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《08》
 BOX(インターネット・ストーレッジ版)

BOX Essays 版 ……●
2003年 1月04日
2003年 02月07日
上記BOXへアクセスできないときは、直接……●

件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-6

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、明けまして、
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)  おめでとうございます!
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /    今年もよろしく
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄      お願いします!
 ===○=======○====KW(8)
★★★★★★★★★★★★★★
03−1−4号(新年、あいさつ号)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
☆このマガジン読者の方どうしの方+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
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☆ ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
●毎日午前10:00〜に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただ
きます。毎週月曜日は、できるだけ私も参加するようにしています。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください! 

 ≪≪≪
《   》   読者のみなさんへ……
‖へ へ‖    
⊂ U ⊃    1月6日から、またこのマガジンの発行を始めます。
  フ       少したいへんですが、できるだけ隔日(一日おき)発行を
| |       めざします。何かと、騒がしいマガジンですが、今年も
/ ▼ \       よろしくお願いします。
  ■          みなさんのご健康と、ご多幸、それにお子さんたちの
  ■           すこやかなご成長を、心から念願しています。
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)

【1】新年のごあいさつ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

あけまして、おめでとうございます

●2003年になりました
2003年になりました。お元気ですか。
 今年も、がんばって、このマガジンを発行することにしました。よろしくお願いします。1月6日
(月曜日)から、昨年と同じように、また騒々しくなりますが、どうかお許しの上、ご愛読ください
ますよう、お願いします。

●私の正月
 私の正月は、本当にサエないものです。ここ数年は、旅行もせず、ときどき外出しては、人に
会ったり買い物をしたりして過ごしています。息子たちも、それぞれ自分の予定をもち、勝手な
行動をするようになりました。「元旦だけは、家族は集まろう」と、約束したこともありますが、ど
うやらそれは、私だけの約束だったようです。

 私は正月になると、正月太りを、繰りかえします。運動不足と、食べすぎです。この10日間だ
けで、何と、1・5キロも太ってしまいました。ギョッ! それで早速、今夜から食事を減らしまし
た。

●休みになると鈍くなる?
 今、風呂から出て、気分がよくなりましたから、この原稿を書き始めました。昨日まで、どうも
風邪っぽくて、調子が悪かったです。で、明日から、バリバリと原稿を書いてみたいです。しか
しおかしなものですね。休みになると、とたん、頭の回転が鈍くなります。いろいろテーマはある
のですが、まずもって深く考えることができません。それに原稿を書き始めても、うまくまとめる
ことができません。少し書いていると、集中力が弱くなっているためか、自分でも何を書いてい
るかわからなくなります。

 やはり子育て論というのは、子どもの声を直接聞いていないと、書けないものですね。目の前
で子どもたちが、ギャーギャーと騒いでくれると、とたん、アイディアが、無数にひらめていてき
ます。が、今は、ダメです。風呂あがりということもあって、眠いです。よけいに頭がボンヤリとし
ています。

●思いついたまま
 で、あれこれ思いついたままを書いてみます。

 今、コタツのスイッチを、入れたところです。入れ忘れていました。あと、目のまわりがかゆか
ったので、少し、かきました。

 2003年になったはずなのに、あまり実感がありません。先ほど、風呂の中で、ワイフに、「も
う休みはいらないから、早く仕事をしたい」ともらしました。こうしてしばらく子どもたちから離れ
ていると、早く会いたいと思うようになります。ワイフは、「あんたは、貧乏性ね」とよく言います
が、別に、仕事イコール、お金儲けと考えて、会いたいわけではありません。いつか書いたかも
しれませんが、私にとって、教えること自体が、ストレス発散になるのです。

●私の仕事?
 しかしおかしな仕事だと、よく思います。年末は、子どもたちをつれて、ハンバーガーショップ
やラーメン屋で行きました。そこで、まあ、俗な言い方をすれば、サボって遊んでばかりいたわ
けですが、子どもたちの喜びようといったら、ありませんでした。たった500円前後の食事で、
あそこまで喜んでくれるとは! またそのあと、父母たちから、電話で、「ありがとうございまし
た」「ありがとうございました」と。仕事をサボって、感謝される仕事というのも、そうはないと思
います。ワイフにそのことを話すと、「いい仕事ね」だって。ははは。

 うれしかったのは、年賀状で、いくつかの出版社から、仕事の打診があったこと。こういう不
景気な時代ですから、うれしかったです。「年明けに連絡します」というのもありました。楽しみ
です。今なら、本当によい原稿が書けると思います。脂(あぶら)が、のり切っていますから。

●パソコンを相手にするのが楽しい
 またまた貧乏性的なことを書いてしましましたが、実のところ原稿を書くのも楽しいですが、こ
うしてパソコンを相手にしているのも楽しいです。今、この原稿を書いているパソコンは、あちこ
ちを改造して、メチャメチャ性能がよくしてあります。で、気持ちよく動いてくれます。それが私に
は楽しいのです。先月買ったパソコンは、もう三男に取られてしまいました。「貸してくれ」という
から、「いいよ」と。それでおしまい。で、またこのパソコンを使っています。ええと、これはフジツ
ーのFMVC815W、です。17インチのワイド画面。PEN4、1・5ギガ、メモリーは、512に増
設。USB2端子も二つ増設し、もろもろの機器が接続してあります。

●今日は1月4日
 ところで昨日(3日)の天気は、おかしな天気でしたね。ここ浜松では、朝起きてみると、寒々
とした曇天。昼ごろにはカラッと晴れて、夕方から大粒の雨。大きな前線が、駆け足で通りぬけ
たという感じです。少し離れた御殿場(ごてんば)というところでは、雪が降ったそうです。ここ浜
松では、めったに雪は降りません。まったく降らないといったほうが正しいかもしれません。み
なさんのところは、どうですか?

 しかし今、ふと、思いました。この手紙を読んでくださっている方は、男性なのだろうか、それ
とも女性なのだろうか、と。私は気持ちの上では、どこか女性の方に書いているような感じです
が、しかし男性の方も意識しています。となると、頭の中が、少し混乱してきます。

●講演をしますよ!
 私はあちこちで講演などさせていただきますが、たいていどの会場も、女性ばかりです。たま
に男性がチラホラきてくださるという感じです。幼稚園での職場でも、女性ばかりでしたから、
「親」というと、私のばあいは、「母親」ということになります。ですから、こうしてマガジンを発行し
ていても、読者の大半は、女性だろうと思っています。が、ですね、私にあれこれメールをくださ
る方は、男性の方が多いのです。これはどういう理由によるものでしょうか。よくわかりません。

 今、講演の話を書きましたが、もし私のようなものでよければ、どうか講演に呼んでください。
どこへでも、喜んでおうかがします。よく講演料を心配なさる方もいらっしゃいますが、はやし浩
司は、いつもご予算の範囲内でさせていただいています。それに講演料がいくらでも、不平不
満を言ったことはありません。どんな少人数の会場でも、決して手を抜かないのが、はやし浩
司です。どうか、どうか、よろしくお願いします。

●マガシンで商売はダメ
 少しコマーシャルになってしまいました。こういうマガジンでは、物品の販売などは、してはい
けないそうです。要するに、営利行為だけのためには使ってはいけないそうです。ということ
は、こういうふうに、講演させてくださいとお願いするのもいけないということになるのですか。マ
ガジン発行のページには、「警告」と書いてあり、そこには、「違反したばあいには、即刻、発行
を停止する」と、恐ろしいことが書いてあります。どうか、そうならないように、願っています。

 仕事といえば、やはり私も収入がないと、生きていかれない立場にあります。当然ですが、し
かしまあ、何となく、こうして30年以上、無事に生きのびてくることができました。そういう意味
ではラッキーだったかもしれません。大きな病気も事故もなく、今日までやってこられました。こ
れから先のことはわかりませんが、多分、今年も、去年と同じように時は流れていくだろうと思
います。

●いろいろありますが……
 もちろんその一方で、心配なことや、不安なこともあります。これはみなさんと、同じです。今
は、北朝鮮の問題と日本の経済問題が心をふさいでいます。考えても、どうにもならないことは
よくわかっていますが、しかし頭から離れることがありません。あの金正日という男は、本当に
どうしようもないですね。テレビに顔が出てくるだけで、ゾーッとします。昨日、アメリカのブッシ
ュ大統領が、「相手にしたくない男だ」と言ったそうですが、まったく同感です。

 さてさて、長いあいさつになってしまいましたが、今年も、よろしくお願いします。原稿は、いく
つか書きためてあります。一応、1月10日分までは、すでに発行予約をしておきました。明日
からは、1月12日号用の原稿ということになります。どうか、お楽しみ……と書きながら、私の
マガジンは、あまり楽しくないことは、よくわかっています。どこかヒネクレていて、どこか暗い?
 自分でもそれがよくわかっています。いろいろなテーマで書きながらも、そのときの精神状態
が、そのまま原稿に反映されてしまいます。書く側としては、これがこわいですね。いくら自分を
飾っても、自分の本性がそのまま、モロに出てきてしまいます。

●ありのままの情報を
 そうそうマガジンをこうして発行していると、もうウソがつけなくなってしまいます。ウソを書いて
いると疲れるし、それにあちこちでボロが出ますね。そういう自分がこわいときがありますが、
そういうときは、「ええい、ままよ」よ、思い切って書いてしまいます。「どう思われようが、知った
ことか!」と、です。ということは、日ごろから、自分を鍛えておかないと、いけないということに
なるのでしょうか。日ごろ、いいかげんな生き方をしていると、それがそのまま文の中に表れて
しまいます。(正しくは「現れる」? それとも「表れる」? ……日本語って、本当にむずかしで
すね。)

 ともかくも、今年も、こうして始まりました。みなさん、前向きに生きていきましょう! いろいろ
問題はありますが、今日やるべきことをやる。明日は必ず、やってきます。……と、自分にも、
そう言い聞かせながら、この「あいさつ号」を発行します。

●よろしくお願いします
 そうそう、最後になりましたが、もしこのマガジンに興味をもってくださいそうな人がいらっしゃ
れば、どうか紹介していただけませんか。そのかわり、私は、今までの経験を、すべてみなさん
に提供します。読者の方がふえるということは、私にとっては、本当に心強い励みになります。
どうか、どうか、よろしくお願いします。言い忘れましたが、こうして生きがいを私にくださってい
る、みなさんに、心から感謝しています。ありがとうございます。みなさんのご多幸と、ご健康
を、心から念願しています。

 では、また6日に、お会いしましょう! そうそう毎週月曜日、午前10時JUSTには、チャット
ルームへおいでください。お待ちしています。ほとんど推敲しないまま、この手紙を送信します。
誤字、脱字、おかしなところはお許しください。

                1月4日 午前0時30分
                              はやし浩司

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。∞∞∞∞∞
    ■■■  ※
   ※■■■
    ■■■
※  / ̄ ̄ ̄\※
  ・ ● ● ・  ※
 ※・  ━  ・
   >   <  ※  
  ・  ○  ・     これからもよろしくお願いします。
※ ・  ○  ・      みなさんの子育てで役立つ情報を、お届けします。
   \___/ ※ 
☆===================☆==================

(イラストは、パナソニックパソコン付録のフリーソフトを転用・改変しました。)
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☆よろしかったら、読者拡大にご協力いただけませんか。よろしくお願いします。
以下の文面を、ご利用いただければ、うれしいです。勝手なお願いをお許しください。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
はじめまして。
はやし浩司(ひろし)といいます。子育てマガジンを発行しています。
もしよろしかったら、子育てマガジンを、購読してみていただけませんか。
無料です。またいつでも解約することができます。
申し込みは、
☆http://www.emaga.com/info/hhayashi2.html
また、「はやし浩司」の自己紹介などは、
☆http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
では、またマガジンのほうで、お会いできることを楽しみにしています。
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-6-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 558人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  57人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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03−1−6号(160)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
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‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)
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  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
交通事故に気をつけてね(1316)

寸劇指導法(失敗危険度★)

●指示は具体的に
 具体性をともなわない指示は、子どもには意味がない。よい例が「友だちと仲よくするのです
よ」とか、「先生の話をよく聞くのですよ」とかなど。こういうことを言っても、言う親の気休め程度
の意味しかない。こういうときは、たとえば「これを○○君にもっていってあげてね。○○君は喜
ぶわ」とか、「今日、学校から帰ってきたら、終わりの会で先生が何と言ったか、あとでママに話
してね」と言いかえる。「交通事故に気をつけるのですよ」というのもそうだ。

●下水溝で遊んでいた子ども
 交通事故について話す前に、こんな例がある。その子ども(年長男児)は何度言っても、下水
溝の中に入って遊ぶのをやめなかった。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がなかった。
そこでその母親は、家庭排水がどこをどう通って、その下水溝に流れるかを説明した。近所の
家からはトイレの汚水も流れこんでいることを、順に歩きながらも見せた。子どもは相当ショッ
クを受けたようだったが、その日からその子どもは下水溝では遊ばなくなった。

●迫真の演技で
 交通事故については、一度、寸劇をしてみせるとよい。私も授業の中で、ときどきこの寸劇を
してみせる。ダンボールで車をつくり、交通事故のありさまを迫真の演技でしてみせるのであ
る。……車がやってくる。子どもが角から飛び出す。車が子どもをはね飛ばす。子どもが苦し
みながら、あたりをころげまわる……と。気の弱い子どもだと、「こわい」と泣き出すかもしれな
いが、子どもの命を守るためと考えて、決して手を抜いてはいけない。迫真の演技であればあ
るほど、よい。たいてい一回の演技で、子どもはこりてしまい、以後道路へは飛び出さなくな
る。
 もしあなたの子どもが、何度注意しても同じ失敗を繰り返すというのであれば、一度、この寸
劇法を試してみるとよい。具体的であるがために、説得力もあり、子どももそれで納得する。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


娘は地元の大学でないと困ります!
設計図タイプの親(失敗危険度★★★★)

●将来は医師か弁護士に
 親が自分の子どもに夢や希望を託すのは、悪いことではない。それがあるから親は子どもを
育てる。子育てもまた楽しい。しかしそれが過剰になったとき、過剰期待となる。が、さらにそれ
が進んで、中には、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に子どもをあてはめようとする親
がいる。「やさしくて思いやりのある、スポーツマンタイプの子ども」「高校はS高校で、大学はA
大学。将来は医師か弁護士」と。しかし……。

●独特の話し方
 設計図をもっている親は、独特の話し方をする。たとえばこんな言い方。「私はどこの高校で
もいいと思っていますが、うちの子はS高校へ入りたいと言っています。そんなわけで、どうかう
ちの子の希望をかなえさせてあげてください」と。そこで子ども自身に聞くと、「ぼくはどこでもい
いけど、お母さんがS高校でなくてはダメと言っている」と。

 あるいはこんなことを頼んできた親もいた。いよいよ娘(高三)が大学受験というときになった
ときのこと。私に「娘は地元の大学でないと困ります。私から言っても言うことを聞きませんの
で、先生、あなたのほうから説得してください。なお、私がこうして先生に頼んだことは内密に」
と。

●結局は親のエゴ
 このタイプの親は、自分の頭のどこかに描いた設計図に合わせて、自分の子どもの外堀を
埋めるような形で、子どもをしばりあげていく。そして結果的に、自分の思いどおりの子どもを
つくろうとする。親にしてみれば、自分だけがそういう育て方をしていると思っているが、教える
側は無数の親と接している。そしてそういう親たちをパターン化することができる。その一つ
が、このタイプの親ということになるが、もっともそれでうまくいけばよいが、親の思いどおりに
いくケースは一〇に一つもない。

ある子ども(中三男子)は、ある日母親にこう叫んだ。「ぼくの人生だから、ぼくの好きなように
させてよ!」と。たいていはそんな衝突を繰り返しながら、親子はやがて離れていく。

●子どもは「モノ」にあらず
 子どもはたしかにあなたから生まれ、あなたの子どもかもしれないが、同時に、別個の人間
である。古い世代の人の中には、まだ子どもを「モノ」のように思っている人も多い。が、しかし
こうした意識は、きわめて原始的ですらある。もしあなたがここでいう設計図タイプの親なら、自
分自身の中の原始的な親子観を疑ってみたらよい。子どもはあなたの思いどおりにはならな
いし、ならなくて当たり前。またならなかったからといって、嘆くこともない。現に今、あなただっ
て、あなたの親の設計図どおりにはなっていないはずだ。だったら、自分の設計図を子どもに
当てはめないこと。もともと親子というのは、そういうもの。そういう前提で、自分の子育て観を
改める。

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ひねくれ症状

●Aさんのケース
 Aさん(小学生)は、どういう生いたちで、どういう環境で育ったのかは、わからない。たまたま
その子どもの家庭は、大人数で、そういう家庭にありがちな、日常的な欲求不満が、そういう子
どもにしたのかもしれない。

 そのAさんは、独特の会話をする。私が何かのことで、Aさんを、責めたとすると、すぐ私に切
りかえしてくる。

私「こんなところに線引きを出したままにしておいては、ダメだよ」
A「Bさんが、使ったもん!」
私「でも、(戸棚から)出してきたのは、あなただから、あなたが片づけるんだ」
A「私が使ったあと、Bさんが使ったから、Bさんが、片づければいい」
私「それはわかった。でも、Bさんはもう帰ったから、あなたが片づけるんだ」
A「どうして、私が片づけなくちゃ、いけないの!」と。

 ひねくれ症状の最大の特徴は、すなおさの欠落。相手の言うこと、考えることに、いちいち反
論する。が、本人には、その自覚がない。私が、「すなおに、人の言うことが聞けないのか?」
などと言うと、すかさず、「私にも反論する権利がある!」と切りかえしてくる。そこでさらに内容
を説明しようとすると、相手が説明をし始める前から、ああでもない、こうでもないと、反論す
る。

 このタイプの子どもをよく観察してみると、脳のCPU(中央演算装置)が、ズレているのがわ
かる。つまりそうであるのが、当たり前といったような様子を見せる。それはちょうど、青色のサ
ングラスをずっとかけている人が、サングラスをかけていることを忘れてしまうのに似ている。
サングラスでも、長くかけていると、周囲の色は、それなりにいろいろな色に見えてくる。

●中身は同じ 
 このAさんの問題を考えているとき、私は、それは自分自身の問題であることを知った。私
は、どういうわけか、そういう意味では、すなおすぎるほど、すなおなところがある。何かのこと
でだれかに指摘されたりすると、まず最初に謝ってしまう。謝る必要もないときでも、謝ってしま
う。

 私は子どものときから、「浩司は、愛想のいい子どもだ」と、みなに、よく言われたが、それに
は、私自身の不幸な生いたちが関係している。私は、そういう形で、人に迎合し、その人の歓
心を買っていた。わかりやすく言えば、だれにでもシッポを振っていた。よい子どもを演じてい
た。

 たとえば先のAさんのようなケースでは、私なら、こういう会話をするだろう。

先生「こんなところに線引きを出したままにしておいては、ダメだよ」
私 「ごめんさない。すぐ片づけます」

 が、問題がないわけではない。

 そういう自分だから、別の面で問題が生じてくる。私は、一見、すなおな子どもだったが、(今
もそうだが)、別のところで、心をゆがめやすい。たとえば面従腹背(面と向かっては、従順だ
が、裏では、相手に違背したことをする)という言葉がある。私などは、まさにその典型だった。
その場だけは、何とかうまく丸めてやりすごすのだが、あとになって、「そうでない」と思い、それ
とは反対のことをしてしまう。

 たとえばこういうケースでも、子ども時代の私なら、その線引きを片づけながら、内心では「ど
うしてボクが片づけなければいかんのか」「あの、Bさんめ、ボクにこんなことをさせて」「あの先
生め、何で、こんなことをさせるのか」などと思っただろう。

 つまり「ひねくれている」という点では、Aさんも、私も、同じ。症状は逆だが、しかし中身は同
じ。Aさんは、その症状を、いわばプラス型に変えた。私は、いわばマイナス型に変えた。

●自分を知る
自分を知ることは、本当にむずかしい。それについて、以前、こんなエッセーを書いたので、先
に、紹介する。

+++++++++++++++++++

汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難し
い。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ
た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな
い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあっ
たし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」
ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをす
るかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のど
こかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし
まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな
ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ
れに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつ
までも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。

++++++++++++++++++++

 「自分を知る」といっても、二つの意味がある。自分のよさを知るという意味と、自分の欠点を
知るという意味である。

 自分のよさを知らずして、損をしている人も多いが、反対に、自分の欠点を知らずして、損を
している人も、これまた多い。そこで問題は、いかにして自分のよさや、欠点に気づくかというこ
と。ひとつのバロメーターとして、こんなことを書いている人がいる。だれだったかは忘れたが、
いわく、『長く友情を保てない者は、自己の欠陥を疑え』と。

 他人は、自分を忠実に映すカガミのようなもの。自分に対する他人の反応を知れば、自分の
姿が見えてくる。そのひとつが、「友情」というわけである。少し、ショッキングな自己診断になる
が、こんな自己診断テストを考えてみた。

(1)あなたは自分の趣味や思想と異なる人とでも、気軽に話をすることができるか。
(2)あなたには、同窓生は別として、一〇年とか二〇年単位でつきあっている人がいるか。
(3)あなたは集団の中へ入ると、人気者になるか、それとものけ者になるか。

 仕事をしている男性のばあいは、日常的に、いろいろな軋轢(あつれき)の中で、いつも自分
を見つめる立場に立たされる。その分、人間的に、練られる。またそれがないと、仕事そのも
のが、できなくなることも多い。しかし家庭に入った女性には、それがない。ない分だけ、どうし
ても独善的になり、ひとりよがりになりやすい。そして自分では気がつかないうちにカプセルの
中に閉じこもってしまう……。

 もしこの診断テストで、交友関係がごく限られているとか、友情を長くつづけられないとか、さ
らに集団へ入ると気が疲れる、あるいはすぐけんかしてしまうというのであれば、あなた自身の
「欠陥」を疑ってみる。

 さて冒頭のAさん(小学生)だが、彼女が自分の欠陥(失礼!)に気がつくのは、いつのことに
なることやら。おとなになってからか? ノー。結婚してからか? ノー。

 もしAさんが自分の欠陥に気づくことがあるとするなら、おそらく人生も晩年になってからでは
ないか。あるいはそのときですら、気づかないかもしれない。つまり、『自分を知る』ということ
は、それくらいむずかしい。
(02−12−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


講演の感想

 先日、K市のD小学校で、講演をさせてもらった。その講演の感想が、届いた。その中に、こ
んなのがあった。原文のまま、紹介する。

「私はいろいろな本もたくさん読んできました。いろいろな講演会も聞いてきました。しかし、ど
れも役にたたないものばかり。今度のはやし浩司の講演も、まったく役にたちません。『あなた
の子育て、だいじょうぶ?』というタイトルも気に入りません。いらぬ、おせっかいです。私の子
育てが、最高です。私が正しいのです。それとも、はやし浩司が、私の子どもを育ててくれると
いうのですか。他人の子育て論なんか、もう二度と聞きたくありません」

 英語の格言に、『二人の人に、よい顔はできない』というのがある。何をするにも、好意的にと
らえてくれる人と、そうでない人がいるということだが、私はこの感想を読んだとき、心底、残念
に思った。いや、私の講演が悪く評価されたことに、ではない。(そういうことは、よくあるので、
もう慣れっこになっている。)この母親自身に、「学ぶ姿勢」がないことに、である。この母親は、
こう書いている。「他人の子育て論なんか……」と。

 何か、ほかに理由とか、原因があるのか。それについては、わからない。あるいは強い信念
とか、信仰をもっているのかもしれない。その母親は、「私の子育てが、最高です」と断言してい
る。しかし考えてみれば、この私だって、自分が正しいと思うから、こうしてエッセーを書いてい
る。もう少し正確には、「正しいと思うこと」を書いている。だからその母親が、「私が正しいで
す」と言ったところで、私は驚かない。しかし同時に、「それでいいのかなあ」と思ったのも事
実。

 その母親のことは、ここに書いた以上のことは、まったくわからない。わからないから、この母
親のことは別として、一般論として、こういうことは言える。

 子育てで一番、こわいのは、独善と独断。一組の親子という、その世界だけで、ひとりよがり
な子育てをすると、たいてい失敗する。(だからといって、その母親が子育てで失敗すると言っ
ているのではない。誤解がないように。これはあくまでも、一般論。)理由がある。

 子どもというのは、あなたから生まれるが、生まれたとたん、無限の多様性をもっている。そ
れがわからなければ、世の中を、ぐるりと見回してみればよい。あなたのまわりには、いろいろ
な人がいる。いろいろな性格をもって、いろいろな生活をしている。子どももまたそうで、その子
どもがどのような人になり、どのような生活をするようになるかは、子ども自身の問題。子育て
には、いつも大きな限界がある。

 そこで親は、いつも子どもの多様性を、心のどこかで認めながら、育てる。それがないと、つ
まりその多様性を認めないと、過干渉になったり、過関心になったりする。つまり親は自分の
子どもを、自分の思いどおりに育てようとする。が、ここにも書いたように、子どもは、そうでは
ない。で、こうなると、たがいの間に不協和音が流れるようになる。それが子育てのリズムにな
り、やがてキレツ、さらには断絶へと進んでいく。

 そういう点では、たとえば交際範囲が広く、多芸多才な親ほど、子育てがじょうずということに
なる。つまりそれだけ子どもへの許容範囲も広いということになる。さらに無数の挫折を繰り返
した親ほど、これまた子育てがじょうずということになる。これはある心理学者が本の中に書い
ていることだが、若いとき、サブカルチャ(非行など、王道からはずれた、落ちこぼれ文化)を経
験した人ほど、社会人になってから、常識豊かな人間になるそうだ。むしろ、子どものときから
ずっと優等生で、サブカルチャを経験したことがない人ほど、社会人になってから、問題を起こ
す、とも。親も、そうで、優等生のまま、一流大学、一流企業へ入り、スイスイと親になった人ほ
ど、子育てで失敗しやすい。このタイプの親は、自分の価値観を、子どもに押しつけようとする
傾向が強い。その押しつけが、子育てをギクシャクさせる。

 繰り返すが、だからといって、この母親が、子育てで失敗すると書いているのではない。たぶ
ん、その母親は、私の考えがおよばないほど、すばらしい女性なのだろう。それはそれとして、
しかし子育てにおいては、謙虚であればあるほどよい。この私とて、決して、一例や二例の子
育てをとおして、こうした文を書いているのではない。無数の子育てに関わってきた。そういう
経験をもとにして書いている。

 ここから先は、読者の方の判断ということになる。そういうはやし浩司を信頼するかどうか
は、私の問題ではない。私は自分の仕事をとおして、わかったこと、経験したことを、書いてい
る。話している。またそれに基づいて講演をしている。それを利用するかしないかは、ひとえ
に、読者の方の判断による。とても残念なことだが、それはもう、私がとやかく言う問題ではな
い。
(02−12−28)

●「サブカルチャ」……下位文化のこと。ある社会の支配的、伝統的文化に対し、非行少年、ヒ
ッピーなどの特定の社会集団に生まれ育つ、独特の文化のこと。(日本語大辞典)

●おおむね大きな誤りの底には、高慢があるものである。(ラスキン「断片」)

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

無用の長物

 今から二〇年ほど前のこと。一台の大型トラックが、わが家の前に止まった。何かと思ってみ
ると、「座卓はいらないか?」と。「四国から来た」という。案内されるまま荷台を見ると、原木を
切り出したままの座卓。その中でも、とくに目立ったのが、トチの木をそのまま削ったもの。トラ
の模様のようになっていて、それが両端を飾っていた。厚さは一五センチもあった。「樹齢、五
〇〇年です」と言った。

 値段を聞くと、「四〇万円でいい」と。「貯金しておくより、財産になる」とも。そこでどういうわけ
か、その座卓を買ってしまった。が、それから二〇年。そのテーブルは、わが家の居間にデー
ンと居座ることになった。が、大きいだけで、使いものにならない。それに重い。二〇〇キロ以
上はあるのでは。三〇〇キロはあるかも?

 この間、「何とかしよう」「何とかしなければ」と、ずっと思ってきた。今も思っている。しかし無
用の長物とは、そういう座卓をいう。テーブルといいながら、実際には、物置台。今はパソコン
と、プリンターがその上にのっている。売るにしても、売り先がない。こういう時代だから、買っ
てくれる人もいないだろう。

 そこで考えた。その座卓は、たしかに無用の長物だが、わが家には、同じような無用の長物
が、ゴロゴロしている。一、二度使っただけで、あとは倉庫や物置にしまわれているのだけで
も、かなりある。たとえばテントやバーベーキューセットなど。そう言えば、当時の私は、毎週の
ようにいろいろなモノを買いこんでいた。近くに大型の雑貨点があったこともある。少し不便を
感ずると、モノを買い足すという生活がつづいた。そのテーブルもそんなときに買った。

 その反動というわけでもないが、私は山荘のほうでは、ほとんどモノを買っていない。どの部
屋もガランとしている。不便を感ずることも多いが、その不便さが、これまた楽しい。いや、それ
以上に、広々とした空間は、それだけで気持ちがよい。どういうわけだか、解放感がある。どこ
かの旅館へ行ったような気分になる。

 そこで私はさらに考えた。モノというのは、人間の豊かさとは関係ないのでは、と。少なくとも、
心の豊かさとは関係がない? さらにモノがあれば、本当に生活は便利になるのか、とも。もち
ろん生活に必要なモノは、多い。それはそれだが、それを離れたモノは、どうなのか? たとえ
ばざっと見回してみても、この部屋の中には、大きな食堂テーブルがある。イスは、六脚もあ
る。家族は五人なので、最大でも五脚でよいはず。しかもめったに六脚も使うことはない。それ
に冒頭で書いた、無用の長物。テレビのまわりには、大型スピーカーだけでも、四個も並んで
いる。……などなど。こうしたものがなければ、この部屋は、もっと広々と使えるはず。全体で、
一六畳の広さがある。

 もっともそれに気づいてからは、ほとんどモノを買っていない。とくにあの座卓を買ってから
は、買っていない。そうして考えてみると、無用の長物と嫌っている座卓だが、ひとつだけ役に
たっていることがわかった。それは、その座卓を買ったことを後悔したこと。そしてその後悔
が、その後、ムダなモノを買う、大きなブレーキになったこと。何かを買おうとするたびに、私の
頭に、その座卓が思い浮かんだ。そして、「ムダになるから買うのをやめよう」と。

 ……とまあ、今は、そういうふうに自分をなぐさめながら、その座卓をとらえている。
(02−12−28)

●テーブルを買ってくれる人はいませんか? 大きな料亭でも使えるような立派なテーブルで
す。ホント!
●欲望を限定することのほうが、それを満たすことよりも、はるかに誇りに足ることである。(メ
レ「格言」)(メレ……1610−84、フランスのモラリスト)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


私はだれの子?

 ある読者から、こんな相談があった。何でもその読者は、父と母の間でできた子どもではな
く、父の父、つまり祖父と母の間にできた子どもだというのだ。それで「複雑な気持ちを、どう整
理したらよいか」と。富山市に住む四五歳の男性からであった。

 この相談を受けたとき、私には、その男性を理解するだけの、「心のポケット」がないことを知
った。心のポケットというのは、他人の悲しみや苦しみを理解するためのポケットをいう。同じよ
うな経験をしていれば、ポケットができる。が、同じような経験をしていなければ、ポケットはで
きない。その心のポケットがないと、その悲しみや苦しみを理解することはできない。共有する
ことはできない。

 その男性はこう言った。「『まあ、そんなことどうでもいいや』という気持ちと、『母を許せない』
という気持ちが、いつも交互に私を襲います」と。

 ここから先は、私が想像して書くにすぎない。仮に私が、父の子どもではなく、祖父と母の間
にできた子どもであったとしたら……。そのときの親子関係、家族関係にもよるが、それなりに
幸福な家庭であれば、私だったら、不問に付すと思う。あくまでも、そう思うだけだが、昔は(今
も?)、そういうことはよくあった。人間の関係は、いつも必ず、スッキリとしているわけではな
い。またスッキリしていないからといって、おかしいとか、まちがっているとか、言ってはいけな
い。

 が、もしそのことを、父親が知っていたとしたら……? あやしんだだけでもよい。もしそうな
ら、父親の受けた衝撃や苦悩は、いかばかりなものか。私がその父親なら、とても耐えられな
いと思う。狂い死にするかもしれない。つまりそういうことを考えると、その祖父と母親のした行
為は、許されるものではない。つまり、とても、「おかしいとか、まちがっているとかは言えない」
とは、言えなくなってしまう。そこでその男性に聞くと、こう教えてくれた。

 「晩年の父は、毎晩、酒に溺れ、母を殴る、蹴るの暴行を加えていました。祖父の墓参りをし
たこともありません」と。

 このことから、父親は、祖父と母親の関係を知っていたのかもしれない。富山市というのは、
そういう意味では、まだ古い因習が根強く残っている地域である。スッキリさせたくても、スッキ
リさせることができない事情がいろいろあったようだ。

 しかし、こと、その男性の立場でいうなら、受け入れるしかない。幸いにも(?)、今は、その祖
父も、父親もなくなっているということだ。今さら自分の過去をほじくりかえしても、意味がない。
ただ問題がないわけではないという。その男性は、まだ生きている母親が、どうしても許せない
というのだ。「盆や暮れには帰省するのですが、いつもどこか他人のような話になってしまいま
す」と。

 こういうケースでは、やはり、自然体でいくしかない。無理をすることはない。「心」というのは
そういうもので、「こうでなくてはいけない」とか、「こうであってはいけない」と思えば思うほど、結
局は、自分自身を苦しめることになる。苦しむのが悪いのではない。苦しむことで、自分の心を
偽り、ゆがめることが悪い。だから自然体でいくしかない。「母親を許せない」と思うなら、それ
はそれでよい。そしてそういう態度が、母親に対して出たとしても、それもそれでよい。しかたの
ないこと。それはその男性の問題というより、母親の問題なのだ。

 あまりよい答になっていないのは、わかる。冒頭にも書いたように、私には、その男性を理解
するために必要な心のポケットをもっていない。もっていないから、アドバイスのしようがない。
だからこれはあくまでも、参考的意見。「まあ、そういう考え方もあるのかなあ」という程度に、
考えてほしい。あるいは、もしあなたがこういう相談を受けたら、あなたはどのように答えるだろ
うか。もし同じような経験をもっている人がいたら、一度、私あてに連絡をしてほしい。
(02−12−28)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司 
後半部へ
すみません

________________________________________












件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-6-2

後半部です。
はやし浩司
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

親子、それぞれ

 親子にも、形はない。そんな話を、昨夜、いとこと、電話で話した。愛知県S市に住む、いとこ
である。

 いとこ(六一歳、女性)は、こう言った。「同窓会へやってきても、実家の親にも会わず、その
まま帰っていく人もいるのよ。私、その話を聞いて、うらやましいと思ったわ」と。

 つまり同窓会に出席するため、実家のある郷里へ帰ってきても、同窓会が終わると、そのま
ま東京や大阪へ帰っていく人がいるという。それをいとこは、「うらやましい」と。「私なんか、いく
つになっても、実家の重圧感から、逃れることができないわ」とも。

 この話をワイフにすると、ワイフは、こう言った。「私の知りあいにも、もう一〇年近く、実家に
帰っていない人がいるわ。弟の息子の結婚式に行ったら、そこに親がいたとか、ね。そういう
ふうにサバサバと人は、いくらでもいるわ」と。

 一方、ベタベタの親子関係をつづけながら、それをベタベタとも思わない人も多い。親は、そ
ういう子どもを、「かわいい子」「親孝行のいい子」と位置づける。子どもは子どもで、それがあ
るべき子どもの姿と考える。親子といえども、人間どうしのつきあいだから、どういう関係になっ
ても、おかしくない。

 ただここで言えることは、「親子だから……」という、「ダカラ論」。「親子だから、こうあるべき
だ……」という、「ベキ論」。さらに「親子だから、こういうはず……」という、「ハズ論」で、親子関
係をしばってはいけないということ。万事、自然体で考えればよい。そしてその結果として、一
〇年間、会わなくなっても、あるいはベタベタの関係になっても、それはそれ。その親子が、そ
れでよいのなら、他人がとやかく言う必要はない。また言ってはならない。

 いとこは、こう言った。「結局は、夫婦の仲がよければ、それでいいのね。夫婦の仲がよけれ
ば、子どもは子どもと割り切ることができるのね。夫婦の仲が悪いとき、親は、子離れできなく
なるのね」と。つまり親は親で自立する。そのカギは、夫婦の仲のよさにあるというわけであ
る。私が「ぼくなんか、葬式でG県へ帰っても、あちこちの家に寄らないと、ああでもない、こうで
もないと文句を言われる。うるさくてかないません」と言うと、「本当に、そういうことっていやア〜
ネ」と。

 さてあなたは、サバサバ派だろうか、ベタベタ派だろうか。少しだけ、自己診断してみたら、お
もしろいと思う。

(サバサバ派)親は親で自立している。好き勝手なことをしている。子どものあなたに、何も期
待していない。あなたはあなたで、勝手に生きている。親子のつきあいはあるが、ときどき消息
を聞きあう程度。何か大きな問題が起きたとき、相談しあう程度。たがいに、それでよいと割り
切っているし、それ以上、深く考えない。

(ベタベタ派)たがいに何があっても、報告しあっている。相談しあったりしている。甘えたり、甘
えられたりしている。明けても暮れても、親がいないと、話にならない。親は親で、何かにつけ
て、あなたに干渉してくる。そういう親をあなたはすばらしい親だと思っている。自分でも、孝行
息子(娘)と思っている。

 要するに、どんな関係だろうが、親子がそれに納得し、それでたがいにうまくいっていれば、
それでよいということ。しかし問題は、そういう親子関係に、第三者が介入するときである。たと
えば結婚して、そういう関係の中に、妻、もしくは夫が入ってくるとき。妻側が、サバサバ派、夫
側が、ベタベタ派というとき。多くの悲喜劇は、そこから生まれる。ある母親はこう言った。「夫
は、典型的なマザコンで、毎晩、仕事から帰ってくると、その日にあったことを、私に話す前に、
母親に電話をして話しています。私はあきれていますが、夫には、それがわからないようです。
私がそれを責めると、『お前もたまには、実家の親に電話をして、親孝行をしろ!』と言いかえ
されてしまいます」と。

 どちらにせよ、つまりあなたがサバサバ派であるにせよ、ベタベタ派であるにせよ、脳のCPU
(中央演算装置)の問題であるために、それに自分で気づくことは、まず、ない。どの人も、自
分では、「私はふつうだ」「それが当たり前のこと」と思っている。
(02−12−19)

●愛する者と暮らすには、ひとつの秘訣がある。相手を変えようとしてはならないことが、それ
である。(シャルドンヌ「エヴァ」)
●妻は絶えず夫に服従することにより、夫を支配する。(フラー「神聖な国・不敬な国」)
●妻が夫に夢中なときは、万事がうまくいく。(イギリスの格言)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


母校意識
 
 S県のある町で、旧校舎の保存を求めて、町側と父母が対立している。で、町側が折れ、保
存を前提に、仮校舎の建設をした。そこで仮校舎に引っ越し、ということになったが、これにも
保存を求める父母側が反対した。そこで「三学期の授業を保存が決まった本校舎で行うか」
「当分は仮設の校舎を使うか」で、今度は父母どうしが、はげしく対立しているという(〇二年一
二月末)。

 この事件の背景には、何か、もっと大きな問題が隠されているようだ。表面的な部分だけを
みて判断すると、まちがいのもととなる。それにこのH市でも、小学校の統廃合について、市側
と住民側が対立しているところがある。この問題は、部外者が考えるほど、単純ではない。た
いへんデリケートな問題と考えてよい。日本人にとっては、「学校」というのは、特別の存在。日
本人がもつ母校意識には、独特のものがある。

 H市のとなりにI町という町がある。そのI町にあるA小学校で講演をしたときのこと。校長が学
校のあちこちを案内してくれた。「この校門は、地元のX氏が、私財を投じて作ってくれたもので
す。基礎の石を見てください。これほど立派な石は、このあたりでも珍しいです」「あの石垣を見
てください。あの石垣は、村の人たちが総出でつくってくれたものです」「学校のまわりの花壇
は、このあたりの人たちが、毎日、交代で世話をしてくれています」と。

 学校といっても、いろいろあるようだ。そしてこのA小学校のように、その地域の人たちの熱
い思いが、織りこまれているところがある。そういうところで、「母校意識など、今どきムダなこ
と」などと言おうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 問題はこのことではなく、問題は、その先、というか、その中味。なぜ、日本人は、こうまで学
校にこだわるかということ。その手がかりとして、私の子ども時代のことを書く。
 
 私が子どものころ、学校は、まだ絶対的な存在だった。学校の先生も、また絶対的な存在だ
った。当時はまだ、戦前の軍国主義教育の面影が強く残っているころで、民主教育と言いなが
ら、親たちの学校をみる目は、戦前のままだった。そういう中、たとえば生徒が、学校の先生に
さからうなどということは、考えられなかった。それこそ「裸になれ」と命令されたら、女子でも、
裸になった。これは事実で、私たちが中学生のときは、健康診断や体力測定のほか、体格検
査というおかしな検査もあった(G県M第一中学校)。これは体育教師と担任教師の前で、一人
ずつ、パンツ一枚の姿で、「体格(?)」を検査されるというものだった。そしてとくに体格のよい
生徒は、八ミリカメラで、体中を撮影されたりした。もちろん女子も、だ。

 私がここで言いたいのは、今でも、その「絶対性」の片鱗(へんりん)が、残っているというこ
と。そしてその片鱗が、あちこちで姿を変えて、今の母校意識というものをつくりあげている。ひ
ょっとしたら、冒頭にあげた校舎建てかえ問題もそのひとつかもしれない。部外者の私から見
れば、「もう少し、気楽に考えたらよいのでは」と思うのだが、そうはいかない。その気楽さの前
にたちはだかるのが、ここでいう絶対性である。H市で起きている、学校の統廃合の問題に
も、ここでいう絶対性がからんでいる?

 ……こう書くと、飛躍した意見に思う人がいるかもしれないが、不登校児の問題にも、この絶
対性がからんでいる。子どもが不登校児になったりすると、たいていの親は、まさに狂乱状態
になる。なぜそうなのかと言えば、やはりそこに、「学校とは行かねばならないところ」という絶
対性があるからではないのか。

 私の個人的な意見としては、母校意識というのは、その源(みなもと)で、江戸時代の身分制
度と結びついていると思う。思うから、過度な母校意識は、それなりに警戒したほうがよいと思
う。今でも、公官庁を中心に、そして学術の世界でも、学閥や学歴意識が、きわめて根強い残
っている。そういう意味での母校意識、もう少し正確に言えば、日本独特の「絶対性」は、もう、
なくすべき時代にきている。

 ヨーロッパでは、大学での単位は、完全に共通化された。高校、中学にしても、転籍は自由。
そういう時代が目の前にきている。だから私は、それほど、母校にこだわる必要はもうないの
ではないかと思う。思うだけで、それ以上のことは言えない。というのも、冒頭に書いたように、
この問題には、デリケートな部分、もっと言えば、私のような部外者では理解できないような、
「住民たちの熱い思い」が、そこにこめられている。そういう熱い思いは思いとして、理解してあ
げなければならないし、尊重してあげねばならない。ものごとは、何でもかんでも合理的にとい
うわけにはいかない。またそういうふうに考えてはいけない。

 何ともあいまいな、どこか奥歯にものがはさまったかのような結論になってしまったが、要す
るにこの問題は、当事者たちがみな、納得する形で解決するのが好ましい。一方的に、だれか
が決めるのではなく、また同じように一方的に反対するのではなく、話しあうのが好ましい。時
間はいくらかかってもよい。また時間はかければかけるほどよい。これはまさに「意識」の問
題。その意識を理解し、変えるには、当然、時間がかかる。
(02−12−29)

【追記】
 先日、中学生たちが歌を歌ってくれと頼んだので、私は、舟木一夫の「高校三年生」を歌って
やった。すると数分も歌わないうちに、皆が、「もう、やめろ、やめろ!」と。一人、「先生が高校
生のときは、そんなつまらない歌を歌っていたの?」と言った子どもがいた。たしかにそうかもし
れないが、私にとっては、そうではない。それがここでいう「熱い思い」なのである。仮につまら
ない歌であるにしても、それが私の人生の一部。だから頭から「つまらない」と否定されると、私
自身の過去を否定されたかのような気分になる。私がここでいう「デリケートな問題」というの
は、そういう「思い」にからんだ問題をいう。決して安易に考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


真理と孤独

 キリストや釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われ
たか? もっと言えば、孤独ではなかったか?

 キリストにも釈迦にも、弟子はいた。しかし師と弟子の関係は、あくまでも師と弟子の関係。
師は、あくまでも智慧(ちえ)を与える人。弟子は、あくまでもその智慧を受け取る人。弟子たち
はそれでよいとしても、師であるキリストや釈迦は、どうだったのか? それでよかったのか?

 真理の荒野をひとりで歩くことは、それ自体は、スリリングで楽しい。しかし同時に、それは孤
独な世界でもある。(私が求めている真理など、真理ではないかもしれないが、それでもそう感
ずることがよくある。)とくに、現実の世界に引き戻されたとき、その孤独を強く感ずる。「人生
は……」などと考えていたところへ、幼児がやってきて、「先生、ママがいなア〜イ」と。

 そこで心の調整をしなければならないが、私のばあい、思索の世界から離れたときは、その
反動からか、今度は極端に、バカになる。バカになって、心の緊張感を解く。孤独から離れる。
もしあなたが、私の近くへやってきて、私を知ったら、私のことを、ひょうきんで、おもしろい男だ
と思うだろう。私は子どものみならず、おとなに対しても、笑わせ名人で、いつも周囲の人たち
をゲラゲラ笑わせている。私のワイフですら、「あんたといると、退屈しない」と言っている。昨夜
も寝るまで、ワイフを笑わせてやった。

 が、反対に、そういう外での私しか知らない人は、私の作品を読んだりすると、「これ、本当に
あなたの文ですか?」と聞いたりする。そこまではっきりと言わないまでも、驚く人は多い。「あ
の『はやし浩司』って、あなたのことでしたか?」と言った人もいる。

 が、キリストや釈迦は、そうではない。あるいはひょっとしたら、ひょうきんで、おもしろい人だ
ったかもしれないが、そういう話は、伝わっていない。……となると、やはり、キリストや釈迦
は、どうやって、孤独と戦ったかということになる。ふつうなら……という言い方はしてはいけな
いのだろうが、しかしふつうなら、何らかの形で自分の心をいやさないと、とても孤独には、耐
えられない。

 もっともキリストにせよ、釈迦にせよ、私たちをはるかに超越した世界に住んでいたのだか
ら、孤独ということはなかったかもしれない。……となると、また別の問題が生まれてくる。

 もし、仮に、だ。もし、あなたが、ある惑星に落とされたとする。そしてその惑星は、サルの惑
星で、サルたちが、サルのまま、野蛮な生活をしていたとする。一方、あなたには、知性があ
る。言葉もある。道徳も、倫理もある。もしあなたがそういう世界に落とされたとしたら、あなた
はどうなるだろうか。あなたは神や仏のように祭られるだろう。しかしあなたはその世界がも
つ、孤独に耐えられるだろうか。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 幼児教育をしていて、ゆいいつ、つまらないと思うのは、いくら幼児と接しても、私と幼児の間
には、人間関係が生まれないということ。この点、大学生や高校生を教える先生は、うらやまし
い。教えながら、人間対人間の関係になる。そこから人間関係が生まれる。が、幼児教育に
は、それがない。で、そういう幼児だけの世界にいると、ときどき、言いようのない孤独感に襲
われるときがある。私が考えていることの、数千分の一も、子どもたちには伝わらない。説明し
てあげようと思うときもあるが、あまりの「へだたり」に、呆然(ぼうぜん)とする。

 つまり、人は、その世界を超越すればするほど、その分だけ、孤独になる? キリストや釈迦
のような「人」であれば、なおさらだ。となると、話は、また振りだしに戻ってしまう。「キリストや
釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われたか? も
っと言えば、孤独ではなかったか?」と。

 もちろんキリストや釈迦を、私たちと同列に置くことはできない。本当にそうであったかどうか
は、私にはわからないが、彼らは真理に到達した「人」たちである。もしそうなら、その時点で、
孤独からは解放され、その時点で、さらに真の自由を手に入れていたことになる。あるいは、
キリストや釈迦は、私たちが考えもつかないような世界で、もっと別の考え方をしていたのかも
しれない。

 考えていくと、この問題は、結局は、私自身の問題ということになる。真理などというのは、簡
単に見つかるものではない。恐らく私が、何百年も生き、そして考えつづけたとしても、見つか
らないだろう。もしそうであるとするなら、私はその真理に到達するまで、つまり死ぬまで、その
一方で、この孤独と戦わねばならない。もちろん、キリストや釈迦のように、真理に到達すれ
ば、あらゆる孤独から解放されるのだろう。が、そうでないとしたら、一生、解放されることはな
い? しかも、だ。皮肉なことに、真理に近づけば近づくほど、ほかの人たちからの孤立感が
大きくなり、そしてその分だけ、孤独感はますます強くなる?

 そういう意味で、真理と孤独は、密接に関連している。紙にたとえて言うなら、表と裏の関係と
いってもよい。世界の賢者たちも、この二つの問題で、頭を悩ました。いくつかをひろってみよ
う。

●この世の中で、いちばん強い人間とは、孤独で、ただひとり立つ者なのだ。(イプセン「民衆
の敵」)
●われは孤独である。われは自由である。わらは、われ自らの王である。(カント「断片」)
●つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただ一人(ひとり)あるのみこそよ
けれ。(吉田兼好「徒然草」)
●孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である。(ショーペンハウエル「幸福のための警句」)
●人はひとりぼっちで死ぬ。だから、ひとりぼっちであるかのごとく行為すべき。(パスカル「パ
ンセ」)

 簡単に「孤独」と言うが、孤独がもつ問題は、そういう意味でも、かぎりなく大きい。人生にお
ける最大のテーマと言ってもよい。そうそうあの佐藤春夫(一八九二〜一九六四、詩人・作家)
は、こう書いている。『神は人間に孤独を与へた。然も同時に人間に孤独ではゐられない性質
も与へた』と。この言葉のもつ意味は、重い。
(02−12−27)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


心の変化

 このところ、少しずつだが、自分の心が変化しつつあるのを感ずる。年齢のせいかもしれな
い。そうでないかもしれない。それを最初に知ったのは、家具屋で、家具を選んでいるときだっ
た。そのとき、ふと、「どうせ、あと二〇年、もてばいい」と思った。「三〇年とか四〇年も、もつ
必要はない。どうせそのころ私は、死んでいる」と。

 こうしたものの考え方は、日ごとにふくらんでいった。つぎに、それを強く感じたのは、テレビ
を見ていたときのことだった。

 台湾の実業家だが、日本で骨董(こっとう)を買い集めているという。何でもこの日本には、中
国でも珍しい、中国の骨董品が、あちこちに眠っているという。それはそれだが、その実業家
は、七〇歳近い女性だった。もちろん、ケタはずれの大金持ち。テレビのレポーターが、「もう
どれくらい、買ったのですか?」と聞くと、笑いながら、「毎年、数億円分は買っている」と言っ
た。

 私はその番組を見ているとき、ふと、「そんなもの買って、どうするのだろう?」と思った。……
思ってしまった。とたん、あの気持ち。「どうせ、あと一〇年も、生きていないのに……」と。

 私はこのところ、モノにこだわる気持ちが、急速に薄れていくのを感ずる。「どうでもいい」とま
では、思わないが、モノがもつ限界を強く感ずる。今、住んでいる家にしても、心のどこかで、
「まあ、死ぬまで、もてばいい」とか、「死んだら、息子たちが勝手に処分すればいい」とか、そ
んなふうに考えるようになった。そういったモノに、自分の時間やエネルギーをかけることが、
空しく感ずるようになった。「残された時間は、あまりにも少ない。だったら、そのエネルギー
を、もっと別のことに使いたい」と。

 ここまで書いて、昔、金沢に住んでいた、骨董屋のT氏という老人を思い出した。今の石川県
庁の前の大通りに、店を構えていた老人である。骨董屋を営んでいたが、たいへんな収集家
で、どの部屋も、茶碗や置き物で、足の踏み場さえなかった。私はいつしかその老人と友人に
なり、大学を卒業するときは、いくつかの骨董品を分けてもらった。その中には、江戸時代の
錦絵や、版画などもあった。

 が、それから一〇年後。ある日、その老人の店をたずねると、その老人はすでになくなってい
た。それからさらに一〇年後。その店をおとずれると、その店はなくなり、駐車場になってい
た。私はその駐車場を道路からみやりながら、「あの老人は、どこへ消えたのか?」「あの店
は、どこへ消えたのか?」と思った。が、それ以上に強く思ったのは、「あの骨董の山は、どこ
へ消えたのか?」だった。広重や歌麿(うたまろ)の浮世絵だけでも、数一〇枚はあった。豊国
や豊春などの浮世絵ともなると、数えきれないほどあった。そのほかに、茶器や茶碗などな
ど。

 そのT氏は、そのときでさえ、八〇歳近い老人だった。で、彼は自分の道楽として、あるいは
商売として、骨董品を買い集めていた。が、骨董品の立場からみると、ただT氏を経由しただ
け? それらの骨董品は、今、無数のバイヤーに売りさばかれ、それぞれの手に渡っているに
ちがいない。と、なると、骨董品とは何かということになってしまう。そのときはたまたまT氏の手
もとに多く集まったが、別にT氏の手元にあっても、また、なくても、かまわなかったということに
なる。こう書くと、T氏には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、T氏は、骨董品に操
られるまま、自分の人生をムダにしたことになる?

 ……と、書くのは、自分でも言い過ぎだとわかっている。わかっているが、しかしモノには、不
思議な魔力がある。モノにとらわれると、何が大切で、何が大切でないかが、わからなくなって
しまう。が、それだけではない。大切なものを粗末にしたり、反対に、大切でないものを、大切
だと思いこんでしまう。そしてそのモノに振りまわされるうちに、時間をムダにし、ついで人生を
ムダにしてしまう。

 私とて、モノは嫌いではない。財産になる。しかしこのところ、「死ぬまで、何とか、生きていら
れれば、それでいい」と思うようになった。と、同時に、もしモノにかけるお金があるなら、もっと
別のことに、有効に使いたいと思うようになった。考えてみれば、それだけのことだが、そうした
思いは、このところ日ましに強くなっている。少なくとも、若いころのように、モノには、こだわら
なくなった。
(02−12−27)

【追記】この原稿を読んで聞かせると、ワイフは、こう言った。「パソコンだって、モノじゃなアー
イ?」と。

 たしかにそうだが、パソコンは、道具。ただのモノではない。私がパソコンにこだわる理由は、
性能が違うから。だいたいパソコンほど、財産にならないものはない。五年もすれば、ただの
箱。ちなみに、五年前に買ったシャープのメビウスは、当時は、二四万円で買ったが、今では、
値段もつかない……? 買ってくれる人もいない……? 売るつもりはないが……。

 そう言えば、今、おかしなことに気づいた。私はあのT氏から、広重の東海道五三次の版画
を一枚、分けてもらったことがある。三〇年近くも前のことだが、当時の値段で、二八万円だっ
た。そのあと、あちこちで鑑定してもらったが、どうやらそれは贋作(がんさく・ニセモノ)らしいと
いうことがわかった。で、最近まで、何とか二八万円を取り返したいと考えていたが、どうしてそ
ういう気が起きたのか?

 一方、パソコンにかけた二四万円は、おしいとは思わない。しかしその版画にかけた二八万
円は、おしいと思う。なぜか。なぜなのか? 広重の版画は、そのあと、ずっとわが家の寝室を
飾っている。パソコンのように、「使った」という意識はないが、「役にはたった」という思いはあ
る。しかし同じモノなのに、私自身の意識は、まるで違う。なぜか。この問題は、また別のところ
で、ゆっくりと考えてみたい。

●鳥は木にすむ。木のひきき事をおぢて上枝にすむ。しかれどもえにばかされて網にかかる。
人も又是(かく)の如し。(鳥は木に住む。低いところに住むのをこわがり、高い枝に住む。しか
し餌(欲望)にだまされて、低いところにおりてきて、網にかかる。人間もまた同じ。)(日蓮「佐
渡御書」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


消息

 古い名刺入れが出てきた。私が学生時代から、社会へ出てから、四、五年の間に知りあった
人たちだ。名前は、何となく覚えているが、顔まではよく思い出せない。

 で、そのまま名刺入れを、机のスミに置いておいた。いつしか再び、それは本の間に埋もれ
た。が、ある日、仕事のあいまに、その中の名前を、インターネットの検索ページを使って検索
してみた。簡単な肩書きと、名前を入れると、その人に関係のあるサイトや、ページが一覧表と
なって出てくる。

 Mさん……今では、M物産という商社の子会社で、社長をしている。
 Iさん……横浜で整形外科医をしている。
 Iさん……昔は、Aという繊維会社にいたが、ヒットなし。
 Oさん……愛知県のA高校に勤めていたが、ヒットなし。そのかわり、Oさんの個人のホーム
ページに当る。トップページに、大型バイクの写真が載っている。学生時代から、バイクが趣味
だった。
 Hさん……K大学の経済学部を卒業したので、今ごろは活躍していてもおかしくないのだが、
まったくヒットなし。どうしたのだろう。
 Kさん……O大学文学部で、ドイツ文学の教授をしている。
 Oさん……製紙会社の社長をしている、などなど。

 この三〇年間、まったく音信のなかった人たちである。それだけに、そういう人たちの「今」を
知ると、その間の「時の流れ」を、強く感ずる。あっという間の三〇年間だが、同時に、その三
〇年間は、私を変え、みんなを変えた。浦島太郎は、乙姫様にもらった玉手箱をあけて、あっ
という間に、おじいさんになってしまったが、私の心境も、それに近いものだった。

 ただ、ここでおかしな心境も経験した。その中の何人かは、個人のホームページをもってい
た。今はそういう時代だが、しかし私はただホームページをのぞくだけで、掲示板にメモを残す
ことも、また書かれたアドレスにメールを書くこともしなかった。本当なら、なつかしいのだから、
メールを書いてもよさそうなものだが、しかし、しなかった。なぜだろう。

 いろいろ理由がある? 一つは、こちらはたまたま相手を見つけたが、相手にとっては、そう
でない。私がいきなりメールを書いたりすると、驚くかもしれない。あるいはめんどうに思うかも
しれない。インターネットは、手ごろだが、その手ごろさが、かえってわざわいする。再びつきあ
うとしても、それなりの覚悟が必要。その覚悟もないまま、「やあ、元気?」だけでは、すまされ
ない。かえって失礼というもの。

 二つ目に、どこか新しい出会いがめんどうになった。新しい人に会って、交際をはじめても、
心のどこかで、「また一からスタートか……」と思うと、気が重くなる。私は人との出会いも多く知
っているが、またそれと同じくらい、別れも知っている。それに人とのつきあいも、おのずと限界
がある。マナーがある。若いときのように、人間関係を食い散らして進むということは、もうでき
ない。それよりも、今は、古い友人を、最後までていねいに育てたいという気持ちのほうが強
い。

 それにもう一つの理由は、これが本当の理由かもしれないが、相手の状態がよくわからない
のに、こちらから興味本位で、メールを書くことは許されない。成功した人(?)もいれば、失敗
した人(?)もいる。何かの会で、たがいに納得した状態で会って、消息を聞きあうのなら、話
は別だ。が、そうでないなら、やはりすべきではない。みながみな、心が、今、オープンな状態
にあるとはかぎらない。

 ……と考えて、今度は、私のことを考えた。私もホームページを公開しているので、ひょっとし
たら、昔の私を知っている人で、私のホームページをのぞいている人もいるかもしれない。そう
いう人が、突然、私にメールを送ってきたとする。いや、実際、そういうことはよくある。たいてい
は昔の教え子たちである。「先生、見ましたよ」とか何とか、メールで書いてくる。私のばあい
は、正直言って、それがうれしい。迷惑だと思ったことはない。が、もし私が、今、仕事の面と
か、健康の面で大きな問題をかかえていたら、どうだろうか。私ははたして今と同じような心境
で、そうしたメールを読むことができるだろうか。

 私は一通りあちこちのページをながめたあと、(x)をクリックして、検索ページを閉じた。「みん
な、がんばっているんだなあ」という思い。「私もがんばろう」という思い。そういう思いを心のど
こかで強く感じたとき、このエッセーを書き始めた。
(02−12−26)

●知り合い……相手が貧乏だったり、無名であったばあいには、顔見知りくらいだと言われる
が、相手が金持ちであったり、有名であったばあいには、親密な人だと言われる人間関係をい
う。(ピアス「悪魔の辞典」)
●世の中には、三種類の友がいる。諸君を愛する友。諸君を忘れる友。諸君を憎む友。(シャ
ンフォール「格言と反省」)
●苦しみをともにするのではなく、楽しみをともにすることが、友人をつくる。(ニーチェ「人間的
な、あまりに人間的な」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


ハンゲシャシン湯(とう)

 先日、学生時代の恩師が、私の家に寄ってくれた。日本学士院賞を受賞したこともある、世
界的な科学者である。その恩師が、こっそりとこう教えてくれた。「ガンの予防には、ハンゲシャ
シン湯がいいということです。壊れたDNAを修復する成分が、ハンゲシャシン湯には含まれて
います」と。

 ハンゲシャシン湯というのは、胃薬としてよく知られた漢方薬である。女性の精神不安にも効
くという人もいる。さっそくその場で、私が生薬を組みあわせて方剤してみせると、恩師は、「ど
うして、君がこんなことができるのですか」と驚いた。実のところ、私は、漢方のプロ。たいてい
の漢方薬なら、自宅で処方できる。ホント!

 で、恩師は、毎朝、ほんの微量だが、そのハンゲシャシン湯をのんでいるという。「林君も、も
し私の言うことを信じるようなら、のんでみなさい」と。もちろん信ずる。……信じた。で、それ以
後、ときどき、ハンゲシャシン湯を方剤し、自分たちで、煎じてのんでいる。もしみなさんも、私
の言葉を信ずるなら、ハンゲシャシン湯をのんでみたらよい。高価な漢方薬ではないので、気
楽にのめると思う。その恩師のばあい、市販のハンゲシャシン湯を、毎朝、ほんの微量を、口
の先で溶かしてのんでいるという。「その程度でいいのですか?」と聞くと、「この薬は、微量で
いいのです」とのこと。

 いまさら言うまでもないが、漢方薬には、未知の力が無数に含まれている。漢方薬を分析す
ることで、いかに多くの新薬が開発されたことか。今も、つぎつぎと開発されている。このハンゲ
シャシン湯もそうだ。その中に、壊れたDNAを修復する作用のある成分が発見されたというの
が、何ともおもしろい。

 エッセーではなく、特ダネ情報として、ここに記録しておく。
(02−12−29)

●半夏瀉心湯(ハンゲシャシントウ)……胃内の停水を去り、嘔吐を止め、胃腸の炎症を去
る。健胃、胃腸機能を回復させる作用もある。胃腸炎、胃潰瘍、胃下垂症、胃腸カタル、消化
不良、口内炎、つわりにも効く。(はやし浩司著「目で見る漢方診断」より)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
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          ┌厂\
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
クリスマス・カード、For You!
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【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
9・ 6  ……新居・雄踏・舞阪・公立保育園合同研修会
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2003年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●「賛助会」へご協力をお願いしています。
詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
みなさんのご協力を得て、ホームページ、マガジンをより充実させたいと考えています。
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●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
I appreciate your kindness to pay a visit to my second 
son's website in USA, for which I thank you very much.
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

私の教室の来年度の生徒の募集を、1月からします。
とくに来ていただきたいのは、幼稚園、保育園の、年長児、年中児の
みなさんです。1月以後、見学は自由にしていただけるようにします
ので、おいでください。子どもの「笑い声」を、大切にした教室です。
詳しくは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page044.html
まで、どうぞ!
*********************************
●ホームページのほうで、「タイプ別、子ども相談」を充実しました。
トップページから、「タイプ別」へお進みください。お待ちしています。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page295.html
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
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  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
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へ、いつも、このマガジンを購読してくださり
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  ・  ○  ・     これからもよろしくお願いします。
※ ・  ○  ・      みなさんの子育てで役立つ情報を、お届けします。
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-8-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 558人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  57人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−8号(161)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
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  ■
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます!(1319)
互いに別世界(失敗危険度★★★)

●子育てに尺度はない
 子育てには尺度はない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハマりやすい。こんなことがあった。

F君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに
負けただけで、机を蹴っておお暴れしたりした。そこである日、私は母親にこう言った。「もっと
家事を分担させ、子どもを使いなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」
と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、「ちゃんと箸並べと靴並べを、してくれ
ます」と。

●「うちの子は何もしてくれないんですよ」
 一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事
は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。
「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。

 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はF君とY君に接したので、その違いがよけいに
強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。

●互いに信じられない
 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも
かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースもある。そして互いに互いのこと
が信じられない。

私が「A君(年長児)は、幼稚園へ行くとき、身の回りのしたくはすべて自分でしているのだそう
ですよ」と言うと、そうでない子どもをもつ親は、「信じられません」と言う。また反対に、「B君
(年長児)は、幼稚園へ行くとき、服をまだお母さんに着せてもらっているそうですよ」と言うと、
そうでない子どもをもつ親も、やはり、「信じられません」と言う。尺度というのはそういうもの
で、親はいつも自分や自分の子どもを基準にして考える傾向がある。言いかえると、いかにし
て自分の尺度を疑ってみるかも、子育てでは重要なポイントとなる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


エサを「ホレホレ」と見せつけて手なずける
恩を着せない(失敗危険度★★★★★)

●日本型子育て法
 日本人の子育てには、ひとつの大きな特徴がある。もう二五年ほど前のことだが、アメリカ人
の教育家が日本人の子育てを批評してこう言った。「日本人は自分の子どもに依存心をもた
せることに、あまりにも無頓着すぎる」と。つまり日本人は子どもを育てるときも、親に依存心を
もたせるように育てる。そしてその結果、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコ
ール、よい子とする。反対に独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」として嫌う。

●ペットを手なずけるように
日本人は、子どもに依存心をもたせるような育て方をする。それはちょうどペットの犬を飼いな
らすような方法と言ってもよい。たとえば犬を飼いならすとき、エサを「ホレホレ」と見せつけな
がら、「(主人の)言うことを聞いたらあげるよ」と言う。同じように日本人も、まず子どもに何か
よい思いをさせたあと、「もっとよい思いをしたかったら、(親の)言うことを聞きなさい」としつけ
る。たとえばある女性(六四歳)は、小学四年生になった孫(女児)に、電話でこう言った。「お
ばあちゃんのところへ遊びにきてくれたら、小遣いをあげるよ。ほしいものを買ってあげるか
ら、おいでよ」と。

こういう言い方になれてしまっている人には、何でもない言葉に聞こえるかもしれないが、そう
でない人には、かなり不愉快な言い方に聞こえるはず。たとえばオーストラリアでもアメリカで
も、こういう言い方はしない。子育てのし方が基本的な部分で違う。相手が子どもでも、「食事
がほしかったら、それなりの仕事をしなさい」としつける。いわんや孫の心をエサで釣るようなこ
とはしない。

●「先生はわかってくれているからいい」
 その依存心は、相互的なもの。「産んでやった」「育ててやった」と親は子どもに恩を着せる。
着せながら、親は子どもに依存する。一方子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらっ
た」と恩を着せられる。着せられながら、子どもは親に依存する。

 こうした依存性の強い人は、万事に「甘い」。何かにつけて、してもらうのが当たり前という考
え方をする。考え方も、甘い。ある子ども(小五女児)はこう言った。「明日の遠足は休むと、学
校の先生に連絡したの?」と私が聞くと、「今日、足が痛いと言ったから、先生はわかってくれ
ているはず」と。そこでまた私が、「休むなら休むで、しっかりと連絡したほうがいいんじゃない
の?」と言うと、「先生はわかってくれているからいい」と。

●「だから何とかしてくれ」
 もう一つの特徴として、このタイプの子どもは、「だから何とかしてくれ」言葉をよく使う。たとえ
ば何か食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてく
れ!)」というような言い方をする。「先生、おしっこオ、(だから何とかしてくれ!)」というのもそ
うだ。

子どもだけではない。ある女性(七〇歳)はことあるごとに、彼女の息子(四五歳)にこう言って
いる。「私も歳をとりましたからね」と。しかも電話でそれを言うときは、今にも消え入りそうな
弱々しい声で言う。こうした言い方は、先に書いた、「だから何とかしてくれ」言葉そのものとい
ってよい。その女性は、息子に「歳をとったから、何とかしろ」と言っている。

日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそれくらい依存心の強い国民と
いうことになる。長くつづいた封建時代の中で、骨のズイまで、自由(自らに由る力)を奪われ
たためと考えてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」と。

●日本人は依存型民族?
 一方、自立心の旺盛な子どもは、攻撃的にものごとに取り組む。生きざまそのものが攻撃的
で、前向き。このことについては前にも書いたので、問題はそのつぎ、つまりどうすれば自立心
の旺盛な子どもにすることができるか、である。

が、この問題は、冒頭にも書いたように相互的なもの。子どもに自立心をもってほしかったら、
親自身が自立しなければならない。が、たいていは親自身に、その自覚がない。親自身が「甘
え」の中にどっぷりつかっているため、自分が依存型の人間であることに気づかないことが多
い。あるいは反対に、依存的であることを、むしろ美化してしまう。よい例が、森進一が歌う『お
ふくろさん』である。大のおとなが、夜空を見あげながら、「ママ〜」と涙をこぼす民族は、世界
広しといえども、そうはない。そういう歌が、国民的な支持を受けているということ自体、日本人
が依存性の強い国民であるというひとつの証拠ということになるのではないか。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そのためにもまずあなた自身が自立する。その
第一歩として、子どもには恩を着せない。

    >\
     〜〜⌒し〜〜
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  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘
える子ども」を意味する。反対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」
と言う。地方によっては、独立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。静岡市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。

 その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期まで
は、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つよう
になった。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。そしてことあるごとに、「息子は、静岡の嫁に取られてしまい
ました」「親なんて、さみしいものですわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたとい
う。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。結果、その男性は、妻を取っ
たのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始めたというのだ。「親を粗末
にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子とは、縁を切るからな」と
か。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかってきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。たとえば
今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの一度も遊
戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、おばあちゃ
ん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。たとえば長男は、あまり母が好きではな
いようです。あまり母には、甘えません。だから母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判し
ます。私の子どもに対する母の態度を見ていると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』とい
うことが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚
者というべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢
い親だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。子ども
が親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけてしまう。
ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだから」と
いう、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。
一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
(02−12−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


受験勉強

 受験勉強は、「勉強」ではない。ただ言われた知識を吸収して、それをいかにうまく吐き出す
か。それで決まる。それが受験勉強。

 問題は、受験勉強がそういうものであるということではなく、そういう受験勉強で、人間の価値
が決まってしまうということ。「価値」という言い方には、語弊があるが、一般世間の人は、そう
考えている。

 昔、とんでもないほど、ヘンチクリンな高校生がいた。どうヘンチクリンかは書けないが、私は
その子どもを、頼まれるまま、二年間、教えた。週二回の家庭教師だった。で、その子どもは、
やたらと頭だけはよかったが、中味はどこか狂っていた。その高校生は、やがてS大学の医学
部に合格したが、親たちの感謝の言葉とは裏腹に、私はその合格を、どうしても喜ぶ気にはな
れなかった。むしろ「これでいいのかなあ」と、疑問に思った。

 つぎにその子どもの消息を聞いたのは、一〇年ほどたってから。そのときその子どもは、M
大学の大学病院で講師をしていた。が、さらに一〇年後。その子ども(「子ども」という言い方
は、適切ではないが……)は、驚いたことに、H市内で、開業した。私はその話を聞いたとき、
ワイフにこう言った。「どんなことがあっても、あの医院だけは行くな」と。

 私は無数の子どもたちをみてきた。若いころは、受験塾の講師もしていたから、同じく無数の
受験生を、大学へ送ってきた。しかしあのころの自分を振りかえって言えることは、「もう受験
指導など、こりごり」ということ。ああいう指導を、何の疑問ももたずにできる講師、つまり受験
屋というのは、やはりどこか頭がヘンチクリンと考えてよい。まともな人間なら、数年で、気が狂
ってしまう。

 たとえば……

 合格した子どもに向かって、「おめでとう」を言ったあとに、振りかえって、不合格だった子ども
に、「残念だったね」と言う。まさに金の切れ目が、縁の切れ目。「教育」と言いながら、どこにも
教育の要素など、ない。受験指導は、あくまでも「指導」。もっとはっきり言えば、要領の問題。
小ズルイことを、スイスイとうまくできる子どもほど、有利。またそういうことを教えるのが、受験
指導。

 つい先日も、その種の本の広告が、新聞に大きく載っていた。並べてみる。

「スイスイ、一流大学、必勝法」(仮題)とか。
●直感で、「できない」と思った問題には手をつけるな。
●面接では、あたりさわりのないことを言え。奇抜なことを言うな。
●時間配分をまちがえるな。簡単な問題はミスをするな。
●作文テストは、減点法で勝負、など。

 たしかにその通りだが、こうまで堂々と書かれると、「どうか?」と思ってしまう。しかし現実に
受験競争がある以上、それにさからってもしかたない。が、どこか低レベル。「本当に、これで
いいのかな?」と思うほど、低レベル。ワイフにそのことを話すと、「こういう人間を見ない教育
はこわいわね」と。私も、そう思う。

 もっとも、今、受験生をもつ親や、受験勉強で苦しんでいる子どもに向かって、こんなことを言
ってもはじまらない。それはちょうど、金持ちが、「お金なんてむなしいものです」と言うのに似て
いる? どこかの大学の総長が、「学歴制度なんて、もうありません」と言うのに似ている? そ
のお金や学歴を、死ぬほど乞い求めているいる人だっている。

 しかし今、それこそワラをもつかみたい思いで苦しんでいる人に向かって、受験の心得と
は? それはちょうどガンで苦しんでいる人に向かって、あやしげなガン治療薬を売りつけるよ
うなものだ。そもそも、こういう受験屋に向かって、良心を求めるのがおかしい? だから批判
したり、批評したりしても、ムダ?

 日本の教育制度は、どこか狂っている。その狂った教育制度の中から、これまた狂った子ど
もたちが生まれている。それだけではない。この狂った教育制度が、いかに親子のきずなを破
壊し、ついで家庭を破壊していることか。そしてそれほど「力」のない人が、王座に君臨する一
方、まじめで良心的な人たちが、食いものになっていることか。たとえばこの日本では、人生の
入り口でほんの少しだけがんばって、公務員になれば、あとは死ぬまで、地位と収入が保証さ
れる。仕事も役職も、つぎつぎと回ってくる。しかしその入り口をはずすと、一生、そういう仕事
には、ありつけない。ガードはかたい。採用試験すら受けられない。まず、その採用試験すら、
ない。それともあなたは、職安の掲示板に、「○○公民館、館長職、募集中」などという張り紙
を見たことがあるとでも言うのだろうか。

 この日本では、どんな形でもよい。役人のポストがあれば、それについたほうが、絶対、有
利。得。安全。無事。生涯、食いはぐれることはない。しかしみなが、そう思ったら、この日本は
どうなる? みなが、そう思って、公務員になったら、この日本はどうなる? そういう社会の入
り口に、実は、受験競争がある。言いかえると、受験勉強も、ヘンチクリンな子どもも、結局
は、その狂った社会の申し子にすぎない。その狂った社会が、今の日本の社会の基盤になっ
ている。

 ……と、またまた頭が熱くなってしまった。少し過激な意見になってしまった。自分でもわかっ
ている。しかしこれだけは言える。

 どんな年齢になっても、またどんな回り道をしても、その人がその時点からがんばったとき、
その人の実力が認められるような社会にしないと、本当に日本はダメになるということ。そんな
にがんばらなくても、公的な保護や恩恵を受けてヌクヌクと生きている人が、ふえればふえるほ
ど、本当に日本はダメになるということ。それでもよいなら、私は、もう何も言わない。そろそ
ろ、私の心の中には、こんな思いが芽生え始めている。「どうぞ、ご勝手に!」と。「もう、知った
ことか!」と。あるいは、尾崎豊の言葉を借りるなら、「クソ食らえ!」か。このところ、こういう問
題を考えるのも、疲れてきた。
(02−12−31)

●こう書くと弁解がましく聞こえるかもしれないが、私は何も、公務員の人を、個人攻撃してい
るわけではない。だからあなたがもし公務員でも、あるいはあなたの近くに公務員の人がいる
としても、そういう人に、この問題をあてはめないでほしい。数年前も、「あなたはそう言うが、
私の夫は、公務員として、その責務をまじめに果している。そういう人もいるということを忘れな
いでほしい」という抗議の手紙をもらったことがある。それには長々と、その夫の一日のスケジ
ュールまで書かれていた。しかし私が問題としているのは、個々の公務員といわれている人の
問題ではなく、あまりにも肥大化しすぎた公務員社会、もっと言えば強大化しすぎた官僚制度
である。ここにメスを入れないと、日本の社会は、本当にダメになる。それを言っている。どうか
誤解のないようにしてほしい。

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   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
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   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

私の限界

 先日、大学時代の友人に会ったら、こう言った。「林君、ぼくはね、あと一〇年、健康だという
保証をもらったら、その一〇年間、暴れまくってやる。しかしその保証がない。だから暴れるこ
ともできない」と。

 そのときは、私は彼の言葉を理解できなかった。彼はこう言ったのだ。つまりだれしも、明日
のわからない生活をしている。そういう不安があるかぎり、がんばろうとしても、がんばることが
できない。そこには、おのずと限界がある、と。

 こうした「限界」は、だれにでもある。ただその形や中身は、さまざま。人、それぞれ。私にも
ある。いや、このところ、自分の限界を、ヒシヒシと感ずることが多くなった。「私の人生は、ま
あ、こんなものだ」という、あきらめ。「これから先、どうがんばっても、たいしたことはできないだ
ろう」という、あきらめ。「一〇年後には、頭はボケる。二〇年後には、さらにボケる」という、あ
きらめ。そういう「あきらめ」が、毎日のように、私を襲う。

 ときどきワイフは、私にこう聞く。「あなたは一体、何がどうなればいいと考えているの?」と。

 名誉も、地位も、権力も、それにお金もほしい。とくにお金は、嫌いではない。いくらでもほし
い。しかし私が求めているのは、そういうものではない。仮にそういうものが、手に入ったとして
も、私は決して満足しないだろう。

 私がほしいのは、真理だ。なぜ私がここにいて、何のためにここに生きているか、その答が
ほしい。

 少し前、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++++++++++

子どもに生きる意味を教えるとき(中日新聞掲載済み)

●高校野球に学ぶこと
 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの
高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たか
がボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、そ
れほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この
世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか
 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ
の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争
と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に
意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの
箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある
 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生
の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日
その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私た
ちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教える
ことがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手
たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味は
ない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶ
し。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私た
ちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++++

 この原稿を書いたとき、本当のところ、それほど深く考えて書いたわけではない。今、読み返
しても、「結構、生意気なことを書いているなあ」と、そんなふうに思ってしまう。仮にここに書い
たように、「懸命に生きた」としても、それがどうなのかという問題もある。「どうせたった一度し
かない人生だから、のんびりと、好き勝手なことをして生きればいいのではないか」と。とくに自
分の限界を感じたときは、そうだ。「残り少ない人生だから、のんびりやれ」という意見と、「残り
少ない人生だから急げ」という意見が、私の心の中で、複雑に交錯する。

 いや、それ以上に限界を感ずるのは、「こんなことをしていて、何になるのか」という限界であ
る。どうせ真理など、たどりつけるわけがないし、仮に真理にたどりついたとしても、それがどう
だというのかという疑問もある。それはちょうど、ひとりで歩く旅のようなものだ。歩いても歩いて
も、その先には、さらに遠い道がつづく。

 ただ私が、その友人とちがうところは、たとえ明日がなくても、今日は今日で、前に進むという
こと。進むしかないということ。私のばあいは、「明日の保証」など、考えたこともない。明日は、
必ず、今日の結果として、やってくる。友人は、健康のことを考えてそう言ったのだろうが、その
健康にしても、私は私なりに、精一杯、気をつかっている。

 毎日、一時間程度の運動は欠かしたことがない。寒い夜などは、身を切られるような冷機を
感ずることもある。それでも、運動にでかける。食べ物にも注意している。心の安静にも気をつ
かっている。酒も飲まない。タバコも吸わない。私は、今、やるべきこと、できることを、自分なり
に精一杯している。その結果として、明日があるのだから、明日のことは、心配してもはじまら
ない。つまり病気になっても、それなりにあきらめもつく。

 しかし考えてみれば、だれしも、その限界の中で、ともすればその限界に押しつぶされそうに
なりながら、もがいて生きているのかもしれない。「まだ、何とかなる」「何とか、したい」と。私が
いう「生きる意味」というのは、そこから生まれる。もし私たちが今、限界を受け入れてしまった
ら、私たちの人生は、その段階で止まってしまう。が、同時に、それは人生に敗北したことを意
味する。

 別れぎわ私は友人にこう言った。「だいじょうぶだよ、君は。一〇年後も二〇年後も、今と同じ
ようにピンピンしているよ」と。その友人はうれしそうに手を振りながら、「林、お前も元気で
な!」と。私も、それにこたえて、大きく手を振った。
(02−12−31)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

後半部へ
すみません!













件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-8-2

後半部です
はやし浩司
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希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、め
ざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、まさに希望と
相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペ
テン師である。私のばあい、希望をなくしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)
と言った、シャンフォールがいる。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子どもたちの
世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯王、マジギ
ャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。一度私
が操作をまちがえて、あのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そのときその女の子
(小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。つまりその女の子は、たま
ごっちが死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よくわか
る。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たちが、勝手に
つくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、ときに絶望したりす
る。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。キリス
ト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神よ、こうして
邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらなかったのか」と。それ
に対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに転載す
る。

++++++++++++++++++++

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に
対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親
は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも
しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話
が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

●子どもの世界だけの問題ではない
 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘
もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた
ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはし
ないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、
その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆ
がめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜた。そ
れはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人
間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によ
ってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それが希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だらく)」という
言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、希望論であり、絶
望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をする。冒頭に書いた、アリ
ストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶望論を説いた。が、私は今
のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひかれる。「人間は、努力によって、
神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう人間に
なるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気がする。言いか
えると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望論や絶望論は、たし
かに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこう言った。授業の前に、遊戯
王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心はハッピ
ーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。ゲームはゲー
ムだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線を引かないと、時間
をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、はるかに大切ものだよ。
それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否定するの
は、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、心を休めたり、癒
(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではない。またそれがかなわない
からといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで一線を引くこと。でないと、自分を
見失うことになる。時間をムダにすることになる。
(02−12−31)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


北朝鮮

一二月三〇日、北朝鮮が、プルトニウムの抽出が可能な核再処理施設を、一〜二カ月以内に
再稼働させるとIAEA( 国際原子力機関)に 通告してきていた。

 もし北朝鮮が現在保管している使用済み核燃料棒八〇〇〇本を、放射化学研究所で処理
すれば、核爆弾五個分に当たるプルトニウムを抽出できるとされ、IAEAのエルバラダイ事務
局長は、施設の再稼働について「最も憂慮する事態」 と表明した。

 もうこの段階にくると、「まさか、北朝鮮は、そんなことまでしないだろう」と考えるのは、甘い
幻想でしかない。独裁者の常として、自分の失政をごまかすため、北朝鮮は、外に戦争をしか
ける。その矛先(ほかさき)が、アメリカであり、日本というわけである。

 ここで注意しなければならないのは、韓国と中国の動向である。が、韓国は、すでに日米の
連携(れんけ)プレーからは、脱落しかかっている。実にたくみな外交プレーである。つまり太陽
政策をかかげることにより、「仮に米朝戦争になっても、韓国は中立を守る」(次期、盧大統領
の選挙中の公約)と。金大中大統領も、「共産国家に対する抑圧や孤立化が成功したことはな
い」(一二月三〇日) と述べ、アメリカが検討している 封じ込め政策には 反対の意向を示し
た。(北朝鮮は、もはや共産主義国家ではない。独裁国家である。念のため。)

 つぎに中国だが、アメリカはともかくも、あわてふためく日本を見ながら、「いい気味だ」と思っ
ているにちがいない。理由はともかくも、アジアにおける日本という国は、そういう国なのであ
る。だからいかに北朝鮮がおかしな国であっても、中国は、おいそれとは動かない。中国の指
導部にいる政治家たちは、みな、日本による植民地時代を覚えている。

 となると、日本は、ここまでくれば、アメリカと一蓮托生(いちれんたくしょう)。運命を共同する
しかない。仮に今、日本のバックにアメリカがいなければ、北朝鮮は、イの一番に、東京都のど
真ん中で、核爆弾を爆発させるだろう。方法はいくらでもある。漁船に忍ばせて爆発させると
か、あるいは戦闘機に積んで、自爆させるとか。ミサイルだけが、運搬方法ではない。

 私は日本の防衛能力を信じたいが、完全にサラリーマン化した自衛隊に、どれほどの防衛
能力があることやら。いや、自衛隊を責めても意味はない。そういう国をつくったのは、ほかな
らぬ私たち自身だからである。では、私たちはどうするべきか。

 徹底した水際防衛作戦をとるしかない。公海上の臨検には問題があるとしても、領海内の臨
検には、問題はないはずである。私は今日からでも早くないから、北朝鮮から出航してきた漁
船、貨物船などは、徹底的にマークしたらよいと思う。そして少しでもおかしな行動を見せたら、
即、臨検。繰り返すが、東京都のど真ん中で、核爆弾が爆発してからは、遅いのである。

 もしそれに対して、北朝鮮が、それ以上に不穏な行動を示したら、日本も覚悟するしかない。
腹を決める。もう北朝鮮問題は、そこまできている。戦争は私たちが望むところではないが、し
かし向こうが攻めてくるというのなら、戦うしかない。が、その前に、私たちも、すべきことがあ
る。

 私は、東京の中華人民共和国駐日本大使館に、つぎのような手紙を書いた。みなさんも、こ
れを参考に、中国大使館に手紙を書いたらどうだろうか。AからBまでをコピーし、各自の感
想、意見を添えたらよいと思う。北朝鮮の動向のカギを握るのは、もう中国しかない。

++++++++++++++++++++++A

中華人民共和国駐日本大使館                    12月31日

武大偉大使並びに、
国際問題担当部各位へ

拝啓

 突然、このような手紙を出す、非礼をお許しください。

 私たちは、朝鮮民主主義人民共和国による、核開発を深く憂慮し、心から反対しています。
こういう形で、核兵器が世界に拡散することは、私たちの国のみならず、貴国、ならびに世界
の未来についても、たいへん危険なことだと確信しています。

 ご存知のように、北朝鮮による核開発を阻止できるかどうかは、もう貴国、中華人民共和国
の政治的裁量にゆだねられています。どうかこの点をご留意の上、北朝鮮による核開発阻止
に向けて、貴国が貴国のリーダーシップを発揮してくださることを、心より願います。貴国のご
協力に、感謝します。

敬具


People's Republic of China Embassy in Tokyo

Mr. 武大偉, High Excellency
And to whom it may concern about the international problem 

Dear Sirs, 

Excuse us to write a letter on such a sudden occasion, but we are the Japanese, who 
apprehend deeply the nuclear development by the Democratic People's Republic of Korea, 
and are opposing from the bottom of my heart against it. We are sure that it is very 
dangerous also about the future in not only my country but your country and the rest of 
the world, that a nuclear weapon is being spread in the world in such forms. 

It is already left to political discretion of your country, the People's Republic of China 
whether the nuclear development by Democratic People's Republic of Korea can be 
prevented as far as we know. We wish from the heart that your country demonstrates the 
leadership of your country towards the nuclear development prevention by Democratic 
People's Republic of Korea, for which we thank you very much. 

Sincerely yours 

  はやし浩司
                            Hiroshi Hayashi

+++++++++++++++++++++++++B

手紙のあて先

〒106−0046
東京都港区元麻布3−4−33
中華人民共和国駐日本大使館
  武大偉大使閣下

++++++++++++++++++++++++

 ただ残念なのは、この場におよんでも、「日本の植民地政策は正しかった」「中国にせよ、朝
鮮にせよ、日本が植民地にしたおかげで発展できた」「鉄道も道路も建設してやった」などと、
戦前のあの時代を、正当化しようとしている人がいることだ。もしこんな論理がまかり通るな
ら、逆の立場で、日本が同じことをされても、だれも文句を言えないことになる。どうして日本人
よ、それがわからない?

 ちなみに現在、中国大使館のホームページのトップには、「小泉首相の靖国参拝問題」が取
りあげられている(〇二年一二月三一日)。いくら日本人が「そうでない」と叫んでも、中国の人
にしてみれば、日本は、日本人は、戦前の反省など、みじんもしていないと映る。つまりそうい
うことを一方でしておきながら、中国に向かって、「北朝鮮の暴走を、何とかくい止めてほしい」
は、ない。私はこの、中国大使館への手紙を書くとき、それを強く思った。
(02−12−31)

●このところ毎日のように北朝鮮の動向が変化する。このエッセーがみなさんに読まれる頃に
は、国際情勢が、大きく変わっているかもしれない。

●北朝鮮は、どういう形かは知らないが、すでに核兵器をもっているとみるべきではないのか。
今回の一連の行動は、それをカモフラージュするための行動と考えてよい。つまり「私たちは、
〇三年はじめから、やむをえず核開発を始めた」と。と、するなら、数か月後には、核兵器を開
発したことしに、〇三年内に、日本海の真ん中あたりで、核実験をするつもりでいるとみてよ
い。私の予想が当たらないことを願っているが……。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


今日は、風邪

 夜中から、軽い頭痛が始まった。ワイフが言うには、寒いのに散歩に行ったから、と。で、
朝、起きて軽く朝食をすますと、「B」という風邪薬をのんだ。症状がひどいときにのむ薬であ
る。(ふだんは、カッコン湯かマオウ湯ですます。カッコン湯は、風邪のひきはじめ、マオウ湯
は、風邪の症状がこじれたときにのむ。カッコン湯をのむと、汗がジワジワと出てくるので、そ
れを利用して、風邪(ふうじゃ)を発散させる。これ、漢方の常識あるね。)

 で、今日は大晦日(おおみそか)というのに、一日中、部屋の中。風も強くて、庭掃除もできな
い。さりとて、部屋の中で、することもなし。雑誌を読んだり、テレビを見たりして、ブラブラす
る。幸い、頭痛はなくなったが、どこかもの足りない。大晦日という実感が、どこにもない。明日
から、二〇〇三年というのに……。

 人間というのは、おかしな動物だ。(私だけかもしれないが……。)こうして文を書くのは、苦
痛ではないが、どういうわけだか、手紙を書くのは苦痛。返事を書かないでたまっている手紙
だけでも、今、手元に五、六通はある。どうしても後回しになってしまう。どうしてか?

 と、今、時刻をみると、午後四時ちょうど。すでに外はどこか薄暗い。寒々とした冬の風が、
窓の外の栗の木をゆらしている。ワイフは、先ほどからおせち料理を、箱につめている。その
においが、二階のこの部屋まで伝わってくる。おなかはすいていない。食欲は、あまりない。午
後からは、お茶ばかり飲んでいる。もう二リットルは飲んだかもしれない。私は血圧が低いせい
か、お茶をよく飲む。飲まないと、調子が悪くなる。

 さてさて、それにしても大晦日。あとで、今年、一年を振り返ってみよう。それを原稿にまとめ
てみよう。明日からの正月も、同じようにサエない正月になりそうだ。今年は旅行もしない。(こ
こ数年、していないが……。)とくに予定もなし。ワイフが、「ビデオでも借りてこようか」と言っ
た。何ともつまらない正月になりそうだ。しかたないかな。これも不景気が悪いのだ!

(二〇〇二年を振り返って……)

(ア)今年は、電子マガジンに挑戦した。後半は、二日おきに発行した。結構、ハードだったが、
その分、気持ちが充実していた。こういうふうに、やるべきことを決めて、とりかかるというの
は、よいことだ。おかげで肝心の本の出版のほうは、おろそかになってしまった。どうせこういう
時期だから、私の本など、売れない。出版社にかえって迷惑をかけることになる。これは負け
惜しみ。

(イ)家族は、みな、健康だった。いろいろ問題はあったが、問題と意識することもなく、淡々と過
ごせたのは、よかった。あくせくしても、同じこと。現状をすなおに受け入れ、万事、自然体でい
けばよい。願いや欲は、多ければ多いほど、心の状態は不安定になる。つまり願いや欲は、
ほどほどに。これは私への戒(いまし)め。

(ウ)仕事は、低調だった。しかし「低調」と言えるだけ、まだ幸せなほうだ。リストラで、仕事をな
くした人も多い。そういう人は、どうやって生活しているのだろう。生活というよりも、どうやって
精神状態を平常に保っているのだろう。どうかめげないで、がんばってほしい。私などは、万年
失業者のような立場だから、「失業」と言われても、ピンとこない。そういう意味では、私はたくま
しい?

(エ)二〇〇二年を振り返っても、その前の〇一年、さらには〇〇年とくらべても、どこといって、
そんなに違わない。この五、六年は、同じようなリズムで流れている。フランスのある哲学者
(名前は忘れた)は、『平凡は美徳』と書いている。「日々に平凡であることは、それ自体、すば
らしいことだ」と。多少、疑問もないわけではないが、今は、その言葉をすなおに受け入れよう。

(オ)とにかく、今日は、大晦日。二〇〇二年よ、さらば。しかしおおざっぱに振り返っても、今年
も、何かをしたようで、結局は、何もできなかった。そんな思いだけが、ふと心をふさぐ。あああ
あ。ハッピー・ニュー・イヤー!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


性欲

 若いころ、私は女の人の太ももを見ただけで、発情してしまったことがある。そのとき自転車
に乗っていたが、下半身のふくらみを、隠すのに、苦労した。その女性は、私の前を歩いてい
た。そのとき、風のいたずらか何かで、チラッと、太ももが見えた。それでムラムラときた。私が
一九歳のときではなかったか。

 私は長い間、それをだれにも言えず、悩んだ。しかしやがて、男なら、だれしもそうなることを
知って、ほっとした。もっとも、女性の体のどこを見て発情するかは、人それぞれらしい。私の
昔の知人の中には、女性の尻を見ると、発情するという男がいた。しかもブヨブヨと大きければ
大きいほど、よいと言った。

 私のばあいは……と、書きかけたが、この話は書けない。ただいつも不思議だと思うのは、
どうして男というのは、女性の性器に、こうまで恋慕をいだくのかということ。私はあるとき、ふと
こう思ったことがある。同じように複雑な形をしているのに、どうして耳には、恋慕をいだかない
のか、と。複雑な形ということでは、性器には劣らない。しかし男というのは、耳には恋慕をいだ
かない。しかし性器には恋慕をいだく。それこそ好きな女性の性器なら、一晩中でも見つめて
いたいと思ったこともある。(「思う」ともかけないし、「思った」とも書けない。これは微妙な問題
である。だからあえて、ここでは、「思ったこともある」とした。)

 が、それにも年齢がからんでくる。私のばあいは、(やはり、書いてしまった!)、五〇歳をす
ぎるころから、女性の見方が、急速に変化した。女性というより、「女性の体」と言ったほうが、
正しいかもしれない。まず第一、男も女も、若いころ思ったほど、違わないことに気づいた。性
器の構造にしても、それほど、違わない? たとえば若いころは、風呂屋の番台に座れるな
ら、死んでも本望だと思ったことがある。しかし今の私は、「たぶん、三〇分も座っていたら、退
屈するだろうな」と思う。そういう変化である。

 で、ワイフに、「お前はどうなのか?」とよく聞く。が、私のワイフは、もともと女性の体をした
「男」のような女で、ワイフの意見は、あまり参考にならない。ワイフは、子どものころも、男ば
かりと遊んでいたそうだ。(私は、女と遊んだ記憶すらない。)

 ……と、まあ、なぜこんな文章を書き始めたかだが、たまたま読んでいた聖書に、こんな一節
があったからだ。

 『およそ、婦(おんな)を見て、色情を起こすものは、心の中、すでに姦淫(かんいん)したるな
り』(「新約聖書」マタイ伝五章二八節)と。

 もしそうなら、私は一年中、姦淫していたことになる。今も、していることになる。ゾーッ! し
かし、だ。それが悪いことなのだろうか。いや、その前に、色情などというものは、人間自身が
コントロールできるものなのだろうか。色情などというものは、人間が人間である前から、生物
としての人間に備わっているもの。つまりそれがあるから、人間は、生殖活動を繰り返し、今の
今まで存続できた。もし色情がなければ、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 そこで改めて、性欲について考えてみる。

 私たちの行動のすべての裏に、性欲がある。私の意見ではない。あのフロイトもそう言ってい
る。この性欲が、さまざまな形に姿を変え、裏から私たちの行動を操っている。しかしこんなこ
とは心理学者の分析を待つまでもなく、常識。私たちの行動の陰には、いつも異性がいる。男
であれば、女が。女であれば、男がいる。

 たとえば若い男女が、見てくれを気にするのも、身を飾るのも、何かのことで目立ちたがるの
も、結局は、そこに異性がいるから。私たちおとなは、その若い男女の延長線上にいる。行動
も、その延長線上にある。私たちの行動の一つずつを分析したとき、その延長線上にない行
動をさがすほうが、むずかしい。仮に年をとって、異性を意識しないようになっても、行動だけ
はその延長線上に残る。

 こうした心理は、私もときどき、経験する。たとえば私はこうして子育てエッセーを書いている
とき、ふとそこに女性の顔を想像することがある。男性ではない。女性だ。だれということでは
ない。具体的にだれかの顔を思い浮かべることはない。しかし女性である。その女性に話しか
けるようにして、書く。そのとき私は、甘ったるい感覚に包まれる。淡い恋心に似た、甘ったるさ
である。私にものを書かせている背景のどこかに、異性の存在があることは否定できない。そ
のことは、こんなことでもわかる。

 こういう仕事をしていると、いろいろな人から相談を受ける。こういう言い方は不謹慎に聞こえ
るかもしれないが、そういうとき、女性からの相談のほうが、男性からの相談より、どこか力が
入る。(だからといって、男性からの相談を軽視しているということではない。)ウソ隠しなく言え
ば、そういうことになる。

 そういうこともあって、私は性欲を否定しない。反対に、人間から、この性欲を奪ってしまった
ら、それこそ人間は、味気なく、おもしろくない生き物になってしまう。歌も歌わなくなる。恋文も
書かなくなる。絵も描かなくなる。人間は人間である前に、動物なのだ。

 だからここはイエス・キリストには悪いが、『婦(おんな)を見て、色情を起こすことは悪いこと
だ』というのなら、どうしてそれが悪いことなのかと反論したい。人間は道徳的な動物だが、完
ぺきな生き物ではない。しかしその完ぺきでないところから、無数のドラマが生まれる。そのド
ラマが、人間の生活を豊かでおもしろいものにしている。もし人間が、すべて天使のようになっ
てしまったら、人間の社会は、何と味気なく、つまらないものになってしまうことか。

 もちろんだからといって、勝手気ままな性欲を容認するということではない。それをコントロー
ルするのは、また別の倫理ということになる。これについては、また別のところで考えてみた
い。
(02−12−31)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


一月一日

 二〇〇三年一月一日。よく晴れ渡った、よい朝だ。午前六時半に目がさめた。暗闇の外を見
ると、ほんのりと色づいた空に、一筋の雲。「これなら、ご来光がおがめるぞ」と、思った。

 ワイフを起こす。息子を起こす。どこか頭の中はスッキリしないが、これは睡眠不足によるも
の。お茶を飲んで、気分を取りなおす。一昨日は風邪のせいか、頭痛があった。風邪薬をのん
だら、頭痛はおさまったが、ほかの症状は残った。どこか調子が悪いのは、そのせいかもしれ
ない。何ともさえない、元旦だ。

 テレビを見る。あちこちのチャンネルで、テレビ討論をしていた。経済問題、国際問題など。
たまたま見ていたら、こんなシーンが、目に入った。

 一人の学者(三五歳くらい)が、意見を言った直後のこと、別の学者(四〇歳くらい)が、鼻先
でフンと笑ったようなしぐさを見せた。「何だ、そんな意見か」というような笑いだった。ふてぶて
しい態度だった。よく日本人が、討論の場で見せるしぐさである。「そんなことを知っている」「そ
んな程度か」「バカなこと言うな」と。いろいろな意味に解釈されるが、しかしああいう笑いはや
めたほうがよい。笑うほうは、相手より優越的な立場にいることを示すために、そうする。しかし
同時に、それは意見を述べる人に対して、失敬というもの。

 二年前だが、どこかの討論会で、私が意見を述べたとき、やはり同じようなしぐさを見せる男
がいた。どこかの女子大学で講師をしている男だった。そこで私は、すかさず、こう言った。「あ
なたには、あなたの意見があるのでしょう。しかしそういう笑いはやめたほうがよい。失敬では
ないですか」と。するとその男は、こう言った。「あんたも、知識をひけらかすもんじゃ、ないよ」
と。

 私は何も知識をひけらかしてなどは、いなかった。そんな若い男に、そんな意識をもつことは
ない。ありえない。私は、テレビ討論を見ながら、あのときの男の顔を思い出していた。本当に
イヤな男だった。私が何を言っても、鼻先でフンと笑っていた。あとで聞いたら、あれがあの男
のクセだということだったが、それにしても、不愉快だった。

 ……と、まあ、新年、最初のエッセーにしては、暗い話を書いてしまったが、これも睡眠不足
のせいか。いつもなら、この時間には、夢を見ている。私はしばらく討論会に耳を傾ける。で、
こう思った。

 みんないろいろな意見を述べているが、述べながら、それぞれがそれぞれの立場で、日本の
こと、日本の未来のことを心配しているのだなあ、と。心強くも思ったが、その一方で、百家争
鳴というか、どこかまとまりがない。「こんなことでは、意見の一致はできないだろうな」と思っ
た。とくに気になったのは、低劣なレベルで、それが低劣だとも気づかないまま、自分の意見を
主張している人が多いこと。「低劣」というのは、「勉強不足」ということ。「もう少し、勉強してか
ら意見を述べたほうがいい」と、私は感じた。そういう人たちが、対等の立場になって、ワーワ
ーと意見を言う。それでは、まとまる話も、まとまらなくなる。

 ワイフは居間で、何やらガチャガチャと、料理を始めたようだ。テレビを消して、私は、この原
稿を書き始めた。どこかひんやりとした、よい朝だ。そう言えば、まだ言っていなかった。これか
ら居間へ行って、みんなに、こう言うつもり。「あけまして、おめでとう」と。何といっても、今日
は、一月一日なのだ。気持ちよくすごしたい。
(03−1−1)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
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          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-10-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 558人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
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/ ▼ \         【3】雑談
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  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)

【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

お母さんが苦労するのは、お父さんのせいよ(1324)

父親は母親がつくる(失敗危険度★★)

●互いに高次元な立場で!
 こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性な
ら、私は反対のことを書く。

 あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらし
い人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう
語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなた
が父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことを
いう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。

●父親の悪口を言う母親
 「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会
社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのか
もしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。そうでなくてもむず
かしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができるというのか。こん
な子どもがいた。

●男を男とも思わない
男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小四)だった。M子という名前
だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというよ
り、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。そこでそれとなく聞いてみると、
母親はある宗教団体の幹部。学校でもPTAの副会長をしていた。一方父親は、地元のタクシ
ー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼ばれるただの信徒だった。どこ
かボーッとした、風采のあがらない人だった。そういった関係がそのまま家族の中でも反映さ
れていたらしい。

●夫婦像をつくるのは親
 で、それから二〇年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には
至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞
いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。

 子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういう
ものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておか
ねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう
意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

日本の子どもは何もしない
使えば使うほどよい子(失敗危険度★★★★)

●子どもは使え
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●「日本の子どもはスポイルされている」
 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポ
イルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君
は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生
が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生です
ら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなもの
がある。

●ドラ息子の症状
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。
(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。

あなたの子どもをドラ息子、ドラ娘にしたくなかったら、とにかく使うこと。それ以外にあなたの
子どもをよい子にする方法はない。

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。四四歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。一七歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科
に転じ、二五歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニ
アで知りあった、一一歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、三〇歳のときで
ある。小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そし
てそのあと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、一〇〇年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがす
ばらしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたステ
ィーブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、
生まれない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)
(03−1−1)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


脅迫観念

 自営業者にも、弱点がある。それは明日をもわからない状態で、日々の生活に追われるこ
と。とくに最近のように、不景気が蔓延(まんえん)し、先が見えない状態になると、不安感だけ
が勝手に増幅してしまう。こうなると、「来月はどうなるのだろう」「来年はどうなるのだろう」と、
そんなことばかりを、考えるようになる。

 先日、N市で、半時間ほど、タクシーに乗った。その運転手がこう話してくれた。何でもその人
は、その数か月前まで、縫製会社の社長をしていたという。いわく、「タクシーの運転手のほう
が、ずっと気楽でいいです。縫製会社を経営していたときは、自分の仕事をしているのか、社
員の仕事をつくってやっているのか、わからない状態でした。毎日、その仕事づくりに追われて
いました」と。

 こうした状態が長くつづくと、人は、強迫観念をもつようになる。「強迫観念」というのは、もとも
とは、ある特定の考えが、反復的に思い浮かぶことをいうが、いつも心のどこかに、不安感が
張りつき、何かに追われているような心理状態をいう。忘れようと、もがけばもがくほど、それ
が心をふさぐ。で、一度、こうなると、息がつけない。気が抜けない。気が休まらない。落ち着か
ないといった症状が出てくる。身体的症状としては、頭痛、頭重、不眠、早朝覚醒など。先の運
転手も、「毎日、本当に、そのまま息がつまるのではないかと思った」と言った。

 もっともだれしも、そうなるわけではない。もともと不安神経症や恐怖症などがある人が、そう
なる。そういう思考パターンが脳の中にできていて、その思考パターンの中に、強迫観念が、ス
ッポリと入ってしまう。

 こうした強迫観念は、もちろん母親にもある。子どもにもある。とくに受験生をかかえた親や、
子ども自身が、そうなりやすい。休みなど、子どもが家の中でゴロゴロしていると、それを見た
だけで、言いようのない不安に襲われたり、焦燥感(あせり)を覚えたりする親は、少なくない。

 で、こうしたケースを調べていくと、親自身も、自分の受験時代に、強迫観念をもっていたこと
がわかる。その記憶が、脳のどこかに刻まれていて、自分の子どもがその年齢になると、その
つど、再現される。これを私は勝手に、『記憶の再現』と呼んでいる。つまり親というのは、自分
の子育てをしながら、自分が受けた子育てを再現する。たとえば子どもが幼児のときは、自分
が幼児期に受けた子育てを。子どもが少年少女のときは、自分が少年少女期に受けた子育て
を、というように、である。

 こうした強迫観念は、まずそれが強迫観念であることに気づくこと。決して、正常な心理状態
ではない。そこで簡単なテスト。

(1)毎日、心のどこかに不安感がペッタリと張りついているようで、心が晴れない。
(2)「これから先、どうなるのだろう?」と、不安に思うことが多い。
(3)何かにつけて、あせりを感じ、じっとしていると、時間をムダにしたように思う。
(4)のんびりしている人を見たりすると、かえって不思議に思うことがある。
(5)何かにつけてイライラすることが多く、子どもについ、カーッとなりやすい。

 このタイプの人は、夢の中でも、だれかに追われる夢、取り残される夢、遅れる夢を見る。私
もごく最近まで、試験会場でテストができない夢をよく見た。しかしこれは強迫観念というより、
私の職業病のようなもの。生徒たちの受験シーズンが近づくと、今でも、心の状態が不安定に
なる。

 で、幼児でも、この強迫観念をもつことがある。昨年、幼児(年長児)一〇人くらいに、「君た
ちはこわい夢を見るか?」と聞いたところ、約半数の子どもが。「見る」と答えた。そこでどんな
夢かと聞くと、こう話してくれた。「ワニに追いかけられる夢」「UFOが上から襲ってくる夢」「おば
けの夢」「大きな鐘が落ちてくる夢」など。幼児だから、心温かい夢を見ていると考えるのは、ど
うやらウソのようだ。

 問題は、親や子どもに強迫観念があるということではなく、そういう観念があることに気づか
ないまま、それに振り回されること。そして自分でも、何がなんだかわからないような状態で、
子どもにきびしくしたりすること。もしあなたがいつも同じようなパターンで、子どもを叱ったり、
怒鳴ったりしているようなら、一度、この強迫観念を疑ってみたらよい。

 もっともこれは強迫観念にかぎらず、子育て全般についても言えること。賢い親は、自分の弱
点や欠点を知っている親ということになる(失礼!)

 さて、現在、こういう不安定な時代になると、私のような自営業者は、二重、三重の重荷を背
負うことになる。「明日、事故にでもあったら、それで万事休す」と。しかしそれだけに生きるの
に慎重になる。健康や交通安全には気をつかう。強迫観念が悪いばかりではない。別の面
で、よいほうに作用することもある。ほどよい生活の緊張感も、そこから生まれる。要するに、
強迫観念とは、うまくつきあうということ。そこでこれは私のばあいだが、つぎのようにしている。

(1)不安を感じたら、その不安の原因を知る。そして自分が納得いくまで、その問題について
調べる。たとえば最近では、北朝鮮の核問題がある。私は書店で数冊の本を買い込み、北朝
鮮の実情を調べた。つぎに軍事雑誌を買ってきて、日本の防衛能力を、調べた。それですべ
ての不安が消えたわけではないが、そうすることで、かなり気分が楽になった。

(2)時間の配分を、うまくする、やるときはやる。しかし休むときは、休む。こうした時間の配分
をうまくすることで、自分の心をリラックスさせる時間をもつようにする。たとえば土日は、子育
て相談をいっさい、受けない。あるいは子ども(生徒)の顔を、いっさい見ないようにする、など。
あとは趣味の時間をふやし、その問題そのものを忘れるようにしている。

(3)食べ物に気をつかう。私のばあいは、心理状態が不安定になったら、骨っぽい食べ物をた
くさんとるようにしている。さらにおかしいと感じたときは、CA剤を服用するようにしている。が、
何よりも大切なことは、自分でそういう状態になっていることに気づくこと。そしてそれに気づい
たら、ものごとの判断をくださない。行動を自制する。

 ここに書いたのは、あくまでも、私の個人的な方法。あとはワイフとドライブをしたり、バカ話を
したりしてすごす。そう、私のばあい、何がよいかといって、直接子どもたちと接して、ワイワイ
やるのが、一番よい。これは私の特権のようなもの。しかしこのところ、本当にいやなことばか
り、つづく。経済問題も、国際問題も、どこか混沌(こんとん)としてきた。何とかならないもの
か?
(03−1−1)

●恐怖は、いつも無知から発生する。(エマーソン「アメリカの学者」)
●小心な人は、危険の怒る前に恐れる。おくびょうな人は、危険の起こっているときに恐れる。
大胆な人は、危険が去ってから恐れる。(リヒター「断片」)
●わたしたちが恐れなければならない、ただひとつのことは、恐怖そのものである。(フランクリ
ン・ルーズベルト「大統領就任演説・1933」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(六七歳)は、だれかに電話をする
たびに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何
とかしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(六〇歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「アメリカが何
とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。一見、なごやかな世界に見え
るかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだけ。総じて言えば、日本人が
もつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が結集したものとみてよい。
「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌
われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好んで使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン性)
を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的であればあるほど、
美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくことは、まずない。だれ
かが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代
の全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界から
みて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が
国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」)

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

晩年論

 HIVの陽性者になっても、すぐ死ぬとはかぎらない。適切な治療をすれば、一〇年、二〇年
と、生きながらえることができる。要するに、発症を抑えるということだそうだが、私は少し前、
この話をあるドクターから聞いたとき、「では、私はどうなのか?」と考えた。

 私は現在、満五五歳。一応平均寿命で計算すれば、あと二二年※は生きられることになる。
しかしその二二年間、ずっと健康というわけではない。その前日まで元気で、その日ポックリと
死ぬというふうには、いかない。多分、これも平均的な老人をみるとわかるが、その前、五〜一
〇年は、闘病生活をすることになる。ということは、私がまあまあ元気なのは、これから先、長く
ても、一〇〜一五年ということになる。つまり立場は、HIVの陽性者と、どこも違わない。

 が、二〇代の若い人が、HIVの陽性者になったら、人生を悲観する。私だったら、悲観して、
頭がおかしくなっただろう。しかし今、私は、同じような立場だが、それほど悲観しない。この違
いは、どこからくるのか。

 これはあくまでも私のばあいだが、もし神様がいて、私に、もう一度同じ人生を繰りかえせと
言ったら、私は、多分、それを断るだろうと思う。今の思考状態のまま、青春時代にもどれるな
ら話は別だが、しかしあんな無知で、無学で、未熟で、未経験な、動物のような世界にもどれと
言われても、困る。とくにあの高校時代は、ごめん。あの高校時代にもどるくらいなら、死んだ
ほうが、まし。本気でそう思っている。

 そういう自分の心理を分析してみると、いろいろ気がつくことがある。まず、生きる気力そのも
のが、薄れてきたこと。変化や冒険よりも、静かな安定を望むようになってきている。行動に、
融通がきかなくなってきている。行動範囲が、狭くなってきている。今まで経験した範囲のこと
で、それを繰りかえすことはできるが、その範囲を超えると、とたんに、不器用になる。「それで
はいけない」と思うこともあるが、それよりも大きな力が、私に働くようになる。

 こうした変化は、たとえば人間関係にもあらわれる。一度、その人との人間関係がこじれる
と、修復しようという気力そのものが、生まれてこない。むしろ、こちらから積極的に、切ってし
まうこともある。多分、それは、時間に限りを感ずるためではないか。「もう、ムダにする時間は
ない」という思いが、私をして、そうさせる。

 あとは、居直りが強くなる。「私は私だ」と。中には私のことを、よく思っていない人がいる。
(そういう人は多い!)しかしこのところ、「そう思いたければ、勝手にそう思え」と考えるようにし
ている。ここでも、あまり修復しようという思いは、生まれてこない。そういうことをするのがめん
どうというより、そういうことをしている時間がない。ヒマがない。

 ……で、こうした自分自身の老人性と、どう戦うか、である。そのときポイントとなるのが、や
はり健康である。体の健康もさることながら、心の健康である。この年齢になると、心も病みや
すい。そういう人は、いくらでもいる。いや、すでに私の心も病んできるのかもしれない。今のと
ころ、多分、だいじょうぶだとは思うが、心の健康を守ることが、老人性と戦うひとつの方法で
はないか。恩師のT先生は、「(老人性と戦うには)、新しい情報を入れることです」と言ったが、
私もそう思う。常に、新しいことに興味をもち、それにチャレンジしていく。そういう前向きな姿勢
が、心の健康を保つ。

 体の健康は、これは適切な運動をすることで守る。心の健康は、毎日、前向きな生き方をす
ることで守る。なるほど! ……と、自分で感心していては、しかたないが、今、そういう結論に
達した。

 話がどんどんと脱線してしまったが、要するに、平均寿命とか、老人性とか、そういうことは考
えてはいけない。晩年論も、くだらない。もともとそういうものは、人間が勝手に決めた尺度に
すぎない。私は、いつでも、どこでも、何歳になっても、私なのだ。だから私は、HIVの陽性者に
なった若い人のようには、自分の人生を悲観しない。する必要もない。とにかく毎日を、ただひ
たすら燃焼させて生きていく。それだけのこと。
(03−1−2)

●四〇歳は青年の老齢期であり、五〇歳は老年の青春期である。(ユーゴー「断片」)

※厚生省が「1999年簡易生命表」によると、日本人の平均寿命は、女性が83.99歳、男性が77.
1歳、男女平均で80.55歳) 
子育て随筆byはやし浩司(480)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


ハナとの散歩

 ハナは、私の愛犬。ひどく人相は悪いが、私には、かわいい。ポインターという種類である。
イギリスで猟犬として開発(?)された犬だそうだ。嗅覚はよいらしい。精悍(せいかん)で、よく
走る。

 私はハナと散歩するときは、自転車で、でかける。とても歩いて、つきあえるような犬ではな
い。ハナにしてみれば、歩いている人間は、人間にとってのカメのようなものではないか。

 そのハナは、一見、ふてぶてしく見えるが、気だてはやさしい。気も小さい。超の上に「超」が
つくような愛犬家のところで育てられた犬で、生後三か月目に、わが家へ来た。最初の一週間
は、私が毎晩、抱いて寝た。つぎの二か月は、居間のソファの上で育てた。それからは、もう一
匹の飼い犬のクッキー(雑種)に、世話をまかせた。クッキーもやさしい犬で、懸命にハナの世
話をした。

 そのハナと生活していて、いろいろ気づいたことがある。簡単に言えば、人間と犬は、それほ
ど違わないということ。知能にしても、「考える」という部分を除けば、それほど違わない。たい
ていどんな場所でも、一度、行けば覚えてしまう。それはこんなことから、わかる。

 たとえば散歩に連れていく。そのとき、その家の前にくると、ハナに向かってワンワンとほえる
犬がいる。そのときハナは、一瞬、警戒したり、散歩のリズムを乱したりする。しかし二度目に
その家の近くにくると、その犬がいることを気にして、散歩のリズムを、前もって変えたりする。

 感情にしても、ハナには、人間と同じ、喜怒哀楽の情がある。嫉妬(しっと)もするし、自尊心
もある。嫉妬はともかくも、その自尊心は、こんなことからわかる。

 ハナと散歩をしているとき、どこかの飼い犬が、ハナに向かって、ワンワンとほえたりする。す
ると、ハナは、背筋をピンと張り、頭を上にのばす。いわゆる「かっこうをつけるようなしぐさ」を
する。ハーハーとあえいでいるようなときでも、それを止める。これ見よがしな走り方をするとき
もある。そのとき顔を前に向けたまま、横目でその犬のほうを見ることもある。

 ハナには、いくつか、理解できないクセがある。そのひとつは、絶対に、散歩中には、便をし
ないこと。ほかの犬は、平気でするらしいが、ハナはしない。それにときどき、軽いエサをもって
散歩にいくこともあったが、散歩中、つまり家の外では、絶対にエサを食べない。好物の牛乳
を、コンビニで買って与えたこともあるが、口すら、つけない。これはハナの、どういう心理によ
るものか。
 
 もともと走るために生まれてきたような犬だから、当然のことながら、よく走る。で、私はときど
きこう考える。もし犬にサッカーのし方を教えたら、人間で、犬のチームに勝てるチームはない
だろうな、と。ときどき、タオルを取りあって、ハナと遊ぶが、ハナには絶対に勝てない。タオル
と遊んでいるので、それを取ろうとソーッと近づくが、いつも寸でのところで逃げられる。そのへ
んの「間」の読み方は、実にうまい。人間にも、すぐれた面は多いが、しかし犬にも、多い。全
体をならして平均値をとったら、人間も犬も、それほど違わないのでは……。

……と、同じ話の繰りかえしになったので、この話はここまで。私の家族の一人の、ハナを紹
介した。
(03−1−1)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


演歌の世界

 〇二年度も、最後の部分だけだが、NHKの紅白歌合戦を見た。私が子どものころは、視聴
率も、八〇%以上あったという。あの番組は、まさに国民的番組であった。が、今は、見る影も
ない。どういうわけだか、おもしろくない。時代が変わったのか? 私の趣向が変わったのか?
 それとも番組自体が、つまらないのか?

 こう書くと、紅白歌合戦を楽しんだ人には失礼になるかもしれない。「何、言ってるの! 私は
楽しんだわ」と。

 こういうエッセーを書くとき、一番神経をつかうのは、「私はこうだから……」という理由だけ
で、ものごとを決めてかかってはいけないということ。個人的な好き嫌いを、ほかの人に押しつ
けてはいけない。紅白歌合戦についても、そうで、「私がそう思うから」という理由だけで、「つま
らない」と書いてはいけない。それに「つまらない」と書く以上、それにかわる案なり、方法を提
示しなければならない。批判したり、批評したりする程度なら、だれにでもできる。

 「紅白」の紅白というのは、もともと、女性の生理の血の赤と、男性の精液の白を意味してい
るそうだ。外国では通用しない、日本独特の色彩観である。(あるいは中国からきた色彩観
か?)たとえばアメリカでは、結婚式でも、花婿、花嫁以外は、男性はダークのスーツだが、女
性は、ブルーとかオレンジに、色がある程度、限定されている。これは花嫁の美しさを目立た
せるためではないか。日本でも、結婚式では、そういう気配りをする。……というように、あれこ
れ思い浮かべても、「男は白、女は赤」という場面は見たことがない。そう言えば、私の二男の
結婚式で驚いたのは、列席してくれた男性たちが、皆、黒いネクタイをしていたことだ。「日本で
は、葬式のときに黒いネクタイをする」と言いかけたが、この話は、だれにもしなかった。

さて、本題。紅白歌合戦では、最後(トリ)を、演歌歌手が占めた。男性は、演歌歌手のK氏に
つづいて、I氏。女性は、Iさんだった。私が紅白歌合戦をつまらないと思ったのは、もともと演歌
が好きでないこともある。人間の心を、安っぽい論理で、決めてかかるところが、好きでない。
酒、夜、女、雨が、テーマになることも多い。私は酒は飲めない。夜は苦手。女は関係ないし、
雨より、青い空が好き。それに若いころから、義理とか人情とかいう言葉が好きではなかった。
昔、『甘えの構造』という本を書いた土居健郎氏は、「人情は依存性を歓迎し、義理は人々を
依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルである日本の社会は、かくして甘えの弥慢
化した世界であった」と述べている(「甘えの構造」)。そういう点では、演歌は、どれもネチネチ
している。カラッとしていない。

 ……とまあ、私は、またまたひどいことを書いてしまった。日本の民族的音楽である、演歌を
批判してしまった。きっとこのエッセーを読んで、怒っている人もいることだろう。もしそうなら、
許してほしい。だからといって、私が正しいとか、こうあるべきだとかと書いているのではない。
あくまでもひとつの意見として読んでほしい。

 ただこうした私の趣向の背景、つまり演歌がどうしても好きになれない理由には、こんなこと
がある。

 私の父は酒乱で、数日おきに酒を飲んで暴れた。そしてそれは私が五歳くらいのときから、
私が中学二年生くらいになるときまでつづいた。そのあとは、父も肝臓を悪くし、酒が飲めなく
なったが、そんなわけで、私は今でも、酒臭い人間が、大嫌い。ゾッとするほど、大嫌い。だか
ら何かの理由で、酒場のようなところに入ると、その酒臭さに、耐えられなくなる。演歌は、そう
いう酒場のようなところで歌われることが多い。カラオケができてからは、なお一層、その傾向
が強くなった。だから、演歌を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。この嫌悪感だけは、どうしよう
もない。演歌に、そういうイメージが焼きついてしまった。そう言えば、ワイフと結婚する前も、
私はワイフにこう聞いた。「あなたは、演歌が好きですか?」と。するとワイフは、「大嫌い」と。
それだけではないが、それで私はワイフと、安心して結婚することができた。

 ただ、美空ひばりだけは好きだった。とくに「悲しい酒」だけは、好きだった。美空ひばりは、
演歌歌手というレベルを超えた歌手だった。「悲しい酒」にハマったときは、ワイフといっしょに
風呂につかりながら、歌い方を何時間も練習した。これは私の唯一の例外か?
(03−1−2)

●あとで聞いたら、〇二年度の紅白歌合戦は、演歌ばかりではなかったそうだ。しかしたまた
ま私が見たときは、演歌ばかりだった。不運な偶然が重なったのかもしれない。少なくとも、こ
こ一五年くらいは、紅白歌合戦は、ほとんど見ていない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


正月二日

 たき火をしようと居間におりたが、外を見ると、強風。そこでワイフに、ふと、「ドライブでもして
こようか?」と声をかけると、「いいね」と。そこで正月二日だったが、ドライブにでかけた。

 車は、トヨタのビッツ。私たちは、勝手に、「ビンツ」と呼んでいる。ドイツのベンツをもじって、
そう呼んでいる。

 コースは、浜松市内から、国道一号線に入り、そこからバイパスを通って、新居まで行く。そ
してそこから浜名湖一周コースに入る。このコースだと、ドライブをしている間中、右側に海が
見える。

 途中、浜名湖鉄道のK駅で、昼食。駅を改造したレストランで、マスコミにもよく紹介される。
料理は……と書きたいが、ここから先は書けない。(だからといって、推薦しているわけではな
いので、誤解のないように!)

 それからまた走って、細江町へ抜け、そこから姫街道を通って、市内へもどる。時間にして、
ちょうど二時間半のコースだった。ちょっとドライブというときには、よい距離だ。気分転換にな
る。

 途中、ワイフといろいろな話をする。たいていは、くだらないバカ話だが、ときどき哲学的な話
もする。あとは、ただひたすら雑談、また雑談。「若いときは、よくドライブをしたわね」とワイフ。
「そうだね、毎晩したね」と私。

 私たちは、よく真夜中にドライブにでかけた。夜中の一一時とか、一二時に、である。そして
あちこちを回ったあと、明け方に帰ってくることもあった。自由業とは、まさに私のような仕事を
いう。そういう点では、私たちは、本当に好き勝手なことができた。

 当時は、貯金もしなかった。翻訳料で少しでも、予定外のお金が手に入ったりすると、そのお
金をもって、隣の浜北市の旅館で一泊してきたりした。そして翌日は、また幼稚園へ……。収
入も、仕事も不安定だったが、私たちには、こわいものは、何もなかった。不安もなかった。今
でも、こうしてドライブをしていると、あのころの自由奔放(ほんぽう)さが、そのまま心の中によ
みがえってくる。

 明日からは、人に会わなければならない。行かねばならないところもいくつかある。それに正
月明けの仕事の準備もしなければならない。こうしてゆっくりと原稿を書けるのも、今夜まで。
……といっても、こういうふうにヒマなときほど、原稿は書けないもの。頭の回転がどこか鈍る。
私は、仕事をしていたほうが、頭の調子はよいようだ。だから、今は、こんなどうしようもない駄
文しか、書けない。ここまで読んでくれた人には申し訳ないと思う。どうか許してほしい。
(03−1−2)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


人生は、無数の選択

 ときどきふと、考える。どうして今の私は、今の私なのか、と。そして同時に、「もし、あのとき
……」とも考える。「もし、あのとき、別の選択をしていたら、私の人生は、大きく変わっていた
かもしれない」と。

 しかし私は、こうも考える。私はそのつど、無数の選択を繰り返してきた。それはC・ダーウィ
ンの進化論のようなものだ。今の私は、そういう無数の選択をくぐりぬけながら、今の私になっ
た。しかしその選択をしたのは、私自身であって、ほかのだれでもない、と。

 たとえば私があのままM物産という商社で働いていたら、私は「社畜」(会社の家畜という意
味)になって、いまごろは、狂い死にしていたかもしれない。私という人間は、そういうタイプの
人間だった。いや、死なないまでも、今ごろはどこかの精神病院に入院しているか、心筋梗塞
(こうそく)か何かで、倒れていたかもしれない。つまり私がM物産という会社を飛び出したの
は、私自身が、そういう未来を避けるために、そのように選択したからだ。

 だから、ひょっとしたら、私でなくても、私のような人間が、同じような立場に置かれたら、やは
り私と同じような運命をたどったであろうということ。そう、それを「運命」というなら、たしかに運
命というのは、ある。

 私は、結局は、たいした人間にはなれなかった。これからもなれそうもない。このH市という、
地方都市にうずもれて、このまま人生を終えることになる。それは私の本望ではないが、しかし
これが私の限界なのだ。私は私なりに、精一杯、生きてきた。その精一杯生きる過程で、無数
の選択を繰り返してきた。今も、毎日のように選択を繰り返している。しかしいくらがんばって
も、その限界を超えた選択は、私にはできない。

 たとえばこの正月になって、どうも体の調子が悪い。原因は、運動不足だということはよくわ
かっている。しかし私ができることといえば、せいぜい、犬のハナと散歩に行くこと。本当なら、
トレーナーを着て、一〇キロくらいランニングするのがよいのだろうが、この寒さでは、それもで
きない。する気が起きない。そこで私は、自分の限界を感ずる。その限界の中で、私はハナと
の散歩を選択した。つまり、こうして、無数の選択が積み重なって、私の運命が決まっていく。

 いろいろ私自身についての不満もある。後悔というほどのものではないが、「ああすればよか
った」「こうすればよかった」と思うこともある。しかし私はそのつど、最善を尽くしてきた。そのと
きどきに、その限界の中で、最善の選択を繰りかえしてきた。その結果が、今の私であるとす
るなら、私には、ほかにどんな道があったというのか。

 もちろん私にも、その限界を超えた「夢」がある。しかし夢は夢。しょせん、かなわぬ夢。そこ
には私の実力がからんでくる。運、不運もある。私の精神的欠陥や性格的欠陥もある。そうい
うものを総合的に考えてみると、やはり今が、限界。この程度が限界。あるいは今以上に、私
は、何を望むことができるのか。

 私が今、できることは、その限界状況と戦いながら、よりよい選択をそのつど、していくしかな
い。たとえばハナと散歩にでかけても、いつもより距離をのばしてみるとか。いつもより、より速
くいっしょに走ってみるとか。ささいなことだが、こうした選択をすることで、明日が決まる。だか
ら過去をほじくりかえして、後悔しても、意味はない。後悔する必要もない。あの宮本武蔵も、
『我が事に於て後悔せず』(「独行道」)と書いているが、私も、自分のことでは、後悔しない。…
…したくない。
(03−1−2)

(追記)ときどきワイフにこう聞く。「お前は、ぼくと結婚して、後悔していないか? もっと別の人
生を歩きたかったのではないないか?」と。するとワイフは、「これが私の人生だから」と言う。
ときどき、「私は家族のみんなが、それぞれ幸せになってくれれば、それでいいの」と言うときも
ある。そこでさらに私が、「何か、やり残したことはないか?」と聞くと、「私は家族が幸せになる
のを見届けたいだけ」と。実は、私も同じように考えるようになってきた。残りの人生は、家族
や、ほかの人たちのために使いたい。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
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\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-12-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 563人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−12号(163)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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  フ           【1】子育てポイント
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  ■           【4】今、考えていること
  ■
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
子育てポイント

●アルバムは見せよう
 子どものいつも手や目が届くところに、アルバムを置いておく。アルバムというのは、楽しい
思い出がつまった、宝石箱。子どもはそのアルバムを見て、心をいやす。それだけではない。
おとなは、過去をなつかしんでアルバムを見るが、子どもは、未来を知るためにアルバムを見
る。ある子どもは、父親の子ども時代の写真を見て、「これはお兄ちゃんだ」と言い張った。自
分が成長していく、喜びを、その中に見る。
 アルバムには、不思議な力がある。どう不思議かは、あなた自身が発見してみればよい。

●ベッドタイムゲームを大切に
 子どもは毎晩寝る前に、同じ習慣を繰りかえして眠りにつくという習性がある。これを英語で
は、「ベッドタイムゲーム」という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ること
に恐怖心をいだいたりする。ばあいによっては、情緒不安の原因ともなる。
 コツは、毎晩、同じことを繰りかえすようにする。本を読んであげたり、軽く添い寝をしてあげ
たりするなど。まずいのは、いきなり子どもをベッドに押し込め、電気を消すような乱暴な行為。
子どもは眠ることそのものに、恐怖心をもつようになる。

●冷蔵庫をカラにする
 子どもの小食で悩んでいる親は多い。食が少ない、遅い、好き嫌いがはげしいなど。そういう
ときは、まず冷蔵庫をカラにする。身の回りから食料を片づける。徹底して、それをする。とくに
菓子類、甘い食品など、俗に言うジャンクフードなどは、思い切って捨てる。「もったいない」と
思ったら、なおさらそうする。その「思い」が、つぎからのまちがった買い物習慣を改める。
 そして母親が料理で作ったもの以外、食べるものがないという状態にする。これを数か月〜
半年、つづける。たいていの小食は、それでなおる。

●カルシウムを大切に
 子どもの食生活では、カルシウム分、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。要する
に、海産物を中心とした献立にする。
 とくに子どもの情緒が不安定になったら、まずカルシウム分の多い食生活にする。ちょっとし
たことでピリピリしたり、怒ったり、反対にわけもわからないままぐずったりするようなとき、効果
がある。戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていたという。

●歩かせる
 子どもは、何かにつけて、歩かせる。歩くことが、体力をつける基本と考える。
 昔、オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。「旅は、歩け」と。つまり歩くことにより、もちろ
ん健康になるが、それだけ印象も深くなる。まわりの景色や状況が、より鮮明に記憶に残る。
ウソだと思うなら、あなた自身の記憶の中をさぐってみればよい。あなたの記憶の中には、無
数の思い出があるが、その中でも、そういうときの思い出が、より印象強く残っているかを、知
ればよい。歩くことにより、五感(見る、聞く、感ずる、かぐ、考える)全体が、より強く刺激される
ためである。

●クーラーを避ける
 都会ではそうはいかないかもしれない。しかしクーラーは、できるだけ避ける。私の家は、ク
ーラーなしで、やってきた。そのためか、息子たちも、かえってクーラーの不自然な冷気を嫌う
ようになった。ああいうものは、なければなくても、すむものか?
 反対に、夏など、クーラーがないと、苦しそうにハーハーとあえぐ子どもが多いのには、驚か
される。胸をかきむしる子どもさえいる。話を聞くと、家では、一日中、クーラーをつけっぱなし
だという。
 子どもの健康もさることながら、こういうぜいたくな生活に慣れきってしまった子どもは、将来
どうなるのか? そんなことも少しは、考えたほうがよい。

●子育ては楽しむ
 子育ての最大のコツは、子育てを楽しむ。「育てよう」「育ててやろう」と考えるのではなく、「い
っしょに楽しむ」。そういう姿勢が、子どもを伸ばす。
 もしあなたが子育てをしていて、それを負担に感じたり、不愉快に感じたら、親子断絶の第一
歩と考えてよい。それだけではない。長い時間をかけて、あなたの子どもの表情は、確実に暗
くなる。
 どうせ育てなければならないのだったら、はじめから、楽しむ。それだけのこと。

●外で遊ばせる
 子どもは、外で遊ぶのが、基本。しかし今、外で遊ぶ子どもは、ほとんどいない。田舎に住む
子どもほど、そうで、原因は、テレビゲーム。
 こうした現状を嘆いてもしかたないが、しかし、それでも子どもは、できるだけ外で遊ばせる。
努めて、そうする。子どもは外で遊ぶことにより、……。この部分を書き始めたら、とても数行
ではすまないが、ともかくも、そうする。あなたの子どもが日曜日になると、外へ元気よく遊びに
行くようなら、それだけでも、あなたの子どもの心は、まっすぐ伸びていることになる。

●ウソはていねいにつぶす
 子どものウソにもいろいろあるが、子どものウソは、ていねいにつぶす。叱ったり、威圧した
り、さらに脅したりすれば、そのときは効果(?)があるかもしれないが、それは一時的。子ども
は、ますますウソがうまくなる。
 子どもがウソをついたら、「なぜ」「どうして」だけを聞きかえしながら、それですます。子どもが
親のお金を盗んだようなときも同じように対処する。そういう意味で、子育ては、まさに根くら
べ。その根くらべに、親は負けてはいけない。

●子どもは使う
 子どもは使えば使うほど、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、それで養われる。
が、それだけではない。勉強もできるようになる。もともと勉強には、ある程度の苦痛がともな
う。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力ということになる。
 もっとも使うといっても、親がソファに寝そべっていて、「新聞をもってこい」は、ない。生活自
体がもつ緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。「これをしなければ、家族のみんなが
困る」という意識をどこかで、もたせるようにする。

●「いいかげんさ」を大切に
 子育てでは、「いいかげんさ」を、大切にする。そのいいかげんな部分で、子どもは羽を休
め、そして心をいやす。
 たとえば「歯をみがきなさい」とは言いながらも、適当にすます。虫歯になれば、歯医者へ行
けばよい。痛い思いをして、子どもははじめて歯磨きの大切さを知る。子育てには、こういうい
いかげんさが大切。先日、ある大学の教授(国立)がこう話してくれた。「うちの大学へくる学生
は、たしかに頭はいいが、自活する力がない。三食を、コンビニ食ですまし、健康を害する学
生はいくらでもいる」と。

●親は外に伸びる
 子育てじょうずな親と、そうでない親の違いは、親自身の社交は範囲によって決まる。社交範
囲の広い親は、それだけ人間関係の許容範囲が広いということになる。つまり子どもに対して
も、度量が広い。反対に、社交範囲の狭い親は、許容範囲が狭く、どうしても子どもにギクシャ
クしてしまう。それが、親子関係をゆがめる。
 子どもはあなたから生まれるが、同時にそのときから、一人の人間である。一人の人間であ
る以上、無限の可能性をもっている。決してあなたの世界だけで、子どもを見てはいけない。
育ててはいけない。

●互いに別世界
 親どうしの会話を聞いていると、互いに別世界というような会話をしていることがよくある。「あ
あら、信じられませんわ」「いえ、私だって……」と。
 子どもが親に向かって反抗するのを絶対許さないという親もいれば、反対に、まったく平気な
親もいる。反抗するのを許さない親からみれば、反抗する子どもというより、それを許す親がい
ることが信じられない。反対に、平気な親からすれば、子どものことでカリカリする親がいること
が信じられない。つまりたがいに別世界。
 こういう「別世界」を感じたら、一度、あなた自身の子育てを謙虚に反省してみるとよい。たい
ていあなたの子育てのほうが、ふつうでない。とくに「私が絶対、正しい」と思っている人ほど、
要注意。

●生活の音を大切に
 大根を切る音。味噌汁がにえる音。風の音。ドアの音。一見何でもないように見えるかもしれ
ないが、「音」には、不思議な力がある。少し前、何かの調査で、「あなたは二一世紀に何を残
したいですか」という質問を、インターネットで募集したことがある。そのとき、この「音」に関する
ものが、一番多かった。「水車の音」「ヒグラシの声」など。
 子どもには、「何の音かな」「どんな音かな」と、語りかける程度でよい。子どもが、音に関心を
もち、興味をもつようにしむける。ほかに、味や臭いもある。私もよく教室で、子どもたちに、い
ろいろな葉の味や臭いを調べさせる。子どもたちは、「臭い」とか、「いいにおい」とか言うが、そ
うした新発見が、子どもの知能をかぎりなく刺激する。
(03−1−4)

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

雑談

 正月料理にあきて、私が「茶漬けを食べたい」と言うと、ワイフは、「私は、おじや」と。そこで
私が、「お前は、ばばや」と言うと、「失礼ね!」と。

 たまたまその夜、BSで、『マジソン郡の橋』(映画)をやっていた。「イーストウッドが演ずると、
どうしてああも、かっこういいのかねえ」と言うと、ワイフは、「ムードが違うわ」と。そこで頭にき
たので、「オレは、チンケードだ。お前は、ババチェスカだ」と。言い終わって「しまった!」と思っ
たが、すかさずワイフが、「だからあんたはダメなのよ」と。

 私は、言葉が汚い。生徒(女子)が、「先生、シャーペンの芯(しん)が、ナ〜イ」と言ったりする
と、「何? チンがない?」と言い返してしまう。こういうのをセクハラというのか。あるいは、教
室には、楽器がたくさん置いてある。よく子どもたちが、ベルを鳴らすので、こう言ってやる。「う
るさい! チンチン、鳴らすな!」と。こういうのもセクハラというのか。

 若いころは、こういう言葉を使うのが、どこか気が引けたが、今は、平気になってしまった。つ
まりますますムードがなくなってしまった。(もともとムードとは無縁の男だったが……。)

 ……こういう話はやめよう。マガジンに載せるような話ではない。せっかく読んでくれる人に、
申しわけない。時間をムダにしてしまう。で、少し気を取りなおして……。

 私はもともと、欲求不満のかたまりのような男だった。当時は、そういう時代だった。自由奔
放(ほんぽう)なセックスを肯定するわけではないが、しかし抑圧的でありすぎるのもよくない。
私が高校生のときには、デートすら、どこか禁止されているような雰囲気だった。だから女性と
の下着をかいま見ただけで、鼻血ブーッ。女体の解剖図を見ただけで、鼻血ブーッ。風呂屋の
番台のハシから、女性の足を、チラリと見ただけで、鼻血ブーッ。すべてが、鼻血ブーッの世界
だった。

 そういう点では、今の若い人たちは、うらやましい……とは、残念ながら思わない。しょせん、
「セックスは無」。意味があるようで、まったく、ない。それはトイレで、大便をしたり小便をしたり
するようなもの。あるいは、カフェで、食事をするようなもの。大切なのは愛だ。愛こそ大切だ。

 本当に好きだった女性とのセックスは、あとあとますます光り輝くもの。そうでないのは、鉛色
になって、やがて色あせ、そして不快な思い出として残る。つまり排泄行為としての、セックスに
は、意味がない。刹那(せつな)的な快感はあるかもしれないが、意味はない。

 ……とは言いつつ、人間も、動物。本能がある。その本能まで押し殺してしまってはいけな
い。と、まあ、少し前に書いた話と同じになってきたから、この話は、ここまでにする。

 さてさて、私もワイフも、ますます色気をなくしてきた。チンケードに、ババチェスカでは、どうし
ようもない。そうそう私が、そう言ったら、ワイフはこう言った。「あんたは、そういう言葉をつくる
名人ね」と。長い間、幼児を相手にしていると、そういうこともうまくなるようだ。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


雑談

 正月四日。土曜日。ポカリとあいた、静寂のとき。今朝は起きたときから軽い頭痛。のどが痛
い。早速、うがいをする。

 ほかの人たちは、どのように新年を迎えただろうか。子どもが小さいうちは、何かと騒々しく、
あわただしいもの。しかしその子育ても終わると、とたんに、正月も静かになる。それがよいこ
となのか、悪いことなのか? 

 昼から夕方近くまで、もう一度寝なおして、起きる。いろいろ外出する予定もあったが、取りや
め。こういうときは、ニンニクを食べるのがよいが、ふいの来客があるかもしれないので、それ
もできない。

 台所におりてきて、軽い昼食を食べる。正月の餅と、残ったおせち料理。この一〇日間で、
一・五キロも太ってしまった。ほぼペットボトル一本分ということになる。このままいけば、一月
の終わりには、プラス四・五キロ。また元どおりになってしまう! ギョッ!

 そのあとワイフと、世間話を始める。これという話ではない。このところ会話もどこか、単調に
なってきた。話す内容も、繰りかえしが多くなった。「今日は、風が強いなあ」「ああ、そうねエ」
「今夜も寒くなりそうだ」「そうねエ」と。

 倦怠期? 更年期? 初老のうつ病夫婦? いろいろ考えられるが、こういうのを平凡という
のか。日々は、ものうげに、ゆっくりと流れる。どこから始まり、どこで終わるということもない。

 「あとでドライブしようか?」
 「どこへ?」
 「買い物がてら、そのへんを……」
 「いいわね」
 
 外を見ると、もう夕暮れ。白っぽい夕日と、冬の風。庭の前に立つ松の木が、大きく波うつよ
うに揺れている。物干しざおにかけられたタオルも、ハタハタとひらめいている。見慣れた景色
だが、その見慣れすぎたところが、どうもしっくりこない。二〇〇三年になったばかりというの
に、どこも違わない。

 電灯をつけるのを忘れた。薄暗い部屋の中。言い忘れたが、私は暗いのが平気。子どもの
ころから、薄暗い家で住んでいたせいかもしれない。家は、北側の店になっている部分と、裏
の住居になっている部分の二つに分かれていた。店のほうは大正時代に建てられたものだ
が、裏の住居は、江戸時代に建てられた蔵を改造した家だった。天井をはう電線も、むきだし
のままだった。どの部屋にも、二〇ワットの電気が、一本しかついていなかった。

 「この家も、古くなったな」
 「二五年もてば、いいほうだって、大工さんが言ってたわ」
 「二五年かア」
 「粗製濫造の時代だったからね」
 「ところで今、どの家も、トイレには、ウオシュレットがついているってサ」
 「そうらしいわね。このあたりでも、ないのはうちだけよ」
 「そうかア」

 あいかわらずつづく意味のない会話。気のない返事。ときおり聞こえる、風の音。そのとき息
子が、部屋に入ってきた。いつものように電気がつき、テレビにスイッチが入って、そこで静寂
はおしまい。

 「テレビでも見ようか?」
 「ああ、そうね」と。
(03−1−4)

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
電子マガジンのこと

読者の皆さんへ、

 このマガジンをとおして、私は、私が経験してきた知識や情報を、あますことなくお伝えできれ
ばと願っています。「私が経験した」というより、私の前を通りすぎた、無数のお母さんたちや子
どもたちの経験です。

 こうした子育て情報で、与える側も、そしてそれを受け取る側も、もっとも注意しなければなら
ないことは、それが一部に偏(かたよ)りすぎていてはいけないということです。中には、自分の
周囲だけの子育てをみて、子育て論を組み立てる人もいます。まちがってはいませんが、しか
しそういう情報をもとに、自分の子育てを組み立てると、たいてい失敗します。

 少し辛らつな批評になると思いますが、今まででも、こんなことがありました。

 ある女流作家(コラムニスト)の育児論ですが、その作家が娘(三歳)と、幼稚園で別れたと
き、その娘が大声で泣きじゃくったというのです。それを見て、その作家は、「親子のきずなの
深さに感動した」と書いていましたが、それは、「きずな」でも何でもありません。ただの分離不
安です。

 またある日本ではよく知られている幼児教育家であるK元教授は、たった数か月、幼稚園で
幼児心理の調査をしたことがあるだけです。私も経歴を調べてみたことがありますが、幼児教
育に直接たずさわったという記録は、どこにもありませんでした。

 さらにこれもよく知られている幼児教育家の、R元教授は、ラジオのトーク番組の中で、ポロリ
とこんなことをもらしていました。「私は三人の孫をとおして、幼児教育を学びました」と。たっ
た、三人、です! それともあなたは、あなたの幼稚園で、大学の先生が、幼児といっしょに、
遊戯をしたり、手をたたいている姿を見たことがありますか?

 まだ、あります。外国の大学では、お金さえ出せば、博士号を売ってくれる大学はいくらでも
あります。私のところにさえ、毎年のように、その種の勧誘の手紙が来ます。昨年(〇二年)だ
けでも、カナダのA大学、ハワイのI大学などからきました。「貴殿を名誉教授に推薦します。ま
たご希望であれば、講座をもっていただきます」と。相場は、五〇〜一〇〇万円です。そういう
ところで入手した博士号をぶらさげて、「○○学博士」と、自分を飾っている自称教育家(?)は
いくらでもいます。

 私が、自分の子育て論を書こうと思いたったのは、ここに書いた、K元教授の本を読んだとき
のことです。そのときのことを書いたエッセーが、つぎのものです。この原稿の一部は、中日新
聞に発表させていただきました。私は彼の本を読んで、怒りで、カーッと体が熱くなるのを覚え
ました。そのときです。私は自分の育児論を書いてみようと思いたちました。「批評することぐら
いなら、だれにでもできる。それにかわる育児論を提示することこそ、大切だ」と。

++++++++++++++++++++

誤解と無知

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。よく知られたH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気を起
こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにも、こんなことが
書いてあった。

●遊園地では子どもを迷子にさせろ?
 「親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい」、
「家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい」など。
本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は
子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚
いた。

●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、自説をひっこめざるをえなかった
のだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表
するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。

●ゴーストライターの書いた本
 これはまた別の元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論
家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢
は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理
解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を
知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為
をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家
ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。
たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を
聞くと、こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)「子どもの頭をよくする献立」(仮称)は、
やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われた。表に出ることはなかったが、出版界
ではかなり話題になった。

●タレント教授の錬金術
 こうした教授、つまりタレント教授たちは、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に
入れる。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分
の原稿にする。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイ
プのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がF社に原稿を持ちこ
んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、
こう言った。「あのう、Y大学のG名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」
と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでF社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、二〜三冊あ
った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ
れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ
ふれていた。

●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に
ある。

●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔(とむら)うことで教える。ペットでも何で
も、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を
通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!

 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして
考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。

++++++++++++++++++++++++ 

ついでに、ここに書いた「コラムニスト」について書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに転
載しておきます。

++++++++++++++++++++++++

子どもの分離不安

女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラムニスト
のものだが、いわく、「うちの娘(三歳)を初めて幼稚園へ連れて行った時のこと。娘は激しく泣
きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆(きずな)の深さに感動した」と。
そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、感動したと言うのだ。とんでもない! 
ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症状。「別れをつらがっ
て泣く子どもの姿」ではない。

 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声を
上げて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイ
ナス型)に分けて考える。似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立
恐怖)もいるが、それはともかくも、分離不安の子どもは多い。四−六歳児についていうなら、
十五〜二十人に一人ぐらいの割合で経験する。親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静
かに落ち着いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと、ものすごい声を張り上げ
て、その後を追いかけたりする。

原因は……、というより、分離不安の子どもを見ていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのが分かる。激しい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で
入院したことや、置き去り、迷子を経験して、分離不安になった子どももいる。さらには育児拒
否、親の暴力、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子どもの側からみて、
「捨てられるのでは…」という被害妄想が、分離不安の原因と考えると分かりやすい。無意識
下で起こる現象であるため、叱(しか)ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集
団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理をすればかえって
症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくす
るとやがて静かに収まることが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」の
である。一度キズついた心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつ
ど繰り返し症状が表れる。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場で優しく丁寧に説得を繰
り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子を観察す
ると、たいてい親の方が短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしているのが分か
る。「いい加減にしなさい!」「私はもう行きますからね」と。こういう親子のリズムの乱れが、症
状を悪化させる。子どもはますます被害妄想を持つようになる。分離不安を神経症の一つに分
類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。

 分離不安は四−五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたよう
に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が
予定より遅くなっただけで、言いようのない不安に襲われます」と。姿や形を変えて、大人にな
ってからも症状が現れることがある。

++++++++++++++++++++++++

 新年早々、何とも辛らつなエッセーになってしまいましたが、気分を悪くなさった方は、どうか
お許しください。何かジョークとか、笑い話、あるいは楽しい話をとも考えましたが、いきなりこう
いう話になってしまいました。

 こう書くからといって、私が正統派だなどというつもりはありません。しかし一定の育児論を書
くには、それなりの現場経験が必要です。しかもその経験というのは、最前線での経験でなけ
ればなりません。親に叱られたり、殴られたり、あるいは子どもの問題で、一晩中あちこちを車
で走り回ったり……。そういう経験が無数に積み重なって、一つの「論」になるのです。

 今年一年、どういうことになるかわかりませんが、私は私なりの方法で、自分を主張していこ
うと思います。そしてその主張をとおして、みなさんの子育てのどこかで、このマガジンが、お役
にたてることを、心から願っています。これからもよろしくお願いします。

                                 はやし浩司
(03−1−3)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(484)

ある不登校児

 今、一人の不登校児が近くにいる。高校二年生の男子である。たいへん優秀な高校生で、不
登校児になるまで、これといって、まったく問題はなかった。親も、「子育てが楽でした」と言って
いる。

 その子どもを観察してみると、いろいろなことがわかる。これは「今」という時点から見た、断
片的な症状にすぎないが、こういうことだ。

 まず学校へ行っていないということをのぞいて、まったく問題があるようには見えないこと。ふ
だんのまま起きて、ふだんのまま生活している。そしてふだんのまま親と会話をしている。音楽
を聞いたり、ビデオを見たりしている。友だちに電話もかけているし、ときどき町の中へもでか
けていく。映画をみてくる。が、どうしてか、学校にだけは行けない。

 そういう子どもを見て、親は、ただただ「どうして?」と首をかしげる。が、ほかに症状がない
わけではない。どこか心がつかみにくくなっている。何を考えているか、わからないような状態
にはよくなる。ブスッと黙りこんだり、もの思いにふけったりする。何かを話しかけると、不気味
にニンマリと笑ったりする。母親の話だと、ときどき突発的に激怒したりすることはあるという
が、私の前では、そういうこともない。ほかに「短気になった」と、母親は話してくれた。「いつも
どこかピリピリしています」と。

 ほかに、運動はあまりしないので、太り始めた。生活が不規則になって、ときどき真夜中ま
で、さらに朝方まで起きていることもある。行動が突発的になり、計画性がなくなった。思いつき
で行動する。ときどき食べたいものだけ、そればかりを食べる、など。正月用に買っておいたス
ルメを、一晩で五枚も食べてしまったこともあるという。

 この高校生のばあい、学校恐怖症の第三期※にいるものと思われるが、しかし第二期のパ
ニック期は、思い当たらないという。母親と父親が、たいへん静かで、穏やかな人であったため
ではないか。その子どもが朝、「学校へ行きたくない」と言ったとき、そこで無理をしなかった。

 この子どもは、回復するのが、それほどむずかしいとは思わない。それでも、一、二年はか
かり、最悪(最悪でもないのだが……)のばあい、中退ということにもなるかもしれない。しかし
それえ以上、症状がこじれるということはないと思う。私は母親に、こうアドバイスした。

 「最初に、最悪の状態を想定し、すべてをあきらめなさい」と。具体的には、高校の中退、大
学進学を断念する。そしてこれから先、闘病生活は、短くても二年はつづく、と。幸いなことに、
その母親はこう言った。「わかっています。覚悟しています。それよりも、あの子がこれ以上苦
しまないことだけを願っています。きっとあの子も、こうなる前、人知れず、苦しんだのですね」
と。

 たいへん断片的な報告でしかないが、この母親の対処のし方には、満点をつけたい。
(03−1−3)

※第三期……学校恐怖症の症状の、第三期をいう。

(参考、以前掲載したのと同じになりますが、お許しください)
学校恐怖症、四つの段階論 
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状
を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し
ている。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。
心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかり
やすくしたのが次である。 
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。 
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか  要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとる
かということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理を
する。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせ
ず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くす
む。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを
考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

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    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
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【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

おかしな国、日本

 「お金がないから、道路は作れない」という政府。しかしそれに地方自治団体や、族議員たち
が猛反発。中には、「地方をつぶす気か!」と叫ぶ議員も(〇三年一月)。

 こういうやり取りを聞いていると、日本の民主主義は、どこにあるのかとさえ思ってしまう。私
たち民衆は、道路なんか、いらない。ほしいと思ったこともない。ないよりはあったほうがよいに
決まっているが、しかしこんな論理で、湯水のごとくお金を使っていたら、この日本は、いった
い、どうなる? 

 ところで、今、話題の北朝鮮。あの国にも、選挙制度があるというから、お笑いである。一応
あの国も、朝鮮民主主義人民共和国。「民主主義」を歌っている。その選挙について、重村智
計氏は、つぎのように書いている(「北朝鮮データブック」講談社現代新書)。

 「北朝鮮の選挙区は、定員一人で候補者も一人だ。その候補者に賛成か反対かを投票する
ことになる。選挙区の投票者名簿を作る段階で、海外在住者やその日、投票に来られない人
は除外される。
 そして投票日になると、地区の責任者が全員投票が行われるように命じ、点検、監督すると
いわれる。北朝鮮から韓国に亡命した住人の話では、候補者に賛成なら何も書かずに投票
し、反対なら×印を書いて投票するという。しかし立会人が見ている前では、エンピツを手にす
ることは、できないという。もし反対票を投じれば逮捕されるか、あとで調査を受ける」(同書一
四一頁)と。

 一読してわかるように、「こんなのは選挙とは言わない」。

 しかしこの日本は、いったいどうなのか。私が住んでいるこの地域でも、政治は、官僚や財界
(土建業)と深く結びついている。地方自治体の町や村レベルでも、この形式は同じ。スケール
が大きいか、小さいかの違いだけである。しかも奈良時代の昔から、日本は中央集権国家。
中央から天くだってきた官僚や役人が、知事や市長、さらには国会議員を努めるしくみができ
あがってしまっている。

 こういう日本の「しくみ」を批評して、重村氏も、「どんな国でも、その国の伝統や価値観に基
づいたシステムが生まれ、一定の行動様式が存在する。例えば、日本の天皇制や、日本型の
政治は、他の国ではなかなか理解できないだろう」(同三二頁)と書いている。つまりそういう日
本の社会にどっぷりとつかっていると、日本の政治を客観的に見ることができないばかりでは
なく、そういう日本人が、北朝鮮を見ると、「まちがった判断をくだしやすい」(同書)から、気を
つけろ、と。

 そういう点では、「日本が民主主義国家だ」と思っているのは、恐らく、日本人だけではないの
か。私が学んだオーストラリアの大学でも、テキストには、「日本は、官僚主義国家」と書いてあ
った。あるいは「君主(天皇)官僚主義国家」となっているのもあった。事実、私がかいま見た、
彼らの民主主義国家は、日本のそれとは、まったく異質のものであった。もっと言えば、オース
トラリア人の目から見ると、北朝鮮の選挙制度も、日本の選挙制度も、それほど、違わない。
選挙などというのは、「形」だけ。その形を利用して、北朝鮮の独裁者は、好き勝手なことをし
放題、している。日本でも、官僚たちは、好き勝手なことを、し放題している。その結果が、冒
頭に書いた、道路工事である。民衆の願いや希望、さらに意思と、政治が完全に、遊離してし
まっている。

 この正月も、この地域の市議会議員が、選挙用ポスターと、パンフをもってあいさつに回って
きた。こういうのが議員活動と思い込んでいる議員も議員なら、それを受け入れる私たちも私
たちである。今年もあちこちの成人式には、ズラリと政治家たちが、壇上に顔を並べるのだろ
う。しかしこういうのが議員活動を思い込んでいる議員も議員なら、それを受け入れる私たちも
私たちである。どこにも主義主張がない。その前に、どこにも議論がない。そしてこれが「細胞」
とするなら、そういう細胞が無数に集まって、市議会を構成し、県議会を構成し、国会を構成す
る。

 日本が真の民主主義国家になるのは、いつのことやら。その前に、日本人が、この日本のお
かしさに気がつくのは、いつのことやら。恐らく、北朝鮮の人たちも、自分では、民主主義国家
と思っているだろう。疑問に思う人もいないだろう。何といっても、あの国の正式名称は、朝鮮
「民主主義」人民共和国なのだから。
(03−1−4)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








後半部です
はやし浩司
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誠実論

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげてあ
った。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。他人
に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、こと足り
る。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないということ。と
なると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大前提として、
自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を見ると、
一〇万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。どう思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いではない。
そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとする。そのとき
だ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」というこ
とがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のものにするのは、
悪いことだ」と。

 この段階で、二つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらってしまおう」
という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういうとき、自分は、どち
らの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面によく
立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなくなってしまう
ことがある。あるいは相反した自分が、二つも三つもあって、どれに誠実であったらよいのか、
わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。本立ちて道
生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこそ、進むべき道
が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にする前に、まず基本的な
道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者が多
く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも私など、もとも
と相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎重でなければならな
い。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思う。今
のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。つまり自分に誠
実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確立しなければならな
い。もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、それこそたいへんなことに
なってしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、それで満足してしまっていたら、こ
の世は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳のない人には、誠実な人間はいないというこ
とになるのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、関係のあ
りそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。駅の構内であ
れば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考えないようにしている。
どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返すようにしている。本当の私は、
もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。だから、教条的に、そう決めている。そ
れはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くような、高邁(こうまい)な境地に達するには、まだ
まだ時間もかかるだろう。一生、到達することはできないかもしれない。だから、そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深い。そ
れがわかってもらえれば、うれしい。
(03−1−11)

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【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

時の流れ

 学生時代、私には、すばらしいガールフレンドがいた。本当にすばらしい人だった。私は、自
分のすべてをかけて、そのガールフレンドに恋をした。

 が、長くはつづかなかった。交際を始めてしばらくすると、ガールフレンドの母親から、私の母
に、電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうよ
うな娘ではありません。娘の結婚にキズがつきますから、交際をやめさせてください」と。

 私の家は、小さな自転車屋。ガールフレンドの家は、従業員が三〇人くらいの会社。地方の
田舎町ということもあって、そういうことで、家の格式が決まっていた。ガールフレンドの母親
は、それを言った。

 で、そのあといろいろあって、ガールフレンドは私から去っていった。が、私はそのガールフレ
ンドを心から消すのに、一〇年以上はかかった。いや、今でもあのころを思い出すと、無数の
光が、脳裏全体を、明るく輝かす。私にとっては、人生の中で、もっとも幸福な時代だった。

 そのガールフレンド。今は、G市に住んでいるというが、もうその程度しか知らない。一度、こ
のH市で、道路ですれ違いざま、顔をあわせたことがあるが、それとて、もう二〇年以上も前の
こと。私にとっては、大切な人だったかもしれないが、そのガールフレンドにしてみれば、私は
その他多くのボーイフレンドの一人にすぎなかったようだ。もともと私は、女性にもてるタイプの
男ではない。

 しかし、なぜ、今、そのガールフレンドのことを書いているかって? 私はときどき、インターネ
ットの検索エンジンを使って、昔の友人や知人をさがすことがある。検索エンジンを使えば、そ
の人の消息が、瞬時にわかる。そのときも、郷里のM市について、検索していた。地図も出て
きた。で、あちこちを見てみたが、そのあるべき会社の名前が消えていた!

 そこで改めて、そのガールフレンドだった女性の父親が経営していた会社を、検索してみた。
が、ヒットなし。私にはもう関係ないことだが、どうしてかザワザワとした胸騒ぎ。そこでM市の
市役所にアクセスして、会社の所在を確かめると、係の男から電話がかかってきた。「あの会
社は、ずいぶんと前につぶれています」と。

 「お宅とは格式が違う」と母親が言った、その会社がない? 不思議な感覚だった。当時の私
は、そう言われても、まったく気にしなかったが、しかし一方で、「家の格式」というものを受け入
れていた。「格式が違うのだから、彼女が去っていってもしかたないこと」と。しかし今、その基
盤となる会社がない? となると、格式というのは、いったい、何だったのか?

 そのガールフレンドは、本当に心のやさしい人だった。みんなは勝気だとか、いばっていると
か、いろいろ言っていたが、私にはそうではなかった。いつだったか、彼女の部屋で、グラタン
を作ってくれたことがある。私はそのとき生まれてはじめて、グラタンという料理を食べた。おい
しかった。そんな楽しい思い出しか残っていない。だから、本来なら、その会社がつぶれたこと
を、喜ぶということはないにしても、同情しなければならない理由など、ないはずだ。が、どうい
うわけか、「ああ、そうですか」で、すますことができなかった。そのガールフレンドが感じたであ
ろう、悲しみや、つらい思いのほうが、気になった。人一倍、親思いの人だったから、なおさら、
私は気になった。

 もっとも私のような人間が、こうして心配すること自体、彼女にとっては、迷惑なことかもしれ
ない。私が今、ここでいていることや、書いていることは、まさにストーカー行為そのものといっ
てもよい。こんな文章を書いているのを知ったら、おそらく彼女は、こう言うにちがいない。「も
う、私のことは構わないで!」と。

 その気持ちがわかったから、私は(X)をクリックした。クリックして、検索エンジンのウィンドウ
を閉じた。そのとたん、私は、三五年という、ズシリと重い時の流れを感じた。
(03−1−11)

●恋愛は人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外(ほか)に花はない。(坂口安
吾「恋愛論」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

見苦しい人たち

●他人に不幸話をする女性
 見苦しい女性(七〇歳)がいる。明けても暮れても、他人の悪口ばかり。他人の不幸が、よほ
ど楽しいらしい。しかしそこは、七〇歳。ただ年をとったわけではない。独特の言い方をする。

 たとえばAさんの失脚を笑うときは、こう言う。
 
 「かわいそうなものですね、Aさんは。あれほどのお屋敷に住んでいたというのに、今は、見る
影もありません。私、Aさんのことを思うと、かわいそうでなりません」と。

 それをいかにも同情したフリをして、言う。ときには、涙声で言うときもある。そういう言い方を
しながら、実は、Aさんの不幸話を、あちこちで、おもしろおかしく広める。

 他人の不幸を笑うものは、今度は、自分が笑われる。しかし自分を笑うのは、実は他人では
ない。自分で自分を追いこむ。それを「笑う」という。たとえばAさんは、若くて死んでいった人た
ちを、「かわいそうだ(ザマーミロ)、かわいそうだ(ザマーミロ)」と笑っていた。だから、自分が、
病院へ入院したような話は、絶対に、人には話さなかった。六〇歳くらいのとき、風呂から出た
ところで倒れたことがあるが、そのときも、「近所に恥ずかしいから」という理由で、救急車を呼
ばなかった。

 これはまた別の女性のことだが、こんなことを言う人(五〇歳男性)がいた。

 その人の母は、静岡県と長野県の県境にある小さな村で、ひとり住まいをしているという。年
も八〇歳になり、このところ健康も思わしくない。そこでその人が、何とか、浜松市内でいっしょ
に住むように説得しているという。が、その女性は、がんとして、首を縦にふらない。理由を聞く
と、その人は、こう話してくれた。

 「母は、昔からその村を出ていく人を、笑っていました。その村に住めなくなることを、敗北者
だと思っていたのですね。母独特の人生観です。それで、今、自分が出ていくことができないの
です」と。

 もう少し卑近な例では、子どもの進学校がある。Bさん(四〇歳女性)は、ことあるごとに、そ
の人の価値を、出身高校で決めていた。「あの人は、X高校ですってねエ〜」と。Bさん自身
は、このあたりでも有名な進学校(こういう言い方は不愉快だが)を出ていたこともある。が、い
よいよ自分の娘が、高校受験を迎えたときのこと。娘には、その「力」がなかった。だから毎
晩、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえしていた。

●地に落ちる人間性
 こうした例は、多い。ひょっとしたら、あなた自身も、日常的に、それをしているかもしれない。
とくにはげしい受験勉強をくぐりぬけた人ほど、注意したらよい。そういう人ほど、自分の価値
や幸福を、相対的に判断するクセが身についている。「同年齢の仲間より、私のほうが地位が
高いから、私は優秀だ」「隣の人より、いい生活をしているから、私は幸福だ」と。

 そしてそういう相対的なものの見方をしていても、それなりに高い生活が維持できればよい。
が、問題は、反対に、同年齢の人より、地位が低くなったとか、隣の人より、生活の質が悪くな
ったとき。このタイプの人は、そうしたものの見方を、冒頭に書いたAさんのように、ゆがめてし
まう。わかりやすく言えば、自分よりさらに不幸な人を見つけてきては、それをおもしろおかしく
笑ったりする。そうすることにより、自分の価値や幸福を確認する。あるいは、自分より高い位
置にいる人を、ことさらねたんだり、うらんだりすることもある。こうなると、その人の人間性は、
地に落ちる。
  
 では、どうするか?

 ここでも大切なのは、やはり「私は私」という、自己の確立である。私たちは、私たちの人生
を、自分で生きる。自分の生きザマを、決して、他人の目の中に置いてはいけない。「他人がど
う思おうが、知ったことではない。どこまでいっても、私は私」と。

 こういう生き方を日ごろからしていれば、少なくとも、Aさんが見せるような見苦しさは避けるこ
とができる。小さな村で、がんとして首を縦にふらないような女性のような生き方は避けること
ができる。さらに子どもの受験勉強に巻きこまれなくてすむ。

●方向性を変えるのは、若いうち
 そこでこのエッセー最後の問題として、こういうことがある。このエッセーを読んでいるあなた
が、若い人なら、それでよい。しかし私のように五〇歳もすぎていると、問題の根は深い。正直
言って、五〇歳をすぎてから、こんなことに気づいても、遅いということ。手遅れ。仮に自分の中
におかしな人間性が潜んでいたとする。そしてそれに気づいたとする。しかしその人間性を変
えるのは、容易なことではない。一〇年単位の時間がかかる。あるいは、もっとかかる。

 それにこういうことも言える。若いうちは、気力で、自分をごまかすことができる。人前で、よ
い人ぶることぐらい、簡単なことはない。もの知り顔で、ニンマリと余裕の笑みを浮かべ、あと
は静かに相手の言ったことに、ウンウンとうなずいていればよい。しかし歳をとると、その気力
が衰えてくる。自分をごまかす力が弱くなる。そうなると、その人自身の人間性が、モロに外に
出てくる。問題は、そのときだ。そのとき、自分の醜さを嘆いても、遅い。

 だから、今、しかもできるだけ若いときから、自分を改めていかねばならない。日々の生活が
月となる。その日々は、できるだけ早いほうがよい。

 かく言う私は、気がつくのが、あまりにも遅すぎた。三〇歳をすぎるころまで、実にいいかげん
な人間だった。今は、まだ気力もあり、そういう自分を必死に押さえこんではいるが、気力が衰
えれば、いつまた、そういう醜い自分が顔を出すかもしれない。そういう意味では、時限爆弾を
かかえているようなものだ。あるいは私もそのうち、Aさんのように、他人の不幸話を、人に、お
もしろおかしく話すようになるかもしれない。そうなりたくはないと思うが、その自信は、ない。
(03−1−11)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

私の北朝鮮論

 北朝鮮のような超独裁国家では、独裁者の精神状態が、そのまま国の姿として、反映され
る。国の姿イコール、独裁者の精神状態と考えてよい。

 そこで今にみる北朝鮮の異常な緊張状態は、それだけ金正日の精神状態が、緊張状態に
あるとみてよい。もっと簡単に言えば、きわめて異常な情緒不安状態にあるとみてよい。よく誤
解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。情緒不安は、あくまでも、外に
現れた症状。情緒不安というのは、心の緊張状態が取れないことをいう。その緊張した状態の
中に、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一挙に、精神状態が不安定
になる。それを情緒不安という。

 まず北朝鮮の内部の問題。昨年の夏(〇二年七月)、北朝鮮政府は、公務員の給料を、そ
れまでの給料から、一挙に、二〇倍に引きあげた。二〇倍である。それまで、たとえば一〇万
円の給料だった人は、二〇〇万円になったことになる。北朝鮮を支配する闇(やみ)経済の実
勢価格に合わせるためである。しかしこんなことをしても、一時的な効果はあっても、すぐその
効果は、消滅する。闇経済のほうも、すぐ二〇倍、三〇倍と、それを追いかける。つまりハイパ
ーインフレの状態になる。はっきり言えば、メチャメチャ。

 その上、経済は壊滅状態。工場の稼働率は、三〇%以下だといわれている。あるいは、ほと
んど稼動していない? アメリカ頼みだった、原油供給は昨年一二月以来、停止されている。
北朝鮮は、年間一〇〇〜一五〇万トンの原油を必要としている。が、そのうちの五〇万トンを
カットされたのだから、痛手は大きい。しかしそれだけではない。慢性的な食料不足。この冬だ
けでも、約二〇〇万人が餓死すると言われている。餓死、一歩手前の人を含めると、その数
倍の人が、飢えで苦しんでいると考えてよい。

 さらに、今、北朝鮮は、表向きはどうであれ、ロシアにも、そしてどうやら中国にも、見放され
つつある。とくにロシアには、完全に見放された。いくらお金を貸しても、返さないのだから、こ
れはしかたない。昨年末、金正日は、中国にさかんにラブコールを送った。しかし中国の江沢
民は、金正日には会わなかった。今の国際情勢の中では、会えなかったというのが、正しい。
そこで金正日は……。

 今ごろは、宮殿のような執務室の地下室で、大酒を飲んで、ギャーギャーと暴れまくっている
に違いない。本来なら、家族がいて、そういう男の心をいやすのだが、悲しいかな、金正日に
は、そういう家族さえいない。定年が二五歳という、喜ばし組の若い女性軍団では、どうしようも
ない。彼女たちは、ただのセックスドール。いくら若い女性が好きでも、糖尿病では、女性のほ
うが満足しない? だからますます金正日の精神状態は、不安定になる。おそらく今ごろは、
側近の部下でさえ、手がつけられないのでは……?

 そこで核開発の再開、ミサイル実験の再開ということになった。が、ここで注意しなければな
らないことは、ニョンビョンの核関連施設にしても、あまりにも旧式で、使いものにならないとい
うこと。しかもこの一〇年間、ほとんど手入れをしていないから、火を入れたとたん、大爆発と
いうことにもなりかねない。これは私の意見ではない。実際、その核関連施設を視察したことの
ある、アメリカの学者の意見である。もしそうなったら、死の灰は、日本海から北海道を経て、
アラスカまで達するといわれている。ああああ!

 以上のような状況の中で、今の北朝鮮の外交戦略は動いている。わかりやすく言えば、今の
北朝鮮の国内事情は、悲しいかな、メチャメチャの上にメチャメチャ。それに合わせて、金正日
の精神状態も、メチャメチャの上にメチャメチャ。もっとわかりやすく言えば、金正日は、もうま
ともではない。狂っている。韓国政府も、日本の外務省も、「まとも」という前提で、北朝鮮との
交渉にあたろうとしているようにみえるが、そのこと自体、無理。幻想。錯覚。

 問題は、北朝鮮や金正日が狂うのは、彼の勝手だが、そのとばっちりが、韓国や日本、さら
にはアメリカにおよぼうとしている。実のところ、一番あぶないのが、日本。北朝鮮からみて、
一番、攻撃しやすい相手は、日本ということになる。戦前の植民地時代の報復を大義名分に
することもできる。それに日本には、自衛権はあっても、交戦権はない。日本を叩いても、叩き
返されることはない。そんなわけで、本当のところ、明日あたり、ミサイルが東京を直撃しても、
おかしくない。

 では、私たち民衆は、どのように考えたらよいか。

 ああいう北朝鮮や、金正日は、必ず、自滅する。遅かれ早かれ……というより、もはや時間
の問題。今の状況そのものが、断末魔の最終症状とみてよい。だから何が起きても、ただ冷
静に。多少の被害が、日本にもおよぶかもしれないが、それでも冷静に。北朝鮮には、一〇〇
万人以上もの軍隊がいるが、海を渡ってまで日本には来られない。これは軍事雑誌からの情
報だが、北朝鮮製の軍用トラックは、最高時速が五〇キロ。(たったの五〇キロ!)北朝鮮の
潜水艦は、もぐっても、せいぜい七〜八メートル。(たったの七〜八メートル)。最新鋭の戦闘
機のMIG29にしても、今、飛べるのは、たったの二機。はっきり言って、これでは戦争にならな
い。

 だから不必要に恐れる必要はない。むしろ私たちが今、すべきことは、金正日や北朝鮮の上
層部を、あわれんでやること。実に、かわいそうな人たちである。世界が「助けてあげる」と言っ
ているのに、そういうやさしさすら、理解できないでいる。そればかりか、世界の良心に、あえて
背を向けている。だれもあんな国、侵略しない。そんな意図もない。韓国ですら、今の状態で
は、併合は困ると言っている。経済格差が、あまりにもひどい。そういうことを金正日は百も承
知の上で、ありもしない危機をあおって、自分の国民を、欺いている。本当にかわいそうな男
だ。

 ただまったく油断していてよいというわけではない。風船にしかけた最近爆弾や化学爆弾は、
実戦配備についたと言われている。小型核爆弾もすでにいくつかもっていて、これも実戦配備
についたといわれている。今のこの時点でも、約二〇〇発のミサイルが、日本に向けられてい
る。爆弾というより、細菌兵器や化学兵器が、その弾頭に積まれているとみるのが、常識であ
る。もしそのうち一発でも、大都市に落ちれば、その被害は、霞ヶ関で起きた、あのサリン事件
の比ではない。一発で、数万人単位の死者が出るといわれている。ゾーッ!

 そうならないよう、日本は極力、アメリカや韓国のうしろに立って、目立たないようにしているし
かない。悲しいかな、現状をあれこれ積み重ねていくと、そうなる。日本の自衛隊にしても、あ
まりにもサラリーマン化しすぎてしまった。日本の憲法は崇高(すうこう)だが、崇高すぎて、こう
した現実には、まったく対応できない。そんなわけで、今は、ただひたすら静かに、金正日が自
滅し、北朝鮮が自滅することを、待つしかない。何とも残酷な言い方だが、それが結局は、今
の北朝鮮の人たちにとっても、最良の解決策にもなる。今の今という、この時点においても、数
十万人単位の人たちが、強制収用所で、過酷な労働に従事しているという。もちろんその中に
は、日本人妻や、拉致(らち)された日本人もいるらしい。そういう人たちを救うためにも、でき
るだけ早く、あの金正日体制を、自然死させねばならない。

 金正日は、まさに「だだをこねている幼児」(アメリカ高官)。しかもきわめて情緒が不安定な
幼児。だからここは、よしよしとなだめながら、しかし北朝鮮側のペースにのらないように、時間
をかけるしかない。そう、だれか、幼児教育の経験のある人が、アメリカの対北朝鮮戦略のア
ドバイザーに加わるとよいかもしれない。より的確に対処できるかもしれない。……このつづき
は、もう少し、様子をみてから書く。
(03−1−12)

●この原稿は、去る一月一二日の朝、書いたものです。国際情勢が、こうまで日に日に変化す
ると、ほんの数日前に書いた原稿ですら、現状にあわなくなることもあります。みなさんが、こ
の原稿をお読みくださるときには、すでに平和になってしまっているかもしれませんし、反対に、
戦争が始まっているかもしれません。どうかそういうことも加味しながら、ひとつの意見として読
んでいただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

常識論

 風がやんだ。空気が止まった。小春日和(びより)の、うららかな日差し。レモンの葉も動きを
止めたまま、陽光をあびて、白く光っている。アジサイの木が、その下で、去年の枯れた花を残
したまま、静かにたたずんでいる。

 深い緑。その間に乱立する枯れた木々。その向こうには、うすいモヤのかかった山々が、お
だやかなうねりをつくって、息をひそめている。動くものはない。いや、時折、ウグイス色の小鳥
が、きぜわしそうにやってきては、またどこかへと去っていく。「ジョウビタキよ」と、ワイフは言っ
た。

 こうしてぼんやりと、目の前の景色を見ていると、ふと常識の声が聞こえてくる。心の声といっ
てもよい。そしてその常識の声に耳を傾けていると、何が大切で、また何がそうでないかがわ
かる。人間は、万年の昔から、おそらくまだ小さな下等動物だった時代から、その声を頼りに
生きてきた。

 人に親切にしたり、やさしくすれば、心地よい響きがする。しかし人を裏切ったり、キズつけた
りすれば、不快な響きがする。道徳だとか、倫理だとか、はたまた哲学だとか、そういうものを
知らない時代から、人間は、その声に従って生きてきた。今も生きているし、その声を大切に
すれば、これからも生きていくことができる。

 むずかしいことではない。ほんの少しだけ、自分の心に耳を傾けてみればよい。すると、心
は、おかしいものは、おかしいと言う。へんなものは、へんだと言う。一方、気持ちのよいもの
は、気持ちよいと言う。すばらしいものは、すばらしいと言う。言葉ではない理屈でもない。心の
声というのは、もっと感覚的なもの。本能的なもの。心の奥のほうから、聞こえてくる。

 あとはその常識に従って行動すればよい。人に話したり、ものに書いたりすればよい。それ
を繰りかえしているうちに、思いや考えが、モヤの中から、顔を出す。形が見えてくる。

 そこで大切なことは、常識をみがくこと。旅行するのもよい。本や映画を見るのもよい。勉強
したり、音楽を聞くのもよい。ごくふつうの、ごく自然な生活の中で、ごく当たり前の人間として、
生きる。滝に打たれるから、常識がみがかれるとか、火の粉の上を歩くから、常識がみがかれ
るとか、そういうことはない。また、そんなバカなことをしても、意味はない。それがわからなけ
れば、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればよい。山に生える、木や草を見ればよい。だれも、そんな
ことはしていない。

 私たち人間が、まさに自然の一部であるように、私たちもまた、自然に生きればよい。その生
きザマが、自然であればあるほど、また自然に近ければ近いほど、常識は、私たちにいろいろ
話しかけてくれる。何が正しくて、何がそうでないかを、語りかけてくれる。

 私がこのあたりの山々に出入りをするようになって、もう一四年の月日が流れた。来たころ
は、小さな苗木にすぎなかった椿(つばき)も、今では、土手の下で、大きく葉っぱをのばしてい
る。先ほどよりも、照り返しのまぶしさが、目にしみるようになった。見ると、太陽が、ぐんと高く
なっていた。

 私はまず、イスを片づけた。つぎにテーブルの上にのった、コップを片づけた。それからここ
に座るまえに使った、枝切りバサミを片づけた。少し暑くなった。首のあたりが、ほんのりと汗
ばんでいる。この気持ちよさこそが、私たちが今、生きているという証(あかし)でもある。私は
まわりの景色を見ながら、もう一度、大きく息を吸いこんだ。
(03−1−11)

●私たちが求める法にせよ、真理にせよ、それはそんなに遠くにあるのではないにではない
か。それはひょっとしたら、私たち自身の中にあって、私たちに見つけてもらうのを、息をひそ
めて、待っている?
●日々のささいな行為が無数にあつまって、月となり、その月があつまって、年となる。そして
その年々があつまって、やがてその人の人格となる。そのとき真理が見つかるかどうかは、つ
まりは、その人の日々の、ささいな行為によって決まる。ウソをつかない。迷惑をかけない。誠
実に生きる。その瞬間、瞬間の生きザマが、その人の人格を決める。日々の生活の中で、自
分を偽り、他人を偽っていて、どうして真理に到達できるというのか。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-14-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 564人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  57人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−14号(164)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
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  フ           【1】子育てポイント
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/ ▼ \         【3】子育てエッセー
  ■           【4】今、考えていること
  ■
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●温もりのある園を
 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。
 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため
に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す
といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子
どもをやらないほうがよい。

●園は、先生を見て選ぶ
 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって
いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ
うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという
ような園は、さける。
 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、
よい。

●男児は男児
 男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル
のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取
っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって
いる。
 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ
とと決めてかかってはいけない。

●負けるが勝ち
 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、
「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるよう
に見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。
 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ
れなりに深刻なケースと考えてよい。さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほ
かの世界でのことなら、ともかくも、あなたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子ど
もにとって、すみやすい世界を、何よりも優先する。だから、『負けるが勝ち』。

●我流に注意
 子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」
「他人の育児論は役にたたない」と。
 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と
思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない…
…」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。
 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。
その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。

●二番底、三番底に注意
 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの
世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち
るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを
繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。
 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?
 そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす
るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。

●信仰に注意
 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。
 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊
状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ
マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、
行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。
 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集
団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始
めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした
りする。
 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。

●機嫌を取らない
 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない
ことは、言うまでもない。)
 そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの
親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子
どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育
児観は、捨てたほうがよい。
 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた
と子どものパイプを太くする。

●いつも我が身をみる
 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。
 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって
ほしいです」と。
 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て
をするときの、コツ。

●本物を与える
 子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」
というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそ
うする」。
 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ
のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた
ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。こうした低俗、軽薄文化が、今、
この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかということ。このままでよいかというこ
と。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれば、子どもには、できるだけ本物
を与えたり、見せたり、聞かせたりする。

●親が生きがいをもつ
 子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。
 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは
結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言
える。
 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。
それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。

●仮面に注意
 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見
られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。
 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト
レスをためやすい。
 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。
 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。

●聞き上手になる
 子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ
レーションする。そうでない親は、そうでない。
 親と話していて、(教える立場で)、何がいやかといって、すぐカリカリすること。
 私「最近、元気がありませんが……」
 親「うちでは元気があります」
 私「何か、問題がありませんか?」
 親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。
 子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ
になる。

●親の悪口は言わない
 あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい
けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結
果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。
 父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って
はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家
族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。

●無菌状態に注意
 子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、
つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学
ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ
も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。
 子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も
身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま
ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。

●子どもは削って伸ばす
 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。
たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。
 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。
 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。

●「偉い」を廃語に
 日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い
人。わかるかな?」と言っていた。
 しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ
る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま
り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、
ほとんど問題にならない。
 この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。そこでどうだろう。も
う「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かっては、「偉い人になりな
さい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのようだが、こうした小さな
変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることができる。

●訓練(指導)と教育は別
 この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、
教育ではない。
 訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い
込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教
育の最大の悲劇がある。
 一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも
訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり
えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す
ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。
 教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。
私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。
むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。
(02−1−6)

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

雑談

まず、「週刊E'news浜松」に載せてもらった、原稿を転載します。
浜松の情報は、ここから手に入りますので、浜松のことを
もっと知りたい人は、いかがでしょうか。

○メールマガジン「週刊E'news浜松」2003/1/6 No.003-001/2338
 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344
 編集発行:E'news編集部
 連絡先:Office'Eiyu 杉本英雄 浜松市渡瀬町256
  E-mail: enews@eiyus.com 
  URL: http://www.eiyus.com/Enews/

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■連載:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 -------------------

●No.46「子どもは環境で包む」

 私はときどき、たとえば小学五、六年生の子どもを、中学生のクラスに座ら
 せて勉強させることがある。何かを教えるのではなく、「好きな勉強をしな
 さい。本読みでも、宿題でもいい」と言って、子どもの自由に任せる。(ク
 ラスといっても、私のばあいは、一クラス、五〜六名の小さなクラスだが…
 …。)この方法は、下の子どもが上の子どもの勉強グセを受け継ぐには、た
 いへん効果的である。週一回程度でも、数か月もすると、下の子どもは上の
 子どもを見習って、黙々と勉強するようになる。実際、私はこの方法で、ツ
 ッパリ始めた子どもをなおしたこともあるし、騒々しくて落ち着かない子ど
 もをなおしたことがある。

 それはそれとして、子どもを指導したいと考えたら、環境で包む。……包む
 ことを考える。釣り好きの親の子どもは、釣りが好きになる。読書好きの親
 の子どもは、読書が好きになる。社交的な親の子どもは社交的になる。しか
 し押しつけはいけない。親が本を読まないのに、「うちの子はどうして本を
 読まないでしょう」は、ない。子どもというのはそういうもので、親の考え
 方や感じ方をそのまま受け継いでしまう。たとえば今あなたが、「男なんて
 つまらないもの」とか、「うちの夫はだらしない」などと思っていると、あ
 なたの娘もそう思うようになる。これは一つのテストだが、こんなことをし
 てみると、親子の密着度を知ることができる。

 紙と鉛筆を用意し、まずあなたが山、川、木を二本、家、雲、太陽を描いて
 みる。そしてその絵をどこかへ隠し、つぎに子どもに、同じように山、川、
 木を二本、家、雲、太陽を描かせてみる。子どもの絵ができあがったら、あ
 なたの絵と見比べてみる。親子の密着度が高い親子ほど、実によく似た絵を
 かく。年長児で三〇組に一組は、ほとんど同じ絵を描く。

 子どもに何かをさせようと思ったら、まず自分でしてみる。環境で包む。そ
 ういう姿が、子どもを前向きに伸ばす。ただし一言。あなたが努力しても、
 子どもがそれに乗ってこなければ、それはそれでおしまい。あのレオナルド
 ・ダ・ビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこな
 うように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』
 と。何ごとも無理強いは禁物。子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ
 取りながら成長するもの。そういう前提で、子育てを考えること。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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●1月6日のこと

 このところ、冬休みで、子どもたちの声を聞いていないので、どんどん自分が、ネクラになっ
ていくのを、感じます。老人臭くなるというか、フケるというか。私はよくワイフに、「あんたは貫
禄がないわね」と言われますが、そういう意味では、私には子どもっぽいところがあります。そ
の子どもっぽさが、自分でも消えていくのがわかります。

 それにやはり運動不足。このところ、ハナ(犬)との散歩も、あまりしていません。寒いと、どう
してもおっくうになります。「今日一日くらいはいいか」という思いが、二日になり、三日になりま
す。自分自身をもう少し、機械的にコントロールできたら、よいのにと思うのですが、人間には、
刺激が強いことを、本能的に避けようとする習性があるようですね。つまり運動すれば体によ
いことはわかっている。わかっているが、冬の冷気に身をさらすのは、つらい。そのつらさが、
ブレーキとして働いてしまうというわけです。

 今日も何かと忙しかった。午前中は、人と会う約束が二つありました。午後からも、いかねば
ならないところが一か所。それに私の教室(BW教室)の修理など。帰りに、ワイフと二人で、29
0円の牛丼を食べました。が、ここで扁桃腺が腫れはじめ、寒気で、ダウン。家に帰ってから、
午後8時ごろまで、フトンの中で寝ました。

 私は子どものころから、扁桃腺をよく腫らします。今も、その状態は変わっていませんが、こ
の扁桃腺が、私の健康のバロメーターとして働きます。風邪のひきはじめなどでは、まず扁桃
腺がおかしくなります。ゾクゾクと寒気がして、背筋が急に冷えてきます。(この寒気は、暖かい
フトンに入っても消えない、不思議な寒気です。)そうなると、「あぶないぞ」と思って、養生しま
す。おかげで、風邪など、病気で、教室を休んだことは、めったにありません。一年に一回、あ
るかないかというところです。

 さて、そのフトンの中で寝ているときのこと。私は寝る前は、よく宇宙のことを想像します。学
生のころは、SF(科学空想)小説が、大好きでした。そのせいかもしれません。で、今日も、そ
の宇宙のことを考えて寝ました。しかし今日の私は、かなり過激でした。

 宇宙人と力を合わせて、私が地球上の独裁者をこらしめるという内容でした。もちろんターゲ
ットは、あの金正日。あの男を、宇宙の大法廷に引き出して、みんなで裁判するというもの。こ
れが結構、おもしろかった。みんなの前に立ったら、メソメソ泣き始めたりして。もちろん金正日
が、です。まわりの様子は、そう言えば、映画『スーパーマン』に出てきたシーンでした。悪人三
人が、裁判を受けて、カガミに閉じ込められて、宇宙へ放り出されるという映画がありました
ね。みなさんは、ご覧になったことがありますか? あのシーンです。

 で、なかなか寝つかれず苦労しましたが、ふと気がつくと、あたりは、真っ暗。起きて時計を
見たら、もう夜の8時! 風邪薬には、催眠作用のあるものがあるので、そのためかもしれま
せん。「結構、寝たね」とワイフに言うと、「よく寝ていたわよ」と。計算すると、三時間は眠ってい
たことになります。

 で、ワイフが、「静岡市のR幼稚園から、講演依頼があったわよ」と。うれしかった。R幼稚園で
の講演は、これで計4回目になります。最初は、『テレビ寺子屋』という番組で、行ったのがきっ
かけでした。回数を重ねて読んでくださるということは、気に入っていただけたということかな。

 講演をしていて、一番、つらいのは、いつも講演が終わるたびに、ああ言えばよかった、こう
言えばよかったと後悔することです。で、ここ数年は、講演のたびに、「今日が最後だ」と自分
に言って聞かせるようにしています。ときどき、年齢のせいか、講演の途中で、集中力がふと
消えかかりそうになることがあります。そのときも、そう。「今日が最後だ」と言い聞かせなが
ら、自分をふるい立たせるようにしています。それでも、いまだかって、一度だって、満足して終
わったことはないのですが……。

それから軽い夕食を食べて、(昨日、私が山荘のほうで作ったカレーの残り)、書斎に入って、
14日発刊予定のマガジンの原稿を書き始めました。この原稿が、その一部です。何とも内容
のない原稿で、読んでいただくのもつらいですが、私の別の一面を知っていただくのもよいかと
思っています。いかがですか? 

 そうそう今日、中国へ行ってきた友人が、みやげにと、何かの石碑の拓本をくれました。あ
と、中国のお菓子とお茶。拓本は、額縁に飾っておこうと思います。お茶は、まだ飲んでいませ
ん。お菓子は、おいしかった。ここ数年、中国のお菓子が、急速にアカ抜けてきました。センス
がよくなったというか、そういう感じです。一〇年前には、正直言って、もらうたびに、「食べてい
いものかどうか」と、迷ったこともあります。Rさん、ありがとう!

 ほかにロンドンで留学している、Aさんからメールが入っていて、その返事を書きました。いろ
いろ人生のことを考えているようです。この日本では、あまり考えない子どものほうが、生きや
すいようですね。本当は、こんなことではいけないのですが……。

 そうそう、今日もチャットルームで、10時に待っていましたが、訪問者はゼロでした。次回
は、1月20日(月曜日)を予定しています。気がむいたら、ぜひ、おいでください。では、おやす
みなさい。
(03−1−6)

●ほとんど考えないまま、思いついたことを書きました。文章の乱れなど、お許しください。

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

暴力におびえる子ども

 体罰といえば、体罰だが、私は、ときどき、しゃもじ(ご飯をすくうしゃもじ)で、子どもの背中を
叩いて回ることがある。姿勢の悪い子どもや、ふざけている子どもに対してそうする。(しかし、
たいていはイスを叩くだけで、子どもの背中を叩くことはめったにない。音だけはバッシとする
が、まったく痛くない。念のため。)

 そのしゃもじで叩くフリをしただけで、異常におびえる子どもがいる。「こわいから、やめて!」
と、叫ぶ子どももいる。一種の恐怖症だが、この恐怖反応は、おおきく分けて、つぎの三つのタ
イプに分けられる。

(1)暴力に対して、攻撃的におびえるタイプ(プラス型)……このタイプの子どもは、大声で「こ
わいから、やめて!」と叫んで、逃げ回ったりする。K君(小五)も、このタイプ。日ごろは活発
で、わんぱくなのだが、私がしゃもじを振りあげたとたん、ワーワーと叫びながら、それにおび
え、抵抗する。 

(2)暴力に対して、ビクビクとするタイプ(マイナス型)……もともと静かなタイプの子どもに多い
が、しゃもじを振りあげると、オドオドしたり、ビクビクしたりする。「君は、何も悪いことをしてい
ないから、心配しなくてもいいよ」となだめるのだが、ほとんど効果がない。ほかの子どもが叩
かれるのを見たり、音を聞いただけで、ガタガタと体を震わせたりする。

(3)逆ギレするタイプ(混乱型)……突発的に攻撃的になり、顔色を変える。俗にいう、「逆ギ
レ」の状態になる。まったく別人のように、すごんだ目つきや顔つきになる。反抗といっても、ふ
つうの反抗ではない。錯乱(さくらん)状態になる。しゃもじをもつ私に対して、とびかかってきた
りする。力まかせに、私を殴ったり、蹴ったりする。あたりのものを、ギャーッと叫んで、ひっくり
返すこともある。

 これらの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、家庭で、はげしい体罰を加えられているか、
過去において、体罰を加えられた経験があるのがわかる。何らかの形で、はげしい暴力行為
を目撃して、それで恐怖心をもつようになる子どもも珍しくない。

【A君(小四)のケース】
A君は、幼児のころ、彼自身は、体罰を受けた経験はないのだが、母親が父親に殴られたり
蹴られているのを、何度も目撃している。現在は離婚していて、母親の手で育てられている。そ
のためと考えてよいが、A君は、ここでいう三番目の「逆ギレするタイプ」の症状を見せる。一
度、私がしゃもじを振りあげながら、ほかの子どもを「叩くぞ、叩くぞ!」とおどしていたら、いき
なり横から、私に飛びかかってきた。私はそのA君の顔を見て、ゾッとした。別人のように、すさ
んだ鋭い目つきをしていたからだ。そして「暴力はやめろ!」と叫んで、容赦なく私を足で蹴っ
た。

 子どもの恐怖反応は、さまざまな場所で、さまざまな形で現れる。ここでいう暴力に対する恐
怖反応は、決して珍しくない。小学校の低学年児で、一〇人に一人くらいの割合で経験する。

 こうした恐怖症を子どもが見せたら、対処法は、ただ一つ。できるだけ、恐怖症を心の中で再
現させないようにする。「気のせい」「気はもちよう」と安易に考えてはいけない。子ども自身が
自意識でコントロールできるようになるまで、できるだけその問題には、触れないようにする。
つまり、時間を待つ。「なおそう」とか、「なおしてやろう」と考えてはいけない。無理をすればす
るほど、逆効果。かえって症状をこじらせることになるから、注意する。
(03−1−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


指しゃぶり

 ある雑誌に、子どもの指しゃぶりについて、特集が組んであった。指しゃぶりの是非論、弊害
論、さらには、なおし方まで。苦い食べ物(ヒマシ油)を子どもの指に塗ればよいという意見まで
あった。しかし……。

 赤ん坊が、母親の乳房を吸いながら、やすらかな眠りにつくのは、そこに性的な快感がある
からだと主張したのが、フロイトである。ただ単にそれは、栄養物としての乳を求めるだけのも
のではない、とも。フロイトは、そういう赤ん坊から母親への愛着行為を、「口愛行動」と呼ん
だ。

 だからこの時期、口愛行動が不足すると、子どもはその代償行為として、自分の指をしゃぶ
ったり、おしゃぶりを口に含んだりするようになる。ものを口に入れたり、タオルの端をしゃぶる
のも、同じように考えてよい。「代償行為」というのは、自分自身の中にたまった欲求不満を、
代わりの方法で償うことをいう。

 人間の行動の基本にあるのが、「性欲」というのが、フロイト学説の柱になっている。たとえば
子どもは、この口愛行動のあと、肛門愛、男根愛と、三つの発達段階を経るという。ただここで
誤解してはいけないのは、「肛門愛」「男根愛」といっても、肛門を愛したり、男根を愛したりする
ということではない。「肛門愛」というのは、「排出する快感を味わう愛」、「男根愛」というのは、
「性的な快感を、ペニスやクリトリスに感ずる愛」をいう。フロイトはこれらをまとめて、「小児性
欲」と呼んだが、こうした「愛」がさまざまに変化して、人間の行動を、裏からコントロールする。

 あまりよい例ではないかもしれないが、もしあなたが他人の、しかもものすごい秘密を握った
とする。するとあなたは、多分、それをだれかに話したい衝動にかられるに違いない。が、この
段階で、もしそれを話せないとなると、あなたの心は悶々とした状態になる。ふつうは、そういう
状態には、長くは耐えられない。そこであなたはだれかに話す。話して、優越感を覚えたり、自
己を顕示したりする。が、それだけではない。そのあと、あなたは心の中がスッキリとしたのを
感ずるに違いない。それもここでいう「肛門愛」である。

 男根愛は、そのまま「性器性欲(フロイト)」へと、進展していく。そしてその過程で、男は男とし
て、女は女として、さまざまなドラマを展開する。少し極端な言い方に聞こえるかもしれないが、
男のすべての行動の裏には女がいる。女のすべての行動の裏には男がいる。もちろん性倒錯
の世界もないわけではない。たとえば男根愛が倒錯すると、露出症になったり、自己愛が転じ
て、オナニーに固着するようになったりする。これについてもフロイトは詳しく説明しているが、
ここでは省略する。

 このように人間の心理と行動は、たいへん複雑なメカニズムで決定される。冒頭の話に戻る
なら、「指しゃぶりをさせてよいか」「どうすればやめさせられるか」などという話は、まったくナン
センス。それはちょうど、性的に欲求不満の若妻が、毎晩、オナニーをしているのを見て、その
是非論を論ずるようなものである。いわんや「やめさせるにはどうしたらいいか」とは! それと
もあなたは、その若妻に、「指にタバスコでもつけておきなさい」とで、アドバイスするつもりだろ
うか。

 指しゃぶりなどというものは、あくまでも症状。その背景に何があるかをさぐらないで、対症療
法ばかり考えても意味がない。何が欲求不満の原因になっているかをさぐることこそ、重要で
ある。症状だけをみて、子どもを判断してはいけない。
(03−1−7)

    /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
後半部へ
よろしく!












件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-14-2

後半部です
はやし浩司
【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

かっこいい人

 若いころ、オーストラリアのブリスベーン空港(クィーンズランド州)で飛行機に乗った。日本へ
帰るためである。そのときのこと。空港使用料というのを払わなければならなかった。たしかオ
ーストラリアドルで、一〇ドル(当時のレートで、四〇〇〇円)だったと思う。私は残ったドルをす
べて円にかえていて、オーストラリアドルをもっていなかった。困り果てて、女性の係官の前で
モジモジしていると、一人の男が、うしろからサッと、その一〇ドルを出してくれた。見ると、二人
連れだった。一人は、三五歳くらいの中国系アメリカ人。もう一人は、明らかにその秘書と思わ
れる、同じ歳くらいの男だった。二人とも、ニンマリと笑っていたが、私は、あまりのかっこうよさ
に、言葉を失っていた。「ありがとう」とは言ったが、そのまま別れてしまった。

 つぎによく覚えているのは、その二人が、どこか窓の向こうを並んで歩いている姿だった。秘
書らしき男がカバンをもち、あれこれもう一人の男に話しかけていた。

 私の記憶はここで途絶えるが、今でもあのシーンを思い出すと、胸がしめつけられる。何とい
う不覚。何という不手際。私はその男の名前すら聞かなかった。だから今日の今日まで、お礼
をいうことすらできないでいる。それが今、あの男を思い浮かべるたびに、モヤモヤとした思い
が、私の胸をしめつける。

 私はサラリーマンには、なれない男である。他人に雇われるということが、どうしてもできな
い。しかし心の中では、いつもこう思っていた。あのときのあの男なら、私は、サラリーマンとし
て、仕えることができただろう、と。本当に瞬間のできごとで、それ以上のことは何もなかった。
が、私は男として、その男に、ほれた。不謹慎な言い方だが、本当に、ほれた。

 以後、逆に、自分がその男の立場に立たされることがあると、私は、よくお金を出してやる。
自動販売機で小銭が足りなくて困っている人を見たとき。駅で切符を買うとき、やはり小銭がな
くて困っている人を見たとき。外国でもよくする。チップの小銭をもっていない人を見かけたと
き、など。しかし私は決して、自分をかっこよく見せるために、そうしているのではない。あのと
き私を助けてくれた、あの男への恩返しのためだ。いや、本当のところは、どこかモヤモヤとし
た思いを、ふっきるためかもしれない。しかし、だ。何度それを繰りかえしても、このモヤモヤだ
けは、晴れることがない。今の今でも、ペッタリとそれが心のカベに張りついている。「ああ、名
前ぐらい、聞いておくべきだった」と。

 今ごろ、あのときのあの男は、どうしているだろうと、よく考える。きっと今では、世界をリード
するビジネスマンになっているにちがいない。ああいうことが、あれほどまでにスマートにできる
アジア人は、そうはいない。私は、あのかっこよさだけは、どうしても忘れることができない。ど
うしても……。

 そうそう、それ以後は、だれかに何かのことで助けてもらったりすると、その人の名前と住所
を聞くことにしている。必ず聞くことにしている。相手が「いいです、いいです」と言っても、私は
食いさがる。そしてあとで、礼状を書くようにしている。なぜ、そうするかって? 理由は簡単。
あのときあの男にそれをしなかったからだ。そういう失敗だけは、二度と繰りかえしたくない。
(03−1−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


心の中のゴミ

 人間は、体の中にある、不要なものを、無意識のうちにも外へ排出しようとする。その原点
(深層心理)となっているのが、大便や小便だという。心の中もそうだそうで、人間は、心の中に
ゴミがたまると、やはり無意識のうちにも、それを外に排出しようとする。私の意見ではない。
あのフロイトがそう言っている。わかりやすく言えば、人間は、本来、隠しごとができないという
こと。心の中を何かがふさぎ、モヤモヤしてくると、何らかの方法で、それを吐き出そうとする。
吐き出すことで、心の中をスッキリさせようとする。

 子どもの心も、同じように考えてよい。子どもは、いつも心の中を掃除しながら、自分をコント
ロールする。問題は、吐き出すということではなく、吐き出せない子どもがふえているというこ
と。その方法がつかめず、悶々としている子どもは、多い。そういう子どもほど、一方で、心を
ゆがめやすい。

 たとえば口の悪さ。子どもの口が悪いのは、あたりまえ。親に向かって、「バカ!」「ババ
ア!」とか言う。そういう口の悪さを許せというわけではないが、そういうことが言えないほどま
でに、子どもを抑えつけてはいけないということ。

 とくに人前で、よい子ぶる子どもほど、注意する。これを教育の世界では、「仮面」というが、
何かにつけて優等生という子どもほど、心の中にゴミをためやすい。一見、育てやすいが、親
がそう思いこめば、思いこむほど、そのツケは、大きくふくらんでいく。しかもあとになればなる
ほど、問題は大きくなっていく。一般論として、少年少女期から青年期にかけて、サブカルチャ
(下位文化)、つまり非行などを経験した子どもほど、おとになると、かえって常識豊かで、善良
な市民になることが知られている。これも私の意見ではない。教育の世界では、常識。つまり
それだけ、このタイプの子どもほど、心の中のゴミの吐き出し方を知っているということになる。

 このことは、子育ての中で、つぎのように応用できる。

 子どもの心の中に、どんなゴミがたまっているかを、知る。とくに自意識が強く、自制心の強
い子どもほど、ゴミをためていると考える。そういう前提で考える。つぎにそういう子どもなら、ど
ういう形で、ゴミを吐き出しているかを、観察する。どんな子どもでも、何らかの形で、ゴミを吐
き出そうとする。そしてどこかで、そのゴミを吐き出している。趣味とか、ゲームとか。ここで重
要なことは、その吐き出し方が、じゅうぶんなものかどうかということ。そういう場をとおして、言
いたいことを、思う存分言い、したいことを、思う存分しているかということ。もしそうなら、それ
はそれでよし。そうでなければ、そうでない。

 もしあなたの子どもが、外の世界ではともかくも、あなたの前で、よい子ぶっているようなとこ
ろを感じたら、あなたは家庭のあり方を、かなり反省したほうがよい。方法としては、ここに書い
たように、ゴミを吐きださせるようにする。もっとわかりやすく言えば、子どもの側からみて、言
いたいことを、思う存分言い、したいことを、思う存分することができるような環境を用意する。

 しかし子どもというのは、一度、仮面をかぶると、その仮面をはがすのは容易ではない。家庭
のあり方を改めても、数年単位の時間がかかる。またそういう覚悟で、対処する。……本来な
ら、子どもをそういう状況に追いこまないようにする。

 ところで、こんな女性(三五歳)がいる。実家の父親や母親を前にすると、神経をすり減らすと
いうのだ。だから「正月などに、実家へ帰るのが苦痛でならない」と。しかしもっと大きな悲劇
は、そういう女性の心に、実家の父親や母親が、気がついていないということ。「私のことを、で
きのいい娘と信じています」と。その女性のばあいも、他人に対して、いまだに心を開くことがで
きないという。こうも言った。「人前に出ると、どうしても自分をつくってしまいます。そしてその
分、神経を、ヘトヘトになるまで、すり減らします」と。

 さて、あなたはどうか。あなたは自分の心の中のゴミを、日ごろ、思う存分吐き出しているだ
ろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、あなたというより、それがあなたの子どもに
悪い影響を与えていないかを、疑ってみたらよい。
(03−1−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


母親の役目

 子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、絶
対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」という実
感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい一〇歳前後から)が発達して
くると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、自分は父親の子どもで
はないかもしれない」と思う子どもも少なくない。ある男の子(小五)は、こう言った。「ママが、も
っとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福になれた」と。

 こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福にな
れた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚したの!」と、迫る
子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは、絶対
に生まれていなかったことになるのだが……。

 このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。わか
りやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。もちろん中に
は、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。だから父親と母親
が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方をする。歌にしても、母
親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。

 たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろさん』に
しても、母親をたたえる歌である。最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだした
が、そういう歌は例外と考えてよい。つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親という
のは、どこかたたえにくい?

 このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをたたえる信
者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッセーを書き始
めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄いのかしら?」と言った
のが、きっかけになった。

 話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。子ど
もにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、どんなこ
とで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父さんがいないと、ど
んなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。

 そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして結果とし
て、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければならない。この仕
事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。方法としては、母親の
立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけはしないこと。もっと言えば、家庭
教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせるようにする。「これは大切な問題だか
ら、お父さんに判断してもらいましょうね」「お父さんががんばってくれるから、みんなが安心して
生活ができるのよ」とか。

 決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに高い次
元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが父親なら、そ
の反対のことをすればよい。

 しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。それは
今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親の威厳を回
復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」をもちだしても、子ど
も自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」という意味での、平等論という
ことになる。

 またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太くする
かが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラバラになって
しまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存在感が薄いことが
知られている。もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくは
ないが、失敗する確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今から太く
しておく。そしてそれをするのは、母親の役目ということになる。
(03−1−5)

【追記】
 よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題では
ない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。問題の
「根」は、もっと深い。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(494)

先祖を自慢する人たち

●先祖意識
 「私は○○藩の家老の子孫だ」「私の先祖はもとは、関が原で徳川の軍勢と戦ったことのあ
る武士だ」と。自分の先祖を自慢する人は多い。たいていは父方の名字を手がかりに、そう言
う。根拠など、ほとんど、ない。自分で勝手に、そう思いこんでいるだけ。フロイトが言う「血統空
想」とは、少しニュアンスが違うが、こうした先祖崇拝は、その延長線上にあると考えてよい。子
どもが、「私は、もともとは高貴な生まれの人間だ」とか、「ぼくは宇宙人の子孫だ」と言うのと、
よく似ている。つまりそのように、自分を偉大な(?)先祖と結びつけることのよって、自分は特
別の存在と思いこむ。(もちろん中には、本当に、そういう家系の人もいるが……。)

 しかしこの時点で、たとえば母方の先祖、あるいは、父方の先祖にしても、その中に、町人や
農民がいたことは、あまり問題にしない。(実際には、町民や農民の血のほうが、濃いかもしれ
ない。)自分の先祖を自慢する人には、たいていこの種の身勝手さが、見え隠れする。

 もちろん英語国にも、これに似た血統空想は、ある。(もともとこの言葉は、フロイトによって、
ヨーロッパで使われるようになった。)よく外国の友人と話していると、話題になる。しかし日本
のそれとは、内容が少し違うようだ。日本人が先祖を意識する背景には、「位(くらい)」があ
る。位の高い人ほど、偉い、つまり、自分の価値は高いと考える。しかし英語国の人は、たとえ
ば「イギリスの王立陶器工場で、技師をしていた男の子孫だ」とか、「○○年にアイルランドから
やってきた、最初の移住民の子孫だ」とかいうような言い方をする。空想しても、誇るべき対象
が、日本人とは違うということ。

 こうした違いの背景にあるのは、言うまでもなく、日本人独特の、権威主義がある。わかりや
すく言えば、水戸黄門のあれである。それについて、以前、つぎのようなエッセー(中日新聞に
発表済み)を書いたので、転載する。

+++++++++++++++++++++

権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう場面を見ると、「痛
快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。「もし水
戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米で
は、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今の若い者は、
先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男
で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとし
たことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだっ
た。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であっ
た。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子
どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積
もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり
「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的な
ものになる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるの
が一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになってい
る。それを否定するということは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。もしあな
たが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あ
って一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。

++++++++++++++++++++++++

●依存心
 人間は、何かに依存しなければ生きてはいかれない生物なのかもしれない。それぞれの人
が、何かに依存している。で、少し前、その「依存」について、自分なりに分析してみた。依存と
いっても、何に依存するかで、生きザマがまったく違ってくる。

(1)モノ、お金、名誉、地位、財産に依存するタイプ
(2)自分自身に依存するタイプ
(3)家族や親類など、人に依存するタイプ
(4)宗教に依存するタイプ

 このうち、自分の先祖を誇る人は、(1)の「名誉、地位に依存するタイプ」ということになる。
実のところ、このタイプの人は多い。少し前も、「今度、伯父が、選挙に出馬することになりまし
たから」と言って、選挙用のポスターをもってきた人がいた。しかしその人は、伯父の選挙を本
当に応援しているのではない。そういう言い方をして、「自分の家系には、こういう人がいる」と
いうことを、自慢していただけである。

 しかし考えてみれば、しょせん、ドングリの背くらべ。○○藩の家老の子孫だろうが、田舎の
百姓の子孫だろうが、結局は、「生まれた穴がほんの少し違うだけ」(モーツアルト「フィガロの
結婚」)。私なんかは、名字が「林」ということからもわかるように、先祖はただの百姓。依存しよ
うにも、しようがない。

 そうそう、私の母にこのことを言うと、母はいつも本気で怒っていた。母は、N家という武家の
血筋を引く家系で生まれ育った。だから「うちの先祖は百姓だった」などと言おうものなら、「違
う、武家だ! ヘンなこと言うな!」と。そういう点では、母も、人一倍、先祖にこだわっていた。

 話はそれたが、この問題は、「誇り」とも、深く関連してくる。オーストラリアに留学しているこ
ろ、こんなことがあった。

●独特のモノ意識
 K大学から、医学部で講師をしている二人の男が、大学へやってきた。そこで私がメルボル
ン市内をあちこち案内してあげた。が、目ざといというか、つぎつぎと日本製を見つけては、「あ
れは、日本の車だ」「あれは、日本のカメラだ」と。

 そこで私にいろいろ話しかけてきた。で、そのとき私がどうそれに答えたかは忘れてしまった
が、最後には、その男たちを、怒らせてしまったようだ。その中の一人がこう言った。「君は、日
本人だろ。同じ、日本人が作ったものを喜ばないのか」と。当時の日記には、こうある。

 「Dさん(ドクターの一人)は、私に『君は、ヘンに欧米かぶれしている。君のような日本人が、
こういうところで研究生をしていることが信じられない。もっと日本人に誇りをもて』と言った。私
から見れば、どうして日本製があることが、そんなにうれしいのか理解できない。結局は、それ
こそまさに、欧米コンプレックスの裏返しではないのか」

 このドクターたちも、やはり(1)の「モノ、お金に依存するタイプ」ということになる。戦後の高
度成長期の中で、このタイプの人は、まさに大量生産された。今でも、「モノやお金のほうが、
家族や人間関係より大切だ」と考えている人は、いくらでもいる。

 いや、こう書くからといって、それが悪いと言っているのではない。人、それぞれ。私のよう
に、依存するものがない人間は、一見、たくましく見えるかもしれないが、実のところ、心の中
はボロボロ。自分がボロボロである分だけ、その自分自身に依存することもできない。だから
毎日が、不安でならない。ちょっとしたことで、つまづいたり、キズついたりする。実のところ、と
きどき、こう思う。「何か、本物の宗教があれば、信仰してみたい」と。そう、何が楽かといって、
神や仏に依存することぐらい、楽なことはない。

 ただこういうことは言える。

 いまだに日本人の多くは、封建時代の亡霊を引きずっている。日本独特の権威主義もそうだ
が、人間が人間を見る前に、地位だの肩書きだの、そういうもので人間を判断している。そして
そういう亡霊が、教育の世界にも残っていて、教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめてい
る。ここでいう先祖意識も、そういう亡霊の一つと考えてよい。そういうものに依存すればする
ほど、あなたは自分自身を見失う。子どもの姿を見失う。
(02−2−6)

●著名な祖先しか誇るもののない人間は、ジャガイモのようなものだ。その人間のもつ、唯一
のよい部分は、地下に眠る。(オヴァベリ「断片」)
●祖先のうちで奴隷でなかった者もなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者もいなか
った。(ヘレン・ケラー「自叙伝」)
●私の父は混血児だった。父の親父は黒人だった。そして、私の祖先は、猿だった。(デュー
マ「お前の父はだれか」)

こうした考え方とは対照的に、江戸時代の学者の中江藤樹は、「翁問答」の中で、こう書いてい
る。参考までに……。

「家をおこすも子孫なり。家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁盛をもと
むるは、あくなくて行くことをねがふにひとし」と。「人」より、「家」のほうが大切ということ。中江
藤樹はそう書き残している。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞









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★★★★★★★★★★★★★★
03−16−号(165)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
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きます。毎週月曜日は、できるだけ私も参加するようにしています。
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  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)

【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
10ほど前に出版した、『子育てはじめの一歩』を、再構成しました。内容が、今まで発表したの
と、ダブるところもありますが、お許しください。最近、マガジンの読者になってくださった方に
は、お役にててると思います。
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子育てワンポイント
 
●質素を旨(むね)とする
 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見
せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで
する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ
いたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という
のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで
きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの
イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も
のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い
あう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない
 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや
った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自
立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう
して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に
 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ
がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、
それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか
うようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そ
ういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれな
い」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判
断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。

●一喜一憂しない
 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く
の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。
 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂
しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ
あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ
まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手
なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること
ができるかということ。

●「今」を大切に
 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努
力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝
かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小
学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのでは
ない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、
「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、
精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、
豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ
けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人
生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ
から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ
すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。

●『休息を求めて疲れる』
 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。
長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車
に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ
いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの
一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って
休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた
してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ
ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を
あとにずらせばよい。

●生きる源流を大切に
 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、
解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が
助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私
は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ
た。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きて
いるだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパ
イプを太くした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると
よい。それですべての問題は解決する。

●モノより思い出
 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし
いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。
物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ
ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万
円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、
満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた
ほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て
で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい
って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)

●よき友になる
 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、
ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった
い何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日
本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関
係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい
う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び
やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子
どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気
負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく
る。

●先輩をもつ
 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理
をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消
する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメ
リットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、
その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して
みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。

●子どもの先生は、子ども
あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく
したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に
は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが
ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ
せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間
という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な
がら、勉強するということは、それなりに重要である。

●指示は具体的に
 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで
ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが
ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。

●友を責めるな(中日新聞発表済み)
 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。

●仕事に誇りを
 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの
お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし
か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな
してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間
一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って
いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ
の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さん
は、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になる
のか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになること
は、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、
従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感
を与え、子どもを伸ばす。

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これに関連して、中日新聞掲載記事から
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おとななんかに、なりたくない」・未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。
原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

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●逃げ場を大切に
 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるもの
をすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、
ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出
は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。

●守護霊にならない
 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊
んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。
 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親
は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち
にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに
服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自
立させる。

●同居は、出産前に
ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を
してみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわか
った。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から
同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ
ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し
たほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ
る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が
あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お
ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ
れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん
そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。

●許して忘れる
 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ
るようになった。うれしいことだ。

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もう、一〇年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
++++++++++++++++++++++

生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす
ようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なこと
をし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何
でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それがで
きたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++++

代償的愛(雑誌「ファミリス」に書いた原稿から転載)

●三種類の愛
 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。
一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる
三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語
では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また
子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに
真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。

++++++++++++++++++++++++

●管理・規則は家庭教育の敵
 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な
親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、
いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ
まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい
る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい
て。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な
のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ
る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関
係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な
のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう
なれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪
の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処
のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい
く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族
の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った
ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

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これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
++++++++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない
 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人
 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と
なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ
ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ
ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配
者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち
 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに
「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そ
のものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……一二%
 就職                ……三四%
 専門学校              ……二八%
 大学・短大             ……二二%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……三三%
 目的追求型             ……二三%
 自由志向型             ……一五%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……
 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
 

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\  読者拡大に、どうかご協力ください。
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

後半部へ
ごめんなさい!









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-16-2

後半部です

はやし浩司
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

雑談

 今年、年賀状を出さなかった人から、「どうしたの?」という電話を、何本かもらった。私に何
か、あったと思ったらしい。心配かけて、申し訳ない気持ちに襲われた。やはりずっと年賀状を
くれている人には、来年からも年賀状を出すことにした。反省!

 今日は、ワイフと街まで、買い物に行ってきた。最初は、映画を見ようと思っていたが、雑踏
を見たら、軽い頭痛。そこでいつものように、「Kとも」という串かつ屋で、ランチを食べたあと、
そのあたりをフラフラして帰ってきた。時刻は三時ごろ。

 途中、ある漢方薬局へ行ったら、そこの店主が、「林先生じゃ、ないですか」と声をかけられ
てしまった。「先生の(漢方の)本を、二冊もっています」と。薬剤師の女性も、「あの本はいいで
す」と笑っていた。驚いた。そこでいくつかとっておきの情報を、話してやった。

 私は新聞などに自分の写真を載せるときは、わざと、私らしくない写真を載せる。だから顔と
名前が一致することは、めったにないのだが……。

 「Kマート」というパソコンショップへ行ったら、福袋をまだ売っていた。5000円のを4000円
で売っていた。で、買った。中身は、パソコンソフトが、5〜6本。ほしかったソフトなので、得を
した気分になった。

 家へ帰って、しばらくパソコンを打っていると、やはり軽い頭痛。私は人ごみが苦手。風邪薬
をのんで、症状をごまかす。この雑談を書き終えたら、庭の木を少し、始末するつもり。運動に
なる。そう、あとでハナを散歩に連れていくつもり。

 外は何となく、薄暗くなってきた。どこか寒々とした風景。私はこういう景色が本当に、苦手。
明るい太陽の光が、さんさんと輝いているほうが、好き。だれでもそうだろうが……。多分?

 しばらく休んだあと、買ってきたソフトを、あちこちのパソコンに組み込んでみる。おもしろそう
だ。ワイフは、英会話のソフトが気に入ったようだ。私は、アンチウィルスのソフトを、今度新しく
買ったパソコンに。プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、その必要はな
いのだが……。要するに、これは用心のため。それとも気休めのため?

 どこかへ旅行に行きたい。しかし……。まだまだ子どもの学費がかかるとき。少し、がまんす
る。それにこのところ、何かと、出費がかさむ。今日も、ワイフに、「家計はだいじょうぶ?」と聞
くと、「何とかなるわ」と。ワイフは、楽天的すぎるほど、楽天的。あるいはすでにボケが始まっ
ている? ゾーッ!

 こうして私の正月休みも、終わり。結構、原稿を書き溜めたので、しばらくは、ほかの仕事が
できる。……といっても、今は、マガジン用の原稿を書くのが、何よりも楽しい。どういうわけだ
か、楽しい。どうしてだろう? お金にはならないが、(失礼!)、そのお金にならないところが楽
しい。何というか、無私、無欲で原稿を書くことができる。コビを売らなくてもよい。思ったことが
書ける。だから楽しい。

 今日もいくつか、相談のメールが入っていた。しかし、これは私からのお願い。どうかどうか、
お名前と、簡単な住所だけでも、お書きください。決して外にもらすことはしません。ただ、お名
前とか住所がないと、回答を書いていても、どこか不安になってしまうのです。ハイ。

 さてさてどうしたものか。こうしてコタツに入ってパソコンをたたいていると、またまた眠くなって
きた。で、居間のほうへおりていくと、また目がさめる。これもまた、どうしたものか。

 さあて、今夜もワイフと、バンバン、セックスでもするか! 四時間くらいかけて、タップリと、
……というのは、ウソ。読者の皆さんを、最後に、ドキッとさせたかっただけ。もう、その元気は
ない。では、雑談は、ここまで。バ〜イ!

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メルボルンにいる、Kさんへ

いろいろつらいことがあったのだね。
無理をすることはないよ。
ぼくも、いつも食事はひとりでとることにしている。
うるさいからね。「ふつうでなくてはいけない」
なんて、思うことはないよ。
だいたい「ふつう」なんてものは
ないのだからね。

幸福になる道は、一つではないよ。
回り道も、わき道も、寄り道もあるよ。
だいたいね、まっすぐな道なんてものは
ないよ。

しかしね、どの道も、みんな幸福につながっているよ。
だから安心して、したいことしたらいい。

そのうち、君のことを本当に理解してくれる
やさしい人が現れるよ。それを信じて前に
進んだらいい。「今」できることを、
今、一生懸命にすればいい。
必ず、明日はやってくる。そしてね、
明日になったら、明日は明日で、
また、そのときできることを、
一生懸命すればいい。
だから、明日のことは、悩まない。
クヨクヨしない。

君は、とてもすてきな人だからね。
ぼくは、それを知っているよ。
覚えているかな。
ぼくが教室で、「さあ、来い!」と手を広げたら、
君は、うれしそうに、ぼくの腕の中に飛び込んできたね。
あれは、君が、小学三年生のときではなかったかな。
ぼくは、君の明るい笑顔がとても好きだった。

ぼくはね、正直に告白しますが、
女の子を抱いたのは、生涯で、
あのときが最初で、最後です。
男の子は平気で、抱いたりしますが、
女の子は、したことがありません。
幼稚園で教えているときも、そうです。
背中をたたいたり、頭をなでたりすることはありますが、
手でさえ、さわったことはありません。

その君が、こんなに苦しむなんて……!
それをつらがっているのは、君だけではないよ。
きっとどこかで歯車が、狂ったのだろうね。
しかしね、心の風邪なんてものは、だれでもなるもの。
しかもね、まじめな人ほど、なるもの。
だけどね、この苦しみを乗り越えたとき、
あなたは、まちがいなく、すばらしい人になっているよ。
つまり、今は、トンネルの中にいるということ。
あるいは、もうトンネルから出たのかな。
出るところかな。
前を見てごらん。きっと、大きな光が見えるはずだよ。

ではね。
無理をしないこと。
ふつうになろうと思わないこと。
君は、君。君でいいの!
わかった?
あとは野菜をたくさん食べて、偏食をしないこと。
コンビニ食ばかり食べては、だめだよ。
オーストラリア人は陽気だから、
心を開いてぶつかっていきなさい。
そうそう、アイルランドの民謡を聞くときが
あったら、よく聞いておいてくださいね。
そういう機会があちこちにあるはずだから……。
きっと君も、好きになるよ。

はやし浩司
(03−1−7)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


ヒネクレ症状(2)

●ヒネクレた子ども
 どこかヒネクレた子ども(小四)がいる。何かにつけて、すなおでない。その子どもと話をして
いると、こちらの頭のほうが、おかしくなる。

私「今日はいい天気だね」(A)
子「……あそこに雲がある!」
私「雲があっても、いい天気だよ」
子「……雲があるから、いい天気ではない」(B)

 この会話は、私があちこちの本に書いた会話である。ここでは、その先を書く。

 こういうヒネクレ症状が一度、出てくると、その症状は、ほぼ一生、つづく。だいたいその子ど
も(人)に、その自覚がない。自分では、まともだと思い込んでいる。だからいくら指摘しても、意
味がない。脳のCPU(中央演算装置)が狂っているため、自分ではそれがわからない。

私「あなたね、そういう言い方ばかりしていると、みんなに嫌われるよ」
子「どうして? 私は正しいと思ったことを言っているだけよ」
私「でもね、ぼくがいい天気だと言ったら、『あら、そうね』と、それですませば、いいじゃない?」
子「どうして、そんなことで私を責めるの? 先生のほうが、おかしい」
私「天気の話は、ぼくが言い出したことだから、あなたはそれに応じれば、それでいい」
子「どうして? 雲があるから、私は雲があると言ったのよ」
私「雲の話をしているのではない」
子「もう、いい。わかったわ。私が『いい天気』と、そう言えば、それでいいのね」
私「そういう話ではない」
子「どうして、そんなことで私を怒るの!」
私「……?」

 自分の姿を客観的に知るのは、本当にむずかしい。本当にむずかしい。しかし方法がないわ
けではない。

●自分を知る
 まず自分の生いたちを静かに、振りかえってみる。もしあなたが心豊かで、穏やかな環境で、
かつ親の愛情をたっぷりと受けて、何ひとつ問題なく育ったのなら、問題はない。しかしそうで
ないなら、あなたの心の中に、何らかのキズがあるとみる。トラウマ(心的外傷)と言えるほどの
キズではなくても、無数にあるとみる。まず、そのキズがどんなものであるかを知る。

 つぎに自分の心のゆがみをさぐってみる。ツッパリやすい。いじけやすい。嫉妬しやすい。ひ
がみやすい。ヒネクレたものの考え方をしやすい、など。何かあるはずである。そしてそのと
き、自分の姿が客観的にみることができなければ、そのときどきの他人の反応を思い出してみ
ればよい。あなたに対して、親や兄弟、さらにはあなたの周囲の人たちは、どのように反応した
か。それをさぐってみる。そしてそれを手がかりに、自分を知る。

 たとえば私には、こんなことがあった。私が小学二年生のときだった。私はその日、自分の
弁当を忘れた。そこで昼食時間に、みなが、少しずつ、お弁当を分けてくれた。それを指示した
のは、多分、先生だったと思う。しかしそれはよく覚えていない。私がよく覚えているのは、だれ
かの弁当箱のフタだったと思うが、それにもられたご飯。しかし私はどうしても、それを食べる
ことができなかった。「食べるのはいやだ」というような言い方で、それを拒否したと思う。

 そういう私から、当時の私は、かなりヒネクレた子どもだったことがわかる。意地っぱりだった
かもしれない。みんなの親切を、そのまま受け入れることができなかった。そこで私のばあい、
今、昔の私に似たタイプの子どもに出会ったりすると、その子どもが、どうしてそうなったかをさ
ぐろうとする。そしてその子どもの、生いたちや心理をさぐろうとする。そうすることで、子ども時
代の「私」を知る。

●今も残る、子どものころの私
 で、そういう「すなおでない私」は、今でもある。残っている。そしてときどき、顔を出す。……こ
う書くと、自分を知ることを、簡単なことのように思う人がいるかもしれないが、簡単ではない。
私がそういう自分に気がついたのは、少なくとも三五歳を過ぎてから。あるいは四〇歳近くにな
ってからである。それまでは気がつかなかった。脳のCPUというのは、そういうもので、かなり
努力しないと、その「狂い」に気づくことはない。

 さて冒頭に書いた子どもの例だが、これは実際にあった話ではない。ありそうな会話を、自分
なりに想像して書いたものである。(AからBまでの会話は、昔、幼稚園で、年長児の女の子と
した会話である。)で、こういうとき、あなたなら、どんな会話をするかを、少しだけ頭の中で、思
い浮かべてみてほしい。もしあなたの心に、ゆがみがないなら、あなたはきっとこんな会話をす
るに違いない。

私「今日はいい天気だね」
子「そう、気持ちいいわね」
私「どこかすがすがしいね」
子「ホント。毎日がこうだといいね」

 どちらの会話のほうが好ましいかは、言うまでもない。そしてここで私が言わんとすることは、
もうわかってもらえたと思う。何でもないことのようだが、心というのはそういうもの。あなたの心
の状態で、相手は気持ちよくなったり、反対に、気分を悪くしたりする。もしあなたの周囲の人
が、あなたといると、いつもトゲトゲしくなるようだったら、周囲の人に原因を求めるのではなく、
あなた自身に原因を求めてみたらよい。相手を責めるのではない。相手が悪いと思うのではな
い。原因は、あなた自身にある。自分を知るということは、つまりは、自分自身に対して、謙虚
になること。「私のことは、私が一番よく知っている」と思いこんでいる人ほど、一度、自分の心
の中をのぞいてみてほしい。
(03−1−7)

【追記】
 親子げんかの絶えない家庭があった。その家庭では、いつも同じようなパターンでけんかが
始まったという。

 母「だれ、こんなところにコップを置いたのは」
 子「ママだって、この前、ここにコップを置いたじゃ、ないか」
 母「あなただったら、ちゃんとシンクの中に入れておいて」
 子「うるさいなあ。入れておけばいいんだろ、入れておけば!」
 母「何よ、その言い方」
 子「コップぐらいのことで、カリカリするなって」
 母「私は、あなたの言い方に怒っているのよ」
 子「たかが、コップだろが……」

 そしてあとは、いつもの大げんか。母親はこう言う。「うちの子は、どうしてすなおに、ごめんと
いえないのかしら」と。子どもは子どもでこう言う。「ママは、いつもささいなことで、ぼくを怒る」
と。あなたなら、この親子げんかをどうみるだろうか。

    /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

正義

●ワイロは、タクシー券
 大学の同窓会に出た。同級生の多くは、公務員になった。そういう友人たちは、今、役所で、
それなりの地位についている。その中の一人が、こんな話をしてくれた。

 P県Q市。人口は五〇万人くらい。ときどき中央から、官僚が何かの仕事でやってくる。その
友人の仕事は、そういう官僚を接待して、いかに地方交付税交付金を多く取るか、ということら
しい。

 「ワイロは、今、タクシー券だよな。市役所の玄関を出るとき、タクシー券を渡すんだよ。だい
たい一〇万円のタクシー券と決まっていてね。相手さんは、そのタクシー券を、使わず、そのま
ま駅前の金券ショップで、換金する。中には、歩いて駅まで帰るのもいるよ。たいした距離じ
ゃ、ないからね」と。

 こういう話はストレートには書けない。かなりデフォルメした。その友人に迷惑がかかるといけ
ない。

 しかし今、こうした官官接待は、この世界では常識化している。夜の接待についても、その友
人は、こう言った。「何日もかけて会議をするよりも、一晩、いっしょに温泉でも行って、飲み明
かしたほうが、話がよくまとまる。かえって、そのほうが安くつくんだよな」と。ときどきおこぼれ
のような話が外にもれ出て、マスコミの話題になるが、ああいうのは、まさに氷山の一角。しか
し問題は、その先。

 こういう話をすると、日本人の多くは、それを正そうと思う前に、「あわよくば自分も」と考え
る。私もそういう場面に、何度も出くわしたことがある。直接経験したのは、こんなことだ。

 ……と思って、書こうと思ったが、書けない。どう書いても、その人やその団体と特定できてし
まう。だからこの話は、ここまで。ここではさらにその先を書く。

●日本人の欠けるもの
 日本人に今、一番欠けているものは何かと聞かれれば、正義ということになる。自由や平等
は、ある程度、国際水準に近づいている。しかし正義は、そうでない。日本人は何をするのも、
どこかインチキ臭い(失礼!)。

 先日、東京の知人が、こんなことをメールで教えてくれた。何かの雑誌に、こんな記事が載っ
ていたという。つまり「失策の穴埋めに、公的資金を使い」、「お金を前借するために、国際を
発行する」と。冒頭にあげた、地方交付税交付金は、まさに「地方自治化阻害金」ということに
なる。地方は、このお金がほしいため、中央に頭をさげる。全国の都道府県の知事のうち、半
数以上(四五人中、約三〇人)が、元中央官僚という理由も、ここにある。

公的資金→失策穴埋め    
国債→前借り     
構造改革→ミッション・インプッシブル
地方交付税交付金→地方自治化阻害金
外務省→害務省(以上、『宝島』より)

 日本をリードする立場の人が、インチキをし放題しているのだから、あとはおして図るべし。
何かにつけて、正義よりも、利益が優先される。だいたい子どものときから、そういう教育を受
けていない。そればかりか、日本では、いまだに「ウソも方便」という言葉が、大手を振って、ま
かりとおっている。「人を法の真理に導くためには、ウソも許される」という仏教の経典からきて
いる言葉らしい。しかしウソで人を導いて、それでよいものか。またそれで導いて、本当に導い
たことになるのか。

●飛騨の昼茶漬け
 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛
騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし
道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さ
あ、大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけ
にもいかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っている
かもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先
へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太
子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、日本人とオーストラリア人とでは、寛容度がまったく違うということを思い知らされ
た。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

●私はウソつきだった
 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも
しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私
の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。その理由のひとつは、大阪商人の流れを
くんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売では、ウソが当たり前。このウソを、いかにじ
ょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ
れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言
う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には
変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接
しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか
を考えてみてほしい。もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはい
けません」と、日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけ
ない。……とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日
本人の子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎ
わ、一〇万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう
か。さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろう
か。私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直
に言えば、そういうことになる。つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つ
まりそれは私自身の欠陥というより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなた
は、子どものころ、学校で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03−1−7)

●日本人のこうした国民性は、長くつづいた封建制度の結果というのが、私の持論である。今
の北朝鮮のような時代が、三〇〇年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に正
直に生きる」ということそのものが、不可能だった。それについては、もう何度も書いてきたの
で、ここでは省略する。ただここで言えることは、決して、あの封建時代を美化してはいけない
ということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価はしなくてはいけない。しかし美化すれ
ばするほど、日本人の精神構造は、後退する。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-18-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 569人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  59人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−18号(166)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

考えるだけムダ?(1312)

思考と情報を混同する日本の教育(失敗危険度★★)

●何も考えていない
 思考と情報の加工は、まったく別のもの。たとえばこんな会話。A「今度の休みにはどこかへ
行くの?」、B「そうだな。伊豆へでも行こうか」、A「伊豆なら、下田まで足をのばしたら」、B「そ
れはいい……」と。

 このAとBは、一見考えているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に
蓄えられた情報を、そのつど加工して外に出しているにすぎない。しかしふつうの人は、こうい
うのを「思考」と誤解している。錯覚と言ってもよいかもしれない。

●思考には苦痛がともなう
 思考にはある種の苦痛がともなう。それは複雑な数学の問題を解くような苦痛である。だか
らたいていの人は、無意識のうちにも、できるだけ思考するのを避けようとする。あるいは他人
の思考をそのまま受け入れてしまう人がいる。カルト教団の信者がそうである。徹底した上意
下達方式のもと、「上」からの思想をそのまま脳の中に注入され、彼らはそれを自分の思想と
錯覚している。それはちょうど教えられるまま、英会話を暗記している幼稚園児のようなもので
ある。「ハウ・アー・ユー?」と言ったりすると、即座に「アイ・アム・ファイン」と答えたりする。英
語をペラペラと口にすると、見たところ賢い子どもに見えるが、その実、意味など何もわかって
いない。何も考えていない。いわんや英語ができる子どもということにはならない。

●賢い子どもとは
 そういう視点で子どもの世界をのぞくと、また別の見方ができる。たとえば年中児にもなると、
本をスラスラと読む子どもが出てくる。一見、国語力のある子どもに見えるが、その実、その本
の内容はほとんど理解していない。ただ文字を音に変えているだけ。

 あるいはたいへんもの知りの子どもがいたとする。口だけは達者で、まさにああ言えば、こう
言う式の反論もしてくる。しかしだからといって、その子どもは頭のよい子ということにはならな
い。賢い子どもということにもならない。もっと言えば、情報が多いからといって、思考力がある
ということにはならない。

●思想は宝石のようなもの 
先にも書いたように、思考するということは、それ自体たいへんなことである。そして思考をした
からといって、何かの「考え」にたどりつくことができるとはかぎらない。それはちょうど砂場の中
で、小さな宝石を見つける作業に似ている。まさに見つかればもうけものという世界。だからこ
れまたたいていの人は、「考えるだけムダ」と考える前に、考えることをやめてしまう。

 話は飛躍するが、日本の教育の最大の欠陥は、「思考」と「情報」を混同し、情報を与えるこ
とを教育と誤解している点である。このことは日本という島国を一歩離れてみるとすぐわかるこ
とだが、それについてはまた別のところで書く。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
子育てポイント

●自意識を育てる

 小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかり
やすく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれ
ば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。

 たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうこ
とをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い
(自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためであ
る。

 ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意
識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎる
と、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようにな
る。

 そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。A
DHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指
導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそ
れまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。

 子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意
識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年
生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつ
ぶさないように指導する。


●幸福な家庭環境で包む
 「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのでは
なく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てがで
きる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験であ
る」と。

 つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわ
りあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形
で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子ど
もを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格
言は正しい。

 まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というの
は、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。
そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。


●親の心は、子の心
 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ
方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。

 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か
って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、
娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。

 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。
 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の
経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。言
いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいものと
悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、自分
自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というより、あ
えて伝える必要はない。あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生
きザマになる。親子というのは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと
いうことになる。

●家庭の緊張感を大切に
 ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子
どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビ
キビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよい
とか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子ども
の目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切
にする。

 しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへ
んのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族
全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 みなさんは、今ごろ、どうお過ごしですか。このところ、イヤなニュースばかり、耳に飛び込ん
できますね。このモヤモヤとした気持ちは、いったい、何でしょうか。胸騒ぎというか、憂うつ感
というか。どれもこれも、あの金正日さんが、悪いのです。

 ところで今朝(一月一一日)は、肌寒い、うす曇り空。風もなく、数日前のような冷気は感じま
せんが、寒いことは寒い。

このところどうも頭の回転が鈍っています。何かを書こうと思うのですが、考えがうまくまとまり
ません。慢性的に扁桃腺を腫らし、ときどき風邪薬をのんでいます。そのせいかもしれません。
本来なら、毎日、数時間もパソコンに向かえば、それでマガジンができていくのですが、時間ば
かりダラダラとかかってしまいます。もっとも、昨夜も、パソコン相手にゲームばかり。マイクロ
ソフト社のFSで、羽田空港上空を飛んだり、あるいは囲碁ゲームをしたりしています。

 そう言えば、このところ、私の周辺では、楽しいことが、ほとんどありません。自分でも、人生
を楽しんでいないというか、楽しめないというか。いとこたちと電話で話しても、どこか暗い話ば
かり。もっともその前に、何を楽しむかという問題もありますが……。おかしなことですが、毎
年、一月、二月は、どこか心が晴れません。これは私の職業病のようなものです。子ども(生
徒)たちの受験を、無意識のうちにも、どこかで気にしているのですね。

 さてさて、暗い雑感になってしまいましたが、どうか皆さんは、明るく、朗らかに。そういう点で
は、このマガジンは、あまりお役にたてないかもしれません。全体にネチネチと暗い? 自分で
もわかっています。そういう性質のマガジンなのです。どうか、あきらめて、お許しください。す
みません。

 孫の写真が、二男から、届いています。興味のある方は、ご覧になってください。二男のホー
ムページに載っています。もしご覧になったら、何か、メッセージを書いてくださると、うれしいで
す。二男も喜ぶと思います。みなさんを利用するようで気が引けますが、どうか、よろしくお願い
します。五月に会えることになっています。成田空港まで、迎えに行くつもりです。

 では、これから山荘のほうへ行ってきます。ワイフが、居間のほうで支度(したく)を始めてい
るようです。部屋を出たり入ったり。いつもの音です。もうすぐ、「行くヨ〜」と声がかかるはずで
す。そんなわけで、今日はここまで。今日は土曜日です。明日から仕事です。
(03−1−11)


   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

三男へ

 三男が、横浜のY大学を、「やめたい」と言い出した。「自分に合わない」と。あれほど宇宙船
の建造にあこがれて入った大学だが、「自分の道とは違う」と。私に相談する前に、そのことで
かなり悩んだらしい。苦しんだらしい。それがわかったから、私には、それに反対する理由な
ど、なかった。「お前のいいようにしなさい」と。

 三男はたいへん気の早い子どもで、昔から、私が言う前から、何でも先にする子どもだった。
ある日のこと、私が庭を見ながら、何気なく、「丸太小屋でも作ろうか」と声をかけたことがあ
る。あれは三男が、小学五年生くらいのことではなかったか。が、三男は、その翌朝から、庭に
穴を掘り始めた。「何をしているんだ?」と聞くと、「基礎の工事だ」と。

 今回も、「お前のいいようにしなさい」と言ったら、もう「予備校へ通う」とか、「つぎの大学はこ
こにする」と言い出した。Y大学にしても、センター試験の結果では、工学部へ学部二位の成績
で入っている。私とワイフは、「もったいない」とは言ったものの、三男は、子どものときから、一
度こうだと言い出したら、人の話など聞かない。そのまま突っ走ってしまう。そういう点は、まさ
に私そっくり。本当にそっくり。私がM物産という会社を飛び出し、幼稚園で働くようになったと
きと、どこも違わない。

 今夜も、三男からメールが入っていた。先週よりも、文面が、明るくなっていた。「もう一度、猛
勉強してみる」とあった。私は、それに返事を書いた。

「Eへ、

あまり無理をするなよ。
K大学を再受験するにしても、あまり気張らないで、
気楽にやりなよ。不合格になっても、めげるなよ。

ロバート・L・スティーブンソンって、知っているか?
『宝島』という本を書いた作者だ。『ジキル博士とハイド氏』という
本も書いた。その彼がね、こう言っているよ。

我らが目的とするのは、成功ではない。
我らが目的とするのは、失敗にめげず、前に進むことだ、と。

まあ、おおいに好きにやりなさい!
人生は、楽しいよ。おもしろいよ。
応援するよ。

お前はいつも、私の人生を楽しませてくれる、
つまりは、私の代役のような友だ。
息子だなんて、思っていないよ。友だよ。

私のために、いろいろ苦労してくれてありがとう!
私には、もうお前がもっているような、
勇気も気力もない。自由もない。
だからお前が、私の代役をしているというわけ。

お前には、私ができなかったことをする力がある。
自分で言うのも何だけど、
私というお前を理解できる友ももっている。
だから、私ができなかったことを、
お前がしてくれれば、うれしい。
私も、お前を通して、もう一度、自分の青春を
楽しませてもらうよ。

人生は一度しかないから、
思う存分、この広い世界で、羽ばたいてみたらいい。
だれにも遠慮することはない。
他人が何と思うと、気にすることはない。
いいか、人生には王道もなければ、正道もない。
大切なのは、自分が納得した人生を歩むことだ。

よく人生を航海にたとえる人がいるけど、
ぼくもそう思う。
荒波もある。嵐もある。
しかしね、それだけに航海も、また楽しいもの。
いろいろなことがあると思うけど、
ときには、美しい海を見たり、
青い空を見たりするのもいいよ。

私はお前の友だからね。
友として、できるかぎりのことはするよ。
だから安心して、前に進みなさい。
そしてお前が、私の知らないことを
発見したら、私に話してほしい。
私は、その日がくるのを楽しみにしているよ。

そうそう夜は時間を決めて寝ること。どんなに眠くなくても
目を閉じていればいい。それで朝がくる。
不規則な生活だけは、してはだめだよ。

はやし浩司

(追伸)
ザウルスでは、インターネットできないことは
知っていた。話しておかなくて悪かった。」

 このメールを出したあと、ワイフにこう言った。「最低でも、あと五年はがんばらなくては」と。
「いざとなったら、今、住んでいる土地と家を売ればいい。少しは残るから、それで二人で老人
ホームへ入ればいい」とも。ワイフは、「そうね」と笑った。そしてこう言った。「死ぬまでに、財産
をちょうど使い切ればそれでいいわ」と。

親というのは、おかしな存在だ。私個人としては、死ぬのがこわい。が、息子たちのことになる
と、「あと五年だけで、いい」と、年月を切ることができる。「そこまで生きて、息子たちを見送っ
たら、そのあと死んでも、悔いはない」と。あるいは「いざとなれば、息子たちのためなら、自分
の命すら、投げ出すこともできる」と。私個人として考えるときと、親として考えるときとでは、
「死」に対する考え方が微妙に違うようだ。ワイフが「そうね、あと五年ね」と答えたとき、私は別
の心で、そんなことを考えた。 
(03−1−9)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの選択

 もしあなたの娘(成人)が、「私、アダルトビデオに出演する」と、ある日、突然、言い出した
ら、あなたは、それにどのように反応するだろうか。

 「ああ、すばらしいことね」と、それに賛成する親は、いないと思うが、しかしこの世界、それは
わからない。母と娘で、アダルトビデオに出演するようなケースも、ないわけではない。しかし、
ふつうの親なら、反対する。(この「ふつう」という言い方にも、少し抵抗を感ずるが……。)

 ここまで書いて思い出したが、以前、こんな原稿を書いた。「アダルトビデオ」の世界を、超低
俗文化の世界とするなら、この原稿の中に書いた、「マザー・テレサ」の世界は、超高徳文化の
世界ということになる。

+++++++++++++++++++

スランプ

 英語で、デプレッションというと、「うつ状態」をいう。私の友人のR君(オーストラリア人)も、長
い間、そのデプレッションで苦しんだ。「暗いトンネルの中にいたようだった」と、当時を振り返っ
て、彼はそう言う。

 私もときどき、そのうつ状態になる。いくつかトラブルが重なると、そのあと、そうなる。ホッとし
たときに、そうなる。何をするのもおっくうになる。ひどいときは、テレビを見たり、新聞を読んだ
りするのも、いやになる。どこか精神状態がフワフワしたような気分になり、つかみどころがなく
なる。

 もっともそういう状態は、今に始まったことではない。若いときからあった。だからなれたという
か、その状態とうまくつきあう方法を、自分なりに身につけた。その方法、第一、そういう状態に
なったら、さからわず、そのままの状態で、よく眠る。第二、カルシウム剤をたくさんとる。第三、
……。いろいろあるが、その中でも、もっとも効果的なのは、買い物。ほしいものを、バカッと買
ってしまう。もっともあまり高価なものだと、かえって落ち込みがひどくなるので、そこそこの値
段のもの。買い物依存症になる人がいるというが、そんなわけで、私はそういう人の気持ち
が、よく理解できる。私も、その仲間?

 結局は、人間は、何も考えないほうが、生きやすい? 先ほどもテレビを見ていたら、どこか
の鉄道の車掌が、原稿を読みながら、客にあたりの様子を説明しているシーンが出てきた。の
どかな光景だった。今ごろは、紅葉の見ごろ。私はその車掌の、どこかヌボーッとした表情を
見ながら、「この複雑な社会を生きるためには、かえってこの人のほうがいいのかなあ」と、思
わず考えてしまった。言われたことだけを、そこそこにやって、あとはのんびりとその日、その
日を、無難に暮らす……。

 私は私だが、では、その私は、私の息子たちには、どんな人生を歩んでほしいかというと、ひ
ょっとしたら、その車掌のような人生かもしれない。あまり高望みはしない。(しても無理だが…
…。)そこそこの人生を、のんびりと送ってくれれば、それでよい。本人がそれだけの力があ
り、野心もあり、そしてそれを望むなら話は別だが、そうでなければ、健康を大切にしながら、
自分の力の範囲内のことをしてくれれば、それでよい。

 そうそう少し前だが、私はこんなことを思った。インドのマザー・テレサが、大きく話題になって
いたころのこと。私はもし私の息子が、インドへ行って、マザー・テレサのようなことをしたいと
言い出したら、それに賛成するだろうか、と。世界中の人は、マザー・テレサを賞賛していた
が、では、それが人間として、あるべき人間の姿かというと、そうは思わない。……思えなかっ
た。そこで当時当、私は何人かの父母にこう聞いてみた。「あなたは、あなたの息子(娘)に、マ
ザー・テレサと同じようなことをしてほしいですか?」と。すると、全員、「ノー」と答えた。

 話がそれたが、そう考えると、「生きる」ということが、どういうことなのか、またまたわからなく
なってしまう。まあ、あえて言うなら、自分の力の範囲で、自分の力の限界をわきまえ、無理せ
ず、生きていくということか。そういう意味では、私など、恵まれた環境にある。ときどき、自分
の仕事がこんなに楽でよいものかと思うときがある。あるいは私のばあい、職場そのものが、
ストレス発散の場所になっている。自由な時間はたっぷりあるし、私に命令する人は、だれもい
ない。もっともこういう環境をつくったのは、無意識のうちにも、私自身の弱点を避けるためだっ
たかもしれない。もし私が、大きなオフィスビルのどこかで、パソコン相手に、数字とにらめっこ
しているような仕事をしていたとしたら、とっくの昔に発狂していたか、自殺していたかもしれな
い。自殺はしなくても、心筋梗塞か脳内出血で死んでいたかもしれない。

 そういうこともあって、いつしか私は、落ち込みそうになると、いつも、こんな歌を口ずさむよう
になった。

♪……のんびり行こうよ、俺たちは……あせってみたって 同じこと……

 この歌は、小林亜星氏作曲によるもの。日本の高度成長期に、ある石油会社のコマーシャ
ルソングとして、歌われたものである。あなたも気分が滅入ったら、この歌を口ずさんでみた
ら、どうだろうか。少しは気が楽になるかも? そう、私たちはのんびり行こう。あせってみて
も、どうせ同じこと。
(02−11−9)

●今、落ち込んでいる人へ、いっしょに助けあいながら、励ましあいながら、がんばって生きて
いきましょう。人生にはいろいろありますね。まあ、本当にいろいろありますね。私もときどき、
美しい景色をながめていたりすると、「よくがんばっているなあ」と、自分のことがいとおしくなる
ことがあります。みなさんは、いかがですか。

+++++++++++++++++++

話をもどす。

 こうした子どもの選択に、そのつど、親は、とまどい、あきらめ、納得する。ときには反対し、
大ゲンカになり、親子が断絶するというケースもある。「アダルトビデオ」や、「マザー・テレサ」
の世界は、極端な世界だが、その中間あたり(?)の世界ともなると、いくらでもある。

 私も、二男が、中学二年の中ごろ、受験勉強を、「くだらない」と言って放棄してしまったときに
は、少なからず、あわてた。二男には二男なりの考えがあったのだろうが、まだ人生の地図を
もっていなかった。……と、最初は、そう思って、反対した。しかし二男には、二男の考えがあっ
た。

 二男は、こう言った。そのとき、二男は、生徒会の学年代表をしていた。

 「ぼくは、ひとりで朝のあいさつ運動を始めた。毎朝、校門の前に立って、先生やみんなにあ
いさつをした。しかしそれが職員会議でとりあげられ、内申点に加味されるボランティア活動と
認定された。とたん、そのボランティア点がほしいため、校門から、学校の玄関まで、三年生が
ズラリと並ぶようになった。みんなあいさつなどしていない。学校へやってくる先生や、生徒にヤ
ジを飛ばして、からかいあっているだけ。ぼくはそれを見て、『みんな、こんなことまでして、いい
高校へ入りたいのか』と、疑問に思ってしまった」と。

 二男がそう言い終わったとき、私には、もう返す言葉がなかった。二男は、それ以後、そのま
ま、本当に受験勉強を放棄してしまった。それなりの勉強はしたが、あとはしたい放題。結局、
高校を卒業するまで、実に優雅な少年時代を送った。私もいろいろな子どもを見てきたが、二
男ほど、優雅な少年時代を過ごした子どもを、知らない。

 こうした経験から言えることは、親はいつも、子どもをどこまで信じ、どこまで受け入れるかと
いう、その瀬戸際に立たされるということ。その瀬戸際の中で、親も悩み、苦しむ。しかしそれ
は同時に、親自身の世界を広めることにもなる。そして結果として振りかえってみると、そうした
親の悩みや苦しみといったものは、親自身の「限界というカラ」を破るためのものであったこと
がわかる。もっとはっきり言えば、そのカラを破ることによって、親自身も、子どもとともに成長
するということ。

 親には親の、見栄やメンツ、体裁や世間体もある。プライドある。子どもに対する夢や希望も
ある。それ以上に、親には親の価値観がある。生まれ育った環境がある。そういうものが、混
然いったいとなって、「限界というカラ」をつくる。子どもを育てるということは、つまりは、その限
界との戦いといってもよい。

 が、実のところ、そのカラを破るということは、ここにも書いたように、簡単なことではない。親
ははげしく葛藤(かっとう)し、焦燥(しょうそう)し、そして苦悶する。親子によっては、大衝突に
発展するケースも、珍しくない。が、ここで重要なことは、子どもがどんな選択をしても、親は、
親子のパイプだけは切ってはいけないということ。切れば切ったで、子どもは、それこそ進むべ
き指針をなくしてしまう。親としては、つらいところだが、子どもがどんな選択をしても、それを受
け入れ、あきらめることでしかない。あとは日々の生活の中で、許して忘れる。

 ……こう書くと、「そんなことをすれば、うちの子はダメになってしまう」と言う親もいるが、もし
そうなら、では「ダメになるということは、どういうことなのか」を、じっくりと考えてみてほしい。人
間には、ダメな人間も、ダメでない人間もいない。だからダメな子ども、ダメでない子どももいな
い。あなたがもし「ダメ」という言葉を口にしたら、それはどういう意味なのかを、ほんの少しでよ
いから、自問してみたらよい。あなたも、ここでいう「限界というカラ」が、どういうものか、それが
よりはっきりとわかるはずである。

 さて、冒頭の話。もしあなたの娘が、「アダルトビデオに出演する」と言いだしたら、あなたは
何と答えるだろうか。その反対に、「これからインドへ行って、マザー・テレサの遺志を継ぐ」と
言いだしたら、あなたは何と答えるだろうか。どちらにせよ、それを最終的に決めるのは、子ど
も自身。またそれが今まで、あなたのしてきた子育ての結果として、受け入れ、あきらめるしか
ない。
(03−1−10)

(追伸)
 よく生徒たちが、「先生は、アダルトビデオを見るか?」と聞く。そういうとき私は、「君たちの
お父さんと同じだよ。お父さんに聞いてごらん」と逃げる。あるいは、ときには、「もう見あきた。
さんざん見たからね」と答えるときもある。

 しょせん、ああいうものは、「無」。何かの意味を考えるのも、意見を添えるのも、ムダ。あな
たがレストランで食事をしたり、トイレで用を足すのと、どこも違わない。ただしアダルトビデオと
いっても、そこには若い男女が関係してくる。そういう男女の心を守るという点では、安易に考
えてはいけない。とくに女子中高校生たちの、援助交際という売春は許してはいけない。アメリ
カ並みに、二〇歳未満の子どもと性行為をもったら、相手がおとなだったら、即逮捕、投獄とい
う処分を、日本も考えるべき時期にきているのではないか。


    /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
納得道(なっとくどう)と地図

●納得道
 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得して
いるかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そうでなけ
れば、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気分の中で、「何かを
し残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。だから、人は、いつも自分の
したいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組であ
る。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、おもしろ
かった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。その
番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわかってい
るの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。失敗
してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見なが
ら、「この女性は何とせまい世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、すべて、だ
れにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あまりにも通俗
的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、どこか受け売り的。そ
のとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくてもよいよ
うな経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条件がある」という
には、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。これには若いも、老いも
ない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に落ちてしまう。

●地図 
 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人生の
地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだけ高い
視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性の世界もあれ
ば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中で苦
労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子どものときか
ら、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりその人の
考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、低俗な情報
に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」ということがどう
いうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかかることもできな
い。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、何と答えるだろうか。
この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あまりにも狭い。おそらくその女性
は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったのだろう。テレビを通してみる、あのバラ
エティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なことをして
きた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかるのは失礼なことか
もしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケバしい化粧に、ふてぶて
しい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなかった。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来する情
報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考えていない? 考
えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子だった。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」というのは、
「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労
 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽しいこと
よりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見えてくると、そこ
で悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうなら、この日本では、コース
というものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、おとなしくそのコースを進んだほう
が得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、そのコースに背を向けるということにもな
る。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗する確率
のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほうが、はるか
に危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行けばよい。私の
ようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思う。健
康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、しかし結婚
には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、実際問題とし
て、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、徹底して、人生の地
図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、北海道を去るとき、教え子
たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言ったというが、それはそういう意味
である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃えカス
をひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけいに、子どもた
ちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのばして、この広い世界
を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもどる。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、掘りさげ
て考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03−1−10)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

自殺

 昨夜、友人の奥さんが、声を震わせて電話をしてきた。隣人の一人息子(三五歳)が、クビを
つって、自殺したという。

 原因はよくわからないが、その前日、高校時代の仲間とけんかして、相手にけがを負わせた
という。それでその日は、警察へ出頭することになっていたという。「まじめな人だったから、よ
けいに追いつめられたのでは」と、奥さんは、話していた。

 こういう事件では、まず周囲の人たちがキズつく。「何とかできなかったのか」「私にも原因が
あるのでは」「あのとき相談にのってやればよかった」と。人の死というのは、そういう意味で
は、本当に重い。とくに自分の周囲でこういう事件があると、それから受ける衝撃は、はかり知
れないほど大きい。

 私も小学生のとき、クビつり自殺の現場を見たことがある。山の中腹の小屋の中で、若い男
がクビをつって死んでいた。そのあたりの山は、私たちの遊び場で、そのニュースは、私たち
が一番早く知るところとなった。それで、見てしまった。

 死後何日かたっていたということだったが、クビはかしげたままの状態で、不自然に長くのび
ていた。目や鼻からは、半透明の液体が、つららのように下へダラリとたれさがっていた。私た
ちが見たときは、おとなたちが、ロープから、人形のように硬直した体を、はずすところだった。
そのあとのことは、よく覚えていないが、私たちが、どんなショックを受けたかは、もうここに書く
までもない。

 そうそうもう一つ。これも自殺に関しての話だが、私が金沢で学生生活をしていたとき、最初
に住んでいた下宿の部屋というのは、その家のおやじが、クビつり自殺した部屋だった。私は
その部屋に何と、二年間もいた。しかも、だ。その話を知ったのは、その下宿を出たあとのこ
と。ほかの人からその話を聞かされた。今、思い出しても、あまり気分のよいものではない。
「あの鴨居(かもい)に、ロープをわたして死んだのかな」と。

 ……こう書くからといって、その息子氏の死を、軽く考えているというのではない。むしろ反対
で、自殺という問題は、そのまま私の問題もあるということ。私もよく自殺について考える。だか
らその隣人の長男の話を聞いているときも、「どうして死んだのか」ということよりも、心のどこ
かで、「やはり、クビつり自殺が、一番楽なのかな」と考えたりした。

 さてさて、新年早々、暗い話になってしまった。しかし生きたくても、生きられない人も多いだ
から、やはり自分の命は、粗末にしてはいけない。今、生きている人は、そういう人のために
も、生きる義務がある。そういう人たちがなしえなかった「思い」を、かなえる義務がある。私た
ちの命は、決して、私たち個人のものではない。もっと大きな生命の流れの中にある。それとも
あなたは、自分の手を見て、その手を、自分で作った手だと、自信をもって言えるだろうか。あ
なた自身の命はどうだろうか。あなたは今、生きていることについて、その命を、自分で作った
命だと、自信をもって言えるだろうか。

 それにしても、「死」というのは、いやな問題だ。歳をとると、ますますいやな問題に見えてく
る。

 あの室町時代の僧侶の一休も、こう詠んでいる。

 『門松は冥途(めいど)の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし』と。

 今年も、また一歩、その「冥土の旅」に近づいた。
(03−1−9)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(502)

「とぼけ」と「苦笑い」

 日本人独特の問題解決の技法に、「とぼけ」がある。知っていたにもかかわらず、ヌボーッと
した表情で、「ええ、そうでしたか」と言う。笑ってごまかす。責任をはぐらかす。しかしこの「とぼ
け」は、もちろん外国では通用しない。そんなことをすれば、即、不誠実な人間ととらえられる。
人間関係もそれで終わる。

 ところで世の中には、親をだます子どもがいるが、中には、子どもをだます親もいる。子ども
の財産をだまし取って、使い込んでしまう親もいる。この話については、前にも書いた。この話
にはつづきがある。

 最初にこの話を聞いたのは、もう五、六年も前のこと。その子ども氏(男性、四五歳)は、そ
のあとのこととして、こう話してくれた。

 「私はそのあと半年あまり、寝る前になると決まって、心臓の鼓動が高まり、興奮状態になり
ました。親にだまされるというのは、本当につらいことです。毎晩、家内が、冷たいタオルで頭
を冷やしてくれました。

 しかしその半年が過ぎると、私の母への思いは消えました。同時に、怒りも消えました。が、
母を許してはいません。『覆水(ふくすい)、盆に返らず』と言いますが、心というのは、そういう
ものです。ただ残念なのは、それから五年もなるのに、いまだに母は、とぼけていることです。
私や私の家内に、ときどき食べ物を送ってきては、何ごともなかったかのようなフリをしていま
す。一言、『悪かった』と言ってくれれば、私も救われるのですが……」と。

 この母親のとった手は、まさに「とぼけ」。しかしとぼけるのは、その人の勝手だが、とぼけら
れるほうは、そうでない。ばあいによっては、とことんキズつく。少なくとも、私は大嫌い。生理的
に受けつけない。生徒でも、私にそういう態度を見せたら、言いつめる。「どうして?」{なぜ?}
と。インチキかインチキでないかといえば、それほどインチキなことはない。だからこの男性の
気持ちが、痛いほど、よくわかる。
 
 で、この「とぼけ」の延長線上にあるのが、日本人独特の「苦笑い」。二〇年ほど前だが、あ
るイギリス人が、日本で一番不可解なものとして、この「苦笑い」をあげた。その本には、こうあ
った。「どうして日本人は、駅のプラットフォームで、電車に乗り遅れたようなとき、ニヤニヤと笑
うのか」と。

 同じようなことだが、先日も、私は横から飛び出してきた自動車に、あやうく、はね飛ばされそ
うになったことがある。私は自転車に乗っていた。見ると、三〇歳くらいの女性だった。「あぶな
い!」と言いかけて、その女性を見ると、こちらには視線を合わせようともせず、ニヤニヤ笑っ
ていた。私は、思わず、「何が、おかしい!」と怒鳴ってしまったが、もうそのときには、その車
は、かなり先まで行ってしまっていた。

 私は同じ日本人だが、あの「苦笑い」がどうしても理解できない。どうしてそういうとき、日本人
は笑うのか。笑えるのか。

 まだある……と、書きたいが、この話はここまで。日本にもいろいろな文化があるが、「とぼ
け」や「苦笑い」が、日本の文化かといえば、私はそうは思わない。文化というよりは、奇習? 
何であるにせよ、「人間」という原点から考えると、「とぼけ」や「苦笑い」は、その人間性を汚す
ことになる。……と、考えるのは、私だけか。ものごとは、あまりギスギスに考えないほうがよい
のかも? 気楽に考えるときは、気楽に考えればよい。ハハハ。(これは私の苦笑い? 何とも
ヘタクソなオチ。)

●正直ほど、富める遺産はない。(シェークスピア「末よければすべてよし」三幕五場)
●正直は、最良の政策。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(503)

ストレス解消論

 今日、近くのスーパーへ行ったら、遊戯コーナーに、「太鼓たたき」というゲームがあった。画
面に、「叩く」「強く叩く」「フチを叩く」「連打」などの指示が出る。それを見ながら、音楽に合わせ
て太鼓をたたくというゲームである。そこで私とワイフは、二〇〇円を入れて、さっそくそのゲー
ムに挑戦してみることにした。

一曲目は、「炭鉱節」。二曲目が、スイッチを押しまちがえて選んだ、子どもの曲。これが結構、
楽しかった。あとで見ると、手のひらに汗をかいていた。

 「ストレス」という言葉があり、「ストレス解消法」という言葉がある。あの太鼓たたきというゲー
ムは、たしかに、そのストレス解消法としては効果がある。終わったあと、ワイフと笑いあってい
るとき、頭と心の中が、軽くなったのを、ハッキリと感じた。そこで私の「ストレス解消論」。

 ストレスがたまるときというのは、頭全体が、モヤモヤしてくる。そのモヤモヤが、あっちへ飛
び、こっちへ飛ぶというようにして、収拾がつかなくなる。考えなくてもよいことを考えたり、そう
かと思うと、考えなければならないことが、どこかへ行ってしまったりする。そのため心がふさ
ぐ。重くなる。イライラする。

 そこでストレスを解消するためには、まず、「心」を、一点に集中させなければならない。何で
もよい。何かに集中させる。たとえば太鼓たたきゲームでは、画面の指示に、心を集中させ
る。とたん、ほかのことは考えなくなる。そして矢つぎばやに出される指示を追いかけるうちに、
考えることそのものをしなくなる。ほどよい緊張感と、リズミカルな太鼓の音とバックの音楽。そ
れを聞いていると、まさに「我を忘れる」。

 要するに、「頭の中を洗う」ということか。そう言われてみると、私のばあい、ストレスがたまっ
たとき、音楽を聞いたり、あるいは野原を散歩したりしても、あまり効果がない。かえってストレ
スがたまってしまうことがある。汗をかくとよいという説もあるが、ただぼんやりと自転車をこぐと
いうような方法では、あまり効果がない。草刈り機で、バリバリと草を刈るぐらいのことをしない
と、解消法にはならない。何かのことで夢中になり、その結果として、ほかのことを忘れる。頭
の中をカラッポにする。

 ここまで書いて、もう少し専門的に考えてみることにした。せっかく、この文を読んでくれた人
に、申しわけない。

●ストレスのメカニズム
 精神や肉体が、緊張状態におかれると、副腎髄質から、アドレナリンの分泌が始まる。これ
によって、心拍数がふえ、呼吸が早くなる。

 こうした状態が短期間で終われば問題はないが、それが長期間にわたると、体にさまざまな
異変が起きてくる。食欲がなくなったり、精力が減退したり、さらには免疫機能が減退したり、
胃腸障害などを引き起こしたりする。下垂体前葉などから分泌されるホルモンが、影響を与え
るとされる。

 そこでそのストレスと戦うためには、まず、精神や肉体の緊張状態を、いかにしてほぐすかと
いうことが問題になる。それには何といっても、ストレスの原因(ストレッサー)を取り除くこと
が、先決。不安や心配のタネを残したまま、ほかのことでいくら気を紛らわそうとしても、意味は
ない。かえってストレスがたまってしまうということもある。

 しかしこの段階で、ストレスに強い人と、そうでない人に分かれる。警察に呼び出されても、平
気な人もいれば、近所とのトラブルなどの、ほんのささいなことで、悶々と悩む人もいる。その
違いは、その人自身の性質と、慣れが大きくからんでくる。ただここで注意しなければならない
のは、できるだけ「思考パターン」をつくらないということ。

 人間の心は複雑だが、そのくせ、単純なメカニズムで動くことがある。たとえば一度、何かの
ことで恐怖症になると、以後、いろいろな場面で、恐怖症になる人がある。それは心の中に、
「恐怖症」という思考パターンができてしまうと考えるとわかりやすい。このパターンは、いわば
コップのようなもの。そのコップのなかに、「対人」「高所」「閉所」「先端」などが入り込み、対人
恐怖症、高所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症になったりする。

 つまり一度、ストレスに弱くなってしまうと、いろいろな問題で、そのつど、それをストレッサー
としてしまう。そして必要以上に思い悩んだり、苦しんだりする。またここで「慣れ」と書いたの
は、同じようなストレスがつづくと、体のほうが慣れてしまうこともあるということ。たとえば私の
ばあい、三〇歳くらいのとき、はじめて講演に呼ばれたときには、その数日前から不眠で苦し
んだが、今は、反対に寝過ごしてしまうようになった。

 だから結論から言うと、太鼓たたきが、本当にストレス解消法になるかどうかというと、どうも
問題の視点が少し違うかもしれない。ただ、何というか、頭の中を洗うという意味では、効果が
あるということ。それをストレス解消法というなら、そういうことになる。

 遊戯コーナーから買えるとき、振りかえると、私たち夫婦に刺激されたのか、何人かの若い
母親たちが子どもを横に置いて、ゲームを始めるところだった。見ていたかったが、今日は時
間がなかったので、そのまま帰ってきてしまった。「またやろうか?」とワイフに言うと、「やりた
い!」と言った。きっとワイフも、同じ気持ちだったのだろう。
(03−1−9)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-20-2再

去る1月13日の朝、以下の部分を
まちがえて送信してしまいました。
したがって、以前、お読みくださった
かたは、お許しください。
はやし浩司
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


誠実論

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげてあ
った。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。他人
に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、こと足り
る。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないということ。と
なると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大前提として、
自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を見ると、
一〇万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。どう思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いではない。
そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとする。そのとき
だ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」というこ
とがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のものにするのは、
悪いことだ」と。

 この段階で、二つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらってしまおう」
という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういうとき、自分は、どち
らの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面によく
立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなくなってしまう
ことがある。あるいは相反した自分が、二つも三つもあって、どれに誠実であったらよいのか、
わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。本立ちて道
生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこそ、進むべき道
が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にする前に、まず基本的な
道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者が多
く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも私など、もとも
と相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎重でなければならな
い。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思う。今
のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。つまり自分に誠
実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確立しなければならな
い。もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、それこそたいへんなことに
なってしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、それで満足してしまっていたら、こ
の世は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳のない人には、誠実な人間はいないというこ
とになるのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、関係のあ
りそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。駅の構内であ
れば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考えないようにしている。
どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返すようにしている。本当の私は、
もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。だから、教条的に、そう決めている。そ
れはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くような、高邁(こうまい)な境地に達するには、まだ
まだ時間もかかるだろう。一生、到達することはできないかもしれない。だから、そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深い。そ
れがわかってもらえれば、うれしい。
(03−1−11)

   /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

時の流れ

 学生時代、私には、すばらしいガールフレンドがいた。本当にすばらしい人だった。私は、自
分のすべてをかけて、そのガールフレンドに恋をした。

 が、長くはつづかなかった。交際を始めてしばらくすると、ガールフレンドの母親から、私の母
に、電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうよ
うな娘ではありません。娘の結婚にキズがつきますから、交際をやめさせてください」と。

 私の家は、小さな自転車屋。ガールフレンドの家は、従業員が三〇人くらいの会社。地方の
田舎町ということもあって、そういうことで、家の格式が決まっていた。ガールフレンドの母親
は、それを言った。

 で、そのあといろいろあって、ガールフレンドは私から去っていった。が、私はそのガールフレ
ンドを心から消すのに、一〇年以上はかかった。いや、今でもあのころを思い出すと、無数の
光が、脳裏全体を、明るく輝かす。私にとっては、人生の中で、もっとも幸福な時代だった。

 そのガールフレンド。今は、G市に住んでいるというが、もうその程度しか知らない。一度、こ
のH市で、道路ですれ違いざま、顔をあわせたことがあるが、それとて、もう二〇年以上も前の
こと。私にとっては、大切な人だったかもしれないが、そのガールフレンドにしてみれば、私は
その他多くのボーイフレンドの一人にすぎなかったようだ。もともと私は、女性にもてるタイプの
男ではない。

 しかし、なぜ、今、そのガールフレンドのことを書いているかって? 私はときどき、インターネ
ットの検索エンジンを使って、昔の友人や知人をさがすことがある。検索エンジンを使えば、そ
の人の消息が、瞬時にわかる。そのときも、郷里のM市について、検索していた。地図も出て
きた。で、あちこちを見てみたが、そのあるべき会社の名前が消えていた!

 そこで改めて、そのガールフレンドだった女性の父親が経営していた会社を、検索してみた。
が、ヒットなし。私にはもう関係ないことだが、どうしてかザワザワとした胸騒ぎ。そこでM市の
市役所にアクセスして、会社の所在を確かめると、係の男から電話がかかってきた。「あの会
社は、ずいぶんと前につぶれています」と。

 「お宅とは格式が違う」と母親が言った、その会社がない? 不思議な感覚だった。当時の私
は、そう言われても、まったく気にしなかったが、しかし一方で、「家の格式」というものを受け入
れていた。「格式が違うのだから、彼女が去っていってもしかたないこと」と。しかし今、その基
盤となる会社がない? となると、格式というのは、いったい、何だったのか?

 そのガールフレンドは、本当に心のやさしい人だった。みんなは勝気だとか、いばっていると
か、いろいろ言っていたが、私にはそうではなかった。いつだったか、彼女の部屋で、グラタン
を作ってくれたことがある。私はそのとき生まれてはじめて、グラタンという料理を食べた。おい
しかった。そんな楽しい思い出しか残っていない。だから、本来なら、その会社がつぶれたこと
を、喜ぶということはないにしても、同情しなければならない理由など、ないはずだ。が、どうい
うわけか、「ああ、そうですか」で、すますことができなかった。そのガールフレンドが感じたであ
ろう、悲しみや、つらい思いのほうが、気になった。人一倍、親思いの人だったから、なおさら、
私は気になった。

 もっとも私のような人間が、こうして心配すること自体、彼女にとっては、迷惑なことかもしれ
ない。私が今、ここでいていることや、書いていることは、まさにストーカー行為そのものといっ
てもよい。こんな文章を書いているのを知ったら、おそらく彼女は、こう言うにちがいない。「も
う、私のことは構わないで!」と。

 その気持ちがわかったから、私は(X)をクリックした。クリックして、検索エンジンのウィンドウ
を閉じた。そのとたん、私は、三五年という、ズシリと重い時の流れを感じた。
(03−1−11)

●恋愛は人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外(ほか)に花はない。(坂口安
吾「恋愛論」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

見苦しい人たち

●他人に不幸話をする女性
 見苦しい女性(七〇歳)がいる。明けても暮れても、他人の悪口ばかり。他人の不幸が、よほ
ど楽しいらしい。しかしそこは、七〇歳。ただ年をとったわけではない。独特の言い方をする。

 たとえばAさんの失脚を笑うときは、こう言う。
 
 「かわいそうなものですね、Aさんは。あれほどのお屋敷に住んでいたというのに、今は、見る
影もありません。私、Aさんのことを思うと、かわいそうでなりません」と。

 それをいかにも同情したフリをして、言う。ときには、涙声で言うときもある。そういう言い方を
しながら、実は、Aさんの不幸話を、あちこちで、おもしろおかしく広める。

 他人の不幸を笑うものは、今度は、自分が笑われる。しかし自分を笑うのは、実は他人では
ない。自分で自分を追いこむ。それを「笑う」という。たとえばAさんは、若くて死んでいった人た
ちを、「かわいそうだ(ザマーミロ)、かわいそうだ(ザマーミロ)」と笑っていた。だから、自分が、
病院へ入院したような話は、絶対に、人には話さなかった。六〇歳くらいのとき、風呂から出た
ところで倒れたことがあるが、そのときも、「近所に恥ずかしいから」という理由で、救急車を呼
ばなかった。

 これはまた別の女性のことだが、こんなことを言う人(五〇歳男性)がいた。

 その人の母は、静岡県と長野県の県境にある小さな村で、ひとり住まいをしているという。年
も八〇歳になり、このところ健康も思わしくない。そこでその人が、何とか、浜松市内でいっしょ
に住むように説得しているという。が、その女性は、がんとして、首を縦にふらない。理由を聞く
と、その人は、こう話してくれた。

 「母は、昔からその村を出ていく人を、笑っていました。その村に住めなくなることを、敗北者
だと思っていたのですね。母独特の人生観です。それで、今、自分が出ていくことができないの
です」と。

 もう少し卑近な例では、子どもの進学校がある。Bさん(四〇歳女性)は、ことあるごとに、そ
の人の価値を、出身高校で決めていた。「あの人は、X高校ですってねエ〜」と。Bさん自身
は、このあたりでも有名な進学校(こういう言い方は不愉快だが)を出ていたこともある。が、い
よいよ自分の娘が、高校受験を迎えたときのこと。娘には、その「力」がなかった。だから毎
晩、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえしていた。

●地に落ちる人間性
 こうした例は、多い。ひょっとしたら、あなた自身も、日常的に、それをしているかもしれない。
とくにはげしい受験勉強をくぐりぬけた人ほど、注意したらよい。そういう人ほど、自分の価値
や幸福を、相対的に判断するクセが身についている。「同年齢の仲間より、私のほうが地位が
高いから、私は優秀だ」「隣の人より、いい生活をしているから、私は幸福だ」と。

 そしてそういう相対的なものの見方をしていても、それなりに高い生活が維持できればよい。
が、問題は、反対に、同年齢の人より、地位が低くなったとか、隣の人より、生活の質が悪くな
ったとき。このタイプの人は、そうしたものの見方を、冒頭に書いたAさんのように、ゆがめてし
まう。わかりやすく言えば、自分よりさらに不幸な人を見つけてきては、それをおもしろおかしく
笑ったりする。そうすることにより、自分の価値や幸福を確認する。あるいは、自分より高い位
置にいる人を、ことさらねたんだり、うらんだりすることもある。こうなると、その人の人間性は、
地に落ちる。
  
 では、どうするか?

 ここでも大切なのは、やはり「私は私」という、自己の確立である。私たちは、私たちの人生
を、自分で生きる。自分の生きザマを、決して、他人の目の中に置いてはいけない。「他人がど
う思おうが、知ったことではない。どこまでいっても、私は私」と。

 こういう生き方を日ごろからしていれば、少なくとも、Aさんが見せるような見苦しさは避けるこ
とができる。小さな村で、がんとして首を縦にふらないような女性のような生き方は避けること
ができる。さらに子どもの受験勉強に巻きこまれなくてすむ。

●方向性を変えるのは、若いうち
 そこでこのエッセー最後の問題として、こういうことがある。このエッセーを読んでいるあなた
が、若い人なら、それでよい。しかし私のように五〇歳もすぎていると、問題の根は深い。正直
言って、五〇歳をすぎてから、こんなことに気づいても、遅いということ。手遅れ。仮に自分の中
におかしな人間性が潜んでいたとする。そしてそれに気づいたとする。しかしその人間性を変
えるのは、容易なことではない。一〇年単位の時間がかかる。あるいは、もっとかかる。

 それにこういうことも言える。若いうちは、気力で、自分をごまかすことができる。人前で、よ
い人ぶることぐらい、簡単なことはない。もの知り顔で、ニンマリと余裕の笑みを浮かべ、あと
は静かに相手の言ったことに、ウンウンとうなずいていればよい。しかし歳をとると、その気力
が衰えてくる。自分をごまかす力が弱くなる。そうなると、その人自身の人間性が、モロに外に
出てくる。問題は、そのときだ。そのとき、自分の醜さを嘆いても、遅い。

 だから、今、しかもできるだけ若いときから、自分を改めていかねばならない。日々の生活が
月となる。その日々は、できるだけ早いほうがよい。

 かく言う私は、気がつくのが、あまりにも遅すぎた。三〇歳をすぎるころまで、実にいいかげん
な人間だった。今は、まだ気力もあり、そういう自分を必死に押さえこんではいるが、気力が衰
えれば、いつまた、そういう醜い自分が顔を出すかもしれない。そういう意味では、時限爆弾を
かかえているようなものだ。あるいは私もそのうち、Aさんのように、他人の不幸話を、人に、お
もしろおかしく話すようになるかもしれない。そうなりたくはないと思うが、その自信は、ない。
(03−1−11)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

私の北朝鮮論

 北朝鮮のような超独裁国家では、独裁者の精神状態が、そのまま国の姿として、反映され
る。国の姿イコール、独裁者の精神状態と考えてよい。

 そこで今にみる北朝鮮の異常な緊張状態は、それだけ金正日の精神状態が、緊張状態に
あるとみてよい。もっと簡単に言えば、きわめて異常な情緒不安状態にあるとみてよい。よく誤
解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。情緒不安は、あくまでも、外に
現れた症状。情緒不安というのは、心の緊張状態が取れないことをいう。その緊張した状態の
中に、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一挙に、精神状態が不安定
になる。それを情緒不安という。

 まず北朝鮮の内部の問題。昨年の夏(〇二年七月)、北朝鮮政府は、公務員の給料を、そ
れまでの給料から、一挙に、二〇倍に引きあげた。二〇倍である。それまで、たとえば一〇万
円の給料だった人は、二〇〇万円になったことになる。北朝鮮を支配する闇(やみ)経済の実
勢価格に合わせるためである。しかしこんなことをしても、一時的な効果はあっても、すぐその
効果は、消滅する。闇経済のほうも、すぐ二〇倍、三〇倍と、それを追いかける。つまりハイパ
ーインフレの状態になる。はっきり言えば、メチャメチャ。

 その上、経済は壊滅状態。工場の稼働率は、三〇%以下だといわれている。あるいは、ほと
んど稼動していない? アメリカ頼みだった、原油供給は昨年一二月以来、停止されている。
北朝鮮は、年間一〇〇〜一五〇万トンの原油を必要としている。が、そのうちの五〇万トンを
カットされたのだから、痛手は大きい。しかしそれだけではない。慢性的な食料不足。この冬だ
けでも、約二〇〇万人が餓死すると言われている。餓死、一歩手前の人を含めると、その数
倍の人が、飢えで苦しんでいると考えてよい。

 さらに、今、北朝鮮は、表向きはどうであれ、ロシアにも、そしてどうやら中国にも、見放され
つつある。とくにロシアには、完全に見放された。いくらお金を貸しても、返さないのだから、こ
れはしかたない。昨年末、金正日は、中国にさかんにラブコールを送った。しかし中国の江沢
民は、金正日には会わなかった。今の国際情勢の中では、会えなかったというのが、正しい。
そこで金正日は……。

 今ごろは、宮殿のような執務室の地下室で、大酒を飲んで、ギャーギャーと暴れまくっている
に違いない。本来なら、家族がいて、そういう男の心をいやすのだが、悲しいかな、金正日に
は、そういう家族さえいない。定年が二五歳という、喜ばし組の若い女性軍団では、どうしようも
ない。彼女たちは、ただのセックスドール。いくら若い女性が好きでも、糖尿病では、女性のほ
うが満足しない? だからますます金正日の精神状態は、不安定になる。おそらく今ごろは、
側近の部下でさえ、手がつけられないのでは……?

 そこで核開発の再開、ミサイル実験の再開ということになった。が、ここで注意しなければな
らないことは、ニョンビョンの核関連施設にしても、あまりにも旧式で、使いものにならないとい
うこと。しかもこの一〇年間、ほとんど手入れをしていないから、火を入れたとたん、大爆発と
いうことにもなりかねない。これは私の意見ではない。実際、その核関連施設を視察したことの
ある、アメリカの学者の意見である。もしそうなったら、死の灰は、日本海から北海道を経て、
アラスカまで達するといわれている。ああああ!

 以上のような状況の中で、今の北朝鮮の外交戦略は動いている。わかりやすく言えば、今の
北朝鮮の国内事情は、悲しいかな、メチャメチャの上にメチャメチャ。それに合わせて、金正日
の精神状態も、メチャメチャの上にメチャメチャ。もっとわかりやすく言えば、金正日は、もうま
ともではない。狂っている。韓国政府も、日本の外務省も、「まとも」という前提で、北朝鮮との
交渉にあたろうとしているようにみえるが、そのこと自体、無理。幻想。錯覚。

 問題は、北朝鮮や金正日が狂うのは、彼の勝手だが、そのとばっちりが、韓国や日本、さら
にはアメリカにおよぼうとしている。実のところ、一番あぶないのが、日本。北朝鮮からみて、
一番、攻撃しやすい相手は、日本ということになる。戦前の植民地時代の報復を大義名分に
することもできる。それに日本には、自衛権はあっても、交戦権はない。日本を叩いても、叩き
返されることはない。そんなわけで、本当のところ、明日あたり、ミサイルが東京を直撃しても、
おかしくない。

 では、私たち民衆は、どのように考えたらよいか。

 ああいう北朝鮮や、金正日は、必ず、自滅する。遅かれ早かれ……というより、もはや時間
の問題。今の状況そのものが、断末魔の最終症状とみてよい。だから何が起きても、ただ冷
静に。多少の被害が、日本にもおよぶかもしれないが、それでも冷静に。北朝鮮には、一〇〇
万人以上もの軍隊がいるが、海を渡ってまで日本には来られない。これは軍事雑誌からの情
報だが、北朝鮮製の軍用トラックは、最高時速が五〇キロ。(たったの五〇キロ!)北朝鮮の
潜水艦は、もぐっても、せいぜい七〜八メートル。(たったの七〜八メートル)。最新鋭の戦闘
機のMIG29にしても、今、飛べるのは、たったの二機。はっきり言って、これでは戦争にならな
い。

 だから不必要に恐れる必要はない。むしろ私たちが今、すべきことは、金正日や北朝鮮の上
層部を、あわれんでやること。実に、かわいそうな人たちである。世界が「助けてあげる」と言っ
ているのに、そういうやさしさすら、理解できないでいる。そればかりか、世界の良心に、あえて
背を向けている。だれもあんな国、侵略しない。そんな意図もない。韓国ですら、今の状態で
は、併合は困ると言っている。経済格差が、あまりにもひどい。そういうことを金正日は百も承
知の上で、ありもしない危機をあおって、自分の国民を、欺いている。本当にかわいそうな男
だ。

 ただまったく油断していてよいというわけではない。風船にしかけた最近爆弾や化学爆弾は、
実戦配備についたと言われている。小型核爆弾もすでにいくつかもっていて、これも実戦配備
についたといわれている。今のこの時点でも、約二〇〇発のミサイルが、日本に向けられてい
る。爆弾というより、細菌兵器や化学兵器が、その弾頭に積まれているとみるのが、常識であ
る。もしそのうち一発でも、大都市に落ちれば、その被害は、霞ヶ関で起きた、あのサリン事件
の比ではない。一発で、数万人単位の死者が出るといわれている。ゾーッ!

 そうならないよう、日本は極力、アメリカや韓国のうしろに立って、目立たないようにしているし
かない。悲しいかな、現状をあれこれ積み重ねていくと、そうなる。日本の自衛隊にしても、あ
まりにもサラリーマン化しすぎてしまった。日本の憲法は崇高(すうこう)だが、崇高すぎて、こう
した現実には、まったく対応できない。そんなわけで、今は、ただひたすら静かに、金正日が自
滅し、北朝鮮が自滅することを、待つしかない。何とも残酷な言い方だが、それが結局は、今
の北朝鮮の人たちにとっても、最良の解決策にもなる。今の今という、この時点においても、数
十万人単位の人たちが、強制収用所で、過酷な労働に従事しているという。もちろんその中に
は、日本人妻や、拉致(らち)された日本人もいるらしい。そういう人たちを救うためにも、でき
るだけ早く、あの金正日体制を、自然死させねばならない。

 金正日は、まさに「だだをこねている幼児」(アメリカ高官)。しかもきわめて情緒が不安定な
幼児。だからここは、よしよしとなだめながら、しかし北朝鮮側のペースにのらないように、時間
をかけるしかない。そう、だれか、幼児教育の経験のある人が、アメリカの対北朝鮮戦略のア
ドバイザーに加わるとよいかもしれない。より的確に対処できるかもしれない。……このつづき
は、もう少し、様子をみてから書く。
(03−1−12)

●この原稿は、去る一月一二日の朝、書いたものです。国際情勢が、こうまで日に日に変化す
ると、ほんの数日前に書いた原稿ですら、現状にあわなくなることもあります。みなさんが、こ
の原稿をお読みくださるときには、すでに平和になってしまっているかもしれませんし、反対に、
戦争が始まっているかもしれません。どうかそういうことも加味しながら、ひとつの意見として読
んでいただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

常識論

 風がやんだ。空気が止まった。小春日和(びより)の、うららかな日差し。レモンの葉も動きを
止めたまま、陽光をあびて、白く光っている。アジサイの木が、その下で、去年の枯れた花を残
したまま、静かにたたずんでいる。

 深い緑。その間に乱立する枯れた木々。その向こうには、うすいモヤのかかった山々が、お
だやかなうねりをつくって、息をひそめている。動くものはない。いや、時折、ウグイス色の小鳥
が、きぜわしそうにやってきては、またどこかへと去っていく。「ジョウビタキよ」と、ワイフは言っ
た。

 こうしてぼんやりと、目の前の景色を見ていると、ふと常識の声が聞こえてくる。心の声といっ
てもよい。そしてその常識の声に耳を傾けていると、何が大切で、また何がそうでないかがわ
かる。人間は、万年の昔から、おそらくまだ小さな下等動物だった時代から、その声を頼りに
生きてきた。

 人に親切にしたり、やさしくすれば、心地よい響きがする。しかし人を裏切ったり、キズつけた
りすれば、不快な響きがする。道徳だとか、倫理だとか、はたまた哲学だとか、そういうものを
知らない時代から、人間は、その声に従って生きてきた。今も生きているし、その声を大切に
すれば、これからも生きていくことができる。

 むずかしいことではない。ほんの少しだけ、自分の心に耳を傾けてみればよい。すると、心
は、おかしいものは、おかしいと言う。へんなものは、へんだと言う。一方、気持ちのよいもの
は、気持ちよいと言う。すばらしいものは、すばらしいと言う。言葉ではない理屈でもない。心の
声というのは、もっと感覚的なもの。本能的なもの。心の奥のほうから、聞こえてくる。

 あとはその常識に従って行動すればよい。人に話したり、ものに書いたりすればよい。それ
を繰りかえしているうちに、思いや考えが、モヤの中から、顔を出す。形が見えてくる。

 そこで大切なことは、常識をみがくこと。旅行するのもよい。本や映画を見るのもよい。勉強
したり、音楽を聞くのもよい。ごくふつうの、ごく自然な生活の中で、ごく当たり前の人間として、
生きる。滝に打たれるから、常識がみがかれるとか、火の粉の上を歩くから、常識がみがかれ
るとか、そういうことはない。また、そんなバカなことをしても、意味はない。それがわからなけ
れば、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればよい。山に生える、木や草を見ればよい。だれも、そんな
ことはしていない。

 私たち人間が、まさに自然の一部であるように、私たちもまた、自然に生きればよい。その生
きザマが、自然であればあるほど、また自然に近ければ近いほど、常識は、私たちにいろいろ
話しかけてくれる。何が正しくて、何がそうでないかを、語りかけてくれる。

 私がこのあたりの山々に出入りをするようになって、もう一四年の月日が流れた。来たころ
は、小さな苗木にすぎなかった椿(つばき)も、今では、土手の下で、大きく葉っぱをのばしてい
る。先ほどよりも、照り返しのまぶしさが、目にしみるようになった。見ると、太陽が、ぐんと高く
なっていた。

 私はまず、イスを片づけた。つぎにテーブルの上にのった、コップを片づけた。それからここ
に座るまえに使った、枝切りバサミを片づけた。少し暑くなった。首のあたりが、ほんのりと汗
ばんでいる。この気持ちよさこそが、私たちが今、生きているという証(あかし)でもある。私は
まわりの景色を見ながら、もう一度、大きく息を吸いこんだ。
(03−1−11)

●私たちが求める法にせよ、真理にせよ、それはそんなに遠くにあるのではないにではない
か。それはひょっとしたら、私たち自身の中にあって、私たちに見つけてもらうのを、息をひそ
めて、待っている?
●日々のささいな行為が無数にあつまって、月となり、その月があつまって、年となる。そして
その年々があつまって、やがてその人の人格となる。そのとき真理が見つかるかどうかは、つ
まりは、その人の日々の、ささいな行為によって決まる。ウソをつかない。迷惑をかけない。誠
実に生きる。その瞬間、瞬間の生きザマが、その人の人格を決める。日々の生活の中で、自
分を偽り、他人を偽っていて、どうして真理に到達できるというのか。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
9・ 6  ……新居・雄踏・舞阪・公立保育園合同研修会
9・4   ……静岡市リズム幼稚園
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-20-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 574人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−20号(167)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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●毎日午前10:00〜に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただ
きます。毎週月曜日は、できるだけ私も参加するようにしています。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
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《   》   メニュー 「あなたの心を軽くするために」
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⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】雑感
/ ▼ \         【3】子育てエッセー
  ■           【4】今、考えていること
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)

【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育てポイント(あなたの心を軽くするために……)

●どうせ育てなければならないのなら……
 子育ては、まさに重労働。若いとき、私でも、幼児を相手にするのは、二時間が限度。それ
以上になると、ヘトヘトに疲れるか、さもなければ、適当に手を抜くしかなかった。今は、かえっ
てなれたというか、それほど気張らなくなったというか、それほど疲れない。よい先生ぶることも
やめた。そして「どうせ教えるなら、自分も楽しまなくては損」と、そういうふうに考えるようになっ
た。とたん私も楽になったが、子どもたちの表情も、見違えるほど、明るくなった。

 家庭でも、同じ。あなたは親。あなたの子どもの保護者。だったら、あれこれ考えないで、育
てるしかない。で、どうせ育てなければならないのなら、あなたも楽しまなくては損。子どもを受
け入れ、今の人生は、今の人生として、あきらめる。過去を悔やむのも、未来を嘆くのも、ム
ダ。悔やんだり、嘆いたところで、どうにもならないものは、どうにもならない。
 子どもというのは、不思議なもの。何かをしたか、どうかなるということはない。しかし何もしな
くても、自分で育っていくもの。親の気苦労や、心配、さらには不安などといったものは、子ども
の成長の肥料にもならない。だったら、あなたはあなたで生きていけばよい。あなたが今、こう
してちゃんと生きているように、あなたの子どもも、三〇年後には、今のあなたのようにちゃん
と生きている。昔の人は、こう言った。「Que Sera Sera (ケセラセラ)」(映画「知りすぎてい
た男」の主題歌)、つまり「なるようにしかならない」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


レット・イット・ビー!

子育てで親が行きづまったとき(中日新聞に掲載済み)

●夫婦とはそういうもの    
 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫
婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかすがい』
とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫婦も
多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。もともと他人の人間
が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままでいることのほうがおかし
い。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことないから、わからな
い」と答える。

●人は人、それぞれ
 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やっ
たわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴
任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(三三歳)は、夫婦でも
別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あるかないかという程度らしい。しかし
「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。要は夫
婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人それぞれ
だし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必要はな
いし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは気にし
てはいけない。

●問題は親子
 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った
人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親
子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 
 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまう
ということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗
した」とか、そんなようにおおげさに考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがま
まに……)」と。それはまさに、「智恵の言葉」だ。
 
++++++++++++++++++++

なお私は、子どもを指導するとき、こんなことに注意しています。参考までに。

+++++++++++++++++++++++++

●笑わせる
 笑いあうことによって、子どもは、心を開きあう。心が開いていないと、いくらほめても、またい
くら指導しても、こちらの気持ちが、子どもの中に、入っていかない。つまり、ムダになる。しか
し心が開いていると、たとえばやさしくしてあげたり、親切にしてあげたりすると、それがそのま
まスーッと、子どもの心の中に染みこんでいくのがわかる。子どもは子どもで、心底、うれしそう
な顔をする。
 また笑うことによって、「学習」というものが本来的にもっている、重圧感を軽くすることができ
る。そして(笑う)イコール(楽しい)という思いが、子どもを前向きに伸ばしていく。
さらに最近の研究では、笑うことにより、脳のホルモン分泌のバランスが改善され、精神的、情
緒的に、よい影響を与えることがわかってきた。とくにストレスをためやすい子どもには、よい。
さらに、「直す」とか、「治す」という言葉は使えないが、軽い心の問題なら、笑わせることで、な
おすこともできる。
 笑うということは、何かにつけ、よいことづくめ。だから私は、一時間のレッスンでも、そのうち
の三〇分は、子どもを笑わせる。ときにはゲラゲラと、大声で笑わせる。
 
●温もりのある教材
 私は教材は、すべて手作りのものを使っている。無数の市販教材もてがけてきたが、私の指
導では使わない。使ったことがない。子どもの心をとらえるためには、手作りが一番。「はやし
浩司」の心が、そのまま子どもたちに伝わる。
 また手作りであるからこそ、教えるポイントや、コツがよくわかる。「ここでこの教材を出せば、
子どもは笑うだろう」「喜ぶだろう」という予想がたつ。
 あとは、「動」と「静」をうまく組みあわせる。子どもたちが興奮状態になって騒ぐときと、反対
に、黙々とデスクワークするときを交互に織りまぜながら、学習効果を高める。「動」のときは、
子どもたちが活発になり、「静」のときは、シーンとする。そういう授業が、理想的な授業というこ
とになる。

●とにかく、ほめる
 私は子どもを指導するとき、最初から最後まで、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。とくに自
信をなくしている子どもは、ほめる。そして心底それを喜びながら、頭をなでる。みんなの前で
ほめる。
 たまたま今日(〇三年一月)も、時計のスケッチをさせたが、子どもたちのほとんどは、最初
は、こわれた時計を描いてくる。しかしそれでも、ほめる。そしてこう言う。「君は、じょうずに描
いたから、今度はもう少し大きい紙をあげるよ」と。今度は、少しだけ大きな紙をあげる。そして
また時計を描いてきたら、「ほほう、前の時計より、ずっとじょうずになったよ」とほめる。指導す
るとしても、最小限に。「こちらの針を、もう少しだけ、長くするといいね」とか、その程度ですま
す。これを繰りかえしながら、そして最終的には、大きくて、きれいな紙を渡し、時計をスケッチ
させる。最後は、「これでおしまい。君は、ゴールへきたよ。おめでとう!」と言って、終わる。
(03−1−12)

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/   みんなで力をあわせて、日本の教育
   |∂  −  ξ └┘|\    日本の子育てを変えましょう!
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

一月一二日

 今日は、台風のような強風だった。そういう強風の中、自転車で街までの距離を往復した。片
道約七キロ。で、行くときは、追い風。最初、強風に気づかず、われながら足腰が強くなったも
のだと喜んでいたが、帰りは違った。こいでもこいでも、前に進まない。おかげで家に帰ったこ
ろには、体中、ガタガタ。が、しばらくすると、何とも言えない爽快(そうかい)感。やはり運動は
必要。

 やっと頭の回転も、少しずつだがもどり始めた。回転が悪いときは、自分でもはっきりとわか
るほど、鋭さが消える。そういう意味では、頭の回転は、体操選手の技に似ている。毎日でも
少しずつ練習しないと、頭の回転は、すぐ鈍る。もっとも私のばあい、それに老化が加わってい
る。気力と集中力が、このところとみに衰えてきた。実際、頭を使うというのは、かなりのエネル
ギーを消耗する。軽い文章ならいくらでも書けるが、そんな文章など、どれだけ書いても意味が
ない。少なくとも、読者の方に申しわけない。

 このところ強く感ずることは、子育てについては、ほぼ書きつくしたのではないかということ。
新しい原稿を書いているつもりでも、あとで読み返してみると、以前、同じようなことを書いたの
に気づくことがある。そういうことが多くなった。で、できるだけ新しい分野に挑戦してみたいと
考える。政治でも、経済でもよい。得意な東洋医学でもよい。しかし私のようなものが書いて、
どれだけの意味があるというのか。読者のみなさんに、どれだけ役にたつというのか。そう感じ
たとたん、書く気力がひっこんでしまう。

 またまたぐちっぽくなってしまった。せっかくいい気分になっているというのに、これはどうした
ことか。食事もおいしい。それに今は、心地よい眠気もある。少し前、ミルクティーを飲んだとこ
ろ。心の状態は、よいはずなのに……。では、そろそろ就寝タイム。マガジン1月20日号の配
信予約を入れたあと、寝ます。グッドナイト!
(03−1−13)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

アメリカの子育て事情

●Dからのメール

 当然のことながら、日本とアメリカとでは、子育てや、子育てに対する考え方が、かなり違う。
そんな一面がわかるメールが、嫁のDから届いたので、ここに転載する。この中で、アメリカに
は、他人の子どもでも、平気であれこれアドバイスをする女性がいることに、注目してほしい。

I have always believed it giving babies much skin ship. Sage is held and walked around the 
apartment probably a hundred times a day and is always touched when he is on the bed 
playing. I guess we don't have many pictures of us holding him on our website, probably 
because we don't want to be in the pictures very much and because if I take the pictures in 
the daytime, I can't hold him at the same time. But feel assured in knowing that he is given 
skin ship as much as possible.  
When Sage was a few months old, I was with my sister at a restaurant. Sage wanted to be 
held, so I took him out of the carrier. A woman who worked at the restaurant came over to 
me and told me that I shouldn't hold my baby so much, that he will be spoiled. She's able to 
raise her children however she likes, but I felt awkward in her so openly bestowing her 
advice and criticism on me. I don't know if people feel so freely to give their opinion in 
Japan, but I have found that in the U.S., complete strangers will come up to a parent at any 
place and give their opinion on what they think that parent is doing wrong. It's ridiculous. 
Advice from friends and families is a kindness, but from strangers?
 Well, I suppose that they mean well. And I do try to take into consideration what they say.  
But we will only have Sage as a baby and young child for a small amount of time and want 
to cherish the time we will have with him, so he will probably get tired of me touching him so 
much and someday ask me not to embarrass him in front of his friends. 
 スキンシップの大切さは、よくわかっています。セイジは一日に100回は、抱かれていて、ベ
ッドの上で遊ぶときも、何らかの形で、触れ合っています。あまり抱いている写真が、ウェブサ
イトにないのは、写真をとるとき、抱くことができないからです。しかし私は、じゅうぶんなスキン
シップをあげていると思います。

 セイジが数か月のとき、妹とレストランに行きました。セイジが抱っこしてくれとせがみました
ので、抱いてあげました。そしたら一人の女性がやってきて、子どもがスポイルされるので、抱
かないほうがよいと言いました。彼女が自分の子どもの世話をするのは、自由ですが、公然
と、私の子育てを批判するなんて、ひどいと思いました。日本では、こういうことがありますか。
しかし合衆国で、まったく見知らぬ人が、こういう形で、自分の意見を親に言うこともあるという
ことを知りました。バカげています。友や親からのアドバイスはわかりますが、見知らぬ人から
とは?

 まあ、よいように解釈します。そして彼らの意見も尊重します。セイジにしても、こういう時期は
短いし、その時期に恵みを与えたいと思います。できるかぎりスキンシップを与え、セイジがい
やがるまで、そうしようと思います。

●私の返事

From Hiroshi,
Hi!
 It depends on how the baby feels. As to the skin ship it is not a problem whether it is 
sufficient or not, but how much the baby opens his heart to parents. This is more important. 
If the baby opens his heart to you, showing his or her love (attachment) as much as he or 
she can, it is OK. 

 In Japan we seldom interfere with young parents as you were done by a stranger in the 
restaurant with your sister. Like most of other Americans we dislike to be interfered in, 
about which I don't know it is good or not, for people are so indifferent to each other now.

 The reliability and the spoil of children is different matter. It depends on each case. Those 
children who needs skin ship must be given more skin ship as much as possible. But as far 
as I just guess Sage wants or needs more skin ship for he cries a lot. So have a confidence 
that you have been doing very well and you are one of the most wonderful mothers. I 
respect and am proud of you.

 I am sorry if this mail interferes with you which is not my intention. I have no idea to offend 
you in any case, but all of us love all of you.

浩司より

 赤ちゃんによります。スキンシップについては、それがじゅうぶんかどうかというのは、問題で
はありません。問題は、赤ちゃんが、いかに心を開いているかということです。こちらのほうが
重要です。もし赤ちゃんが心を開き、あなたに愛情(愛着行為)を示しているなら、問題はあり
ません。

 日本では、他人の子育てに干渉するということは、めったにありません。多くのアメリカ人のよ
うに、干渉されるのを私たちは嫌います。今、たがいに無関心な人がふえていますので、それ
がよいことかどうかはわかりませんが。

 子どもの依存心と、スポイルは、別問題です。スキンシップを必要とする子どもには、できる
だけ与えます。私が思うところ、セイジは、よく泣きますので、スキンシップは、より必要だと思
います。だから自分に自信をもってください。あなたはすばらしい母親です。私はあなたを尊敬
し、誇りに思います。

 もしこのメールが、あなたを干渉するようなら、ごめんなさい。そういう意図はまったくありませ
ん。私たちはみな、あなたたちみなを、愛しています。
(03−1−11)

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

疑似母子家庭

●ある母親の相談
 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかなくて、
困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが寝てから、
仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少ないか
らだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「うちは
疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子どもには、心
のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞くと、こう話してく
れた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。そして休
みの日などは、いつもベタベタしています」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的な安
心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだかないとい
う意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ体を起こし
て逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを見せて、抱っこしよ
うとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く
 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かもしれな
いが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の関係を思い
浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開きあっていると
きは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないときは、男の側からみると、
何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたいへん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベッタリと親
に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓の鼓動のリズムま
で同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感に包まれていると考えて
よい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていくというの
であれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、子どもが心を
開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのではない。父親のほうに
ある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。もっとはっきり言えば、父
親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだけ。

●原因は父親の幼児期に
 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。しか
し一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、父親自身
が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。そういう意味
で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケースは、その親の親
が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にまでなっ
た人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が一番、ついで
父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口答えするなどという
ことは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということなどという
ことは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」という意味すら
理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なものの考え方にどっぷ
りとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要でではないでしょうか」など
と、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」を考
えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権威を認
めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は家事はもちろん
のこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子どもの運動会や遊戯会、さら
には父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏の体にしみこんだ「質」のよう
なものだった。「父親がそんなことするものではない」という意識があったのかもしれない。い
や、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の中になかった。

●親像がない?
 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親とみ
てよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の親たち
は、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てなどかまってい
るヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、親像がないため、どうし
ても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形で親像が入っている親は、これ
また自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自身が、
子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここに書いたように、
心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かって」とか、「私は親だ」
という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざしてしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもってい
る土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では明日か
ら、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。私もその母親
と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろうな」と思った。ただ
最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話をしてください」と。
(03−1−12)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
正解のない世界

●二枚の絵
玄関先に、一人の男の人(おとな)が立っている。手前に子ども(幼児)がいる。そんな一枚の
絵を見せながら、子どもたちに、「この絵の中の二人は、どんな話をしていますか?」と質問。
すると、一人の男の子が、こう答えた。

子「(男の人が)入ってもいいですか?」と言った。
私「でも、玄関は、もうあいているよ」
子「うん、そう」
私「では、子どもは何と言っているの?」
子「帰ってください」
私「ということは、その男の人は、何?」
子「どろぼう」と。

今度は別の絵。一人の女の子(幼児)が、ふとんの中で寝ている。そのそばに男の子(幼児)
が立っている。同じように、「この二人は、どんな話をしていますか?」と質問。すると今度は、
一人の女の子が、こう答えた。

子「(女の子は)遊ぼうと言っている」
私「どこで?」
子「おふとんの中で……」
私「じゃあ、男の子は、何と言っているの?」
子「うふん……」
私「まさか……、ラブラブ?」
子「ちがうわよ!」

 ときとして、子どもたちは、こちらが意図しない考えをもつ。最初の絵は、お客さんが来たとこ
ろを想定し、「こんにちは」「いらしゃいませ」と答えるのを、期待していた。二枚目の絵は、「早く
元気になってね」「ありがとう」と答えるのを、期待していた。しかし子どもたちは、ここに書いた
ように答えた。もちろん私は爆笑。ゲラゲラ笑ってしまったので、授業にならなかった。

●本音と建前
 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテストに、こ
んなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの絵の中
から、答を選んでください。
(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子どもは、
(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、ひとりの母親がこ
う言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のまわりでウロウロされる
と、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽です」と。つまり建前では、(2)が
正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を出し
た。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテストでは、本
音と建前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界
 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などというもの
は、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解を求めようと
する。得に教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。が、それで終わるわ
けではない。ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生
が、「答のない問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「こ
の世界のできごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解にこだわ
るのか」と笑っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学だが、
T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしまった。この
状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分離方法
を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参考書もちこみ
OKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にするというもくろみがある。当
然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話してくれた。
「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさがってくる。大切なのは、
いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすかです」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだろうか。
そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもたちにかぎらず、
私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろうか。私は子どもたち
の前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につながるものの考え方の、大きな
ヒントが隠されているような気がする。
(03−1−12)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-22-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 576人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−22号(168)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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  フ           【1】スキンシップについて
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

Q:うちの子は、私の前ではおとなしく、いい子なのですが、学校や、友だちの間では、いろいろ
な問題を起こします。(福井県S市、UIより)

A:すなおな子どもというときには、二つの意味がある。まず、心の状態と、表情が一致している
こと。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。自然な感
情表現ができることをいう。

 もう一つは、心のゆがみのないこと。すねる、ひねくれる、いじける、つっぱる、ひがむなどの
症状がない子どもを、すなおな子どもという。

 この相談のケースでは、まず子どもが親の前で仮面をかぶっていないかどうかを、さぐってみ
る。方法としては、子どもを軽く抱いてみればよい。心を開いている子どもは、そのまま体を親
にすりよせてくる。そうでない子どもは、どこか体をかたくして、こわばらせる。ふつう親の前で
よい子ぶるなど、仮面をかぶっている子どもは、親に心を許さない。許さない分だけ、親に抱か
れない。

 さらに症状がひどくなると、心の状態と表情が、遊離し始める。怒っているはずなのに、ニヤ
ニヤ笑う。家族が困っているのに、無表情のまま、それを無視するなど。こうした症状が見られ
たら、家庭のあり方を、かなり深刻に反省する。威圧的な過干渉、暴力、親の拒否的な態度、
権威主義の押しつけなど。原因がわかれば、まずそれを取りのぞき、つぎに家庭が、心をいや
す場所として機能しているかを、子どもの立場でみなおしてみる。

 ところで子どもには、三つの世界がある。(家庭)(学校)(友人との世界)である。子どもの心
は風船のようなもの。そのどこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに出てくる。(家
庭)で加えると、(学校)か(友人との世界)で、(友人との世界)で加えると、(家庭)か(学校)で
というように。そしてそのひずみが、欲求不満となり、子どもの心をゆがめる。

 このとき子どもというのは、三つの世界でそれぞれまったく別の人間を演ずることが多い。
「内弁慶、外幽霊」という言葉もあるが、まったくその反対もある。この相談のケースでは、「内
幽霊、外弁慶」ということになるのか。ほかに親の前ではよい子ぶりながら、外の世界で、陰湿
ないじめや万引きを繰りかえしていた子どももいた。

 子どもの心というのは、一度変調すると、なおすのは、容易ではない。たいていの親は、「しっ
かり叱ればなおる」などと、安易に考えるが、ばあいによっては、半年、一年単位で、症状は推
移する。(一年でも短いほうかもしれない。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
はやし浩司先生へ

●保育園VS幼稚園

娘のKは、生後六か月の頃から保育園に通っています。

今から考えれば笑い話なのですが、初めての育児でどうしたらよいかわからず
一人で悩んでどうにかなりそうだったので、六か月で育児休暇を切り上げ、
保育園に入れ、仕事に復帰したのです。

保育園の先生方は、私の悩みを聞いてくれたり、色々なアドバイスをしてくれました。

娘のKは、人見知りしない子だったので(今もですが)どの先生にでも抱っこされて、
大変かわいがってもらいました。(今もです)。

娘のKも、異年齢のお友達と遊びながら、時にはお姉ちゃん、時には妹となり、楽しく遊んでい
ます。保育園に入れて良かったと感じています。

ところが、最近、一部のお母さん方に「Kちゃんは、どこの幼稚園に行くの?」と聞かれるので
す。

小学校まで今の保育園のままだと答えると、「えー!」と驚かれます。

「SSの幼稚園はひらがなを教える」とか「AA幼稚園は算数を教える」と言うのです。

更に「保育園出身では授業中じっと座っていられない」と・・・。
私達(夫婦)は、今の保育園で十分満足していますし、ひらがなや簡単な算数なら
普段の生活の中で少しずつ覚えていくと考えています。
(実際、ひらがなは自然と覚えていきましたし、数字にも興味津々です。)

幼稚園出身児に比べ、保育園出身児は授業中じっと座っていられないのでしょうか?
小学校でじっと座っていられるように、今から訓練(?)させるなんて、おかしいような気がする
のですが・・・。
それとも私達がおかしい・・・?

先生のお時間がある時にご意見を聞かせて頂ければ嬉しいです。
長々とすみませんでした。
(佐賀県U市、TEより)

+++++++++++++++

はやし浩司より、TEさんへ、

 保育園児だからとか、幼稚園児だからという区別は、まったくナンセンスです。最近では、教
育カリキュラムにしても、保育園の幼稚園化が進み、区別できなくなっているのが、現状です。
保育園は旧厚生省管轄、幼稚園は旧文部省管轄という点だけをのぞけば、外から見たところ
では、区別できません。保育園と幼稚園の一本化が叫ばれる理由は、こんなところにもありま
す。(保育時間などの違いは、ありますが……。)

 さらに保育園児だから、じっと座っていることができないとか、幼稚園児だから、座っているこ
とができるとか、そういう区別も、ナンセンスです。問題の「根」は、もっと別のところにありま
す。まったく関係ないと断言できます。

 で、先取り教育と幼児教育、さらに早期教育は区別して考えます。小学校で勉強することを、
先に教えるのが、先取り教育。今、私の住む地方でも、掛け算の九九を教えている幼稚園が
あります。典型的な先取り教育です。
 
 幼児教育は、幼児期にしておくべきことを教える教育です。それについては、私の専門です
から、またマガジンを参考にしてください。

 で、早期教育ですが、これには、いろいろな意味が含まれます。(こういうふうに、区別して考
えるのは、正しくないかもしれませんが……。)たとえば音感やある種のスポーツなどは、かな
り早い時期から訓練を開始したほうがよいと言われています。たとえばピアノ演奏の練習など
は、満一〇歳を過ぎてから始めても、遅いと言われています。だから早い時期から、教育を始
める……。これが早期教育です。

 文字、数の学習については、私のサイトのあちこちに書いていますので、どうか参考にしてく
ださい。大切なのは、この時期、できる、できないではなく、前向きな姿勢が育っているかどう
か、です。文字や数を見たとき、逃げ腰になっているようであれば、失敗ということです。そのた
めにも、この時期は、「楽しい」ということだけを教え、あとは子ども自身がもつ力に任せます。
これが幼児教育です。

 あまりよい回答になっていないかもしれませんが、私は、TEさんの今のやり方で、よいと思い
ます。もちろんすぐれた教育を実践している幼稚園も多いので、一度、見学などをなさってみら
れたらいかがでしょうか。あくまでも「園」「先生」「園長」を見て、判断なさることだと思います。
園の選び方などは、たまたま一月七日号のマガジンに、簡単に書いておきました。どうか、参
考にしてください。

 なおいただきましたメールを、マガジンに転載しますが、よろしくご了解ください。ご都合の悪
い部分があれば、改めます。

                                はやし浩司
(03−1−15)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの愛着行為

はやし先生へ、
おはようございます、埼玉県T市に住むマガジン読者です。

ところで、E-メールマガジンで、たびたびテーマを募集していますが、前々から、『アメリカでは、
生まれたての赤ちゃんでも、夜寝る時には、夫婦の寝室とは別で、子供部屋で寝る』と言われ
ているし、アメリカのファミリードラマやアニメでも、かなり小さい子供でも、ちゃんと自分の部屋
を持ち、ベッドで寝ていますが、「ほんとうかしら?」と、疑問をもっています。

現在三男は一才を過ぎていますが、おっぱいを飲みながら寝るので、私と同じ布団で寝ていま
すし、もっと月齢が小さい時などは、二時間おきの授乳だったので、いちいち起きて、ベビーベ
ッドで寝ている子を抱き上げて授乳することすら苦痛でした。

先生の御二男の方はベビーはどのような環境で、寝ているのでしょうか? すごく興味がありま
す。それとまじえて、子供と親が別々の部屋で寝始める頃の見極めと注意点などもアドバイス
して頂きたいです。

友人の子は、寝室を別にしたとたん、首が曲がったまま元に戻らなくなり、整体等、通ったので
すが、なかなか治らず、寝室をまた親と同じにしたら、ピタリと治ったそうです。

+++++++++++++++++++++

●アメリカの子育て

 アメリカといっても、アジア全域ほど広く、また移民国家であるため、アメリカ人といっても、ど
ういう人をアメリカ人というのか、必ずしも明確ではありません。もちろんアジア系アメリカ人も
多く、その中の一部には、日系アメリカ人もいます。さらに同じ白人でも、父親がフランス人、母
親がウクライナ人、祖父がスコットランド人で、祖母がイタリア人という家庭は、いくらでもありま
す。

 で、その中でも、アングロサクソン系のアメリカ人にかぎっているなら、ご指摘のように、赤ん
坊のときから、寝室を分けるのが、ふつうのようです。アングロサクソン系というのは、いわゆ
るイギリス系のアメリカ人です。ふつう私たちがアメリカ人というとき、もっともポピュラーに想像
する、白人のアメリカ人です。

 二男の嫁も、そのアングロサクソン系のアメリカ人で、代々、アメリカの中南部で暮らしてきた
家族です。ただ私の二男のばあいは、大きな二部屋だけのアパートで、別々の部屋ということ
はありませんでした。大きなベビーバッグの中に赤ん坊を寝させていました。しかし夜泣きがひ
どいので、私のワイフのアドバイスで、夫婦のベッドの間で、川の字のようにして寝させました。
そうしたら夜泣きが収まったそうです。

 ご質問の件について、私は専門ではないので、よくわかりませんが、今までに私が書いた原
稿をあちこちから集めてみましたので、参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++++

●子どもの愛着行動

 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知られた
現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることがわかっ
てきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児の発育
には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥が現れ
る。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示
す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒
否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由
で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の
分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、育児拒否的
な行為(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。

●スキンシップは魔法の力 
 ところでスキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう
二〇年ほど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設
の先生の講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。「うちの施設では、とにかく
『抱く』という方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も
忘れた。が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言い
かえると、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心の問題」があるとみてよい。

 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。
許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら
丸太を抱いているような気分になる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと
身を寄せる。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じ
になることがある。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子ども
も女房も同じですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうで
ないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。

●大切な「甘える」という行為
 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、
濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自
然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることがで
きる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染
み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●先手を打って自分を守る
 このタイプの子どもは、「信じられるのは自分だけ」というような考え方をする。誰かに親切に
されても、それを受け入れる前に、それをはねのけてしまう。ものの考え方がいじけ、すなおさ
が消える。「あの人が私に親切なのは、私が持っている本がほしいからよ」と。自分からその人
を遠ざけてしまうこともある。あるいは自分に関心のある人に対してわざと意地悪をする。心の
防御作用と言えるもので、その人に裏切られて自分の心がキズつくのを恐れるため、先手を
打って、自分の心を防衛しようとする。そのためどうしても自分のカラにこもりやすい。異常な
自尊心や嫉妬心、虚栄心をもちやすい。あるいは何らかのきっかけで、ふつうでないケチにな
ることもある。こだわりが強くなり、お金や物に執着したりする。完ぺき主義から、拒食症になっ
た女の子(中三)もいた、などなど。

 もしあなたの子どもが、あなたという親に甘えることを知らないなら、あなたの子育てのし方の
どこかに、大きな問題があるとみてよい。今は目立たないかもしれないが、やがて深刻な問題
になる。その危険性は高い。

●行きづまりを感じたら、抱く
 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行
きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなとき
である。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばら
くは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も
安定する。

(参考)
●抱かれない子どもが急増!
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研
究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

++++++++++++++++++++++++

●スキンシップ

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いているではないか。
 
一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく
平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップでしかないだろう。こ
の日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分けて考
えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップへの
誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシ
ップがたっぷり必要だが、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇
人に三人程度の割合で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部
病院・堀内たけし氏)そうだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

+++++++++++++++++++++

 あちこちから原稿を集めたため、内容がバラバラになってしまいましたが、こうして改めて考
えてなおしてみると、スキンシップは、必要であるかないかということになれば、必要であるに決
まっているということになります。

 で、ご質問の「量」ですが、それはあくまでも子どもをみて、判断するしかないのではないでし
ょうか。とくに子どもの情緒の安定度をみながら、判断します。つぎの原稿は、子どもの欲求不
満について書いたものです。この中でも、少し、スキンシップについて触れてみました。

+++++++++++++++++++++

子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ
 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ
 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ
野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩す
る、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)
に分けて考える。

(2)退行・依存タイプ
 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

(3)固着・執着タイプ
 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近
多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起
こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切
そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう
言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子ども
の未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子ども
は幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足
 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。あ
る子ども(小一男児)はそれまでは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入っ
たということで、別の部屋で寝るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その
子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子どもなり
に、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と言っ
たが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効
 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよ
い。子どもの欲求不満症状が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの
問題は解決する。

+++++++++++++++++++++

 最後にスキンシップは、量ではなく、質の問題です。ベタベタのスキンシップがよいわけでは
ありません。とくに母親側に、何らかの情緒的欠陥があり、子どもを溺愛するようなばあいは、
警戒しなければなりません。このばあいは、子どもがスキンシップをもとめるのではなく、親が、
自分の不安定さを代償的に補うために、子どもを日常的に抱いたりします。溺愛ママがその一
例です。

 メールだけでは、内容はよくわかりませんが、以上のことを参考に、あなたのお子さんや、ス
キンシップを考えてみていただければ、うれしいです。また何か、おわかりにならないことがあ
れば、ご連絡ください。なお、いただきましたメールは、少しこちらで改変し、一月二二日号のマ
ガジンに掲載させていただきたいのですが、よろしくご了解ください。

 では、これで失礼します。

 はやし浩司
(03−1−14)

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/   みんなで力をあわせて、日本の教育、
   |∂  −  ξ └┘|\   日本の子育てを、変えましょう!
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 今日、一日で、雑誌用の原稿、一二か月分を、ほぼまとめました。ほどよい疲れと同時に、
虚脱感。原稿を書くのは好きですが、今日は、少し疲れました。まとめたといっても、これから
一週間ほどかけて、推敲しまくります。よい原稿になるかどうかは、その推敲で決まります。

 そういえば、マガジンのほうは、その推敲をする間もなく、どんどん掲載しています。だからい
いかげんなところがあるかもしれませんが、決して手を抜いているわけではありません。いつも
全力投球です。お読みになってくださっている文章が、そういう意味では、ありのままの、はや
し浩司です。

 文章を書くとき、注意しているのは、「わかりやすい文章」を書くということです。論文のような
カタイ文章を書くのは、意外と楽なんですよ。書けといわれれば、いくらでも書けます。むずかし
いのは、むずかしいことをいかに、平易な言葉と文章で書くかということです。一文を書くのに、
数分ずつ悩みながら書くときもあります。

 ……しかし、どんな人が私の文章を読んでくださっているのか。それがわからないので、とき
どき、困るときがあります。わかれば、その人に合わせて、文章を書くのですが……。

 今日は午後からは小雨で、いつもの運動量の半分しか、運動ができませんでした。しかしこ
こ数日は、ばっちりと運動しましたので、体は快調です。ただ、今は、眠いです。時刻は一〇時
を少し回ったところですが、今夜はそんなわけで、早めに寝ます。

 明日もいつもどおりの日課をこなして、元気でがんばります。

 みなさんも、どうか、お体を大切に。

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どもの心をつかむ

 私が子どものとき、学校の先生が、「明日は、臨時休校だ」なんて言うと、みんな、飛びあがっ
て、それを喜んだ。今の子どもたちも、そうだ。私が「台風がくる」などと言うと、「(台風のおか
げで)、学校が休みになる」と喜ぶ。

 もちろん毎日が、こうでは、まずい。しかし子どもたちの本音はそこにある。子どもの心をつ
かみたかったら、子どもの本音をつく。こんなことがあった。

 中学生たちを教えているときのこと。生徒たちがみな、数学の問題をかかえて、憂うつそうな
表情をしていた。そこでふと、私が、「勉強なんて、つまらないよね」と言うと、みんなが、いっせ
いに表情を明るくした。そしてニコニコ笑いながら、「先生も、そう思う?」と。

 子どもたちは、その本音を必死に隠しながら、生きている。で、私は、いつから、子どもたち
がそうなるかを、調べたことがある。

 まず小学生(小五男児)たちにこう聞いてみた。「君たちは、女の人のオッパイが好きか?」
と。正直に告白するが、オッパイの嫌いな男の子はいない。私も好きだった。が、全員、「嫌い
だヨ〜」と。そこで私が、「本当のことを言え」とたたみかけると、「先生は、ヘンタイだあ」と。

 今度は年長男児たちに、同じ質問をしてみた。すると小学生たちのようには反発しないが、ど
こか恥ずかしそうな顔をして、「嫌い」とか言う。で、「本当のことを言え」と言うと、やはり、「嫌い
だよ」と。

 さらに年中男児たちにも、聞いてみた。が、今度は、あからさまには「嫌い」という子どもはい
なかった。「ううん」とか、「好きじゃない」とか言った。そこで私が、「ウソをついてはダメだ。好き
だったら、好きと言いなさい」と言うと、小さな声で、「好きだよ……」と。

 どうやら子どもたちは、このあたりを境にして、本音を隠し始めるようだ。自意識が芽生え、そ
の意識で、自分をごまかし始める。

 あなたにも子ども時代があった。そしてそのとき、あなたは子どもの目で世界を見ながら、必
死になって本音を隠して生きていた。今も、そうかもしれない。人間は社会的動物だから、そう
いう面があることは決して悪いことではない。しかしそれは同時に、自分を見失う原因にもな
る。よい人ぶったり、自分を飾るようになる。

 だからあなたも、たまには、童心に返り、本音をさらけ出してみてはどうだろう。遠慮すること
はない。遠慮する必要もない。

「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」
「学校が休みになると、うれしかった」
「好きな人ができたときには、ずっと、いっしょに、そばにいたかった」と。

 日常的に、子どもに本音で接している親もいるが、もしそうでないなら、あなたも一度、本音を
子どもに語ってみたらよい。今、親子でも、心を開きあわない人がふえている。そうなれば、ま
さに家庭は家庭としての機能を失う。親子について言うなら、断絶の一歩、手前! そうならな
いためにも、ときにはあなたも、自分をさらけ出してみる。気負うことはない。親だと思うことも
ない。あなたはありのままのあなたを、子どもにぶつけてみる。

 少し前だが、こんな原稿(中日新聞発表済み)書いたことがある。この原稿は、もともと心の
通いあっている親子について書いたもの。もちろん行き過ぎもよくないが、心が開きあっている
と、親の心は、そのまま子どもの心となる。

++++++++++++++++++++++++++

親の心は子どもの心

 一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、そのま
ま口にします。こわくてなりません」と。話を聞くと、こうだ。お母さんが内心で、同居している義
母のことを、「汚い」と思ったとする。するとその娘が、義母に向かって、「汚いから、あっちへ行
っていてよ」と言う。またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。す
るとその娘が、客に向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。

 昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関係にあ
るときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。子どもは子ど
もで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。こんな簡単なテスト法がある。ま
ず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の場所で、「山、川、家」を描いてみる。そ
してそれが終わったら、親子の絵を見比べてみる。できれば他人の絵とも見比べてみるとよ
い。濃密な関係にある親子ほど、実によく似た絵を描く。二〇〜三〇組に一組は、まったく同じ
絵を描く。親子というのは、そういうものだ。

 こういう例はほかにもある。たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っていたと
する。するといつしか息子も、そう思うようになる。あるいは母親が、「この世の中で一番大切な
ものは、お金だ」と思っていたとする。すると、子どももそう思うようになる。つまり子どもの「心」
を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。

 かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。……強かっ
た。「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。いつも「男は……」
「女は……」というものの考え方をしていた。その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外
国へ出て……、という経験の中で、自分を変えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を
変えるのは、容易なことではなかった。今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残ってい
て、私を苦しめる。油断していると、つい口に出てしまう。

 かたい話になってしまったが、こんなこともあった。先日、新幹線に乗っていたときのこと。うし
ろに座った母と娘がこんな会話を始めた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたようだが、
話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。呼吸がピタリと合っている。

 だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。「あなたと娘さんは、すばらしい親子関係に
ありますね。せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘さんの心づく
りを考えたらいい。あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あなたの娘さんに、そっ
くりそのまま伝えることができますよ」と。 

++++++++++++++++++++++++

 その点、『クレヨンしんちゃん』の母親の、みさえの生き方は、参考になる。コミック『クレヨンし
んちゃん』の中には、こんなシーンがある(V16)。

九州の父「日本人の朝は、昔から、ご飯とみそ汁に決まっとるたい……」
みさえ「文句あるなら、九州に帰ればよかでしょ!」
秋田の父「やーい、実の娘に怒られてやんの。へへ〜んだ」
みさえ(秋田の父に向かって)「黙れ、ひからびたゆで玉子!」
秋田の父「ひ……ひからびた、ゆで……。ひど〜い」
九州の父「みさえ、口が過ぎるたい」
みさえ「やかましいわ。一年中、雪景色頭!」

 ここでいう「ゆで玉子」というのは、ツルツル頭をいう。また「雪景色頭」というのは、そういう様
子の白髪の頭をいう。

 あなたも、一度、そんな生き方をしてみてはどうだろうか。
(03−1−13)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

■【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司……

●No.47「休息を求めて疲れる」(E−マガより転載)

 「休息を求めて疲れる」。イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞に
 もなっている格言でもある。「いつか楽になろう、なろうと思っているうち
 に、歳をとってしまい、結局は何もできなくなる」という意味である。「や
 っと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとり
 で、四国八十八か所を巡礼をしてみたい、と。そういう話を聞くと、私はす
 ぐ、こう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

 私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないこ
 とはしなかった。名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そん
 なものにどれほどの意味があるというのか。私たちは生きるために稼ぐ。稼
 ぐために働く。これが原点だ。だからXX部長の名前で稼いだ一〇〇万円も、
 幼稚園の講師で稼いだ一〇〇万円も、一〇〇万円は一〇〇万円。問題は、そ
 のお金でどう生きるか、だ。サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうま
 で会社という組織に、こだわるのか。

 未来のためにいつも「今」を犠牲にする。そういう生き方をしていると、い
 つまでたっても自分の時間をつかめない。たとえばそれは子どもの世界を見
 ればわかる。幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学
 のため、またその先の大学は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
 子どものときからそういうのが生活のパターンになっているから、それを途
中で変えることはできない。いつまでたっても「今」をつかめない。つかめ
ないまま、人生を終える。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。学生時代、テスト週間になるとよ
 くこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。しか
 し実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。どこか抑圧され
 た緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
 ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。先の「四国八十
 八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
 ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。私の経験では、多分、その人
 は四国八十八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気力は消え
 うせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。「今」というときをいかに充実
 させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。そのためにも、
 「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。いや、その
生き方は、すでに子ども時代に決まる。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

    /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

出会い系マガジン

 私のマガジンの読者が、三誌合計で七〇〇人を超えた。うれしかった。みんなで力をあわせ
れば、日本の教育は変わる。子育ては変わる。

 ……と思って、何気なし、マガジンランキングを見た。Eマガのばあい、読者数が九〇〇人を
超えると、上位一〇〇番にランキングされるという。しかしそのとき同時に、あちこちのマガジン
をのぞいて見て、驚いた。出会い系マガジンのばあい、読者数が五〇〇人、七〇〇人というの
は、ザラ。中には一万人を超えるものもある(Eマガ)。

 この世界では、「スケベ心」が、ものを動かす原動力となっている。たとえばビデオにせよ、ビ
デオカメラにせよ、スケベ心があったからこそ、発達したという。CDも、パソコンゲームも、携
帯電話もそうだそうだ。この電子マガジンも、そうかもしれない。しかし、それにしても、フロイト
のいう「性欲論」が、ここでも生きているとは!

 私も、ごくふつうの男だし、ふつうにはスケベ心がある。そんなわけで浮気心がないわけでは
ない。だから出会い系マガジンをながめていると、ふと、私も応募してみたいという気持ちには
なる。しかし年齢が問題。五五歳の男というのは、まずいない。たいていは二〇歳代から三〇
歳代。たまに四〇歳代の人がいる程度。

♂ 55歳男性
星座 サソリ座
趣味 サイクリング、作曲、パソコン
性格 明朗、さわやか、ときどき、憂うつ
メモ 浜松周辺の方で、いつでも気軽に、楽しく話ができる方

 ……と、想像して、ハタと困った。「会って、何をするか」と。……と書くのも、ヤボなこと。人は
人の温もりを求める。つながりを求める。その方法として、一番。手っ取り早く、わかりやすい
のが、セックスということになる。男も、女も、体が交わったとたん、一〇年来、二〇年来の親
友になった気分になる。征服による満足感、排泄したという爽快(そうかい)感。いや、それ以
上に、セックスから得られる快感は、ほかでは味わうことができない。支配欲、独占欲も、同時
に生まれるが、ともかくも、セックスには、そういう力がある。魔力と言ってもよい。そう、まさに
魔力。人の心を狂わす、魔力。

 ……と、書くのは、結局は、負け惜しみかもしれない。年齢もあるが、もともと私はそのタイプ
の男ではない。いつもそういう男女の外の世界を、指をくわえたまま通りすぎてきた。私のワイ
フでさえ、「あんたは、かわいそうな人ね。何をするにも、三枚目で、ムードがないから」と言う。
結婚して以来、ずっとそう言われているから、ますます自信をなくした。

 ……と、考えて、またまたハタと気がついた。私はひょっとしたら、ワイフに、そう教育された
のかもしれない。いわゆる「マイナスの教育」というのだ。子どもでも、「あなたはダメな子」と言
われつづけると、本当に、そのダメな子になる。自分で自分をダメな人間と思いこむことによ
り、自ら、そのダメな人間になる。ダメな人間どうしが集まって、居心地のよい世界をつくる。一
度そういう世界に入ってしまうと、そうでない世界を遠ざけるようになる。そしてあとはその悪循
環。ますますダメな人間になっていく。同じように、夫も、「あなたは三枚目」と、妻に言われつづ
けると、本当に、その三枚目になってしまう? 今の私がそうだ。 

 まあ、私のマガジンは、言うなれば、マジメマガジン。読んでもおもしろくないし、あまり実益も
ない。効果もない。「教育」「子育て」というだけで、敬遠される。出会い系マガジンとは、もともと
性質が違う。……と、そう自分をなぐさめながら、画面を閉じた。読者の方が多いというのは、
たしかに励みになる。しかしその数にこだわる必要は、ない。またこだわってはいけない。この
文を書く、私は私。この文を読んでくれる、読者は読者。問題は、量ではなく、たがいをつなぐ、
心の質。そのことだけを考えて、マガジンを出せばよい。私がすべきことは、私の経験や知識
を、すべて吐き出すこと。あとの判断は、読者の方が決める。どう利用し、どう応用するかは、
読者の方が決める。私ではない。
(03−1−13)

●色は人を迷わさず。勝手に人が迷う。(金瓶梅」)
●禁欲主義といふやつは、矛盾を秘めた教へで、いわば生きてゐながら、生きるなと命ずるや
うなものである。(坪内逍遥「断片」)
●愛欲より憂いを生じ、愛欲より畏(おそ)れを生ず。愛欲を離れた人に憂いなし。(釈迦「法句
経」)
●世間の人は虎(とら)を、性欲の虎を放し飼ひにして、どうかすると、その背に乗って滅亡の
谷に落ちる。(森鴎外「断片」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


居心地のよい世界

 ある程度の年齢になると、人は、居心地のよい世界を求め、その世界に住むようになる。冒
険や変化よりも、安穏(あんのん)や反復を好むようになる。言いかえると、そのどちらに自分
が近いかで、自分の若さと老化を知ることができる。

 昔、だれだったか、こんなことを書いた人がいた。「丸太小屋を建てるなら、五〇歳までが勝
負です。それ以後になると、建てようとする気力そのものが、消えうせます」と。

 その記事を読んだとき私はまだ、四〇歳のはじめごろだった。だからそのときは、「そういうも
のかなあ」と思っていた。しかし実際、私が五〇歳を過ぎてみると、「そのとおりだ」と思うように
なった。

 丸太小屋を建てるというのは、たいへんな重労働。毎週、土日は山に入って、工事をしなけ
ればならない。体力も、気力も、ふつうでは、できない。それ以上に、「建てたい」という強烈な
パワーも必要だ。

 私も、六年をかけて、土地づくりから、石組み、道路づくりを、自分でした。そういうものを作る
楽しみもさることながら、完成したときの喜びを想像するのは、もっと楽しかった。ある日、家の
敷地に、大きなイスをもってきて、そのイスの上に立って、まわりの景色を見たことがある。「家
ができれば、家の中から、こういう景色を見ることができる」と。齢をとると、そういう想像力も、
急速に衰えていく。

 そこで改めて、自分に問うてみる。私は、今、居心地のよい世界を求めているか、と。またそ
れはどの程度か、と。

 そう言えば、もう一つ、自分を知るバロメータがある。私は、四〇歳になるころまで、「いつか
はオーストラリアに移住しよう」と、そればかりを考えていた。そのため、たいへん中途半端な
生き方になってしまったが、それはそれとして、四〇歳を過ぎるころから、その考えは、これま
た急速に、なりを潜(ひそ)めた。「日本で住んだほうが楽だ」という思いが、やがて強くなり、
「オーストラリアに住んで何になる」「旅行で行けばいいや」という思いが、反対に強くなった。私
の気力は、そのころを境に、転換期を迎えたことになる。

 そこで改めて、居心地のよい世界とは何かを考えてみる。

 まず慣れ親しんだ環境ということになるが、これには二つの意味がある。物理的な環境と、精
神的な環境である。物理的な環境というのは、土地、風俗、習慣、言葉、生活、仕事ということ
になる。

 しかし問題は、精神的環境である。たとえば私は今、自分の心の中をのぞいてみたとき、ど
こかで居心地の悪い思想や、哲学を、避けているのがわかる。一五年ほど前には、いくつかの
カルト教団を相手に、雑誌や新聞、さらには本まで書いて、戦ったことがある。それはまさに壮
絶(そうぜう)な戦いだった。いつ殺されても、おかしくないような状態だった。が、今は、もうそう
いうことをするのが、めんどうになった。おっくうになった。

 私はこうして毎日、いろいろなことを考え、そして文章にしているが、書きたいことを書いてい
るだけ? 気がついてみたら、そうなってしまっていた。つまりこれが私の、精神的に慣れ親し
んだ環境ということになる。

 そこで今度は、あなた自身はどうかと考えてみてほしい。多分、このエッセーを読んでいる人
は、私より若い人が多いと思う。読者からのメールを見ても、大半は女性だと思う。あなたは
今、どの程度、冒険や変化を求め、一方で安穏や反復を求めているだろうかということ。

私の印象では、これには、かなりの個人差があると思う。すでに二〇歳くらいで、安穏や反復
を求める人もいれば、五〇歳前後になっても、冒険や変化を求める人もいる。こと精神的な若
さということになれば、それは年齢という数字ではない。二〇歳でも老人は、老人。五〇歳でも
青年は青年ということになる。

 どちらがよいかということになれば、当然、冒険や変化を求めて生きるほうがよいに決まって
いる。前向きに生きるというのは、そういうことをいう。またそのほうが、人生を、何倍も濃く、か
つ長く生きることができる。そしてその分、あなた自身の人生を明るく輝かすことができる。

 では、どうすれば、私たちは、精神的な環境の中で、若さを保つことができるか。私のばあい
は、たいへんラッキーなことに、ほとんど毎日、何らかの形で、幼児や小学生と、直接接してい
る。これが私には、たいへんプラスに働いている。ふと油断すると、自分自身を、まだ中学生く
らいに思うときさえある。

 しかしこれはあくまでも私の特権のようなもの。そこで私は、今、このエッセーを読んでいる人
に子どもがいるなら、こう提案したい。「子どもを子どもと思うのではなく、友として迎え、子ども
の横に立ち、子どもと一緒に、人生をもう一度、楽しみなさい」と。

 遠慮することはない。気負うこともない。親だというメンツだの、権威など、クソ食らえ! ……
そういう思いで、もう一度、子どもの世界に飛びこんでみる。そうすれば、あなたは今、もうすで
にどこかで求め始めている居心地のよい世界を、粉々に破壊できるかもしれない。

「ママ、いっしょにマジギャザしようか」
「いいわねえ」
「パパ、今度、モー娘のコンサートに行こうよ」
「よし、行こう。おもしろそうだ」と。

 いつかは、老後はやってくる。そしていつかは、居心地のよい世界を求め、そこに住むように
なる。これは人というより、あらゆる動物がもつ、宿命のようなものかもしれない。あのサケだっ
て、太平洋を旅したあと、最後は自分の故郷の川に戻って死ぬというではないか。

 ただその時期は、私たちの心がまえと意志によって、遅らせることはできる。ひょっとしたら、
六〇歳になっても、七〇歳になっても、精神的な世界で、冒険と変化を求めつづけることがで
きるかもしれない。

 ところでこんな話もある。私の山荘仲間に、T氏(同じ五五歳)がいる。彼は、一軒の山小屋を
すべて手作りで建てた人だが、このところ、彼の山荘を訪れても、いつもいない。工事も、この
五年ほど、ストップしたまま。ほとんど進んでいない。一〇年ほど前には、いつも行ったり来たり
しながら、たがいに励ましていたのだが……。そういえば、いつか、T氏がこう言ったのを覚え
ている。

 「林さん、こういう生活が楽しいのも、子どもたちが小さいうちだけですね。子どもたちが大きく
なると、もうこういうところへ来てくれません」と。T氏には二人の娘がいたが、娘たちが小学生
のときは、毎週のように山荘へ来て、あれこれ手伝ってくれたという。しかしその娘も、中学生、
高校生となると、山荘には見向きもしなくなったという。それで、「山荘ライフの楽しみも、半減し
ました」と。

 そのT氏のことを考えながら、「さあて、これからも冒険をするぞ! 居心地のよい世界を求
めないぞ!」と、今、私も叫んでみた。どこか頼りない声で……。
(03−1−13)

●幼児は、ガラガラ太鼓を喜び、人形に夢中になる。少し大きくなると、活発に動き、今度は、
無意味な音の大きい玩具を好むようになる。青年は僧衣、勲章、黄金を喜び、さらに老年にな
ると、念珠や祈祷(きとう)書をもてあそぶようになる。いずれも他愛なきことは同じ。やがて人
はみな、疲れ果てて、眠りにつき、それで人生の悲しい遊びは終わる。(ポープ「人間論」)
 ポープ……Alexander Pope 、1688−1744、イギリスの詩人



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          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
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\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-24

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 579人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
03−1−24号(169)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

Q:やさしいのはいいのですが、おばあちゃんが、子どもを甘やかして困ります。ベタベタに手を
かけているのですが…。※

A:旧世代の親は、子どもに手をかけ、子どもによい思いをさせることを、「かわいがる」と言っ
た。そして親にベタベタ甘える子どもを、かわいい子イコール、よい子とした。反対に、独立心
が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、鬼っ子として嫌った。

 この依存性は相互的なもので、子どもに依存心をもたせることに無とんちゃくな親というの
は、一方で、その親自身も依存性の強い人と考えてよい。だからどうしても、子どもの依存心
に、甘くなる。

 こうした日本人独特の子育て観の背景に、これまた日本人独特の子ども観がある。昔から日
本では、「女、子ども」という言い方をして、子どもを、一般社会から切り離し、別社会に置いて
きた。

戦後、女性はそれなりの地位を確立したが、子どもは取り残された。そのため今でも、「産んで
やった」「育ててやった」と言う親は、いくらでもいる。一方、子どもは子どもで、「産んでもらっ
た」「育ててもらった」と言いだす。親は子どもに恩を着せることで、子どもに依存し、子どもは
親に恩を着せられることで、親に依存する。そしてたがいにベタベタの人間関係をつくる。

で、このタイプの親ほど、ことさら子どもに親孝行を求め、子どもは子どもで、親を必要以上に
絶対化したり、美化したりする。しかしそれはまさに、『甘えの構造』(土居健郎氏)そのものと
いうことになる。

 今、日本では旧世代の子育て観と、新世代の子育て観が、はげしく対立している。たとえば
子どもをはさんでの、嫁・姑の、壮絶なバトルを繰りかえしている家庭は、いくらでもある。しか
し結論から先に言うと、最終的に、別居さもなければ離婚という状況が考えられないのであれ
ば、あきらめて受け入れるしかない。おばあちゃん子にしても、それなりの問題はあるが、全体
としてみれば、マイナーな問題。デメリットもあるが、しかしそれ以上にメリットも多いはず。母親
は母親で、そういうメリットをうまく生かして、前向きに、外の世界で、仕事でも何でも、好きなこ
とをすればよい。そういう姿勢が、一方で子どもによい影響を与える。

 私の調査でも、子どもの出産前から老夫婦と同居したばあいは、たいていうまくいくことがわ
かっている。問題は、出産後、途中から同居したばあい。子どもが大きければ大きいほど、摩
擦も大きくなる。そのとき母親側の一番の悩みごとは、「老夫婦の健康」だが、つぎは、「子ども
の教育に口を出す」である。私たちもいつかは、その老夫婦になるわけだから、今からこのこと
は肝に銘じておいておいたほうがよいかもしれない。「同居しても、孫の教育には口をはさまな
い」と。
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


Q:自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。※

A:不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。

 子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。

 ただ心配なのは、あなた自身に、何かわだかまりがあるとき。これをフロイト(オーストリアの
心理学者、一八五六〜一九三九)は、「偽の記憶(false memory)」といった。「ゆがめられた記
憶」と私は呼んでいるが、トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではない。心のゆが
みのようなもので、そのためどこかすなおになれないことをいう。そのゆがめられた記憶は、そ
のつど、あなたの心の中で「再生(recover)」され、あなたの子育てを、裏からあやつる。もしあ
なたが子育てをしていて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、このわだかまりをさ
ぐってみたらよい。

 望まない結婚であったとか、予定していなかった出産であったとか。仕事や生活に大きな不
安があったときも、そうだ。あるいはあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、
家庭が不安定であったとかいうこともある。この問題は、そういうわだかまりがあったということ
に気づくだけでも、そのあと多少時間はかかるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに
気がつかないまま、そのわだかまりに振りまわされること。そのわだかまりが、虐待の原因とな
ることもある。

 今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、七%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。

 あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。そのうち友として子どもの横を歩くことだけを考えて、
あとはなりゆきに任せればよい。一〇年後、二〇年後には、あなたは必ず、すばらしい親にな
っている。

   /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/   みんなで力をあわせて、日本の教育、
   |∂  −  ξ └┘|\   日本の子育てを、変えましょう!
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 目の前で、ヒヨドリの子どもが、親鳥にエサをねだっている。羽をブルブルと震わせている。し
かし親鳥は、少し距離をおいたところで、知らぬフリ。ときおり、キーッ、キーッと甲高い泣き声
を空に響かせる。

 私はこういうとき、ふと、どうして生きているのだろうと思う。ヒヨドリもそうだが、私も、だ。今
日も、これからやるべきことをやるだけ。それほど大きな目的があるわけでもないし、楽しみも
ない。少し疲れているせいかもしれない。体力を消耗すると、気力も弱くなる。きのうは、往復
二時間もかけて、O村の幼稚園で講演をしてきた。そのあと、夜、九時半まで仕事。このあたり
が、そろそろ体力の限界かもしれない。

 気がつくと、ヒヨドリの親子は、そこにはいなかった。あたりをさがしてみたが、わからない。
「わからない」というのは、朝日が、木々の間からこぼれるようにさしこみ、葉っぱが風にのっ
て、サワサワと揺れているからだ。そう言えば、昔、幼児向けの教材に、こんなのを作ったこと
がある。木の陰にいくつかの動物を並べて、「何がいますか?」と。全体としては、森のシルエ
ットになっているのだが、よく見ると、いろいろな動物の形がそこに隠れている。

 遠い昔のような気もするし、つい最近のことのようにも思う。あるいは、自分のことでないよう
にも、思う。何かをしてきたはずなのに、その実感が、あまりない。ある時期、私は、幼児向け
教材づくりに没頭したことがある。しかしあのころの私の努力は、何であったのか? あのころ
の私は、どこへ行ったのか?

 どうも、今朝の私は、何かにつけて、ものごとをマイナスに考えるようだ。やはり疲れているせ
いかもしれない。こういうときは、あまりものを書かないほうがよい。あまりよい文章は書けな
い。自分でもそれがよくわかっている。だから、今朝は、ここまで。これから朝食を食べて、元
気をつける。がんばるしかない。やるしかない。何も考えないで、まず、やるべきことをやる。そ
のうち気力も、もどってくるだろう。
(03−1−17)

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
父親、ヨセフ

●存在感の薄い、ヨセフ
 イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説に
よると、ヨセフは、マリアと婚姻関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとされる。ま
た一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知らせなか
ったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死んでい
る。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であったのか、
と。

 この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のよう
な門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみた
い。

●母親は絶対
 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方
法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母
親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。
このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。

 たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればか
りか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いを
もつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちが
いない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。

 実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえな
れば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女に
は、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。もし男も女も、同等の快感であ
ったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想される「重荷」を考えたら、とても
割にあわない。たとえば男というのは、そのセックスの途中であっても、冷静に、女の反応を楽
しむことができる。しかし女はそうではない。無我夢中というか、我を忘れてセックスの快感に
酔いしびれる。またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深
い。恐らく長い間の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと予
想される「重荷」を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがあるから、女も、
あと先のことを考えることなく、セックスに没頭することができる?

 となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはでき
る。

●親は、母親だけ?
 人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代において
は、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたの
は、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかっ
たのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると
考えられなくもない。

 で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在するこ
とがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高
さを、ことさら美化している。しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が
確立した、「現代」から見た視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛
盾する。おかしい。おかしいから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?

 しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、
家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、…
…つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであっ
たと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改めら
れたのは、戦後のことである。

●母親と父親は平等ではない?
 こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のも
のでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意
識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と
疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この
子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映さ
れるかのように、子どもの心となる。

 つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっ
とあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が
確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しず
く」。

 そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父
親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意
識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいな
い。

●母親は父親を立てる
 で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子
どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子どもが父親と
の関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と
子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。

 つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高め
る。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手
を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さ
んにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子ども
は、父親像を学ぶ。身につける。

●父親ヨセフの苦悩
 こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるために
マリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということ
になる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? 
……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。ある
いは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。

 妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめる
と、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状
況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗
り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」というような論陣を張るが、それはあくまでも結
果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人物になったから言えることであって、そうでなか
ったら、そうでなかったであろう。

 いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親
のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イ
エス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいは
それこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか? 

 「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マ
リア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきか
っけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにで
も、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)


    /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
【4】今、考えていること∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

意識

 その立場になると、その立場の考え方や意識が生まれる。その「生まれる」ことは、当然だと
しても、それが一般社会から遊離し始めることも、珍しくない。H市の市役所に三〇年近く勤め
る、S氏はこう言った。「林さん、H市は、工員の町だよ。工員に金をもたせてはいけないよ。だ
から娯楽施設をたくさん作って、お金を使わさせなければなりません」と。市役所に長く勤める
と、自分が公僕であるという意識すら忘れるようだ。そう言えば、少し前、家庭訪問をしながら
小口の掛け金を集める業務を、「ドブさらい」と言った銀行マンがいた。

 こうした意識は、その地位や立場が高くなればなるほど、遊離する。そこで問題は、二つあ
る。ひとつは、遊離した側の問題。もうひとつは、それをみる私たち庶民の問題である。

(遊離した側の問題)
 研究にたずさわる人を、教育者と呼んでよいのかどうかという問題もあるが、この日本では、
研究ですぐれた業績をあげた人を、そのまま教育者としてたたえる傾向がある。私も、数多く
の、その「教育者」に会ってきたが、もちろんたいはんは、すぐれた人格と、高邁(こうまい)な
思想をもっている。しかし中には、肩書きや地位だけをぶらさげて、必要以上にいばったり、人
を見くだしている人がいる。私に、「君は偉そうなことを言っているが、文部省あたりから仕事が
回ってくれば、喜んでシッポを振るくちではないのかね?」と、メールを書いてきた某大学教授
がいた。どこかの会議で、私が無肩書きとわかったとたん、態度を急変した、某元大学学長も
いた。

 そういう人を見ていると、意識的にそうしているというよりは、その意識を超えた世界で、そう
しているのがわかる。「見くだしている」という自覚すら、ない。

 問題は、なぜ人はそうなるかということ。私にもこんな経験がある。以前書いた原稿を転載す
る。

+++++++++++++++++++++++

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘
れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践
(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれ
た。「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われてい
る。しかし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、
世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換
えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を
基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分
の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなく
ても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事
休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければなら
ない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外
側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければ
ならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいてい
はグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、そ
れなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなく
なってしまう。

が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいことはない。私が知っている人の中でも、有名
になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢(ごうまん)になり、自分を見失ってしまった人はい
くらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたく
ないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。
もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければなら
ない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。

私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことがで
きる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転
手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点
だ」と思いなおすようにしている。

++++++++++++++++++++++

 もっともこんなことを、私が悩んでもしかたないことかもしれない。私は死ぬまで、今のままだ
ろうし、今のままの私を変えるつもりはない。問題は、そういう立場や地位にいる人をみる、私
たち自身の中にある。

(それをみる庶民の問題)
 その立場や地位にいる人が、どんな意識をもっているかは、それはその人の勝手。私たちが
とやかく言う問題ではない。問題は、(1)自分たちの意識で、そういう人の意識を推しはかった
り、判断してはいけないということ。つぎに(2)そういう人たちに、利用されてはいけないというこ
と。

 よい例が、たとえば日本の首相が、靖国神社を参拝するのと、一般庶民が参拝するのとで
は、意識はまるで違うだろうということ。首相の心の中まではのぞくことはできないが、おそらく
首相には、「自分は選ばれしもの」イコール、特別な存在であるという意識があると思う。また
その意識が頂点に達している。そういう意識が背景にあって、靖国神社を参拝するのと、私た
ちが参拝するのとでは、まったく意味が違う。えてして私たちは、自分たちの意識で、相手を判
断する。それはまちがってはいないが、しかしそれこそ、同時に、相手の思うツボ。こういう立
場にいる人は、それをうまく利用して、自分の立場や地位を保全し、かつ自分の利益とする。

 こんなことがあった。

 夜のニュース番組の中で、消費税が問題になった。ゆくゆくは、現行五%から一六%にまで
引きあげられるのだという。そうでもしないと、今の日本の国家経済を支えることはできないら
しい。そこで解説者が、「毎年一%ずつあげるという案もあります」とコメントを述べた。するとそ
の司会者は、「毎年ですかア……」と、にわかに顔を曇らせ、「私たちの生活はたいへんになり
ますね」と、ポツリと言った(〇三年一月)。

 しかし、だ。その司会者は、その番組だけでも、毎年、一億から二億円の収入があるという。
講演や司会業を含めたら、その数倍はある。そういう人が、「顔を曇らせる?」。私は思わず吹
き出してしまった。「何、言ってるんだ!」と。

 はっきり断言する。その司会者に、庶民感覚など、みじんもない。あるわけがない。仮にあっ
たとしても、そんなものは、とうの昔に、吹っ飛んでいる。こうした意識というのは、数年で変わ
る。早い人だと、もっと早く変わる。彼が顔を曇らせたのは、あくまでもジャスチャ。庶民を食い
ものにするジェスチャにすぎない。本当に正直な人なら、こう言うだろう。「おかげで私なんか
は、年収が二億円ありますから、消費税が二〇%になっても、どうということはないのですが…
…」と。つまりこの時点で、私たちは自分の意識で相手をみることにより、そのまま相手に利用
されていることになる。

 何とも皮肉なエッセーになってしまったが、(それだけ私がひがんでいるのかもしれないが…
…)、こうした意識の違いを理解するということは、そのまま相手を、よりよく理解する手だてに
はなる。私のばあい、初対面のときなど、相手の立場をそれとなく知ることで、相手の意識をで
きるだけさぐるようにしている。もっとも私の場合、子どものときから、それがうまく、すぐ相手に
合わせることができる。これは悲しきホスピタリズム(施設児症候群)の結果かもしれない。

 そして一方では、自分自身の意識の変化には、注意している。言うまでもなく、意識が遊離す
ればするほど、それは一般常識から意識が遊離することを意味する。「常識論」を、人生論の
根幹におく私としては、これはまことにまずい。遊離すればするほど、人生の真理から遠ざか
ることになる。そのことは、以前に書いたエッセーの中にも書いた。

 さて、あなたはどんな意識をもっているだろうか。あなたの夫や妻は、どうだろうか。もしどこ
か傲慢(ごうまん)な意識をもっているようなら、そういう自分とは戦ったほうがよい。傲慢にな
ればなるほど、自分を見失う。人生をムダにする。
(03−1−16)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


真理は「下」から見る

 人生の真理は、最底辺(ボトム)にある。私はこれを、「ボトム真理教」と読んでいる。(冗
談!) そのボトムから遊離したとたん、その人は真理から遠ざかる。言いかえると、いかにし
て自分の視点を「下」に置くか。それは生きる上で、いつも大きなテーマになる。

 たとえば私は一応「教育」の世界を歩いてきた。今も、歩いている。しかし私が歩いている世
界は、教育の中でも、まさにボトム。これ以下はないというボトム。今でこそ、多少、意見を聞い
てもらえるようになったが、以前はそうではない。虫けらの「ム」にもならないような立場だった。
同僚の女性教師にひっぱたかれたことは、何度かある。父親たちに怒鳴られたり、叱られたこ
とは数、知れない。殴られたことさえある。そういう世界に生きてきたから、そういう世界でしか
わからないものを、知ることができた。

 もちろんだからといって、そういう私が正統派だと言うつもりはない。しかし私からみると、た
いはんの教育者の教育論の甘いこと、甘いこと。どう甘いかは、書き始めたら、キリがない。子
育て相談のQ&Aにしても、まず、勉強不足。経験不足。それに何よりも、親や子どもの視点で
ものを考えていない。で、今、私のような人間がいて、こうして子育て論を書いているが、こうい
う原稿の中に、私がしてきた経験を感じてくれれば、うれしい。

 ……とまたまた、グチっぽくなってしまった。それがわかってもらえないから歯がゆいというよ
りも、実のところ、この日本の現状には、少しうんざりしている。とくに教育の世界はそうで、私
のような人間がいくら叫んでも、ビクともしない。カベは厚い。むしろ私のような人間は、日本と
いう社会には、必要でない人間なのかもしれない。いくら受験勉強の弊害を説いても、文部科
学省が、それを利用している現状では、どうしようもない。もしこの日本から、受験競争が消え
たらどうなる? 受験塾や進学塾は消えるが、同時に、日本の教育は崩壊する?

 これは教育の話だが、しかし人生も、また同じ。人生論を語るとき、「上」から見た人生論な
ど、一片の価値もない。上に出れば出るほど、自分を見失う。上に出ることが悪いと言ってい
るのではない。大切なのは、出ても、「下」の心を忘れないこと。もっと言えば、いかにすれば、
私たちは、下の心を忘れずにいることができるかということ。その努力だけは、いつもどこかで
しておかないと、自分の考えそのものが、真理から遊離してしまう。

 たとえば卑近な例だが、昔、ことあるごとに、「今の親は、なっていない」とか、「親のしつけが
なっていない」と、こぼす教師がいた。四五歳くらいの女性(当時)だったが、その女性は独身
だった。で、私は結婚はしていたが、まだ子どもをもっていなかった。それでその教師に同調
し、「そうですね」などと、言っていた。その教師の言うことには、一理あると思っていた。しかし
そういう傲慢(ごうまん)な考え方は、自分で子どもをもってみると、あとかたもなく、消えてい
た。

 反対に、もう少し高度な(?)話になると、こんなこともある。そのまま書けないので、少しデフ
ォルメするが、内容は、ほぼ正しい。

 今、日本の理科教育は、大きなデッドロックに乗りあげている。これは事実で、日本の子ども
たちの理科離れは、かなり深刻な状況にあると考えてよい。それで今、全国規模の研究会が
あちこちでなされている。そんな中、ある研究会に出ると、一人の教授が私にこう言った。私も
どこかの大学の教授だと思ったらしい。いわく、「問題は、どうやって現場の高校教師たちを、
おだてて、教育に専念させるかですよ」と。

 私はこの言葉を聞いて、ムッとした。「おだてる」という言い方が気に入らなかった。大学の教
授のほうが、高校の教師より「上」という意識が、まる見えだったからだ。一般世間が、「大学の
教授のほうが、高校の教師より上だ」と思うのは、それは世間の勝手だが、大学の教授自身
がそう思うようになったら、おしまい。今でこそ、そういう風潮は多少やわらいだが、三〇年前に
は、もっとひどかった、教育の世界には、明確な序列があって、高校教師の下が中学教師、中
学教師の下が小学教師となっていた。幼稚園教師は、番外。どこで何を発表しても、相手にも
されなかった。

 何が正しいか正しくないかということを知るためには、自分の視点を一度、「下」に置いてみな
ければならない。そしてものごとは、下から見る。「上」から見てはいけない。真理を探究するも
のにとっては、傲慢は、最大の敵。傲慢になったとたん、その真理を見失う。
(03−1−17)

●外に出てはいけない。あなた自身の身に立ちかえりなさい。内なる人にこそ、真理は宿りま
す。(アウグスティヌス「真の宗教」)

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       Z ⌒    |
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞










名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-26-1A

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 783人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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03−26−号(170)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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●また、本文がつまっていて読みにくいときは、やはり一度ワードにコピーしていただくと、ぐん
と読みやすくなります。お試しください。
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どもの情緒、SSさん(岐阜県)からの相談より……

「先生、ご無沙汰しております。
以前、四歳の息子のかん黙について相談させていただきました岐阜のSSです。
現在は五歳六か月になりました。

その後、保母に「言ってごらん」等の声かけをやめてもらったところ、たった三日で彼に笑顔が
戻り、保育園へ行かないというのも治りました。

しかし、慣れるとまたしゃべらそうとしたりの繰り返しで、なかなかうまくいきません。
一度ぽつりとしゃべったのを聞いたパートの先生がうれしくて、「もっと聞かせてよ」という具合
に朝夕のあいさつを強要し、おかげでまた、登園拒否になってしまいました。

先月、口唇裂の修正手術のために二週間入院したのですが、そのことを保母が、ほかの子ど
もたちに伝えたところ、「しゃべれるようになる?」と聞かれ、「そうかもよ」と言い、子どもたちは
「手術をしたらしゃべれる」という認識となったようです。

本人もです。「手術したらしゃべれるようになるよね!」と張り切っていました。

構造的なことと精神的なものは関係ありません。もともと発語について構造的な問題はありま
せん。本人が「しゃべれる」という気持ちになって、本当に他の人としゃべれたら本当にうれしい
ことです。

でも、逆のことを考えたら・・・。

術後、「まだしゃべられないよ」、しばらくして「テープが取れたらしゃべれるよ」と。

抜糸も終わった今はもう、このことにはふれません。

でも、保育園へ行くと私も子どもたちに「しゃべれるようになった?」と聞かれるので、本人もき
っと聞かれているのだろうと思います。

三歳までの間に一〇回以上の入院(完全看護)を経験しているので、母子分離不安が強く、風
邪、入院、冬休みと続き、「保育園へ行かない!」と、かなりの抵抗をするようになりました。

毎朝、布団から出ない、服を着せる→脱ぐ、カバンの中身を出して投げる→入れるの繰りかえ
しを、一時間から二時間ほど、母子で行います。もちろん食事なんて取れません。

やってるうちに私も悲しくなり泣いたり、怒ったり。
だんだん手を上げるまでの時間も短くなってきています。
ここまでして保育園に連れて行く理由を探しても見つからないのですが、保育園に行って、私
の姿が見えなくなると朝の準備もできるし、保育園での生活も楽しんでいるそうです。

今日は服も首を通しただけの状態で、裸足で連れて行きました。
見えなければ見えないで楽しくできるのならば、一度休ませたらクセになる・・・と思って、何とか
やっていますが、毎朝保育所から一人で帰宅すると、ものすごい疲労感と脱力感に教われま
す。

いつまでつづくのか、これで本当にいいのだろうか?

以上のことを保母と懇談などで話をしても「過保護な親」のレッテルを貼られていますので、言
えば言うほど悪い方へ向いているようです。

子どもがどうこうよりも、見えない障害を解ってもらえない、障害をもっているお子さんをお持ち
の母親どうしでも、「親としゃべれるだけ、いいじゃない」と相談も聞いてもらえない。

自分自身の心の余裕の問題のような気がします。

「待つ」ことができなくなってきました。

保育園が悪いわけではなく、私と離れるのが保育園だけなので、母子分離不安だと思います。

ほか、通院や母子通園などは、自分から起きてきて、着替えもちゃんとできます。

公立の保育園をやめ、最初からやり直した方がいいのでしょうか?
強制的に分離されていたあの頃の時間に立ち戻って、徐々に手を離していく。
それも必要なのかと思ったりします。

「生きてるだけでいいじゃない」と思っていたあの頃。
病院を出て、健常者の社会で生きていくためにはそれだけではいけないようです。
精神面が置き去りのまま、就学まであと一年という中で頑張っています。

「お母さんがいなくても、全然平気でしたよ」と、保母さんは言います。
本当に平気なのだろうか。見えなくなって気持ちの切り替えがちゃんとできているのなら、保育
園をやめないほうがいいし、無理にでも連れて行けばいい。

どっちつかずの態度が一番悪いと知りつつも、迷ってばかりの毎日です。
何かアドバイスを頂けたらと思い、メールしました。
どうぞよろしくご指導ください。」
(岐阜市SSより)

++++++++++++++++++++++++++++

SSさんへ

 メール、ありがとうございました。

 以前いただいたメールはさておき、ここではかん黙症と分離不安を中心に考えていきます。
少しSSさんの相談の件とは離れますが、お許しください。

 かん黙も含めて、「ふつうでない(何も、どこかにふつうがあるわけではないのですが……)症
状」を子どもが見せても、まず第一に、子どもには、その自覚はないということです。自分を客
観的に見ることができないからです。だから「しゃべりなさい」「どうしてしゃべらないの」「ほかの
子は、みんなしゃべっているでしょ」式の言い方をしても、無意味だということです。

 しかしもうすぐ、子どもに自意識が育ってきます。自分の姿を、客観的に見ることができる能
力と言ってもよいでしょう。だいたい小学三、四年生ごろだと思ってください。そのころになると、
自分と他人の違いを、自分で判断できるようになります。「ぼくは、ほかの子と違うぞ」「こんなこ
とをしていると、損をするぞ」とです。

 そういう自意識が育ってくると、自分で自分をコントロールするようになります。そうなると、こ
の種の心の問題は、急速に改善します。ほとんどのかん黙症の子どもが、この時期を境に、
症状が消えるのは、そのためです。ただ、情緒不安症状(心の緊張感が取れない、取りにく
い、緊張しやすい)は、そのまま残ります。しかしこれは多かれ少なかれ、だれにでもあること
で、しかたのないことですね。

 問題は、今、そういう症状があることではなく、この時期、あれこれ無理をして、症状をこじら
せてしまうことです。かん黙児(こう診断名をつけることは許されませんが、一般論として)のば
あい、自信喪失になったり、かん黙とは別の失語症になったりすることもあります。ですから今
は、こじらせないことだけを考えて、気楽に構えてください。ここに書きましたように、時期がくれ
ばなおります。そしてその時期まで、あと三、四年です。

 そんなわけで、今、「あなたはおかしい」式のラベルを張らないこと。子どもに、わからせない
ことです。残念ながら、保育園では、ほかの子どもたちが、「しゃべれるようになる?」とか、勝
手に騒いでいるようですが、これは、少しまずいですね。保育園でも話題にしないよう、つまり
無視してくれるよう、保母さんに話してみられてはいかがでしょうか。

 育児は、そうでなくても、たいへんな重労働です。「ものすごい疲労感と脱力感に教われます」
というのは、何もSSさんだけのことではありません。いろいろな調査によっても、約七〇%強
の母親たちが、そう感じています。つまり育児というのは、もともとそういうものだという前提で
つきあうしかないようです。

 で、かん黙にせよ、分離不安にせよ、ポイントは、いかにして子どもの心の緊張感をとるかと
いうことです。それには、まず子どもを絶対的な安心感、全幅的な愛情で包むことです。「絶対
的」というのは、子どもの側からみて、「不安や疑いをいだかない」という意味です。最近の研究
では、こうした子どもの情緒の問題は、生後まもなくから乳児期の、親の接し方のどこかに問
題があったからということがわかってきました(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。しかし過
去をとやかく言っても、はじまりません。

 今もそうで、子どもに示す愛情の質、とくにスキンシップの質を高めます。濃厚なスキンシップ
が効果的なことは言うまでもありません。多少の抱きグセがつくかもしれませんが、子どもが望
む間は、手をつなぐ、抱っこしてあげる、添い寝をしてあげるなど、そのつどスキンシップを農
耕にしてください。中に「依存心がつくからダメだ」という人もいますが、スキンシップと依存心は
関係ありません。むしろスキンシップを繰りかえすことにより、ストレスが多いと出るホルモン
が、抑制されることがわかっています(マイアミ大学、T・フィールド博士ら)。さらにサイレントベ
ビーの名づけ親である、柳沢さとし氏は、こう述べています。

「母親たちは、添い寝やおんぶをしなくなった。抱きグセがつくからよくないという誤解も根強
い。(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 概してみても、日本人は、スキンシップの少ない民族です。ですからSSさんが、思い切ってス
キンシップを多くしても、国際標準からは、まだほど遠いほど少ないとみてよいのです。遠慮せ
ず、お子さんを抱きなさい。今しかないですよ。子どもの肌のぬくもりを感ずることができるの
は!

 「健常者」という言葉は、いやですね。日本人がアメリカ人を見て、「ガイジン」というのに似て
います。

 私の長男は、今、知的な障害者のある人たちが集まって運営する会社で、指導者としての仕
事をしています。彼が自ら選んだ仕事ですが、「みんな、まじめな人たちばかりだ。一日だっ
て、休む人はいない」と言っています。まじめにまさる美徳はありませんね。長男は、障害のあ
る人たちに、むしろいろいろなことを教えられているようです。つまりですね、今日があり、明日
があるように、一〇年後にも、二〇年後にも、「今日」はあります。まったく今と同じような「今
日」があります。ですから、恐れないで、必要以上に心配しないで、前に進んでください。世間
の人たちは、決して冷たい人ばかりではないですよ。このマガジンを読んでいる読者の方々み
な、(多分)、SSさんの味方ですよ。みんなが、あなたのお子さんを守ります。またそういう社会
を作ります。みんなで、めざそうではありませんか! 心豊かな、弱者に温かい社会を、です!

 今日は今日で、やるべきことをやりましょう。懸命に、です。虚脱感や脱力感を覚えたら、「よ
くやった」と自分で自分をほめてあげましょう。それでいいのです。「これでいいのか?」と迷っ
たら、すかさず、「やるべきことはやった」と自分をなぐさめます。私はいつもそうしています。だ
って、先のことを悩んでも、しかたないですよね。どうせ生きていかなければならないのですか
ら……。

 あまりよい回答になっていないかもしれませんが、もしまだマガジンをお読みでないようでした
ら、ぜひ、ご購読ください。無料です。申し込みは、「はやし浩司のホームページ」から、「マガジ
ンコーナー」へ。どうぞおいでください。

 なお、勝手にメールを転載させていただくことにしましたが、どうかご了解ください。一月二六
日号に掲載させていただく予定です。つごうの悪いところがあれば、至急、お知らせください。
改めます。
(03−1−18)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

以前書いた原稿を転載します。
これは母親側の失敗例を書いたものです。
もちろんSSさんのことではありません。
こういう失敗もあるという立場でお読み
くだされば、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++++++++

かん黙児

悪循環から抜け出る法(身勝手を捨てろ!)
教師が子育ての宿命を感ずるとき

●かん黙児の子ども
 かん黙児の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。そ
の無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。指導とい
っても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神経をつか
う。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。が、その年の年
末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたことは、「いかにし
て、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談してきた。「心理
療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心理療
法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってしまいま
すので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者が二
人では、私の頭が混乱します」と。

●経過は一年単位でみる
 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽か
ったことに気づく。あとはその繰り返し。私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝っ
てはいけません。子どもと視線を合わせてもいけません」と言った。が、親には一か月でも長
い。一週間でも長い。そういう気持ちはわかるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出
す。一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情
緒障害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、ど
うだったか」と。一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、
親にはそれもわからない。最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。ある
いは太いパイプを作ってしまう。初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適
切な処置をすれば、「障害」という言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を
聞いたとき、別のことを考えていた。

●「そんな冷たいこと言わないでください!」
 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どもがかん黙児とわか
った。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音楽教
室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。それが今度は、「心理療法士にか
かっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます」と。母親自身が、子どもを受
け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだわっている。もうこうなると、私に指
導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってください」と言うと、母親は
突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 私を突き放すようなこ
とを言わないでください!」と。

●親は自分で失敗して気づく
 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいてい
の親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化
させる。それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状
態になっている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい
言い方だが、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

(参考)
●かん黙児
 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。

●ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。

 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。

 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。
かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/   みんなで力をあわせて、日本の教育、
   |∂  −  ξ └┘|\   日本の子育てを、変えましょう!
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【2】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ドライブの途中で

 今日、ワイフに、車の中で、こんなふうに、話しかけた。

 「あと、一〇年か、二〇年か、何年生きられるかわからないけど、これからは、思いっきり、心
豊かな人生を送ろうね。おたがいに、思いっきり、心を開いて、思いっきり、言いたいことを言っ
て、したいことをしようね」と。

 するとワイフは、こう言った。

 「あなたの言うことは、いつもジジ臭い。まだ五五歳でしょ! あなたは若いときから、言うこと
だけはジジ臭いと思っていたけど、ますますジジ臭くなったわ」と。

 驚いて、「どうしてジジ臭い?」と聞くと、「あなたの年齢で、そんなこと言う人はいないわよ」
と。

 「じゃ、どういうふうに考えればいい?」
 「そんな、明日にでも死ぬようなことを言うから、おかしいのよ」
 「本当に、明日、死ぬかもしれないよ。交通事故か何かで……」
 「簡単には死なないわよ」
 「わからないぞ、それは……。くも膜下出血で死んだ友人もいる」
 「だからジジ臭いの。そんな死ぬことばかり考えている人はいないの!」
 「お前は考えないのか?」
 「考えるわけないでしょ。私は八五歳まで生きるの!」
 「まだ三〇年もあるぞ」
 「そうよ。だから、考えないの!」

 どうしてうちのワイフは、こうも楽天的なのかと思う。情緒不安や精神不安とは無縁の女性
で、いつもフトンに入ると、朝までイビキをかいて寝ている。私はときどき、夜中にワイフを起こ
して、「眠られないよ」とこぼすことがある。が、結婚して以来三〇年、ワイフが私に対してそうし
たことは、一度もない。だいたい夢すら見ないという。(見るのだそうだが、起きると同時に忘れ
るのだそうだ。)

 「ぼくはね、お前と違って、はるかに真理に近いところにいるよ」
 「死ぬことばかり考えるのが、真理なの?」
 「時間がないということ……」
 「いくらでも、あるじゃない?」
 「ない!」
 「ある! だからあんたはかわいそうな人なの。いつも何かに追われている。そういうのを、
貧乏性というのよ」
 「まあ、追われているのではなくて、考えるのが趣味みたいになっているからね」
 「そうね」
 「そうだな」

 途中、左を、左ハンドルの外車が走りぬけた。それを見て、ワイフが、「あれっ、あの車、左シ
ートよ」と。そこで私が、「左シートとは言わないの。左ウィンドウって言うの」と。が、しばらく考え
て、二人で笑った。

 「ぼくら二人とも、アルツハイマーみたいだね。左ハンドルを、左シートとか、左ウィンドウとか
……」
 「そうね、外車なんて、縁がないから……」
 「そうだね」と。

 見ると、澄んだ空気の向こうに、きれいな夕日が沈むところだった。明るい橙色の光線が、幾
重にも重なって、車の窓の中に注いでいた。
(03−1−17)

   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃
   〃_〃    〃ο〃
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――    子育てって、奥が深いのね!
   \ /    \ /     そう、ラーメンの味と同じだね!
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

閉ざされた心

●心を開く人、開けない人
 心を開くということは、開くことができる人には簡単なことらしい。しかし開くことができない人
には、簡単ではない。開くということが、どういうことさえわからない。その前に、その自覚さえな
い。

 このことは、子どもを見ればわかる。子どもにももちろん、心を開くことができる子どもと、そう
でない子どもがいる。心を開くことができる子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげた
りすると、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。心底、
うれしそうな顔をする。

 心を開かない子どもは、そうした親切ややさしさが、すなおにしみこんでいかない。心のゆが
みを伴うことが多い。ひねくれたり、いじけたり、すねたり、つっぱったりする。簡単な見分け方
としては、抱いてみればわかる。心を開いている子どもは、抱いてあげると、そのまま力を抜い
て、体をすり寄せてくる。そうでない子どもは、そうでない。あるいは甘え方を見ればわかる。心
を開いている子どもは、甘え方が自然。「自然」というのは、子どもらしいということ。全幅に自
分の心を開いて甘える。そうでない子どもは、そうでない。

●乳幼児期に決まる「心」
 この違いは、どうやら乳児期に決まるらしい。親の豊かな愛に恵まれて育った子どもは、心を
開くことができる。そうでない子どもは、心の開き方すら知らないまま、大きくなる。もう少し専門
的には、そのカギを握るのは、「愛着(attachment)」ということになる。最近の研究では、乳児
から親への愛着行動があることがわかってきた(※)。それまでは、愛着行動は、親から乳児
への一方通行と考えられていた。その乳児から親への愛着行動が妨げられると、子どもに
は、さまざまな反応が現れることがわかっている。

 つい最近もらったメールには、こんなのがあった。それまでは、その子どもは、父親と母親で
寝ていた。が、事情があって、子どもをベビーベッドに移した。とたん、その子どもの首がまが
ったまま、もとに戻らなくなったという。そこで母親は整体師のところへ連れていったが、なおら
なかった。しかし、また前のように、川の字になって寝たとたん、首がなおったという。

 こうした例は、本当に多い。子どもの心は、私たちが考えるよりはるかに複雑で、デリケート。
「たかが子どもではないか」と、安易に考えてはいけない。

●それは私たちの問題
 ……が、問題は、このことではない。子どもの問題は、実は、私たちおとなの問題でもある。
あなたにも子ども時代があった。そしてその子ども時代の結果として、今のあなたがいる。言い
かえると、あなた自身はどうかということ。というのも、「心」というのは、乳幼児期に決まり、そ
のあと、その心は、そのまま生涯つづくということ。途中で、変わるということは、まず、ない。つ
まりあなた自身が、心豊かで、愛情あふれる家庭で育ったのなら、よし。そうでないなら、あな
たの心のどこかに、その「ゆがみ」があるということ。こう断言するのは、たいへん危険なことか
もしれないが、そう疑ってみる価値は、じゅうぶん、ある。

 あなたは心を開くことを知っているか。心を開く人をもっているか。だれかに対して、心を開く
ことができるか。

 実はこれは私にとっても、ずっと大きなテーマだった。私は子どものころ、愛想のよい子ども
とよく言われた。しかしその「愛想のよさ」は、むしろ自分の不幸な過去が原因であることを知っ
た。話せば長くなるが、幼児教育という世界に飛び込んでみて、それがわかった。と、同時に、
私は心を開くことができない、さみしい人間であることを知った。氷だけの冷たい世界に住んで
いるのを知った。

 そういう私と結婚して、一番不幸だったのは、私のワイフではなかったか。それなりの愛情を
感じ、それなりの自覚をもって結婚はしたが、ワイフに対して本当に心を開いていたかという
と、そうではなかったような気がする。「どこか他人のような夫婦」とまではいかなかったが、私
は妻に甘えなかった。妻は妻で、私に甘えなかった。そのためよく対立した。けんかもした。妻
を受け入れる前に、私の思いどおりにならない妻を、ときには憎んだり、さげすんだりした。私
はワイフを全幅には、信じていなかった。よくワイフを疑い、その分だけ、嫉妬(しっと)した。

 しかしそれは妻に原因があったからではない。実は私に原因があった。が、それに気づくだ
けでも、何年もかかった。はっきりと自覚したのは、私が三五歳を過ぎてからではないか。同時
に、そのころから私は、自分の心を開くことを考えた。閉ざされた心の扉を開き、暖かい春の
風を入れようとした。方法はいろいろあった。しかしどのひとつも、決して楽な道ではなかった。
たとえばこんなことがあった。

●私のばあい
 私はずっと、幼児教育論を書いてきた。子育て論も書いてきた。しかし私にはひとつの不文
律があった。「決して、タダでは、私の知りえた情報を教えない」という不文律である。それまで
の虐(しいたげ)られた立場もあった。だれにも相手にされなかったこともある。とくにこの教育
の世界は、「権威」がモノを言う。どんなアホみたいな意見でも、「大学の教授が言った」という
だけで、私の意見は、スミに追いやられた。一方、親たちも、私の意見には耳を傾けなかっ
た。私はいじけ、ひがみ、そしてつっぱった。しかしそれはまさに、私の「地」でもあった。乳幼
児期にできた、「冷たい心」そのものでもあった。

そう、あのころの私は、どんなに困っている人がいても、またどんなに私がその情報をもってい
ても、決してタダでは、教えなかった。話を聞きながらも、当時の私は、「知ったことか」と。そう
いう人を見捨てるようなことを平気でしていた。……できた。つまり私は、「心を開く」ということ
ができなかった。「愛想がいい」と言われながらも、私はただ仮面をかぶっていただけ。

 しかしそれはまちがっていた。そのまちがいに気づき、そのまちがいを克服するために、私
が、どれほど苦労したかは、また別の機会に書くことにして、今もまだ、その過程にある。今年
満五六歳になるというのに、まだつづいている。たとえば今も、こうして原稿を書いている。電
子マガジンに載せるためである。しかしふと油断すると、あのころの自分が頭をもたげる。「ど
うしてこんなことをしているのか?」「無料で、子育て情報を流すとは、お前は、お人好しだな」
と。「心」というのは、そういうもの。昔の人は、『三つ子の魂、百まで』と言ったが、それはまさに
正しい。「百まで」というのは、「一生」という意味である。

 もしあなたが、自分の心を開くことができればそれでよし。また夫であるにせよ、妻であるに
せよ、そういう人がいればそれでよし。しかしもしそうでないなら、この問題は、これから先、あ
なたの一生をかけて解決する問題。解決しなければならない問題と考えてよい。

●自己診断してみよう
 もしあなたが、つぎの項目のうち、五つ以上、あてはまるなら、まずあなたの過去を冷静にみ
てみるとよい。この問題を解決するためには、まずあなた自身がそうであることに、気づくこと。
問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振り回
されること。もしあなたが妻なら、それでさみしい思いをしているのは、あなたの夫ということに
なる。あなたの子どもということになる。

【心を開けない人】
(1)外の世界で、自分をつくることが多く、そのため人と会うと、疲れやすい。
(2)いつも人間関係を計算し、自分の得にならない人とは、つきあわない。
(3)夫や妻以外に、心を割って話せる人がいない。友人がほとんどいない。
(4)他人の不幸な話を聞いても、ピンとこない。不幸な話を楽しむことができる。
(5)甘えたいとは思いつつ、いつも心のどこかでブレーキが働いてしまう。
(6)ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりしやすい。すなおになれない。
(7)捨てられる前に捨て、裏切られる前に裏切るというものの考え方をしやすい。
(8)人にやさしくされても、「どうして?」と、いつも相手の意図を疑ってしまう。
(9)疑い深く、ねたみやすい。夫や妻に対して、嫉妬(しっと)しやすい。
(10)ひとりになると、孤独感がひしひしと自分を襲い、不安になる。
(03−1−18)

※…… 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知
られた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることが
わかってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児
の発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥
が現れる。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示
す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒
否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由
で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の
分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、親の育児拒
否的な態度(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。

●さあ、あなたも心を開いて、外に解き放とう! 勇気を出して、みんなを迎え入れよう! 春
の暖かいそよ風のように! 明るくさんさんと輝く夏の太陽のように! みんなの心を、あなた
の温もりで、包んであげよう!

    /八))))ハ   ミミヽ
    / / へ へ   へ ミミ  ─┐
   ( | σ σ |  ∂  へ ミ  |
    )("  ) ")  ζ  ∂ ぅ
   / 八 ー 八┐ ( __  ノ─┐
   ((  >−< | >−< /|
    \\__ノ\ ∠__ × |
    ( \   / | \ )  /   視野を広く、大きくすること。
  / \   (3-─┼─-ε)  /     子育ての問題は、それで解決するよね!
  ──────────────┐
【4】不登校∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
後半部へ












件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-26-2

後半部です
【4】不登校∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どもの不登校について考えてみました。

+++++++++++++++++++++

Uさんのこと

Uさんと知りあって、もう八年になる。私が書いた本に、書評を送ってくれたのが、きっかけだっ
た。

 そのUさん(滋賀県O市在住)には、二人の子どもがいる。上の男の子は、今、中学二年生。
下の女の子は、小学五年生。上の男の子が、不登校を繰りかえすようになって、もう四年の月
日が流れた。終わってみれば四年など、あっという間だが、しかしその渦中にいる親や、子ど
もにとっては、そうではない。が、その長男の問題が片づかないうちに、今度は、下の女の子ま
で、不登校のきざしを見せ始めたという。


 先日、そのUさんから、こんなメールが届いた。

「はやし先生へ、
いよいよ、妹も不登校突入の模様です。
今日は家で二人がそれぞれに相手をせめたりけんかしたり、
マイナスの要因がぐるぐる渦巻いています。
どうしてか?、といつも考えています。
私の心の中にあるもののせいでしょうか?
学校信仰?、だけではなく、子どもも私も、
社会からの村八分を恐れて、
その恐怖から荒れるのではないでしょうか?
では私にいったいなにができるのでしょうか?
主人は週末は三日間いました。
彼も一緒になってめげています。
つぎの土曜日は学校の相談会に行く予定ですが……。

誰に話しても解決されるわけはないですね。
本当にすみません。

滋賀県O市Uより」と。

●私の息子たち
 私の息子の一人も、小学校の高学年のとき、毎年春先になると、不登校を繰り返した。「学
校恐怖症」による不登校ではなかったが、それでも三月から、夏休み前まで、ほとんど学校へ
行かなかった。

 しかし私もワイフも、ただの一度も、「がんばって学校へ行こう」などと息子に言ったことはな
い。むしろ「行きたくなければ、行かなくていい」と言った。不登校の原因がわかっていたから
だ。

 息子は、ひどい花粉症だった。そのため、夜も熟睡できなかった。私は病院の無菌室で使う
ようなビニールハウスを自分でつくり、それで息子のベッドをおおってやったこともある。空気
は、水槽用のポンプを使って、ビニールハウスに入れた。が、それでも症状は収まらなかっ
た。毎朝、顔中をパンパンにはらし、フラフラになって起きてくる息子に向かって、どうして「学
校へ行きなさい」と言えるだろうか。

 こうした状況で、私が、「行きたくなければ、行かなくていい」と、ふつうの親(?)とは違ったこ
とを言えた理由は、いくつかある。

 ひとつは、学校教育に、大きな期待をもっていなかったこと。(だからといって学校教育を否
定しているのではない。誤解のないように。)「いざとなれば、私が家庭教師をすればいい」と考
えていた。が、やはり何といっても、一番の理由は、「こいつは、生きているだけでいい」という
思いがあったからだった。その息子は、五歳のとき、あやうく水難事故で命を落すところだっ
た。生きているということ自体、奇跡に近いものだった。そのため、その息子のばあい、それ以
前も、それ以後も、「生きているだけでいい」が、子育ての基本になっている。

 同じような経験だが、今度はもう一人の息子に、同じような事件が起きた。いきさつはともかく
も、そのときは、さらに最悪のことを予想していたので、「何だ、そんなことか!」ですますことが
できた。……と書いただけでは、よくわからないと思う。もう少しだけ、詳しく書く。こういうこと
だ。

 たまたまそのとき、私は、HIV(エイズ)についての原稿を書いていた。今、急速な勢いで、陽
性者がふえている。とくに若者を中心に、ふえている。 

 京都大学のK教授の推計によれば、二〇〇二年、HIV(エイズ)の陽性者は、若者を中心
に、一万五〇〇〇人に達するだろうと言われている。そしてこの数は、今後二〇一〇年までの
八年間で、数倍以上の、五万人にまでふえるという(NHKのニュース解説・一一月四日夜放
送)。ここ一〇年のうちに、数万人単位でふえ、二〇一五年までに、陽性者は一五万人以上
(推計)になるという。

 それで息子の一人に電話をした。「気をつけるように」と言いたかった。しかし息子は、不在だ
った。そこで私は電話に伝言を残した。あれこれHIVの恐ろしさを説明した。が、その直後、そ
の息子から電話が入った。受話器をとると、「パパ、どうしても話したいことがある。ごめん!」
と。泣き声である。私は背筋が凍りつくのを覚えた。「どうした?」と聞いても、なかなか言わな
い。そこで私のほうが、こう切り出した。「何か、……困ったことでもあるのか?……病気のこと
か……?」と。

 すると息子は、こう言った。「ううん、ちがう。そんなことではない。大学を、落第してしまった…
…」と。とたん、私の中を風がスーッと通りぬけた。「何だ、そんなことか!」と。だからおもむろ
にこう言った。「まあ、そんなことはよくあることだ。気にするな。のんびり一年間、休暇だと思っ
て、好きなことをしなさい」と。

●希望も、絶望も、ただの虚妄
 希望にせよ、絶望にせよ、そんなものは、まさに虚妄。希望だと思うから希望は希望になり、
絶望だと思うから、絶望は絶望になる。とくに子どもの世界はそうで、子どもの世界には、希望
も、そして絶望もない。あえて言うなら、「生きている」ということ自体が奇跡で、それにまさる希
望などない。そして生きている以上、絶望など、ない。

 話はぐんと現実的になるが、どうして日本の親たちは、こうまで子どもの不登校を問題にする
のか? アメリカだけでも、学校へ行かず、家庭で勉強している、いわゆるホームスクーラー
が、毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇万人を超えた(〇一年度末推計)。九七年度に
は、一〇〇万人だったから、それまでの四、五年間で、倍にふえたことになる(LIF報告)。そん
なわけで子どもが学校へ行くのをいやがるとしたら、子どもに問題があるのではなく、学校、つ
まり今の教育制度のほうに問題がある。北海道のハシから沖縄のハシまで、画一、平等という
ことが、おかしい。あるいは何でもかんでも学校という発想が、おかしい。学校というワクに入ら
ないから、その子どもは落ちこぼれという考え方が、おかしい。

●意識の違い
 ……と書いても、Uさんには、何の助にもならない。それはわかっている。Uさんが願っている
ことは、「二人の子どもが、何とか、ふつうの子ども(ふつうの子どもというのはいないのだが…
…)のように学校へ行くこと」なのだ。そういうUさんに向かって、「行かなくてもいいじゃない」と
は、とても言えない。言えないが、意識というのは、そういうもの。一方の意識からみると、他方
の意識が、信じられないほど遠くにあるように思う。しかしその他方の意識からみると、一方の
意識が、信じられないほど遠くにあるように思う。どちらが正しいというのではない。またどちら
がまちがっているというのでも、ない。大切なのは、意識というのは、普遍的なものでも、また絶
対的なものでもないということ。今の意識がそうであるかといって、自分が正しく、相手がまちが
っていると思ってはいけない。そういう意味では、意識などというのは、実にいいかげんなもの
である。

 よい例が、カルトを信仰している信者たち。外の世界の人から見ると、とんでもないことをして
いるのだが、本人たちには、その自覚は、まったくない。むしろ「自分たちこそ、絶対正しい」と
いう確信のもと、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたはまちがっている」と断言する。そ
して愚にもつかない、バカげたことを平気でする。あるいは人間ロボットとなって、指導者の言
いなりになって動く。

 で、ある日、私は一人の信者にこう聞いてみた。「あなたは、一度、自分たちの指導者を疑っ
てみたらどうですか?」と。するとその信者はこう言った。「H教導様は、絶対に正しい。神の啓
示を受けられた方です。それに万巻の書物を読んでおられる」と。こうしたオメデタさは、たいて
いどのカルト教団の信者にも共通している。つまり思想を注入してもらうかわりに、自ら考える
ことを放棄してしまう。

 話がそれたが、意識というのは、そういうふうにして作られる。「私は私」といくら思っても、そ
の人を取りまく、もろもろの環境が、その人の意識を作っていく。たいていは合理的なものだ
が、そこに不純物がまざることがある。あるいは自分を超えた、もっと大きな力によって、流さ
れることもある。私が最初にそれをはっきりと意識したのは、私が学生のときだった。そのこと
を書いたのが、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。

++++++++++++++++++++++++

本物の自由を求めて

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●自由とは「自らに由る」こと
 オーストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由る」という意味だ。こんなこと
があった。

 夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一人、二、
三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっていた。で、私
たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑いながら黙って受け
取ってくれた。消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メ
−トルは吹っ飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこん
なこともあった。

 一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその朝、ガ
ールフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び込み、ベッド
ごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運んだ。公園といっ
ても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでい
たが、私たちは無視した。あとで振り返ると、二人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っ
ていた。それを見て、私たちは笑った。公園にいた人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。
風に舞うシーツが、やたらと白かった。

●「外交官はブタの仕事」
 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可
をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と
言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイ
ギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブタ」という言葉を使った。あ
の国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったくち
がっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内で、と考えていたようだ。
 
また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入
るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、
伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍
人になることイコ−ル、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があ
った。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。
またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英
雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民
地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本
へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するも
のがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。私たち戦後生まれの団塊の世代は、
就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと
信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知
らされた。時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

++++++++++++++++++++++++

●Uさんについて
 さてUさんの話。Uさんは、「社会からの村八分」という言葉を使っている。私には理解できな
い言葉だが、Uさんにしてもれば、きわめて深刻な問題に違いない。社会というのは、それ自
体、巨大な怪物。しかも得たいの知れない、怪物。たいていの人は、毎日の生活に追われるま
ま、何がなんだか、さっぱりわからない状態で生きている。ほとんどの人は、その社会に必死
にぶらさがりながら、懸命に生きている。が、その社会からはじき飛ばされたとしたら……。そ
れは恐怖以外の、何ものでもない。「村八分」という言葉は、そういうところから出ている。

 が、私の意識は、Uさんとは、まったく違う。
 
 その違いを話す前に、ここに少し書いた、アメリカのホームスクールについて書く。私の二男
の嫁の母親が、そのホームスクールの指導員をしている。学校へ行かないホームスクーラー
でも、希望すれば、州政府から指導員を派遣してもらえる。その母親が教えているのが、「家
庭経理(ホーム・エコノミー)」。それはそれとして、なぜ、アメリカでは、ホームスクールが力をも
っているかといえば、その理由は移民時代にまで、さかのぼる。

 もともとヘンピなところに家を構える人たちが多かった。だから「教育は家庭で」という考え方
が強い。そしてつぎのステップとして、親たちが集まって、学校を開いた。教師を雇った。これ
がアメリカの学校の原点である。だからPTAという組織にしても、親たちの権限は、日本とは比
較にならないほど、強い。教師の任命権から罷免(ひめん)権までもっている。カリキュラムの
内容にまで、口をはさむ。日本では、学校あっての生徒だが、アメリカでは、生徒あっての学校
である。

 そういうアメリカだから、「学校なんて」という考え方が強い。まさに「行きたくなければ行かなく
てもいい」という発想も、そこから生まれる。たまたま私とワイフが、向こうの児童館(アーカンソ
ー州、リトルロック市)を訪れていたら、そのホームスクーラーの一行が、遠足できていた。地
域のホームスクーラーたちが集まって、ときどきこうした行事をしているらしい。私が見たとこ
ろ、ピクニックみたいで、みんな、実に楽しそうだった。

 さて、そういう意識をもったアメリカ人が、もしUさんのメールを読んだら、どう思うだろうか。ま
だ私は理解できるが、おそらく理解さえできないのでは? 「どうして学校へ行かないことが、村
八分なのか?」と。こうした意識の違いが理解できないなら、もう一つ、こんな例がある。

 アメリカでは、学校の先生が子どもの親に、落第をすすめると、親は、それに喜んで従う。
「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落
第を頼みにいくこともある。が、日本では、こうはいかない。こうはいかないことは、あなたなら
わかるはず。

 それについて書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞経済済み)。以前にも取りあげたので、
前にも読んでくれた方は、とばしてほしい。

+++++++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

+++++++++++++++++++++

●子どもの心を忘れる親
 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち
は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな
相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい
るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義
 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、
家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され
る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち
 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く
を妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当して
いるケースは、わずか一%でしかなかったという。子どものしつけや親の世話でも、六割が妻
の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で
七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわか
ったという。内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は
比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない
人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、
積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、
家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を
平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義
 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの
は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ
のまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通
の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれ
が回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観
 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四
〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四
五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本
人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して
ほしい。

+++++++++++++++++++++

 つまりところ、子どもの不登校の問題は、子どもの問題ではない。親の意識の問題である。
「不登校は悪である」という前提で考え、またそのワクから出られないから、本来、問題でない
ものが、問題になってしまう。また親がそう思っているから、子どもの側にしても、その緊張感
からのがれることができない。だからいつまでも、ドタバタ劇(失礼!)がつづいてしまう。

+++++++++++++++++++++++

Uさんへ、

 つまるところ、Uさんが、どうやってUさん自身の緊張感を取るかということではないでしょう
か。それには、Uさん自身の価値観を変え、意識を変えることしかないと思います。この緊張感
がある以上、二人のお子さんも、その緊張感から解放されることはないでしょう。

 それにもうひとつ気になるのは、青年期の「心の風邪」について、どこか安易に考えておられ
ること。そうでないかもしれませんが、それでも足りないということ。この風邪は、数年から一〇
年単位で、症状が推移します。一年や二年で、症状が改善するということはありえません。い
え、本来なら、数か月で解決するはずの問題なのですが、その数か月のうちに、症状をこじら
せてしまうというケースが、たいへん多い。ちょっとした無理が、やっとよくなりかけた状態を破
壊する。それを繰りかえすうちに、症状がますますこじれる。そのため、ここでいうように、数年
から一〇年単位となってしまう……。どこかUさんの行動が、せっかちな(ごめんなさい!)の
が、たいへん気になります。 

 もうひとつは、子どもが不登校を繰りかえすと、親に与えるその重圧感は、相当なものです。
これは当然のことです。そこで今度は、親自身の心のケアが必要になってきます。ふつうは、
(この言い方は、いつも抵抗がありますが……)、夫婦がたがいに、ちょうどピンポン玉を渡し
たりもらったりするように、その重圧感を分担します。が、Uさんのばあい、Uさんというあなた
ひとりが、それを背負っているということです。

 そこでUさんのようなケースでは、えてして、母親がその重圧感を、子どもとの間で、ピンポン
玉のやりとりをするようになります。これは病院でいうなら、病院のドクターが、治療法を患者に
相談するようなものです。「早くよくなってくれなければ、困ります。どうすれば、あなたはよくなり
ますか?」と。患者だって、そんなことを相談されたら、困りますよね。子どももそうです。本来
なら心のよりどころとしたい親が、グラグラしているのですから……。

 こう書くと、Uさんの責任のように思われるかもしれませんが、そんなことを言っているのでは
ありません。Uさんは、もうじゅうぶんすぎるほど、苦しんだ。努力もした。ただ私はこの種の問
題は、母親ひとりだけの力では、どうにもならないということを言いたいのです。夫の協力が不
可欠だということです。ご事情もあるのでしょうが、家族が危機的な状況にあるにもかかわら
ず、夫が単身赴任というのは、そもそも無理があるのではないでしょうか。単身赴任をしている
あなたの夫の気持ちが、私には、どうしても理解できませせん。

 たいへんよく似たケースですが、昨年、こんなことがありました。神奈川県のF市に住んでい
る友人のことです。彼のばあいは、二人の娘さんのうち、上の子が、中学へ入ると同時に不登
校。しかしそんなとき、夫はたまたま大阪へ転勤命令。引越しも考えたと言いますが、家のロー
ンも残っていた。それに、「子どもの進学にさしさわりがある」ということで、担任赴任という形に
なってしまいました。友人は、「一応、社宅は用意してくれてはいるんだが……」とは言っていま
したが、とても家族がいっしょに住めるような社宅でもなかったようです。

 で、結局、その子どもは、ほとんど学校には行かず、三年がすぎました。が、母親は最後の
最後まで、高校進学にこだわりました。いえ、こだわったかどうかは、本当のところはわかりま
せんが、相談を受けているとき、「どうしてこうまで学校にこだわるのか」と感じたことは、よくあ
ります。「進学どころの問題ではないのに……」と。

 何とかそれで、高校には入りました。子ども自身も喜んでいたので、友人夫婦もこれで解決
するかもしれないとほっと一息ついたのも、つかの間。一か月もすると、また不登校。母親はこ
う言いました。「最初の不登校のときより、数倍のショックを受けました」と。

 が、この状態に、最初にダウンしたのが、母親ではなく、父親である夫でした。赴任先の大阪
で、「もう、ダメだ!」と。それで会社を退職し、神奈川県のF市にもどってきました。その友人
は、こう言いました。「林君、単身赴任なんてものはね、男の地獄だよ。ぼくなんかね、精神状
態そのものが、おかしくなってしまったよ。毎晩、三時間もかけて、ご飯を一粒ずつ食べたこと
もあるよ。それで、こんなことをしていたら、頭がヘンになると思い、会社をやめたよ」と。

 それから数年。今、その上の女の子は、高校は中退。今は富士山ろくにある観光牧場で、み
やげもののデザインを考えたり、その販売の仕事をしています。先日、母親と電話で話したの
ですが、「あの子には、もともとああいう道があったのですね。それに気づくのに、ずいぶんと回
り道をしました」と。以前とはくらべものにならないほど、明るい声でした。

 この友人の話が、Uさんに参考になるかどうかはわかりませんが、この問題だけは、どこかで
腹を決めないと、先へは進めないということです。「まだ何とかなる」「何とかしよう」と考えてい
る間は、親自身がその緊張感から解放されることはありません。そして親が緊張すれば、子ど
もも緊張する。その緊張感から解放されない。子どもというのは、そういう点では、たいへん敏
感で、いくら親が自分の心を隠しても、あるいは隠そうとしても、その心の奥を読んでしまいま
す。

 子ども側にも、問題がないわけではありません。ひとつは、子ども自身が、「学校とは行かね
ばならないところ」と自分を追いつめているケース。もうひとつは、自分の将来に、不安をいだ
いているケースです。このばあい、安易に説得しても、効果がないばかりか、かえって子どもを
袋小路に追いやってしまいますから、注意してください。子どもにも子どもの意識があり、それ
を変えるのは、容易ではないということです。親の意識が変わっても、子どもの意識もすぐ変わ
るということは、ありません。あるいは変わらないかもしれない。変わるとしても、長い時間がか
かります。

 ところで、なぜ私たち日本人は、こうまで「学校」にこだわるのでしょうか。世界的にみても、異
常としか言いようがありません。あるいは「学校」に、幻想をいだいている。「行かねばならな
い」というクサリで、親も子どもも、体をがんじがらめにしている。私は、内情を知り尽くしていま
すから、(だからといって教育や学校を否定しているわけではないのですが……)、幻想が幻想
とわかるわけです。あるいは自分が中学生や高校生のころには、そういう幻想をもっていまし
たから、よけいに幻想が幻想とわかるわけです。

 しかしその呪縛(じゅばく)から逃れるのは簡単ではないようですね。親もたいへんですが、子
どもたちも、です。ここまで書いて、以前書いた、「尾崎豊の卒業論」(中日新聞発表済み)を思
い出しました。お読みいただいたと思いますが、改めて、ここに転載しておきます。

+++++++++++++++++++

●尾崎豊の「卒業」論

+++++++++++++++++++

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに貧しい人たちへの寄金を訴える。こういうのを
見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先
を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すとい
う行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。い
や、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!
 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

+++++++++++++++++++++

●生きる原点に視点を……
 本当なら、Uさん自身も、尾崎豊のように、「学校なんか、クソ食らえ!」と叫んでみたらいいと
思うのです。あるいは、一度、尾崎豊の「卒業」を聞いてみられたらいかがでしょうか。少しは胸
の中が、スカッとするかもしれませんよ。何度も聞いていると、少しずつですが、意識が変わっ
てくるかもしれません。試してみてください。

 話をもとにもどしますが、Uさんは、もうじゅうぶん苦しみました。しかしね、Uさんを苦しめた
のは、Uさんのお子さんではない。Uさん自身でもない。Uさんを苦しめたのは、実は、Uさん自
身の中にある、「つくられた意識」だということです。私がここで言えることは、「勇気をもって、
その意識とは決別しなさい」ということ。今のUさんには、想像もつかないことかもしれません
が、その先には、明るい出口があります。そして今と同じように、さわやかな空気があり、明る
い太陽があります。何も変わらないのです。シャンドル(ハンガリーの詩人、1823−49)はこ
う書いています。

『絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じ』(「希望論」)と。

 あの魯迅も、まったく同じことを書いているのは、たいへん興味深いですね。こう書いていま
す。

『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と。

 このあたりが賢人たちの共通した意見のようです。わかりやすく言うと、絶望にせよ、希望に
せよ、そういうものは、勝手に人間が作りだしたものにすぎないということ。大切なことは、その
向こうにあるものを見失わないということ。Uさんの立場で言うなら、お子さんたちとの絆(きず
な)を、見失ってはいけないということ。そう、今、ここにあなたがいて、子どもたちがいる。その
重要さを忘れてはいけないということです。繰りかえしますが、まさにそれは「奇跡」なのです。
その奇跡にまさる希望など、あるはずもないのです。

 いつもストレートに書きすぎるため、気分を悪くなさったところもあるかもしれませんが、どうか
この手紙を、前向きにとらえてください。決してあなたはひとりではない。私がいます。ずっと私
が、あなたのそばにいますから、勇気をもって、前に進んでください。いくらでも力になります。
いつか、Uさんが、「そういうこともありました」と笑う日がくるまで、力になります。いっしょに、が
んばりましょう!

はやし浩司
(03−1−18)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
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\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-28-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 587人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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03−1−28号(171)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

Q:このところ調子が出ず、スランプにおちいっている様子。学校での成績も、さがりぎみ。子ど
もにどのようにアドバイスしたらいいでしょうか。※

A:「がんばれ」式の励まし、「こんなことでは…」の脅しは、禁物。英語国では、こういうとき親
は、「テイク・イッツ・イージィ(気を楽にしなさい)」と言う。あくまでも、子どもの立場に立った言
い方をする。あなたより子どものほうが、ずっと、つらい思いや、いやな思いをしている。

 ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。
 この言葉を少し変えると、こうなる。「勉強する目的は、いい点数を取る(学校へ入る)ことで
はない。失敗してもめげないで、前に進むことである」と。あなたの子どもにも、一度、そう言っ
てみてはどうだろうか。

 が、さらに症状がひどくなり、無気力、無感動などの燃え尽き症候群が見られたら、思いきっ
て、親は一歩も二歩も、引きさがる。何とかしようと、あせればあせるほど、逆効果。方法として
は、子どもの側からみて、親の存在を感じさせないほどまで、子どもから視線をはずす。その
ため部屋が散らかっても、言動がぞんざいになっても、何も言わない。

 …こう書くと、「それではうちの子は、ますますダメになってしまう」と言う親がいる。しかし子育
てには、「限界のカベ」はつきもの。あって当たり前。親は、そのつどカベにぶつかりながら、そ
れを受け入れ、あきらめる。「うちの子はやれば、できるはず」と思ったら、すかさず、「やってこ
こまで」と思いなおす。あとは許して忘れる。その度量の広さこそが、親の愛の深さということに
なる。

 それに「ダメな子」というのは、いない。どういう子どもをダメな子というのか。その子どもをダ
メな子と思うのは、親だけ。そして親は、えてして、「子どものため」と言いながら、自分のエゴを
子どもに押しつける。自分の思いどおりの子どもにしようとする。しかしあなた自身が、あなた
の親の思いどおりになっていないのと同じように、あなたの子どもも、あなたの思いどおりには
ならない。以前、「親は玉ネギのようなもの」と書いた人がいた。「子どもは一枚ずつ、親の期待
をはぎ取りながら、成長する」と。

 が、それよりも大切なのは、親子のパイプを切らないということ。家族には、わかりあい、守り
あい、助けあい、いたわりあい、教えあうという五つの原則がある。その原則に立ちかえって、
親子のあり方を見つめなおす。この日本では受験勉強は避けて通れない道だが、それで家族
のパイプを破壊してしまっては、意味がない。また受験勉強には、家族を犠牲にするだけの価
値はない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司

●No.48「こまかい指導は、子どもをつぶす」
(メールマガジン「週刊E'news浜松」2003/1/20 No.003-003/2324
 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344より、転載)
 
文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や
 書き順は言うにおよばず、逆さ文字、鏡文字など。このとき大切なことは、
 こまかい指導はしないこと。日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、
 ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の名残をこうまでこだわらねばな
 らない必要はない。……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美
 しさを否定するのか」と言う人が必ずいる。あるいは「はじめに書き順など
 をしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人がいる。しか
 し文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しく
 ない」というのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコン
 が発達してくると、書き順とは何か、そこまで考えてしまう。

 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた
 作文を見て、私はびっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなもの
 がいっぱいあった。そこで私がそのクラスの先生(小三担当)に、「なおさ
 ないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピアの時代
 から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。また
 ルール(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸
 をつけないでほしい。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切な
 ことは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」という思いを、子どもがもつ
 こと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイプの親
 や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に
 今、「作文は大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子ど
 もは少ない。よく日本のアニメは世界一というが、その背景に子どもたちの
 作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれない。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところ
 はなおせばよい。またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子
 どもを勉強好きにする。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
★浜松市のホットな情報は、「週刊E'news浜松」で!

(補足)もともと「学ぶ」は、「マネブ(まねをする)」に、由来するという。つまり日本では、「先人
のマネをする」が、「学ぶ」の基本になっている。そのひとつが、日本独特の「型」教育。日本人
は、子どもを、型にあてはめることを教育と思い込んでいる。少なくとも、その傾向は、外国と
比べても、はるかに強い。そのよい例が、英語の書き順。

 たとえば「U」は、まず左半半分を上から下へ書き、つぎに右半分を上から下に書いて、底の
部分でつなげる。つまり二画だそうだ。同じように、「M」「W」は、四画だそうだ。こういう英語国
にもない書き順が、日本にはある! 驚くというより、あきれる。ホント!

 そのため、日本では、今でも、先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。アメ
リカやオーストラリアでは、先生は、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と授業を進める。こ
の違いは、大きい。またその根は、深い。

 もうトメ、ハネ、ハライなど、もうなくしたらよい。それを守りたいという人に任せて、少なくとも、
学校教育の場からは、なくしたらよい。(もう二〇年前から、私は、そう主張しているのだが…
…。)書き順にしても、それにこだわらなければならない理由など、もう、ない。守りたい人が守
ればよい。守りたくない人は、守らなくてもよい。それよりももっと大切なことがある。その「大切
な部分」を、教えるのが教育ということになる。この「ワンポイントアドバイス」の中では、それを
書いた。

 ただこういう私の意見に対して、「日本語の美しさを君は否定するのか?」という反論もある
のも、事実。とくに書道教育関係者からの反論が、ものすごい。しかしこのアドバイスの中にも
書いたように、「美しい」とか、「美しくない」とかいうのは、その人の勝手。それを他人、なかん
ずく子どもに押しつけるのは、どうか。私は、トメ、ハネ、ハライがあるから文字が美しいとか、
ないから美しくないとか、そういうふうには、思わない。みなさんは、この問題を、どう考えるだろ
うか?
(03−1−21)

●国語の勉強は、読書に始まり、読書に終わる。アメリカの小中学校へ行って驚くのは、どの
学校にも、図書室が、学校の中心部にあること。(たいていは玄関を入ると、そのすぐ近くにあ
る。)そして小学校の場合、週一回は、「ライブラリー」という勉強がある。これはまさに読書指
導の時間と思えばよい。さらに驚くべきことは、この読書指導をする教師は、ふつうの教師より
もワンランク上の、「修士号取得者」があたることになっている。このあたりにも、日本とアメリカ
の教育に対する考え方の違いが、大きく出ている。もちろん、アメリカには、英語の書き順など
ない。(また書き順と構えなければならないほど、文字の数がない。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育てポイント

●ふつうこそ、最善
 ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。賢明な
人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。

 そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。それま
ではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったことがある。その
ため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと歩いている人が信じら
れなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それまでとは違って見えたことはな
い。

 子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。できるな
ら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値がわかる。平凡
は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の中で光り輝くのは、
平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。

 今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、つら
い。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、それは喜びに
変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。

こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦労も知
らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に入れておくとよい。
子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの成長を
望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と望みながら、同
時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその子育てが終わると、とたん
に、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れが、容赦なく、あなたを責め始め
る。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。それは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよ
い。

 私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく過ごす
ことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、何と味気なく、
つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てがほぼ終わりかけたときに
気づいた。

子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値がある。そ
のときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う私も、偉そうなこ
とは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさに愚かな人ということにな
る。


●子育ては目標さがし
「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはない。そのと
きどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態で、どうして子育てが
できるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを聞いて、言いようのない不安
にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、と。

 目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心の地
図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広ければ広い
ほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。

 問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に対し
て、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受けた子育てが
最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そして自分だけの子ども
観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと。そういう点では、「私の子どものことは私が
一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、正しい」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやす
い。この世界には、そういうジンクス(=悪い縁起)がある。つまり心の地図を広くするために
は、謙虚であればあるほど、よい。

 そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒントとし
て、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立させることこそ、ま
さに子育ての目標である、と。

 これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよき家庭
人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリアでも、カナダでも、
ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、私が直接、確認した。フラン
ス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導するのですか?」と聞いたときのこと。
「そんなのは、常識です」と。

 日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。歴史は
歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代の圧制暴君
たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、殺されたこと
か! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖政治の時代だっ
た。それを忘れてはならない。

 話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会から、
能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そして出世
主義社会から、家族主義社会へ。

 地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。そしてそ
の地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」ということになる。


●限界を知る
 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分のことな
らともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほ
ど、子どもを苦しめるものはない。そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思った
ら、すかさず「やってここまで」と思いなおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなも
の」とあきらめる。その思いっきりのよさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、
その時点から、子どもは前向きに伸び始める。

 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」などと
言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときから、親の言い
方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんばっている、よくがんば
ったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。子ども自身が、その限界のカベ
を破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のことで考えてみればよい。

 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただってやる
気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「もっと働きな
さい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。

 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の無
理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態度は
大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学に……」と
思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とかA中学に……」とな
る。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理することないよ」となる。

 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いということ
(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりにも多いという
こと(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊してしま
う親があまりにも多いということ(失礼)。さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親
があまりにも多いということ(失礼!)。またそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりに
も多いということ(失礼)。それを避けるためにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。
限界を認める。親としては、つらい作業だが、その度量の深さが、親の愛の深さということにな
る。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子どもも
少なくない。ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、
自分のわがままをとおしていた。その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠し
た。先生にほめられたことだけを話し、叱られたことは話さなかった。

 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君が
いちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言った。その
男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。しかしその男の子は、それを父親には言わ
なかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなることを、その男の子はよく知っていた。

 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮面がはが
れたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子どものほうが自ら
親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。


●仮面に注意
 もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよい。それ
は、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、いない。「でき
がいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た結果として決まること
で、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。

 ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先生の
指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこんだ。たしか
に優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。小学五年生のときのこと。これ
から夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテストのことを心配していた。私が「そん
な先のことは心配してはいけない」と何度も言ったのだが、その女の子にしてみれば、それが
彼女のリズムだった。母親にも私はそう言ったが、母親はむしろそれを喜んでいるふうだった。
「あの子は、大学の医学部へ行くと言っています。あの子の望みをかなえさせてあげたいです」
と。

 しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害(過食、
拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引きこもるように
なってしまった。

 こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、それに気
づかない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子どもで、親がそう思
うの分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
 もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの子ども
は、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。

(1)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくできる。マナ
ーもわきまえている。人前では礼儀正しい。
(2)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生の指示
に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。
(3)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、ぐずったり
することも少なく、独立心が旺盛にみえる。
(4)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現することが少
ない。万事にがまん強い。
(5)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このまま優秀な
まま、おとなになっていくと思うことが多い。

 子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければならな
い。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。もちろん
子ども自身の問題もある。仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くことができない子
どもとみる。しかしそれとて、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互愛着行動のどこかに
問題があったとみる。子どもの側からみて、満たされない愛、あるいは大きなわだかまりや、欲
求不満が、その背景にあったとみる。

 しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子どもの
心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。その時期は早
ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……というより、なおす
のは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうからである。そういう覚悟で、
時間をかけて対処する。

 しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう言っ
た。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩連続でと
まることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰ってきます」と。

 この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているという。そ
のため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、本当に多
い。

 そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、いいか
げんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさいほど自己主張
し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいなら、むしろそれを喜ん
だらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、そういうもの。そうであるべ
き。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。


    ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )
   γ ρρ   │σ σ ρ )
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )  子育ては重労働。
   人   υ ( `) (  )    しかしどうせ育てなければならないのなら、
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)     あきらめて、育てましょう!
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ      前向きに!
  (   m m ○/ ̄ ̄ ̄ヽ○
【2】雑感・雑談∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

雑談

●コンパクトな生活
 「老後」がそこに見えてくると、ものの考え方が変わってくる。そのひとつ。何かにつけ、もの
の考え方がコンパクトになってくる。店でモノを手にしても、「こんなもの、あってもしかたないな」
とか、「どこへ置くのか」と、そんなふうに考えてしまう。

 夫婦二人になれば、広い家は必要ない。それを支えるだけの収入が保障されるなら、それで
もかまわない。が、私のばあい、その保証はない。それを思うと、気が重くなる。家にしても、寝
室と、居間をかねた台所、それに小さな仕事部屋があればよい。

 今の土地と家を売って、町の中のマンションに移るという方法もある。オーストラリアの田舎で
は、そういう生き方をする人も多い。私もそれを、ときどき考える。「どこかマンションに移ろう
か」と。町の中の便利なところがよい。近くにスーパーもあり、バス停もある。病院もあり、……
まあ、ぜいたくは言わない。あとは職場に近ければよい。

 となると、ぼう大な数の本はどうする? 本だけでも、今のままだと八畳間が必要。テレビも
大型だから、やはり同じような部屋が必要。それに家財道具の数々。大工道具だけでも、いく
箱もある。ほかに電動ノコに電動カンナ、電動チェーンソーに電動ドリルもある。こういうもの
は、どうする? しかたないから、処分する。本も、本当に必要なものを残して、処分する。テレ
ビは、今度買うときは、小さくてもよいから、液晶テレビにする。食器も、二人分ずつあればよ
い。箸もスプーンも。あとは処分する。

 こう考えていくと、何だかさみしくなる。どんどん自分が小さくなる。小さくなって消えていく。「そ
うであってはいけない」と思うが、これだけはどうしようもない。コンパクトな生活にして、その
分、より安心感のある生活にしたい。生活費にしても、今のように毎月ギリギリというのでは、
不安だ。心配だ。老後はある程度、余裕のある生活にしたい。そのためには、当然、生活の質
を落とし、無駄を削らねばならない。……と、いろいろ考える。

 ああ、またジジ臭くなった。どうしてこうも、ジジ臭いことを考えるのか。しかしそう考えるのは、
あくまでも外の「形」。心の中は、そうではない。心の中は、コンパクトにする必要はない。また
そんなことは、みじんも考えていない。むしろ生活がコンパクトになる分だけ、心の中は広くした
い。これは私の意地のようなもの。死ぬまで、この広さは確保したい。

++++++++++++++++++++

 ここまで書いていたら、オーストラリアの友人たち二人から、つづけて電話が入った。メルボ
ルンに住むD君と、アデレードに住むR君。このところオーストラリアは、かってない大型の山火
事(ブッシュ・ファイア)に見舞われている。そこであれこれ心配して、メールを書いたら、電話が
かかってきた。「だいじょうぶだ」「心配ない」と。反対に、D君には、「北朝鮮がおかしいが、日
本はだいじょうぶか?」と聞かれてしまった。D君は、以前、オーストラリア国防省に勤めていた
ことがある。「心配だ」と答えたら、「あの国は、もうすぐ崩壊(コラプス)するだろう」と。ホント。
はやく崩壊してほしい。

++++++++++++++++++++

●いろいろあって……
 日々の生活は、どうしてこうもわずらわしいのか。よくもまあ、こうまでつぎからつぎへと、いろ
いろなことがあるものだ。私のようなものが、国際情勢を心配したところで、どうにもならない。
しかしそれも気になる。つぎに家族の問題、親類の問題、近隣の問題などなど。今日はワイフ
が風邪気味で、夕食は私が作った。洗い物がまだしてない。それも気になる。

 こういう日々の生活の中で、生きがいや、さらには夢や希望を、どうやってもてばよいのか。
いや、生きがいのある人は、まだ幸せなほうだ。ほとんどの人は、生きがいどころか、その生
きがいをどこに求めるか、それすらわからないでいる? それは無数の砂粒の中から、小さな
宝石をさがすようなもの。毎日、砂をかきわけながら、生きがいという、小さな小さな宝石をさが
す……。しかしその宝石が見つかれば、まだよいほうだ。たいていは、見つからない。「やっぱ
り、今日もダメだった」と思いながら、毎晩、目を閉じる。

●人間の生活には目的はない。生きていること自体が、その目的である。(アルツイバシェフ
「サーニン」)
●長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のた
めに生きたことになるのだろう。(有吉佐和子「恍惚の人」)

     ⌒⌒⌒⌒
    ((( (( (( 
     ⌒  ⌒ 
     ・。・ β
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\
 ○\/│  //│\ \   みなさんのご家庭で、このマガジンが役だって
 ゜\/│ // │ / /    いますか?
   Γ ̄ ̄│──|○   何かテーマがあれば、掲示板にでもお書きください。

   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

アメリカの育児、「ファーバー方式(FEBER METHOD)」

●ファーバー方式
 新生児の夜泣きの対処のしかたについて、アメリカには、「ファーバー方式」というのがある。
それについての紹介文を転載する。ファーバーというのは、その考案者の博士の名前をいう。
(義理の娘が通う、母親学級のテキストからの転載)

Your baby is crying, and wakes up several times during the night. Your'e exhausted, and 
haven't had a descent night sleep, what are you going to do?  Ferberizing your baby will 
help your child sleep through the night and will help you from going mad from lack of sleep. 
Dr. Ferber, a leading pediatric sleep disorder specialist, has come up with a method 
guarantee to get your child sleeping through the night. 
 あなたの赤ちゃんが泣き、毎晩何度も起こされる。
 あなたは消耗し、安らかな眠りを得られない。
 そういうとき、どうしますか?
 睡眠障害のスペシャリストのファーバー博士が、あなたの赤ちゃんが眠るのを助けます。
The Ferber method is a progressive method and it calls for the parents to let their babies 
cry for a set period of time before comforting or "checking in on their child". Although the 
Ferber method does work for some parents, others think that it is to rigid. It is important to 
read the book and to decide for yourself. Some of the mothers in my classes have modified 
his method to fit their schedules and tolerance levels.

ファーバー方式は、泣いている赤ちゃんをなぐさめたり、「あれこれ原因さがしをする」前に、あ
る程度泣かせるという方式です。
ファーバー方式は、有効なときもありますが、しかし厳格すぎるという人もいます。
大切なことは、あなた自身が自分で本を読み、判断することです。
私の(母親教室の)母親たちは、自分たちの忍耐力のレベルにあわせて、このファーバー方式
を修正して、応用しています。

 Dr. Ferber is the first one to tell parents that his method can take a toll on the family. So
me parents cannot bear to hear their children cry for extended periods of time. Ferber 
states in his book that in order for his approach to work it is very important to stick with 
the routine. There are no exceptions unless your are traveling , your child is sick or you 
have company at your house. If you disrupt your babies sleep schedule and they start to 
wake up during the night again you will probably have to referberize the child. 
ファーバー博士は、この方式は、母親の負担を減らすものだと、述べています。
母親によっては、(忍耐の限界を超えて)赤ちゃんが泣きつづけることに耐えられない。
ファーバー博士は、この本の中で、この方式を応用するためには、日常生活をそのままつづけ
ることが重要だといいます。
旅行中とか、赤ちゃんが病気とか、来客中とかいうのであれば別ですが、例外はないといいま
す。
もし赤ちゃんの睡眠スケジュールを乱すと、赤ちゃんをあやすために、また夜中に起きなけれ
ばならなくなります。

 In his method Dr. Ferber suggest that after a loving pre-bedtime routine that you put 
your child to sleep while your baby is still awake. Putting your child to sleep while he/she is 
still awake is very important and this will teach them to go to sleep on their own.

この方式の中で、ファーバー博士は、赤ちゃんがまだ目をさましていても、赤ちゃんを寝さか
せ、いつもの就眠儀式をすることを提案しています。

まだ目をさましている赤ちゃんを寝させることは、とても重要なことで、このことが、赤ちゃんが
自分で眠ることを教えます。

 Ferber suggests that children be at least 5 months old before you try to ferberize them. 
Your baby must not be sick, or on any medications that will interfere with his/her sleeping 
when you start the method. Once your child is in bed leave the room and if she/he cries, 
wait a certain amount of time before you check on your child again.(the waiting time is 
outlined in his book, 

ファーバー博士は、少なくとも五か月未満の赤ちゃんは、この方式を応用してみるとよいと言っ
ています。
この方式をはじめるときは、まず赤ちゃんが病気でないないことが前提となります。
赤ちゃんがベッドに入ったら、赤ちゃんが泣いても、(親は)部屋を出ます。
そしてしばらく様子をみます。
(その時間については、本の中のガイドに従ってください。)

(Solve Your Child's Sleep Problems). After the "waiting time" check in on your child but do 
not rock, feed or pick her/him up. Soothe your child only with your voice. Gradually increase 
the amount of time between the visits to your child's room. Eventually (usually within a 
week) your child will realize that crying means nothing more than a brief check from you. He 
or she will learn to sleep on his/her own through the night and you will also get the sleep 
that you have been deprived of for so long. 

赤ちゃんの睡眠問題を解くために……
しばらく待ってみて、赤ちゃんをチェックし、赤ちゃんを抱いてあげます。
あなたの声で、赤ちゃんをあやします。
少しずつ、赤ちゃんの部屋を訪問する時間を長くしていきます。
結果として(ふつう一週間単位で)赤ちゃんは、泣いても無駄ということを学びます。
そして赤ちゃんは夜の間、眠るようになります。
あなたも眠られるようになります。

 Ferber states that it's ok for your child to throw a tantrum or to cry for extended periods 
of time this will not hurt your child. He/she will realize that crying will get them nowhere. To 
ferberize or not ferberize is a decision that only you and your partner can make. Here's 
what some parents are saying about the Ferber Method.

ファーバー博士は、赤ちゃんがかんしゃくを起こし、ある程度の間泣いても、この方式は、赤ち
ゃんを傷つけないといいます。
赤ちゃんは泣いても、何も解決しないことに気づきます。
ファーバー方式を使うにせよ、しないにせよ、それはあなたが決めることです。
ここにいくつかコメントがあります。

" I hated it. I just couldn't ! let my child cry not even for 5 minutes". Jody 

「この方式は、嫌いです。私は五分だって、子どもには泣かせることはできません」

" I was so exhausted I couldn't do anything. His method saved my life." Sonia 

「私は疲労しました。彼の方式は、私を救いました」

"It's great to have a formula to follow. It worked with all my kids." Maria 

 「すばらしい方式です。私の子どもたちには、有効でした」

●はやし浩司より
 このファーバー方式は、アメリカでは広く知られている。子育て(parenting)の指導法として
も、一定の地位を確立しつつある。
 
 私も、外国へ行くと、よく書店をのぞいてみる。向こうでは、いわゆる「教育書」と「育児書」
が、ほぼ、同じ割合で、並んで書店に並んでいる。一方、この日本では、育児書の多くは、書
店の目立たないところに、ひっそりと並んでいる。このあたりにも、「家庭教育」に対する認識の
違いがある。つまりこの日本では、「何でも幼稚園や保育園で……」という考え方が強く、一
方、欧米では、「子育ては家庭で……」という考え方が強い。
(03−1−19)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(531)

変わる親の意識

 読売新聞社が、親子の意識調査をした(02年12月)。それによれば、子どもの将来像につ
いて、最近の親たちは、つぎのように考えているという。

 一九歳以下の子どもがいるという親に、「あなたは、自分のお子さんに、どんな人生を送って
ほしいと思いますか」と聞いたところ、結果はつぎのようであったという。

     幸せな家庭を築く    ……82%
     好きな仕事に就く    ……70%
     人のためになることをする……51%
     趣味などを楽しむ    ……31%
     金持ちになる       ……8%
     出世する         ……4%●
     有名になる        ……1%

 さらに「あなたは、自分のお子さんが成長していく上で、とくにどんなことを望みますか」につい
ては、

     人の痛みがわかる人間になる……60%    
     健康な体をつくる     ……50%
     責任感の強い人間になる  ……44%
     ルールやマナーを身につける……41%
     自立心を身につける    ……29%
     ものごとに粘り強く取り組む……24%
     友だちをたくさんつくる  ……21%
     学力をしっかりと身につける……19%●

 この中でとくに注意したいのは、「出世する」が、たったの4%、また「学力を身につける」が、
最下位のたったの19%であること(●印)。

 このことは、今、急速に、日本人の教育観が変化していることを意味する。旧来型の出世主
義が崩壊し、かわって家族主義が台頭し、そしてそれに呼応するかのように、「学力中心の教
育観」が、やはり崩壊し始めているということ。若い親たちを中心に、まさに「サイレント革命」の
完成期にきたとみてよい。

 問題はこうした変化があるということではなく、一部、そのため、旧来型の教育観をも親と、そ
れを受け入れない子どもたちの間で、はげしい対立が起きているということ。年々少なくなって
きているとはいえ、まだなくなったわけではない。今でも、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘
を繰りかえしている親子は、いくらでもいる。

 私はこの調査結果をみて、痛快に思ったのは、「出世する」が、最下位のたったの4%だった
こと。私たちが子どものころは、「(人に認められるような)立派な人になれ」「(社会のために)、
社会で役にたつ人になれ」と、それこそ耳にタコができるほど、さんざん言われた。学校の卒業
式などでも、決まり文句になっていた。戦前の「国のため」が、戦後は、「社会のため」に置きか
わっただけ。大きく変わったように見えるが、中身は、何も変わらなかった。

 しかし今は、たったの4%! バンザーイ! 「出世なんて、クソ食らえ!」だ。個人が出世主
義に溺れるのはかまわないが、それが政治や学問の世界で利用されると、とんでもないことに
なる。日本の針路そのものが、狂う。それがわからなければ、あの田中K氏を見ろ。あの鈴木
M氏を見ろ。

 もちろん名誉や地位は、それなりに意味がある。肩書きもそうだ。しかし人が、まっさきにそ
れを求めたら、その人は見苦しくなるだけ。あくまでも、それは結果。懸命に生きた、その結
果。名誉や地位や、それに肩書きは、あとからついてくるもの。子どもたちには、いつも、そう
言いたい。
(03−1−19)

●成功して満足するのではない。満足していたから、成功したのである。(アラン「幸福語録」)
●成功は結果であって、目的ではない。(フローベル「随想」)
●人が気に入るかどうか、それを気にしない人が、世の中で成功できる。(キンケル「詩」)
 

 ●  ⌒⌒ ●τ
 √ ●((( ((  ● ι
  ∫∫  ⌒  ⌒ ν ι
  §   ・。・ β§
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\    もしよろしかったら、どなたかに、このマガジンの
 ○\/│  //│\ \    ことを話していただけませんか?
 ゜\/│ // │ / /     みんなで力をあわせて、日本の、日本人の
   Γ ̄ ̄│──-\○       子育てを変えていきましょう!
   │  │    \       心豊かな、日本の未来のために!

【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

乳幼児にも記憶がある!

 まず、あなたの記憶を、できるだけ過去へたどってみてほしい。あなたは何歳ぐらいまで、自
分の記憶をたどることができるだろうか。

 小学生のころの記憶は、かなりはっきりしているし、数も多い。何らかの条件、たとえば「遠足
のとき」「漢字を勉強しているとき」「お父さんにおんぶしてもらったとき」という条件をつけると、
いろいろな記憶が、まさにイモづる式に引き出されてくる。

 しかしその記憶も、幼児期に入ると、ぐんと少なくなる。あっても断片的で、しかもはっきりしな
い。

 こういう経験から、従来、乳幼児期には、記憶は蓄積されないというのが、定説であった。し
かしこれはまちがっていた!

 たとえば五歳児(年中児)に、「あなたは小さいころ、お父さんとDランドへ行ったのを覚えてい
る?」と質問すると、「覚えている」と言うことがある。あらかじめ父母に調査票を渡し、何歳ご
ろ、何をしたかということを書きこんでもらっている。それを見て質問するわけだが、この時期、
二、三年前でのことなら、かなり正確に覚えている。「お父さんと、おばあちゃんと行った」とか、
「お母さんもいた」とか。

 「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌
二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 それまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 このことは重要な意味をもつ。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになるというのは、ほぼ定説になったとみて
よい。つまり子どもは、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になった
とき、自分も子育てができるようになる。たとえば不幸にして不幸な家庭に育った親というの
は、どうしても子育てがぎこちなくなる。「いい親でいよう」「いい家庭をつくろう」という気負いば
かりが先行し、そうなる。

 ふつう子育ての世界をみていて、極端に甘い親、あるいは反対に、極端にきびしい親と言う
のは、いわゆる「親像」のない親とみる。自分の頭の中に、親というのがどういうものであるか、
その像がきざまれていない。もっと言えば、そのため、自然な形での子育てができない。

 で、そうした記憶、つまり自分が親から受けた子育ての記憶が、どこにどう蓄積されるかとい
う問題が、従来よりあった。A・メルツォフらの研究は、それに結論をくだしたわけだが、乳幼児
期に子どもが受けた体験も、当然、「学習」という形で、記憶に残ることになる。ただ現象的に、
「忘れた」という形になるのは、記憶として再生できないからというにすぎない。

 乳幼児にも、記憶がある。新生児にも、ある。「うちの子は赤ん坊だから、何も記憶していな
いだろう」と考えるのは、まったくの誤解。そればかりか、今、子どもは、自分がどんな子育てを
受けているかを、しっかりと記憶している。そしてそれが基礎となって、自分が親になったとき、
今度は、それを再現する形で、子育てができるようになる。「乳幼児にも記憶がある」という事
実は、そういう意味で、たいへん重要な意味をもつ。
(03−1−19)

    ┌┐
    │ト
    ≧≦ ∪          z
   ━━━━━━        z
  /      \
 /        \く⌒\  ∩      では、みなさん、次回も
/  〜       〆  へく ^川     どうか、よろしくご購読ください。
〜―ノ∵しへ〜へ〜〜〜〜――//―人〇       どうか、お体を大切に!
   w         ⊂ノ            お元気で!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■1-30-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 587人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  59人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−1−30号(172)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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●毎日午前10:00〜に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただ
きます。毎週月曜日は、できるだけ私も参加するようにしています。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
(2月からは、時間帯を変更して、午後11:00〜にします。)

   ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )        今日のメニュー
   γ ρρ   │σ σ ρ )        【1】子育てポイント 
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )        【2】雑談・雑感
   人   υ ( `) (  )         【3】子育てエッセー
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)          【4】フォーラム
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ
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●マガジンのバックナンバーは、
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(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)
●また、本文がつまっていて読みにくいときは、やはり一度ワードにコピーしていただくと、ぐん
と読みやすくなります。お試しください。
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ファミリス・2月号より転載
具体的な診断テストは、本誌をご覧ください。

+++++++++++++++
ママ診断(9)
あなたは世間体ママ?

●見栄、メンツ、世間体
 見栄、メンツ、世間体。どれも同じようなものだが、この三つから解放されたら、子育てにまつ
わるほとんどの問題は解決する。言いかえると、多かれ少なかれ、ほとんどの親はこの三つの
しがらみの中で、悩み、苦しむ。が、日本人ほど、世間体を気にする民族は少ない。長く続い
た封建時代の結果、そうなったと考えられる。「皆と同じことをしていれば安心だが、そうでなけ
ればそうでない」と。

 見栄やメンツもそうだ。『武士は食わねど高ようじ』という言葉に代表されるように、個人よりも
「家」の見栄やメンツが重んじられた。そしてその見栄やメンツをけがすことを、「恥」として、忌
み嫌われた。こうしたものの考え方は、今でも古い世代を中心に、この日本には根強く残って
いる。

●他人の目の中で生きる日本人
 話を戻すが、世間体を気にすればするほど、親もそして子どもも、他人の目の中で生きるよ
うになる。子どもの見方も相対的なものになり、「うちの子は、A高校だから優秀だ」「隣の子は
B高校だから、うちの子より劣っている」と。が、それだけではすまない。ある母親は息子(中
三)の進学高校別の懇談会には、一度も出席しなかった。「(そんな高校では)恥ずかしい」とい
うのが理由だったが、こうしたものの考え方は、親子のきずなを決定的なほどまでに粉々にす
る。こんな例もある。

●うちは本家だから……
 あるとき一人の母親がやってきて、こう言った。「うちは本家だから、息子には、A高校以上の
大学へ入ってもらわねば困るのです」と。「どうしてですか」と私が聞くと、「親戚の手前もありま
すから」と。子ども自身が、世間体を気にすることもある。一人の高校生がこう言った。「先生、
M大学とH大学、どっちがかっこいいですかね?」と。そこで私が「どうしてそんなことを気にす
るのか」と言うと、「結婚式の披露宴なんかもありますから」と。まだ恋人もいないような高校生
が、結婚式での見てくれを気にしていた!

●恥ずかしいからやめてくれ!
 「私は私」「うちの子はうちの子」「他人がどう思うとも、私は自分の子どもを信ずる」という割り
きりが、子育てをわかりやすくする。子どもの心を守る。そしてそういうものの考え方が、一方で
親子のきずなを深める。こんなことがあった。 

ある男性が彼の母親に、それまでの会社勤めをやめ、幼稚園の教師になると告げたとき、彼
の母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「恥ずかしいから、それだけはや
めてくれ!」と。その男性はこう言う。「私は母だけは私を信じ、私を支えてくれると思いました。
が、母は『あんたは道を誤ったア!』と。それまでは母を疑ったことはないのですが、その事件
以来、母とは一線を引くようになりました」と。

ここでいう「ある男性」というのは、私自身のことだが、だからといって私は母を責めているので
はない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。

●いかにその人らしく生きるか
 生きる美しさは、いかにその人らしく生きるかで決まる。また生きる実感もそこから生まれる。
言いかえると、他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は自分の人生をムダにすることに
なる。

 このテストで高得点だった人は、一度自分の人生観を洗いなおしてみたらよい。世間体という
のはそういうもので、一度気にし始めると、それがその人の生き方の基本になってしまう。私の
母も八五歳をすぎたというのに、いまだに「世間」という言葉をよく使う。「世間が笑う」「世間体
が悪い」と。その年齢になったら、もう他人の目などは気にせず、「私は私」という人生を貫けば
よいと思うが、母にはそれができない。が、はた(世間)から見ても、それほど見苦しい人生ほ
ない。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

親の愛情不足?

Q:私がテレビを見ていると、四歳の娘がすぐひざの上にのってきます。どう対処したらいいで
しょうか。(父親、IセンターA保育園での講演後の質問より)

A:よく誤解されるが、親に愛情がないから、子どもが愛情不足の症状(欲求不満など)を示す
のではない。子ども側から、働きかけがあり、そのとき、親が拒否的な態度に出たりすると、子
どもは愛情不足の症状を示すようになる。もう少しわかりやすく説明すると、こうなる。

 親子の愛情(愛着行動)は、相互的なものである。親は子どもに対して、愛着行動を示す。た
とえば子どもを抱きあげ、「かわいい、かわいい」と言って、頬ずりするのがそれ。一方、ここで
重要なのは、子どもも、親に対して愛着行動を示すということ。最近の研究では、生まれたば
かりの新生児ですら、親に対して、愛着行動を働きかけていることがわかっている(イギリス、
ボウルビー、ケンネル※)。親に微笑みかけたり、手足をバタつかせたり、あるいは泣いて甘え
たりするなど。

 この子どもからの愛着行動の働きかけがあったとき、親がそれを受け止めてやるかやらない
かで、愛情不足かどうかが決まる。つまりこのとき、子どもの側から見て、それを親に受け入れ
てもらえないとき、その時点で、子どもは「不満足感」を、欲求不満症状に変える。このことは、
つぎの点で重要な意味をもつ。

(愛情表現)子どもを抱きながら、「かわいい、かわいい」と言って、頬ずりするのは、ここにも書
いたように、親側から子どもへの愛着行動ということになる。しかしそのとき、子どもがそれを
望んでいないとしたら、子ども側からみれば、それは迷惑な行為ということになる。親は、「子ど
もは喜んでいるハズ」「うれしがっているハズ」と考えてそうするが、それは親の身勝手というも
の。またそういうことをしたからといって、子どもが満足したり、深い親の愛を感ずるということ
にはならない。それがわからなければ、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたが妻で、今、部屋を掃除していたとする。そのとき夫がうしろからやってきて、あな
たにその気もないのに、あなたを抱き、「愛している、愛している」と、体中をさわり始めたとす
る。そのとき、あなたは夫に愛されていると感じ、それを喜ぶだろうか。喜ぶ人もいるかもしれ
ないが、しかし大半は、それを迷惑に思うに違いない。

 しかしあなたが反対に、体の中に燃えるものを感じ、それとなく夫の体に触れたとする。その
ときあなたの夫が、「うるさいな……」というような表情をして、あなたの体を払いのけたとする。
つまり夫に拒否されたとする。そのときあなたはどう感ずるだろうか。

 つまり子どもも同じで、子どもが愛情不足を感ずるのは、子ども側から何かの働きかけをし、
それが親に拒否されたときである。言いかえると、子どもが何らかの形で、親に対して愛着行
動の働きかけがあったときこそ、親側の愛情表現の見せどころということになる。いくつかの例
で考えてみる。

●子どもが親のひざの上に座ろうとするとき
●子どもが親に甘え、体をすりよせてくるとき
●子どもがぐずり、わけのわからないことを言って、ダダをこねるとき
●何か新しいことができるようになて、それを親に見せにきたようなとき

こうした働きかけは、必ずしも平和的なものばかりではない。中には、わざと親を困らせたり、
あるいは攻撃的、暴力的な方法で表現する子どももいる。こういうときどのように対処したらよ
いかは、また別に考えるとして、基本的には、子どもの心を大切に受け止めてあげること。つま
り相談(冒頭)のケースでは、父親は、ある程度子どもが満足するまで、そのままの姿勢を保つ
のがよい。

 というのも、こうしたケースでは、子どもが親のひざに抱かれたいと思うのは、あくまでも症状
とみる。もっと言えば、情緒を安定させるための、代償行為と考える。だからこの段階で、父親
が、娘を拒否すれば、その時点で、子どもの情緒は一挙に不安定になる。言いかえると、子ど
もはこうした代償行為(よく知られた例に、指しゃぶりなどがある)を繰りかえすことで、自分の
情緒を安定させようとする。もっと言えば、「なぜ抱かれてくるか」という原因をさぐってみること
こそ大切。その原因を放置したまま、症状だけを攻撃しても意味はない。それはたとえて言うな
ら、肺炎で熱を出して苦しんでいる子どもに、「熱をさます」という理由で、水をかけるようなも
の。

(愛情は量ではなく質)よく「私は子どもを愛せない」と悩む親がいる。しかし問題は、愛せない
ことではない。問題は、子どもが親に対して何らかの愛着行動を働きかけてきたとき、それに
答えることができるかどうかである。つまりその答え方ができれば、それでよし。しかしそれが
できないときに、問題が起きる。たとえば子どもが、母親の服のゾデを引っぱりながら、「ママ
〜」と甘えてきたとする。そのとき大切なのは、その瞬間だけでもよいから、子どもの甘えを受
け止めてあげること。そして子どもの側からみて、「絶対的な安心感」を覚えられるような状態
にすること。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。

 そういう意味では、愛情は、量の問題ではなく、質の問題である。ベタベタの愛情が、好まし
いわけではない。先にも書いたように、親側の一方的な愛情は、子どもにとっては、迷惑ですら
ある。つまり愛情が多いからよいというのでも、また少ないから悪いというのでもない。要は、子
どもがそれで安心感を得られるかどうかである。その点だけ注意すれば、「子どもを愛していな
い」ということに悩む必要はない。(愛していれば、それに越し
たことはないが……。)

 結論から言えば、子どもが親のひざのなかに入ってきて、甘えるしぐさを見せたら、子どもが
ある程度満足するまで、抱いてあげる。子どもにとって、父親のひざは、まさにいこいの場。体
を休め、心をいやす場。それだけではない。親子の情愛も、それで深めることができる。また
親の立場からしても、子どもの体のぬくもりを感ずることは、とても大切なことである。こういう
時期は、その渦中にいると、長く見えるが、終わってみると、あっという間のできごと。あとあと
人生の中で、光り輝くすばらしい瞬間となる。だからそういう時期は、そういう時期として、子育
てとは別に、大切にしたらよい。
(03−1−21)

※……母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知ら
れた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることがわ
かってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児の
発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥が
現れるという。


    ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )
   γ ρρ   │σ σ ρ )
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )  子育ては重労働。
   人   υ ( `) (  )    しかしどうせ育てなければならないのなら、
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)     あきらめて、育てましょう!
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ      前向きに!
  (   m m ○/ ̄ ̄ ̄ヽ○
【2】雑感・雑談∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

雑感

 六月に静岡市で講演会をもつ。私はどうしてもその講演会を、成功させたい。「成功」というの
は、心残りなく、自分を出しきるということ。講演をしていて、一番、つらいのは、終わったあと、
「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔すること。どこか中途半端なまま終わるこ
と。正直に告白するが、そういう意味では、私はいまだかって、一度とて成功したためしがな
い。

 それに「アメリカのある学者がこう言っています」などという、いいかげんな言い方はしたくな
い。言うとしても、きちんと、「マイアミ大学の、T・フィールド博士はこう言っています」という言い
方をしたい。そのためにも、下調べをしっかりとしておきたい。

 ここで「静岡市」にこだわるのは、静岡県の静岡市、つまり県庁所在地だからである。同じ静
岡県の中でも、浜松市で講演するのと、静岡市で講演するのとでは、意味が違う。それに私の
講演では、東は大井川を越えると、とたんに集まりが悪くなる。さらにその東にある静岡市とな
ると、もっと悪くなる。恐らく予定の半分も集まらないだろう。だからよけいに、成功させたい。

 しかし私はときどき、こう思う。講演のため、数百人もの人を前にしたときだ。「どうしてこの私
がこんなところにいるのだろう?」と。それは実におかしな気分だ。「この人たちは、何を求め
て、ここに来ているのだろう」と思うこともある。だから私は、来てくれた人には、思いっきり、役
にたつ話をすることにしている。私利私欲という言葉があるが、講演では、「私」そのものを捨
てる。かっこよくみせようとか、飾ろうという気持ちも捨てる。こういうとき政治家だったら、自分
をより高く売りつけて、票に結びつけようとするだろう。が、私には、そういった目的もない。よく
主催の方が本を売ってくれると申し出てくれることもあるが、ほとんどのばあい、私のほうが、
それを断っている。そういう場を利用して、本を売りつけるというのは、私のやり方ではない。

 ひとつ心配なことがある。それはこの数年、体力や気力が急速に衰えてきたこと。講演の途
中で、ふと自分でも何を話しているかわからなくなるときがある。あるいは頭の中がボーッとし
てきて、話し方そのものがいいかげんになることもある。言葉が浮かんでこなかったり、話そう
と思っていたことを忘れてしまうこともある。こうした傾向は、これから先、ますます強くなるので
は……?

 生きている証(あかし)として、私は講演活動をつづける。私にとって生きることは考えること。
考えるということは、書くこと。その結果として、私の意見に耳を傾けてくれる人がいるなら、私
は自分の経験と能力を、そういう人にささげる。本当のところ、「メリット」を考えても、それは、
あまりない。もちろん「仕事」にはならない。しかし以前のように、疑問をもつことは少なくなっ
た。三〇代のころは、「なぜ講演をするのか」「なぜしているのか」ということを、よく考えた。が、
今は、それはない。そういうことは、ほとんど考えない。今は、やるべきことのひとつとして、講
演活動を考えている。

どうせやがて消えてなくなる体。心。そして命。死ねば、二度と見ることもないこの世界だが、そ
こに生きたという証になれば、私はそれでよい。

++++++++++++++++

●このマガジンの読者の方で、静岡市周辺に住んでおられる方がいらっしゃれば、どうか、講
演会においでください。まだ私が元気なうちに、どうか私の話を聞いてください。一生懸命、み
なさんの子育てで役立つ話をします!
03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
(03−1−22)※

     ⌒⌒⌒⌒
    ((( (( (( 
     ⌒  ⌒ 
     ・。・ β
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\
 ○\/│  //│\ \   みなさんのご家庭で、このマガジンが役だって
 ゜\/│ // │ / /    いますか?
   Γ ̄ ̄│──|○   何かテーマがあれば、掲示板にでもお書きください。

   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

マリアの処女懐胎について

 マリアの処女解体について、オーストラリアの友人(M大学教授、DD・K氏)から、こんな情報
が入ったので、報告する。

Dear Hiroshi,

Thank you for your phone call and for your concern. Melbourne is in no
danger. The fires are about 300 kilometers away. There was a lot of
smoke over Melbourne yesterday but today the sky is clear.
Australia will have severe bush fires about every 20 years I think.
As for the virgin birth and Mary, some scholars say this is based on a
mistranslation of the Greek New Testament. They say the word should be
be "young woman" not "virgin". Roman Catholics believe in the Virgin
Mary but many other Christians have a different view of this. There has
been a lot of discussion of this in recent years.
Dennis

浩司へ

心配してくれてありがとう。
メルボルンは心配ありません。
山火事からは300キロ離れています。
昨日は煙が届きましたが、今日の空はきれいです。
オーストラリアは20年ごとに、大きな山火事に襲われます。

処女懐胎をメアリー(マリア)についてですが、
「ギリシャ語の新約聖書の誤訳である」という説もあります。
その語は、「処女(バージン)」ではなく、「若い女性」と翻訳すべきだというのです。
ローマカトリック教会は、「処女」説を信じていますが、多くのほかの
宗派は、違った見解をもっています。
最近、この点についての議論がたくさんなされています。
DDより

+++++++++++++++

 こうした誤訳の中で、私自身が発見したものに、つぎのようものがある。

 ミケランジェロが彫刻した「ダビデ王の像」には、額(ひたい)のところに、二つのコブ状の角
(つの)がある。それとよく似た角が、中国の神農(炎帝のこと。黄帝はこの炎帝を倒して位に
ついたとされる。神農は、漢方医学の神様と言われている)の額にもある。不思議な一致であ
る。そこでその共通点の根拠をさぐってみたところ、ミケランジェロは、当時の常識に従って、
ダビデ王の額にコブ状の角をつくったのがわかった。しかし、それは「角」ではなく、「光線(RA
Y)」だった。つまり誤訳だった。つまりダビデ王は、頭から光線を出していたという。その「光
線」が「角」と誤訳され、ヨーロッパには、「コブ状の角」として伝わった。それでミケランジェロ
は、ダビデ王の額に、コブ状の角をつくった。話せば長くなるが、結論を簡単に言えば、そうい
うことになる。

 こうした誤訳を私自身も確認しているので、「若い女性」を、「処女」と誤訳したと聞いても、私
は驚かない。キリスト教徒の人には悪いが、こうした誤訳は、聖書(とくに旧約聖書)の中には、
いたるところにある。

+++++++++++++++

 さて本題。

 あなたが夫であるとする。結婚という結婚ではないにしても、一応結婚していたとする。同棲
(どうせい)という形でもよい。ともかくも、ある日、突然、妻が妊娠した。あなたには、セックスを
した覚えはない。そこであなたは妻に、「だれの子だ!」と問いつめた。すると妻は、「神の子
だ」と。

 このとき、妻の言葉をそのまま受け入れるのは、たいへんなことだ。私なら、「何をバカなこと
を言うか!」と、妻を一蹴(いっしゅう)するに違いない。が、ヨセフは、父親として、イエスを受け
入れた。そしてイエスを育てた。それはたいへんな苦悩であったに違いない。「違いない」と書く
のも、はばかれるが、しかし私なら、耐えられない。一説によると、マリアは神の啓示を受けた
というが、ヨセフは受けていない。またヨセフは、一説によると、イエスが神の子としての仕事を
始める前に、他界している。私は、オーストラリアの友人にそのことについて聞いた。「ヨセフ
は、君たちの世界では、どう理解されているのか」と。それについての返事が、冒頭にあげた、
メールである。

 あなたはこの問題を、どう考えるだろうか。「おもしろい問題」と言うと少し語弊がある。キリス
ト教徒の人たちは、不愉快に思うかもしれない。しかし考えるテーマとしては、おもしろい。この
問題は、これから先、機会を見つけて考えてみたい。また新しい情報が入ったら、報告する。
なお、D君の意見では、「マリアを祭るのは、主にローマンカトリックだ」とのこと。参考までに。

++++++++++++++

Dear my friend, DD,

Thank you for your mail.
The reason why I have been interested in Maria and Joseph, Mother and Father of Jesus 
Christ is that the concept of family is different between mothers and children, and between 
fathers and children. I mean hereby that the Austrian psychologist Dr. Froid once wrote in is 
book, that the relationship between mothers and children is stable but the relation between 
fathers and children is less stable. Then I have come to notice that in Christianity people 
worship Maria, not but so often Joseph. So I wondered why? Wasn't Joseph a father of 
Jesus Christ? Everybody says the father of Jesus Christ is God himself, not Joseph. If not 
then, what was he? For what he was with Maria and Jesus Christ? Some people say that 
Joseph was not met by angels as Maria was, and Joseph passed away before Jesus Christ 
started his job as a son of God. Then what was Joseph? Could he accept Maria with Jesus 
Christ? If I had been Joseph, I would not have been able to accept it, but frankly would 
have kicked out my wife when she had said that she had got pregnant but the baby was not 
my son. I can understand the concept of marriage was not the same as we have now. But 
still there are lots of un-understandable facts, about which I asked you over the phone. So I 
have been thinking about this. Thank you for your comments, which is very helpful.

Hiroshi

メール、ありがとう。
なぜ今、ぼくがマリアとヨセフに興味があるかといえば、母親と子ども、父親と子どもの関係
は、違うのではないかということを考えているからです。
フロイトも、そう言っています。
キリスト教では、マリアを祭りますが、それに比べてヨセフの影は、薄いですね。
それでキリスト教国では、どのように考えているかと興味をもったわけです。
ヨセフは、イエスの父親ではなかったのか、と。
一説によると、ヨセフは、マリアのように、神の啓示を受けていない。
またイエスが神の子としての仕事を始める前に、ヨセフは死んでいる。
となると、ますますわからなくなります。当時の結婚の形態が今と違うことは、ぼくにも理解でき
ます。
しかし理解できない面もたくさんあります。で、このことをずっと考えていました。コメントを送っ
てくれて、ありがとう。

浩司より
(03−1−21)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

親の悩み

 オーストラリアの別の友人のJJから、こんなメールが届いている。このところ息子(23歳)の
婚約のことで悩んでいる。毎日のように、メールを交換している。今朝も、こんなメールが、届
いた。

 JJが言うには、息子(SS)の婚約者(LL)と、彼のワイフ(NN)と娘(RR)との折り合いが悪いと
いうことらしい。息子の婚約者が、あからさまに、息子に、「私は、あんたのお母さんと、妹が嫌
い」と言っているらしい。それで友人のJJは、その調整に苦しんでいる。これは私が何度かアド
バイスしたあとの、友人からのメールである。

「Thanks for your reply.

We have essentially taken the view that you have advised.

基本的には、君の忠告に従う。

NN(his wife) in particular has spoken her mind to SS (his son) and LL(his fianc?) in her 
usual very frank manner. Now the engagement is announced she has decided to "step out 
of the picture", not interfere any more and give what support is necessary.

私の妻はいつものフランクな言い方で、息子とフィアンセには、話しかけてはいる。しかし婚約
が発表されてしまった今、フィアンセは、「写真の中から飛び出した」(いい子ぶるのをやめた)
ようだ。で、私は彼らにあまり干渉しないで、必要なことはしている。

I don't think LL is a particularly Bad person, just that she lives on her emotions and needs 
all attention focused on her. Especially SS's. NN and RR (his daughter) are a bit more 
skeptical about her.

フィアンセは、とくに悪い女性ではないと思う。ただ彼女は息子の関心を自分にひきたいため、
感情に任せて生きている。それで妻や妹は、彼女に懐疑的になっている。

I find I can't "connect" with LL. There is not much feeling comfortable or communicating 
easily with her.

フィアンセのLLとよい関係を保つことはできない。彼女といっしょにいても、私は居心地は悪い
し、気が休まらない。

Let's hope they both "grow up" and see the world and particularly NN and RR in less 
black and white terms.

彼らが成長し、彼女がワイフや娘を、あまり白黒はっきりとした目で見ないようにするのを望む
しかない。

My job is to keep talking to SS and LL and try to push them gently in the right direction. 
There is no particular "bust up" between them and me.

私がすべきことは、息子やフィアンセが、ワイフや娘に正しい方向でやさしく接するように、話す
こと。彼らと私の間は、とくに悪いというわけではない。

Things are even more complicated though, since RR 's new boyfriend, DD, is partners with 
SS in a building construction business. Worse than that he is a long time friend and ex-
boyfriend of LL's!!!!

が、さらに悪いことに、もっと事情は複雑。というのも、娘の新しいボーイフレンドのDDは、息子
のSSの仕事仲間。そのボーイフレンドのDDは、息子のフィアンセのLLの、前のボーイフレン
ド!!! 長くつきあっていた。

Oh what a tangled web we weave!!!

何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!

JJ

JJより」

 こうしたメールの内容はともかくも、私がいつも不思議に思うのは、つぎのこと。

このJJ君にしても、日本では考えられないほど、すばらしい環境の中に住んでいる。今度新し
い二階建ての家を建てたが、周囲には、ほかに家が見当たらない。少し離れたところには、小
さな湖がある。もちろんそれも彼の敷地の一部である。奥さんは女医で、自分は、政府の農業
指導員をしている。息子はアデレード大学を卒業し、建築技術者。娘は、今、同じ大学の医学
部に通っている。そういう彼が、「どうして悩むのか?」と。

「ない人」には、ないことがわかるが、「ある人」には、あることがわからない。私から見れば、そ
の友人は、まさに夢のような生活をしている。いや、私も若いころ、いつかオーストラリアに移
住して、そんな生活をしてみたいと何度も思った。しかしその友人にしてみれば、それがふつう
の生活であり、何でもない生活ということになる。だから私はこうしたメールを交換しながらも、
つい、こう言いそうになる。「君たちはうらやましいような生活をしているのだから、まずそれに
感謝しなければいけない。息子が多少、気に入らない女性と結婚することになっても、がまんし
なければいけない」と。

  しかし、もちろん、当の本人にとっては、そうではない。深刻な問題である。私にはその「深
刻さ」が、不思議でならない。

●幸福というのは、遠くの未来にあるかぎり光彩を放つが、つかまえてみると、もう何でもな
い。……幸福を追っかけるなどは、言葉のうえ以外には、不可能なことなのである。(エミール・
アラン「幸福語録」、1861−1951、フランスの哲学者)

アランは、「幸福などというものは、手にしたとたん、幸福ではなくなる」と。……となると、これ
は、そのまま私たちの問題となる。今、私は幸福でないと思っている部分は多い。しかしその
中には、人もうらやむような幸福があるかもしれないということ。それについては、老子(中国、
道家の根本書物、「老子道徳経」ともいう)は、こんなふうに書いている。

●不幸は、幸福の上に立ち、幸福は不幸の上に横たわる、と。

つまり不幸があるから、幸福がわかり、幸福があるから、不幸がわかる、と。もう少しわかりや
すい例では、他人の不幸を見ながら、自分の幸福を実感する人は、いくらでもいる。そういう点
では、人間は残酷な生きものである。ラ・ロシェフーコ(フランス人作家)も、「われわれはみな、
他人の不幸を平気で見ていられるほど、強い」(「道徳的反省」)と言っている。

これらは、いわゆる幸福相対論だが、相対論だけではすまされないところが、幸福論の、また
深遠なるところである。こう書いている神学者がいる。

●ささいなことで喜びをもちうることは、子どものみではなく、不幸な者の、高貴な特権である。
(リチャード・ローテ「箴言(しんげん)」、1799−1867、ドイツの神学者)

少し皮肉的な言い方だが、ローテが言っているのは、こういうことだ。

 子どもはささいなことで喜ぶ。同じように不幸な人は、身のまわりから、ささいな喜びをさがし
て、それを幸福とすることができる、と。つまり幸福というのは、相対的なものであると同時に、
視点の違いによって、どうにでもなるということ。幸福だと思っている人でも、視点を変えてさが
せば、不幸なことはいくらでもある。同じように不幸だと思っている人でも、視点を変えてさがせ
ば、幸福なことはいくらでもある。もっと言えば、「幸福」などというものは、得体の知れないも
の。さらに言えば、実体のない幻想ということになる。

 友人のメールを読みながら、その内容もさることながら、私は幸福論について、改めて考えて
なおしてみた。多くの文人や哲学者たちが、人生最大のテーマとして考え、そして考えてきた
「幸福論」。これで結論が出たわけではないが、今日はここまででひとつの区切りとしたい。こ
のつづきは、また別の機会に考えてみる。

 しかしそれにしても、まずい。娘のボーイフレンドが、息子のフィアンセの、元ボーイフレンドと
いうのは! 向こうで「ボーイフレンド」というときは、性的関係のある男をいう。日本では、こう
いうのを、「腐(くさ)れ縁」という。こういう腐れ縁は、何かにつけてトラブルのもと。しかしこの問
題だけは、親でもフタをすることはできない。言うべきことは言いながらも、あとは様子を見るし
かない。まさに「何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!」ということになる。
(03−1−22)
 
 ●  ⌒⌒ ●τ
 √ ●((( ((  ● ι
  ∫∫  ⌒  ⌒ ν ι
  §   ・。・ β§
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\    もしよろしかったら、どなたかに、このマガジンの
 ○\/│  //│\ \    ことを話していただけませんか?
 ゜\/│ // │ / /     みんなで力をあわせて、日本の、日本人の
   Γ ̄ ̄│──-\○       子育てを変えていきましょう!
   │  │    \       心豊かな、日本の未来のために!

【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

大勇と小勇(孟子)

 三年間、その床屋には通った。ただ幸いなことに(?)、その床屋のオヤジとは、ほとんど会
話を交わさなかった。私はいつも、床屋では、目を閉じて、眠ったフリをしている。

 その床屋で、ずっと、気になることがある。横に、電子レンジ大の消毒箱がおいてあるのだ
が、私はこの三年間、その箱が開いたり、閉じたりしたのを見たことがない。言うまでもなく、カ
ミソリは、一度使ったら、そのつど消毒しなければならない。あのカミソリほど、危険なものはな
い。とくに注意しなければならないのは、ウィルス性の感染症。カミソリを介して、人から人へと
感染する。

 孟子(中国戦国時代の思想家)は、『勇にも、大勇、小勇の区別あり』と書いている(「孟
子」)。勇気といっても、大きな勇気と小さな勇気があるという意味だが、私は今日も、その床屋
で、目を閉じながら、それを考えた。「こういうとき、オヤジに、忠告すべきかどうか」と。「私に勇
気があるなら、一度、消毒のことを、言うべきだ」と。

 しかし結果として、私は、それをオヤジに言うことができなかった。「こんなことを言うと、気分
を悪くするだろうな」「必ずしも、感染するとはかぎらない」「一応相手はプロだ。プロとしての立
場は尊重しなければならない」と。考えてみれば、小さな勇気だが、どうしても、それができなか
った。……どうしてできなかったのか? 

 かく言う私は、昔から、こわいもの知らず。相手が大きければ大きいほど、ムラムラと勇気が
わいてくる。小学五年生のときは、たったひとりで、一〇人前後の悪ガキを相手にして、けんか
をしたこともある。(私も悪ガキだったが……。)気が小さいくせに、そういう場になると、ハラが
座ってしまう。が、その私が、床屋で悶々と悩んでいる。「ヒゲ剃(そ)りはいいです」と断りかけ
たが、もうそのとき、オヤジは、首のうしろを剃り始めていた。

 私は心を決めた。「ちょうど今日で、スタンプカードは、いっぱいになる」と。スタンプカードがい
っぱいになったところで、○千円引きになる。それを考えた。考えながら、「今日で、この床屋と
はおさらば」と。「三年間通った床屋だったが、オヤジと親しくならなくてよかった」とも。

 そこで改めて、小勇と大勇について考えてみる。床屋のオヤジに小言をいうのは、まさにそ
の小勇ということになる。たいした勇気ではない。一方、巨大なカルト教団を相手に、筆で戦う
のは大勇ということになる。これは命がけだ。私には、そういう大勇はあるが、小勇はない? 
床屋の事件をみても、それは言える。なぜか。大勇のある人は、当然、小勇もあるはず。私の
常識でも、そうなる。しかし実際には、それがない?

 そこで私は気がついた。大勇のある人は、ささいなことは相手にしない。……ということでは
なく、そういうことをするのが、めんどうなのだ。人間に与えられた時間やエネルギーには、か
ぎりがある。そうした時間やエネルギーを一つのことに使えば、どうしても別のところで使うのが
おっくうになる。小さな町の、小さな床屋のオヤジを相手に、正義感を振りまわしたところで、そ
れがどうだというのだ。どうせ不愉快と思うなら、もっと別のところで不愉快と思いたい。おかし
な論理だが、私はそう思った。つまり大勇と小勇は、本質的に、別なもの。

 そこで天下の『孟子』を補足する。

●小勇のないものに、大勇はない。しかし大勇があるから、小勇があるとはかぎらない。
●大勇に使う時間とエネルギーは、小勇に使う時間とエネルギーは、等しい。小勇に使う時間
とエネルギーがあったら、大勇に使え。

しかしこれでは私の正義感は収まらない。さっそく静岡県庁の生活衛生室に手紙を書くことに
した。

+++++++++++++++

静岡県庁
生活衛生室

関係各位殿

拝啓

●調髪のあとの、髭剃りについて……

 私は現在、この浜松市に住むものです。そして調髪のため、随時、近所の理髪店に通ってい
るものです。つきまして、気がついたことがあり、貴組合の指導と指示により、改善していただ
きたい点がありますので、ここに手紙で、申し入れることにしました。

 調髪のあと、髭剃りをしてもらっていますが、そのとき使用するカミソリの消毒が、どこの店で
も、なおざりになっているように思います。私がこの数年間通った理髪店でも、私はあの消毒
箱の扉が開閉したのを、見たことがありません。その理髪店では、たいてい(というより、すべ
て)、前の人を剃ったカミソリを、簡単に洗い流したあと、そのまま、つぎの客の肌にあてて使っ
ています。

 昨今、ウィルス性の感染症がマスコミでも話題になっていますが、こうした行為は、感染症の
伝染という意味でも、たいへん危険なことかと思います。またそういう心配を、利用者全体がも
つようになったら、理髪業界全体にとっても、大きなイメージダウンになると思います。理髪店
では、何よりも衛生状態が、重要視されるのではないでしょうか。よろしくご判断の上、適切に
ご指導くださればうれしく思います。

                                敬具
 
 
                            浜松市     林 浩司

+++++++++++++++

 さてあなたの住む町では、事情はどうだろうか。あなた(あるいはあなたの夫や子どもたち)
が通う床屋では、そのつど器具を消毒しているだろうか。もしそうでないなら、この手紙をコピ
ーして、県庁の担当課まで出したらよい。(担当の課は、県によって名称が異なる。)

 なお、こうした手紙を出す以上、今日を最後に、私はその床屋へ行くのをやめることにした。
もしこの手紙を書いたのが私とわかれば、あのオヤジは、私の首を切るかもしれない。こう見
えても、私は気が小さい。

 なお、いろいろ調べてみたが、こういうケースでは、理容師組合(各県に、県単位で、「理容生
活衛生同業組合」というのがある)にこうした手紙を書いても、あまり意味がないそうだ(県庁に
勤める友人のアドバイス)。皆さんの地域でも同じような問題があれば、その監督指導にあた
る、県の生活衛生部(静岡県のばあい)に、抗議の手紙を書いたらよい。「私は関係ない」と言
ってはいけない。床屋へ行くのは、おとなだけではない。子どもたちだって、行く。
(03−1−22)

    ┌┐
    │ト
    ≧≦ ∪          z
   ━━━━━━        z
  /      \
 /        \く⌒\  ∩      では、みなさん、次回も
/  〜       〆  へく ^川     どうか、よろしくご購読ください。
〜―ノ∵しへ〜へ〜〜〜〜――//―人〇       どうか、お体を大切に!
   w         ⊂ノ            お元気で!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞










件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■2-1-2

【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●子どもの世界は、社会の縮図

 おとなの世界に四割の善があり、一方四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善が
あり、一方四割の悪がある。これについては、私はたびたび書いてきたので、「子育てストレス
が、子どもをつぶす」(リヨン社)からの原稿を転載する。

++++++++++++++++

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に
対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親
は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも
しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話
が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

●子どもの世界だけの問題ではない
 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘
もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた
ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはし
ないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、
その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆ
がめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

++++++++++++++++

 この中で「テレクラ」を書いたが、今はもちろんテレクラの時代ではない。「出会い系サイト」と
いうのが五万とあって、そこでいろいろな交際ができるようになっている。方法はより巧妙にな
り、かつ地下にもぐった。

 またこの原稿の中で、私は「善悪論」を展開したが、すでに何度もこの善悪論については書
いてきたので、ここでは省略する。そこでおとなの私たちは、子どもには、どうあるべきかという
ことだが、結局は、この問題は、私たち自身がどうあるべきかという問題に行きつく。子どもの
問題は、決して子どもだけの問題ではない。それについても、この原稿の中に書いた。

 ただここで言えることは、五五歳という私の年齢からみると、六歳の幼児も、二〇歳の青年
も、また三五歳の親も、違うようで、実際にはそれほど違わないということ。知識や経験は、も
ちろん年齢とともに、豊富になるが、こと「人間性」ということになると、それほど違わない。(そ
れぞれの年齢の人は、「私は幼児とは違う」と言うかもしれないが……。)つまりあなたや二〇
歳の青年がバカでないように、幼児もバカではない。一方、幼児に愚かな面があるように、あな
たや二〇歳の青年にも愚かな面がある。それぞれの人には、賢い面もあれば、愚かな面もあ
る。その割合は、幼児も、二〇歳の青年も、そして三五歳の親も、変わらない。

 もちろんだからといって、五五歳の私が、より賢いと言っているのではない。それを「悪」と決
めてかかってよいかどうかはわからないが、しかしたとえば私にだって、浮気心はある。どこか
のすてきな女性と、裸で肌をすり合わせてみたいという欲望は、ある。これは本能であって、ど
うしようもない。おなかがすいたとき、おいしいものを食べたいという欲求と同じ。私はその知人
に会ったとき、内心のどこかで、「うらやましい」と思ったのを覚えている。その男はこう言った。
「林、若い女のおっぱいはいいぞ。お前は触りたいと思わないのか?」と。

 ただそれを行動に移すかどうかという点で、ほかの人とは違うのかもしれない。めんどうとい
うより、私には自信がない。それにそういう世界とは、縁がなかった。今もない。が、チャンスが
あれば、考え方が変わったかもしれない。私はもともといいかげんな人間だし、道徳性も倫理
性も低い。意思も弱い。それに何かにつけて優柔不断。頼まれれば、何だってしてしまう。そう
いう自分をよく知っているから、そういう世界には近づかないようにしている。

 そんなわけで、私は子ども(生徒)たちがまちがったことをしても、あまり大声で怒ることがで
きない。「偉そうなことは言えない」というブレーキが、いつも働く。そういう意味では私は、ただ
のお人好しのおとな(教師)? あるいはただの臆病(おくびょう)者?

 またこの原稿の最後の部分で、私は「よいことをするから善人になるのではない。悪いことを
しないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる」と書いた。これに
ついては、この原稿を中日新聞に発表したあとも、何度も考えなおしてみた。で、結論は、「や
はり正しい」。

 この部分を書くとき、私は、一人の男(六〇歳)を念頭に置いた。その男は、本当に人のよい
男で、まじめで、目立たない男だった。で、近所では、「仏」とあだなされていた。しかし私はい
つか、その男が、まったくのノーブレイン(思考力なし人間)であること知った。何も考えていな
いのである。主義どころか、自分の意見ももっていなかった。そこである日、私はその男を見な
がら、こう思った。「この人は本当に仏なのか。いや、違う。ただのノーブレインにすぎないので
は……」と。

 その結論は、やはり、ノーブレインだった。で、私はそういう男を、善人と位置づけることに、
大きな抵抗を覚えた。その男は、自分のまわりの世界をどんどんと削り、削ることで、身のまわ
りをきれいにしているだけだった。つまり悪いこともしなければ、よいこともしない。もしそういう
男を善人としてしまったら、「では人間とは何か」という問題にまで行きついてしまう。だからこの
原稿に書いたような結論になった。「悪いことをしないから、善人というわけでもない」と。

 私たちは生きている。生きている以上、いろいろなしがらみや、こだわりが生まれる。多くの
問題もそこから生まれる。私たちは、それらと戦う。戦わねばならない。つまりそういう戦いの
中から、「善」が生まれる。自分の世界に閉じこもり、悪いこともしないが、よいこともしないとい
うのであれば、その人は善人ではない。人間は人間とのかかわりの中で、はじめて善人にな
る。……なることができる。

善人が善人であるためには、一人の人間として、ごくふつうの生活をする。そしてその中で、ま
わりの悪や自分自身の悪と戦う。不完全で邪悪であることを恥じることはない。未熟で未経験
であることを恥じることはない。失敗や誤解することを恥じることはない。恥ずべきことは、そう
いうまわりの悪や自分と戦わないことである。そういう気持ちをこの原稿の中に織り込んだ。前
にも読んでくれた方には、恐縮だが、もう一度、そういう視点でこの原稿を読んでくれればうれ
しい。
(03−1−24)

●※……ノーブレイン……英語で「ノーブレイン」というときは、考える力があっても、考えない
人のことをいう。いわゆる「考えない人間」ということ。英語国では、「考えるから人間」という常
識が、日本とは比較にならないほど、一般化している。バカとか、アホとかいう意味とも違う。わ
かりやすく言えば、「常識ハズレ」のこと。自分で冷静に考えて行動できない人間のことをいう。
よくオーストラリアの友人のD君がこの言葉を使っていた。それで私もときどき使うようになっ
た。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(544)

Rという宗教団体?

 このところ「R」という得体の知れない宗教団体が、世間をにぎわしている。「地球上の全生命
は宇宙人が遺伝子工学でつくったと主張している宗教団体」(TBS)である。

 私はこの宗教団体を知ったとき、最初に思ったのは、「どうして宗教団体になるのか」という
疑問だった。一般論としては、科学性が高まれば高まるほど、その科学性は、宗教というもの
が本来的に内含する非科学性と衝突する。もっとわかりやすく言えば、科学と宗教は、本来、
相容れない関係にある。仮に「地球上の全生命は宇宙人が遺伝子工学でつくった」としても、
それはそれとして、ありえない話ではない。いつか科学的に証明される時代がくるかもしれな
い。しかし宗教的な立場で、「信ずる」とか、「信じない」とかいうテーマではない。

 もっともこうした例は、過去にないわけではない。私が追跡調査した事件に、一九九七年に
起きた、『ハイアー・ソース』事件がある。

++++++++++++++++++++

謎の集団自殺事件

 九七年の三月下旬。巨大なすい星が地球に接近してきた。ヘール・ボップすい星である。今
世紀最大のすい星とも言われ、春が終わるころには、巨大な尾を北西の空に見せるようにな
った。

 このすい星はその前後、数か月にわたって、地上でも観測されたが、そのすい星が去るのに
時を合わせて、アメリカで奇妙な集団自殺事件が発生した。第一報は、九七年三月二七日に
もたらされた。毎日新聞は、次のように伝えている。

大邸宅で集団自殺?

【ニューヨーク二六日】
●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外で、二六日午後三時一五分(日本時間二七日午前八
時一五分)ごろ、集団自殺とみられる多数の遺体が発見され、地元のシェリフ(保安官)事務所
は、少なくとも、三九人の男性の遺体を確認したことを明らかにした。

●男性は一八歳から二四歳で、宗教関係者とみられる。カナダのケベック州でも、二二日、宗
教関係者ら五人が集団自殺しており、警察当局は、二つの事件の関連を調べている。

●現場は、サンディエゴの北、三二キロの高級住宅地ランチョ・サンタフェにある豪邸。地元テ
レビ局によると、邸宅は牧場に囲まれ、プールやテニスコートもついている。昨年一〇月から
グループが借り、近所の人の話によると、邸内には、五〜一〇人程度の白人の中年男女が暮
らしていたという。

●死亡した男性らは、いずれも黒っぽいズボンに、テニスシューズ姿。外傷はなく、手をわきに
そろえ、うつ伏せに倒れていたという。

 続く翌二八日の毎日新聞には次のようにある。

ヘール・ボップとともに旅立つ
インターネットに"遺書"(米の集団自殺)

●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外のランチョ・サンタフェで二六日発見された、宗教カルト
グループ三九人の集団自殺事件で、グループがインターネットに「遺書」のような声明を残して
いたことが二七日、わかった。

●声明は、「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」と
いう内容で、空想科学的色彩の強い同グループが、すい星の接近に触発されて、集団自殺を
はかった可能性が強くなった。

●地元の報道などによると、グループは、『ハイアー・ソース』という名で、ホームページのデザ
インなどを行う、インターネットサービス会社を経営。自分たちも『天国の門』と名づけたホーム
ページをもち、教義を詳述していた。

●グループはこの中で、「ヘール・ボップすい星の接近は、我々が待ち望んだ標識だ」と述べ、
あの世へ旅立つ喜びを独自の教義で説いていた。

●一方、警察当局は、同日夕までに、三九人の死者のうち、二一人が女性。一八人が男性で
あったと発表。全員、男性とした前日の情報を訂正した。年齢も二〇歳から七二歳までと幅広
く、メンバーには黒人二人や、ヒスパニック系の人々、カナダ人一人も含まれていた。

●集団自殺は三つのグループに分け、順番にアルコール(ウオッカ)と睡眠薬の服用で行われ
た。いずれも死体の足もとに、スーツケースが置かれ、旅立ちを示唆していた。

 この事件について、読売新聞も同じように報道しているが、毎日新聞の記事にない部分を補
足しておく。

●不動産業者によると、いつも宗教的な儀式のようなものが、行われていたという。ランチョ・
サンタフェは、太平洋を見おろす丘陵地帯にあり、「サンディエゴのビバリーヒルズ」とも呼ばれ
ている。現場の邸宅はヤシの木に囲まれ、広大な敷地には、テニスコートやプールがあり、ワ
ゴン車三台と、トラック一台が止めてあった。(二七日)

●遺体の三九人は、頭から胸にかけて、紫の布をかけて横たわっていた。遺体には女性も含
まれている。邸宅所有者の弁護士は、「借り主は、天使として米中西部に送りこまれたと信じて
いる宗教団体で、『WWWハイアー・ソース』と名のっていた」と語った。

●NBCテレビによると、この集団は、二二年前から活動。脱退したメンバーに、二五日、送ら
れたビデオテープの中で、地球を離れ、ヘール・ボップすい星の陰に隠れている宇宙船(UF
O)に乗るという別れのあいさつをしている。(二八日)

 この事件の特徴は、たいへん科学的な側面をもったカルト教団によって引き起こされたという
ことだ。インターネットを使って、信者を集めたり、教義を説くという点も、今までの方式とはち
がうし、すい星とともに、宇宙への旅に出るという発想も、SF的である。新聞記事によれば、
「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」とある。

 この新聞記事だけで、彼らの教義の内容を判断することはできないが、この記事からだけで
も、彼らの教義が、いくつかの点で常識に、はずれていることがわかる。たとえば、宇宙船とい
う「物体」とランデブーするという発想。しかもその宇宙船は、すい星の陰に隠れているという発
想。死体の足もとに、スーツケースが置かれていたという事実。宇宙船(UFO)とともに、「あの
世」へ行くという発想、などなど。私はこの記事を読んだとき、「どうして、UFOが、隠れなけれ
ばならないのだ!」と、思わずつぶやいてしまった。あの世へ行くこともできるような宇宙の超
生命体が、地球人がごときに隠れてコソコソする必要はないし、信者にしても、仮に霊となって
行くのなら、スーツケースは必要ない。自分たちでスペースシャトルでも買い取って、それでそ
の宇宙船に行くというのなら、まだ話はわかるが、「死んで行く」という発想は、どうにもこうにも
理解できない。

 この事件で、三九名もの、アメリカ人の若者が、狂った指導者の犠牲者になった。アメリカの
ABC放送は、その教団の周辺の人たちからもインタビューを集めていたが、どの人たちも、
「会えば、感じのいい若者たちでした」と言っていたのが印象的であった。つまりこういう不可思
議な集団自殺事件を引き起こすような連中だから、日ごろから、挙動がおかしかったかといえ
ば、「そういうことはなかった」という。「会えば、軽くあいさつもしてくれましたし、教団の内部も
案内してくれたこともあります」と、一人の納入業者は答えていた。

 この種の事件が起きると、たいていの人は、「頭のおかしな人たちが起こした事件だから」と
いうことで、自分の頭の中を整理してしまう。そして「自分たちは正常だ」と思いなおした上で、
事件があったことそのものを忘れてしまう。事実このヘール・ボップすい星にまつわる集団自殺
事件は、すい星が西の空に消えると同時に、人々の脳裏から消えた。

 が、本当に私たちは正常と言えるのだろうか。この種の事件と、無関係と言えるのだろうか。
あるいはこの種の事件は、日本では起きないと言えるのだろうか。また子どもたちはそういうカ
ルト教団と、無縁でいられるのだろうか。答えは「ノー」。すでにこの日本でも、世界を驚愕させ
るような事件が起きている。地下鉄サリン事件もその中に、含まれる。小さなカルト教団がから
んだ、小さな事件となると、無数にある。「日本だけは別だ」とか、「日本だけは正常だ」と考え
るのは、あまりにも早計である。となると、もう一度、この集団自殺事件について、考えてみな
ければならない。よく知られた事件としては、七八年の一一月一八日に、南米のガイアナで起
きた、人民寺院信徒による集団自殺事件がある。この事件では、何と九一四人もの信者が、
集団自殺をしている。なぜ、こんな忌まわしい事件が起きたのか。あるいは起きるのか。なぜ
か?

+++++++++++++++++

 この先は、また別の機会に書くことにして、その宗教団体が、クローン人間を、つぎつぎと誕
生させているから、話がおかしくなってきた。その中には、日本人(?)の子どももいるという
(?)。

 この問題は、これからしばらく考えてみたいと思う。とりあえず「R」という宗教団体についての
資料を集めるところから始めたい。今の段階では、「?」マークを、一〇〇個くらいつけたい気
持ちだが、たぶん、それは一〇〇〇個になるかもしれない。どう考えても、私の常識には合わ
ない。死んでミイラ化した人間を、「生きている」とがんばった、あのLSという宗教団体と、どこ
かよく似ている(?)。
(03−1−25)

●人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない。(三木清「断片」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

東京があぶない!

 このところ、K国が、この日本に対しては、ナリを潜めている。表立った攻撃、非難をしてこな
い。しかし……。

 世界は、K国に核開発の放棄を迫っている。しかしK国が、核開発を放棄することは不可能。
ありえない。理由は簡単。核開発の放棄には、当然のことながら、核査察をともなう。核査察を
許すということは、軍事機密を暴露することに等しい。先軍政治(軍主体の政治体制)をとって
いるK国が、軍を弱体化させることは、同時に国家体制の崩壊を意味する。現にK国は、「核
放棄せよということは、わが国に武装解除を迫るようなもの」と述べている(〇三年一月、朝鮮
労働党新聞)。

 いや、すでにK国は、核兵器をもっている。アメリカのCIAも、韓国のKCIAも、そう認識してい
る。どういう情報源かはわからないが、衆議院議員の西村眞吾氏も、「北朝鮮は核兵器を五発
もっている」(「諸君〇三・一月号」と断言している。また先の南北会談(〇三年一月)でも、北朝
鮮側の代表団は、さかんに「核兵器は作らない」と言っていた。しかし「もっていない」とか、「も
たない」とかは言わなかった。つまりK国は核兵器をすでにもっている。ならば、よけいに核査
察はさせない。つまりK国は核開発の放棄はしない。

 となると、その核兵器は、どこに使われるかということになる。これについては、先の米朝協
議(〇二年一〇月)で、K国の高官は、アメリカのケリー国務次官補に、はっきりとこう言明して
いる。「核は日本だけを対象としたものだ」(姜?柱第一外務次官)と。つまり「日本を攻撃するた
めに、核兵器をもっている」と。

 以上の理由だけではないが、今、日本は戦後最大の、危機的状況にあるとみてよい。そして
K国は、今、日本攻撃のチャンスを、虎視眈々(こしたんたん)とねらっている。問題は、その時
期と方法だが、もし私が金正日なら、アメリカがイラク攻撃を始めたとき、あるいはその戦争が
泥沼化し始めたとき。あるいは、国連安保理でK国の制裁が議決されたときを考える。K国そ
のものが、今、危機的状態にある。国家経済は行きづまり、エネルギー不足、食料不足で、体
制そのものが、壊滅状態にある(読売新聞)。が、独裁国家の常として、K国は、決して自滅の
道を選ばない。自滅ということになると、いままでの悪行の数々が、白日のもとにさらけ出され
ることになる。

 そこでなぜ日本かという問題がある。これも理由は簡単。今、K国が戦争をしかけても、ゆい
いつ大義名分がたつ国が、日本だからである。実際以上に怨念をかきたてている面もある
が、K国には、日本によって植民地にされたという歴史がある。「植民地時代への報復」という
ことになれば、少なくとも、韓国や中国には、言い分けがたつ。韓国や中国を黙らせることもで
きる。うまくいけば、味方に引き込むこともできる。それ以上に、K国の国民を鼓舞(こぶ)する
ことができる。日本を攻撃すれば、金正日は、そのままK国のみならず、韓国も含めた朝鮮半
島全体の英雄になる。

 問題はアメリカだが、アメリカが日本のために戦ってくれると考えるのは、甘い。いや、その
前に、日本が核攻撃されたら、日本の経済は壊滅してしまう。同時に世界経済は、大混乱。ア
メリカとて無事ではすまない。

 そこでシミュレーションしてみると、この段階では、韓国は、アメリカ参戦については反対す
る。ヘタにアメリカの味方をすれば、今度はソウルが核攻撃される。韓国にしてみれば、K国は
同朋の国。しかし日本は、いまでも敵国なのだ。アメリカは、韓国の反対を押しきってまで、K
国に反撃はしない。何といっても、韓国には四万人弱のアメリカ兵がいる。そしてそのアメリカ
兵たちは、三八度線をはさんで、最前線にいる。アメリカとて、これらの兵隊を、危険にさらす
わけにはいかない。そこで反撃するとすれば、国連軍を組織して、中国やロシアを巻き込んで
ということになるが、それには時間がかかる。

 ここで誤解してはいけないのは、仮に日朝戦争になったとしても、韓国は、日本の側にはつ
かないということ。中国もつかない。現に韓国の次期大統領のノ氏は、「仮に米朝戦争になって
も、韓国は中立を守る」と、選挙運動中に、そう公約している。韓国に駐留してくれているアメリ
カにさえ、そうなのだ。いわんや日本の側に立つわけがない。

 また日本には自衛権はあっても、交戦権はない。要するに、「日本はやられても、やり返すこ
とができない」。K国にすれば、もっとも安全な敵ということになる。もっと言えば、K国が日本を
奇襲攻撃しても、日本は、それに文句も言えない。なぜなら真珠湾攻撃という前例をつくったの
は、ほかならぬこの日本だからである。

 こうした事実を積み重ねていくと、K国の日本攻撃は、ますます現実味をおびてくる。そして当
然のことながら、K国が日本を攻撃するとすれば、大阪や名古屋ではない。もちろん東京であ
る。いつかK国が、「日本を攻撃するとすれば、皇居だ」と言っていたのを覚えている。つまり東
京のど真ん中。このあたりには、日本の政治、経済の中枢部が集まっている。核攻撃された
ら、その瞬間から、日本の行政、経済、防衛機能は完全に停止する。考えてみれば、こうまで
無防備な国は、ほかにない。アメリカですら、ホワイトハウスにせよ、国防省にせよ、CIAにせ
よ、それぞれをバラバラに置いている。またそれが世界の常識でもある。
 
 それはさておき、それ以上に不思議なのは、日本人の危機感のなさである。こういう状態に
なっても、ノー天気に、のんきな国会討論を繰り返している。ただ一つ注目される発言として
は、K外務大臣が、こう言ったことだ。「K国のミサイルは、早ければ七、八分で日本に到達す
る。だからミサイルが発射されてからでは遅い。発射される前に、相手側を攻撃するのも、法
理上は、防衛の中に含まれる」(〇三年一月・国会答弁で)と。考えてみれば、K外務大臣の発
言は、たいへんな発言だが、今の段階では、その発言を問題にする議員はひとりもいない。

 さて、こういう現状のもと。私たち日本人は、どう考えたらよいのか。

 まず注意すべきは、アメリカがイラク攻撃をいつ、どのような形で始めるか。つぎに国連安保
理での審理が、いつどのような形で始まるか、だ。K国は、そのスキマをねらって、日本を攻撃
してくる。方法はいくらでもある。一番可能性の高いのは、戦闘機による自爆攻撃。つぎに小型
船舶による自爆攻撃。つぎにミサイル攻撃。その中でも、もっとも警戒すべきは、小型船舶に
よる自爆攻撃ではないか。たとえば一〇〇トンクラスの小さな漁船に核兵器をしのばせ、東京
湾までもってきて、そこで爆発させる、とか。戦闘機による攻撃は、目立ちすぎるし、またミサイ
ルにしても、まだ搭載可能な核兵器は完成していないというのが、おおかたの見方である。

 私にしても、この問題は、今日はじめて考える問題なので、いいかげんな言い方しかできない
が、常識的に考えると、こうなる。

(戦争の危機が迫ったら……)
●預金はできるだけ現金化しておく。
●保存食をできるだけ買い込んでおく。
●何らかの形で、ガソリンを確保しておく。
●家族の避難場所を確保しておく。あるいは家族と、万が一の連絡場所、集合場所を話しあっ
ておく。

(戦争が始まれば……)
●円は大暴落、物価は急上昇する。仮に東京が攻撃されたとなると、その瞬間から、日本の
国としての機能は、すべて停止する。結果、経済は大混乱、同時に、円は大暴落。それにあわ
せて物価は、急上昇する。
●K国からの新たなる攻撃、テロに警戒する。
●外出をひかえ、細菌兵器、化学兵器に警戒する。現在この日本には、約二〇〇人のK国工
作員が潜んでいると言われている。こうした工作員が、何らかの形で、破壊工作、あるいは武
装蜂起する可能性がきわめて高い。

(しばらくしたら……)
●みんなで、自由と正義を守るために、立ちあがろう。それぞれの地域で、軍団をつくって、上
陸してくるK国の兵隊と戦おう。

    ┌┐
    │ト
    ≧≦ ∪          z
   ━━━━━━        z
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/  〜       〆  へく ^川     どうか、よろしくご購読ください。
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
03−2−1号(173)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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【今回は、全体に暗い話ばかりになりました。お許しください。】
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

気うつ症の子ども

 もうあれから三年になるだろうか。夏休みの間だけ、預かってほしいと頼まれたので、私はそ
の子ども(中二男子)を、一か月だけ教えた。そのときの記録が、ファイルの中から出てきた。

A君の症状

●子どもらしいハツラツとしたハキがない。何かを問いかければ、ニンマリと笑ってそれに答え
るが、どこか痛々しい。
●「何が心配だ」と聞くと、「テスト」と答える。頭の中は、テストのことばかりといったふう。「がん
ばって、それでだめなら、いいじゃない」と言うと、「夏休みあけのテストで悪かったら、ガックリ
すると思う。そういう自分がこわい」と。
●「どんな夢を見るの?」と聞くと、「ときどき、こわい夢」と。そこで「どんな内容かな?」と聞く
と、「内容は覚えていない。でも、こわい夢」と。何度問いただしても、「こわい夢」というだけで、
内容はわからなかった。
●「家では、だれがこわい人から?」と聞くと、「お父さん」と。「どうして?」と聞くと、「テストの点
が悪いと、しかられる」と。
●「今、一番、何をしたいのかな?」と聞くと、「写真を撮りたい」と。彼の趣味は、カメラをいじる
ことだった。写真を撮るというよりも、毎日、自分のカメラをみがいていた。カメラは、一五台くら
いもっているとのこと。
●学習は、すべて受け身。私が「〜〜しよう」と声をかけないと、そのままじっと座っているだけ
といったふう。無気力。「最近、大声で笑ったことがあるか?」と聞くと、「あまりない」と。
●「睡眠はどうかな?」と聞くと、「ときどき、朝の三時か四時ごろまで眠られないことがある」
「朝早く、目が覚めてしまうことがある」と。
●「家の中で、一番、気が休まるところはどこかな?」と聞くと、「ふとんの中……」と。「お母さん
はこわくないの?」と聞くと、「お母さんもお父さんの仕事を手伝っているから、家にいない」と。
●「食事はどう?」と聞くと、「このところあまり食べない」と。しかしA君は、ポッテリと太った肥
満型タイプ。水泳部に属しているということだが、筋肉のしまりがない。「結構、太っているんじ
ゃないの? 何を食べているの?」と聞くと、「あまり食べていない」と。この年齢の子どもは、も
う少し身なりに神経をつかうものだが、髪の毛はボサボサ。無精ひげはのび放題のびていた。
強い口臭もあった。

A君の症状で一番気になったのは、ここにも書いたように、ハツラツさがなく、どこかもの思い
げに、暗く沈んでいたこと。ため息ばかりついて、私が指示しなければ、何も自分ではしようとし
なかったこと。一度は、本人が何かをするまで待っていたことがあるが、ほぼ三〇分間、何もし
ないでボーッと座ったままだった。

 こういうケースでも、私はドクターではないから、「診断」するということはできない。夏休みが
終わる少し前、迎えに来た母親に、「負担を軽くしてあげたほうがいいのでは……」と言うと、母
親は笑いながら、「今が、(受験勉強では)一番、大切な時期ですから、あの子にはがんばって
もらわないと」と言った。

 結局、子育てというのは、行き着くところまで行かないと、親は気づかない。たいていの親は、
「うちの子に限って」「まさか……」「うちはだいじょうぶ」と思って、その場、その場で無理をして
しまう。この無理が、子どもをやがて、奈落の底にたたき落としてしまう。私は別れるとき、「こ
の子は、もう勉強についてはあきらめたほうがよい。またそうすることがその子どものために最
善」と思った。思ったが、結局は言えなかった。

 ……それから三年。久しぶりにその子どものうわさを聞いた。今は、私立高校(このあたりで
も、公立高校よりもランクが下と言われるD高校)に通っているということだそうだ。「元気か
な?」と聞くと、彼をよく知っている高校生はこう言った。「うん、あいつは元気だよ」と。私はほ
っとすると同時に、「そんなはずはない」と思った。何か大きな問題をかかえているはず。しかし
それ以上は、聞かなかった。かえってこの時期、不登校でも起こしてくれたほうが、あとあとの
症状は軽くすむ。問題を先送りにすればするほど、症状は重くなり、なおるのに長期化する。
今、青年期に、精神的な問題を起こす子どもが、ものすごくふえている。「ものすごく」としか書
きようがないが、あなたの周辺にも、一人や二人は必ずいるはず。私はそれを心配した。

(子どもの気うつ症)

●親の過負担、神経質な過関心、威圧的な過干渉、価値観の押しつけ、権威主義が、慢性的
につづくのが原因として起こる。
●気うつ症に先立って、神経症を起こすことが知られている。チック、吃音(どもり)、夜尿、頻
尿など。腹痛、頭痛もよく知られた症状である。
●症状としては、ノイローゼ、うつ病に準じて考えられている。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。
さらにその状態が進むと、
(5)ぼんやりとして事故を起こす(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、ぐすったりする(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見ら
れたら、黄信号ととらえる。

要はその前兆をいかにとらえるかだが、これがむずかしい。多分、あなたも、「うちの子はだい
じょうぶ」「私はだいじょうぶ」と思っている。親というのは、そういうもので、自分で失敗し、行き
つくところまで行かないと、わからない。自分では気がつかない。これは子育てが本来的にも
つ、宿命のようなものと考えてよい。
(03−1−25)
 
    ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )
   γ ρρ   │σ σ ρ )
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )  子育ては重労働。
   人   υ ( `) (  )    しかしどうせ育てなければならないのなら、
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)     あきらめて、育てましょう!
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ      前向きに!
  (   m m ○/ ̄ ̄ ̄ヽ○
【2】雑感・雑談∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

今回は、全体に少し(かなり)暗い話がつづきますが、
お許しください。みなさんといっしょに、「生きること」
について、考えてみたいと思います。

+++++++++++++++++++++++++++

●Mさんへ

 死ぬことを考えてはいけませんよ。私も、落ち込んだようなとき、ときどき「死」について考えま
す。しかしそういうときは、すかさず、「ああ、これは病気なんだ。心が病んでいるからなんだ」と
思いなおして、それ以上、「死」について考えないようにしています。

 心だって、病気になるのです。それはインフルエンザになって、高熱を発するようなものです。
そのときの健康状態を基準にして、自分の健康を考えてはいけません。同じように心が風邪を
ひいたときも、そのときの精神状態を基準にして、あれこれ考えてはいけません。そういうとき
は、静かに、嵐が去るのを待つ。それがコツです。

 そうですね。自殺する人は、決して、「死にたい」とは言いませんね。「〜〜したい」という意欲
があるときは、まだ死ねないものです。子どもでも、「死にたい」「死んでやる」とかいう子ども
は、死にません。

 しかしこわいのは、「もう生きていてもムダ」と思ったり、「生きていて何になるのだろう」と疑問
をもったときです。子どもでも、そういうことを口にするようになったら、注意してください。衝動
的に、死を選ぶことがあります。いえいえ、これは私でも、Mさんでも、同じです。少し、「死」に
ついて、考えてみます。

                              はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++

●死

 私が大学に入学したとき、一年先輩が、私に一冊の本をくれた。それが阿部次郎の書いた、
『三太郎の日記』だった。かなり分厚く、しかも難解な本で、結局、読みきれなかったが、その
中に、こんな一節があった。

『死は生の自然な継続である。最も良き生の後に最も悪しき死が来るべき理由がない。……
死に対する最良の準備が最もよく生きることに在るは疑ひがない』

 わかりやすく言えば、死の準備をしながら生きることは、最良の人生を送るためには必要だ
と。阿部次郎はそう書いている。つまり私たちは、今、元気で健康だからこそ、「死」について考
える。考える価値がある。また考えなければならない。それはいわば心の保険のようなもので
はないか。「死」を前にしたとき、それに動じないようにするためには、どうすればよいか。が、
それだけではない。死について、日ごろから考えておくことは、結局は、今の自分の「生」を充
実させることにもなる。私はこれを、「死の自覚」と呼んでいる。

 そのことは、若い人を見ればわかる。若い人は元気だ。健康だ。「死」とは無縁の世界に生き
ている。しかしそういう若い人を見ていて気づくことは、「人間的な薄っぺらさ」。その薄っぺらさ
を笑ってはいけないが、しかしそれはたとえて言うなら、時間という財産を、食い散らして生きて
いるようにも見える。私自身もそうであったから偉そうなことは言えないが、もったいないという
より、ノーブレイン(思考力なし)に見える(失礼!)。しかしそういう若い人でも、あるとき、「死」
に気づき、そして「生」に気づく。そして賢くなる。

 要は、その時期ということになる。もちろん早ければ早いほどよい。若ければ若いほど、よ
い。それに気づいたときから、その人は「生きる」ことを考えるようになる。いや、生きるだけな
ら、それはそれだけのこと。大切なのは、中身。ソクラテス(ギリシャの哲学者)も、『もっとも尊
重しなければならないことは、生きることではない。いかによく生きるかである』(「クリトン」)と
言っている。ただ生きるだけでは意味がない。「よく生きるか」ということこそ、重要である、と。

そこで「死の自覚」ということになる。ただ誤解しないでほしいのは、これにはきわめて個人差
があるということ。年齢は、あまり関係ない。若くして、「生きる」ことに目覚める人もいれば、年
老いてから目覚める人もいる。ただ、「死」の恐怖を味わってからでは、遅いということ。これも
たとえて言うなら、火事になってから、あわてて消火器の使い方を習うようなもの。火事になる
ずっと前から、火事になってもよいように準備して生きる。その心構えをつくりながら生きる。そ
れが大切。

 だから阿部次郎は、『死に対する最良の準備が最もよく生きること』と書いている。つまり今、
「死」について考えることは、「生」を充実させるためには、大切なことだ、と。先にも書いたが、
あなたが若くて、健康なら、なおさらだ。繰りかえすが、不治の病を宣告されてから、あわてて
死を考え、それから生を考えても、遅い。

 ただ、「死」そのものについての考え方には、いろいろある。その中でもおもしろい考え方をし
ているのが、エピクロス(ギリシャの哲学者)。彼はこう書き残している。

『死というものは、存在しない。なぜならば、私たちが存在するかぎり、死は存在しない。死が
存在するときは、私たちはもはや存在しなからだ』

 この論理はたいへんわかりやすい。エピクロスは、「生きているかぎり、死はない。しかし死ん
だときは、もう私たちは存在しないのだから、死を感ずることもない。つまり死は、私という個人
にかぎっていうなら、存在しない」と。ナルホド! エピクロスに言わせれば、死の恐怖など、ナ
ンセンスということになる。事実、多くの先人たちもそう書き残している。「死そのものよりも、死
についての想像の方が、はるかに我々を恐怖せしむる」(「愛の無常について」)と書いた、亀
井勝一郎。「死の恐怖は、死そのものよりも怖ろしい」(「箴言」)と書いた、シルスなどがいる。

 ……となると、話がまた振りだしに戻ってしまう。私たちが「死」というのは、「死の恐怖」という
ことになる。では、その恐怖とは何かということになれば、喪失の恐怖ということになる。言うま
でもなく、死は、私たちからあらゆるものを奪う。肉体や精神や、そして魂までも。私たちがいく
ら心の中で、「私は自由だ」と叫んだところで、その自由すら奪っていく。

 もちろんそういう「死の恐怖」に対して、抵抗してもムダ。だれしもかぎりある命の中で懸命に
生きている。死は、「おとなも、子どもも、利口もバカも、貧者も富者も、すべて平等である」(ロ
レンハーゲン「蛙鼠合戦」)ということになる。だれしも死ぬ。私も、あなたも、みんな例外なく、
だ。そこで、大切なことは、やはり「準備」ということになる。そしてその準備をして生きること
が、一方で、とりもなおさず、私たちの「生」を充実させることになる。

●二つの死生観

 「死後の世界」については、大きく分けて二つの考え方がある。「魂は不滅」という考え方。も
うひとつは、「魂も、肉体とともに滅ぶ」という考え方。前者は、ほとんどの宗教団体がとる考え
方である。広い意味で、前世論、来世論、天国論、地獄論などは、こうした考え方を背景にして
生まれた。

 一方、いわゆる実存主義(プラグマティズム)は、後者を基礎として発達した。どちらが正しい
とか、正しくないという議論は、意味がない。あの世にしても、「あの世がある」と言う人は、いく
らでもいる。しかし「あの世がない」ことを証明できる人はいない。だからだれかが、「あの世が
あります」と言ったら、「はあ、そうですか」としか、言いようがない。数学の世界でも、「答を出
す」ことは簡単なこと。しかし「答(解)がない」ことを証明するのはむずかしい。同じように、あの
世がないことを証明するのは、至難のワザ。だから私はいつもこう考える。

 私はあの世も、来世も、天国も見たことがない。だから一応、今は、そういうものは「ない」と
いう前提で生きる。死んだとき、あの世にせよ、来世にせよ、天国にせよ、あればもうけもの。
またそのときはそのときで、考える。前にもどこかに書いたが、それは宝くじのようなもの。当る
ことをアテにして、高額なものを買う愚かな人はいない。買うとしても、宝くじが当ってから。同じ
ように、今は、そういうものは「ない」という前提で、精一杯、自分らしく生きる。

 そういう私を見て、神様にせよ、仏様にせよ、「あなたはずいぶんと勝手なことをしましたね」
と言ったら、私はこう答える。「はい、そのとおりです」と。そしてその上で、神様や仏様が、「あ
なたはまちがっていた」と言ったら、私はまっさきに、それに抗議する。そしてこう言う。「だった
ら、あなたのほうがまちがっている」と。

 本当のところ、今の私は、そういうものは、「ない」と思う。見たこともない世界を信じろという
ほうが、ムリ。本当のところはわからないが、「ない」と思う。それだけしか、ここでは言いようが
ない。

 だから今の私の考えによれば、人間は、死んだらおしまいということになる。すべておしまい。
だから、人間は、最後の最後まで、自分の人生を生きる。たった一つしかない人生だから、最
後の最後まで、大切に生きる。シラーも言っているように、「生きるのも一瞬、死ぬのも一瞬」
だ。だったら、死ぬ一瞬は、最後の最後でよい。

+++++++++++++++++++

●Mさんへ

 どんな言い方をしても、あなたの慰めにもならないと思います。あなたはあなただし、あなた
自身も、「私の気持ちなど、だれにもわからない」と考えていると思います。そのとおりです。あ
なたの気持ちを理解できる人は、だれもいないと思います。だから安易に、私は「死ぬことを考
えてはだめ」とか、「がんばって」とか、言いたくありません。また私がそう言ったところで、あな
たを苦しめるだけです。わかっています。

 私も、ときどきひどく落ちこんだりすると、「生きていてもムダ」と思うことがあります。しかしそ
ういうとき、私は、自分でも病気とわかるので、そのままじっとしています。そのことは冒頭に書
いたとおりです。で、もう少し具体的には、たいていそういう状態になるのは、夜で、しかも寝る
前ですから、そのままふとんをかぶって目を閉じます。風邪をひいたとき、葛根湯(かっこんと
う)を飲むと、汗がジワジワと出てきますね。そのときコツは、体の熱を冷まさないように、じっと
ふとんの中で耐えることです。漢方では、汗が熱邪を発散させるというような考え方をします。
だから汗を出します。それと同じように考えて、ふとんの中で、じっとがまんします。 

 やがていつの間にか眠ってしまい、朝がやってきます。Mさんも、すでに経験があると思いま
すが、朝、目をさますと、その前の夜の苦しみがウソのように消え、心がシーンと静まりかえっ
ているのがわかります。私はそういうとき、「ああ、これが私の本当の心だ」と思うようにしてい
ます。そうです。それが本当の心です。しばらくすると、またあれこれと雑音が心の中に入って
きて、心の中がザワザワしてきますが、それはそれでしかたのないことです。が、そのときで
も、何度も、自分に言ってきかせます。「朝、目を覚ましたときの私が本物の私だ」とです。

 こうした対処のし方が、参考になるかどうかわかりませんが、Mさんも、一度、試してみてくだ
さい。そうそう言い忘れましたが、アメリカ人のうち、約三分の一が、デプレッション、つまり「う
つ症状」に悩んでいるということです。日本人も、ほぼ同数とみてよいでしょう。多いですね。だ
から「自分がおかしい」と思う必要はありません。この世界、まともに生きていたら、だれだって
「うつ状態」になるのです。そういう前提で考えます。かりに「うつ病」になっても、何ら恥ずかし
いことではありません。うつ病のことを、「まじめ病」というくらいです。まじめに生きようとすれば
するほど、みなそうなるのです。もちろんMさん、あなたがうつ病と言っているのではありませ
ん。誤解しないでください。悶々と悩んでいる状態を、「うつ症状」というのです。

 本当に、この世の中、わずらわしいことばかりです。私も、このところ、心がふさいでいます。
どうも気分が晴れません。原因は、あの金正日さんです。あのK国のことを考えると、言葉では
表現しがたい不快感に襲われます。何というか、心臓のカベを、クギでキーキーと削られるよう
な不快感です。いやですね。会談などに顔を出してくる、K国の代表団の、あの様子を見てくだ
さい。民衆が何百万人も餓死しているというのに、尊大ぶって、いばっています。イスからうしろ
に倒れんばかりに、ふんぞり返っています。それがこっけいなほど、不自然です。どうしてああ
いう態度ができるのでしょうか? あの国が自滅したら、みんなで乾杯しましょう。そうなる前
に、韓国や日本に戦争をしかけてくるかもしれませんね。それを考えると、ますます気が重くな
ります。そんなわけで、どちらにせよ、つまり戦争になるにせよ、ならないにせよ、最近は、K国
のニュースはできるだけ横目で見て、考えないようにしています。(考えても、どうにもなりませ
んし……。)

 Mさんにも、Mさんがそうなるについて、何か原因があることと思います。私の印象では、ただ
の育児ノイローゼだけではないと思います。もう少し、深いところに、別の原因があるように思
います。それを静かにさぐってみるのも、大切なことではないでしょうか。かなり勇気のいる作
業ですが、さぐってみるだけの価値はあります。原因がわかれば、あとは時間が解決してくれ
ます。

ここに書いた私の考え方が有効だとは思いませんが、参考にはなると思います。最後にひとつ
だけわかってほしいのは、つらい思いをしているのは、Mさんだけではないということです。それ
だけは、心にとめておいてください。それでは、またメールをください。返事を書きます。おやす
みなさい。
(03−1−23)

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【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

モノと金

 テレビの人気番組に、「○○鑑定団」というのがある。それぞれがもち寄ったものを鑑定し、
それに値段をつけるという番組である。そしてその値段が、持ち込んだ人の予想を超えて高い
ものであったりすると、鐘を鳴らしたり、太鼓をたたいたりする。

 以前、私はひどく落ち込んでいたことがある。いろいろ事件が重なった。その上、やることな
すこと、裏目裏目に出て、自信をなくしていた。そのときのこと。たまたまテレビのスイッチを入
れると、その「○○鑑定団」という番組が目に飛び込んできた。結構、おもしろい番組で、それ
なりに楽しんでいたはずだが、そのときは違った。私は、「何と、意味のない番組か!」と思って
しまった。

 モノにこだわり、それに値段をつける。すべてが、モノと、お金で動いている。まさに現代の日
本を象徴するかのような番組だが、番組全体というより、見る人全体が、そういうゲームの世
界にハマっているから、そのおかしさに気づくことはない。たとえば一人の住人が一枚の絵を
持ち込んだ。有名な(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)Aという画家が描いたもので
ある。

 そういうとき、その絵は、当然のことながら、高い評価を受け、高い値段がつく。つまり財産的
価値があるということになる。で、それを知って、その絵を持ち込んだ人は、歓声をあげて喜
ぶ。「ええ、二五〇万円ですか!」と。

(疑問(1))こうしたものの見方は、それがある一定の範囲にとどまっていれば問題はない。し
かしそれがその範囲を超えたとき、その人の価値観をも狂わす。つまりモノの価値を、本質的
な尺度でみるのではなく、知名度、稀少度、鑑定結果で判断するようになる。こうなると、何の
ためのモノかわからなくなる。

(疑問(2))仮に価値があるものとしても、それを金銭的な「数字」に置きかえることのおかしさ
をどう処理したらよいのか。それは盆暮れのつけ届けを選ぶとき、相手の価値を値ぶみするよ
うなもの。「Aさんは、五〇〇〇円のモノ、Bさんは、四〇〇〇円のモノ、でもCさんは、三〇〇〇
円のモノでいい」と。日本人なら、だれもがそうしているから、だれも疑問に思わない。が、しか
しこれほど、反道徳的な行為はない。つまりその延長線上に、「○○鑑定団」がある。

(疑問(3))高価なものであればあるほど価値があると思うのは、その人の勝手だが、今度は
それが、心の中でどう処理されるかが問題になる。ヘタをすれば、ものの本質を見失ってしま
う。たとえば一〇〇万円の価値のある絵と、一万円の価値しかない絵があったとする。そのと
き、こうした価値判断にハマっている人は、恐らく一〇〇万円の絵のほうがすばらしいと思い込
んでしまう。そしてその分だけ、一万円の絵に隠されている価値に気づかなくなってしまう。

しかしここで大切なことは、「あなた」という自分だ。あなたが描いた絵なら、いくらで売れるか、
考えてみたらよい。私もいつか、あの番組を見ながら、そう考えたことがある。そしてハタと気
づいた。「私の絵なんか、一〇〇円でも買ってもらえないだろう。だとするなら、私は一〇〇円
の価値しかないのか」と。そう、そういう考え方にハマると、結局は、だれかに操られるまま、自
分を見失ってしまう。

(疑問(4))価値のある人(?)のモノには、価値がある。……ということは、価値のないあなた
(失礼!)には、価値がないということになる。これは恐るべき隷属意識と言ってもよい。有名
人の描いたものを、ホイホイと喜ぶのは、一方で、その有名人に隷属することを意味する。

 私たちにとって大切なことは、他人がどう思おうが、またどう評価されようが、「私は私」という
道をつらぬくことである。なぜそうするかと言えば、心の中の世界を、より広く旅をするためであ
る。仮に絵であれ、モノであれ、大切なことは、それを手にしたり、見たときに、心がどう反応す
るか、だ。もっとはっきり言えば、心の反応のないものは、いくら高価であっても、意味がない。
また反応しない人にとっては、そういうものは、まさに宝のもち腐れ。

 もちろんこういう番組は、もともとは娯楽番組。深い意味などないし、また深く考える必要もな
い。そのときどきを、せつな的に楽しむことができれば、それでよい。しかしそのときは、いつも
と違ってみえた。いや、それ以後は、あの番組を、あまり見なくなった。自分の心がどこか、モノ
と金に毒されていくように感じるからだ。
(03−1−23)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(542)

脳腫瘍(しゅよう)

「死」を前にすると、当然のことながら、すべてのものが、輝きを失う。無価値になる。意味がな
くなる。「死」は、まさに恐怖だが、同時に、「生きる」ということがどういうことなのかを、教えてく
れる。「真実」が何であるかを、教えてくれる。

 私も病院のベッドで寝たことこそないが、事故や病気で、何度か死の恐怖を味わったことが
ある。それはまさに「恐怖」で、できるなら、ああいう恐怖は、あまり味わいたくない。体の中をス
ースーと風が通り抜けるような恐怖である。

 しかしそのあと、私はいつも、自分の人生観が大きく変わったのを感じた。いや、そのときと
いうより、あとで振り返ってみると、そのときを契機(けいき)にして変わったのがわかる。こんな
ことがあった。

 三〇歳を過ぎたころだった。私は毎日のようにはげしい頭痛に苦しんだ。薬をのんでも、体
が受けつけなかった。のんだとたん、ゲーゲーとあげてしまった。そこで市内のS総合病院(私
立病院)へ行くと、検査、検査の、また検査。結果、「即入院、開頭手術」ということになった。担
当の外科医に、「どんな手術ですか?」と聞くと、「術後一か月は、石膏で頭を固めます」と言わ
れた。私は、それがどんな手術か、それでわかった。

 その病院からどのようにして家に帰ったかは覚えていない。途中でワイフが、私を拾ってくれ
たが、「幽霊みたいだった」とあとで言った。

 その夜は、数歳になったばかりの長男の顔を見ながら、一晩中、泣き明かした。泣いたとい
っても、涙はほとんど出なかった。泣いても泣いても、泣ききれない悲しさだった。私は「頭」だ
けの人間になってしまい、体が消えたかのように感じた。そのときだった。おかしなことに、体
の中を、スースーと風が通り抜けていくのを感じた。医師は私には言わなかったが、脳腫瘍と
いうことは、雰囲気からわかった。

 で、その翌日の朝、私は、大学の先輩のM氏に電話した。事情を話した。M氏は、そのとき、
大学病院を出て、市内の北部で産婦人科医院を開いていた。M氏は、すぐ、元同僚のK医師を
紹介してくれた。K医師はその大学病院で、教授をしていた。「このあたりでも一番力のある脳
外科医ですから」と。

 私は幸運なことに、その翌日、そのK医師に直接、精密検査をしてもらうことになった。精密
検査といっても、まだレントゲンしかない時代である。仮に私の頭の中に、そういうものがあると
しても、はっきりとわからなかっただろう。しかし検査の結果は、「おかしいですね。何もないで
すね」だった。

 おかしい……? それを聞きたかったのは、私のほうだった。あのS総合病院では、たしかに
白い陰が写っていた。左側頭部の耳の上あたりだ。私がそれを言うと、K医師は、「そのあたり
を何枚もとってみましたが、何もないですね」と。

 私はうれしかった。不思議と、S総合病院の外科医をうらむ気が起きなかった。怒る気も起き
なかった。そのままS病院で手術を受けていたら、脳ミソのいくらかは切り取られていたかもし
れない。そのあとの私はなかったかもしれない。今でもあのときのことを思い出すと、ゾッとす
る。しかしそれでも、うらんだり、怒る気は起きなかった。何かしら命びろいしたような感じだっ
た。体中にのしかかっていた重石(おもし)が、いっぺんに吹き飛んだような感じだった。心も軽
くなった。廊下へ飛び出すと、そこにワイフがいた。私を見て、ワイフの顔が、急に明るくなった
のを覚えている。

 相変わらず頭痛は残っていたが、今から思うと、インフルエンザ、偏頭痛、それに花粉症の
三つが、同時期に私を襲ったのが原因ではないかと思う。この三つが、交互に症状をからませ
て、あのときのあの症状をつくった。そのあと、大学病院のK医師がくれた薬をのんだが、翌々
日の朝には、頭痛は消えていた。あとで「あれは何の薬だったのですか?」と聞くと、K医師は
笑いながら、「ただの風邪薬です」と。

 私はそのときの事件があってから、たしかにものの考え方が変わった。人の病気に涙もろく
なったというか、同情しやすくなったというか、はたまた私の中に、それまではなかった自分が
できたというか。「いい経験をした」とは思いたくないが、しかしあの経験のおかげで、生きるこ
とについての考え方が変わった。
 
 こうした経験は、大病をわずらい、生死の境をさまよった人なら、だれでもするものらしい。そ
のあと、いろいろな人に話を聞いたが、みな、異口同音にそう言う。そういう意味では、私のし
た経験など、ままごとのようなものだ。もとはと言えば、S総合病院のあの外科医の誤診による
もの。私はそれに、ただ過剰反応しただけということになる。しかしその結果、私は何が大切
で、何がそうでないかを、いろいろ考えるようになった。そしてその結果として、今、自分の過去
を振り返ると、たしかにあのときのあの事件が、私の方向性を変える大きな契機になったのが
わかる。いやいや、そのあと、生きているとことの喜びというか、その充実感を、それまでの何
倍も強く感ずることができるようになった。アンゲルス・ジレジウス(ドイツ、詩人、1624〜77)
も、『生をもたらす死ほどすばらしいものはなく、死から生まれる生ほど高貴なものはない』と書
いているが、まさにその通りだと思う。どこかノー天気な意見に思えなくもないが、たしかにその
通りだと思う。
(03−1−24)

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後半部へ









名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■2-3-2

後半部です

一部、以前、送った原稿と重複しますが、お許しください。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(暴論(3))(少し前に掲載した原稿です)
子どもにはナイフを渡せ!

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書
いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。

●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひ
っこめざるをえなかったのだろう。ナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評
論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にあ
る。

●ゴーストライターの書いた本
 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家が
いた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆
箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解する
ことも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ること
ができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよ
いものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイ
レを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま
私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、
こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑
誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になっ
たことがある。

●タレント教授の出世術
 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生
に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そし
て本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライタ
ーをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこ
んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、
こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」
と。もちろん私はそれを断った。
が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊あ
った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ
れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ
ふれていた。

●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に
ある。

●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。
 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子ども
と関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子
どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!

 さらに子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととし
て考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あな
たはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。
 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。

++++++++++++++++++++++

 こうした暴論がなぜ生まれるか。その背景には、独断と独善がある。だからといって、私の意
見が正論とは思わないが、私のばあい、すべての授業を公開することで、つまりいつも親の視
線と監視のもとに自分の教育を置くことで、そのつど軌道修正してきた。いまだかって、非公開
で授業をしたことはないし、参観を断ったことがない。これは教育を組みたてるときには、たい
へん重要なことだと思う。あえていうなら、世間的な常識の注入ということになる。これがない
と、教育者も評論家も、軌道を踏みはずすことになる。理由は、簡単。英語でも、教師のこと
を、「子どもの王(King of Kids)」という。つまり独裁者。世間的な常識の注入がないと、その独
裁者になりやすい。
(03−1−26)
 
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【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よく似
たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人とは言わな
い。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打
ちこわし、……関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝
国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚す
ら覚える。しかし……?    

実際のところ、それから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ
恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生
活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶
安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は関係者はもちろんのこと、親類縁者す
べてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼
ばれた」(中日新聞コラム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美
化される一方、彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家
康像」は、あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた
自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが
地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心
のどこかで引きずっていることになる。そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉
が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消
えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。少し前、幼
稚園児を前にして、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識がある間
は、日本の民主主義は完成しない。
(03−1−26)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

相撲(すもう)

 私は子どものころ、相撲が大好きだった。私だけではない。日本中が、大好きだった。テレビ
で相撲の中継が始まると、みな、テレビの前に集まった。相撲は、まさに日本の国技だった。

 しかしそれから五〇年。この模様は、すっかり変わった。今では、子どもでも、相撲を見る子
どもは、ほとんどいない。実のところ、私も、この三〇年、ほとんど見ていない。何がどう変わっ
たのかは知らないが、興味をなくした。

 そういう中、先日、横綱のT関が、引退した。そのニュースは、NHKの昼の定時ニュースのト
ップで、報じられた(〇三年一月)。私は時計を見ていたが、そのニュースだけで六分間! そ
してそのあと、怒涛のように、T関のニュース、またニュース。NHKでも、その夜、T関の特集を
組んで報道していた。

 しかし、だ。たかが横綱が引退したくらいのことで、そんなに大騒ぎしなければならないのだろ
うか。常識で考えても、おかしい。「国技」ということはわかるが、それほどまでに国技にこだわ
らなければならない理由など、どこにもない。たとえば今は、冬場所だが、BS放送でも、午後
一時前後から、夕方六時前後まで、実況中継している。毎日、五時間である! NHKと日本
相撲協会の関係は、きわめて深い。どう深いかは、また別のところで書くとして、何ともうさん臭
いものを感ずる。で、その結果、相撲業界の裏では、億単位の現金が乱舞しているという。と
きどきマスコミにも漏れ、そのつど話題になるが、そういうのはまさに氷山の一角? 数年前だ
が、「金による八百長は、日常茶飯事」と暴露した、元力士もいた。

 私は何も、相撲の実況中継に反対しているのではない。しかし「程度」というものがある。今、
日本人の何%の人が、そういう実況中継を、午後一時から見たがっているのか、一度調査し
てみたらよい。報道の世界にも、需要と供給のバランスというものがあるのではないのか。相
撲の実況中継に毎日五時間も取られる分だけ、ほかの報道がなおざりになる。少なくとも、ま
だ観客がほとんどいないうちから、中継を始めなければならない理由など、ない。ちなみに昨
年(〇二年一一月場所)の観客動員数は、六割前後※(1)(読売新聞)。どの場所も空席ばか
りが目立つ、さみしい状況となっている。

 相撲は残念ながら、スポーツではない。興行である。興行である以上、金儲けが目的。金儲
けが悪いと言っているのではない。金儲けなら金儲けでよいが、だったら、そこには一線を引く
べきではないのか。こうまで国やNHKが、相撲協会を助けなければならない理由など、ない。
また、助けてはいけない。反対にスポーツというなら、もう少しわかりやすくしてはどうか。少なく
とも柔道とか、剣道のように、だ。今のやり方は、税金の使われ方という意味においても、公平
さを欠いている。少なくとも、民主的ではない。

 ……こう書くと、「相撲こそ、日本の伝統文化だ」と反論する人がいる。型、型、型でがんじが
らめになった、あの相撲を、だ。ならば、私は反対に問題にしたい。なぜ、日本人は、こうまで
「型」にこだわるのか、と。型が文化であると思い込んでいる人すら、いる。あるいは型を守るこ
とが、伝統文化を守ることだと錯覚している人すら、いる。しかし型は文化ではない。文化とい
うのは、観念をいう。考え方をいう。たとえばベネディクトは、『菊と刀』の中で、「キリスト教的欧
米文化は、罪の文化である。日本の文化は、恥の文化である」と書いている。そういうのを文
化という。

 だからといって繰りかえすが、私は相撲を否定しているのではない。それを守りたいという人
がいて、それを守るという人がいるなら、それはそれでよいことだ。私のような人間がとやかく
言っても始まらない。相撲によく似ているが、私も学生時代、宝生(ほうしょう)クラブという、謡
(うたい)のクラブに入っていた。京都の能舞台で、うなったこともある。それはそれで結構楽し
かったし、よい思い出になっている。

 ただ私が心配するのは、型にこだわるあまり、日本人は、どうしても生きザマがうしろ向きに
なりやすいということ。ときには型が、ブレーキになることもある。何かにつけて型を決めてから
行動しようとする。そのため、その分、進歩が遅れてしまう。決しておおげさなことを言っている
のではない。あの堺屋太一氏も、「(日本の社会)は、厳しい新規参入の制限、伝統的様式に
よる規格化、独占の管理機構(日本相撲協会)という、市場原理の働かない(相撲型社会であ
る)」(講談社刊「大変な時代」)と書いている。堺屋氏は相撲型社会を決して、ほめているので
はない。「このままでは日本はダメになる」と警告しているのである。

教育の世界とて、例外ではない。たとえば文字の、トメ、ハネ、ハライがある。その上、書き順
まである。こういうものに子どもたちは神経をすり減らしているから、文字を書いて考えたり、自
分を表現したりすることが、どうしてもなおざりになってしまう。恐らく世界でも、もっとも思考能
力のない民族はといえば、私たち日本人ではないのか。ロンドン大学の森嶋名誉教授も、そう
書いている。「(日本の学生は)、自分で考え、判断する訓練が、もっとも欠如している※(2)」
と。

 相撲から文化論、さらには教育論にまで、話が飛躍してしまったが、NHKや日本相撲協会
が、必死になって、観客需要をつくろうとしても、それは無理というもの。なぜなら、それを決め
るのは、一部の指導者ではなく、私たち民衆だからである。いくら「相撲はおもしろぞ」と私たち
を扇動しようとしても、私たちが「おもしろくない」と思えば、それまでのこと。その意識そのもの
が、まさに文化ということになる。

 冒頭にも書いたように、私も子どものころは、相撲が大好きだった。そういう私でも、このとこ
ろ相撲が低調ということについて、それほど悲しいという思いはない。理由のひとつとして、金
まみれのスキャンダルがつづいたこと。今の今でも、ここにも書いたように、相撲業界の裏で
は、億単位の現金が乱舞しているという。そういう話を聞かされるたびに、「結局は私たちは、
だれかの金儲けのために利用されただけ」という思いにかられる。つまり私のばあい、そういう
思いが消えないかぎり、再び相撲が好きになることはないと思う。
(03−1−25)

※(1)……〇二年一一月場所、観客動員数(読売新聞調べ)
    初日     ……6310人
    二日目〜六日目……5050人〜5850人
         (満席で8720人)

※(2)……ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育
である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけ
ん」・九八年)と。

●伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るもの
はまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。(三木清「哲学ノート」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

伝統論

 伝統は、それ自体は、経験の集合である。先人たちの積み重ねてきた知恵や情報が、その
中には、ぎっしりとつまっている。

 しかしその伝統にしばられるのは、正しくない。伝統は、いつも、よりよい伝統によって置き換
えられなければならない。またそうであるなら、それ以前の伝統が否定されても、何ら悲しむべ
きことではない。なぜなら、伝統そのものも、無数の取捨選択の結果でしかないからである。相
撲を例にあげて考えてみよう。

 相撲はまさに日本の伝統的スポーツ。しかしその相撲は、ある日突然現れ、そして完成した
わけではない。今に見る相撲になるまでに、無数の人たちと、無数の試行錯誤が繰りかえされ
た。しかしどこかで完成されたわけではない。今の今も、その試行錯誤の過程にあるとみるの
が正しい。だとするなら、過去にこだわるあまり、「完成した」とみるのは正しくない。改良すべき
点があるなら、どんどんと改良していったらよい。

 たとえば相撲では、けがをする人が絶えない。理由は、土俵が上に盛りあがっているから
だ。だったらなぜ、土俵を地面と同じ高さにしないのか。あるいは、ころんでもけがをしないよう
に、同じ高さのワクを広げてもよい。またあのマワシにしても、どうしてそれがパンツではいけな
いのか。こういう意見はどこか極論に聞こえるかもしれないが、「過程」というのは、そういう意
味である。過去にこだわりすぎるあまり、試行錯誤する過程を否定してはいけない。

 もちろん伝統を頭から否定してはいけない。それはいわば、無数の石で積みあげられた塔の
ようなもの。こわすのは、だれにだってできる。それに簡単だ。大切なことは、こわすならこわす
で、それに代わるもの、あるいはもっとすばらしいものを用意しなければならない。「相撲はつ
まらないからやめてしまえ」と言ってはいけない。私たちが考えるべきことは、「どうすれば、もっ
とおもしろくできるか」ということ。

 もっとも相撲のばあい、「伝統」という言葉を、逆手にとって利用している面がある。「伝統だ
から守ろう」という立場ではなく、「伝統だから守るべき」、さらには、「伝統だから、ありがたく思
え」というふうにである。この傲慢(ごうまん)さは、いったい、どこからくるのか。

私はその理由の一つとして、「興行」という名のもとの「金儲け」をあげる。つまり今の相撲は、
伝統を守ろうとか、守らないとかいうレベルの話ではなく、むしろ「伝統」という言葉を利用して、
金儲けの道具に使われている。よい例が、外人力士たちだ。彼らは日本の伝統を守るため
に、日本へやってきて、力士になったのではない。ボランティア精神など、みじんもない。あくま
でも、金儲けだ。わかりやすいと言えばわかりやすいが、そのわかりやすい分だけ、そこに不
純なものが、にじみ出てくる。その不純なものを、おおい隠すために、むしろ「伝統」という言葉
が利用されている。

 だったら、なぜ、相撲を、もっと前向きにとらえないのか。柔道や空手のように、国際的なスポ
ーツにするという方法もある。少なくとも、組織まで、かたくなに守らねばならないという理由は
ない。もっとも組織にメスを入れたら、その組織の中で安穏としていた人には、大打撃になる。
だから当然のことながら抵抗するだろう。つまりその抵抗の道具として、ここでも「伝統」という
言葉が利用されている。

 こうした例は、日本の中に、無数に残っている。相撲だけではない。伝統という言葉を利用し
て、既得権を守る。排他的になる。独善的になる。そして改革をこばむ。三木清(哲学者、189
7−1945)は、それではいけないと言っている。彼はこう書いている。「伝統が創造されるとい
ふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るものはまた伝統を毀(こわ)し
得るものでなければならぬ」(「哲学ノート」)と。つまり伝統というのは、形を変え、また壊しうる
ものでなければならない、と。

 私たち日本人は、「伝統」という言葉にあまりにも、おびえすぎているのではないのか。あるい
は、子どものときから、ことあるごとに、そう洗脳されつづけてきた? あなたも子どものころ、
学校や近隣で、耳にタコができるほど、「伝統を守ろう」という言葉を聞かされてきたと思う。そ
してその結果、ちょうどどこかの宗教団体の信者が、本尊におびえるように、「伝統」という言葉
におびえるようになってしまった? しかし何も恐れることはない。もし今までの伝統より、すば
らしいものを用意できるなら、その伝統にこだわる必要はない。またこだわってはいけない。

 そこでここでの結論として、私はこう考える。

 伝統とは、それ自体が、伝統の種である。種であるから、心のどこかにまいてこそ、意味があ
る。やがて実をつけることができる。決してその種を手の中で、握ったままにしておいてはいけ
ない。握ったままにすれば、腐るだけ。腐って滅びるだけ。
(03−1−25)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

洗脳

 K国では、幼稚園児のときから、「将軍様は偉大」と、徹底的に洗脳されているという。ときお
りかいま見るテレビ報道でも、それを知ることができる。

 では、日本人の私たちはどうか? たいていの人は、日本は民主主義国家だから、K国とは
違うと思っている。たしかにK国とは違うが、国際的に見れば、日本もK国も、それほど違わな
い。少なくとも戦前の日本は、今のK国以上に、K国的であった。その日本が、戦後、戦前の日
本を清算したかといえば、そういう事実はまったく、ない。よい例が、あの文部省。あれほどす
さまじい軍国主義教育を最先端でしておきながら、戦前から戦後にかけて、クビになった文部
官僚は、ただの一人もいない。

 その点、よく日本はドイツとよく比較される。日本は日本で、アジアの日本化をめざした。ドイ
ツはドイツで、ヨーロッパのドイツ化をめざした。しかしともに、世界の、手痛い反撃を受けた。
結果、ドイツは、すべてを清算した。一度国家を、こなごなに分解し、今度は、ドイツのヨーロッ
パ化を受け入れた。が、日本は違った。今にいたるまで、日本のアジア化をガンとして、拒否し
つづけている。子どもでも、自分がアジア人だと思っている子どもは、まずいない。

 洗脳というのは、こわいものだ。知らず知らずのうちに、価値のあるものを価値がないと思い
込み、反対に、価値のないものを価値があるものと、思い込まされる。しかももっとこわいこと
に、洗脳する側にしても、洗脳しているという意識がないまま、それをする。恐らくK国の幼稚園
の教師にしても、子どもたちを洗脳しているという意識はないと思う。教師とて、心底、洗脳され
きっている。

 そこで私たち日本人の脳に、メスを入れてみよう。

 先日も、子ども(小三児童)たちが、「偉い人」という話を勝手にし始めた。そこで私が、「日本
で一番、偉い人はだれかな?」と話しかけてみた。すると一人の子どもが、「総理大臣」と答え
た。が、もう一人の子どもが、それをさえぎるように、「バカだなあ、お前。日本で一番、偉い人
は天皇だ」と。

 こういう話はたいへん微妙な話なので、私はここでさえぎった。こういう議論は、そういう議論
をしたというだけで、父母のヒンシュクを買う。が、私はそのとき、こう考えた。子どもでも、「偉
い」という言葉を使うのだなあ、と。

 日本で「偉い」というときは、「位が上」ということ。奈良時代の昔から、日本は官僚主義国家
で、その頂点に、天皇が君臨してきた。そういう意味では、「天皇がいちばん偉い」ということに
なる。今でも、この状態は何も、変わっていない。しかし問題は、このことではなく、いつ、どこ
で、子どもたちはこのような意識をもつようになるか、である。

 もう一〇年ほど前だろうか。天皇がこのH市へやってきたことがある。ちょうど夕方のころで、
市内のホテルに宿泊するために、やってきた。そのときのこと。上空にはヘリコプターが舞い、
道路はすべて閉鎖された。沿道にはほぼ数メートルごとに警察官が並び、皆が日本の旗をも
っていた。そこへ天皇らの乗った車がやってきたが、もちろん信号は、すべて無視。しっかりと
数えていなかったからわからないが、車だけでも、五〇台近くはつらなっていた。そして天皇の
乗った車。その姿を見ると、あちこちから「バンザーイ」の歓声、また歓声!

 こういう状況を見て、子どもたちは、「天皇は偉い」と思うようになる。そしてそれが脳裏に焼
きつけられる。実は私もそうで、小学二年生くらいのとき、道路に並んで天皇を迎えたことがあ
る。当時は、そのため、学校は休み。休みというより、強制的に並ばされた。そのときの思い出
が強烈に脳裏に焼きついているから、今の今でも、天皇について書くのは、どうもはばかれ
る。ここでも、「天皇」と書くべきなのか、「陛下」と書くべきなのか、迷っている。

 それはさておき、K国の幼稚園児たちを見ていると、手段や方法こそ違うが、「洗脳」という意
味においては、それほど、違わないのではないかと思う。少なくとも、私は、子どものころ、今の
K国の子どもたちが洗脳されているように、洗脳された? 今の今でも、日本の天皇制を考え
ると、「日本には天皇は絶対必要だ」という思いと、「人間は生まれながらにして、みな、平等の
はず」という思いが、頭の中でバチバチと火花を散らす。そしてこうして天皇について書くだけで
も、言いようのない緊張感に包まれる。インターネットの意識調査では、「天皇制は必要ない」と
考えている若者が、六〇〜七〇%前後いるという(E社調査)。これはインターネットをしている
若者という意味で、平均的な若者の意見ではないが、私には、こういう議論そのものができな
い。

 先の会話でも、つづけてほかの子どもたちが私にこう聞いた。「先生、どうして天皇は偉い
の?」と。しかし私はその質問には答えられなかった。だからこう言った。「そういう話は、おうち
でお父さんやお母さんとしてね。ぼくには、わからないから」と。

 さて、読者のみなさんは、どうだろうか。いや、天皇制が必要とか必要でないとか、そういうこ
とではない。みなさんも、何かのことで、洗脳されてはいないだろうかということ。自分で、それ
が正しいとか、大切とか、思い込んでいるだけというようなことである。ざっと、思いつくままあげ
ても、つぎのようなものがある。

親孝行論
伝統論
親の威厳論
偉人論
出世論
義理論
人情論

 もちろん、こういったものを、頭から否定してはいけない。ただ何も考えずに、それらを受け入
れてしまうのも、よくない。一度、あなたのもつ「常識」に照らしあわせて、それが正しいものな
のか、あるいは大切なものなのか、疑ってみる必要はある。私は、K国の子どもたちの授業風
景を見ながら、それを考えた。
(03−1−26)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

アメリカ様々(さまさま)の時代

 韓国のソウル市から観光バスに乗ると、約一時間ほどで、板門店に到着する。北朝鮮との国
境である三八度線上に、それはある。その板門店周辺は、いわゆる国連軍の管轄になってい
る。国連軍といっても、実際には、大半がアメリカ軍。私が訪れたときも、道路の両側いたると
ころに、迷彩色の服を着たアメリカ兵が、うようよといた。

 わかりやすく言うと、その地域は、まさに最前線。そのあたりに約三万八〇〇〇人のアメリカ
軍(ボーイズ)と、その家族が住んでいる。もっとわかりやすく言うと、韓国のために、アメリカ軍
が最前線で、北朝鮮ににらみをきかしている。

 その韓国で、反米闘争が起きている。先の韓国大統領選挙の前後には、一〇万人単位のデ
モ隊が、ソウルの町を占拠した。発端は、女子中学生の交通事故だという。その気持ちはわ
からないでもないが、それがなぜ反米闘争にまで発展したのか。さらにテレビ報道などのよる
と、デモ隊はアメリカの国旗を破ったり、燃やしたりしている。アメリカ軍の基地には火炎瓶まで
投げ込まれた!

 私は何も、アメリカの肩をもつわけではないが、ここまでされると、アメリカ軍も、立つ瀬ない。
私がアメリカ人なら、「ならば、どうぞご勝手に!」と言って、韓国から出て行く。しかし、だ。もし
アメリカ軍が韓国から出て行けば、その翌日には、北朝鮮が、韓国になだれ込んでくるだろう。
今まで、かろうじて平和が保たれたのは、そのあたりにアメリカ軍がいたからにほかならない。
韓国の人には悪いが、どうしてこんな簡単な道理がわからない?

 日本もそうだ。となりの北朝鮮が核兵器をすでにもち、それを「日本に使う」と言っているの
に、平和だの、憲法だのと言っている。自衛隊の海外派遣反対だの、戦争反対だのと言って
いる。平時で、何もないときならいざ知らず、今は、そういうときではない。さらに仮に北朝鮮
が、韓半島を統一したら、日本は、どうなる? その翌日から、日本は今度は、強大な軍事大
国を相手にしなければならなくなる。軍隊をあわせると、何と二〇〇万人近くになる。核兵器も
生物兵器ももっている。その上、日本への憎しみは深い。そのときアメリカがバックになけれ
ば、日本など、あっという間に北朝鮮に占領されてしまうだろう。日本の人には悪いが、どうして
こんな簡単な道理がわからない?

 今、大切なことは、核兵器が、まさに世界に拡散しようとしていること。そのことに注意を払う
べきだということ。そのうちそこらの活動家ですら核兵器を手に入れて、国をおどしたり、民を
おどしたりするようになるかもしれない。実際に爆発させて、罪もない人たちを、一度に何一〇
万人も殺すようになるかもしれない。世界が今、そういう歴史の転換期に立っているというこ
と。アメリカのやり方には、たしかに傲慢(ごうまん)で強引な面はあるが、しかしそのアメリカを
除いて、そういう流れを食い止めてくれる国が、ほかにどこにある? 少なくとも、この時点にお
いて、日本を守ってくれる国が、ほかにどこにある? 先ごろ日本のK外務大臣がブッシュ大
統領に会ったとき、ブッシュ大統領は、「同盟国(日本)が(北朝鮮の)大量破壊兵器で攻撃さ
れたら、アメリカは同盟国(日本)のために、ただちに反撃する」と言ってくれた。そんなことを言
ってくれる国が、ほかにどこにある? (反対に、「アメリカが攻撃されたら、日本はただちにそ
の国に対して反撃する」と、日本の首相は言うだろうか。)

 私の初孫が生まれた。まん丸の目をしたかわいい赤ん坊だ。その孫はアメリカ人だが、いく
らアメリカ人でも、日本のために戦争にやってくると言ったら、私はこう言うだろう。「やめなさ
い。こんなところまできて、命を落とすことはない。私たちで何とかするから」と。それともあなた
なら、自分の息子を、キューバからベネズエラを守るために、ベネズエラへ送ることができると
でもいうのだろうか? 

 よく誤解されるが、アメリカには、アメリカ人と呼ばれるアメリカ人はいない。まさにあの国は、
人種のルツボ。白人もいるが、同じくらいの数のヒスパニック、黒人もいる。アジア人もいて、日
系人もいる。先日も私の事務所に、「あんたは、アメリカが日本を第○○番目の州にしようとも
くろんでいるのが、わからないのですか!」と怒鳴り込んできた、女性(四〇歳くらい)がいた。
これは本当の話で、ウソではない。しかしアメリカ人に、そんな意思など、毛頭ない。ないこと
は、しばらくアメリカ人とつきあってみればわかる。よく北朝鮮は、「日本はわが国を再び侵略し
ようとしている」と言うが、日本人にそんな意思は、毛頭ない。ないことは、あなた自身が一番よ
く知っている。

 そろそろ日本も、腹を決めるべき時期に来ているのではないのか。日本だけがよい子で、無
事ですまそうとしても、そうはいかない。やるべきことはやる。またやらねばならない。民主党の
K代表は、「アメリカ追従外交※」を批判したが、日本の今の立場は、それしかない。もとはとい
えば、戦後処理をしっかりとしてこなかった、官僚政治の責任ということになるが、今は、その
責任を問うべき時期でもない。少なくとも今、私たちは、「座して死を待つ」(K外務大臣)わけに
はいかないのだ。
(03−1−26)

※……アメリカのイラク攻撃に、小泉総理が明確な国会答弁を避けたことについて、民主党の
K代表は、「アメリカの顔色を伺ってしか物を言えない」と批判した。いわく「小泉さんの政策は、
あるいは政権は、経済政策においては、もう0点どころかマイナス100点でありますが、残念
ながら外交政策においてもですね、従来のいわゆるアメリカの顔色を伺ってしかものが言えな
い、従来型自民党政治から一歩も出ていない。このことをあえて申し上げなければなりません」
(〇三年一月)と。

(追記)もちろんここの私が書いたことが、取り越し苦労で終わればよい。またそうなることを、
心から願っている。しかし油断してはいけない。そういう思いをこめて、この原稿を書いた。

(北朝鮮の現状)原油を止められ、首都のピヨンヤンでも、凍死者が続出しているという。いわ
んや地方では……? 今年の冬だけでも、凍死者、餓死者が、数百万人も出ると予想されて
いる。経済は壊滅状態。昨年(〇二年)の経済改革(?)の失敗で、ハイパーインフレ。しかも
軍隊内部でも脱走兵が続出しているという(以上、「週刊現代」)。だからこそ、今、北朝鮮があ
ぶない。ミサイル実験と称して、日本にミサイルを撃ち込んでくる可能性は、じゅうぶん、ある。
みなさん、注意しましょう!

+++++++++++++++++

われわれは、自由のために戦ったことがあるか。
われわれは、正義のために戦ったことがあるか。
われわれは、過去の過ちを、反省したことがあるか。
われわれは、過去の失敗を、学んだことがあるか。
さあ、仲間よ、自由と正義のために、戦おう。
過去の過ちと、過去の失敗を乗り越えて!

    ┌┐
    │ト
    ≧≦ ∪          z
   ━━━━━━        z
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/  〜       〆  へく ^川     どうか、よろしくご購読ください。
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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■2-3-1

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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●笑い話

 ある日一人の男が、そのあたりでも有名な精神科医のところへやってきた。そしてこう言っ
た。
 「ドクター、私は、夜もよく眠られません。人と顔を合わせるのも、おっくうになりました。生きて
いるのもつらいです。どうしたらいいでしょうか」と。
 するとその精神科医は、こう言った。「そういうときは、笑うことです。大声で笑うことです。そう
言えば、遊園地に道化師ショーというのがありますから、あそこへ行ってみたらどうでしょう。あ
そこには、おもしろい道化師がいます。みんな、腹をかかえて笑っています。あなたもあそこへ
行って、大声で笑ってみてはどうでしょうか」と。
 するとその男は、こう言った。「いえ、ドクター、それが私にはできないのです。私がその道化
師ですから……」と。

●私のばあい
 
 私にもこんな経験がある。浜松に住むようになって、近所のH内科医院にずっと世話になって
いるが、ある日、そのドクターに、こう相談した。
 「先生、最近、こまかいことが気になると、そればかりを考え、頭から離れないことがありま
す。どうしてでしょう?」と。
 するとそのH医師は、あれこれ症状を並べ始めた。「夜、眠られないでしょう」「はい」「朝、早く
目が覚めることがあるでしょう」「はい」「気が滅入って、テレビや新聞を見るのもいやになること
があるでしょう」「はい」と。
 私はさすがドクターだと感心した。よくもまあ、他人の症状がこうまで、正確にわかるものだ
と。そこで私はそのH医師にこう言った。「さすが、先生ですね。よく私の症状がわかりますね」
と。するとそのドクターは、こう言った。「いえね、林さん、実は私もそうなんですよ、ハハハ」と。

●自分のこと

 子育てをしていると、子どもの中に、自分の過去を見るときがある。「ある」というより、その連
続。そういうとき私はいつも、「自分もそうだったから……」と、ヘンに納得してしまう。たとえば
息子の一人が、金庫から、一〇万円単位のお金を盗み、それを使っていたことがある。そのと
きも、私は息子を叱りながらも、「ああ、私もそういうことをしたことがある」と思った。一〇万円
という大金ではないが、私も子どものころ、五円とか、一〇円とか、ときどき店の金庫から、お
金を盗んで使ったことがある。

 こういう心の操作は、子育てをしていく上では、とても大切なことだ。ふつうは、「自分はどうだ
ったか」「自分ならできるか」「自分ならどうするだろうか」という視点で見る。そうすると、それま
では見えていなかった子どもの心が見えてくる。

 最近でも、子ども(生徒)たちが、カード集めに夢中になっているのを見たときのこと。私はふ
と、自分の子ども時代を思い出した。私が子どものころは、相撲取りのカードとか、プロ野球の
選手のカードを集めていた。岐阜のほうでは、パンコと呼んでいたが、メンコも人気があった。
そういう記憶が心のどこかに残っているから、「くだらないから、やめろ」とは、とても言えない。
一応叱りながらも、心のどこかでそれを許す。

 実はこうした操作は、それができる親には、ごく自然にできるものだが、できない親にはでき
ない。とくに子ども時代、とくに悪いこともしなかったという親ほど、できない。それだけ許容範
囲が狭いということになる。さらに子ども時代、優等生だったという親ほど、できない。そういう
意味では、子ども時代に、男の子でいえば、わんぱくで、いろいろなサブカルチャ(非行などの
下位文化)を経験した子どもほど、親になると、よい親になる。

 私も、子ども時代、とくに小学六年生ごろまでは、目いっぱい、わんぱく少年で育った。わが
ままで、傲慢で、自分勝手で、自己中心的な部分もあったが、それだけに、子どもの世界を広
く知っていた。当時、子どもの世界で流行した遊びは、すべて経験した。そういう私だから、今、
わんぱくな男の子を見たりすると、正直言って、ほっとするような懐(なつ)かしさを覚える。つい
先日も、こんなことがあった。

 今、S君(小三)という子ども(生徒)が、私の教室に来ている。存在感のある子どもで、ワー
ワーと騒いでばかりいる。その子どもが実に楽しい。ユーモアのセンスも抜群だし、感受性も強
い。親はホトホト手を焼いているようだが、私はそうでない。その子どもをからかったり、反対に
からかわれていたりすると、そのままストレスがどこかへ吹っ飛んでしまう。そんなある日、母
親がやってきて、こう言った。

 「先生、すみません。うちの子はああいう子で、何かとたいへんでしょう」と。

 そこで私はこう言った。「いいえ、ぜんぜん。S君は、私の子ども時代、そっくりの少年です。
かえって教えやすいです」と。そう、私はそのS君の心が、まさに手に取るようにわかる。わか
るから、教えやすい。

(補足)
 もちろん嫌いなタイプもある。ネチネチしたり、グズグズしたりするタイプ。いい子ぶるタイプ。
つげ口をする子どもなど、卑怯(ひきょう)なことをするタイプ。とくに私はつげ口が嫌い。私にあ
れこれつげ口をしてくる子どももいるが、そういうときは、「つげ口をするのはもっと悪いこと。自
分で相手に文句を言いなさい」とはねのけることにしている。ホント。つげ口は、いやなもの!

【あなたのチェックテスト】

 あなたの子育て失敗危険度をチェックしてみよう。あなたの子ども時代は、どうであったか。

(1)ずっと優等生で、勉強もよくでき、親にも、期待された。
(2)それなりの範囲の、できのよい友だちとだけいつも、つきあっていた。
(3)中学、高校、大学と、わりとスンナリと、進学した。
(4)結婚も、みなに祝福され、これといって問題なく、した。
(5)今の生活は、平均以上だと思うし、これといって問題はない。

 このテストで、三〜四個、当てはまるようであれば、それだけ子育ての許容範囲がせまいと
みる。あなたの子どもがその範囲に収まっていれば問題はないが、その範囲を超えたとき、あ
なたはそうでない人より大きなショックを受ける。そしてそのショックが、家庭騒動、さらには親
子の間にキレツを入れる原因となる。くれぐれも、ご注意!
(03−1−25) 

    ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )
   γ ρρ   │σ σ ρ )
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )  子育ては重労働。
   人   υ ( `) (  )    しかしどうせ育てなければならないのなら、
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)     あきらめて、育てましょう!
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ      前向きに!
  (   m m ○/ ̄ ̄ ̄ヽ○
【2】雑感・雑談∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

雑感(03−1−26)

 今日は日曜日(一月二六日)。このところ寒い日がつづいている。私は子どものころから、寒
さが苦手で、こういう朝は、本当につらい。血圧も低いから、よけい寒さがこたえる。

 朝、起きると、ワイフがこう言った。「ゆうべは、臭かった……」と。夕飯で、生ニンニクを食べ
たのが悪かった。そこで少し気取って、「その苦痛に一晩中耐えてくれた、君の忍耐力に感謝
する」と言うと、ワイフは、「いやあネー」というような顔をして笑った。

 昨日は昼からノドが痛かった。インフルエンザにかかってはいけないと思い、夕食に、生ニン
ニクを白いご飯にのせて、食べた。生ニンニクは胃によくないと言う人もいるが、私は胃だけ
は、ほんとうにじょうぶ。いつか死んだら体をバラバラにして献体しようと思っているが、私の胃
袋をもらった人は、ラッキーだと思う。ほかに……。

腎臓……これは調子よい。○○○
心臓……まあまあ調子よい。○○
角膜……白内障がすでに二〇%くらい進んでいるそうだ。△
肝臓……酒は飲めないが、ほぼ健康。やや脂肪肝。○

 ワイフはすでに、日本篤志献体協会へ、献体をすでに届けている。私も友人のドクターに頼
まれているが、「そのうち……」と言いながら、もう一〇年になる。どうも自分の裸体には、自信
がない。とくにペニス。「フニャフニャのペニス!」と若い看護婦に笑われるのはいやだ。(ペニ
スというのは、膨張率と硬度で性能が決まる。見た目の大きさではない! それに持続力だ!
 ……念のため。)

 そういうことを考えながら、ワイフに、「ペニスの献体はないのかね?」と聞くと、「あんたのな
んか……」と言いかけて、言葉をつまらせた。つまらせながら、「どういう人が、ペニスの移植を
受けるの?」と。うまく、ごまかした。

 「たとえば、交通事故でペニスをなくしたとか、インポになったとか、……あるいは、女の人で
性転換した人も、ほしがるかもしれない」と私。「あるいは、ぼくが先に死んだら、ペニスをホル
マリン漬けにして、記念にもっているというのはどうだ?」と。

 「あら、いやだ。そんなもの、見たくもない」
 「見たくない?」
 「そう、もう、興味はない」
 「へえ、お前も、更年期だね」
 「どうして?」
 「更年期になると、性欲が急速に減退する」
 「もう、とっくの昔に、そうなっているわ」
 「ああ、そう……」

 ……どうしてニンニクの話が、こんな話になったかって? それにはちゃんと理由がある。私
には、ニンニクは、強烈な強壮剤として働く。とくに生ニンニクを、三、四かけらも食べた夜は、
一晩中、卑猥(ひわい)な夢を見る。精力モリモリといった状態になる。……と、ここまで書い
て、映倫ストップ。この話のつづきは、適当に想像してほしい。いやしくも、このマガジンは、教
育マガジン。子育てマガジン。女性の読者も多いはず。

 ではこれから、郵便局へ速達を出しにいき、そのあと、あれこれ買い物をしてくる。寒いが、
空は気持ちよく晴れている。ニンニクのおかげで、足腰、つまり下半身は、軽やか。ハイ。
(03−1−26)

     ⌒⌒⌒⌒
    ((( (( (( 
     ⌒  ⌒ 
     ・。・ β
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\
 ○\/│  //│\ \   みなさんのご家庭で、このマガジンが役だって
 ゜\/│ // │ / /    いますか?
   Γ ̄ ̄│──|○   何かテーマがあれば、掲示板にでもお書きください。

   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

自然教育

 地球温暖化の問題は、年々、深刻さをましている。しかしこういう言い方は、ほかの国の人た
ちには失礼かもしれないが、日本ほど、ラッキーな国はない。

 四方を海に囲まれ、しかも中央には、三〇〇〇メートル級の山々を連ねている。これから
先、地球温暖化の問題が起きてくるとしても、日本に被害がおよぶのは、最後の最後。海面上
昇にしても、また水不足にしても、当面は心配ない。が、油断してはいけない。そのひとつ。食
料とエネルギーの確保。

 ……というようなことは、私が書いても意味がない。そこでここでは、もう一歩、先に話を進め
る。

 いろいろ誤解があるようだが、世界の中でも、日本人ほど、自然に対して破壊的な民族は、
そうはいない。よく「日本人は自然を愛する民族だ」というが、これはウソ。日本に緑が多いの
は、たまたま放っておいても緑だけは育つという、恵まれた環境だからにほかならない。

 つぎに「自然を大切にしましょう」と、声高に叫ぶのは勝手だが、その「自然」がやさしいの
は、ごく限られた国々でしかない。たとえばアラブの、つまり砂漠の国々へ行って、「自然を大
切に」などと言おうものなら、「お前、アホか!」と言われる。ほとんどの国では、自然というの
は、人間が戦うべき「脅威」ということになっている。つまり、これらの点でも、日本は、本当にラ
ッキーな国である。

 しかしもともと日本人は、自然に対して、受け身の民族であった。が、その姿勢が大きく変化
したのは、戦後のことである。それについて書いたのが、つぎのエッセー。

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この私の自然論は、少し難解なため、興味のある方だけ、
お読みください。

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自然論

 フランシス・ベーコン(1561−1626、イギリスの哲学者)は、「ノーヴェム・オルガヌム」の中
で、こう書いている。「まず、自然に従え。そして自然を征服せよ」と。このベーコンの自然論の
基本は、人間と自然を、相対した関係に置いているというところ、つまり人間がその意識の中
で、自然とは別の存在であると位置づけているところにある。

それまでのイギリスは、ある意味で自然に翻弄されつづけていたとも言える。つまりベーコン
は、人間の意識を自然から乖離(かいり)させることこそが、人間の意識の確立と考えた※。こ
の考えは、その後多くの自然科学者に支持され、そしてそれはその後さらに、イギリスの海洋
冒険主義、植民地政策、さらには1740年ごろから始まった産業革命の原動力となっていっ
た。

 一方、ドイツはまったく別の道を歩んだ。ベーコンの死後から約100年後に生まれたゲーテ
(1749−1832)ですら、こう書き残している。「自然は絶えずわれわれと語るが、その秘密を
打ち明けはしない。われわれは常に自然に働きかけ、しかもそれを支配する、何の力ももって
いない」(「自然に関する断片」)と。さらにこうも言っている。「神と自然から離れて行動すること
は困難であり、危険でもある。なぜなら、われわれは自然をとおしてのみ、神を意識するからで
ある」(「シュトラースヴェルグ時代の感想」)と。

ここでゲーテがいう「神」とは、まさに「自己の魂との対面」そのものと考えてよい。つまり自己の
魂と対面するにしても、自然から離れてはありえないと。こうしたイギリスとドイツの違いは、海
洋民族と農耕民族の違いに求めることもできる。海洋民族にとって自然は、常に脅威であり、
農耕民族にとっては自然は、常に感嘆でしかない。海洋民族にとっては自然は、常に戦うべき
相手であり、農耕民族にとっては自然は、常に受け入れるべき相手でしかない。が、問題は、
イギリスでも、ドイツでもない。私たち日本人はどうだったかということ。

 日本人は元来農耕民族である。ドイツと違う点があるとするなら、日本は徳川時代という、世
界の歴史の中でも類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治を体験したということ。そのためその
民族は、限りなく従順化された。日本人独特の隷属的な相互依存性はこうして説明されるが、
それに反してイギリス人は、人間と自然を分離し、人間が自然にアクティブに挑戦していくこと
を善とした。ドイツ人はしかし自然を受け入れ、やがてやってくる産業革命の息吹をどこかで感
じながらも、自然との同居をめざした。

ドイツ人が「自然主義」を口にするとき、それは、自然への畏敬の念を意味する。「自然にある
すべてのものは法とともに行動する」「大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証する」(「断
片」)と書いたカント(1724−1804)に、その一例を見ることができる。一方、日本人は、自然
を従うべき相手として、自らを自然の中に組み入れてしまった。その考えを象徴するのが、長
岡半太郎(1865−1950)である。物理学者の彼ですら、こんな随筆を残している。「自然に
人情は露ほども無い。之に抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる。之に順ふものは、恩恵に浴
する」と。

日本人は自然の僕(しもべ)になることによって、自然をその中に受け入れるというきわめてパ
ッシブな方法を選んだ。が、この自然観は、戦後、アメリカ式の民主主義が導入されると同時
に、大きく変貌することになる。その象徴的なできごとが、田中角栄元首相(1972年・自民党
総裁に就任)の「日本列島改造論」(都市政策大綱、新全総、国土庁の設置、さらには新全総
総点検作業を含む)である。

 田中角栄氏の無鉄砲とも思える、短絡的な国家主義が、当時の日本に受け入れられたの
は、「展望」をなくした日本人の拝金思想があったことは、だれも疑いようがない。しかしこれは
同時に、イギリスからアメリカを経て日本に導入されたベーコンイズムの始まりでもあった。日
本人は自らを自然と分離することによって、その改造論を正当化した。それはまさに欧米では
すでに禁句となりつつあった、ハーヴェィズム(「文明とは、要するに自然に対する一連の勝利
のことである」とハーヴェィ※2は説いた)の再来といってもよい。

日本人の自然破壊は、これまた世界の歴史でも類をみないほど、容赦ないものであった。そ
れはちょうどそれまでに鬱積していた不満が、一挙に爆発したかのようにみえる。だれもが競
って、野や山を削ってそれをコンクリートのかたまりに変えた。たとえば埼玉県のばあい、昭和
三五年からの四〇年間だけでも、約二九万ヘクタールから、約二一万ヘクタールへと、森林や
農地の約三〇%が消失している※3。田中角栄氏が首相に就任した1972年以来、さらにそ
れが加速された。(イギリスにおいても、ベーコンの時代に深刻な森林の減少を経験してい
る。)

そこで台頭したのが、自然調和論であるが、この調和論とて、ベーコンイズムの変形でしかな
い。基本的には、人間と自然を対照的な存在としてとらえている点では、何ら変わりない。そこ
で私たちがめざすべきは、調和論ではなく、ベーコンイズムの放棄である。そして人間を自然
の一部として再認識することである。私が好きな一節にこんなのがある。ファーブルの「昆虫
記」の中の文章である。

「人間というものは、進歩に進歩を重ねたあげくの果てに、文明と名づけられるものの行き過ぎ
によって自滅して、つぶれてしまう日がくるように思われる」と。

ファーブルはまさにベーコンイズムの限界、もっと言えばベーコン流の文明論の限界を指摘し
たともいえる。言い換えると、ベーコンイズムの放棄は、結局は自然救済につながり、かつ人
間救済につながる。人間は自然と調和するのではない。人間は自然と融和する。そして融和す
ることによってのみ、自らの存在を確立できる。自然であることの不完全、自然であることの不
便さ、自然であることの不都合を受け入れる。そして人間自身もまた、自然の一部であること
を認識する。たとえば野原に道を一本通すにしても、そこに住む生きとし生きるすべての動植
物の許可をもってする。そういう姿勢があってこそ、人間は、この地球という大自然の中で生き
延びることができる。
 
※……ベーコンは「知識は力である」という有名な言葉を残している。「ベーコンは、ルネッサン
ス以来、革新的な試行に哲学的根拠を与えた人物としても知られ、『自然科学の主目的は、人
生を豊かにすることにある』とし、その目標を『自然を制御し、操作すること』においた。この哲
学が、自然科学のイメージを高め、将来における科学の応用、さらには技術や工学の可能性
を探求するための哲学的根拠となった」(金沢工業大学蔵書目録解説より)。

※2……ウィリアム・ハーヴェイ(1578−1657)、医学会のコペルニクスとも言われる人物。
彼は「自然の支配者であり、所有者としての役割は、人類に捧げられたものである」と説いた。

※3……埼玉県の「森林および農地」は、昭和35年に296・224ヘクタールであったが、平成
11年現在は、211・568ヘクタールになっている(「彩の国豊かな自然環境づくり計画基礎調
査解説書」平成九年度版)。

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上の原稿を、もう少しわかりやすく書いたのが
つぎの原稿です。新聞で発表するつもりでしたが
編集者の意向で、ボツになった原稿です。どうして
ボツになったか、わかりますか?

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ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星
は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この
詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を見た
だけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声
高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ
ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四
〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社
会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕
著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県で
は、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住
む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつこと
である。少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切
にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。

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 「自然教育」と簡単に言うが、おとなの私たちがさんざん好き勝手なことをしておきながら、子
どもに向かって、「自然を大切にしましょう」は、ない。それこそおとなの身勝手というもの。しか
し実際には、そうは簡単ではない。

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●自然への雑感

 私の自宅の前は、小さな森になっている。古くからある、このあたりの大地主の墓地にもなっ
ている。私はここに住んで、もう二六年になるが、住み始めたころは、そうではなかった。小さ
な木がまばらに生えている程度だった。が、この二六年間で、すっかり様子が変わった。

 私は庭で、畑も、花壇もつくっていた。庭一面には、芝生も植えていた。しかし最初に、畑が
全滅。つぎに花壇も全滅。七、八年前には、芝生も枯れはてた。墓地の木々が大きくなり、や
がて巨木になり、日陰が、私の庭全体をおおうようになった。

 で、地主にあれこれ相談した。が、地主が東京に住んでいることもあり、なかなかことが、は
かどらなかった。が、いよいよ大木の枝が、私の庭のほうまで容赦なく入り込んでくるようにな
った。そこで木を伐採してもらうことにした。

 そのときだ。他人の土地の森とはいえ、この二六年間、なれ親しんだ森である。枝を切っても
らうにしても、どこか抵抗があった。もちろん切ったのは、業者だが、それでも抵抗があった。
畑も花壇もつぶれたが、しかし本当のところ、私は緑が嫌いではない。居間から見ると、窓全
体に、墓地の緑が飛びこんでくる。いつだったか、F市の友人が私の家に遊びに来たとき、「ど
こかの別荘地みたいですね」と言ったのを覚えている。私はそれを聞いて、うれしかった。

 が、家の周囲の木は、切ってもらった。バッサ、バッサと。おかげで少しは明るくなったが、さ
っそく近所の人が何人かやってきて、こう言った。「よく、今まで、がまんしましたね」と。それを
聞いて私は、「緑に対する考え方も、人によって違うのだな」と思った。都会地域では、緑を嫌う
人も、少なくない。「ゴミ(葉のこと)が出る」「枯れ葉が家のトイをつまらせる」「日陰になる」と
か。私自身は、葉や枯れ葉がゴミだと思ったことは一度もないのだが……。

 緑を守ることだけが、自然を守ることではない。ほかにもいろいろ方法はある。しかし木を育
てるというのは、たいへんわかりやすい。少なくとも、私はずっと、そう考えてきた。実のところ、
その墓地の森に、いろいろな木をこっそりと植えてきたのは、この私だ。しかしこのところ、つま
り、とくに周囲の木を切ってもらってから、少し考え方が変わってきた。自然を守るということ
は、そういうことではないのではないか、と。たとえて言うなら、ペットの動物を飼ったり、家畜の
動物を育てているからといって、動物を愛護していることにはならない。同じように、自分の目
を楽しませるために、木を、家のまわりに植えたからといって、自然を保護したことにはならな
い?

 自然保護というのは、もっとシビアなもの。私のばあい、あくまでも結果論だが、この三〇年
以上、自転車通勤していることが、それではないか。最初は、自然保護などということは、みじ
んも考えていなかった。あくまでも健康のためだった。しかしあるときから、自然保護を意識す
るようになった。「私はみんなより、空気を汚していないぞ」という思いをもつようになった。それ
はある種の優越感だった。たとえば自転車に乗っていて、バリバリと音をたてながら、猛スピー
ドで通りすぎる車を見たりすると、その運転手が、どこかアホ(失礼!)に見えた。(多分、相手
は、自転車に乗っている私を、アホに思っているだろうが……。)

 つまり自然保護というのは、意識の問題であって、行動の問題ではない。意識があれば、行
動は、あとからついてくる。何となく、意味のないことを、回りくどく書いているような気分になっ
たので、この話はここでやめるが、要するに、自然保護というのは、そんな甘いものではないと
いうこと。私が墓地の森に木を植えたような行為くらいでは、自然保護にはならないということ。
そういうこと。……ということで、この話は、ここまでにしておく。
(03−1−26)

●自然の自然は自然なり。自然主義者の自然は不自然なり。(内村鑑三「聖書之研究」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

暴論は疑う

 少し前、子どもの不登校や情緒障害を、怒鳴り散らして「治す(?)」という指導者がいた。テ
レビでも何度か紹介されたことがあるが、ただただ(?)クェスチョンマークだけが並ぶような指
導法だった。

 ときとしてこういう暴論が、世間をにぎわす。少し前には、Tヨットスクールというのがあった。
死者まで出す、めちゃめちゃな指導法だったが、当初は、マスコミにも取りあげられ、結構話題
になった。
 
 私はずっと子育てや、育児論を最前線で見てきたが、結論はただひとつ。「暴論は疑う」だ。

 子どもの心は、ときとしてガラス箱のように、デリケートでこわれやすい。そしてこわれた心
は、こわれたガラス箱のように、簡単には、もとに戻らない。それこそ一年単位の時間と努力
が必要。それを数回、怒鳴っただけで治す(?)とは! 私もその指導者が書いた本を、二冊
買って読んだが、正直言って、「?」の本だった。一冊は、自分が高校生のとき、父親の車を盗
んで、無免許で乗り回したとか、そういう話が書いてあった。つまり「そういう経験が、今、役に
たっている」と。

 それ以上のことは私にはわからないので、反論のしようがないが、子育てには、近道も抜け
道もない。あるとすれば、あなたがそこにいて、子どもがそこにいるという事実。その事実だけ
を冷静に見つめて、子育てをすればよい。仮に子どもに問題があったとしても、「なおそう」と
か、「なおしてやろう」とか、さらには、「なおさなければ」と思う必要はない。今ある事実を、ある
がままに受け入れて、その中で、あなたとあなたの子どもの人間関係をつくればよい。

 つぎの原稿は、こうした暴論について書いたもの。

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(暴論(1))
スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない!)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本独特のおかしさは、
外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもた
ちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こ
ういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけ
て、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものでき
る仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせれ
ばいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レン
ジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうス
キをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ
息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、
乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あ
なたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日
本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパ
ルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ども
にすべき教育ではない。

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(暴論(2))
「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の評論家(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責してい
る場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その評
論家が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言
葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流
すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその評論家の、そういう言い方は卑怯(ひきょう)だと思う。強い立場のものが、一方的
に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするな
ら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間
関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。
切れないと思っているのは、親だけで、親はその幻想の上に安住しているだけ。そのため子ど
もの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれの
おかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか!」と言うのと同じ。たしかにそうか
もしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに
言葉を教えるのは、親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア
ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間
としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育て
をすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊
かなものになる。私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやっ
た」という意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言
うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気
持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ
くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親
孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん
なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ
の重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の評論家の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。

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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■2-5-1

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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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03−2−5号(175)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
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これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
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   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )        【2】雑談・雑感
   人   υ ( `) (  )         【3】子育てエッセー
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 、より転載-

●No.49 子をもって知る子育ての深さ

 「家のしつけがなっていない」「親がだらしない」などと平気で口にする人
 は、自分で子育てをしたことがない人とみてよい。自分で子育てをしてみる
 と、この考えが消える。「クレヨンしんちゃん」の中に、こんなシーンがあ
 る。

 向こうから二人の高校生が歩いてくる。それを見た母親のみさえが、「何よ、
 あのかっこうは。親の顔を見てみたい」と。するとその高校生たちが、しん
 のすけを見て、こう叫ぶ。「何だ、こいつ。親の顔を見てみたい」※と。み
 さえがその方向を見ると、しんのすけがチンチン丸出しで歩いてくる……。

 思うようにならないのが子育て。もちろん成功する人もいるが、失敗する人
 のほうがはるかに多い。しかし成功したからといって、それはその人の力と
 いうよりは、子ども自身の力によるところが大きい。反対に、失敗したから
 といって、その人の責任ではない。その人はその人なりに、一生懸命してい
 るのだ。一生懸命しても、あるいは皮肉なことに一生懸命すればするほど、
 子どもだけがどんどんわき道に入ってしまう……。子育てというのは、もと
 もとそういうもの。

 そこでどうだろう、こう考えたら。失敗を失敗と思うから失敗であって、子
 育てには失敗などない、と。たとえばこんな教授がいた。それまでは受験雑
 誌などにエッセイを書いていたし、彼の書いた「受験攻略法」(仮称)は、
 数一〇万部を超えるベストセラーになった。が、彼の息子のうち、長男は京
 大に入ったが、二男は京都のある私立大学に入った。それについてその教授
 は、「私は二男を、東大もしくは京大へ入れることができなかった。教育に
 失敗した」と、「失敗」という言葉を使って、「受験攻略法」について書く
 のをやめてしまった。「失敗」という言葉がそういうふうにも使われること
 もある。

 自分の子育てにはもちろんのこと、他人の子育てにも謙虚であること。この
 世界には、こんな鉄則がある。「他人の子育てを笑うものは、いつか自分が
 笑われる」と。たとえばAさんはいつも、その出身高校でその人を判断して
 いた。「あの親は結構、教育熱心でしたけど、息子さんはC高校ですってね
 エ」と。しかしいざ自分の娘(中三)が受験となったときのこと。娘にはそ
 の力がなかった。だからAさんは、毎晩のように娘と、「勉強しなさい」「
 うるさい」の大乱闘を繰り返すことになった。こうした例はあなたのまわり
 にも、一つや二つは必ずあるはずだ。だから繰り返す。他人の子育てには謙
 虚であること。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

+++++++++++++++++++

 この「子をもって知る子育ての深さ」には、私のこんな思いを織り込んだ。

 私の勤めていた幼稚園に、年配の教師が何人かいた。その中の一人が、いつも、こう言って
いた。「今の親は、なっていない」と。私も若かったから、それに同調して、「そうです、そうです」
と言っていた。しかし自分で子どもを育て始めてみると、その考え方は、あっという間に吹き飛
んでしまった。子育てというのは、理屈どおりにはいかないもの。思いどおりにはいかないも
の。その年配の教師は、生涯、独身で通した人だが、だからこそ、親のもつきびしさを知らなか
った。

 子育ての世界には、『言うは易(やす)し、行うは難(かた)し』という言葉がある。またこの格
言ほど、「そうだ」と思える格言は少ない。そういう格言を念頭に置きながら、このエッセーを読
んでもらえるとうれしい。
(03−1−28)
 
    ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )
   γ ρρ   │σ σ ρ )
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )  子育ては重労働。
   人   υ ( `) (  )    しかしどうせ育てなければならないのなら、
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)     あきらめて、育てましょう!
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ      前向きに!
  (   m m ○/ ̄ ̄ ̄ヽ○
【2】雑感・雑談∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回と
いう組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。
脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっ
とも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心を
みるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、そ
れ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていて
も、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようで
す。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりして
いて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりし
すぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常
もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおり
ません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいま
す。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂き
たいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり
「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それ
で終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめ
ざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さ
らにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、
鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースで
は、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪く
なる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムが
まったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。
つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわか
る。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、
子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子
どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなか
にあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに
気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だか
らといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目
立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースで
は、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こう
いう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が
疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のC
PU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわっ
てはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと
思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親
のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校か
ら帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。
学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすというこ
とが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子ども
に向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そ
う言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という
生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生
き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっ
ても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も
終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、
よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。し
かしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせか
けるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何
とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育
て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊す
る。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもな
いが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、
さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子ど
もに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切
なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこか
に、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ
「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うな
ら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずも
ない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、
すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもな
るというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした
親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているというこ
と。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないこと
は、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、
アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸
になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲ
ームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはま
さにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強
しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとし
ない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その
失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけ
ても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、
子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」
と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子
どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころに
は、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっ
と早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかし
よう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何
とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。
私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわ
かれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒
るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかま
りがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定
だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへ
の過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友と
して受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護
者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本
人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これ
は今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたも
いっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲ
ームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったと
き、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一
方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができる
というのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方
もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさん
との間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じた
ことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値
に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そうい
う視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

+++++++++++++++++

●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに
書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、
二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡が
なければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩

(03−1−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見
出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでし
た。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やま
れ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりま
せん。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思いま
す。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。
 
これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?
 
はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

++++++++++++++++++

●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 
 
ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司

     匚二コ/
     彡彡ミ
    ⊂OJO⊃
     \▽丿
≡    /く\
    (─〈\◯⊃
≡  ==\\==○
  / ̄\//\/ ̄\
≡ 〈《◎》∨二〈《◎》〉
  \_/   \_/自転車で、今日も健康!
        皆で乗ろう、自転車!  はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
     ⌒⌒⌒⌒
    ((( (( (( 
     ⌒  ⌒ 
     ・。・ β
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\
 ○\/│  //│\ \   みなさんのご家庭で、このマガジンが役だって
 ゜\/│ // │ / /    いますか?
   Γ ̄ ̄│──|○   何かテーマがあれば、掲示板にでもお書きください。

   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「ゲームはやめなさい」

 よくある相談。「うちの子は、毎日、ゲームばかりしている。『勉強しなさい』と言っても、しな
い。どうしたらいいか」と。

 こういう相談をしながら、親は自分の矛盾に気づいていない。もしこのままの状態で、親子の
立場が逆転したら、子どもは親に向かって、こう言うだろう。「うちの子は勉強ばかりしている。
『ゲームをしなさい』と言っても、しない。どうしたらいいか」と。

 こういうケースで、一番気になるのは、親が一方的に、子どもの価値観を否定していること。
「ゲームはだめ」「ゲームは悪い」と。そういうふうに否定しておきながら、今度は、一方的に、
自分の価値観を子どもに押しつけている。「勉強しなさい」と。

 ……こう書くと、「ゲーム」と「勉強」は、同じではない。立場が違うと考える人がいるかもしれ
ない。しかしその判断とて、実は、親の価値判断でしかない。「ゲームは大切なものではない。
趣味だ。娯楽だ。遊びだ。しかし勉強は、子どもにとって大切なもの。すべきもの。必要なも
の。義務だ」と。

 が、子どもは子ども。おとなの価値観は、おとなにならないとわからない。だから「ゲームは、
遊び。勉強は、大切なもの」と言ったところで、子どもにはわからない。実は、ここで親子の意
識のズレが生まれる。子どもの立場を、もう少しわかりやすく言えば、こうなる。「ぼくの言うこと
は何も聞いてくれない。なのに、どうして親の言うことは聞かねばならないのか」と。では、どう
するか?

 親は親で、一度、子どもの立場に、自分を置いてみる。子どもがゲームをしていたら、「ゲー
ムはだめ」ではなく、「ママも、いっしょにゲームをしたい」と言ってみる。それはあなたにとって
は苦痛なことかもしれないが、しかしやってみる。その苦痛を乗り越えたとき、子どもも、あなた
の言うことを聞くようになる。「勉強しようね」「うん」と。

 こうした手法は、私の教室でもよく使う。子どもの心をつかみたかったら、一度、子どもの世
界に入ってみる。男の子だったら、マジギャザや遊戯王、デュエルマスターズカード。女の子だ
ったら、浜崎あゆみやプリクラ、マニキュアや香水の話をしてみる。少しは予習してからのほう
がよい。

 たとえば「アルカディアス(攻撃力は12500)は強いね。でも、能力で一番強いのは、バロム
(攻撃力は12000)だね。バロムが出た瞬間、相手のモンスターはすべて破壊されるよね。だ
から結局は、バロムが最強かな。パックは、○○(店の名)で売っているよね。パックは一五〇
円だったよね」と言ってみる。「必ずキラカード(キラキラ光るカード)が二枚でるのは、勝負パッ
クだね」と言ってみるのもよい。女の子だったら、「あんたも交換ノートしてる?」と。子どもはあ
なたを、尊敬の目つきで見るようになるだろう。で、一通り、こういう話をしたあと、「じゃあ、今
度は、ママの話を聞いてほしい」と言う。子どもたちは催眠術にでもかかったかのように、あな
たの話を聞くようになる。

 もうおわかりかと思う。「ゲームは、ダメ。勉強しなさい」では、説得力はない。またそういう言
い方をすればするほど、子どもは、あなたに反発するようになる。だから冒頭のような質問をも
らったら、その回答は、こうなる。

 「子どもがゲームばかりしていたら、あなたもいっしょに、ゲームをしてみなさい。そしてそれ
が一段落したら、『今度は、いっしょに勉強してみる?』と声をかけてみる。一方的に、ゲームを
否定してはいけない。勉強を押しつけてはいけてはいけない。そんなことをすれば、かえって子
どもは、それに反発するようになるだけ。つまりますます勉強をしなくなる」と。

 ●  ⌒⌒ ●τ
 √ ●((( ((  ● ι
  ∫∫  ⌒  ⌒ ν ι
  §   ・。・ β§
    (  ▽  )
    √~~~∞~~//\    もしよろしかったら、どなたかに、このマガジンの
 ○\/│  //│\ \    ことを話していただけませんか?
 ゜\/│ // │ / /     みんなで力をあわせて、日本の、日本人の
   Γ ̄ ̄│──-\○       子育てを変えていきましょう!
   │  │    \       心豊かな、日本の未来のために!

【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

処世術

 この地区に住むようになって、二六年になる。早いものだ。おかげで、この地区は、よい人た
ちばかりで、大きなトラブルもなく、無事、過ごすことができた。聞くところによると、近隣とのトラ
ブルが原因で、余儀なく引っ越しをさせられる家族もいるそうだ。私がワイフに「悪い人がいなく
て、よかったね」と言うと、「みんな、あんたをこわがっているだけよ」と。つまり私が悪い人?

 そう言えば、このあたりでは、私がもっとも古株。ここへ引っ越してきたころは、このあたり
は、まさに荒地の野原。二階からは遠く、太平洋が一望できた。が、今は違う。住宅が密集し
て、すっかり様子が変わった。宅地の値段にしても、私が買ったときには、坪、一二万円弱だっ
た。それがバブルのころは、八〇〜一〇〇万円。今は、値段がわからないが、およそ四〇万
円前後ではないか。それ以上のところもあるし、それ以下のところもある。

 この団地のよいところは、静かなこと。いろいろと問題がないわけではないが、どれもがまん
できる範囲。つぎに緑が割りと多く、交通の便利も悪くない。市内の一等地とはくらべようもない
が、私のようなものには、ぜいたくな土地かもしれない。もともと高望みはできない身分。私とワ
イフのばあい、親の遺産などというものには、まったくの無縁だった。むしろ祖父や父の葬儀の
ときには、ごっそりと母に、お金をもっていかれた。正直に告白するが、その種のお金は、ワイ
フの父親が死んだとき、義理の兄から、一〇万円をもらっただけ。だから、今、こういう団地に
住みながらも、ヘンに自分で納得することができる。「われながら、よくがんばったほうだ」と。

 「家庭」というのは、その人にとっての「逃げ場」。その逃げ場で、人は体を休め、心をいや
す。そのため、家庭、もしくはその周辺でトラブルがあるというのは、その逃げ場を台なしにす
ることになる。これはその人にとって、決定的に、マズイ! ……と私はいつも考えているの
で、家庭内部はもちろんのこと、周辺でのトラブルには、いつも気をつかう。要するに、ただひ
たすら、がまん。何があっても、がまん。ことを荒だてないようにしている。逃げ場を守るために
は、よき住民であること。すべてこの一語につきる。

 こうした考え方は、実は、子育てにも必要で、子どもにとって、安心できる家庭を用意するの
は、親の義務とさえ断言してもよい。そこで一度、あなたの家庭を診断してみるとよい。子ども
の視点で、子どもの目を通して、あなたの家庭はどうかを知る。はたしてあなたの家庭は、子
どもにとって、しっかりと逃げ場になっているだろうか、と。何かにつけて外出ばかりしていると
か、帰宅時刻がいつも不自然に乱れるとか、あるいはいつも家族のだれかと衝突ばかりして
いるというのであれば、一度、あなたの家庭を反省してみたらよい。

学校にもいろいろ問題はあるかもしれないが、もし家庭が、体を休め、心をいやす機能をはた
しているなら、問題が問題となる前に、その問題は解決するはずである。たとえば子どもの不
登校にしても、不登校が問題ではなく、子ども自身が家庭で、そういうキズついた心をいやすこ
とができないということこそ、問題なのである。たいていの親は、親の立場だけで、子どもに向
かって、「学校へ行きなさい!」と無理をするが、その無理が、子どもの逃げ場をつぶしてしま
う。

 こうした近隣の世界では、ことを荒だてると、たとえそれで問題を解決できたとしても、そのあ
と大きなしこりが残る。表面的には問題は解決したかのように見えるが、そのしこりだけはいつ
までも残る。そのしこりが、回りまわって、いつ「江戸の敵(かたき)を、長崎で討(う)つ」というこ
とにもなりかねない。それは生活していく上で、大きな不安材料になる。だからこうしたトラブル
は、作る前から避けたほうがよい。どこか小市民的な生き方のように見えるかもしれないが、こ
れは、私の処世術でもある。
(03−1−27)

●最も賢い処世術は社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をするこ
とである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

思い込みと、気休め

 近くの森で、木の伐採(ばっさい)が始まった。三人の男たちが、朝早くからやってきた。そし
て木を切り始めた……。

 とたん、一人の男がもっていたノコギリの歯が、根元でポキリと折れた。それでその男は、ど
こか心配そうな顔をして、木からスルスルとおりてきた。そしてこう言った。「この木は、こわい
ね。タタリがあるかもね」と。冗談ぽい言い方だったが、どこか真剣だった。

 すると親分格の男が、もう一人の若い男にこう言った。「いいから、お神酒(みき)買ってこい
や」と。言われた男は、車に飛び乗り、どこかへ行った。

 その間、残った二人の男は、木陰ですわったまま、何かを話していた。が、もう一人の男がお
神酒を買ってくると、何やら儀式を始めた。お神酒を木の根元にまいて、かしわ手を打ち、打っ
たまま、目を閉じて、祈った。

 小春日和の、うららかな朝だった。風はなかった。私はその光景を、一部始終、横で見てい
た。で、こう考えた。

 ノコギリが折れたのは、偶然だ。最近のノコギリは、ステンレスでできている。しかも取り替え
られるようになっている。使い捨てになった分だけ、モノが悪い。つまり折れやすい。

 タタリがあるというのは、ウソ。思い込み。仮にそんなパワーが木にあるのなら、地球温暖化
など、あっという間に止まるはず。世界中の木々が、生死を左右されるという状況の中で、枝を
切るくらいのことで、人にタタるはずがない。

 お神酒をまくというのは、まさに気休め。思い込みと気休めは、いつもペアになっている。思
い込んだ分だけ、人は、どこかで、気休めをする。迷信も、そこから生まれる。そしてそれが無
数に集まって、ときには宗教になり、ときにはカルトになる。

 ……と理屈で考えれば、そういうことになる。が、そのときだ。私も、理屈ではそうわかってい
ても、どこか不安になった。心のどこかがヒンヤリとするような不安感だった。いくら理屈ではそ
うだとわかっていても、あまり気持ちのよい話ではない。折れたノコギリを見ると、たしかに不自
然な折れ方をしている。男はこう言った。

 「いやあ、それほど力を入れたわけではないのにね。ノコを木に当てて、二、三度、引いただ
けだがね」と。その男は、折れたのは、自分のせいではないと言いたかったのもしれない。しか
しステンレスのノコギリは、硬い分だけ、不自然な力が加わると、ポキリと折れる。……と思う。

 いや、この迷いこそが、私の迷いでもある。まだまだ私の修行は足りない。くだらないことだ
が、いくら幽霊などいないとわかっていても、昔から、夜、墓場の前を歩くのは、苦手だった。こ
わかった。そのこわさを吹っ切ったとき、私は、真の勇者になれるかもしれない。……とまあ、
そんなふうに、おおげさなことを考えていた。

 そこで男たちと別れたが、家の中に入ると、朝の陽光をあびて、ポカポカと暖かかった。しば
らくすると、電動ノコの音も聞こえだした。そのあとは、伐採も、順調に進んでいったらしい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

処世術

 この地区に住むようになって、二六年になる。早いものだ。おかげで、この地区は、よい人た
ちばかりで、大きなトラブルもなく、無事、過ごすことができた。聞くところによると、近隣とのトラ
ブルが原因で、余儀なく引っ越しをさせられる家族もいるそうだ。私がワイフに「悪い人がいなく
て、よかったね」と言うと、「みんな、あんたをこわがっているだけよ」と。つまり私が悪い人?

 そう言えば、このあたりでは、私がもっとも古株。ここへ引っ越してきたころは、このあたり
は、まさに荒地の野原。二階からは遠く、太平洋が一望できた。が、今は違う。住宅が密集し
て、すっかり様子が変わった。宅地の値段にしても、私が買ったときには、坪、一二万円弱だっ
た。それがバブルのころは、八〇〜一〇〇万円。今は、値段がわからないが、およそ四〇万
円前後ではないか。それ以上のところもあるし、それ以下のところもある。

 この団地のよいところは、静かなこと。いろいろと問題がないわけではないが、どれもがまん
できる範囲。つぎに緑が割りと多く、交通の便利も悪くない。市内の一等地とはくらべようもない
が、私のようなものには、ぜいたくな土地かもしれない。もともと高望みはできない身分。私とワ
イフのばあい、親の遺産などというものには、まったくの無縁だった。むしろ祖父や父の葬儀の
ときには、ごっそりと母に、お金をもっていかれた。正直に告白するが、その種のお金は、ワイ
フの父親が死んだとき、義理の兄から、一〇万円をもらっただけ。だから、今、こういう団地に
住みながらも、ヘンに自分で納得することができる。「われながら、よくがんばったほうだ」と。

 「家庭」というのは、その人にとっての「逃げ場」。その逃げ場で、人は体を休め、心をいや
す。そのため、家庭、もしくはその周辺でトラブルがあるというのは、その逃げ場を台なしにす
ることになる。これはその人にとって、決定的に、マズイ! ……と私はいつも考えているの
で、家庭内部はもちろんのこと、周辺でのトラブルには、いつも気をつかう。要するに、ただひ
たすら、がまん。何があっても、がまん。ことを荒だてないようにしている。逃げ場を守るために
は、よき住民であること。すべてこの一語につきる。

 こうした考え方は、実は、子育てにも必要で、子どもにとって、安心できる家庭を用意するの
は、親の義務とさえ断言してもよい。そこで一度、あなたの家庭を診断してみるとよい。子ども
の視点で、子どもの目を通して、あなたの家庭はどうかを知る。はたしてあなたの家庭は、子
どもにとって、しっかりと逃げ場になっているだろうか、と。何かにつけて外出ばかりしていると
か、帰宅時刻がいつも不自然に乱れるとか、あるいはいつも家族のだれかと衝突ばかりして
いるというのであれば、一度、あなたの家庭を反省してみたらよい。

学校にもいろいろ問題はあるかもしれないが、もし家庭が、体を休め、心をいやす機能をはた
しているなら、問題が問題となる前に、その問題は解決するはずである。たとえば子どもの不
登校にしても、不登校が問題ではなく、子ども自身が家庭で、そういうキズついた心をいやすこ
とができないということこそ、問題なのである。たいていの親は、親の立場だけで、子どもに向
かって、「学校へ行きなさい!」と無理をするが、その無理が、子どもの逃げ場をつぶしてしま
う。

 こうした近隣の世界では、ことを荒だてると、たとえそれで問題を解決できたとしても、そのあ
と大きなしこりが残る。表面的には問題は解決したかのように見えるが、そのしこりだけはいつ
までも残る。そのしこりが、回りまわって、いつ「江戸の敵(かたき)を、長崎で討(う)つ」というこ
とにもなりかねない。それは生活していく上で、大きな不安材料になる。だからこうしたトラブル
は、作る前から避けたほうがよい。どこか小市民的な生き方のように見えるかもしれないが、こ
れは、私の処世術でもある。
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●最も賢い処世術は社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をするこ
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    ┌┐
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/  〜       〆  へく ^川     どうか、よろしくご購読ください。
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■2-7-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 595人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  62人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
03−2−7号(176)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
    【この講演会に、全力を傾けます。どうか成功させてください。】 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
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    (マガジン読者の方のための、専用掲示板です)
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●毎週月曜日、午後11:00〜に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させ
ていただきます。では、楽しく、仲よく、ご利用ください!

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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

おとなになりたくない!

すばらしいと言え、親の仕事(失敗危険度★)(1310)

●どうしたらいいか
 こんなことがあった。その息子(高一)が、家業である歯科技工士の仕事を継ぐのをいやがっ
て困っているというのだ。そこで「どうしたらいいか」と。

 今、子どもたちの間で、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりという奇妙な現象が起きている。
自分の将来に不安や恐怖心をもつと、子どもはおとなになるのを無意識のうちにも拒否するよ
うになる。そして幼児期に使ったおもちゃや本を取り出し、それを大切そうにもちあるいたりす
る。一人の小学生(小六男児)が、ボロボロになったマンガの本をかばんの中に入れていたの
で、「それは何だ」と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうちぇ、読んではダメだと言う
んでチョ、言うんでチョ」と。この子どものケースでは、父親に原因があった。父親はことあるご
とに、「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ」「毎日五、六時間は勉強しなければならないぞ」
と、その子どもをおどしていた。こうしたおどしが、子どもの心をゆがめていた。

●「ペコペコする仕事なんか、いやだ」
 で、私は先にあげた高校生を家に呼んで、理由をたずねてみた。するとその高校生はこう言
った。「あんな歯医者にペコペコする仕事なんか、いやだ。それにオヤジは、いつも『疲れた、
疲れた』と言っている」と。

 そこで私は母親にこう話した。「これからは子どもの前では、家の仕事は楽しい、すばらしい
と言いましょう」と。結果的にその子どもは今、歯科技工士をしているので、私のアドバイスはそ
れなりに効果があったのかもしれない。

●未来に希望を!
 子どもを伸ばす秘訣は、未来に希望をもたせること。あなたはすばらしい人になる、あなたの
未来はすばらしいものになると、前向きの暗示を与える。幼児でもそうだ。少し前、『学校の怪
談』というドラマがあった。そのため「小学校へ行きたくない」という子どもが続出した。理由を聞
くと、「花子さんがいるから」と。やはり幼児には、「学校は楽しいよ」「友だちがいっぱいできる
よ」「大きな運動会をするよ」と、言ってあげねばならない。そして……。

 子どもには、「お父さんの仕事はすばらしいよ」と言う。いや、言うだけでは足りないかもしれ
ない。生き生きと楽しそうに仕事をしている前向きの姿勢をどんどんと見せる。そういう姿勢が
子どもを伸ばす。

    ハ ハ   ((⌒⌒〃ヽ
   (  ⌒ヽ  ((( ( 人 )
   γ ρρ   │σ σ ρ )
   γ   ⌒ρ 人 ▽ 〃ノ )  子育ては重労働。
   人   υ ( `) (  )    しかしどうせ育てなければならないのなら、
    ┗━┛   /⌒V ⌒ヽ)     あきらめて、育てましょう!
   ノ  ミ   / (^^^) ヽ      前向きに!
  (   m m ○/ ̄ ̄ ̄ヽ○
【2】雑感・雑談∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

世にも不思議な留学記(番外編)

++++++++++++++

豊かな生活、そして帰国

●モーニングコール
 「ヒロ〜シ、ヒロ〜シ」と、朝になると、隣の別荘のジュリーがやってきて、私を呼んだ。すると
横にいたデニスが、私をからかって、「ヒロシ、モーニングコールだ」と。
 遠くには、一日中、潮騒の音が聞こえる。目を開けると、まばゆいばかりの朝の光線。さわや
かなそよ風。描きかけた油絵が、部屋のすみに立っている。
日本がここまで豊かになるとは、当時、だれが予想しただろうか。私は「日本がオーストラリア
の生活水準になるには、五〇年はかかる。あるいは永遠に不可能」とさえ思っていた。前の晩
も、デニスの父親が、自宅でピーターオツール主演の『アラビヤのロレンス』を見せてくれた。ま
だビデオなどない時代で、フィルムは、仲間の映写技師から借りたものだった。起きると食卓
には、盛りつけられたパンや果物。戸棚には、何一〇種類ものドイツ製のビール。そして週末
は、こうして海のそばの別荘(ビーチハウス)で過ごす。
 「デニス、ぼくは、やはり日本へ帰るよ」
 「こちらで就職しないのか?」
 「週給五五ドル※だという。高卒の給料だ」
 「しかし君は、学位をもっている」
 「日本の学位は、オーストラリアでは認められない」

●日本へ帰る
 私は日本にいる親や、別れたN子のことを考えていた。いや、それ以上に、日本のことを考え
ていた。オーストラリアから見ると、どうしようもないほど小さな島国だが、しかし私の国だ。この
ところメルボルンの町の中を歩いていても、どこかフワフワと足が浮いたような状態になる。み
なは親切だが、しかしその親切は、ある一定の限度まで。私はアジア人だ。背が低く、肌の黄
色いアジア人だ。それから生まれる違和感は、どうしようもなかった。
 しばらくすると、またジュリーが呼んだ。「ヒロ〜シ」と。するとデニスがこう言った。「ヒロシ、気
をつけろ。彼女はまだ中学生だ」と。「わかっている」と私。週末になるとジュリーの一家もこうし
て別荘にやってくる。いつしか私とも知りあいになり、何度か夕食もごちそうになった。が、も
し、その私が、仮にいつか、たとえばジュリーと恋仲になり、結婚……ということになったら、多
分、ジュリーの両親の態度は、急変するだろう。私がジュリーの一家とつきあうとしても、どんな
ことがあっても、その一歩手前で止めなければならない。
 デニスとビーチに出ると、ジュリーがそこに立っていた。私は何枚か、ジュリーの写真をとっ
た。その一枚が、これである。その後、デニスの別荘のあたりは山火事(ブッシュファイア)で燃
えた。ジュリーの別荘も燃えて、その後、音信はない。本名は、ジュリー・ピーターズ。今、彼女
は、四五歳前後になっているはずである。きっとすばらしい人生を送っていることと思う。オー
ストラリアの青い空のように、抜けるほど明るく、陽気な女の子だった。
(※当時のレートは、一ドルが四〇〇円。日本の大卒の初任給は、五〜六万円だった。) 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ベトナム戦争

●徴兵はクジ引きで
 徴兵は、クジ引きで決まった。そのクジで決まった誕生日の若者が徴兵され、そしてベトナム
へ行った。学生とて、例外ではない。が、そこは陽気なオーストラリア人。南ベトナムとオースト
ラリアを往復しながら、ちゃっかりと金を稼いでいるのもいた。とくに人気商品だったのが、日本
製のステレオデッキ。それにカメラ。サイゴンで買ったときの値段の数倍で、メルボルンで売れ
た。兵士がもちこむものには、原則として関税がかけられなかった。

 そんな中、クリスという学生がベトナムから戻ってきた。こう言った。「戦場から帰ってくると、
みんなサイゴンで女を買うんだ」「女を買う?」「そうだ。そしてね、みんな、一晩中、女の乳首を
吸っているんだ」「セックスはしないのか?」「とても、する気にはなれないよ。ただ吸うだけ」「吸
ってどうするんだ?」「気を休めるのさ」と。

 モノの話が出たからついでに。私もいくつかの電気製品を買ったが、どれも日本人には考え
られないようなものばかりだった。ニクロム線丸出しの湯沸かし器、真空管が並んだラジオな
ど。しかしそのうち、彼らがほとんどモノにはこだわっていないことがわかった。少なくとも日本
人のようには、こだわっていない。いつか「こういう国では産業は発展しないだろな」と思ったこ
とがあるが、そのときすでにオーストラリアは、経済リセッション(後退)に入っていた。

●オーストラリア人のベトナム戦争
 ベトナム戦争。日本でみるベトナム戦争と、オーストラリアでみるベトナム戦争は、まるで違っ
ていた。緊張感だけではない。だれもが口では、「ムダな戦争」とは言っていたが、一方で、「自
由と正義を守るのは、ぼくたちの義務」と言っていた。そういう会話の中で、とくに気になったの
は、「無関心」という単語。オーストラリアでは「政治に無関心」ということは、それだけでも非難
の対象になった。地方の田舎町へ行ったときのことだが、中学生ですら、「あの橋には、○○
万ドルも税金を使った」と話していた。ベトナム戦争は、そういう意識の延長戦上にあった。

 「日本はなぜ兵隊を送らないのか?」「日本は憲法で禁じられている」「しかしこれはアジアの
問題だろ? 君たちの問題ではないか」「……」と。毎日のように私は議論を吹っかけられた。
彼らがそうする背景には、「いつ戦場へ送り出されるかわからない」といった恐怖感があった。
真剣さが違った。

●日本は変わったか?
 それから三四年。世界も変わったが、日本も変わった。しかしその後、日本がアジアを受け
入れるようになったかどうかということになると、それは疑わしい。先日もテレビ討論会で、一人
のアフリカ人が、小学生(五年生くらい)に向かって、「君たちはアジア人だろ!」と言いったとき
のこと。その小学生は、「違う。ぼくは日本人だ」と。そこで再び、「君たちの肌は黄色いだろ!」
と言うと、今度は、「黄色ではない。肌色だ!」と。こうした国際感覚のズレは、まだ残っている。
三五年前は、もっとすごかった。日本人で、自分がアジア人だと思っている日本人は、まずい
なかった。半ば嘲笑的に、「黄色い白人」と呼ばれていたが、日本人は、それをむしろ誇りに思
っていた? しかしアジア人はアジア人。この事実を受け入れないかぎり、日本はいつまでたっ
ても、アジアの一員にはなれない。

 「このままでは、日本がソビエトに侵略されても、だれも助けにきてくれないだろう」と、クリスと
会った夜の日記に、私はそう書いた。

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【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
子育て随筆byはやし浩司(563)

外国人の子育て観

 日本に住むX国人の子育て観を見ていると、すさまじいものを感ずる。三〇年前、四〇年前
の日本人そのものと言ってもよい。功利的で合理的。子育てそのものが、ビジネス化してい
る。制度の中で、いかに「利益」を追求するという姿勢が徹底している。ある進学塾の講師がこ
う言った。「ある日突然、子ども(六年生)を連れてきて、週、何回教えてくれるかと聞いた。そ
れでうちは週二回だというと、『それじゃあ、B塾のほうが安い。あそこは週三回で、○万円だ』
と言った。ものの考え方が、私たちと少し違うようだ」と。

 私にも同じような経験がある。数年前のことだが、年末になったころ、一人の母親が子ども
(年長児)を連れてきた。……という話は、ここには書けない。しかしそういう母親を見ている
と、あたかも三〇年前、四〇年前の日本にタイムスリップしたかのように感ずる。あの時代は、
教育そのものが、餅まきの餅取りのようになっていた。「学校」が餅をまくと、下にはいつくばっ
た「親」たちが、血相を変えて餅を拾い集める……。そんな雰囲気だった。教育論や子育て論
などをいくら説いてもムダ。その虚しさを、私はイヤというほど、味わっている。たとえば一年か
かって、子育て論を話したとする。しかし一年たって、「このお母さんは、精神的にも成長しただ
ろうな」と思っていた矢先、こう言う。「先生、うちの子、A小学校に合格するでしょうか」と。

 それに外国の人には、(当然だが)、私はタダの塾講師。明確な序列意識をもっていて、平気
で私を最下位に置く。しかもX国人にしても、そう言えば、Y国人にしても、どこか日本人をさげ
すんでいるようなところがある。「バカにされたくない」とか、「日本人には負けたくない」という思
いが、逆に攻撃的になるのかもしれない。あるいは「金(月謝)を払ったのだから、あなたは使
用人」というふうに、考えるのかもしれない。あるY国人の母親は私にこう言った。「あんたは、
黙って、娘の勉強だけみてくれればいい。(余計なことは言うな)」と。私がその子ども(小四)の
態度が、どこか粗放的になってきたことを告げようとしたときのことである。

 こう書くからといって、決して人種偏見的なことを書いているのではない。もちろんたいはんの
X国人やY国人の方は、よい人ばかりである。しかし日本人ならそういうとき、そういうことは言
わないだろうな思うような会話をすることも事実で、それがときには、衝突することもある。……
という話はここまで。

こういう微妙な話は、これ以上、書けない。ただ私がここで言えることは、日本国籍を取り、日
本で住んでいるなら、もう少し、日本人や日本の社会を信頼してほしいということ。仮に子ども
に問題があったとしても、今の日本人は、「X国人だから、Y国人だから……」というものの考え
方はしない。中には愚かな日本人がいて、差別意識をもっているかもしれないが、ほとんどの
日本人は、そうでない。だからあまり気負わないで、つまり肩の力を抜いて、日本人の社会に
溶け込んでほしい。少なくともこの日本では、過去の学歴社会は終わりつつある。かわって欧
米型の円熟社会になりつつある。日本の多くの親たちは、自分たちの過去を振り返りつつ、
「何が本当に大切で、何が大切でないのか」ということに、今、気づき始めている。自分たちの
価値観を、ストレートに日本の社会に持ち込むのではなく、もう少しだけ、謙虚な心で、日本の
子育て観に耳を傾けてほしい。でないと、結局は、居心地の悪い思いをするのは、私たちでは
なく、あなたやあなたの子どもたちということになる。
(03−1−31)※

(追記)X国人やY国人の人たちの子育て観をみていると、それはちょうど、三〇年前、四〇年
前に、欧米人が日本人にみた子育て観ではないかと思う。日本人は日本人で、無我夢中だっ
た。懸命だった。それはわかる。私の母とて、ある時期、狂ったように私をあちこち連れて回っ
たことがある。自分では本などまったく読んだこともない母が、である。こうしたおかしさは、ま
だこの日本にも残っているが、しかし今、日本人自身が、そのおかしさに気づき始めている。こ
の動きは、今後加速されることはあっても、後退することはない。

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【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

情報

 このところ北朝鮮が気になる。心配だ。そこで私は最近、軍事雑誌ばかり読んでいる。情報
を収集するためである。「いったい、北朝鮮の軍事力は、どの程度なのか?」と。

 しかし読めば読むほど、そして知れば知るほど、あまりのお粗末さに、あきれてしまう。たとえ
ば軍艦の数にしても、実戦能力のある船は、数隻しかないという。1975年竣工したフリゲート
艦「ナジン」、1955年ソ連より引き渡されたコルベット「トラル」など。しかも二〇年以上も前に
建造された老朽船ばかり。自衛隊が空撮した写真をみると、あちこちサビだらけ。「整備も悪い
ので、使いものにならない」とのこと。

 戦闘機のMIG29(最新鋭機)にしても、今、飛べるのは、たったの二機しかないそうだそうだ
(週刊誌)。あとは使いものならない旧式の戦闘機ばかり。しかも大半が部品不足で、飛べる
状態にはないという。また潜水艦だけはこのところ急ピッチで建造しているらしいが、ミゼット級
潜水艦で、潜水能力はたったの七〜八メートル(テレビ報道)。これでは潜水艦というより、もぐ
って進む小型戦闘艦といった感じだ。少なくとも、空軍力、海軍力をみるかぎり、日本の敵では
ない。恐れるに足りず。

 問題は、核兵器、細菌兵器、それに化学兵器。北朝鮮は、核兵器については五個、細菌兵
器や化学兵器については、大量に保有しているという。もちろんミサイルももっている。今、日
本人を不安にさせているのは、この部分である。しかし残念ながら、まったくといってよいほど、
情報がない。

 さらに不安にさせるのは、日本に潜伏している工作員たち。二〇〇人という説が一般的だ
が、一〇〇人という人もいる。北朝鮮からの暗号指令が、そのつど、二〇〇人分前後あるとい
うのが、その根拠になっている(重村智計著「北朝鮮データブック」)。またこのところ朝鮮総連
との関係がとりざたされているが、その朝鮮総連を隠れミノに、こういう連中が、どうやら好き
勝手なことをしているらしい。その工作員たちが、そのうち何をしでかすか、わからない。今の
北朝鮮をみればわかるが、まともな常識が通ずる連中ではない。一説によると、「そのとき」、
日本国内で、武装蜂起するかもしれないという。仮に東京駅構内で、天然痘の細菌をバラまか
れたら、どれくらいの被害者が出ることやら。数十万人から数百万人の死者が出ると予測する
人もいる。

 私たちは今、たいへんな危機的状況の中にいる。これはどう考えても事実で、私の憶測でも
妄想でも、ない。ただそういう現実が起きないことを願うばかりだが、しかし北朝鮮情勢は、ま
すます混沌としてきた。北朝鮮国内自体が、まさに壊滅状態。エネルギーがカットされた上(何
も、アメリカがカットしたのではない。今まで無償で援助していたのを、止めただけ)、経済はハ
イパーインフレの嵐の中。首都ピョンヤンでも凍死者が出るほどだという(週刊誌)。今年あた
りも、百万人単位の餓死者が出ると予測する人がいる。ああいう閉鎖国家だから、詳しい情報
は伝わってこないが、現実はかなり悲惨な状況らしい。

 ……と考えていくと、不安と安堵が、入りまざった感じになる。(だからといって、北朝鮮の人
たちが苦しんでいるのを、喜んでいるのではない。彼らとて、金正日とその取り巻きたちの犠牲
者にすぎない。誤解のないように。)

 要するに不安を取り除くには、情報しかない。それがよい情報であれ、悪い情報であれ、情
報を手に入れて、自分なりに分析する。……と書いて、「子育ても同じ」と書くと、まさに我田引
水ということになるが、そういう意味では、国際情勢も、子育ても、よく似ている。それほど違わ
ない。一つの参考にはなる。
(03−1−30)

●私の心得……そのときになったら、外出をひかえる。とくに中心部など、人ごみの多いところ
へは行かない。飛行機や電車に乗るのもひかえる。

(日本・北朝鮮データベース)

日本のGDP ……4兆1500億ドル(01年)
北朝鮮のGNP……   150億ドル(00年)

日本の国防費 ……   411億ドル(01年)
北朝鮮の国防費……    13億ドル(01年)

日本の海軍力 ……潜水艦       ……16隻
         ヘリ護衛艦      ……4隻
         ミサイル護衛艦A   ……9隻
         ミサイル護衛艦B  ……30隻
         護衛艦       ……10隻
         揚陸艦        ……5隻
         ミサイル艦      ……5隻
         機雷戦艦艇     ……31隻

北朝鮮海軍力 ……潜水艦       ……22隻
         ミゼット潜水艦   ……62隻
         フリゲート      ……3隻
         コルベット      ……5隻
         ミサイル艇     ……24隻
         機雷戦艦艇     ……10隻

●危機的な経済状況が長期にわたって続いており、過去二〇年間、ミゼット潜水艦以外の戦
闘戦艦の新造は、ほとんど確認されていない。就役中とされる各種戦艦も、性能面の老朽化
が著しい上、劣悪な整備状態にあると伝えられており、正規海軍としての実戦力は、極めて低
い。このような状況下では。工作船などによる特殊作戦の支援以外に選択肢がないのも当然
といえよう。(「世界の艦船」03年3月号より)

●日本には北朝鮮系の人やその子どもたちがたくさん住んでいる。しかしそういう人を責めた
り、攻撃しても、意味がない。意味がないばかりか、それをすれば、即、私たち自身もまた、あ
の金正日のレベルまで人間性を落とすことになる。またいくら彼らが祖国、北朝鮮を恋慕して
いるからといって、そのことと、一連の北朝鮮問題とは関係がない。ここにも書いたように、彼
らとて、金正日という独裁者とその取り巻きたちの犠牲者に過ぎない。今、日本人に求められ
ているのは、そういう人たちの悲しみや苦しみを理解することである。共有することである。決
して安易な反北朝鮮感情を振り回してはいけない。仮に北朝鮮と戦争をすることになっても、
敵は、北朝鮮ではない。敵は、私たち自身である。

    ┌┐
    │ト
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞





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