メルマガ300号達成、おめでとうございます。

一日おきのメルマガですから、もうそろそろ、始められて2年になるのでしょうか。
毎日、あれだけの膨大な文章を定期的に書いておられること、継続することの大変さを思うた
びに、頭が下がります。

配信されたメルマガを見るだけでも、自分もうかうかしていられないなと、良い刺激になってい
ます。
 
先生にはじめて出会ったのは、某地区の、講演会でした。
次女がまだ小さいので、聴講するのをあきらめていた時、知人に熱心に誘われて、何とか子ど
もを預けることができました。
 
『子育て四次元論』・・・はじめは、タイトルの難しさに、難しそうだと思いましたが、聴き終わって
みると、目には涙(泣いているのを、知人に悟られないようにするのが大変でした)、先生のメ
ールアドレスが記された印刷物の裏は、メモでいっぱい。子育てで悩んでいた自分は、どこか
癒されて、すこし、目の前が明るくなって、足取り軽く家へ帰ったのを覚えています。
 
その後、何度か壁にあたるたびに、先生のホームページを開くようになりました。メルマガを購
読するようになったのも、そのころからです。一日おきにくる、メルマガを楽しみにしています。
(9月から、毎回のように入っているカードはいつも、わくわくしながら開いています。)
 
先生のメルマガの良さは、情報が多いことだと思います。先生が世界を旅されていたせいか、
視野が広い。それに、心理学的なこともかじることができる。(心理学的なことまで自分で調べ
たら、きっと骨が折れることでしょう。必要だと思われる部分が抜粋されていて、根拠がわかっ
ていいなと思います。)

また、直接子育てには関係がないかもしれませんが、格言は、また、興味深いです。(これも、
文献が多岐にわたっていて、自分がこれだけの格言を書物から探していったら・・・先生の年
齢になるまでに全部見つかるかしら。先生の財産を分けてもらっている気分です。)
 
そんな、先生の文章を読みながら、最近思うことは、子育てだけ、切り離して考えることは間違
っているということ。子育ての裏には、自分の過去あり、価値観あり・・・・。たとえば、幸福論ひ
とつとっても、「幸福」というものの見方を少しかえるだけで、子育ての仕方も、少しずつ、違っ
てくるのではないかと思うようになりました。

子育てを変えたかったら、一見、子育てとは無関係の、枝葉の部分にまで、目をむける必要が
あるかな。私はとかく、目に見える事象にふりまわされがちですが。先生のメルマガを読んでい
て、自分が新しく発見したことです。
 
そうしたら、先生のメルマガの中の、とっておきたい部分が増えてしまいました。
毎回、いろいろな原稿が入っています。資料としてとっておきたい部分と、心に残しておきたい
部分とがありますが、印刷をすると、膨大な量になります。その部分だけ、まとめて保存したい
と思っています。でも、読んでいると、とっておきたい部分が結構あって、迷っているうちに受信
トレイにたくさん、先生のメルマガが削除できずにたまってしまっています。
 
先生、先生が、メルマガに載せてきたものを、いつか、本にまとめることがありますか。総集
編・・・みたいに。
分野が多岐にわたって、難しいかもしれませんが、特に、やはり、家庭における子育てに主眼
をおいて・・・
今後の活動について、何かありましたら、教えてください。
 
1000号達成までは、まだまだ長い道のりだと思いますが、メルマガを楽しみに、また、それを
励みにしている私のような者のために、どうか、続けていってください。
 
最後になりましたが、どうぞ、健康には十分に留意されて、頑張ってください。
 
                         静岡県F市匿名希望 

++++++++++++++++++

【2】

★ 300号おめでとうございます

先生のマガジンを毎回楽しみにしています。
先生のお言葉でどんなにか救われたことでしょう。
本当にありがとうございました。
子どもを信じてあげられるのは、親しかないと改めて思いました。
これからも、いろいろとトラブルは起こるかもしれませんが
前向きに、子どもを信じていこうと思っています。
マガジン1000号まで楽しみにしています。

                         静岡県H市匿名希望
(031006)

++++++++++++++++++

【3】

★300号、おめでとうございます。

マガジンも300回記念になるのですね。おめでとうございます。そして、ありがとうございます。

マガジンは、新聞と同じで、いつもさらっと目を通します。(熟読という風にはいかず申し訳あり
ません。)

しかし、大切な事は、しっかり頭に残して、子育ての実戦に役に立てているつもりです。

というか、先生のマガジンは、一度だけの内容ではなくて、大切な事、読者に伝えたい事は、文
章を変え、例を変えても、送りたいメッセージとして、伝えてくださるので、きっと残るのでしょう。

マガジンのテーマになるかどうかわかりませんが、今、私が気になっていることは、長崎のS君
の事件です。加害者の少年については、両親の不仲、とか、アスペルゲンガー症候群? と
か、新聞には、載っていました。こういう事件を聞くと、本当に心が痛みます。

それと共に、対岸の火事ではなくて、子どもを育てている親にとって、私の問題として、迫ってく
るものも有ります。

加害者のお父さんや、お母さんも犯罪を犯す子どもを育てようと思っていたとは、思えないので
す。子を持つ親ならば、誰しも陥る落とし穴の積み重ね、が、このような事件を惹き起こす子ど
もを、育てたのではないか。と、感じてしまうのです。

私は、子どもが、自分自身を制していくことが出来るようになることが、自分の子育ての中の一
つの目標のように思います。先生の、マガジンの中から、いろいろなヒントはいただいています
が、何か、アドバイスがありましたら、よろしくお願いします。

                       静岡県S市SGより

++++++++++++++++++++

【4】

★ありがとうございます

 いつもお世話になっております。メールマガジンの配信も、三〇〇号達成、おめでとうござい
ます。

                       浜松市OSより
 

++++++++++++++++++++

【5】

★ 出会い

どのようにしてはやし先生のサイトにたどり着いたのか? 今では思い出せません…
偶然に出会ったサイトがとても楽しく素敵だったので、思わず申し込んだメルマガでしたが、毎
回配信されるメルマガをとても楽しみにしていました。

しかし、スタートが順調だったはずの新たに2人目が加わった育児も、長男の反抗期を境に前
の見えない不安と、感情的な自分に対する自己嫌悪、忙しい主人 に対するイライラ…

毎日泣いていた気がします。

もう、限界かも…
そんな気分な毎日でした。

でも、ある日はやし先生のメルマガを読んでいて気が付きました。
自分は育児に追いつめられているのではなく、自分を自分自身で追いつめているのだと言うこ
とを…

そうです…
良いママ、良い妻、良い嫁になろうと、一生懸命になり過ぎていたんです。
良いママになろうとして、逆にイライラして…
良い妻になろうとして、感情を押し殺して…
良い嫁になろうとして、自分の意見を言わなくて…
気がついたら、「私」が何処かに行ってしまっていました。

先生のメルマガに出会わなければ、きっと今でも袋小路の中だったのかも…
そう思うと、出会いって本当に大切だと実感しました。

今は、どうにか反抗期も主人と乗り切り、お姑さんの協力の元「私」のために週に数時間、英
会話に通いはじめ、素敵な気分転換をさせてもらっています。
そして今では、ドジなママだけど育児がとても楽しいと感じます。

家族を大切にするために、まず「私」を大切に生きて行きたいとおもいます。


メルマガをこれからも楽しみにしています。
お体に気をつけて、頑張って下さい。


追伸:チャットに参加できなくてすいません…。

             大阪市        ルキアン(ペン・ネーム)


     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●誠司(孫)と散歩

 少しみていてほしいと、息子が言ったので、孫を預かった。

 少しぐずったので、乳母車で、散歩にでかけた。どこか気恥ずかしい。
 
 少し歩いたら、気持ちよかった。楽しくなった。

 少し歩くつもりだったが、近くのコンビニまで行った。フルーツジュースを買った。

 それで帰るつもりだったが、もう少し、歩いてみたくなった。

 孫が、鼻歌を歌い始めた。顔は見えないが、声は聞こえた。

 で、私の着ていたセーターを、孫にかけてやった。

 そのとき孫が、少し、ぐずった。しかしすぐ収まった。

 で、さらに遠く……と思ったが、孫の様子が変わった。

 見ると、眠っていた。そこで急いで家に帰ることにした。

 家へ帰ると、そのまま、そうっと、コタツに入れた。ふとんをかけた。

 そのまま孫は、深く、眠り始めた。家中の音を止めた。犬が少しほえたので、強く叱った。

 時は、静かに流れる。まるでやさしい風のように流れる……。音もなく、動きもなく……。

 今、孫は、私の横で眠っている。私は、その横顔を見ながら、この文章を書いた。だんだん孫
が、かわいくなってきた。あああ。
(031007)

【ジジ・ババになるための教訓】

●ジジ・ババになったら、孫のめんどうは、みてやろう。若夫婦だけで過ごせる時間を、つくって
やろう。

●ジジ・ババになったら、すべて控えめに、若夫婦の言うとおりにしてやろう。若夫婦が、いっぱ
しの親気取りで、偉そうなことを言っても、ハイハイと聞いてやろう。

●ジジ・ババになったら、恥ずかしがらずに、前向きに、ジジイ、ババアになってやろう。ムダな
抵抗は、やめよう。

●ジジ・ババになったら、若夫婦が求めるイメージに従って、ジジ・ババを演じてやろう。どんな
老人像をもっているか、一度、確かめてみるとよい。へたな対等意識は、もたないこと。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本人の「嫁さん」意識

 二男夫婦と、孫を見ながら、心の中の変化を観察する。で、いくつか、おもしろいことに気づ
いた。

 その中の一つ。それが「嫁さん」意識。

 昔から日本では、「嫁をもらう」という。「もらう」というのは、「もらう」という意味。「林家(け)の
人間になるのだから、林家のモノ」という考え方をする。

 で、私には、そういう意識はないと思っていた。とっくの昔に、縁を切ったと思っていた。しかし
実際、二男の嫁さんを前にすると、心のどこかで、「林家の人間なのだがなあ」と思ってしまう。

 たとえば、「早く、林家のしきたりになれてもらわねばいけないな」とか、「林家の料理の味つ
けになれてもらわねば困るな」とか。

 もともと『家(け)』をつけなければならないような家系ではないので、それほど大げさに考えて
いるわけではない。まただからといって、それを求めているわけではない。しかし心のどこか
で、そう思ってしまう。

 しかし相手の嫁さんは、アメリカ人。私がもっているような感覚は、まったく、ない。名字こそ、
「ハヤシ」を名乗っているが、だいたいにおいて、「家(いえ)」意識が、まったく、ない。ないもの
は、ないのであって、どうしようもない。

 そこで改めて、「嫁さん」意識を考えてみる。

 日本人が「嫁さん」と呼ぶときは、「家に嫁いできたモノ」という考え方をする。結婚して嫁いで
きた段階で、その家での地位は、最下位におかれる。ときどき遊びにくる、叔父、叔母よりも、
下におかれる。

 最近になって、私の伯母の一人が、こんな話をしてくれた。伯母は、今年、七〇歳になる。

 「私が、今の、M家に嫁いできたときには、私はまさに家政婦以下でした。主人(夫)の兄弟で
すら、私にあれこれ、平気で命令しました」と。

 ……となると、この「嫁さん」意識とは、何かということになる。

 昔は、人間よりも、「家」が大切だった。江戸時代においては、とくにそうだった。そういう歴史
的な背景はあるが、しかしその「家」にこだわると、人間を見失う。

 「嫁をもらう」という意識は、そういうところから生まれた。が、嫁の第一の仕事は、夫の世話
ではない。家事でもない。実は、「世継ぎ」(=子ども)を、もうけることだった。世継ぎが生まれ
なかったら、その家は、断絶することになる。

 こうした意識は、何も、武家だけにあったわけではない。日本の社会は、上から下まで、その
「家制度」で成りたっていた。士農工商制度という、そのあらゆる階層で、それが重要視され
た。

 こう書くからといって、何も、それがまちがっているというのではない。しかし現実に、そういう
話を聞くと、私は、思わず笑ってしまう。

 私が子どものころ、近くに「F」という八百屋があった。今でも、その子孫が住んでいるが、そ
のFさん家族は、ことあるごとに、「F家は……」と、「家」をつけている。そしてことあるごとに、
「F家としては……」「F家の手前……」と言う。

 そして最近、そのF氏(五〇歳くらい)に会うと、こう言った。「うちの家系は、もと武士でね。あ
の斎藤道三とともに、織田信長と戦った、家老なんですよ」と。

 こうしたオメデタサは、日本人なら、だれしも、もっている。遠い祖先をたどれば、一人くらいな
ら、そういう人はいる。簡単な計算だ。

 仮に、一組の夫婦が、三人の子どもをもうけたとする。その三人が、それぞれ三人の配偶者
と結婚して。同じく三人の子どもをもうけたとする。そうして三〇年で一世代を繰りかえしたとす
る。すると……。

 2世代目(0年後)……3人(子孫のうちの、子どもの数)
 3世代目(30年後)……9人
 4世代目(60年後)……27人
 5世代目(90年後)……81人
 6世代目(120年後)……243人
 7世代目(150年後)……729人
 8世代目(180年後)……2187人
 9世代目(210年後)……6561人
10世代目(240年後)……19683人
11世代目(270年後)……59049人
12世代目(300年後)……177147人

 三〇〇年後には、約一八万人の人が、同じ一人の祖先を、自分の祖先と言うことになる。こ
の数字を反対から読むと、こうなる。

 あなたという「人」には、三〇〇年前の、約一八万人の人の血がまざっていることになる。(も
ちろん、血がダブるということもあるので、必ずしも、この数字は、正確ではないが……。)その
中の一人が武士であっても、残りの約一八万人は、身分の低い人だったかもしれない。

 ……というような、くだらない話は、もうやめよう。実にくだらない!

 人間に上下はない。身分もない。先祖がだれであっても、まただれでなくても、あなたは、あ
なた。あなたの子どもは、あなたの子ども。

 ……というような話から、もう一度、「嫁さん意識」を考えなおしてみよう。つまりこういう意識が
残っているかぎり、日本人は、極東の島国民族ということになる。またそういう意識は、私たち
が、「伝統」として守らねばならない意識ではない。
  
 私ははからずも、アメリカ人の嫁さんを前にして、自分の中に残る、古い意識を思い知らされ
た。今、私が感じている戸まどいこそが、その意識の現れということになる。
 
 実のところ、私も古いタイプの日本人。いくら頭の中で打ち消しても、その体質までは変える
ことはできない。だから葛藤(かっとう)する。「うちの嫁さんではないか」と思う気持ち。「そういう
考え方は、おかしい」と思う気持ち。

 「できるなら老後のめんどうをみてほしい」と思う気持ち。「私のために、犠牲になってはいけ
ない」と思う気持ち。

 こうした思いが、つぎからつぎへと心の中で、交錯する。

 まあ、あえて言えば、残りの二人の息子には、日本人の女性と結婚してほしい。「みそ汁がお
いしい」という日本人。「温泉へ行きたい」という日本人。「ナスの天ぷらがおいしい」という日本
人。そういう日本人と結婚してほしい。老後のめんどうまではよいとしても、それまでに、たがい
に人生を楽しめるような嫁さんであってほしい。

 ああ、これは私のわがままか? 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己防衛

 孫の相手をしながら、心のどこかでブレーキが働くのを感ずる。

 孫は孫。孫であって、子どもではない。自分の子どもではない。しかし、なぜ、自分にそういう
ブレーキをかけるのか?

 理由の一つは、やがて別れる子どもであること。いくら親子のつきあいがあるからといって
も、その子どもの孫と、同居できるわけではない。だから孫にのめりこむことの危険性が、自分
でもよくわかっている。

 わかりやすく言えば、(やがて別れることのつらさ)から、自分を守ろうとしているためではな
いか。のめりこめば、のめりこんだ分だけ、別れるのがつらくなる。だから自分の心の中に、一
線を引く。これは一種の、ニヒリズムということになる。

 が、それだけではない。

 私が今、二〇代とか、三〇代であれば、まだ未来がある。しかし今、私は、五五歳。これから
先、一人の人間を育てあげる時間的余裕は、もうない。気力も、体力もない。たまに運動会や
遊戯会をのぞくような元気はあっても、毎週、おけいこ塾へ孫を連れていくような元気はない。

 そういう自分の限界を知っているから、「任すべきところは、もう息子たち夫婦に任せよう」と
いう気になる。そしてそれがブレーキとなって、働く。

 さらにもう一つ。子育ては、一度で、たくさん。もうこりごり? ……そんな思いもある。それは
ちょうど、同じ人生を二度生きるような気分に似ている。同じ人生を二度繰りかえすくらいなら
死んだほうがまし……とまでは、言わないが、それに近い気分になる。

 どうせ先が短い人生。その短い人生を生きるなら、前に進んでみたい。つまりそういう思い
が、自分の心にブレーキをかける。

 「孫にのめりこむな」と。

 友人のKさん(女性・六〇歳)は、こう言う。「孫には、遊びに来てほしいと思うが、一週間もい
られると、うるさくてかなわない。孫が帰っていくと、ほっとする」と。

 そのKさんも、心のどこかで、ブレーキをかけながら、孫とつきあっているのだろう。そういうブ
レーキがあるから、「ほっとする」。が、もしそのブレーキをはずしてしまうと、自分の子どもを奪
われたような悲しさと、つらさで、気がへんになるかもしれない。

 そう、今の私は、たしかに自分の心に、そういうブレーキをかけている。「ここまでは、祖父と
してするが、ここから先はしないぞ」というブレーキである。

 たとえば昨日も、急に寒くなったせいか、鼻水を流していた。もし自分の子どもなら、すぐ病院
へ連れていく。しかし孫は、孫だ。まず、息子夫婦に、任せる。「息子だって気づいているはず
だから、私には、関係ない」と思ってしまう。

 そういう意味では、子育てと、孫育ては、どこか基本的に違う。同じではない。

このつづきは、もう少し時間をおいて、考えてみたい。私の心は、こう書きながらも、どこか揺
れ動いている?
(031007)

【追記】
 今、「子育て最前線の育児論」というマガジンを発行している。もう一つ、「孫育て最前線の育
児論」というマガジンを発行しようか……、というのは、冗談!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●幼稚園と保育園(S社からの取材、問い合わせに答えて……)

 幼稚園と保育園の、園児獲得競争が、激化している。幼稚園は、原則として、満三歳から。
保育園は、〇歳から。少し前まで、幼稚園は、一日四時間、保育園は、一日八時間。不況の
時代になって、園児が幼稚園から、保育園に流れた。

 東京都のばあいだが、私立幼稚園数は、1991年の、672園から、1999年の、612園へ
と減少している。(これに対して、公立保育所は、782か所から、781か所へと、減少数は、1
に過ぎない。)

 そこで幼稚園の保育所化。保育所の幼稚園化が、一挙に加速した。

 幼稚園での、夕方五時前後までの「預かり保育」が一般化し、一方、たとえば保育所を運営
する社会福祉法人も、幼稚園を設置できるようになってきた。従って今では、幼稚園でも、保育
所でも、保育士と幼稚園教諭の両方の資格をもつ人材が、求められるようになってきている。

 以前は、文部省が管轄する幼稚園は、「学校教育法77条による教育」。一方、厚生省が管
轄する保育所は、「児童福祉法39条による、保育に欠ける児童のための保育」という、区分が
なされていた。

 しかし近年、保育園の「教育化」は、急速に進んでいる。保育園でも、学習教材を用いて、文
字、数の学習をしている。年間行事(運動会や遊戯会)についても、幼稚園と何ら変わりないこ
とを実施しているところも、多い。

 原則として、三歳以下は、保育所保育指針を基本にし、四、五歳は、幼稚園教育要領を指針
にしているが、実際には、共通プログラムにするなどの工夫も、全体的になされている。

 そこで幼保一元化という考え方が生まれた。

 現実には、幼稚園と保育園を併設している園。施設を一元化し、年齢別に区分している園
(三歳までを保育所預かり。三歳から幼稚園)などがある。あるいは年長組になると、短時間組
と、長時間組に分けているところもある。

 こうした流れの底流にあるのが、少子化の問題である。

 とくに幼稚園児についていうと、1980年の241万人から、1999年の178万人へと、20年
間で、63万人も減少している。そのため先に書いたように、廃園に追いこまれる幼稚園も少な
くない。

●激化する園児獲得競争

 当然のことながら、私立の保育所、私立の幼稚園。さらには幼稚園と保育所との間の、生徒
獲得競争が激化している。(ただし公立保育所については、その一方で、待機児童数の増加
がみられる。)

 園長自らの、家庭訪問は、すでに二〇年前から恒常化している。さらに一一月期を前に、教
師による家庭訪問は、常識化している。

 夏祭り、遠足、遊戯会を利用しての、入園予定の児童の獲得も、恒例化している。親たち
に、案内書を渡したりしている。もちろん幼稚園独自のカラーを鮮明にすることもある。

 知育教育に力を注ぐ。英会話、算数教育に力を注ぐなど。内容は、千差万別で、中には、幼
稚園児に掛け算の九九を教えているところもある。

●疲労する教師たち

 少子化は、同時に、親の過関心、過保護、過干渉を引き起こす。そのため、そのしわ寄せ
が、子どもを預かる教師に集中する。

 そのため、対親との関係において、心を病む教師がふえている。どこの公立幼稚園にも、一
人や二人、精神科へ通っている教師がいる。長期休暇をとっている教師も少なくない。

 幼稚園、保育所については、具体的なデータはないが、学校については、つぎのようなデータ
がある。

 東京都の調べによると、東京都に在籍する約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した
人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人から二二〇人程度で推移していたが、九七年度
は、二六一人。さらに九八年度は三五五人にふえていることがわかった(東京都教育委員会
調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六
年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職
者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患
者は、一六一九人。)

さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたとい
う。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」
(東京都教育委員会)ということである。

●少子化の問題

 保育所、幼稚園に関して、少子化の問題は、つぎの二つに分けて考えるのが、望ましい。

1)保育園、幼稚園の経営に与える問題
2)親の意識の変化から受ける、育児全体の問題

 混同して考えると、何がなんだか、わけがわからなくなるのでは……?
(031005)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞






件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■嫁論

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄    
 ===○=======○====KW(8)
★★★★★★★★★★★★★★
03−10−17号(303)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

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と読みやすくなります。お試しください。
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★心に触れる
★読者のみなさんから
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      Z  MMMMM
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          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )
/  #   #   /( ̄ ̄乃
\____#_____/ ̄ ̄

カードです!

http://www.dayspring.com/ecards/card.asp?ID=49fde7-bhp

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

【今週の幼児教室から】

●プロレスごっこ

今日は、カレンダーの学習をした。

カレンダーをテーマに、「時的感覚」の訓練をした。具体的には、「おととい、きのう、きょう、明
日、あさって」の学習をした。

私「今日は、カーレンジャーの勉強をします」
子「カーレンジャーじゃない。カレンダー!」
私「何、言ってるんだ。君たち、子どものクセに、カーレンジャーも知らないのか?」と。

 あとは、「今日は木曜日。きのうは……?」とつづける。

 で、その合間に、今週は、子どもたちと、プロレスごっこをした。コスチュームは、ひと通り、そ
ろえてある。

 このとき大切なことは、おとな(教師)の優位性を、子どもに押しつけてはいけないということ。
負けることを前提として、「ごっこ」をする。もう少し専門的に言えば、こうなる。

 子どもの主体性を育てるためには、子ども自身がもつ自我をつぶさないようにする。方法
は、簡単。いつも、子どもに自信をもたせるようにする。そのためにも、おとなの優位性を押し
つけない。

 押しつければ押しつけるほど、子どもは、おとなに対して劣等感をもつようになり、それが心
の生長をはばんでしまう。そしてそれが原因で、たとえばおとなになることに、自信をなくした
り、未来に恐怖心をもつようになることもある。とくに注意したいのが、おとな(親や教師)の暴
力と威圧。「親は偉い」「先生は偉い」式の、権威主義にも注意する。

 この主体性から、「自己効力感」が生まれる。自己効力感というのは、達成感のようなもの。
ものごとに前向きにぶつかっていく力といってもよい。何かをなしとげたという喜びが、子どもを
さらに前向きにひっぱっていく。

 私がマスクをかぶり、手袋をはめ、ベルトをしめ、マントをはおると、子どもたちも興奮状態に
なる。

 あとは一人ずつと、戦いごっこをすればよい。

 しばらく立ち回ったあと、倒れて、「降参、降参!」と言う。

 この方法は、子どもたちに、自信をもたせるのに、たいへん効果的。「先生を負かした」という
思いが、そのまま子どもの自信につながる。が、それだけではない。

 この戦いごっこをすると、私と子どもたちを隔てていた垣根が、一挙に崩壊する。私も、「先生
は、上にいる偉い人」と思われるのが嫌い。

 ただし、女児とは、その女児の親が、横で見ているときだけする。たまたま今日のクラスは、
女児が一〇人。男児は一人しかいなかった。それで女児ともした。しかし、ふつうはしない。

こうした「ごっこ」は、誤解を招きやすい。親が横にいない女児については、あれこれ理由をつ
けて、戦いごっこを避ける。女児の体に触れるのは、どんな理由があるにせよ、タブー中のタブ
ー。これは私が、この世界へ入ってから守っている、大切な鉄則である。
(031009)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。

「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう
砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また「はずれて
いない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につけ
る。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。

それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊
びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教
育論を書き始めてからだ。

それまでは私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなか
った。いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しか
しやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。

たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか
まればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んで
いた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。

仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しかしそれは日本という
より、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件
をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解すること
ができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の
境内で学んだ」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●思考回路(思考プロセス)

 人間にはだれしも思考回路というのがある。たとえば暴力団の男たちは、ものごとを何でも
暴力で解決しようとする。一方私は文を書くのが好きだから、何か問題が起きたりすると、すぐ
文を書いて解決しようとする。こういのを思考回路という。

 こういう思考回路は子どもにもあって、また子どもによって思考回路はそれぞれ違う。たとえ
ば年長児あたりに、「あなたはブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」と聞く。する
と子どもたちはそれぞれ自分の思考回路を使って、その問いに答えようとする。「順番に使え
ばよい」「横取りはさせない」など。

しかし中には、「ぶん殴ってやればいい」と言う子どもいる。これは余談だが、あとでその子ども
の父親はその関係の人だたっということがわかった。その父親の左手の小指は欠損していた

 で、問題はいかにしてよい思考回路を子どもの中につくっていくかということ。いや、それを話
す前にこんなことがある。以前、「たまごっち」という電子ゲームがはやったことがある。

ほとんどの子どもがそれにハマったが、そのたまごっちのブームが去ると、今度はそれがポケ
モンになり、今ではさら遊戯王になったり、マジックザギャザリングになったりしている。それぞ
れは別々のゲームだが、思考性という点では、連続性がある。この連続性をつくりあげている
のが、ここでいう思考回路ということになる。

 そこで幼児教育で注意しなければならないことは、粗悪な思考回路をつくらないということ。一
度それができると、以後、ずっとその子どものものの考え方を支配するようになる。

たとえばこんな子ども(中学男子)がいた。ある日窓の外をぼんやりと見ているので、「何を考
えているのだ」と声をかけると、こう言った。「先生、ぼくはあのビルを超能力を使って、破壊し
てみたい」と。

彼は幼児のときからものの考え方が現実離れしていた。うらないやまじないばかりを信じ、魔
法とか魔術に強い関心をもっていた。つまりそれが彼の思考回路ということになり、だからそれ
が転じて、「超能力使って破壊してみたい」となる。

 言いかえると、幼児期には子どもの論理性を育てることを大切にする。もっとわかりやすく言
えば、子どもに何かもの教えるときは、「何をどう教えたか」とか「どれくらい覚えたか」ではな
く、子どもの心の中にどのような思考回路ができつつあるかをみる。そしてそれが論理的なも
のであればよし、しかし先に書いたように粗悪なものであれば、それは避ける。

 幼児教育の一つの方向性として、思考回路について考えてみた。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●文化の違い……嫁さんが、泣く!

 アメリカ人には、嫁さん迎える家族にも、嫁さん自身にも、「嫁意識」は、まったく、ない。その
意識の違いを、感じさせる事件が起きた。……起きてしまった。

 まず、事件のあらまし。

 息子夫婦と、私たち夫婦、それに三男と孫の六人で、市内のデパートへ行った。そのときの
こと。

 息子夫婦は、息子夫婦たちだけで買い物をすればよいと考えた。そこで私は、嫁さん(アメリ
カ人)に、服を買ってあげるかわりに、現金で、五万円を渡した。プレゼントのつもりだった。
で、そのとき、「このお金で、好きな服を買いなさい。あまったお金で、あなたのお父さんとお母
さんに、何か、みやげになるようなものを買ってあげなさい」と言った。

 しかし、私のこの言葉で、嫁さんが、泣いた。もちろん喜んで泣いたのではない。悲しんで泣
いた。なぜか?

 ここに意識の違いがある。あるいはあなたには、その理由がわかるだろうか。

 まず第一。アメリカでは、相手の女性にお金を渡し、「好きな服を買いなさい」というのは、そ
の女性を侮辱(ぶじょく)したことになるのだそうだ。実際には、そんなことをする人はいない。

 服そのものを買ってあげるのは、よいことだが、お金は、まずい。私は「本人が、自分で選ん
だほうがよいだろう」と思ってそうしたが、それは日本人の感覚。息子は、こう言った。

 「アメリカでは、石鹸のプレゼントもしない。石鹸を贈るということは、『あんたは臭いから、こ
れで洗え』という意味になる。同じように、お金を渡し、『服を買いなさい』というのは、『あんたの
服は、みすぼらしいから、これで服を買え』という意味になる」と。

 嫁さんは、私が渡したお金を息子に見せながら、ポロポロと涙をこぼしたそうだ。

 こういうのを誤解というのか? しかし、誤解というより、意識の違いと言うべきではないか。

 私は、「あなたは、息子の嫁だから、つまり、私の娘だから」という気持をこめて、お金を渡し
た。しかし嫁さんにしてみれば、そういう意識はない。私はあくまでも、夫の父親でしかない。
「林家へ嫁いだ」という意識は、まったくない。

 自分の娘のようにあつかう私。しかし嫁さんにしてみれば、私はただの義理の父親。こうした
意識の違いが、今度の事件の背景にあった。

 私はその話を聞いて、その夜、嫁さんにこう言った。

 「ぼくがしたことは、日本では、まったく何でもない行為です。あなたを家族の一員とみたか
ら、そうしました。反対に、ほかの女性には、絶対に、そんなことはしません。あなたの服が悪
いから、そうしろと言ったのではありません。あくまでもプレゼントのつもりでそうしました」と。

 嫁さんは、息子から、そういう説明を受けていたらしく、すぐ理解してくれた。しかし神経をすり
減らした。日本人の嫁さんなら、そのまま喜んでくれるはずなのだが……。

 書斎へもどるとき、三男の部屋をのぞくと、三男は、ベッドの上で、マンガの本を読んでいた。
その三男を見ながら、ふと、こう言った。

 「お前は、日本人の女性と結婚しろよな」と。

 三男は、「わかっている」というような表情をして、ニコリと笑った。
(031008)

【余談】
 その嫁さんが、服を買おうと、それを試着しようとしたときのこと。店の店員が、嫁さんの頭に
袋をかぶせた。

 それが嫁さんには、よほどショックだったらしい。同行していた三男に、ほとんど泣きべそをか
きながら、「どうして日本人は、私にそんなことをするのか? 私がエイズか、サーズ患者とでも
思っているのか?」と。

 三男にも、その理由がわからなかったらしい。

 あとで家に帰って、ワイフにその話をすると、ワイフは、こう言った。「日本では、女性のばあ
い、服を試着するとき、口紅やファンデーションで、服が汚れないようにするため、紙袋をかぶ
せるときがある。とくに、顔を通すような服では、そうだ」と。

 すると嫁さんは、こう言った。「私は、ファンデーションなんかしたことがない」と。そう、白人だ
から、色を白く見せる必要は、ないらしい。

 しかし嫁さんは、アーカンソーという田舎の州で、これまた広大な牧場の田舎娘として育ち、
田舎の大学へ通った。世間知らずといえば、まったくの世間知らず? ワイフは、「あんな世間
ズレしていない人が、この世界にいるなんて、信じられない」と言っている。

 純朴すぎるほど、純朴。恐ろしいほど、純朴。

 人は本来、そうあるべきなのだろうが、しかし……?

【追記】
 
 もう一つ気づいたこと。アメリカでは、実父、実母のつながりは、結婚したからといって、まっ
たく変化しない。一方、義理の父、義理の母は、あくまでも、義理の父、義理の母。息子も、娘
も、関係ない。
 
 昨夜もワイフと、こんな話をした。
 
 「日本には、たとえば婿養子という言葉がある。婿養子に行ったりすると、『息子を、嫁に取ら
れた』と言う親もいる。しかしアメリカ人には、そういう感覚そのものがない」と私。
 「そうね。だからそういう考え方は、アメリカ人には、理解できないでしょうね」とワイフ。
 
 一方、嫁いできたからといって、その嫁と、嫁の実父、実母の関係が、切れるとか、そういうこ
ともない。まったく変化なしと考えるのが、正しいようだ。日本では、「嫁いできた女性は、うちの
嫁(=娘)」という考え方をするが、彼らには、そういう考え方は、通用しない。プラス、理解でき
ない。
 
 家族とは何か? 今、私は、改めて考えなおしている。
 
【追記(2)】
 
 教室で、二人の母親に、「嫁」について聞いてみた。一人は、九州から、浜松市に嫁いできた
母親。もう一人は、浜松市の郊外のI町から、浜松市内に嫁いできた母親。
 
 私が「嫁意識はありますか?」と聞くと、二人とも、「ないわよねえ」「しかし(義理の)親たち
は、まだ、もっているようです……」と話してくれた。
 
 今、その嫁意識も、急速に、音をたてて崩れつつある。
 
 「うちの嫁」と、モノあつかいする旧世代。
 嫁意識そのものをもたない、若い母親たち。
 
 その両者が、今、日本の社会の裏側で、火花を飛ばして、衝突している?
 
【追記(3)】
 
 多くの嫁たちが、義理の父母との交際を、苦痛に感じている。「めんどう」「うるさい」「ほうって
おいてほしい」「干渉しないでほしい」など。ほとんどの「嫁」と言われる若い女性たちが、そうい
う不満をいだいている。
 
 そこで教訓。
 
 五〇代、六〇代の、比較的若い、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)のみなさん。もう若い世代に、
よき嫁像を求めるのを、やめようではないか。期待するだけ、ムダ。私たちは私たちで、自分
の人生を生きればよい。
 
 こうした若い世代に、犠牲的になるのも、献身的になるのも、もう美徳でもなんでもない。ただ
のお人よし。
 
 今、急速に、日本の時代は、変わりつつある。それがよいことなのか、悪いことなのかという
議論も、この際、もう意味はない。どうせ私たちが、先に死んでいくのだから……。大切なこと
は、私たちは私たちで、前向きに、子どもたちとは関係なく、最後の最後まで、生きていくという
こと。そういうこと。

【3】読者の皆さんから∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【300号に寄せて、読者の皆さんから……】(2)

++++++++++++++++++++

【6】

★育児相談

1、最近相談事が多いのが悩みの種との事。先生の趣旨に反するとは思いますが有料になさ
ればよいと思います。

会員制にするというのもひとつの手かもしれません。相談が多いというのはそれだけ世の中生
きにくくなっているのですね。でもやはりご自分の貴重な時間は大事になさったほうがいいので
は?私もさんざんもご迷惑おかけしましたが、、、。

2、内容的にはとても満足しています。多少短くしていただけると、その日に読めなかったメル
マガがたまったとき読みやすいかなあとも思いますが、最近長いのになれてきて、短くなったら
さびしいかも? つまり長さは先生にお任せします。(^_^;)

3、マガジンについて批判されたとのことですが、先生!そういうのは相手にしないに限りま
す。普通自分に合わないと思ったらメルマガとるのやめればいいだけのことじゃないですかね
ー。お金払っているならまだしも。理解不可能。

ボランティアの掃除をしていて掃除のつけ方に文句をつけるのと同じとは、まったく上手いたと
えです。

4、メルマガの致し方ないことだと思いますが、メルマガ開いてすぐ本文が目に入るといいな
あ、と思います。

そのメルマガが初めての方もいるとは思いますが、毎回読むのに、本文までのスクロールは
少々わずらわしいです。

5、たまーにHTMLのメールで先生の絵なんか付いてくると最高です。でもメルマガってテキス
トだけですよね。

6、国際社会への提言など是非続けて欲しいです。反戦の文書を提出した大使が首になった
そうですね。先生やこの大使のようなインテリに引っ張っていってもらわないと、なかなか自分
の頭で考えられなくて。

7、かび臭いお米はおやめになったほうがよいのでは? 非常事態がなかったと思えば、あき
らめもつくのではないでしょうか。

8、非常食を用意しました。水を入れるだけで還元するアルファ米とか磯辺餅とか、缶のパンと
か。インターネットで注文しましたが、結構おいしく食べられて(@_@)びっくりです。
                      (サニーより)

+++++++++++++++++++++

【7】

★はやし様へ、

初めてメールを送らせていただきます。

42歳、2児(共に男子)の父親です。

最近の社会現象とも言える、「児童犯罪の多発」もあり、我々の子供時代とは、何かが大きく
変わってしまったと痛感する毎日です。それが「少子化による過保護」なのか、「単なる豊かさ」
なのかは、不明ですが、自分の子供をどうしたら「まともな人間」として育てられるかを真剣に
考える今日この頃です。

そんな折、ネットで貴殿の情報を見つけ、メルマガ登録させて頂きました。また、著書、「子育て
ストレスが子どもをつぶす」について読ませていただいております。双方ともわかりやすく、大変
感謝しております。

自分なりに「子育ての重大さ」を自負し、色々な本も読み、自分なりの「子育て論」的なものを持
っていたつもりでしたが、最近、大きな「うぬぼれ」だった様に感じております。「こんなことが何
故できない!」、「きちんとしなさい!」など、そんな罵声をあげることが多すぎた様に思いま
す。

「子育て」=「子供と共に生きていく」、「子供と共に親も成長していく」ですね。「我が息子の個
性を確実に理解しているか?」と自分に問われたとき、私は、答えられなかった。はずかしいこ
とです。

今後は、「むずかしいことは考えず、子どもをじっと見つめ、観察する時間をできるだけ持つ。」
ことを心がけていこうと思います。

文末になりましたが、いつも貴重なメルマガ情報、ありがとうございます。これからもお待ちして
おります。

埼玉県K市
H.N.より

+++++++++++++++++++++

【8】

★極端な性格の双子

 300号おめでとうございます。私は5月から愛読し約半年ですが自分の中で大分、はやし論
が定着してきています。(笑)

大分実践的に活用できるようになったものの、まだまだ発展途上ですが2日に一度のメールを
読みつつ前向きに頑張ってます。

一年前はまったく出来なかったドリルを発見し、子供に見せたらお勉強するというのでやらせて
みました。2・3・4歳向けの物を5歳の2人は楽しそうに30分あまりで終わらせて満足そうでし
た。

先生がいうように「別にここまででいいよ、どこまでやるの? 15分たったら終わりにすれ
ば?」と声をかけてみましたが、一向に止めず、とうとう最後までやって終わった!と喜び、ま
だやりたい!他のも出して!とかなり前向きでした。

一年前スパルタで教えようとしていた時は泣きながらたどたどしい鉛筆で1ページがやっとだっ
た2人。今では親が教えなくても適当な書き順でいい加減でもひらがなが書けるようになりまし
た。子供にあったスタイル、レベル、楽しさを親は見てあげなくてはならないのだなと実感した
出来事でした。

とはいうものの、実は双子ならではの悩みになるのですが、いつも同じことを同時にすることが
多くてこれはやはり私にとって大きな負担。しかも反応が正反対な2人。

同じことを言っても返ってくる反応や行動が違い、同じ事を2人に別の言葉で言い直すのは結
構イライラの原因になり、ストレスを貯める私なのです。

早く機転がきき、適当にこなすBはいいのですが、「え?何?どうやればいいの?」とのんびり
やでしかも順序を守りキチンとこなすAは何かにつけ「早く!遅い!」となってしまいます。

幼稚園でも同じで彼はいつも最後です。優劣はつけたくないし、その子の良さを伸ばしてあげ
ればいいと思ってはいるものの、集団行動となると心配です。

マイペースで周りが見えないこと、いつも比べられてしまうこと、Aは意外に一人で遊んでいるこ
と、Bが「いっつも遅いんだから!」と私の口癖を真似ること、些細なことでも気になることがたく
さんあり、どう対処すれば子供が伸びていくのか未解決のまま毎日すごしてしまいます。

食べ物もトマトは大好きと大嫌いと分かれる始末。極端に違う2人に翻弄される毎日です。確
かに私も子供の時Aと同じような性格で「のろま」と呼ばれる子でしたから彼の気持ちは解りま
す。

でも母の立場ではどうこの子にいっていいのやら?傷つけず、自信を失わせず、しっかりさせ
るにはどういってあげるべきなのかと。でも本人が気がつくまで無理なんだろうなぁーとも。(自
分の経験いわく。でもいじめられたら嫌だし)

年中の男の子は親が思う以上に残酷な言葉やきつい言葉、叩くなど行動で弱い子をいじめま
す。その中で我が子は上手なつきあい方や居場所をみつける他ないのだろうけど、でも親が
導くことができるならと思っています。

BはBで問題はあります。でもどうしても遅れがちなAの方が心配な私。これも平等じゃないん
だけど、本音は本音。そんな私の気持ちが分かるようでBはスキンシップを常に求めてきます
し、私が喜ぶ行動をしてみせては「エライ? いい子? 大好き?」と愛情確認してきます。

わかっていても、私はもう一杯一杯の状態。余裕すらなくなっており、ストレスが溜まっていま
す。パパはそれでも理解があり、助けてはくれます。

でも家事育児は手伝ってくれても私のその時の気持ちまでは無理、やはり自分の問題だと思う
のです。2人の愛情に対し、それぞれに愛情を注げればいいのですが出来ないのが私の器な
んですよね。

あああ。やっぱり最後には愚痴にになってしまいました、ごめんなさい。この文章はボツにして
ください。

でも先生に思ったことを書くことでなんとなく自分の中で整理がついてきました。こういうのもい
いのかも知れませんね。先生には長くて申し訳なかったです、すみませんでした!!

(ううう、なんて稚拙な文章なんだ!(恥)でも、読んでもらえるのって結構嬉しいものですね。あ
りのままの自分を受け止めてもらえる感じです!先生に感謝です、有り難うごさいました!)

              静岡県F市 ペンネーム「トロちゃん」

+++++++++++++++++++++

【はやし浩司よりサニーさまへ】

 誤解があったかもしれませんが、「相談ごとが多いのが、悩み」というのではありません。

 性分として、いいかげんなことを書きたくないという思いが強く、そのため、回答が、どうしても
長くなってしまうということです。(そのため、時間が、どうしても取られてしまいます。)

 平均して、A四サイズで、いつも四〜五枚程度になります。

 簡単に数行とか、数十行ですめばよいのですが、そうはいきません。

 有料化の問題は、むずかしいです。もし有料にすると、(診断的な意見)を言えなくなってしま
います。いわゆる医療行為に準じてしまうからです。たとえば現在、「〜〜症」というような診断
名をくだせるのは、医療現場のドクターだけです。

 学校の先生はもちろん、校長、教育委員会の方ですら、ご法度(はっと)です。

 そこで各地の教育委員会は、嘱託医師制度というのを、とっています。その心配のある子ど
もをもつ親は、嘱託医師に相談するようなしくみになっています。この浜松市でも、二名ほどの
ドクターが、その嘱託を受けて活動していると、聞いています。

 それに有料化すると、責任の問題が起きてきます。

 決して無責任な意見を言っているのではないのですが、まちがって指導したとき、(誤解によ
るものも含めて)、大きな問題になることが考えられます。ですから私はいつも、回答には、「参
考にしてください」という文を添えるようにしています。

 マガジンの体裁については、近く、改変します。スクロールするのが、たいへん……ということ
は、よくわかりました。すでに一〇月分は、体裁をつくってしまいましたので、今しばらく、お待ち
ください。(サニー様のご意見には、100%、従います。)

 長いマガジンについて、E−マガ社が、特別に、配信可能にしてくれています。本当は、A四
サイズで、数ページが限度だそうですが、今では、三五ページくらいなら、一度で配信してくれ
ます。(E−マガ社に感謝!)

 (マガジン社としては、分量が多いと、受信者が迷惑するのではないかということで、制限をも
うけているようです。受信に時間がかかるためです。よくわかりませんが……。)

 最後に、マガジン発行は、このところ、自分のため……という意識が強くなってきました。

 知力も、体力と同じで、加齢とともに、急速に衰えてきます。それを毎日のように実感していま
す。

 それでもう一〇年ほど前から、いろいろな老人を観察してきました。

 結果、わかったことは、知力も、毎日ジョギングするように、何らかの方法で鍛えないと、いけ
ないことです。

 そしてさらにその結果。人も、六〇歳、七〇歳……となると、その「差」が大きく、現れるという
ことです。

 このことは、その人の書いた文章を読んでみればわまります。文のじょうず、へたではなく、
「鋭さ」、です。

 たとえば自分の書いた文章でも、それがわかるときがあります。頭の調子が悪いときに書い
た文章には、その鋭さがありません。あとで読みかえすのも、いやに感ずるほどです。

 しかし頭がさえているときに書いた文章には、その鋭さがあります。自分で、感心するときさ
えあります。

 だから、今は、自分のために書いています。もちろん相談の回答も、です。相談には、定型
がありません。それでそのつど、よい刺激になります。「たいへんだ」と言いながらも、結構、楽
しく書いています。

 ただつらいのは、以前にも書きましたが、名前や住所のない方からの相談です。その方の気
持はよくわかります。家族の問題は、内密にしたいという思いがあるから、名前や住所を書か
ないのだと思います。

 で、以前は、そういう方からの相談にも、答えていました。しかしそのつど、ものすごい不安感
に襲われたのも事実です。(これはインターネットを使うようになって、はじめて経験したことで
す。)

 何というか、顔が見えない人と対峙しているような不安感です。おかしなものですね。「どこ
の、だれ」ということがわかるだけでも、安心感が違います。(本当は、写真を送ってくれると、
より安心できるのですが、そういうわけにはいきません。)

 しかし心のない人からの、掲示板などへの書き込みもあるのも、事実です。ティーカップ社
(無料掲示板運営社)から、書き込みがあると、連絡が入るしくみになっていますので、そのつ
ど、即、削除をこころがけています。

「お前のホームページは、矛盾だらけだ」
「お前の書く本は、どれも、トンデモ本ばかりだ」
「Pモンをたたいて、子どもの夢をつぶすな」
「遺灰を海へ捨てるとは、許せない」
「日本人の魂は、先祖に生きている」
「将来的なビジョンを示せ」
「お前が言っている、カルトというのは、(S)団体のことだろ!」とかなど。

 教室へ怒鳴りこんできた女性すらいます。(ホント!)

 ときどき、気が弱くなったようなとき、ふと、「マガジンは、もうやめようか」と思うことがありま
す。しかし今、ここでやめたら、私は、本当にボケてしまうと思います。すでに、友人や知人の
中には、同年齢で、ボケ始めた男が、何人かいます。

 おかしなことに、私にはそれがわるのですが、本人たちには、それがわからないのですね。こ
れは脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人には、わからないのだと思います。

 が、私にはわかります。脳がサビついているというか、そういう感じになります。で、そのつ
ど、「そうではない、こうだ」と教えてやったら、一人、「お前は、知識をひけらかす、バカだ」と言
った男がいました。これもホントの話です。

 ……いろいろあります。まあ、今しばらくは、このまま進もうと思います。読者の数がふえるこ
とはうれしいですが、それだけ敵もつくるということでしょうか。しかしそういうことにめげないで、
また読者の数は気にしないで、目標は、1000号です。

 いえ、知力がつづくかどうかということよりも、これから先、四年間、無事に過ごせるかという
問題があります。大きな病気、事故があれば、多分、私は、書くのを途中でやめるだろうと思い
ます。

 これから先の四年間は、今までの四年間のようなわけにはいかないと思います。脳梗塞か何
かで倒れるかもしれないし。そのときは、きっと、こんな文章を書くと、思います。

 あああ、えええ、寒い、、、、ええ、寒い、ある、、、、では、、、サニーさま、、、、ええええ、お
体を、、、ええええ、バイバイ、、、、、。

 そうならないよう、注意します。
                            はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(237)

●孫と散歩

 孫と散歩しながら、つまり、乳母車を押しながら、こんなことを考えた。

 今度も、いくつかアメリカ人の友人から、いくつかのみやげをもらった。で、気がついたのは、
そのどれにも、手紙やカードが、添えられていたこと。

 本を贈ってくれたJ氏は、その本の解説までしてくれた。

 で、日本には、こうした習慣がない。で、私は息子夫婦たちが帰るとき、そういう人たちに、何
プレゼントをもっていってもらう。で、心の中で、ふと迷う。

 手紙やカードを添えるべきか、と。

 日本人の私たちは、より高価なものを渡せば、相手は喜ぶはずと考えがち。しかしこれは世
界の常識ではない。

 では、手紙やカードは、どうか。

 これは相手の習慣に合わせるしかない。こんな小さな島国の習慣に、こだわる必要はない。
「いい」と思ったことは、どんどんと、まねをしていけばよい。はっきり言えば、がんばるだけ、ム
ダ。

 そこでまたまた考えてしまった。

 日本には、盆暮れのつけ届けという習慣がある。どかのスーパーやデパートから、直接、モノ
を送り届けるという、あれである。

 あの習慣ほど、「?」マークの習慣はない。で、その贈答品ですら、一枚の、のし紙をつける
だけ。「中元」とか、「歳暮」とか。コマーシャルなどでは、「心のこもった贈り物」とか言うが、本
当にそうか? ちなみに、「中元、歳暮の習慣など、なくても構わない」と答えた人が、〇三年
に、57%を占めた(読売新聞・七月四日)。

 こういう問題は、比較の問題かもしれない。それしか知らない時代には、それについて疑問
に思うこともない。しかし新しい文化に触れると、それまでの習慣が、ますます「?」に見えてく
る。

 さてさて、二週間後に、息子たちは、アメリカへ帰る。どんなみやげをもっていってもらおう
か。どんな手紙やカードを添えようか。

 結構、これはむずかしい問題だ。

 そう言えば、孫が、どこか日本人ぽくなってきた。耳の形だけは、私の耳にそっくりだ。……と
思いながら、乳母車を、うしろから押した。
(031009)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(238)

日本人のもつ、依存性

 「これだけのことをしてあげたから、相手は、それを感謝しているはず。だからその分、相手
は自分に尽くしてくれるはず」と、日本人は考える。

 こうした日本人独特の依存性は、子育ての面でも、強く現れる。

 多くの親は、老後のことを考えて、つまり子どもにめんどうを見てもらうことを考えながら、子
育てをする。

 それが悪いというのではない。こうした依存性が、独特の人間関係をつくる。それはあやしい
までに、温もりのある世界である。もちつもたれつの、甘い関係と言ってもよい。

 たとえば私。

 もし息子の一人が事業に失敗し、生活ができなくなったら……。そのときは、家と土地を売っ
てでも、助けてやろう……という意識が、まだ私には残っている。しかしなぜそうするかと言え
ば、反対に、私が困っているとき、息子たちが、どんなことをしてでも、助けてくれるだろうとい
う、淡い期待があるからだ。

 しかしそれは淡い期待。はかない期待。

 私は息子たちを、そういうふうには育ててこなかった。そういう影響を、息子たちは、モロに受
けている。だから、息子たちには、そういう依存性は、まったく、ない。

 合理的というか、ドライというか。あまりのドライさに、ふと、私のほうが驚くほどである。

 「日本ではね、その家に女の子しかいなくて、男の子がいないときは、婿(むこ)養子といっ
て、男の子を迎え入れることで、その家を守るんだよ。知っているか?」と。

 それを言うと、アメリカに住んでいる二男は、こう言った。「結婚は、二人でするものだよ」と。
サラッと言ってのける。事実、そのとおりなので、反論のしようがない。しかしあまりにも、あっさ
りと言われると、言われるほうが、戸惑ってしまう。

 で、こうした依存性が、無数に集まって、日本人独特の、国民性をつくる。それについては、
また別のところで書くことにして、ともかくも、外国人には、こうした依存性は、通用しない。

 これだけのことをしてあげたから、相手は感謝しているはず。
 これだけのことをしてあげたから、たがいの絆(きずな)は、太くなったはず。
 これだけのことをしてあげたから、人間関係は、太くなったはず。

 こうした日本人独特の、「ハズ論」は、外国では通用しない。この「ハズ論」は、期待と犠牲の
上に成りたっている。何かのお返しを期待しながら、犠牲になることを好む。しかしこうしたハズ
論は、外国では、通用しない。要するに、相手に無用の期待をしても、また相手に対して無用
の犠牲を払っても、外国では通用しないということ。

 日本人にしてみれば、何とも、殺伐(さつばつ)とした世界だが、一歩、日本の外に出れば、
世界は、そういう世界であるということ。それがいやなら、日本の中にいて、日本人だけと、つ
きあうしかない。

 さあて、私は、どうすべきか?
(031009)

【追記】

 ここで大きな問題にぶつかる。

 現実の問題として、今、一人の子どもを大学まで出すと、大学の学費と生活費だけで、四年
間で、約九〇〇万円弱もかかる。(学費、生活費を合わせて、月額一八万円で計算。)

 そこで子どもが大学へ通うようになると、たいていの母親は、パートタイムの仕事をするよう
になる。それこそ爪に灯をともすようにして、学費を捻出しなければならない。一人ならまだし
も、こうした大学生を二人かかえると、たいていの家の家計は、パンクする。

 そのとき、親は、内心では、こう考える。「こうした苦労は、報われるはず」と。しかし、このとこ
ろ、それがどうもおかしくなってきた。「将来、親のめんどうをみる」と答えた若者が、今、二
〇%を切っている(旧総理府調査)。

 そこでこうした苦労が報われないとはっきりとわかれば、親は、こう考えるようになる。

 「子どもの学費に使うくらいなら、自分たちの老後のために、とっておこう」と。

 一方、アメリカでも、オーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う学生は、さがさなけれ
ばならないほど、少ない。

 たいていは奨学金を得る。奨学金が得られない学生は、自ら、借金をする。アメリカでは、学
生の借金は当たり前で、卒業後、一〇年とか二〇年とかかけて返済する例も少なくない。

 つまり社会のしくみとして、そういうしくみができている。(親は、必要以上のお金を、子どもに
かけない)→(子どもは、自らの力で、大学へ通う)→(たがいに一人の人間として、自立する)
と。

 一方、日本では、子育てにお金がかかる分だけ、子どもは親に依存し、そしてその分だけ、
将来、親は子どもに依存しなければならない。言いかえると、親自身が自立できるようにする
ためには、社会のしくみを、基本的な部分から変えなければならない。

 そういう部分を変えないまま、子どもに向かって、「自立しなさい!」と言うのも、正直言って、
気がひける。

 考えてみれば、今、日本の今の私たちの世代は、三重苦を背負わされている。親のめんどう
をみて、子どもの世話をして、そして自分自身の老後を心配する。

 あああ、どうしたらよいのだ!
031009)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●インフルエンザの予防注射
 
 もしも……。今年の冬、インフルエンザと、SARSが、同時に流行したら……?

+++++++++++++++

 成田空港で、きのう、五人の外国人が隔離された。来日する飛行機の中で、高熱を発したか
らだ。
 同じような患者が、今日は、関西国際空港でも発見された。その外国人も、そのまま隔離さ
れた。

 数日前から、都会地域の学校は、ほとんどが閉鎖された。同時に、デパート、スーパー、繁
華街の飲食店なども、自主的に休業状態に入った。

人々は、顔全体をおおうような大きくて、ぶあついマスクを顔にかけて、外出するようになった。
実際には、いつもなら満員になる朝の通勤列車も、ガラガラになった。

 「病院へも、こわくていけないわ」
 「病院で、SARSに感染することもあるそうよ」

 大病院はもちろんのこと、近所の町の医院ですら、入り口のところに看護婦が立って、患者
のチェックをしている。そのとき、風邪、もしくはインフルエンザに似た症状のある患者は、その
まま、別の部屋に回される。

 「インフルエンザだと思って病院へ行ったら、SARSだった」というような報告が、福岡市でも
あった。その患者は日本人だったが、外国へは行っていなかった。それで二次感染ということ
になったが、追跡のしようがなかった。たまたま香港B型ウィルスが、猛威をふるっていた。

 インフルエンザとSARS。最初の症状に、大きな違いはない。高熱と咳。インフルエンザは、
そのあと、大きな山を越えると、症状は急速に収まっていく。しかしSARSは……!
 
 連日、政府は、「外出をひかえ、家の中で静かにしているように」という発表を繰りかえしてい
た。もちろん日本の経済活動も、マヒ状態になった。会社の決算期も近いというのに、その活
気も、消えた。

 人々は、ただ、息をひそめて、インフルエンザの猛威が去り、SARS騒動が鎮静化するのを
待った。何とも消極的な対処法だが、人々ができる方法といえば、それしかなかった。

+++++++++++++++

これは「もしも……。今年の冬、インフルエンザと、SARSが、同時に流行したら……?」という
話である。しかしありえない話ではない。

 もしインフルエンザとSARSが、同時に流行したら、日本は、世界は、パニック状態になる。
ただ救われるのは、こうした流行が、南半球の国々では起きていないということ。

 オーストラリアでもこの冬(日本は夏)、SARS患者は報告されていない。今のところ、SARS
は、封じ込められているようだ。しかし、予防するに、こしたことはない。

 今、インフルエンザの予防注射を受けることができることになっている。仮にSARSが流行し
ても、発熱による誤診は防ぐことができる。とくに来年の春、受験を予定している子どもなど
は、積極的に予防注射を受けたほうがよいのでは……?

 現在、内科、小児科の各医院で、インフルエンザの予防注射を受けられるという。O君(小
六)も、昨日、受けてきた。費用は、3500円だったという。「今なら、ワクチンも、ぜいたくに用
意してあるので、だれでも受けられます」(病院関係者)とのこと。
(031010)

【追記】
 私は、職業柄、こうした流行病は、すぐうつされる立場にある。来週早々、予防注射を受けに
いくつもりでいる。しかし3500円は、高い。家族全員で受けると、今なら、3500x6=21000
円ということになる! 保険はきかないそうだ。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2003年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
2003年度は、「子育て相談、Q&A」で一年間、連載させていただきます。よろしく!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どもの巣立ち

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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

汗はかかせる

 最近の子どもたちは驚くほど、暑さに弱い。夏場でも、冷房がある生活のほうが当たり前にな
っている。……というようなグチは、今さら言ってもしかたない。そこでここでは話を一歩進め
て、「文明」とは何かを考える。

 私の女房も、週二回テニスクラブへ行くのに、車を使っている。距離は五〇〇メートルもな
い。運動ということを考えるなら、歩いていったほうが、よっぽど運動になる。しかしこういう「矛
盾」は、今、日常生活の中にありあふれている。

たとえばダイエット食品がある。こんにゃくで作った焼きそばとかスパゲッティなどがある。ラー
メンもあるが、どれも値段は本物の焼きそばやスパゲティより高い。腸をゆるくするダイエット
食品もいろいろあるが、しかしどれも高価なものばかり。

中には一回分、数百円。一か月もつづけると、数万円という食品もある。一方で食べるだけ食
べておいて、そのまた一方で、ダイエット食品をとる。これも矛盾だ。

しかし最大の矛盾は、洗濯は全自動の洗濯機にさせ、料理も電子レンジですましながら、一方
で運動不足を理由にスポーツセンターへ通うことだ。

冒頭にあげた子どももそうだ。

夏の間中、冷房のきいた部屋の中ばかりにいれば、当然体は弱くなる。冷房のない部屋だと
暑苦しいのか手で胸をかきむしる子どもなど、今どき珍しくもなんともない。中には青白い顔を
して、ハーハーとあえぐ子どももいる。……というようなグチも、今さら言ってもしかたない。

こうした文明には、いつも大きな矛盾がともなう。要はこうした矛盾と、どうつきあっていくかだ
が、これについても今さらここに書いてもしかたない。さらに一歩、話を進める。

 文明生活の中で一番こわいのは、こうしたもろもろの矛盾を、矛盾と感じなくなってしまったと
きだ。矛盾が当たり前になり、その矛盾がさらに巨大な矛盾を生み出す。それを「矛盾」と知っ
ていればまだ救われるが、その矛盾が矛盾とわからなくなれば、ひょっとしたら人間の存在そ
のものが矛盾ということになるかもしれない。

それはまさしく人間そのものが矛盾の中で自己崩壊することを意味する。それはちょうど暴走
族のようなものだ。車という最先端の知恵と技術が結集された「文明の利器」を使いながら、多
くの人たちに迷惑をかける。やっていることは、野性のサル以下。が、彼らはそうした矛盾に気
づいていない。人間全体が、その暴走族と同じことをしないとも限らない。これがこわい。

 ……とまあ、話がどんどんと飛躍してしまったが、子どもはできるだけ自然の中で、不便を感
じさせながら育てるのがよい。夏は夏で、どんどんと汗をかかせる。そのほうが健康によいこと
は、当然ではないか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

あせる親は結論も早い

 あるおけいこ塾の先生が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親
ほど、要注意です。そういう親ほど、これまたワーワーと言って去っていきます」と。

ある学校の先生も、同じことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけています」と。

私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関
係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。

もっとも私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということにな
る。が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、言
いようのない不安感に襲われることもあるという。

 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書きたくない。私の世界では、親
はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者かつ支援者である。いわばお客さんのような
もの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いてい
たら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。

 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができるとこと。ものの売り買いと
は違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だか
ら教育を商売と同じように考えることはできない。またしてはならない。そこでいくつかのポイン
トがある。

(1)先生とつきあうときは如水淡水……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、
一切、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深ま
るということは、ない。

(2)過剰期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。思って、やりたい放題のこ
とをする人も多い。しかしこれはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をの
ぞけば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということも
ない。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提
でつきあう。


(3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別
れるときを美しくする。美しい別れを方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくす
るということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ
方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう
思ったとたん、信頼関係は崩壊する。


    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●孫との散歩

 今朝は曇り。どこか湿っぽい。しかし心地よい、涼しさ。私はまた、孫をカート(乳母車)に乗
せて、散歩にでかけた。

 いつもなら三〇分ほどで眠ってしまうが、今日は眠らない。しかたないので、家の周辺をぐる
ぐる回る。いつなんどき、雨が降ってくるかもしれない。

 その散歩をしながら、ふと、こんなことを考える。「今の子どもたちは、幸福だなあ」と。

 私が生まれたときは、まさに終戦直後。親たちも食べていくだけで精一杯。こうした「家庭の
温もり」そのものがなかった。

 こんなふうに、散歩に連れていってもらったことがあるだろうか? ノー。
 こんなふうに、みなに、手厚く保護されたことがあるだろうか? ノー。

 私も小学校へ入るまで、頭のタムシに悩まされた。今でも、小さなハゲが無数にあるのは、そ
のためだ。当時、皮膚病のない子どもなど、いなかった。衛生状態もよくなかったし、食糧も不
足していた。肉にしても、めったに食べられなかった。

 家族旅行にしても、小学六年までに、ただの一度だけ。みんなで伊勢参りにでかけた。しかし
その夜も、父が酒を飲んでしまい、旅館で大暴れ。それで夜中のうちに、また家に戻ってきてし
まった。私にとって、「家族」というのは、そういうものだった。

 そこで考えてみる。

 そのために、私の中には、ゆがんだ部分があるはず。それは何か。
 そうであるにもかかわらず、ゆがまないですんだ部分もあるはず。それは何か。またその理
由は何か、と。

 昨日、講演をしたあと、ある父親から、メールをもらった。それには、こうあった。「私の妻は、
母親を知らないで育っている。妻の母親は、妻が幼いとき、家を出ている。そのため妻の、今
の子育てのし方をみていると、どこか母親として、何か欠けているようにみえる」と。

 こうした例は多い。

 不幸にして不幸な家庭に育ったため、どこか(ふつうでない部分)を、引きずっている人たち
である。このメールをくれた人の妻もそうらしい。

 人は、自分が親に育てられたという経験があって、自分が親になったとき、子育てができる。
「子育ては本能ではなく、学習である」という意味は、そこにある。

 ……となると、私はどうなのか。

 私の中には、父親像がない? 父は、数日おきに酒を飲んで暴れた。おかしなことだが、私
は、父に抱かれたことは、ただの一度もない。父が結核をわずらっていたこともある。しかしそ
れ以上に、母が抱かせなかった。

 で、私は、もっぱら、祖父や、伯父たちの手で育てられた。今でもよく覚えているのは、祭にな
ると、手を引いて連れていってくれた、祖父の手の温もりである。父の体の感触は、当然のこと
ながら、まったく残っていない。

 だから私の子育ては、いつも、どこか、ぎこちなかった。妙に権威主義的になったり、甘くなっ
たり、あるいは威圧的になったり、スパルタ式になったり……。そのつど、クルクルと変化した。

 そういう自分を知っているから、「今の子どもたちは幸福だな」と思ってしまう。もちろんそうで
ない子どもも多いが、しかし私の子ども時代のような、子どもは、少ない。私が子どものころに
は、店にさえ、食べるものがなかった。

 そういう私は、どこがゆがんでいるのか?

 ふと油断すると、心のどこかに、ムラムラと怒りのようなものがわいてくるのが、わかる。それ
は自分の過去に対する怒りのようなものだ。「私は、子どものころ、こんな散歩など、してもらわ
なかった」という、怒りである。「親たちは、いったい、どういうつもりで、私を産んだのか」とい
う、怒りである。

 無責任といえば、無責任。ロクに、生活もできないのに、私という子どもだけは産んだ。

 しかしその一方で、では、当時の私が不幸であったかというと、そうでもなかった。

 人は、より満ち足りた生活を知って、はじめて、それまでの自分がみじめだったことを知る。
もしその満ち足りた生活を知らなければ、自分がみじめだということすら、気づかない。

 私が今、自分の幼少時代が不幸だったと知るのは、今、こうして幸福な家庭で、孫と散歩して
いるからにほかならない。もし、あのままの生活で、同じようなことを繰りかえしていたら、自分
の幼少時代が、不幸だったということさえわからないかもしれない。

 私は、その一方で、目いっぱい、遊ぶことができた。今でいう崩壊家庭の放任のようなものだ
った。毎日、真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。

 ただ家に帰るのは、いやだった。今となると、そのいやだったという思いも忘れたが、しかし
毎日、学校からまっすぐ家に帰ったことはない。明らかに帰宅拒否児だった。

 だから子どものころから、暖かい家庭には、人一倍、あこがれた。やさしい父親がいて、私を
包んでくれる母親がいる。みなで、食卓を囲んで、笑いながら、食事をする。そういう家庭であ
る。

 もし私の中にゆがんだ部分があるとすれば、そういう不自然さではないか。つまりそういう暖
かい家庭を求めるということ自体、不自然なのである。

 で、そういう私がなぜ、ゆがまなかったかということ。

 いや、実のところ、かなりゆがんでいる。

 私は、若いころ、だれにも心を開くことができなかった。苦しんだ。苦しんだというより、友もで
きず、孤独な毎日を過ごした。結婚した当初も、妻にさえ、心を開くことができなかった。

 そういう私が、自分に気づき、自分を修正するようになったのは、やはり、幼児教育に関わっ
たからである。もし私が幼児に接することがなかったら、今の私はないと思う。孫をカートに乗
せて、散歩することもなかっただろう。

 幼児たちは、全幅に心を開いて、私に接してくれる。その活力。そのエネルギー。そして、そ
の生きるパワー。

 あるときから、私は、そうした幼児と接しながら、「私の子ども時代はどうだったのだろう」と考
えるようになった。それについては、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、もしそ
うした経験がなかったら、私は私に気づかないままでいたかもしれない。

 私のような不幸な環境に育ったものが、かろうじて、こうして祖父らしきことができるのは、つ
まりは、私の仕事のおかげだったということになる。

 さてさて、一時間くらい散歩して、ふと見ると、孫が眠りだした。歩く速度を落として、家に向
う。そして玄関の坂をのぼって、ワイフに、孫を渡す。とたん、ほっとした安堵感を覚える。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ある読者の方より

 ある読者の方より、メールをもらった。子どもの野外活動を、主宰している方(I町Kさん)であ
る。以前、私の講演にきてくださったことがあり、それがきっかけで、メールを交換するようにな
った。

 その方が、「あと片づけ」と、「あと始末」について、書いてくれたので、改めて、ここに紹介す
る。

++++++++++++++++++++++++

●あと片づけと、あと始末

以前、テレビ寺子屋というテレビ番組の中で、
はやし先生が、「アメリカでは、あとかたづけはうるさく言わない。
あとしまつは子どもにいう。日本では、あとかたづけをうるさくいう。」
と言うような内容をお話されたことを覚えています。

なるほど・・・と思っていました。

火を使うときや、道具を使うときは、子どもたちに
「何しても良いけど、火の始末はつけた人が責任持ってよ」
と一言、声をかけています。

子ども達は、「わかった!」と火を新聞紙の先につけそれが
手の近くまで来てあち!っと手を離すと火のついた新聞紙が
落ちそれに「緑の葉っぱをかぶせろ!」といってみんなで
雑草をかぶせ踏みつけ「火の始末完了!」といってます。

自分が起こしたことは、自分で始末をつける
そんなことが、身につくためには、大人がだまって
ある程度にいたずらには口を出さないことですよね。

では、失礼します。
(静岡県I町の読者の方より)

+++++++++++++++++++++++

●あと片づけとあと始末

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」は、あ
と片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」は、あと始
末。日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。

これは日本人の国民性のようなもの。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよ
りも、ものごとをナーナーですまそうとする。

 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。子ども部
屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。冷蔵庫から出
したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひどく叱られる。

そうそう以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「ヒロシ、日本の子どもたちは、
皆、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子化している」という意味だ。そこ
で私が「君はどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。

 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせているのだ
が、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャワーを浴び
ても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしないのだよ」と。

 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界になってしま
う。アメリカの作家のソローも、こう言っている。「ビロードのクッションの上に座るよりも、カボチ
ャンの頭に座るほうが、休まる」と。

しかしあと始末は別。子どもにはどんどんとあと始末をさせる。そういう習慣が、責任感の強い
子どもをつくる。

++++++++++++++++++++

ついでに子どもを伸ばす会話術について……

++++++++++++++++++++

子どもを伸ばす会話術

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える)

●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)

●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。

●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句)

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う)

●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。

●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る)

●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。

●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。

●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。

●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。

●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
のプラスの暗示をかける)

●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。

たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だ
ったと言っていたよ」というのは、間接話法など。

あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子どもに
は、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えてあ
げようか」などと言う。

コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子どもに命令しそうになっ
たら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。
(031011)

【3】特集(子離れ論)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

自己犠牲

●子育ては、重労働

 子育てがいかに重労働かは、世の母親なら、みな、知っている。子どもが乳幼児のときは、と
くに、そう。それから生ずる、負担感は、相当なもの。
 
 そこで考える。どうして人間の子育ては、それほどまでに、たいへんなのか、と。ほかの動物
たちの子育ては、もっと楽? 魚の子どもは、卵からかえったとたん、自分でエサを食べ始め
る。犬や、ネコは、数週間から、数か月で、自立する。馬などは、生まれたその日に、立って歩
く。

 しかし人間だけは、最低でも数年。考えようによっては、二〇年以上。

 人間だけが、どこか不自然。子育ての負担が、あまりにも大き過ぎる。つまりその不自然な
部分が、子育てをする母親に、そのまま、のしかかってくる。

 しかし親は、子育てを放棄することはできない。しかも一瞬たりとも、息が抜けない。乳幼児
のばあい、一日だって、母親の世話がなければ、生きることすらできない。

 そこで親は、子育てをする。で、そのときのこと。

●同じ重労働でも……

 望んだ結婚で、望んだ子どもであれば、親は、重い負担を感じながらも、それを前向きに乗り
越えることができる。

 しかし心のどこかに、何かのわだかまりがあると、その重い負担を乗り越えることができな
い。子育てそのものが、苦痛になる。

 実際、約七〇%の若い母親たちが、子育てを苦痛に感じている。また全体の約一〇%の若
い母親は、子どもを愛することができないと、悩んでいる(私の調査より)。

 こうした母親たちは、当然のことながら、自分を犠牲にしながら、子育てをする。そう、ここで
「犠牲」という言葉が生まれる。

 前向きに子育てをしている人は、子育てを、ごく日常的な行為の一つとして、受け入れてしま
う。「子育てをするのが当然」と考えるまでもない。当然とか、当然でないとか、そういうことす
ら、考えない。

 一方、自分を犠牲にして子育てをしている母親は、子育てをしながら、そういう自分と戦わね
ばならない。それはたとえて言うなら、求めてする仕事と、命令されてする仕事の違いのような
ものかもしれない。

 同じ仕事でも、進んでやるときと、イヤイヤやるときとでは、まったく気分が違う。それと同じこ
とが、子育てでも、そのまま起きる。子育てが、どこかうしろ向きになると、親にのしかかる負担
が、何倍も、大きくなる。

●犠牲心

 で、このタイプの母親は、子育てをしながら、「自分が犠牲になっている」という感じから、抜け
出られなくなる。そのため、いつも、子どもに向かっては、「してあげている」という意識をもつよ
うになる。

 印象に残っている女性に、Yさん(六〇歳くらい、当時)がいた。

 もともとYさんは、不本意な結婚をしていた。昔は、親どうしが結婚話を進めるということも珍し
くなかった。Yさんの結婚も、そうして決められた。

 もちろんそれが原因というわけではない。しかし今の若い人たちのように、恋愛し、交際し、
その結果として、結婚したというわけではなかった。そのYさんは、私に会うたびに、こう言っ
た。

 「林さん、息子なんて、育てるもんじゃ、ないですよね。薄情なもんです。あれほどかわいがっ
て、手塩にかけて育ててやったのに、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみしいも
んですわね。大学まで出してやったのに、このザマですわ。私はね、息子が結婚した夜、悔しく
て悔しくて、一睡もできませんでしたわ。林さんもね、息子さんがいるそうですが、どうせ息子な
んてものはね、親を捨てて出ていきますよ。今から、覚悟しておいたほうがいいですよ」と。

 Yさんは、「取られた」という。「薄情だ」という。「親を捨てた」という。

 問題は、なぜ、そういう感情が、生まれるかということ。

 これについては、たびたび書いてきたので、ここでは、話を、もう一歩進めてみたい。

●自分を納得させるための苦労

 おそらくYさんにしてみれば、子育ては、苦労の連続ではなかったかということ。しかしその苦
労というのは、子育てそのものにまつわる苦労ではなく、自分自身の気持ちを納得させるため
の苦労ではなかったかということ。

 不本意な結婚だった。だから不本意な妊娠、出産だった。そのため、子どもはもちろん、子
育てそのものも、いつも、苦痛の連続だった? Yさんはよく、「苦労した」「苦労した」と言った
が、その苦労というのは、自分自身の中の苦痛と戦うための苦労だったとも考えられる。

 前向きに子育てをしている人には、自分が犠牲になっているという意識すら、ない。そういうこ
とすら、考えない。しかしYさんのように、うしろ向きになっている人は、いつも自分が、犠牲にな
っていると感ずる。

●独特の考え方

 このタイプの人は、独得の考え方をするようになる。たとえば子どもに向かっては、「産んでや
った」「育ててやった」「大学まで、出してやった」と言う。つまり子どもに対して、いつも恩着せが
ましくなる。

 ことさら親孝行を息子や娘に強要したり、またそういう面でしか、息子や娘を評価しなくなる。
子育てそのものが、功利的で、打算的になることもある。ある父親は、ことあるごとに息子にこ
う言っていた。「大学を出すために、オレは、お前に、三〇〇〇万円も使ったからな」と。

 そこで私は、こう考えるようになった。「親が子どものために犠牲になるのは、決して美徳では
ない」と。もう一歩進めると、こうなる。「親孝行は、決して美徳ではない」と。

 親は、子どもを育てる。しかしそれは、当然のことではないか。子どもを産んだ以上、それは
親の責任である。その当然のことをしながら、「産んでやった」「育ててやった」は、ない。いわん
や、そのことで、子どもに恩を着せてはいけない。

 一方、親孝行するかしないかは、あくまでも、子どもの問題。親がそれを求めるのも、期待す
るのも、まちがっている。この日本では、親孝行を、ことさら美化する風潮が、いまだに根強く
残っている。「孝行論」を、教育の「柱」に置いている人もいる。

●どうせするなら……

 親子といえども、たがいの間は、純然たる人間関係で決まる。親が子どものために犠牲にな
ったり、子どもが親のために犠牲になったりするのは、美徳でも何でもない。本来、親子関係で
は、(犠牲)という意識すらないのが、ふつう。「犠牲になっている」と感ずること自体、その時点
で、親子関係がすでにおかしくなっていることを示す。

 子育ては、決して楽ではない。まさに苦労の連続。それは冒頭に、書いた。しかしその子育て
を、前向きにするか、あるいはうしろ向きにするかで、その苦労も、軽くなったり、重くなったり
する。

 そこでもし今、あなたが子育てをしていて、どこか重荷に感ずるようなら、まず、自分の中に
潜む、わだかまりをさぐってみる。

 それは勇気のいることでもある。しかしこの問題は、そのわだかまりがわかるだけでも、大半
が解決したとみる。そのあと少し時間がかかるが、その時間が、問題を解決してくれる。

 まずいのは、そのわだかまりに気づかず、いつまでも同じ失敗を繰りかえすこと。ほかの問
題なら、いざ知らず。しかしこの問題だけは、子どもの心に大きな影響を与える。それを避ける
ためにも、まず自分の心の中をさぐる。

●子育ては、自分のため

子育ては、子どものためにするのではない。どこまでいっても、あなたのためにする。あなたが
望んだから、あなたは、妊娠した。あなたが望んだから、あなたは子どもを産んだ。あなたが望
んだから、あなたは子育てを始めた。

 その子育ては、あなたに、うるおい豊かな思い出と、人生のすばらしさを与える。親が子ども
を育てるのではない。子どもが、あなたという人間を育てる。

 いつかあなたの子どもも、あなたから巣立っていく。それはあらゆる動物がもつ、宿命であ
る。しかしそのとき、あなたがここでいうような姿勢を貫くなら、あなたは、きっとこう言うに違い
ない。

 「ありがとう。あなたのおかげで、私は人生を楽しく過ごすことができた」と。

 あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。

タンポポの種が、タンポポの母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親
は懸命に説得する。しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポ
の種が、どこでどのような花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。

しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできること
がどうしてできないの」と。

 それについて書いた原稿(中日新聞掲載済み)が、つぎである。内容が少しダブるが、許して
ほしい。

+++++++++++++++++

親離れ、子離れ

 子どもは小学三、四年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。気づ
かないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解する。つまり
子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。

あの芥川龍之介も、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」(侏儒の言
葉)と書いている。

 息子が中学一年生になっても、「うちの子は、早生まれ(三月生まれ)ですから」と言っていた
母親がいた。

娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を心配していた父親もいた。

自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤツ、大学なんか、やるんじゃな
かった」とこぼしていた父親もいた。

あるいは息子(中二)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と怒鳴られな
がら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親もいた。

しかし親子の間に、細くとも一本の糸があれば、まだ救われる。親はその一本の糸に、親子の
希望を託す。しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。

親は「親らしくしたい」という気持ちと、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。
これは親にとっては、身をひきちぎられるようなものだ。ある父親はこう言った。

「息子(一九歳)が暴走族の一人になったとき、『あいつのことは、もう構いたくない』という思い
と、『何とかしなければ』という思いの中で、心がバラバラになっていくのを感じた」と。

もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、きまじめ
な親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の一枚ま
ではぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸せな人だ。し
かしそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。

大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心を引きず
って歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。しかしそれとても
とをただせば、子離れできない親に、問題がある。

あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。タンポポの種が、タンポポ
の母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親は懸命に説得する。しかし
一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポの種が、どこでどのような
花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。

しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできること
がどうしてできないの」と。

 子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもうあな
た自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしかない。

たとえあなたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたとしても、それ
に耐えるしかない。外から見ると、どこの親子もうまくいっているように見えるかもしれないが、
それこそまさに仮面。子育てに失敗しているのは、あなただけではない。

+++++++++++++++++

同じようなテーマですが、こんな原稿を
書いたこともあります。どうか参考にし
てください。(中日新聞発表済み)

+++++++++++++++++

子育てのすばらしさ

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓に映る自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。

そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。

いや、姿、形ばかりではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私
のものであって、誰(だれ)のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父が
いて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たち
にも流れているのを、私は知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生
命の流れのようなものだ。

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何物でもない。死は
すべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」
とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあ
ざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。

自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返している
と、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人
に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対
してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で
実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもをよ
い学校へ入れることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることに
まつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の
心に問いかけてみれば、それがわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに
命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。

いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫(ごう)にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏
からの使者と言うべきか。

いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がす
ばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。

++++++++++++++++++++

さらにこんな経験もしました。
この原稿も、中日新聞に掲載
してもらったものです。
これは連載、第100回を記念
して、書いたものです。

++++++++++++++++++++

無条件の愛

●「子どもの世界」一〇〇回目を記念して

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」
をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれ
ない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」「…いいだろ」と。

私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。
その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

++++++++++++++++++++

 子どもは今、あなたに何かを教えるために、そこにいる。あなたが子どもを育てるのではな
い。子どもが、あなたに何かを教えるために、そこにいる。それにあなたが気づいたとき、あな
たは、きっとこう言うにちがいない。

 「ありがとう!」と。

 その一言が、あなたの苦労を吹き飛ばしてくれる。そしてそのとき、あなたは自分の過去を振
りかえり、子どもにこう言うようになる。

 「親孝行? バカなこと考えないで、あなたは前だけを向いて、前に進みなさい。お父さん、お
母さんの心配などしなくていい。家の心配? こんなちっぽけな家にこだわってはいけない。こ
の世界は、もっと広い。あなたこの広い世界を、思う存分、はばたきなさい。だって、人生は一
度しかないのだから……」と。

+++++++++++++++++++++

補足として、もう一つ、中日新聞に書いた
原稿を、転載しておきます。
この原稿については、あちこちから反論が
ありました。

どうして反論があったか、マガジンの読者
の方なら、わかっていただけると思います。

++++++++++++++++++++++

親のうしろ姿は見せない

 子育てのために苦労している姿。生活のために苦労している姿。そういうのを、この日本で
は、「親のうしろ姿」という。こうしたうしろ姿は、親が見せたくなくても、子どもは見てしまうもの
だが、しかしそれを子どもに押し売りしてはいけない。

よい例が、窪田聡という人が作詞した、「かあさんの歌」である。「♪かあさんは夜なべをして、
手袋編んでくれた……」というあの歌である。

しかしあの歌ほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。そういう歌が、日本の名曲に
なっているところに、日本の子育ての問題点が隠されている。ちなみに、歌詞は、三番まであ
るが、三、四行目は、かっこつきになっている。つまりその部分は、母からの手紙の引用という
ことになっている。

「♪木枯らし吹いちゃ、冷たかろうて、せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で、ワラ打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪も溶けりゃ、もうすぐ春だで。畑が待っているよ」と。

 あなたが息子であるにせよ、娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、それこそ羽ば
たける羽もはばたけなくなってしまう。たとえそうであっても、親が子どもに手紙を書くとしたら、
「村祭りに行ったら、手袋を売っていたから、買って送るよ」「おとうは居間で俳句づくり。新聞に
もときどき、載るよ」「春になったら、みんなで温泉に行ってくるからね」である。

 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言って、恩を
着せる。子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言って、恩を着せられ
る。そしてそういう関係の中から、日本独特の親意識が生まれ、親孝行論が生まれる。

しかし子どもが親のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。いわんや親がそれを子ど
もに求めたり、期待してはいけない。親は親で、自分の人生を前向きに生きる。そしてそういう
姿を見て、子どもは子どもの人生を前向きに生きる。

親子といえども、その関係は、一人の人間対一人の人間の関係である。一見冷たい人間関係
に見えるかもしれないが、一人の人間として互いに認めあう。それが真の親子関係の基本で
ある。

あのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)もこう言って
いる。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれども、
決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

++++++++++++++++++++

●終わりに……

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。繰りかえすが、「あなたの人生
はあなたのものだから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だか
ら、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心
配……? そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親
としての義務を果たしたことになる。

親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけな
い。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであ
れば、それは子どもの問題。子どもの勝手。
 
……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には日
本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなこと
をしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%
にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%であ
る。(ほかにフィリッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、タイ五九%、ドイツ三
八%、スウェーデン三七%、日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答
えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが…
…。)

欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきてい
るとみるべきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。
(031011)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【近況アラカルト】

●比較……二男夫婦が、ことあるごとに、私という日本人の父親と、Jという嫁の父親を比較し
ているらしいということが、少しずつわかってきた。いわく、「アメリカの父親(義父)は、孫のめ
んどうをよくみてくれるが、日本の父親(私)は、あまりみてくれない」と。

しかしこういう比較は、いやなもの。改めて、比較される子どもの不快感が理解できた。「となり
のA君は、もうカタカナが書けるのよ。どうしてあなたは……!」と言われたら、子どもだって、
おもしろくないはず。

そこでこのところ、毎日のように、孫をカート(乳母車)に乗せて散歩にでかけている。しかし心
のどこかで、何か違和感を覚える。自分がしたくてしているというよりは、何かしら、やらされて
いる感じ。比較されてしているような気分。ああ、いやだ。自分であって、自分でないことをして
いる?

が、そう思うと、せっかくの散歩もおもしろくないから、できるだけ遠出をして、あれこれ考えな
がらしている。昨日は、一時間ほど、あちこちを回ってきた。

●恩人……二男は、一度、浜名湖で死にかけている。その二男が今、生きているのは、まさに
奇跡中の奇跡。たまたま、あの広い海の真ん中で、魚を釣っている人がいた。その人が二男
を、海から、救い出してくれた。

で、昨日、その恩人のところへあいさつに行ってきた。もしその人が、そこで魚を釣っていなか
ったら、今の二男はいない。

帰りに近くの中華レストランにより、そこで、二男に、「あの人がいなければ、お前も、お前の子
どもも、ここにいないのだよ」と話すと、目頭が、ジーンと熱くなってきた。

人の運命は、そのときどきの、コーナーストーン(目印の石)をきっかけに、決まっていく。あの
とき、あの事件が、私にとっては、大きなコーナーストーンだった。 

もしあのとき、あの人がそこにいなかったら、二男の命はなかった。ついで、私たち夫婦も、ど
うなっていたかわからない。私たち夫婦には、そういう悲しみを乗り越える力もなかった。たが
いに責めあって、今ごろは、離婚していたにちがいない。精神だって、おかしくなっていたかもし
れない。

無数の人間と、無数のドラマ。そういうものと、無数のかかわりをもちながら、私たちは生きて
いる。しかしその中でも、その一つが、ときとして、その人の運命を決める。しかし運命というの
は、そのときは、わからない。いつか自分の過去を振りかえってみたようなとき、そこにあった
ことを知る。
(031011)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どものやる気(1)

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
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 ===○=======○====KW(8)
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03−10−21号(305)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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です! 
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\____#_____/ ̄ ̄

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

それ以上、何を望むか

 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言
う。

「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答え
て釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そう
いう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではない
か。それ以上、何を望むのか」と。

 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査
によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何ら
かの形で虐待しているという。

「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代
連鎖もうかがえる」とも。

七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、そ
れ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというの
は、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、
「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀
だ。

 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつ
まらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子ども
は私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。

たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、
家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとし
て、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。

もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息
子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがす
る。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題
はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげ
で、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に
進めばよい。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でし
ょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽
しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いな
さい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

山荘にて……

やわらかに時は流れ、
窓から差し込む、白い光は、
ゆるやかにカーテンを、揺らす。

ここちよい眠けが、体を溶かし、
目を閉じれば、そのまま夢の世界。
無数の面影が、まぶたを横切る。

時は、今は、モーツアルト。
ピアノ協奏曲二一番ハ長調が終わり、
つづいて、二三番イ長調……。

おだやかなひととき、
ふと、思うのは、あなたのこと、
あなたは、今、どこで何を思う。

あのとき、ぼくは、あなたの、
最後の願いを振り切って、ドアを閉めた。
理由にもならないような言い訳を口にして……。

人生は、切なさのかたまり。
その切なさを、ひとつずつかみしめながら、
何度も、ため息まじりに、過去をながめる。

ふと気がつくと、そこには秋の冷気。
椅子にかかったタオルを引き寄せる。
その中に、さらに深く身を沈める。

遠くで小鳥が鳴いた。カラスも鳴いた。
それを心のどこかで聞きながら、意識が遠のく。
やがてぼくは、深い、深い夢の中……。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

離婚の危機

 私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を迎えたことがある。決して、安穏(あんのん)な結婚生
活ではなかった。

 しかしそのとき、最後の最後まで、どちらかが意地を張っていたら、私たちは本当にそのま
ま、離婚していただろう。しかし一度は、その一歩手前で、私が意地を捨てた。プライド(自尊
心)も捨てた。捨てて、「離婚するのはいやだ」と、今のワイフに、泣いて懇願した。

 私が生まれ育った環境は、ふつうではなかった。父が母に暴力を振るう姿は、何度か、見て
いる。父が暴れて、食卓を足で蹴って、ひっくり返している姿は、ごく日常的な光景だった。

 さらにある夜のこと。祖父が、父の首をつかみ、水道の蛇口の下で、父の頭に水をかけたこ
ともある。そのとき、父は狂人のように暴れ、祖父は、それ以上にものすごい声で、父を罵倒し
ていた。

 私の少年期は、そういう意味で、悲惨なものだった。

 だから私は、当然のことながら、心に深いキズを負うことになった。正直に告白する。結婚し
てから、妻に暴力を振るったことも、たびたびある。しかしそれは私自身がしたというよりは、
(決して、弁解するわけではないが……)、私自身が宿命的にもつ、心のキズが、そうさせた。

 これを心理学の世界では、世代連鎖とか、世代伝播(でんぱ)とかいう。

 今でも、そうした邪悪な部分が、私には残っている。完全に消えたわけではない。私が自分を
みつめながら、もっとも、警戒するのは、自分自身の中の、二重人格性である。私はふとしたこ
とがきっかけで、もう一人の自分になってしまうことがある。

 ふだんの私は、やさしく、穏やかで、さみしがり屋。しかしもう一人の自分になると、破滅的に
なり、孤独に強くなる。「家族なんか、いなくても、平気」という状態になる。

 一度、そういう自分になると、どちらが本当の私なのか、わからなくなる。ただよく言われる人
格障害と違う点は、それぞれのとき、別の「私」がちゃんと横にいて、自分をコントロール、して
いるということ。

 「今のお前は、本当のお前ではないぞ」と。

 そういうこともあって、私は、結婚してからも、「暖かい家庭」を恋こがれる一方、どこかいつ
も、ぎこちなかった。だいたいにおいて、私の中には、しっかりとした父親像すらなかった。

 離婚の危機を迎えたのは、そういう私に原因があった。加えて、私は、昔からの男尊女卑思
想の強い土地柄で生まれ育っている。はじめのころは、ワイフの反論や、反抗を許さなかっ
た。いや、ワイフも必死だった。だから、いつも喧嘩は、「なんだ、その言い方は!」で始まっ
た。

 もし反対の立場なら、私はとっくの昔に離婚していただろう。が、ワイフは、人一倍、辛抱強い
女性だった。それに私の、将来の生真面目さと、それに家族への、人一倍強い、熱望を理解し
ていた。

 かろうじて、本当にかろうじて、私たちが離婚しなかったのは、そういう理由による。いや、そ
れでも、そういう危機を迎えたことがある。

 ワイフが、おかしな新興宗教団体に通い始めたからである。私たちの間には、喧嘩が絶えな
くなった。離婚の危機というのは、そういうとき起きた。そして最終的には、離婚か、さもなくば、
私も入信かという状況まで、追いこまれた。

 そのときのこと。私は、最後の最後のところで、プライドを捨てた。捨てて、「離婚はいやだ」と
泣いた。ワイフは、それで思いとどまってくれた。……と思う。今でも、かろうじて「夫婦をしてい
る」ということが、その結果である。

 実は、今日、ある男性からメールをもらった。その内容については、了解をもらっていないの
で、ここに掲載することはできない。しかし以前、私が迎えたと同じような危機的な状態にいる。

 その男性は、子どもの親権を男性(夫)のものにすることで、離婚に同意したという。(まだ正
式には離婚していない。)私は、そのメールをもらって、いあたたまれない気持ちになった。だ
から、返事には、こう書いた。

「昔、宝島という本を書いた、スティーブンソンという
人は、こう言っています。

『我等が目的は、成功することではない。失敗に
めげず、前に進むことである』と。

スティーブンソンは、ほかに、『ジキル博士とハイド氏』
という本も書き、そのあと放浪の旅に出ます。

実のところ、私も、この言葉に、何度も励まされ
ました。「失敗にめげず、前に進むことだ」と。

どんな夫婦も、そのつど離婚の危機を
乗り越えています。同窓会などで会っても
みな、そう言っています。

で、そのとき、最後の最後で、ふんばるかどうか、
その違いが、運命を大きく変えます。

だからといってYT様が、ふんばっていないと
いうのではありません。それでもふんばりきれない
ときも、あるのです。

しかしいただいたメールから判断すると、
奥様のほうが、もう少し自分を見つめる機会が
あれば、今の危機的状況を回避できるような
気がします。

つまり奥様が、自分自身のトラウマに気づいて
おられないように思います。そしてそれに奥様
が気づけば、このまま離婚に至らなくても
すむように思うのです。

みながみな善良な人達なのですが、どこかで
たがいにキズつけあってしまう……。そんなこと
は、よくあります。

つらいですね。多分、その気持ちはYT様の
ほうが強いのではないかと思います。

そこに幸福があるのに、そしてみなが、ほんの
少しだけ心を開けば、その幸福が、向こうから飛び込んで
くるのに、みなが、どこかで意地を張って、わざと
背を向けてしまう……。

そんな印象をもちました。

どうでしょうか?

一度、あなたのほうから、心を開き、敗北を
認め、頭を地面にこすりつけてみては……。

『お前が好きだ。お前ないでは生きて行かれない』と
です。

まだ夫婦なのですから……。

いらぬお節介かもしれませんが、日本語には
すばらしい格言があります。

『負けるが、勝ち』と。

負けて負けて、負けつづけるのです。
自尊心も、プライドも捨て、裸になって、
自分をさらけだすのです。

その純粋さが、相手の心を溶かします。

……で、仮に、それでも、離婚ということに
なっても、あなたは必ず、すがすがしいものを
感じます。

負けるのです。負けを認めるのです。
それは勝つことより、ずっと勇気がいることですが、
それが夫婦の絆を取り戻します。太くします。

もっとも、あなたのほうが、『愛』を感じないようで
あれば、おしまいですが……。

もしたがいの愛が少しでも残っているなら、
そうしなさい。

女性というのは、勝たせておけばいいのです。
男というのは、負けたフリをしながら、妻(女性)を
自分の支配下におけばよいのです。

まだ最後のチャンスがありますので、あきらめない
でください。

頭を地面にこすりつける。相手がその状態で
足で蹴っても、ただひたすら、懇願する。
プライドなんか、クソ食らえ(尾崎豊)です。

こう書くのは、あなたのためです。

それでも、破綻するなら、それはもうあなたの
責任ではない。あなたの運命です。

やるだけのことをやったという思いが、
そのあと、あなたの立ち直りを早くします。
あなたは過去を振りきって、前に向かって
進むことができます。そのためにも、
負けを認めます。無理にがんばらないで、です。

本当にいらぬ節介をしていますが、
どうか気分を悪くしないでください。

私も、何度か、離婚の危機に立たされた
ことがあります。

一度は、最悪の状態になったこともあります。
しかし私は最後の最後のところで、
頭をさげました。負けを認めました。
いつか機会があれば、別のところで
それについて書いてみます。

みんなそんな危機など、一度や二度は
経験します。どうでしょうか?

もうだめでしょうか。
『子どものため』ということは、この際、あまり
考える必要はないと思います。

あくまでも、あなた自身を見据えて、結論を
出してください。

このつづきは、また今夜、考えてみます。
こうした気持ちが、YT様や、奥様に
伝わればうれしいです。

では、今夜は、これで失礼します」と。

 一〇年も、夫婦をしていれば、一度や二度、離婚の危機はやってくる。二〇年もしていれば、
もっときびしい危機がやってくる。しかし三〇年もしていると、やがてあきらめる。人生の終わり
が近づいてくるからだ。

 そのとき、二つの考え方が生まれる。一つは、「まあ、こんなもの」と、それまでの人生を受け
入れる考え方。もう一つは、「最後の最後だから」と、それまでの人生を清算する考え方。熟年
離婚する人の考え方は、後者の考え方に基づく。

 離婚することが悪いというのではない。あくまでも本人たちの問題だから、本人たちが納得す
れば、それはそれで構わない。ただ世の中には、暖かい家庭を恋焦がれるあまり、それが原
因で失敗していく人も多い。私はこういう人を、「悲しきピエロ」と呼んでいる。

 人を笑わせようとするのだが、少しも、おもしろくない。楽しくない。その人自身が、おもしろい
と思っているだけ。だから演技すればするほど、まわりの人がしらけてしまい、やがて観客はだ
れもいなくなる……。

 あなたや私に、何がある? ごく平凡な生活に、ごく平凡な人生。それ以外に、何がある? 
そんな庶民が、身を支えあいながら、懸命に生きている。大きな幸福なんてものは、ない。噴
水があるような、ガーデンに咲く花など、望むべくもない。道端に咲く、小さな花を、「美しい」と
思いながら、またそう思いこみながら、生きている。

 そんな庶民が、あえて自ら、小さな、小さな幸福に、背を向けてしまう……。

 よく誤解されるが、離婚が離婚になるのは、たがいの関係が、破局するからではない。最後
の最後まで、どちらかが、がんばってしまうからだ。心を開かず、意地を張るからだ。そしてそ
こにある小さな、小さな幸福に、背を向けてしまうからだ。

 愛がなければ話は別だが、まだ愛が残っているなら、勇気を出して、心を開く。空に向って、
心を解き放つ。あとの結果は、自然とついてくる。意地なんて、クソ食らえ! プライドなんて、
クソ食らえ!

 もちろん、それでも離婚する人は、離婚する。運命というのは、いつも、結果として、あとから
ついてやってくるもの。しかしそのときは、そのときで、その運命を受け入れることができる。ま
ずいのは、「こんなはずではない」「こんなはずではなかった」と、ズルズルと、悔恨の地獄の中
に、身や心を、引きずりこまれること。

 そうならないためにも、一度、裸になる。素っ裸になる。そして自分の心と体を、相手にさらけ
出す。白日のもとに、さらけ出す。

 あとのことは、相手に任せばよい。そういうあなたを理解せず、また理解できないで、去って
いくというのなら、それも、人生。それも運命。相手にだって、その人生や、運命がある。離婚と
いっても、ただの紙切れ。ただの制度。あとは、たがいに、前向きに生きていけばよい。
(031014)








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どものやる気(2)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

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……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思い
ます。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりまし
たが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょう
か?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるま
でにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちな
ので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価とし
て得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大
変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難
しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを
買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親
がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしま
いました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

++++++++++++++++

 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなか
った」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、
結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく
気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、(1)子どものやる気
と、(2)金銭感覚について、考えてみたい。

++++++++++++++++

(1)子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定
されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足
させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹
感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たと
えばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不
安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方
に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができ
る。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自
分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこ
む日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて
乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽
しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。こ
れが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引
き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができ
る。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、
と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出して
いく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大
するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる
気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは
言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子
どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」
が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

++++++++++++++++

(2)子どもの金銭感覚

子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておき
ます。参考にしてください。

++++++++++++++++

子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

++++++++++++++++++++++

参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。

++++++++++++++++++++++

好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、
気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようにな
る。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪い
ことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避
けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」とい
う。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。た
とえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩
行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があった
からである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかっ
たとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれな
い。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私
たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあって
いる。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。
この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこ
よさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであ
ることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がい
る。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言
葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう
教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えること
を考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はま
ちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題
ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのす
っきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツ
と暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の
中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オー
ストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛に
あふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で
生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿
というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの
世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中で
みると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことが
できる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速
に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っ
ていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても
気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさい
よ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づい
ていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではな
く、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許
されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あと
は負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないよう
にするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことにな
る。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのは
ず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本
では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化し
てきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片
鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人
に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの
心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を
大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。

+++++++++++++++++++

自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。
が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛
藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的に
なること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行な
どがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまっ
た。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、
それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテス
トの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、(1)今の状
態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。(2)今の状態が最悪ではなく、さらに二番
底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、(3)一年単位で様子をみる。
「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応
じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、
さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思
うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナ
ス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉
強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しな
い。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったに
ないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口
にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなと
きには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子ど
もに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう
姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それが
ムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。

++++++++++++++++

 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)
(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、
つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

孫論

 孫の世話が、かくも大変とは、思ってもみなかった。まさに一瞬たりとも、気が抜けない。自分
の子なら、まだ無責任になれる。しかし孫だと、そうはいかない。今日も、息子夫婦は、孫を私
たちに預け、買い物に出かけた。

 「孫はかわいい」と、世間一般の人は言う。たしかに「かわいい」。しかし「かわいいはず」と押
しつけられるのも、困る。どうして、こんなにも、疲れるのか。

 そこで私は、なぜそうなのかを、考えた。

 理由の第一。生活のリズムが、完全に狂う。若いときならともかくも、四〇歳、五〇歳ともなる
と、自分の生活のリズムができてくる。たとえば私のばあい、朝五時ごろ起きて、原稿を書く。
七〜八時ごろ、朝食をとって、それから一、二時間、眠る。あるいは昼過ぎに、仮眠をとること
もある。

 そういったリズムが、完全に狂う。おかげで、この一〇日間、生活のリズムは、狂いぱなし。
これがどうやら、疲れる原因らしい。

 つぎに、若い人たちは、自分のリズムで、子育てを考える。そしてその延長線上で、「孫」を、
勝手に位置づけてしまう。「おじいちゃん、おばあちゃんなら、孫の世話をしていれば、幸福の
はず」「孫の世話なら、喜んでするはず」と。

それは、祖父母の立場で、たとえて言うなら、夕食に、ピザを押しつけられたような感じ。お茶
漬けを食べたいと思っていたら、食卓にピザが並んだ! さあ、あなたなら、どうする?

 「おいしい」「おいしい」と笑いながら、ピザを食べるか? それとも自分たちだけ、お茶漬けを
食べるか?

 ……というようなグチを言っても始まらない。しかし、おかしなものだ。自分の子どもを育てる
ときは、それほど重労働だとは、思わなかった。そういう点では、無我夢中だった。しかし孫の
世話は、本当に、たいへん! 体力、気力の勝負。

ワイフは、こう言った。「やっと子育てから解放されたと思ったら、今度は、孫の世話。これじゃ
あ、体がいくつあっても、足りないわね」と。もっとも、ワイフのばあい、むしろそれを楽しんでい
る様子?

 今、私は、自分の生活の中で、新しいドラマを展開しつつある。どんなドラマになるかわから
ないが、こうした苦労が、また別の新しい喜びを生み出す。それがわかっているから、私は、じ
っと、耐えるしかない。

 さあ、来い! 孫でも、何でも、来い!、と。

 この先、私は、どうなるか。それは私にも、わからない。どんなふうに考えるようになるかも、
わからない。近所のMさん(六〇歳、女性)は、こう言った。

 「孫が遊びにくるのは、楽しみだが、一週間もいられると、ヘトヘトに疲れる。帰るとき、孫が、
『おばあちゃん、また来るからね』と言う。私は、一応、『また、おいでね』と答えるが、本当のと
ころ、もうたくさん」と。

 そのMさんの気持が、よくわかる。が、ひとつの参考にはなるが、私はMさんのようには思い
たくない。ヘトヘトに疲れることの中から、新しい何かを見つけたい。しかし、それができるかど
うか……? 私は、今、かつて経験したことのない、未知の世界にいる。(少し、大げさかな…
…。)このつづきは、また報告する。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

無文化の国

 恐らく、アメリカ人自身は、そうは思っていないだろう。しかし日本人の私たちから見ると、そ
れがよくわかる。

 アメリカ人の嫁さん(二五歳)を見ていると、日本人とは違う、何かを感ずる。その一つが、伝
統や文化に対する考え方が、まったく違うということ。「違う」というより、そういうものを理解する
素養が、まったく、ない?

 その嫁さんは、アメリカでも中南部の、牧場で育っている。昔見た、映画「ローハイド」の世界
である。カウボーイが行きかう、「荒野の決闘」の世界である。あのあたりは広いだけで、何も
ない?

 逆の立場なら、日本の古い神社や寺を回りたいと思うが、そういうものには、興味を示さな
い。フラワーパーク(浜松の西にある、花園公園)や、動物園へは行く。大きなショッピングセン
ターにも行く。

 昨日も、ワイフが、「今度のパーティに着物を着たいの?」と聞くと、「ママ(=ワイフ)が、そう
してほしいなら、そうする」と。日本の着物(和服)にも、あまり興味を示さない?

 そこでワイフと、こんな会話をした。

 「アメリカ人には、文化や伝統を理解する、その素養すらないのでは?」と私。
 「それは感ずるわ……」と私。
 「あるいは、日本の文化や伝統は、文化や伝統ではないと思っているのかもしれない」
 「アメリカ式の合理主義かもしれないわね。すべてを合理的に考える」
 「それもある」と。

 もっとも、いろいろなアメリカ人がいる。数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア
人夫妻は、時間を惜しんで、あちこちを回っていた。だから嫁さんだけを見て、「アメリカ人は…
…」と論ずるのは、危険なこと。それはわかっている。

 「だったら、日本のよさを、教えてあげなければならない」と私。
 「日本のよさって?」とワイフ。
 「どこかの寺に連れていき、そこで、静寂な心を楽しんでもらうとか……」
 「でも、押しつけであってはいけないわ」と。

 いろいろ気を使う。改めて言うが、日本人の嫁さんなら、こういう気を使うこともないのだが…
…。あああ。

 しかし反対に、日本の小さな祭を見たりすると、インディアンの儀式のように思うかもしれな
い。そういう気持も、何だかわかるような気がする。

 それにアメリカ人というのは、心の動きが、まったくストレート。日本人なら、相手に合わせ
て、自分をごまかしたりするが、そういう習慣そのものがない。それだけにわかりやすいと言え
ば、わかりやすい。しかしその分だけ、奥ゆかしさがない?

 先日も、「どこかで焼きそばを食べようか?」と声をかけると、「ノー。私は、焼きそばは、嫌い
です」と。

 日本から送った、インスタントの焼きそばの印象が悪かったらしい。しかしそう、はっきりと断
られると、返す言葉がなくなってしまう。日本人の嫁さんなら、こうまではっきりとは言わないだ
ろうなと思いつつ、こちらも黙ってしまう。比較しては、いけないのだが、つい比較してしまう…
…。

 さてさて、本当に、いろいろある。毎日、頭の中で、バチバチと脳細胞が、ショートしている感
じ。

 さて、今日は、結婚記念日とか。孫の誠司を預かってほしいとか。二人でどこかで食事をした
いとか。

 またまた、はやし浩司は、孫の世話でござ〜る。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

先祖思想

 少し前だが、抗議のメールをもらった。しかしこうした抗議は、もううんざり。その人(女性)
は、こう言った。

 「ご先祖様を大切にするのは、日本人の心です。あなたは、どうしてそれを否定するのです
か?」(埼玉県K市)と。

 私は、一度だって、先祖を否定したことはないのだが……?!

 しかしここで冷静に考えてみてほしい。

 仮にA家という「家」があったとする。そのA家は、代々つづく、名家だったとする。それはそれ
でかまわない。で、その家に、B家という家から、一人の女性が嫁いできたとする。問題は、こ
のとき、起こる。

 A家の祖先は、もとからそこに住んでいた人にとっては、先祖かもしれない。が、その女性に
とっては、先祖ではない。その女性にとっては、B家の祖先が先祖ということになる。

 が、その女性は、A家に嫁いできたとたん、A家の祖先を、自分の先祖と思わなければならな
い。そして夫の祖先を、「ご先祖様」「ご先祖様」と言わなければならない。

 ……となると、その女性の「人権」は、どうなるのか? あるいは女性というのは、ただの財産
(家の付属物)に過ぎないのか。抗議をしてきた人が、男性なら、まだ話はわかる。そのとき
は、その人が女性だっただけに、たいへん気になった。

 話をもどす。つまりその女性は、A家に嫁いできたとたん、それまでの過去を断ち切られ、A
家のモノとなる。事実、少し前まで、日本には、そういう風習が、まだ色濃く、残っていた。「嫁に
くれてやる」「嫁をもらう」という言い方も、ごく一般的になされていた。

 昔は、女性は、「夫」と結婚するのではなく、その「家」と結婚した。「嫁」という漢字にしても、
「家の女」と書く。

 私は、そういう風習はおかしいと言っている。それだけのことである。結果として、先祖思想を
否定することになるかもしれないが、それは私の知ったことではない。

 結婚は、あくまでも一組の男女の合意と、納得の上でなされるもの。そこに「家」が介在する
余地など、まったく、ない。いわんや、女性を、モノに考えてはいけない。またそういう思想を許
してはならない。

 そのメールをもらったとき、即座に、そのメールは、削除した。こうした抗議は、反論するのも
疲れる。しかしそれからしばらく時間が過ぎた。多分、その人は、もう私のことなど、忘れている
だろう。だから、一応、こうして反論の記事を書いておくことにした。

 どうぞ、ご勝手に。私は私。あなたは、あなた。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

基底不安

 乳幼児期に、母子との関係で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どもは、そののち、「不
安」を基底とした、生き方になってしまう。つまり、どこにいても、何をしていても、不安の影から
逃れることができなくなる。こうした不安感を、「基底不安」という。

 この状態は、子育てをしていても、解放されることはない。「この子は、無事、おとなになれる
のかしら?」と思ったとたん、言いようのない、不安が心をふさぐ。あとは、不安の連鎖。

 しかし問題は、この先。

 親が不安になるのはし方ないとしても、その不安を、子どもにぶつけてしまう人がいる。「こん
なことでは、A中学に行けないわよ」「こんなことで、どうするの!」と。

 このタイプの親は、子どもの将来を心配しているようで、その実、自分の不安を子どもにぶつ
けているだけ。それはそれだが、しかしこの基底不安と戦うのは、容易ではない。「根」が深い
分だけ、自分の意思では、どうにもならない。

 ただ、自分が、そういう人間であることに気がつくことにより、その不安を、自分の中だけで、
とどめておくことができるようになる。不安になっても、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と。

 どんな人にも、それぞれ心の問題がある。ない人は、いない。基底不安もその一つ。だから
大切なことは、そういう心の問題を発見したら、それと戦って、どうこうしようとすることではなく、
うまくつきあうこと。

 基底不安についても、それを感じたら、そのテーマから、逃げるとか。あるいは別のテーマ
に、自分の頭を切りかえるとか。

 私も、無数の、心の問題をかかえている。で、長い間の経験から、自分で自分がおかしいと
感じたら、そのときは、穴の中に入ることにしている。

 その問題は考えない。結論を出さない。口を閉じて、静かにしている。行動をしない、など。そ
れを私は、「穴の中に入る」と言っている。以前は、そういう自分がいやで、何とかしようと考え
た。一時は、禅道場に通ったこともある。しかし根気がつづかなかった。

 で、結局、あきらめた。心の問題は、顔のキズと同じで、消そうと思っても、消えるものではな
い。そう結論を出すのは危険なことだが、私は、そう思った。そう思って、自分を納得させた。
居なおった。

 総じてみれば、日本中の親たちが、その基底不安なのかもしれない。その基底不安の中で、
子育てをしている。いや、日本の社会そのものが、基底不安の上にある? まさにどこを向い
ても、不安だらけ? そして皮肉なことに、その不安が、日本の原動力となった?

 私たちの年代の男たちは、働いていないと、落ちつかないという。休みになっても、考えるの
は、仕事のことばかり。話が、ぐんと脱線した感じだが、基底不安というのは、そういうもの。さ
てさて、あなたはだいじょうぶ?
(031012)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞










件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■アメリカ人の嫁さん

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

悪筆、言ってなおらず

 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきり
とわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。

その運筆能力は、子どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれ
いな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸
を描く。(縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一
度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描
くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというの
は、それだけたいへんということ。)

 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。そもそも運筆能力
のない子どもに書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになるが、今度は時
間ばかりかかって、先へ進めなくなってしまう。

学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけない子どもはいくらでもいる。

以前、M君(小二男児)がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだ
ノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM
君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て心底驚いた。文字がめちゃめちゃだった
のだ。しかしそれがM君の本来の文字だった。

 運筆能力を養うためには、塗り絵がよい。塗り絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。その
塗り絵で訓練すると、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。
そうなればしめたもの。(塗り絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうと
するから、線があちこち飛び出したりする。)

文字の学習に先立って、子どもには塗り絵をさせる。あとあと文字がきれいに書けるようにな
る。

 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。
鉛筆は、親指とひとさし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそ
れが正しいもち方ということにはならないが……。)

鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもて
る子どもは約五〇%。クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわ
めて変則的なもち方をするのがわかっている(筆者調査)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ふつうこそ最善

 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づ
き、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさ
もまたしかり。

 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったの
は奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは
変わってしまった。

二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでいい」と思いなおすよ
うになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登校を繰り返した。中
学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつど、「生きているだ
けでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点など)を見ろ」というのではな
い。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するか
ら不思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性
(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小
便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、
黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたいうのだ。

私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その
人のそのときの気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えることがある。

 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外
は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年も
していると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。

たとえば今、同年齢の多くの友人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし
私はそうした成人病とは無縁だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「あ
あ、運動をつづけてよかった」と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通したも
のではないか。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】嫁さん論(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●アメリカ式、夫婦観

 二男の嫁さんを見ていると、日本の若い女性たちより、ずっと、嫁さんらしい。すべてに控え
めで、おとなしい。ヘンダーソン州立大学の文学部を、首席で卒業したというような、雰囲気
は、どこにもない。

 で、今朝、こんな会話をした。

 「日本では、亭主関白という言葉がある。英語では、ショウブニストというのか。あなたを見て
いると、二男の亭主関白ぶりを、容認しているかのようにも見えるが」と、私が言うと、嫁さん
は、こう言った。

 「アメリカでも、中南部では、まだ、男の力が強い。とくに私の祖父がそうだった。それに父も
そうだ」と。

 「男女は、平等ではないのか?」と聞くと、「平等だけど、中南部の州では、まだ遅れている」
と。

 すると、嫁さんが、こんなことを教えてくれた。

 「私の母は、いつも、『夫は、頭(ヘッド)よ。妻は、首(ネック)よ。いろいろ判断するのは夫の
役目だけど、その頭を動かすのは、妻よ』と言っているわ」と。

 英語では、こう言う。

 「The husband is the head of the family but the wife is the neck. And the neck can turn 
the head any way she chooses. 」と。

 もう一つ、こんな言い方も。

 「The secret of being a good wife is to make the husband feel like he is in charge or making 
the decisions. 」

 つまり、「よき妻である秘訣は、夫に、自分の責任を感じさせ、決断をさせるようにもっていく
こと」と。

 「日本でも同じように考える」と話すと、嫁さんは、ニンマリと笑った。

 嫁さんの母親が、日本人形をほしいと言っているので、これからみんなで買いに行くところ。
孫の誠司が、だいぶ、私に心を許すようになってきた。わけのわからない言葉で、私にいろい
ろ話しかけてくる。
(031016)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●披露パーティ

 今度の日曜日。山荘で、パーティをすることにした。二男の披露パーティである。招待する人
は、二〇〜三〇人前後になる。その日になってみないと、正確な人数は、わからない。ずいぶ
んといいかげんなパーティと思う人もいると思うが、それが私たちのやり方。

 料理は、簡単で、おいしいのが、海賊焼き。海の幸をたくさん買ってきて、それを鉄板の上
で、豪快に焼く。あとは、タレをつけて、白いご飯の上にのせて、食べる。

 もう一品は、海賊ナベ。本当に、そんな料理があるのかどうかは、知らないが、大きなナベ
に、いろいろなものをほうりこんでつくる。

 実は、どこかのレストランでしようと考えたが、どうも、落ちつかない。Hレストランは、気取り
すぎ。Gホテルも、そう。Kホテルは、値段が高い。部屋代だけで、七万円とか! それで山荘
にした。市場で買えば、大きなタラバガニでも、三、四〇〇〇円で買える。手長エビも、四〇〜
五〇匹が、一万円前後。部屋代だけで、豪華な料理が楽しめる。 

 そこで改めて、考えてみた。

 アメリカには、もちろん、結婚式場というのは、ない。日本でいう披露宴にしても、教会で式を
あげたあと、どこかの公民館で、簡単にすます。もちろん、引き出物とか、そういうものを渡す
習慣もない。

 日本では、式場で式をすると、数百万円もかかる。私の友人には、その式場の支配人をして
いる人もいるから、こう書くのは、つらい。しかし正直言って、ああいうのは、ムダ。本当に、意
味がない。あるいは、どんな意味があるというのか?

 結婚式は、形ではなく、中身。少なくとも、今のように、その人の年収を超えるような費用を、
一回の結婚式で使ってしまうのは、バカげている。何とか、ならないものか。これは日本人の意
識の問題。

 豪華な式場でないと、招待する人に対して、失礼という誤解。しかし本音を言えば、式場での
結婚式は、肩がこる。窮屈。退屈。

 お金をかければかけるほど、すばらしい結婚式という誤解。しかし本音を言えば、目的は、見
栄、体裁、メンツ、世間体?

 さらに日本では、結婚というと、昔から、「家」と「家」のつながりを意味する。そういう風習が残
っている。地域によっては、そのため、結婚式には、近所の人たちまで招待する。

 こうした風習は、日本の文化なのか。風習なのか。それとも守るべき、伝統なのか?

 ……とまあ、否定的なことばかり書いても、しかたない。私の友人にも、申し訳ない。彼は、式
場の模様がえをするとき、わざわざイタリアまで出かけていって、向こうの教会を、調べてき
た。結婚式を、人生の祭と考えれば、それほど、深刻に考える必要もない。気楽に考えて、気
楽にやればよい。

 ……となると、またもとの話にもどってしまう。

 昔、こんなことを言う人がいた。「女性にとっての結婚式は、人生の晴れ舞台。しみったれた
ことをすると、かえって花嫁をキズつけることになる」と。

 しかしこれほど、「女性」を、バカにした言葉もない。そんなことでキズつくような女性なら、結
婚などしないことだ。
 
 ……どう考えても、気楽に考えることができない。どこかで結婚式がゆがみ、ゆがんだまま、
結婚式が、現在の形になってしまった。

 しかし今、「家」に対する考え方が、大きく変わりつつある。親戚づきあいのし方も変わってき
た。多くの人が、遠くの親類より、近くの友人……と考えるようになってきた。それがよいとか悪
いとか言うのではない。これからの人たちが、そういう道を選び始めたということだ。

 一例として、老後の親のめんどうをみると答える若者が、減っている。
 老後、息子や娘の世話にはならないと答える、旧世代が減っている。
 
 当然、結婚に対する意識も変わりつつあるし、結婚式に対する考え方も、変わりつつある。
派手な、意味のない結婚式から、質素な、中身を求めた結婚式へ、と。結婚式そのものが、多
様化している。ちなみに、私たち夫婦は、披露宴をしていない。深い考えがあってしなかったと
いうのではない。それをするだけのお金がなかった。

 しかし今になってみると、そういう生きザマが、そのまま私たちの生きザマの基本になったよ
うな気がする。息子たちにも、私はこう言っている。「結婚式は、相手の女性の意見や希望を
聞いてしたらよい。うちはどんな方法でも、まったく、かまわない。しなくても、かまわない」と。

 さて、その披露宴で、三人の息子たちが、バンドを組んで演奏するという。長男がボーカル。
二男がギター。三男がドラム。今、隣の部屋から、スピッツの曲が、ガンガンと聞こえている。

昔から、本当に、騒々しい連中である。
(011014)

【追記】
 本当のところ、披露パーティなど、するつもりはなかった。ただ、嫁さんを、みんなが歓迎して
いるという、その心だけは伝えたかった。

 そこで相談すると、ワイフの兄弟たちが、みな、協力すると言ってくれた。昔から、心の暖か
い人たちだ。で、このように、おおげさになってしまった。

 しかし嫁さんは、だいじょうぶだろうか? もし、私やあなたが、アフリカの原住民の中に、い
きなり落とされたらどうなるか? まわりは見知らぬ人間ばかり。顔も形も、違う。おまけにジロ
ジロ、見られたとしたら……。今夜も、コタツの中で、ワイフは、それを心配した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●アメリカ風、子育て論

 嫁さんの子育て法を見ていて、いくつか気づいたことがある。

 その一つは、絶対に、子どもをひとりにしないこと。子どもが寝ていても、どこにいても、母
親、もしくは父親が、近くにいる。日本人なら、こういうとき、子どもをひとりにして、親は、何か
ほかのことをするのになあ、と思うようなときでも、である。

 ワイフもそれに気づいて、「アメリカでは、そうみたい」と。

 それについて以前、二男がこう言った。

 「アメリカでは、誘拐事件が頻繁(ひんぱん)に起きている。だから、おかしいほど、親たち
は、神経質になっている。日本のように、子どもたちだけで、学校へ歩いていくなどということ
は、アメリカでは考えられない」と。

 もちろん子どもだけを家に残して、親が外出するなどということも、ありえない。そういうことを
親がすれば、「要保護者遺棄罪」という罪に問われる。

 そうして考えていくと、日本は、まだよい国だ。いろいろな事件が起きてはいるが、まだまだ安
全な国である。大切なことは、こうした「安心感」を、いかに守っていくかということ。

 もう一つは、親は、子どもに向かって、決して怒鳴らないこと。うちの嫁さんだけかと思って聞
いてみたら、アメリカでは、どこの家庭でもそうだとのこと。怒鳴るだけでも、虐待とみなされる
とか。ゾーッ!

 だから嫁さんの子育て法をみていると、実に静か。キャッ、キャッと、いつも子どもの声しか聞
こえない。

 ついでにもう一つ。

 こういうビデオが日本にもあるのかどうかは知らないが、アメリカには赤ちゃん用のビデオが
ある。

 ボールがコロコロところがるとか、人形がコトコト動くとか、ぬいぐるみのネズミがチョロチョロ
動くとか、そういうもの。当然、単純なものだが、それが結構、子どもの心をとらえるようだ。孫
(満一歳)も、そのビデオを見ているときだけは、おとなしい。ときに音楽にあわせて、体を上下
にスウィングしたりしている。

 さらにもう一つ。

 これはワイフの意見だが、相手が赤ちゃんでも、決して、子どもあつかいしないこと。ワイフで
さえ、「あんなにおとなあつかいして、誠司(孫)がかわいそう」と言うほど。

 いくら誠司が嫁さんに甘えても、ダメなときは、ダメと、嫁さんのほうが譲らない。

 決して嫁さんが冷たいというのではない。むしろ反対で、子どもの心をそのつど、しっかりと、
確かめながら子育てをしている。日本では、子どもの意思を無視して、親のほうが子どもを先
導することが多い。しかし嫁さんは、それをしない。小さな孫に向って、「どうするの?」とか、聞
いている。(答えるわけがないのに!)

 同居して、もう二週間になる。その間、嫁さんが、孫に向って何かを命令しているシーンを、ま
だ一度も見たことがない。「アメリカ人は、人に命令されるを嫌う国民」とは、話には聞いていた
が、赤ん坊のときから、こうまで徹底しているとは!

 同じ人間だが、日本人の子育てと、アメリカ人の子育ては、基本的な部分で、かなり違うよう
だ。
(031015)

【追記】さきほど、二階の書斎にいる私に向って、誠司が、「アー・ユー・ゼア〜?」と、階段の下
から叫んだ。「あんた、そこにいるの?」という意味である。そのことを嫁さんに話すと、「Sage
は、まだ、言葉を話せない」とのこと。しかしたしかに、そう聞こえた?

 それに、今日は、私のことを、「ジージー」と呼んだ。あとで、だれがそんな言葉を教えたのか
と聞くと、ワイフが、「私」と答えた。

 とんでもない言葉を教えるものだ。そこでワイフを叱ると、「じゃあ、あなたを何と呼べばいい
のよ?」と。

 「ヒロシでいい。向こうでは、教授も、父親も、祖父も、ファーストネームで呼んでいる」と。

 するとワイフが、「それはおかしい」と。おかしいか、おかしくないかは、国際感覚の違いによ
るもの。私には、ゼンゼン、おかしくない!

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

山荘ライフ

●随筆、1257号

子育て随筆を書き始めて、ここで第1275号になる。

 その「1257号」という数字を打ちこんだときのこと。「257」という数字が、妙に気になった。
で、理由は、すぐわかった。

 浜松市の中心部から、北へ、国道257号線がのびている。私は自分の山荘へ行くとき、いつ
もこの街道を利用している。このあたりでは、「ニゴナナ」と呼んでいる。私たちは山荘を建てる
とき、このニゴナナを、毎週、しかも六年間、通った。

●山荘ライフ

 山荘そのものは、地元の建築会社に建築してもらった。理由がある。

 私たちは自分の山荘を建てるにあたって、あちこちの山荘を見て歩いた。ほとんどが見知ら
ぬ人のものだが、そのとき、こんなことに気づいた。

(1)中途半端な山荘を建てると、かえってお金がムダになる。
(2)ワイフ様や、家族様が、来たがるような山荘でなければならない。
(3)少なくとも、町の中の自宅よりは、魅力的でなければならない。
(4)あとで、売却できるような山荘(土地)でなければならない。

 数百万円もあれば、小屋のような山荘を建てることはできる。しかしそういう山荘は、すぐボ
ロ家になる。つまりかえってお金がムダになる。

 川のほとりにあった、ある山荘は、そのあと、数年後に行ってみると、物置小屋に変身してい
た。中途半端な山荘は、たいていそういう運命をたどる。

 山荘ライフは、ひとりでは楽しめない。当然、ワイフや家族の協力が必要。「自分だけ楽しめ
ば……」という考えでは、山荘は維持できない。みなが、週末を楽しみにするようにもっていくの
が、コツ。

 山荘の魅力は何といっても、自然。町の家と同じ、あるいは町の家より環境が悪いということ
であれば、山荘を建てる意味はない。ただし、私の実感では、浜松市内の人で、約五〇%が、
こうした自然生活を好み、約五〇%の人は、そうでないということ。

 私の三人の息子についても、長男は、山荘ライフには、ほとんど興味なし。二男は、自然派。
三男は、自然派だが、都会生活のほうをより好む……というように、意見が分かれている。

 「ここはいいところだろ」と、自分の思いを、相手に押しつけてはいけない。中には、小さな虫
を見ただけで、逃げ回る人もいる。あるいは山道の急坂がこわくて、車を運転できないと言う人
もいる。人、さまざまである。

 また山荘というのは、いつか売らなければならないかもしれない。資産価値を、ある程度、考
えて建てる。

●自分で建てる

 家そのものは、しかたないにしても、できるだけ、自分たちで建てる。実は、そこに山荘ライフ
の本当のおもしろさがある。

 私たちは、山荘を建てるまでの六年間、ほとんどの工事を自分たちでした。決して、楽な工事
ではなかった。とくに小山を切り開いて、平らにする工事は、たいへんだった。ユンボで削るた
びに、かえってデコボコになったりした。

 よく新聞のチラシなどに、どこかのインチキ業者が売りに出す、「別荘用土地(?)」がある。し
かしああいう土地に手を出してはいけない。たいていは、その土地の時価の、数一〇倍の値
段。あるいは山の北側斜面や、川のそばの、「どうしようもない土地」であることが多い。

 川のそばというと、何となく魅力的だが、川のそばの土地は、買ってはいけない。夏をはさん
で、湿気がひどく、蚊やアブ、ヘビに悩まされる。シイタケのほだ木でも、ふつうは、数年〜五年
ほど、もつ。が、川のそばだと、一年くらいで、腐ってしまう。もちろん、家も。

 山荘を建てるときの、最大の問題は、水と、その排水。とくに「水」。電気やガスは、何とかな
る。しかし水だけは、安易に考えてはいけない。

 私の山荘の水は、五〇〇メートルくらい離れた山から、パイプで引いている。しかしそのパイ
プとて、いろいろな人の土地を横切るため、そのつど、地主の許可を得なければならない。決
して、簡単な工事ではなかった。

 排水については、近所の農家の人たちの不安をやわらげるため、浄化槽を二つ、つなげて
設置した。そしてその排水は、さらに三〇〜四〇メートル先の山の中(自分の土地)へ引き、そ
こで浸透マスをつくり、その中に流すことにした。その工事も、自分たちでした。

 こうした工事は、たいへんなものだが、しかし前向きに考えれば、それもまた楽しい。少しず
つ、山荘ができていく楽しみは、何ものにも、かえがたい。

●で、今は……

その山荘ライフも、山荘ができてから、もう一〇年になる。この間、事情が、大きく変わった。

 まず息子たちが、みな、巣立ってしまった。

 つぎに、私やワイフの体力や、気力が、衰えてしまった。まだ五、六年前まで、必要な家具
は、自分で作ったりしていた。が、このところ、急速に、それをするのがおっくうになった。

 以前は、数日、つづけて連泊することもあったが、今は、たいてい日帰り。しても、一泊。夜
は、ビデオを見たりして過ごす。以前のように、山道を作ったり、シイタケのほだ木を作ったりし
たりするということは、もうない。

 料理も、弁当が多くなった。そういう意味では、当初、私たちが考えていた山荘ライフとは、か
なり違ったものになってしまった。しかし、「もう、じゅうぶん、楽しんだわ」(ワイフ弁)というとこ
ろか。

 まだ売却するところまでは、考えていない。しかし山荘へ向うのもおっくうになったら、売却す
るしかない。何といっても、年齢には勝てない。

 ただよく誤解されるが、山荘というと、維持費がたいへんと思う人も多いかもしれないが、実
際には、電気、ガス、それに水道の謝礼をあわせても、月に、一万円弱。ほかにお金を使うと
ころもないから、一度建ててしまえば、結局は安あがりになる。

 何よりもよいのは、「週末はどうしようか?」と迷う必要がないこと。週末の朝になると、私もワ
イフも、何となく、山荘へでかける準備を始める。

 そうそう山荘を建てるとき、一つ、迷ったことがある。

 業者(大手デベロパー)が造成した別荘地が、このあたりにも、いくつかある。値段は、一〇
〇坪前後で、二〇〇〇万円前後(当時)。あとあとの管理を考えるなら、そういう土地のほうが
安全である。

 「業者が開発した土地にしようか、それとも自分たちで開発しようか」と、最後の最後まで、迷
った。

 しかし私たちは、気軽に行ける距離ということで、市内から車で、三、四〇分というところをさ
がした。当時は、バブル経済の絶頂期ということで、決して安い買い物ではなかった。が、それ
でも、町の土地とは比較にならないほど、安く土地を手に入れることができた。

 山荘の土地の面積は、五〇〇〜八〇〇坪前後。斜面も多いから、実際にはどれくらいある
か、わからない。(山の土地というのは、そういうもの。)

 で、今は、山荘ライフは、私たちの生活に、すっかりと溶けこんでいる。その結果というか、今
では、それ以前の、昔の生活と変わらなくなってしまった。ただ違うのは、町の生活が、それと
は反比例するかのように、きわだって、不自然に見えるようになったこと。

 都会に住んでいる人には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、(失礼に違いない
が……)、都会の生活は、人間の生活ではない。とくにそれを強く感ずるのは、都会で、電車に
乗ったとき。(以下、削除)

●会話
 
 昨日はたまたま仕事が休みだったから、ワイフと二人で、山荘の掃除にでかけた。このところ
の雨つづきで、先週は、その掃除ができなかった。

 その途中、ワイフと、こんな会話をした。

 「考えてみれば、よくあんな山荘を建てたものだね」と私。
 「若かったのよ」とワイフ。
 「今なら、建てるかい?」
 「もう、無理ね」
 「そうだな。人間も、四五歳を過ぎると、急速に気力が衰える」
 「そうなると、もうおしまいね。家でゴロゴロしていたほうが、楽と思うようになったら、おしまい
よ」
 「実のところ、ぼくは、そう思うようになった」
 「いいじゃない、あなたは。したいことをしたのだから……」
 「そうだな」

 たった一〇年前のことだが、夢中で山荘を建てていたころの自分が、なつかしい。本当の自
分だったのかと思うことさえある。

 一度はジャリを運んでいるとき、トラックごと、谷底へ転落しそうになったことがある。毎週の
ように腰を痛め、苦しんだこともある。炎天下でユンボを動かして、日射病になったこともある。

 しかし今となっては、どれもよい思い出ばかり。

 その山荘で、今度、二男の披露パーティを開く。それについてワイフが、「こういうときのため
に、山荘を建てたのよ」と。私は迷わず、「そうだな」と答えた。

 国道二五七号線は、市内から渋川方面へ、引佐町を通り抜けて、北にのびている。もし、そ
のニゴナナを走る機会があったら、「ああ、これがあの道だな」と思い出してみてほしい。浜松
市内から都田(みやこだ)へ抜けるとき、丘の上から、眼下に都田や金指(かなさし)の町が一
望できるところがある。

 私はその景色をみたとたん、浜松市内でのできごとは、すべて忘れる。私にとって、ニゴナナ
は、今でも、「夢」への道だ。
(031016)

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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「うらやましい」と「うらむ」

 日本語の文章を書いていると、ときどき、ハッと、何かに気づくことがある。そのときも、そうだ
った。

 私は、そのとき、どんなとき、人は、他人のうらみを買うかというようなことを書いていた。

 その「うらみ」という言葉を考えていたとき、ふと、「だれかをうらやましがらせると、うらみを買
うのでは……」と思った。とたん、「うらやましい」と「うらみ」は、語源が同じではないかと思っ
た。「ウラ」が、同じである。

 そこで調べてみると、「うら・やましい」の「ウラ」は、もともと、「心」という意味。「やまし」は、
「病む」という意味ということがわかった(「広辞苑」)。

 つぎに「うらむ」は、「恨む」。広辞苑には、語源までは書いてなかったが、「うらむ」の「ウラ」
も、「心」という意味に考えてよいのではないか。ほかにたとえば、「うらもう(心・思う)」、「うらも
となし(心・もとなし)」という使い方も、残っている。

 もっとも、こんなことを、私が書いても、意味はない。ただ、ここで、もし語源が同じだとするな
ら、昔の人は、同時に、ものすごい心理学者であったということになる。

 つまり「他人をうらやましがらせると、その人のうらみを買う」ということを、当時の人たちは、
知っていたことになる。こんな例がある。

 ある幼稚園の園長家族が、その幼稚園から少し離れたところに、大豪邸を建てた。二階建て
だったが、三階部に、展望台がついているような大豪邸である。当時、一五〇〇万円も出せば
ふつうの家が建ったが、その家は、何と総額、八五〇〇万円!

 それまでその幼稚園では、年に多い年で、四回も、バザーを開いていた。親たちから、不用
品を集め、それをバザーで売り、その収益金を、「幼稚園の施設の充実」(幼稚園側の説明)
にあてていた。

 しかし園長がその大豪邸を建てたあと、バザーのための不用品が、ほとんど集まらなくなっ
た。当然だ。理由など、ここに書くまでもない。その幼稚園の園長は、それまで口グセのよう
に、こう言っていた。「経営が苦しいので、どうかみなさん、助けてください」と。

 つまりその幼稚園の園長は、親たちにうらやましがられると同時に、うらみを買ったことにな
る。

 「決して、人をうらやましがらせてはいけない。うらやましがらせれば、うらやましがらせるほ
ど、うらみを買う」と。

 これはある程度、人生経験のある人の間では、常識。よく成功者が、その成功ぶりを誇示す
るため、自分の成果を、他人に見せつけることがある。しかしこうした行為は、他人のうらみを
買うだけ。やめたほうがよいと言うよりは、絶対に、してはならない。

 たとえばあなたが、今、たいへんできのよい子どもをもっていたとする。勉強もよくできるし、
学校でも、目立つ。もしそうなら、そういう親ほど、謙虚であったほうがよい。決して、その流れ
に乗って、相手を、うらやましがらせてはいけない。どこまでも謙虚に。ただひたすら、謙虚に。

 ……と決めてかかるのも、危険なことだが、実は、これは私の人生訓でもある。私は、他人
にうらやましがられうようなものは、ほとんど、もっていない。しかし、それでも、人によっては、
私をうらやましがる人もいる。

 ある男性は、こう言った。「あなたは、幸福な家庭を、ことさら人に見せつけている」と。ごく平
凡な家庭でも、それがない人から見れば、そうではない。

 しかし実際のところ、どんな家庭にも、いろいろな問題がある。問題がない家庭など、ない。
たとえば私の家庭にもある。ただ私は、それを書かないだけ。書く必要もないし、また書こうと
すると、ワイフが、それを止める。

 で、結果として、私の家庭には、何も問題がないように見える。……らしい。そしてそれがま
た、結果として、「見せつけている」ことになる?

 しかしその一方で、こんなことにも注意している。

 人をうらやましがらない、と。自分にないものをもっている人を見ると、心のどこかで、「いいな
あ」と思う。それはそれだが、しかしその程度のところで、心にブレーキをかける。そしてそれ以
上、その人をうらやましがらないようにしている。「人は、人」と。

 つまり人をうらやましがるということは、自分の敗北を認めることを意味する。へたをすれば、
ここに書いたように、その人を、うらむことにもなりかねない。しかしそんなことをすれば、心が
腐るだけ。

 そうそう、「うらむ」は、「裏む」にも通ずる。どうせ生きるなら、人生は、表街道を歩きたい。人
をうらめばうらむほど、人生は、裏街道になる? あるいはうしろ向きになる? これは私の勝
手な解釈だが、私は、そう思う。

 要するに、人をうらやましがらせてはいけない。また人をうらやましがってはいけない。「うら
やましい」という言葉と、「うらむ」という言葉を考えていたら、そういう結論になった。
(031015)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

世評アラカルト

●日本道路公団のF総裁の解任問題で、政界が揺れている。F総裁側は一七日に予定されて
いる「聴聞」を公開審理とするよう、国土交通省に申し入れた……。

道路公団という、官僚の、ただの天下り機関。その天下り機関が、こうまで「力」があるとは! 
日本人のほとんどは、「日本は、民主主義国家」と思っている。しかしこれはとんでもない誤
解。

日本は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。世界に名だたる、官僚主義国家。みなさん、この
事実を、しっかりと認識しよう。民主主義など、ただの飾り。ウソだと思うなら、あなたの住む県
の知事の、経歴を見たらよい。あなたの住む町の市長の経歴を見たらよい。あるいはあなた
の地域から選出される国会議員の、経歴を見たらよい。みんな、元中央官僚!

日本は、官僚による、官僚のための、官僚の国家。F総裁のクビ切り問題は、まさにその象徴
的なできごとにすぎない。選挙で選ばれた国会議員を前に、あのふてぶてしい笑みは、いった
い、何か。みなさん、もう一度、原点に立ち返って、このおかしさを、再認識しよう!

●諮問(しもん)委員会という、「委員会」に注意しよう。官僚が、何か、重要なことを決めるとき
に、必ず、もちだす委員会である。

まず、YESマンだけを集める。だいたいにおいて、その選考基準そのものが、「?」。あるいは
その道の素人ばかり。

会議は、おおむね数回程度。しかもその会議は、あらかじめ官僚が用意したプロット(あらす
じ)にしたがって、進行する。委員が意見を述べるとしても、ほんの数分程度。議論したり、討
論したりというようなことは、まず、ない。

最後は、委員長もしくは、座長と呼ばれる人が、答申をして、おしまい。答申の内容は、抽象的
であればあるほど、よい。

あとはこの答申をもとに、官僚は、まさにやりたい放題。予算も、つけ放題。つまり現在、「諮問
委員会」というのは、官僚が好き勝手なことをするための、「お墨つき委員会」に過ぎない。

国政を左右するような諮問委員会もあれば、県政レベル、市制レベルの諮問委員会もある。も
ちろん文部科学省にもある。とくに反対意見や反対派が多い事案について、こうした諮問委員
会がもうけられることが多い。

こうして今、日本の社会は、官僚たちによって、がんじがらめにしめつけられている。もちろん
ひとりずつの役人の方に責任があるわけではない。しかしそのため、日本の社会は、息苦しい
ほどまでに、硬直してしまった。自由主義国家といいながら、その実体は、まさに「しくまれた自
由の国」(尾崎豊)に過ぎない。

●こうして現在も、全国津々浦々で、ムダな公共工事が、つぎつぎと行われている。上は、第
二東名高速道路。総額一二兆円弱の、大工事。日本の国家税収が、年間四〇数兆円だか
ら、いかにその工事がバカげているか、わかろうというもの。

下はあなたの近くの国道、県道、市道。やらなくてもよいような道路工事を、年がら年中してい
る! 掘っては、埋め、また掘っては、埋めている。日本道路公団は、その上に君臨する。しか
もたまりにたまった借金が、四〇兆円! 国民一人あたり、約四〇万円(日本の人口を、子ど
もを除いた、約一億人として計算)。

こうした現実を前にして、ものの考え方は、二つに分かれる。

ひとつは、「おかしいから、是正しよう」という考え方。

もうひとつは、「あわよくば、自分も、その恩恵にあやかろう」という考え方。

しかし悲しいかな、そこは官僚主義国家。日本人は、その魂を、骨のズイまで抜かれてしまっ
ている。今でも、「お上にたてつくと、損」と考えている人は多い。だから心のどこかでは、「おか
しい」と思いつつ、「せめて私だけでも」「うちだけなら……」とか、さらには、「何とか、うちの子
だけは……」と考える。

こうして日本の官僚世界は、是正されることもなく、ますます肥大化する。現に今、構造改革、
行政改革は、デッドロックに乗りあげたまま。改革どころか、準公務員、公団、公社の職員の
数は、今の今も、ふえつづけている。

かく言う私とて、官僚世界に背を向けたら、仕事すら、あやうくなる。しかし今、こと教育評論の
世界で、官僚世界に背を向けている評論家が、何人いる? 現実には、いない。一方で、退職
金だの、年金だのと、公的保護を手厚く受けている人が、どうして官僚世界に背を向けること
ができるというのか。私が声をあげなくて、だれがあげるというのか。

日本道路公団のF総裁の解任問題。一見、ただの解任問題に見えるが、その水面下で、今、
日本の民主主義の「力」が試されている。「正念場」というほど、おおげさなものではないが、し
かし日本の官僚主義の実態を知るのには、よい機会である。どうかみなさんも、そういう視点
で、この解任問題をながめてみてほしい。
(031015)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●人のつながり

 浜松市は、人口六〇万人。東海地方では、名古屋についで、第二の大都市である。私は、こ
の町に住んで、三四年になる。しかしこの町も、小さくなったものだ。

 先日、あるサークルの方に頼まれて、小さな座談会に、講師として顔を出した。Nさんという演
奏家が、その前後に、ピアノ演奏をしてくれることになった。そこでの控え室でのこと。Nさん
が、こう言った。

 「林先生のことは、昔から知っていました。A幼稚園にお勤めのとき、先生が、ときどき自転
車に乗っておられたのを、見かけました」と。

 そこへその会場を建設した、E会社の担当者もやってきて、「昔、娘がお世話になりました、D
です」と。

 で、会話がはずみ、Nさんの演奏会の話になった。

 「先日、林さんの近くの公民館で、コンサートを開きました。しかしそれがひどいピアノで、調
律師の方に来てもらい、二日がかりで、ピアノを調律してもらいました」と。

 そこで私が、「そう言えば、私の義理の兄が、ヤマハの調律師学校の校長をしていました」と
言うと、「まさか、Kさんではないですか?」と。

 「そうです」と答えると、「世間は、狭いですね。本当に、狭いですね。そのKさんに、助けても
らったのです」と。

 このところ、こんな会話が多くなった。会う人が、どこかでだれかとからみ、そしてそれが私と
つながっている。タクシーに乗っても、「あの林先生ですか?」と声をかけられる。ショッピング
センターを歩けば、たいていいつも、数人の人に声をかけられる。

 それがよいことなのか、悪いことなのかということになると、悪くはないが、よいことも、あまり
ないというのが本音。少なくとも、私自身のメリットは、ほとんどない。かえって窮屈に感ずるこ
とが多い。

 しかし、人口六〇万人という町は、そういう意味では、私にとっては、大きくもなく、小さくもな
く、たいへんすみやすい町である。HONDAも、YAMAHAも、そしてSUZUKIも、ここで生まれ
た。KAWAIも、ROLANDも、ホトニクスも、ここで生まれた。活気もある。

 しかし三〇年も住んでいると、いろいろな人と知りあいになる。仕事がら、多くの人とつきあ
う。子どもを通してだが、大会社の社長も、大病院の院長も、暴力団の組長も、みんな友だ
ち? 私は私なりに、結構、楽しくやってきた。悔いはない。

 ただ自分でもよかったと思うのは、この町では、「敵」を作らなかったということ。迷惑をかけ
た人は、一人もいない。私を見てコソコソ逃げる人は多いが、私が逃げなければならない人
は、いない。だからいつも、堂々としていられる。そういう意味でも、居心地がよい。

 ……とまあ、少しかっこよいことを書いたが、私は、この町で、人生を終えるつもりでいる。ど
こかの国へ移住しようと考えたこともあったが、この一〇年は、そういう話題も、消えた。あと
は、今の自分を大切にして、そのときがきたら、静かに死ぬだけ。それまで、こうした原稿を、
書けるだけ書いておこうと思う。その結果、私がどうなるか? それはもう、私の知ったことでは
ない。
(031014)


Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■かん黙症の子ども

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03−10−25号(307)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715
【今週の幼児教室】

●表情

 豊かで、自然な表情は、子どもの財産である。心がまっすぐ伸びている子どもは、表情が、豊
かで、自然。

 「自然」というのは、うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔を
する。

 ……そんなことが?、と思う人がいるかもしれないが、実は、今、その表情のない子どもがふ
えている。表情が、とぼしい子どもや、不自然な子どもも含めると、約二〇%が、そうではない
か。

 今週は、その表情をテーマに、演技の勉強をした。顔の運動、動作など。

 私の教室では、大声で笑い、大声で話すことを、指導の「柱」にしている。心が開放されると、
表情は、自然な形で、あとからついてくる。

 しかし……。

 幼児教育の世界でこわいのは、「仮面」。いわゆるいい子ぶる。そのため何を考えているか、
わからなくなる。

 この仮面がさらにひどくなると、心と表情が、遊離する。さらにその遊離が長期化すると、二
重人格性をもつようになり、それにショックが加わると、多重人格という人格障害者になること
もある。

 決して、安易に考えてはいけない。

 レッスンでは、喜怒哀楽の表現、その動作。動物のまねと進む。コツは、教える側が楽しむこ
と。教える側が恥ずかしがったりしていたら、指導はできない。私は、しかし、そういうことが平
気でできる。

 私の得意芸は、有名人のマネ。オカマや暴力団のマネも、うまい。「先生の頭には、スイッチ
があって、こわい先生も、やさしい先生もできるよ」と言うと、子どもたちは、それを本気にす
る。

 そこで頭のスイッチを動かしたフリをしながら、こわい先生や、やさしい先生を演じてみせる。
こわい先生を演じてみせると、子どもたちは、ゲラゲラと笑う。

 一一月から、年中児のクラスを一クラス、ふやすことにした。何かと、たいへんな時期だが、
ここはがんばるしかない。
(031018)

++++++++++++++++++++

教師が子育ての宿命を感ずるとき

●かん黙症の子ども

 かん黙症の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。そ
の無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。

指導といっても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神
経をつかう。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。

が、その年の年末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたこ
とは、「いかにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談
してきた。

「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心
理療法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってし
まいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者
が二人では、私の頭が混乱します」と。

●経過は一年単位でみる

 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽か
ったことに気づく。あとはその繰り返し。

私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝ってはいけません。子どもと視線を合わせ
てもいけません」と言った。が、親には一か月でも長い。一週間でも長い。そういう気持ちはわ
かるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。

一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障
害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、どうだっ
たか」と。

一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわからない。
最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってし
まう。

初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれば、「障害」という
言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えてい
た。

●「そんな冷たいこと言わないでください!」

 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どものかん黙症を、私
は疑った。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音
楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。

それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえ
ます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだ
わっている。

もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってくだ
さい」と言うと、母親は突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 
私を突き放すようなことを言わないでください!」と。

●親は自分で失敗して気づく

 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいてい
の親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化
させる。

それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態になっ
ている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だ
が、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

【参考】

●かん黙児

 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。

 ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。

 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。

 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。

かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。

+++++++++++++

子どもがキレるとき

●躁状態における錯乱状態 

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった
机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、
すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五
六〜一九二六)だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって
交互に、あるいはケースによっては、重複して起こることが多い。それはそれとして、このキレ
た状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若
い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満した状態を、「キレる」と言うこと
が多い。ここでは区別して考える。)

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊
張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」と
いう思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではな
いか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さな
い。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。
一度こういう状態になると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。 

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不
愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑
ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、
「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくできた子どもというのは、
いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でた
め、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知られた例としては、家庭内暴力を起こす
子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコの子のようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚
なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネ
シウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。リン酸は、せっかく摂取したカ
ルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサ
ー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

●人工的に調合するのは、不必要

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもへの虐待

 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛す
る心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言ってい
た。

しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約一〇%(私の母親教室で
約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わない
と感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待して
いることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)そうだ。

妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしている
という。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞ
れについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段
階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のう
ちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。)

 だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少
し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が
高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い
時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。

つまり生まれながらにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろん
それだけが理由とは言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親
の温かい愛情に包まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包む
ことができる。

このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知
らない親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にある
のではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまり
にもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかない
ということになる。

 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子
どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生
み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●あきらめは悟りの境地

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。
またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。

 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路
に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。要はどの段階で、親があきらめるかだが、
その時期は早ければ早いほどよい。

……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うの
は適切でないかもしれないが)してみるまで、自分が失敗するとは思っていない。「うちの子に
かぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつくところま
で行かないと気がつかない。

 要は子どもの限界をどこで知るかということ。それがわかれば親も納得し、その段階であきら
める。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならでき
るか」「自分ならどうするか」という視点で考える。

あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置い
て、その問題を考える。たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自
分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。それでもわからなければ、こういうふうに考えて
みる。

 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あ
なたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差
値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。また
そういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを叱っ
たら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近
い。

 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を
読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親
は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだ
が、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり
始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめて
みてほしい。それで道は開ける。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●演奏

 披露パーティの席で、家族で音楽を演奏して聞いてもらうことにした。今日は、その練習をし
た。

 曲目は、ロッド・スチュアートの「SAILING」。

 ギターは、長男と二男。ドラムは、三男。ボーカルは、私とワイフと、デニーズ(嫁さん)。それ
に孫の誠司。

 誠司は、音楽を聞くと、体をそれに合わせて、スウィングする。おもしろい孫だ。二男の影響
らしい。「おもしろい子だね」と私が言うと、二男は、「アメリカ人の子どもは、みな、そうするよ」
とのこと。どうやら赤ん坊のときから、音楽に対する感性が、日本人とは、違うようだ。

 私の息子たちは、子どものときから騒々しかった。とくに二男は、いつも何かの楽器を鳴らし
ていた。そのため、どんな楽器でも演奏できる。

 で、長男は、長渕剛の大ファン。二男は、ボンジョビの大ファン。そして三男は、スピッツの大
ファン。それぞれ趣向は異なるが、音楽好きであることには、違いない。私は……、と言われる
と少し困るが、合唱団にいたせいか、やはり、その種の音楽が好き。どちらかというと、クラシ
ックのほうが、肌にあっている。あとは、静かな曲。三〇歳を過ぎてからは、好みは、ほとんど
変わっていない。

 こうして家族全員で、演奏するというのも、一〇年ぶりではないか。それぞれがバラバラにな
ってしまってからは、それもできなくなった。いや、本当のところは、いつもバラバラだった。今
も、バラバラ? かろうじて「家族」という体裁をつくっているだけ?

 どんな人も、最初は、自信たっぷりに子育てを始める。「私は、だいじょうぶ」「うちにかぎっ
て、失敗はない」と。実は、私も、そうだった。

 しかし子育ては、図式どおりにはいかない。一つのカベにぶつかると、やがて、つぎのカベに
ぶつかる。そしてまた、つぎのカベ。こうして無数のカベにぶつかっているうちに、いつのまに
か、子育てそのものが、袋小路に入ってしまう。

 気がついてみると、息子たちは、もうそこにいない。ワイフですら、そこにいない。そのときど
きは、遅々として進まない子育てだが、終わってみると、ほんの一瞬。アルバムを見ながら、
「本当にこんな時代があったのか」とさえ思う。

 私は、不完全で未熟な親だった。が、それでも懸命に、生きてきた。懸命に、子育てをしてき
た。そしてその結果として、たいした家族をつくることはできなかったが、しかし今の家族以上
のものを、私は望みようもない。

 「SAILING」をみなで歌いながら、「今が、幸せのときなのかなあ」と、自分にと問いかけてみ
る。

I am sailing, I am sailing,
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.

帆を張り、風を受け、
私は海を越え、家路を急ぐ。
嵐の海を横切り、
あなたに近づくために。
そして自由になるために。

 練習しているとき、ふと目頭が熱くなった。歌詞と、私の心が、どこかで共鳴した。とたん、さら
に目頭が熱くなった。私はますます大声で、歌を歌って、自分をごまかした。が、そのとき、小
節がずれた。

 三男が、ドラムをたたきながら、「ずれた」というような視線を、二男に送った。それを受けて、
二男が、「勝手に歌わせておけ」というような合図を、三男に送った。

 みんなわかっていたが、私は知らぬフリをして、歌を歌いつづけた。
(031016)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老後のこと

 ふとんに入ってから、ワイフが、こう言った。

 「C(息子の一人)がね、パパとママが、年をとったら、ぼくが、めんどうをみると言ったわよ」
と。

 Cは、子どものときから、そう言う。で、そのつど、私は、Cに、「そんなことは考えなくていい」
と言う。

ワ「Cがね、ぼくは、将来、横浜に住むことになるだろうって、言うのよ。それで私たちが老人に
なったら、横浜へ来ることができるかって、聞くのよ」
私「横浜か……。横浜では、土地は買えないだろうから、アパートか、マンションになるね」
ワ「そうね。私は、アパートで、いいわ」
私「どうせ、死ぬんだからね……」
ワ「でも、Cが、そんなことを考えているなんて……」
私「あいつは、ぼくに、一番、似ているから……」
ワ「そうね。そんなところが、あるわ」
私「でも、ぼくは、横浜には、住めないと思う」
ワ「でも、老人になったら、そんなことも言っておられないわよ」
私「そうだな。そうなる前に、ポックリと死ぬことができたらいい。みんなに迷惑をかけるものい
やだし……」
ワ「私も、ポックリと死にたいわ。朝、起きたら、死んでいたというような死に方がいいわ」

 私は子どもたちには、いつも、こう言ってきた。「親孝行なんて、くだらないことを考えるな。家
の心配なんて、つまらないことを考えるな。お前たちは、お前たちで、いつも前だけを見て、生
きていけ。パパとママは、自分で何とかするから」と。

 子どもというのは、そういう私とワイフを見ながら、別のことを考えるようだ。しかし、Cがワイ
フに、そう言ったと聞いたとき、正直に告白するが、うれしかった。私はいつも、「私はひとりだ」
と思ってきた。その孤独感が、ふと、やわらいだように感じた。

私「あいつは、まだ自分のめんどうさえ、ロクにみられないのに、もう親の心配をしているのか。
バカなやつだな」
ワ「そうね。自分がめんどうをみられていることを、忘れているみたい」
私「それに、結婚、出産ともなると、いろいろたいへんだぞ。まだまだ、ぼくたちのほうが、Cの
めんどうをみなければならないよ」
ワ「そうね、あてにしてないわ」
私「ぼくも、あてにしてないよ。でも、そう言われると、うれしいものだね」
ワ「そうね。そういうやさしい言葉を聞くと、まだまだがんばらなくちゃ、という気持になるわ」
私「そう。まだ、ぼくは、がんばるよ。あと一〇年は、現役で、がんばってみる」
ワ「無理しないでね」
私「わかっているよ」と。

 ある年齢までは、人は、「親に、めんどうをかけたくない」という思いで、生きる。しかしそのあ
る年齢を過ぎると、今度は、「子どもに、めんどうをかけたくない」という思いに変わる。その年
齢は、やはり五〇歳くらいか? あるいは六〇歳くらいか?

 私にしても、この先、いくらがんばっても、どうにもならない。今まで、がんばってきたが、今ま
で以上に、がんばることは、もうできない。つまり、先が見えてきた。あとは、できるだけ、(終わ
りの時)を、先にのばすだけ。その日その日を、無事に、息子たちに迷惑をかけないように生
きるだけ。

私「子どもにとっても、会うたびに、親が年をとっていくのを見るのは、つらいことだよ。ぼくも、
何度か、そういう思いをしたことがある」
ワ「でも、年齢には勝てないし……」
私「そうだね。ただ、ぼくたちは、死ぬまで、気高く生きようよ。必ず、子どもたちも、それをまね
するようになるからね。本当のところ、自信はないけど、がんばるしかない。結果は、あとから
ついてくるよ」と。

 どうせ生きているのだから、生きるしかない。生きるしかないなら、最後の最後まで、自分の
人生を、まっとうするしかない。途中で、投げ出すわけにはいかない。しかし不思議なものだ。
あれほど死ぬのをこわがってきた私だが、心のどこかで、「もう、じゅうぶん生きてきたではな
いか」と思うようになってきた。「息子たちに、迷惑をかけたくない」と思ったとき、そう感じた。

 ゆっくりと月刊誌を、枕元に置くと、私は電気を消した。
(031018)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どもの心

●茨城県のWさんより……

 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それに
ついて、考えてみたい。

「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。

数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。
三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。

そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも
嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。
で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。

そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 
そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。

ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。
その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。

ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限
り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと
は考えられない」と言っています。

昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人
の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの
をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。
(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)

お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ
貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。
最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。

私は本人の納得するまで、つまり子どもが、
帰っていいよと言うまで、その場で待っています。
時には降園までそこで待つときもあります。 
私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?
昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。

今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず
「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。
その時の対処法に困っています。

かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。
こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。
かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。

みなにからかわれることもあるようです。

絵日記を見ると、 

『いちりんしゃにのれるようになったよ 
いっしょうけんめいれんしゅうして 
のれるようになったよ 
でも どうして あのこはのれないんだろう』

と書いていました。

そんな、心のやさしい子です。
何かアドバイス頂ければ幸いです。

    茨城県M町、Wより」

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚
園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないの
か」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならな
い。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようにな
るのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」
という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考
えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家
庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全
員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、
ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家
庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず
連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子ども
が、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子ど
もを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この
部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母
の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よ
かれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内
でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身し
ている。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようにな
った。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさ
んの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まっ
たく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」と
か、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、
保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子ども
は、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあ
い、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめ
て、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものご
とは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育とし
て、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコン
の切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回
のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預
かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」
がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

●かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提と
して、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張し
ていただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断するこ
とくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじ
めてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクター
は、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団
恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐
怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、
何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分が
キズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじ
れ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞
こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点につ
いては、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(1)ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙っ
てしまう。

(2)気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに
会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(3)かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくな
る。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(4)かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみるこ
とにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、
立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと
認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、
数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小
学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一
度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかっ
た。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、
幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」
などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意
味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時
期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そ
して自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であること
が多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が
停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あと
は「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どう
にもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私
は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、
入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれし
いです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。
その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。
もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピ
ード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わ
ることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になっ
たり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症
状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決して
いるのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今
度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人
と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自
分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉か
らも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあ
げてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪い
ことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そ
ういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛
情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいる
わけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、あ
りえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許し
て、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろ
つらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このこ
とは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに
気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、も
っておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待
っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理
解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここに
も書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いか
がでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善すると
は、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、
大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじ
らせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたです
よ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識
は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みなが
ら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のな
い子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしその
ようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行け
ばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれませ
ん。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてくだ
さい。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物
園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風
穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不
思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答え
てあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるの
が、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少し
ずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそ
れを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、
何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえていま
す。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だと
いうことです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無
料です。
(031017)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

百害無益の国、日本?

 K国が、労働党新聞の中で、「日本は、百害無益の国」と発言した(一〇月一六日)。

 よくもまあ、こうまで言いたいことを、ズケズケと言うものだ。しかも言うべきセリフが、いつも
逆。

 精一杯の虚勢を張り、無理に無理を重ねて、一人前の顔をしている? いじけている? ひ
がんでいる? つっぱっている?

 アジアの中の最貧国。それがK国。K国の朝鮮ウォン(紙幣)は、国際為替相場では、紙くず
同然。実際には、為替相場すら、ない。

 そのK国が、今、懸命にもがいている。あがいている。他国をだますのなら、まだしも、ありも
しない外国の脅威を口にして、自国民までだましている。どこまであわれな国なのか。かわい
そうな国なのか。

 今日もワイフとこんな会話をした。もし日本が、反対に、「K国は、百害無益の国と発言した
ら、どうなるのかね?」と。すると、ワイフは、「ああいう国だから、ギャーギャーと騒ぐでしょう
ね」と。

 それはちょうど、どこかの大ドラ息子が、自分の立場を忘れて、親に向かって、「バカヤロー」
と言っているのに似ている。日本から密輸した製造機や部品で、ミサイルや武器を作りなが
ら、「百害」とは? そうした資金の大半も、日本からのものだというではないか。日本あっての
K国。そういう事実が、まるでわかっていない?

 で、今、ピョンヤンでは、韓国との南北閣僚級会談が開かれている。その席で、K国は、何
と、韓国内の保守勢力(反北団体)の解体を迫ったという。

 朝鮮日報(韓国系)は、つぎのように伝えている。

 「平壌(ピョンヤン)で開かれている第12回南北閣僚級会談の3日目の16日、南北は首席代
表および実務代表接触を行ったが、韓国側の要求した6カ国協議の次回協議受け入れと、北
朝鮮側の韓国内保守団体の解体要求が対立し、これといった進展は得られなかった」と。

 K国は、どこまで「頭がおかしいか」と思う。常識にはずれているというか、狂っているという
か。国際政治の場においても、前代未聞の要求である。

 こうしたこうした「非常識の流れ」の中に、あの拉致(らち)問題がある。ふつうの常識で考え
ていると、何がなんだか、さっぱり、わけがわからなくなる。「家族の返還が無理なら、電話くら
い……」「手紙くらい……」と思うが、そういうことも、禁止している。

かつての日本もおかしかったが、しかしここまで狂ってはいなかった。問題は、なぜ、一つの国
が狂うかだが、それについては、「国」というより、金XXという「独裁者」の性格が、そのまま反
映されているとみるべきではないか。どうやら金XXは、ますます頭がおかしくなったようだ。

 しかし実にやっかいな国だ。まるで、取っても取っても、体に張りついてくる、巨大なヒルのよ
う。その南北閣僚級会談にしても、韓国が、このところ、あわれに見えてきた。「同胞」「同胞」と
すり寄って、何とか、K国をなだめようとしているのだが、それがまるで通じない。通じないばか
りか、逆手(さかて)に取られて、よいように、もてあそばれている。

 しかし、それにしても、時間がない。時間がたてばたつほど、K国は、核兵器の数をふやす。
ミサイルの数をふやす。そしてそのほとんどが、日本をターゲットにしている。今、K国は、まさ
にそのための時間稼ぎをしている。

 願わくば、金XX体制が、自壊すること。願わくば、中国が、再度強力な圧力を、K国に加える
こと。今の韓国は、少なくとも日本にとっては、準K国とみたほうがよい。仮に日朝戦争ともなれ
ば、韓国は、「統一旗」のもと、K国の味方をする。K国も、それを知っている。

 それにしても、「百害無益」とは? しかしこういう言葉は、無視すればよい。無視するにかぎ
る。また無視にまさる、反論は、ない。まさに、たわごと。私たちが今、すべきことは、良識に従
って、正論をぶつけていくこと。拉致問題についても、ただひたすら冷静に、正義を主張してい
くこと。

 頭の狂った人間には、正論ほど、恐ろしいものはない。独裁者には、正義ほど、恐ろしいも
のはない。私たちは、今こそ、その正論や正義を貫くべきときにいる。
(031017)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■許して忘れる

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
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03−10−27号(308)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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です! 
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

愛情は落差の問題

 親が子どもに与える愛情に、絶対的な尺度はない。どの程度、どれだけ深く与えればよいと
いう基準はない。しかし子どもは、その「落差」にはきわめて敏感に反応する。

たとえばよく知られた現象に赤ちゃんがえりがある。下の子どもが生まれたことがきっかけとな
って、子どもが急に赤ちゃんぽくなる症状をいう。言葉や言い方そのものが赤ちゃんぽくなった
り、おねしょをしたり、指しゃぶりをしたりするようになったりする。(反対に、下の子に攻撃的に
出る子どももいる。)

こういうケースでは、ほとんどの親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっている」と言う。
「だから文句はないはずだ」と。しかし上の子どもにしてみれば、それまで一〇〇あった愛情
が、半分の五〇に減ったことが問題なのだ。つまり子どもへの愛情の問題は、量ではなく、落
差の問題である。

 子どもが赤ちゃんがえりを起こしたら、その症状に応じて、つぎのように対処する。症状がた
いへん重く、複雑な症状を示し始めたら、もう一度全幅の愛情を上の子どもに注ぐ。そして様
子をみながら、少しずつ手を抜きながら、その分、下の子どもに愛情を分け与えていく。症状
が軽く、子どもの自意識でコントロールできるようなら、子どもを説得しながら、平等をつづけ
る。

 また下の子どもに暴力を振るうなど、攻撃的な様子がみられたら、スキンシップを濃厚にして
みる。このケースでも、叱れば叱るほど、逆効果。本能的な嫉妬心が原因であるだけに、叱っ
ても意味がない。ないばかりか、症状をますますこじらせる。

 ふつうはこうした赤ちゃんがえりを起こさないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育
を始める。たとえば上の子が下の子の誕生を楽しみにさせるような雰囲気づくりをするなど。ま
ずいのはある日突然、下の子が生まれたというような状態にすること。子どもの側からみて、
嫉妬するのは当然。また嫉妬がいかに恐ろしいものであるかは、いまさらここで説明する必要
はないと思う。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

愛想は悪くて当たり前
 
 子どもは生後六か月くらいから一歳半にかけて、人見知りする時期がある。見知らぬ人に近
寄られたり抱かれたりすると、ワーワー泣いて抵抗したり、いやがったりする。じっと相手を見
すえることもある。

しかしこれはきわめて自然な反応であり、それをおかしいとか、悪いとか決めてかかってはい
けない。この時期をとおして子どもは親との絆(きずな)を深める。(あるいはもっと本能的な意
味があるのかもしれないが、私にはよくわからない。)

 ふつう穏やかな家庭で、豊かな愛情を受けて育った子どもほど、静かな落ち着きを示す。ど
っしりしているというか、態度が大きい。

反対に不安定な家庭で、愛情飢餓の状態で育てられた子どもほど、ヘラヘラとし、見た目には
愛想がよくなることがある。一見人なつっこくみえるが、その実だれにも心を許さない。許さない
分だけ、心は冷たい。あるいは自分がキズつくのを恐れるあまり、先に自分から相手をキズつ
けて遠ざかろうとする。たとえば自分が好意を寄せている相手に、わざと意地悪をして嫌われ
る、など。どこかものの考え方がゆがんでくる。私はこのことを、二匹の犬を自分で飼ってみて
発見した。

 一匹は保健所で処分される寸前にもらってきた犬。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のも
とで手厚く育てられた犬。これをB犬とする。この二匹の犬はまるで性格が違う。A犬は育児拒
否を経験した犬。一方B犬は愛情をたっぷりと受けた犬。

A犬はだれにでもシッポを振るので番犬にはならない。いつもどこかオドオドしている。一方B
犬は忠誠心も強く、見知らぬ人が家の中へ入ってきたりすると、ワンワンとほえる。態度も大き
い。ガムをかんでいたりすると、私が呼んでも、返事もしない。つまりそれだけ安心しているとい
うことか。

だから人間の子どもも……、というのは、少し危険な意見かもしれないが、それほどまちがって
いないような気がする。冒頭にあげた子どもが人見知りする時期に、親の愛情が希薄で、たと
えば施設に入れられて育ったような子どもは、どこかA犬のような様子を見せる。が、人見知り
がはげしく、「うちの子は人見知りが強くて困ります」と言った子どもほど、B犬のような様子を
見せる。(そういう意味で、本能的な意味があるかもしれないと先に書いた。)

昔から「愛想がいい子はいい子」と言うが、そんな単純な問題でもない。子どもの「愛想」にもい
ろいろな問題が隠されている。それがわかってほしかった。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
●父親と子

 明日は、二男の結婚披露パーティ。

 今日、近くの魚屋さんに、中央卸売り市場へ連れていってもらった。市場で、現金で買うと、
市価の四分の一程度で、魚介類が買える。

 ズワイガニ、タラバガニ、ホタテ貝、サシミ、手長エビ、マツタケほかを、買った。山荘で、海賊
焼きにする。ワイフの兄弟たちが、手伝ってくれると言った。明日は晴れる。よかった。

 夕方、二男を海から助けてくれた、命の恩人のS夫妻を、市内の料亭に招待した。日本料理
を食べた。

 夜遅く、明日、歌う歌を、家族全員で練習した。曲目は、ロッド・スチュアートの「Sailing」。長
男が、途中で、ハーモニカを吹いてくれることになった。

 ああ、時よ、止まれ!
 神よ、あなたに力があるなら、
その時を止めてくれ!

 私は、子どものときから、暖かい家庭に飢えていた。だから、結婚してからも、暖かい家庭を
つくることだけを考えて、私は、生きてきた。それ以外に、私は、何を求めただろうか。求めえ
ただろうか?

 しかし、それはまさにイバラの道だった。
 原因は、ほとんど私にあった。私というより、私の中の脳ミソの中にあった。
 私は、ひどい父親だった。ひどい夫だった。
 
 みんなで、歌を練習しているとき、何度も、目頭が熱くなった。もし人生に最良の瞬間がある
とするなら、まさにこのときではないか。このときをのぞいて、ほかに、いつがある?

 ああ、家族を愛せよ!
 神よ、あなたに力があるなら、
 私の家族を愛してくれ!

 長男が部屋にもどり、二男夫婦が、部屋に戻った。

 私は居間に残った、三男に、こんなことを話した。

「仕事が終わると、自転車のカゴに、おもちゃを入れて、家路を急いだことが何度もある。家に
帰ると、いつも、お前たちが、『パパ、お帰り!』と言って、胸に飛びこんできてくれた。いや、お
前に、恩を売っているのではない。反対だ。お前たちは、このぼくに、生きがいをくれた。それ
に感謝している。ぼくは、夢中で、お前たちを育てた。今となっては、どう育てたか、よく覚えて
いない。しかし、お前たちのおかげで、本当に、毎日が楽しかった。ありがとう」と。

Sailingの最後は、こういう歌詞になっている。

Oh Lord, to be near you, to be free.
Oh Lord, to be near you, to be free,
Oh Lord.

 オー主よ、あなたに近づくために、自由になるために、
 オー主よ、あなたに近づくために、自由になるために、
 0−主よ!

 神よ、あなたに、本当に力があるなら、
 私にその姿を見せてほしい。
 そのとき、私は、喜んであなたの僕(しもべ)になろう。
 本当に、その力があるなら……。

 二男に、「どうすれば、クリスチャンになれるのか?」と聞く。すると、二男は、「聖書なら、どこ
でも読める」と。

 長い沈黙のあと、今度は、二男が私に聞いた。「パパは、神を信ずるのか?」と。しばらく考
えて、私はこう言った。

 「お前が、私に教えてほしい。覚えているか? お前がアメリカへ旅立つとき、ぼくは、お前に
こう言った。『お前は、ぼくが見ることができないものを、見る。ぼくが知ることができないもの
を、知る。それを見たり、知ったりしたら、それをぼくに話してほしい』と。その気持は、今も変わ
らない。もし、お前が神を信じているなら、どうか、それをぼくに話してほしい。お前なら、ぼく
は、従ってもいい」と。

ほかの人に言われて、神を認めるなら、それは敗北。しかし私が心から愛してやまない息子に
教えられて、神を認めるなら、それは、喜び。私は進んで、息子に従うだろう。
(031018)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

幸福なとき

 文章を書くといっても、それなりの緊張感がなければ、書けない。が、その緊張感が、今朝
は、ない。

 時刻は、午前五時半。いつもは、こうして七時すぎまで、文章を書く。それから朝食。少し仮
眠。入浴。

 頭は、それなりにさえているが、テーマが浮かんでこない。心のどこかに、書こうとすることは
あるのだが、いざ書こうとすると、「前にも書いたことがあるではないか」「そんなことを書いてど
うするのか」と、ブレーキが、働いてしまう。

 なぜか?

 昔、「人生は、日々、反省」と書いた人がいた。私のばあい、翌日の朝、その前日を反省す
る。で、昨日は、いろいろ、反省すべきことが、あった。どうやら、それが私の気分を重くしてい
るようだ。

【反省一】
 
 昨夜、二男夫婦と、ワイフと私の四人で、二男を海から助けてくれた、Sさん夫婦を、会食に
招待した。

 その席でのこと。帰りがけに、Sさんが、二男に、お金の入った、袋を渡した。私は、それをか
たく断ったが、しかしそれには限界があった。

 Sさんは、二男に、「お祝いです」と言って渡した。私にではなく、二男に、だ。それを最後の最
後まで断る勇気というか、がんばりは、私にはなかった。夕食に招待したはずだが、かえって、
Sさん夫婦に、迷惑をかけてしまった。

 私がしたことは、過干渉だったのか? それはSさんと、二男の間のできごとで、私には本
来、関係がないはず。いや、それ以上に、今、気を重くしているのは、どうして、もっと、しっかり
と断らなかったかという思い。悔恨。一方、Sさん夫婦は、帰りの車代すら、受け取らなかった。

 本来なら、Sさん夫婦には、私の全財産をはたいても、礼をしなければならない。あの事件
は、私の生涯においても、そういう事件であった。

【反省二】

 昨日、市内のT中学校区で、講演会をした。

 私は、別の話をするつもりだったが、会場で見ると、六〇、七〇歳代の年配の方が、五〇〜
六〇人も来ていた。地域の消防所長や、市議会議員のみなさんも、来ていた。二五〇人前後
と聞いていたが、実際には、六〇〇人近い人たちが、来ていた。

 それで、予定していた話をとりやめ、「家族主義」について、話した。こうした変更、つまり会場
の様子をみてテーマを変えるということは、私のばあい、よくある。

 会場は、体育館だった。また、昨日は、二男夫婦と、三男が、講演を聞きにきてくれた。それ
はそれでうれしかったが、そのできが、あまりよくなかった。

 帰りに二男と、三男が、まさに言いたい放題。「何でもいいから、批評してくれ」と、一応、言っ
たのだが、それについて、「パパは早口だ」「間の取り方がへただ」「声が高くて、重みがない」
「テーマから、話がそれていた」「具体例が多すぎる」「言葉が、ていねいすぎる。もっと、くだけ
た言い方をしろ」「パワーポイント(パソコンソフト)を使って、もっと視覚的に講演しろ。アメリカ
では、もう常識だ」「アメリカといっても、いろいろな人がいる。アメリカ人は……という言い方
は、正しくない」などなど。

 出るわ、出るは、悪口ばかり……?

 それで、すっかり、自信をなくしてしまった。ワイフも、ときどき、批評してくれるが、ここまでズ
ケズケとは言わない。私は、「そうだな」「そうかな」と言いかえすだけで、精一杯。

 ただ、時間が少なかった。一時間と少し。時計を見ながらの、講演になってしまった。しかも、
だ。その時計を、控えの机の上に置き忘れてしまった。講演の途中で、その時計を、取りにも
どるという、大失態を演じてしまった。

 息子たちの採点では、六〇点くらいとのこと。ワイフは、いつも、八〇点くらいと言ってくれる
のだが……。その講演のあと、息子たちの前では、明るく振る舞ったが、しかし落ちこんでしま
った。それが今朝もつづいている。

 講演というのは、これがこわい。成功したときの喜びよりも、(それは、めったにないが…
…)、こうして失敗したときの苦しみのほうが、はるかに、大きい。

【反省三】

 ほかにも、いろいろプライベートなことで、反省すべきことが、多い。どうも、このところ、人間
関係が、スムーズに流れない。ぎこちない。どこかで、ぎくしゃくしてしまう。

 どうしてだろう。どこに、原因があるのだろう?

 忙しいということもある。そうそう理由の一つに、返事を書かねばならない手紙が、横に、五、
六通もたまっていることがある。

 インターネットの時代と言いながら、実際には、まだ封書による手紙も、多い。ところが、イン
ターネットの返事と違い、封書の手紙による返事は、どうしても、あと回しになる。それで、そん
なにたまってしまう。T先生は、もう三通も、手紙をくれている。が、私は、まだ返事を書いてい
ない。

 で、「この原稿を書き終えたら、返事を書こう」と思うのだが、実際には、書き終わると、別の
ことをしてしまう。よく宿題がたまって、にっちもさっちもいかなくなる子どもがいる。そういう子ど
もの心理が、こういうとき、よくわかる。ゆううつなもものだ。

 人間というのは、人間どうしのつながりの中で、生きていくもの。そのつながりがなければ、仮
に生きていたとしても、生きていることには、ならない。たとえば近所に、ほとんど人づきあいを
しないで住んでいる夫婦がいる。訪れる人も、めったにいない。

 そういう夫婦を見ていると、「人間とは何か」と、改めて、考えさせられてしまう。それはたとえ
て言うなら、お金のようなもの。お金というのは、じょうずに使って、はじめて、生きる。金庫の
中に、ためるだけでは、お金ではない。人生も、そうだ。

 さて今日は、これから二男の結婚披露パーティ。つまりはそれにかこつけた、兄弟会かもし
れない。その準備をしなければならない。時刻は、六時半。

 書いた原稿を見て、「一時間で、今朝は、これだけしか原稿が書けなかったのか」と、今、ふ
と、思ったところ。
(031019)



【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

バラバラになっていく家族

 家族も、いつか、バラバラになっていく。息子たちも、一人去り、また一人と去っていく……。
気がついてみると、家庭から笑い声が消え、台所のテーブルには冷えたおかずと、食べかけ
たパンが並ぶようになる。

 いくら電気を明るくしても、もうあのころの明るさは、戻ってこない。しかしいくら「時よ、止ま
れ」と叫んでも、時は、手のひらからこぼれる砂のように、そのまま流れていく。

 私は、必死で、家族を呼び止める。しかしそこにあるのは、秋の乾いた風。いつしか、息子た
ちの心も離れ、私から去っていく。私の知らない歌を歌い始め、私の知らない人物の名前を語
り始める。そして私の知らない世界へと、飛び立っていく。

 生意気になる息子たち。勝手なことし始める息子たち。しかしそんなとき、私は、ただひたす
ら「許して、忘れる」。それだけを、心に念ずる。何を言われても、何をされても……。ただひた
すら、許して忘れる。

 これが家族なのか? これが私が求めてきた家族なのか? 親の愛だけで、家族は守りき
れるものなのか?

 二〇歳をすぎたころから、私とは、ほとんど口をきかなくなった、長男。七年前に、アメリカへ
旅立った、二男。大学へは入ったものの、中退してパイロットになると言い出した、三男。

 それぞれが、私の願いを、どこかで踏みにじりながら、自分の道を歩み始めた。そういう息子
たちを見ながら、「これが私が求めてきた家族か?」と、自分に問いかける。

 昨日、二男の結婚披露パーティを開いた。アメリカ人の嫁さんに、あなたはみんなに歓迎され
ているということを、伝えたかった。それにワイフの兄弟たちが、協力してくれた。で、山荘で、
そのパーティを開いた。兄弟の家族など、二〇名近くが集まってくれた。

 嫁さんと二男は、和服を着た。嫁さんは、振袖。二男は、袴。最初は、「そんなの、いやだ」と
言っていた二男だが、当日は、うれしそうだった。みなが、「すてきだ」「美しい」とほめたから
だ。

 ワイフの兄弟は、みな、心のやさしい人たちだ。お祝いのごちそうを、重箱にして届けてくれ
た人。手作りのプレゼントを作ってくれた人。ケーキを作ってくれた人など。

 庭での会食のあと、部屋で、宴会を開いた。そのときのこと。長男が、ホタテ貝をむいて、私
のところにもってきてくれた。二男は、あれこれとみなに、給仕してくれた。三男は、もっぱら、
接待係。

 そして私たちは、全員で、あの「Sailing」を合唱した。

 一番を、三人の息子が歌い、二番を二男、三番を嫁さん、四番を、ワイフと私。五番を長男
のハーモニカのソロ。三男が、ギターを弾いた。

 そして六番、七番は、全員で合唱。二男と嫁さんが、それにハーモニーを添えてくれた。あの
バラバラだった家族が、あのどうしようもないほど、バラバラだった家族が、そのとき、一つにな
った!

 私はその歌を歌いながら、何度もこみあげる思いで、声がつまった。だから歌が歌えなく、口
だけを動かした。

 ……その夜、寝る前に、ワイフに、「今日は楽しかったね」と言うと、ワイフもうれしそうだっ
た。さらに床についてから、「今日は、ありがとう」と声をかけると、「いざとなったら、みんな、力
になってくれるわよ。だって、私たちは、みんな家族だから」と。

 人生に最良の日があるとするなら、まさに昨日が、そうだった。私は、何度も、ふとんで顔を
おさえながら、鼻歌で、「Sailing」を歌った。

 ワイフよ息子たちよ、ありがとう!
 兄弟のみなさん、ありがとう!
 日本のみなさん、ありがとう!
 アメリカのみなさん、ありがとう!
 世界のみなさん、ありがとう!
 この命をくれた、宇宙のみなさん、ありがとう!

●みなさんへ、

 どんなに、今、家族がバラバラで、その心がバラバラでも、許して、忘れる。決して、あきらめ
ては、いけませんよ。あとは、根くらべです。負けても、負けても、ただひたすら負ける。

 許して、忘れる。ただひたすら、許して、忘れる。その道は、決して楽な道ではありません。し
かし、ただひたすら、許して、忘れる。そのハバの広さが、結局は、親の愛の深さになるのです
ね。そしてその愛は、子どもの、心を、必ず、溶かします。どんなかたい心でも、溶かします。そ
れを信じて、ただひたすら、許して、忘れる。

 がんばりましょう!

+++++++++++++++++++++++++

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。

しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよ
うに、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。

同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。

もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。

子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題
を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
(031020)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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      (" 。 "人
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     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「許す」ことのむずかしさ

 人を許すことのむずかしさ。それを、私はいつも、実感する。

 で、その先というか、「許しあと、どうするか」という問題もある。許したからといって、そのあ
と、ベタベタつきあうということでもない。許したあと、そのまま、その人と、交際しなくなるという
こともある。また交際しなけばならないということでもない。あとは、自然体でいけばよい。

 問題は、親子や、兄弟。さらには親類である。

 A氏(四五歳)は、弟のB氏(四四歳)と、絶縁関係にある。遺産相続にからむ、金銭問題が
原因であった。弟のB氏が、詐欺師に近い人物で、逮捕歴も一度ある。暴力団とも関係したこ
とがある。

 A氏は、B氏に、一〇〇〇万円近い、お金を貸している。「返してほしい」と言うと、そのつど、
あれこれ、とぼけて、まったく取りあおうとしないという。

 そういうB氏を、A氏は、何度も許した。「恥もかきました」「女房の親戚には、いつも肩身の狭
い思いをしています」と。

 で、A氏は、B氏とかかわりたくないと思っているが、B氏のほうは、そうではない。何かと、実
家の問題にかこつけては、A氏のところにやってくる。母親は、今年、七〇歳になるという。元
気である。

 「こういうケースでも、許さねばならないのか」と。

 しかしA氏は、すでに許している。今でも、兄弟関係をつづけているということ自体、その証拠
である。

 ただその先、つきあうかどうかは、別の問題。許したからといって、つきあわねばならないと
いうことではない。つきあいたければ、つきあえばよい。つきあいたくなければ、つきあわなくて
もよい。無理をしてはいけない。無理をする必要はない。たとえ弟でも、「つきあいたくない」とい
うことであれば、それでよい。

 今でも、親子、兄弟、親類の、つまりはドロドロのしがらみの中で、もがき苦しんでいる人は、
五万といる。関係が、良好な人のほうが少ないのでは? 他人なら、そのまま別れることがで
きるが、血縁関係にあると、それもできない。世の中には、親をだます子どももいるが、子ども
をだます親だっている。決して、きれいごとばかりでは、通れない。

 しかし許すということは、自分の心を掃除するということにもなる。うらみ、つらみは、いわば
心のゴミのようなもの。そういうものが多ければ多いほど、心は腐る。私もある時期、数か月に
わたって、ある人をうらんだことがある。

 しかしそういうときというのは、あとから思い出しても、いやなもの。ワイフに言わせると、当
時、私の顔まで、醜くなったという。

 だから許す。どうせ人生は、短い。あの小泉さんも、ブッシュさんも、金XXも、あと三〇年をま
たずして、この世から、消える。私も消える。この文を読んでいる若い母親にしても、あと五〇
年で消える。みんな消える。

 だったら、「今」というときを、できるだけ充実させて、生きるほうがよい。うらみ、つらみは、そ
ういう人生にとって、マイナスになることはあっても、プラスになることは、何もない。

 ……といっても、人を許すということは、むずかしい。本当にむずかしい。毎日が、その戦い
であるといってもよい。私が望まなくても、問題は、そのつど、向こうから、打ち寄せる波のよう
にやってくる。そしてそのつど、その波に巻きこまれてしまう。

 今日も、がんばるしかない。「許す」というのは、まさに「生きることにまつわる、避けて通れな
い問題」ということになる。
(031019)

【追記】

 この「許す」についで生まれる問題が、「忘れる」ということである。

 許すことはできても、忘れることができないということは、いくらでもある。ここに書いたA氏に
しても、許してはいるが、忘れてはいないということになる。この「忘れる」という部分について
は、また、別の機会に考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

これについて、以前、書いた原稿を添付します。
中日新聞に発表したものです。
子育てで行きづまりを感じたようなとき、
どうかご一読ください。

+++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛  
  
 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。

そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。

いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私の
ものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そし
て祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れ
ているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自
分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。

が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがあ
る。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返してい
ると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万
人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに
対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場
で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。

子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づい
たとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教
えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

T先生へ、

 手紙を、三通もいただきながら、返事もかかず、失礼しました。ずっと、気にはなっていまし
た。で、今朝こそ、返事を書かねばと思い、筆をもちました。

 今朝は、快晴になるとか、窓の外には、きれいな青空が見えてきました。時刻は、午前六時
半。下の台所で、ワイフが、朝食の準備を始めたようです。ときどき、ガチャガチャという音が
聞こえてきます。

 実は、今日は、これから二男の結婚披露パーティがあります。いつか来ていただいた、あの
山荘で、ワイフの親戚だけを集めて、します。突然、思い立ったようなパーティで、岐阜の私の
親類は、今回は、呼んでいません。

 私も、浜松での生活が、三四年目になり、ここでの生活がすっかり定着してしまいました。今
では、岐阜に帰っても、ほとんど、なつかしいとは思わなくなりました。高校時代の同窓生に会
っても、「こういう人もいたのか?」と、かえって、おかしな気分にとらわれます。

 二男の嫁さんは、アメリカ人です。昨夜も、鳥善レストランで会食をしましたが、日本の女性よ
りも、はるかに「大和なでしこ」といった、つまりは、信じられないほど、日本的な女性です。二
男自身も、そう言っています。控えめで、おしとやかで……。

 昨夜も会食の間中、じっと、座って、席に座っていました。で、話を聞くと、アメリカでも中南部
の州では、まだ男尊女卑思想が根強く残っていて、男がいばっているのだそうですね。アメリカ
と言っても、広いですから……。それこそ、日本、中国、東南アジアを含めたくらいの広さがあ
りますから……。そういうところで、鍛えられたようです。

 で、昨夜、家族で、今日、みんなで歌う歌の練習をしました。英語の歌ですが、さすが、嫁さん
は、英語がうまいです。「あなたの英語は、うまいね。浜松で、ぼくよりじょうずに英語が話せる
のは、あなただけだ」と言ってやりましたら、うれしそうに笑っていました。

 先生のご家族も、国際的になりましたね。ロシア人の嫁さんは、もうロシアにお帰りになりまし
たか。一度、ロシアに帰国すると、先日、奥様のほうから聞いていましたので……。これからロ
シアも、寒くなります。

 仕事のほうは、順調というわけでもないですが、こういうご時世ですから、ぜいたくは言ってお
られません。朝起きたとき、仕事があるというだけでも、感謝しなければなりません。私の大学
の友人たちは、民間企業に勤めた仲間は、ほとんど全員が、今ではリストラされ、それぞれの
就職先で、仕事をしています。

 私はもともと、風来坊。万年失業者のようなものですから、リストラには縁がありません。それ
がよかったのか、悪かったのかはわかりませんが、「人生って、こんなもの」と、ヘンに納得して
います。

 今は、健康だけです。それを大切にしています。

 そう言えば、このところ、Kさんにお会いしていませんが、お元気ですか。多分、お仕事が忙し
いのだろうと思います。お子さんたちは、皆、元気です。街で、顔を合わせたりすると、「先
生!」と言って、あいさつをしてくれます。

 多分、今日一日が終わると、ガクリとくると思います。何だか、今日一日で、人生のすべてが
終わるような、そんな感じです。明日からの予定が、まったく立ちません。

 今、ワイフが、台所のほうで、私を呼びました。あれこれ手伝ってきたところです。日も高くな
り、朝日が、カーテンに影をつくりました。今日は、忙しい一日になりそうです。どうか、先生も、
お体を大切に。奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。

 今日は、これで失礼します。

   一〇月一九日                    はやし浩司

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞









4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●たき火の哲学

 私は山荘では、よく、たき火をする。

 もっとも、そのあたりでは、たき火は、禁止。村の掟(おきて)らしい。

 そこで私は、たき火コーナーを、韓国産の石で、半径二メートルほどをおおい、さらに全体を
小さな島のようにして、庭から独立させた。周囲をぐるりと道路で囲み、そこには、ジャリを敷い
た。

 また二か所に、水道の蛇口をとりつけ、万が一のときは、すぐ消せるようにした。ほかに水を
張ったバケツを三個、近くに置いた。で、何となく、村の人たちの暗黙の了解をとりつけ、その
たき火を楽しんでいる。

 そのたき火には、不思議な魅力がある。

 夏の夜など、真っ暗な闇の中で、パチパチと燃えるたき火の炎を見ていると、「人生」そのも
のを感ずる。うまく表現できないが、生きることの原点というか、そんなものを感ずる。

 さみしいときには、そのさみしさが、倍化される。人恋しいときには、その恋しさが、倍化され
る。悲しいときや、つらいときもそうだが、そういうときは、たき火をしない。気がヘンになってし
まう。

 いつか、だれかが、「水は、こころをなごませるが、火は、心を躍(おど)らせる」と言った。そ
れはそのとおりだと思う。水は、永遠不滅の真理を表し、火は、躍動する、生きるエネルギーを
表す。

 このたき火は、一見、簡単そうだが、実は、そうではない。まず、火のつけ方がむずかしい。
つぎに木の選び方がむずかしい。燃え出したとき、どのようなタイミングで、どのような木を加え
るかも、むずかしい。もちろん、そのときの気象条件も、重要である。

 湿った日や、小雨の日は、さらにむずかしい。雨に濡れた木を、うまく燃やすのは、もっとむ
ずかしい。

 ???

 雨に濡れた木をどうやって、燃やすかという質問が出そうなので、説明させてもらいたい。

 たき木が雨に濡れて、たき火ができないときは、周囲の、生きている木の中の、枯れた枝を
折って、それを使う。近くに、雑木などが立っていたら、下のほうをさがす。たいてい枯れた枝
がみつかる。そういう枯れた枝は、濡れているといっても、表面だけ。火をつければ、すぐ燃え
出す。

 このことは、近くに住んでいる、農家のKさんに教えてもらった、などなど。

 ほどよい炎(ほのお)で、ほどよく燃えるためには、それなりの苦労が必要である。何でも、日
本には、「たき火学会」という「会」すらあるという。つまりそれくらい、奥が深い。決して、軽く考
えてはいけない。

 と、もう少し先を書くつもりだったが、ここで寄り道。

 たき火コーナーの作り方も、これまた奥が深い。どういう石を使って、どのような形にするか。
さらにその上に、どういう形のコンロをつくるか。また掃除がしやすくするために、全体をどうい
う形にするか。

 石の選び方をまちがえると、水をかけたとたん、バリバリと割れてしまう。形が悪いと、ナベや
調理器具が、うまく使えない。さらに排水口をしっかりと作っておかないと、雨水で使い物になら
なくなったり、つまったりする。

 排水口にしても、出口のところは細くして、そこからが数倍太いパイプでつなぐのが、コツ。そ
うすれば、あとで掃除もしやすい……というようなことは、説明しても、意味がないので、ここま
で。

 しかし最大の問題は、実は、消火である。

 たき火をするときは、この消火をいかにていねいに、つまり徹底的にするかが、重要。私は
いつも、水をかけて、消火するとき、こう念じている。

 「消えたと思ったら、もう一回、念のため。これは小枝のため。さらにもう一回、念のため。こ
れは中枝のため。さらにもう一回。これが大枝のため。青い煙が消え、白い蒸気が消えても、
もう一回、念のため。これは火事を防ぐため」と。

 一度、燃えた木は、恐ろしい。小さな種火が、木のシンの中で燃え残り、一晩をまたいで、翌
日になって、大きく燃え出すということは、よくある。私も何度か、失敗した。

 こまかい砂地の上でたき火をした。終わってその火を、足で踏んで、消した。……消したと思
った。しかし種火が、砂の下で生き残っていた。そしてその種火が、砂の下をくぐり、少し離れ
たところにあった、枯草を燃やした。

 その間、数時間。ちょうどタバコの火のように、チリチリと燃えていったのではないかと思う。
気がついたときには、土手に燃え移るところだった。あと五分、発見が遅ければ、大惨事にな
っていたと思う。

 浜松市の北で、大きな造園業を営んでいる、O氏(六四歳)は、こう教えてくれた。その道のプ
ロである。

 「決して、切った木を燃やしてはいけないよ。火は、こわいよ。だから私も、切った枝は、全
部、もって帰ることにしているよ」と。

 プロでさえ、そうである。いわんや、素人がしてはいけない。とくに山のたき火は、こわい。だ
からいかに消火をするか。それは、たき火をする人間にとって、たいへん重要な問題である。

 『よきたき火は、完全な消火で終わる』は、私が考えた格言である。ともあれ、私は、そのた
き火が、大好き人間の一人である。
(031020)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●将来なりたい職業は「公務員」(男子)、「保育士」(女子) 

TBS社が、高校三年生について調査したところ、つぎのような将来像をもっているのが、わか
った(03−10−20)。

 「将来就きたい職業の一位は「公務員」と「保育士」。高校三年生を対象にした進路について
のアンケート調査で、厳しい雇用環境の中、安定したイメージの職種が上位に並んだ。

 アンケート調査は、全国四〇〇人余りの高校三年生と、その保護者を対象に行われた。そ
の結果、「どんな仕事に就きたいか」という質問に対し、一位は男子が「公務員」、女子は「保育
士・幼稚園教諭」となった。以下、教師や看護師など、資格が必要で安定したイメージの職業
が上位を占めた。
 
 三年前の同じ調査では「ゲームクリエイター」「カウンセラー」などの いわゆるカタカナ職業が
目立ったが、今回は少数派。
 
 一方で、「なりたくない職業」には男子の「サラリーマン」などが挙げられていて、 身近な大人
の仕事を、魅力に思えないという現実もうかがえる」(i−newsより、転載)と。

●サラリーマンがいや?

 この調査で気になったのは、「サラリーマンがいや」と答えた高校三年生や、親が多かったと
いうこと。わかるような気もするし、しかし、同時に、「どうして?」とも、思う。公務員にしても、保
育士にしても、サラリーマンであることには、違いない。

 公務員志望が多いということは、要するに、お金はほしいが、働きたくないということか。教職
員のように、忙しすぎて悲鳴をあげている公務員(※)がいる一方で、「毎日、どうやって時間を
つぶすか、そればかりを考えている。パソコン相手にゲームをしていても、だれからも文句を言
われない」(G県、検査課、課長)と言う公務員もいる。

しかし、この日本では、悲しいかな、公務員は絶対、得! 公務員になれるのなら、なったほう
がよい。仕事は楽だし、給料も、よい。少しきつい仕事だと、年収、一〇〇〇万円はふつう。た
とえば清掃作業にたずさわる公務員などは、年収、一二〇〇万円前後にもなるという(週刊誌
情報)。「仕事は、一日、数時間程度。昼過ぎには風呂に入って、毎日、定刻に、家に帰る。残
業など、いっさい、なし」(同記事)と。

 ちなみに、東京都の船橋市は、職員給与を、ホームページ上で公表しているが、それによっ
ても、全職員一人あたりの所得給与は、平均、八〇二万六〇〇〇円(期末、勤勉手当などを
含む)だそうだ(〇二年度実績)。

 大卒の初任給が、二〇万円程度だから、反対に考えると、年収、一〇〇〇万円以上もザラと
いうことになる。もちろんリストラもない。退職金にいたっては、民間平均支給額の数一〇倍以
上(東京江東区)。さらに生涯にわたって、手厚い年金が保証され、加えて、天下り先も用意さ
れている。

 一人ひとりの公務員の方に責任があるわけではないが、こんなことをつづけていれば、日本
の経済は、確実に破綻(はたん)する。いや、旧国鉄の債務問題をみるまでもなく、すでに破綻
している。

たとえば私の近所に住むK氏(八一歳)は、二六年前に、満五五歳で、旧国鉄を退職してい
る。以後、毎月、三四万円の年金を受け取っている。その合計金額だけでも、一億一〇〇〇
万円程度になる。そのせいかどうかは、知らないが、旧国鉄の債務だけでも、とうとう二〇兆円
を超えてしまった! (国家税収の約半分だぞ!)

 K氏は、「私ら、戦争で苦労したし、安い給料でがんばりましたからね。今、もらっているお金
にしても、収めた分を、返してもらっているだけです」と言う。しかし、本当にそうだろうか。いろ
いろ言いたいことはあるが、まあ、この話は、ここまで。

 官僚主義国家と言えば、まだ聞こえはよい。しかしその実態は、旧ソ連の、共産主義国家
と、それほど違わない。日本は、本当に、民主主義国家なのだろうか? 公務員という職種
が、人気職種のナンバーワンになって、もう一〇年以上になる。その話を聞くたびに、私の頭
の中では、「?」マークが、ウズを巻く。
(031021)

※……そのため、ほとんどの自治体では、教職員だけは、一般公務員より、約二〇%ましの
給与体系をとっている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【Q&Aについての、お願い】

 マガジン読者の方から、毎日、いくつかの質問をいただきます。ありがとうございます。今のと
ころ、「マガジンの読者だ」と言ってくださった方からの、ご質問については、すべて回答を書い
ています。

 つきまして、以下のことを、お願いしたのいですが、よろしくお願いします。

(1)みなさんからのご質問は、原則として、マガジンの掲載記事として、引用させていただきま
すので、よろしくご了解ください。またそういう前提で、回答を書かせていただきます。そのた
め、プライベートな部分は、質問を寄せてくださる方のほうで、どうか、適当に、改変してくださ
い。たとえば家族構成や、職業など。ご住所、名前については、私のほうで、責任をもって、適
当に、改変します。

(2)つづけてご質問をいただくことも、このところふえてきました。しかしながら、「先日、相談し
ました、○○県のAAです。そのあと、あの問題は……」などというメールをいただくと、率直に
言って、たいへん困ります。いただいたメールは、そのつど、返事を書いた段階で、削除してい
ます。またマガジンに掲載した記事では、住所も名前も、改変してあります。そこで、そのたび
に、あちこちをひっくりかえして、その方のメールをさがさねばなりません。実のところ、これが、
たいへんな作業なのです。ひとつの方法としては、以前のメール、回答などを、そのまま末尾
に添付してくださると、うれしいです。

(3)ご質問には、ご住所、名前を、必ず、明記してください。イニシャルだけで、中には、「SUZ
UKIより」というような書き方で、相談をくださる方もいらっしゃいます。返事を書いていても、た
いへん不安になります。そんなわけで、今後は、やはり、ご住所、名前のない方からの、相談
は、いっさい、お断りすることにしました。返事を書くこともありません。しばらく時間をおいて、
そのまま削除させていただきます。改めて、ここで再確認させてください。

(4)「ホームページやマガジンへの掲載は、ダメ」「引用も、断る」という方からの相談は、テー
マとして、マガジンのほうで、取りあげさせていただくということで、ご了解ください。直接、返事
を書くということは、時間的にも、無理です。どうかご理解の上、お許しください。

(5)テーマとして、相談してくださるようであれば、掲示板に書き込みをしてくださるのが、一番
よいかと思います。私のほうも、掲載の了解を取るなどの手間が、はぶけます。いかがでしょう
か? たとえば「双子の姉妹の問題を取りあげてほしい」「嫁姑の問題を考えてほしい」などと
書き込みをしてくだされば、うれしいです。

(6)また、このところ、私がもっている資料などを、「送ってほしい」という方が、たいへんふえて
います。実のところ、印刷代、郵送代、手間などが、かなりの負担になってきました。で、今後
は、お断りすることにしました。(ホームページのほうで、「送る」と書いてから、もう三年になりま
す。当初は、すべての方に、無料で送っていましたが……。近く、ホームページのその部分を、
削除するつもりでいます。)申し込んでくださった方には、たいへん申し訳ないのですが、そんな
わけで、どうか、お許しの上、ご勘弁ください。

 今後とも、気持ちよく、Q&Aコーナーを、運営していくためにも、皆さんの暖かいご理解が必
要です。以上、よろしくお願いします。
(031021)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■園の方針(1)

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
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03−10−29号(309)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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です! 
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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

●いい学校から、いい家庭へ

 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る
親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主
義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家
庭」であり「家族」。こんな家族がいる。

 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。
そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親
は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。

娘はその絵画をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、年齢的には中学二
年生のときに、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破
壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でも
ふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。

私が「何もそこまで……」と言うと、その親はこう言った。「いえ、私が多少嫌われてもし方ない
ことです。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子もいい学校へ入ってくれれば、私を許して
くれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレ
ているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出
てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れ替わり、仮想世界に住みながら、そこが
仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを
大切だと思い込んでしまう。

 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友
だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族
のきずなこそ財産だよ」ということになる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●疑いをいだかない愛

 子どもというのは、絶対的な愛があってはじめて心をはぐくむことができる。「絶対的」という
のは、「疑いをいだかない」という意味。

言いかえると、子どもが家族の愛に疑問や不安をもったりすると、その心は確実にゆがむ。た
とえば親の冷淡、無視、拒否的態度が日常的につづくと、子どもはいわゆる愛情飢餓の状態
になり、さまざまな不安定症状を表すことが知られている。ぐずったり、反対にイライラと怒りっ
ぽくなったりするなど。

そしてそれがさらに慢性化すると、性格そのものがゆがむことが多い。すねたり、いじけたり、
ひねくれたりするなど。がんこになったり、いじっぱりになったりすることもある。この段階になる
と、神経症による症状を訴えることも多い。が、それではすまない。こんなことがあった。

 小学一年生の女の子だが、断続的に不登校を繰り返していた。最初は「不登校かもしれな
い」と母親は心配したが、「断続的」という点で、学校恐怖症による不登校とは区別される。

で、ときどきその子を学校へつれていくのだが、母親が教室の中にいる間は、それなりにおと
なしく授業を受けることができる。が、見えなくなったとたん、ギャーッと泣いてあとを追いかけ
たりする。それだけを見れば今度は、分離不安ということになる。が、どうも分離不安の様子と
も違った。

さらに観察してみると、ほかにネチネチと母親に甘えるという症状もあることがわかってきた。
そこで調べてみると、案の定、原因はどうやら下の弟(四歳)らしいということがわかってきた。
赤ちゃんがえりである。こうしたケースでも、表面的な症状だけをみると、判断をまちがえる。

 ふつう子どもがわけの分からない症状を示したら、愛情問題を疑ってみる。この赤ちゃんが
えりにしても、本能的な嫉妬心がその背景にあるとみる。下の子どもに向けられた愛情をもう
一度取り戻そうと、子どもは本能的に赤ちゃんを演じてみせる。

本能的であるがため、説得したり叱ってもムダで、対処のし方がまずいとこじれにこじれてしま
う。それこそありとあらゆる情緒不安症状を示すようになる。その女の子にしても、親たちが下
の子ばかりをかわいがるのを見て、自分への愛情に大きな不安を感じたのだろう。親は「平等
だ」というが、平等ということそのものが、上の子どもには納得できないのだ。

 ……などなど。これはほんの一例にすぎないが、子どもというのは愛情がからむ問題には、
きわめて敏感に反応する。そういう意味でも、子どもの側からみて、「疑いをいだかない家庭環
境」をいつも大切にする。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●二男夫婦が、明日、帰る

 ほっとしたような、それでいて、つかみどころのないさみしさ。今、この二つの気分が、心の中
で、入りまざっている。

 今度、会えるのは、一年後か。それとも二年後か。もっと長く、日本にいてほしいが、私のた
めにいてくれと言うのも、つらい。(それに孫の世話もたいへん!) 

二男には、二男の人生がある。アメリカにひとりで住むというのも、心細いことだろう。しかしそ
の心細さは、私も、同じである。いざとなったら、家族が助けてくれる。それを願っているわけで
はないが、しかしそういう可能性があるというだけでも、どこか心強い?

 地球は小さくなったとは言うが、感覚だけは、昔のまま。私にとってのアメリカは、まだまだ遠
い国。飛行機で、一四時間というが、その飛行機に乗るのも、たいへん。実際には、現地へ着
くまでに、ちょうど二四時間(丸一日)かかる。

 考えてみれば、私が学生のころは、アメリカへ行くというだけでも、夢物語だった。当時、大卒
の初任給が、六万円前後。五万円台が多かった。そういう時代に、アメリカのニューヨークで働
く大卒の初任給は、一七・五万円! 日本から、ニューヨークまでの旅費も、ちょうど、一七・五
万円。

 私はこうした数字を見ながら、「アメリカ人は、一か月分の給料で、日本へ来ることができる
のか」と、うらやましく思ったことがある。私は、貨物船で働きながら、アメリカへ行くことさえ、考
えていた。

 が、今では、格安チケットだと、(その季節にもよるが)、往復、六、七万円で行ける。安い額
ではないが、新幹線の料金とくらべると、メチャメチャ、安い。ちなみに、浜松と東京を新幹線で
往復すると、一万六〇〇〇円もかかる。その四倍程度の金額で、アメリカを往復できる!

 こうして考えていくと、「アメリカ、アメリカ」と、こだわらなければならない理由など、ない。ちょ
っと遠い、北海度と思えばよい。この先、その気になれば、いつだって、往復できる。「別れる」
などと、おおげさに考える必要はない。だいていにおいて、当の本人たちは、ケロッとしている。

 今夜も、嫁さんが、だれかがくれた羊羹(ようかん)や本を、めざとく見つけて、「もらっていい
か?」と聞いた。このところ、我が家にすっかり打ち解けて、炊事を手伝ったりしてくれている。
コタツの中に入って、居眠りをしていることもある。

 そうそう、驚いたのは、居間のソファで、二男に、(堂々と!)、足の指の爪を切らせていたこ
とだ! あとでワイフが、「日本では考えられないこと」と、言っていた。そういう光景は、アメリカ
では、ごくふつうのことらしい? 「昔なら、そんな嫁さん、家からたたき出されただろうね」と、
私が言うと、ワイフは、ケラケラと笑った。

 ともかくも、明日で、アメリカへ帰る。長かったような、それでいて短かったような三週間だっ
た。そして明日から、また以前のような、静かで、単調な毎日が始まる。それを望んでいるわけ
ではないが、単調な生活には、それなりのよさがある。ほっとした気分は、どうやら、そのあた
りから、生まれてくるらしい。
(031020)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●二男夫婦を見送る

 二男を夫婦を、ワイフと二人で、浜松駅で、見送った。成田空港までは、三男に同行してもら
うことにした。二男も、三男も、高校時代は、山岳部にいた。重い荷物をもつのは、慣れてい
る。

 新幹線が動きだしたとき、ふとさみしさが、横切ったが、それだけ。あとで聞いたら、ワイフも
そうだったという。「親として、やるべきことは、すべてした」という満足感のほうが、大きかった。

 それに小さな事件があった。

 家を出るとき、二男夫婦、三男、ワイフと私。計五人になった。それに大きな荷物。車が一台
では、無理ということになった。そのとき、二男が私にこう言った。「パパは、(駅へ)来なくてい
い」と。

 私は、この言葉に、少なからず、ショックを受けた。「いったい、私がしてきたことは、何だった
のか?」と。「私は、ただの親バカだったのか?」と。

 七年以上のアメリカ生活の中で、二男は、ものの考え方が、かなりアメリカナイズされたの
は、感じていた。しかしここまでアメリカナイズされていたとは……! ものの考え方が、合理的
すぎる?

 私は、駅まで見送ったが、どこか肩身が狭かった。本来なら、「また来いよ」と、明るく声をか
けなければならなかったはずだが、その声は出てこなかった。一応、平静を装ったが、あくまで
も、「一応」だった。

 子育てというのは、そういうものか。いつか子どもは、巣立ちをして、親から離れていく。とく
に、父親からは、離れていく。同じ親でも、父親と母親は、決して対等ではない。母親と子ども
の関係は、絶対的なものだが、父親と子どもの関係は、そうではない。

 そこで改めて、考えてみる。父親にとって、息子とは、何か、孫とは、何か、と。

 私のように、「家」意識がまったくない人間にとっては、息子にせよ、孫にせよ、ただの人間に
すぎない。少しでも「家」意識があれば、息子にせよ、孫にせよ、「家」を継ぐ存在として考えるこ
とができる。

 しかし息子自身にも、「家」意識が、まったく、ない。だからその嫁さんや、孫にも、まったく、な
い。だいたいにおいて、嫁さんにしても、「林家へ嫁いだ」という、意識そのものがない。私やワ
イフを、ただの人間とみている。

 つまり親子といえども、そこにあるのは、純然たる人間関係のみ。二男の考え方をみている
と、そういう視点だけで、私やワイフをみているような気がする。だからもちろん、兄弟や、親類
に対しても、そうである。

 結婚披露パーティには、二〇人近い親類が集まってくれた。そのことについても、当初、二男
は、こう言っていた。「披露して、どうなるのか?」と。つまり「それほど親しくない親類まで呼ん
で、それがどうだというのか?」と。

 「なるほど……」と思う一方で、私は、「そういうものでもないのだがな……」と思った。私として
は、二男の結婚を、みなが、祝福しているということを、二男や嫁さんに伝えたかっただけ。

 ワイフは、こう言った。「アメリカに七年間も住んでいると、ものの考え方も、ああまでクールに
なるものかねえ?」と。

二男は、日本的な言い方をすれば、子どものころは、たいへん情の厚い、やさしい子どもだっ
た。優柔不断なところもあった。それが今では、スパスパと、YES、NOをはっきりと言う子ども
になってしまった。ワイフは、「きつくなった」と表現したが、たしかに、そうだ。

 浜松駅から帰るとき、私とワイフは、回転寿司店へ寄った。そして寿司を食べながら、こんな
会話をした。

私「やるべきことはした。あとは、あいつの判断だ」
ワ「それでいいのよ」
私「ほっとしたね。あいつがいると、お金ばかり、かかるし……」
ワ「そうね。私も、ほっとしたわ。また今日から、静かな生活が戻ってくるし……」
私「それに、あんな嫁さん、何も役に立たない」
ワ「それは言いすぎよ……」
私「日本人の嫁さんなら、『お父様、肩でも、もみましょうか』くらいは、言うぞ」
ワ「そんな嫁さん、もういないわよ。日本にも……」
私「いる!」
ワ「いない!」と。

 要するに、あとは忘れること。自分の生活を、始めること。いろいろ言いたいことはあるが、
「許して、忘れる」。それでおしまい。
(031022)

【追記】
 
ついでに、こんなショッキングな話も。

 小中学生二〇〜二五人ほどに聞いてみた。約半数は、すでに、祖父母のだれかをなくしてい
る。それについて、「おじいちゃん、おばあちゃんが死んだとき、泣いた人?」と聞いたら、全
員、「ノー」。「おじいちゃん、おばあちゃんが死んだとき、さみしかった人?」と聞いても、やは
り、全員、「ノー」と。

 「孫はかわいい」と、ことさら強調する人は、むしろ溺愛タイプの、おじいちゃん、おばあちゃ
ん? しかしその祖父母が思うほど、孫は、おじいちゃん、おばあちゃんのことなど、考えてい
ない。……思っていない。

 おじいちゃん、おばあちゃんと、孫の関係は、しょせん、そんなもの?

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●父子論

 父親は、しょせん、「ひとしずく」。それで、おしまい。

 一方、母親は、子どもをはらみ、産み、育てる。子どもにとって、母親は絶対だが、父親は、
そうでない。ないことは、カトリック教会へ行けば、わかる。母のマリア像は飾ってあるが、父の
ヨセフ像を飾ってあるところは、ない。(いろいろ理由は、あるようだが……。)

 そこで父親というのは、母親と子どもの関係をみながら、横で嫉妬しながら、その間に割って
入ろうとする。しかし、そこには、おのずと限界がある。入ろうしながら、どうしても入りきれな
い、何かがある。子どもたちと接する時間も少ない。

 つまりは、不安定な関係ということになる。

 この不安定さを補うために、父親は、たとえば権威をもちだしたりする。しかしそれとて、いま
では、神通力をなくした。財力や権力のある父親は、それで子どもをしばろうとする。しかしそ
れにも、思ったほどの力はない。

 やがて父親は、家族の中で孤立する。ときには、「お前たちは、だれのおかげで……!」と
も、言いたくなる。しかしそれを口にしたら、お・し・ま・い。

 「父親は仕事、母親は家事」と、だれが言った? だれが決めた? 父親は、その常識の中
で、ただ、もがき、苦しむ。

 父親とは、では、何なのか? そも、生物学的に考えて、人間には、父親が必要なのか? 
動物の中には、種つけだけをして、そのまま雌のもとを去っていく雄は、いくらでもいる。子育て
の間だけ、夫婦の形をする雄もいる。しかし人間は、生涯にわたって、父親は父親でありつづ
ける。それが本来の、生物としての、人間のあるべき姿なのか?

 父親が父親であるのは、その生きザマを示すときかもしれない。とくに息子たちには、そう
だ。息子たちにとっては、父親というのは、「母」を介してのライバルでしかない。こうした心の葛
藤を、心理学では、エディプス・コンプレックス※という。わかりやすく言えば、その生きザマを
示すことができなければ、父親というのは、息子たちにとっては、いてもいなくても、よい存在と
いうことになる。

 それだけに父親の置かれた立場は、きびしい。家族の生活を支えることができなければ、そ
のまま「親失格」のレッテルを、張られてしまう。生きザマを示せなければ、息子たちのみなら
ず、妻にさえ、愛想をつかされる。ある女子高校生は、父親に向かって、こう叫んだ。

 「私を大学へやるのは、あんたの義務でしょ! 借金でもなんでもして、私を大学へやって
よ!」と。

 父親が事業に失敗して、その娘に、「進学をあきらめてほしい」と言ったときのことだ。

 こうしたきびしさは、母親には、ない。ふつうこういう状態になると、母親(妻)まで、父親(夫)
を責める。「あんたが、だらしないからよ!」と。

 しかしほとんどの父親たちは、その現実に目を閉じたまま、「親である」という幻想にしがみつ
く。しかし幻想は、幻想。ある男性(七六歳)は、ことあるごとに、こうこぼしている。「最近の若
いものたちは、先祖を大切にしない」と。

 しかし「先祖」という言葉そのものが、実は、幻想。彼が言う「先祖」とは、自分自身のことであ
るということにさえ、その男性は気づいていない。つまりは、さみしい存在であるということ。

 もちろん父親の中には、息子や娘と、心温かい関係を築いている人もいる。しかし皮肉なこと
に、そういう人に限って、「私は父親である」という、父親意識が、薄い。上下意識をもった「親」
ではなく、「友」として、いつも子どもの横にいる。そうした謙虚さが、子どもの心を開く。よい人
間関係を築く。

++++++++++++++++++++++

エディプス・コンプレックスについて書いたのが、
つぎの原稿です。

++++++++++++++++++++++

※エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ
バルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視すると
いうことも、これに含まれる。)

 私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本
ではそのまま当てはめて考えることはできない。

その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。

その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といって
もよいが)が、かぎりなく進む。

現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そ
のものが、ぼやけてくる。つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのも
のが、軟弱になってくる。

現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい
う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、
当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。

子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろな意味において、明確ではない。少なくと
も、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあいによって
は、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。

また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる
「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ
論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプス・コンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。

川のそばの、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソ
ファが置いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬
にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝
動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ちものに嫉妬するという、まあ、
ゆがんだ嫉妬心だ。

そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプス・コンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。

+++++++++++++++++++++

●再び父子論

要するに、父親は、あまり「父親」という意識をもたないで、気楽に生きるということ。「私は親
だ」と、親風を吹かすのもよくないし、「親だから……」と気負いすぎるのも、よくない。

 そういう意味では、やるべきことを淡々とやりながら。母親と子どもの関係には、あまり深入り
しないこと。いわんや、母親と子どもの関係に、とってかわろうなどと思わないこと。

 しょせん父親は、父親。ただの「ひとしずく」。腹を痛めたわけでもないし、乳をくれたわけでも
ない。極端な言い方をすれば、母親がいなければ、子どもは死ぬが、父親がいなくても、子ど
もは育つ。その事実を、謙虚に、受け止める。受け止めて、あとは、あ・き・ら・め・る。

 どうやらそれが、父親としての、あるべき姿勢ということになる。
(031022)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●園の方針

はじめまして。
はやし先生にぜひご相談したく、メールさせていただいています。

私はH市に住んでいます、EAと申します。

はやし先生のことは中日新聞の連載を読みとても共感でき、勉強にもなり、
S町で、行われた講演会にも参加させて、いただきました。

今は、三年生の二男が、月刊雑誌「ファミリス」をもってきています。

今回ご相談したいことは。幼稚園の園長先生のことなのですが、
私には三人の子が、いますが、上の子が、幼稚園に通っている時と、園の雰囲気が、
あまりにみかけ離れてしまいました。公立の幼稚園にもかかわらず、ものすごく
かたくるしくて、息苦しい感じになってしまい、残念でしかたがありません。

そのため、これで、子どもたちは、大丈夫なのだろうか?、という不安にかられます。

具体的に言いますと、まず、外遊びが、とてもへってしまったこと。
どろんこ遊びなどは、ほとんどなく、砂場も二つあるうちのひとつは日陰で、
今では、物置になってしまいました。

いままで、何年もの間、使えたものが、です。

また、小さな池が作ってあり、水遊びもでできましたが、それも今では
そこも危ないということで、水が抜いてあります。

そのほか、以前は、小動物も何匹か飼っていましたが、それもなくなりました。

プロレスのような遊びも、禁止です。友だちとの物の取りあい、
もちろん喧嘩など、もってのほか。すべて危ないからだそうです。

私はこういったことから、ものすごく大切なものを幼少期時代に
学べると思っているのですが、あれはだめ、これはだめ、とがんじがらめなのです。

不満を感じているお母さんたちもかなり多いのですが、
直接園長先生の話しても結局言い訳ばかりで、何となくはぐらかされてしまい、
話にならないという感じです。

現状をわかっていただこうと息子の学校の先生にも、相談してみました。
こちらの幼稚園にくる前にも、何かと、問題のあった園長のようです。

こちらの方も今年で三年目なのですが、色々な園長先生がいると、
それは、それで、対応していった方が良いのでしょうか?

子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活を送り、
今経験しなくては、いけないことをしなかったことに
よって、一〇年後の友だちとのかかわり方など、問題はおきないのだろうか、
と真剣に悩んでいます。

そこまで、心配しなくても、他のことで、学んでいくのでしょうか?

もう少しのびのびした園生活をおくらせてあげたいのですが……
突然のメールでながながと愚痴を書いてしまい、申し訳ありません。

ぜひ、はやし先生のお考えを聞かせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++++

【EAさんへ……】

 家庭教育の主導権は、だれがもつかという問題に、行きつくと思います。「家庭」か、それとも
「園」か?

 EAさんのご質問を読んで、最初に気になったのは、「何でも、幼稚園で……」という姿勢で
す。「その幼稚園が、願ったような教育をしてくれないから、不満」というわけです。

 しかし、ね、EAさん。家庭教育の主導権は、あくまでも、家庭にあります。保育園にせよ、幼
稚園にせよ、その家庭教育を支える、補助的な存在でしかありません。もともと「教育」というの
は、そういう目的から出発しました。

 全体主義国家、軍事国家、貴族国家では、教育は、「民づくり」の道具として使われ、また使
われています。残念ながら、この日本には、いまだにその亡霊が、はびこっています。教育を
受ける側にも、その亡霊が、はびこっています。

 そこでどうでしょうか、発想を、少し変えてみるのです。

 家庭でできないことを、園でしてもらう。園でしないことは、自分でする、とです。これは、欧米
人の発想です。

 アメリカでは、公立の小学校でも、カリキュラムは、その学校の先生と、親たちで決めていま
す。先生を、親たちが雇って、自分で開いている学校も、少なくありません。「チャータースクー
ル」というのが、それです。

 そういう学校を見ていると、「では、日本の学校は、いったい、何か?」ということになります。
事実、私は、そう思いました。

 日本では、いまだに学歴信仰が、ハバをきかせています。それを学校神話が支えています。
「学校は絶対」という考え方です。

 以前は、それが「学校」でした。が、今は、それが低年齢化し、「幼稚園」や「保育園」となった
わけです。「幼稚園は絶対」「保育園は絶対」と、です。EAさんのメールを読んでいると、そんな
感じすら、します。

 つまりEAさん自身が、「幼稚園はそういうところ」と思い込んでいる?、のではないか、という
ことです。まちがっていたら、ごめんなさい。

 こうした依存性は、実は、日本人独特のものと言ってもよいでしょう。「何でも、お上(かみ)に
してもらう」という姿勢です。そのために、お上には、従順に従う。命令なら、何でも聞くというよ
うに、です。

 事実、一方で、砂場の不衛生問題、紫外線問題、いじめ問題など、学校のみならず、園に
も、山積しています。こと野外活動について言うなら、紫外線については、日本人も、もう少し慎
重になったほうがよいのではないでしょうか。紫外線というのは、言うまでもなく、人体にきわめ
て有害な、放射線です。

 オーストラリアでは、その時期になると、紫外線情報を流し、子どもたちに外出禁止命令が出
されます。ふだんでも、ツバの広い帽子をかぶり、サングラスをしています。

 けんかや、いじめについては、先生もたいへん苦しい立場にあると思います。EAさんのよう
な方がいらっしゃる一方で、そういうことを絶対に許さない親たちもいます。先日もある小学校
(I町I小学校)で講演をしましたが、その学校の校長先生が、こっそりと、こう話してくれました。

 「今、現場の先生たちが、みな、萎縮してしまっている」と。

 ささいな暴力事件でも、ことさら大げさに考えて、学校の責任を追及する親たちがいるからで
す。で、その結果、「萎縮してしまっている」と。

 こうした問題の原因は、何かというと、冒頭に書いた、「何でも学校で」という、学校神話です。
話はそれますが、不登校の問題にしても、その流れの中にあります。「学校とは、絶対に行か
ねばならないところ」という発想です。そういうがんじがらめの発想が、不登校の問題を、ことさ
ら大きくしてしまいます。

 EAさんのご意見について、否定的なことばかり書きましたが、そこでどうでしょう。ここは、ほ
んの少しだけ、発想を変えてみられては……。

 「幼稚園でできないことは、自分でしてみよう」「幼稚園でしてくれないことは、自分でしてみよ
う」と、です。

 そうすれば、ずいぶんと、荷が軽くなるはずです。また幼稚園に対する不満も、消えるはずで
す。ドイツやイタリアでは、親たちは、そう考えて、子どもの教育に当たっています。クラブ制度
が発達し、たいていの子ども(中学生)たちは、午前中で授業を終え、それぞれのクラブに通っ
て、好き勝手なことをしています。本来、個性を伸ばす教育というのは、そういう教育を言うの
ですね。

 幼稚園の園長が、何かと、はぐらかしてしまう……というのは、そのあたりに理由があるよう
に思います。つまり一方で、「それを望まない親たちがいる」ということです。しかしそういう親が
いることは、言えない。また批判もできない。そこで「何となく、はぐらかされてしまい……」とな
るのですね。

 多分、私が園長でも、同じような、あいまいな説明をするしかないと思います。

 また、これは私の経験ですが、私は、以前は、よく生徒たちを連れてキャンプに行ったりしま
した。しかし事故が起きたら、それこそ、たいへんです。

 知りあいの先生が、自分の教え子たちを、キャンプに連れていったことがあります。もちろん
無料。ボランティア。しかしそのキャンプをしているとき、がけの上から、大きな岩が落ちてき
て、その中の一人が死んでしまいました。これはG県I村で、実際に、起きた事件です。

 この事件は新聞にも載りましたが、その先生は、当時、三〇〇〇万円も、慰謝料などを請求
されました。二〇年近く前のことですから、今のお金になおすと、一億円近い金額になります。

 ボランティアということで、当然(?)、保険には入っていませんでした。その先生は、そのあと
どうなったか? ここに書くのもつらいですが、自己破産、離婚……など。しかし、その話を聞
いからというもの、私は、生徒たちを、キャンプに連れていくのを、やめました。

 他人の子どもを預かるというのは、本当に、たいへんなことです。園長をかばうわけではあり
ませんが、それこそ毎日、目が回るほどの、忙しさです。相手が幼児となると、さらにたいへん
です。

 私も、この三週間、たった一人の孫(一歳)に、朝から番まで、翻弄(ほんろう)されました。ほ
んの少し目を離したとたん、倒れて、テーブルの角で頭をぶったりします。自分の子どもなら、
こうまで疲れないだろうなというほど、疲れました。

 で、こういう問題は、たとえば教育委員会レベルまでもちあげても、解決はしないだろうと思い
ます。問題の「性質」そのものが、教育委員会で、どうこうなる種類のものではないからです。
そこでその方針を、どうやって、縁側に伝えていくかですが、実のところ、ここにも大きな限界が
あります。私立幼稚園ならまだしも、公立幼稚園となると、なおさらです。

 そこで視点を大きく変えて、では、そういう指導法が、子どもにどのような影響を与えるかにつ
いて、考えてみます。EAさんは、「子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活
を送り、今経験しなくては、いけないことをしなかったことによって、一〇年後の友だちとのかか
わり方など、問題はおきないのだろうか」と書いておられます。

 人の基本的な人間関係は、母と子の間で、形成されます。しかもその時期は、かなり初期
で、〇歳から一、二歳にかけてです。これは発達心理学の世界でも、常識です。その基本的な
人間間系が、やがてワクを広げて、先生と子ども、子どもと子どもとの関係へと、応用されてい
きます。ですから、この点については、EAさんのご心配は、まったく、無用かと思います。

 つまりこの時期、友人関係が制限されたからといって、交友関係が結べなくなるとか、あるい
は反対に、制限されなかったからといって、交友関係が結べるようになるとか、そういうことは
ありません。子どもの交友関係は、もっと別のところで、別の形で、論じられるべき問題です。

 そこでもう少し深く、「今、経験すべきこと」について、考えてみます。昔、フルグラムという人
は、「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」と書いています。それについて書いた原稿
を、二作、ここに添付します。少し脱線するかもしれませんが、お許しください。

+++++++++++++++++

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。

「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。

日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また
「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外
で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。

……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまで
は私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。い
わんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり
私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。

たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか
まればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。

つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。

仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しかしそれは日本という
より、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件
をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解すること
ができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の
境内で学んだ」と。

+++++++++++++++++

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中にお
いて、従順な子どもにすることをいう。

日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。その「民づくり」を
すること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生も、そして親も誤解
している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこ
とをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんば
って、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、な
ど。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な
のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅
れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

+++++++++++++++++++++

【EAさんへ……】

 そこでどうでしょうか、つぎのように考えてみたら……。

 幼稚園でできること。幼稚園がしてくれること。そして一方、幼稚園でできないこと。幼稚園で
してくれないこと。これらを、しっかりと頭の中で、分けてみたらどうでしょうか。

 一つの参考例を、ここにあげてみます。

 埼玉県にある、ある幼稚園では、親どうしが相談して、子どもを預かりあうという活動をしてい
ます。Aさんが、BさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をする。つぎに今度は、Bさんが、
AさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をするという活動です。

 「他人の家の釜のメシを食べさせることによって、自分の家の釜のメシの味が、よくわかるよ
うになる」という、園長の方針で、それが始まりました。

 しかし問題は、すぐ起きました。プライバシーが、筒抜けになってしまうというわけです。「そこ
までプライバシーを開示していいのか」という異論も出ました。生活レベルの違いもあるからで
す。

そこでその幼稚園では、ごく親しい人たちの間で、たがいに納得できる人どうしの間で、子ども
の世話をしあうという方針に変えたそうです。

 しかし方法としては、おもしろいですね。EAさんも、幼稚園から離れたところで、独自の姿勢
と方針で、こうした活動をしてみたら、いかがでしょうか。また最近では、野外活動を積極的に
するクラブも、あちこちに生まれています。そういうクラブを通して、子どもに、いろいろ体験さ
せるという方法もあります。

 最後に、子育ては、親がするものだということ。幼稚園でも、学校でもありません。どこでどの
ように学び、成長していくかは、子どもの問題ですが、それを助け、励ましていくのは、親だとい
うことです。そういう原点に立ちかえって、幼稚園のあり方を、もう一度、さぐってみてください。

 ただし、EAさんのように、子育てや、教育、子どもを包む環境に関心をもつことは、とても大
切なことです。決して、EAさんが、まちがっているとか、そういうことではありません。

 こうした問題意識を、より多くの親たちがもつことによって、日本の教育も、よくなります。私も
ある時期、何でも学校で……、何でも幼稚園で……という発想で、学校や幼稚園を批判したこ
とがあります。しかしそれも一巡すると、そういう発想そのものが、おかしいと、気がつきまし
た。

 そして今は、この回答の冒頭に書いたように、家庭教育の主導権は、だれがもつかという問
題に、行きつきました。「家庭」か、それとも「園」か?……と、です。

 最後に、決して、EAさんのお子さんが通っている幼稚園を擁護しているわけではありません
が、(また擁護しなければならない立場にもありませんが)、こと幼児教育について言えば、あ
る程度の「適当さ」も、大切だということです。

 「行きたければ行けばいいのよ」「適当に行けばいいのよ」「あなたなりに、楽しんできなさい」
と、です。そういうおおらかさが、一方で、子どもを伸ばすのも事実です。こと、人間関係につい
ては、一〇年後のことは、悩まないこと。それを決めるのは、あなたではなく、子ども自身だか
らです。もうすでに、年齢的に、あなたの子どもは、少しずつですが、親離れの準備を始めてい
るはずです。いかがでしょうか?
(031022)

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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子育てポイント

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03−10−31号(310)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

●あと一歩でやめる

 子どもを勉強好きにするコツがこれ。「あと一歩でやめる」。これにはいろいろな意味が含ま
れる。

 与えすぎない……学習量を、子どもの能力が一〇とみたら、八か九、できれば七のところで
やめる。親は「一一、もしくはせめて一二」と無理をするが、この無理が続くと、子どもは確実に
勉強嫌いになる。こんな相談があった。

その子どもは毎日プリント学習を三枚することになっているのだが、何とか二枚はするのだ
が、三枚目になると時間ばかりかかって先へ進まないという。それで「どうしたらいいか」と。答
は簡単。そういうときは二枚でやめる。仮にその子どもがスラスラと三枚もしたら、親は今度は
「四枚!」と枚数をふやすに違いない。子どもはそれを知っている。

 三〇分やって、勉強らしきことは五分……受験生でもないなら、三〇分間机に向かって、
丸々三〇分勉強する子どもなど、いない。勉強というと、戦前の軍国主義教育のなごりなの
か、子どもは黙々と勉強するものだと思っている人は多い。しかしそれはまったくの誤解。

よほどのプロでも、幼児(年長児)を、三〇分間学習にひきつけておくのは、至難のわざといっ
てもよい。だからあなたの子どもが三〇分間くらいなら座っていることができるなら、勉強はそ
の三〇分以内できりあげる。一〇分でも二〇分でもよい。その中で、五分くらいで勉強らしきこ
とをしたと思ったら、それでよしとする。

 レベルをさげる……家でする学習は、思い切ってレベルをさげる。ワークブックにしても、文
字が大きく、やりやすいものを選ぶ。簡単なものでよい。子どもにとって大切なことは、達成
感。「やり終えた」という満足感を大切にする。

 やってここまで……ほとんどの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。しかしや
る、やらないも「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思う。
また親というのは、たまに子どもが一〇〇点を取ってくると、「やはりうちの子は……」と思い、
悪い点を取ってくると、「そんなはずはない」と思うもの。

しかし子どもの能力も、その一歩手前で判断するとよい。八〇点を取ってきたら、七〇点くらい
と思う。七〇点を取ってきたら、六〇点と思うなど。一歩退いた見方が、子どもの心に余裕を生
む。それが子どもを伸ばす原動力になる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●個性は生きザマ

 個性は生きザマの問題。服装ではない。外観でもない。中に子どもを茶パツにし、(茶パツが
悪いといっているのではない)、「個性です」という親がいるが、そういうのは個性とは言わな
い。個性というのは生きザマだ。その人がどんな人生観をもち、どんな生き方をしているかが
個性だ。その生きザマが光る人を、個性のある人という。服装や外観は、あくまでもその結果
でしかない。

 私ははからずもある会議のメンバーに選ばれたことがある。行政担当者の人選ミスによるも
のだが、その会議のメンバーは、私をのぞいて、そうそうたるメンバーであった。日本を代表す
るような哲学者や科学者、それに毎晩テレビに顔を出すキャスターもいた。

その中でもとくに私の印象に残ったのが、養老T氏であった。解剖学が専門だと聞いている。
で、会議で見ると、頭はボサボサ、ブレザーのスーツも、どこかごくふつうのブレザーであった。

もし電車の中で横に並んでも、だれもあの養老氏とは思わないだろう。私なんかふだんはそん
なことを気にしたこともないのに、会議のたびに、何を着ていこうかとか、そんなことばかり気に
していた。(会議のたびに一〇〜二〇人の取材人が押し寄せたこともある。)が、養老氏は、ま
ったくのふだん着。それだけを見てそう判断するのは、軽率かもしれないが、「ああ、大物は違
うな」と、そのときはそう思った。そういうのを個性という。

 子どもでも個性の光る子どもと、そうでない子どもがいる。どこがどう違うかといえば、要する
に自分をもっているかどうかということ。もう少しわかりやすく言えば、「つかみどころ」ということ
になる。個性をもっている子どもは、子どもながらにそのつかみどころがはっきりとしている。方
向性や志向性がはっきりしていて、その方向性や志向性に向かって、前向きに取り組んでい
る。

もっと言えば、内に秘めたバイタリティというか、そういうエネルギーを感ずる。もちろん子ども
の段階では、その子どもがどんな個性をもつようになるかまではわからない。わからないが、
個性をもつだろうということはわかる。

 このことはつまり、子どもの個性を伸ばすということは、子ども自身がもつ方向性や志向性を
認め、そのバイタリティを前向きに引き出すということにもなる。結果、その子どもがどういう個
性を光らせるようになるかは、あくまでもその子ども自身の問題であって、教師はもちろんのこ
と、ひょっとしたら親ですら関知しえない問題かもしれない。あくまでも子ども自身が決める問題
なのだ。

 ……しかし実際のところ、「私は私」という生きザマを貫くことは、この日本ではたいへん難し
い。日本の社会そのものが、個性を認めるほど社会的に成熟していないこともある。このこと
については、また別のところで考える。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ

 勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ
勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその
実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を一〇〜三〇分もかけてするなど。あるい
は描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。

さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあ
ちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。小学校の低学年で一度、こういう症
状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着して
しまうからである。

無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいな
い。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます
子どもをして、勉強から遠ざける。

 では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子ども
の能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学一年生でも早過ぎ
るということはない。

……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし一年生だから、あきらめ
る。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向か
うようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものが
むずかしくなる。(あるいは不可能になる。)

 が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではい
つもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先
生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学二年生で、このタイ
プの子どもは、二〇人もいれば必ず一人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望
むべくもない。

 要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興
味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせな
がら、少しずつ学習に向かわせる。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させ
るのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子
どもの勉強を考えること。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●勉強が苦手な子ども

 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣ってい
る子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不
良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。

最近よく話題になる子どもに、学習障害児(LD児)というのもいる。教えても覚えない。覚えても
すぐ忘れる。覚えても応用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で
止まってしまう、など。

 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもの
のところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっている
ということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということその
ものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。

中には完全に自身喪失の状態になっている子どももいる。原因は親にあるが、親自身にその
自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、「自分は子どものために正しいこと
をしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、「うちの子は生まれつきそうです!」
と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる人などいない!)

 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあ
って、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」
というのは、国際的な基準からしてという意味。)

こういうばあいでも、本来なら子どもの能力にあわせて、子どものレベルで教育を進めるのが
一番よいのだが、日本ではそれができない。スポーツが得意な子どももいれば、そうでない子
どももいる。勉強についても、得意な子どもがいる一方、不得意な子どもがいてもおかしくない
のだが、日本ではそういうものの考え方ができない。勉強ができないことは悪いことだと決めて
かかる。

このことが、本来何でもないはずの問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、
子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさ
がわからないほどまで、日本の教育はゆがんでいる。

……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強
などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもを見るための一つの視点として、ここに書い
たことを考えてみるとよい。少しは見方が変わると思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●「今」の価値を忘れない

 未来はあるという。過去はあるという。……しかし、どこにあるのか? 「未来はある」と思って
いる人も、「過去はある」と思っている人も、もう一度、冷静に考えてみてほしい。どこにあるの
か、と。

未来にせよ、過去にせよ、それは人間がバーチャルな世界で勝手につくりあげた概念で、実の
ところ、どこにもない。あるのは「今」という現実のみ。どこまでも、どこまでも「今」という現実の
み。「現在」はあくまでも、いままでの「結果」でしかない。そして未来があるとするなら、それは
「現在」の結果でしかない。

 ……とまあ、こんなことを書くと、「はやし浩司は頭がおかしい」と思う人がいるかもしれない。
私とて、こう書きながら、そこまで厳格に考えているわけではない。ただ人間は、過去にしばら
れるのもよくないし、また未来のために今を犠牲にするのもよくないということ。あくまでも「今」
を大切にして生きる。どこまでも、どこまでも、「今」を大切にして生きる。もう少しわかりやすい
例で考えてみよう。

 一人の子どもがいる。その子どもは、今、懸命に遊んでいる。大切なことは、その子どもが
今、懸命に生きているという事実なのだ。一方、こういう子どもがいる。

幼稚園児のときは、小学校入学のため、小学校生のときは中学や高校へ入学するため。そし
て高校生のときは大学へ入学するため。さらに大学生のときは就職するためと、いつも未来
(?)のために「今」を犠牲にしている。人生が永遠に保証されるならまだしも、しかしこういう生
き方をしていると、いつまでたっても「今」をつかむことができない。気がついたときには、人生
が終わっていた……、と。

中には自分の子ども(中一男子)に向かって、こんなことを言う親だっている。「あんたを高い月
謝を払って、幼稚園児のときから英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と。その子ども
がはじめての英語のテストで、悪い成績をとってきたときのことだった。こうしたものの考え方
は、どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人は、独特の過去観、未来観を
もっている。

来世、前世思想に代表される、日本独特の仏教観の影響とも考えられる。「空から伊勢神宮
の御札が降ってきた。こりゃなんか、ええことがあるぞ。まあ、ええじゃないか」と。

 今には今の価値がある。大切なことは、今というこの時点において、いかに自分を燃焼させ
て生きるかということ。結果は結果。結果かはあとからついてくる。ついてこなくてもかまわな
い。今やるべきことを、懸命にすればよい。「今を生きる」というのは、そういうことをいう。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●ええじゃないか

 慶応八年(一八六七)というから、まさに幕末のころ。名古屋市周辺で、奇妙な踊りが流行し
た。きっかけは伊勢神宮の御札が天から降ってきたためと言われているが、もちろんそれは
言い伝えに過ぎない。人々は狂ったように踊りだした。「ええじゃないか、ええじゃないか」と。

言い伝えによると、女は男装、男は女装し、太鼓や三味線をならし、踊り狂ったという。

「群集が地主である庄屋や金持ちの商人の家へ土足で入り込む。で、なぜか押し込まれたほ
うは、酒や肴(さかな)を際限なく振る舞った。押し入った人々は金品をまき散らし、これくれて
もええじゃないかともち去る。で、取られたほうは、それやってもええじゃないかとやってしまう。
役人が止めようとしても、まったく聞き入れない。踊りくたびれると、だれの家でもかまわず寝て
しまい、目が覚めると、またええじゃないかと踊りだす。このええじゃないかはウワサはウワサ
を呼び、東海道筋から東に江戸、横浜、静岡。西は京都、大阪、西宮にまで及んだ」(マスダ組
「歴史概論」)という。

 この「ええじゃないか」について、「この大騒動をカモフラージュして、倒幕派は着々と江戸幕
府打倒の動きを進めていた」(同「歴史概論」という説もあるが、私はそういう政治的背景は、
当時の日本にはなかったと思う。結果として、倒幕運動に利用したという動きはあったかもしれ
ないが、そうした高度な政治意識というのは、近年になって生まれたもの。江戸幕府があった
東京で起きたとか、薩摩、長州の息がかかった京都で起きたというのなら話もわかる。しかしこ
のええじゃないかは、名古屋市周辺で起きているということを忘れてはならない。

それはともかくも、その根底に、鬱積した民衆の不平や不満があったことは事実だ。しかし当
時の日本は、いくら幕末とはいえ、それを訴える自由もなければ方法もなかった。三〇〇年も
続いた封建体制の中で、民衆は骨のズイまで「魂」を抜かれていた。「自由」が何であるかさえ
わからない状態で、この運動は起きた。が、私はこの運動こそが、まさに現世逃避の象徴では
なかったかと思う。

「この世はどうなってもええじゃないか。あの世があるではないか」と。それはまさに前世、来世
論で組み立てられた日本の仏教の教えを、そのまま象徴していたともとれる。 

 このええじゃないかが、幕末の話でないことは、映画化もされ、また日本各地で、イベントとし
て再現されていることでもわかる。「これこそ日本人のやさしさ」と美化する動きさえある。しかし
本当にそうか? そうあってよいのか? 「今」という現実を直視するのが苦手な日本人が、現
実逃避の新たなる手段として利用しているとも考えられるのだが、皆さんはどう考えるだろう
か。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの創造力

二〇〇二年の三月、「サイエンス」におもしろい研究結果が載った。

何でもギャンブルで負けたりすると、「頭が熱くなる」ということが、科学的に実証されたというの
だ。アメリカ・ミシガン大学のW・ゲーリング博士らの研究によると、「勝敗の表示から、平均
〇・二六五秒後から、脳の前頭葉皮質部から、強い神経系処理信号が出る」という。しかもそ
れは「勝ったときよりも、負けたときのほうが信号が強く出る傾向があった」というのだ。私はこ
の論文を読んで、別のことを考えた。

よく子どもの創造力が話題になる。「子どもの創造力を育てるにはどうしたらいいか」と。もちろ
ん環境や教育によるところも大きいが、それだけでは足りない。人というのは、追いつめられ、
崖っぷちに立たされてはじめて、自分の能力をふるい立たせることができる。創造力もそこか
ら生まれる。

反対に、水温が調整され、酸素もエサも自動的に与えられるような環境では、伸びる芽そのも
のが出てこない。伸びる力も育たない。たとえば私のことだが、今までに何度か幼児教育から
足を洗おうと思ったことがある。収入ということを考えるなら、もっとお金になる仕事はほかにい
くらでもある。しかしそのたびに、「今までの経験を文にまとめたい」という強い願いが私を襲っ
た。それは文を書くという甘いものではなく、もっと切羽つまったものだったような気がする。だ
からこそ文を書き、それを本にすることができた。

(ひょっとしたら、今もそうかもしれない。体力的な衰えを感ずる今、年齢的にその崖っぷちに
立たされているような気がする。)

つまり勝負で負けると、前頭葉皮質部からの信号が強くなることからもわかるように、追いこま
れると、それまで活動していなかった脳の機能が全開状態になる(?)。そしてそれが何とかし
なければならないという生活上の必要性とあいまって、新しい創造力へとつながっていく……。

もちろんこれは私の推論でしかない。しかし経験上、それを裏づけるような話はいくらでもあ
る。たとえばベートーベンにせよ、もし彼が満ち足りた裕福な生活をしていたら、あの第九交響
楽ができたかどうかは疑わしい。

言いかえると、子どもの能力を引き出すためには、子どももある程度は、崖っぷちに立たせね
ばならない。具体的には子どもはいつもややハングリーな状態におく。与えすぎややりすぎは、
かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうこと。どこか不満足な状態をつくりながら、それをうま
く利用しながら子どもを伸ばす。

まとまりのない話になってしまったが、サイエンスの論文を見ながら、そんなことを考えた。

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【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●誠実

 三五年ほど前、長野県に住むN氏から、山林を購入した。きわめて親しい知人に頼まれて、
そうした。当時の価格で、六〇〇万円。しかしあとでわかったことだが、その山林は、当時で
も、一〇〇万円にもならない、クズ山だった。

 で、最近になって売ろうとして、現地の森林組合の人の見積もってもらったら、たったの一八
〇万円。この三五年間で、立木は、かなり太くなっている。しかし、その値段だ、と。

 だまされたのは、これだけではない。

 そのつど、毎年のように、管理費を取られた。私は言われるまま、八〜一〇万円の管理費を
送金した。

 しかし管理というのは、ウソ。そればかりか、「間伐」と称して、適当に、木は、切られていた。
(転売していたと思うが、確かではない。)

 数年前、一度、手紙で抗議したが、返事はなし。その知人を介して問いあわせると、「木は、
相場では決まらない」と、トボけているという。

 不誠実な人間は、どこまでも不誠実。大切なことは、こうした不誠実な人間は、早く見抜き、
それ以上、つきあわないこと。しかし問題は、どうやって、見抜くか、だ。

 不誠実な人間には、不誠実な人間が、集まる。英語のことわざにも、『一つの羽の鳥は、集
まる』というのがある。日本でも、『類は、友を呼ぶ』というのがある。私がだまされたということ
は、当時の私は、それなりの人間であったことを意味する。

 で、私は、いつしか、ひとつの教訓を得た。

 不誠実な人間を見抜き、自分の身を、不誠実な人間から守るためには、自分が、誠実な人
間になること、と。

 これはちょうど、山登りに似ている。より高い山に登れば、登るほど、それまで自分がいたと
ころが、低く見える。見渡すことができる。

 同じように、より誠実になればなるほど、それまでの自分が、よく見えるようになる。そして同
時に、どの人が誠実な人で、どの人がそうでないかが、よくわかるようになる。

 そして自分が誠実になればなるほど、その人のまわりには、誠実な人が集まってくる。そして
やがて、そこに「誠実の輪」ができる。

何かのことで、だれかが、だまされたりすると、その人に、「だまされるほうだって、悪い」と言う
人がいる。だまされた人には、気の毒だが、しかしこの言い方は、そういう意味では、まちがっ
ていない。どこかに心のスキがあるから、だまされる。しかしそのスキは、何かといえば、その
人の弱点ということになる。コンピュータの用語を借りれば、セキュリティー・ホールということ
か。

 だまされた、私が悪かった。

 で、今は、直感的に、誠実な人と、そうでない人を、見分けることができるようになった。そし
てその人の中に、不誠実な部分を感じたら、そのまま遠ざかるようにしている。つまりその「見
分ける力」こそが、自分の身を守るという方法ということになり、そのためには、自分が、誠実
な人間になるということ。

 文章が繰り返しになったので、この話は、ここまで。
(031024)

【付記】

●ボランティア活動などの無料奉仕を、好んでしている人に、不誠実な人はいない。なぜか?
 それについては、もう少し、よく考えてから、みなさんに報告したい。(ただし、マスコミ用に、
そうした活動を利用している人もいるから、注意。そういう人は、かえって薄汚い?)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

お休みします。

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●交通事故

 静岡県が、連続して、交通事故ワーストワンになっている。その静岡県の中でも、この浜松市
が、ワースト(最悪)らしい。

 県の担当者は、「静岡県は、自動車保有率が高いから、結果的にそうなる」と説明している
が、本当に、そうか? それだけか?

 このところ、浜松市の交通マナーが、ひどく悪くなったように感ずる。交差点で、信号が黄色
になっても、停車する車は、ほとんど、ない。赤になっても、左右から走り出す車がなければ、
走り抜けてもよいというような雰囲気すら、ある。 

 先日も、横浜から帰ってきた三男が、こう言った。「浜松は、メチャメチャだね」と。路地から大
通りへ、一旦停止をしないまま、飛び出してくる車も多い。三男は、それを言った。

 で、昨夜、ワイフとドライブをしながら、どうしてそうなのかということを話しあった。

 ひとつは、警察による取り締まりの方法が、おかしい。

 どうでもよいような、つまりは、目立たない、小さな路地裏ばかりで、取り締まりをしている。そ
のほうが、短時間に、違反者を、たくさん検挙できるから、らしい。

 一方、車が高速で走るような大通りでは、めったにしない。この一〇年間、そういうところで、
私は、取り締まっているのを見たことがない。

「短時間で、効率よく、違反者を検挙しようとしたら、こっそりと、路地裏に隠れてしたほうがい
い」と私。
「友だちも、一旦停止で、この前つかまったわ。でもね、そこは住宅街の真ん中よ。警察は、少
し離れた茂みの中にバイクを隠していたそうよ」とワイフ。
「この静岡県でも、下っ端の警察官が、やる気をなくしているそうだよ」
「どうして?」
「いくらがんばっても、出世できないだろ。いつもキャリア組が、その上で、陣取っている」
「つまり点数稼ぎのための取り締まりはするけど、交通事故を本気で減らそうとは考えていない
ということ?」
「わかりやすく言えば、そういうことらしい」

 反対に私などは、信号が青になっても、すぐには飛び出さないようにしている。一呼吸おいて
から、ゆっくりと、左右を見ながら、交差点に入る。つまり信号など、まったくアテにならない。…
…アテにしていない。

 みなさんも、もし浜松へ来るようなことがあれば、じゅうぶん、交通事故には気をつけてほし
い。浜松は、メチャメチャ。本当に、メチャメチャ。
(031024)

【参考】
自賠責保険の損害率・ワーストワン……香川県
人口10万人あたりの死亡者数・ワーストワン……三重県
交通事故死亡者数・ワーストワン……埼玉県
飲酒による交通事故死亡者数・ワーストワン……茨城県
交通事故・ワーストワン……静岡県
   (調査年、不明)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●相互不可侵条約

 K国は、アメリカとの間に、相互不可侵条約を結んだあと、日本もしくは、韓国を攻撃するつ
もりでいる。韓国よりも、日本である可能性のほうが、はるかに高い。K国には、日本を攻撃す
るだけの、大義名分がある。

 K国は、自国の安全のために、相互不可侵条約を結ぼうとしているのではない。ないことは、
今回、「六か国による安全保障宣言」を、「一蹴した」(※)ことでもわかる(一〇月二二日)。

 こうした流れに、いつも水をさしているのが、実は韓国。K国のもつ常識(?)も理解しがたい
が、韓国の若者たちがもっている常識(?)も、これまたわかりにくい。反米、親北を唱え、その
上、黄長・ぢファン・ジャンヨプ)元K国労働党秘書の訪米を、デモで阻止しようとさえしている。

 ノ政権は、その上にのった政権だが、今、大切なことは、K国の金XXを、自己崩壊に導くこと
である。が、あろうことか、ノ政権は、せっこらせっこらと、金XXを助けている。今年九月期だけ
でも、対北朝鮮の貿易高を、前年度よりも、五〇%弱もふやしている。

 実は最近になってわかったことだが、去る九六年にも、一度、K国は崩壊の瀬戸際に立った
ことがある。そのとき、K国を助け、崩壊からK国を防いだのは、あの金大中政権である。K国
から亡命してきた、元高官が、そう暴露している。

 いったい、韓国は、どこまでオメデタイのか?

 いや、そのオメデタサは、安保闘争を繰り返していた、日本の若者たちと、共通している。当
時、毛沢東中国(六〇年安保前)、李承晩韓国と金日成朝鮮(七〇年安保前)が、日本攻撃を
もくろんでいた。それをかろうじて防いでいたのは、実は、アメリカ軍なのである。

 今、この日本の平和がかろうじて保たれているのは、日本人が、平和を愛する国民だからで
はない。また平和を守っているからでもない、たまたま日本にアメリカ軍がいて、その核の傘の
下にいるからにほかならない。もしK国が、アメリカとの間で、相互不可侵条約を結べば、その
時点で、日米安保条約は、無力化する。K国のねらいは、すべてここにある。

 唯一の望みは、中国である。

 今、中国が、K国の最後の「ライフライン」になっている。もし中国がK国への援助を止めれ
ば、K国は、そのライフラインを断たれることになる。で、その中国が、K国に対して強行に出る
可能性が出てきた。国境沿いに一五万人の正規軍を配置し、中朝友好条約の破棄などを、ち
らつかせている。

 しかしこうした中国の動きに、これまた水をさしているのが、実は、この日本なのである。いい
ムードになりかけるたびに、首相が靖国神社を参拝してみせたり、閣僚が、不用意な発言をし
たりしている。中国のみならず、アジア各国の人たちを怒らせている。

 いまだに、「あの戦争は正しかった」「やむをえなかった」と主張する日本人がいることは、驚
きである。もしあの戦争が正しかったとするなら、反対に、K国や、中国に、日本が占領されて
も、日本人は、文句を言わないことだ。

 今、大切なことは、冷静に、きわめて客観的に、「現実」を直視することである。この際、安易
な、人道主義、平和主義、道徳論に、まどわされてはいけない。政治はどこまでも、現実的でな
ければならない。戦争を考えるときは、さらに現実的でなければならない。甘い期待論(アメリ
カが何とかしてくれるだろう)、依存性(これだけ各国にしてあげたから、何かしてくれるだろう)
は、きわめて危険ですら、ある。

 K国問題の行く末は、すべて中国の動きにかかっている。今、日本人がすべきことは、床に
頭をこすりつけてでも、中国を、もちあげること。理由は簡単。今の日本には、K国と、単独で、
戦争する力はないからである。
(031022)

※……朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)官営の朝鮮中央放送は二一日、米国のブッシュ大
統領がタイのバンコクで開かれた韓米首脳会談で、北朝鮮が核兵器を放棄する場合、多国間
の枠内で北朝鮮体制の安全を文書で保障すると明らかにしたことに対し、「一考の価値もな
い」と非難した(「朝鮮日報」)。

【異論・反論】

 こうした私の意見に対して、こう反論する人がいる。名古屋市に住むW氏(六二歳)も、その
一人。こう言った。

 「林君は、日本軍が満州を侵略したと言うが、当時の満州は、だれ一人住まない、荒野だっ
たんだよ。どうして侵略したことになるのだ。日本軍が開拓してやったんだよ」(1)
 「中国にせよ、朝鮮にせよ、鉄道を敷いてやったのは、日本なんだよ。道路を建設し、ビルを
建ててやったんだよ。どうしてそれが悪いことなのかね」(2)
 「日本が植民地にしてやらなければ、中国や朝鮮は、ほかの国の植民地になっていたよ。日
本だって、あぶなかった。どうしてそれが悪いことなのかね」(3)
 「いいかね、日本は、アメリカ軍によって、焦土にされたんだよ。どうして日本の平和が、アメ
リカのおかげだと、君は言うのかね。君は、本当に、日本人かい?」(4)
 「日本が悪いことをしたというが、いいかね、日本軍は、南京(ナンキン)で、住民を大虐殺な
んかしていないよ。殺したとしても、せいぜい三万人だ。三〇万人なんて、とんでもないウソだ」
(5)
 
 いちいち反論するのも、なさけない。

(1)こんな論理がまかりとおるなら、北海道の原野にロシア軍が攻めてきても、文句を言わな
いこと。
(2)いらぬおせっかいというもの。相手が頼んできたわけではない。
(3)だからといって、何も、日本がすることはなかった。
(4)たまたま日本はラッキーだった。もし中国や、ソ連、朝鮮の支配下に入っていたら、日本
は、どうなっていたことか?
(5)三万人でも、大問題。三〇〇〇人でも、大問題。三〇〇人でも、大問題。どうしてそのと
き、日本軍が、南京にいたのか?

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子育ての錯覚

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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

【今週の幼児教室から……】

 今週は、本読みを、した。

 本読みといっても、簡単な絵本を、子どもたちに、読んでもらった。

 この時期、年中児は、やっと文字を読めるようになる。まさにたどたどしい。しかしここを原点
として、子どもを伸ばす。

 小さな声で、それこそ、蚊の鳴くような声で読んでも、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。参
観に来ている母親たちにも協力してもらい、みんなで手をたたいて、ほめる。

 こうすると、子どもの脳の中の辺縁系内部で、モルヒネ様の物質が放出されるという。それが
子どもの脳に充満し、子ども自身を、ここちよい陶酔感で包む。この陶酔感が原動力となって、
つぎのやる気へとつながる。

 発達心理学の世界では、こうした現象を、「好子(こうし)」という言葉を使って説明する。「何
かをやりとげた」という満足感(好感)が、子どもを、前向きに伸ばす、と。

 ここで注意しなければならないことは、いくら声が小さくても、子ども自身はそうは思っていな
いということ。この時期、自分の声が大きいか、小さいかを、客観的に判断できる子どもは、い
ない。だから、ほめる。小さい声だったら、なおさら、ほめる。

 「あなたは、すてきな声をしているね」
 「じょうずに、読めるようになったね」
 「すごいね」と。

 まずいのは、「どうしてもっと大きい声で読めないの!」と叱ること。子どもは自信をなくすの
みならず、文字に対して、嫌悪感をすら覚えるようになるかもしれない。幼児教育では、こうし
たことは、絶対に、あってはならない。

 今週は、ほかに、文字遊びや、言葉遊びをした。また名前を書いてもらった。大切なことは、
そのつど、ていねいにほめること。「じょうずに書けるようになったね」と。

 で、レッスンが終わるころ、もう一度、「最後に、もう一回、本を読んでくれる人はいません
か?」と声をかけると、全員が、うれしそうに、「ハイ!」「ハイ!」と言って、手をあげた。つま
り、それこそが、私のねらいでもあった。つまり、今週のレッスンは、それで大成功! ハハ
ハ!
(031025)

●こうした指導で大切なことは、決して、おとなの優位性を押しつけてはいけないということ。バ
カなフリをして、子どもに自信をつけさせる。バカなフリをして、子どもの自立を促す。バカなフリ
をして、子どものやる気を引き出す。

この時期、おとなの優位性を押しつけると、子どもは、おとなになることに不安をいだいたり、
自信をなくしたりする。一度、子どもの自信をつぶすと、以後、立ちなおるということは、まず、
ない。決して、おとなの優位性を、子どもに、押しつけてはいけない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●アルバムをそばに置く

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を
学ぶ。

ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃ
んだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なの
だ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男
児)もいた。

ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺
乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らな
い」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。

記憶が記憶として残り始めるのは、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、
子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、
「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長
児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世
界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれた
が、このアルバムには、不思議な力がある。

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま
りアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真
にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、そ
れだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や
母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子ども
にとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じ
たショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これ
がぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあっ
た。

そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をして
いるのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置
いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●前向きの暗示を

 子どもを伸ばす秘訣の一つ、それはいつも子どもには前向き(プラス)の暗示をかける。「あ
なたはどんどんいい子になる」「あなたはどんどん伸びている」「あなたは以前のあなたよりす
ばらしい」と。まちがってもうしろ向き(マイナス)の暗示をかけてはいけない。いわんや、「あな
たはやっぱりダメな子」式の、人格攻撃はタブー中のタブー。これはもう、言葉による虐待と考
えてよい。そこで子どもを伸ばす話術。いろいろある。

(1)頭ごなしの禁止命令はしない……「○○をしてはダメ」式の禁止命令は、できるだけ少なく
する。「指しゃぶりはダメ」「騒いではダメ」など。そういうときは私のばあい、「おいしそうな指
ね、先生にもなめさせてね」「お尻がかゆい人は騒いでいていい」などと言うようにしている。頭
ごなしの禁止命令が日常化すると、子どもの心は内閉する。(あるいは粗放化する子どももい
る。)

(2)いつも具体性をもたせる……「静かにしないさい」ではなく、「口を閉じていなさい」と言う。
「しっかりとあいさつをしないさ」ではなく、「体をまげて、自分の足を見なさい」と言うなど。具体
性のない指示は、子どもには意味がないと思うこと。


(3)そして子どもには、いつも「あなたはすばらしい子」という前提で話しかける。何か失敗して
も、「あなたらしくはないわね」「いろいろなときがあるわね」とか言うなど。そのためには、まず
あなた自身の心をつくりかえなければならない。もし心のどこかで不安だ、心配だと思っている
なら、そういう不安や心配を取り除く。それがあると結果として、そういうあなたの心は子どもに
伝わってしまう。そしてそれがマイナスの暗示になってしまう。

 つまるところ子どもを伸ばすということは、子どもを信ずるということ。しかし子どもを信ずるこ
とは、たいへんむずかしい。子育てでも、最大のテーマではないか。そんなことも考えながら、
前向きの暗示とは何か、それを考えてみるとよい。
 
    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●心を開かない子ども

 ほかの子どもたちが、ワイワイ騒いでいるようなとき、その騒ぎの中に溶け込めない子どもが
いる。どこかツンとしている。どこか仮面をかぶっている。どこかカベを作っている。

 心を開くことができない子どもとみる。

 このタイプの子どもは、集団の中に入ると、いつも心は、ある種の緊張状態になる。いい子ぶ
ったり、無理をする。一応、相手に合わせて騒いだりするが、しかしその相手に心を許している
わけではない。許しているフリをするだけ。相手に合わせて、自分をつくったりする。

 そのため、集団の中では、精神疲労を起こしやすい。実際には、集団活動や、集団生活が
苦手。それを、避けようとする。親は、「どうして、うちの子は、集団生活が苦手なのでしょう」と
悩んだりするが、そんな簡単な問題ではない。
 
 よくあるのは、無理に、このタイプの子どもを、集団の中に押し込めるケース。「集団へ押し込
めば、なれるだろう」と、親は考えて、そうする。しかしこうしたやり方は、効果がないばかりか、
かえって症状をこじらせてしまう。

 「簡単な問題ではない」というのは、その子どもの、乳幼児期の母子関係に、原因があること
をいう。この時期に、母子の間で、基本的信頼関係を築くことに失敗した子どもは、ここでいう、
いわゆる「心を開けない」子どもになる。……なりやすい。

H君(小四男児)の例で、考えてみる。

 H君は、みながワイワイと騒いでいるようなときでも、いつも、その集団から、取り残されたよ
うな状態になる。集団のほうから、「H君、おいでよ!」と声をかけられても、はにかんだり、照
れたりするだけ。どこかぎこちない様子で、その場を、やりすごそうとする。
 
 それでいてH君は、常に周囲に対して、神経を張りめぐらせている。自分がどういうふうに思
われているか。またどういうふうにすれば、自分がよい人間に思われるか。さらに優等生とし
て、自分は、どのように振る舞うべきか、など。そんなことをいつも、考えているといった様子。

 だから、先生の受けは、よい。従順で、すなお。先生が指示を与えたりすると、それを満点に
近い形で、やりこなす。先生には、「よく気がつく子」と評価されている。

 しかし一度、このような症状を、四歳前後までに示すようになると、以後、それがなおるという
ことは、まず、ない。先にも書いたように、「うちの子は、集団になれていないだけ」と考えて、親
は、無理に、スポーツクラブに入れたり、サマーキャンプに参加させたりする。が、その効果
は、ほとんど、ない。あるいは集団に対して、さらに、恐怖感をもったり、集団を嫌悪したりする
ようになる。

 さらに無理をすれば、情緒そのものが、ゆがむこともある。大きなショックが原因で、自閉傾
向や、かん黙症に進むことも珍しくない。

 では、どうするか?

 結論を言えば、「あきらめる」。「うちの子は、そういう子どもだ」と、あきらめて、対処する。何
度も書くが、無理をすればするほど、逆効果。情緒障害から、精神障害に進むこともある。

 子育てには、失敗はつきもの。親は、そのつど、よかれと思って、何かをする。しかし失敗す
るときは、失敗する。親の気がつかないところで、また気がつかないまま、失敗することが多
い。

 だから失敗したからといって、自分を責めてはいけない。恥じることもない。大切なことは、そ
の失敗を認めること。

 しかしほとんどの親は、子どもに何らかの症状が現れると、その原因をさぐることもない。知
ろうともしない。そして一方的に、子どもをなおそうとする。こういうケースでも、「どうしてうちの
子は……?」と考えることはあっても、「自分の子育てに原因があるのでは……?」と疑う親
は、まずいない。つまりこうして、子どもの症状を、ますますこじらせてしまう。

 「失敗」と気づいたら、その失敗は、すなおに認める。「そんなはずはない……」「まだ、何とか
なる……」と考えて、がんばればがんばるほど、子どもの症状は悪化する。

【追記】

 こうして子どもの問題を考えているとき、実は、それは私たち自身の問題であることに気づく
ことがある。

 こうした子どもの問題は、当然のことながら、その子どもがおとなになってもつづく。いいかえ
ると、今、幼児期や少年少女期の問題を、そのまま引きずっているおとなも、多いということに
なる。

 他人と接すると、気ばかり使って、疲れやすい。楽しめない。ある母親(三二歳)はこう言っ
た。「同窓会などに出ると、みなは、ワイワイと楽しそうに騒ぐ。しかし私は、どうして人は、ああ
まで楽しめるのかと、不思議に思うときさえある」と。

 その女性も、どこか不幸な家庭に育っていた。権威主義の父親。その父親に、隷属的に仕え
る母親。「私は、子どものころから、優等生でいることだけを求められました」と。

 心の問題というのは、そういうもの。で、あなた自身はどうか? 一度、じっくりと、あなたの心
の中をのぞいてみるとよい。
(031024)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●子育ての錯覚

 漢字をよく知っているから、国語力があるということにはならない。同じように、計算力がある
から、算数がよくできるということにはならない。

 こうした錯覚は、子どもの学習には、いつもついて回る。たとえばよくしゃべる子どもは、頭が
よく見える。しかしそう見えるだけであって、本当に頭がよいかどうかは、別問題。
 
 しかし最大の錯覚は、勉強がよくできる子どもを、人格的にすぐれていると考えること。頭が
よいからといって、人格的にすぐれているということにはならない。その人の人格は、長い年月
を経て、苦労の中で、熟成される。

 むしろ、勉強があまりできない子どものほうに、人格的にすぐれた子どもが多い? 一方、勉
強しかしない、勉強しかできない、いわゆる「勉強バカ(失礼!)」の子どものほうに、問題があ
る子どもが、多い?

 昔、印象に残っている子どもに、S君という高校生がいた。私がアルバイトをしていた進学塾
の塾長の息子だったが、いつも、どこか、おかしかった。そのS君、ある日、私にこう言った。

 「林先生、この世界はすべて数学で説明できます。人も、動物も、組織も、社会も、すべてで
す」と。

 彼の頭の中は、そのため、数字だらけだった。難しい公式でも、一度見ただけで、覚えてしま
った。全国の大学の、それぞれの学部の最低合格点も、すべて頭の中に入っていた。私でも、
ウンウンとうならなければ考えなければならないような数学の問題でも、目の前で、スイスイと
解いてみせた。それはまさに、神業(かみわざ)に近かった。

 そのS君が、そののち、どのような人生を送ったか、そして今、送っているか、私は偶然、よく
知る立場にある。が、それは、ここには、書けない。一度は世話になった人の息子である。

 しかしS君は、今、かなり責任の重い仕事についている。私はそのS君のうわさを聞くたび
に、「これでいいのか?」と、疑問に思う。何かしら、この日本の流れを、ゆがめてしまったかの
ようにさえ感ずる。あるいは一時的ではあるにせよ、私は、そのS君を、家庭教師したことがあ
る。そういう自分を、心のどこかで後悔している。

 そこで私は、こう思う。

 学校の教師の仕事の一つに、人格的にすぐれた子どもと、そうでない子どもを見分ける作業
も、含まれるのではないかということ。人格的にすぐれた子どもを、より励まし、伸ばす。

 現に今、この日本には、歴然とした学歴社会がある。そういう社会に、子どもたちを送り出す
にしても、子どもを教える教師は、どこかで方向性をもたねばならない。ただ知恵さえつければ
よいというような、無責任な教育は、許されるべきではない。でないと、結局は、日本は、ここで
いう「勉強バカ」だけが得をするという社会になってしまう。

 これに関連して、以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。

++++++++++++++++++++

●生意気な子どもたち

 子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学四年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。

彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。

「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」
と。母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある建設会社の社長だった。ほ
かにも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や
はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しか、せていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。

都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはい
けない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、
いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究
している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。
 
+++++++++++++++++++

 ここに書いた子どもについては、後日談がある。

 私が思いあまって、このことを母親に告げたときのこと。そのとき、その母親は、車の中にい
た。が、母親のほうが、先に、私に、こう言った。

 「あんたは、授業中、ふざけて遊んでばかりいるそうですね。息子が言うには、ちゃんと、教え
ていない」と。

 その子どもは、先手を取って、母親には、私の悪口ばかりを並べていたらしい。このタイプの
子どもが、よく使う手である。つまり私が親に、子どものことを話す前に、子どものほうが、私の
悪口を言う。そして悪いのは、自分ではなく、林のほうだと、親に思わせる。

 母親は、車の中から外へ出ようともしなかった。そしてプイと前を向いて、車を発進させた。

 それっきり。本当に、それっきり。以後、音信は、ない。連絡もない。たぶん、今ごろは、優秀
な高校生として、どこかの進学高校に通っているだろうと思う。

++++++++++++++++++++

ここまで書いて、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
思い出したので、再掲載します。

++++++++++++++++++++

●先手を取る子ども

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くとこ
ろです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小四)の先生は、点の悪い子どものテストは、投
げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先
生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしてい
る」など。つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先
生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学
校の先生の悪口を言うようになった子ども(小三女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言
い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方
で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中一)も、その言葉で苦しんでいるはず
だった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。「君の力は君が一番よく知っているはず
ではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなっ
てしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがまま
を通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのが
ある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表すると
いうことは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきてい
た。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにK
さんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。と、そのときである。Kさんがスーッ
と涙を流したのである。

私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わっ
てから、Kさんにその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さ
んが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさん
は、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行
為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の
行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の
抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。私はAさんのうしろ姿を見送りな
がら、むしろそちらのほうを心配した。

++++++++++++++++++++++++

ついでに、もう一作……。

++++++++++++++++++++++++

●汝自身を知れ(キロン)

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか?」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきに
して、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子
どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝自身
を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(1533〜1592)も
「随想録」の中で、こう書いている。

「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自己が相手なのだ。私はつねに自己
を考察し、検査し、吟味する」と。「自分を知る」ということは、一見簡単なことに思えるが、その
実、たいへん難しい。

で、このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であって自分であ
る部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADHD児)と呼ばれる子ど
もがいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身を離れたところで起こる。子ど
も自身にはその意識すらない。だからその子どもをしかっても意味がない。このことは親につ
いても言える。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつま
でも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
(031025)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●老いらくの恋

 「老いらくの恋」という言葉がある。しかしそれは、かなりはげしいものらしい。ある老人ホーム
に、ヘルパーとして勤める、Sさん(女性)が、先日、こんな話をしてくれた。

 「老人たちは、たがいに狂ったように、恋愛ごっこをしている。一人の男性(あるいは女性)を
取りあって、けんかザタになることは、日常茶飯事」と。

 どうやら老人ホームに住む老人たちの生きがいは、恋愛ごっこ(?)らしい。

 ……と書いて、何も、私はそういう老人たちを笑っているのではない。むしろ、私自身の近
い、未来像ではないかと思っている。私など、老人ホームへ入れば、もっとはげしく恋愛ごっこ
をするかもしれない。その可能性は、大きい。

 そもそも人間は、いつも異性を意識して生きている。あのフロイトも、そう言っている。生きる
原動力(リピドー)とは、性的エネルギーのことだ、と。

かく言う私も、男性ばかりの講演会より、女性が多い講演会のほうが、楽しい。同じ子育て相
談でも、父親からのものよりも、母親からのもののほうが、どこかやる気が出てくる。
 
 しかし、だ……。

 人生の終わりにあって、その行き着く先が、「老いらくの恋」というのも、さみしい気がする。人
は、未来に、夢や希望をいだいて生きる。もしその夢や希望がなくなれば、生きる力そのもの
を、なくす。そこで夢や希望……ということになるが、それが「老いらくの恋」とは? あるいは
「老いらく」であるからこそ、老人たちは、恋愛ごっこに、夢中になるのかもしれない。

 しかし、これだけは言える。

 こんなことを若い父親や母親に言っても、理解してもらえないかもしれない。が、「私」という、
頭蓋骨の中から見る、外の世界は、若いときも、そして年をとった今も、同じだということ。たと
えて言うなら、肉体というのは、容器のようなもの。その容器が、疲労して、しわくちゃになった
としても、中身は中身。中身は、若いころのままということ。

 眼科医のドクターに言わせると、白内障か何かで、まわりの景色は、多少、若いときとは違っ
た色に見えるらしい。が、頭蓋骨の中から見る世界は、若いときも、そして今も、ほとんど変わ
らない。

 青い空は、やはり青い。緑の森は、やはり緑。

 ただ自分が年をとったと感ずるのは、自分の姿を、カガミに映してみたとき。「なるほど、私
も、老人の仲間入りだ」と。しかしだからといって、自分が、老人と認めるわけではない。私の
年代(私は現在、満五五歳)で、自分が老人と思っている仲間は、ゼロ。絶対に、いない。たい
ていの仲間は、「その気になれば、新しい恋の一つや、二つ……」と思っている。

 もちろん年齢による、肉体的変化というのは、たしかにある。

 これから先、一〇年後か、二〇年後に老人の仲間入りする、あなたのために、正直に書いて
おこう。

 性欲については、五〇歳になっても、若いときと同じように、ある。ただし、若いときのように、
毎日、テッシュペーパーの世話になるということはない。また一度、世話になると、数日間は、
女性のヌード写真を見るのも、おっくうになる。

 要するに、そういうことが、めんどうになる。「何がなんでも、その女性と……」という、気力
は、たしかに弱くなる。頭の中では、あれこれ想像するが、たいていは、この段階で、ストップ。

 が、老人ホームの老人たちは、そうではないという。どうして、そうなるのか。私自身の変化を
観察するかぎり、そういう気力は衰えることはあっても、ますことはないと思うのだが……。

今は「?」マークということにしておく。私もやがて老人ホームへ入ることになると思う。そのと
き、また、何か新しいことがわかれば、みなさんに報告する。どうか、お楽しみに!
(031025)

【付記】

 老化とともに、脳の機能も低下する。そのとき、低下しやすい部分と、そうでない部分がある
という。たとえばよく知られた例としては、アルツハイマー型痴呆症がある。

このアルツハイマー型痴呆症では、「記憶」「推理」「人格」などの、高度な精神機能は大きな影
響を受けるが、「感覚」「運動」などは、それほど影響を受けないという。つまり人格は崩壊して
も、恋愛感情や、それにともなう行動は、崩壊しないということになる?

 老人ホームの老人たちが、恋愛ごっこに夢中になるメカニズムは、こうして説明される? 感
情と行動だけが活発になる? あくまでも私の勝手な、推理によるものだが……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孫論

 二男夫婦が、アメリカへ帰っていって、もう三日目になる。その間、いろいろなことがあって、
二男や孫のことは、すっかり忘れていた。そのせいもあるのかもしれない。当初心配した、「さ
みしさ」は、ほとんど、感じなかった。

 今朝も、ワイフとこんな会話をした。「世間では、孫はかわいいと言うが、ぼくは、あまりかわ
いいとは思わない。理由の一つに、ぼくに、まったく似ていない」と。

 孫の誠司は、どうみても、白人の顔。半分だけでも、二男に似て、そのまた半分だけでも、私
に似ていれば、私も、違った印象をもったかもしれない。しかし、まったく似ていない!

 それに今回、二男に会って気づいたのは、二男は、完全にアメリカナイズされていたこと。ワ
イフは「きつくなった」と言うし、私は「冷たくなった」と言う。ものの考え方が、合理的。ムダがな
いというか、ゆとりがない。「七年もアメリカに住んでいると、人間もああなるのね」とワイフは、
言うし、私は「ああでもなけれけば、アメリカでは生きていかれないのかも」と言う。

 アメリカへ渡る前の二男は、もう少し、やさしかった?

 本来なら、子どもの巣立ちを喜ばねばならないはずだが、しかしどこか、むなしい。そのむな
しさが、私の心をも、冷たくする。

 「ぼくたちは、いろいろ心配して、あれこれするが、二男にしてみれば、ぼくたちは、ただのお
人よし。そんなふうに、見えるのかもしれない」と私。
 「そんなふうに考えてはいけないわよ。二男は、二男で、あなたに感謝しているはずよ」とワイ
フ。

 今回も、こんな事件があった。

 S氏夫婦と、会食をしていたときのこと。S氏夫妻へのみやげを、車の中に忘れてしまった。
そこで、私は、ワイフに、「みやげを取ってきてほしい」と頼んだ。車のキーは、ワイフがもって
いた。それに支払いのこともあって、一度、ワイフを、廊下へ呼び出さねばならなかった。ワイ
フが廊下へ出たところで、私も廊下へ出るつもりだった。

 しかしそれについて、あとで、二男が、私を叱った。「みやげを忘れたら、パパは、自分で取り
に行けばいい。自分でできることを、ママに命令するのは、おかしい」と。

 二男には、デリケートなやりとりが、理解できない。そこで、事情を説明したが、その説明をし
ている間、「どうしてそんな説明をしなければならないのか」と、自分がなさけなくなった。こうい
うケースでは、日本人なら、みな、そうする。あたりまえの光景である。

 「毎週のように、いろいろなものを、アメリカへ送っていたけど、もうやめようと思う」と私。
 「そうね。二男は、とくに感謝している様子でもないし……」とワイフ。
 「でも、そう考えると、どこかさみしいね」
 「そうね。それが巣立ちというものではないかしら。私たちだって、親から、いろいろなものを
送ってもらったことはないわよ。でも、何とも、思わなかったから」
 「考えてみれば、そうだよね。ぼくたちは、ぼくたちで、勝手に生きていた。親のことなど、ほと
んど、考えなかった」と。

 誠司は、見た目にはかわいい顔をしている。しかしアメリカへ去ったあと、不思議と、「また会
いたい」という思いは、生まれなかった。ワイフは、「会話をするようになったら、また変わるわ
よ。人間関係ができれば、また印象も、変わるはずよ」と、説明する。

 そういう思いをもつのは、私の中の、心の欠陥によるものなのか。私は、もともと、愛情がど
こか淡白。不幸にして、不幸な家庭に育っている。そのせいもあるのかもしれない。もう少し、
時間をおいて、自分の心を静かに観察してみよう。

 で、今の気持ちは、正直に告白するが、無事、二男夫婦がアメリカへ帰って、ほっとしてい
る。当分は、二男のことも、孫のことも忘れて、仕事に没頭したい。
(031024)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ボランティア活動 

 悪人は、絶対に、他人のために、無償では行動しない。行動しても、どこかで計算しながら、
する。だいたいにおいて、他人のために行動することを、「損」と考える。

 いつか『ボランティア活動をする人には、悪人はいない』と書いた。他人のために無料で奉仕
するという心と、人をだまして金品をまきあげるという心は、共存しない。……共存できない。そ
れで私は、そう書いた。

 問題は、その中身。

 中には、そうした活動を、自分の売名行為のために利用している人がいる。しかしそういう人
は、悪人以上の、悪人。

 たとえばどこかの、貧しい国の、貧民救済運動を考えてみよう。

 そういう活動を、人知れず、地道にしている人がいる。報われることなど、ほとんど、考えてい
ない。私は、そういう人は、善人だと思う。

 しかし一回ごとに、何人かのカメラマンや、マスコミ関係者を連れていき、そのつど写真にとら
せて発表する人もいる。私は、そういう人は、悪人以上の悪人だと思う。他人の不幸を、自分
の名声のために、利用している?

 もう一五年ほど前のことだろうか。あるテレビタレントが、難民救済運動のために、ある貧し
い国へでかけて行った。そのときの様子は、週刊誌などに、大々的に報道された。そのタレン
トは、骨と皮だけになった難民の子どもを、さもいとおしそうな様子で、抱きあげて見せた。

 しかし、だ。そのあと、つまりその写真撮影が終わったあと、そのタレントは、消毒薬で、手や
体を、懸命にふいていたという。アフリカの子どもを抱きあげて見せたのは、あくまでも、撮影
用だったというわけである。

同行したカメラマンの一人が、あとで、そのことを暴露し、当時はそれなりに話題になった。し
かしこういうインチキが平気でできる人というのは、本物の悪人とみてよい。

 もっともこうした手法は、政治の世界では、ごくふつうに使われている。近所でも、こんなこと
があった。

 ある日、ある市議会議員が、地域の後援者を何人か引きつれて、私の事務所にやってき
た。そしてこう言った。「あの通りの、あそこに、歩道橋を作ったらよいという意見があります
が、いかがいたしましょうか」と。

 そのあたりは、交通事故が多い。歩道橋があれば、子どもたちにとっても、より安全になる。
そこで「賛成です」と言うと、得意そうな顔で、「では、お任せください。今度、議会にかけてみま
す」と。

 実は、その歩道橋は、そのときすでに、建設が決まっていた。その議員は、そういう情報をど
こかで手に入れ、さも、自分の手柄であるかのようにして、選挙運動に利用していた。

 話はそれたが、あなたのまわりにも、人知れず、ボランティア活動をしている人は多いはず。
あなた自身が、そうであるかもしれない。しかしそういう人を、静かに観察してみてほしい。あな
たも、私がここで言っている意味がわかるはず。

 そういう意味で、つまり反対の意味で、ボランティア活動をするということには、重要な意義が
ある。「私」を忘れて、「他人」のために奉仕するというのは、自分の心を洗うことにもなる。言い
かえると、ボランティア活動をしている人に、悪人はいない。

 ……と、ここでは仮の結論を出しておくことにする。このつづきは、また別の機会に考えてみ
たい。
(031025)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●天皇がやってきた

 一〇月二四日、午後。教室の周辺が、騒がしくなった。上空をヘリコプターが、飛びかってい
る。人通りが、はげしくなった。

 歩いて一分足らずのところにある、旧市民会館(現教育文化会館)の前で、ちょうちんと、旗
が配布されるという。外へ出てみると、一〇人前後の女性たちが、そちらに向かって歩いてい
た。声をかけると、「これからGホテルまで、みんなで、ちょうちん行列をします」とのこと。

 今夜、Gホテルに、天皇が宿泊するという。国体の開会式に、出るためという。

 行ってみると、すでに長い列ができていた。私も……と思ったが、その列を見て、帰ってきて
しまった。

 ……と書いて、実のところ、「天皇陛下」と書くべきなのか、ただ「天皇」と書くべきなのか、お
おいに迷った。私が子どものころは、「天皇」と呼び捨てにしただけで、父親に殴られた。「陛
下」もしくは、「天皇陛下」と呼ばねばならなかった。

 さらに「宿泊される」と書くべきなのか、「宿泊する」と書くべきなのか、迷った。

 どうもこういう問題は、苦手。いくら戦後生まれといっても、私は、戦前の影響を、モロに受け
ている。その戦前といえば、天皇制を批判しただけで、「不敬罪」として、処罰された。そんなわ
けで、今でも天皇について書くときは、心のどこかで、ツンとした緊張感を覚える。

 天皇制については、私はずっと、中立の立場を守ってきた。賛成でもないし、反対でもない。
ただいつも思っているのは、「天皇自身はどうなのか?」ということ。天皇自身が、今の立場で
よいと言うのなら、賛成だし、そうでないというのなら、反対だということ。私なら、ああした窮屈
な生活には、一日だって、耐えられない。「天皇」という立場から受けるプレッシャーは、想像を
絶するものに違いない。

 再び、外に出てみると、すでに天皇は、Gホテルに入ったということ。行列を見ることはできな
かった。何人かの知りあいが、そこにいた。「もう、通り過ぎましたか?」と声をかけると、「もう
(Gホテルへ)行きました」と。

 同時に、国道一号線のほうから、マイクを使った、「天皇陛下、バンザ〜イ! バンザ〜
イ!」「皇后陛下、バンザ〜イ! バンザ〜イ」のかけ声が聞こえてきた。かけ声というより、絶
叫に近かった。それに呼応して、民衆の、「バンザ〜イ、バンザ〜イ!」の声。あたりは、ほとん
ど暗くなりかけていた。ちょうちん行列が、始まったらしい。

 日本は、まさに奈良時代から、天皇を頂点とする、官僚主義国家。天皇に、最高位の権威を
付託することによって、その権威のもとで、国を治めてきた。今も、その構図は、まったく変わっ
ていない。日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけと思ってよい。

 しかしこれが私の国、日本。私一人が、どうこう思ったところで、この日本が、それで動くわけ
ではない。これからも動かない。国道一号線ほうへ出てみると、ちょうちんをもった人たちが、
長い列を作って、ゾロゾロと歩いていた。それはまさに、日本の流れでもあった。来年も、さ来
年も。一〇年後も、二〇年後も、それぞれの地域で、こうした行列がなされることだろう。三〇
年後も、四〇年後も……。そしてひょっとしたら、一〇〇年後も。

 教室へもどると、生徒が集まっていた。「行列を見たか?」と声をかけると、興奮した様子で、
「見た、見た!」と。そして私がトイレへ行くと、うしろから、子どもたちも、叫び始めた。

 「天皇陛下、バンザ〜イ! バンザ〜イ!」と。

 こうしてその「流れ」は、代々と、あとへ受け継がれていく? それがよいことなのか、それとも
悪いことなのか、私には、わからないが……。
(031024)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●山荘にて……

今朝は朝から、頭痛。風邪をひいたらしい。朝食のあと、薬をのむ。しばらく寝る。だいぶ楽に
なったので、昼前に、こうして山荘へやってきた。

 ひんやりとした秋の冷気。曇り空。途中、パソコンショップに寄る。今度発売になった、「フライ
ト・シミュレーター2004」を見る。しかし私のパソコンでは、動作しない。購入をあきらめる。

 山荘で、長イスに寝転んでいると、突然の来客。出ると、村の人だった。「近所のMさんが、
亡くなった」と。葬式の連絡だった。

 それから昼食。風邪薬のせいだと思うが、食欲がない。ワイフは、「おなかがすいた」と言っ
て、弁当を食べ始めた。私は知らぬ顔して、この原稿を横で書いている。

 空は曇り。低い雲が、ところどころに白い光のすじをつくりながら、天をおおっている。風はな
い。すべてが動きを止めている。その間を、こまかい虫が、飛びかっている。

遠くで、チッチッという鳥の声。あとは耳鳴りの音が、ジーと聞こえるだけ。ああ、やはり、今日
は、風邪をひいたようだ。せっかくの休みだというのに、何というザマ!

 ワイフが、ウーロン茶を温めて、もってきてくれる。それを口にして、またパソコンに向かう。
今日は、山荘を掃除するつもりで、やってきた。が、どうも、それは無理のようだ。

 しかし私も、弱くなったものだ。たった一五年前には、毎週のように土木作業をしていたのに
……。その同じ私が、山荘へ来るたびに、昼寝とは! このところ草刈り機で、草を刈るのも、
おっくうになった。仕事は、山のようにある。

 浄化槽の掃除。
 風呂のフィルターの掃除。
 ふとん干し。
 シーツを洗う。
 トイレの掃除。
 草刈り、などなど。
 
それに屋根に枯れ枝がたまり始めた。それも掃除しなければならない。いつも「来週こそ、やろ
う」と思いながら、山荘を去る。しかし……。

 こういうときは、コタツにもぐって、居眠りするのが、一番、よい。どこか肌寒い。それに、体の
シンから、ゾクゾクと冷える。熱はないようだが、のどが痛い。扁桃腺炎かもしれない。私の持
病の一つだ。何かあると、すぐ腫れる。

 (この間、約三〇分)

 今、昼食を食べた。コンビニで買ってきた弁当を、ワイフと二人で分けて食べた。あとは、カッ
プヌードル。それも半分ずつ。ワイフは、外の景色を見ながら、オー・ザックとか何とか書いて
ある、ポテトチップスを食べている。

 「オー・ザックというのは、何だ?」と聞くと、「ただの名前でしょ」と、そっけない返事。一枚もら
って食べたが、やたらとしょっぱい。「わかった! オー、ザクザクと食べるから、オー・ザック
だ」と言うと、ワイフが、フフフと笑った。

 不思議なものだ。こうして外の景色を見ているだけで、心がなごむ。どこか頭痛も消えるよ
う。ただ寒いのだけは、どうしようもない。

 「ようし、今夜は、ニンニク・ライスだ」と私が言うと、ワイフは、どこか気のない返事。風邪をひ
いたときは、ニンニクをたっぷりと入れたチャーハンが一番。しかしそのあとの臭いが、悪い。

 さあて、これから一眠り。もう一服、風邪薬をのむつもり。せっかくの休みだというのに……。
(031025)

【付記】

 ちょうど、ここまで書き終わったところで、ワイフが、「アケビよ!」と言って、庭から、アケビの
実を、数個、もってきた。

 あわてて外に出る。山荘の西のはずれに、「愛の小道」という名前の、散歩道をつくった。そ
の一角で、毎年アケビがとれる。行ってみると、一〇〇〜一五〇個くらいのアケビができてい
た。しかし大半は、すでに野鳥に食べられたあと。残念。「もう一週間早ければ……」と私。「ホ
ント!」とワイフ。気がつくのが、一週間、遅かった。

 夢中になってアケビをとっている間は、風邪のことは、忘れた。が、部屋に帰って、イスに座っ
たとたん、またあの寒気(さむけ)。私は、ウーロン茶で、風邪薬をのんだ。

【付記(2)】

 結局、三時ごろから、五時少し前まで、昼寝。起きてみたら、頭痛が消えていた。うれしかっ
た。

 そして外の景色を見ると……! まっかな夕焼け。しかもその夕焼けが、刻々と、微妙に色を
変えた。私は、思わず『♪赤とんぼ』を口ずさむ。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■思考と意識(1)

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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

●自発的行動

 自ら進んでやるか。それとも、人に命令されてからやるか。その違いは、当然、大きい。

 たとえば勉強。自分がしたい勉強を、自分でする。学びたいから、学ぶ。その学びたいという
意思がしっかりしている。そういう形で、その人(子ども)の行動を強化することを、「正の強化」
という。

 一方、親にガミガミと叱られながら、勉強する。勉強しなければ、殴られるかもしれない。だか
ら勉強する。こわいから、自分の意思とは無関係に、する。いやいや、する。こういうふうに、外
からの圧力で、その人(子ども)の行動を強化することを、「負の強化」という。

 子どもの行動を強化するためには、二つの方法がある。自発的にさせる方法と、強制的にさ
せる方法の二つである。

 もっとも、こんなことは心理学で説明されなくても、常識。わかりきったこと。

 そこで「正の強化」を、育てるためには、一義的には、前向きな姿勢を育てる。ほめたりして、
自分に自信をもたせる。しかしこのとき、もっと大切なことは、子どもの夢を育てること。そして
その夢を、未来につなげていく。

 今の私の心境を書く。

 もう五、六年前になるだろうか。私はある人から、本を代筆するように頼まれた。若いころ、よ
くした仕事である。そこでその人の仕事を、一度は引きうけた。が、である。いざ原稿を書こうと
する段階になって、手が鉛のように重いのを知った。

 いろいろな思いが、胸をふさいだ。代筆、つまりゴーストライターの仕事というのは、体を売る
女性の仕事(?)に似ている。いわば魂を切り売りするようなもの。いくらその人の気分になっ
て書いても、どこかしこに、自分の思想が混入する。

 そこで「これはお金のためだ」と、何度も自分に言ってきかせた。が、当時は、それほどお金
には困っていなかった。で、結果的に、その仕事は、断ることにした。

 一方、私は、今、こうして少しの時間でもあれば、原稿を書いている。まったくお金にならな
い。雑誌社や出版社から、頼まれたわけでもない。しかし、こうして書いていると、楽しい。本当
に楽しい。

 それは未開拓の原野を、ひとりで歩いているような楽しさである。私が知らないものが、そこ
にあるような気がする。あるいは本当に、それまで私が知らなかったことを、発見することもあ
る。そういうときは、楽しくて、キーボードの上で、手先が、チョウのように軽く舞う。

 この違いがどこからくるかといえば、自発的にそれをするかしないかの違いといってもよい。
ただ私のばあいは、もう負の強化には耐えられない。人に命令されてするのは、大嫌い。実際
には、命令されたら、絶対にしない。

 少し前のことだが、デパートで、エレベーターに乗ったときのこと。うしろのほうに立っていた
男が、「四階!」と叫んだ。「四階のボタンを押せ」という意味である。私は返答するのもいやだ
ったから、その言葉を無視した。すると、その男はこう言った。「あんたが近くにいるのだから、
押してくれてもいいだろ」と。私は、それに答えて、こう言った。「自分のことは、自分でしたら」
と。

 私は決して、不親切な人間ではない。しかしそういう言い方をされると、本能的な部分で、抵
抗する。ここでいう「負の強化」に耐える度量は、もうない。

 子どもを伸ばすことを考えたら、同時に、いかにしてその子どもの中に、自発的な向学心を
育てるかを考える。命令したり、脅したりして、子どもに勉強させるのは簡単なこと。しかしそう
いう方法では、長つづきしない。あるいは子ども自身が、かえって反発してしまう。

 そこであなたの子どもは、今、どのような状態か、自己診断してみてほしい。毎日、やる気に
なって、がんばっているだろうか。それとも、逃げ腰になって、いやいや勉強しているだろうか。
もし後者なら、ここでいう正の強化をいかにつくるかだけを考えて、子どもを指導する。勉強を
する、しないは、つぎの問題と考える。
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所という
ことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。江戸時代という時代のスケールがその
まま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「きびしさ」。

関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。つかまれば死罪だ
が、その関所破りを助けたものも同程度の罪が科せられた。新居の関所破りをして、伊豆でつ
かまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、そこでさらにはりつけに処せられたとい
う記録も残っている。移動の自由がいかにきびしく制限されていたかが、この事実ひとつをとっ
ても、よくわかる。が、さらに驚いたことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の
随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」とい
うような記述があったことである。当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事
はいっさいなかった。

私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自由
な時代だったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつ
とは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あのK国の人たちだって、「私たちは自由
だ」(報道)と言っている。あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家だ」と主
張している。(K国の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)

現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメン
ト)と言うことは、「K国が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。私たちが知り
たいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。新居の関所は
その象徴ということになる。

たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町
だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。関所がそれくらい身分
の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだが、批判の対象にこそ
なれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう
意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をと
おして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよ
い。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化して
はいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、これ
また美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。私がこ
こでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。
(※こまかい点は、聞き覚えなので、事実と違うかもしれない。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●便利な世界

 便利さはそれになれると、感覚がマヒする。私のきわめて身の回りのことを書く。

 一五年近く前から私はワープロを使うようになった。いや、もう二〇年になるかもしれない。当
初私は、その便利さに圧倒された。そのワープロが今度は、パソコンにかわった。私はこれま
たその便利さに圧倒された。文を書くだけではなく、原稿の送受信まで、それこそ瞬時にやって
のける。

そこで私はさらに便利にするため、周辺機器を買いそろえた。プリンターやスキャナーはもちろ
んのこと、ほとんどの周辺機器はとりそろえた。で、今では私の部屋は、足の踏み場もないほ
どコード類が走り回っている。パソコンだけで七台だから、どの程度のコードかは、わかる人な
らわかると思う。

 が、便利というのは恐ろしいものだ。そのつど格段に私の仕事は便利になったが、気がつい
てみると、最近ではマウスをクリックするだけでも、不便に感ずるのだ。ワープロの時代は文書
をそのつどフロッピーに保存し、プリントのたびに紙をワープロに設置した。印刷時間も今の五
〜六倍はかかったのではないか。もちろん原稿は封筒に入れ、真夜中でも速達で出すため、
郵便局まで車を走らせた。(それでも当時は当時で便利になったものだと喜んでいた!)それ
がマウスをクリックするだけでも、不便に感ずる?

 たとえばOCRというソフトがある。スキャナーに原稿をはさんで、それをスキャンすると、その
原稿の文字をパソコンの中に取り込んでくれる。昔のように原稿を見ながら、それをカチャカチ
ャとキーボードをたたいて入力する必要など、もうない。ないにもかかわらず、それがめんどう
なのだ。

女房からひとつの仕事を頼まれているが、「まだア?」とこのところ毎日のように催促されてい
る。やる気になれば、五分程度で、数枚の原稿を読み取ることができるというのに!

 だいたいにおいて書斎に座ったら最後、動くのは指先だけ。体を動かさねばならないようなこ
とは、めったにない。それこそ紙の補給ぐらいなものか。だからこういう世界にどっぷりとつかっ
てしまうと、体を動かすこと、たとえば立ちあがってすわることが重労働に思われるから不思議
である。

 ……と考えて、これはもう現代文明に共通する「矛盾」ではないかと思っている。考えてみれ
ば、ありとあらゆるものがそうなのである。しかし人間はあくことなく、さらなる便利さを求めて動
き回っている。これを進歩というか、はたまた後退というのかは、私にはわからないが、大きな
矛盾であることには違いない。あるいはそれは本当に人間が求めているものかどうかは、大き
な疑問の残るところでもある。

 私は今、この文をその書斎で書きながら、やがて私はその便利さにどこまで体がなれてしま
うか、それをそら恐ろしくすら思い始めている。やがて指を動かすことすらめんどうに感ずるよ
うになってしまったら……? それももう時間の問題のような気がするが……。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●広島県厳島(いつくしま)神社

 広島県の厳島神社の回廊が、水びたしになったという。NHKのニュースが、それを報道して
いた。

 その回廊が、画面に映し出されたとき、ふと、何とも言えない切なさが、心に充満した。しかし
その正体は、すぐわかった。

 私は高校の修学旅行で、厳島神社へ行ったことがある。そこでのこと。私は、その回廊で、A
さんという女の子を、追いかけたことがある。私はある時期、そのAさんが、好きで好きで、たま
らなかった。

 心というのは、不思議なものだ。回廊を見ただけで、その当時の心が、よみがえってくる。私
はそのとき、Aさんのうしろ姿を見かけた。それであとを追いかけた。が、Aさんは、そういう私
にまったく気づくこともなく、何人かの友だちといっしょに、どんどんと遠ざかって行ってしまっ
た。

 あの切なさ……。今でも忘れない。恋というのは、そういうものか。あるいは、恋こそが、人生
の花?

 ワイフに、「あの回廊で、女の子を追いかけたことがあるよ」と話すと、「どうして?」と。

 「修学旅行でね。Aさんという女の子だった。ぼくは、一組。Aさんは、三組だった。別行動だっ
た。しかしあの回廊で、ぼくは、Aさんを見かけた。それで追いかけた。しかしね、Aさんは、そ
のままどこかへ消えてしまった……」と。

 「好きだって、言わなかったの?」とワイフ。
 「言ったよ。それで何度か、そのあと、デートしたよ」と私。
 「それだけ?」
 「それだけだよ。あっという間に、別れたよ」
 「どうして?」
 「まあね、フラれたということ」
 「どうして、フラれたの?」
 「そんなこと、わからないよ。そのうちAさんが、ぼくを避けるようになって……」と。

 だからこそ、よけいに切ないのかもしれない。いや、「今」という時からみると、恋をした時期
も、デートをしたときも、そしてフラれたときも、すべてが、ごちゃまぜになっていて、時間的な区
別がつかない。

 しかし、なつかしい思い出であることには、違いない。何というか、遠い、遠い昔の、自分であ
って自分でないような、そんな自分の思い出である。「そんなこともあったなあ」と思うと同時に、
つい先日のことのようにも、思う。

 もし、あのときに、今、タイムスリップしたら、私は、迷わず、Aさんのそばに行くだろう。ほか
の連中が何と思おうともかまわない。そしてその場で、Aさんを抱き、キスをするだろう。

 どうせ時の流れは、かすみのようなもの。一度過ぎ去れば、現実も、夢も、みな、同じ。生き
ていること自体、夢のようなものかもしれない。あのとき一組の担任だったA教師も、三組の担
任だったB教師も、もうこの世にいない。

 そういえば、あのAさんは、今ごろ、どうしているだろうか。うわさによれば、S市で、時計屋の
ダンナと結婚したという。一度、高校の同窓会で会えるかと思って期待して行ったこともある
が、そのときの同窓会には、来なかった。大学を卒業して以来、Aさんには、一度も会っていな
い。そんな思いが、ますます私を切なくする。

 恋は、人生の花。だれが言った言葉かは知らないが、本当に、そう思う。この切なさこそが、
その証拠。若い人たちよ、おおいに恋をしなさい。花を咲かせるために……!
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●満五六歳!

もうすぐ満五六歳になる。私は昭和二二年、生まれ。まさに戦後生まれの、団塊の世代。

 しかし微妙な年齢だ。つい先日も、それなりに好意を感じていた女性に、こう言われた。「先
生と私は、親子のようなものですから……」と。

 とたん、淡い恋心は、吹き飛んだ。吹き飛んで、消えた。

 男というのは、わけのわからない存在だ。相手を「女」と意識したとたん、自分の年齢を忘れ
る。年の差が、二〇歳あろうが、三〇歳あろうが、「女」は「女」。その女性と、同等の立場に立
つ。

 しかし相手の女性は、そうではない。私を、それなりの年配者とみる。ばあいによっては、ジ
ジイとみる。あるいは、「男」として、みない。

 その満五六歳。この一年間を、振りかえってみる。

 大きなできごとは、オーストラリアの友人夫婦が、二か月近く、我が家にホームステイしたこ
と。ボロボロになった旧家を、改築したこと。それに教室を新しくしたこと。孫に会ったこと。忙し
かったというより、そのつど、ガクンガクンと、貯金が減った。

 家族は、みな、健康だった。私も健康だった。仕事は相変わらず低調だったが、しかし思う存
分、自分のしたいことはした。そういう満足感は、ある。毎日、数時間。長いときは、五、六時
間、原稿を書くことができた。

 ただ、月ごとに、体力や気力が衰えていくのは、感じている。このままのスピードで進めば、あ
と長くても、一〇年で、私の頭は、使いものにならなくなる? 恐ろしいことだ。ワイフは、「男の
更年期よ。またこの時期を過ぎれば、活発になるわよ」と励ましてくれるが、私はあまり期待し
ていない。

 (もう二年近く、このマガジンを読んでくださっている方もいらっしゃると思いますが、この二年
間で、私の文章力や表現力は、変化しましたか? 衰えましたか? 鋭さは、どうですか? も
し何かの機会があれば、どうか、教えてください。)

 これから先、今まで以上に早く、四年間がすぎ、あっという間に、私も六〇代。それはよくわ
かっているが、しかしその実感が、あまりないのは、これまたどうしたことか? こうして外の世
界をながめてみても、自分のジジ臭い顔は見えない。かろうじて手先だけが見え、その手先
は、今のところ、ツヤもあり、若々しい(?)。だから自分では、自分がジジイと、どうしても、思
えない。

 これから一年間。がんばる。毎日を、懸命に生きてみる。そのあとのことは、そのあとに考え
ればよい。

 はたしてどんな一年になることやら? 健康だけは大切にしながら、がんばる。がんばるぞ!

 ハッピー・バースディ・ツー・「ミー」!
(031026)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

意識の違い

 今朝、K国の子どもたちが、テレビで紹介されていた。どの子どもも、独得の笑みを浮かべ
て、踊ったり、楽器を鳴らしたりしていた。ワイフは、それを見て、「気持ち悪い」と言った。私も
同感だった。

 で、こうした子どもたちについて、K国から脱出してきた人は、こう言った。「鼻血を出しても、
練習をつづける」と。そういうK国の子どもたちを、すばらしいと思った日本人は、いったい、何
人いただろうか。

 しかしそのとき、である。その脱出してきた人が、ポロリとこう言った。それは私には、衝撃的
な言葉だった。

 「K国では、こうした子どもたちが、政府の宣伝用に使われる。それはちょうど、西側諸国の、
コマーシャルのようなものだ。西側では、モノを売るために、宣伝する。それと同じ」と。

 人の意識というのは、絶対的なものではない。普遍的なものでもない。立場が変われば、そ
の意識も変わる。

 私たちはK国の子どもたちを見ながら、「おかしい?」と思う。しかしその意識は、相対的なも
ので、K国の人たちから見れば、今度は、私たちの国が、おかしく見えるに違いない。その一
つが、「物欲を刺激するコマーシャル?」ということになる。

 たとえば、あのポケモンが全盛期のころ、子どもたちの世界は、まさにポケモン漬けになっ
た。テレビ、雑誌、ゲーム、コミック、商品ほか。あらゆる場面で、子どもたちは、その商魂に乗
せられた。

 その結果、あの黄色いピカチューの絵を見ただけで、子どもたちは、興奮状態になってしまっ
た。一度、私は不用意に、「ピカチューのどこが、かわいいの?」と言ってしまったことがある。
とたん、生徒たちから、猛烈な抗議の嵐。袋叩きにあってしまった。

 こうした異常な現象を、いったい、どれだけの人が、「異常」と感じたであろうか。そこで私は、
一冊の本を書いた。それが『ポケモン・カルト』(三一書房)である。

 しかしこの本に、執拗ないやがらせをしかけてきたのは、二〇歳をすぎた若者たちだった。
「お前は、子どもの夢をつぶすのか」「とんでもない、トンデモ本だ」と。今でも、その団体の人た
ちが、その本や私を、攻撃している。

 こういう現象は、K国の人たちには、どう見えるだろうか。ここにも書いたように、意識というの
は、相対的なものである。私たちが、K国の子どもたちがおかしいと思うのと、まったく同じよう
に、K国の人たちは、日本の子どもたちは、おかしいと思うに違いない。現に、あの金XXは、そ
う言っている。「西側の狂った文化」と。

 私は、K国の子どもたちの映像を見ながら、不思議な感覚にとらわれた。K国がおかしいと思
えば思うほど、自分たちの世界も、おかしく見えた。ただ私たちは今、その(自分たちの国)に
住んでいるから、それがわからない。言いかえると、私たちが、自分の国はふつうだと思ってい
るのと同じように、K国の人たちは、自分たちの国は、ふつうだと思っているに違いない。

 少し話が脱線するかもしれないが、私は、学生時代、こんな経験をしたことがある。『世にも
不思議な留学記』(中日新聞掲載済み)で発表した原稿を、転載する。
 
+++++++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう三〇年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学
していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が
いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと
う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。

「アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラ
リアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日
本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉
を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの
国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを
通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教
師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。

「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだ
が、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子ども
の間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはな
らない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。

が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかり
を強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある
日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それ
でも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうし
ているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということにな
る。
 
こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明し
ても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、
その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

+++++++++++++++++++

 意識の違いというのは、恐ろしい。その意識にどっぷりとつかっていると、ほかの世界が理解
できなくなる。それだけならまだしも、自分がおかしな世界に入っていても、それに気づかなくな
る。

 典型的な例としては、宗教の世界がある。その世界の外にいる人からみれば、「おかしい?」
と思うようなことを、平気で、しかも、ま顔でしている信者は、いくらでもいる。

 そこで大切なことは、いつも、自分の意識を疑ってみること。自分の意識を、ふつうだと思っ
てはいけない。絶対だとは、さらに思ってはいけない。意識というのはそういうもので、またそう
いう前提で、いつも自分の意識を、疑ってみる。

 それは、ものを考えるとき、たいへん重要なことである。……というようなことを、K国の子ど
もたちを見ながら、考えた。
(031027)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●あやしげな電話

 息子が三人もいると、よく、おかしな電話がかかってくる。たいていは、若い女性の声で、「○
○さん、いらっしゃいますか?」と。

 夕食どきや、真夜中にかかってくることもある。名前を聞いても、名字しか言わない。「こちら
から電話をかけなおさせますから、電話番号を教えてください」などと言うと、そのまま電話を切
ってしまう。

 目的がわからない。意図もわからない。だいたいにおいて、電話のかけ方も知らない連中の
ようだ。いきなり、「○○さん、いらっしゃいますか?」は、ない。発音もおかしい。どこか鼻にぬ
けたような、ネチネチとした言い方をする。

 息子たちに聞いても、「知らないよ」「関係ないよ」と。

 電話という道具は便利な道具だが、しかし私は、あまり好きではない。電話というのは、いき
なり家の一番奥まで、入りこんでくる。遠慮がない。マナーもない。だから私の自宅の電話番号
は、電話帳には載せていない。が、それでも電話がかかってくる。

 そういう電話を受け取るたびに、しかし、私は、ふと、こんなことを考える。「どうして、こんなこ
とで、人生をムダにするのだろうか」と。相手が若い女性だったりすると、「こういう女性でも、い
つかは母親になるのだろうか」とさえ、思う。

 しかしこの世の中、油断もスキも、あったものではない。つぎからつぎへと、あやしげな商売
が生まれては消える。が、それが「あやしげ」とわかるまでに、善良な多くの人たちが犠牲にな
る。

 最近の傾向としては、若い人を中心に、新手のあやしげな商売が生まれるということ。そして
より年配者をねらった商売が、多いということ。よい例が、あの「オレオレ詐欺」。老人から見る
と、若い人たちは、バカに見えるが、若い人たちから見ると、老人は、バカに見えるらしい。し
かし本当のバカは、どちらなのか。が、こんなことは言える。

 人間と、ほかの動物たちは、大きく違う……と思っているのは、実は、人間だけではないかと
いうこと。実は、人間も、ほかの動物たちも、それほど、違わない。脳の構造にしても、ほとん
ど、同じ。ただ人間には、ほかの動物たちにない、脳みそが、少しだけプラスされている。

 だから動物園で、サルの集団などを見ていると、コンビニの前でたむろする若者たちと、同じ
に思えてくる。あるいは、どこが、どう違うというのか。むしろ脳みそが、少しだけプラスされてい
る分だけ、かえって、タチが悪い。それが、冒頭に書いた電話である。

 何かしら腹黒い目的や意図をもっていることは、わかる。しかしそれが何であるか、わからな
い。わからないから、不気味といえば、不気味。そこで息子の一人に相談すると、こう教えてく
れた。

 「そういう電話がかかってきたら、ぼくは、交通事故で死んだと言ってくれればいい」と。

 ナルホド! まじめに考える必要など、どこにもないわけだ。今度から、そう言う。
(031026)

【追記】

 人間には、ほかの動物にない脳みそが、少しだけプラスされている。あとは、どこも、違わな
い。

 だからその「プラスされた脳みそ」を、どう使うかで、人間は、人間になることもあるし、かえっ
て、動物以下になることもある。

 言葉を話す。道具を使う。情報をもっている。……そういうことで、「私は、動物よりも、頭がい
い」と、思う人は多い。あるいは、「人間は、ほかの動物とくらべて、優秀だ」と、思う人は多い。

しかしほかの動物たちは、言葉で、相手をだますようなことはしない。道具を使って、人を殺す
ようなことはしない。核兵器やミサイルを、作ったりしない。

 つまり「プラスされた脳みそ」も、使い方によっては、悪となりうるということ。そこに気がつけ
ば、同時に、人間のもつ限界も、わかるはず。またどうすれば、人間が、人間らしくなれるか、
それもわかるはず。

 言うまでもなく、人間が人間なのは、「考える」からである。考えて、善を追求するからである。
言いかえると、考えない人間は、人間ではないということになる。動物以下とは言わないが、動
物とほぼ同じとみてよい。

 以前、書いた原稿(中日新聞掲載済み)にこんなのが、ある。

++++++++++++++++++++++

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。

もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があって
も、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画
『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。

「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育
の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●もの言わぬ民たち

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。

もっと言えば「もの言わぬ従順な民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は大きく変
わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教
育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教
授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練
がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、
二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人に
よっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らな
い。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときの
ほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含
まれる。

+++++++++++++++++++++++

「子どもの世界」(中日新聞)の最終回用に書いたのが
つぎの原稿です。

+++++++++++++++++++++++

「子どもの世界」・最終回

●ご愛読、ありがとうございました。

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書くと言うの
は、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。反応もわから
ない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」と怒っている人だ
っているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない
荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書く
たびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、「考え
る」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そ
してその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。し
かしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。

その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうござ
いました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●インターネットの限界

 インターネットで、人は、どこまで親しくなれるか? また限界があるとするなら、その限界は、
どこにあるか? どうすれば、その限界を、乗り越えることができるか?

 毎日、いろいろな人から、メールをもらう。しかしそのうち、つまり返事を書いているうちに、だ
れがだれなのか、わからなくなってしまう。

 たとえばA県のAさんから、メールをもらう。つづいてB県のBさんから、メールをもらう。それ
ぞれ別の返事を書いているのだが、やがて頭の中が混乱する。そのときは、Aさんと、Bさんを
区別していても、数日もたつと、それがわからなくなる。

 こうしたことが連続的につづくと、さらに混乱する。一番、困るのは、「先日、息子のことで相
談しました、C県のCです。あのあと、あの問題は……」というようなメールを、もらったとき。頭
の中がパニック状態になる。

 実際には、文字だけでは、個性がわからない。個性がつかめない。二〇歳の人も、五〇歳の
人も、文字だけでは、まったく区別がつかない。

 そうして考えてみると、「顔」というのは、重要である。私たちは、相手の顔を見ながら、その
顔の上に情報を載せることで、情報を整理する。しかしインターネット上では、顔がない。ない
から、情報の整理ができない。

 そこでいろいろな方法をためしてみた。

 よくメールをくれる人に頼んで、メールの書体を変えてもらった。IEには、「ひな形の選択」とい
うのがある。便箋を使い分けるように、背景を自分で選ぶことができる。たしかにこの方法は、
よい。水色の便箋できたメールは、金沢の○○さんと、すぐわかる。

 つぎに一人、写真を送ってもらった人もいる。しかし「写真を送ってほしい」と言うまで、かなり
の時間を要した。送るほうにしても、かなりの覚悟がいる。頼むにしても、誤解されやすい。だ
から送ってもらったのは、F市のMさんだけ。

 しかし個性を特定するには、写真が一番よい。今は、インターネットは、文字情報が主体だ
が、もう少し進化すれば、テレビ電話のようになるだろう。時間の問題といってもよい。

 で、その結論。インターネットには、限界がある。いくらインターネットで、メールを交換しても、
友情は、育たない。恋愛感情は、生まれない。人間というのは、やはり生身の人間同どうしが、
ぶつかりあって、その関係を結ぶことができる。顔も見たことがない。声も聞いたことがない。
そういう人と、親友になれるわけがない。考えてみれば当たり前のことではないか。

 そこで今度は、反対の立場で考えてみる。

 私はこうして毎日、いろいろなエッセーを書いて、マガジンという形で、読者の方に配信してい
る。私自身も、いくつかのマガジンを購読しているので、読者の心がわからないわけではない。
しかしそれでも、読者の方と、何かの「糸」を求めているのは、事実。

 しかし実際には、丘の上から、毎日、空に向って叫んでいるような気分。講演と違って、相手
の顔すら見えない。反応も、わからない。何もわからないから、その糸をつなぐことさえ、できな
い。

 こうしてマガジンも、三〇〇回を超えた。が、そんなわけで、このところ、その限界を強く感ず
るようになった。「こんなマガジンを発行して、何になるのか?」と。毎回、ていねいに読んでくだ
さっている方がいることは、よく知っている。サニーさん、ルキアンさん、低脂肪牛乳さんなど。

 しかし「私」という人間は、そういう人たちの間で、どのように形づくられているのだろうか? 
あるいは何も、形づくられていないのだろうか? あえて言うなら、電子マガジンは、本でもない
し、手紙でもない。その中間あたりか? だからこそ、よけいに、その性格がつかみにくい。

 こうした限界は、やがて解決されるだろう。それまでの、過渡的な問題ということになる。今、
その限界があるからといって、インターネットの可能性を否定することも、できない。現に今、イ
ンターネットのおかげで、生活が、ぐんと便利になった。それに変化した。

 最近では、ほとんどのニュースは、インターネットで読んでいる。
 天気予報、地図も、インターネットで手に入れている。
 新聞を読む時間も、かなり減った。それ以前の数分の一程度になったのでは?
 図書館通いも、ほとんど、しなくなった。
 だいたいにおいて、テレビを、ほとんど、見なくなった。
 手紙も書かなくなった。届く手紙の数も、少なくなった。

 この先、私も含めて、人間の生活は、どうなるのだろう。私にもわからないが、大切なことは、
そのつど問題を乗り越えて、前に進むということ。インターネットに代表される情報革命は、もう
だれにも止めることはできない。

 この先、どうなるか私にもわからない。とにかく、マガジンを一〇〇〇回まで、出してみる。そ
のあとのことは、そのとき考えればよい。どうかみなさん、よろしく!
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況】

●新しい試み

今、電子マガジンを、二日おきに発行している。一回ごとに、A4サイズの紙で計算して、約二
〇枚近くになる。が、私のマガジンは、文字ばかりで、読みにくい。

そこでこのマガジンを、一度、ホームページに載せる。その上で編集し、飾りや写真を添えたり
して、読みやすくする。マガジンから、そのホームページへ、直接、アクセスできるようにする。

が、一つ、ここで大きな問題が生ずる。 

私のホームページは、すでに、24Mバイトという、かなり大きなサイトになってしまた。更新する
にしても、立ち上げから、保存まで、約二時間近くもかかってしまう。これでは、臨機応変に編
集できない。実際には、毎週土曜日に更新するようにしているが、それで精一杯。

そこで、あちこち、FTP送信できる、無料のホームページサイトをさがしてみた。で、やっと一つ
見つけた。T社のホームページサイトである。

近く、ここに書いたような試みを、してみる。そうすれば、私のマガジンは、新しく生まれ変わる
ことになる。ぐんと、読みやすくなる。

●三重県紀伊長島町での講演

今度、三重県紀伊長島町で、講演することになった。当地の教育委員会の方が招いてくれた。

で、その日は、長島町で一泊することになった。「海の幸のおいしいところです」とのこと。ぐん
と、楽しみになった。

で、もし、お近くの人がいらっしゃれば、どうか、講演会においでください。

日時   11月18日、火曜日
     午後7:00〜より、東長島公民館ホール、です。

     主催者の方に連絡いただければ、たぶん、入場は自由なはずです。

     連絡先……05974−7−1111、内線 378、奥田様まで。
     
     あるいは、bwhayashi@vcs.wbs.ne.jp   はやし浩司まで前もって
     連絡いただければ、便宜を図ります。

●愛知県立田村での講演

ついでに、もう一つ、コマーシャル。

愛知県立田村での講演会について

日時   11月16日、日曜日
     午後2:00〜より、総合体育館大ホールにて

     こちらも教育委員会主催ですが、もしおいでくださるようであれば、
     一度、「中広株式会社の、伏屋様」まで、お問い合わせください。

     連絡先は、058−248−5611、です。

     たぶん入場は自由(無料)に、していただけると思います。
     いいかげんな言い方ですみません。私の一存では、決まらないところも
     ありますので、お許しください。 

●脳梗塞(こうそく)

Nというパソコンショップで、新しいソフトをながめていたら、となりに、一人の男性が立っている
のに、気づいた。動作が、どこか、おかしい。

どうやら脳梗塞か何かで、半身が不随になったらしい。左手がまったく動かない。その向こうに
妻らしき女性もいて、あれこれ気をつかっているよう……。

このところどういうわけか、脳梗塞か何かで、そうなった人が、気になる。私自身の近未来像
を、そこに見るためではないか。

私は、風邪をひいても、すぐ頭痛で始まる。ときどき、偏頭痛にもなる。肩こりはない。心臓も、
だいじょうぶ。だからその分、いろいろと症状は、頭に出てくる。だから今、一番心配なのは、
脳梗塞。くも膜下出血も、こわい。

その男性は、私より、ずっとスリムで、健康そうな顔色をしていた。もともとそうであったのか、
それとも、治療で、そうなんたのかはわからない。私はその男性を見ながら、「どうしてこんな健
康そうな人が……」と思ってしまった。

近所のF氏も、一〇年ほど前、その脳梗塞で倒れた。F氏のばあいは、心臓に何か特別の病
気があって、そこから発生する脂肪のかたまりのようなものが、脳の血管をふさいだらしい。だ
から脳梗塞の治療が一段落したあと、心臓の手術もしている。

そのF氏だが、脳梗塞で倒れる前までは、明るく、冗談好きの人だった。子ども会の活動も、い
っしょにした。

しかし病気で倒れてから、めっきりと、暗くなった。ぐちばかりを言うようになった。病気がこわ
いのは、病気そのものよりも、こうして精神状態にまで、大きな影響を与えること。

パソコンショップで見かけたその男性も、どこか暗い表情をしていた。そして一つのソフトを手
に取り、買うかどうかで、何度も深く、迷っていた。何かアドバイスしてあげようと思ったが、横
に、妻らしき人がいて、あれこれ話しかけていたので、それもできなかった。懸命に、夫を励ま
しているのが、よくわかった。

その男性のことが気になり、ソフトのことは、どうでもよくなってしまった。来年か、二、三年後
か。それとも、明日か。私もああなるのかと思ったとたん、気が滅入ってしまった。それで何も
買わずに、そのパソコンショップを出てしまった。

私の年齢になると、健康というのは、増進するものではない。守るものである。今ある健康を、
ひとつずつ数えながら、それを大切にする。あとは持病と、うまくつきあう。今以上に健康にな
ろうと考えても、ムダ。そういうことは、ありえない。

かろうじて今は、脳の活動は、まだ、だいじょうぶのようだ。しかしこうなると、もう時間との勝
負。私の脳が先にだめになるか。それとも、私が先に、真理に到達するか。

●不倫の相談

ある知人が、「どうしても会いたいから」というので、駅の近くのホテルで会った。あれこれ話を
したあと、こう切り出した。

「林君、今、ぼくは、ある女性とつきあっている。別れたほうがいいだろうか?」と。

いまどき、こんな話は、珍しくない。が、その友人は、真剣だった。かなり悩んでいた。それに苦
しんでいた。

「不倫か?」と聞くと、「そうだ」と。

男も、女も、退屈な毎日に、ふと嫌気(いやけ)がさして、不倫に走る?

最初は、ほんの遊び心。しかしそれが肉体関係にまでおよぶと、遊びが遊びでなくなってしま
う。人間の「性(さが)」というより、脳の構造そのものが、そうなっている。CPU(中央演算装
置)そのものが、狂う。

しかしこういうケースでは、何ともアドバイスのしようがない。言うなれば、心の病気のようなも
の。不倫することが病気というわけではない。「恋」をすることが、病気のようなもの。熱病か。
はたまた心の病気か。

「君は、その切なさを、楽しむことができないのか? フーテンの寅さんのように、それを楽しめ
ばいい」と私。
「そんな簡単なものではないよ」と、その友人。
「ぼくなんか、年がら年中、その切なさを楽しんでいるよ」
「林君でも、恋をするのか?」
「するよ。しかしこのところ、だれも、相手にしてくれない。ぼくを男してみてくれないからね。そ
れがよくわかるよ。だからぼくは、フーテンの寅さんだ」
「そう言えば、雰囲気が似ているね。顔も似てきたし……」
「バカヤロー。それは言いすぎだ」
「で、やはり、別れるべきだろうか……」
「無理をすることはないよ。そのうち、奥さんにバレて……。大騒動になる。そうなれば、いやお
うなしに、別れられるよ」
「それは困る……」
「困るだろうなあ。お前が奥さんの前で、ワーワー泣きながらあやまる姿が、楽しみだ」
「お前も、ひどいこと、言うなあ」
「そんなアホな話、まじめに相談にのるバカは、いないよ」

話を聞くと、相手の女性は、二八歳の人妻だという。「お前と、三〇歳近くも違うではないか!」
と驚くと、「そうなんだよ」と、はにかんだ。

彼は私とちがって、背も高い。社会的地位もある。別れるときうしろ姿を見たが、そのうしろ姿
にさえ、風格があった。私はそれを見ながら、「女性のほうが、ほうっておかないだろうな」と思
った。

まあ、人生には、いろいろなことがある。だから楽しい。人生は、まさにドラマ。そのドラマが、
人間の世界をうるおい豊かなものにする。決して、不倫を奨励しているわけではないが……。
(031027)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■障害児教育(1)

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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

【今週の幼児教室から】

●笑えば、伸びる

 言いたいことを、言う。したいことを、する。これが幼児教室の基本である。おさえるのは、簡
単。その時期がきたら、少しずつ、しめていけばよい。

 今週は、(数)をテーマにした(月曜日クラス)。

 この時期は、(教えよう)(教えてやろう)という気持ちは、控えめに。大切なことは、子ども自
身が、数を好きになること。数を、楽しいと思うようになること。が、それ以上に、大切なことは、
子どもが、自信をもつこと。決して、おとなの優位性をおしつけてはいけない。

 七個のリンゴを、わざとまちがえて数えてみせる。すると子どもたちは、「ちがう、七個だ!」と
叫ぶ。そこで改めて、数えてみせる。そして「ああ、七個だったのかあ?」と、とぼけてみせる。

 が、その日は、それですんだわけではない。さらに、私を責めた子どもがいた。「あんた、先
生でしょ!」と。そこで私は、こう言ってやった。

 「君、まだ幼稚園児だろ。だったら、そんなにしっかりと勉強しなくていい。もっと、ぼんやりと
勉強しなさい。あのね、幼稚園児というのは、指をしゃぶって、おしりからプリプリと、出しながら
勉強するものだよ。わかっている?」と。

 すると子どもたちが、ワイワイと反発した。しかしその反発こそが、私のねらいでもある。

 「あのね、わかっていないな。勉強なんてものはね、適当にやればいいの。そんなにしっかり
やると、頭がへんになるよ!」と。

 すると子どもたちは、「ちがう、ちがう」と叫ぶ。つまりそうやって、子どもを、こちらのペースに
のせながら、指導していく。あとは、子ども自身がもつ、伸びる力に任せればよい。

 だいたいにおいて、子どもというのは、伸ばそうと思っても伸びるものではない。大切なこと
は、子ども自身がもつエネルギーを、うまく利用すること。それをうまく利用すれば、子どもは、
伸びる。

 さて、子どもを明るい子どもにするには、方法は、一つしかない。つまり、笑わせる。大声で、
笑わせる。それにまさる方法はない。だから私の教室では、子どもを笑わせることを、何よりも
大切にしている。一時間なら一時間、笑わせぱなしにすることも、珍しくない。

 笑うことにより、子どもの心は、開放される。前向きな、学習態度も、そこから生まれる。『笑
えば、伸びる』、それが私の、この三五年間でつかんだ、幼児教育の真髄である。
(031029)

【追記】

 最近の研究では、ストレスと免疫系の関係などが指摘されているが、それと反対に、「笑い」
には、不思議な力が隠されている。これから先、大脳生理学の分野で、少しずつ、その「力」が
解明されていくだろうと思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●案ずるより産むがやすし

 心配性の親というのは、たしかにいる。しかし「心配性」というのは、不安神経症のことか。さ
らにはうつ病の「不安発作」ということも考えられる。感情のコントロールができなければ、感情
障害ということにもなる。

このタイプの親は頭の中でつぎつぎと不安のタネをつくり、そしてそれを限りなく増大させる。
「被害妄想」という言葉があるが、まさにその妄想のウズに巻き込まれてしまう。

 あるとき一人の母親が私のところへ来て、こう相談した。何でも幼稚園の下の階が、炊事室
になっているという。その母親の子どもの教室がその真上にあって、「火事にでもなったら、た
いへん」と。その幼稚園には避難用として一応、大きなスベリ台が二階から地上へとつながっ
ているが、「それでは不安だ」とも。

私が「幼稚園は一応どこも、消防署の検査を受けているはずです」と言ったが、それでも納得
しなかった。「地震のときはどうなのか」とか「子どもがスベリ台をこわがったらどうするのか」
と。こんな母親もいた。

 息子がアメリカへ一年間留学することになったという。それについて、「心配で夜も眠られな
い」と。その母親はアメリカで何か事件が起きると、すべてアメリカ中で同じような事件が起きて
いると思ってしまうらしい。

そこで私が「テキサス州といっても、日本の二倍の広さがあります」「インドネシアで地震がある
と、日本も壊滅状態になったと考えるアメリカ人も少なくありません。それと同じことです」と説明
したが、やはり納得しなかった。アジア全域を含めても、アメリカ大陸より小さい。

愉快だった(失礼!)だったのは、たまたまその母親はブルースウィルスの「ダイハード」という
映画を見たらしい。その映画を例にとって、「アメリカは恐ろしい国ですから」と。(もしそんな心
配をするなら、ビートたけしの「バトルロワイヤル」を見て、「これが日本の中学校だ」と思うよう
なものだが……。)ともかくも、心配する人は、そこまで心配する。

 そこで格言。「案ずるより産むがやすし」。ここでいう意味とは少しはずれるかもしれないの
で、この格言を少し言いかえるとこうなる。「案ずるより任すがやすし」と。子どもというのは、親
の心配の外で成長するもの。心配したからといってどうにもならない。心配しないからといって、
どうにかなるものでもない。子育てにはこうした心配はつきもの。

そういう意味で、子育てというのはいつも自分との戦い。自分が心配だからといって、その心配
を子どもにぶつけてはいけない。ぶつけるというのは、それはもう親のエゴでしかない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●威圧で閉じる子どもの耳

叱られじょうずな子どもがいる。親や先生が叱るときだけ、いかにも反省していますというような
態度を示す。元気なさそうに頭をうなだれたりする。

しかしそういう様子にだまされてはいけない。「だます」という言い方には少し語弊があるかもし
れないが、子どもの心というのは、もっと別の角度からみる。あるいは子どもを叱るというの
は、もっと別のことと考える。

 子どもの叱り方は、子育ての要(かなめ)。叱り方ひとつで、伸びる子どもも伸びなくなってし
まう。あるいは反対に子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。そこでその叱り方。たとえば
「威圧で閉じる子どもの耳」と覚えておく。親が威圧的になればなるほど、子どもの耳は閉じる
ということ。そして一度閉じると、あとはいくら叱っても意味がないということ。

 実際こんな子ども(小五男児)がいた。親に叱られるときは、いつも心の中で「ポケモン言える
かな」を歌っていると。この歌は、ポケモンの名前を連ねただけの意味のない歌だが、意味が
ないだけにそういうときに役にたつらしい? 子どもを叱るときには、つぎのようなことに注意す
るとよい。

(1)視線を子どもの目線の高さまで落とす。
(2)子どもの体を両手で固定し、視線をしっかりと子どもの視線にあわせる。
(3)何度も大切なことだけを繰り返し、怒鳴ったり暴力を加えてはいけない。
(4)すぐには効果をもとめず、言うだけ言ったらあとは時間がすぎるのを待つ。そしてここが重
要だが、
(5)子どもは決して叱りっぱなしにしてはいけない。子どもが言ったことを守れるようになった
ら、「ほらできるわね」とほめて仕上げる。

 親の威圧が日常的につづくと、子どもは俗にいう「常識ハズレ」になりやすい。自分で静かに
考えて行動するということができなくなるためと考える。友だちの誕生日に、酒粕を包んで送っ
た子ども(小三男児)や、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)などがいた。そういう
ことを平気でするようになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

成績を伸ばす法

●勉強のリズムを大切に
 
 それぞれの子どもには、それぞれのリズムがある。日単位のリズム、週単位のリズム、月単
位のリズムなど。こうしたリズムを大切に育てる。

 たとえば英語の学習。

 こと英語について言えば、毎日、一〇分でよい。たった一〇分でよい。カセットテープを聞い
て、それをノートに書く。これにまさる英語学習の方法はない。

 もちろん毎日、英語で会話するという方法もあるが、しかしそれができる家庭は、少ない。受
験英語となると、今でも、書いて、読んで、文法を……が、主流である。

 しかしこのリズムをつくるのが、たいへん。それは苗木にたとえていうなら、ひ弱で、デリケー
トな観葉植物を育てるようなもの。あるいは、もっと、たいへん。

 こうしたリズムは、つくるのに、半年。しかしこわすのは、数日でできる。そして一度、こわれる
と、二度目がない。同じ方法が、使えなくなるからだ。

●達成感を大切に

 「やりとげた」という達成感が、つぎの学習意欲を引き出す。

 たとえば子どもが、月刊のワークブックを、やりとげたとする。その間、子どもなりに、黙々と
やったとする。

 このとき、親が丸つけをするにしても、だいたいあっていれば、大きな丸をつけて、すます。
「ここが違う」「やり方がおかしい」「まちがっている」と言えば、子どもは、やる気をなくす。

 だいたいにおいて、あのワークブックほど、いいかげんなものはない。長い間、その制作をし
てきた「私」が、そう言うのだから、まちがいない。

 もちろん、基本的にやり方がまちがっているところについては、なおさなければならない。しか
しそれ以外は、丸をつけて、終わる。このいいかげんさが、子どもを伸ばす。

 発達心理学の世界では、この達成感を、「自己効力感」という。また大脳生理学の分野でも、
こうした達成感を味わうと、脳内で、モルヒネ様の物質が放出され、陶酔感を生み出すというこ
とまでわかっている。

 たかが「達成感」と、安易に考えてはいけない。この達成感こそが、すべて。ほかに子ども
が、はじめて文字を書いたようなときも、その字をほめる。かろうじてでも、読めればそれでよし
とする。このおおらかさが、子どもを伸ばす。

●夢を育てる

 夢のある子どもと、そうでない子どもとでは、学習への取り組み方がちがう。夢のある子ども
は、何をしても、積極的になる。もちろん自分の興味のある分野には、積極的になる。

 その夢を育てるのは、親の役目。たとえ親からみて、つまらない夢でも、それを励まし、伸ば
す。

 大切なのは、その「容器」をつくること。

 夢の内容そのものは、年齢とともに、変わる。変わって当然。たとえば幼児期は、「お花屋さ
んになりたい」と言っていた子どもでも、中学生になると、「砂漠に、木を植えたい」と言うように
なるかもしれない。さらに大学へ入るころには、海外でボランティア活動をしたいと言うようにな
るかもしれない。

 しかしそのとき大切なことは、夢に向って努力するという「容器」。この容器をしっかりと育て
る。その容器の中に、何を入れるかは、子ども自身が決める。親ではない。

 が、親は、その容器そのものを、つぶしてしまう。

 よく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、夢ではない。昔は、エリート意識と
いうものがあった。学歴社会もあった。しかし、今は、そういう時代ではないし、そういうもので
は、子どもを、ひっぱっていくことはできない。

 わかりやすく言えば、「勉強しなさい!」と子どもに命令することは、容器を育てることでも、夢
を育てることでもない。むしろ、その容器や夢を、こなごなに破壊する。

 この浜松市内に、静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校がある。その高校でも、上位
一〇%前後の子どもは、本当に頭がよい(?)。しかしそういう子どもたちが、夢をもって勉強し
ているかといえば、それは疑わしい。

 ただ勉強しているだけ? よい成績をとるのが、趣味のようになっているだけ? 勉強しかし
ない。勉強しかできない。そんな子どもたちが、多い。親にしてみれば、夢のような子ども(?)
かもしれないが、本当に、そういう子どもが、よい子どもなのかということになると、ただただ疑
問。あるいは、そういう子ども自身は、どうなのかという問題もある。

 私は、一〇年ほど前までは、高校三年生まで教えていた。しかし正直に告白するが、どこか
ヘンな子どもほど、スイスイと、一流大学の一流学部へ進学していった。

 一方、「この子どもはすばらしい」と思った子どもほど、進学競争になじまず、その途中で挫折
していった。

 そして今。日本の社会は、どこかおかしい。おかしくなってしまった。その原因のほとんどは、
こうしたいびつな学歴社会にあることは、もう疑いようがない。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、親は、すかさず、こう言う。「すてきね。今度、い
っしょに球根を育ててみましょうね」と。あるいは図書館へ行き、植物の図鑑をながめるのもよ
い。散歩をしながら、花や草を見るのもよい。そういう姿勢の中から、ここでいう「容器」が育
つ。

●親が伸びる

 子どもを伸ばす最大の秘訣は、親自身が、伸びてみせる。

 いつも新しいことにチャレンジし、その道を開拓していく。そういう緊張感(ダイナミズム)が、
子どもを伸ばす。

 親が生き生きしていると、子どもも生き生きしてくる。反対に、親が沈んでいると、子どもも沈
んでくる。これは教育の世界の、常識。ウソだと思うなら、あなたの近くにいる親子を、観察して
みればよい。

 生き生きとしている親の子どもは、生き生きとしている。そうでない親の子どもは、そうでな。

 ただし親が伸びるといっても、親は、子どもとは関係のない世界で、外に向ってのびること。
子どもに向かえば、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことにもなりかねない。

 学校での行事に、積極的に参加する。子どもの学習に、かかりきりになる。父母会のリーダ
ーになるなど。それ自体は、悪いことではないが、子どもを意識すればするほど、それはその
まま過関心になり、過干渉になる。……なりやすい。

 子育ては、重労働だし、決していいかげんな気持ちではできない。しかし心のどこかで、「私
は、私。あなたはあなた」という一線を引く。引きながら、「私には私の夢がある」と、子どもを突
き放す。子どもは、そういう親の生きザマを見ながら、自分で伸びることを学習する。

 「あなたが生きがいよ」「あなたが一流大学へ入ってくれるのが、私の夢なのよ」「出世して、
お母さんを喜ばせてね」などとは、決して口にしてはいけない。それが子どもにとっては、いか
に苦痛に満ちた言葉であるかは、反対の立場で考えてみれば、あなたにも、わかるはず。

●先生をほめる

子どもの前で、先生の批判、悪口は、タブー。学校の批判や、教育の批判も、タブー。子どもの
前では、「先生はすてき」「学校はすばらしい」とだけを言う。またそれを口グセにする。

子どもが、先生の悪口を言ったときは、「あなたが悪いからでしょ」と、はねのける。決して相づ
ちを打ってはいけない。

もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもの耳に入らないところで、処
理する。

 子どもの学習を伸ばそうとしたら、先生と子どもの相性をよくする。先生とて、生身の人間で
ある。決して聖人でも、神様でもない。親の熱い思いが伝わったとき、先生のやる気は何倍も
大きくなる。そうでないときは、そうでない。

 親が家の中で言っていることは、どんな形であれ、必ず、学校(幼稚園)の先生に伝わる。も
しあなたが悪口を言っていれば、それも伝わる。そういう意味で、子どもは、隠しごとができな
い。先生も、そんなことを聞き出すのは、朝飯前。

 人間の心というのは、カガミのようなもの。あなたが先生を、よい先生と思っていると、先生
も、あなたのことを、よい親と思う。そういう相乗効果が、子どもの学習環境をよくする。

●あきらめる

 子育ての真髄は、「あきらめる」。

 子どもというのは、不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの
子はやればできるはず」と、がんばればがんばるほど、伸び悩む。表情も、暗くなる。

 しかし親が、「うちの子は、こんなもの」「あなたは、あなたなりに、よくやっている」とあきらめ
たとたん、そのあとしばらく時間をおいて、子どもは、伸び始める。表情も明るくなる。

 とくに子どもの学習では、あきらめることを恐れてはいけない。『あきらめは、悟りの境地』とも
いう。

 これは私が考えた格言だが、親もやりつくし、行きつくところまでいくと、こういう境地に達す
る。しかし賢明な親は、その前に気づく。

 それは実に、おおらかな世界。広く、ゆったりとした世界。とたん、「子育てが、こんな楽なも
のだったとは知らなかった」となる。

 もしあなたが今、子どもの横にすわっていて、イライラしたり、子育てが苦痛だと思っているな
ら、その原因は、あなた自身の中にある。ひょっとしたら、あなた自身が、学歴信仰というカルト
の、信奉者かもしれない。

もしそうなら、できるだけはやく、そういうカルトとは決別する。へたをすれば、親子関係そのも
のを破壊してしまうかもしれない。もしそうなれば、それこそ、大失敗というもの。あなたは、あ
なたの人生そのものを、ムダにすることになる。
(031029)


    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

ミニモニ

 「アイボン、ノノ、アイチャン、ミカのうち、どの子が好き?」と聞くと、とたん、子どもたちは、目
を輝かせる。そこで私は、おもむろに、こう言う。「やっぱり、アイボンが、いちばん、かわいい
ね」と。

 実のところ、私は、ミニモニで、どの子が何という名前か。知らない。ハッタリである。しかし子
どもの世界に入るのには、これにまさる方法はない。

 あれこれ話していると、やがて子どもたちは、興奮状態になる。ただ男子だけは、シラーッと
しらけた様子で、「先生が、ミニモニを見てるなんて!」と言う。明らかに軽蔑(けいべつ)のマナ
コである。

 ところで、何かの会議で、藤井F氏と同席したことがある。その会議室を出たときのこと。若い
女性たちが出口のところに、ズラリと並んでいて、私たちを見ると、一斉に、キャーッと声をあ
げた。

 「まさか!」と思ったが、視線は、すべてとなりの藤井氏に注がれていた。私は改めて藤井氏
を見て、「この男は、いったい、何ものか」と思った。人気というのは、そういうものらしい。

 言うまでもなく、藤井F氏というのは、元チェッカーズのメンバーで、今も、アーティストとして、
活躍している。

 しかし考えてみれば、人気などというものは、まさにバーチャル(仮想現実)なもの。私がそれ
を実感したのは、あの「たまごっち」のときだった。ありもしない生き物のために、子どもたちは
成長したと言っては、喜び、死んだと言っては、泣いた。

 東京には、その死んだたまごっちのために、供養する、寺まで現れた。ウソや冗談ではな
い。本気だった。

 ミニモニにせよ、藤井氏にせよ、そのたまごっちと、どこがどう違うというのか。いや、決して
つまらないとか、そういうふうに言っているのではない。ひょっとしたら、今、私たちがここに生き
ていること自体、バーチャルなものかもしれない。

 今日も、幼児たちをながめながら、「この子どもたちは、どこからきたのだろう」と思った。ほ
んの一〇年前には、姿さえなかった人間たちである。

 一方、同時に、私が子どものころいたおとなたちを、思いやる。もちろんそのほとんどは、もう
亡くなっている。姿さえない。「あの人たちは、どこへ行ったのだろう」と思った。

 そして生きている人間どうしが、それぞれのつながりを求めて、無数のドラマを展開する。そ
してその一部が、相乗効果を起こし、ここでいう「人気」になったりする。

 一人の女の子が、おもしろいことを言った。小学六年生の女の子だ。

 「Nちゃんが、ミニモニをやめたんだってエ。理由は、『あんな若い連中といっしょにしていた
ら、体力がつづかない』だってエ」と。

 そのNちゃんにしても、まだ小学生ではなかったのか。その小学生が、さらに年齢の若い(小
さい)連中と、いっしょには、活動できないと言ったらしい。私は、この話を聞いて、思わず、笑
ってしまった。

 わかりやすく言えば、小学校の高学年児が、低学年児には、ついていけないとこぼしたという
のだ。(この話は伝聞なので、不正確かもしれない。)よく四〇歳近くなったプロ野球の選手が、
「若い人にはついていけない」と言って、引退することはある。そういう話なら、わかる。

 しかし……?

 この世界には、いろいろあるようだ。かく言う私も、あと二〇年もすれば、(あるいは三〇年
か? それとも明日か?)、この世界から、消えていなくなる。そこに生きることの不思議さとい
うか、深遠さがある。「あれもつまらない」「これもつまらない」と言っていたら、生きていることさ
え、つまらなくなってしまう。

 子どもたちと、ミニモニの話で、ワイワイ騒いでいるときが、人生の華(はな)!

「やっぱり、ノノのほうが、かわいいよ」
「アイチャンは、かわいくないね」
「かっこいいのは、アイボンだ」と。

 ついでに、私は、子どもたちに、踊り方や振りつけのしかたも、習った。それをみながわらっ
た。男子たちは、ますますしらけて、私に向って、「お前、アホか」というような顔をした。私に
は、それが楽しかった。
(031029)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●障害児教育について

福井県のKJ氏(男性、教員)から、メールをもらった。その中で、「知的障害児教育」につい
て、どう考えるかという、質問をもらった。ここでは、それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++

 はやし様のコラム、楽しく、大変ためになりました。
特に「許して忘れる」は読後、妻が泣いていました。

 「乱舞するイメージ」の中で
三十年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、
ここ十年、急速にふえた。小一児で、十人に二人はいる。今、
学級崩壊が問題になっている。実際このタイプの子どもが、
一クラスに数人もいると、それだけで学級運営はなりたたな
くなる。
とありましたが、その通りかなと思いました。ところで、以下の問題
について、「今後,大変だね」と言う声を聞いています。

 特殊学級に在籍している生徒児童は、生活の場を一般学級で行う。
在籍も普通学級とする。困難な教科学習のみ通級で特別支援学級で個
別指導を行う。財政的な支援が無く、重度の知的障害者やLD・LD
HDの生徒も健常児と同じように生活することはかなり危険かと思い
ます。(以前、知的障害児の通う学級の仲間から50万円をおごらされた。
他の学級ではストレスのはけ口として知的障害児にプロレス技をかける。)

 また、聾・盲・養護学校も一本化するようですが、聾唖者が1人で
在籍する場合、手話でのコミニュケーションは不可能になります。

はやし様はどのよなお考えでしょうか?
今度のコラム等でお考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

++++++++++++++

【KJ様へ(1)】

 欧米では、身体障害児については、いっさい差別しない。知的障害児については、軽度のば
あいは、落第。重度のばあいは、特別クラスで、という方式が、定着しているようです。

 ただここで「落第」と書きましたが、アメリカなどでは、日本でいう、「学年」がなく、その言葉か
ら受ける印象は、まったく違うようです。たとえばクラス名は、日本のように、「三年二組」という
のではなく、「MORGAN's Class」とか、など。

 また中学でも、単位制を導入しているところが多く、数学にしても、「中学三年間で……」とい
う考え方をしています。だから親にしても、「落第(ドロップ・アウト)」を、日本より、はるかに気
楽に受け入れているように思います。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞掲載済み)です。

+++++++++++++++

●学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。

あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケ
ースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「そのほうが、子どもの
ためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。

先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、
なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。

その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を
見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。
「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカでは
どうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれている
のか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。

++++++++++++++++

【KJ様へ(2)】

 障害児教育の背景には、親たちの意識の問題があります。「落第を喜ぶ、アメリカの親たち」
と、「養護学級をいやがる、日本の親たち」の違いは、そこから生まれます。

 私はやはり、こうした意識の違いを、克服することが、先決かと思います。なぜアメリカではそ
うなのか……? 一方、日本では、そうなのか……?、と。

 なお、アメリカでは、フリースクール(ホームスクール)制度が発達していて、教育そのものに
対する考え方も、大きく違うようです。私の二男の嫁の母親が、その指導員(派遣教員)を、州
政府から依頼されて、現在しています。

 それについて書いたのが、つぎの原稿です。この原稿は、私の本の中で発表したものです。
当初、中日新聞のほうで発表してもらうつもりでいたのですが、編集部のほうで、ボツにされま
した。なぜ、ボツになったか? KJ様なら、その理由がおわかりになると思います。

+++++++++++++++++

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから
電話がかかってきます」と。

(4)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!
 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。

+++++++++++++++++++

 ついでに、「常識」について書いた原稿を
一作、添付します。

 この原稿(中日新聞掲載済み)は、結構、
反響の大きかった原稿で、そのあと、いろ
いろな意見をもらいました。

 話を先に進める前に、読んでいただけれ
ばと思います。一部、先の原稿と内容がダ
ブりますが、お許しください。

++++++++++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任があ
る」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危
害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り
出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく
質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
 
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

++++++++++++++++++++++

【KJ様へ(3)】

 その国の文化の高さは、いかに弱者にやさしい社会かで、決まります。決して、弱肉強食的
な社会を正当化してはいけません。

 身体障害児にせよ、知的障害児にせよ、まさにその社会的弱者です。そういう子どもたちを、
いかに保護し、指導し、援助し、励まし、育てていくかで、教育の高さが決まります。

が、日本では、おかしなことに、「何人、有名大学へ送り込んだか」で、教育の高さ(?)が決ま
ります。夏目漱石の『坊ちゃん』の中にも、進学率が高くなったことを、「実績」という言葉で、表
現しているところがあります。「我が校の実績も……!」と、です。

 日本には、古来より身分制度があり、その身分制度が、明治時代になって、学歴社会に置き
かわったといういきさつがあります。今に見る、学校神話、学歴制度、さらにはそれを支える受
験競争は、そういう流れの中から生まれたものです。

 こうした日本人がもつ意識を変えていくのは、容易なことではありません。ここにあげた私の
エッセーは、それについて、書いたものです。

 ご指摘のように、こうした弱者に対する教育予算を、削減したり、カットしたりするようなこと
は、断じて、あってはならないことです。むしろ、逆なのです。健常児の数倍の手間ヒマがかか
るのなら、それ以上の予算を、つけるべきなのです。

 が、ご存知のように、日本のその層の役人というのは、いわゆる受験勉強をやりぬいてき
た、エリートばかりです。そもそも弱者に対する、理解が足りません。足りないというより、脳ミソ
の中でも、そういう部分が欠けた人間ばかりです。だから平気で、予算の削減をする……?

 たとえば知的障害児は、算数についても、独特の考え方をするのがわかっています。「5引く
3」でも、「引く」という概念を、健常児とはちがった捕らえ方をします。足し算はできても、引き算
ができないケースも珍しくありません。

 こうした「独特の考え方」をすることについて、いったい、どれだけの学者が、理解を示し、体
系化しているでしょうか。現実は、ゼロです。つまりそういった子どもたちは、社会から切り捨て
られたままになっています。「どうせ、教えてもムダ」「できなくてもいい」という、強者に身勝手な
論理ばかりが、先行しています。

 LD児も含めて、知的障害児の指導は、たいへんです。どうたいへんかは、KJ様が、すでに
ご経験の通りです。それこそ、マンツーマンの指導になってしまいます。だったら、マンツーマン
の指導ができるように、する。それが教育なのです。

 みんなで、力をあわせて、弱者にやさしい社会をつくろうではありませんか。子どもたちにして
も、学校の先生が、いかに弱者に暖かいかを見ながら、そのふところの深さを知ります。そして
それが回りまわって、文化の高さへとつながっていくのです。

 息子の一人は、今、知的障害者たちが集まっている会社(授産所)で、指導員として働いてい
ます。その息子が、こう言いました。「みんな、仕事ができるというだけで、喜んでいるんだよ。
毎朝、ニコニコ笑いながら、会社に来るんだよ」と。

 学校だって、そうです。そういった障害をもった子どもが、ニコニコ笑って来るようになって、
はじめて学校なのです。そういう教育を、目ざそうではありませんか。

 私も一時期、進学塾(高校生対象)の講師として、仕事をしたことがあります。しかしその時期
は、自分の生涯で、もっとも、不愉快な時期でした。結果としてみても、何も残っていません。教
育論、一つ、書けなかった。そういう時期です。

 (よく、「こうすれば学力は伸びる、有名大学、攻略法」などという本を書く、進学塾の講師が
いますね。私はああいう人は、本物のバカだと思っています。私だって、書けといわれれば、あ
んな本なら、数日で書けます。しかしそれをしたら、私は、おしまい。)

 日本の教育は、たしかに、おかしい。みんなが、そのおかしさに気づいたとき、日本の教育は
よくなります。子育てのし方も、変わります。がんばりましょう!
(031030)

++++++++++++++++

【付録】

 KJ様からいただいた、資料を、ここにそのまま添付します。

+++++++++++++++++ 

 特殊学級に在籍している生徒児童は、生活の場を一般学級で行う。
在籍も普通学級とする。困難な教科学習のみ通級で特別支援学級で個
別指導を行う。財政的な支援が無く、重度の知的障害者やLD・LD
HDの生徒も健常児と同じように生活することはかなり危険かと思い
ます。(以前、知的障害児の通う学級の仲間から50万円をおごらされた。
他の学級ではストレスのはけ口として知的障害児にプロレス技をかける。)

 また、聾・盲・養護学校も一本化するようですが、聾唖者が1人で
在籍する場合、手話でのコミニュケーションは不可能になります。

 はやし様はどのよなお考えでしょうか?
 今度のマガジン等でお考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議の最終報告
(3月28日)

 LD等の子どもを含む通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要
とする子どもには、総合的な支援の中心となる特別支援教育コーディ
ネーターを置くとしていますが、新たな人員増は行わず、学校の校務
に位置づけるに止まりました。

これまで多くの障害児が、同じ障害をもつ仲間や先生と学習や生活を
ともにすることで成長・発達してきた障害児学級をなくすとしている
点です。障害児学級で学ぶ子どもたちを含め、小・中学校で学ぶ障害
のある子どもたちはすべて通常学級籍となり、「障害に配慮した特別
の教科指導」や「障害に起因する困難の改善・克服にむけた自立活
動」のみを「特別支援教室」で受けることになります。
 
+++++++++++++++++++

 「特別支援教育」は、国が財政負担を少しでも軽減しようとするもの
ではないのかということです。子ども一人ひとりに手厚い教育支援を
する障害児教育が、通常教育以上に財政を必要とするのは当然のこと
であるにもかかわらず、「特別支援教育」への推進のうらに、国によ
る財政負担の軽減の意図がかくされているとすると、「特別支援教
育」は、「特殊教育」の現状を悪化させることになってしまうでしょう。

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ミス

 二五年ほど前のことだが、バスの中で、S荘へ行きたいが、どこでおりればよいかと、それを
運転手に聞いていた女性(七五歳くらい)がいた。

 私はその女性に、こう言った。「ああ、そのS荘なら、よく知っています。私の家の近くです。教
えてあげましょう」と。

 その女性は、私に感謝した。そして私といっしょに、バスをおりた。

 しかしS荘はS荘でも、その女性が行こうとしていたS荘は、別のS荘だった。名前が似てい
た。私が思っていたS荘は、老人ホームのS荘。その女性が行こうとしていたS荘は、ホテルの
S荘だった。

 私はその女性と別れてから、それに気づいた。その女性は、たぶん、そのあと、S荘まで、歩
いていったと思う。その距離、約二キロ!

 今でも、その話を思い出すたびに、心が重くなる。そしてそれ以来、私は、他人に親切にする
ことに、慎重になった。

 しかしこうした失敗は、生活に、つきもの。少し内容は違うが、こんなこともあった。

 四年前に、小さなノートパソコンを買った。T社製の小型パソコン(ダイナブックSS)だった。

 が、このパソコン、最初から調子がおかしい。しばらく使っていると、画面上のカーソルが、勝
手に移動してしまう。そこでT社の支店にもっていった。が、いくら調べても、原因がわからな
い。そこで基盤を交換してもらうことにした。

 が、それでなおったわけではない。

 またしばらく使っていると、同じように、おかしくなった。そこで再び、修理に……。あとは、こ
の繰りかえし。四、五回は、修理を繰りかえしただろうか。

 そうして四年。そのうち、私のほうがあきらめてしまい、どうでもよくなってしまった。

 で、最近、そのパソコンを、また使い始めた。が、またまたおかしい。しばらく使っていると、カ
ーソルが勝手に移動してしまう。とくにワープロとして使っているとき、この現象が起こると、ワ
ープロとしては、たいへん使いにくい。

 そこで……。

 私は、ふとしたことから、マウスをほかのマウスに取りかえてみた。とたん、その不調が、なお
ってしまった! 原因は、マウスだった。そのノートパソコン用に、ミニのマウスを買った。その
マウスが故障していた! しかしそれに、だれも気づかなかったとは! 

 私も、そしてT社の技術者も、パソコン本体のほうが、おかしいと思い込んでしまった。しかし
その思い込みが、まちがっていた。それは私が、老人ホームのS荘を、ホテルのS荘と思い込
んでしまったのと、どこか似ている?

 問題は、なぜ、こうした思い込みによるミスが起きるかということ。実は、これは私の年代のも
のにとっては、切実な問題でもある。つまり年齢とともに、この思い込みによるミスが、ふえる
傾向にある。

 原因の一つは、ものを考えるハバが狭くなっていることがある。こんなこともあった。

 オーストラリアに住んでいるB君に、鉄道模型を送っている。毎週、書店で発売になる。それ
を買って、送っている。

 それが先週は、二つ重なってしまった。それでそれぞれに住所を書き、別々に送った。しかし
郵便局から出るとき、こんなことに気づいた。

 何も別々に送らなくても、二つをテープか何かで、一つにまとめて送ればよかった、と。そうす
れば、郵送料も、安くすむ。しかしどうして私は、それに気づかなかったのか?

 頭が悪くなった? それとも、融通がきかなくなった? 私はいつものように、決められた方法
で、その模型を送った……。

 これから先、こういうミスは多くなると思う。それはしかたないとしても、ミスは少なくしたい。そ
のために、私は、どうしたらよいのか。

 そう言えば、毎年、N氏から、盆暮れのつけ届けが送られてくる。しかしこのところ、年によっ
ては、二回とか三回とか、送られてくる。そのつど礼状を出すと、「林さんに送ったのを、つい忘
れてしまって、また送りました」と言う。

 そのN氏は、今年、八四歳。奥さんは、こう言う。「このところ、主人は、物忘れがひどくなった
ようです。林さんにまだ送ってないから、送れと言うのです。それで二回も送ったりしています。
ごめんなさい」と。

 私もそうなるのは、もう時間の問題? そうなりたくはないと思うが、しかし脳の老化だけは、
防ぎようがない。だれしも、年をとる。そして頭の活動がにぶくなる。そしてここに私が書いたよ
うなミスが、多くなる?
(031027)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

デプレッション

 今、ひどく、気分が落ち込んでいる。何もする気が起きない。いつもなら、いろいろ頭の中で、
考えるが、その考えすら、浮かんでこない。はっきり言って、考えるのも、めんどう。

 で、こういうときの気分を、しっかりと書きとめておこう。何かのときに、役に立つかもしれな
い。

 風邪が抜けたあと、体がだるくてしかたない。ビタミン剤や、栄養ドリンクをのんでみたが、ほ
とんど効果がない。いつもなら、気分が多少、ハイになるが、それもない。

 こういうときは、ふとんを頭からかぶって、はやく寝たい。眠くはないが、起きているのが、つ
らい。人とは、会いたくない。こういうのを、回避性障害というのか。人の声さえ、ガンガンと頭
に響く。

 しかしそうばかりは言っておれない。だから、自分でそれをはらいのけながら、起きあがる。
「気はもちよう」と言う。たしかにそうで、「ええい、ままよ」と起きあがると、それなりに気が晴れ
る。しかし頭は重い。から元気というか、長つづきしない。すぐまた、気が滅入ってくる。

 そういう意味では、体力と気力は、関係がある。体力がなくなると、気力もなくなる。今は、そ
の体力がない。こういうときは、無理をしてでも、運動するのがよい。しかしそれを決断するまで
が、たいへん。

 それはたとえて言うなら、満腹の上に、うな丼を三食つづけて食べるようなもの。また「うな丼
を食べろ」と言われたら、どうしたらよいのだ。今は、そんな心境。しかしがんばるしかない。

(その翌日に……)

 ここまで書いたあと、昨夜は、自転車に乗って、運動をした。三〇分ほど、走った。気分が爽
快になったとは、思えないが、まあ、ふつうになった。今は、起きたばかりだというのに、まだ眠
い。あくびが、周期的に、出る。

 そうそう昨夜は、寝る前に、ハーブでつくった精神安定剤(値段が高い割には、効果はな
い?)と、ハンゲシャシン湯を飲んだ。ハンゲシャシン湯は、もともとは、胃の薬だが、精神を安
定させる働きもある。

 こうして原稿を書いていると、そのうち、調子がもどってくると思う。窓の外を見ると、曇り。私
の気持も、曇り。ああ、いやだ!
(031029)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況】

●数字を気にする?

 インターネットは、数字のかたまり? こちらが望まなくても、数字だけは、向こうから、どんど
んとやってくる。

 Rサイトに、簡単なホームページを開いた。コマーシャルが入るということで、このサイトは、
無料。しかしそのつど、メールが届く。

 「100番目の方から、アクセスがありました」
 「日記記入率は、○○%になりました」
 「今週は、○○人の方から、アクセスがありました」と。

 しかし気になる数字もある。たとえば、マガジンの読者の数。しかしこうした数字は、一度、と
らわれると、気になって、しかたない。それだけではない。何かしら、その数字のためにマガジ
ンを発行しているような気分になる。読者の数がふえても、そして減っても、「どうして?」と、心
のどこかで考えるようになる。

 これは実に、不愉快な気分だ。

 そこで私は、決めた。

 もうすぐ、Eマガの読者の数が、1000人になる。1000人になったら、もうマガジンの読者の
数のことは、忘れよう。1000人でも、2000人でも、私には、関係のないこと。読んでくれる人
がいて、そういう人たちの役に立てれば、それでよいこと。だいていにおいて、1000人とか、2
000人か言われても、その実感が、まったくない。

 一度、読者の数が、300人前後になったとき、Eマガ社に、「本当に300人もいるのです
か?」と問いあわせたことがある。そのとき、私は「本当です」という、回答をもらった。だからこ
うした数字は、本当らしい。

 それはそれとして、実のところ、うれしい。読者の数がふえるということは、大きな励みにな
る。しかしそれで喜ぶことの、こわさも、私は知っている。喜べば喜ぶほど、今度は、読者の数
が減ったとき、がっかりする。だから結局は、いつも平常心でいるほうがよい。ぬか喜びするの
も、がっかりするのも、心の健康には、よくない。

 その1000人まで、あと75人。この世界では、よく「マガジンも、読者が1000人になって、一
人前」と言われる。雑誌などにも、そう書いてある。私のマガジンも、やっと、その一人前にな
る。そのあとのことは、わからないが、ともかくも、こうして今まで、マガジンを読んでくださった
かたには、心から、感謝したい。みなさんが、読んでくださったおかげで、今日まで、私もがん
ばることができた。

 ありがとうございます!

【追記】

 ここ一年ほど、韓国の「朝鮮日報」が発行する、インターネットNEWSを、毎日のように読ん
でいる。

 その「朝鮮日報」の経済欄は、いつも、数字ばかり。「S社の液晶市場が、アメリカで、1位に
なった」「○○産業は、中国に敗れて、2位になった」と。

 こうして朝鮮日報を読んでいると、「韓国の人たちは、順位が気になってしかたないのだな」と
思ってしまう。しかしそれは、一〇年前、二〇年前の、日本の姿、そのものと言ってもよい。

 つまりこうしたものの考え方や、発想そのものが、受験競争の申し子(=特定の背景から生
まれた子)と言ってもよい。韓国の受験競争のはげしさは、日本の比ではない。まさに狂ってい
る。こうした経済記事を書く記者は、まさに、受験競争を勝ち抜いて、そういう記者になったの
だろう。

 私には、それがよくわかるが、恐らく、本人自身は、それに気づいていないと思う。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
詳しい講演日時は、
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■幼稚園の問題A

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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

案ずるより産むがやすし

 心配性の親というのは、たしかにいる。しかし「心配性」というのは、不安神経症のことか。さ
らにはうつ病の「不安発作」ということも考えられる。感情のコントロールができなければ、感情
障害ということにもなる。

このタイプの親は頭の中でつぎつぎと不安のタネをつくり、そしてそれを限りなく増大させる。
「被害妄想」という言葉があるが、まさにその妄想のウズに巻き込まれてしまう。

 あるとき一人の母親が私のところへ来て、こう相談した。何でも幼稚園の下の階が、炊事室
になっているという。その母親の子どもの教室がその真上にあって、「火事にでもなったら、た
いへん」と。その幼稚園には避難用として一応、大きなスベリ台が二階から地上へとつながっ
ているが、「それでは不安だ」とも。

私が「幼稚園は一応どこも、消防署の検査を受けているはずです」と言ったが、それでも納得
しなかった。「地震のときはどうなのか」とか「子どもがスベリ台をこわがったらどうするのか」
と。こんな母親もいた。

 息子がアメリカへ一年間留学することになったという。それについて、「心配で夜も眠られな
い」と。その母親はアメリカで何か事件が起きると、すべてアメリカ中で同じような事件が起きて
いると思ってしまうらしい。

そこで私が「テキサス州といっても、日本の二倍の広さがあります」「インドネシアで地震がある
と、日本も壊滅状態になったと考えるアメリカ人も少なくありません。それと同じことです」と説明
したが、やはり納得しなかった。アジア全域を含めても、アメリカ大陸より小さい。

愉快だった(失礼!)だったのは、たまたまその母親はブルースウィルスの「ダイハード」という
映画を見たらしい。その映画を例にとって、「アメリカは恐ろしい国ですから」と。(もしそんな心
配をするなら、ビートたけしの「バトルロワイヤル」を見て、「これが日本の中学校だ」と思うよう
なものだが……。)ともかくも、心配する人は、そこまで心配する。

 そこで格言。「案ずるより産むがやすし」。ここでいう意味とは少しはずれるかもしれないの
で、この格言を少し言いかえるとこうなる。「案ずるより任すがやすし」と。子どもというのは、親
の心配の外で成長するもの。心配したからといってどうにもならない。心配しないからといって、
どうにかなるものでもない。子育てにはこうした心配はつきもの。

そういう意味で、子育てというのはいつも自分との戦い。自分が心配だからといって、その心配
を子どもにぶつけてはいけない。ぶつけるというのは、それはもう親のエゴでしかない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

威圧で閉じる子どもの耳

叱られじょうずな子どもがいる。親や先生が叱るときだけ、いかにも反省していますというような
態度を示す。元気なさそうに頭をうなだれたりする。

しかしそういう様子にだまされてはいけない。「だます」という言い方には少し語弊があるかもし
れないが、子どもの心というのは、もっと別の角度からみる。あるいは子どもを叱るというの
は、もっと別のことと考える。

 子どもの叱り方は、子育ての要(かなめ)。叱り方ひとつで、伸びる子どもも伸びなくなってし
まう。あるいは反対に子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。そこでその叱り方。たとえば
「威圧で閉じる子どもの耳」と覚えておく。親が威圧的になればなるほど、子どもの耳は閉じる
ということ。そして一度閉じると、あとはいくら叱っても意味がないということ。

 実際こんな子ども(小五男児)がいた。親に叱られるときは、いつも心の中で「ポケモン言える
かな」を歌っていると。この歌は、ポケモンの名前を連ねただけの意味のない歌だが、意味が
ないだけにそういうときに役にたつらしい? 子どもを叱るときには、つぎのようなことに注意す
るとよい。

(1)視線を子どもの目線の高さまで落とす。
(2)子どもの体を両手で固定し、視線をしっかりと子どもの視線にあわせる。
(3)何度も大切なことだけを繰り返し、怒鳴ったり暴力を加えてはいけない。
(4)すぐには効果をもとめず、言うだけ言ったらあとは時間がすぎるのを待つ。そしてここが重
要だが、
(5)子どもは決して叱りっぱなしにしてはいけない。子どもが言ったことを守れるようになった
ら、「ほらできるわね」とほめて仕上げる。

 親の威圧が日常的につづくと、子どもは俗にいう「常識ハズレ」になりやすい。自分で静かに
考えて行動するということができなくなるためと考える。友だちの誕生日に、酒粕を包んで送っ
た子ども(小三男児)や、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)などがいた。そういう
ことを平気でするようになる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではない。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決まる。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこともなけ
れば、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向きに生き生き
と、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心の貧しい
人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることもある。しかしお金
で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちになりた
い」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとしても、それ
はあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あるいは
何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生きようと思え
ば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思えば思うほど、障害も大き
くなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、結果と
して生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうことだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼は父
親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいるとするな
ら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村長も、助
役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情報通。もし彼を
敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開いたら
……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職した
あとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用して、中国の物
産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、できない」と。(商売
することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福になろうとし
ている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、向こうからやってくる
ものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こうからやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはいけないの
は、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないということ。あなたの
すぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待っている。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著名な
タレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れることは、ない。豊か
さというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きとは、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されないように
すること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思う人も、
いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なりに、結論らしきもの
を出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先まで、現代社会がもつ矛
盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●幼稚園

 「幼児教育」というと、「幼稚教育」と考えている人は、多い。実は、幼稚園や保育園の現場に
いる先生の中にも、そう考えている人が多い。「幼児教育なんて、だれにでもできる」と。

 しかしこれは、まちがい。大きな、まちがい。

 幼児教育は、大学教育より、奥が深い。それに重要。決して、安易に考えてはいけない。つ
まり、それなりの覚悟と、専門知識が必要である。

 昨日、兵庫県に住んでいるSNさん(母親)から、こんなメールをもらった。

++++++++++++++++

今年の春、A幼稚園から、今のB幼稚園に移りました。
現在、うちの子は、年中児です。

そのB幼稚園の先生から、毎日のように電話がかかってきました。

「お宅の子は、静かに座って、私(=先生)の話が聞けない。家でもしっかりと、しつけてほしい」
と、です。

うちの子が左利きであることについても、「親のあなたが、だらしないから、こうなった」と言われ
ました。

その先生は、年齢は、三八歳。独身です。「私は幼稚園と結婚した」を、口グセにしているよう
な先生です。

前のA幼稚園では、そんなことはなかったので、困っています。

で、子どもに話を聞くと、「となりの子どもが、スプーンを落としたので、拾ってあげた。それを見
ていて、先生が、『どうしてちゃんと座っていられないの!』と、ぼくを叱った」と、言います。子ど
もの言い分を、先生が、まったく聞いていないような気がします。

夏休みが終わってから、うちの子が幼稚園へ行くのをいやがるようになりました。
理由を聞くと、「給食を食べるのがいやだ」と。

そこで先生に相談すると、「お宅の子は、給食をいつまでもノロノロと食べています。それで全
部、食べ終わるまで、ひとりで食べさせています」とのこと。

先生は、「本人のため」ということを、さかんに言いますが、うちでは、好き嫌いもなく、ふつうに
食事をしています。

で、ときどき休むようになったのですが、その先生から、多いときで、一日に、三回ほど、電話
がかかってきます。

「こんなことでは、小学校へ入ってから不登校児になる」と、です。「落ちこぼれになってしまう」
「ダメ人間になってしまう」「このままでは、みんなから、おくれてしまう」と、おどされたこともあり
ます。

で、最近、こんなことがありました。

となりの席の子どもの誕生日プレゼントにと、うちの子が、コンビニで買った小さな人形を、紙
に包んで幼稚園へもっていきました。手紙も添えました。しかしそれを先生が目ざとく見つけ
て、取りあげてしまったのです。

うちの子が泣きながら、「返してほしい」と訴えると、「あんたは、この幼稚園の規則を知らない
の。おもちゃは、もってきてはダメということになっているのよ」と。私にも、「ちゃんと、幼稚園の
規則を守らせてほしい」というような電話が、かかってきました。

幼稚園の先生は、「このままでは、不登校児になる」と、さかんに言っていますが、そうなったと
しても、その原因は、その先生自身にあるような気がします。

また、私が、C幼稚園へ、幼稚園をかえたいと話しているのを、ほかの親から聞いたらしく、「C
幼稚園へは、入園できないようにしてやる。幼稚園協会のほうで、そういう勝手なことは、でき
ないしくみになっている」と、その親に言ったそうです。

園長にも相談しようと思ったのですが、園長は、ほとんど幼稚園にはいません。幼稚園にいる
時間より、銀行にいる時間のほうが、長いとうわさされるような人です。経営第一主義で、いつ
もスリーピースのスーツを着ています。

こういうときは、どうしたらいいでしょうか。このところ、夜も眠られない状態がつづいています。
何か、いいアドバイスをよろしくお願いします。

++++++++++++++++

 いまどき、こういう幼稚園教師がいること自体、驚きである。頭の中に、「幼稚園児はこうある
べきだ」という設計図をもっている。そしてその設計図に、幼児を、無理に、当てはめようとす
る。

 幼稚園とは、行かねばならないところ。
 その幼稚園へ行けない子どもは、落ちこぼれ。
 幼児教育は、小学校へ入学するために、するもの、と。

 実は、幼児教育で、いちばん避けなければならないのは、こういう設計図である。それなりの
学識や経験のある教師が、ハバ広い世界で考えた設計図なら、よい。しかしその学識や知識
もないまま、そして幼児の心理を無視したまま、独断と偏見を、親や子どもに、押しつけてしま
う。

 私が幼児教育の世界に入ったとき、一番、驚いたのは、まさにこの点である。はっきり言え
ば、あまりのレベルの低さに、驚いた!

 「目は、黒ですよ! 髪の毛も、黒ですよ! お顔は、肌色で塗ってね」と教えていた教師が
いた。

 「あの親は、(子どものことで)、私にさんざん、苦労をさせておきながら、盆のつけ届け一つ
よこさない」と、職員室で、大声で怒っていた教師がいた。

 自閉傾向がある子どもを、「根気があるいい子」と、ほめていた教師がいた。

 私に「先生、ハツゴ(発語)障害って、何かねえ?」と、持ち前のダミ声で、質問してきた教師
がいた。その先生は、「ハツゴ」のことを、「初子(=はじめての子ども)」と、誤解していた。

 分離不安で泣き叫ぶ子どもの親に向かって、「親が甘やかして育てると、子どもはそうなる」
と、叱っていた教師がいた。その教師は、園児が一日でも、幼稚園を休むと、「おくれるから、
泣いても、幼稚園でつれてくるように」と、いつも電話ばかりしていた。

 小学校の入試が近づいてきたとき、子どもに「私は合格します」と、何度も、復唱させていた
教師がいた。

 従順で、仮面をかぶったような、おとなしい子どもほど、「できのいい子」とほめていた教師が
いた。

 ガンガンと、低俗な音楽(?)をかけながら、「音楽鑑賞」と、いばっていた教師がいた、など。

 教師だけではない。園長自身も、「?」の人がいた。ある幼稚園の園長は、おかしな宗教を信
じていて、「動物を飼うと、火事になるからダメ」「今年は、東南の方向に住む人から、先生を雇
う」「ハ行で始まる名前の子どもは、できが悪い」などと、平気で口にしていた。

 しかしそれから三五年。本当に幼児教育のレベルは、あがったのか? 改善されたのか? 
教師の質は、向上したのか?

 もちろん研究に熱心な幼稚園や、園長も多い。しかしその一方で、いまだに、このSNさんの
子どもが通っているような幼稚園も、あるには、ある。少なくなったとはいえ、ないわけではな
い。

【SNさんへ……】

 無理をして、同じ幼稚園にいることはありません。そういう幼稚園からは、早く、去ることで
す。

 幼児教育は、その子どもの一生を左右するほど、重要なものです。あなたがひとり、がんば
ったくらいで、その先生の指導方法が変わるとは、思われません。だったら、去ることです。

 とても残念ですが、今、その先生と、あなたの子どもの相性は、最悪の状態と思われます。あ
なたの子どもは、何かを学ぶ前に、あなたの子どもは、学ぶことからさえ、逃げてしまうように
なるかもしれません。そうなれば、それこそ、大失敗というものです。

 私は、幼稚園という場で、かえって伸びる芽をつまれてしまった子どもを、数多く見てきていま
す。ほとんどの親は、「伸びる」ことを考えて幼稚園へ、子どもを送りますが、かえって逆効果に
なる子どもも、いるということです。園や園長の方針が、いくら崇高なものであっても、子どもに
直接影響を与えるのは、現場の先生です。

 ここでいう不登校児にしても、先生が原因と思われるケースも、私は直接、見てきました。ま
た幼児教育をしている先生が、みな、子どもが好きな先生ばかりとは、限りません。よい先生
ばかりとは、限りません。先生自身が、その意識がないまま、子どもを不登校児に追い込んで
いるケースは、いくらでもあります。

 こうしたケースでは、直接、園長に訴えるという方法もありますが、現実問題として、園長の目
は、現場まで届かないのが、ふつうです。

 こういう言い方は、女性のあなたにはたいへん失礼な言い方になるかもしれませんが、そこ
はどうしても、「女の世界」です。一般の世界とは、かなり違った世界だということです。そう言え
ば、わかっていただけると思いますが……。

私も、ちょっとしたことが原因で、実に陰湿きわまりない、いやがらせや、いじめを、同僚の教
師たちから受けたことが、たびたびありました。私という、おとなにならともかく、そうした行為
を、幼稚園児に繰りかえしていた教師もいました。

 幼稚園の教師というと、高邁な人格者を想像しがちですが、中には、そうでない人もいるとい
うことです。残念ですが、率直に言って、これは事実です。

 だったら、サービスの悪いレストランをかえるように、値段の高いデパートをかえるように、幼
稚園も、かえればよいのです。「教育機関」という幻想に、しばられる理由など、どこにもありま
せん。おかしな義理にしばられる必要も、ありません。

 また、幼稚園どうしの連絡網は、ほとんど、ありません。(とくに私立幼稚園どうしの連絡網
は、ありません。うわべはともかくも、幼稚園どうしは、たいへん仲が悪いのがふつうです。)だ
から、そのB幼稚園をやめたからといって、B幼稚園から、つぎのC幼稚園へ連絡が入るという
ことは、ありません。……ありえません。またそのあと、小学校の入学に、何か、さしさわりがあ
るということも、絶対に、ありません。……ありえません。

 いやですね、こういうおどしは……。

 幼児教育は、親がします。親が主体です。この姿勢だけは、しっかりと守ってください。その
上での、幼児教育であり、幼稚園なのです。「家庭で、できないことは、幼稚園でしてもらう。し
かし家庭でできることは、家庭でする」という姿勢です。

 いわんや、SNさんのように、子どもに、マイナスの面が見られるようになったら、無理をして
行かせる理由など、まったくありません。病院へ行って、かえって新しい病気をもらってくるよう
なものです。もっと、親として、主体的に行動してみたら、どうでしょうか。

 この時期の子どもは、まだ、人間関係をうまく調整することはできません。ですから先生と子
どもの相性が悪いと感じたら、思いきって、子どもをその先生から遠ざけます。それは子どもの
心を守るために、むしろ必要な行為と考えてください。

 もちろんだからといって、幼稚園での幼児教育を、否定しているのではありません。ここにも
書いたように、「家庭ではできないこと」、たとえば集団における、集団活動や、社会性などは、
幼稚園という場を通して、子どもは、身につけます。

 しかし本来の役目は、より専門的な幼児教育を実践することです。それについては、私も何
度も書いてきましたので、ここでは省略しますが、中には、そういう意識のない先生も、いると
いうことです。

 あなたには信じられないような話かもしれませんが、一つ、こんな事実を、暴露しましょう。数
年前、その先生はなくなりましたので……。

 私が幼児教育の世界に入ったとき、私は知らなかったのですが、裏で、私を推薦してくれた
女の先生(当時、四五歳くらい)がいました。当時の園長に、「林先生は、いい先生だ」と言って
くれたのです。

 それについては、たいへん感謝していますが、そのあと、何かにつけて、その先生は、私に
恩を売りつけ、金品を、要求してきました。

 私がその先生のうちに、遊び呼ばれたときのことです。「あんたね、だれのおかげで、今、先
生していられると思うの? それなりのちゃんとしたものをもって、礼に来るべきよ」と。

そのときは何だろうと思って、そのまま終わりましたが、あとで別の先生に、「それなりのも
の?」と、聞くと、その先生は、こう教えてくれました。「一〇万円※が、相場でしょうねえ」と。

 そういう世界です。信じられますか? 

 一方、こうした教師の指導に、頭を悩ませている園長(経営者)も、多いです。本当に多いで
す。どこの幼稚園でも、そうではないでしょうか。

 実に不愉快な話をしましたが、一つの参考意見として、このメールを、お考えください。もちろ
ん、そうでない先生も、それ以上にたくさん、います。そうでない幼稚園も、それ以上に、たくさ
ん、あります。そういう先生がいることを信じて、C幼稚園へ移動なさることを、私は、お勧めし
ます。
(031031)

※……この時代、市議会議員などに何か相談するにしても、一〇万円という謝礼が相場でし
た。学校区の変更、転校の手続きなど。同じように、就職の口利き代も、一〇万円というのが、
相場でした。

幼稚園の教師というのは、縁故採用が多かったので、こういう口利きが、日常的になされてい
たようです。たった三五年前ですが、日本はまだ、そういう時代だったのですね。


     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●その後の、孫論

 二男夫婦が、アメリカへもどって、二週間になる。もちろん孫も、もどった。この間、大きな心
境の変化は、ない。どこかほっとしたような気分は、そのままだ。

 しかし今朝、その二男が、子どものころの夢を見た。幼稚園の年長児くらいではなかったか。
心のやさしい子どもだった。幼稚園でも、いつもほかの子どもが乗った三輪車を、うしろから押
していた。

 ある朝、私が、「たまには、だれかに押してもらったら……」と声をかけると、「ぼくは、このほ
うが楽しい……」と。

 こうした生活態度は、高校を卒業するまでつづいた。頼まれれば、いやと言えない性分だっ
た。いつも、何かのことで、他人のために動いていた。内容は、忘れたが、そういうやさしさが、
心に伝わってくるような夢だった。

 さて、孫についてだが、今でも、あまりかわいさが、わからない。世間の人が、「お孫さんは、
かわいいでしょう」と言えば言うほど、「?」と、私は思ってしまう。それには、こんな事件があっ
た。

 孫の誠司を、私の書斎へ連れてきたときのこと。私の書斎は、二階の一部屋にある。そのと
き私は、誠司のために、何かの絵を描いていた。その瞬間、本当に、瞬間だった。ふと横を見
ると、誠司が階段の踊り場のところに立っているではないか。

 私はとっさに飛び跳ねると、誠司に抱きついた。あと数秒、あるいは、ほんの一、二秒、気が
つくのが遅れていたら……。私は、心底、ゾーッとした。本当に、ゾーッとした。
 
 私はそのまま誠司を抱きかかえ、一階の食堂にいた、二男夫婦に、誠司を手渡した。本当
に、間一髪だった。冷や汗をかいた。が、その話は、しなかった。で、そのときから、誠司の世
話をするのが、恐ろしくなった。

 「自分の子どもなら、ここまで神経をつかわないだろう」と、以前、コラムの中で書いたが、そ
のときからは、本当に神経をつかった。今、ほっとしている気持ちは、そういうところから生まれ
ているのかもしれない。

 で、今は、誠司には、あまり会いたいという気持ちはない。どうせ会えないという気持ちも、あ
る。二男は自分から去っていった、恋人のようなものかもしれない。が、さらに分析すると、お
かしな現象が起きているのを知った。

 今、私の教室に、Kさんという母親が、年長児の女の子をつれて、通ってきている。そのKさ
んが、ちょうど同じころ、つまり誠司が生まれたのと同じころ、下の子どもを産んだ。私はいつ
も、そのKさんの下の子を見ながら、「うちの孫も……」と考えていた。

 そのせいかどうかは知らないが、どういうわけか、そのKさんの下の子どものほうが、かわい
く思える。先週も、その下の子をみかけたとき、思わず抱きたくなった。心理学の世界にも、
「転移」※という言葉がある。少し意味が違うかもしれないが、誠司に対する思いが、そのKさ
んの下の子に転移してしまったためかもしれない。

 もっとも、だからといって、誠司に対する愛情がないわけではない。もし、誠司に何かあれ
ば、命をかけて……というほど、大げさではないにしても、それに近い形で、誠司を守るだろう
と思う。そういう意識はある。しかし今の段階では、やはりほっとしている。このまま何ごともな
ければ、何もないままで終わってほしいと願っている。

 しかしやはり、「距離」というのは、恐ろしいものだ。いくらそういう時代ではないといっても、日
本とアメリカでは、遠すぎる。何かあっても、すぐ飛んでいける距離ではない。反対に、飛んでき
てくれる距離でもない。そういう「思い」が、親子の絆(きずな)そのものを、薄くしてしまっている
のかもしれない。

 先日も、ワイフにこう言った。

 「昔は、養子にやると言ったが、二男は、その養子以上に、他人の子どもになったような気分
だ。自分の子であって、もう自分の子ではないような、ほとんど他人に近い他人のようにさえ見
える」と。

 関係だけではない。二男は、私がもっている感情とは、まったく異質の感情も、もち始めてい
る。食べ物の嗜好まで、変わってきている。それに、二男は、クリスチャンになってしまった。私
という人間を理解しようとする前に、私そのものを、否定し始めている。

 何かにつけて、嫁さんの父親(アメリカ人)とくらべて、「パパは、ここがおかしい」「あそこがお
かしい」と言う。私は、日本人だ。アメリカ人ではない。思わず、「そんなにアメリカ人の父親が
いいのなら、向こうの父親を、真の父親と思え」とさえ、言いそうになったこともある。

 ……こうした思いが、複雑に心の中で、ウズを巻く。しかし、そこは、『許して、忘れる』。さっそ
く、今朝、二男のホームページに、書き込みをした。

 「いつでも、また、来たくなったら、日本へ来い。いっしょに、またおいしいものを、食べよう。
奥さんや、誠司に、よろしく」と。

 親として、祖父として、この先、私の心境がどう変化してくか、実のところ、私にも、まったくわ
からない。しかしあとは、自然の成り行きに任せるしかない。飾ることもないし、無理をすること
もない。どこまでいっても、私は私なのだ。

 このつづきは、またいつか……。
(031031)

※転移……幼いころ、いつか、ある特定の人にもっていた感情を、自分を治療する治療者に
向けることを転移という。精神分析の世界では、こうした転移をうまく利用して、患者の内面世
界を外に引き出し、治療にあたるという。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●男は純情

 「男と女は、違う」と、ワイフは言う。「女は、男より、打算的で、ドライ」と。

 私の恩師のT教授の、奥さんは、T教授が五〇歳くらいのときに、なくなっている。それから約
30年。T教授は、八〇歳を過ぎたが、独身のまま。最近になって、T教授は、こうメールで書い
てきた。

 「あの世へ行ったら、死んだワイフに、こう言ってやりますよ。『長い間、待たせたね。ごめん
ね』と」と。

 この話を、私のワイフに言うと、私のワイフは、こう言った。

 「どうして、男って、そうも、オメデタイの?」と。話を聞くと、こう言った。

 「私なら、あの世で、三〇年も待っていないわよ。さっさと、再婚するわよ」と。

 ナルホド!

 そこで私は、こんなエピソードを、ワイフに話した。

 私が高校生のときのこと。街の中を自転車で走っていると、Iさんという女の子が、声をかけて
きた。「電車に乗り遅れるから、駅まで、乗せてってエ!」と。

 Iさんは、同じ、コーラス部の女の子だった。好きではなかったが、好意は感じていた。彼女の
クラスでも、一番人気の美人だった。

 私はIさんを、うしろの荷台に乗せると、そのまま駅まで走った。

 そのときのこと。Iさんが、私の体に手を回した。胸のふくらみも、感じた。私はIさんに、強烈な
「女」を感じた。同時に、私は、Iさんが、私に好意をもっていると、思った。

 しかしそう思ったのは、私だけだった。

 それから一〇年近くしたあと、同窓会でIさんに会った。横にすわってしばらく話してみたが、I
さんは、そのときのことを、まったく覚えていなかった。もちろん私のことも、まったく気にしてい
なかった。

 そのことをワイフに話すと、「女って、そういうものよ」と笑った。

私「しかし、ぼくの体に手を回したよ。それに胸も押しつけてきたよ」
ワ「あんたを、男と意識しなかったからよ」
私「そんなバカな。ぼくは、ムラムラと感じたよ」
ワ「しかし、女は、そういうことでは、感じないわ」
私「男が、チンチンをこすりつけるようなものだよ」
ワ「あら、気持ち悪い。ヘンタイよ。男が、そんなことすれば……」
私「少しは、ぼくに気があったのかもしれない」
ワ「そうじゃないと思うわ。そのIさんね、そういうことが平気でできる、ただの遊び人だったの
よ。きっと……。あんただけではなく、いつも、いろいろな男と、そうしていたのよ。だから、あん
たのこと、忘れたのよ」
私「でも、ぼくには、そうでなかった。ずっとあの日のことを、考えていた」
ワ「だから、男は、純情なのよ」
私「女には、そういうことはないのか?」
ワ「ないでしょうね。もっとも、初恋の人とか、そういう人は別だけど……」と。

 そう言えば、私も、大学時代に好きだった女性を、記憶の中から消すのに、それから一〇年
近くもかかった。今でも、ときどき、夢に出てくる。しかしそう思っているのは、私だけ? その彼
女は、とっくの昔に、私のことを忘れている。少なくとも、ワイフは、そう言う。

 で、T教授への返事には、ワイフの言った言葉は書かなかった。そんなことを書いたら、T教
授は、ショックを受けて、本当に寝込んでしまうかもしれない。だから、こう書いた。

 「先生、きっと奥さんは、あの世でちゃんと待っていてくれますよ。あわてないで、ゆっくり行っ
てくださいよ」と。
(031031)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●性的エネルギー

 フロイトは、人間の生きる力(=リピドー)の原点は、性的エネルギーであると、説いた。(ユン
グは、これを否定したが……。念のため。)

 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を聞いたことがある。

 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それまでのズン
胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、売れ行きが爆発
的に伸び、今のコカコーラになったという。

 同じように、ビデオも、インターネットも、当初、その爆発の原動力となったのは、「スケベ心」
だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、出会い系とか何とか、やはりスケベ
心が原動力になって、普及した?

 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうであって
も、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、基本的には、異
性との関係で生きている。つまりスケベだということ。

 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後世
へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点になってい
る。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はいないし、もしス
ケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。

 問題は、そのスケベの中身。

 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。昔、産
婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。

 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った感情を
もっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、ゾクゾクと感
じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。

 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが女性に求
めるのは、体ではなく、心だ」と。

 その友人には、おかしなことだが、愛人がいた。一説によると、同じドクターの中でも、一番愛
人をもっているのが、産婦人科医だそうだ。で、その友人に言わせると、「体を求めるためでは
なく、心を求めるために、女性と不倫をする」と。私には理解しがたい論理だが、彼は、そう言
った。

 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかもしれな
い。

 が、今度は、反対の立場で、私は、別の友人に、逆のことを言われた。彼は大学の同窓生で
ある。

 「林君は、毎日、若い母親たちと会っている。しかも子どもを介して、かなり近い立場で会って
いる。林君は、女性に対して、ぼくたちとは、違った感情をもっているのではないか」と。

 たしかに、それはある。しかし私は、こう答えた。

 「いつも、おいしそうな料理だけを、見せつけられているようなものだ。見るだけで、食べては
いけない。ただ見るだけだ。だからいつの間にか、感覚がマヒしてしまい、相手を母親と意識し
たとたん、『女』を感じなくなってしまった」と。

 私はいつも、母親たちの前では、「先生」である。ひょっとしたら中には、私を、牧師か僧侶の
ように思っている人もいるかもしれない。そういう視線を、反対の立場で感ずることがある。

 だからいつしか私は、そういう親たちの期待(?)に答えるようになった。しかしこうした仮面
(まさに仮面だが……)をかぶることは、かなり神経をすり減らす。疲れる。ときどき、その重圧
感を、うっとおしく思うこともある。

 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。

 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。私は若
いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気のない世界だ
った。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のかたまりのような人
間だった。

 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えない。そし
てそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東光氏も、昔、
私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連続で、青春時代がな
かったと、こぼしていた。

 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気にした
り、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、それぞれが、つ
ぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、道徳にせよ、あくまで
も、その結果として生まれたに過ぎない。

 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。スケベであることを、恥じることはない。むしろ、誇るべ
きことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当然、スケベである。もしあなたがスケベで
ないなら、心や体が病んでいるか、さもなければ、死んでいるかのどちらかである。

 あとはそのスケベ心を、うまく昇華すればよい!
(031101)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況】

●電子マガジンの解約

 いくつか電子マガジンを購読している。しかしその中には、解約したくても、解約できないもの
がある。

 ふつう電子マガジンには、解約コーナーがある。たとえばE−マガや、メルマガは、マガジン
の末尾に、そういうコーナーをもうけてある。マガジンの購読を解約したい人は、ここをクリック
すればよい。あとは自分のアドレスを、そこに書き込めばよい。

 しかし解約できないマガジンには、それがない。ないばかりか、メールで、何度連絡しても、配
信してくる。Kマガジンという、電子マガジンがそうだった。「育児マガジン」ということで、購読を
始めたが、実際は、育児用品の販売が目的だった。

 それで解約しようとしたのだが、そのつど、IDナンバーとか、パスワードの入力を求めてくる。
しかし、だ。そんなのは、とっくの昔に忘れてしまった! で、しかたないので、そのつど、こまめ
に削除を繰り返していたが、そのうち、腹がたってきた。

 で、最後の手段として、その会社に電話を入れた。(大阪の会社だったから、電話料金だっ
て、高いぞ!)で、やっと、解約に応じてくれた。

 今から思うと、それが手ではなかったかと思う。つまり簡単に解約できないしくみになっていた
のではないか。

 どうか、みなさんも、お気をつけください!


●深夜の物売り

 このところ二晩つづけて、深夜にもの売りがやってくる。隣のT市ナンバーの軽トラックだが、
それが大音響で、こう怒鳴る。

 「焼きイモ〜、焼きイモ〜。一本、三〇〇円だヨ〜ン。ワラビ餅〜、ワラビ餅〜。早く来ない
と、行ちゃうヨ〜」と。

 昨夜もやってきた。時計を見ると、午後一〇時三五分。

 がまんするにも、限度がある。道路に飛び出してみたが、音はすれども、姿が見えない。かな
り遠くの道路にいるらしい。(私は、左の耳の聴力を、完全になくしている。それで音の方向が
よくわからないこともある。)

 で、しかたないので、一一〇番通報。

 すると電話に出た、女性が私の住所を聞いたあと、こう言った。「今、数件、あなたの近所か
ら、同じような苦情が届いています。すぐパトカーを回します」と。

 私だけではなかった……。

 いくら商売でも、これは公害ではないのか。午後一〇時を過ぎれば、もう床についている人
も、多い。で、やっと浜松市でも、条例で、この種のもの売りは、規制されることになった(〇三
年)。「やっと」だ。

 だいたいにおいて、T市ナンバーというのも、気に入らない。地元で商売できないから、この
浜松市へやってきて、商売をする。安眠を妨害する。一度、会社の名前を調べようと思って、
そのトラックを近くで見てみたが、会社名らしきものは、何も書いてなかった。つまりモグリの軽
トラック?

 大切なことは、みなで、こういうもの売りからは、ものを買わないことだ。へたに買ってやり、
「おいしいですね」と、おだてるから、彼らはズに乗る。そして迷惑と感じたら、たとえ一〇時前
でも、警察に通報することだ。地域によっては、条例で規制されている。つまり違法! 犯罪!

 それにしても、このところ、不況のせいもあるのか、この種のもの売りが多くなった。日曜日と
もなると、ひっきりなしに、やってくる。

 竿(さお)売り、オートバイ回収業、ワラビ餅売り、焼きイモ売り、さらにはどこかの宗教団体
の街宣車などなど。彼らも必死なのだろうが、しかしだからといって、他人に迷惑をかけてよい
というわけではない。

 そう、日本人は、昔から、騒音には甘い。本当に甘い。これは狭い国土で、ひしめきあいなが
ら生きてきたせいではないか。そんなことまで、考えてしまう。


●金XX入門

 飛鳥新社から刊行された、「金XX入門」(李友情著)を、読む。以前、飛鳥新社から、何冊
か、本を出してもらったことがある。それで、親しみも、あった。

 コミック形式で書かれているため、読むというより、マンガのように「見る」ことができる。(マン
ガも、「マンガを読む」というように、「読む」という言葉を使うが……。)

 で、結果。私はますます金XXが、嫌いになった。何というか、人間が本来的にもつ、おぞまし
さを、見せつけられたような思いだった。

 しかし、だ。

 その金XXが、私たちと、どこが違うかといえば、どこも違わない? 私やあなただって、金XX
と同じ立場に置かれたら、今の金XXと、同じことをしているかもしれない。そういう意味で、「権
力」というのは、恐ろしい。人間そのものを、狂わす。

 K国の体制に、きわめて批判的な本だから、当然のことながら、そこに書かれている金XX
は、極悪人そのもの。小心者で、独裁意欲が強く、スケベで、わがまま。まさにいいところなし
の男として、描かれている。実際、そのとおりの男なのだろう。ワイフも、数日前に、こう言っ
た。「写真を見ると、ぞっとする」と。金XXは、実に、醜悪な顔をしている!

 で、その「金XX入門」だが、それを読むと、金XXが、政敵をたくみに粛清(殺害)しながら、今
の権力の座についた様子が、よくわかる。いつか金XXは、二〇万人近い人たちを殺している
と言った人がいるが、あながち、まちがってはいないと思う。

金XXは、東洋に生まれた、まさにヒットラー以上の独裁者。そう言い切っても、過言ではない。


●浜名湖・花博 

 2004年の春から、浜名湖の北にある、村櫛(むらくし)地区で、花の博覧会が開かれる。先
日、ワイフと近くまで行ってみた。

 工事は、半分ほど完成したというところか。庭園や会場が、姿を現し始めた。聞くところによ
ると、前売り券も、予定の七〇%以上も売れ、「まずまずの売れ行き」(市の広報部)とのこと。

 その浜松市には、フラワーパークや、フルーツパークなどがある。知らない人も多いかもしれ
ないが、この浜名湖周辺は、全国でも、もっとも、気候が温暖なところ。一年中、緑が青々とし
ているのは、鹿児島県の一部と、この浜名湖周辺だけだそうだ。緑の種類も、豊富。このあた
りを、照葉(しょうよう)樹林帯と呼ぶ学者もいる。このあたりでは、花木の生産もさかんである。

 が、疑問がないわけではない。

 この浜松市は、HONDAやSUZUKIをはじめとして、YAMAHA、ROLANDなどの国際的企
業の本拠地となっている。しかしそれでも不況の嵐を、モロにかぶっている。ほかの地方より
は、まだよい。それでも、大半の一般庶民は、まさに青息吐息。

 どうせ税金を有効に使うなら、もう少し、実利的な博覧会にできなかったものか。

 たとえば、私は、若いころ、園芸にこった。家の隣に、四〇坪の畑もつくったことがある。木も
たくさん、植えた。しかしそれらはどれも、果実のなる木であった。

 ビワ、イチジク、ザクロ、栗、フェイジョア、キーウィ、クルミ、カリンなど。「食糧危機がくる」と
叫ばれていた時期でもある。一本だけ、ヤマモモの木を植えたが、それは、花だけを楽しむ、
「花モモ」と呼ばれる木だった。あとでその木を植えたことを、後悔した。

 一般庶民と、役人の違いと言えば、生活感のある、なしではないか。役人のやることには、そ
の生活感がない。わかりやすく言えば、一般庶民は、生活で四苦八苦しているのに、庭に、実
のならない花ばかり植えている。浜名湖・花博は、その延長線上にある。そんな感じさえする。

 たとえば私なら、先端工業博覧会を開く。あるいは一〇〇年後未来博覧会を開く。情報革命
博覧会でもよい。今の日本には、「実がならないような」博覧会を開く、余裕は、ないはずなの
だが……。

 それに、博覧会場をゾロゾロと、群集とともに歩いて、それで本当に、心がなごむことになる
のだろうかという疑問も、ないわけではない。どこか、ピントがズレているような気がする。

 否定的なことばかり書いたが、しかし国の財政が危機的な状況にある今、こうしたお金は、い
ったい、どこから出てくるのだろうか? このところ税金の重みを、ズシリズシリと感ずるように
なった。

 今では、小さな消防署ですら、鉄筋コンクリートのしゃれた建物になっている。近くに交番もで
きたが、一年中冷暖房されている。真夏でも、真冬でも、ドアや窓は、閉まったまま。役人の世
界だけが、一般庶民からどんどんと遊離している。私は、花博の工事現場を見ながら、「これで
いいのかなあ?」と思った。


●新しい試み

 R社の無料ホームページ・コーナーで、新しいホームページを開いた。

 このホームページに、今、発行しているマガジンを、載せてみた。こうすれば、今のマガジン
を、カラフルなマガジンに変身させることができる。写真も、掲載することができる。

 目下、試行錯誤中だが、これがなかなか、おもしろい。興味のある方は、

http://plaza.rakuSNn.co.jp/hhayashi/

 を、クリックしてみてほしい。

 みなさんの中で、もし、「私もホームページを……」と考えている人がいたら、このコーナーを
利用するとよいのでは……。

 本家のホームページも開設しているが、こちらは、25Mバイトという、巨大なサイトになってし
まった。そのため、更新もままならない状態になっている。たとえばソフトをたちあげ、更新し、
そして保存が終わるまで、ふつうでも、三〜四時間もかかってしまう。

 が、R社のホームページは、簡便で、使いやすい。これからは、そのつど頻繁に更新が必要
なページは、こちらを使うつもりでいる。

 しかしこの世界、まさに日進月歩。おもしろいというより、こわくなるときがある。私のばあいだ
けでも、生活のパターンが変わってしまった。今では、もう、インターネットなしの生活は、考え
られない。

 地図を調べるのも、インターネット。
 天気予報を知るのも、インターネット。
 ニュースも、インターネット。
 あらゆる情報が、居ながらにして、手に入る。
 おかげで、テレビを見る時間は、ぐんと減った。図書館がよいも、なくなった。証券取引も、今
では、すべてインターネットを介して、している。

 が、私のばあい、何よりも変わったのは、本を出そうという意欲が、ほとんど、なくなってしま
ったこと。「紙に印刷する」という行為そのものが、ムダに思えてきたこと。

 やがていつか、子どもたちが学ぶ学校のテキストには、こう書かれるにちがいない。

 「一九九〇年ごろから始まった世界の情報革命は、それまでの人間の生活を一変させてしま
った」と。

 私たちは、まさにその情報革命の、まっただ中にいる。その証人の一人として、今の変化を、
しっかりとここに記録しておきたい。
(031031)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■アホな日本人

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03−11−10号(315)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

【今週の幼児教室から……】

●すなおな子ども 
 
 年長児たちに、幽霊の絵を見せる。見せながら、「幽霊の書いた字を見たい?」と聞く。子ど
もたちは、「見たい、見たい」と言う。

 そこで私は、「そんな言い方ではだめだ。見たかったら、大声で、見・た・い!、と叫びなさい」
と教える。

 すると、子どもたちが、大声で、「見たい、見たい!」と叫ぶ。
 
 その状態で、ボヨヨン線で書いた、文字を見せる。「これは何と書いてあるかな?」と聞くと、
「こんばんは、だ!」と。

 私は、「こんばんは、ではない。こ〜ん〜ば〜ん〜は〜、だ」と教える。子どもたちは、たがい
にふざけあいながら、「こ〜ん〜ば〜ん〜は〜」と、声をふるわせながら、言う。

 いつもは、ここでレッスンは、ほかのテーマに移るのだが、ここでハプニングが起きた。

 Mさん(女児)が、こう言った。「どうして、幽霊は、そんな言い方をするの?」と。

私「それはね、うらみがあるからだよ」
M「うらみって?」
私「つまりね、捨てられた、女の焼きもちだよ」
M「焼きもちって?」
私「あら、君は、焼きもちを知らないの?」
M「知らない」

私「じゃあ、焼きもちって、どんなものか、教えてあげよう。いいかな。よく見ているんだよ」
M「うん……」

 そこで別の席にすわっていた、Kさんに向って、私は、「Kさん、ぼくね、あなたの好きだよ。今
度、いっしょに、遊園地へ行こうか」と声をかけてみた。Kさんは、キョトンとしている。

 再びMさんのほうを見ながら、

私「Mさん、今、どんな感じがした。ぼくがKさんに、好きと言ったとき、どんな感じがした? くや
しいと思った?」
M「うん、思った、思った。くやしいと思った」
私「それが、焼きもちだよ」
M「わかった、わかった。くやしかった」

私「さあ、そういう気持をこめて、もう一度、言ってみてごらん。こ〜ん〜ば〜ん〜は〜、と」
子どもたち「こ〜ん〜ば〜ん〜は〜」と。

 こういうレッスンができるのも、全参観授業だからだ。Mさんの母親も、Kさんの母親も、それ
を見ていた母親たちも、みな、笑った。

 すなおな子どもは、心を隠さない。心の中を、そのまま外に表現する。Mさんは、「くやしかっ
た」と、それを認めた。Mさんのような子どもを、すなおな子どもという。心がわかりやすく、その
ためその心をつかみやすい。何を考えているか、外からよくわかる。だから、教える側にして
も、たいへん教えやすい。

 私は私の指導の中で、いつも、子どもを、Mさんのような子どもにすることを、目ざしている。
(031101)

【追記】

 今週は、「文字」の学習をした。この時期は、子どもが、どんな文字を書いても、ほめる。ただ
ひたすら、ほめる。

 その中に、一人、R君(年中男児)がいた。R君は、ほかに何も問題はなかったが、どういうわ
けか、文字には興味を示さなかった。だから、まだ自分の名前すら、よく書けなかった。

 このタイプの子どもの指導では、とにかく文字は楽しいということだけを教える。またそれを徹
底して印象づける。

 が、その日、R君は、たどたどしい書き方だったが、何とか読めるひらがなで、自分の名前を
書いてみせた。私はすかさず、その書いた紙を空にあげ、みなの前で、ほめた。そしてみなに
手をたたかせた。

 R君は、よほどうれしかったのだろう。帰りの車の中で、母親にこう言ったという。「今日、ぼく
がほめられたことを、パパにちゃんと、話してよ」と。

 それから一週間、R君は、毎日、自分から進んで文字の書き方を、練習したという。

 子どもを伸ばすということは、子ども自身がもつ力を利用して、子ども自身が自ら、伸びるよう
にしむけること。これは幼児教育のイロハだが、R君は、まさにその正しさを、証明してくれた。

 ついでながら、どんな文字でも、子ども自身は、自分の書いた文字は、「じょうずな文字」と思
っている。自分の書いた文字の、じょうずへたを、この時期、客観的に判断できる子どもは、い
ない。

 だから子どもが、どんな文字を書いても、ほめる。そういう前向きな働きかけが、子どもを伸
ばす。

 さらについでながら、この時期、文字に対して、恐怖感を覚えている子どもは、約二〇%はい
る。家庭での無理な指導が、そういう子どもにする。また一度、そういう恐怖感を覚えてしまう
と、文字嫌い→国語嫌いと進み、その影響は、あらゆる科目に現れてくる。神経質な指導や、
こまごまとした指導は、控えめに。くれぐれも、注意してほしい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。

たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女
の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がない
ように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面
もある。こんなことがあった。

K君(小五)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出さ
れていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、
私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

で、そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の三人でたまたま話しあうことに
なった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばか
りの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。それで私
は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうから、がまん
しなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつもより三〇分
も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をもんでやる
よ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。要は子ども自
身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子で
あり、そうでなければそうでないということになる。

たいへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらい
わかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい
子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの家出

 子どもの家出といっても、一様ではない。まず目的のない家出と、目的のある家出に分ける。
目的がないかあるかは、もちものを見ればわかる。

目的のない家出は、身の回りのありとあらゆるものをもって、家から一方向に遠ざかるという
特徴がある。S君(年長児)は、買い物バッグの中に、サイフから大根、おもちゃから人形、ビ
デオテープなど、手当たり次第につめて家出した。親が気がついて追いかけたときには、数キ
ロ先を黙々と下を向きながら歩いていたという。

一方、目的のある家出は、その先で何をするかがはっきりわかるものをもって、家を出る。サ
ッカーの試合を見るための家出は、試合の応援のグッズをもっていくなど。

 目的のある家出は、それほど心配しなくてもよい。だれしも一度や二度は経験する。しかし目
的のない家出は、家庭にかなり深刻な問題があるとみる。子ども自身が家庭の中に居場所が
ないばかりか、家庭が家庭として機能していないなど。

たいていこのタイプの子どもは、同時に帰宅拒否(なかなか家に帰りたがらない)や、いろいろ
な神経症などの症状をあわせもつ。で、こうした症状はできるだけ初期症状の段階で、それを
知り、家庭のあり方そのものを反省する。そこでテスト。

 あなたの子どもが園や学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めているか、それ
を静かに観察してみてほしい。そのときあなたの子どもがあなたのいる前で、あなたの存在を
気にせず体を休めているならよい。しかしあなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくとか、ある
いは好んであなたのいないところで体を休めるようであれば、あなたと子どもの関係はかなり
危険な状態にあるとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて大きな断絶となる可
能性が高い。

 子どもが小学校へ通うようになったら、家庭は「しつけの場」から、「いこいの場」、「心をいや
す場」へと、変化しなければならない。またそれが家庭のあるべき姿ということになる。家出を
決して軽くみてはいけない。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

生きることは、夢

 今朝、こんな、おかしな夢を見た。

 どこかの会場に、講演で、でかけた。夕刻七時から、ということになっていた。

 が、着いてみると、すでに講演は、終わっていた。そんなはずはない。会場へ入ると、うしろ
のほうで、一〇人近い人が、あと片づけをしていた。

私「林というものですが……。ここで、今夜、講演をすることになっています……」
人「ああ、今夜は、よかったですよ。ありがとうございました」
私「よかったって……? まだ何も、話していませんが……」
人「あら、先生も、冗談がお好きですこと……。もう先生の講演は、終わりました」
私「はあ……? 終わった?」
人「終わりました。もう時刻は、九時です」

 すると、その横にいた人が、ビデオをとっていたらしく、そのビデオを見せてくれた。小さな画
面だがそれを見ると、何と、私がしゃべっているではないか!

 たしかに私だ。私がしゃべっている!

人「ねえ、ちゃんと、うつっているでしょ!」
私「これ、私ですか? 本当に私ですか?」
人「そうですよ。先生ですよ。先生が、講演をしてくれました……。ありがとうございました」と。

 今、私は、その夢のことを考えている。考えながら、何が「今」で、何が「今」でないかを考えて
いる。少しわかりにくい話になるかもしれないが、こんなふうに、考えている。

++++++++++++++

 私のような現実主義者には、過去も、未来も、夢のようなもの。あるいは夢と、どこがどうちが
うというのか。生きていること自体、「今」という時をのぞけば、まさに夢のようなもの。

 あなたの子どもは、一〇年前、二〇年前には、どこにいた?
 三〇年前、四〇年前には、どこにいた?

 今は、死んだ、あの人を思いやってみればよい。
 あの人は、今、どこにいる? どこに消えた?

 あなた自身は、どうか?
 あなたは、どこにいた?
 そして死んだら、どこに行く?

 この世界、この宇宙、すべてが、今、ここにあるのは、
 あなたが、今、ここにいるからではないのか?

 もし、あなたが死ねば、あなたは、どうやって、
 この世界、この宇宙を、知ることができるのか?

 あなたが死ねば、同時に、この世界、この宇宙は、消える。
 あとかたもなく、消える。
 そして無限の闇、無限の時の流れの中へと、
あなたは、消えていく。

 あの世があるのか、ないのか、
 本当のところは、私にもわからない。

 しかし、あれば、もうけもの。
 あればいいなとは、思うが、しかし、
 そんなあやふやなものを期待して、
 「今」を、犠牲にすることもできない。

 私にとっては、「今」がすべてなのだ。
 この今の中で、懸命に生きる。
 それがすべてなのだ。

 私は過去に、たくさんの講演をしてきた。
 無数の人たちに、話をしてきた。

 しかし、それはすべて、私にとっては、夢。
 あるいは夢の中の講演と、どこがどうちがうというのか?
 
 これからも、体力と、気力がつづくかぎり、
 そして依頼があるかぎり、講演をする。

 しかしそれはすべて、夢。
 あるいは夢の中の講演と、どこがどうちがうというのか?

 私たちは、「夢」の中から目覚め、「今」を生き、そしてまた「夢」の中へともどっていく。ひょっ
としたら、長く見える人生かもしれないが、この宇宙という尺度からみれば、瞬間の、そのまた
瞬間にすぎない。

 あるいはひょっとしたら、地球が、宇宙の中心にあると思う人もいるかもしれない。が、この地
球は、実際には、気が遠くなるほど、広大な宇宙の片隅にある、チリのようなもの。この宇宙に
は、中田島砂丘(浜松市の南にある砂丘。日本の三大砂丘のひとつ)の砂粒の数と同じくらい
の数の、太陽のような星があるという。地球は、その一粒の、そのまわりを回っている、チリの
ようなものでしかない。

 もちろんだからといって、生きることがつまらないとか、その地球に住む、人間がつまらないと
か、そんなことを言っているのではない。

 ただ、あのS・ホーキング博士は、こんなことを言っている。「私たちのまわりには、この宇宙
と同じ宇宙が、そこにも、ここにも、これまた無数に存在する」と。

 私には理解できない世界だが、一次元(点の世界)、二次元(線の世界)、三次元(空間の世
界)、四次元(時間の世界)……と、広げていくと、現在では、一〇次元、一一次元の世界ま
で、理論上は、存在するという。ホーキング博士は、そういった世界の話をしているらしい。

 私たちは、四次元の世界で、「今」を生きている。しかしひょっとしたら、その「今」の向こうに、
さらに別の「今」があるかもしれない。さらにその向こうにも……。さらにその向こうにも……。

 今、それがわからないからといって、その向こうにある「今」まで否定してはいけない。人間
は、あまりにも無知だし、まだ知らないことも、山のようにある。だからひょっとしたら、あの世は
あるかもしれない。ないと断言することは、だれにも、できない。

 しかし……。

いつかニュートンが言ったように、私たちは、大海を目の前にして、海辺で遊ぶ子どものような
ものかもしれない。目の前に、大海があるのに、その大海があることにさえ、気づかないでいる
……?

+++++++++++++++++

 私はその夢の中で、講演をしたのだろうか。あるいはしなかったのだろうか。もともと夢の中
の世界のことだから、私は、講演など、していない。となると、私が、過去にしてきた、講演は、
どうなるのか。……どう考えたら、よいのか。

 過去も「夢」としてしまうと、私は、講演など、していなかったことになる。しかし夢の中で、ビデ
オを見せられたように、記録は、残っている。実際、ビデオをとった人もいる。見せてくれた人も
いる。

 同じように考えていくと、仕事をしたことは、どうなのか。家族と、旅行したことは、どうなの
か。無数の人たちに会ってきたことは、どうなのか。さらに、過去に生きてきたことは、どうなの
か。

 すべてが、夢なのか。あるいは夢だったのか。もしそうなら、今、私がここに生きていることさ
え、夢ということになってしまう! あああ! どうしたらよいのか。何が、なんだか、さっぱり、
わけがわからなくなってしまった。超難解な、数学の問題を前にして、頭の中が、まっ白になっ
たような気分だ。

 途中で投げ出すようで申しわけないが、この問題は、ここまで。今日は、頭の調子も、あまり
よくない。自分でも、わけがわからなくなってしまった。

 ただ言えることは、今朝、いろいろと考えさせられる夢を見たこと。その夢について、考えて
みたこと。このつづきは、またの機会に……。ごめん!

 (実のところ、先ほどから、お隣さんが、またまた宝石の研磨を始めた。ギリギリ、ガリガリとう
るさくてしかたない。どうして日本人は、こうまで騒音に無頓着なのか? これから居間へ行っ
て、お茶でも飲んでくる。)
(031102)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

アホな日本人

 中国のどこかの大学で、日本人の留学生たちが、裸踊りをしたという。それでそのあと、連
日、それに対する抗議のデモがつづき、昨日は、とうとう、日本料理店まで、襲撃されるという
事件にまで、発展してしまった。

 こういう事件を見ていると、日本人は、どこまでバカなのかと思う。アホなのかと思う。「日本
人は、退化している。ケータイ電話をもった、サル」と酷評している人もいる。事実、その裸踊り
をした連中は、サルに近い。いや、サルだって、そんなアホなことはしない。

 理由の第一。いかに日本人が、アジア諸国で嫌われているか、それがまったく、わかってい
ない。またなぜ嫌われているか、それも、まったく、わかっていない。

 相手の文化への理解もなければ、畏敬(いけい)の念すら、ない。あのね、日本のサルたち
よ、中国には、五五〇〇年の歴史があるのよ。中国から日本を見れば、日本は、ただの島
国。しかも戦争中、日本軍は、百万人単位の、中国人を殺している。

 以前、書いた、私の原稿(中日新聞掲載済み)を、紹介しよう。

+++++++++++++++++

処刑になったタン君

●日本人にまちがえられたタン君

 私の一番仲のよかった友人に、タン君というのがいた。マレ−シアン中国人で、経済学部に
籍をおいていた。最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を
聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。

そのタン君。ある日私にこう言った。「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発する
と、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、
中国語じゃないか」と笑った。

そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、
マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にま
ちがえられると、もっと怒る。タン君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。
街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、タン君は、地面を足で蹴
飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのタン君には一人のガ−ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとし
なかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。
が、やがて卒業式が近づいてきた。

タン君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのタン
君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ−は……」と。喉
の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ−は四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、
夫から訴えられている」と。そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わし
た。

●赤軍に、そして処刑

 そのタン君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授
の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授は
その後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、タン君がマレ−シアで処刑された
と聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでタン君が生きているとしたら、それはそ
れですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、タン君は、マレ−
シアで、一九八〇年ごろ処刑されている。タン君は大学を卒業すると同時に、ジェニ−とクアラ
ルンプ−ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみたが、
いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた新聞
記事によるものだ。

その後、タン君は、マレ−シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして
処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ−ルの墓地に埋葬されているという。田丸
教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さかん
にくやしがっておられた。

そうそう私は彼に、で会ってからというもの、「私は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア
人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。

+++++++++++++++++

 バラエティ番組に代表される、低俗、軽薄テレビ文化。見るからにノータリンな、タレントたち
が、ギャーギャーと、意味もないことをペラペラとしゃべりながら、騒いでいる。

 ああいう番組を、おもしろいと思って制作する、テレビ局。そしてああいう番組を、おもしろいと
思って見る、視聴者。その間には、一片の知性もなければ、理性もない。しあしそれにしても、
よくもまあ、ああまでアホヅラのタレントたちばかりが、そろいに、そろったものだ。

 ……と書いても、本当のところは、意味がない。私はこうした日本人が生まれる背景には、ゆ
がんだ日本の教育があると思っている。

 日本の教育の最大の欠陥は、自分で考える子どもを、育てていないこと。すべてが、この問
題に、行き着く。

 たとえば、いまだに、計算力がある子どもは、算数の力があると思いこんでいる親は、多い。
漢字をよく知っているから、国語力があると思いこんでいる親は、多い。よくしゃべり、ものをよ
く知っているから、頭がよいと思いこんでいる親は、多い。

 さらに勉強がよくできるから、人格がすぐれていると思い込んでいる親は、多い。

 しかしこれらは、すべてウソ! まったくのウソ!

 人間は、考えるから人間なのだ。そしてその人間の価値は、まさに考えることで、決まる。

 日本人よ、日本の親たちよ、どうして、こんな簡単なことがわからないのか?

 少し前だが、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++

アメリカの大学生

 たいていの日本人は、日本の大学生も、アメリカの大学生も、それほど違わないと思ってい
る。また教育のレベルも、それほど違わないと思っている。しかしそれはウソ。恩師の田丸先
生(東大元教授)も、つぎのように書いている。

 「アメリカで教授の部屋の前に質問、討論する為に並んで待っている学生達を見ると、質問
がほとんどないわが国の大学生と比較して、これは単に風土の違いで済む話ではないと、愕
然とする」と。

 こうした違いをふまえて、さらに「ノーベル化学賞を受けられた野依良治教授が言われてい
る。『日米の学位取得者のレベルの違いは相撲で言えば、三役と十両の違いである』と」とも
(〇二年八月)。もちろん日本の学生が十両、アメリカの学生が三役ということになる。

 私の二男も〇一年の五月に、アメリカの州立大学を学位を取って卒業したが、その二男がそ
の少し前、日本に帰国してこう言った。

「日本の大学生はアルバイトばかりしているが、アメリカでは考えられない」と。アメリカの州立
大学では、どこでも、毎週週末に、その週に学んだことの試験がある。そしてそれが集合され
てそのままその学生の成績となる。そういうしくみが確立されている。

そのため教える側の教官も必死なら、学ぶ側の学生も必死。学科どころか、学部のスクラップ
アンドビュルド(廃止と創設)は、日常茶飯事。教官にしても、へたな教え方をしていれば、即、
クビということになる。

 ここまで日本の大学教育がだらしなくなった原因については、田丸先生は、「教授の怠慢」を
第一にあげる。それについては私は門外漢なので、コメントできないが、結果としてみると、驚
きを超えて、あきれてしまう。

私の三男にしても、国立大学の工学部に進学したが、こう言っている。「勉強しているのは、理
科系の学部の学生だけ。文科系の学部の連中は、勉強のベの字もしていない。とくにひどい
のが、教育学部と経済学部」と。理由を聞くと、こう言った。「理科系の学部は、多くても三〇〜
四〇人が一クラスになっているが、文科系の学部では、三〇〇〜四〇〇人が一クラスがふつ
う。ていねいな教育など、もとから期待するほうがおかしい」と。

 日本の教育は、文部省(現在の文部科学省)による中央管制のもと、権利の王国の中で、安
閑としすぎた。競争原理はともかくも、まったく危機感のない状態で、言葉は悪いが、のんべん
だらりと生きのびてきた。

とくに大学教育では、教官たちは、「そこに人がいるから人事」(田丸先生)の中で、まさにトコ
ロ天方式で、人事を順送りにしてきた。何年かすれば、助手は講師になり、講師は助教授にな
り、そして教授へ、と。それはちょうど、水槽の中にかわれた熱帯魚のような世界と言ってもよ
い。温度は調整され、酸素もエサも自動的に与えられてきた。田丸先生は、さらにこう書いてい
る。

 「私の友人のノーベル賞候補者は、活発な研究の傍(かたわ)ら、講義前には三回はくり返し
練習をするそうである」と。

 日本に、そういう教授はいるだろうか。

 グチばかり言っていてはいけないが、いまだに文部科学省が、自分の権限と管轄にしがみつ
き、その範囲で教育改革をしようといている。もうそろそろ日本人も、そのおかしさに気づくべき
ときにきているのではないのか。

明治の昔から、日本人は、そういうのが教育と思い込んでいる。あるいは思い込まされてい
る。その結果、日本は、日本の教育はどうなった? いまだに大本営発表しか聞かされていな
いから、欧米の現状をほとんど知らないでいる。中には、いまだに日本の教育は、世界でも最
高水準にあると思い込んでいる人も多い。

 日本の教育は、今からでも遅くないから、自由化すべきである。具体的に、アメリカの常識を
ここに書いておく。

(1)アメリカの大学には、入学金だの、施設費だの、寄付金はいっさいない。
(2)アメリカの大学生は、入学後、学科、学部の変更は自由である。
(3)アメリカの大学生は、より高度な教育を求めて、大学間の移動を自由にしている。つまり大
学の転籍は自由である。
(4)奨学金制度、借金制度が確立していて、アメリカの大学生は、自分で稼いで、自分で勉強
するという意識が徹底している。
(5)毎週週末に試験があり、それが集合されて、その学生の成績となる。
(6)魅力のない学科、学部はどんどん廃止され、そのためクビになる教官も多い。教える教官
も必死である。教官の身分や地位は、保証されていない。
(7)成績が悪ければ、学生はどんどん落第させられる。

 日本もそういう大学を、三〇年前にはめざすべきだった。私もオーストラリアの大学でそれを
知ったとき、(まだ当時は日本は高度成長期のまっただ中にいたから、だれも関心を払わなか
ったが)、たいへんなショックを受けた。

ここに「今からでも遅くない」と一応、書いたが、正直に言えば、「遅すぎた」。今から改革して
も、その成果が出るのは、二〇年後? あるいは三〇年後? そのころ日本はアジアの中で
も、マイナーな国の一つとして、完全に埋もれてしまっていることだろう。

田丸先生は、ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫氏のつぎのような言葉を引用している。

「人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを入試のための
勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは
議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え自分
で判断するという訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる
人間を育てる教育をしなければ、二〇五〇年の日本は本当にだめになる」と。 

問題は、そのあと日本は再生するかどうかだが、私はそれも無理だと思う。悲観的なことばか
り書いたが、日本人は、そういう現状認識すらしていない。とても残念なことだが……。

++++++++++++++++++++

 中国で今、起きていることは、まさに残念としか、言いようがない。しかしこういう事件が起き
たからといって、日本人が、それで利口になるとは、とても思われない。 
 
 では、私たちは、どうしたらよいのか。

 それについて、少し、話がそれるが、こんな原稿を書いたこともある。裸踊りは、何も、今に
始まったことではないのだ。

+++++++++++++++++++
 
ハレンチ番組

 〇二年の一一月三日、M大学で、民主党の鳩山由紀夫代表が講演をしていたときのこと。
一時間ほどしたところで、聴衆の中から、突然、「コーラスを捧げたい」と申し出があり、その連
中が、二曲歌を歌ったという。

で、大学側が調べたところ、このコーラスはNテレビのバラエティー番組製作の一環と判明し、
スタッフは「取材」と称して会場に入っていたことがわかった。

この事件に対して、大学側は、学部長名で日本テレビに抗議するとともに、陳謝と放送の中止
を求めることを決定した。また、事態を知らずに巻き込まれた民主党の鳩山代表も、「視聴率
稼ぎのために、人の心をズタズタにする行為を平気で行うことに断固抗議してまいりたい」と 放
送中止を求めたという(TBS・inews より)。

 カメラがうしろにあれば何をしてもよいという傲慢さ。これは今のテレビ界がもつ、共通の傲
慢さと言ってよい。先日もこんな番組があった。

 二人のお笑いタレントが、地方を旅し、突然、その家にあがりこみ、昼食や夕食をその家の
家人にもらって食べるという番組であった。

私が見たときは、その家の妻が、夫のために用意しておいた昼食を、一人のタレントが、何だ
かんだと理由をつけて食べるところであった。一見、ほほえましい番組に見えたが、私はその
番組を見ているうちに、何とも言われない不快感に襲われた。

もしあなたが、個人の立場でそんなことをすれば、即、その家から追い出されるであろう。警察
に逮捕されるかもしれない。あるいは地方のテレビ局が、無名のタレントを連れて、東京へ行
ったら、東京の人は、同じように、その地方の人を迎えてくれるとでもいうのだろうか。

 こうした傲慢さの背景にあるのは、地方の人の、都会コンプレックス。それにマスコミコンプレ
ックスがある。この浜松市でも、東京からきたというだけで、何でもありがたがる傾向がある。

たとえば同じ講演でも、中央からきた講師だと、「東京から来た」というだけで、一回、三〇〜五
〇万円が相場。テレビなどで少し名の通った講師だと、一〇〇万円プラス旅費と宿泊費が相
場。タレントの世界には、「中央で有名になって、地方で稼げ」が、合言葉になっている!

 今回のM大学でのハレンチ事件は、こうした流れの中で起きた。あの低俗きわまりない連中
と、それを指揮する同じように低俗なプロデューサーとディレクター。こういう連中が一体となっ
て、起きた。

が、ここで忘れてならないのは、こうしたテレビ番組が、若者や子どもたちに与える影響は、想
像以上のものだということ。いくら学校という場で、良識を学んでも、そんなものは、こうした番
組の前では、ひとたまりもない。むしろ学校教育そのものが、逆に破壊されることだってある。

 こうしたテレビ局に、倫理や道徳を求めても、ムダ? もともとそういう人たちが、番組を作っ
ているのではない。また、本来なら、勇気ある有識者が、もっとこうしたマスコミのあり方を批判
してもよいはずなのだが、それはしない。批判すれば、テレビ界から追放されてしまう。テレビ
界から追放されたら、(あるいは嫌われたら)、「地方で稼ぐ」ということができなくなってしまう。

 もっと、みなさん、いっしょに賢くなろう。賢くなって、もっともっと中央に背を向けよう。そしても
っと中央を批判し、本物とニセモノを見分ける目をもとう。私たちはともすれば、中央から流さ
れてくる情報を、ただ一方的に受け止めるだけ。そして中央の意のままに、あやつられるだ
け。こんなことをしていたら、地方は、いつまでたっても、「地方、地方」とバカにされるだけ。

 M大学は、学長名で、Nテレビ局に抗議したというが、ひょっとしたらM大学にせよ、「テレビ
取材」ということで、飛びついたのではないか。シッポを振ったのではないか。今の大学に、こ
れは私立大学全般に言えることだが、こうしたハレンチ行為に抗議するだけの良識があると
は、とても思えない。だいたいにおいて大学教育が、そうした良識を育てるしくみになっていな
い。

 私はこの事件を聞いたとき、「またか……」と思った。今まで何度となく、この種の事件が起き
るたびに、テレビ局へ抗議をしてきた。しかしすべてがムダだった。たとえば七、八年前、イス
ラム教徒のトルコに行き、素っ裸になって踊ったお笑いタレントがいた。

体育館に集まった聴衆の中には、女性や子どももいた。結局、その番組は放映されなかった
が、日本そのものが、世界の人に笑われた。私もテレビ局に電話で抗議したあと、文書でも抗
議した。で、そのタレントは、しばらくはなりを潜めていたが、今度はパプア・ニューギニアに住
む裸族のレポーターとして、再び、番組に登場していた。彼はその番組の中で、チンチンの先
に大きな、筒をつけ、誇らしげに笑っていたが、それはまさにトルコの事件を、逆手にとったよ
うな番組だった。

 こういう番組を見ると、私たちは低俗タレントのほうばかりを責めるが、本当に責められるべ
きは、その上のディレクターであり、プロデューサーなのだ。あるいはテレビ局本体なのかもし
れない。

しかしさらに責められるべきは、そういう番組に対して批判力をもたない、私たち自身なのかも
しれない。テレビ局は、そしてマスコミは、何かあると報道の自由を盾にとって、もっともらしい
ことを言うが、しかしこんな番組のために、報道の自由があるわけではない。私たちはもう一
度、「報道がどうあるべきか」という原点に立ち返って、現在のテレビ界の姿勢をながめてみる
必要がある。

●こういうハレンチ番組を見たら、テレビ局へどんどんと抗議の電話をしよう。テレビ局によっ
ては、苦情処理センターを置いているところが多い。中には、常時留守番電話になっているの
もあるが、遠慮せず、抗議しよう。伝言を残そう。私たちは子どもたちのために、戦うのだ!

++++++++++++++++++

 ちなみに、今、平均的な高校生について言えば、学校で授業を受ける実質的な時間より、テ
レビを見ている時間のほうが、長い。中学生より、高校生のほうが、家での勉強時間が短く、
大学生ともなると、さらに短い。

 なぜこんなアホな現象が、この日本で、起きているのか。その部分まで、今、メスを入れない
と、これからの日本人は、ますますアホになっていく。そして同じような事件を、世界各地で起こ
し、評判を落としていく。今回の中国での事件は、こうした流れの中で起きた。
(031102)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●山荘にて、11月1日

 今日は、大きな木を二本、切るために、家からノコギリをもってきた。しかし山荘に着くと、ワ
イフが、こう言った。

 「今日は、やめたほうがいいわ。ハチがいっぱい、飛んでるから……」と。

 見ると、足長バチが、玄関先だけでも、四〜五匹も飛んでいた。秋のハチは、攻撃的になっ
ている。ハチの巣をさがしてみたが、わからなかった。こういうときは、作業は中止。

 で、昼食をとって、ビデオを見る。ケビン・コスナーの、『コーリング』。オカルト映画だったが、
できは、★(★一つ)。長〜イ、前置きだけの映画を見たような感じだった。電車に乗って、「い
つ走り出すのだろう」と思っているうちに、目的地へ着いてしまったような感じ。どこかもの足り
ない映画だった。ケビン・コスナーのファンであっただけに、少し、がっかり。

 で、そのあと、ワイフと、散歩。あたりは、めっきり秋らしくなっていた。携帯電話で、景色の写
真をとる。(その写真は、今度から、マガジンでも、配信できるようになった。↓をクリックしてみ
てほしい。)

■(秋の山の景色と、散歩の途中で見つけた、野花)■(試行中)

 気温は、夕方だったが、二五度もあった。どうりで暑いはず。ハチが飛んでいるはず。遠くで
ハンターの犬が、ワンワンとほえているのが聞こえる。あとは、野鳥の声と、やさしい風の音。
ユラユラとカーテンが、揺れている。のどかな昼さがりだ。

 今日の景色は、春がすみのように、全体が白いモヤで包まれている。あとで見てみないとわ
からないが、多分、写真もぼんやりとしたものになっていることだろう。いつかワイフが、同じよ
うな景色を見たとき、白内障になったみたいと言ったが、たぶん、それに近い写真になっている
と思う。

 今、時刻は、午後三時五分。ひんやりとした風が窓から入ってきた。こうしてぼんやりとパソコ
ンをたたいていると、睡魔が静かな波のように打ち寄せてくるのが、わかる。ときどき、はっと
我にかえって、キーボードをたたく。しかしこの気力も、いつまでつづくことやら……。

(この間、一〇分程度……)

 やはり眠くなった。横に、ボンボンベッドが置いてある。ここらで一眠りすることにする。そうい
えば、今朝は、朝五時に起きた。そして八時ごろ、電子マガジンの一一月八日号の配信予約
を入れた。昼寝をしていなかった。道理で、眠いはず……。

 では、またあとで……。
(031101)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

掛川城へ行く

 今日は日曜日。「どこかへ行こうか?」と声をかけると、ワイフが、「うん」と言った。そこであ
れこれ迷ったあと、掛川市へ掛川城を見に行くことにした。

 車で市内まで。そこで私の駐車場に車を置き、電車で、掛川市に向う。旅費は、片道、四八
〇円(一人分)。時間は、三〇分ほど。

 昼ごろ、到着。そのまま掛川城へ歩き始める。日曜日だというのに、閑散とした商店街。空腹
をこらえながら、歩く。今朝は、朝食を抜いた。このところ、やや太り気味。が、それにしても、
空腹だった。二人で歩きながら、話すのは、食事のことばかり。

 「ソバにしようか?」
 「寿司にしようか?」
 「定食にしようか?」と。

 城の下まで行く。そしてあの急な石段を見て、思わず、こう叫ぶ。「腹が減って、フラフラだ。
食事を先にしよう!」と。ワイフは、すぐ同意した。

 そこで少しもどって、Yという食堂に入る。昼時というのに、客は、私たちだけ。何となく、心細
くなる。で、私は、サシミ定食。ワイフは、天ぷら定食を注文する。値段は、一二〇〇円。「高
い」と思った。

 が、食べ終わったところで、睡魔。私は、おなかがふくれると、眠くなる。しかし眠るわけには
いかない。眠気を押し殺して、また通りに出る。

 掛川城のまわりも、そして中も、急な階段と石段ばかり。結構、ハードな運動になった。ワイフ
は、さかんに掛川城の歴史を調べていたが、私には、あまり興味がなかった。徳川家康だろう
が、織田信長だろうが、そんな名前だけの歴史に、どれほどの意味があるというのか。

 私は内心で、「この城を攻撃するには、どこから、どのような武器を使えばよいか」を考えてい
た。「最近の機関銃、一〇丁もあれば、こんな城、一日でつぶせる」とも。小さな城にしては、堀
が深く、大きいと思った。「この堀を越えるには、どうしたらいいのか」とも。

 が、そのあと、こんなことも考えた。「こんな城、落としたところで、それがどうだというのか。三
〇〇年後、四〇〇年後の連中が、『はやし浩司が攻落した』と記録にとどめたところで、それが
どうしたというのか」と。

 帰りは、隣接の美術館へ寄った。数は少なかったが、結構、よい作品が並んでいた。「さすが
だな……」と思いつつ、見て回ったが、私は、その中の一枚が、とくに気にいった。ワイフも、
「あら、この絵、あなたの描き方と、そっくり」と言った。

 私はその絵に見とれた。携帯電話で写真もとった。どこにも、「写真撮影をするな」とは、書い
てなかった。

 「この絵は、不思議な絵だ。見ていると、広い空間の中に吸い込まれていくような感じがする」
と、私。しばし、呆然と、その絵の前に立つ。一枚の絵に、これほどまでに感激したのは、最近
では、ないことだった。

 「ぼくも、画家になったら、こういう絵をめざしただろうな」と言うと、ワイフも、うなずいてくれ
た。

 そのあとは、城主が住んだという、御殿を見学した。美術館の南側にあった。私は、トイレを
さがしたが、どこにも見つからなかった。見落としたのかもしれない。どういうわけか、私は、昔
のトイレに、興味がある。

 「お殿様たちは、どこでしていたのかね?」
 「トイレでしょ」
 「でも、そのトイレがない……」
 「どこか、見えないところよ」と。

 帰りは、逆のコースで、歩いてきた。途中、葛湯(くずゆ)を売っている店に立ち寄った。掛川
市は、その葛湯で知られている。もちろん、掛川茶の産地としても、よく知られているが……。

 店の女性に、「一個、九〇円のものが、どうして六個で、六〇〇円なのですか」と声をかける
と、「包装代がかかるからです」と。

 この「?」が、一〇個くらいつく返答に、私たちは笑ってしまった。もちろん私たちは、バラで六
個、買った。代金は、五四〇円!

 結構、楽しい、旅だった。ワイフが、「今度は、富士宮へ、焼きそばを食べに行こう」と言っ
た。今度は、私が、同意した。
(031102)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どもの情緒(2)

(3)子どもが分離不安になるとき

●親子のきずなに感動した!?     

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストの書いたものだが、いわく、「うちの娘(三歳)をはじめて幼稚園へ連れていったときのこ
と。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さに感
動した」と。

そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、「親子の絆の深さ」に感動したと言うの
だ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症
状。「別れをつらがって泣く子どもの姿」では、ない。

●分離不安は不安発作

 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声を
あげて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイ
ナス型)に分けて考える。

似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立恐怖)もいるが、それはと
もかくも、分離不安の子どもは多い。四〜六歳児についていうなら、一五〜二〇人に一人くら
いの割合で経験する。親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静かに落ちついている。が、
親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと、ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけ
たりする。

●過去に何らかの事件

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病
気で入院したことや、置き去り、迷子を経験して、分離不安になった子どももいる。

さらには育児拒否、冷淡、無視、親の暴力、下の子どもが生まれたことが引き金となった例も
ある。子どもの側からみて、「捨てられるのでは……」という被害妄想が、分離不安の原因と考
えるとわかりやすい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集
団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理をすればかえって
症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくす
るとやがて静かに収まることが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」の
である。一度キズついた心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつ
ど繰り返し症状が表れる。

●鉄則は無理をしない

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしている
のがわかる。「いいかげんにしなさい」「私はもう行きますからね!」と。

こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます強く被害妄想をもつよう
になる。分離不安を神経症の一つに分類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。

 分離不安は四〜五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたよう
に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が
予定より遅くなっただけで、言いようのない不安発作に襲われます」と。姿や形を変えて、おと
なになってからも症状が表れることがある。

(付記)

●分離不安は小児うつ病?

子どもは離乳期に入ると、母親から身体的に分離し始め、父親や周囲の者との心理的つなが
りを求めるようになる。自我の芽生え、自立心、道徳的善悪の意識などがこの時期に始まる。
そしてさらに三歳前後になると、母親から心理的にも分離しようとするが、この時期に、母子の
間に問題があると、この心理的分離がスムーズにいかず、分離不安を起こすと考えられてい
る(クラウスほか)。小児うつ病の一形態と考える学者も多い。症状がこじれると、慢性的な発
熱、情緒不安症状、さらには神経症による諸症状を示すこともある。

++++++++++++++++++++++

(4)基底不安

心を許さない子ども

 無視、冷淡、親の拒否的態度は、子どもに深刻な影響を与える。乳幼児期に、心のさらけ出
しができないため、親のみならず、他人と良好な人間関係を結べなくなる。子どもは、絶対的な
信頼関係のある親子関係の中で、心をはぐくむことができる。「絶対的な信頼関係」というの
は、どんなことをしても、また何をしても、許されるという信頼関係である。親に対して疑いをい
だかない安心感をいう。

 この信頼関係が欠落すると、子どもは絶対的な安心感を得られなくなり、不安を基底とした
心理状態になる。これを「基底不安」というが、その不安を解消しようと、子どもはさまざまな方
法で、心を防衛する。(1)服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、(2)攻撃的態度(威圧したり、暴
力で相手を屈服させる)、(3)回避的行動(引きこもる)、(4)依存的行動(同情を求める)など
がある。これを「防衛機制」という。

 このタイプの子どもは、孤独と不安を繰りかえしながら、そのつど相手を求めたり、拒絶した
りする。まさに「近づけば遠ざかり、遠ざかれば近づく」の人間関係をつくる。本人はそれでよい
としても、困惑するのは、周囲の人たちである。あるときはベタベタと近づいてきたかと思うと、
つぎに会うと、一転、冷酷な態度をとったりする。親しみと憎しみ、依存と拒絶、密着と離反、親
切と不親切が、同居しているように感ずることもある。

 が、悲劇はつづく。

 他者とのつながりがうまく結べない分だけ、独善的、独断的な行動が多くなる。一見すると主
体的な生き方に見えるかもしれないが、その主体そのものがない。私の印象に残っている女
の子(中二)に、Bさんという子どもがいた。

 Bさんは、がんばり屋だった。能力的には、それほどでもなかったが、そのため勉強も、よくで
きた。親は、そんなBさんを、よくほめた。先生も、ほめた。とくに気になったのは、融通(ゆうづ
う)がきかなかったこと。ジョークを言っても、通じない。このタイプの子どもは、自分だけのカラ
に閉じこもりやすく、がんこになりやすい。

 そのBさんが、ここに書いた、決して心を許さないタイプの子どもだった。そのときまでに、す
でに私のところへ五、六年、通っていたが、いつも心を風呂敷で包んだような感じがした。俗に
いう「いい子」ではあったが、何を考えているか、よくわからなかった。

 決して勉強が好きというわけではなかった。しかしBさんにとっての勉強は、まさに自己主張
の道具だった。(勉強ができる)=(優秀であるという証明)=(みなにチヤホヤされる)というよ
うに、である。ここにも書いたように、一見、主体性があるようで、どこにもない。Bさんは、いつ
も自分の評価を他人の目の中でしていた。

 もうおわかりかと思う。このBさんが、とっていた一連の行為は、自分の心の中の不安を解消
するためであった。勉強という手段を用いて、他人に対して優位に立つことにより、自分にとっ
て居心地のよい世界を、まわりに作るためであった。先にあげた防衛機制の中の、(2)攻撃
的態度の一つということになる。

 Bさんは、勉強がよくできる分だけ、孤独だった。友だちもいなかった。しかも自分より目立つ
仲間は、すべてライバルだった。Bさんの前で、ほかの子どもをほめたりすると、嫉妬心から
か、Bさんは、よく顔をしかめた。が、そのBさんが、ある日、とうとう勉強でつまずいてしまっ
た。最初は「勉強がわからない」と、よくこぼした。つぎに数か月先のテストのことを心配したり
した。親はBさんに頼まれるまま、進学塾をもう一つふやし、家庭教師もつけた。しかしそうす
ればするほど、Bさんの勉強は空回りをし始めた。

 とたん、Bさんは、プツンしてしまった。ふつうの燃え尽き症候群と違うのは、無気力症状は出
てこないこと。別の形で、攻撃的になるということ。Bさんのケースでは、そのまま、本当にあっ
という間に、非行の道へ入ってしまった。髪の毛を染め、ツメにマニキュアをし、そしてあやしげ
な下着を身につけるようになった。と、同時に、私の教室をやめた。しばらくしてから、ほかの
子どもたちに、Bさんが、学校でも札つきのワルになったという話を聞いた。

 Bさんを知る、ほかの母親たちは、こう言う。「えっ? あのBさんが、ですか?」と。実のとこ
ろ、この私ですら、その変化に驚いたほどである。授業中でも、先生を汚い言葉で罵倒(ばと
う)して、部屋から出て行くこともあるという。

 ……では、どうするかということではない。あなたの子どもは、だいじょうぶかということ。あな
たの子どもは、乳幼児のとき(二〜四歳の第一反抗期)から、あなたに対して、好き勝手なこと
をしていただろうか。わがままというのではない。言いたいことを言い、したいことをしたかとい
うこと。もしそうなら、それでよし。しかし乳幼児のとき、どこかおとなしく、仮面をかぶり、手がか
からない子どもだったとしたら、ここでいう「心を許せない子ども」を疑ってみたらよい。そして今
は、その「いい子」かもしれないが、そのうちそうでなくなるかもしれないと、警戒をしたほうがよ
い。

 心の問題は、簡単にはなおらない。なおらないが、警戒するだけでも、仮に問題が起きたとき
でも、原因がわかっているから、対処しやすいはず。またあなたの子どもが〇〜二歳であるな
ら、これからの反抗期を、うまく通り過ぎることを考える。この時期は、子どもの心を形成すると
いう意味で、きわめて重要な時期である。

++++++++++++++++++++++

【YNさんへ】

 いただいたメールの範囲内で判断するかぎり、下の子どもが生まれたあたりから、欲求不満
が慢性的に累積し、それが不安の原因になっているように思われます。症状としては、集団恐
怖症、対人恐怖症などが疑われますが、もう一歩進んで、小児神経症もしくは、小児うつ病(ド
クターによっては、小児うつ病はないと主張する人もいます)なども、どこかで考えながら、対処
しなければならないと思います。もちろんこれは最悪のばあいです。

 一つ、疑われるのは、その先生との関係です。どこかで大きなショックを、子どもに与えた可
能性も否定できません。先生が、強く叱ったとか、など。「先生を見ておお泣きした」、しかし「そ
の先生のそばを離れない」という、どこか矛盾した行動は、子どもの世界では、よく見られる現
象です。

 たとえばイヤなもの、嫌いなものを、逆に受け入れることによって、表面的には、好きになっ
たようなフリをする。心の中に、まったく正反対の感情を移入するわけです。これを「反動形成」
といいますが、よく知られた例としては、下の弟や妹に対して、表面的には、いい兄や姉を演じ
て見せるケースがあります。

 それ以前の問題としては、基底不安も疑われます。つまりは、YNさんという母親と、その子ど
もの関係です。全幅の信頼関係が、結ばれていたかという問題ですが、これについては、いた
だいたメールの範囲では、よくわかりません。ここでは、そうした信頼関係については、問題な
いという前提で考えます。

 YNさんは、子どもの悪夢について心配していますが、私の調査でも、約五〇%の子ども(年
長児)が、ほとんど毎日、こわい夢を見ていることがわかっています。ただYNさんのお子さんの
ように、「こわい夢を見るから、昼寝をするのがいや」というケースは、珍しく、それだけ、心が
緊張(不安)状態にあるとみます。

 ふつう子どもが悪夢を見るようになったら、(またそう感じたら)、スキンシップを濃厚にし、添
い寝などをしてやります。「気のせい」「わがまま」と突き放せば、かえって子どもの情緒は不安
定になりますから、注意してください。

 ついでに、このタイプの子どもに、「がんばれ!」式の励ましは、タブーですから、ご注くださ
い。言うべきことは、「あなたは、よくがんばっている」式の、ねぎらいの言葉です。これについ
ては、またいつか電子マガジンのほうでとりあげて考えてみます。

 「夏休みあけに症状が軽減した」ということですので、症状は、それほど、こじれていないと判
断できます。しかしながら、この種の問題は、「以前のほうが、まだ症状が軽かった……」という
ことを繰りかえしながら、悪化することがありますので、これも、ご注意ください。

 とくに注意しなければならないのが、小児神経症です。ほかに、身体的な変調を訴えていな
いかを、観察してみてください。腹痛、頭痛、夜尿、爪かみなど。(あとで、原稿を添付しておき
ます。)

 もしこうした症状があわせて見られたら、とにかく家庭では、心を休ませることだけを考えて対
処します。「暖かい無視」という言葉が、最近よく使われますが、子どもを、暖かい愛情で包み
ながら、子ども自身がひとりで、のんびりとくつろげる環境を用意してあげます。

 が、それでも症状が悪化するようであれば、私は、無理をして幼稚園へ行かせる必要はない
と思います。それはYNさんが、ご自分で、判断してください。

 とりあえずしてみることは、

(1)濃厚なスキンシップの復活……下の子が生まれると同時に、上の子どもへの接触が半減
したと考えられます。親からみれば、「平等」ということになりますが、上の子には、そうではな
いということです。これについては、たびたび電子マガジンでとりあげてきましたので、ここで
は、省略します。添い寝、手つなぎ、だっこ、いっしょの入浴など、子どもの心から緊張感がと
れるまで、つづけます。

(2)食事面での対処……不安定に感じたら、CA、MGの多い食生活に切りかえます。要する
には、海産物主体の食生活にするということです。甘い食品、肉類、リン酸食品などは、ひかえ
ます。

(3)なおそうと思わないこと……この種の問題は、「なおそう」とは思わないこと。「今の状態
を、より悪くしないこと」だけを考えて対処します。親は、どうしても、今の状態だけをみて、「最
悪」と考えがちですが、この種の問題には、その下に、さらに二番底、三番底があるということ
です。じゅうぶん、ご注意ください。

(4)半年単位で様子をみる……そのつどの症状の変化に、一喜一憂してはいけません。もう
少し長いスパンで、子どもの心の変化を観察しながら、判断します。できれば「半年前はどうだ
った……」「一年前はどうだった……」というように、です。そのつどの変化に振り回されている
と、子どもの心の状態がわからなくなります。ほとんどの親は、「少しよくなった……」と言って
は、つぎの無理をする。そして症状をこじらせ、悪化させていきます。

 いただいたメールだけでは、お子さんが、どういう状態なのか、よくわかりません。かといっ
て、私の立場では、診断することもできません。ここに書いたことは、あくまでも、参考意見とし
て、お考えください。あとは、あなた自身が、判断してください。

 このあたりが、私が今、あなたにアドバイスできる限界かと思いますので、今日は、このあた
りで失礼します。また何か、あれば、メールをください。
(031103)
 
+++++++++++++++++++++

【参考】子どもの神経症(中日新聞発表済み)

子どもの神経症

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。ふつう子どもの神経症は、(1)精
神面、(2)身体面、(3)行動面の三つの分野に分けて考える。そこであなたの子どもをチェッ
ク。次の症状の中で思い当たる症状(太字)があれば、丸(○)をつけてみてほしい。

 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での神経症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の神経症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での神経症に先だって、身体面で
の神経症が現われることが多い。

 行動面の神経症……神経症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この神経症を疑ってみる。ただし一言。こう
した症状が現われたからといって、子どもを叱ってはいけない。叱っても意味がないばかりか、
叱れば叱るほど、逆効果。神経症は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期
待など、いろいろある。

 さて診断。丸の数が、一〇個以上……あなたの子どもの心はボロボロ。家庭環境を猛省す
る必要がある。九〜五個……赤信号。子どもの心はかなりキズついている。四〜一個……注
意信号。見た目の症状が軽いからといって、油断してはならない。


     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ネット・アディクション(嗜好)

 自分の意思ではコントロールできなくなったような、とくに強い嗜好性を、アディクション(嗜好)
という。わかりやすく言えば、きわめて強度な、依存性のこと。

 たとえば、アルコール依存症、パチンコ依存症、タバコ依存症などがある。最近では、携帯電
話依存症というのもある。

 トイレに入るとき、部屋の中に携帯電話を忘れ、用を足すのをあと回しにして、その携帯電話
を取りに行った子ども(高校生)がいた。「トイレの中で、携帯電話をしたかったの?」と聞くと、
「別に……」と。

 その話を、ある母親にすると、その母親も、こう言った。「実は、うちもそうなんです。お弁当を
忘れても、取りに戻らないような息子が、携帯電話を忘れたときは、取りに戻ってきます」と。
「先日は、一時間目をサボって、取りに戻ってきました」とも。

 このタイプの子ども(おとなも)には、携帯電話は、必需品以上の必需品。片時も身から離す
ことができない。できないばかりか、身近になければないで、麻薬をやめたときに似た、禁断症
状が生ずる。イライラして、何も、手につかなくなってしまう。

 さらに、ネット依存症というのもある。正確には、「ネット・アディクション」という。

 私は、実は、パソコン通信が始まったころ、そのパソコン通信にハマってしまったことがある。
今から、もう二〇年近くも、前のこと。今のインターネットによく似ていたが、文字情報だけをや
り取りする、簡単なものだった。

 最初は、カタカナだけを送受信できた。が、パソコンに単語辞書を登録すると、今度は、ひら
がなや、限られた数の漢字の情報を、送受信することができるようになった。

 当時は、こうした進歩を、まさに自分の肌で感じながら、一歩ずつ、自分のものとすることが
できた。それが楽しかった。それに、まだパソコン通信をやっている人が少なく、たがいに連絡
をとりあっているうちに、友だちになり、手紙を交換したりするようになったこともある。

 この人口六〇万人の都市ですら、パソコン通信をしている人は、一〇人もいなかったのでは
ないか? あるいはもっと少なかった? 大手電気メーカーの支店へそのつどでかけ、あれこ
れ教えてもらいながら、それをした。何しろ、N社のパソコンでも、四〇〜五〇万円近くもした時
代である。
 
 が、気がついてみると、明けても暮れても、パソコン通信のことばかり。やがて自分にブレー
キをかけるようになったが、しかしそうは簡単なことではなかった。私は、まさにパソコン通信中
毒といった状態になってしまった。

 が、幸いなことに、その前後に、世間に、ワープロ専用機が出回るようになった。私が最初
に、買ったのは、S社の「書院」という機種だった。値段は、二四万円。当時としては、破格に安
いワープロ専用機だった。やがて私の関心は、パソコン通信から、ワープロ専用機へと移って
いった。

 あとはとっかえ、ひっかえ……。半年ごとに新しいワープロ専用機を買いつづけ、一時は、一
〇台近いワープロ専用機が、家の中にころがっていたことがある。

 結果的に、パソコン通信から遠ざかったが、それにかわって登場したのが、インターネットで
ある。しかし私は、すぐには、手を出さなかった。そのこわさを、知っていたからである。が、こ
れは結果的には、まずかった。つまり、乗り遅れた!

 さて、今の私は、どうか?

 ワープロ専用機は、パソコンになった。そのパソコンで、インターネットもできる。(パソコン通
信)+(ワープロ専用機)=(現在のパソコン)ということになる。おかげで、というか、当然という
か、私は、またまたパソコンにハマってしまった。

 まず朝起きると、パソコンに電源を入れる。仕事から帰ってきても、電源を入れる。そしてま
ず、メールをチェック。自分のサイトや、掲示板をチェック。そしてお茶を飲んだりしたあと、今
度は、ワープロとして使い始める。

 しかし私のばあい、パソコンが好きというより(好きだが……)、考えることが楽しい。つまりパ
ソコンは、そのための道具にすぎない。……と、自分勝手な弁解をしているが、依存症とは、
違うと思う。

 インターネットについては、なくてもかまわないと思っている。現に今、必要な人とは、連絡を
とりあってはいるが、あくまでも、その範囲。ワープロについては、ここに書いたとおりである。

 また私は、もともと機械いじりが好きだった。今でもよく覚えているのが、TK−BSというたし
か、T社製のパソコン。マシン語でパチパチとプログラムを打ち込みながら、操作するというパ
ソコンだった。

 つぎに買ったのが、コモドール社製のPET2000。そのあとは、N社製のパソコンへと移って
いった。6000シリーズ、8000シリーズ。そして9000シリーズから、98シリーズへ、と。ワー
プロにせよ、インターネットにせよ、その過程の中から生まれたにすぎない。

 とは言え、私が、パソコン依存症であることには、まちがい、ない。基準があるわけではない
が、一日、五回以上、メールをのぞくようなら、ここでいうネット・アディクションとみてよいそう
だ。(私なんか、一日、一〇回以上、のぞいているぞ! ワープロで文を書いているとき、ふと、
息抜きしたくなったようなとき、のぞいている。)

 ただ私のばあい、ハマりすぎると、頭痛が始まる。それが便利なブレーキとして働く。あのパ
ソコン通信にハマった時代からそうだった。だから、いつもどこかで、自分にブレーキをかけな
がら、パソコンに向っている。たとえば一時間ほど、ワープロとして使ったら、二〇〜三〇分
は、お茶を飲んだり、本を読んだりして、休憩する。だいたい、その前に、頭が、どこか重くな
る。

 ……などなど。書いている内容が、くだらなくなったから、この話は、ここまで。要するに、ハマ
りすぎないように、注意しようということ。もっとも、私のばあい、もう手遅れだと思うが……。今
もこうしてパチパチと文字を入力しているが、頭の中のモヤモヤをたたき出したときの爽快感
は、なにものにも、かえがたい。それがわかっているから、どうしても、やめられない。ホント!
(031104)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況報告】

●HTML言語

 R天の無料ホームページ・コーナーを利用して、新しいホームページを開いた。しかしこのホ
ームページは、HTML言語を使って、自分でプログラムすることになっている。

 さっそく、本を買ってきて、そのHTML言語に挑戦する。が、なかなかうまく、いかない。当然
だ。

 で、調べてみると、……などなどと、いろいろ原因がわかった。この間、約三〇分。表をつく
り、その表の中に、リンク先を書いた。

「はやし浩司」をクリックすると、私のホームページに、リンクできるようにした。それができるよ
うになったとき、思わず、声をあげた。「やったア!」と。これがあるから、パソコンは、やめられ
ない。

 市販のソフトを使えば簡単にできることでも、自分でやってみると、そうはいかない。興味の
ある方は、R天の私のサイトを訪問してみてほしい。まだ初歩の段階だが、これから、どんどん
と改良していくつもり。

 そういう意味では、パソコンというのは、実におもしろい。一つのことができるようになると、あ
とは、つぎつぎと、飛躍的に、いろいろなことができるようになる。しかし最初の突破口を開くま
でが、たいへん。このことは、読者のみなさんが、すでに経験しているとおり。

 で、昨日その本を買ってきた直後は、自信をなくしかけていたが、こうしてできるようになって
みると、「ナンダ!」と思ってしまう。これを繰り返しながら、いろいろとできるようになる。大切な
ことは、最初の段階で、ビビらないこと。あきらめないこと。逃げないこと。ぶつかっていくこと。

 ……とまあ、あまり偉そうなことは言えない。私とて、やっと、表が描けるようになっただけ。自
分のホームページと、リンクできるようになっただけ。それこそ、「ナンダ、それくらいのこと
で!」と笑っている人も、多いはず。

 これからも、よろしく!

●日本の景気

 オーストラリアの友人が、日本の経済について、ときどき、メールで、聞いてくる。彼は、ある
大学の東洋学部で、教授をしている。私には、それなりの利用価値があるらしい。が、そのた
め、私とて、いいかげんな返答ができない。

 「株価があがっているというが、日本の景気はよくなっているとみてよいのか?」(一〇月末)
と、その友人。

 こういうとき、すでに彼は、日本の膨大なデータをもっているとみてよい。私が改めて、資料な
ど送っても、意味がない。そこで私がすべきことは、一庶民としての実感を話すこと。できるだ
け、客観的に、話すこと。

 「公務員と、一般庶民の、二極化が進んでいる。『生活が楽になった』と喜ぶ公務員。『生活
がきびしくなった』とこぼす一般庶民。この意識の違いは、一〇年程前から始まったが、ここへ
きて、ますますひどくなったようだ。

 もう一つ、おかしなことは、局部的に、ごくかぎられた人の間で、バブル現象が起きているとい
うこと。今日もメガネをなおしに、近くのメガネ屋へ行ったが、そこでこんな話を聞いた。大半の
人は、レンズつきで、数万円以内のメガネを買うのに対して、その一方で、フレームだけで、一
五万円とか二〇万円のものを買っていく人もいる、と。

 そんなわけで平均すれば、それほど日本の経済は、悪化していないように見えるかもしれな
いが、一般庶民の生活は、確実に苦しくなっている。

ただ、今のところは、一般庶民は、最後の貯金を、取り崩して生活している。何とかもちこたえ
ているが、それはしかし、もう時間の問題。貯金が底をついたとき、日本の経済は、奈落の底
へと、まっしぐらに落ちていく。

君も知っているように、日本人の貯蓄率(家計貯蓄率)は、とうとう七%を切ってしまった。〇一
年に、フランスやドイツを下回るようになり、もうすぐアメリカよりも、低くなるだろうと予測されて
いる。

それまでに、日本の経済がもちなおせばよいが、実のところ、その可能性は、ほとんど、ない。
その足をひっぱっているのが、五〇〇万人とも言われる、公務員たちである。

 一人ひとりの公務員の人に責任があるわけではない。ないが、その数が、あまりにも多すぎ
る。が、公務員の数は、これだけではない。このほか、準公務員と言われる人たちが、この日
本にはいる。公団、公社、政府系金融機関の職員など。さらに電気ガスなどの、独占的営利事
業団体の職員もいる。さらに公務員のための、無数の天下り機関が無数にあって、そこにも、
無数の職員がいる。全体としてみると、その数は減るどころか、ふえている!

そしてこれまたおかしなことだが、公的な機関の建物ばかりが、めちゃめちゃ、豪華。今では田
舎の消防署まで、冷暖房完備の鉄筋コンクリートが当たり前。これから先、その維持費が、莫
大な負担となって、日本の財政を圧迫する。

現に今、数億円とか、数一〇億円もかけてつくった、国の体育館や保養所が、数万円とか、数
一〇万円とか、信じられない値段で、地方自治体に売り飛ばされている。が、そのあとの維持
費を考えると、それでも、買い手がつかないというのが、現状である。

 国も含めて、地方自治体の年間予算の、二〇〜二五%が、土木建設費などという国は、世
界広しといえども、そうはない。日本だけではないか。今度君も、日本へくるとわかると思うが、
日本中の野原や山々は、白いコンクリートでおおわれてしまった。こうした異様な光景を、日本
人は、異様とも思っていない。

 今の日本は、末期のガン患者が、カンフル剤と、生命維持装置で、何とか生きながらえてい
るような状態とみてよい。

 日本が、再生するためには、君たちが指摘するように、行政改革と、規制緩和。それに官僚
政治の是正である。しかし現実は、ほとんど一歩も、前進していない。むしろ日本の進んでいる
方向は、逆を向いている。

 が、何よりも不可解なのは、こうした現実を前にしても、日本人のほとんどに、その危機感が
ないこと。それはたとえて言うなら、父親が、億単位の借金をかかえているにもかかわらず、ノ
ー天気な気分で遊びまくっているドラ息子のようなものだ。「何とかなる」「そんなはずはない」と
いう、甘い期待ばかりが、この日本では、先行している。

 私がこういうことを指摘しても、ほとんどの日本人は、こう言う。「林君、君の意見は、よくわか
った。しかし私に何ができるのか。何もできないではないか。だったら、この問題は、どうしよう
も、ないではないか」と。

 今や日本人は、あの野ネズミの大集団のように、海に向かって大行進している。君も知って
いるだろう。あの野ネズミだ。最後は、南氷洋の海に入って、みな、死ぬ。私ひとりが、「そちら
へ行ったら、あぶないぞ!」と叫んだところで、どうにもならない。今の日本の現状は、そんなも
のだ。

 日本から、外資系企業が、どんどんと逃げ出している。今や、アジアの経済の中心は、シン
ガポールに移ってしまった。アジアといえば、もう中国。日本の影は、ますます薄くなってしまっ
た。

実のところ、こうした現実を、まだ日本人は、受け入れていない。かろうじて日本を支えている
のは、海外資産だ。しかしその、ため込んだドルも、暴落の一歩手前。ドルが暴落したら、いっ
たい、日本は、どうするのだろう。……どうなるのだろう。

 だからおかしなことに、日本の政府は、日本の円を防衛するというより、アメリカのドルの防
衛ばかりしている。ドルの価値がさがったら、それこそ、たいへんだからね。

 一生懸命働いて、貯金して、せっこらせっこらと、ドルを買い支えてきた。しかしそのドルの値
打ちが、どんどんとさがっている! 同じ日本人でありながら、私は、君以上に、日本人がわか
らない。何を考えているか、わからないというのではない。どうして考えないのか、それがわか
らない。本当に、日本人は、バカになってしまったのだろうか。

 否定的なことばかり書いたが、日本の経済は、今や、八方ふさがり。日本の経済学者で、ど
うすれば、日本の経済は再生できるかを考えている学者はいない。いかにじょうずに崩壊させ
るか。そしてそのあと、その混乱を、いかに収束させるか。そればかりが話題になっている。

 たしかに君が指摘するように、株価は上昇している。しかしこれは当然ではないか。あのバブ
ル経済のころより、さらに低金利。超低金利。銀行の預金金利が、〇・〇〇二%なんて、君は
信じられるか。一〇〇〇万円預けて、一年間の利息が、たったの二〇〇円だぞ!
 
 株価があがったことが、問題ではない。これほどまでに、お金をばらまいているのに、たった
これだけしか株価があがらないことのほうが、問題なのだ。つまり日本の経済は、それほどま
でに病んでいるということ。元気がないということ。

 「君は、どう思うか?」と君は聞くが、本当のところ、それを聞きたいのは、私のほうだ。「君
は、日本の経済を、どう思うか?」と。
(031105)

+++++++++++++++

日本人は、ネズミなのだろうか?
以前、書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
掲載します。

+++++++++++++++

たった一匹のネズミを求めて

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレ−ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも
一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場
だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、おびただ
しい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかと
いう程度。しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干
し草の間を出入りしているのもいた。あのパイドパイパ−の物語に出てくるネズミは、一列に並
んで、皆、一方向を向いているが、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなこと
をすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。農薬は羊の健康にも悪い影
響を与える。

こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。そこで私
たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こうだ。

まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いてお
く。こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、
水の中に落ちた。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、そ
れこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかった。
 
が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人に理由を
聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのどち
らかだ」と。

伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかっ
た。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。ネズミには、どれも個性があった。そこ
で私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。が、ネズミはおろか、その死
骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかっ
た。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テ−マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、
戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテ−マだった。が、たまたまその研究がデ
ッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心理学や社会学では説明でき
なかった。

そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズミに作
用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。わかりやすく言えば、脳の同
調作用のようなものだ。最近でもクロ−ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の
部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう「力」があると考えると、戦前の日
本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身のこと
だが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくちがった生き方
をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。

日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どもの情緒(1)

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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【今週のBW教室から……】

 この話は、あまり同業者には、したくない。私も、結構、意地悪なところがある。とくに、同業
者には、意地悪。

 しかし、今、私は、こんなことをしている。

 教室のうしろに、幅1・5メートル、長さ2メートル程度の、大きな白いテーブルを置いている。
高さは、年長児たちが立って、ちょうど作業しやすい程度。

 このテーブルの上に、毎月、テーマを決めて、何かのおもちゃを並べている。私はこれを、勝
手に「テーブル遊び」と呼んでいる。

 たとえば、積み木。たとえば、ドミノ。たとえば、ブロック。たとえば、鉄道模型というように。今
月は、いろいろなパズルやゲームを置いている。毎月、予算を、二万円と決めている。

 で、早く来た子どもは、このテーブルのまわりで、遊び始める。最初は、子どもたちを待たせ
ておくために考えたが、この遊びには、それ以上の効果があることがわかった。勉強だけだ
と、ともすれば、孤立しやすい人間関係が、このテーブル遊びを通して、「和」につながってい
く。

 昔は、こうした子どもどうしの「和」は、たとえば砂場などでつくられた。しかし今は、その砂場
がない。あっても、動物の糞などで、汚れている。で、どこの幼稚園でも、保育園でも、不衛生
ということで、この砂場遊びは、敬遠されている。

 が、テーブル遊びには、それにかわる力がある。たとえば先月は、ドミノを数百個買ってき
て、テーブルの上に置いてみた。そのときも、やがて、いつの間にか、子どもたちの間に、一つ
のルールが生まれた。

 それぞれがそれぞれのユニットをつくる。そして最後にそのユニットどうしをつなげる、と。そ
の前に、どちらの方向から、ドミノを倒していくかも、決める。そして全体がつながったとき、だ
れが倒すかを、じゃんけんで決める、など。

 たまに失敗して、相手のドミノを倒しても、不思議と、まったくけんかは、起きない。他人の失
敗は、つぎの自分の失敗ということを、子どもたちは、よく知っている。遊びには、そういった、
ルールを教える力がある。

 今月は、パズルやゲームを置いてみたが、それにも、また別のルールが生まれつつある。順
番にする。交代でする。簡単な方法で、勝ち負けを決める、など。

 私はそうした子どもたちの変化を観察しながら、こう考えるようになった。「ひょっとしたら、こう
した教育のほうこそが、本物の教育ではないか」と。

 こう言いきるのは、少し乱暴かもしれないが、その可能性は大きい。もう少しくわしく、このテ
ーブル遊びを観察してみたい。
(031104)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

現場主義

 絵でもアトリエで描く絵と、現場で写生しながら描く絵がある。(それ以外にもあるが……。)教
育論も、部屋に閉じこもって書く教育論と、現場で子どもたちを見ながら書く教育論がある。

私のばあい、子どもたちを直接見ながらでないと、その教育論が書けない。たとえば一週間も
休みがつづいたりすると、原稿そのものが書けなくなることがある。(教育論というよりは、子育
て論に近いが……。)そういう私の教育論の書き方を、私は勝手に、現場主義と呼んでいる。

 この現場主義にはいろいろな意味がある。生々しい話は現場でないと書けないという意味の
ほか、現場でないと、「発見」「修正」「発展」を繰り返すことができないという意味。

たとえばどうも様子がほかの子どもと違う子どもを見つけたとする。それは「発見」ということに
なる。で、原因をあれこれ考えながら、一つの仮説を頭の中で考える。もっとも三〇年以上も子
どもたちを見つづけていると、どの子どもも、ある一定のパターンに分類することができる。そ
のパターンに分類しながら、自分の意見をまとめる。

しかし簡単にはまとめられない。子どもとて、人間。いろいろな環境や要因が複雑にからみあ
っている。同じ過保護児といっても、症状はまさに千差万別。そこで自分の意見に、修正や訂
正を加える。そのときも目の前に子どもを見ていないとできない。その修正や訂正を加えなが
ら、さらにその奥へと切り込んでいく。これが「発展」ということになる。

 これは私が教育論を書くときの「方法」であるが、それは同時に私の「強み」でもある。ほとん
どの教育評論家は、実際には子どもと接していないか、あるいは接していても、その量そのも
のがきわめて少ない。大学の教授と言われる人になると、ほとんど接していない。

先日もある幼稚園で講演をしたら、「○○大学附属幼稚園」となっていた。園長はその大学の
教授ということだった。そこで私が「園長はよく来るのですか」と聞くと、女性の副園長(実際に
はその副園長がその幼稚園を取りしきっている)は、こう言った。「たまにね。それに来ても、お
客様ですから……」と。で、その道の専門家と議論しても、「私ほど現場を踏んだものはいな
い」という事実が、私をうしろから支えてくれる。

 私は毎日、子どもたちと接している。もしそういう経験がなかったら、私はこうまで自分の意見
をまとめることはできなかっただろうと思う。それにまだある。子どものことで何かわからないこ
とがあると、私はすぐ、子どもたちに問いかけることにしている。本でもなければ、参考書でもな
い。子どもたち自身にである。

つまり子どもたち自身が私の先生ということになる。考えてみれば、これも現場主義ということ
か。

 少しコマーシャル的になったが、ここに書いているようなアドバイスは、私の現場主義から生
まれたものである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行っ
た。顔だけ出して帰るつもりだった。

しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、
それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいる
ことになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。「おと
なでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。

 今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。

少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私
は好きではないが……。)教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がた
いへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強
い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。がんこについては、
別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを
言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする
    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●ハチ

 縁側の前の空き地で、スズメバチが、死んだ虫の幼虫を食べていた。よく見ると、幼虫の死
骸の、やわらかい部分を食いちぎって、それをどこかへ運んでいるようだった。

 口の部分で、肉片をくわえると、そのまま一直線にどこかへ飛んでいく。そしてしばらく待って
いると、またやってきて、同じ行動を繰りかえす。

 私の中に、いたずら心が生まれた。そのハチがいない間に、幼虫を別の場所に、動かしてみ
ようと思った。そう思いながら、その幼虫を、五〇センチくらい離れたところにあった、石の陰
(かげ)に、隠してみた。

 しばらくすると、ハチがもどってきた。そしてそのときのこと。そのハチが、「アレッ!」というよ
うなしぐさをしながら、あたりを見まわし始めた。そのしぐさが、人間のしぐさに、あまりにもよく
似ていたので、私は思わず、笑ってしまった。

 首をクルクル回しながら、ときに、かしげながら、あたりをさがした。が、やがてすぐその幼虫
を見つけた。時間にすれば、一〇〜二〇秒くらいではなかったか。意外と、早かった。

 で、前と同じように、ハチは、その幼虫にまたがり、肉片を食いちぎり始めた。

 そしてしばらくすると、その肉片をもって、どこかへ飛んでいった。私は、つぎにそのハチが、
どのような行動をするか興味があった。で、そのまま、そこで待ってみた。

 が、だ。ハチの頭のよさに驚いたのは、そのあとのことだった。そのハチは、まったく迷った
ふうでもなく、一直線に、その幼虫の死骸のあるところへ、飛んできたのだ。つまりハチは、そ
の幼虫の死骸のある場所を、たった一度で、記憶してしまったことになる!

 あの小さな頭の中に、車のカーナビゲーターのようなシステムが、組み込まれている!、……
と、私は思った。ハチの行き先を目で追ってみたが、軽く数一〇〇メートルは飛んで行った。そ
の先のことはわからないが、ひょっとしたら、巣は、一キロくらいは、離れたところにあったかも
しれない。

 私たちは、こうした生物には、それほどの知的能力は、ないと思いがちである。しかし実際に
は、私たちが想像する以上の能力がある? 虫の中でも、とくに、ハチには、特別の能力があ
る?

 こんなこともあった。

 数年前、私は庭木を剪定(せんてい)しているとき、スズメバチに指先を刺されたことがある。
そのときも、そのスズメバチは、何の迷いもなく、一直線に、やってきて、私の手を刺した。服
の上や、ハサミではなく、白い手袋をはめた、私の手に、だ。

 「ハチは、私のどこをそう刺せばいいか、あらかじめ、知っていたみたいだ」と、あとで、ワイフ
に、そう話した。

 そんなこともあって、私は、ハチにだけは、気を許さない。それに今度スズメバチに刺された
ら、私は、ショック死するかもしれない。だから、かわいそうだとは思うが、殺せる範囲に飛んで
きたハチは、その場で、殺すか、殺虫剤をかけるようにしている。情け容赦は、無用。

 さらに一五年ほど前には、洗濯物の中に隠れていたスズメバチに刺されたこともある。知ら
ないで、そのシャツを着て、肩の下を刺された。そのときも、上半身が赤く腫れあがるほど、ひ
どいめにあった。

 しかしハチも、毒をもっていなければ、こうまで人間に嫌われることもなかっただろう。ヘタに
毒をもっているから、警戒され、そして殺される。しかしここで大きな疑問にぶつかる。では、な
ぜ、ハチには毒があるのか?

 もしハチが、サソリの大きさだったら、ハチに刺されたら、大きな馬ですら、その場で死んでし
まうだろう。だから進化の過程で、ハチは、今の大きさのハチになった。

 同じように、もし蚊が、ハチの大きさだったら、蚊に刺されたら、人間も、その場で死んでしま
うだろう。だから進化の過程で、蚊は、今の大きさの蚊になった。

 ハチのもつ毒は、しかし、たいへん危険な毒である。そこで進化の過程で、ハチには、一つの
重大な制約が課せられた。それは、「刺したときは、自分も死ぬ」という制約である。

 もしこの制約がなければ、ハチは、蚊のように、無差別に、人を刺すかもしれない。ハチは、
そのとき無敵になるが、同時に、へたをすれば、あらゆる生物を絶滅させてしまうことになる。
だから、「刺したときは、自分も死ぬ」と。

 そこでさらに、その進化の過程で、ハチには、特殊な能力が加わった。「刺してよいときと、そ
うでないときを判断する」という能力である。つまり、「知恵」、もしくは、「考える能力」が、そなわ
った。でないと、今度は、ハチ自身が、絶滅してしまうことになる。

 ……だから、ハチは頭がよくなった。順に考えていくと、そうなる。

 そこで、では、私たち人間は、どうかという問題。

 人間には、ほかの動物たちにはない「脳」がある。大脳新・新皮質部などがそれだが、この部
分だけが、特異に発達している。人間が、知的生物と言われるゆえんは、ここにある。ここでい
う問題というのは、なぜ、この部分だけが発達したかということ。

 何か、進化の過程で、理由があるのだろうか。

私は、ハチが行ったり来たりするのを見ながら、そんなことを考えた。その間、約一〇分ほど
……。

 しかしどう考えても、私には、その理由が、思いつかない。頭がよくなったことで、むしろ人間
は、ほかの生物にとっては、脅威となっている。現に今、人間は、毎年、数万種から、数十万
種もの生物を、絶滅させているという。

 あえて言うなら、人間ほど、ひ弱い生き物も、いない。体は、うじ虫を大きくしたように、水ぶく
れをして、ブヨブヨ。運動能力にしても、人間より劣っている動物をさがすほうが、むずかしい。
そういう生き物だからこそ、知的能力で、それをカバーしたとも考えられる。しかし、それは、あ
くまでも、結果論。

 それを説明するために、人間は、たまたま直立歩行したからだとか。そのため、脳の発達が
うながされたためだとか、一般的には、そう説明されている。しかし、この説明は、どこか、こじ
つけ的でもある。もしこんな論理が正しいとするなら、水の中の生き物、たとえば魚類は、重力
を感じない分だけ、脳の発達がうながされたはずではないか。

 どうして人間だけが……?

 今も、あのハチが、幼虫をさがしているしぐさが、忘れられない。頭を左右にクリクリと振って
いた。「おかしいな?」「ここにあったはずだが?」と、私には、ハチがそう思っているように感じ
た。きっとハチにすれば、私のように、老齢に近いハチだったのかもしれない。私も、最近、同
じようなしぐさを、よくする。だから、笑った。

 私は、やがてその場を離れた。同時に、ハチのことは、忘れた。
(031104)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【Fさんからの質問に答えて……】

 Fさんから、「音読と、黙読は、どちらがよいですか?」という質問をもらった。当然、黙読がよ
いに決まっている。それについて書いた原稿を、二作、ここに添付する。

+++++++++++++++++++

●音読と黙読は違う

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度
自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつかさど
る。

一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理解する。つま
り右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を覚
えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度読
むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法は、「口をとじて本を読んでご
らん」と指示する。

ある研究団体の調査によれば、黙読にすると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力
が落ちることが」わかっている(国立国語研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。

問題そのものを、別の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによっ
て、文字の内容を「音」ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が
苦手な子どもには、もっとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみてはいけない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」と
いうような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛
隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこ
う言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」
と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめんどう
でも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあ
げねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本
を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●子どもの情緒不安

静岡県Y市の、YNさん(母親)から、子どもの情緒不安についての相談をもらった。よく誤解さ
れるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張感がとれない状態を、情
緒不安という。

心が緊張しているときに、不安や心配が入り込むと、その不安や緊張を解消しようと、子ども
の心は、一挙に不安定になる。情緒が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。

だから子どもが情緒不安症状を示したら、何が、どう作用し、そしてなぜ、心が緊張状態になる
かを、知る。たいていは、愛情問題がからんでいるとみるが、恐怖症、神経症など、何かの大
きなショックが原因で、心が緊張状態になることもある。

++++++++++++++++

こんにちは。五歳の娘についての相談です。

今年四月に年中で家の目の前にある幼稚園に入園し、二か月ほどは楽しそうに通っていて、
新しい友達もしょっちゅう家に誘うなどして、順調にみえました。

が、ある日いつものように園まで送ると、先生を見たとたん泣き出し、「帰る」と、おお泣きし、そ
の日から園内ではすごく情緒不安定になり、先生の話によれば、なんでもないのに泣き出した
り、人がわ〜っと集まると泣き出し、一日中先生と手をつないでいて、給食も自分の席では座
れず、先生のそばにいないと、不安で不安でしょうがないようです。  

娘に理由を聞くと、イロイロ言うのですが、「誰々が怖いから」「牛乳が飲めないから」「折り紙が
できないから」と、聞くたびに理由が変わります。

毎日、幼稚園行きたくないとか、やめるとか言っていたのですが、無理をして連れて行っていま
した。
 
一度体育参観で様子を見たときは、ショックでした。まず、顔つきがいつもと全く違うのです。

終始オドオドした目つきで、先生と少し手が離れだけで、明らかにビクビクした目つきになり、
泣きはらした真っ赤な目で、その場にいるだけで必死な様子でした。
 
娘は不器用なほうだし、遊具で遊ぶのも(鉄棒など)苦手なのですが、今までは、少し、できた
だけで、親が褒めていたので、娘は多分幼稚園に入るまで、自分が周りに比べて、何でも出来
るほうだと思っていたと思うのですが、それが違うと分かり、イヤになってしまったのかな?、と
も思いました。

夏休みの間に、鉄棒で前周りができるようになり、二学期はそれをきっかけに幼稚園の鉄棒を
楽しみに、通っていたのですが、一〇月中気管支炎になり、何日か休んだのを多分きっかけと
して、また不安定になってきました。

朝行く時は大丈夫だけど、園について、私と別れる頃になると泣き出し、クラスの子に誘われ
ても返事もできず、ひきつった顔をしています。

ここ何日かは、また行きたくないと言い出しました。
 
一度夏休み明けに、心配していたのに、損したな〜と思ってしまうほど、あっさり幼稚園でくつ
ろいだ様子で通えていたので、一学期の時のように「ガンバレガンバレ」と無理に通わせたほう
がいいのか、無理させずしばらく気のすむまで休ませた方がいいのか、悩んでいます。
 
はやし先生のページを読んで思い当たったのですが、幼稚園に入るか入らないか……という
時期から、昼寝をしたがらなくなり、理由を聞くと「怖い夢をみるから」というのです。最近も言い
ます。悪夢を見ているということですよね? 寝ている時まで不安な気持ちなのでしょうか?
 
二歳半の弟がいます。私にべったりで、上の娘を抱っこしてなだめていると、怒って割り込んで
きます。上の娘は体が学年で一番大きく重いので、つい背中に乗られると、「重いからやめて」
と言ってしまったり、聞き分けがいいので、何でも我慢させてしまっていたのかもしれないと、後
悔することが、たくさんあります。
 
でも私は、娘のこれからの事を前向きに、どうしたら娘にとって一番いいのかを考えたいので
す。きびしく具体的なアドバイスをお願いします!

++++++++++++++++++

まず、子どもの情緒不安について、以前、
書いた原稿(発表済み)を、参考にしてほしい。

(1)情緒不安
(2)欲求不満
(3)分離不安
(4)基底不安

++++++++++++++++++

(1)子どもの心が不安定になるとき 

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われる
ときをみて、判断する。運動会や遠足のあと、など。

そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴
力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなければ、情緒が安定した子どもとみる。子どもは、肉
体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」というときは、
神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん弱い。それこそ日中、五〜一〇
分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。

症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイナス型)、
反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。この
タイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしよう
ね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的
な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親自身
の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒
動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。

ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾向
(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)は、母親が入
院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱状態にな
る)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チッ
ク、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖
症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。

強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子どもの側からみて神経質で、気が
抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的
な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされているなら、子どもにはそれほど大き
な影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与える。子どもは愛情の変化には、
とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけれ
ばならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、
カボチャの頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「し
つけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、
家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だった
の」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)

●子どもの神経症について
心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

++++++++++++++++++

(2)子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ

 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。

あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を
足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振る
う、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考え
る。

(2)退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

(3)固着・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近
多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起
こす。

ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切そうに
カバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう言っ
た。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子どもの
未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子どもは
幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足

 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。

その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。ある子ども(小一男児)はそれ
までは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入ったということで、別の部屋で寝
るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その子どものケースでは、目つき
が鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。

子どもなりに、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで…
…」と言ったが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効

 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。

そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよい。子どもの欲求不満症状
が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの問題は解決する。

+++++++++++++++++++++










件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■反動形成

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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03−11−14号(317)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

【今週のBW教室より】

 子どもたちに、何かの仕事を頼むと、今の子どもたちは、即座に、こう言いかえす。「どうし
て、私がしなければいけないのか!」と。

 「スリッパを並べて帰ってよ」
 「どうしてエ!」
 「ほかの人には、ほかの仕事をしてもらうから……」
 「でも、どうして私がスリッパなのオ?」と。

 だから私も、こうした仕事を頼むのが、つい、おっくうになる。しかし、だ。昨日は、ちがった。
こんなことがあった。

 M君(小五)が、足を骨折した。松葉杖をついて、教室へやってきた。母親が、介護していた。

 で、レッスンが終わったときのこと。私は、矢継ぎ早に、まわりにいた子どもたちに、こう指示
した。

 「S君と、N君、君たちは、体が大きいから、M君を両脇から支えてあげてよ」
 「Nさん、あなたは、M君の松葉杖をもってあげてよ」
 「Y君、君は、M君のバッグをもってあげてよ」と。

 私はいつものように、みなが、反発するものとばかり思っていた。が、昨日は、ちがった。み
な、神妙な顔をして、すなおに、私の指示に従っているではないか。そればかりではない。みな
が、M君に向かって、やさしい言葉すら、投げかけている!

 私はうれしかった。母親も、うれしそうだった。

 内心では、「いざとなったら、やってくれるものだなあ」と思った。と、同時に、少し誤解が解け
た。

 私たちは、何かにつけて、表面的な部分だけを見て、「最近の子どもたちは……」と批判しが
ちである。しかしそうしたものの見方は、正しくない。

 基本的には、子どもたちは、「善」である。そして今の日本の教育には、いろいろ問題はある
が、しかし基本的には、「善」である。私は、M君を支えながら帰る子どもたちを見送りながら、
改めて、それを思い知らされた。

【今週の幼児教室より】

 今週は、「動物」の学習をした。

 「魚」「虫」「鳥」「けもの」を、テーマにした。

 基本的な形、住む場所、食べ物の話など。ついで卵を産むか、産まないか。さわると暖かい
か、そうでないか、など。

 途中、一冊の絵本を見せた。昔、G社でいっしょに仕事をした、友人の鈴木Y氏が、編集、制
作した絵本である。

 私は基本的には、教室では、市販の教材は、使わない。すべて手作りの教材を使っている。
プリントも、毎回、自分で制作し、印刷している。無数の市販教材の編集、制作にかかわってき
たが、そういうものを、生徒に売りつけたことは、一度もない。

 が、その絵本には、特別の思いがある。友人の鈴木Y氏が制作したというより、二〇代のこ
ろ、「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌の仕事を、その鈴木Y氏といっしょに、したからで
ある。当時、この二つの雑誌は、合計で、毎月、四七万部も売れた。

 その鈴木Y氏が、その絵本をつくった。「日本では、最大の絵本だ」と、当時の彼は言ってい
たが、彼は本当に、得意そうだった。で、毎年、その絵本を、子どもたちに、見せることにして
いる。(どこか、こじつけ的だが、自分では、そう思っている。)

 で、「君たちは、何の仲間かな?」と聞いてみた。子どもたちは、すかさず、「ぼくたちは、人間
だ」と。

 わかっていない?

 そこで私が、「だからア〜、君たちは、魚か、虫か、鳥か、けものの仲間か?」と聞いた。する
とまた、子どもたちは、「ぼくたちは、人間だよ」と。

 そこで私が、ガオーガオーと、ほえて、けもののマネをしてみせた。「だろ、先生は、けものの
仲間だよ」と。一応、けもののマネをしてみせたが、子どもには、サルに見えたらしい?

 子どもたちは、「先生は、サルだけど、ぼくはトラだ」「私もトラ」と言い出した。「? ……どうし
て?」「だって、トラ年だもん」と。ナルホド!

 そのレッスンが終わるころ、最後は、こんな質問で、レッスンを、しめくくった。

私「では、鳥と魚は、どこが、どうちがいますか?」
子「鳥は、水の中に入らない。魚は泳ぐ」など。

 この時期、常識的なものの考え方が、身につくようになる。「常識的」というのは、おとなの視
点からみて、「そうだな」と、納得のできる考え方という意味。(それがよいことと決めてかかって
は、いけないが……。)

 しかし、そうでない子どももいる。「けものと、虫はどうちがいますか?」と聞いたりすると、「け
ものの耳は長いけど、虫の羽は、薄い」とか、など。

 しかしこの時期、子どもがどんな意見を言っても、まずほめる。内容よりも、(意見を言った)
ということのほうが、大切。

 で、もう何年も前のことだが、こんなふうに答えた子どもがいた。

私「では、犬と、花はどうちがいますか?」
子「犬にはハナがあるけど、ハナには、ハナがなくて、犬にはハナがないけど、ハナには、ハナ
がない」と。

 「花」と「鼻」のちがい?

 子どもに教えていると、笑いが絶えない。では、このつづきは、また……。
(031106)

【追記】

 たまたま今朝(六日)、「学生新聞・10・2日号」が送られてきた。その原稿を、そのまま紹介
する。この中で、日本人とアジア人について、書いた。「日本人は、アジア人だ」と言った日本の
子どもと、「ぼくたちは、人間だ」と言った、私の教室の子どもは、どこか似ている。これもどこ
かこじつけ的だが、お許しいただきたい。

+++++++++++++++++

ベトナム戦争

●徴兵はクジ引きで

 徴兵は、クジ引きで決まった。そのクジで決まった誕生日の若者が徴兵され、そしてベトナム
へ行った。学生とて、例外ではない。

が、そこは陽気なオーストラリア人。南ベトナムとオーストラリアを往復しながら、ちゃっかりと金
を稼いでいるのもいた。とくに人気商品だったのが、日本製のステレオデッキ。それにカメラ。
サイゴンで買ったときの値段の数倍で、メルボルンで売れた。兵士が持ちこむものには、原則
として関税がかけられなかった。

 そんな中、クリスという男がベトナムから戻ってきた。こう言った。「戦場から帰ってくると、み
んなサイゴンで女を買うんだ」「女を買う?」「そうだ。そしてね、みんな、一晩中、女の乳首を吸
っているんだ」「セックスはしないのか?」「とても、する気にはなれないよ。ただ吸うだけ」「吸っ
てどうするんだ?」「気を休めるのさ」と。
 
●オーストラリア人のベトナム戦争

 ベトナム戦争。日本でみるベトナム戦争と、オーストラリアでみるベトナム戦争は、まるで違っ
ていた。緊張感だけではない。だれもが口では、「ムダな戦争」とは言っていたが、一方で、「自
由と正義を守るのは、ぼくたちの義務」と言っていた。

そういう会話の中で、とくに気になったのは、「無関心」という単語。オーストラリアでは「政治に
無関心」ということは、それだけでも非難の対象になった。地方の田舎町へ行ったときのことだ
が、小さな子どもですら、「あの橋には、○○万ドルも税金を使った」「この図書館には、○○万
ドル使った」と話していた。彼らがいう民主主義というのは、そういう意識の延長線上にあった。

 「日本はなぜ兵士を送らないのか?」「日本は憲法で禁じられている」「しかしこれはアジアの
問題だろ。君たちの問題ではないか!」「……」と。毎日のように私は議論を吹っかけられた。

私が、いくら、ただの留学生だと言っても、彼らは容赦しなかった。ときには数人でやってきて、
怒鳴り散らされたこともある。彼らにしてみれば、私が「日本」なのだ。もっとも彼らがそうする
背景には、「いつ戦場へ送り出されるかわからない」といった恐怖感があった。日本人の私と
は真剣さが違った。

●日本は変わったか?

 それから三四年。世界も変わったが、日本も変わった。しかしその後、日本がアジアを受け
入れるようになったかどうかということになると、それは疑わしい。

先日もテレビ討論会で、一人のアフリカ人が、小学生(六年生くらい)に向かって、「君たちはア
ジア人だろ!」と言ったときのこと。その小学生は、こう言った。「違う。ぼくは日本人だ」と。そ
こで再び、「君たちの肌は黄色いだろ!」と言うと、「黄色ではない。肌色だ!」と。こうした国際
感覚のズレは、まだ残っている。三五年前は、もっとすごかった。

日本人で、自分がアジア人だと思っている人は、まずいなかった。半ば嘲笑的に、「黄色い白
人」と呼ばれていたが、日本人は、それをむしろ誇りに思っていた? しかしアジア人はアジア
人。この事実を受け入れないかぎり、日本はいつまでたっても、アジアの一員にはなれない。

 話はそれたが、ベトナム戦争についても、彼らの論理は明快だ。クリスと会った夜、私は日記
にこう書いた。

「戦争に行く勇気のあるものだけが、平和を口にすることができるという。戦争に行くのがこわ
いから、戦争に反対するというのは、この国では許されない。もっと言えば、この国では、兵士
となって戦争を経験したものだけが、平和を口にすることができる。そうでないものが平和を唱
えると、卑怯者と思われる。戦争と平和は、紙でいえば、表と裏の関係らしい。平和を守るため
に戦争するという、一見、矛盾した論理が、この国では常識になっている。そんなわけで私は、
クリスに、ベトナム戦争反対とは、どうしても言えなかった」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの自我

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展
望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行
動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや
占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな
る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自
我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき
環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子ども
を当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力
や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれ
ると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その
影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけての時期が重要である。

 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質
は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかし
い。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育
ての原点はここにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●いじめられっ子は徳をつむ?

 世の中にはいじめる人、いじめられる人がいる。またいじめられる人が、どこかでだれかをい
じめ、いじめる人が、どこかでだれかにいじめられるということもある。意識していじめたりする
こともあるが、意識しないでいじめることもある。

人間関係はそれだけ複雑だが、子どもの世界もまたしかり。いじめる側が絶対的な悪であり、
加害者ということにはならない。いじめられる側が絶対的な善であり、被害者ということにもなら
ない。いじめのない世界は理想だが、しかしいじめのない世界はない。それは人間も含めて、
すべての動物が共通してもつ宿命のようなものではないか。

このことは飼っている犬をみてもわかる。つまり「いじめ」という表面に表れた症状だけをみて、
いわば対症療法するだけではこの問題は解決しないということ。いじめの「根」はもっと深く、大
きい。

最近の傾向としては、ささいないじめまで、「そら、いじめだ!」と大騒ぎする親が多いというこ
と。もちろん問題とすべきような大きないじめもあるが、大半は、子どもどうしのトラブルと考え
てよい。子どもは(そしておとなも)、それぞれの摩擦や衝突、解決や和解をとおして、成長す
る。問題解決の、技法を身につける。

 ただこういうことは言える。いじめる側はいつも何か大切なものをなくし、いじめられる側はい
つも何か大切なものを手に入れるということ。以前、O君という中学生がいた。彼はやさしくて、
だれにも親切な子どもだった。ある日、彼の学生服をみると、背中にいっぱい落書きがしてあ
った。「どうしたの?」と聞くと、O君は、「いいんです。ふざけていただけです」と笑ってごまかし
ていた。

明らかに皆のいじめにあっていたが、そのためか、O君にはおとなの私をもほっとさせるような
人間味があった。で、その結果ということになるが、大学は、学校の推薦を受け、日本でも一、
二を争う私立大学へ入学した。高校の先生たちも、私が感じたのと同じ印象を、O君にもった
ためではないか。私もいつか、「こういうO君のような子どもが成功しない世界があったとした
ら、その世界のほうがまちがっている」と思ったことがある。

 もちろんいじめられて心がゆがむ子どもも少なくない。いじけたり、くじけたり、あるいはそれ
が原因で不登校を起こしたりすることもある。皆が皆、O君のようになるというわけではない。
そういう意味でも、いじめは大きな問題だし、無視してよいというわけではない。が、もし、少なく
ともアメリカのように、日本人も、「学校とは行かねばならないところ」という呪縛から少しは解
放されたら、少しはこの問題の見方も変わってくるのではないか。

アメリカではホームスクーラーが、二〇〇一年の終わりには二〇〇万人を超えたと言われてい
る。つまり教育の硬直化が、いじめの問題を、より深刻化させているとも考えられなくはない。
そういう視点でも、この問題は考えてみるべきではないのか。

こういう意見を書くと、すぐ「林は、いじめを容認するのか。いじめられて苦しんでいる子どもの
心を理解していない」と、抗議してくる人がいる。

しかし私は、決して、いじめを容認しているのではない。いじめの「根」は深く、今のような対症
療法だけでは、解決しないのではないかと言っている。たとえば転校をもっと、自由にする。い
じめっ子を、停学処分も含めて、学校から排除できるように、学校長の権限を強化する。が、
それでもままならないときは、家庭学習(ホームスクール)ができるようにする、など。

あくまでもひとつの参考意見として……。

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【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●孤独な人

 孤独はやってくるものではない。自らつくりだすもの。

 世の中には、人に愛される人がいる。愛されない人もいる。で、そういう愛されない人を見て
いると、その原因は、その人自身にあることがわかる。ほかの、だれでもない。その人自身
だ。

 たとえばAさん(四〇歳、女性)がいる。そのAさんは、下の子どもが小学校に入学すると同時
に、市内に、小さなブティックの店を開いた。やや人通りのすくないところで、経営的には、ちょ
っと「?」と思うような場所であった。

 で、そのAさんが、さかんに、「私の店に来てほしい」と言う。通りで、顔をあわせるたびに、そ
う言う。しかしもともと、私には、その種のファッションには、興味がない。それを言うと、「奥さん
へのプレゼントには、どう?」と。

 私は経営に関するノウハウは、あまりない。ないが、常識的なことについては、知っている。
そのAさんの店について言うなら、こんなアドバイスができる。

(1)駐車場のないハンディを、どうカバーするか。外からの客は、見込めない。となると、通りを
歩く客を、どうつかむかがポイント。

(2)通りの環境からして、個性を売った店にする。つまり客のターゲットをしぼる。私の感じで
は、そのあたりは、オフィス街に勤める男性が多い。そういう男性をターゲットにして、遊び心の
ある衣服を並べる。

(3)「さあ、来い!」式の、お高くとまった経営ではなく、チラシを作って、オフィス街を歩くサラリ
ーマンに渡す、などなど。

 しかしAさんは、そういう努力をまったくしていない。並べてある衣服も、一〇代から四〇代くら
いまでとハバが広い。女性ものがほとんどだが、小物は、男性ものもある。しかしこれでは、見
た目の品数は多くても、一人の客という立場でみると、少ない。

 が、私がAさんを助けないのには、理由がある。Aさんが、その近所でも、嫌われ者だから
だ。

 Aさんの自宅は、その店から、一〇〇メートルほど離れたところにある。マンションに住んでい
る。が、その家賃は、母親(七〇歳くらい)が受け取る、年金を横取りして払っているという。そ
の店の改装資金も、その母親の貯金から出させたという。

 しかもかなり性悪な人らしく、近所とのトラブルは絶えない。「音がうるさい」と言っては、階上
の人とけんかしたり、「自転車の置き方が悪い」と言っては、近所の子どもに怒鳴り散らしたり
するなど。

 私と、夫の父親とは、親しい関係にある。その父親ですら、こう言う。「あの嫁は、きついから
ねエ〜」と。

 この浜松周辺で、「きつい」という言葉は、よい意味では使われない。で、私は、一応、表面的
には、笑顔であいさつくらいはする。しかしそれ以上、そういうAさんとは、深入りはしたくない。
そういう思いが、ブレーキをかける。

 だから、今、Aさんを助ける人はいない。もちろん客になる人もいない。どこかピントはずれな
商売を見ながら、それにアドバイスする人もいない。だいたいにおいて、Aさんは、他人の話を
聞くような人ではない。

わがままで、自分勝手。それにすべてが自己中心的。「うちの商品の価値のわからない人は、
バカ」と思っているようなところさえ、ある。しかしこれでは、先が見えている。 

 数か月もすると、休業が多くなり、このところ、あいている日のほうが、少なくなった。このまま
いけば、やがて閉店? 私はそういうAさんの店を見ながら、冒頭に書いたことを考えた。

 孤独はやってくるものではない。自らつくりだすもの、と。

 店が繁盛したから、孤独でないとか、繁盛しないから、孤独とか、そういうことを言っているの
ではない。Aさんの店が、一つの、ヒントになったということ。つまり孤独な人は、その周辺に、
人間の「和」がない。その和がないから、その人は孤立する。そして孤独になる。

 それにもう一つ、ヒントになったことは、その「和」は、長い時間をかけて、コツコツとつくりあげ
ていくもの。それこそ、一〇年とか、二〇年をかけて……。その人の人間性とも関係ある。こう
した「和」が広がって、その人のまわりに、ぬくもりができる。このぬくもりが、孤独をいやす。

 私は、若いころ、孤独をよく感じた。今も、よく感ずる。しかしそれは私が孤独であるというよ
り、私自身の生きザマに問題があった。……あるということになる。私はここでAさんの店の話
を書いたが、そのAさんの店と、私は、たいへんよく似ている。私のまわりには、「和」がない?
 ……なかった?

 では、どうすればよいのか。

 これもAさんの生き方が、一つのヒントになる。

 私がAさんを評価するとき、私はAさんの周辺から出てくる、Aさんの話を基準にした。

「Aさんね、夫の両親とは、口も聞かないそうよ。夫といっしょに、夫の実家に行っても、自分は
車の中で、ずっと待っているそうよ」
「Aさんね、実の母親に、資金を出さなければ、家を出ていけと言ったそうよ」
「Aさんね、お金にうるさい人で、子ども会の会費も払っていないそうよ」とか、など。

 こうし悪評を聞きながら、私は、Aさんがどういう人かを知る。そしてそのAさんから離れる。

 同じように、私たちが私たちのまわりに「和」をつくろうとするなら、ごく日常的なことから、自
分をつくっていかねばならない。そのほとんどは、他人とのかかわりのないことが多い。しか
し、それがその人の原点となる。

 ウソをつかない。
 正直に、自分をさらけ出して生きる。
 人に迷惑をかけない。
 ルールを守る、など。

 ほとんどの人は、こうした行為を自然な形でできるが、私はそうでない。生まれが、あまりよく
なかった。だから自分の中に巣くっている邪悪な自分と、そのつど戦わねばならない。

 ふと油断すると、平気でウソをついている自分を知る。自分を飾る。迷惑もかけているし、ル
ールも破っている。つまりこんなことを繰りかえしていたら、みなは私から離れていく。離れてい
って、当然。

 しかし私のばあい、それに気づくのが、遅すぎた。もう五六歳になってしまった。今から軌道
修正しても、間にあわない。「和」ができるころには、(あるいはそれまでにできればよいほうだ
が……)、もう私は、死んでいる。わかりやすく言えば、私は、これからも、ずっと、孤独なまま
だということ。

 今もAさんの店は、そこにある。見た感じは、シャレた、今風の店だが、どこかぬくもりがな
い。そのぬくもりのなさが、Aさんの店を孤立させている。しかしそれにいつか、Aさんが、気づく
ときがあるのだろうか。……そんなことを、このところ、よく考える。
(031106)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●反動形成、PART2

●私と主人も……

 教室で、そこにいた母親たちに、反動形成の話をした。

 「相手を嫌いだと思っていても、その相手と離れることができないとわかると、その人は、その
相手を、無理にでも、好きと思うようになる。仮面をかぶるとか、ごまかすということではなく、心
が、勝手に、自分の中に、別の人格をつくってしまう。こういった現象を、反動形成といいます」
と。

 すると一人の母親が、こう言った。「私と主人の関係ですわ」と。

 もちろん冗談で、その人はそう言った。が、私は、この言葉を聞いて、はっとした。なるほど。
考えてみれば、私たちの心は、ひょっとしたら、その反動形成のかたまりではないか、と。

 たとえば仕事。本当は、自分にとっては、いやな仕事かもしれない。しかしやらざるをえない。
逃げるわけには、いかない。そこで、いつか、自分で、その仕事は、楽しいと思い込むようにな
る。よい仕事と、思い込むようになる。だれかに、「あなたの仕事は、楽しいですか?」と聞かれ
たりすると、「ええ。この仕事が、みなさんの生活改善につながっていると思うと、楽しいです」
と。

 たとえば勉強。中学生でも、中に、「勉強は楽しい」と言う子どもがいる。そういう子どもを、よ
く観察してみると、本当に楽しんで勉強しているというよりは、どこか、不自然なところがあるの
が、わかる。

●N君のケース

 N君(中二男子)という子どもがいた。彼は、それなりによい成績をとっていた。が、彼にとっ
て、勉強というのは、自分のわがままを通すための道具にすぎなかった。「宿題がある」「テスト
が近い」と言えば、家事は、すべて免除された。それだけではない。

 彼のばあいは、もう少し巧妙で、親に「うちの子はやればできるはず」と思わせることによっ
て、まさにしたい放題のことをしていた。しかし、N君には、それだけの力はなかった。

 そこである日、私は、彼にこう言った。「君の力は、君が一番、よく知っているはずではない
か。だったら、正直に、お母さんに話してみたら」と。

 しかし、N君は、それを言わなかった。言えば言ったで、自分の立場をなくしてしまうからだ。
だから本当のN君は、勉強が嫌いだったにもかかわらず、私がN君に、「勉強は楽しいか?」と
聞いたりすると、「好きだよ」と答えていたりした。

 嫌いなものを、好きと思い込むことによって、自分の心がキズついたり、不愉快に思ったりす
るのを避けようとする。よく知られた例としては、上の兄や姉が、下の弟や妹に、やさしくした
り、よい兄や姉を演ずるケースがある。本来なら「殺したい」と思うほど、憎んでいるのかもしれ
ないが、それを表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。親からは、「いいお兄ちゃんだね」
「やさしいお姉ちゃんだね」と言われている。……言われたい。また言われることによって、自
分の立場を守りたい。

 そこでこのタイプの兄(姉)は、いつのまにか、よい兄(姉)になってしまう。

●別人格

 しかし反動形成は、反動形成。心の中の別人格。こうした状態が長くつづけば、心は、確実
にゆがむ。それから受けるストレス(心的ひずみ)は、相当なもので、ばあいによっては、慢性
的な疾患の原因ともなる。

 私の印象では、こうした子ども、(おとなもそうだが……)、つまり反動形成で、心をごまかして
いる子どもは、どこかヘラヘラしているように感ずる。ヘラヘラしながら、自分をごまかしてい
る? 自分を隠している?

 ……と考えていくと、実は、これは私たち自身の問題であることがわかる。

 その母親が、「私と主人の関係ですわ」と言ったとき、私は、ふと、「私のワイフがそうかもし
れない」と思った。

 本来のワイフは、私を嫌っている。しかし、それを口にすることはできない。またそう思えば、
(あるいはそれを意識すれば)、毎日は、それこそ地獄のような日々になってしまう。そこで、ワ
イフは、一応、私を好きなフリをしている?

 しかしそれはここにも書いたように、「フリ」を超えた「フリ」である。自分の心の中に、別人格
をつくってしまう。心当たりが、ないわけではない。

 たとえばふだんは、それなりに、うまくいっている。しかし何かのことで、口論が始まり、意見
が衝突すると、その別人格が、姿を現す。たとえばワイフのばあい、……

(この先は、ここには書けない。ワイフから、削除するように命令された。)

 そこでワイフの機嫌のよいとき、恐る恐る、聞いてみた。

私「本当のお前は、ぼくを、嫌っているのかもしれないよ」
ワ「そんなこと、考えたこと、ないわ。好きとか嫌いとか、そんなことはね」
私「それがおかしい……。お前は、ぼくがいなくても、さみしくないか?」
ワ「別に……。いつもいっしょに、いるから……」
私「本当は嫌いなのかもしれないが、無理をして、ぼくとつきあっているうちに、自分の心をごま
かすようになった」
ワ「そうね。そう言われれば、そういうところもあるわね」
私(ギョッ!)「…………」と。

●本当の自分
 
こうして考えていくと、本当の自分の心というのは、どこにあるのか。また何が本当の自分の心
なのか、わからなくなってしまう。

 私のばあい、たとえば静かな早朝、書斎でひとりで、あれこれ資料を調べたり、パソコンに向
っているとき。あるいは、山荘で、真っ暗になるまで、ひとりでたき火をしているとき。そういうと
きだけ、自分が自分であるように感ずる。

 それ以外のときは、日々の雑音の中で、自分がわからなくなってしまう。正直に告白しよう。

 私はよく、「先生は子ども(幼児)が好きなんですね?」と聞かれる。そういうとき一応、私は「Y
ES」と答える。

 しかし本当のところは、好きとか嫌いとか、そういう対象ではない。それはちょうど、病人の病
気と戦うドクターのようなものではないか。ドクターに、「あなたは、患者(病気)が好きなんです
ね?」と聞いたら、そのドクターは、いったい、何と答えるだろうか。

 ただ私のばあい、子どもが気になってしかたない。だから電車に乗っても、近くに子どもがす
わると、わざわざ席を別のところに、かえる。落ちつかない。あるいは日曜日や、休日などに
は、子どもの声は聞きたくない。やはり気になってしかたない。

 夫婦にも、親子にも、似たようなところがある。さらに「生きること」そのものにも、似たようなと
ころがある。本当の私は、もう生きることをめんどうに思っているのかもしれない。しかし死ぬ
わけにはいかない。だから、生きることを楽しんでいるフリをしているだけ?

 反動形成が、すべて悪いというわけではない。心には、便利な機能があって、そのつど、環
境に適応していく。自分の心をつくりかえていく。またそれがあるから、人間関係も、スムーズ
に進む。もしこの反動形成という機能がなければ、何もかもギクシャクしてしまう。

 しかしできれば、私はいつも、私でいたい。……と思っている。たぶん、あなたもそうだろうと
思う。そのためにも、一度、あなたの中の反動形成を疑ってみたらよい。
(031105)

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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●意識のズレ

 アメリカへ行くと、どこでも、「神、神、神……」と、うるさくてしかたない。札の裏側にさえ、「We
 trust in God」(われわれは神の存在を信ずる)と印刷してある。しかし、だ。肝心の彼ら
は、「キリスト教国」とは、思っていない。ためしに、近くにいるアメリカ人に、「君たちの国は、キ
リスト教国か?」と、聞いてみればよい。みな、はっきりと、それを否定する。

 同じように、選挙が近くなると、S学会の人たちが、忙しく動き始める。日本でも最大の宗教
団体である。で、そういうS学会の人たちに、「K党は、S学会の政党か?」と、ためしに聞いて
みるとよい。みな、こう言うはずだ。「K党と、S学会は関係ない。私たちは、政教分離の原則を
守っている」と。

 決して、彼らは、ウソを言っているのではない。からかっているのでもない。本気で、そう思っ
ている。そう思って、そう言う。つまり意識のズレというのは、そういうもの。

 で、こうした意識のズレは、私の生活の、あらゆる部分に入りこんでいる。もちろん子育ての
場、にも。

 母親の過関心と、過干渉で、性格が萎縮してしまったような子どもがいる。ハキがなく、顔も
青白い。しかしそういう母親に向かって、「子育てに神経質になっていませんか?」と声をかけ
ても、ムダ。母親に、その意識がないばかりか、むしろ、自分はできのよい母穂だと思いこんで
いる。そういうケースが、多い。

 以前、私がそれを指摘したときのこと。その子どもも、母親の過関心で、明かに性格が萎縮
していた。が、その母親は、「うちの子は、生まれつき、ああです」と。しかし、生まれたときか
ら、そうだとわかる母親など、いない。産婦人科のドクターだって、わからない。

 問題は、私たち自身のこと。

 私たちも、あらゆる場面で、さまざまな意識をもっている。そういう意識は、当然のことなが
ら、これまたあらゆる方向にズレている。そういう「ズレ」に、いかにして気づき、またそれをなお
していくかということ。それが重要。

 男でも、まったく、家事を手伝わない男がいる。
 父親でも、まったく、育児に参加しない父親がいる。
 さらには、強度のマザコンでありながら、自分では、ふつうだと思いこんでいる、男や女がい
る。(女性でも、マザコンタイプの人はいるぞ!)

 最近でも、ある男性(五〇歳くらい)と、こんな会話をした。たまたま天皇が、この浜松市へや
ってきたときの夜のこと。レストランで夕食を食べていると、私の横にすわった。いつもは世間
話で終わるのだが、その日は、ちがった。たまたま天皇が、国体の開会式のため、浜松市に
やってきていた。

 「日本人は、ああして、ちょうちん行列をする。K国の人たちも、同じような行列をして、金XX
をたたえる。同じようなものですね」と、私がふと、もらすと、その男性は、ムッと不愉快そうな顔
をして、こう言った。

 「日本の天皇陛下と、K国の金XXを、いっしょにしてはいけない。日本の天皇陛下には、万世
一系の、伝統と歴史がある。日本が世界に誇るべきことだよ。金XXは、まだ、たったの二代目
だ」と。

 ナルホド!

 人には、それぞれの考え方がある。もちろん、私にもある。それはそれとして、意識のズレと
いうは、いろいろな場面で現れる。その男性もズレているし、この私もズレている?

 こうしたズレを防ぐ方法があるとすれば、いつもいろいろな人の意見に耳を傾け、自分の中
で消化することだ。あるいは「昇華」でもよい。その点、私は、実に恵まれている。本当に、恵ま
れている。

 毎日、多くの幼児、小学生に接している。平均すれば、毎日、一〇〜二〇人程度の親たち
と、会話もしている。こうした人間関係が、私を、いつも「正常」(?)にする。邪悪な心や、邪念
があると、すぐその場で、たたきつぶされる。……たたきつぶされてしまう。この世界では、ごく
平均的な、かつごく常識的な意見しか、通用しない。

 加えて、子どもたちには、生きるパワーがみなぎっている。体も健康だが、心も健康である。
子どもたちは、まさに、「心のカガミ」ということになる。

 たとえば私がいくら落ちこんでいても、子どもたちは、それを許してくれない。暗い表情をして
いると、かえって、笑われてしまう。「先生、おかしいよ」と。

 さらに一言、つけ加えるなら、こうした世界では、親たちが、「ゆがみ」を感ずると、子どもを、
私に任さない。それは親の立場になってみれば、すぐわかること。思想的に偏向している教師
に、子どもを任すのは、たいへん危険なことでもある。

 だから、私は、自分では、きわめて標準的、常識的だと思っている。思っているだけで、ズレ
がないとは、断言できない。しかしこの「ズレに対する警戒心」は、私が、ものを考えたり、書い
たりするとき、片時も、頭の中から消えることはない。ある意味で、ものを書くというのは、その
ズレとの戦いであるといってもよい。

 言うまでもなく、ズレが大きければ大きいほど、人生の道を、踏みはずすことになる。時間を
ムダにすることになる。これだけは、何としても、避けたい。残りの人生は、ますます短くなって
きている。
(031106)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●運転手のミス

 少し、ひねくれた意見かもしれないが……

 静岡県吉田町のJR東海の東名高速バスが、停留所を誤って(報道のまま)通過してしまっ
た。それでそのバスの運転手は、四〇〇メートルを逆走(バック)し、停留所にもどり、一人の
客をおろし、別の一人を乗せて、その場を去ったという。 

 このニュースは、NHKの定時ニュースとしても報道された。警察は、実況検分をし、バス会社
は、緊急経営会議を開いて対策を協議するという。しかし……。少し、大げさではないのか? 
たかが、バスの運転手のミスではないのか?

 私が子どものころは、バスは客の要望に応じて、バス停でなくても、バスは、止まってくれた。
ときには、バス停でないところでも、客を、拾って乗せてくれた。どこかいいかげんだったが、そ
ういういいかげんさが、今から思うと、どこか温もりのある思い出として、心にかえってくる。

 これに対して、バス会社は、その運転手は、内部規約に違反したという。乗客をおろし忘れた
ときには、つぎの停留所まで走り、そこで会社に連絡をすることになっていた。しかしその運転
手は、その規約を守らなかった、と。

 そこで考えた。私なら、どうするだろうか、と。

 もし私がおりるはずの客だったら、笑ってすますだろうと思う。「おいおい、ちがうよ。ははは」
と。停留所の客でも、同じだっただろう。私の年代というのは、そういうミスに寛大な世代であ
る。もともと社会というのは、そういうものだという前提で、生きている。社会というのはそういう
ものだと、割り切っている。

 むしろ今のように、ガチガチになった社会のほうが、恐ろしい。たとえば列車にしても、日本
ほど、時刻表に正確に走る国は、そうはない。アメリカの列車など、数時間遅れとか、半日遅
れなど、あたりまえ。しかしだれも、文句を言わない。

 日本では、社会に組み込まれた人間たちが、寸部の狂いもなく、仕事をする。まさに人間が、
精密な歯車のように、仕事をしている。またそうすることが、仕事ということになっている。

 ミスにおおらかであれと言っているのではない。もう少し、社会にゆとりがあってもよいのでは
ないかと言っている。理由がある。

 ガチガチになればなるほど、社会は硬直化する。硬直化すればするほど、民衆がもつダイナ
ミズム(活力)がそがれ、ポテンシャル(可能性)が、つぶされる。今の日本のように、何をする
にも、資格だの、免許だのと、管理されてしまうと、民衆が、身動きがとれなくなってしまう。

 驚くなかれ、今では、地域の観光ガイドをするにも、資格がいる。

 つぎに、日本はともかくも、世界は、そうでないということ。先日も、アメリカの田舎町でタクシ
ーを予約したが、その日は、ダンナさんが、奥さん(=タクシードライバー)のかわりに、ふつう
の乗用車でやってきた。「ワイフは、今日は、ほかを回っているから……」と。

 もちろんメーターなど、ない。料金は、乗る前に、相談して決める。「一人で、二〇ドル。二人
で、四〇ドルでいいか?」と。

 では、そういうアメリカが不便かというと、そういうことはない。みながみな、そういうリズムで
動いている。

 それに私が心配するのは、こうまで人間が、国(官僚)によって管理されてしまうと、いざとな
ったとき、民衆は、臨機応変に行動できなくなってしまうということがある。生きる力そのもの
を、見失ってしまう。

 印象に残っているのは、一〇年ほど前、北九州で、雨不足による断水がつづいたときのこ
と。テレビの画面に向って、「断水は、行政の怠慢だ!」と叫んでいた男性がいた。当時私は、
山荘に水を引くため、四苦八苦していた。だから、思わず、その男性に、こう言ってしまった。
「何を甘ったれたことを!」と。

 何かあったとき、日本の社会は、ガタガタになってしまう。社会に柔軟性がない分だけ、身動
きがとれなくなってしまう。世界を歩いてみるとわかるが、日本は、超の上に、超がつく、超々管
理国家。決められたことを、その範囲の中だけで、おとなしく仕事をしている人には便利な世界
だが、しかしこんな世界を、本当に自由な国というのだろうか。

 繰りかえすが、だからといって、ミスにおおらかであれと言っているのではない。たしかに「J
R」という社会は、たるんでいる。それはわかる。それに、恐らく、つい先日、JRの東名高速バ
スの運転手が、飲酒運転をしていたということもあり、マスコミは神経質になっているのだろうと
思う。しかしその問題と、今回の問題は、本質的に、内容がちがうように思う。

 こういうミスが発見されると、国や会社は、さらにがんじがらめに、バスの運転手をしばりあげ
るだろう。しかしそんなことをすれば、運転手は、ますます萎縮してしまい、自分で何も考えられ
なくなってしまう。また同じような状況になると、パニック状態になってしまう。

 むしろ私たちが考えるべきことは、「こうしたミスは、バスにはつきものです。三〇分や一時間
の遅れは、よくあることです。乗客の私たちも、運転手を信頼しすぎないように、停留所がきた
ら、自分でバスを止めるような覚悟をもとう」ということではないのか。

 いわゆる自己責任という発想だが、それこそが、まさに、「自由」ということになる。だいたい
において、警察にしても、実況検分までしなければならないような、大げさな事件ではあるま
い。

 私はこのミスの報道を聞いたとき、心のどこかで、何とも言われない息苦しさを感じた。その
息苦しさを、少しでも、理解してもらえれば、うれしい。
(031107)

【TBSニュースより】

国交省、近くJR東海バスを監査へ 

 静岡県の東名高速道路で停留所を通り過ぎたJR東海バスの高速バスがバックで逆走した
問題で、国土交通省の中部運輸局は重大な事故につながるおそれがあったとして、近くJR東
海バスを監査する方針です。

 5日午後4時過ぎ、静岡県吉田町の東名高速道路上り線で、インターチェンジ内のバス停に
止まる予定だったJR東海バスの路線バスがインターチェンジを誤って通過しました。
 
 これに気付いた運転手は、本線や高速に乗り入れるための進入路をバックで逆送しました
が、危険なため途中でバスを止め、歩いてきた乗客を迎えに行きました。
 
 JR東海バスによりますと、停留所を通過してしまった場合、本来なら最寄りのサービスエリア
や、次のバス停から会社に連絡する規定になっていたということです。
 
 中部運輸局では、重大な事故につながる恐れがあったとして、運転手への指導が徹底して
いたか、近く関係者から事情を聴くことにしています。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

我が家の自己紹介

 マガジンで、写真を紹介できるようになったので、私の家の周辺を、紹介したい。

 私がこの地に、移り住んでから、もう二八年目になる。土地を買ったときは、ただの丘。ほと
んど家はなかった。で、すぐ家を建てたが、二階の窓からは、西は浜名湖から、東は、浜松の
駅まで見渡せた。湖西市のほうから、その浜松駅まで、新幹線が、切れることなく、走っていく
のが、見えた。

 が、それから二七年。あたりの様子は、すっかりと変わってしまった。今では、新幹線は、ま
ったく、見えない。東隣の空き地を除いて、住宅が密集した。一応、閑静な、中級(高級ではな
い)住宅地ということになっている。

 この土地は、私が購入したときは、一坪、一〇万円と少しだったが、あのバブル経済のころ
は、一〇〇万円になった。そののち、六〇万円にさがり、今は三〇〜四〇万円くらいで取り引
きされている(らしい)。

 「あのころ売っておけばよかったね」と、ワイフは、よく言う。実際、近所には、うまく売り逃げ
て、大金を手にした人もいる。

 で、私の家の前は、このあたりに代々住む、大地主T家の、墓地になっている。先祖の一人
は、あの賀茂真淵の弟子だったという。由緒ある名家だという。で、ちょうど私の家のあるあた
りには、江戸時代のはじめ、城があったという。長い間、このあたりを調査した人がいるが、結
局、その場所は、わからなかったという。

 しかし、だ。私の家のあるところが、その城跡ではないかと、私は思っている。昔の人は、リ
チギなところあって、方角にしたがって、城を建て、その城を中心に、寺や神社を建てた。そう
いう資料をもとにすると、つまり現存する、神社や寺の位置から推察すると、私の家のあるあ
たりが、「そこ」になる。

 実際、今の土地を整地するとき、井戸の跡が見つかったこともある。ふつうの井戸ではない。
一間四方もある井桁を組んだ、大きな井戸である。私の家は、その上に建てられている。

 また北側は、そのまま丘陵地帯につながっている。問題は、西側だが、少し前までは、谷だ
ったそうだ。新幹線の線路工事をするとき、残土をもってきて、埋めたてたそうだ。だから今
は、平地になっているが、その上にも、今は、ぎっしりと家が建っている。「だいじょうぶなのだ
ろうか?」と思いつつ、もう二七年になる。

 南側にも、家があって、そのため、我が家は、日当たりは、あまりよくない。しかしその分、庭
が広いので、それなりに楽しむことができる。いろいろな果樹を植えた。

 キーウィ、ブドー、モモ、クルミ、フェイジョワ、キンカン、ウメ、栗、カリンなど。少し前までは、
ザクロもあったが、駐車場をつくるとき、切った。

【写真1】庭、自宅のほうから、南側を写した
【写真2】庭、南側から、自宅のほうを写した
【写真3】玄関のほうから、裏のほうを写した
【写真4】自宅全景(庭から見た、我が家)
【写真5】細い通路(古い家の前の通路。南側だが、ほとんど、日が入らない)
【写真6】キーウィの棚。もう二五年になる老木

 以上が、我が家の自己紹介。こんな情報、何の役にもたたないことはよく知っている。たまた
まマガジンで写真を配信できるようになったので、試しにしてみた。どうか許してほしい。
(031106)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
★http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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と読みやすくなります。お試しください。
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【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
 1・24 ……森町教育委員会
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●一人の老人

 その男性は、絶対に、私のマガジンなど読まないから、ここに書く。

 五年ほど前のことだが、ある団体で、講演をした。そのあとのこと。担当者の方に、近くの喫
茶店に招かれて、お茶を飲んでいると、そこへ一人の男性(六〇歳くらい)がやってきた。その
地域で、消防団の世話人をしているということだった。「どうしても、君には、言っておきたいこと
がある」と、最初、そう言った。

 私の講演を、聞いた。そしてあまり私に視線を合わせようともせず、こう言った。

 「私は、若いころ、何冊か本を読んだ。ほら、君も知っているだろう。SSという作家ね。あの
人の本だよ。

 しかしね、あのSSは、毎日、印税で入ったお金を使って、飲んだくれていたそうだ。それを知
ってから、私は、本を読まないことにした。

 だってそうだろ。私が買ってやった本で、酒を飲むんだ。だからね、わしは、それから二〇年
間、一冊も、だれの本も読まなかったよ。

 それに、ものを考える人間が、ワシは大嫌いでね。そんなことして、何になるんだよ。頭デッカ
チになるだけだよ。ワシなんか、何も知らなくても、のんきな生活をしている。ものを考える人間
は、あのダザイ(=太宰治)のように、最後は、自殺だよ、自殺。君も、そのクチではないのか
ね」と。

 私の講演を聞いて、かなり、ショックを受けたらしい。私はその日は、「考えることの重要さ」に
ついて、話した。しかしその男性は、SSを例にとりながら、痛烈に、私を批判した。それはよく
わかった。しかし、私は、まったく、気にしなかった。

 この男性は、かわいそうな人だ。……と、私は、そう思った。

 しかし、世の中には、「学問」を否定する人は、少なくない。どこかで挫折し、心にトラウマ(心
的外傷)をもった人と、考えてよい。個人への反感と、自分のコンプレックスを、「学問の否定」
という形で、置きかえてしまう。あるいは知識そのものを、否定してしまう。

 だいたい、「二〇年間も、本を読まなかった」とは! またそれを自慢するとは! さらに印税
で、作家が酒びたりの生活をしていたことを知り、それに腹をたてるとは!

 もしそんなことを言うなら、テレビなど、見ないこと。モノなど、買わないこと。さらにいろいろな
作家がいるが、みながみな、酒びたりの生活をしているわけではない。現に、私など、一滴の
酒も飲めない。

 私は、講演のあとということで、疲れていた。だからその男性の話を聞きながらも、反論はし
なかった。反論しなければならないような、相手でもなかった。それにそのタイプの人に会うの
は、はじめてではなかった。

 若い人でも、学問や知識を否定する人は、いくらでもいる。しかしそういう人は、たとえて言う
なら、目の前の大海に背を向けながら、かがんで砂の中に、穴を掘っているようなもの。すなお
な気持ちで、目を海のほうに向ければ、そこにすばらしい世界があるのに!

 その男性は、こうも言った。

 「どうせいろいろ知ったところで、タカ(限界)が知れている。だったら、人間は、ムダなことは
知らないまま、死んだほうが、幸せなんだよ」と。

 いったい、その男性は、どういう人生を歩んできたのだろうか。あとで、そばにいた担当者の
方に聞くと、その少し前まで、ある公社でサラリーマンをしていたという。私はそれを聞いて、心
の中で、「先生でなくて、よかった」と思った。そんな先生に教育を受けたら、いったい、子ども
たちは、どうなっていただろう?!

 ……というわけで、この世界にも、いろいろ、ある。みながみな、好意的に、私の話を聞いてく
れるわけではない。中には、その老人のように、痛烈に、私を批判して帰る人もいる。

 しかし、その男性にしても、学問の世界を認めることは、自己否定につながってしまう。何が
恐ろしいかといって、自己否定ほど、恐ろしいものは、ない。だからいまさら、「学問はすばらし
い」とは、口が裂けても、言えまい。

 しかし、だ。私の恩師のT教授のように、五〇歳を過ぎてから中国語を勉強しはじめ、それ以
後、一五回近く、中国へ行っている人もいる。先日は、「とうとう、敦煌(とんこう)へ行ってきまし
た。夢がかないました」と、メールをくれた。

 今でも、T教授は、政府や文部科学省の要請を受けて、世界中の科学者と会っている。そし
ていつも、私には、こう言う。「林君、立ち止まってはだめだよ。いつも、トップクラスの人に会い
なさい。会うだけで、いい刺激になるはずだ」と。

 あえて真理の探求に背を向ける、その男性。いつも真理の探究に燃える、T教授。見た目に
は、よく似ているが、中身はまるで違う。もちろん、だからといって、その男性より、T教授のほ
うが幸福だとか、「上」だとか、そんなことを言っているのではない。

 ひょっとしたら、その男性が言うように、何も知らないで、のんきに生きたほうが、幸せなのか
もしれない。反対に、真理の探究をしたからといって、幸福になれるとは限らない。知識をもっ
たからといって、賢人になれるとも、かぎらない。

 あとは、読者のみなさんの、判断ということになる。「知る」のもよし、「知らない」のも、これま
たよし。ただ、今のところ、私は、その男性は、本当にかわいそうな人だと思う。
(031109)

【追記】

 そう言えば、その男性は、「自殺」に、強く、こだわっていたようだ。「(太宰治のように)、自殺
するヤツは、人生の敗北者だ」というようなことを言っていた。どこかの宗教団体の、熱心な信
者だったかもしれない。このエッセーを書き終わったとき、ふと、そんな疑念が、頭の中を横切
った。
 
 多くの仏教系の宗教団体では、「結果」を、たいへん重要視する。具体的には、「死に際の様
子をみれば、その人の人生がわかる」と説く。たとえばキリスト教についても、「最後は、はりつ
けだった。無残な最期だった。それがキリスト教はまちがっているという証拠だ」というような、
言い方をする。

そういうものの考え方を、その男性のどこかに感じた。これはあくまでも、私の印象だが……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

自己嫌悪

 うつ病になると、ときどき、はげしい自己嫌悪に襲われる。自分のささいな欠点や失敗を、こ
とさら大げさに問題にして、「自分はダメだ」「自分は生きていても意味がない」などと思う。思う
だけならまだしも、自分を消し去りたい衝動にかられる。

 自殺を試みる人の心理は、こうして説明されるが、代償的自己嫌悪というのもある。私が勝
手にそう呼んでいるだけだが、嫌悪の矛先が、「自分」ではなく、夫や妻、あるいは自分の子ど
もなど、「他者」に、向けられる。

 何かのことで、つまずいたり、失敗したりすると、「すべての原因は、夫(妻)にある」「自分が
こうなったのも、仕事(家庭)がうまくいかないのも、すべて夫(妻)の責任だ」と。

 一度、こういう心理になると、相手の何もかもが、いやになる。そして攻撃的に、相手を責め
たりする。

 このタイプの人は、まさに相手を執拗に責めたてる。クドクド、ガミガミ、ネチネチ、そしてギャ
ーギャーと。

 茨城県に住む、STさん(女性)がそうだ。STさんのメールによると、「こういう状態になると、
離婚どころか、夫を殺したい衝動にかられます」と。

 恐ろしい話だが、脳のCPU(中央演算装置)が狂うと、「死ぬ」「殺す」という言葉が、口から出
てくるようになる。

 だれしも落ちこむと、ある程度の自己嫌悪の念にとらわれる。「落ちこむ」というのは、もとも
と、そういう状態をいう。で、その落ちこんだとき、いかにしてそれを最小限におさえ、いかにし
て自分を、そうした自己嫌悪から回避するか。それが問題である。

 これについては、私もよくわからない。……というのも、私も、よく落ちこむし、ここでいう自己
嫌悪におちいる。そういうときというのは、他者(妻)があれこれ言っても、あまり意味がない。
静かに、そっとしておいてくれるのが一番だと思う。

 自分について言えば、「今は、正常ではない」と、はっきりと、自覚すること。そういうとき、あ
れこれと、決定したり、判断したりするのは、避ける。私も、そうしている。そしてそういうとき
は、ただひたすら、静かに時の流れに、身を任す。

 STさんのばあいは、仕事や子育てで疲れたとき、何かのことで失敗したようなとき、どっと、
そういう気分が、押し寄せてくるという。ふだんは、仲がよい夫婦として、世間でもとおっている
が、そういうとき、思わず、夫に向かって、「私の人生を返して」と言いそうになるという。

 どちらかというと、できちゃった婚に近かったという。それに結婚したのが、二一歳。若かっ
た。そういう思いが、複雑に交錯するらしい。「私の人生を返して」という言葉は、そういうところ
から出てくる(?)。

 人はだれしも、平凡ではいたくないと願う。しかしその平凡から逃れようとすればするほど、社
会の荒波と対峙する。そして無数のストレスをかぶる。それは現代社会がかかえる、宿命のよ
うなものかもしれない。そういう意味では、だれしも、うつ病、あるいはうつ病の予備軍というこ
とになる。「アメリカ人の、三分の一が、うつ病」という説もある。

 いいかえると、いかにして、自己嫌悪と戦うか。それは生活の中の、一つの大切なテーマとい
うことになる。
(031108)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【山荘にて……】

 今は、午前五時を、少しまわったところ。まだあたりは、真っ暗。さきほど、庭に出てみたが、
あたりは、水墨画に、シルクのスクリーンをかけたような景色だった。月は、ほぼ満月。しかし、
一一月も、ほぼ中旬だというのに、この暖かさは、どうしたものか?

 まだ三〇年前には、一一月といえば、ときに身を切るような冷たさを感じたもの。が、今朝
は、パジャマ一枚でも、寒くない。

 居間にもどって、冷えたお茶を飲み、この原稿を書きはじめる。気分は、あまりよくない。頭
も、ボーッとしている。それに重い。こたつの上にある、食べ残しのせんべいを、いくつか口に
入れる。

 朝風呂に入りたいが、ワイフは、まだ眠っている。水道を使うと、ポンプの音がうるさい。それ
がワイフの安眠をじゃまする。しかたないので、このまま原稿を書きながら、ワイフが起きるの
を待つ。

 数日前だが、ワイフが、「今年も、あと二か月ね」と言った。

 この一年間で、大きく飛躍した人もいるだろう。反対に、私のように、何をしたか、わからない
まま、一年を終える人もいるだろう。よい機会だから、この一年を、ふりかえってみる。

 仕事は、まあまあというところか。不況風はしかたないとしても、このところ、やや好転してき
た感じ。具体的には、収入は、昨年より、やや微増。もっとも昨年は、仕事そっちのけで、他人
のカウンセリングばかりしていた。

 で、今年の四月から、電話による相談は、すべて断ることにした。それまでは、ほとんど毎
日、そのカウンセリングだけで、午前中はつぶれた。もちろん一円だって、報酬を受け取ったこ
とはない。

 健康も、まあまあというところか。ときどき風邪をひいて、体調を崩すということはあったが、
仕事を休んだのは、半日だけ。大きな病気は、しなかった。ただこのところ、朝起きると、足の
裏が痛い。動き出してしばらくすると、痛みは消えるが、原因がわからない。「老人は、みなそう
だ」と、だれかが言った。

 今年は、一冊も、本を出版しなかった。そのかわり、電子マガジンに、全力を注いだ。とにか
く、一〇〇〇号まで、がんばる。……がんばってみる。その先に何があるかわからないが、と
にかく、がんばってみる。そのあとのことは、そのあとに考えれば、よい。

 ついでに、来年の抱負(ほうふ)。

 二日に一度、マガジンを発行したとしても、来年(〇五年)の終わりに、やっと五〇〇号。まだ
まだ先は、長い。

 来年は、とくに大きな計画はないが、一〇月ごろ、新しいパソコンを買うつもり。「来年の誕生
日(一〇月)にはいいだろ?」とワイフにねだると、「しかたないわねエ〜」と。今年は、あきらめ
た。買わなかった。ワイフが「しかたないわねエ〜」とあきらめたときは、「OK」という意味。

 今度は、いよいよ、自作パソコンに挑戦してみる。「CPUは、PEN4の3GHZで、メモリーは、
1024Mバイトで……」と、いろいろ考えている。超高性能のパソコンを、自分で組みたててみ
たい。ヤルゾー!

 今、窓の外をながめてみたが、まだ真っ暗。

 ふだんは、三〇分で、A四サイズの原稿を、数枚書くが、今朝は、まだ、たったの二枚。少し
のんびり書きすぎたようだ。……といっても、書くことがない。

 せっかくマガジンで写真を送ることができるようになったから、今回は、山荘の中を、紹介しよ
う。しかし、写真をとるとしても、まだ暗すぎる。

 で、今、気になっているのは、小学校における漢字学習が、今度、強化されることになったこ
と。私は、こうした方向性は、時代の流れに、逆行していると思う。「どうして、今、漢字なの
か?」と。

 お気づきの方も多いと思うが、私は、こうして原稿を書いても、小学校で習う当用漢字以外の
漢字は、ほとんど、使わない。「下さい」とか、「出来る」とか、そういう当て字も使わない。むず
かしい表現も、できるだけ避けている。たとえば、「価値観の相違」と書くようなときでも、「価値
観がちがうから……」というような言い方に、改めている。

 将来的には、私ががんばらなくても、漢字の使用は、減っていくだろう。そのことは、江戸時
代の文章と、明治時代の文章。さらに明治時代の文書と、最近の文章を読みくらべてみれば、
わかる。

 とくに最近の若い人たちは、漢字をほとんど、使わない。文章の書き方も変わってきた。そう
した「流れ」を決めるのは、あくまでも、一般大衆なのだ。「お上(かみ)」ではない。また「お上」
であってはいけない。

 外を見ると、ほんのりと明るくなってきた。かえって、先ほどより、寒くなったような感じがす
る。冷たいお茶を飲んだせいかもしれない。一日の中で、今が、一番、静かなとき。すべてのも
のが、動きを止める。やがてくる一日のために、スタートラインに並ぶ。

 息づまる瞬間。だれかかが、ピストルを空に向ける。そしてゆっくりと引き金に指をかける。ま
だか……。まだだ……。もう少し……。

 そのときを、固唾(かたず)をのんで、見守る。まだだ……。もうすぐだ……。

 そのとき、小鳥がさえずった。ピストルの音が鳴った。「ドン!」と。朝だ。一日がやってきた。
今、ピ〜イ、ピ〜イと、第一声をあげて鳴いたのは、ヒヨドリか? ヒヨドリだ。

 みなさん、おはよう。時刻は、午前六時二分。一一月九日の朝が、今、明けた。
(031109)

【追記】
 ヒヨドリの声につられて、コジュケイが、鳴いた。名前はわからないが、チッチッと、ツバメのよ
うな鳴き声も、けたたましく聞こえる。(ツバメではないが……。)今、山荘の外は、小鳥の大合
唱。騒々しいほどの、大合唱。もうすぐカラスも泣きだすはず。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■夫婦論(1)

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03−11−16号(318)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto733

大声

 いかにすれば、大声を出させることができるか。それは幼児教育の、一つの重要な「要」でも
ある。

 こう書くのも、今、集団の中で、大声を出せない子どもが、年中児で、五人に一人は、いる。
たいていは、心(情意)と、表情が遊離し始めていて、教える側からすると、いわゆる「何を考え
ているか、わからないタイプの子ども」ということになる。

 仮面をかぶるけースも、多い。

 子どもの世界、とくに幼児の世界では、よい子ぶるというのは、決して好ましいことではない。
このタイプの子どもは、(どうすれば、自分が先生に好かれるか)、(どうすれば、みなに、気に
入られるか)だけを考えて行動する。

 もっとも年長児くらいになると、意識的な行動というよりは、無意識的な行動となる。だからふ
つう、先生の受けもよい。「いい子です」と、先生にほめられる子どもは、たいていこのタイプの
子どもとみてよい。

 子どものすなおさをみるときは、その子どもが、自分をさらけ出しているかどうかをみて、判
断する。うれしいときは、うれしそうな顔をする。悲しいときは、悲しそうな顔をする。いやだった
ら、はっきりと「いや」と言う。そして皆が笑うときは、大声で笑う、など。

 こうした(さらけ出し)が基本となって、子どもは、他者(親、兄弟、先生、仲間)と、基本的な信
頼関係を結ぶことができる。が、ここでいう仮面をかぶるようになると、その(さらけ出し)をしな
くなる。つまり、他者と、良好な人間関係を結べなくなる。

 一般的に、他者との信頼関係をうまく結べない子どもは、(1)攻撃的になる、(2)服従的にな
る、(3)同情をかうようになる、(4)依存的になると言われている。

 これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 その中でも、ここでいうタイプの子どもは、集団の中で、服従的になったり、依存的になったり
しやすい。(反面、家の中では、態度が大きく、粗放化しやすい。俗にいう、『内弁慶、外幽霊』
となりやすい。)

 反対に、ここでいうようなタイプの子どもは、まず大声を出させるところから、指導を始める。
少しでも声を出したら、ほめる。また少しでも声を出したら、ほめる。これを根気よく、繰りかえ
す。

 その中でも、とくに有効なのは、笑わせること。これについても、すでにたびたび書いてきた
ので、ここでは省略する。私は、いつしか、笑わせることは、幼児教育の「真髄」と思うようにな
った。

 さて、あなたの子どもは、だいじょうぶだろうか。

 園や学校の参観日などを利用して、あなたの子どもの姿を見るとよい。このとき、家の中で
の様子と同じように、伸び伸びとしていればよい。心が開放されている子どもは、ハツラツとし
た表情をしている。そうでない子どもは、そうでない。どこか表情が、暗い。あるいは、仮面をか
ぶる。

 さらにひどくなると、親の前でも、心と表情が、遊離し、ちぐはぐになる。いやだと思っているは
ずなのに、ニヤニヤと笑うなど。もしそうなら、家庭教育のあり方を、猛省する。親の過干渉、
過関心、神経質で威圧的な育児姿勢など。

 大声でしゃべり、大声で自己主張をする。一見何でもないことのようだが、それができるだけ
でも、あなたの子どもの心は、まっすぐと伸びていることになる。
(031107)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ホームスクール

アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で
子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、つぎのように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。

「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部
で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、
(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大き
い。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要
約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんの
こと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑って
いるのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。子
どもはこのいたずらとジョークが大好きで、一般論として融通のハバが広い子どもほど、いた
ずらやジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというの
は、あまり好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも
通じない。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食
べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでくださ
い」と。

私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を食べた
ときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。あるい
は同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみせたこ
とがある。

そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年中男児)の頭をポ
ンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話で、「先生は、うち
の子どもの頭を理由もなくたたいたというではありませんか! 先生は体罰反対ではなかった
のではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を
入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立て
た中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がず
れていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かない
という点で、好ましいいたずらとはいえない。

 頭のやわらかい子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でも
おとなのジョークを理解することができる。ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポー
ターには、女の人はいないんだってエ」と言ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞い
たので、私が「だって、アル・ゼン・チンだもんねえ」と言った。言ったあと、「無理かな」と思った
が、一人だけニヤッと笑った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
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     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

静岡県浜松市

●独特の言い方

 私がこの浜松に住むようになったときのこと。あるとき、一人の男が、私の言った言葉に対し
て、こう言った。「ウッソー!」と。

 私はこの言葉に、激怒した。「ウソとは、何だ!」と。

 しかしやがて、それが浜松の方言だと知った。この地方では、ほかの地方で、「本当?」と聞
きかえすようなとき、「ウッソー!」と言う。

 が、方言だけではなかった。

 概して言えば、浜松の人は、言葉が、ぶっきらぼう。奥ゆかしさが、ない。たとえば私のワイフ
は、こういうような言い方をする。

 「お茶、飲むの?」と。

 私に、お茶を出すときに、そう言う。こうした言い方、つまり主語を、(あなた)にする言い方
は、この地方、独特の言い方と考えてよい。

 「(あなたは)お茶を飲むのか?」と。

 そこで若いときは、そういう言い方をされると、私もムッときた。何かしら、命令されているよう
な気分になったからだ。あるいは、こうした言い方は、相手に、一度は、頭をさげさせる言い方
といってもよい。

 あるいは、あなたなら、そういう言い方をされたら、何と答えるだろうか。「頼むから飲ませてく
れ」というような言い方で、答えるしかないのでは?

 こういうとき、ていねいな言い方では、「(私は)お茶を出しましょうか?」と、主語を(私)にす
る。が、浜松では、「(あなたは)お茶、飲むのか?」と。

 よく知られた例では、英語でも、ていねいな言い方をするときは、「Shall I……?」「Shall 
we……?」と、「私」もしくは、「私たち」を主語にする。

 「お茶、飲むの?」という言い方は、英語でも、まさに命令文ということになる。「Drink te
a?」と。浜松の人の言い方は、何かにつけて、その命令口調が多い。

●そのルーツ

 もともと浜松という町は、街道の宿場町として発展した。が、それだけではない。浜松の言葉
が独特なのは、この地方が、海に面していることがある。そのことは、近くの舞阪(まえさか)町
や、新居(あらい)町へ行ってみると、わかる。

 これらの町は、昔から、漁師の町として栄えたところである。こうした漁師の町では、言葉が、
実にぶっきらぼう。単語を並べただけのような言い方をする。

 それについて、こんな話をしてくれた老人がいた。

 「少し前、東京から来た客が、二人、朝、怒って、東京へ帰ってしまったというんだね。話を聞
くと、泊まった旅館で、『飯、食うか?』と、旅館の女将(おかみ)に言われたのに、腹をたてたと
いうんだね。しかし前坂町では、そういう言い方が、ふつうなんだよ。『飯、食うか? 食わない
か?』とね」と。

 漁師たちは、舟の上で、大声で怒鳴りあう。波の音や風の音もあるからね。そのとき、できる
だけ、ムダな言い方を省略しようとする。それが独特の言い方に、つながった、と。

 「お茶を出しましょうか」ではなく、「お茶、飲むか?」と。

 こうした言い方が、そのまま浜松にも、入り込んでいる。だから浜松の人は、ここでいうよう
に、ぶっきらぼうな言い方をする。

 もっとも、浜松に生まれ育った人には、それはわからない。自分たちは、標準語を話している
と、思いこんでいる。

●岐阜では……

これに比較して、岐阜のほうでは、心を何枚ものオブラートに包んだような話し方をする。会話
をしていても、何が、本当で、何がウソなのか、わからなくなるときがある。

 たとえば少し田舎のほうへ行くと、昔は、こんな会話をする。

 道でだれかと行きかうと、「ほう、昼飯、食っていかんけエ(うちで、昼食を、食べていきません
か)?」と。

 こうして誘われた人は、たとえ空腹でも、「では、お願いします」などとは言ってはいけない。そ
れはあくまでも、あいさつなのだ。そこで誘われた人は、こう答える。「今、食べてきたでのオ
(食べてきたところです。だから結構です)」と。

 こうした駆け引きは、ものの売買でもある。

 岐阜のほうでは、ものを買うときも、駆け引きを、ごく日常的にする。示された定価で買う人な
ど、まず、いない。「一個で、一〇〇〇円か。じゃあ、二個で、一五〇〇円にしな」と。

 それにひきかえ、この浜松では、駆け引きする人は、絶対にいない。値段の交渉すら、しな
い。「値切る」という言葉すら、ない。

 そうでない地方に住んでいる人には、信じられないような話かもしれないが、これは事実であ
る。だから結婚した当初、ワイフと、よく、このことでもめた。ワイフは、どこへ行っても、ものを、
定価どおりの値段で買ってきた。

 そこで「どうして安くしてもらわなかったのか?」と聞くのだが、そのこと自体、ワイフには、考
えもつかないことだった。

●浜松人の気質

 私が浜松に住むようになって驚いたのは、浜松の人は、ストレートだということ。言葉だけで
はない。ものの考え方が、ストレート。つまり、岐阜でいう、ウラがない。ありのままを、そのまま
口にする。

 そういう意味では、浜松の人は、わかりやすい。「お茶、飲むの?」と聞かれれば、「飲む」と
答えればよい。飲みたくなかったら、「飲まない」と答えれば、よい。ほかの地方の人のように、
「お茶を出しましょうか?」というような、どこかあいまいな言い方は、ここでは、しない。

 しかし私も、この浜松に住んで、三三年になるが、今でも、この言い方に、カチンとくるときが
ある。

ワイフ「仕事、行くの?」
私「何だ、その言い方は?」
ワ「どこが、悪いの?」
私「悪いって、もう少し、ていねいな言い方をしろ」
ワ「どこが、ていねいでないというの?」
私「そういうときは、『今日は、仕事がありますか』とか、そういう言い方をすればいい」
ワ「同じでしょ」と。

 で、ウラがない分、岐阜の人たちのように、ハラのさぐりあいというのを、しない。ものの売買
でするような、駆け引きをしない。値引き交渉もしない。だから、その分、浜松の人は、ウソを
嫌う。たとえば、この地方では、一度、信用をなくすと、以後、それを回復するのは、容易では
ない。実際には、相手にされなくなる。

 私も、だいぶ、それになれてきた。なれてきたというより、いつの間にか、浜松の人と同じよう
なものの考え方をするようになった。と、同時に、岐阜の人たちがもつ、独特の言い方が、より
クリアにわかるようになった。

●岐阜人の気質

実家へ帰ると、母と、よくこんな会話をする。
 
私「今日は、急ぐので、朝食はいらないよ」
母「いいから、いいから、食べていきんさい(食べていきなさい)」
私「でも、食べる時間がない。朝食は、電車の中で食べるからいい」
母「わかった、わかった」と。

 しかしそう言いながら、母は、朝食を用意し始める。そして家を出ようと、バッグを居間に置く
と、また母は、こう言う。「用意したから、食べていきんさい」と。

 岐阜のほうでは、言葉が言葉として、機能しないときがある。再び、「ぼくは食べないと言った
のに……」とたしなめると、「まあ、まあ、そう言わなくてもいいから、食べていきんさい。せっか
く、まわし(用意)したから」と。

 こうした会話は、ごく日常的なもので、親類の人たちとも、よくする。だから会話をしながらも、
結構、神経をつかう。相手の本音をさぐらなければならない。あるいは反対に、こういう地方で
は、ものごとをストレートに言うと、かえって嫌われる。あいまいな言い方のほうが、より、好ま
れる(?)。

 で、こうした気質が、ものの売買のときの、駆け引きにつながる。示された定価など、それを
信ずる人など、いない。買うほうも、売るほうも、そこでタヌキとキツネの化かしあいをする。

買い手「一個で、一〇〇〇円なら、二個で、一五〇〇円にしてよ」
売り手「それは、きついね。まあ、あんたには世話になっているから、二個で、一八〇〇円なら
いいよ。それでうちは、儲けなしだよ」
買「じゃあ、三個で、二〇〇〇円というのは、どう? ほかの店でも、そんなもんだよ」
売「またまた、きびしいねえ。三個で、二〇〇〇円かあ。それじゃ、うちは赤字だよ。でも、あん
たのことだから……。ほかの人には、内緒だよ。じゃあ、三個で、二〇〇〇円だ」
買「ありがとう」と。

 仕入れ値は、一個、五〇〇円。これで、売り手は、五〇〇円の儲けとなる……。

 私は子どものときから、こういう駆け引きを、日常的に見てきた。

●比較してみて……
 
 言葉というのは、その地方の人たちの気質を、正確に反映する。言いかえると、言葉を見れ
ば、その地方の人たちの気質が、よくわかる。

 こうした言葉を頼りに、浜松の人の気質をさぐると、こうなる。

 浜松の人は、岐阜の人よりも、プライドを大切にする。ワイフは、それについて、「岐阜の人
は、プライドをさげてでも、得をしたいと考えるみたい。浜松の人は、プライドをさげるくらいな
ら、損をしたほうがよいと考えるみたい」と言った。

 つまりワイフが言うには、「値切るなどということは、浜松の人はできない。それだけプライド
が高いから。だから損をする。しかし岐阜の人は、平気で、値切る。値切るということは、プライ
ドがないということ。岐阜の人は、プライドをさげてでも、得をしようとする」と。

 そうとばかり言えない面もあるが、まあ、概して言えば、そういうことか。

 で、今の私には、正直言って、浜松のほうが住みやすい。岐阜の人たちのように、あれこれ
気をつかわなくてもよい。浜松の人は、「YES」と言ったら、「YES」なのだ。「NO」と言ったら、
「NO」なのだ。

 こうしたものの考え方は、オーストラリア人と共通している。アメリカ人とも共通している。だか
ら、わかりやすい。

 その一例が、冒頭にあげた言い方である。どこかぶっきらぼうだが、まさにストレート。最初、
よそから浜松へ来た人は、この言い方に驚き、そして戸まどう。

 だから……。

 もともと浜松で、生まれ育った人は、浜松の言い方が、外から来た人には、「きつい言葉」で
あることを、どうか理解してほしい。

 また外から浜松へ来た人は、浜松の人は、ここに書いたような独特の言い方をするので、注
意したほうがよい。

 これは私から、ワイフへのメッセージと考えてもらってよい。つい先ほども、このことで、ワイフ
と口論したところだ。

私「もう少し、別の言い方をしろ!」
ワ「私の言い方の、どこに問題があるの!」と。
(031108)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

夫婦論

●静岡県H市に住んでいる、MTさんからいただいたテーマについて、考えてみる。MTさん
は、このところ、殺伐とした夫婦関係に悩んでいる。「家庭内離婚」という状態だそうだ。ただ
「子ども(高一男子と、中一男子)がいるので、離婚せず、がんばっている」とのこと。

●されど、夫婦……

 結婚した。子どももできた。あれこれと夢中で生きてきたが、ある日、ふと立ち止まったような
とき、こう思う。

 「こんなはずではなかった……」と。

 妻だけではない。夫も、そうだ。「私は、もっと、いい人と結婚すべきだった」という思いが、「こ
んな人と結婚すべきではなかった」という思いに変わる。あるいは「どうして、こんな夫(妻)と結
婚したのだろう」という思いに変わることもある。

 そこでこのタイプの人は、夫であるにせよ、妻であるにせよ、自分の心を守るために、さまざ
まな心理的変化を示すようになる。自分の心を認めるということは、即、自分が不幸になること
を意味する。さりとて、離婚して、再出発する勇気も、元気もない。知力も財力もない。男のば
あい、生活力そのものがないことも、多い。

 しかし安心してほしい。

 大半の夫婦は、そんなもの。電撃に打たれて、熱烈な恋をして、身も心もこがしながら、相思
相愛で結婚する夫婦など、そうは、いない。たいていは、そのときの成りゆき、雰囲気、あるい
はハプニングで結婚する。心はともかくも、たがいに体を求めあって結婚するというケースもあ
る。

 つまり夫婦というのは、そういうもの。たとえば動物の世界でも、生涯にわたって、一夫一妻
をつらぬく動物は、少ない。人間に近いサルについては、ボス猿を中心とした、一夫多妻の生
活を営んでいる。

 だから人間についても、必ずしも、一夫一妻制に、生涯、こだわる必要はないのではないの
か……というふうに、最近、考えるようになった。少なくとも、離婚することを、「悪」と考えるの
は、まちがっている。

 むしろ、たがいに仮面をかぶりながら、自分の心をごまかし、たがいにキズつけあうほうが、
おかしい? まちがっている?

 そこでこのタイプの夫婦は、究極の選択を迫られる。

 離婚するか、もしくは、妥協して、結婚生活をつづけるか。

 しかしここで注意したいのは、幸福感の充実というものは、毎日、持続的にあるものではない
ということ。一か月のうちの、数日。その数日のうちの、数時間、その数時間のうちに、ほんの
数分もあれば、じょうでき。のこりのあとの時間は、その瞬間のためにあるようなもの。日常的
に、幸福の充実感がないからといって、その結婚生活が失敗とは、言えない。

 そこで大切なことは、いかにして、一対一の人間関係を、いかにして充実させるかということ。
夫婦というワクにこだわる必要はない。「夫だから……」とか、「妻だから……」と考える必要も
ない。そのうち、夫婦を超えた、新しい人間関係が生まれる。

 かく言う私たち夫婦も、何度か、危機的な状況を経験している。今も、危機的? 決して安泰
というわけではない。原因の多くは、私のゆがんだ性格。自分でも、それがわかっている。偉そ
うに人前に立って、これまた偉そうなことをしゃべっているが、本当のところ、心の中は、ボロボ
ロ。夫婦関係も、ボロボロ。親子関係も、ボロボロ。

 ただ、この年齢になると、「居なおる」ということを覚える。「どうせこんなもの」という思いや、
「人生、そう長くない」とか、「だれと結婚しても、同じようなもの」という思いが、強くなる。そして
その分、今の私のように、ほかのことでエネルギーを使うようになる。

 これはある種の、現実逃避からもしれない。あるいは、ある種の、ニヒリズムかもしれない。し
かし大切なことは、夫婦にせよ、親子にせよ、あまり過剰に、期待などしないこと。またその幻
想に、とりつかれるのもよくない。「家族はこうあるべき……」「こうでなくては……」と、考える必
要もない。あなたはあなただし、今のあなたの姿が、あなたの姿なのだ。

 で、MTさんのばあい、問題は、二人の息子である。MTさんは、二人の息子のことを考えて、
離婚しないでいるという。しかし年齢的には、すでに、現実を、じゅうぶん受け入れる年齢にな
っている。あるがままの状態を、あるがままに話せばよいのでは……と、思う。

 この事案に似たようなケースだが、一一月七日、こんな相談をもらった。


++++++++++++++++
 
はじめまして。MRと申します。

貴HPを拝見させていただき、ぜひ相談に乗ってもらいたいと
思いましてメールを書いております。

私には小学一年生の娘がおります。

娘が産まれて間もなく離婚をして、六年間母子家庭で育ててき
ました。
最初の四年間は私の実母と3人で暮らしていましたが、私と折り合
いが悪く、別々に暮らすことになりました。

私が小さいころに母が家を出てから、父方の祖父母と父と兄弟三人
とで暮らしていましたが、祖母がとても気が強い人で、兄を溺
愛し、私を認めようとしない人で、とても厳しく育てられました。

そのせいか、私も娘には厳しいしつけをしてきました。

去年、趣味のサークルのバーベキュー大会で知り合った男性を、
娘が気に入った事がきっかけで、私はその方と今年再婚しました。

二月に主人の暮らす佐賀県に引っ越して来たのですが、それか
ら娘の行動がおかしくなりました。

嘘をついたり、過食をしたり、反抗をしたり・・・

主人も厳しい両親の元にそだったので、間違った行動をする娘
に厳しく接してきました。
もちろんちゃんとしている時には、かわいがって遊んだりしてい
ます。

時には手を上げる事もあり、児童虐待の容疑で通報され、今は児
童相談所に通所もしていますが、まったく良くなりません。

最近ではわざと反抗しているので、「中間反抗期」を疑っている
のですが、娘は「この家に居たくない。何も頑張りたくない」と
言います。

学校ではとてもよい子なので、担任の先生からは私たち親が白い目
で見られています。

娘が気に入ったから大丈夫だと思って再婚したのですが、嫌い
になったのでしょうか?

主人と娘が遊んでいる時は、とても楽しそうで本当の親子のよう
です。
主人も早く仲良く生活がしたいと言っていますが、これから先
どうしたら良いのでしょうか?

私達は離婚したほうが良いのでしょうか?
お力をお貸しください。よろしくお願いします。

         佐賀県S市、MRより

++++++++++++++++++++++

 MRさんのケースでは、どこか、親としての気負いを強く感ずる。MRさん自身が指摘している
ように、MRさんは、あまり心豊かな家庭に育っていない。

 一般論として、「きびしい家庭」というのは、基本的に親の愛情の欠落した家庭とみてよい。
愛情が欠落すると、子どものすることなすこと、気になってしかたない。その(気になってしかた
ない部分)が、(きびしさ)となって、子どもにはねかえってくる。

 わかりやすく言うと、MRさんの中には、豊かな親像が入っていない。そのため、そうでない親
より、心豊かな家庭を築くのが、むずかしい立場にある。これはたとえて言うなら、みなより、一
〇メートルとか、二〇メートル、遅れて、一〇〇メートル競争に臨むようなものである。

 メールを読むかぎり、MRさんは、それに気づかないまま、MRさん自身の過去に振りまわさ
れている。わかりやすく言うと、MRさんが、子どもにきびしいのも、そして児童虐待の容疑がか
けられたのも、MRさん自身の責任というよりは、MRさん自身の過去の責任である。もっとい
えば、MRさんの親の責任である。

 ここで重要なことは、だからといって、MRさんが、自分の過去をのろってもしかたないという
こと。重要なことは、自分の過去を冷静にみつめること。自分を知ること。なぜ、今の自分がそ
うなのかを、自分で知ること。

 これはとても勇気のいることである。ほとんどの人は、その勇気がないまま、この問題から逃
げてしまう。そして同じ失敗を、繰りかえす。

 で、MRさんの相談だが、このメールを読むかぎり、離婚しなければならない理由など、どこ
にもない。離婚するかしないかは、夫婦の問題であって、子どもの問題ではない。現に、娘と父
親の関係は、良好である。MRさんと、夫の関係も、このメールを読むかぎり、良好である。

 問題は、MRさんと娘の関係だが、この程度の不協和音は、いまどき、珍しくも何ともない。た
だ年齢が、小学一年生ということだから、本来なら、親子関係(とくに母子関係)は良好でなけ
ればならない。しかしだからといって、つまり良好でないからといって、MRさんは、自分を責め
てはいけない。

 仮に離婚すれば、それで母子関係は、正常になるのだろうか? 今の状況からすれば、悪
化することはあっても、好転することは、考えられない。

 MRさんは、自分が受けた子育てを、そのまま、自分の娘に繰りかえしている。「自分がきび
しい子育てをされたから、娘にもきびしくしている」と。あるいは何か問題があると、すぐ「離婚」
という解決方法につなげてしまう。

 このことからもわかるように、MRさんは、自分の心的外傷(トラウマ)を、そのまま娘に対し
て、繰りかえしている。問題は、そこに気づくこと。そしてその心的外傷が、虐待容疑の理由に
もなっている!

【MRさんへ】

 私は、メールを読むかぎり、離婚しなければならないような理由など、どこにもないと思いま
す。あなたと子ども(娘さん)の関係がギクシャクしていることを除けば、何も、問題はないでは
ないですか。


 あなたは自分の中の問題に振りまわされているだけです。「いい家庭を築こう」「いい親でい
よう」と。が、娘の心がうまくつかめない。「だから、私は母親として失格だ」「妻として失格だ」
「だから、離婚しなければ」とです。

 どうしてそんなに不幸が好きなのですか? あなたはあえて自分から、不幸を追い求めてい
るだけのような気がします。

 幸福というのは、つくるものではなく、残り火の中から、火箸でかき分けるようにして、さがし
て、見つけるものです。が、あなたは、その残り火すら、足で踏んで消している。あえて悲劇の
主人公になろうとしている。

 あなたと子どもの関係がおかしかったら、あなたの子どもは、夫に任せて、あなたはあなたで
好きなことをすればよいのです。どうせ親子というのは、そういうもの。やがてあなたの子ども
が、小学三、四年生(もうすぐですよ……)になれば、親離れしていきます。そういうものです。

 勇気を出して、小さな幸福に、しがみついてください。しがみつくのです。小さいからダメとか、
そういうふうに考えてはいけません。最後の残り火が残っているかぎり、その残り火を、大切
に。決して、自分で、消してはいけません。

 そうしてがんばっているのは、あなただけではない。みんなそうなのです。私もそうだし、あな
たの隣の人もそうなのです。外から見ると、幸福そうに見えますが、それはあくまでも、外見。
みんなそれぞれの問題をかかえて、必死になってがんばっているのです。

 あなたと子どもの関係について言えば、あなたは母親として、つまりは、(へたくそな母親)で
す。しかし、それでいいのです。あなたはやるべきことを、今、懸命にやっている。それでいい
のです。

 大切なことは、前にも書いたように、(へたくそな母親)であることを認め、子どもの前で謙虚
になることです。「私は、こんな母親だけど、ごめんね」とです。あなたが謙虚になれば、あなた
の子どもは、必ず、あなたに心を開きます。

 あとは「許して忘れる」。これだけを心の中で念じながら、子どもと根比べをしてください。負け
ても、負けても、ただひたすら負けるのです。ほら、昔から、日本では、こう言うでしょ。『負ける
が、勝ち』と。それでよいのです。

 今、あなたが「何かに勝とう」と思えば、その先は、離婚しかありません。しかし今、ここで負け
を認めれば、その先には、すばらしい幸福が待っています。約束します。だから勇気を出して、
負けを認めなさい。

 あなたは、失格ママです。ヘタクソママです。
 あなたは、どうしようもないほど、バカな母親です。
 あなたは、妻としても、失格です。
 あなたが、がんばったところで、どうにもなりません。
 あなたの力など、まったく価値がありません。

 さあ、それを勇気を出して、認めなさい。そして子どもや夫の前で、頭をさげる。それでよいの
です。あなたから、今の張りつめた気負いが取れたとき、あなたは、その向こうに、広くて、お
おらかな世界を見るはずです。

 「離婚すべきでしょうか」という質問には、答は、もう一つです。「どこにも、離婚しなければな
らない理由など、ない」です。今ある幸福を、しっかりと握って、もう放してはだめですよ。繰りか
えしますが、勇気を出して、見栄もプライドも、外聞も捨てて、それにしがみつくのです。

 「あなたを、愛している」「みんなを、愛している」「こんな私だけど、いっしょにいて!」とです。

 このつづきは、またあとで考えてみます。

+++++++++++++++++++++++

●夫婦とは……

 ついでながら、夫婦について、考えてみる。

 フランシス・ベーコンは、こう言った。『若い男にとっては、妻は、女主人であり、中年の男にと
っては、友であり、老年の男にとっては、看護婦である』(「結婚と独身生活」)と。

 男の側から見た、夫婦というのは、そういうものかもしれない。では、女の側から見た、夫婦
というのは、どういうものか。最初に思い浮かんだのが、イプセンの「人形の家」で夫婦は、どう
いうものか。それを如実に表したのが、イプセンの『人形の家』である。

 『私はあなたの人形妻になりました。ちょうど父の家で、人形子であったように……』と。

 最初は他人どうしで始まる夫婦だが、何年もいっしょに暮らしていると、1+1=1になってし
まう。たがいにからみあう木のようなもので、一体化してしまう。どこからどこまでが、「私」で、ど
こから先が、「妻」なのか、「夫」なのか、わからなくなってしまう。

 そういう点では、ベーコンも、イプセンも、たがいの間に、一線を引いている。1+1=2の原
則を、貫いている? 夫婦でいながら、どこか他人行儀。それがよいことなのか、悪いことなの
かという議論はさておき、世の中には、(1+1=1夫婦)と、(1+1=2夫婦)がいる。あるい
は、(1+1=1+1夫婦)というのも、いる?

【1+1=1夫婦】

 ショッピングセンターの中でみかける夫婦でも、服装の趣味から、雰囲気、様子までそっくり
の夫婦がいる。ワイフは、「奥さんが、ダンナの衣服をそろえていると、夫婦も、ああなるのよ」
と言うが、そうかもしれない。『似たもの夫婦』とは、よく言ったものだ。

 で、農村へ行くと、この(1+1=1夫婦)に、よくであう。仕事も、生活も、あらゆる面で、夫婦
が、一体化している。原付リアカーで、うしろに奥さんを乗せて、トコトコと走っている夫婦が、そ
の一例である。

 こうした夫婦は、二人に、分けることはできない。どちらか一方が欠けても、仕事も、生活も、
できなくなる。二人の境界が、溶けて混ざりあうように、密着している。

【1+1=2夫婦】

 宇宙飛行士の夫婦に、そういう人がいる。奥さんのMさんは、アメリカで宇宙飛行士として活
躍している。ダンナさんは、日本に残って、「家」を守っている……。

 ダンナさんは、得意になって本まで書いているが、しかしそういう夫婦の形が理想的だとは、
だれも思っていない。だいたいにおいて、「夫婦」と呼んでよいものか、どうか?

 もっとも最近の傾向としては、(1+1=2夫婦)が、標準的になりつつある。概して言えば、サ
ラリーマン家庭では、そうではないか。夫の仕事の中に、(妻の存在)を組みこむということ自
体、無理がある。それで、「夫は夫、妻は妻」となる。

 本来は、やはり(1+1=1夫婦)が自然だとは思うが、社会も変わってきたので、そうばかり
は言っておられない。(1+1=1・5夫婦)とか、(1+1=2夫婦)というのがあっても、しかたな
いということになる。どこかで夫婦としての接点があれば、それでよいということか。

 どちらを選ぶかというよりも、どちらの夫婦になるかということは、生活の「形」が決めること。
あくまでも、成り行き。夫婦というのは、結果として、(1+1=1夫婦)になったり、(1+1=2夫
婦)になったりする。

 たがいに個性的に生きるなら、(1+1=2夫婦)がよいということにもなるが、私のように、も
ともと依存性が強い男には、そういう夫婦は、さみしい気もする。仮に、ワイフが、アメリカへ行
き、そこで宇宙飛行士として活躍し始めたら、それを受入れる前に、別れてしまうだろうと思う。

 その宇宙飛行士にしても、今は花形職業(?)だが、たかが宇宙飛行士ではないのか。明治
のはじめ、東京、新橋間を走る、あのチンチン電車の運転手は、まさに英雄だったという。そう
いうチンチン電車の運転手になるため、妻が、逆単身赴任で、東京に出た。状況的には、それ
と、どこも違わない。このタイプの夫婦は、(1+1=2夫婦)ではなく、(1+1=1+1夫婦)とい
うことになるのかもしれない。

 (私が言いたいのは、宇宙飛行士になるため、夫婦が別々に暮らすというが、それほどまで
の価値が、宇宙飛行士という職業に、あるかということ。)

 夫婦は、同居して、夫婦なのである。守りあい、教えあい、励ましあって、夫婦なのである。セ
ックスだって、重要な要素だ。この大原則は、昔も、今も、変わらない。あるいは、これからは、
(1+1=1+1夫婦)というのも、ごくふつうのことになるのかもしれない。が、それを決めるの
も、やはり成り行き。

 わかりやすく言えば、夫婦に形はない。最初はみな、同じでも、その形は、それぞれが決め
る。大切なことは、それがどんな形であっても、たがいに認めあい、尊重するということ。自分
の形を、決して、他人に押しつけてはいけない。

 ここまでのところをワイフに読んで聞かせたら、ワイフは、こう言った。「ホモの人どうしが、結
婚するということもあるからねエ……」と。

 ナルホド! ワイフの一言が、私の夫婦論を、根底から粉々に、破壊してしまった!

 つきつめれば、一人の人間と、一人の人間が、それぞれに納得すれば、それでよいというこ
とか。「夫婦」という名称にこだわるほうが、おかしいということになる。となると、ここに書いた、
(1+1=1夫婦)も、(1+1=2夫婦)も、そうして考えること自体、無意味ということになる。

 ああああ。

 私が今まで考えてきたことは、無意味ということか。私はときどき、この(1+1=1夫婦)と、
(1+1=2夫婦)の話を、あちこちでしてきたのだが……。

 となると、話は、振り出しにもどってしまう。「夫婦とは、何か?」と。このつづきは、また別の
機会に……。

+++++++++++++++++++++
 
【MRさんよりの返事】

はやし様

早速の返答を、ありがとうございます。

はやし様の言うとおりで、読んでいて、涙が出ました。
私は主人を愛しています。
できれば離婚はしたくないのです。

主人も娘の事で悩んだりはしていますが、私との夫婦関係には何
も問題がないので「幸せだ」と言ってくれています。

私は血の繋がらない親子関係は、難しいと思い込み
主人の親戚たちにも、何とか娘を認めてもらおうと必死でした。

主人の母は主人をとても愛しているので、主人が悩んでいると、私へ
の当たりが強くなります。
「あなたがしっかりしてちょうだい」と・・・。

娘はとても良い子です。
明るくてやさしくて思いやりもあれば、礼儀も正しいです。
娘がずっと欲しがっていたお父さんができたのです。
みんなで仲良く暮らしたいです。

主人には前妻さんとの間に、私の娘より一歳年上の男の子がいます。
まったく面会などはないのですが、その子と比べられるのが
一番イヤで、娘に必要以上に良い子を要求していたのだと反省し
ています。

良い母、良い妻、良い嫁・・・。
頑張りすぎていたのかも知れませんね。

これからは肩の力を抜いて、楽しんで生活したいと思います。

はやし様ありがとうございました。

+++++++++++++++++++++

【MRさんへ(2)】

 参考になるかどうかわかりませんが、
以前書いた原稿を、二作、添付しておきます。
夫婦、孤独、愛について、書いたものです。

+++++++++++++++++++++

●心について

●反動感情
 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動
形成というのは、自分の心を抑圧すると、その反動から、正反対の自分を演ずるようになるこ
とをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、た
とえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成
に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース
 私がAさん(三四歳女性、当時)に会ったのは、私が四〇歳くらいのことだった。もともとは奈
良県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を
感じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘
を愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れつの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。
このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主
体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態を
つくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電
撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(四〇歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになった
ときのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でし
ょ?」と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦
に見えた。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないので
すか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(四五歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらし
なかった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前
では、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副
会長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反
動感情で作られた愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたと
したら、ということだが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。

ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれな
い。本当はあなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだ
け、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高くな
る。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

●ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人た
ちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質と
なった女性は、犯人と結婚までしたという。

●イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小二男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。

+++++++++++++++++++++

●真理と孤独

 キリストや釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われ
たか? もっと言えば、孤独ではなかったか?※

 キリストにも釈迦にも、弟子はいた。しかし師と弟子の関係は、あくまでも師と弟子の関係。
師は、あくまでも智慧(ちえ)を与える人。弟子は、あくまでもその智慧を受け取る人。弟子たち
はそれでよいとしても、師であるキリストや釈迦は、どうだったのか? それでよかったのか?

 真理の荒野をひとりで歩くことは、それ自体は、スリリングで楽しい。しかし同時に、それは孤
独な世界でもある。(私が求めている真理など、真理ではないかもしれないが、それでもそう感
ずることがよくある。)とくに、現実の世界に引き戻されたとき、その孤独を強く感ずる。「人生
は……」などと考えていたところへ、幼児がやってきて、「先生、ママがいなア〜イ」と。

 そこで心の調整をしなければならないが、私のばあい、思索の世界から離れたときは、その
反動からか、今度は極端に、バカになる。バカになって、心の緊張感を解く。孤独から離れる。
もしあなたが、私の近くへやってきて、私を知ったら、私のことを、ひょうきんで、おもしろい男だ
と思うだろう。私は子どものみならず、おとなに対しても、笑わせ名人で、いつも周囲の人たち
をゲラゲラ笑わせている。私のワイフですら、「あんたといると、退屈しない」と言っている。昨夜
も寝るまで、ワイフを笑わせてやった。

 が、反対に、そういう外での私しか知らない人は、私の作品を読んだりすると、「これ、本当に
あなたの文ですか?」と聞いたりする。そこまではっきりと言わないまでも、驚く人は多い。「あ
の『はやし浩司』って、あなたのことでしたか?」と言った人もいる。

 が、キリストや釈迦は、そうではない。あるいはひょっとしたら、ひょうきんで、おもしろい人だ
ったかもしれないが、そういう話は、伝わっていない。……となると、やはり、キリストや釈迦
は、どうやって、孤独と戦ったかということになる。ふつうなら……という言い方はしてはいけな
いのだろうが、しかしふつうなら、何らかの形で自分の心をいやさないと、とても孤独には、耐
えられない。

 もっともキリストにせよ、釈迦にせよ、私たちをはるかに超越した世界に住んでいたのだか
ら、孤独ということはなかったかもしれない。……となると、また別の問題が生まれてくる。

 もし、仮に、だ。もし、あなたが、ある惑星に落とされたとする。そしてその惑星は、サルの惑
星で、サルたちが、サルのまま、野蛮な生活をしていたとする。一方、あなたには、知性があ
る。言葉もある。道徳も、倫理もある。もしあなたがそういう世界に落とされたとしたら、あなた
はどうなるだろうか。あなたは神や仏のように祭られるだろう。しかしあなたはその世界がも
つ、孤独に耐えられるだろうか。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 幼児教育をしていて、ゆいいつ、つまらないと思うのは、いくら幼児と接しても、私と幼児の間
には、人間関係が生まれないということ。この点、大学生や高校生を教える先生は、うらやまし
い。教えながら、人間対人間の関係になる。そこから人間関係が生まれる。が、幼児教育に
は、それがない。で、そういう幼児だけの世界にいると、ときどき、言いようのない孤独感に襲
われるときがある。私が考えていることの、数千分の一も、子どもたちには伝わらない。説明し
てあげようと思うときもあるが、あまりの「へだたり」に、呆然(ぼうぜん)とする。

 つまり、人は、その世界を超越すればするほど、その分だけ、孤独になる? キリストや釈迦
のような「人」であれば、なおさらだ。となると、話は、また振りだしに戻ってしまう。「キリストや
釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われたか? も
っと言えば、孤独ではなかったか?」と。

 もちろんキリストや釈迦を、私たちと同列に置くことはできない。本当にそうであったかどうか
は、私にはわからないが、彼らは真理に到達した「人」たちである。もしそうなら、その時点で、
孤独からは解放され、その時点で、さらに真の自由を手に入れていたことになる。あるいは、
キリストや釈迦は、私たちが考えもつかないような世界で、もっと別の考え方をしていたのかも
しれない。

 考えていくと、この問題は、結局は、私自身の問題ということになる。真理などというのは、簡
単に見つかるものではない。恐らく私が、何百年も生き、そして考えつづけたとしても、見つか
らないだろう。もしそうであるとするなら、私はその真理に到達するまで、つまり死ぬまで、その
一方で、この孤独と戦わねばならない。

もちろん、キリストや釈迦のように、真理に到達すれば、あらゆる孤独から解放されるのだろ
う。が、そうでないとしたら、一生、解放されることはない? しかも、だ。皮肉なことに、真理に
近づけば近づくほど、ほかの人たちからの孤立感が大きくなり、そしてその分だけ、孤独感は
ますます強くなる?

 そういう意味で、真理と孤独は、密接に関連している。紙にたとえて言うなら、表と裏の関係と
いってもよい。世界の賢者たちも、この二つの問題で、頭を悩ました。いくつかをひろってみよ
う。

●この世の中で、いちばん強い人間とは、孤独で、ただひとり立つ者なのだ。(イプセン「民衆
の敵」)
●われは孤独である。われは自由である。わらは、われ自らの王である。(カント「断片」)
●つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただ一人(ひとり)あるのみこそよ
けれ。(吉田兼好「徒然草」)
●孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である。(ショーペンハウエル「幸福のための警句」)
●人はひとりぼっちで死ぬ。だから、ひとりぼっちであるかのごとく行為すべき。(パスカル「パ
ンセ」)

 簡単に「孤独」と言うが、孤独がもつ問題は、そういう意味でも、かぎりなく大きい。人生にお
ける最大のテーマと言ってもよい。そうそうあの佐藤春夫(一八九二〜一九六四、詩人・作家)
は、こう書いている。『神は人間に孤独を与へた。然も同時に人間に孤独ではゐられない性質
も与へた』と。この言葉のもつ意味は、重い。

※マザーテレサの言葉より……

●孤独論

 孤独は、あらゆる人が共通してもつ、人生、最大の問題といってよい。だからもしあなたが
今、孤独だからといって、それを恥じることはない。隠すこともない。大切なことは、その孤独
と、いかにうまく共存するかということ。さあ、あなたも声を出して叫んでみよう。「私はさみしい」
と。マザーテレサは、つぎのように語っている。

●キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼は、ただ食物とし
てのパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キ
リスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれ
にも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズ
つけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独
は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
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