新規ページ007
はやし浩司のメインサイト マガジン過去版INDEX

《07》
 BOX(インターネット・ストーレッジ版)

BOX Essays 版 ……●
2002年 11月21日
2002年 12月29日
上記BOXへアクセスできないときは、直接……●

件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-21

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 521人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  82人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−21号(142)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子どもの見方・育て方」(Good avices in good time)

【1】子どもの学習(How to improve kids' ability)
【2】教育エッセー(Essays on Education)
【3】日々の雑感ほか(Day's Forum)
【4】子育て随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●動機づけで決まる、子どもの方向性

虫メガネをまず、私が使ってみせる。それを見ていて、子どもたち(幼稚園児)が、「見せて!」
「見せて!」という。しかしすぐには見せてはいけない。こう言う。「子どもは、がまんしなさい。こ
ういうのは、おとなが使うものだから……」と。で、しばらく私が、いろいろなものを見たあと、「こ
れは、すごい、へえ、これはすごい!」と。少し演技っぽく声を出してみせる。子どもたちは、今
度は、「見せろ!」「見せろ!」と言い出す。そうしてテンションを高めておいたあと、ころあいを
みはからって、「じゃあ、見せてあげよう」と言って、虫メガネを渡す。子どもたちは、ギャーギャ
ーと喜びながら、虫メガネをのぞく……。これを動機づけという。こうした動機づけが、うまくいく
と、子どもたちは、自分のもつ力で、前向きに伸びていく。そうでなければ、そうでない。

 それについて書いたのが、つぎの原稿。「週刊E'news浜松」に書いた記事から、転載する。

+++++++++++++++++++++

■連載:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 

●No.39「動機づけの四悪」

 子どもを勉強を遠ざける四悪に、無理、強制、比較、それに条件がある。能
 力を超えた学習を押しつけることを無理。時間や量を決め、それを押しつけ
 ることを強制。無理や強制が日常化すれば、子どもが勉強嫌いになって当然。
 さらに……。

 「A君はもうひらがな書けるのよ」とか、「お兄ちゃんはあなたの年齢のと
 きには、算数は一〇〇点ばかりだったのよ」というのを、比較という。この
 比較は一度クセになると、あらゆる面でするようになるから注意する。勉強
 嫌いになるだけならまだしも、子どもから「私は私」というものの考え方を
 うばう。

 日本人は本当に他人の目をよく気にする。長くつづいた封建時代の名残(な
 ごり)とも言える。他人と違ったことをすることができない。あるいは自分
 と違ったことをする人を、排斥する。そして幸福感も相対的なもので、「隣
 の人よりいい生活だから、幸せ」「隣の人より悪い生活だから、不幸」とい
 うような考え方をする。ここでいう「比較」というのは、そういう日本人独
 特のものの考え方と深く結びついている。

 つぎに「条件」。「成績があがったら、自転車を買ってあげる」「一〇〇点
 をとったら、お小遣いを一〇〇〇円あげる」など、何かの条件をつけて子ど
 もを釣るのを、条件という。この条件も、一度クセになると、習慣になるか
 ら注意する。が、それだけではすまない。条件が日常化すると、子どもから
 「勉強は自分のためにするもの」という意識をうばう。そして子どもが小さ
 いうちはまだしも、この条件はやがてエスカレートし、中学生になると、バ
 イク。さらに大学生になると、自動車となる。そうなればなったで、苦労す
 るのはあなた自身だ。実際、今、親に感謝しながら高校に通っている高校生
 はいない。大学生でも少ない。中には、「親がうるさいから大学へ行ってや
 る」と豪語する高校生すらいる。そうなる。

 子どものほうから何か条件をつけてくることもあるかもしれないが、そうい
 うときは、「あなたのためでしょ」とはねのける。こういう毅然(きぜん)
 とした態度が、結局は子どもを自立させる。

 ともかくも無理、強制、比較、それに条件は子どもを手っ取り早く勉強させ
 るにはよい方法だが、それだけに弊害も大きい。
(02−11−13)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


私立中学校の入試問題

 小学六年のK君は、今度、東京のA中学校を受験するという。分厚い問題集に取り組んでい
る。その中の一問。「我こそは……」と思う人は、チャレンジしてみてほしい。制限時間は、せい
ぜい、一〇分。

(問)クイズ番組で、10問のクイズに、12人の解答者が答えました。正解すると、1問につき1
点の点数がもらえ、最高点は10点で、最低点は4点で、どちらも1人ずつでした。また7点以
上の人は7人いて、その平均点は8点でした。7点以下の人は、9人いて、その平均点は6点
でした。解答者12人の得点をすべて、点数の高い方から順に書きなさい。

 一読しただけで、ギブアップした人も多いと思う。一度、学校から離れた人なら、なおさらだ。
しかもこの問題は、いわゆる教科書で習う数学の問題の、外にある。学校で習う数学が得意
だからといって、この問題が解けるとはかぎらない。私はその解き方を教えながら、いろいろな
ことを考えた。

●これはできる・できないをためす問題というよりは、頭のよさをためす問題といってよい。そ
れはわかるが、では、「頭のよさ」とは何か。
●そこで一〇人の小学六年生に、この問題を解かせてみた。うち二人は、考える前からギブア
ップ。三人がしぶしぶながら、問題に取り組み始めた。残りの五人は、「やってやる!」と飛び
ついてきた。こうした違いは、いったいどうして生まれるのか。
●解き始めたうちの一人は、頭をかかえて、押し黙ってしまったが、それとは対照的に、もう一
人は、適当に答えを入れて、ああでもない、こうでもないと言い始めた。考えるというよりは、脳
に飛来する、「カン」に頼っているというふうだった。こうした違いは、いったいどうして生まれる
のか。

 まず「頭のよさ」だが、問題に切り込んでいくタイプと、問題そのものから逃げてしまうタイプが
ある。問題に切り込んでいくタイプは、四方八方に触手をのばし、全体から問題をしぼり込んで
いく。遺伝子的な要素も無視できないが、切り込んでいくタイプは、考えることを、楽しんでいる
かのように見える。私自身は、考えることが好きだから、そういうときの子どもの心理がよくわ
かる。それはパズルを解くような楽しさといってもよい。つまり「頭のよさ」というのも、その子ど
ものもつ習慣(クセ)によって決まる部分が大きい? 

 つぎにいつまでも考えるタイプと、すぐギブアップしてしまうタイプがある。そこで登場するの
が、忍耐力ということになる。よく誤解されるが、「うちの子は、一日中サッカーをしているから、
忍耐力があるはず」と考える人がいる。しかしそれは、忍耐力とは言わない。好きなことをして
いるだけ。子どもにとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば
今、あなたの子どもに、台所の生ゴミを始末してほしいと言いつけてみてほしい。そのとき、あ
なたの子どもが、「ハイ」と言って、何のためらいもなくできれば、あなたの子どもは、忍耐力の
ある子どもということになる。すばらしい子どもということになる。

 もともと「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い日に、ラ
ンニングにでかけるようなものかもしれない。その苦痛を乗りこえる力が、忍耐力ということに
なる。その忍耐力がない子どもは、「いや」「できない」と言って、考える前から、問題を放棄して
しまう。言いかえると、考える子どもにするには、どこかで忍耐力を養っておく必要がある。その
忍耐力がないまま、子どもに勉強を強いると、それはその子どもにとっては、苦痛以外のなに
ものでもない。

 三つ目に、「カン」に頼ること。しかし「カン」は論理ではない。使い方をまちがえると、思考そ
のものが、乱舞してしまう。頭にひらめいたことを、つぎつぎと口にするため、そのときどきにお
いては、おもしろいことを言う。しかしそれが解答にはつながっていかないことが多い。ほかの
分野、たとえば芸術などの分野では、有効かもしれない。要はバランスの問題ということになる
が、しかし論理のともなわない「カン」は、危険でさえある。ときに、それまでにできかかった論
理を、メチャメチャに破壊してしまうこともある。

 さて、最初の数学の問題について。つぎのように考える。

(1)7点以上が、7人、7点以下が、9人だから、7点の人は、(7+9)−12=4(人)となる。
(2)10点が1人、7点が4人だから、9点、8点の人は、合計で2人。その2人の合計点は、7
×8−10−7×4=18(点)。18点になるということは、8点の人はいないことになる。つまり9
点が2人。
(3)同じように考えると、6点、5点の人は、4人。合計点は、22点となる。この組み合わせに
なるのは、6点が2人、5点2人しかない。
(4)だから答は、10、9、9、7、7、7、7、6、6、5、5、4点
 みなさんも、一度、あなたの子どもに、この問題を見せてみてほしい。あなたの子どもは、ど
のような反応を示すだろうか。もし、「よし、やってやる!」と言い、黙々と、取り組み始めたら、
解ける解けないは別として、それだけで、あなたは自分の子どもを、すばらしい子どもというこ
とになる。ほめてあげてほしい。そうでなければ、家庭教育のあり方を、かなり真剣に反省した
らよい。コツは、「なおそう」とか考えないで、「今の状態をより悪くしないこと」だけを考えなが
ら、数年単位で、「前よりよくなったかな」というような状態をつくりながら、子どもを前向きにひ
っぱっていく。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

無能な教師ほど、規則を好む

 イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。耳の痛い格言であ
る。

 もう一五年ほど前になるが、ある私立中学校の生徒手帳には、校則として、こう書いてあっ
た。「ブラジャーは、W社製のものはダメ……、前ホックのものはダメ……靴下は白で、模様の
線は一本まで……」と。

 今でも、こういうこまごまとした校則を決めている学校は少なくない。しかしブラジャーなど、だ
れがチェックするのか? 靴下の線の数など、それが教育とどういう関係があるのか? 当時
すでに、学校の風紀(この言葉は好きではないが……)が乱れ始めていたので、学校は学校な
りに頭を痛めていたのだろう。こういう問題は、どこかで歯止めをはずすと、一挙に、それこ
そ、洪水がなだれこむかのように、わけがわからなくなってしまう。とくにこの日本では、「自由」
の意味すら本当にわかっていない人が多い。だから「どんな服装でもよい」などと学校側がいう
と、「人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」という論理ばかりが先行して、あとはメチャメチ
ャになってしまう。

 それはわかるが、しかしこうした日本の常識も、世界では通用しない。私がオーストラリアへ
学生で行ったころは、向こうの高校生でも、大学生でも、ブラジャーを身につけている女子学生
など、ほとんどいなかった。みんな乳首の形を外へ出したまま、平気でブランブランさせてい
た。ミニスカートも流行していたが、歩いていても、座っていても、その下のパンティなど、隠そう
ともしなかった。性文化の違いといえばそれだけのことだが、なれない私は、最初のころは、目
のやり場に困った。

 もちろん多くのグラマースクール(寮生活を中心とした、私立の中高一貫校)には、制服があ
ったが、そういうところでは、靴下そのものまで制服化されていて、「線は一本まで……」という
問題はなかったように思う。仮にオーストラリアで、そうした校則を破れば、即、退学処分にな
る。「自由がない」というのではない。「自由というのは、それだけきびしいものだ」ということ。そ
ういう意識が、彼らには徹底していた。

 どちらにせよ、子どもをしばるには、規則は便利なものだが、しかし規則が多いということは、
それだけ子どもを信じていない、あるいは信じられないということになる。そして規則が多くなれ
ばなるほど、指導する側は便利だが、子どもにとっては、窮屈(きゅうくつ)な世界になる。が、
それだけではない。規則が多くなればなるほど、子どもは自ら考えるということをしなくなる。考
える力そのものを、奪ってしまう。そしてさらに、規則を口実に、責任のがれをするようにもな
る。「規則どおりしていたのだから、私の責任ではない」と、先日も、どこかの外務官僚が、そう
言っていた。北朝鮮からの脱北者が、中国にある、日本領事館に逃げ込んだときのことだ。

 学校はともかくも、家庭の中では規則はつくらない。それは家庭教育の鉄則と言ってもよい。
規則がないから「家庭」と言う。だから冒頭の格言をもじるとこうなる。
 『無能な親ほど、規則を好む』(失礼!)と。
(02−11−12)

●家庭の中では、規則をつくるのをやめよう。
●家庭の中では、たがいの信頼感で、たがいを律しよう。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

映画『シュレック』を見る

 息子がレンタルビデオ店で、『シュレック』を借りてきた。ちょうど夕食後で、何となく見始めて
しまったが、これがおもしろかった。すべてが奇想天外で、それでいて、ほのぼのとしたぬくもり
に包まれていた。すばらしい映画だった。私は書斎のパソコンに電源を入れたまま、結局、最
後まで見てしまった。ストーリーなどは、まだ見ていない人も多いと思うから、ここには書かな
い。しかし、ああいう映画を考え、実際に作ってしまうアメリカの映画産業には、ただただ脱帽。
拍手。感嘆。子ども向け映画とはいえ、一本、スジの通った哲学すら感じた。

 「文化」ということをいうなら、現在、アメリカ(USA)が、世界の頂点に君臨している。たとえば
これはひとつの例だが、アメリカで日本の本を出版しようと思うなら、一度、英語に翻訳しなけ
ればならない。それを出版するかどうかを決めるのは、アメリカ側である。しかしアメリカでひと
たび出版されると、その本は自動的にヨーロッパに入り、各国語にそれぞれ翻訳される。

 今のところ、アジアの中では、日本が頂点に君臨している。中国で本を出すときも、わざわざ
中国語に翻訳する必要はない。台湾にせよ、中国本土にせよ、日本語で書かれた本をもって
いけば、相手の国々が翻訳してくれる。そして一度、中国語に翻訳されると、その本は、東南
アジアも含めて、アジアの各国でそれぞれ翻訳されて出版される。

 こうした図式をまとめると、つぎのようになる。

 (アメリカ)→(日本)→(中国)→(東南アジア)

 私は日本人だから、こうした優位性は、アジアの中では大切にしたい。そしてできれば、アメ
リカにも優位でありたい。アメリカの出版社が、こぞって日本へやってきて、「どうかアメリカでも
出版させてほしい。ついては翻訳のほうはアメリカでする」と言ってくれるような時代がきたら、
すばらしいことだと思う。日本の文化人たちも、おおいに励まされることになると思う。

 さて、映画については、もう言わずもがな。アメリカ映画が、ほかの国々をダントツに引き離し
て、世界の頂点に君臨している。まさにアメリカ映画の独壇場ということになるが、それを迎え
撃つ日本映画の貧弱さを思いやると、何ともやりきれない気持ちになる。国策でも何でもよい
から、日本も国をあげてがんばらないと、このままでは、アメリカの一方的なひとり勝ちになって
しまう! つまり日本文化そのものが、アメリカ文化に駆逐(くちく)されてしまう! 何とかなら
ないものかと思うが、『シュレック』のような映画を、さりげなく作ってしまうアメリカには、どうす
れば対抗できるのか。もちろん日本もすばらしい映画を作っている。アニメ映画などは、世界で
も高い評価を受けている。しかし何といっても、数が少ない。世界へ出ていく映画の数というこ
とになると、すでに中国映画や、韓国映画にすら完全に負けている。好き嫌いもあるが、インド
映画にすら負けている。

 またまたグチになるが、道路や箱物建設はもうよいから、日本政府も、もう少し「文化」のほう
に、予算を回したらどうなのか。このままではますます差がついてしまう。日本政府は、たとえ
ば第二東名高速道路に、一一兆円(総事業費10兆7600億円)という膨大な予算をつけてい
るが、そういう高速道路を作ったところで、いったい、いくらのお金が日本へ入ってくるというの
か。またそれでどれだけの日本の文化が高揚され、世界に輸出できるというのか。日本もこう
いう時代になったのだから、そろそろ中身の充実を図らねばならない。

 言うまでもなく、国の優劣は、文化の高さで決まる。民族としての誇りも、そこから生まれる。
昔、日本列島改造論が華やかりしころ、全国に、いわゆる土地成金と呼ばれる人が続出した。
そういう人たちの家を訪れてみると、御殿のような立派な屋敷の中に、キジや鹿の剥製(はくせ
い)を並べてあった。鎧(よろい)かぶとを並べている家もあった。が、肝心の家主は……(この
部分は、書けない)。しかしいくら立派な、御殿のような家に住んでいても、それをもって、その
人がすばらしい人とは、言わない。人間の優劣は、もっと別の視点から判断されるべきであ
る。同じように、国の優劣も、もっと別の視点から判断されるべきである。
 
 だからといって、アメリカ文化が優秀だとか、すぐれているとは言いたくない。しかしアメリカ人
は、そう思っている。うぬぼれていると言ってもよい。オーストラリアの友人も、ときどき、メール
でそう書いてくる。「オーストラリアは、もう完全にアメリカの支配下に入ってしまった。いつもア
メリカのあとばかりを追いかけている」と。日本は彼らにとっては異文化であるがゆえに、そこ
まではアメリカに侵襲されてはいない。しかしもう、風前のともし火(?)。『シュレック』を見て、
おもしろいと思ってしまっただけに、その感がますます強くなった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


ハラ・ドキ・ストレス

 私はプロバイダーのウィルス・チェック・サービス(VCS)を受けている。そのため送信するメ
ール、受信するメール、すべてがその対象になる。またパソコンごとに、それぞれウィルチェッ
クのソフトを入れている。さらにパソコンを、ホームページ作成用、メール用、仕事用と使い分
けている。が、それでも、こんな事件が起きた!

 ある日、いつものようにメールを開くと、プロバイダーから、「ウィルスメールが届きました。削
除しました」と。そこでそのモを開くと、何と、差し出し人は、何と「この私」!

 ウィルスの種類は、「W32・Kxx」というのだ。驚いてプロバイダーに連絡すると、すぐ調べて
くれた。その結果わかったことは、こうだ。

 だれかのパソコンにウィルスが侵入した。そのウィルスが、そのパソコンの中にあった私のメ
ールアドレスを盗み、それを差し出し人にして、あちこちにウィルス入りのメールを発信した。そ
の一つが、私のところにもきた。「多分、そうではないか?」とは思っていたが、実際、こういう
事件が起きると、それから受けるストレスはたいへんなものだ。もし私のパソコンが原因だった
ら……と、いろいろと考えてしまった。

 こうしたストレスは、恐らく人類が、コンピュータ時代になってはじめて経験するものではない
か。ハラハラドキドキの、「ハラドキ・ストレス」だ。昔もあるにはあったが、もっとゆるいテンポの
中で、それがあったと思う。今のように、ものごとが何でも、瞬時、瞬時に動いてしまうということ
はなかった。そのためハラドキストレスが、高密度になった?

 しかしそのため、コンピュータとのつきあい方を誤ると、精神そのものがおかしくなる。実際、
おかしくなった人はいくらでもいる。いや、その前に、「コンピュータはもうこりごり」といって、や
めてしまう人も多い。私も、ウィルスが入るたびに、リカバリーを繰り返し、そのたびごとに、精
神がおかしくなってしまった。もともと精神がタフでないから、そうなる。症状としては、つぎのよ
うなものがある。

☆アドレナリンの異常分泌……急激に強いストレッサー(ストレスの原因)が与えられると、副
腎髄質からアドレナリンの分泌が高まる。その結果、脳や筋肉の活動を高めるため、酸素を
すみやかに送ろうと、心拍が高くなる。動悸がはげしくなるのは、そのため。まさに冷や汗をか
くような状態になり、精神が緊張状態になって、ピリピリしてくる。

 しかしこれも「なれ」の問題。何度も経験していると、免疫性ができてくる。リカバリーするの
も、どこか事務的になってくる。めんどうはめんどうだが、「またか……」という思いだけで、すむ
ようになる。しかしw32のようなウィルスは、困る。瞬時に、メールアドレスにあるすべての人に
迷惑をかける。たいていはそのパソコンの中の、ファイルを破壊したりする。だから困る。

 それにしても、いつまでこのハラドキストレスは、つづくものやら。パソコン歴だけは、もう三〇
年近くになるが、このハラドキだけは、一向になくならない。ワープロが出回ったときも、かなり
の分量の原稿を書いたところで、コンセントがはずれてしまったことがある。そのときも、冷や
汗をかいた。昔なら、機械を分解して、自分でなおすということもできたが、パソコンではそれも
できない。それだけに余計にハラドキストレスがたまる。まあ、そういうものだという前提で、こ
の機械とつきあうしか、ないようだ。みなさん、いっしょに、あきらめよう!


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。
 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。
 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。
 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。
 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男
の子は、エディプスコンプレックスの支配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は
成長とともに、母親を欲するあまり、ライバルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児
が、父親を欲して、母親をライバル視するということも、これに含まれる。)

 私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本
ではそのまま当てはめて考えることはできない。その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米
のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるい
は女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく進む。現代の日本が、そういう状態になりつ
つあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そのものが、ぼやけてくる。つまり「母親
を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。現に今、小学
校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」という、逆転現象
(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、当たり前にな
っている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろ
な意味において、明確ではない。少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違
う。だから男児にしても、ばあいによっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視すること
もありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。また親なら子どもを愛しているはず、子ども
ならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる「ハズ論」にしても、それをすべての人に当て
はめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なく
ない。

 ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそば
の、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置
いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするは
ずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝動にから
れた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆ
がんだ嫉妬心だ。そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかっ
たのを覚えている。「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そ
ういう意味では、私にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。
(02−11−12)

●夫婦が仲よすぎるのも考えもの? ひょっとしたら、あなたの子どもは、そういうあなたたち
夫婦を見ながら、さみしく思っているかもしれない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(307)

人間のコース

 あなたの頭には、どういうコースが入っているだろうか。それを知るためには、まずあなた自
身が、どのようなコースを経て、今に至(いた)ったかをみればよい。あなたは、つぎの三つのう
ちの、どれに近いコースを歩んできただろうか。

(1)しっかりコース……小学校、中学校、高校、大学、就職と、まあまあ順調に進んできた。そ
の途中でも、ほどほどの成績だった。学校を長期にわたって休んだこともないし、そういう意味
では、親にとっては、楽な子どもだったと思う。
(2)乱れコース……ときどき長期にわたって学校を休んだことがある。何か、事件を起こして、
そのつど、学校に呼び出されたこともある。あまりまじめな子どもとは言えない。勉強は嫌いだ
ったし、どこかツッパッて生きてきた。就職先も苦労したし、今もその延長線上にある。
(3)メチャメチャコース……学校を退学になりそうな事件を起こしたこともある。長期欠席は、
よくした。転校も経験した。あるいは退学になったことも。定職など、考えもしなかった。そういう
意味では、自分の過去は、今に至るまで、メチャメチャだった。

 問題は、(1)のような過去をもっている人である。(2)や(3)ではない。(1)だ。こういう人は、
無意識のうちにも、自分の頭の中に、「あるべきコース」をつくってしまう。それ自体は悪いこと
ではないが、今度は、自分が親になったとき、同じように無意識のうちにも、自分の子どもを、
そのコースの中に、当てはめようとする。そして子どもが、同じように順当に、そのコースの中
に収まればそれでよいが、そのコースからはずれたとき、それに対処できなくなってしまう。

 一般論からいえば、少年期から青年期にかけて、サブカルチャに触れた子どもほど、それか
ら立ちなおったとき、より柔軟性のある常識人になる。「サブカルチャ」というのは、日本語に訳
すと、「下位文化」のことをいう。その時代の支配的文化に対して、非行など、ある特定の集団
的文化のことをいう。むしろそういうサブカルチャを経験することなく、「いい子」で終わってしま
った子どもほど、あとあと、おとなになってから、いろいろな問題を起こすことがわかっている。
だからといって、サブカルチャを肯定するわけでもないし、子どもに非行をさせろということでも
ない。

しかし同じ親でも、若いころ、挫折し、失望し、さまざまな悩みを経験した親ほど、子どもに対し
て柔軟性をもつ。仮に子どもがある日突然、「学校へ行きたくない」と言っても、「あら、そう。無
理して行くことないわよ」と言ってすますことができる。こういうおおらかさが、子どもの心に風穴
をあける。

 そこであなた自身は、どうかを考えてみてほしい。もしあなたが(1)のようであったとするな
ら、あなたはほかのコースを知らないだけに、狭い料簡(りょうけん)で、子育てをしてしまう危
険性がある。確率からいけば、成功するより、失敗する可能性のほうが高い。このことは、私
のエッセーをとおして、これからも何度も説明することになると思うが、人間には、もともとコー
スなどない。あるはずもないし、またあってはならない。もしそのコースがあるとするなら、それ
はそのときどきに、カルチャ(上位文化)が、自分たちにつごうがよいように、勝手に決めただ
け。子どもの可能性は、もっと大きく、その進むべき道は、もっと柔軟性に富んだものである。
そういう観点から、もう一度、子どもの世界をながめてみる。これはあなたのためというより、ま
たあなたの子どものためというより、あなたと子どもの絆(きずな)を太くするためである。
(02−11−12)

●子どもをコースに押し込めてはいけない。親は、そのつどすべきことはするが、その限度を
超えてはいけない。また親ができることには、限界がある。その限界に謙虚になることこそ、子
育てで失敗しないためのコツである。


      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-23

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 521人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  83人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−23号(143)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子育てポイント」(Good and timely advices)

【1】子育てポイント(Good advices for your parenting)
【2】子育て失敗危険度(Are you OK?)
【3】随筆 (Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育てポイント

●命令より、理由づけ

 子どもに指示を与えるときは、命令より、理由づけを大切にする。「手を洗いなさい」ではな
く、「手が汚れているね。どうしたらいい?」と。「歯をみがきなさい」ではなく、「歯をみがかない
と、虫歯になるわよ」と言う。

 日本語の特徴というか、日本では、子どもに指示を与えるとき、どうしても命令口調になりや
すい。一方、英語国では、命令口調が少なく、反対に、理由づけが多い。仮に英語国で、子ど
もに何かを命令したりすると、反対に「命令しないで」と言い返されたりする。私も昔、オーストラ
リアにいたころ、ガールフレンドに何かのことで命令したことがある。そのとき、私は「私はあな
たの奴隷ではないから、命令しないで」と言われてしまった。
 
 そこであなたの今日、一日の会話を思い出してみてほしい。あなたは子どもと、どんな会話を
しただろうか。そしてその会話はどんなものだっただろうか。親意識が強く、権威主義的な親ほ
ど、子どもに対して、命令口調が多くなる。さて、あなたは、どうか?


●文字学習の前に、正しい発音

 世界広しといえども、幼児期に発音教育をしない国は、それほどない。が、この日本では、そ
の発音教育を、ほとんどしない。あるいはあなたは保育園や幼稚園で、発音教育をしている先
生の姿を見たことがあるだろうか。

 たまたま先ほども、わらび餅売りの車が家の前を通り過ぎた。隣のT市(愛知県)からやってく
るわらび餅売りだが、T市の人たちは、独特の発音をする。「わらび〜もち、早く来ないと、いっ
ちゃうよ〜」と言うのだが、それが、「ウェラビィー、メォチ〜、ヒェヤクゥ〜、コネエェ〜ト、イッチ
ャウイヨ〜」と聞こえる。

 こういう発音を、一方で野放しにしておいて、子どもに向かって、「正しく書きなさい」はない。
ちなみに、「昨日」を、「きのう」と正しく書ける年長児は、ほとんどいない。たいていは、「きの
お」「きの」「きお」とか書く。そういうときは、一度、一音ずつ音を区切って発音してみせるとよ
い。「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンとたたいてみせるとさらに効果的。

 ただしい発音は、文字学習の基礎である。文字学習に先立って、あるいは、文字学習と平行
してするとよい。口をしっかりと動かしながら、息をしっかり吐き、一音ずつ区切って言うとよ
い。


●文字は使って生きる

文字の目的は、「書くこと」ではない。「自分の意思を伝えること」である。こんなわかりきったこ
とが、この日本では、逆転している。たとえばどうしてこの日本には、いまだに、トメ、ハネ、ハラ
イが、あるのか。その上、書き順まである。ある程度の約束ごとは大切なことだが、しかしそれ
ばかりにこだわっていると、肝心の「自分の意思を伝えること」が、おろそかになってしまう。

 もちろんだからといって、トメ、ハネ、ハライ、それに書き順を無視してよいというのではない。
ただそれにも程度というものがある。それにこうまで情報化時代が進んでくると、「書く」という意
味そのものが変わってくる。たとえば私はこうして文章を書いているが、すべてパソコンを使っ
て書いている。

 こういうことを言うと、「日本語の美しさがそこなわれる」と反論する人が、必ずといってよいほ
どいる。「子どものころ、正しい書き順を教えておかないと、あとがたいへん」と言う人もいる。し
かし三〇年ほど前、こんな議論もあった。

 当時、「今どきの子どもは、ナイフで鉛筆も削れない」と、よく批評された。そのとき私はこう反
論した。「ナイフで削らなくても、鉛筆削りがある。鉛筆削りで削れば、ずっと早く削れるし、時間
も節約できる。鉛筆を削るときは、鉛筆削りを使えばよい」と。

 これはナイフの話だが、その時代ごとに、こうした議論が、打ち寄せる波のように、それぞれ
の分野で起こっては消える。このトメ、ハネ、ハライも、そのひとつかもしれない。(あるいはそう
でないかもしれない?)私は個人的には、もう書き順も、適当でよいのではと思っている。


●もとの木阿弥

 『もとの木阿弥(もくあみ)』という言葉がある。いろいろやってはみたが、結局は、もとに戻っ
てしまうという意味である。苦労や努力が、水のアワになってしまうことをいう。

 子育てをしていると、そういう状況によく陥(おちい)る。私の世界でも、こんなことがあった。

 小学三年生の子どもだったが、まだ掛け算があやしかった。そこで小学二年生のクラスに入
れてみた。その子どもは、それまで「算数は、わからないもの」と思っていたらしい。しかし一年
レベルをさげたことで、むしろ生き生きと勉強し始めた。で、半年もすると、その勢いもあって、
やがて何とか、小三レベルの学習も、こなすようになった。そこで私は小三クラスへ移した。
が、そのとたん、親の無理が始まった。

 親は、「もっと、もっと……」と、子どもに勉強を強いるようになった。ワークブックもどっさりと
買い込んだ。とたん、その子どもは、オーバーヒート。かえって前よりも、勉強嫌いになってしま
った。そして一度、こういうつまづき方をすると、二度目がない。四年生になったとき、親のほう
から、「もう一度、学年をさげて教えてみてほしい」と言ってきたが、子どもがそれを受けつけな
かった。そしてそのまま私の実験教室へこなくなってしまった。

 子どもには子どもの「力」がある。その力を見極め、ほどほどのところであきらめるべきこと
は、あきらめる。この「あきらめ」が、子どもの心に穴をあけ、子どもを伸ばす。子育てをしてい
て、あきらめることを恐れてはいけない。でないと、結局は、『もとの木阿弥』になってしまう。

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

おとなになりたくない!

すばらしいと言え、親の仕事(失敗危険度★)

●どうしたらいいか
 こんなことがあった。その息子(高一)が、家業である歯科技工士の仕事を継ぐのをいやがっ
て困っているというのだ。そこで「どうしたらいいか」と。

 今、子どもたちの間で、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりという奇妙な現象が起きている。
自分の将来に不安や恐怖心をもつと、子どもはおとなになるのを無意識のうちにも拒否するよ
うになる。そして幼児期に使ったおもちゃや本を取り出し、それを大切そうにもちあるいたりす
る。一人の小学生(小六男児)が、ボロボロになったマンガの本をかばんの中に入れていたの
で、「それは何だ」と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうちぇ、読んではダメだと言う
んでチョ、言うんでチョ」と。この子どものケースでは、父親に原因があった。父親はことあるご
とに、「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ」「毎日五、六時間は勉強しなければならないぞ」
と、その子どもをおどしていた。こうしたおどしが、子どもの心をゆがめていた。

●「ペコペコする仕事なんか、いやだ」
 で、私は先にあげた高校生を家に呼んで、理由をたずねてみた。するとその高校生はこう言
った。「あんな歯医者にペコペコする仕事なんか、いやだ。それにオヤジは、いつも『疲れた、
疲れた』と言っている」と。

 そこで私は母親にこう話した。「これからは子どもの前では、家の仕事は楽しい、すばらしい
と言いましょう」と。結果的にその子どもは今、歯科技工士をしているので、私のアドバイスはそ
れなりに効果があったのかもしれない。

●未来に希望を!
 子どもを伸ばす秘訣は、未来に希望をもたせること。あなたはすばらしい人になる、あなたの
未来はすばらしいものになると、前向きの暗示を与える。幼児でもそうだ。少し前、『学校の怪
談』というドラマがあった。そのため「小学校へ行きたくない」という子どもが続出した。理由を聞
くと、「花子さんがいるから」と。やはり幼児には、「学校は楽しいよ」「友だちがいっぱいできる
よ」「大きな運動会をするよ」と、言ってあげねばならない。そして……。

 子どもには、「お父さんの仕事はすばらしいよ」と言う。いや、言うだけでは足りないかもしれ
ない。生き生きと楽しそうに仕事をしている前向きの姿勢をどんどんと見せる。そういう姿勢が
子どもを伸ばす。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



考えるだけムダ?

思考と情報を混同する日本の教育(失敗危険度★★)

●何も考えていない
 思考と情報の加工は、まったく別のもの。たとえばこんな会話。A「今度の休みにはどこかへ
行くの?」、B「そうだな。伊豆へでも行こうか」、A「伊豆なら、下田まで足をのばしたら」、B「そ
れはいい……」と。

 このAとBは、一見考えているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に
蓄えられた情報を、そのつど加工して外に出しているにすぎない。しかしふつうの人は、こうい
うのを「思考」と誤解している。錯覚と言ってもよいかもしれない。

●思考には苦痛がともなう
 思考にはある種の苦痛がともなう。それは複雑な数学の問題を解くような苦痛である。だか
らたいていの人は、無意識のうちにも、できるだけ思考するのを避けようとする。あるいは他人
の思考をそのまま受け入れてしまう人がいる。カルト教団の信者がそうである。徹底した上意
下達方式のもと、「上」からの思想をそのまま脳の中に注入され、彼らはそれを自分の思想と
錯覚している。それはちょうど教えられるまま、英会話を暗記している幼稚園児のようなもので
ある。「ハウ・アー・ユー?」と言ったりすると、即座に「アイ・アム・ファイン」と答えたりする。英
語をペラペラと口にすると、見たところ賢い子どもに見えるが、その実、意味など何もわかって
いない。何も考えていない。いわんや英語ができる子どもということにはならない。

●賢い子どもとは
 そういう視点で子どもの世界をのぞくと、また別の見方ができる。たとえば年中児にもなると、
本をスラスラと読む子どもが出てくる。一見、国語力のある子どもに見えるが、その実、その本
の内容はほとんど理解していない。ただ文字を音に変えているだけ。

 あるいはたいへんもの知りの子どもがいたとする。口だけは達者で、まさにああ言えば、こう
言う式の反論もしてくる。しかしだからといって、その子どもは頭のよい子ということにはならな
い。賢い子どもということにもならない。もっと言えば、情報が多いからといって、思考力がある
ということにはならない。

●思想は宝石のようなもの 
先にも書いたように、思考するということは、それ自体たいへんなことである。そして思考をした
からといって、何かの「考え」にたどりつくことができるとはかぎらない。それはちょうど砂場の中
で、小さな宝石を見つける作業に似ている。まさに見つかればもうけものという世界。だからこ
れまたたいていの人は、「考えるだけムダ」と考える前に、考えることをやめてしまう。

 話は飛躍するが、日本の教育の最大の欠陥は、「思考」と「情報」を混同し、情報を与えるこ
とを教育と誤解している点である。このことは日本という島国を一歩離れてみるとすぐわかるこ
とだが、それについてはまた別のところで書く。
(1312)
    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(311)

自己中心性と盲目性

 自己中心的になればなるほど、盲目性が現れる。病的な自己中心性は、精神そのものを病
んだ人によく見られるが、それを薄めた形での自己中心性は、程度の差こそあれ、たいていの
人に見られる。

 もともと自己中心性は、過信、誤解、独断、偏見、偏屈、がんこという、その人本来の性質の
上に、社交回避、社会性の欠落などが重なって、その人の「思い込み」によって始まる。たいて
いは妄想性を伴う。

 何年も前のことだが、一人の母親が、突然、私のところへきて、こう叫んだ。「あなたは、息子
がしたプリントで、まちがっているのに、丸をつけている。これはどういうことか!」と。一見、穏
やかそうな声だったが、その裏に、燃えるような怒りを感じた。見ると、まちがえた個所には、
紙で切り張りがしてあって、子どもの字で、正しい(?)答が書きこんであった。そこで私が、「子
どもが一生懸命したら、それでいいではないですか。多少、まちがっていても、一生懸命したこ
とをほめるために、丸をつけます」と言うと、「そんないいかげんなことを!」と、今度は本気で
怒り出してしまった。子どもの方を振り向くと、その母親は、こう叫んだ。「あんたは、こんな問
題もできないの!」と。

 このケースでも、母親は、自分の教育法が絶対正しいと思い込んでいる。そしてその思い込
んだ分だけ、他人の話に耳を傾けない。もう一つの例だが、こんなこともあった。

 あるワークブックの検討会でのこと。私も含めて、何人かの小学校教師がそこにいた。私た
ちはある出版社で、新しいワークブックを企画していた。机の上には、他社が制作した、二〇
冊近いワークブックが並んでいた。それを見ながら、その中の一人が、突然、こう言い出した。

 「このワークブックには、自分でつくる問題が含まれていない。だからこのワークブックは失格
だ!」と。

 たとえばよく現場では、子ども自身に、「4たす5の問題になるような、話を考えてごらん」と子
ども自身に、問題を考えさせることがある。その教師は、そういった問題がないから、「このワ
ークブックはタダメだ」と。そしてつぎつぎと、「このワークブックもダメ」「しかしこのワークブック
には、それがあるからいい」「このワークブックもダメ」と。
 
 ものの見方が、近視眼的というか、狭いというか、ほかにもその教師はいろいろ言ったが、話
を聞いているうちに、私は何ともいえない、閉塞(へいそく)感を覚えた。こうしたワークブックを
評価するときは、いろいろな角度から検討し、評価しなければならない。たとえそれが重要な部
分ではあっても、決してすべてではない。

 こうした自己中心性が強ければ強いほど、当然のことながら、社交範囲が狭くなる。それだ
け許容範囲が狭くなる。あるいは社交範囲が狭くなるから、自己中心が強くなるということもあ
る。しかしそれは、その親だけの問題に、とどまらない。当然のことながら、自己中心性が強く
なればなるほど、子どもに対しては、何かにつけて押しつけがましくなり、それが原因で、親子
関係を破壊することも多い。このタイプの親は、子どもに向かって、「ダメ」「いけない」「〜〜し
なさい」という命令口調が多いので、それがわかる。何でも、子どもを自分の思いどおりにしよ
うとする。

 こうした自己中心性を防ぐためには、親自身が心の風とおしをよくしなければならない。その
ためには、いろいろな会にでたり、いろいろな活動をしなければならない。……ということになる
が、実際には、そう簡単なことではない。この先のことはまだよくわからないが、自己中心性の
問題は、もう少し根が深いように思う。いろいろな活動をよくしている人でも、自己中心的な人
はいくらでもいるし、活動をしていなくても、そうでない人もいくらでもいる。このつづきは、また
別の機会に考えてみる。
(02−11−15)
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(312)

大和なでしこ

 「大和なでしこ」とはいうが、世界へ出てみると、同じ女性でも、まったく異質なことがよくわか
る。たとえば「強い」と言えば、中国の女性。夫婦喧嘩(げんか)でも、夫が妻に暴力を振るうと
いうよりは、妻が夫に暴力を振るうというケースが、多い。夫が逃げ回るということも、よくある
そうだ。そう言えば、中国の女性は歩き方も、どこか男性的。肩をいからせて歩く人が多い。こ
れはあくまでも私の印象だが……。

 もっともこうしたケースは、日本でもふえてきた。しかしその原点として、夫婦についての考え
方そのものが違う。たとえば中国では、夫婦でも、金銭感覚がたがいにたいへんシビア。夫が
稼いだものは、夫のもの。妻が稼いだものは、妻のものという考え方をするらしい。日本では、
一度、混在させ、そこから共同で使うという方式をとるところが多い。「夫のお金、妻のお金」と
いう考え方を、あまりしない。

 で、オーストラリア人をあちこち案内しているとき気づいたが、オーストラリア人は、レストラン
へ入って、勘定をすますとき、たいてい夫のほうが払う。そういうオーストラリア人から、ある
日、反対に質問された。「どうして、日本では妻が払うのか」と。そこで何人かの人に聞いてみ
たが、日本でも最近は、夫が払うケースもふえているそうだ。で、私も聞いてみた。「どうしてオ
ーストラリアでは、夫が払うか」と。

 そのオーストラリア人は大学の教授をしているが、こう話してくれた。「オーストラリアでは、夫
の地位が低い。だからサイフを握ることで、夫は、自分の地位を確保している」と。たとえば家
計についても、そのつど妻が請求し、その額を夫が払うというしくみをとっているという。その教
授だけの意見で、そう決めつけるのは危険なことだが、しかし欧米では、たいてい夫が払う。ア
メリカでもイギリスでもそうだ。ほんの少し前も、アイルランドから帰ってきた人がいたので聞い
てみたら、アイルランドでも、そうだそうだ。

 一言で、「家族」というが、そのしくみは、国によって、かなり違うようだ。そして当然のことなが
ら、意識も違う。日本式の家族観は、決して、世界の標準ではないし、一方、世界の標準を、
日本の家族に当てはめることはできない。それぞれの国には、ぞれぞれの家族観があり、そ
れぞれの国には、よい面もあれば、悪い面もある。ただこの時点で注意しなければならないの
は、日本の家族観が世界でも最高であるという見方だけはしてはいけないということ。

 ……と言いつつ、なんと言っても、生まれ育った国の家族観が、その人にとっては、もっとも
居心地がよい。私もそうだ。そういう家族観の中でみると、私にとっては日本の家族観が、一
番体に合っている。夫婦についてみても、私は男だから、どうにもこうにも中国式の家族観は、
私には合わない。……と、考えて、またまた、では、日本の女性たちは、それでよいのかという
問題にぶつかる。仮に、こんな世界を想像してみよう。

 その国では、妻の「力」だけが、やたらと強く、主に妻が働きに行き、夫は家で家事をしてい
る。そして夫は、妻が仕事から帰ってくるのを待って、食事を用意する。そこへ妻が帰ってくる
と、居間の中央にデーンと座り、夫にこう言う。「おい、あんた、お茶!」と。それを聞いた夫は、
しずしずとお茶を用意し、「ごくろうさま」と言う。が、お茶が少しぬるかった。それを見て妻が、
こう怒鳴る。「何よ、このお茶は!」と。

 もし私のワイフが、そういう女性だったら、私は一も二もなく、離婚する。まちがいなく離婚す
る。離婚して、自分の人生を生きる。

 ……というところで、またオーストラリアに話を戻す。一〇年ほど前だろうか、オーストラリアの
若い女性(二五歳くらい)と、このことについて話しあった。その女性は、こう言った。「オースト
ラリアでは、夫が妻に、『ヘイ、ティー!』などと言おうものなら、それだけで離婚事由になる。し
かし実際には、そういう夫はいない」と。

 で、そのあと、ことあるごとに、オーストラリアの友人に話を聞いてみると、中には、「ヘイ、ティ
ー!」と、妻に言う夫もいることがわかった。「まったく、いないわけではない」とも。しかしさらに
話を聞くと、意識のレベルそのものが違うということがわかってきた。「たまには、そういう言い
方をするときもある」ということらしい。

 ……ここまで書いて、「やっぱり、日本はいい国だ」と書くつもりはない。ないが、しかしときに
は、世界を見て、男女の立場を逆転させて、ものを考えるということも、大切なことかもしれな
い。自分の姿がよりよく見えてくる。
(02−11−16)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(313)

ストーカー

●ストーカー
 もうあれから何年になるだろうか。私も、ある女性(当時三五歳)にストーカーをされて、困っ
たことがある。親切の押し売りというか、その女性は、頼みもしないのに、あれこれと私の世話
をしてくれた。どこでどう調べたのかはわからないが、私がアルバイトでしていた家庭教師先ま
で知っていて、ある夜、それが終わると、その女性は、外に立って、私を待っていた。手にはカ
サをもっていた。驚いて「何か?」と声をかけると、「雨が降ってきたので、もってきました……」
と。

 こういうことが重なると、心底、肝を冷やす。が、それからもストーカー行為は断続的に、続い
た。相手は、いつも、偶然会ったというような体裁をつくりながら、私の周囲にまとわりついた。
当時、私はすでに結婚していたし、相手の女性には、夫も子どももいた。で、ワイフに相談する
と、「相手の夫に話したら」ということになった。が、本当に「偶然かもしれない?」という迷い
が、まだどこかに残っていた。

 そんなある日、何かの大会があって、生徒たちの競技会の応援にでかけたときのこと。帰り
道、ふと見ると、その女性がニコニコ笑いながら、そこに立っていた。これにも、実のところ、心
底ゾーッとした。で、足早に逃げようとすると、すぐあとを追いかけてきた。で、歩調をゆるめ
て、私はこう言った。「これ以上、私につきまとったら、すべてあなたの夫に話しますよ」と。とた
ん、その女性は、私の視界から消えた。

 が、このあとから、事件が起きた。こんどは、いやがらせが始まったのだ。あることないこと、
悪口を言いふらすようになった。一番困ったのは、私がほかの女性と不倫をしているといううわ
さだった。そのほか、職場にとめておいた、自転車に穴をあけられたこともある。(これについ
ては、その女性がしたとは断言できないが、状況証拠はいくつかある。)もっとも、その女性が
言ったことぐらいのことでは、私にはほとんど影響がなかった。が、そのときから、私は、女性と
いうより、人間が本性的にもつ問題を考えるようになった。

●こうした愚劣さの原因は?
 私を好いてくれる女性は、実のところ、めったにいない。顔が顔だし、スタイルも悪い。ムード
もなければ、センスもない。が、その女性は、私のどこが気に入ったか、私を好きになった
(?)。しかし私は、それを拒絶した。その瞬間、愛情が、嫉妬にかわり、さらにそれが憎しみに
変わった(?)。しかしこのタイプの憎しみは、執拗(しつよう)につづく。私のばあいも、その女
性の「カゲ」が消えるまでに、半年近くもかかった。

 問題は、では、なぜ、人間は、ときとして、そうした愚劣なことをするか、である。動物的とは
言うが、動物だって、そこまでしない。しかし知的生物であるはずの人間はそこまでする。なぜ
か。

 私はこう考えた。あくまでも仮説だが、人間には、もともと、そういう本性がある。そしてそれ
が、何らかのきっかけで、呼び起こされる、と。脳の欠陥というよりは、脳の機能障害によるも
のである、と。もっと言えば、ストーカー行為をする人にしても、嫉妬に狂って、それが憎しみに
変わったとき、その人の脳は変調する、と。わかりやすく言えば、心の病気にかかった、と。だ
から、こうした人たちに、「まともな話」をしても、意味はない。まともな話そのものが、通じない。
理解できない。「病識」そのものがない。病識というのは、自分が病気であるという意識である。
それはちょうど、風邪をひいて熱を出している子どもに向かって、英語を教えるようなものだ。

 と、考えると、今度は、自分の問題になってくるのがわかる。「心の病気」ということになると、
私も、あなたも、そういう状況になれば、「病気」になるかもしれない。私だけが無縁ということ
は、ありえない。この文を読んでいる、あなただってそうだ。そこで病気に対して、健康診断が
あるように、実は、心についても、似たような健康診断があっても、よいということになる。その
方法はあるのか。また、それは可能なのか。またそれを防いだり、治療するには、どうしたら、
よいのか。

●心の健康診断
 私はここまで書いて、ある事実に気づいた。中国語には、「瞑想(めいそう)」という言葉があ
る。「沈思黙考」という言葉もある。私は、瞑想にせよ、沈思黙考にせよ、それが重要なものだ
とは、あまり考えたことがなかった。若いころ、禅道場で、座禅の修業をしたことがあるが、そ
のときの印象が、あまりよくなかったこともある。しかし今、ハタと、瞑想の重要さに気がつい
た。

 心の健康診断をするには、静かな環境の中で、静かに自分を思いやるのがよい? しかも
その時間は、ある程度長いほど、よい? 心理学の世界では、チェックテスト方式による自己
診断テストというものをする。しかしそれでは、すべての「心の病気」には、対処できるとはかぎ
らない。心の病気は無数にあり、またそれぞれが無数に形を変える。しかし瞑想すれば、自分
で、心の変調に気づくことができる。
 
 方法としては、まさに座禅がある。その座禅だが、「禅」の目的は、本当のところは何も知らな
い。縁があって、福井県にある永平寺へは、何度も行ったことがある。そこで何度も説明を受
けたことがある。しかし本当のところは何もわかっていない。そのわかっていない私が、「禅」に
ついて、安易な解釈を加えることは許されない。しかしひとつの目的として、禅の中には、そう
いった方法が、すでに、組み込まれているのではないか。少なくとも瞑想を通して、心の診断を
することも、ムダではないような気がする。

 で、私はここまで書いて、短い時間だが、瞑想のまねごとのようなものをしてみた。目を閉じ
て、静かに自分と対峙してみる。すると、最初はモヤモヤとした落ちつかない自分が現れてく
る。その一つずつのモヤモヤが、実は、ひとつの手がかりになる? たとえばとても気分のよ
いときのモヤモヤと、そうでないときのモヤモヤを比較してみればよい。そうすると、そのときど
きにおいて、そのモヤモヤの内容が、微妙に違うのがわかる。その違いがわかれば、ひょっと
したら、心の診断法として、応用できるのでは?

 この方法は、これから先、自分なりに応用してみる。そして何らかの形で、また書いてみた
い。今は、この程度しか言えないが、それほど大きくは、道を踏みはずしてはいないように思
う。要、検討課題ということか。

●その女性のばあい
 さて、そのあと、その女性がどうなったかは知らない。一度だけ、駅前ですれ違うのを見たこ
とがある。が、それだけである。多分、向こうのほうが先に気がついたのかもしれない。うつむ
きかげんに、足早にその場を去っていった。

 考えてみれば、私だって、あまり偉そうなことは言えない。学生時代、好意をいだいた女性
を、追いかけたこともある。ひとつまちがえば、そのままストーカーになっていたかもしれない。
だれにでも、そういう要素があるという前提で、この問題は考えたほうがよいのではないだろう
か。はっきりしたことは言えないが、今の私はそう思う。
(02−11−15)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(314)

 孤独の淵(ひち)で、ひとり苦しんでいる人がいる。だれにも相手にされず、だれからも相手に
されず。夫ですら、彼女に見向きもしない。会話はもちろん、ない。寝室も、ベッドも、そして食
事の時間も別。そういう人だから、どこへ行ってもトラブルつづき。近所の人との口論も絶えな
い。

 偏屈な人だ。がんこで、自分勝手。他人の話に耳を傾けないから、早トチリばかりしている。
そして思い込みで、相手を非難したり、あるいは攻撃したりする。そのため、ますます敵をつく
る。孤立する。そしてますます自らを孤独の淵に追いやる。

 が、こういう人を救うのは、容易ではない。(「救う」などという言葉を安易に使うのは赦されな
いことだが……。)接し方をまちがえると、その人が本性的にもつ毒歯にかまれてしまう。無理
難題をもちかけてきては、こちらを困らす。世間的な言い方をすれば、そういう人とは、かかわ
りを、もたないほうがよいということになる。実際、そういう人とかかわりをもつと、あとがたいへ
ん。かなり強い精神力がないと、その人を救うどころか、こちらも気がヘンになってしまう。

 私は職業がら、たとえば育児ノイローゼの母親に接することが多い。育児ノイローゼにも、い
ろいろあり、また程度の差もある。子どもに過関心になるレベルから、精神状態そのものがお
かしくなる人もいる。また相談といっても、受け方をまちがえると、真夜中でも電話がかかって
きたりする。そしてそのたびに、怒鳴られたり、反対に泣きつかれたりする。そういうとき私は、
相談にのっているというよりは、どこか自分が試されているような気分になる。自分自身の人
間性を、だ。

 私はどこまで寛容であるべきなのか。
 私はどこまで寛容でいることができるのか。
 また、私はどうして寛容でなければならないのか。

 仕事としてそれをしているなら、「収入」という面で、まだ救われる。何とか自分をごまかすこと
ができる。しかしそれがまったくない状態だと、「どうして私がこんなことをしなければならないの
か」と、そればかりを考える。いや、あるいはもし私がクリスチャンなら、天国へ行けるという希
望も生まれるかもしれない。「心が飢えた人は幸いなれ。なぜなら彼らは神の王国を与えられ
るだろう」と。が、私にはそれもない。

 私はその人が、孤独の淵で、苦しんでいるのがよくわかる。しかし皮肉なことに手を差し出せ
ば出すほど、それがおかしな方向に進んでしまう。何だか、私が、その夫婦を破壊しているか
のような立場になってしまう。そう言えば、夫が、私を見る目つきも、どこか変わってきた。どう
すればよいのだと思いつつ、どうすることもできない。ただ私は、正直言って、この一週間間、
その人から電話がないことに、ホッとしている。そういう自分ではあってはいけないと思いつつ、
しかしそういう自分になってしまう。
(02−11−17)

●安易に、「神様」や「仏様」のまねをしてはいけない。善人ぶって、神様や仏様のまねをして
はいけない。かえってその人を苦しめることになる。その人の心を、もてあそぶことになる。善
人ぶることなら、だれにだってできる。知ったかぶりの顔をして、穏やかな表情をしていればよ
い。しかし本当にむずかしいことは、自分の中の「悪」と戦うことだ。しかしそれは本当にむずか
しい。私のような凡人には、なおさらだ。いつか自分もその悪と戦うことができるようになった
ら、私は善人になれるかもしれない。今のところ、その自信は、まったくないが……。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(315)

わずらわしい世界

 情報の時代というが、本当に、この世界、わずらわしい。昨夜も、居間でお茶を飲んでいた
ら、若い女性から電話がかかってきて、息子の電話番号を教えろ、と。私が断ると、「何を偉そ
うに!」と。勝手に他人の家に電話をかけてきて、「何を偉そうに!」は、ない。

 ひとり静かに生きることは、一見、楽なようにみえて、楽ではない。「一日」という時間帯をみ
ても、ひとり静かでのんびりできる時間のほうが、少ない。つぎからつぎへと、いろいろな事件
が起きる。そのほとんどは、向こうからやってくる。できるなら、そういうわずらわしさから、解放
されたい。しかし、それは死ぬまで、不可能だろう。ただ私のばあい、朝、五時ごろ目が覚め
て、それから七時、八時まで、こうして原稿を書いているが、その時間ほど、「ひとり」でいられ
る時間はない。貴重な時間だ。しかし、それでわずらわしさが消えるわけではない。

 こうしたわずらわしさがあれば、それと戦うしかない。受け身になったとき、そのわずらわしさ
は、ストレッサーとなる。問題は戦い方だ。しかしひとたび情緒が不安定になると、それも簡単
ではない。子どものばあい、大きく分けて、三つのタイプに分かれる。(1)攻撃型、激情型、暴
力型、(2)内閉型、オドオド型、萎縮型、(3)執着型、こだわり型、依存型。思いついたまま書
いたので、正しくないかもしれないが、要するに、大声を出して暴れるタイプと、グズグズして引
きこもるタイプ、それにモノにこだわって、それを異常にこだわるタイプがある。

 おとなもそうで、私のばあいは、(1)の攻撃型と、(2)内閉型の間をいったりきたりする。精神
状態がフワフワし、自分でもつかみどころがなくなってしまう。爆発しそうな自分を必死でこらえ
たり、反対に、電話に出るのも、おっくうになったりする。あるいはときどき、(3)のモノにこだわ
るときもある。そういうときは、それまでほしかった高価なものを、パッと買ったりする。それで
気分が晴れることもある。あとはカルシウム剤をたっぷりと飲んで、風呂に入って、よく眠る。
「明日は明日の風が吹く」と、そう思いながら、床につく。

 昨日も一日、何かとわずらわしいことがつづいた。そのため朝なのに、少し頭が痛い。しかし
考えても始まらない。「何とかなるだろう」と、自分をなぐさめながら、前に進むしかない。がんば
りましょう。がんばります。では、みなさん、おはようございます。
(02−11−16)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
11・29 ……砂丘小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-25

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 521人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  84人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−25号(144)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子育てポイント」(How to cope with kids at home)

【1】子育てポイント(How to cope with kids at home)
【2】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■連載:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 -------------------

●No.40「子どもは人の父」

 イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌って
 いる。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれに日が
 そうであることを、私は願う。

 原詩は、「The Child is Father of the Man」となっている。私はその「Man」
 の訳に苦しんだ。ここでは、ほかの訳者と同じように、「人」と訳したが、
 どうもしっくりこない。「おとな」、あるいは「人格者」と訳すこともでき
 る。つまりワーズワースがこの詩の中で言わんとしていることは、子ども時
 代がその人の原点であるということ。いくらおとなになっても、その子ども
 時代の美しい心や純粋な心を忘れてはいけないということ。もっと言えば、
 人はおとなになるにつれて、知識や経験はたしかに豊富になるが、ともすれ
 ばそれと引き換えに、子ども時代に覚えた感動を踏みにじってしまう。ワー
 ズワースは、そうであってはいけない、と。

 私はこの詩に出会ってからというもの、この詩をずっと子育て評論の座右の
 銘としている。そしてそのつど、ふとどこかで袋小路に入りそうになったと
 き、この詩を思い出して、自分を取り戻すようにしている。たしかに子ども
 は未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。自尊心もあれば、嫉妬心もある。
 むしろ人はおとなになればなるほど、悪賢く、そして醜くなっていく。その
 ため失うものも多い。

 「子ども的」であることは、何ら恥ずべきことではない。子ども的であると
 いうことは、それ自体すばらしいことなのだ。あなたも一度、空の虹を見な
 がら、童心に返って、「わーっ」と大声をあげて感動してみたらどうだろう。
 遠慮することはない。「わーっ」とだ。あなたも子どものころを純粋さを、
 心のどこかに感ずるはずだ。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ 
 ●発売中!「子育てストレスが子どもをつぶす!」
  リヨン社・四六判並製・1300円+税 
  *詳しくは上記ホームページの新刊案内をご覧下さい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育てポイント

●『やけどをした子どもは、火を恐れる』

 これはイギリスの格言。子どもというのは、何かのことで、一度失敗すると、自分では、なかな
かその失敗を克服することができない。とくに幼児期はそうで、この時期のつまずきは、そのあ
と大きな影響を与える。

 たとえば今、年中児でも、「名前を書いてみよう」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、一〇人中、二人はいる。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。原因は、過程での無理な
学習が考えられる。しかしそれで問題が終わるわけではない。このタイプの子どもは、そのあ
と、(逃げる)→(ますます苦手になる)の悪循環の中で、文字からますます遠ざかってしまう。
そして一度、こうなると、その悪循環を断ち切るのは容易ではない。

 日本でも昔から、『坊主、憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』という。もともとの意味は、坊主が
憎いと、その袈裟まで憎くなるという意味だが、この格言を裏から読むと、こうなる。「袈裟をみ
ただけで、坊主への憎しみがわく」と。こうしたつまずきが原因で、そのあと、「文字を見ただけ
で、勉強が嫌いになる」ということもありうる。そういう意味でも、幼児期の学習は、慎重にす
る。


●山には登らせる

 低い山だと思って登ってみても、登ってみると、意外に遠くが見えるもの。登る前に、その山
に登ることがムダだとか、そういうふうに考えてはいけない。いわゆるマイナス思考の人は、何
でもやるまえに、「あれはダメだ、これはダメだ」と逃げてしまう。

 同じように、子ども自身が、いろいろな山に登りたがるときがある。もう二〇年近くも前のこと
だが、ある母親からこんな相談を受けた。その息子(高二)が、アメリカで夏休みを過ごして帰
ってきた。そのあと、その息子が「高校を中退して、アメリカへもどる」と言い出したというのだ。
そこで私に、「何とか、思いとどまらせてほしい」と。

 その高校生は、ホームスティをしたことで、「山」に登った。そして遠くの景色を見た。その結
果、「アメリカで高校生活を送りたい」と。今のように、まだ海外留学がポピュラーな時代ではな
かった。学歴信仰も、根強く残っていた。高校を中退するということが、考えられない時代だっ
た。その母親は、さかんに、「このままでは、うちの子は、中卒になってしまいます」と泣いてい
た。

 しかし山に登るのも、子ども。そこで子どもがどんな景色を見るかは、本当のところだれにも
わからない。親にもわからない。だからその段階で、親は子どもの人生は、子どもに託すしか
ない。親としてはつらいところだが、そういう「つらさ」に耐えるのも、親の役目ということになる。
また子どもが大きくなればなるほど、一方で、そういうつらさがふえる。

 先の子ども(高二)だが、親の言うことを聞いて、そのまま日本の高校に通った。私が説得し
たわけではない。直接、面識があった子どもではないので、そのあと、その子どもがどうなった
かは知らない。


●やればやるほど、空回り

 子どもに何か問題が起きたとする。すると親は、その問題を解決しようと、何かをする。それ
は当然にことだ。しかしそのとき、ときとして、何かをやればやるほど、ものごとが空回りしてし
まうことがある。子どものために何をしているはずなのに、それが子どもの心に響いていかな
い。こういうときの鉄則は、ただひとつ。それ以上、状態を悪化させないことだけを考えて、時
の流れを待つ。

 子育てがカベにぶつかると、たいていの親は、そこが「底」だと思う。だからそこを基準にし
て、子どもを「なおそう」と考える。しかし「底」の下には、さらに「別の底」があり、さらにその下
にも「別の底」がある。たとえば娘が門限を過ぎて帰ってきたとする。すると親は、それをなおそ
うと娘を叱ったり、説教したりする。が、いっこうにそれがなおらない。これがここでいう「空回
り」。

 そこでさらに親が叱ったりすると、今度は、娘は外泊をするようになる。これがここでいう「別
の底」。あるいは家出ということにもなりかねない。集団非行を繰り返すようになるかもしれな
い。これも「別の底」。

 子育てをしていてその空回りを感じたら、こうした「別の底」に落ちる前兆として、警戒する。
子どもというのは、一度その「別の底」に落ちると、あとは、つぎつぎと別の底に落ちていく。そ
こで、ここにも書いたように、一度、その底を感じたら、「なおそう」と思うのではなく、今の状態
を悪化させないことだけを考えて、一年単位で(一年でも短いほうだが……)、時の流れを待
つ。


●「やればできる」は、禁句

 たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」という。しかし、(やる・やらない)も、力の
うち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめる。やればできるは
ずと、子どもを責めたてることほど、子どもを苦しめるものはない。

 子どもの可能性を否定しろと言っているのではない。ともすれば、暴走しやすい親の期待に
ブレーキをかけろと言っている。というのも、親というのは、子どものよい面だけを見て、それを
基準にものを考える傾向が強いからである。いつもは七〇点くらいしか取れない子どもが、た
まに一〇〇点をとってくると、「やっぱり、うちの子はすごい」と思うことはある。しかし「どうして
今回は一〇〇点なのかしら」と疑問に思う親はいない。

 こんなことがあった。

 ある日、一人の中学生(中二・男子)が、父親につれられてやってきた。そして父親はこういっ
た。「うちの子は、中学一年のとき、(二〇〇人中)、三〇番になったことがある。うちの子に
は、そういう力があるはず。どうかそれを伸ばしてほしい」と。

 そこで少し教えてみると、とてもその力がないことがわかった。そこで私は父親に手紙を書い
た。「私のところでは、とてもご期待にそえるような指導はできません。申し訳ありませんが、お
断りします」と。

 こういう手紙を書くと、どういう書き方をしても、親というのは、激怒する。デパートで販売拒否
にでもあったかのような怒り方をする。その父親もそうだった。「偉そうなことを言いて、お前は
何様のつもりか!」と言って、その父親は電話を切った。


●ユーモアでしつける

 ユーモアは、子どもの心を開放させる。『笑えば、子どもは伸びる』が、私の持論でもある。子
どもをしつけるときは、このユーモアを大切にする。

 たとえば私のばあい、授業中、なかなか手をあげようとしない子どもには、「パンツにウンチ
がついているなら、手をあげなくていい」と言う。「ママのオッパイを飲んでいるなら、手をあげな
くていい」とも言う。フラフラと歩き回っている子どもには、「おしりにウンチがついているのか?
 おしりがかゆいから、歩いているの?」と言う。あるいは「パンツをかえてあげるから、おいで」
と、やさしく声をかける。

 指しゃぶりをする子どもも多い。そういうときは、「おいしそうな指だね。先生にもなめさせて」
と声をかける。あるいは、「そういう指のしゃぶり方をするから、幼稚、幼稚って、バカにされる
んだよ。いいか、もっとかっこうよくしゃぶりな」と言って、指のしゃぶり方を教える、など。鼻くそ
をほじっている子どもには、「おいしそうな鼻くそだね。先生にも、食べさせて」と声をかける、な
ど。

 いろいろな言い方があるが、こうした言い方をすることによって、トゲトゲしさがなくなる。子ど
もも、聞く耳をもって、こちらの話を聞いてくれる。が、一方、頭ごなしの命令や、禁止命令は、
方法としては手っ取り早いが、ほとんど、効果はない。それだけではない。命令や禁止命令が
多くなると、子どもは、自分では考えることができなくなってしまう。時とばあいには、こうした命
令も必要だが、しかしできるだけ少なくしたほうがよい。
(02−11−17)


((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

相手にしたくない人たち

 今日、鍼灸師をしている友人(四五歳)と話をした。その中で彼はこう言った。「ぼくらの世界
では、初対面のとき、この人とはつきあっていいか、どうか、即座に判断しなければなりませ
ん。それをまちがえると、あとで大やけどをします」と。そこで私が、「具体的にはどういう人を避
けるのですか」と聞くと、ズバリ、「頭のおかしい人」と。

 教育の世界にも、同じような話はあるが、少し角度が違うようだ。間に子どもがいるため、親
がおかしいからといって、それが直接、教える側に影響がおよぶということは、まずない。しか
しやはり、このタイプの親は、警戒するにこしたことがない。ちょっとした誤解が、とんでもない
問題を引き起こすことがある。その中でも、とくに印象に残っている母親がいる。

 ある日、参観会のとき。その母親は、父親と夫婦できていた。男性はその父親だけだった。
そこで私はアドリブで、その父親に授業に参加してもらった。あらかじめ用意した教材と原稿を
渡し、先生の役をしてもらった。

 そのときは、そのときで、結構、なごやかな雰囲気で授業は流れた。母親も笑って見ていた
はずである。が、その夕方から、その母親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「よくも、う
ちの主人に恥をかかせたわね!」と。ふつうの電話ではない。ネチネチと一時間以上もつづい
た。「どうすればいいですか?」と聞くと、「もとに戻せ!」と。が、それで終わったわけではな
い。翌日も、その翌日も、電話がかかってきた。さすがのワイフも、電話のベルが鳴るだけで、
体をワナワナと震わせるようになってしまった。

 この女性が、どういう心の病気にかかっていたかは知らない。しかしふつうでないことは、たし
か。こうした母親にからまれると、かなり神経が太い人でも、まいる。心底、まいる。その向こう
に、得たいの知れない、不気味な恐ろしさを感ずるからだ。

 現在、こうした親にからまれて、心を病む幼稚園や保育園の教師は多い。H市のばあい、た
いていどの幼稚園にも、一人や二人、精神科の医院へ通っている教師がいる。長期休暇をと
っている教師もいる。ある幼稚園の園長が、こっそりとこう教えてくれた。「青い色の封筒を見
ただけで、体を震わせる教師もいます」と。何でもときどき、その幼稚園に、青い色の封筒の手
紙が届くという。ある母親からのものだが、いつも執拗にああでもない、こうでもないと書いてく
るのだという。

 その鍼灸師をしている友人は、こう言った。「患者さんで、そういう雰囲気を感じたら、私はす
ぐ、別の医院を紹介して、そちらへ回すようにしています」と。で、私が、「教育の世界ではそこ
までしませんね。学校の先生なら、なおさらできません」と言うと、「そりゃあ、たいへんですね」
と言って笑った。私も笑った。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


読者の方から、おもしろい質問をもらいました。
視神経交叉はなぜあるかという問題です。
まったく畑違い(?)ですが、考えてみました。
こういう畑違いの分野は、おもしろいですね。

+++++++++++++++++++++++

視神経交叉(こうさ)について

 読者の方から、視神経交叉はなぜあるかという質問をもらった。なぜか?

 「視神経交叉」というのは、単純に言えば、右眼球でとらえた映像は、左脳(間脳)に。左眼球
でとらえた映像は、右脳(間脳)に、それぞれ格納されることをいう。視神経が、左右に交叉す
ることを、視神経交叉という。しかし実際には、右眼球でとらえた左側の映像は、一度反転され
て、右脳に格納される。右眼球でとらえた右側の映像は、一度反転されて、左脳に格納され
る。わかりにくいが、まとめると、こうなる。

  右眼球でとらえた左側半分の映像→右脳に
  右眼球でとらえた右側半分の映像→左脳に(交叉)
  左眼球でとらえた右側半分の映像→左脳に
  左眼球でとらえた左側半分の映像→右脳に(交叉) 

 たとえば今、左目を閉じて、右目だけで、パソコンの画面を見たとする。そのときパソコン全
体が、あなたの目に見える。しかし実際には、そのパソコンの右側の部分は、左脳(間脳の中
の視覚野)に映った映像、パソコンの左側の部分は、右脳に移った映像である。それが左右
の大脳半球どうしが、うまく連絡しあって、一枚の連続した映像を脳の中に映す。左目も、同じ
ようにして、脳の中に映像を映す。

 では、なぜこのように、視神経の一部は交叉しているのか。右眼球でとらえた映像は右脳
で、左眼球でとらえた映像は左脳で、それぞれ映し、脳の中で映像を合成すれば、それでじゅ
うぶんである。しかし実際には、複雑に交叉している。その理由は、なぜか、と。それが読者か
らの質問である。

 いろいろな仮説が成りたつ。「うまく立体映像を結ぶため」「左右どちらかの脳がダメになって
も、眼球で受ける映像が無事なようにするため」など。しかしひとつのヒントとして、こんな話が
ある。

 カメラがある。そのカメラには、映像を写すレンズ(目)と、距離をはかる目がある。距離をは
かりながら、焦点をあわせる。同じように、人間も、ものを見るときには、この二つがうまく同調
しないと、見ることができない。さらに人間の目のばあい、二つの目を使って、それが立体映像
になるように見える。こう考えると、人間には、本来、三つの目があるのが望ましいということに
なる。一つの目で、距離を知り、残りの二つの目で、その距離にあわせて、焦点を結び、立体
映像をつくる。しかしその働きを、二つの目だけでする。そのために、左右の眼球は、映像を
分割して、左右の脳に、その映像を送っているのではないか。もし、右眼球がとらえた映像を
右脳だけが、左眼球がとらえた映像を左脳だけが認識していたとすると、立体映像を結ぶ前
に、焦点が合わなくなってしまう? あるいはどうやって焦点を合わせるか? 左右が別々に焦
点を合わせていても、まずい。焦点を合わせるためには、同じ画像を、同じ画面に映してみる
必要がある。そこで人間の脳のばあいは、左右の眼球から送られた別々の画像を、中央で張
り合わせることによって、焦点を合わせている?

さらにもし、右眼球がとらえた映像を右脳だけが、左眼球がとらえた映像を左脳だけが認識し
ていたとすると、左右の眼球が、別々に動いても、問題がないことになってしまう。ご存知のよう
に、人間の目は、左右、同時に、同じように動く。動くことによって、ひとつのものを静止して見
ることができる。結論を言えば、視神経交叉は、左右の眼球が、同時に、同じものに焦点を合
わせ、かつ立体映像を結ぶることができるようにするため、ということになる。

 あまりよい回答になっていないかもしれないが、私はそう考えた。もっとも、これは完全に、私
の専門分野外のことであって、ここに書いたのは、あくまでも、一つの仮説にすぎない。それに
教育の世界では、こうした理由づけは、ほとんど意味をもたない。「なぜ、指は一〇本なのか」
「なぜ、ヘソは、腹にあるのか」「なぜ、生殖器と排便器は、近接しているのか」など。長い進化
の過程で、必要なことだけが生き残り、そうでないものは、捨てられ、あるいは退化した。何か
理由はあるはずだが、その理由はともかくも、私たちは、「そうである」という前提でものを考え
る。「視神経は、脳にとどく過程で、交叉している」というのなら、「交叉している」という前提で考
える。「なぜ、そうなのか」ということを考える前に、「だからどうしたらいいのか」と考える。それ
が教育の原点でもある。たとえば自閉症の子どもがいる。なぜ自閉症になるのかということを
考える前に、どうすればその子どもがよくなるかを考える。それが教育の原点でもある。

 話がそれたが、おもしろいテーマだった。何かしらパズルを解くようなスリルを感じた。みなさ
んなら、どう答えるか。
(02−11−17)

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
11・29 ……砂丘小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆臨時増刊号
11−25

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  臨時増刊号をお届けします。
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    新しい読者の方を
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       紹介していただけませんか?
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)     マガジン紹介・案内号です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)
***************************************

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−25号(臨時増刊号)
★★★★★★★★★★★★★
 
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

よろしかったら、あなたのご友人、知人の方に
このマガジンのことを、お知らせいただけませ
んか。よろしくお願いします。
臨時増刊号をお届けします。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

マガジン見本(いつも最新の作品を、そのままお届けしています!)

【1】子育てポイント
【2】随筆
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育てポイント

●夢を、子どもに託さない

子どもに夢をもつのは、悪いことではない。この夢があるから、子育ても、また楽しい。しかしそ
の夢が、過剰にふくらんだとき、その夢は子どもを苦しめる。何が苦しめるかといって、親の過
剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。

少し前だが、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。「小学校入学をひかえて、あいさつのでき
る子どもにするにはどうしたらいいか」「学校で友だちと仲よくできるためには、どうしたらいい
か」、それについて書いてくれ、と。

 しかしこんな原稿など、書けない。自分ができないのに、どうして子どもに、それをしろと書くこ
とができるのか。あいさつなど、したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。アメリ
カのある地方では、ニコッと笑うのがあいさつになっているし、オーストラリアでは、顔をややか
しげながらあいさつをする人も多い。

 さらにこんなことを言ってくる親もいる。「子どもには、立派な人間になってほしい」と。

 「立派」というのは、社会的名誉や地位のある人をいうのだろう。そこで私はその親に、こう言
った。「子どもに立派になってほしかったら、お母さん、あなたがまずその立派な人になってみ
せることです」と。

 さらにこんなことを言う親もいる。「夫は、学歴がないため苦労をしています。息子にはそうな
ってほしくないので、何とか学歴をつけさせてあげたいです」と。さらに「私は英語を話せないか
ら、子どもには英語を話せるようになってほしい」と。

 親は、それぞれの思いの中で、子育てをする。しかし『子どもに夢は託さない』が、子育ての
鉄則。もし「夢」があるなら、親は自分で自分の夢を追求する。自分が過去にできなかったこと
を嘆くのではなく、今、できる夢、あるいはこれからできる夢を追求する。そういう前向きな姿勢
が子どもに伝わったとき、子どもは、子どもで自分の夢を追求するようになる。それだけではな
い。

 親が子どもの人生の中で生きようとすればするほど、親は自分の姿を見失う。そして自分の
時間を、ムダにしてしまう。どこまでいっても、子どもの人生は子どものものであるように、親の
人生もまた、親の人生でなければならない。


●「今」を生きる、二つの意味

 「今」を生きるということには、二つの意味がある。一つは、未来のために、「今」を犠牲にして
はいけないということ。もうひとつは、過去を振りかえり、悔やんだり、後悔してはいけないとい
うこと。

 日本人は、無意識のうちにも、未来のために現在を犠牲にしながら生きている。子どものと
きから、幼稚園は小学校へ入るため、小学校は中学校や高校へ入るため。そして高校は大学
へ入るためと教えられている。だから社会へ入ってからも、この考えから抜け出ることができな
い。たまの休みでも、その休みを楽しむ前に、休みが終わってからの仕事のことを心配する…
…。

 同じように、過去に振りまわされてはいけない。よく「私は、若いとき、もっと勉強しておけばよ
かった」とこぼす人がいる。しかしもし、そう思うなら、今、すればよい。勉強するのに、時期な
ど、ない。早いも、遅いもない。さらに深刻な例としては、「今の夫と結婚しなければよかった」と
言う人もいる。しかし本当にそう悩むのなら、離婚すればよい。が、離婚できないというのであ
れば、現状を受け入れ、その中で生きていけばよい。いつまでも過去をズルズルと引きずって
生きてはいけない。

 どちらにせよ、日本人は、「今」を生きるのが、苦手な民族である。どうしてそうなったかという
ことについては、いろいろな説が考えられるが、そのひとつが、大乗仏教の影響ではないかと
思う。大乗仏教では、いつも「結果」を重んじる。「死に際の様子で、その人の人生がわかる」と
説く宗教団体さえある。

 しかし考えてみてほしい。今、あるのは、「今」だけ。過去など、どこにもない。未来など、どこ
にもない。あなたがどんな過去をもっているにせよ、過去は過去。そんなものに振りまわされて
はいけない。またたとえ結果が悪くても、それが、最後の結果だと思う必要はない。大切なこと
は、それを乗り越えて生きていくこと。あるいはそのときどきを、懸命に生きていくこと。

 ある母親は、息子(中三)が、高校受験に失敗したあと、私にこう言った。「ムダでした」と。
「小さいときから、算数教室や音楽教室へ通わせたりしましたが、すべてムダでした」と。

 そこで私はその母親にこう言った。「あなたは子育てをしながら、人生を楽しんだはずです。
子どもが生きがいを与えてくれたこともあるでしょう。だからムダだったなんて、言わないでくだ
さい」と。

 どちらにせよ、つまり、「(過去に)ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しながら
生きるのも、未来のために現在を犠牲にして生きるのも、愚かなことである。大切なのは、
「今」という時間の中で、精一杯、自分を輝かせて生きること。あなたもそうだし、子どももそうだ
し、子育ても、またそうである。


●今を生きられない人たち

 「今」を生きるということは、簡単なことではない。とくに、そういう生き方を知らない人にとって
は、簡単なことではない。

 こんなことがあった。私の知人が、今度リストラで、それまで勤めていた会社をクビになった。
が、その知人は、その翌週から、仕事さがしを始めた。そこで、私はその知人に、こう言った。

 「失業手当が出るなら、どうしてそれで、目いっぱい、遊ばないのか。ぼくなら、半年ぐらいか
けて、外国を回ってみる」と。

 それに対して彼は、「林君、君はそう言うけど、不安で不安で、家の中で遊んでいるわけには
いかないのだよ」と。

 私も学生時代、テスト週間になると、テストが終わったあと、どうやってその休みを過ごそう
か、そればかりを考えていた。が、いざテストが終わってみると、結局は何もしなかった。できな
かった。

 同じように、社会へ出てからも、仕事に追われているときは、休暇になったときのことばかり
考えていた。しかし休暇になると、今度は、仕事のことばかり考えていた。しかし考えてみれ
ば、これほど、中途半端な生き方はない。最近でも、こんなことがあった。

 昔、いっしょに仕事をしたことのある仲間の知人が、こう言った。「私は、定年退職をしたら、
日本中を、車で、一周してみたい」と。

 しかしその知人は、退職しても、日本中を、車で、一周するなんてことはしないだろうと思う。
退職したらしたで、今度は、再就職の心配ばかりをするにちがいない。生きザマというのはそう
いうもので、ある時点から、急に一八〇度、転換できるものではない。

 そこで私はその知人にこう言った。「車で一周したいなら、今からすればいい。手始めに、紀
伊半島を一周するとか……。定年まで待つのはいいけど、そのとき、今のような健康があると
はかぎらない。あるいは何か不幸があるかもしれない。今、できることは、今、しておけばいい」
と。

 そこであなたの子どものことを、振りかえってみてほしい。あなたの子どもは、月曜日から金
曜日まで、学校に行く。なぜ学校へ行くかといえば、土曜日や日曜日に、自分のしたいことをす
るためである。しかしその土曜日や日曜日に、あなたの子どもが家の中でゴロゴロしていると、
きっと、あなたはこう言うに違いない。「明日の宿題はすんだの?」「今度のテストはだいじょう
ぶなの?」「勉強しなさい!」と。

 こういう生きザマが、子どものころから日本人の基本になっているから、日本人は、それ以外
の生き方を知らない。そしてそれが死ぬまで、つづく。「やっと楽になったと思ったら、人生も終
わっていた」と。しかしこれほど、愚かな生き方はない。


●『よい魚は、下を泳ぐ』

 『よい魚は、下を泳ぐ』というのは、イギリスの格言。子どももそうで、すぐれた才能や能力の
ある子どもは、どちらかというと、目立たず、静かに成長する。印象に残っている子ども(年中
児)に、D君という子どもがいた。

 最初、D君が教室へ入ってきたとき、そのあまりの「静かさ」に、私は何か問題のある子ども
と誤解してしまった。しかしそれは誤解だった。D君にとっては、まわりがあまりにも幼稚なた
め、やがて、その雰囲気になじめだけということがわかってきた。

 そこで私はD君を年長児のクラスに入れてみた。しかしそこでも、D君にはもの足りなかった
らしい。で、さらに小一のクラスにいれてみた。すると今度は、水を得た魚のように、生き生きと
勉強し始めた。

 そののち、このD君は、小学三、四年生のころには、中学の数学の勉強まで自分で終えてし
まった。教えるといっても、特別なことをしたわけではない。「自分で教科書を読んで、わからな
いところだけもってきなさい」という指導で、じゅうぶんだった。

 実際、こういう子どもがいるのは、事実。「遺伝子そのものが違う」とさえ思ってしまう。私の経
験では、レベルの違いもあるが、その年齢の子どもとの学習が無理と思われる子どもは、一〇
〇〜一五〇人に一人はいる。さらにD君のような子どもも、三〇〇〜四〇〇人に一人はいる。
同学年の子どもを、一〇〇万人とするなら、このタイプの子どもは、全国に一万人はいること
になる。勉強ができなくて苦しんでいる子どももいるが、このタイプの子どもは、勉強がつまらな
くて、苦しんでいる。しかもその苦痛は、想像以上のものである。さらに悲劇的なことは、教師
によっては、そういう子どもの能力が理解できず、「生意気だ」とか、「親が無理に勉強ばかりさ
せている」と、誤解するケースも多い。日本の教育には欠陥がたくさんあるが、これもそのうち
の一つと考えてよい。

 さてその「よい魚」だが、このタイプの子どもには、共通した特徴がある。(1)目つきが静かに
落ちついている。(2)目つきが鋭い、(3)人並みはずれた集中力がある、(4)思考がきわめて
柔軟で、幼児の段階でも、おとなのユーモアが理解できる、など。


●幼児教育は、種まき

 幼児にものを教えるときは、すべからく、『種まき』と思うこと。教えても、その効果をすぐに求
めてはいけない。またここが大切だが、中には芽を出さない種もある。そういう種があっても、
無理をしてはいけない。そういう種もあるという前提で、子育てをするとよい。

 たとえば文字や数にしても、この時期、大切なのは、(できる・できない)ではなく、子どもがそ
れを(楽しんだか・楽しまなかったか)である。楽しめば、それでよしと考える。あとは子ども自
身の「力」を信ずる。そういう前向きな姿勢が育っていると、やがて子どものほうから、「ママ、
字を教えて!」と言ってくるようになる。

 まずいのは、ギスギス教育。中には、たった一時間、カタカナを教えただけで、子どもに、「ど
うしてできないの!」と叱る親がいる。短気といえば短気だが、どこかギスギスしていて、余裕
がない。

 もっともこういうことは、何千人も子どもに接したことがある私にはわかるが、母親にはわから
ない。またそれを理解せよといっても、無理かもしれない。よく『となりの家の芝生はよく見える』
(イギリスの格言)というが、何かにつけて、となりの子どもというのは、よく見えるもの。自分の
子どもに何か問題があったりすると、たいていの親は、「どうしてうちの子だけが……」と悩む。

 しかしこれはまったくの誤解。どんな子どもにも、何らかの問題がある。問題のない子どもな
ど、絶対に、いない。そのため、その家族は、その問題と必死になって戦っている。それがあま
りあなたに伝わってこないというのは、問題が小さいからではなく、その家族が、一方で、必死
になって隠しているからにほかならない。

 話が脱線したが、要するに、子どもに何かを教えるときは、「適当」であるのがよい。一〇教
えても、頭の中に入るのは、そのうちの五くらい。あるいはそれ以下でもよい。そしてやがて身
につくのは、一か二。あるいはそれ以下でもよい。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。子
どもの表情を、明るくする。

*********************************
私の教室の来年度の生徒の募集を、1月からします。
とくに来ていただきたいのは、幼稚園、保育園の、年長児、年中児の
みなさんです。1月以後、見学は自由にしていただけるようにします
ので、おいでください。子どもの「笑い声」を、大切にした教室です。
詳しくは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page044.html
まで、どうぞ!
*********************************
(02−11−24)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●頭のよい子ども(中日新聞投稿済み)

 人間の能力は平等ではない。平等でないことは、しばらく子どもたちに接してみるとわかる。
たとえば頭。頭のよい子どもは、本当に頭がよい。そうでない子どもは、そうでない。遺伝子そ
のものが違うのではないかとさえ思うときがある。数年前に、東京のS中学に入ったD君(小
六)も、そしてそのあと同じようにS中学へ入ったN君(小六)も、そうだった。小学四年を過ぎる
ころには、中学レベルの勉強をしていた。小五のときは、英語も勉強していたが、進学塾では
中学二年生と一緒に勉強していた。しかもその進学塾でも、トップクラス。このタイプの子ども
は、教科書と参考書だけを与えておけば、自分で学習してしまう。「わからないところがあった
ら、聞きにきなさい」という指導だけで、じゅうぶんである。二〇年ほど前に教えたことのあるM
さん(年長児)も、そして一五年ほど前に教えたことがあるH君(年長児)も、そうだった。

幼稚園児や保育園児で、箱の立体図(見取り図)をほぼ正確に模写できる子どもは、まずいな
い。四〇人、あるいは五〇人に一人、それらしい箱を描く子どもはいるが、あくまでも「それらし
い箱」である。しかしMさんもH君も、その箱を描いた! もしあなたの子ども(園児)が、箱の
立体図を正確に描くことができたら、数百人、あるいはそれ以上の中の一人と、喜んでよい。

 こういう恵まれた子どもの特徴は、目がいつも輝いていて、それでいて目つきが静かに落ち
着いているということ。ジロリと見つめられると、威圧感すら覚える。このタイプの子どもは、子
どもだからといって安易に扱ってはいけない。実際には、扱えない。接していると、子どもであ
ることをつい忘れてしまう。O君(小三)という少年もそうだった。彼は中学一年生の教科書すら
自分で理解してしまった。あるとき私がふと、「二つの辺の長さとその間の角度がわかれば、そ
の三角形の面積は計算できるよ」と独り言を言ったら、やさしい声でこう言った。「先生、ぼくに
そのやり方、教えて……」と。

 こういう頭のよい子どもに出会うと、その子ども自身が、人類の財産のように思ってしまう。実
際私のところを巣立っていくときは、私はこう言うようにしている。「君の頭は、君のものであっ
て、君のものではない。みんなのために使ったらいい」と。が、残念ながらこの日本では、こうい
う子どもを伸ばす機関がない。理解もない。このタイプの子どもにとっては、ふつうの学校へ行
くことは、まったく勉強ができない子どもが学校へ行くのと同じくらい、苦痛なのだ。先にあげた
D君もそうだった。幼稚園児のとき遊戯などをさせると、ブ然としていた。私も最初の数週間
は、何か問題のある子どもだと誤解していた。が、彼にしてみれば、そういうことをすること自
体、耐えられなかったのだ。

 日本でこのタイプの子どもが唯一生きる道があるとすれば、都会の進学校と言われる学校
へ入ることでしかない。しかし結果からみると、結局は日本の受験勉強に巻き込まれ、受験と
いう方法でしか、力を伸ばせない。そしていつか日本の部品として、社会の中に組み込まれて
しまう。これはたとえて言うなら、絹の布で鼻をかんで、そのまま捨てるようなものだ。日本の教
育には、こういう矛盾もある。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(334) 

幼児の伸びは、階段的

 幼児は成長するにつれて、さまざまな変化を見せる。それは当然だが、しかしその伸び方を
観察してみると、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではないのがわかる。ちょうど階段をの
ぼるように、トントンと伸びる。

 たとえば年中児(満四歳児)をしばらく教えてみる(蓄積期)。しかしすぐには、変化は起きな
い。中にはまったく反応を示さない子どももいる。が、そういう時期(熟成期)が、しばらくつづく
と、ある日を境に、突然、別人のように変化し始める(爆発期)。同じようなことはたとえば、言
葉の発達にも、見られる。生まれてから一歳半くらいまで、子どもはほとんど言葉を話さない。
しかしある日を境にして、急に言葉を話すようになり、一度話すようになると、言葉の数が、そ
のあと、まさに爆発的にふえ始める。

 これをチャート化すると、つぎのようになる。

 (蓄積期)→(熟成期)→(爆発期)

 教える内容にもよるが、たとえば文字にしても、満四・五歳(四歳六か月)までは、教えても教
えても、教えたことがどこかへそのまま消えてしまうかのような錯覚にとらわれることがある。し
かし満四・五歳を境に、急速に文字に関心を示すようになり、そのまま、たいていの子どもは、
とくに教えなくても、ある程度の文字が読み書きできるようになる。
 
 こうした特性を知っていれば問題はないが、知らないと、親はどうしても、無理をする。その無
理が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことがある。文字にしても、満四・五歳にひとつ
のターゲットをおき、それまでは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」ということだけを教えて
いく。具体的には、子どもをひざに抱いてあげ、温かい息をふきかけながら本を読んであげる
とよい。こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、文字に対して前向きな姿勢をもつよう
になる。

 私も、幼児を教えるようになったころ、こうした特性を知らず、苦労をした。何とか効果を出そ
うと、あせって無理をしたこともある。しかしやがて、そうではないことを知った。(蓄積期)や(熟
成期)には、無理をせず、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時
がくるのを待つ。それがわかってからは、教える側の私も気が楽になったし、子どもたちの表
情も、みちがえるほど、明るくなった。

 このことは家庭教育についても言える。子どもに何かを教えようとするときも、教えるべきこと
は教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。決して、あせってはいけ
ない。決して無理をしてはいけない。その時がくるのを、辛抱づよく待つ。これは子どもの学習
指導の、大鉄則と考えてよい。
(02−11−24)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(335)

幼児は、音で文字を読む

 文字を覚えたての子どもは、目で見ただけでは、その文字の意味はわからない。この時期、
幼児は、一度、文字を「音」にかえ、その音を自分で聞いて、その文字の意味を理解する。わ
かりやすくいえば、この時期の子どもは、黙読ができない。

 もう少し専門的に説明すると、こうなる。

 右利き児のばあい、約九二%が、言語中枢は、左脳にあるとされる。(右利き児でも、七%
が右脳に言語中枢がありとされ、左利き児のばあいは、五四%が右脳に言語中枢があるとさ
れる。)

 まず耳から入った言葉は、左半球の聴覚野に入って、そこで言葉として認識される。そしてそ
の情報はそのまま、隣にある側頭平面にある言語中枢に送られ、そこで言葉として翻訳され
る。

 一方、黙読として見た「文字」は、網膜から視神経を経て、大脳皮質部の視覚野に送られる。
そこで情報は、一次視覚野、二次視覚野、さらに三次視覚野を経て、必要な情報だけが、大
脳連合野に送られる。

 ここから先は、情報によって、どの大脳連合野が担当するかが分かれる。たとえば空間的な
関係は、頭頂葉連合野、ものの形に関する情報は、側頭連合野などが担当する。文字は、い
わゆる「パターン認識」ということになるから、常識的には、側頭連合野の担当ということにな
る。ここでまず文字の形を分析し、認識する。が、それだけでは、まだ文字として、理解される
わけではない。さらにその段階から、その文字の形に対応する「音」を、記憶の中から拾いだ
し、さらにその音をつなげて、言葉として理解する。

 おとなの脳の中では、瞬時にこうした一連の作業がなされるため、音読も、黙読も、同じよう
なレベルで理解されるが、しかし複雑さということになるなら、黙読のほうが、はるかに複雑な
経路をたどることになる。つまり音読と、黙読は、最終的に大脳連合野で理解されるまでに、ま
ったく別の経路をたどるということになる。さらにわかりやすく言うと、音読と黙読は、まったく異
質のものであるということになる。

 こうした一連の脳の働きは、つぎのような現象によっても、裏づけられる。

 たとえば、算数の文章題を、黙読では理解できない子どもがいる。このタイプの子どもは、足
し算の問題なのか、引き算の問題なのかさえわからないため、勝手に数字をあちこちつなげ
て、メチャメチャな式を書いたりする。しかしそういう子どもでも、「声を出して一度、問題を読ん
でみてごらん」などと指示して、一度、声に出して読ませると、「わかった!」と言って、その問題
を説くことができる。

 そんなわけで、子どもが文字を読めるようになったら、今度は、どこかで黙読の練習を少しず
つ始めるとよい。具体的には、「口を閉じて読んでごらん」と指示すればよい。

 なお、小学三、四年生になっても、まだ音読のクセが残っているようなら、一度、その問題
を、別の紙に書き写させてみるとよい。音読しないと、文字が理解できない子どもも、同じよう
に指導する。
(02−11−24)


((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

          ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(331)

三男の挫折(ざせつ)

 ある日、突然、三男から電話がかかってきた。受話器を取ると、いきなり泣き声で、こう言っ
た。「パパ、ごめん」と。

 どうやら単位を取り損(そこ)ねて、落第したらしい。「留年するのか?」と聞くと、力のない声
で、「うん」と。しかし私は、それを喜んだ。……と言うより、うれしかった。

 三男は、何かにつけて、順調に育ちすぎた。すべてが、順調だった。赤ん坊のときから、ほと
んど手がかからなかった。幼稚園に入ってからあと、それから高校三年生になるまで、子育て
で困ったという覚えがない。いつの間にか、勝手に成長したという感じ。不謹慎な言い方になる
かもしれないが、ときどき「子育てがこんなに楽でいいものか」とさえ、思ったことがある。この
印象は、ワイフも同じで、そのことを話すと、ワイフも、「私もそうだった」と。

 その三男が落第? 理由はすぐわかった。あれほど「待て!」と制したのに、車を自分で買っ
てしまった。私には内緒だった。そしてそのローンを払うために、バイトまたバイト。三年生にな
ってからも、バイトつづきで、勉強どころではなかったらしい。その上、大学祭の実行委員まで
したという。「車のローンは残っているのか?」と聞くと、これまた泣き声で、「もう、車は、コリゴ
リ……」と。

 三男が大学へ入ってからというもの、私は三男が、急速に、俗化していくのを感じた。何とい
うか、日本の社会全体がもつ、大きな流れの中に吸い込まれていくような感じだった。それが
悪いというのではないが、大学を卒業したあとは、どこかの大手の建設会社で、サラリーマン
になる……というふうに、考え始めているのがわかった。しかし私は、こういう生き方に、大きな
疑問を感じていた。

 私は学生のとき、何も迷わず、自らを与えられたコースの中に押しこめた。大学生といって
も、受験生の延長のようなもので、そういう意味では、本当によく勉強した。大学三年生のころ
は、毎日、下宿で、七、八時間は勉強した。それに英語も好きだったから、時間があると、ただ
ひたすら図書館やアメリカ文化センターで、英語の勉強をつづけた。

 そのおかげというか、その結果というか、就職先も、三井物産と伊藤忠商事の二社に内定し
た。おまけに、留学生としての奨学金も手にすることができた。卒業するときは、地元の北国新
聞に、地方欄の約三分の一を使って、紹介までしてもらった。当時を振り返って、私ほど、ラッ
キーな学生はいなかったと思う。しかし、今、それが、本当に私にとってよかったのかどうかと
いうことになると、わからない。どこかおかしかった。どこかもの足りなかった……。

 私が学生のとき、ひとり、こんな仲間がいた。知人程度の仲間だが、彼は、二年生から三年
生に進級するとき、休学届けを出して、一年間、北海道へ行ってしまった。当時の私には信じ
られない行動で、私はその男の頭を疑った。みなも、「あいつは、狂った」とうわさした。

 しかしこの年齢になり、あのころを振り返ってみると、彼のほうが、正しかったのではないか
と、思うようになった。私はほかのほとんどの仲間と同じように、何かに追い立てられるようにし
て勉強ばかりしていた。意識したわけではないが、コースからはずれることを、何よりも恐れ
た。いや、コースからはずれた人生など、考えられなかった。

 が、この私の考えは、まちがっていた。オーストラリアのメルボルン大学にン留学して、それ
がわかった。「洗脳」という言葉があるが、私はまさに、日本の社会の中で、しかも子どものとき
から、洗脳されつづけてきた。しかし洗脳された人は、自分が洗脳されているとは、絶対に気
づかない。洗脳というのは、そういうもので、脳の中枢部分がいかれるから、それに気づくこと
はない。

 その洗脳を、私は三男の中に、ずっと感じていた。順調であっただけに、いつの間にか、三
男は通俗的なものの考え方ばかりするようになった。その少し前も、こう言った。「ぼくは、卒業
したら、今の学歴をうまく生かして、仕事をする」と。三男は笑いながら、そう言ったが、それを
聞いた私は、心底、ゾーッとした。

 私は三男にこう言った。「落第、よかったね。一年間、休暇のつもりで、いろいろ自分で考え
てみるといいよ。好きなことをすればいい」と。その言葉が、三男にはよほど意外だったらしく、
「じゃあ、怒ってないのか?」と。私はすかさず、こう言った。「お前は、今まで、よくがんばった。
ここらで一休みするのもいいと思う。一休みして、自分さがしをしてみたらどうだろう。健康だ
し、お前には、自由がある。あせって、人生の階段を登ることはないよ。こんな言い方はヘンに
聞こえるかもしれないが、一年間の有給休暇をプレゼントするよ」と。

 その日の夜遅く、三男は車で帰ってきた。私に電話するまで、よほど眠られぬ夜を過ごしたら
しい。帰ると、すぐさま自分の部屋に入り、そのまま翌日の昼過ぎまで寝ていた。私とワイフ
は、「バカなヤツ」「バカな子ね」と言いあって、笑った。

 そうそう私の知人の中に、こんな男性がいる。友人の弟だが、四二歳のときにリストラされ
た。そこで彼はそのとき手にした退職金で単身、マレーシアのクアラルンプールに行き、しばら
く仕事をしたあと、中古のヨットを買ったという。私がその話を友人から聞いたときには、「クア
ラルンプールで知りあった、フランス人女性と、インド洋を航海しているころだ」ということだっ
た。

 私はめったに、人をねたまない人間だが、この話を聞いたときには、「上には上がいるものだ
なあ」と感心すると同時に、その「ねたみ」を感じた。「人生は、そうでなくちゃあ」とも思った。

 まじめであることは、それ自体は美徳だが、しかしまじめであるだけが人生ではない。そうい
えば、最近、私の教え方も少し変わってきたように思う。生徒が、「先生、まちがえたア!」と言
ったりすると、私はこう言う。「あのね、勉強なんてものは、適当にすればいいんだよ。適当でい
いんだよ。だいたいできれば、それでいいの」と。
(02−11−24)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(332)

人間の重み

 ときとして、幼児でも、わかったようなことを口にすることがある。先日も、一人の子ども(年長
児)が、「人生、楽もあれば、苦もあるさ」と。私がふと、「人生には、いろいろあるからね」と言っ
たときのことだ。

 もちろんその子どもは、本当に、その意味がわかって言ったわけではない。この言葉は、あ
るテレビドラマの主題歌の歌詞だし、それにそれをその子どもに教えたのは、そのドラマを見
ている家族なのだろう。つまり受け売り。

 一方、先日、何かの会議(愛知万博懇談会)で、養老孟司(ようろうたけし)という、医学者と
同席させてもらったことがある。日本を代表する医学者である。その養老氏が、ふと、こう言っ
た。「人体の中は宇宙です」と。そのときはあまり意味がわからなかったが、その言葉の重みと
いうか、それがズシンと、こちらの胸に響いた。

 この違いは、どこからくるのか。音声として耳に届く言葉は同じなのだが、あるいは同じように
意味のある言葉(?)なのだが、受け取る私の方の印象が、まるで違う。

 そこで登場するのが、「人間の重み」である。昔は、「貫禄(かんろく)」と言った。「身に備わっ
ていえる威厳。堂々とした風格」(日本語大辞典)という意味だが、どうもそれとも違うように思
う。日本を代表する哲学者のY氏にしても、直接会って話をしてみると、どこかひょうひょうとし
ていて、気さくなおじさんといった感じの人物だ。養老氏にしても、もし通勤電車の中で会った
ら、そこらのおじさんと、まったく区別つかないだろう。服装も質素だったし、会ったときは、髪の
毛もボサボサだった。貫禄があるかないかということになれば、まったくない。

 が、違う。明らかに違う。しかしそれは、人間の違いというよりは、ひょっとしたら私の先入観
の違いによるものなのか。相手が幼児だと、「意味のあることを言うはずがない」という思いで
聞いてしまう。しかし養老氏ともなると、「何か意味があるはずだ」という思いで聞いてしまう。私
も結構、権威主義的なものの考え方をするところがある。無意識のうちにも、相手を、「上下関
係」で区別してしまう。が、それだけでは、説明できない。

 言葉というのは、いわば、火山の噴火のようなものではないか。小さな噴火でも、その下に、
巨大なマグマがたまっているときもあるし、反対に、大きな噴火でも、その下のマグマが意外と
小さいときもある。私が「違い」として感ずるのは、表面的な噴火ではなく、そのマグマなのだ。
子どもが、「人生、楽もあれば、苦もあるさ」と言ったところで、そのマグマをまったく感じない。
しかし養老氏が、「人体の中は宇宙です」と言うと、その下に巨大なマグマを感ずる。それが
「人間の重み」ということになるのかもしれない。

 こう考えていくと、もう結論が出たようなものだ。自分という人間を重くするためには、そのマ
グマを大きくすればよいということになる。しかしここで誤解してはいけないのは、重くするの
は、あくまでも自分のためである。人にどのような印象を与えるかは、あくまでも結果であって、
目的ではない。が、こういうことは言える。マグマが大きくなればなるほど、ささいなことで動じな
くなる。迷わなくなる。そしてそれが生きる原動力になる。つまりその分、自分の人生をより有
意義に生きることができる。

 で、問題は、いかにすれば、そのマグマを大きくすることができるか、だ。それについては、こ
れからの課題としたい。
(02−11−24)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     いつもこのマガジンでは、
   /  ⊂▼▼⊃      子育ての最前線で役にたつ知識や情報を
  /    │ ∈        お届けしています。
 **********∪ ̄∪          ぜひ、一度、購読してみてください。
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖    では、よろしくお願いします。
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃     どうか、風邪などに、
   〃_〃    〃ο〃       お気をつけください。
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――
   \ /    \ /
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-27

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 522人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  85人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−27号(145)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー

【1】子育てポイント
【2】随筆
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

口うるさい親

 ただ口うるさいだけなら、子どもに、それほど大きな影響はない。「カバン、もって!」「ハンカ
チは、もったの?」「お知らせは、どう?」「学校に遅れるわよ!」と。

 影響があるとするなら、せいぜい子どもに免疫性ができること。親の指示に、鈍感になる。保
育園や幼稚園でも、先生が何かを指示しても、自分勝手なことをしている、など。

 この「口のうるささ」に、「押しつけ」が入ると、子育てそのものがおかしくなる。ゆがむ。口うる
さくあれこれ指示しながら、その指示を、子どもに押しつけようとする。この押しつけが強けれ
ば強いほど、それはそのまま過干渉、過関心になる。

 とくに自己中心的な親、がんこな親ほど、注意する。このタイプの親は、もともと住む世界が
狭く、その世界だけでものごとを考える。「自分は絶対、正しい」という過信のもと、その返す刀
で、「あなたはまちがっている」と言う。もちろん独断、思い込みが強く、他人の話に耳を傾けな
い。

 私が知っている母親に、Rさん(四〇歳)がいた。話せば長くなるが、何かにつけて私に相談
してきた。そこで私がアドバイスすると、それについて、ああでもない、こうでもないと反論してき
た。だからいつも最後は、「だったら、はじめから、私に相談しないでください」という言い方をす
るしかなかった。一度は、「そこまで言うなら、自分で教えてみたら」と、喧嘩(けんか)別れをし
たこともある。

 もっともこのRさんは、そのあとしばらくして、アルツハイマー病になってしまったから、今から
思うと、それがその初期症状だったかもしれない。アルツハイマー病になる人は、四〇歳前後
で、約五%というから、二〇人に一人。決して、少ない数ではない。

 一般的には、親が口うるさければうるさいほど、子どもは、自分で考える力をなくす。善悪の
判断にうとくなり、常識ハズレになりやすい。ものの考え方が極端になり、バランス感覚をなくす
こともある。「バランス感覚」というのは、ものごとの是非を静かに考え、判断し、その判断に従
って行動する感覚のことをいう。昔、「私、結婚して、はやく未亡人になって、黒い喪服を着てみ
たい」と言った女子高校生がいた。そういうような考え方をするようになる。

 どうであるにせよ、口うるさいのは、子どもにとっては、あまり好ましいことではない。できるだ
け、親の指示は少なめにするのがよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(324)

同じ「バカ!」でも……

 「言葉の暴力」というのがある。「暴力」だから、言い方によっては、子どもは、キズつく。ばあ
いによっては、心的外傷(トラウマ)になることもある。しかし、そうでないケースもある。いつも
キズつくとは限らない。そのちがいは、どこにあるのか。

 私は愛情と、信頼感の二つをあげる。

 たとえば親が子どもに、「バカ!」と言ったとする。そのとき、その言葉の裏に、(1)絶対的な
愛情と、(2)絶対的な信頼感があれば、子どもの心はキズつかない。しかしそれがないと、キ
ズつく。

 ここで「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味。「疑いを抱かない」というのは、
「そういうことを考えもしない」という意味。たとえばよく若い男女は、「私を信じて……」「ぼくは、
君を信じているよ……」という会話をする。しかしそういう会話をすること自体、たがいを信じて
いないということを意味する。本当にたがいに信じあっていたら、「信じて」とか、「信じている」と
か、そういう言葉は使わない。疑っているから、使う。

 親子もそうで、この絶対的な愛情と、信頼感が、たがいの間にあれば、「愛している」とか、
「信じている」などという言葉は、使わない。(欧米人のように、あいさつがわりに、「愛している」
と言うのは、別だが……。)

 一方、子どもは子どもで、この絶対的な安心感に包まれている子どもは、ドシッとした落ち着
きをみせる。態度も大きく、どこかふてぶてしい。反対に愛情不足や家庭不和など、精神的に
不安定な環境で育った子どもは、どこかセカセカとしている。愛想はよいが、その割には、心を
開かない。心を許さない。

 さて、あなたはどうか。あなたの子どもは、どうか。子育てをしていると、つい会話の中で、き
びしい言葉を使うこともある。「バカ!」というのも、そうだ。そういうとき、親は、あとになって、
「ひどいことを言ってしまった」と反省することもある。が、そのときのキーポイントは、愛情と信
頼感。この二つがたしかなものであれば、それほど、気にすることはない。が、それがなけれ
ば、……。この先は、あなた自身が、考えてみてほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)

●費用は一人二万円
 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝い
を、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な
着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のように、列席者がそ
の前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、やや皮肉をこめた言い
方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこう言った。「家でするより楽
で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房
 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と言うよ
り、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだっ
たが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、
「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでお
しまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。反対
に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも
流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」
 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて私も言っ
た。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待されても行かない
わ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなも
のだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝いを盛大に
するということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子どもを愛したことにも、
大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。むし
ろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。「自分は大切な人間だ」と思う
のは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢心である。その慢心がつのれ
ば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでな
ければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生
 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車屋
の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガラスさえ
拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人はその人だ。が、問
題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、その女性が育った家庭環
境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。農家の出身だが、子ども
のころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、その女性はそういう女性になっ
た。

●虚栄の世界で
 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息子が
いたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習わせ
た。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは一事が万
事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。たしかに
その女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったのかどうか
ということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、
さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?
 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。
ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期
待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五月の
節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は火の車だっ
たが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」
という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの
 子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ドラ息子
化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになるから、
やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗
りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいこと
は言うまでもない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高

 が、中にはお金をか校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれ
だけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、や
めたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
(1255)
((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

          ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(320)

老後

 「リストラ」と簡単には言うが、それは、その人の全人格を否定することに等しい。ただ単にク
ビになるイコール、職を失うというだけではすまない。たいていの人は、リストラされると、「自分
の人生は何だったのか」と、思い知らされる。過去を振り返っても、何もない。積み重ねてきた
ものが、何もない。それを知るのは恐ろしいほどの衝撃だ。

 若い人はまだよい。リストラされても、「また仕事をさがせばよい」と考えることができる。しか
し五〇歳も過ぎて、リストラされると、その衝撃は、はかり知れない。過去のみならず、未来を
も否定される。「どうやって老後を過ごせばいいのだ」と。それを考えただけで、絶望的になる。
残りの人生は、まさに「残りの人生」。若い人には、「残りの人生」と言われてもピンとこないだ
ろうが、いわゆる先細りの人生をいう。ゴールには、死が待ち構えている。

 中高年の男性の自殺がふえている。年間三万人余(〇一年・三万一〇四二人)とも言われて
いる自殺者のうち、中高年の自殺は、七五%以上をしめる(〇一年・警察庁)。また自殺者の
七割が、男性と、男性が圧倒的に多い。理由は、「健康問題」(四〇%)、「経済、生活問題」
(三二%)と、自殺率は、失業率とリンクしているという。失業率が高ければ高いほど、自殺率
が高くなるという。
 
 こういう数字を見て、ドキッとするのは、私自身もその予備軍のようなものだからか。リストラ
とまではいかないが、この長引く不況の中で、仕事は先細り、そういう状態に加えて、明日(い
や、今日にでも)病気か事故にあえば、それで万事休す。自分で選んだ道とはいえ、私の身分
や収入を保障してくれるものは、何もない。ときどき、自分が薄い氷の上を、恐る恐る歩いてい
るように感ずるときがある。その氷の下では、老後や死が、「おいで、おいで」と手招きしてい
る。

 実際、私のばあい、もともと不安神経症があるので、少しリズムが変調すると、言いようのな
い焦燥感を覚えることがある。精神状態が、フワフワしてしまい、自分でもつかみどころがなく
なってしまう。ただ救われるのは、そういう状態になっても、病識(自分が病気だという自覚)が
あること。もしなかったら、精神病院に入院しなければならないかもしれない。だからそういう状
態に、自分を追い込まないように、極力、注意を払っている。

 が、災難というのは、こちらが望まなくても、向こうからやってくる。「どうしてこの私が巻き込ま
れねばならないのか」という災難も多い。人間社会で生きるということには、こういう問題が、い
つもついて回る。決して、無難ではありえない。そういう災難にも、注意を払わねばならない。

 さてさて、これからの老後をどう組み立てるべきか。まあ、いろいろやってはみたが、結局
は、私は何もできなかった。「お前は何をやってきたのか」と聞かれても、その答が出てこな
い。そして「お前はこれから先、何をするのか」と聞かれても、その答も出てこない。「どうしたら
いいのかなあ」と思いつつ、何とか、今日を無事に過ごして、明日につなげる。結局は、そうい
う生き方になってしまう。願わくば、天寿をまっとうして、死ぬまで朗らかに生きたいと思うが、し
かしその自信は、まったくない。ときどき、「このまま眠るように死ぬことができたら、気が楽に
なるだろうな」と思うこともふえた。

 年間三万人余ということは、一日平均、八四人ということ。一時間あたり、三人から四人の人
が、命の火を自ら消していることになる。こういう数字を見て、他人ごとに思える人は、それだ
けで幸福な人かもしれない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(321)

悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護す
る。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのとこ
ろに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいです
ね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、いつもこの悲
しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、
職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌
っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「もう、生き
ているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさい」と。しかし私
は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったにちがいな
い。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。それはとりもなおさず、こ
の世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた生活の
中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もいる。あるいは
生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワクの中で、虐待を受け
ている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻
りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NK一彦という友人がいた。一〇年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円
空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その彼と、金沢の野
田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼は
こう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、
立派な希望だよ」と。

 それから三五年。私はNK君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし今、こ
こで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいないNK君に、こう
言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がどうあるかわからないし、どうな
るかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。そこに人間の尊さがある。生
きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけか
もしれない……。ときどき「NK君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこのと
ころ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、抵
抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思っ
てしまった。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
11・29 ……砂丘小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●「賛助会」へご協力をお願いしています。
詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
みなさんのご協力を得て、ホームページ、マガジンをより充実させたいと考えています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
I appreciate your kindness to pay a visit to my second 
son's website in USA, for which I thank you very much.
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ホームページに「動画コーナー」ができました。まだ初歩ですが、これから先、
充実させていきます。私のサイトのトップページ、右列の「動画」よりどうぞ!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.html
●「子育てワンポイント集1〜600」も、そちらに収録しておきました。CDにして
  販売する予定でしたが、希望者が10名にならなかったので、こうします。お申し
  込みいただきましたみなさんには、申し訳なく思いますが、お許しください。もち
  ろん無料です。
●「はやし浩司のサイトの♪テーマ音楽」もできました。お楽しみください。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ホームページのほうで、「タイプ別、子ども相談」を充実しました。
トップページから、「タイプ別」へお進みください。お待ちしています。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page295.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【ホームページを発行している方へ】
☆相互リンクさせていただけませんか?
☆お知らせくだされば、そのままこちらの相互リンクページに掲載させていただきます。
☆連絡先は、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のトップページ下に「メールコーナー」がありま
す。少しめんどうですが、よろしくお願いします。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

  以上、コマーシャルばかりで、すみません! よろしくお願いします
   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖    また次回お会いしましょう!
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃      寒いときは、温かいものを食べて
   〃_〃    〃ο〃         元気を出しましょう!    
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――
   \ /    \ /
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
☆===================☆==================

(イラストは、パナソニックパソコン付録のフリーソフトを転用・改変しました。)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

よろしかったら、お友だちの方に、以下の文面を転送していただけませんか?
よろしくお願いします。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-29-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 522人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  85人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−29号(146)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー

【1】子育て失敗危険度
【2】随筆
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ほら、カバン、カバン!
国語力を豊かにするために(失敗危険度★)

●会話環境と言葉
 「ほら、カバン、カバン! ハンカチは! バス、バス……、ほら、帽子!」と、こんな話し方を
していて、子どもに国語力が育つはずがない。こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたは
カバンをもちます。ハンカチはもっていますか。もうすぐバスが来ますから、急いでしたくをしな
さい。帽子を忘れないでください」と。こうした会話環境があってはじめて、子どもは国語力を身
につけることができる。が、こんな方法もある。

●バツグンの表現力
 一人、バツグンの国語力のある子ども(年長女児)がいた。作文力をみたら、小学四〜五年
生程度の力があったのではないか。紙芝居を渡しても、その場でスラスラと物語をつくってみ
せた。そこで母親にその秘訣を聞くと、こう話したくれた。

 母親の趣味はドライブ。そこでほとんど毎日、それもその子どもが乳幼児のときからドライブ
に連れていったのだが、そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物語のテープを聞かせつづ
けたという。物語は、子ども向けのものから、もう少し年齢の大きい子ども向けのものまで、い
ろいろあったという。

 確かにこの方法は効果的である。別の母親は、芥川竜之介の難解な小説(「高瀬舟」)を吹
き込んだカセットテープをその子ども(小一)に、毎晩眠る前に聞かせた。数か月もすると、そ
の子どもはその物語をソラで言えるようになったという。

●読み聞かせのコツ
 この方法にはいくつかのコツがある。テープに録音するにしても、やはり一番よいのは、母親
の声。物語は何でもよいが、読んで聞かせる目的なら、二〜四年レベルの高いものでも構わ
ない。大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っている。そういうところで、教科書を
手に入れるとよい。値段も安いし、内容もよく吟味されている。また国語にかぎらず、社会や理
科、あるいは道徳の教科書でもよい。子どもが興味をもっていることなら一番よいが、あまりこ
だわる必要はない。

 さて冒頭の話だが、子どもの国語力の基本は、あくまでも親、なかんずく母親の国語力によ
る。あなたも子どもの前では、正しい日本語で話してみてほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


交通事故に気をつけてね
寸劇指導法(失敗危険度★)

●指示は具体的に
 具体性をともなわない指示は、子どもには意味がない。よい例が「友だちと仲よくするのです
よ」とか、「先生の話をよく聞くのですよ」とかなど。こういうことを言っても、言う親の気休め程度
の意味しかない。こういうときは、たとえば「これを○○君にもっていってあげてね。○○君は喜
ぶわ」とか、「今日、学校から帰ってきたら、終わりの会で先生が何と言ったか、あとでママに話
してね」と言いかえる。「交通事故に気をつけるのですよ」というのもそうだ。

●下水溝で遊んでいた子ども
 交通事故について話す前に、こんな例がある。その子ども(年長男児)は何度言っても、下水
溝の中に入って遊ぶのをやめなかった。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がなかった。
そこでその母親は、家庭排水がどこをどう通って、その下水溝に流れるかを説明した。近所の
家からはトイレの汚水も流れこんでいることを、順に歩きながらも見せた。子どもは相当ショッ
クを受けたようだったが、その日からその子どもは下水溝では遊ばなくなった。

●迫真の演技で
 交通事故については、一度、寸劇をしてみせるとよい。私も授業の中で、ときどきこの寸劇を
してみせる。ダンボールで車をつくり、交通事故のありさまを迫真の演技でしてみせるのであ
る。……車がやってくる。子どもが角から飛び出す。車が子どもをはね飛ばす。子どもが苦し
みながら、あたりをころげまわる……と。気の弱い子どもだと、「こわい」と泣き出すかもしれな
いが、子どもの命を守るためと考えて、決して手を抜いてはいけない。迫真の演技であればあ
るほど、よい。たいてい一回の演技で、子どもはこりてしまい、以後道路へは飛び出さなくな
る。

 もしあなたの子どもが、何度注意しても同じ失敗を繰り返すというのであれば、一度、この寸
劇法を試してみるとよい。具体的であるがために、説得力もあり、子どももそれで納得する。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


娘は地元の大学でないと困ります!
設計図タイプの親(失敗危険度★★★★)

●将来は医師か弁護士に
 親が自分の子どもに夢や希望を託すのは、悪いことではない。それがあるから親は子どもを
育てる。子育てもまた楽しい。しかしそれが過剰になったとき、過剰期待となる。が、さらにそれ
が進んで、中には、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に子どもをあてはめようとする親
がいる。「やさしくて思いやりのある、スポーツマンタイプの子ども」「高校はS高校で、大学はA
大学。将来は医師か弁護士」と。しかし……。

●独特の話し方
 設計図をもっている親は、独特の話し方をする。たとえばこんな言い方。「私はどこの高校で
もいいと思っていますが、うちの子はS高校へ入りたいと言っています。そんなわけで、どうかう
ちの子の希望をかなえさせてあげてください」と。そこで子ども自身に聞くと、「ぼくはどこでもい
いけど、お母さんがS高校でなくてはダメと言っている」と。

 あるいはこんなことを頼んできた親もいた。いよいよ娘(高三)が大学受験というときになった
ときのこと。私に「娘は地元の大学でないと困ります。私から言っても言うことを聞きませんの
で、先生、あなたのほうから説得してください。なお、私がこうして先生に頼んだことは内密に」
と。

●結局は親のエゴ
 このタイプの親は、自分の頭のどこかに描いた設計図に合わせて、自分の子どもの外堀を
埋めるような形で、子どもをしばりあげていく。そして結果的に、自分の思いどおりの子どもを
つくろうとする。親にしてみれば、自分だけがそういう育て方をしていると思っているが、教える
側は無数の親と接している。そしてそういう親たちをパターン化することができる。その一つ
が、このタイプの親ということになるが、もっともそれでうまくいけばよいが、親の思いどおりに
いくケースは一〇に一つもない。

ある子ども(中三男子)は、ある日母親にこう叫んだ。「ぼくの人生だから、ぼくの好きなように
させてよ!」と。たいていはそんな衝突を繰り返しながら、親子はやがて離れていく。

●子どもは「モノ」にあらず
 子どもはたしかにあなたから生まれ、あなたの子どもかもしれないが、同時に、別個の人間
である。古い世代の人の中には、まだ子どもを「モノ」のように思っている人も多い。が、しかし
こうした意識は、きわめて原始的ですらある。もしあなたがここでいう設計図タイプの親なら、自
分自身の中の原始的な親子観を疑ってみたらよい。子どもはあなたの思いどおりにはならな
いし、ならなくて当たり前。またならなかったからといって、嘆くこともない。現に今、あなただっ
て、あなたの親の設計図どおりにはなっていないはずだ。だったら、自分の設計図を子どもに
当てはめないこと。もともと親子というのは、そういうもの。そういう前提で、自分の子育て観を
改める。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます!
互いに別世界(失敗危険度★★★)

●子育てに尺度はない
 子育てには尺度はない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハマりやすい。こんなことがあった。

F君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに
負けただけで、机を蹴っておお暴れしたりした。そこである日、私は母親にこう言った。「もっと
家事を分担させ、子どもを使いなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」
と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べ
をしてくれます」と。

●「うちの子は何もしてくれないんですよ」
 一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事
は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。
「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。

 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はF君とY君に接したので、その違いがよけいに
強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。

●互いに信じられない
 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも
かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースもある。そして互いに互いのこと
が信じられない。

私が「A君(年長児)は、幼稚園へ行くとき、身の回りのしたくはすべて自分でしているのだそう
ですよ」と言うと、そうでない子どもをもつ親は、「信じられません」と言う。また反対に、「B君
(年長児)は、幼稚園へ行くとき、服をまだお母さんに着せてもらっているそうですよ」と言うと、
そうでない子どもをもつ親も、やはり、「信じられません」と言う。尺度というのはそういうもの
で、親はいつも自分や自分の子どもを基準にして考える傾向がある。言いかえると、いかにし
て自分の尺度を疑ってみるかも、子育てでは重要なポイントとなる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

エサを「ホレホレ」と見せつけて手なずける
恩を着せない(失敗危険度★★★★★)

●日本型子育て法
 日本人の子育てには、ひとつの大きな特徴がある。もう二五年ほど前のことだが、アメリカ人
の教育家が日本人の子育てを批評してこう言った。「日本人は自分の子どもに依存心をもた
せることに、あまりにも無頓着すぎる」と。つまり日本人は子どもを育てるときも、親に依存心を
もたせるように育てる。そしてその結果、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコ
ール、よい子とする。反対に独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」として嫌う。

●ペットを手なずけるように
日本人は、子どもに依存心をもたせるような育て方をする。それはちょうどペットの犬を飼いな
らすような方法と言ってもよい。たとえば犬を飼いならすとき、エサを「ホレホレ」と見せつけな
がら、「(主人の)言うことを聞いたらあげるよ」と言う。同じように日本人も、まず子どもに何か
よい思いをさせたあと、「もっとよい思いをしたかったら、(親の)言うことを聞きなさい」としつけ
る。たとえばある女性(六四歳)は、小学五年生になった孫(男児)に、電話でこう言った。「お
ばあちゃんのところへ遊びにきてくれたら、小遣いをあげるよ。ほしいものを買ってあげるか
ら、おいでよ」と。

こういう言い方になれてしまっている人には、何でもない言葉に聞こえるかもしれないが、そう
でない人には、かなり不愉快な言い方に聞こえるはず。たとえばオーストラリアでもアメリカで
も、こういう言い方はしない。子育てのし方が基本的な部分で違う。相手が子どもでも、「食事
がほしかったら、それなりの仕事をしなさい」としつける。いわんや孫をエサで釣るようなことは
しない。

●「先生はわかってくれているからいい」
 その依存心は、相互的なもの。「産んでやった」「育ててやった」と親は子どもに恩を着せる。
着せながら、親は子どもに依存する。一方子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらっ
た」と恩を着せられる。着せられながら、子どもは親に依存する。

 こうした依存性の強い人は、万事に「甘い」。何かにつけて、してもらうのが当たり前という考
え方をする。考え方も、甘い。ある子ども(小五女児)はこう言った。「明日の遠足は休むと、学
校の先生に連絡したの?」と私が聞くと、「今日、足が痛いと言ったから、先生はわかってくれ
ているはず」と。そこでまた私が、「休むなら休むで、しっかりと連絡したほうがいいんじゃない
の?」と言うと、「先生はわかってくれているからいい」と。

●「だから何とかしてくれ」
 もう一つの特徴として、このタイプの子どもは、「だから何とかしてくれ」言葉をよく使う。たとえ
ば何か食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてく
れ!)」というような言い方をする。「先生、おしっこオ、(だから何とかしてくれ!)」というのもそ
うだ。

子どもだけではない。ある女性(七〇歳)はことあるごとに、彼女の息子(四五歳)にこう言って
いる。「私も歳をとりましたからね」と。しかも電話でそれを言うときは、今にも消え入りそうな
弱々しい声で言うという。こうした言い方は、先に書いた、「だから何とかしてくれ」言葉そのも
のと言ってよい。その女性は、息子に「歳をとったから、何とかしろ」と言っている。

日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそれくらい依存心の強い国民と
いうことになる。長くつづいた封建時代の中で、骨のズイまで、自由(自らに由る力)を奪われ
たためと私は考える。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」と。

●日本人は依存型民族?
 一方、自立心の旺盛な子どもは、攻撃的にものごとに取り組む。生きざまそのものが攻撃的
で、前向き。このことについては前にも書いたので、問題はそのつぎ、つまりどうすれば自立心
の旺盛な子どもにすることができるか、である。

が、この問題は、冒頭にも書いたように相互的なもの。子どもに自立心をもってほしかったら、
親自身が自立しなければならない。が、たいていは親自身に、その自覚がない。親自身が「甘
え」の中にどっぷりつかっているため、自分が依存型の人間であることに気づかないことが多
い。あるいは反対に、依存的であることを、むしろ美化してしまう。よい例が、森進一が歌う『お
ふくろさん』である。大のおとなが、夜空を見あげながら、「ママ〜」と涙をこぼす民族は、世界
広しといえども、そうはない。そういう歌が、国民的な支持を受けているということ自体、日本人
が依存性の強い国民であるというひとつの証拠と考えてよい。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そのためにもまずあなた自身が自立する。その
第一歩として、子どもには恩を着せない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

うちの子はどうして勉強しないのかしら?
母親が一番保守的?(失敗危険度★★)

●ワーク選びの基準
 本来、地位や名誉、肩書きとは無縁のはずの、いわゆるステイ・アト・ホーム・ワイフ(専業主
婦)が、一番保守的というのは、実に皮肉なことだ。この母親たちが、もっとも肩書きや地位に
こだわる。子供向けの同じワークブックでも、四色刷りの豪華なカバーで、「○○大学××教授
監修」と書かれたものほど、よく売れる。中身はほとんど関係ない。中身はほとんど見ない。見
ても、ぱっと見た目の編集部分だけ。子どものレベルで、子どもの立場で見る母親は、まずい
ない。たいていの親は、つぎのような基準でワークブックを選ぶ。

(1)信用のおける出版社かどうか……大手の出版社なら安心する。
(2)権威はどうか……大学の教授名などがあれば安心する。
(3)見た目の印象はどうか……デザイン、体裁がよいワークブックは子どもにやりやすいと思
う。
(4)レベルはどうか……パラパラとめくってみて、レベルが高ければ高いほど、密度がこけれ
ばこいほど、よいと考える。中にはぎっしりと文字がつまったワークブックほど、割安と考える親
もいる。

●インチキ教授たち
 しかしこういうことは大手の出版社では、すでにすべて計算ずみ。親たちの心理を知り尽くし
た上で、ワークブックを制作する。が、ここに書いた(1)〜(4)がすべて、ウソであるから恐ろし
い。大手の出版社ほど、制作は下請け会社のプロダクションに任す。そしてほとんど内容がで
きあがったところで、適当な教授さがしをし、その教授の名前を載せる。この世界、肩書きや地
位を切り売りしても、みじんも恥じないようなインチキ教授はいくらでもいる。出版社にしても、
ほしいのは、その教授の「肩書き」。「中身」や「力」ではない。だいたいにおいて、大学の教授
ともあろう人が、子どものワークブックなどにかかわるはずがない。

●ワークブック選びは慎重に
 今でもときどき、テカテカの紙で、鉛筆では文字も書けないようなワークブックをときどき見か
ける。また問題がぎっしりとつまっていて、計算はおろか、式すら書けないワークブックも多い。
さらにおとなが考えてもわからないような難解な問題ばかりのワークブックもある。見た目には
よいかもしれないが、こういうワークブックを子どもに押しつけて、「うちの子はどうして勉強しな
いのかしら?」は、ない。

 私も長い間、ワークブックの制作にかかわってきたが、結論はひとつ。かなり進歩的と思わ
れる親でも、こと子どもの教育となると、保守的。保守的な面を批判したりしても、「そうは言っ
てもですねエ……」とはねのけてしまう。しかしこの母親たちが変わらないかぎり、日本の教育
は変わらない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

お母さんが苦労するのは、お父さんのせいよ
父親は母親がつくる(失敗危険度★★)

●互いに高次元な立場で!
 こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性な
ら、私は反対のことを書く。

 あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらし
い人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう
語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなた
が父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことを
いう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。

●父親の悪口を言う母親
 「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会
社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのか
もしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。そうでなくてもむず
かしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができるというのか。こん
な子どもがいた。

●男を男とも思わない
男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小四)だった。M子という名前
だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというよ
り、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。そこでそれとなく聞いてみると、
母親はある宗教団体の幹部。学校でもPTAの副会長をしていた。一方父親は、地元のタクシ
ー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼ばれるただの信徒だった。どこ
かボーッとした、風采のあがらない人だった。そういった関係がそのまま家族の中でも反映さ
れていたらしい。

●夫婦像をつくるのは親
 で、それから二〇年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には
至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞
いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。

 子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういう
ものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておか
ねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう
意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

日本の子どもは何もしない
使えば使うほどよい子(失敗危険度★★★★)

●子どもは使え
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●「日本の子どもはスポイルされている」
 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポ
イルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君
は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生
が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生です
ら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなもの
がある。

●ドラ息子の症状
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。
目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由
をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣
そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ
消費的な行動が多くなる。(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依
存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目
立つ。(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って
行動することができない、など。

あなたの子どもをドラ息子、ドラ娘にしたくなかったら、とにかく使うこと。それ以外にあなたの
子どもをよい子にする方法はない。
はやし浩司(ひろし)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

          ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ドラ息子症候群

 英語の諺(ことわざ)に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがあ
る。要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう例
は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしな
いのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小
三)は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。その
場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にかなわない
と、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってな
いようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。
バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。こ
うも言った。「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地
主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えることそのも
のが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべき
ことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこともあった。受験を控えた中三のと
きのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまったのである。悪質な万引
きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作
をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。そして彼が高校二年生になった
ある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼ん
でいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」と。そこで私
は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその万年筆を
取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった! とたん私は彼に飛びか
かっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったよ
うに責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)「ああ、これで私の教師生命は断たれ
た」と、そのときは覚悟した。が、M君の父親が、私を救ってくれた。うなだれて床に正座してい
る私のところへきて、父親はこう言った。「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝
しています。本当にありがとう」と。
(中日新聞で発表済み)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(134)

金正日のハイヒール

 月刊誌の「S」(小学館発行)に、金正日(北朝鮮の軍事独裁者(読売新聞社説))のハイヒー
ルについて書いてあった。そこには、「短小コンプレックス、マザコン……」と。北朝鮮の人が読
んだら、激怒しそうな言葉が並んでいた。(ひょっとしたら怒るのは、本人だけかもしれないが
……。)もちろん写真も添えられていた。いわく、「以前は、(クツを)外国へ特注していたが、最
近では、国内で調達するようになった。日本で厚底サンダルがブームになる以前から、金正日
は、厚底ハイヒールをご愛用」と。

 拡大写真を見ると、三〜四重底の厚底! その上に、ハイヒール! 高さまでは書いてなか
ったが、常識的に考えても、一五センチ以上はあるのでは! 私はその記事を読んで、つまり
私には考えられない発想なので、驚いた。ワイフにそのことを話すと、ワイフは笑いながら、
「中身のない人は、外見を気にするからね」と。日本にも一五年ほど前、「ハイヒール大臣」と酷
評された外務大臣がいた。日本ではほとんど話題にならなかったが、もちろん外国では笑いモ
ノだった。が、何を隠そう、私にもこんな経験がある。

 はじめてのデートのときのこと。高校二年生のときだった。私はでかけるとき、近くの文房具
屋で消しゴムを二個買った。そしてそれをそっとクツの底に入れた。身長は数センチ高くなっ
た。が、それからがたいへんだった。しばらくすると、一歩歩くたびに、足の底から、ヤリでつつ
くような激痛が走るようになった。彼女は「どうしたの?」「クツを脱いだら?」と声をかけてくれ
たが、クツなど脱げるものではない。私はその激痛と戦うだけで精一杯。とてもデートどころで
はなかった。

 問題は、一国の元首や外務大臣が、外見を気にすることだ。そういう立場の人は、私たち一
般庶民のレベルを、ふたつもみっつも、超えていなければならない。精神的にも思想的にも、
だ。が、そういう人たちが、私が高校生のときにしたことと同じことをしている! 笑うというよ
り、そのレベルの低さに、ただただあきれる。そこで改めて考えてみる。「外見」とは何か、と。

 同じく昨日(02−9−28)、こんなニュースが、新聞(読売新聞夕刊)に載っていた。今度、韓
国のプサンで、アジア競技大会が開かれるという。それに北朝鮮の選手団も参加することにな
ったという。写真は、北朝鮮からやってきた応援団のものだった。何でも船でやってきたらし
い。見ると、「左側が北朝鮮からの応援団」と。私は記事がまちがっているのではないかと思っ
た。が、まちがっていなかった。見るからに豪華なチョゴリ、チマ(朝鮮の民族衣装)を着ていた
のが、北朝鮮の応援団。Tシャツ風のシャツを着て、握手の手をさしだしているのが、プサン市
民。「トップがトップだから、応援団も、外見を気にするのだなあ」と、私はへんに感心した。ワイ
フは、「韓国へやってくるような人は、北朝鮮でも、トップクラスの人ばかりよ」と言ったが、私も
そう思う。超特権階級の、そのまた一部の人たちに違いない。(あるいは見栄えのよい人が選
ばれた? 内情はわからないが、写真で見るかぎり、ふつうの人たちでないことは、たしか
だ。)

 外見と中身は、ヤジロベーのようなものではないか。外見と中身が、両横でバランスがとれ
て、まん中のヤシロベーは、静止する。そんなわけで外見が気になり始めたら、中身をみがく。
外見が気になったとき、外見ばかりみがくと、ヤジロベーは、バランスを崩して、倒れる。一方、
中身をみがけば、自然と外見も、それらしくなってくる。そういう意味では、ヤジロベーというより
は、最中(もなか)のようなものかもしれない。たい焼きでもよい。中身のまずい最中やたい焼
きは、一口かんでみればすぐわかる……。

 そこで子育て論。人間というのは、一見複雑に見える生き物だが、それほど複雑ではない。
意外と単純というか、わかりやすい。「一事が万事」という言葉があるが、その一事がすべてを
象徴する、……ということはよくある。たとえば私たちが親を見るとき、外見を気にする親という
のは、一方で、子どもの外見も気にする。言いかえると、親を見れば、その親が子どもに何を
求めているかまでわかる。これ以上のことは、ここには書けないが、一方、中身のすばらしい
人もいる。

 私が尊敬するドクターにTさんがいる。Tさんとはあまり話したことはないが、そのTさんの妻
が、何かのことで、ふとこう言った。「夫は、患者さんから送り届けられた金品は、すべて送り返
しています」と。Tさんは、市内の医療機関で、泌尿器系の治療を担当している。私はその話を
聞いて、改めてTさんの子どもたちを見なおした。本当にそのまま生きているという感じの子ど
もたちで、どこにも気取ったところもない。で、私はある日、その子どもにこう言った。「ぼくも死
ぬときがきたら、君のお父さんにみてもらうからね」と。

 ただ外見と違って、中身をみがくのはむずかしい。時間もかかるが、それ以上に努力も必
要。前にも書いたが、それは健康論に似ている。日々の鍛錬だけが、健康を守る。そして中身
をつくる。毎日のんべんだらりと過ごしていて、どうしてその中身をみがくことができるというの
か。……といっても、矛盾することを言うようだが、その中身をみがくことは、日常のほんのささ
いなことから始まる。滝に打たれて修行するとか、座禅を組んで瞑想するとか、そういうことで
はない。毎日何時間も読経すればよいというものではない。中身をみがくということは、日々の
生活の中で、正直に生きるとか、ウソをつかないとか、人に迷惑をかけないとか、そういうこと
で始まる。その日々の生活が、月となり、月々の生活がやがて年となり、その人の人格を形成
する。

 ……改めて、金正日のハイヒールを頭の中に思い浮かべる。そしてふと、こう思う。「彼は、
日々に何を思い、何を考えて生きているのか」と。多分というより、まちがいなく、心のさみしい
独裁者だ。毎日、失うことばかりを心配しているに違いない。あるいはいつか、民衆が自分の
中身のなさに気づくのではないかと、ビクビクしているに違いない。いや、それ以上にかわいそ
うなのは、北朝鮮の人たちだ。ああいう独裁者に支配され、心も魂も抜かれてしまっているこ
と。抜かれたまま、「首領様、首領様」と、たたえている。(……たたえさせられている。)まさに
一事が万事。金正日のハイヒールは、人間が本来的にもつ、愚かさの象徴と考えてよいので
はないだろうか。
(02−9−29)※

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-1-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  もしよろしかったら、
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)  このマガジンを、お友だちの方に
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /    紹介していただけませんか?
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄      よろしくお願いします。
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 525人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−1号(147)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「心のメカニズム」(心について考えてみました)

【1】子育てポイント(How to cope with Kids at home)
【2】随筆(Essays)
【3】心のメカニズム(What is mind?)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

指は便利な計算機

 人間がなぜ十進法を使うようになったかといえば、指が十本だったから。もし人間の指が、三
本や四本だったら、三進法や四進法になっていたかもしれない。

 幼児は、ものを計算するとき、指を使う。親が教えるときもあるが、だれに教わるということも
なく、使い始めることもある。これは「数」を、「具象化」するためである。たとえば「2+3」は、
「○○と○○○」と具体的に図形化し、それを数えて計算する。そういう意味では、計算をする
とき、指を使うことは、悪いことではない。むしろ子どもがある程度、ものを数えられるようにな
ったら、指の使い方を教えるとよい。で、そのとき、つぎのような指導をすると、あなたの子ども
は、計算に強い子どもになる。

(1)指を見ないで、数を具象化させる……たとえばあなたが、子どもに「4!」と言い、子ども
に、頭の上で、指を4本のばさせる。このとき、子どもに自分の指を見させてはいけない。なれ
てくると、子どもは、即座に、7とか9をつくることができるようになる。
(2)早数えの練習をする……「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」から、「イチ、ニ、サン……」、さらに
は、「イ、ニ、サ……」と、数えられるように練習する。たとえば1から10までを、「イ、ニ、サ、
シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジ」と、数えさせる。さらにそれができるようになったら、数を信号化させ
るとよい。「ピッ、ピッ、ピッ……」と。具体的には、手を早くパンパンと叩かせて、それを数えさ
せる。
(3)年長児になったら、指から、今度は、丸を描かせるようにして、計算させる。たとえば「2+
3」は、丸を二つと、三つを描かせ、それを数えさせる。少しめんどうだが、めんどうだと思うか
ら、今度は、子どもは頭の中で数え始める。それをねらう。

 なお計算力があるからといって、算数の力があるということにはならない。計算力と、算数の
力は、まったく別のものである。計算力は訓練で伸ばすことができるが、数の力を伸ばすの
は、容易ではない。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

          ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

老後(2) 

 おととい、Nペイントという、日本でも一、二を争うペンキ会社で、会長をしていたというT氏
が、久しぶりに我が家へ寄ってくれた。一五年ぶり? 玄関で会ったとき、「お元気ですか」と言
いかけたが、思わず、その言葉がのどの奥に引っ込んでしまった。T氏は、すっかり老人ぽくな
ってしまっていた。

 居間でしばらく話していると、やがて年齢の話になった。私が「五五歳になりました」と言うと、
「いいですねえ、これからですよ」と。私が驚いていると、こうつづけた。「ちょうどバブルのころと
いうこともありましてね。私が本当に自分の仕事ができたと思うのは、五六歳から六三歳まで
のときでした。頭も体も、すこぶる快調で、気持ちよく仕事ができました」と。

 実のところ、私は、自分でも実感できるほど、体の調子がよい。昨日も講演先の小学校で、
階段を三段とびにのぼっていたら、あとから追いかけてきた校長が、「足がじょうぶですね」と
ほめてくれた。「はあ、自転車で鍛えていますから」と答えたが、そのおかげというか、健康に
は、これといって、不安なところはない。ダイエットしたおかげで、どこか頭の中もスッキリしてい
る。

 私は年配の人が、私に向かって、「若くていいですね」と言うときは、いつもそれを疑ってしま
う。「本当にそうかな?」「なぐさめてくれているのかな?」「お世辞かな?」と。五五歳になった
私の印象としては、「先が読めない」という不安感のほうが強い。「これからはガンになる確率
がぐんと高くなる」とか、「これからはすべてが先細りになる」とか、そんなことばかり考える。よく
ワイフは、「あなたは、見かけは若々しいけど、中身は老人ぽい」と言うが、本当にその通りだ
と思う。

 ルソー(フランスの思想家、一七一二〜七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけてい
る。多分、これを書いたとき、彼も今の私と同じ、五〇歳代だったのだろう。

 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳
では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。

 あのルソーですら、「貪欲に動かされる」と。いわんや私をや……と、居なおるわけではない
が、五五歳というのは、ちょうど、「そうであってはいけない」「しかしそういう自分も捨てきれな
い」と、そのハザマで悩む年齢かもしれない。まだ野心の燃えカスのようなものも、心のどこか
に残っている?

 T氏はさかんに、「まだまだ、これからですよ」と言ってくれたが、「これから先、何ができるの
だろうか」という思いも、また強い。またそういう思いとも戦わねばならない。「貪欲さ」がよくない
とはわかっているが、しかしそれがなくなったら、生活の基盤そのものが、あやうくなる。働い
て、仕事をして、稼ぎを得て、それで生きていかねばならない。私のばあい、悠々自適(ゆうゆ
うじてき)の年金生活というわけにはいかない。いわんや「英知のみを追う」などというのは、夢
のまた夢。

 そうそうT氏は別れぎわ、こうも言った。「林さんは、いいねえ。道楽が多くて……。私なんぞ、
人間関係のウズの中で、自分を支えるだけで精一杯でした」と。しかしこれは、T氏一流の、私
への「なぐさめ」と理解した。
(02−11−22)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●「だれも、私たちの未来を禁止することはできない」
(No one can forbid us the future.)

 そのときはわからなくても、歳をとるとわかるというようなことはよくある。英語とて例外ではな
い。 

 有名な政治家に、レオン・ガンベッタ(Leon Gambetta、1838−82)がいる。フランスの
政治家である。彼は、これまた有名な言葉を残している。それが、
 
 No one can forbid us the future.

 である。

 もともとフランス語だった言葉を、英語に訳したものだから、この英文が正確なものであるか
どうか、少し心配なところがある。しかし私はこの言葉の訳に、ずいぶんと悩んだ。直訳すれ
ば、「だれも、私たちの未来を禁止することはできない」ということになるが、しかしそれでは、
意味がわからない。

 この文では、「forbid」が、重要なカギを握っているのがわかる。私が知っている意味は、ここ
に書いた「禁ずる」という意味。そこで念のため、あらためて手元の辞書を調べてみると、やは
り「禁ずる、許さない」という意味しかない(大修館書店版の「ジーニアス英和辞書」)。たとえ
ば、「She forbade me to join the party.(彼女は私がその仲間に加わるのを禁じ
た)」というような使い方をする(同辞書より)。

そんなわけで、私はいつだったか、若いとき、この文をはじめて読んだとき、「どうしてこんな言
葉が、それほどまでに有名な言葉なのだろう」と、不思議に思ったのを覚えている。しかし、こ
の文の重要なカギは、実は、「forbid」ではなかった。カギは、だれでも知っている単語の、「fut
ure(未来)」のほうにあった。

 「自由」とは何か。好き勝手なことを気ままにすることを、自由と考えている人は多い。しかし
これは誤解。もともと「自由」という言葉(中国語)は、「自らに由(よ)る」という意味である。自分
で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。しかしだからといって、それがそのまま英
語でいう、「liberty(自由)」のことだと考えるのは正しくない。たとえば英語で「自由」というとき
は、「自分の意思に従って行動できる人間としての基本的権利」をいう。そこでもう一歩、この
考えを押し進めると、「自分の意思に従って行動する」というのは、「自分の未来は、自分で決
める」ということであることがわかる。言いかえると、私たちが自分の未来を決めるとき、だれに
もさしずされてはいけないということ。またそんな権利はだれにもないということ。もちろん自分
の未来を禁止されるなどということは、絶対にあってはいけない。

 そこでもう一度、先の英文を読み返してみると、今度は、スンナリと意味がわかる。つまり「だ
れも、私たちの未来を禁止することはできない」というのは、たとえばあなたが自分の意思で行
動しようとするとき、それを「そうしてはダメだ」と、禁止することは、だれにもできないというこ
と。それがどんな未来であれ、その未来を決めるのは私たち自身である。そしてそれこそが、
「自由」の意味だ、と。何でもないような言葉だが、この言葉は一方で、まさに、「自由」の基本
原理を説明しているのがわかる。

 私もこの年齢になって、英語でいう「liberty(自由)」の意味が、おぼろげながらわかるように
なった。そういう点では、私は若いときから、「自由だ、自由だ」と思ってはきたが、本当のとこ
ろは、その意味がわかっていなかったことになる。が、このところやっと、自由の意味がわかっ
てきた。と、同時に、はじめて、このガンベッタの言葉の意味がわかるようになった。

 「だれも、私の未来を禁ずることはできない」というのは、もう少しわかりやすく言うと、「私の
未来は、自分で決める。それをさまたげる人は、だれもいない」ということになる。「自由論」の
一つとして考えてみた。

●本物の「自由」とは何か。みんなでそれを考えてみよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


私の料理

 私は、よく自分で料理をする。しかし同じ料理をつくったことがない。いつも何か新しい料理に
挑戦する。そしてたいてい、いつも(当然だが……)、失敗する。方法は、こうだ。

 まず仕事の帰り道に、本屋で料理の本を立ち読みする。その種の本は、めったに買わない。
そしてその本の中から、「これは!」と思う料理を選ぶ。そしてその作り方を、読んで暗記する。
ときどき、本屋を出たところで、紙切れにメモすることはある。

 そして数日内に、(たいていは翌日に)、その料理を、自分で作る。私が選ぶ料理は、まあ、
そんなわけで、「とんでもない料理」(ワイフ談)ばかり。日本でもめったにお目にかかれないよ
うな日本料理とか、アフリカや中近東の料理とか。先日は、イラン料理をつくったし、つぎにどこ
の名物料理か忘れたが、「ほうろく鍋」というのも作った。このほうろく鍋のときは、野菜の水分
が、底に敷いた塩をまざってしまい、大失敗。塩からくて、とても食べられなかった。

 もちろん定番もある。ニンニクライス、雑炊、ビーフステーキ、チャーハンなど。こまごまとした
技術が必要な料理は苦手。おおざっぱに、火を使って作る料理が得意。あるいはその場にあ
る材料を使って、即座に作る。知恵を働かせ、機転をきかせてつくる。昔、『料理の鉄人』という
テレビ番組があったが、そんなわけで、あの番組だけは、毎回、欠かさず見た。

 ほかに、ほとんどできあがっているレトルト(パウチ)食品を、もとの原型がわからないほどま
でに加工して作ることもある。説明書など、ほとんど、読んだことがない。そうそう私がつくるカ
レーライスは、絶品だ。最近は、タイ風の味つけに、ココナツミルクを入れる技術を身につけ、
山荘などにくる客人などに喜んでもらっている。

 もうひとつの私の料理の特徴は、ほとんど食器を使わないこと。道具もあまり使わない。これ
はあとで洗うのがめんどうだから。今夜の夕食も、私が作ったが、使った皿は、二枚だけ。あと
はフライパンと箸だけ。見るに見かねて、ワイフが、スープを自分で作ったが、それだけ。何品
か作るときも、大きな皿に並べて盛りつける。

一応、ワイフはいつも、「おいしい」と言って食べてくれるが、本当のところは、わからない。今
夜の料理も、実のところ、名前がつけられないほど、不思議な料理だった。あえて言うなら、タ
イ風焼きそばシーフードチャーハン。その料理を食べながら、たがいに、「今度、○○というレ
ストランで、△△を食べようね」「北海道のラーメンを食べてみたいね」と、そんな話ばかりして
いた。ハハハ。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


話のタネに、……北朝鮮の教育制度

 あの北朝鮮という国は、日本から見ると、何もかもヘンな国だが、教育制度は、日本のそれ
と、それほど、違わない?

 ただ大学を卒業しても、就職先は、国が決めるという。職業選択の自由はないらしい。以下、
重村知計著「北朝鮮データブック」(講談社現代新書)より、おおまかなところを拾ってみる。

●子どもは満四歳になると、二年制の幼稚園に入る。
●六歳からは、小学校にあたる、人民学校に入る。
●その人民学校を終えると、六年制の高等中学校に入る。ここまでが義務教育。
●大学進学は、成績と、出身成分によって左右され、また党幹部の子弟が優先される。とくに
金日成総合大学には、党幹部の子弟が優先的に入学する。
●人民学校では、金日成の革命活動や革命歴史が主要科目になっている。
●高等中学校でも、同様の科目が主要科目になっていて、これらの科目の成績が悪いと、大
学進学はむずかしい。
●北朝鮮の大学数は、二八〇校で、大学生は、三一万四〇〇〇人。金日成総合大学は、一
五の学部に分かれ、学生数は、一万二〇〇〇人。
●高等中学校六年生の五月に、全国統一の学力試験が行われる。試験の結果と成績は、各
道や市、郡別に発表される。この試験の成績に従い、地方教育機関が、それぞれの受験生に
対して受験できる大学を決める。
●北朝鮮の入試競争倍率は、工学部で七倍。医学部では一〇倍になるという。
★大学入試に失敗すると、子どもたちは、自動的に軍隊に入隊することになる。
★大学を卒業すると、職場は地区の党委員会が決定し、個人の職業選択の自由はない。
●党機関や政府機関に勤務できれば、ある程度の生活や住宅が保証される。
●北朝鮮の学生がもっとも、あこがれる職業は、外交官と貿易商社の社員、だそうだ。

 こういう流れをずっとみていくと、北朝鮮という国が、実に巧みに、体制にとってつごうのよい
人間だけを選別しているのがわかる。つまり「教育」と言いながら、その実態は、まさに「人間
選別」。しかも党幹部にとっては、何からなにまで、つごうがよいようにできている。よく「北朝鮮
は、金正日に独裁国家」というが、実は、その恩恵にあやかり、甘い汁を吸っている党の幹部
たちこそが、金正日体制を支えている。

 しかし考えてみれば、この日本だって、北朝鮮と、それほど違わない? この表の中の(★)
の部分をのぞけば、日本の教育制度そのものといってもよい。たとえばこの日本では、一度、
公務員になれば、あとは死ぬまで身分と収入が保証される。社会のしくみそのものが、何から
なにまで、役人と呼ばれる人たちにとって、つごうがよいようにできている。

日本が民主主義国家と思っているのは、日本人だけ。日本を一歩離れてみると、日本の民主
主義が、欧米のそれとはまったく異質なものであることがわかる。日本は奈良時代の昔から、
まさに官僚主義国家。上から下まで官僚主義国家。が、それが日本人にはわからない? 恐
らく北朝鮮の人たちだって、自分たちの国は、民主主義国家だと思っているに違いない。北朝
鮮の正式名称は、「朝鮮民主主義人民共和国」。意識というのはそういうもので、その国だけ
に住んで、外の世界を知らないと、自分たちがどういう意識をもっているかさえわからなくなって
しまう。

 話がまたまた過激になってしまったが、あの北朝鮮ほど、戦前の日本の亡霊を引きずってい
る国はない。戦前の日本、そのものと言ってもよい。あるいはどこがどう違うというのか。で、そ
の日本は、敗戦により、今の民主主義(?)をアメリカから注入されたが、悲しいかな、肝心の
日本人自身は、戦前の日本を、いまだかって一度も清算していない。反省もしていない。だか
らある部分は、民主主義的にはなったが、また別のある部分は、戦前のまま残ってしまった。
今に見る官僚主義が、そのひとつということになる。

●北朝鮮の独裁体制を笑う前に、私たち日本人は、真の民主主義国家をめざそう!

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
(特別編集)

心のメカニズム

*****************
少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。
*****************

 まず、数か月前に私が書いたエッセーを読んでみてほしい。この中で、私は「気持ちよさ」と
か、「ここちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって
私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口
論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るものか」と
そのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのと
き、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は
「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、
最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのも
のと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と
呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょう
ど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(た
いじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。その扁桃
体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究でわかってき
た。もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に信号を送
り、それを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感に包まれ
るというのだ。ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに五〇円のお金を渡したことが、扁
桃体に信号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひ
とつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を
経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私
は二三、四歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、
「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数十種類ほど発見されている。その麻薬様物
質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質
は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されるこ
とで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ず
るのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出す
るためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうし
て、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられて
いた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられた
こともある。しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維
持だけではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。そう
なると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもって
いたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実
際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別
としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもち
ろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。たとえば散歩をしていても、ど
こかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突然、背筋をピンとのばしたりす
る。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何か、よいことをしたようなとき、
頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そして誇らしそうな様子を見せる。
恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人間の脳の中の活動と同じことが
起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた信号が、辺縁系の扁桃体に送
られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということにな
る。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性
に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母
親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむとい
う内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病
院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。
が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふ
つうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人
のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書
いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働
きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反
応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」という
のも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によっ
て、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえば
ニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレ
スだと言われている。何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドと
いう物質が分泌される。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を
体の中で引き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづく
と、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与
える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまで
も「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレス
にさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。イギリスにも、『抑圧
は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があれば煮つめてみる
が、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるのがよい。そしてそれ
が、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が
重複するが、許してほしい。

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつ
かまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてき
て、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が
凍りつくのを覚えた。よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず
虫にポケットのフチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと
思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長
男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかっ
たが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景に
あるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破
壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する
能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。
昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減
らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言
いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある
子どもになる。心もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを
渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れてい
る子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


ここまでの原稿に関連して、この八月にマガジンで配送した原稿を、送ります。前に読んでくだ
さった方は、とばしてください。

++++++++++++++
子育て随筆byはやし浩司
++++++++++++++

性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数十万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚
そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返
す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、
よく出会う。たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれ
て、さまざまな感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。
眠っている赤子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に
繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁
桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。確かに知的活動(大脳連合野の新新皮
質部)と、情動活動は、違う。たとえば一人の幼児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児
は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみると、それは知的な判
断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしているこ
とがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく四〜六歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であること
がわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれなが
らにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正し
い。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもには
ならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわか
る。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、
それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新
生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやが
れ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していた
はずである。つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人で
あるという証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この一、
二年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によ
っては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地
面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば一〇分もたたないうちに、無数の小さなアリが
集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかってい
るのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの
幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っている
だけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではな
いように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行
為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が
楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はアリたちにも、同じような作用
が働いているのではないかと思った。つまりアリたちは、ただ単に行動本能に従っているだけ
ではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感じているのではないか、と。またその喜びがあ
るからこそ、そういった重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅し
ていたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じている
に違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をする
ことができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪
なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。
私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし
私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物
にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。
自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って
行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

中日新聞に掲載済みの原稿より……

内容が一部重複しますが、お許しください。以前、中日新聞に載せてもらった記事です。
++++++++++++++++++
「抑圧は悪魔を生む」・ゆがむ子どもの心

 イギリスの諺に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。心の抑圧状態が続くと、ものの考え
方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺はない。き
びしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、まさ
に悪魔的になる。こんな子ども(小四男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも
他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつう
の子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。何とそこには、血が
飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文字
もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。
ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。神経質な人で、毎日、二時間以上の学
習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノルマになっているワークブックがしてい
ないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事
件は、現場ではいくらでもある。その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件
があった。一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺し
てしまったというのだ。この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親た
ちの間でも大きな問題になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子
ども(中学生)もいた。牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もい
た。ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫
の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった
子ども(小三男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。そういう
症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干渉が原
因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散さ
せようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。一般論とし
て、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られている。合理
的で打算的になる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲に
は、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人
ほど、心が温かいということを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのは
しかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れて
はならない。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-3-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 526人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−3号(148)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育てポイント
【2】随筆
【3】学校恐怖症
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
週間E'newsより、転載
+++++++++++++++++++++

■連載:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 -------------------

●No.41「子どもは水」

 私は幼児教育の世界に入って、まずしたことは、アンケート調査だった。そ
 のアンケート調査だけを、ただひたすら繰り返した。で、その調査の中でも、
 最初にしたのが、つぎのような調査だった。私は静かな住宅団地に住む子ど
 もは静かで、街中の交通のはげしいところに住む子どもは騒々しいと思って
 いた。それを証明したくて、調査をした。が、結果はハズレ。住環境と子ど
 もの静かさ、騒々しさはまったく関係がないことがわかった。静かな環境に
 住んでいる子どもでも、騒々しい子どもはいくらでもいた。騒々しい環境に
 住んでいる子どもでも、静かな子どもはいくらでもいた。

 子どもというのは、物理的な環境の変化、たとえば引っ越しなどによっては、
 ほとんど影響を受けない。とくに満四・五歳までの子どもは、あたかも水の
 ように自在に形を変えて、それぞれの環境に適応していく。むしろ引っ越し
 などは、子どもによい影響を与えることが知られている。よく「転勤族の子
 どもは頭がいい」と言うが、それもその一つ。そんなわけで、私は『子ども
 は水』という格言を考えた。が、子どもは、愛情の変化には、たいへん敏感
 に反応する。こんなことがあった。

 俗にいうツッパリ症状というのがある。目つきが鋭くなる、肩をいからせて
 歩く、ものの考え方が投げやりになり、言動が乱暴になるなど。私が経験し
 た中での最年少は、小学一年生のI君だった。彼は夏休みを境に、ここでい
 うツッパリ症状が出てきた。そこで母親に聞くと、母親は「思い当たること
 はありません」と。そこでさらに調べてみると、こういうことだった。

 それまでI君は、両親の間で、「川」の字になって寝ていた。が、夏休みに
 入って子ども部屋ができ、I君はそこでひとりで寝ることになった。I君は
 I君なりに、親の愛情が変化を感じたのかもしれない。私がそれを指摘する
 と、母親は「そんなことで!」と言ったが、もとのようにまた床を移すと、
 ツッパリ症状もウソのように消えた。

 家庭騒動、離婚騒動など、子どもの側からみて愛情の変化と見られるような
 行動は、慎重にするにこしたことはない。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ 
 ●発売中!「子育てストレスが子どもをつぶす!」
  リヨン社・四六判並製・1300円+税 
  *詳しくは上記ホームページの新刊案内をご覧下さい。

(((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ      よろしかったら、このマガジンのことを、
   /│田│ 田│ヽ      お友だちの方に、紹介していただけませんか?
   / │ │  │ ヽ      よろしくお願いします。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(336)

子どもの世界

 子どもには、三つの世界がある。家庭を中心とする、家族とのかかわりをもつ世界。これを
第一世界という。つぎに、保育園、幼稚園、さらには学校を中心とする、先生や友人とのかか
わりをもつ世界。これを第二世界という。そして家庭や学校から離れて、同年齢の仲間を中心
とする、友だちとのかかわりをもつ世界。これを第三世界という。

 最近では、これら三つの世界のほか、ゲームやパソコンを中心とする、バーチャル(仮想現
実)の世界も生まれてきた。これを第四世界というが、これについては、ここではふれない。

 子どもがまだ幼いあいだは、第一世界(家庭)が大きく、またそれがすべてである。しかし子
どもが保育園や幼稚園へ通い始めると、やがて第二世界(園や学校)が大きくなり、ついで、外
での第三世界(交友)が大きくなる。と、同時に、相対的に、第一世界が小さくなる。

 子どもというのは、それぞれの世界で、まったく別人を演ずることが多い。どの世界の子ども
が、本当の子どもであるかということを考えても意味はない。また一つの世界だけを見て、その
子どもを判断してはいけない。家庭の中では、だらしなくても、学校という世界では、模範生
(?)ということは、よくある。あるいはさらに学校では模範生(?)でも、友だちの間では、陰湿
ないじめを繰りかえし、嫌われているということもある。

 こうした子どもの特性を理解したければ、あなた自身はどうであったかを思い出せばよい。あ
なただって、親に見せる姿、先生に見せる姿、それに友だちに見せる姿は、それぞれ別の姿
であったはずである。今の今でも、家庭の中で見せる姿、職場で見せる姿、そして友人に見せ
る姿は、それぞれ違っているかもしれない。問題は、こうした違いがあることではなく、そうした
違いを、それぞれの場所で使い分けながら、人は、生活しているということ。

 もっともこうした「違い」は少なければ少ないほど、よい。この私でも、仕事をしているときも、
友だちと会っているときも、家族といっしょにいるように、それが気楽にできたらよいと思う。し
かし現実には、それはできない。できないから、ときには、疲れる。

 ……という話はまたの機会にして、結論だけをここに書く。

(1)一つの世界だけを見て、子どもを判断してはいけない。
(2)子どもが大きくなるにつれて、「家庭」はしつけの場から、心をいやし、心を休める「いこい
の場」になることを忘れてはいけない。
(3)子どもの姿を正しく知るためには、(1)子どもが、どんな友だちとつきあっているかを知る、
(2)先生に対しては、「聞きじょうず」になり、子どもの情報を正しく入手する。

 このうち、(3)に関連して、自分の子どもが、外の世界で、何かトラブルを起こすと、たいてい
の親は、「うちの子は悪くありません。友だちにそそのかされただけです」などという。そういうケ
ースももちろんあるが、そういうときは、まず自分の子どもを疑ってみる。とくに「私の子どもの
ことは、私が一番、よく知っている」という親ほど、そうする。自分の子どもを疑うことはつらいこ
とだが、あなたの子どもについて言うなら、あなたが知っている面より、知らない面のほうが、
はるかに多い。

 また先生に対しては、いつも聞きじょうずになること。先生と自分の子どもについて話すとき
は、自分の子どもでも、他人と思って話す。そういう姿勢があれば子どもを、より客観的に見る
ことができる。そして先生も、そのほうが、いろいろ話してくれる。

 これに関連して、以前書いた原稿を、二つここに添付する。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(1)友を責めるな、行為を責めよ(中日新聞掲載済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス、と
思わせるような、名格言である。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(2)先生と話すときは、わが子は他人(自著より転載) 

●話しにくい親たち
 親と話していて、「うちではふつうです」「K塾では問題がありません」と言われることぐらい、会
話がしにくいことはない。たとえば、私「このところ元気がありませんが……」、母「家ではふつう
です」、私「どこかで無理をしていませんか」、母「K塾では問題なく、やっています」と。

 先生と話すときは、わが子でも他人と思うこと。そう思うことで、親は聞き上手になり、あなた
の知らない子どもの別の面を知ることができる。たとえば子どもが問題を起こしたりすると、ほ
とんどの親は、「うちの子にかぎって!」とか、「友だちに誘われただけ」とか言う。しかし大半
は、その子ども自身が主犯格(失礼!)とみてよい。子どもを疑えということではない。子どもと
いうのはそういうもので、問題を起こす子どもほど、親の前では自分を隠す。ごまかす。

 溺愛ママと呼ばれる母親ほど、親子の間にカベがない。一体化している。だから子どもに何
か問題が起きたりすると、母親は自分のこととして考えてしまう。先生に何か問題がありますな
どと言われたりすると、自分に問題があると言われたように思う。思うから、「子ども(私)には
問題はありません」となる。しかしこういう盲目性が強ければ強いほど、親は子どもの姿を見失
う。そして結果として、子どもの問題点を見逃してしまうことになる。

●先生は本音でほめる
 先生というのは、学校の先生も塾の先生も限らず、子どもをほめるときには、本音でほめる。
しかし問題を指摘するときは、かなり遠慮がちに指摘する。つまり何か先生のほうから問題を
指摘されたときには、かなり大きな問題と思ってまちがいない。そういう謙虚さが、子どもの問
題を知るてがかりとなる。言いかえると、子育てじょうずな人というのは、一方で聞きじょうず。
自分のみならず、自分の子どもをいつも客観的にみようとする。会話をしていても、「先生の意
見ではどうですか?」「どうしたらいいでしょうか?」「先生はどう思いますか?」という言葉がよく
出てくる。そうでない人はそうでない。中には、「あんたはいらんこと、言わないでくれ」と言った
母親すらいた。しかしそう言われると、教師としてできることは、もう何もない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
(02−11−24)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(338)

心は、おとな

 幼児は、たしかに未熟で未経験だが、決して「幼稚」ではない。心はおとな。私の幼児観をか
える事件に、こんなことがあった。

 ある日のこと。Kさん(年長女児)は、いつもとはまったく様子が違っていた。私が何か問題を
出すと、「ハイ」と言って元気よく手をあげた。ふだんは静かで、ほとんど手をあげない子どもで
あった。理由はすぐわかった。その日、たまたま休みをつくって、Kさんのお母さんが、参観に
きていたのだ。

 私はKさんをほめ、つづいて、みなに、手をたたかせた。すると、そのKさんが、スーッと細い
涙を流したのだ。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、しかしそれにしては、おおげさであ
る。そこで授業が終わったあと、廊下で、私はKさんに、こう聞いた。「どうして泣いたの?」と。
すると、Kさんは、こう言った。

 「私が先生にほめられたから、お母さんが、喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思
ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさんは、自分のことで涙をこぼしたのではなかった。お母さ
んの心になって、涙をこぼしたのだ。

 だいたい「幼稚」という言葉がおかしい。おとなの世界でも、相手をバカにするとき、「おまえ、
幼稚だな」というような言い方をする。そこで私はある日、年長児の子どもたちに、こう言ってみ
た。

 「君たちは、幼稚、幼稚って、言われるけど、悔(くや)しくないか?」と。すると、子どもたちは
みな、「悔しい、悔しい」と言った。(本当に意味がわかっていて、そう言ったかどうかは、わから
ないが……。)

 私は、実のところ、NHKの幼児向け番組などで、指導者が、「お手々をブラブラブラ」とか、
「おなかを、ポンポンポン」などと言っているのを見ると、思わず、「幼児をバカにするな!」と叫
びたくなる。私は幼児教育を三〇年以上しているが、いまだかって、幼児をそういうふうに、指
導したことは、一度もない。あるいはあなたが、だれかにそういう指導をされたら、あなたは黙
って、それに従うだろうか。

 そうそう、先日、何かの取材で、近くの、特別擁護老人ホームへ行ってみたら、そこでも同じ
ような指導をしていた。どこか頭の鈍くなった老人を相手に、若い指導員が、「ハーイ、お手々
を、前に〜イ。イチ、ニ、サン……」と。それを見て、私は何だか、とても悲しくなった。私もやが
て、ああいう世界に入るのか、と。
(02−11−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(340)

いい子ぶることのたいへんさ

 ある女性(四五歳)からの相談。「私の母は七五歳になりますが、いまだに、私たち子どもに
さえ、心を開きません。私にさえ、ウソをつき、見栄をはり、自分を飾ります。そういう親に対し
て、いい子ぶることに疲れました」と。

 親が親であり、子が子であるのは、たがいが、深い愛情でつながっているから。またそれだ
けに思い出も深く、大きい。しかしその親子でも、絆(きずな)が、切れるときには切れる。決し
て不変なものでも、絶対的なものでもない。よく「親子の縁は切れるものではない」などと言う人
がいるが、そういうふうに、ものごとを決めてかかってはいけない。

 その女性も、通俗的な常識に、かなり苦しんだという。「そうであってはいけないという自分
と、毎日のように戦いました」と。具体的には、たとえばこんな事件があったという。

 その女性は、実家から二〇キロくらい離れている、隣の町のW市に住む男性と結婚した。熱
烈な恋愛のあと結婚だった。だからその女性にしてみれば、幸せな結婚だった。しかし母親に
は不満だった。その第一。嫁ぎ先に、夫の両親がいたこと。それに「格式が違った」(女性談)と
いうことだった。母親は、ことあるごとに、娘のその女性にこう言ったという。「あんたは、向こう
の親をめんどうみるために、結婚したようなものじゃない。だったら、私のめんどうは、だれが
みてくれるの。それにあんたは、もっといい家の人と結婚できたはず。もったいないことしたわ
ね」と。

 その女性の夫も、同じように感じていたのかもしれない。ことあるごとに、夫は夫なりに、その
母親に尽くした。しかしそれがやがてエスカレートし、いつの間にか、少しずつだが、生活費ま
でめんどうをみるようになった。母親は夫に先だたれ、そのときすでに一〇年近く、ひとり暮らし
だった。さみしさもあったのかもしれない。

 しばらくすると夫側の両親も、つづけてなくなってしまった。そんなとき、夫が、中国の上海へ
技術指導に行くことになった。その女性も、いっしょについて行くことにした。そこでその女性
は、母親に、もろもろの重要書類と、権利書、それに貯金通帳などを預けた。「母なら安全だと
思ったからです」と。

 しかし「安全」ではなかった。半年後に一時帰国してみると、母親はその女性夫婦の通帳から
勝手に、お金を引き出し、その大半を使ってしまっていた。屋根瓦の修理費や、部屋の改装費
などに、そのお金をあてたという。そこでその女性が、「どうして使ったの!」と責めると、母親
は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守るため、子どもの財産を使って何が悪い!」と。

 それからというもの、その女性は、毎日、地獄のような日々を過ごした。「親だと思わなけれ
ばならない」「親だとは思えない」という二つの、気持ちの板ばさみになった。そこでしばらく音信
をひかえていると、そのつど、母親から電話がかかってきて、今にも死にそうな声で、「帰ってき
ておくれ」「帰ってきておくれ」と。一度は、本当に死にそうな声だったので、その女性はあわて
て帰国したという。「しかし母は、ピンピンしていました。私はそのピンピンとした姿を見て、驚い
たほどです」と。

 その女性は、こう言う。「私も、親戚の人たちの目を意識して、できるだけいい娘を演じようと
思ったこともありますが、もう疲れました」と。そしてごく最近も、電話で話すと、こう言った。「も
う、親戚の人たちにどう思われようが、気にしなくなりました。どうせ私は悪者に思われている
のですから。それでいいのです」と。

 親子といえども、基本的には、一対一の人間関係。人間関係である以上、こわれるときに
は、こわれる。親も、そして子どもも、「親子であるという関係」に、決して甘えてはいけない。親
にとってはきびしい言い方かもしれないが、親とて、いつか、一人の人間として、子どもに判断
されるときがくる。問題は、そういうときがくるということではなく、そういうときがきてもよいよう
に、親は親で、自分をきたえておかねばならないということ。何がみじめかといって、自分の低
劣な人間性を、子どもに見抜かれることくらい、みじめなことはない。私は、こう言った。

 「日本人は、『親』という言葉に、とくべつの意味を感じます。またその言葉に、とくべつの幻想
をいだきます。そして親を不必要に美化したり、絶対化したりします。もちろんすばらしい親もた
くさんいます。ほとんどがそうかもしれません。しかしだからといって、すべての親がそうである
と考えるのは、明らかにまちがっています。あなたはあなたで、いいと思います。あなたのこと
を親不孝な悪い娘と思う人がいたら、そう思わせておけばいいのです」と。
(02−11−25)

(注)この母と娘の話は、以前にも書いた。本人のプライバシーの問題もあるため、そのつど、
内容を少し変えている。そのため以前書いた内容と、多少違うかもしれないが、許してほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(341)

よく泣く子ども

 一〇年ほど前に書いた本の中で、私は「よく泣く子ども」をつぎの五つのタイプに分けた(「子
育て格言、ママ一〇〇賢」)。

(1)感受性が強いタイプ 
(2)過保護児タイプ
(3)情緒不安定タイプ
(4)萎縮児タイプ
(5)精神的に未熟なタイプ

 ずいぶんときびしい言葉を使っている。自分でも、そう思う。当時の私は、まだ「子育てのやさ
しさ」を知らなかった。今の私なら、泣いている子どもを、こんなふうには分類しない。それにつ
いては、もう少しあとに書くことにして、その本に従って、よく泣く子どもについて、考えてみる。

(1)感受性が強いタイプ 
 子どもは大きく、(1)敏感児と(2)鈍感児(知的な活動が、鈍感というのではない)に分けて考
える。神経が繊細な子どもと、そうでない子どもと思えばよい。敏感児のうち、さらに神経が過
敏になり、ふつうの指導がなじまない子どもを、過敏児という。昔の言葉を借りるなら、「神経質
な子ども」ということになる。
 このタイプの子どもは、いつも精神が緊張状態にあって、ささいなことで、突発的に泣き出し
たりする。子どものばあい、精神が緊張状態にあるかどうかは、抱いてみればわかる。抱いた
とき、そのままスーッと体をすり寄せてくるようなら、よし。しかし緊張状態にある子どもは、心を
許さない。許さないから、抱いても、それをがんこに拒絶したりする。敏感児であるにせよ、鈍
感児であるにせよ、その子どもがもって生まれた気質と理解して、無理をしないこと。

(2)過保護児タイプ
 過保護児は、社会性がないため、何か自分の処理できないことがあると、混乱状態になる。
ふつう子どもが泣くときは、(1)ワーワー泣きながら攻撃的な姿勢を見せる子ども(プラス型)
か、(2)グズグズしたり、ジクジクしたりして、心が内閉する様子を見せる子ども(マイナス型)
のどちらかになる。
 過保護児タイプの子どもは、このうち、マイナス型の泣き方を示すことが多い。外界からの刺
激に対して、自分のカラを厚くして、それから身を守ろうとする。これを防衛機制という。この防
衛機制が、極端な形になったものが、引きこもりということになる。もちろん過保護児がみな、
引きこもりを起こすというのではない。ないが、社会性のない子どもは、どうしても、内へ内へ
と、こもる傾向を示す。たとえばブランコを横取りされたとき、「どうして取るのだ!」と言い返す
ことができればよい。しかしそれができないから、心の中にストレスをためてしまう。

(3)情緒不安定タイプ
 情緒不安というのは、心の緊張感がとれないことをいう。緊張した状態の中に、不安や心配
が入り込むと、その不安や心配を解決しようと、一挙に情緒が不安定になる。それを情緒不安
という。
 先にも書いたように、攻撃的になるプラス型と、ジクジクとするマイナス型に分けて考えるとよ
い。あるいは自分の緊張感をほぐすために、モノに固執したりすることもある。さらにその不安
定さを解消しようと、代償的(つぐない的)に、指しゃぶりをしたり、髪いじりをしたりする子どもも
いる。

(4)萎縮児タイプ
 親の威圧的な過干渉や、過関心が日常的につづくと、子どもの精神は、萎縮する。子どもら
しいハツラツとした様子が消え、顔色もどんよりと曇ってくる。
 子どもの精神が萎縮してくると、みながドッと笑うようなときでも、笑うことができず、クックッと
小声で笑ったりする。さらに萎縮してくると、さまざまな「ゆがんだ症状」が出てくる。たとえば心
の状態と、表情がチグハグになるなど。悲しいはずなのに、無表情であったり、怒っているは
ずなのに、ニヤニヤ笑ったりするなど。これを「遊離」というが、こういう状態になると、親は、「う
ちの子はグズで」とか、「何を考えているかわからない」などと言ったりする。が、原因は、家庭
にあると思い、家庭のあり方、とくに親子関係を、かなり真剣に反省すること。子どもというの
は、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、ほうっておいても、ハツラツとした子ども
になる。人間には、もともとそういう力が備わっている。中に、「うちの子は、生まれつきグズで
……」と言う親がいるが、生まれつきグズな子どもは、絶対にいない。またそれがわかる人も、
絶対にいない。

(5)精神的に未熟なタイプ
 子どもの心の発達をみるときは、(1)情緒の安定性と、(2)精神の完成度をみる。精神の完
成度というのは、その年齢の子どもらしい、人格の「核」形成ができていることをいう。
 核形成が進むと、「この子どもは、こういう子ども」というとらえどころが、はっきりしてくる。し
かしそれがないと、それがわからなくなる。全体に幼稚性が残り、約束や目標が守れないなど
の退行性が見られることが多い。子どものばあい、「幼い感じがする」というのであれば、精神
的な発達が未熟であることを疑ってみる。溺愛、過保護などが日常的につづくと、子どもの精
神の発達が遅れることがあるので注意する。

 「泣く」というのは、心にうっ積したストレスを発散し、心を安定させるための、代償行為と考え
てよい。子どもによっては、泣くことによって、自分の心を調整する。もちろんかんしゃく発作
や、キレた状態(一時的な精神錯乱)になって泣く子どももいるが、それはここでは考えない。
ふつうよく泣く子ども、その前の段階として、よくグズる。子どものグズリについては、また別の
ところで考える。

 最後に、こうして「よく泣く子ども」を分類して考えたが、分類したところで、ほとんど実際には、
役にたたない。子どもが泣くというのは、本来、あってはいけないこと。少なくとも私は、ここ一
〇年、私の教室で、子どもを泣かせたことは、一度もない。そんなわけで、一〇年前にこれに
ついて書いたときには、それなりに意気込んで書いたが、ここでは、「まあ、そういうこともある
か」という程度に考えてほしい。今から思うと、「よくもまあ、こんな冷酷な分類ができたものだ」
と、思う。ホント!
(02−11−25)

++++++++++++
後半部へ
ごめんなさい!
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++









件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-3-2A

後半部です(はやし浩司より)

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

日々、思いつくまま書きました。
お忙しい方は、とばしてください。

++++++++++++++++++++++

UFOロマン

 テレビ番組で、かいま見た、UFO映像。
 ある宇宙船の窓から、偶然写った映像らしいが、こんなものだった。

 視界には地球全体が写っている。そこへ右のほうから、ゆっくりと白い点が移動してくる。ゴミ
のような感じがしないでもないが、それ自体が白く光っている。が、突然、その白い点が、鋭角
に方向を変えて、今度はやや上昇ぎみに右上方に移動する。とたん、地球のほうから、白い光
線(ビーム)が、発射される! 先の白い点は、速度を変えることもなく、悠然(ゆうぜん)と、右
の方向に飛び去っていく。もし白い点が方向を変えなければ、その白い光線に当たっていたか
もしれない。そういう位置関係にあった。

 この映像は、過去、数回にわたって、あちこちのテレビ番組で紹介されているので、見た方も
多いと思う。もっともこの種のUFO映像は、ニセモノが多いので、まずもって本物かどうか、疑
ってかかる必要はある。しかしいろいろなUFO映像を見てきたが、私は、このUFO映像は本
物だと思う。思うから、ここではその先を書く。

(1)UFOが鋭角に方向転換できるのは、なぜか。
(2)白い光線が発射される直前に、UFOは、方向転換をしている。なぜ方向転換したのか。
(3)白い光線は、どこから発射されたか。明らかに地上から発射された感じがする。
(4)白い光線の正体は何か。レザー光線とはどうも違うようだ。白い光跡を残している。
(5)どうやって、白い光線を発射した人(?)は、UFOの存在を知ったか。そんな宇宙用レーダ
ーが、あるのか。
(6)どうやってUFOは、前もって、白い光線が発射されるのを知ったか。UFOは、明らかに白
い光線を回避している。
(7)なぜUFOは、反撃しなかったか。UFOは、そのまま悠然と飛び去っている。
(8)なぜ、白い光線を発射したのか。敵対関係にある人(?)がそうしたと考えるのが妥当だ
が。
(9)白い光線が、敵対意識をもったものであるとするなら、たがいにどういう関係なのか。

 時間にすれば一〇秒足らずの映像だったが、私の頭の中には、つぎつぎと疑問がわいてき
た。そしてそれらを考えているうちに、やがて、私の頭の中は混乱状態になった。順に考えて
みよう。

(1)UFOが、未知の推進装置をもっているらしいことは、前からよく言われている。ふつう高速
で急に方向転換すれば、中にいる生物は、G(加速度重力)で体がバラバラになってしまうはず
である。
(2)UFOは、前もって回避行動に出ている。ということは、自分にレーダーが照射されたこと
を、事前に知ったことになる。アメリカ軍の戦闘機も、よく敵からレーダー照射されたとき、その
照射に応じて、そのレーダー基地を爆撃するということがよくある。それと同じに考えてよいの
か。
(3)白い光線は、明らかに地上から発射されたよう。一つの番組の中で、「(アメリカの)エリア
51から発射されたようです」と言っていたが、真偽のほどはわからない。
(4)レザー光線が、宇宙で、白い光跡を残すだろうか。あるいはもっと物質的な光線だったか
もしれない。光の速さで、UFOに向けられたというよりは、明らかに速度感があった。光の速さ
なら、瞬時に宇宙を横切り、そういう速度感はないはずである。
(5)UFOを地上で発見したとしても、宇宙を航行するUFOをどうやって発見したのか。巨大な
宇宙用レーダーはすでに、存在するのか。
(6)UFOは、ここにも書いたように、明らかに回避行動をしている。回避行動をしたということ
は、UFOはその白い光線を恐れたということになる。
(7)UFOは、そのまま飛び去っていったが、どうして反撃しなかったのか。反撃しようと思えば
できたはず。しかし反撃しなかったということは、もともと相手にしていないか、あるいは反撃し
ないほど、平和的なUFOだったということになる。
(8)人間とUFOの関係なら、敵対関係ということもありうるが、人間がUFOを相手にして、勝て
るわけがない。
(9)宇宙人対宇宙人の関係なら、話がわかる。地球へやってくる宇宙人は、一種類でないと
は、よく言われている。もしそうなら、その宇宙人どうしが、戦闘状態にあると考えてよいのか。

 もし私が宇宙人なら、人間など、相手にしない。それはちょうど、人間が、インドネシアのジャ
ングルで、オラウータンを見るようなものではないか。オラウータンに石を投げつけられたくらい
で、反撃などしない。

 それにもし宇宙人が、人間に対して敵意をもっていたとするなら、とっくの昔に人間は、絶滅
していたはずである。映画『インディペンデンス・デイ』の中では、宇宙人たちは強力な火器を使
って、人間を滅ぼそうとしたが、ああいった武器を使う必要はない。生物兵器や化学兵器を使
うだろう。遺伝子兵器を使う可能性だってある。生殖器官をダメにしてしまえば、人類は一〇〇
年で滅亡する。

 が、宇宙人は、人間の前に、まだ姿を現さない。理由はいくつか考えられる。一つは、数その
ものが、絶対的に少なくて、人間には対抗できないということ。もう一つは、ここにも書いたよう
に、人間をはるかに超越していて、人間を相手にしていないこと。そしてもう一つは、……。

 実は、「神」は宇宙人ではなかったかという説もある。私も若いころ、東洋医学を勉強してい
たとき、当時の人間が知るはずもない記述をその中に見つけ、驚愕(きょうがく)したことがあ
る。太古の昔(正確には、新石器時代)から、別の知的生命体が、人間に何らかの影響をおよ
ぼしていたということは、じゅうぶん、考えられる。もし今、ここで宇宙人が現れたら、宗教、哲
学など、世界中が、そのままひっくりかえってしまうかもしれない。宇宙人は、そのことを知って
いる。だから、姿を現さない?

 もっとも、宇宙人が姿を現すようになったら、人類も含めて、地球そのものが最期のときを迎
えたと考えてよい。「最期」になれば、宇宙人も、人間に隠れている必要など、ない。言いかえ
ると、まだ姿を現していないということは、人間には、希望が残されているということになる。

 秋の夜は、星空が美しい。私は山荘の庭先で、小さな焚き火をしながら、そんなことを考え
た。これはあくまでも、ロマン。秋の星空を楽しくするための、ロマン。
(02−11−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(339)

マガジンの読者

 最初は、(どうかな?)というような思いで発行したマガジンだが、そのうち読者の方がふえ始
め、少しずつやる気が出てきた。読者の方の数が、ふえるというのは、実際、大きな励みにな
る。……なった。

 しかしこのところ、どういうわけか、読者の方の数が、ほとんど、ふえなくなってしまった。とた
ん、自分でもわかるほど、やる気が、しぼんでしまった。で、一度、こういう状態になると、マガ
ジンを発行することに加えて、そういう自分とも戦わなければならない。やる気のなさを乗り越
えるというのは、そう簡単なことではない。

 そこである読者の方(埼玉県在住Mさん)に、そのことを相談すると、その方が、こんなメール
を送ってくれた。

●「マガジン低調です」のくだり……はやし先生らしくありません。2週間読者が増えず、発行意
欲減退とのこと……。今現在、固定読者数が確保されている状態です。これこそが、ファンの
数が、減っていない証明で、何らペシミストになる必要性さえ無い事になります。ファンは、み
な、はやし先生の"文筆をもって裁く"心の叫びを待ち望んでいます。確かに読者が、増え続け
るに越した事はないでしょうが……。先生、元気出して下さいネ! 1ファンとして、心より応援
しています。

 よく子どもでも、成績がさがったりすると、やる気そのものをなくす子どもがいる。「今度の、テ
スト、自分なりにがんばってみたけど、ダメだった……」と。そういうとき私たちは、「気にしない
で、今、やるべきことをしよう。それでいいよ」と、子どもに言う。この言葉を自分に向かって言う
なら、「気にしないで、今、やるべきことをしよう」ということになる。しかし、どうもそれだけでは
ないようだ。どうも、それだけでは、心の中がスッキリしない?

 その一つ。「本当に読んでもらっているのだろうか」「本当に役にたっているのだろうか」という
不安が、いつもつきまとう。「何かしら、ムダなことをしているのではないだろうか」という迷いも
ある。それはたとえて言うなら、観客のいない舞台で、ひとり芝居(しばい)をしているようなもの
だ。たしかに数字の上では、読者数は五〇〇人とか、六〇〇人とかになっているが、その実感
がほとんど、ない。仮にその数字が、五〇〇〇人とか、六〇〇〇人とかになっても(そういうこ
とはありえないが……)、この状態は同じだろうと思う。

 そこでワイフに相談すると、「あんたのマガジンは、量が多すぎるわ。それで嫌われたのよ。
しばらく休刊にしてみたら」と、恐ろしいことを言う。「休刊?」と聞き返すと、「しばらく休んで、ま
た別のマガジンを発行すればいい」と。なるほど。そういう方法もある。たとえ読者の方の数は
少なくても、三〇人、三五人、四〇人……と、ふえていくほうが、楽しい。やりがいがある。そこ
で再び、埼玉県のMさんに相談してみると、今度は、こう励ましてくれた。

●はやし先生のメルマガを読んでいて感じたのですが、周期的に気分が落ち込んだりすること
がありますか? 私からのメールで、「先生はいつも元気でいて下さいネ!」なんて言ってしま
いましたが、間違っていました。御免なさい。いつも元気でいたら、心も体もオーバーランしてし
まい、負荷がかかり、かえって体調を崩してしまいますよネ! 心がHIのときは、心のおもむく
ままに思索、随想すれば良く、LOのときは、英気を養う為に、ゆっくりと休養し、エネルギー充
電の為の手法(瞑想、ストレス発散法など)を実践すれば良いのですね! 自分を大切に、決
して無理しないのが、秘訣ですネ! 心の健康は、こうした陰と陽のバランスを保ち、バイオリ
ズムにあわせた自然体、恒常性維持に努める事が大切ですネ! ……(中略)……友達の友
達は友達の輪:最初に私にはやし先生の本を貸してくれた友人が、なんとメルマガ登録したと
メールがありました。大切な読者が、1人増えましたネ! おめでとうございます!! では、お
休みなさい。 

 たしかにこのところ、わずらわしいことがつづいて、LOになっていた。それが本当の原因かも
しれない。まあ、結論は、これからはあまり数字にこだわらないで、マイペースで、マガジンを発
行していこうということ。それに今まで、私のマガジンをあちこちの方に紹介してくれた人も多
い。そういう人の助けがあったからこそ、読者もふえた。今、ここでやめるわけにはいかない。
その先に何があるかわからないが、今は、こうしてやってみるしかない。結果は、あとからつい
てくる。

【読者のみなさんへ、】
 これからも、よろしくお願いします。いろいろ迷ったり、悩んだりしますが、どうかお許しくださ
い。このマガジンが、みなさんの子育てで、何かのお役にたてれば、こんなうれしいことはあり
ません。今しばらく、このままつづけてみます。よろしくお願いします。みなさんが読んでくださっ
ていることについて、感謝しています。とくに今まで、読者の方の紹介など、いろいろご協力くだ
さったことについて、心から感謝しています。ありがとうございます。
(02−11−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(342)

話のタネ……徴兵制

 このところ、朝鮮半島が、にわかにキナ臭くなってきた。そこで調べてみると、二〇〇二年度
版、「日本の防衛」によれば、北朝鮮と韓国の兵力バランスは、つぎのようになっているという。

陸上戦力……二七師団、約一〇〇万人(北朝鮮)
      二二師団、約 五六万人(韓国)

戦車  ……     約三五〇〇両(北朝鮮)
           約二三〇〇両(韓国)

艦艇  ……     約七一〇隻(一一万トン)(北朝鮮)
           約二〇〇隻(一五万トン)(韓国)

空軍(作戦機)……  約五九〇機(北朝鮮)
           約六一〇機(韓国)

徴兵制…… 陸軍…五〜八年、海軍…五〜一〇年、海軍…三〜四年(北朝鮮)
   …… 陸軍…二六か月、海軍、空軍…三〇か月(韓国)

 兵力を「数字」でみるかぎり、北朝鮮が韓国より優勢だが、実際には、北朝鮮の武器はどれ
も旧式で、使いものにならないらしい。韓国軍やアメリカ軍のもつ近代兵器には、とても太刀打
ちできないというのが、おおかたの見方である。こういう事情を北朝鮮も知っているのだろう。
北朝鮮は、ミサイルだの核兵器だのと言い出した。しかしその前に、北朝鮮が主張するところ
の、外国からの攻撃だが、そんなのはありえない。韓国にしても、日本にしても、さらに中国に
しても、本音を言えば、北朝鮮は、もっとも相手にしたくない国ということになる。よく南北統一と
いうが、今、南北を統一すれば、一番困るのが韓国である。経済格差が、あまりにもひどすぎ
る。北朝鮮が、アメリカや日本を敵にみたてて、ひとりで勝手に騒いでいるのは、結局は、金正
日の独裁政権を維持するためにほかならない。

 が、ここで注意しなければならないのは、北朝鮮も、韓国も、徴兵制度をしいていること。北
朝鮮では、その期間が一〇年! 韓国でも、二年半!、である。もちろん日本には、徴兵制度
など、ない。だから仮に、北朝鮮や韓国と戦争ということになったら、日本は、あっという間に負
けてしまう。さらに仮に、南北が平和裏に統一するようなことがあると、今度は、その矛先が、
日本に向けられる可能性すら、ある。そうなったら、日本は、ひとたまりもない。何といっても、
向こうの人は、全員、銃の扱い方を知っている。一方、日本人のほとんどは、銃すら見たこと
も、さわったこともない。

 だから今の状態では、日本は、絶対に戦争などしてはいけない。中には、いさましい好戦論
をぶちあげて、「北朝鮮に宣戦布告しろ!」など主張する政治家もいるが、残念ながら、今の
日本には、その力は、ない。ないことは、あの三八度線上にある、板門店をたずねてみればわ
かる。彼らのもつ緊張感は、日本人の私たちには、想像以上のものである。

 幸運なことに、本当に幸運なことに、日本は島国。島国であるがために、かろうじて平和を保
つことができる。それにバックには、アメリカがいる。もしアメリカがいなければ、日本は今のよ
うに、北朝鮮に対してですら、まともに交渉できないだろう。で、そこで考えてしまう。「平和とは
何か?」と。徴兵制度にしても、隣の国々が徴兵制度をしいて、戦争の準備をしているのに、
日本だけが、しないでよいという理由はない。(だからといって、徴兵制度を容認しているわけ
ではないが……。)とくに北朝鮮では、日本を第一の仮想敵国にみたてて、軍事教練をしてい
るという。核兵器さえもっているらしい。そういうことが明らかになりつつある今、日本がこのま
までよいとは、私は決して思わない。

 ……と考えて、ここで道が大きく、二つに分かれることを知る。ひとつは、軍事的な対決手段
を考える方法。もう一つは、徹底して、平和主義を貫く方法。もちろんその中間の方法もあるだ
ろうが、私は最後の最後まで、平和主義をつらぬくことこそ、賢明だと思う。多少バカにされて
も、多少犠牲を払っても、そしてそのため多少頭をさげることになっても、平和であることを優
先させる。こと北朝鮮に対してはそうで、相手に日本を攻撃するだけの口実を与えないことこそ
大切ではないか。『さわらぬ神にたたりなし』とは言うが、そういう状態で、あの金正日体制を、
自然死に追い込む。

 しかし北朝鮮も、本当にかわいそうな国だ。自分のことがまるでわかっていないというか、今
では、世界の笑いもの。やることなすこと、すべてが、トンチンカン。そういう国が、精一杯の虚
勢を張って、一人前ぶっている。国際会議などに出てくる要人をみても、どの人も、尊大ぶっ
て、ふんぞりかえっている。しかしそれがこれまた不自然。そういう姿を演出すればするほど、
どこかチグハグで、おかしい。戦前の日本もそうだったから、偉そうなことは言えないが、であ
るからこそ、「もう、およしなさい」と言いたくなる。先日もアメリカの国防長官が、こう言ってい
た。「大量破壊兵器を捨てて、門を開けば、世界中が、北朝鮮を助けるだろう」と。そういう世界
の人のやさしさにすら、北朝鮮は背を向けている。本当にかわいそうな国だと思う。
(02−11−25)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
∞【3】学校恐怖症(再掲載)
   新しい会員の方に、予防の意味もこめて、
一度は読んでおいてほしいです。
++++++++++++++++++++++

不登校

 和歌山県在住のUさんより、こんなメールが届いた。いわく、

 ウチは、すぐ目の前にD小学校があるのですが、最近、一人無理やり登校させ
られている男の子がいます。ウチの脇の地下道から、響き渡るような泣き声と
お母様の叱る声が聞こえてくると、私まで思わず身体が硬くなります。この前は、
禁止されている門の中まで、車を乗り入れて、おじい様とおばあ様の二人がかり
で引きずって行かれました。どんどんこじれていくようで……悲痛な泣き声が聞こ
えて来る度に辛くなります。

症状からみると、この子どもは、学校恐怖症(ジョンソン)らしい。この中の「お母様」「おじい様」
「おばあ様」が、その子どもの症状を、取り返しがつかないほどまでに、悪化させているのが、
わかる。

 改めて、「学校恐怖症」について考えさせられる。どうして親は、いつもいつも同じ失敗を繰り
返すのか。

+++++++++++++++++++++

子どもが学校恐怖症になるとき

●四つの段階論
同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状
を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し
ている。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。
心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかり
やすくしたのが次である。 
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。 
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか  要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとる
かということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理を
する。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせ
ず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くす
む。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを
考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ 
 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」
「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方
 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバー
でドアをはずした。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ
連れていった。その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子ども
をはげしく叱り続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、
子どもの心に取り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰
だって学校へ行きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状
はそれほど重くならなくてすむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす
れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち
に、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え
て、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈
をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)生活態度(部屋や服
装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様
子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいる
が、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない
 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、
友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

(追伸)
 Uさんは、近く、学校をサボって、大阪のUFJへ、子どもを連れていくとのこと。

実は、学校サボって木曜から一泊でE(小二)が念願だった'UFJ'に行ってまいります。(この時
期の土日は殺人的な混み方だと思うので・・・平日でも大変かもしれませんが・・)夏もお盆休み
以外は、サッカーづけだったE(小二)には、良い気分転換になれば、と思っております。(私も
初めてなので、楽しみです。)

 親に、こういう余裕があれば、子どもは、不登校児にはならない! Uさん、がんばれ!
(02−11−26)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●「賛助会」へご協力をお願いしています。
詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
みなさんのご協力を得て、ホームページ、マガジンをより充実させたいと考えています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
I appreciate your kindness to pay a visit to my second 
son's website in USA, for which I thank you very much.
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ホームページに「動画コーナー」ができました。まだ初歩ですが、これから先、
充実させていきます。私のサイトのトップページ、右列の「動画」よりどうぞ!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.html
●「子育てワンポイント集1〜600」も、そちらに収録しておきました。CDにして
  販売する予定でしたが、希望者が10名にならなかったので、こうします。お申し
  込みいただきましたみなさんには、申し訳なく思いますが、お許しください。もち
  ろん無料です。
●「はやし浩司のサイトの♪テーマ音楽」もできました。お楽しみください。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ホームページのほうで、「タイプ別、子ども相談」を充実しました。
トップページから、「タイプ別」へお進みください。お待ちしています。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page295.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【ホームページを発行している方へ】
☆相互リンクさせていただけませんか?
☆お知らせくだされば、そのままこちらの相互リンクページに掲載させていただきます。
☆連絡先は、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のトップページ下に「メールコーナー」がありま
す。少しめんどうですが、よろしくお願いします。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

  以上、コマーシャルばかりで、すみません! よろしくお願いします
   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖    また次回お会いしましょう!
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃      寒いときは、温かいものを食べて
   〃_〃    〃ο〃         元気を出しましょう!    
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――
   \ /    \ /
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
☆===================☆==================

(イラストは、パナソニックパソコン付録のフリーソフトを転用・改変しました。)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

よろしかったら、お友だちの方に、以下の文面を転送していただけませんか?
よろしくお願いします。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
はじめまして。
はやし浩司(ひろし)といいます。子育てマガジンを発行しています。
もしよろしかったら、子育てマガジンを、購読してみていただけませんか。
無料です。またいつでも解約することができます。
申し込みは、
☆http://www.emaga.com/info/hhayashi2.html
また、「はやし浩司」の自己紹介などは、
☆http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
では、またマガジンのほうで、お会いできることを楽しみにしています。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-5-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 529人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−5号(149)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  心の鍋物をいっしょに、食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「男児の女性化」

【1】子育てポイント
【2】随筆
【3】特集
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(342)

横を見るのも学習のうち

 授業中、横を見て作業をすませる子どもは多い。親からの相談も多い。「うちの子は、横ばか
り見ています……」と。

 横を見るといっても、さまざまなケースがある。(1)わからなくて見る、遅進児タイプ、(2)たし
かめながらする、慎重タイプ、(3)ずるい考えでみる、盗み見タイプ、それに(4)ほかの子ども
のことが気になる、世話好きタイプ。

(1)わからなくて見る、遅進児タイプ……学習が遅れがちになると、子どもはその場をごまかそ
うと、横を見て作業をすますようになる。このタイプの子どもは、となりの子どもの答案を丸写し
にしたりするので、それがわかる。本来そうならないように、ていねいな指導が必要だが、実際
には、そこまで目がゆきとどかない。またこういった状態が、一年、二年とつづくようになると、
盗み見のしかたがうまくなり、先生でも気がつかないことが多い。

(2)たしかめながらする、慎重タイプ……わかっていても、一度、となりを見ないと気がすまな
いタイプ。まちがえることに、ある種の恐怖感を覚えるタイプで、そのため、全体に伸びやかさ
がない。家庭などでの、こまごまとした、神経質な指導が原因と考えてよい。

(3)ずるい考えでみる、盗み見タイプ……何かにつけてめんどうくさがり屋で、他人のものを盗
んで、簡単にすまそうというタイプ。根気がなく、あきっぽい性格とみる。あるいは忍耐力に欠け
る、ドラ息子タイプ。

(4)ほかの子どものことが気になる、世話好きタイプ……このタイプの子どもは、自分のことは
そっちのけで、他人の世話ばかりする。そしてああでもない、こうでもないと口を出す。隣の子
どもがまちがえたりすると、「ここがちがうでしょ」「こうでしょ」と言うのでわかる。

 問題は、(1)のようなタイプの子ども。本来なら、一学年でも、学年をさげて、その子どもの能
力にあったクラスに入れるのが望ましい。しかしそれができないというのであれば、家庭での学
習指導をしっかりとするしかない。またそれだけに、自信をなくし、やる気をなくし、さらに心まで
キズついているケースが多いので、心のケアも忘れてはならない。叱ったり、あるいは不自然
に励ましたりするのは、禁物。その子どもの立場になって、子どもが納得するまで教えてあげ
るのがよい。
(02−11−26)

●横を見る子どもを、頭から悪いことと決めてかかってはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(347)

子育てポイント

●読んだら、聞いて、絵を描かせる

 子どもが何かの本を読んだら、(あるいは本を読んであげたら)、そのあとその本について、
絵を描かせるとよい。子どもは絵を描くことで、その本の内容に、自分の考えをつけ加える。批
判力も、そこから生まれる。感想文を書かせるという方法もあるが、年少の子どもには、まだ
ムリ。

 内容を理解した子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかる絵を描く。そうでない
子どもは、印象に残ったところを中心に、部分的な絵を描く。そして子どもが絵を描き終えた
ら、「これは、だれ?」「何をしているの?」と聞いてみるとよい。この方法は、子どもの思考力を
深くするという意味では、たいへん効果的である。

+++++++++++++++++++++++

●乱暴な子ども

乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。

(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙
を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を
確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。

(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ
ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども
がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。
してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども
に、よく見られる。

(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ
かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず
るい感じがするのが特徴。

(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから
れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。このタイプの子どもは、その
直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほんの瞬間的で、おさえるとして
も、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからどこかピリピリとした印象を与
えることが多い。

(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ
る。

 乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱
暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ
ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば
あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ
れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。

【S君、小二のケース】

 ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった
く書けない、など。

 そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自
虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる
様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも
のが変わった。

 そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく
らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、
それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。

 今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎
盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その
人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」PHP
新書)と。じゅうぶん考えなければならない説である。

+++++++++++++++++++++++

●理屈は言わせる

 自己主張と、わがままはちがう。自己主張と、がんこもちがう。子どもをみるときは、これら三
つを、ていねいに見分ける。

 その中でも自己主張は、子どもの心の発達には、きわめて重要なものである。(わがままと
がんこについては、また別のところで考える。)子どもが自己主張するときは、(1)言いたいだ
け言わせる、(2)聞くべきことは、しっかりと聞くという態度でのぞむ。「親に向かって何てこと言
うの!」式に、威圧でおさえてはいけない。

 「お兄ちゃんは、三つもらったのに、どうしてぼくは二つなのか?」は、自己主張。
 「僕は、三つでないとだめ。二つはイヤ!」というのは、わがまま。
 「青いズボンでないと、幼稚園へは行かない」とがんばるのは、がんこ。

 「ママは、この前、○○をくれると約束したが、どうして約束を守ってくれないのか?」は、自己
主張。
 「あのおもちゃを、買って、買って」と泣き叫ぶのは、わがまま。
 「おもちゃを、なおせ!」と、こわれたおもちゃに、いつまでもこだわるのは、がんこ。

 「どうしてお父さんだけは、トイレ掃除をしなくていいのか?」というのは、自己主張。
 「お手伝いなんか、いや」と逃げるのは、わがまま。
 「いやだ」と言って、部屋に入ったまま、出てこようとしないのは、がんこ。

 不合理、不公平、不正義に対して、自分の意見を言うというのが、自己主張ということにな
る。子どもは自己主張をすることにより、道理や正義、倫理や理屈を学ぶ。豊かな常識も、そ
こから生まれる。決して、頭からおさえつけてはいけない。

 ときとして子どもは、反抗するが、反抗できないほどまでに、子どもをおさえつけてはいけな
い。よく「うちの子は、親の言うことを何でも、はいはいとよく聞いてくれます」と喜ぶ親がいる
が、そんなことを喜んではいけない。子どもの人格は、(おとなもそうだが)、いろいろな経験を
とおして養われる。生まれつき、あるいは子どものときから、ものわかりのよい子どもなど、い
ない。いるとしても、フリをしているか、ムリをしているだけ。そういう前提で、子どもの心を考え
る。
(02−11−27)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       もうすぐクリスマスですね。
   /│田│ 田│ヽ       少しはやいですが、メリークリスマス!
   / │ │  │ ヽ

          ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(344)

ハリーポッター論

 第一巻だけだが、英文の本も読んだ。翻訳本も読んだ。映画も見た。……しかし、「ハリーポ
ッターと賢者の石」(J.K.ローリング著)など、どこがおもしろいのか。内容はツギハギだらけ
のメチャメチャ。一片の哲学すら感じない。

 で、子どもたち(小学生)に、何度も「ハリーポッターのどこがおもしろいの?」と聞いてみた。
が、いつも答は同じ。「おもしろい」と。反対に「先生は、おもしろいと思わないの?」と、聞き返
されたこともある。

 この現象は、数年前のポケモンブームのときもあった。子どもたちはあのわけのわからない
ピカチュー(モンスター)を、「かわいい」「かわいい」と言って、一歩も引きさがらなかった。テレ
ビ画面(黒板がわりに使っている)に、ピカチューの絵をまねて描いただけで、クラス中が騒然
となってしまったこともある。

 で、私はハタと考え込んでしまった。子どもたちがおかしいのか。それとも、私がおかしいの
か、と。いや、私なりに、「ハリーポッターは、おもしろいはずだ」と、何度も自分に言ってきかせ
ながら、本も読んだ。映画も見た。しかしおもしろくないものは、おもしろくない。まったくおもしろ
くない。いや、どこがおもしろいのか。

 これだけハリポタブームが、一世を風靡(ふうび)している中で、ハリーポッターのことを酷評
するのは、つらい。が、しかし、みなさんも、一度でよいから冷静に、みなさんの心の中をのぞ
いてみてほしい。本を読んだことがある人もいるだろうと思う。映画を見たことがある人もいる
だろうと思う。しかし、本当におもしろいか、と。あるいは世界中が大騒ぎしなければならないほ
ど、内容をもった本であり、映画であるか、と。

 ハリーポッターは別として、ときとして、人間全体が、こうした熱病におかされることこそ、問題
ではないか。私が子どものころにも、フラフープブームとか、抱っこちゃんブーム、さらにはミル
ク飲み人形ブームというのがあった。今から思えば、おかしな現象だが、それが最近では、た
まごっちブーム、ポケモンブーム、遊戯王ブーム、そしてハリポタブームへとつながっている。
超能力だの、魔術だのと、現実離れしているのが、昔と違うところか。それだけ子どもたちの思
考性が、現実から遊離しているとみてよい。たとえば三〇年前には、幼稚園児も「野球の選手
になりた」「お花屋さんになりた」とか言っていたが、今では、「超能力者になりたい」「タレントに
なりたい」とか言う。(バブル経済のころは、「教祖になりたい」「土地もちになりたい」と言った小
学生がいた!)

 子どもたちは、現実離れした「夢」をもつと同時に、現実的な「夢」を放棄する。あるいは現実
そのものから、逃避する。今年の夏に、中学生(一〇人)について調査してみたが、今、中学生
で、具体的な夢をもっている子どもは、ほとんどいない。私が「宇宙飛行士のM氏のように、が
んばって宇宙飛行士になってみたらどうだ。M氏も、『夢をもて』と言っているぞ」と言うと、み
な、「どうせなれないもんね」と。ただ一人だけ、「一億円がほしい」と言った子ども(中三)がい
た。そこで私が「一億円あったら、どうする?」と聞くと、「毎日、机の上において、ながめている
……」と。

 そこでさらに「夢」について話しあってみた。私が「たとえばフランス語を勉強して、パリのルー
ブル博物館を見るというのでも、立派な夢だ」と話してやると、みな、「そんなのは夢じゃない。
行きたければ、旅行で行けばいい」と。

 ハリーポッターも結構だが、一方でこういう現実もあることを忘れてはいけない。今、小学生
の間で、静かなブームになっているのが、占いやまじない。この種の本だけは、売りあげをど
んどん伸ばしているという(大手出版社S社)。おそらく、あのハリーポッターがおもしろいと思う
子どもは、無意識なまま、超能力的なパワー、あるいは魔術的な力に、あこがれを抱いている
のかもしれない。ハリーポッターはその「あこがれ」を実現してくれる? だからおもしろい?

 しかし……。仮に私に超能力や魔術があるとしても、私はそんな力など、使いたくない。そん
な力に頼るのもいやだ。私は私。私の力で生きたい。そして自分の力だけで、自分の人生を、
まっとうしたい。私はいつもそう考えているが、つまり、それが私にとっては、「ハリーポッターは
つまらない」と思わせる、最大の理由かもしれない。
(02−11−26)

●ハリーポッターは、本当におもしろいか?
●ハリーポッターは、子どもにどんな影響を与えているか?
●現実主義者は、超能力や魔術には、頼らない。私も頼らない。

(追記)
 たまたま今夜も、中学三年生のKさん(女子)と、ハリーポッターについて話しあってみた。私
が「本当に、ハリーポッターって、おもしろいの?」と聞くと、最初は「おもしろいよ」と言ってい
た。が、何度か同じ質問をしていると、こう言った。「本当のことを言うと、みんながおもしろいと
言うほど、おもしろくない。何でもない本のような気もする」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(348)

才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種
からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ
で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。
たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、二〇ケタの数字を暗記できるなど。あるい
は一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももい
た。まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」と
みる。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されて
いる。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしま
うことができる子どもをいう。少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本
の中で書いている(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な
事件を引き起こす遠因になったとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさに
それだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、
理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうし
た背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。ここに書いた、「クラッシック音楽の、最
初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子ども」というのが、その子どもだ
が、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をし
た」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかった。一〇〇〇円と二〇〇〇円のど
ちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。一〇〇〇円程度のものを、二〇〇円くらい
のものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S君の特殊な能力(?)
ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそれはS君の「力」では
なかった。二年間ほど教えたがあるが、脳の一部が欠落しているのではないかとさえ思ったこ
とがある。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育する
ことによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足りない。その方法
が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれができるから、教育と
いう。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわること
で、さらに自分の才能を伸ばすことができる。現に今、私は電子マガジンを、ほとんど二日おき
に出版している。毎日そのために、数時間。土日には、四、五時間を費やしている。その原動
力となっているのは、実は、ここでいう「こだわり」かもしれない。時刻表を覚えたり、音楽の一
小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたない「こだわり」ということにな
る。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能となって、世界的に評価され
るようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家
も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。そういう意味では、「こ
だわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11−27)

(参考)
※……神戸の『淳君殺害事件』事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残してい
る。いわく、「(息子は)画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首
を一晩で覚えたら、五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績
を取ったこともあります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年A
は)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことがで
きる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論
をくだしている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(345)

「夢」論

 「夢」という言葉は、もともとあいまいな言葉である。「空想」「希望」という意味もある。英語で
は、「ドリーム」というが、日本語と同じように使うときもある。あのキング牧師(マーティン・ルー
サー・キング・ジュニア、黒人の公民権運動の指導者)も、「I have a dream……(私は夢を
もっている……)」という有名な演説を残している(六三年八月、リンカーン記念堂前で)。

 しかし子どものばあい、「夢」と「現実」は区別する。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中
の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはいけない』というのがある。つまり
空想するのはよいが、それに子どもがハマるようであれば、注意せよ、と。

 そこで調べてみると、いろいろな思想家も、夢について論じているのがわかる。その中でも近
代思想の基礎をつくった、ジューベル(一七五四〜一八二四、フランスの哲学者)は、『パンセ』
の中で、つぎのように書いている。

 『学識なくして空想(夢)をもつものは、翼をもっているが、足をもっていない』
 『空想(夢)は魂の眠りである』と。

 これを子どもの世界に当てはめて考えてみると、つぎのようになる。

 子どもというのは、満四・五歳前後から急速に、理屈ぽくなる。「なぜ、どうして?」という会話
がふえるのもこのころである。つまりこの時期をとおして、子どもは、「論理」を学ぶ。A=B、B
=C、だからA=Cと。言いかえると、この時期の接し方が、その子どものものの考え方に、大
きな影響を与える。この時期に、ものの考え方が論理的になった子どもは、以後、ずっと論理
的なものの考え方をするようになるし、そうでない子どもは、そうでない。

 ジューベルがいう「足」というのは、「論理」と考えてよい。日本語でも、現実離れしていること
を、「地に足がついていない」と言う。「現実」と「論理」というのは、車の両輪のようなもの。現実
的なものは、論理的だし、論理的なものは、現実的である。つまりジューベルも、空想するのは
その人の勝手だが、学識のない人がする空想は、論理的ではないと言っている。

 子どもでもそうで、超能力だの、魔術だのと言っている子どもほど、非現実的なものの考え方
をする傾向が強い。少し前だが、教室の窓から、遠くのビルをながめながら、一心にわけのわ
からない呪文を唱えている中学生(男子)がいた。そこで私が、「何をしているのか?」と声をか
けると、「先生、ぼくは超能力で、あのビルを爆破してみたい」と。

 しかしこうした「足のない空想」は、子どもにとっては、危険ですらある。論理がないというだけ
ならまだしも、架空の論理をつくりあげてしまうことがある。よい例が、今にみるカルト教団であ
る。死んだ人間を生きていると主張し、その死体がミイラ化しても、まだ生きていると言い張っ
た教団があった。あるいは教祖の髪の毛を煎じて飲んでいる教団もあった。はたから見れば、
実に非論理的な世界だが、それにハマった人には、それがわからない。いわんや、子どもを
や!

 そこでジューベルは、『空想は魂の眠りである』と言い切った。足のない空想にふければふけ
るほど、魂は眠ってしまうということ。それをもう少し常識的に考えると、こうなる。

人間が人間であるのは、考えるからである。パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者)も
そう言っている。『思考が人間の偉大さをなす』(「パンセ」)と。わかりやすく言えば、思考する
から人間である。「生きる」意味もそこから生まれる。もし人間が思考することをやめてしまった
ら、その人、つまりその人、つまり魂は死んだことになる。空想は、その魂を殺すところまでは
しないが、眠らせてしまう、と。

 たとえばもし、私が、今ここで、今日のことが不安だからといって、星占いに頼ったら、どうな
るか。何かの事故にあわないようにと、何かのまじないをしたらどうなるか。多分、その時点
で、私は考えることをやめてしまうだろう。が、それは同時に、自分自身への敗北でもある。さ
らにほとんどのことを、占いやまじないに頼るようになれば、自分自身を否定することにもなり
かねない。そのためにも、魂は眠らせてはいけない。そのためにも、足のない空想はしてはい
けない。

 さて、子どもの「夢」に話をもどす。子どもが空想の世界に自分をおき、あれこれまったく違っ
た角度から、自分の世界を見ることは、まちがってはいない。しかしその前提として、「論理」が
なければならない。「学識」でもよい。それがないと、どこからどこまでが現実で、どこから先が
空想なのか、それがわからなくなってしまう。それは子どもの世界としては、たいへんまずい。
ものごとを論理的に考えられなくなるだけではなく、先にも書いたように、自らを空想の世界
へ、追いこんでしまうこともある。そして結果として、わけのわからないことを言いだす。こんな
子ども(小五女児)がいた。

 私がある日、ふと、「頭が痛い」と言うと、「じゃあ、先生、なおしてあげる」と。肩でもたたいてく
れるのかと思っていたら、そうではなく、じっと目を閉じて、手のひらを私にかざし始めた。「そ
れは何?」と聞くと、「だまっていて。だまっていないと、パワーが集中できない」と。あとで聞く
と、そうして手をかざすと、どんな病気でもなおるというのだが、私はそうは思わなかった。だか
ら、「そんなのだったら、いい」と言うと、「先生は、バチが当たって、もっと頭が痛くなる」と、今
度は私をおどした。

子どもが空想(夢)の世界にハマるようであれば、逆に、「なぜ、どうして」を繰り返しながら、子
どもを現実の世界に引きもどすようにする。その時期は、早ければ早いほど、よい。年齢的に
は、小学一、二年生ごろまでではないか。それ以後は、自意識が強くなり、なおすのがむずか
しくなる。
(02−11−26)

●空想するのは子どもの自由だが、子どもがその世界にハマるようなら注意せよ。

(追記)
 あなたも思いきって、迷信を捨ててみよう。占いや、まじないを、捨ててみよう。勇気を出し
て、捨ててみよう。そんなものに支配されてはいけない。そんなものをあてにしてはいけない。
あなたは、どこまでいっても、あなたなのだ。あなたは自分の人生を、自分で生きるのだ。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(346)

迷信

●非現実的な世界
 占いや、まじないは、タバコのようなものではないか。なければないですむが、しかしそれを
信じている人には、そうでない。それがないと、一日の生活が成りたたないという人も多い。
 
当然だが、その占いや、まじないには、論理がない。論理がないから、反論のしようがない。な
いが、あえて、反論してみる。

【カルト的自己中心性】
 占いやまじないを信ずる人に共通するのは、カルト的自己中心性。自分が世界の中心にい
ると錯覚する。排他的にそれを信ずるから、「カルト的」という。そのため、ほかの人はともかく
も、自分だけは、もろもろの未知のパワーに支配されている、特別な存在と錯覚する。何かの
宗教を信じているにせよ、しないにせよ、神や仏は、自分にだけは特別に関心をもっていると
思い込む。その思い込みが強い分だけ、要するに自分だけは、ほかの人とは違うと錯覚する。

【思考の空洞化】
 占いやまじないに身を寄せることで、自ら考えることを放棄する。そして一度、自分の頭の中
を、カラッポ(思考の空洞化)にしてしまう。考えることをやめることで、自ら、この状態をつくる。
そして自分の頭の中に、他人の思想を注入する。このタイプの人は、一見、もっともらしいこと
を口にするが、すべて、他人、もしくは指導者の受け売り。英語の言い方を借りるなら、「ノーブ
レイン(脳ミソなし)」の状態になる。

【狂信性】
 占いやまじないを狂信していても、たいていの人は、自分では、狂信している自覚がほとん
ど、ない。狂信性があらわれるのは、それが否定されたとき。あるいは占いやまじないが、自
分にとってはマイナスに向いたとき。人によっては、狂乱状態になることがある。狂信性が強け
れば強いほど、そうなる。占いやまじないを信ずる人は、それによって利益を受けることより
も、自分にとって不利益なことが起きることを恐れる。占いで「凶」と出ただけで、その日一日
を、ビクビクして過ごす人は、いくらでもいる。

【排他性】
 「自分が絶対、正しい」と思い、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたはまちがってい
る」と言う。そして自分が住むカプセルのカラをますます厚くし、その分だけ、人の話に耳を傾
けなくなる。そして、独自の理論を、勝手にどんどんと組み立ててしまう。たとえば血液型による
性格診断がある。「あなたはA型人間ね。私はO型人間よ」と。いまだにこんな迷信が、この日
本では、大手を振ってまかりとおっている。(もともとは戦後、どこかの医者が、だじゃれで書い
た本が、もとになっている。たいした迷信ではないが、ほとんどの日本人が信じているから、無
視もできない。)で、話を聞くと、実にこまかいところまで、ああでもない、こうでもないと説明す
る。

●ある会社の社長のケース 
ある男性(四三歳・会社社長)は、何か重大なことがあると、近くの神社へでかけていき、そこ
で神主にどうすべきかを決めてもらっていた。家族の冠婚葬祭はもちろん、家の改築、車の購
入日など。小さな会社を経営していたが、従業員も、「方向」で選んでいた。「今年は、巽(たつ
み)の方角から、社員を募集する」と。おもしろかったのは(失礼!)、新車を購入するときも、
納入してもらう日のみならず、時刻、さらには、車を置く位置まで、自動車のセールスマンに指
示していたこと。「一度、南の方まで回り、そこから、会社の駐車場の北側の端にもってきてほ
しい」と。

 それは実に窮屈(きゅうくつ)な世界だった。社員たちは、社長の意向に神経をつかった。実
際には、神経をすりへらした。みなで社員旅行をするときもそうだった。日程を決めるのが、た
いへんだった。いくつかのプランを用意して、その中から、社長(実際には神主)に選んでもら
わねばならなかった。「そんなこと、くだらない!」などと言おうものなら、それだけでクビになっ
てしまうような雰囲気だった。が、本当にその「クビ切り事件」が起きた。

 一人の女子従業員が、会社へくるとき、道路で子犬を見つけた。捨て犬だった。そこでその
従業員は、その子犬を会社へもってきた。仕事が終わったら、自分の家に連れて帰るつもりだ
った。が、このことが社長の逆鱗(げきりん)にふれた。即刻、その女性は、その場で、クビにな
ってしまった。まったくもって、理不尽なクビ切りだった。社長はこう言った。「昔、ニワトリが会
社へ迷い込んできたことがある。その翌朝、会社は火事になった。だから会社へ動物を連れて
くるのを禁止している。しかしその規則(?)を破ったからクビだ!」と。

 この事件は、裁判ざたになりかけたが、社長が神主に相談すると、神主が「慰謝料を払っ
て、内々の示談ですましなさい」と忠告したという。実際には、その神主は、内緒で、知りあいの
司法書士に相談していた。私にこの話をしてくれたのが、その司法書士だった。「裁判すれば、
大きな社会問題になっていたはずです」と。

 世の中が不安定になり、緊張が高まってくると、こういう迷信があちこちで力をもち始める。一
方、人間の心というのは、不安が大きくなればなるほど、あちこちに穴があく。その穴をねらっ
て、その迷信が心の中に入ってくる。あなたもこうした迷信には、じゅうぶん、注意してほしい。
(02−11−26)

●日々の運勢占いを信じている人は多いが、それを信ずる前に、どういう人が、どういう根拠
で、その「原文」を書いているか、それをさぐってみるとよい。たいていは、(まちがいなくすべ
て)、どこかのインチキな人間が、思いついたまま、でまかせに書いているだけ。根拠など、ど
こにもない。あるはずもない。相手にしてはいけない。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
特集
【男児の女性化】
++++++++

子育て随筆byはやし浩司(343)

環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)と、男児の女性化

 小学校の低学年児について言えば、いじめられて泣くのは男の子、いじめるのは女の子とい
う、図式がすっかり定着してしまっている。それについて、以前書いた原稿を、先に転載する。

++++++++++++++++++++++++

進む男児の女性化(中日新聞に掲載済み)

 この話とて、もう一五年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々と、
いたずらされたというのだ。その高校生は店内で五、六人の女子高校生に囲まれ、パンツまで
ぬがされたという。こう書くと、軟弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校
の文化祭では一人で舞台でギター演奏したような男子である。私が、「どうして、声を出さなか
ったのか」と聞くと、「こわかった……」と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。「うちの息子(小二)が、学校でいじめに
あっています」と。話を聞くと、小一のときに、ウンチを教室でもらしたのだが、そのことをネタ
に、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられていることだけを取りあげて、それを
問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴
ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手というのは、女児だった。私の時代で
あれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、六〇%を超えた(九八
年、浜松市教育委員会調べ)。現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとな
になる。あるいは女性恐怖症になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女
性化した男性が、今、新時代の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教
育に参加しなさい」と指導しても、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこうい
う日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の未来は?

++++++++++++++++++++++++

 こうした男児の女性化について、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)原因説がある。ここ
でいう「環境ホルモン」という言葉は、NHKが放送番組用に作った言葉で、正確には「内分泌
かく乱化学物質」という。

 この環境ホルモンは、ホルモンそのものではない。「生体のホルモン受容体に作用するなど
して、ニセのホルモンとして働いたり、その反対に、ホルモン受容体をブロックすることで、ホル
モン本来の作用を妨げたりする化学物質」(福島章著「子どもの脳が危ない」・PHP新書)とい
うことになる。

 その結果、環境ホルモンは、さまざまな影響を、体におよぼす。そのうちでも、近年、問題に
なっているのが、生殖機能への影響である。福島章氏の「子どもの脳が危ない」に書かれてい
る事例を、ここにあげてみる。

●多摩川のコイの七割が、メスであった(九一年)。しかもオスの精巣の発達が不完全であり、
雌雄同体のコイも発見された。原因は洗剤などに含まれる、ノニルフェノールだと言われてい
る。
●イギリスでは、ニジマスやローチという魚のオスの精巣がやはり不完全であった。原因はや
はりノニルフェノールと言われているが、ピルに含まれている女性ホルモンという説もある。
●カナダのセントローレンス川では、白鯨のオスがメス化して、メスの妊娠率が低下しただけで
はなく、ガンが多発していることがわかった。
●アメリカでは、ハクトウワシの孵化率が低下した。アジサシやカモメなどの鳥類では、オスの
メス化が進んでいる。
●フロリダ州のミッシシッピーワニのペニスが小さくなり、精巣機能が低下し、血中のテストステ
ロン(男性ホルモン)が低下しているのがわかった。

さらに人間に与える影響としては、「男子の精子数が減少しているだけでなく、元気がなくなっ
た」という報告も、多いという。たとえば、「九一年に、デンマークのスキャケベック博士は、ここ
五〇年の間に、男性の一回の射精に含まれる精子数が、一ミリリットルあたり、一億一〇〇〇
万から、六〇〇〇万に、四二%も減少し、さらに受胎に必要な精子数二〇〇〇万以下の男性
は、この間に三倍に増加した」(同書)そうだ。

 こうした影響からか、人間についても、男性の性衝動が弱くなったという報告もある。男児の
女子化が、その流れの中にあるとしたら、これはたいへん深刻な問題と考えてよい。

 そこで私たち親は、この問題に対して、どう対処したらよいか。とりあえず注意すべきことは、
食器や調理道具から、プラスチック製品を取り除くということ。とくにプラスチック製品が、何ら
かの形で、熱湯とふれるようなときが、危険らしい。環境ホルモン、つまり内分泌かく乱化学物
質の大半は、これらのプラスチック製品から溶けでるという。カップヌードルなども、発泡スチロ
ールの容器の中から一度、陶器の茶碗などに移してから、熱湯をかけるとよい。

 なお女性のばあい、最近若い人の乳がんがふえているが、その原因も、ここにあげたノニル
フェノールではないかと疑われている(同書)。注意するにこしたことはない。
(02−11−26)

●世の男性諸君よ、スケベであることを喜ぼうではないか。もっともっとスケベになって、妻たち
を、ハッピーにしてあげようではないか。種族を後世に残すために。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-7-2

後半部です。はやし浩司
+++++++++++++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(355)

カルシウム、マグネシウム

●こわい、カルシウム不足
 マガジン読者の方から、「カルシウム、マグネシウム分の多い食生活は何か」と聞かれた。こ
こにそれを報告する。

 まずカルシウムが不足すると、子どもにはつぎのような症状が現れる。

(1)脳の発育が不良になる。
(2)先天性脳水腫をおこす。
(3)脳神経細胞の興奮性を亢進する。
(4)痴呆、低脳をおこしやすい。
(5)精神疲労しやすく、回復が遅い。
(6)神経衰弱症、精神病にかかりやすい。
(7)一般に、内分泌の発育は不良、機能は低下する。
(以上、片瀬淡氏の『カルシウムの医学』より)

 日本の土と水は、欧米の土や水とくらべても、カルシウム分が少なく、意識的に多く、カルシ
ウムをとる必要がある。とくに成長期の子どもは、そうである。これは日本の表土が火山灰、
一方欧米の表土は、大理石であることの違いによる。

もともとそのため、日本人は、欧米人とくらべても、海産物をたくさん摂取してきた。代表的なも
のとして、
      
      ワカメ、コンブ、ヒジキ、小魚、魚、クジラなどがある。

 これらの食物を、日本人は、生のまま食べたり、干したり、焼いたり、煮たりして、それに合わ
せて、山菜や野菜をそえた。こうした方法で、自然と、日本人は、カルシウムやビタミン類を摂
取してきた。海には、カルシウム、ナトリウム、マグネシウム、鉄、銅などをはじめとする、九四
種類のミネラルが含まれている。この中で育つ海草や魚は、まさに天然のミネラルの缶詰とい
うことになる。その中でも小魚は、骨まで食べるので、なおいっそうバランスのとれた食物という
ことになる(以上「マザーリング」参考)。

●食生活の改善
 カルシウム、マグネシウムを多く摂取するためには、つぎのように食生活を改善する。

  肉ではなく→魚中心の食生活にする。
  チーズではなく→豆腐を多く食べる。
  スープではなく→ワカメの入った味噌汁にする。
  菓子ではなく→丸ごと食べられる小魚、煮干にする。

 子どものばあい、こうした食生活の改善だけで、じゅうぶんなカルシウム、マグネシウムを摂
取することができる。

●こわい、リン酸食品
しかしいくらカルシウム、マグネシウムの多い食生活をこころがけていても、他方で、リン酸食
品を口にしていたのでは、意味がない。リン酸は、体内のカルシウムと結合して、リン酸カルシ
ウムとなり、尿を経て、カルシウムを体外へ排出してしまう。つまりいくらカルシウムを摂取して
も、一方で、リン酸食品を摂取したら、意味はないということ。そのリン酸は、つぎのような食品
に多量に含まれているので、注意する。

ハム、ソーセージ……弾力性をよくし、歯ごたえをよくするため
アイスクリーム……粘り気を出すため
インスタントラーメン……やわらかくしたり、弾力性をもたせるため
プリン、ドロップなど……味に丸みを出すため
コーラ飲料……風味をおだやかにするため
(川島四郎氏「カルシウム不足の日本人」より)

 ここにあげた食品は、いわゆるジャンクフードを呼ばれているもの。こういった食品をできる
だけ避けることを忘れてはならない。
(02−11−29)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
***************************************


【雑談コーナー】

子育て随筆byはやし浩司(349)

仲なおり

 今日、私は一人の女性と、仲なおりをした。さんざん、私にいやがらせをしてきた女性だ。事
情は詳しく話せないが、私が「私は、あなたと仲よくしたいだけです」と言ったら、こう言った。
「先生って、心が広いのですね……」と。

 別に心が広いわけではない。もとから相手にしていなかっただけ。それに私は、若いころか
ら、ほとんど女性だけを相手にして、生きてきた。そういう意味では、まさに百戦錬磨(れん
ま)。かなりクセのある女性でも、平気でつきあえる。そういう技術を、いつの間にか身につけ
た。

 しかしみんなと仲よくするというのは、気持ちのよいものだ。相手がうれしそうにニコリと笑っ
たとき、ポーッと、こちらの心まで温かくなった。いや、本来なら、口もきかない状態で別れても
よいのだが、どうせ私も、その女性も、あと五〇年は生きてはいない。こんな短い人生の中で、
いがみあっていても、しかたない。

 要は、一歩も二歩も引きさがって、バカになればよい。バカになって、先に頭をさげればよ
い。そうすれば相手だって、ふりあげた自分の拳(こぶし)を見あげながら、苦笑いをする。あと
は、みな、円満。みな、ハッピー。

 だいたいにおいて、この世の中に生きていること自体、奇跡。つぎの瞬間には、私たちは消
えていなくなり、そのまま、永遠の「虚」の世界に入っていく。「あの世がある」という人もいる
が、私にはわからない。あればよいと思うが、それは死んでからのお楽しみ。なくても、どうとい
うことはない。私はアテにしていない。

 だから、まあ、つまらない争いはやめよう。つまらない意地悪はやめよう。つまらない喧嘩(け
んか)はやめよう。もしそんなヒマがあるなら、その時間、もっともっと心の旅をしよう。心の宇
宙は、目に見える宇宙より、ずっと広い。しかも、だ。目に見える宇宙は、下から見あげるだけ
だが、心の宇宙は、自由に飛ぶことができる。行きたいところへ行ける。

 人間に与えられた、最高の財産。それは、「時間」ではないのか。時間あっての人生。時間あ
っての命。が、その時間はちょうど砂時計の砂のように、刻一刻と、上から下へ落ちていく。下
に落ちたら最後、絶対に上には戻らない。しかも量にはかぎりがある。その時間という財産の
前では、すべてが、小さく、すべてが卑しく、すべてがつまらなく見える。私たちがせいぜいでき
ることと言えば、その砂を、懸命に手で受けとめることぐらい。その時間をムダにすることくら
い、愚かなことはない。

 つまらないことで、心をわずらわすのは、時間のムダ。つまらない人のことで、心をわずらわ
すのは、時間のムダ。だから相手にしないだけ。相手がどう思おうと知ったことではない。どうと
でも、勝手に思え。……という思いで、その女性と、仲なおりした。「先生は、心が広いですね」
と言われたとき、内心では、「ヤッター」と思った。私は決して、心の広い人間ではない。残念で
した。ははは。
(02−11−28)

●時間を大切に! 時間こそが、もっとも大切な財産ですね。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(351)

追いつめられた、金正日

 「日本人は平和ボケしている」とよく言われるが、私は、ボケていない。私は、取るに足らない
一庶民だが、心意気だけは、ひょっとしたら、あの外務大臣よりも高い。そういう視点で、北朝
鮮について考えてみる。

 国内外で、追いつめられた金正日。どうやら中国にも、ロシアにも見放されたようだ。今のま
まではやがて、石油も、食料も枯渇する? そうなると、金正日が取るべき道は、ただ二つ。自
己崩壊、もしくは戦争。

 あの金正日は、絶対に自己崩壊しない。したとたん、今までの悪業の数々が、国内外で暴露
されてしまう。恐らく、何万人という人たちが、闇から闇へと、無実の罪で葬られている。へたを
すれば、何十万人かもしれない。かつてのポルポト政権(カンボジア)がしたような大量殺戮(さ
つりく)が、北朝鮮でも明るみになる可能性は、じゅうぶん、ある。そうなれば金正日は、国際法
廷の場に引きずりだされ、処刑される。金正日は、それを知っている。

 となると戦争だが、今の北朝鮮が唯一、戦争の大義名分を使えるのは、対日本だけである。
韓国は同胞だし、アメリカは強敵すぎる。しかも日本には、交戦権がない。敵としても、もっとも
安全な敵(?)ということになる。言いかえると、今、日本が、もっとも警戒すべきことは、北朝鮮
の動向である。

 その北朝鮮は、どのようにして、戦争を日本にしかけてくるか?

 もっとも考えられるのは、東京都に対する、奇襲攻撃である。しかしかつて日本軍が真珠湾
でしたように、大軍を送ることはできない。だから奇襲攻撃をするとしたら、恐らく強力な火器、
もしくはそれ以上の兵器を使ってしてくるだろう。へたをすれば、核兵器を漁船に忍ばせてやっ
てくるかもしれない。その可能性はきわめて、高い。週刊誌によれば、細菌兵器を使用するか
もしれないとも言われている。そのときは、風船爆弾か何かで、日本中に、細菌をバラまくとい
う方法をとるかもしれない。

Q 地方都市はねらわれるか?
A 地方都市ではダメージが少ない。攻撃するなら大都市、しかも東京。
Q 北朝鮮は宣戦布告をするか?
A 何らかの形で、する。それをしないと、大義名分がたたない。世界中から袋叩きにあう。
Q 核兵器を使うか?
A じゅうぶん、その可能性はある。東京湾で爆発させれば、日本のあらゆる機能はマヒしてし
まう。もちろん軍事的にもマヒする。
Q 日本を攻撃して、金正日にメリットはあるのか?
A 自己崩壊するよりはまし、と考えるだろう。あるいは日本だけを攻撃すれば、正当性を主張
できる。
Q 正当性とは何か?
A 戦前の植民地政策への報復攻撃というのが、その正当性である。
Q 日本は、北朝鮮には敵意は、ないが……?
A その論理は、あの国には通用しない。世界的な常識の通ずる国ではない。ないことは、今
度の一連の拉致(らち)事件だけをみてもわかる。

 ではどうするか?

 こうした可能性は、当然内閣も、防衛庁も把握しているだろう。だから国の防衛は、政府に任
せるとして、もし、北朝鮮が、少しでも不穏な動きを見せたら、私たちは私たちで、自己防衛を
するしかない。ボケているヒマはない。

(1)どんな兵器をつかうかわからないから、とにかく外出をひかえる。仮に東京駅で、炭素菌や
天然痘などの細菌をばらまかれたら、数日以内に、その菌は、ほぼ全国に広がる。

(2)東京都など、首都圏に住む人は、退避準備をしておく。車は使えなくなるから、それにかわ
る退避方法を考える。退避ルートを、一度頭の中でシミュレーションしてみるとよい。家族がバ
ラバラに住んでいるときは、集合場所を、あらかじめ決めておくとよい。父の実家の、○○県△
△町というように。

(3)日本の通信網および交通網は、その時点で完全にマヒする。同時に問題になるのは、食
料の確保。北朝鮮に不穏な動きがあれば、即、食料を確保する。またそのように行動する。
水、缶詰類の食物は、多ければ多いほど、よい。携帯電話はもちろん、電話、インターネットも
使えなくなると覚悟する。

(4)首都圏であれば、子どもの通学を、停止する。外出を禁止する。仮に北朝鮮が細菌兵器
を使うようなことがあると、それが発症するまでに、はやくて数日はかかる。その間に、菌が日
本中にバラまかれる可能性は、きわめて高い。とくに天然痘は、空気感染するから、こわい。

(5)そうでなくても瀕死状態の日本経済は、北朝鮮の奇襲攻撃で、壊滅的なダメージを受け
る。そうなれば、今は一ドルが一二〇円前後で推移しているが、円の価値は、急落。株価も大
暴落。一ドルが、一〇〇〇円とか二〇〇〇円になることも考えられる。お金の価値はほとんど
なくなると覚悟する。

(6)日本はその段階でも、反撃はできない。憲法第九条があるからだ。で、それ以後の戦争
は、アメリカ対北朝鮮という図式になるだろう。こうした混沌とした戦争状態は、韓国が参戦し
ないかぎり、半年〜一年とつづくだろう。アメリカ軍が地上軍を派遣しなければ、もっと長期化
する。(地上軍だけを見れば、北朝鮮は、一〇〇万人。かたやアメリカ軍は、多くて一〇万人
規模。直接攻撃されないかぎり、韓国は、参戦しない。)戦争している間、日本の各地では、北
朝鮮の工作員によるテロが続発することになる。現在、工作員は、二〇〇人前後、潜伏してい
るとされる。こうしたテロ活動にも、警戒する。

 こうした自己防衛は、人に任せてはいけない。「国が何とかしてくれるだろう」「政府が何とか
してくれるだろう」、あるいは「アメリカが何とかしてくれるだろう」と考えてはいけない。自分を守
るのは、自分しかいない。そういう前提で、自分で考えて行動する。そのためにも、今から、あ
らゆる可能性を頭の中で描きながら、自分でどうするかを考えておく。それが生き残る、ゆいい
つの方法ということになる。
(02−11−28)

●国際情勢が不穏になったら、できるだけ早く保存食を確保しておこう。
●遠方に住む家族には、万が一のときの、集合場所を知らせておこう。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●「はやし浩司のサイト」オリジナル・テーマ音楽ができました。
       http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.htmlから、おいでください。
●「賛助会」へご協力をお願いしています。
詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page322.htmlまで。
みなさんのご協力を得て、ホームページ、マガジンをより充実させたいと考えています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
I appreciate your kindness to pay a visit to my second 
son's website in USA, for which I thank you very much.
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●ホームページに「動画コーナー」ができました。まだ初歩ですが、これから先、
充実させていきます。私のサイトのトップページ、右列の「動画」よりどうぞ!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.html
●「子育てワンポイント集1〜600」も、そちらに収録しておきました。CDにして
  販売する予定でしたが、希望者が10名にならなかったので、こうします。お申し
  込みいただきましたみなさんには、申し訳なく思いますが、お許しください。もち
  ろん無料です。
●「はやし浩司のサイトの♪テーマ音楽」もできました。お楽しみください。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

私の教室の来年度の生徒の募集を、1月からします。
とくに来ていただきたいのは、幼稚園、保育園の、年長児、年中児の
みなさんです。1月以後、見学は自由にしていただけるようにします
ので、おいでください。子どもの「笑い声」を、大切にした教室です。
詳しくは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page044.html
まで、どうぞ!
*********************************
●ホームページのほうで、「タイプ別、子ども相談」を充実しました。
トップページから、「タイプ別」へお進みください。お待ちしています。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page295.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【ホームページを発行している方へ】
☆相互リンクさせていただけませんか?
☆お知らせくだされば、そのままこちらの相互リンクページに掲載させていただきます。
☆連絡先は、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のトップページ下に「メールコーナー」がありま
す。少しめんどうですが、よろしくお願いします。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

  以上、コマーシャルばかりで、すみません! よろしくお願いします
   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖    また次回お会いしましょう!
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃      寒いときは、温かいものを食べて
   〃_〃    〃ο〃         元気を出しましょう!    
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――
   \ /    \ /
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
☆===================☆==================

(イラストは、パナソニックパソコン付録のフリーソフトを転用・改変しました。)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

よろしかったら、お友だちの方に、以下の文面を転送していただけませんか?
よろしくお願いします。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
はじめまして。
はやし浩司(ひろし)といいます。子育てマガジンを発行しています。
もしよろしかったら、子育てマガジンを、購読してみていただけませんか。
無料です。またいつでも解約することができます。
申し込みは、
☆http://www.emaga.com/info/hhayashi2.html
また、「はやし浩司」の自己紹介などは、
☆http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
では、またマガジンのほうで、お会いできることを楽しみにしています。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

【付録】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
尾張旭市の講演会の感想が入っています。うれしかったので、一部を紹介します。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

○以前、浜松に住んでいて、一度お話が聞きたかった方。とても満足。本も読んでいたので、
とてもよく理解できた。でも、理解できても、実際に動けるかは別物で、少しでも前進できればと
思う。
 
○自分の子育てを見直すよいきっかけとなった。
 
○実に実のある講演。子どもに育てられながら横に並んでいけるような親になりたい。
 
○子育てをしながら自分を見つめることについての話が印象的でした。
 
○自分が考えていた子育て論に自信がついた。この子の親で良かったと思えるような子育て
をしていきたい。
 
○「子どもの中に孫を見て育てる」ことを今日からしようと思う。自立したファミリーマンになれる
よう育てていきたい。
 
○とても楽しく、とても反省すべき点がたくさんあることを知らされて良かった。
 
○大変貴重でありがたい内容だった。
 
○日々の生活の中で、見失ってしまっていたことのなかに、重要な落とし穴があったと気づい
た。ペイントした石のプレゼントの意味の大きさを考えさせられた。男性の講師の話から大きな
影響を受けていく私だが、こと刺激と感動を少しでも夫と共有して、価値観の一致をはかってい
かないとこの場だけで終わってしまう。・・・これからの課題がいくつか見えてきた。
 
○心に響く講演だった。母親のみで聴講したことは片手落ちだったと後悔した。父親とともに今
後の子育てについて考えていきたいと思う。
 
○今まで子どものことで頭がいっぱいだったが、もっと広い視野で子どもを見守り、自分が育っ
ていかなければと思った。自分もちょっと休憩しながら一緒に成長していきたい。 
  
○本当に有益な話が聞けてよかった。わかりやすくおもしろく、メモ欄がいっぱいになった。
 
○充実した2時間。今日の話を心に留めながら子どもに接していけたらと思う。
 
○2時があっという間だった。ハツとする話が多く、当たり前にしていたことを見直す必要があ
るなと思った。  

○友人に誘われて参加。予想以上に楽しくためになる話で、来て本当によかった。

○根本的な日本社会の考え方にひたっていた自分の考えをあらためて考えるチャンスになっ
た。

○子どもを−人の人格として接したい。今の子育ての現状を少しでも改善していきたい。

○甘やかすことと子どもを信じて認めることの難しさを実感した。私の子育ては本当に甘かっ
たと反省した。今日からは真剣に子どものことを考えて一つひとつ行動していきたい。

○思ってもなかなか実行できないことが多い。参考になることがたくさんあった。圧倒される話
し方であっという間の2時間だった。

○子育ての目標を聞き、自分の子育てにも役立てたいと思う。本当に良い話だった。

○もう少し早い時期に聞くことができたらと思った。

○わかりやすく、日本人ぽくない考え方がとてもよかった。

○親と自分の関係、親と自分の子とのつきあい方や関係等、ちょうど考えていた頃なので「産
んでやった、育ててやった」とか「おばあちゃんが何でも買ってあげるからね」といった言葉には
ドキッとした。

○どうしても子がかわいいあまり私物化していた私だが、今日から反省したい。次男さんの自
立の様子、大変胸をうたれた。子どもが自由にはばたけるよう、後押しできる親になりたい。

○しつけは難しいと感じている。林先生の話は、とても楽しく明`決で参考になりました。少し見
通しがもてた気がします。この先息子との関係に色々ぶつかることもあるでしょうが、1人の個
人として見るよう努力したいです。

○実に楽しくおもしろく為になった講演会でした。最後まで興味を持って聞かせていただきまし
た。帰ったら早速、実行に移させていただきます。パソコンを購入したら、 HPを拝見させてい
ただきます。
 
○たいへん引き込まれるお話でうなづくことばかりでした。お話の中で家庭が憩いに場になっ
ているか?というところがありましたが、知らず知らずのうちに口うるさくなっている自分に気づ
かされました。子どもに何か言うまえには、一呼吸おいて話をしたいと思います。
 
○感動しました。子どもに今まで通り食事の前に、おはしを並べさせようと思いました。
 
○四次元論について、とても勉強になりました。ありがとうございました。
 
○為になるお話をお聞きする機会をいただいたことに感謝し、今後の子育てに役立てたいと思
います。
 
○時間が短く感じられるほど、真剣に引きつけられる話でした。楽に子育てしようと思いまし
た。
 
○今までの子育ての中でいろいろな心配や不安が少しやわらぎました6ありがとうございまし
た。
 
○いろいろと身につまされるお話もありましたが、講演を聞き心が洗われました。さて、今日だ
けとならないように自分、子ども、家庭を見つめる時間をとりたいと思います。
 
○途中からの参加になってしまいましたが、(遅くなり失礼しました)林先生がリピー卜して話し
てくださったので、わかりやすかったです。ポイントをおさえ講演してくださりましたので、わかり
やすかったです。今日これなかった方にも、伝え帰っていきたいと思います。私としては「育自」
がとてもポイントになりました。
 
○真剣に聞き入った充実した2時間でした。日常、子育てに関心はあるものの、なかなか子育
て本を読む時間もない中、このような講演会に出席して、お話が聞けてまさに目からウロコが
落ちたような気がします。本当に子どものためになる子どもの気持ちを大事にした考え方、方
向性のあり方に気づかされ、ハツとさせられました。忘れないうちに、皆にとって居心地のよい
家庭となるよう実践したいと思います。

○2時間、我が身のことをいろいろ考えさせていただいた。あ〜あと思うこともいっぱいありまし
たが、これから子どもたちと楽しく生活を一緒に送っていこうと思った。
 
○自分自身の子育てを考えると「しつけ」「教育」の名目の押しつけが多く、子どもの意見を聞
いていないこと、それに子どもの能力を信用していないことに気がついた。今日の4次元の視
野をもって子育てを軌道修正していきたい。
 
○一句一句が身にしみる言葉だった。不安だらけの毎日だったが、これから気をつけたいこ
と、見つめなおしたいことがわかってきたような気がする。参加してよかったとつくづく思える講
演だった。
 
○毎日、目先の子どもの姿に一喜一憂していたが、もっと大きな目で、離れた目で子育てをし
ていきたいと思った。今からでも遅くないと数年後を楽しみに子どもに接していきたい。
 
○今ある自分の場所を見つめ直すことができて、これからの方向`性も見いだすことができ
た。とても気持ちが楽になり、子どもとすごす時間がどれ程楽しかったかを思い出した。
 
○今日は親の代理(祖母)で出席させていただいた。しっかり話を伝えようと思う。実は私自身
が十分な子育てができていなかったことに気づいた。少しでも今日の話を心にもって孫と接し
ていきたい。
 
○2時間を感じさせない今日の講演。得した気分でいっぱい。

○私の親意識は悪玉の権威主義そのものだと深く反省しました。子どもの人格を認めて、親
子関係を修復したいと思います。楽しくわかりやすい講演で、とても心に残りました。
 
○御自分の経験をふまえた肩のこらないおはなしで楽しく聞くことができました。もう手遅れか
なと思うことばかりでしたが、何十年かかけて軌道修正ができればと思います。
 
○自分の子育てを再確認できました。そして、これからの親子関係を見ていくのに役立ちまし
た。

○国外から見た日本の子育てなどもお話ししていただき、たいへんよかった。
 
○内容にメリハリがあってとても聞きやすかった。中学生2人、高校生1人、大学生1人と思春
期まっただ中の子どもが4人います。軌道修正できるか心配ですが、今回の話をふまえて、少
し親子関係を見つめ直してみます。いい機会を与えていただきました。ありがとうございます。
今までにない子育ての話だったと思います。新鮮でした。
 
○講師の先生が、実際に幼児教育にかかわっておられ、いろいろな子育て中の親のカウンセ
リングもされており、国際的知識も豊富でお話が具体的で説得力があった。ユーモアもあり大
変おもしろかった。親でもあり、仕事がら子どもたちと接する機会も多く、今の子育てどうなって
いるのかどうすればいいのかと思うことも多かったので「子どもに子どもの育て方を教えること」
というのはああそうだなあと最近、中。高生とそういうやりとりをするようになり、実感しておりま
す。
 
○すばらしい経験、体験を具体的に聞かせていただきました。子どもに親が育てられるという
言葉、分かるようで分からない部分でした。子どもが私を育てるために今、私の納得のいかな
い行動、言動をとっている時、どのように接していいか、これからとっていったらいいか自分自
身わからないまま日々を送っています。先日、教育委員会から出されたアンケートを見て、先
生方も同じような気持ちなのではないでしょうか。今後、教育者。保護者がどのようにかかわっ
ていくことがよいのか大きな課題が残りますね。
 
○林先生は存じあげなかったのですが、なかなかインパクトのある話しぶりでよかったと思い
ます。内容的にはもう少しというかもっと早い時期に(子どもが小さいときに・・・)お話しを聞き
たかったと思います。我が家はもう手遅れの状態です。今から、20才までには3年と6年ぐら
いしか残ってないです。

○頭の中ではっきりしていなかったことが、話をきいていくうちにまとまっていくような気がした。
○ポイントが押さえられていてわかりやすかった。おもしろかった。トイレにいきたかったけど、
ついついがまんしてきいていた。
 
○今までの子育ての講演会や本の内容はワンパターンだったが、今日の話は私にとってプラ
スになった。
 
○本日の発見「子どもの横を歩く」「友として歩く」我が家に不足していた時間です。
 
○家庭教育学級などで、何度か子育ての講演会を聞いたが、今日の話が一番役にたった。も
っともっとカウンセリングのいろいろな事例などを聞きたかった。
 
○日ごろ悩んでいる問題を具体的な例をあげながらの講演でわかりやすかった。これからの
子育ての参考にしていきたい。父親にも聞かせたい講演だった。
 
○ドキッとしガクッとしながら貴重な話を聞いた。親意識がダメとは・・・と考えさせられ、今後我
が子3人に対してどう接していこうか夫と見直していきたいと思う。
 
○本当に感動した。すでに手遅れと思うことも多くあったが、あきらめず毎日の子どもとの関わ
り方を大切にしてがんばっていこうと思う。「自立」を目指して。
 
○話を聞いていて、思い当たることや、今まで疑問に思っていたことが理解できたように思う。
子育ては難しく、思っているようにはいかないと思いながらも、今日の話を思い出し、子どもと
自分の未来のために頑張りたいと思う。
 
○まず参加してよかった。このお話を聞けなかった人は残念なことだと思った。私自身も自分
の子育てに自信がなく、これでいいのかと`思っており、話を聞き、子育ての基本的な考え方が
違うんだと認識した。
 
○とても興味深く話を聞いた。子育て中の私にとって、忘れてしまっていたこと、気づかずにい
たことを、気づいてもあえて考えようとしなかったことを、あらためて考えさせられた講演だった
と思う。
 
○楽しい話だった。私も常々日本は外国に比べて自立している子どもが少ないと思っていた。
金銭面での「手遅れ」は少しショックだったが・・・。何とか軌道修正できたらと思う。
 
○現在の自分が聞いてみたい話題にピッタリの講演会だった。講演会で話を聞くのが好きで、
いくつかの講演会に参加してきたが、はやし先生のお話は一番勉強になった。実際の子育て
の体験など、すごくひかれた。私は、子どもを自立させ、海外で生活してみることを勧めてい
る。ますますその気持ちが強くなった。
 
○とても有意義な講演会で、よかった。「もう手遅れ〜」どうしようと考えてしまった。子どもが自
立するまで、子どもの気持ちを大切にと思いつつも、日々の子育ては……無意識のうちに、口
やかましくなっていたり、自分の価値観を押し付けていたり。

○今日の講演は、たいへんおもしろかった。例年だと、眠かったり、自分の考えと違う!と思っ
たりしているが、今日は、へえへえ、そうそう、やっぱり! 林先生もそのお考えですかと思った
ことが多かった。今日は出席者も多いが、ザワザワしてないし。

(OCRで収録したため、一部、脱字、誤字、ダブリなどがありますが、お許しください。)








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-7-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さんのお友だちで
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)   ここに書いてあることが
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /     お役にたてそうでしたら、
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄     どうかこのマガジンを
 ===○=======○====KW(8)   紹介してください!!!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 532人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  54人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−7号(150)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  いつもご購読くださり、ありがとう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「不登校」

【1】子育てポイント
【2】随筆
雑談コーナー
【付録】尾張旭市の講演の感想より……
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       新鮮な空気を吸いましょう!
  /_/             新鮮な子育て情報を、お届けします!   
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(352)

ワークブック

●ワークブックは、自分で買わせる
 意外と盲点なのが、ワークブック。子どもに合っていないワークブックを買ったため、その子
どもの勉強がストップしてしまうということは、よくある。そこで、いくつかのコツ。

(1)家庭でするワークブックは、子どもの能力の範囲にある、やりやすく、簡単なもので、やや
量が少なめのものを選ぶ。……大切なのは、「やり終えた」という達成感。この達成感を、大切
にしながら、子どもを前向きに引っぱっていく。親は書店でワークブックを選ぶとき、ややむず
かしく、量が多く、字がこまかいものを選ぶ傾向が強いが、そういう小さな無理が、子どもを勉
強嫌いにする。

(2)書店でワークブックを選ぶときは、子どもに選ばせる。……ワークブックは、大工の道具の
ようなもの。よいワークブック(参考書)を自分で選ぶというのは、大工が自分にあった、よい道
具を選ぶのに似ている。子どもが小さいうちは、親が選ぶことが多いが、大きくなったら、自分
で選ばせる。そういう選眼力を養うのも、たいへん重要なこと。

(3)半分はお絵かきになってもよい。……ワークブックなどというのは、もともといいかげんな
編集方針のもと、いいかげんな制作者がつくる。以前、そういったワークブックの制作をしてい
た「私」がそう言うのだから、まちがいない。だから、あまりこまごまとしたことを、神経質に言わ
ないこと。ほぼできていれば、よしとする。計算問題でも、だいたいできていれば、よしとする。
こういうおおらかさが、子どもを伸ばす。

(4)ワークブックを選ぶときは、一番の問題と、そのページの最後の問題を見る。……まず一
番の問題を見る。つぎに、そのページの最後の問題を見る。そのときの難易度の「差」を、「落
差」という。この落差が大きいワークブックは、買ってはいけない。たとえば一番の問題は、だ
れにでもできるような簡単な問題。しかしそのページの最後の問題は、おとなが頭をひねっても
できないような問題になっている、など。こういうワークブックは、かかえたら最後、子どもは確
実に勉強嫌いになる。大手の出版社が、下請け会社のプロダクションに制作させているワーク
ブックには、この手のものが多いから、注意する。

(5)ワークブックは相性を大切にする。……子どもとの相性が悪いと感じたら、そのワークブッ
クは、思い切って、捨てる。「もったいない」とか、「まだ残っている」とか、言って、子どもにさせ
てはいけない。もともとワークブックは、トイレットペーパーと同じ、消耗品。たしかに捨てるのは
もったいないが、しかしそういうワークブックをかかえて、子どもが勉強嫌いになってしまった
ら、もっと、もったいない。

(6)月刊雑誌をじょうずに利用する。……今、一〇種類ほどの月刊ワークブックが出回ってい
る。値段、レベル、量など、それぞれまちまちだが、子どもの能力と、やる気に合わせて選ぶと
よい。ただしここにも書いたように、大切なことは、無理をしないこと。時間的には、一か月分で
も、計三〜四時間でできてしまうようなワークブックが好ましい。小学生のばあい、家での学習
時間は、三〇分〜一時間程度を限度とする。またその範囲でできる学習量にする。コツは、サ
ッと始めて、パッパッと終わらせるようにする。ダラ勉、フリ勉、時間ツブシが見られたら、思い
切って、勉強時間を、半分程度にする。

+++++++++++++++++++++++
中日新聞掲載済みの原稿より……
+++++++++++++++++++++++

子どもを勉強好きにする法(学ぶことを楽しませろ!)
子どもがワークをするとき 

●西田ひかるさんが高校一年生
 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に創刊時
からかかわり、その後「知恵遊び」を一〇年間ほど、協力させてもらった。「協力」というのもお
おげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。

この雑誌は両誌で、当時毎月四七万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市
販教材の制作、指導にかかわってきた。バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりす
る世界初の教材、「TOM」(全一〇巻)や、「まなぶくん・幼児教室」(全四八巻)なども手がけ
た。一四年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌
も毎月二七万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長のOK氏が横浜のアメリカン
ハイスクールで見つけてきたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名の、高校一
年生だった。

●さて本題
 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがある。私
はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。私の意見を
聞いてもらうのは、そのあとだ。で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、
「ワークやドリルなど、半分はお絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやド
リルほどいいかげんなものはない」とも書いた。そのことについて、何人かの人から、「おかし
い」「それはまちがっている」という意見をもらった。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教
材に携わってきた「私」がそう言うのだから、まちがいない。

●平均点は六〇点
まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次の
次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベルを想定
して、プロット(構成)を立てる。その年齢の子ども上位一〇%と下位一〇%は、対象からはず
す。残りの八〇%の子どもが、ほぼ無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が六〇点
ぐらいになるような問題を考える。幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案を
まとめる。小学生用であれば、教科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほんの少
しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じてもらえな
いかもしれないが、二五年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育ワークで、その
後、東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

●半分がお絵かきになってもよい
 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばならないこ
とかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になっているのを見ると、
私としてはつらい。……つらかった。私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よ
りも大切にした。同じ迷路の問題でも、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、ある
いは意外性をそこにまぜた。たとえば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷
路になっているとか。あの「幼児の学習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月三〇〇枚以上
の原案をかいていた。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子どもが学
ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

          ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

金沢学生新聞12月号からの転載です。
今回で17回目になりました。以前、
掲載した記事と一部ダブりますが、
お許しください。
++++++++++++++++++++

非日常的な日常(やがて矛盾から違和感を……)(17号)
 
●ケタ違いの金持ちたち
 王族や皇族の子弟はもちろんのこと、公費留学生は別として、私費で留学してきたような連
中は、その国でもケタ違いの金持ちばかりだった。アルジェリアのレミ(実名)、ベネズエラのリ
カルド(実名)などは、ともにその国の石油王の息子だった。フィージーから来ていたペイテル
(実名)もそうだった。しかしその中でも異色中の異色は、香港から来ていたC君という学生だ
った。実名は書けない。書けないが、わかりやすく言えば、香港マフィアの大親分の息子という
ことだった。彼の兄ですら、香港の芸能界はもちろんのこと、映画、演劇などの興行を一人で
牛耳っていた。ある日C君の部屋に行くと、彼の兄が「ピンキーとキラーズ」(当時の日本を代
表するポップシンガー)や布施明と、仲よく並んで立っている写真があった。彼らが、香港で公
演したときとった写真ということだった。いつかC君が、「シドニーにも、おやじの地下組織があ
る。何かあったら、ぼくに連絡してくれ」と話してくれたのを覚えている。

●インドネシア海軍の前で閲兵
 こういう世界だから、日常の会話も、きわめて非日常的だった。夏休みに日本でスキーをして
きたという学生がいた。話を聞くと、こう言った。「ヒロシ、ユーイチローを知っているか」と。私が
「ユー……」と口ごもっていると、「ユーイチロー・ミウラ(三浦雄一郎、当時の日本を代表するス
キー選手)だ。ぼくはユーイチローにコーチをしてもらった。君はユーイチローを知っている
か?」と。しかも「日本の大使館で大使をしている叔父と、一緒に行ってきた」などと言う。

そういう世界には、そういう世界の人どうしのつながりがある。そしてそういうつながりが、無数
にからんで、独特の特権階級をつくる。それは狂おしいほどに甘美な世界だ。一度、ある国の
女王が、ハウスへやってきたことがある。息子の部屋へ、お忍びで、である。しかしその美しさ
は、私の度肝を抜くものだった。私は紹介されたものの、言葉を失ってしまった。「これが同じ
人間か……」と。あるいはインドネシア海軍がメルボルン港へやってきたときのこと。将校以
下、数一〇名が、わざわざバスに乗って、西ジャワの王子のところへ挨拶にやってきた。たま
たま休暇中で、ハウスにはほとんど学生がいなかったこともある。私はその友人と並んで、最
敬礼をする将校の前を並んで歩かされた、などなど。

●やがて離反
 が、私の心はやがて別の方へ向き始めた。もう少しわかりやすく言えば、そういう世界を知れ
ば知るほど、それに違和感を覚えるようになった。私はどこまでいっても、ただの学生、あるい
はそれ以下の自転車屋の息子だった。一方、彼らはいつもスリーピースのスーツで身を包み、
そのうちのまた何人かは運転手つきの車をもっていた。そういう連中と張りあっても、勝ち目は
ない。仮に私が生涯懸命に働いても、彼らの一日分の生活費も稼げないだろう。そう感じたと
き、それは「矛盾」となって私の心をふさいだ。最近になって、無頓着な人は、「そういう王子や
皇太子と、もっと親しくなっておけばよかったですね」などと言う。「旅行したら、王宮に泊めても
らいなさい」と言う人もいる。今でも手紙を書けば、返事ぐらいは来るかもしれない。しかし私は
いやだ。そういうことをしてペコペコすること自体、私にとっては敗北を認めるようなものだ。

 やがて私は彼らとは一線を引くようになった。彼らもまた、私がただの商人の息子とわかる
と、一線を引くようになった。同じ留学生でありながら、彼らは彼らにふさわしい連中と、そして
私は私にふさわしい連中と、それぞれグループを作るようになった。そしてそれぞれのグルー
プは、どこか互いに遠慮がちになり、やがて疎遠になっていった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(350)

不登校

 名古屋市に住んでいるKさんの相談を受けるようになって、もう六年になる? お嬢さんが、
中学二年生になったという。はやいものだ。そのKさんから、久しぶりに、メールが届いた。

●Kさんからのメール
林先生へ

お忙しい中早速お返事ありがとうございます。

小学校低学年の頃、行きたくないときはパニックを起こしたり、死にたいとまでいい、家の中で
も暴れたりして大騒ぎしていたのに、今はまったくそういうことはありません。

(私ももう無理に行かせるということはできないと、すぐあきらめるため、トラブルにならないの
ですが……。)

でもそういう意味では、彼女も自分をコントロールするよう努力しているのかもしれません。

昨日朝、学校の先生から「明日はパン工場に見学に行きその準備があるので熱がないなら来
るように」という電話があり、うかつにも、嫌がる娘にその電話を渡してしまいました。
そのとき、娘は、初めて涙を流し、電話に対し「無言」で抵抗をしました。

そのあと、泣きながら、「学校を辞めたい。もうだめだ。やめたくないが女子ソフトクラブも辞め
なければならない。(学校のソフト部の同級生がたくさん通っているため)、もう私のことはほう
っておいて」と訴えました。

これはだめだ、と思いました。
あの電話がなければ、週に二、三回でも学校に行っていたかもしれません。
その電話の前までは、パン工場に行くのは楽しみだったので行く、といっていたのです。
(過去のことを話すのは愚かなことでしたね)

私は、娘の心で問題になったことを尋ねましたが頑として答えません。
それで、そんなにいやなら行かなくてよいこと、あなたの居場所はここにあるということ、ママは
必ず味方をすること、
早急に自分だけの判断で結論を急がないことだけを伝えました。

一か月になるか一年になるか三年になるか。
私の、娘とのでなく、私自身との戦いがこれから始まると思うと、ぐらっとします。

でも学校に行かせなければ、行くかしら、と思っていたときは夜全然眠れませんでしたが、昨日
の晩は行かせなくてよい
と思い、よく眠れました。

夫は大阪で単身赴任。相変わらず出張も多く、今月は一五日間出張です。
電話で話しますが、きっと彼女のいう問題は些細なことで、本当に行かせることをまったくあき
らめていいのか?、とその判断がまだ納得できていません。

ただ近くにいるのが私なので、私の判断に従わざるを得ないのでしょう。
私は夫によく娘に対しナビゲートしすぎだといわれます。
荒れてほしくないと思うあまり、先回りしてこうではないか? こうしたら?、と言っているといい
ます。

気をつけるようにはしているのですが……

●はやし浩司より、Kさんへ、
 引きこもり的な症状をみせ、それが原因(?)で、学校恐怖症的な症状を見せたら、本来な
ら、鉄則は、ただひとつ。「わずらわしさからの解放」です。最近、C君(二六歳)が、八年間もの
引きこもりから抜け出て、やっと、何とか会社勤めができるようになりました。そのC君が、自分
を振りかえって、こう言っています。その内容を、まとめてみます。

(1)(引きこもっている状態のときは)、何もかまってほしくなかった。何がいやかって、親の心
配そうな顔をみるのが、一番、いやだった。
(2)まわりの者が、あれこれ心配してくれる気持ちは、よくわかったが、それがわずらわしくて、
しかたなかった。
(3)自分で何とかしようと思えば思うほど、そのたびに、ますます症状が悪化していくのが、よく
わかった。
(4)子どもの引きこもりに悩んでいる親たちには、こう言いたい。「子どものことは忘れて、自分
たちは自分たちで、好き勝手なことをすればいい」と。

 C君は、高校を卒業すると同時に、発症し、大学は数か月で中退。(最初は休学届けを出し
たが、二年後に中退。)以後、自宅に帰り、しばらく不規則な生活を繰り返したあと、そのまま
自分の部屋に引きこもるようになった。C君の闘病歴。

(1)最初の半年くらいは、ほとんど部屋から出てこなかった。生活は、昼と夜が逆転し、昼間は
ひたすら寝て、夜になると起きてきた。
(2)家族との会話はほとんどなく、母親のささいな言葉で、C君は激怒。母親はこう言った。「ま
さに一触即発の状態で、こわくて何も言えませんでした」と。
(3)こういう状態が、三〜四年つづいた。ときどき、中学時代の友人が、遊びにきてくれたが、
その友人だけが、唯一の「窓」だった。
(4)過食と拒食を周期的に繰り返し、そのたびに、プクッと太ったり、反対にやせたりした。
(5)精神科で処方された薬をのんだこともあるが、はげしい吐き気、気分の悪さ(胸苦しさ)な
どの副作用があったので、途中で服用をやめた。やめたあと、再び、症状が悪化したこともあ
る。
(6)C君が、幼児がえり現象を見せたのは、四年目くらいではなかったかとのこと。最初は、ガ
ンダム人形などで遊び、その遊びが、数か月単位で、少年期、青年期へと変わっていった。
(7)やがて車の免許を取ると言い出し、免許を取得。それ以後は、ときどき外出するようにな
り、いくつかのアルバイトを経たのち、今の仕事についた。

 このC君の例でもわかるように、こうした心の問題は、少なくとも一年単位でみなければなり
ません。同じ時期、Aさんという高校一年生の女の子も、拒食症から、高校を中退しましたが、
そのAさんも、同じような経過をたどっています。外から心の中がわからないだけに、まわりの
ものは、どうしても安易に考えがちですが、心の問題というのは、そういうものです。

 自意識という言葉がありますが、こういうケースでは、この自意識が、二つの方向に作用しま
す。(そういう自分であってはいけないから、なおそうという自意識)という自意識が、(なおそう
という自意識)と、(かえって自分はダメな人間と追い込んでいく自意識)に分裂してしまうので
す。それは想像を絶する、心の葛藤(かっとう)と言ってもよいでしょう。わかりやすく言えば、
(なおそう)と思えば思うほど、自分を、底なしの暗闇の中に追い込んでしまうのです。Aさん
は、あるときメールで、こう書いてきました。

 「(母親が)『あんたを見ていると、つらい』と言うが、それを言われる私は、もっとつらかった」
と。

 そこで大切なのは、「わずらわしさからの解放」です。子どもの世界から、わずらわしいことを
徹底的に排除します。具体的には、子どもの側から見て、親の視線や心配をまったく感じさせ
ないほどまで、子どもの周囲から「家族の気配」を消すことです。C君の両親は、私のアドバイ
スに従い、つぎのようにしました。

 たとえばC君が、夕方起きてきたとします。簡単なあいさつはしても、母親はそのまま、自分
の仕事をつづけ、C君をあたかも、「空気」のように扱ったそうです。食事の世話とか、衣服の
世話はしたそうですが、親は親で、好き勝手なことをした。もっともそういう状態になるのに、
一、二年はかかったといいますが、それを振り返って、母親も、そしてC君自身も、「それがよ
かった」と言っています。

 心の問題は、どこかであせってなおそうと思うと、そのつど、かえって症状をこじらせてしまい
ますから、注意します。そしてその分、立ちなおりを遅らせます。よくある例が、子どもの不登校
にしても、泣き叫んで抵抗する子どもを、無理やり車につめこんで学校へつれて行くケース。親
の気持ちは理解できないわけではありませんが、その「一撃」が、取り返しがつかないほど、大
きなキズを子どもの心につけてしまうのです。この段階で、「そうね、だれだって、学校なんか、
行きたくないこともあるのよ。しばらく学校を休んで、ママと楽しくすごしましょう」と、親が言って
いたら、あるいは、言うことができたら、それほど症状がこじれなくてすんだかもしれません。そ
ういうケースは、いくらでもあります。

 しかし、この問題は、不思議ですね。先のC君も、そのときは、親は、暗くて長いトンネルに入
り、「どうしてうちの子だけが……」と苦しんだそうですが、終わってみると、笑い話になったそう
です。親子の絆(パイプ)も、それで太くなったと言っています。

 それに少し前までは、学歴信仰や学校神話がまだ残っていて、それで苦しむ親や子どももい
ましたが、今は、もうそういう時代ではありません。価値観が変わったというより、日本人もやっ
と、欧米並みの価値観をもつようになってきました。アメリカでは、ホームスクーラーが、今年、
二〇〇万人に達するだろうと言われています。高校を卒業するまで、一度も学校へ通わなかっ
たホームスクーラーに対しても、入学を許可する大学が、世界で一〇〇〇校を超えました。ヨ
ーロッパでは、大学の単位の共通化が進み、今では、どこの大学で、どの学部で勉強しても、
「単位は同じ」という状態になりました。教育の自由化、多様化は、もう世界の常識なのです。

 そういうことを考えると、「学校とは行かねばならないところ」と考えている日本の親たちの、
何というか化石のような観念は、驚きでしかありません。まさに世界の笑いものですが、笑われ
ていることすら、わかっていないのですから、これまた悲劇ですね。

 大切なことは、こうした愚劣な社会的通念で、親子のきずなを犠牲にしてはいけないというこ
とです。またきずなを犠牲にするだけの価値はありません。あなたにしても、あなたのお嬢さん
にしても、たった一度しかない人生ですから、もっと自由に、もっと気楽に、この広い世界を羽
ばたこうではありませんか。ひょっとしたら、あなたのお嬢さんは、体をはって、あなたに真の自
由は何か、それを教えようとしているのかもしれませんよ。

 いまどき、不登校なんて、何でもないということ。あんな窮屈な世界(つまり学校)で、おとなし
くしておられる子どものほうが、おかしいのです。私なら、一日で、不登校児になります。ホン
ト! それとも、あなたなら、行けますか? イギリスのある教育者は、「学校教育は、監獄生
活。子どもは小学校入学と同時に、一〇年の刑を科せられる」と書いています。少し乱暴な意
見に聞こえるかもしれませんが、この問題は、ほんの少し視点を変えれば、何でもない問題だ
ということが、あなたにもわかるはずです。

 だから、「戦い」などと、恐ろしい言葉は使わないで、つまりもっと肩の力を抜いて、気楽に考
えてください。そんなおおげさな問題ではないのです。学校の勉強など、できても、またできなく
ても、どうということはないのです。みんな、明治以後、政府によってつくられた、「幻想」を信じ
込まされているだけです。もともと価値がないものを、価値があると思い込まされているだけで
す。たとえば隣の韓国では、約二年半の徴兵時代の成績で、そのあとの人生(就職先)が大き
く決まります。だから若者たちは、必死なのですが、それをよしとしない若者がいたところで、少
しもおかしくはないですね。むしろそういう若者のほうが、正常かもしれない? 日本の教育に
も、そういう矛盾が、山のようにあります。

 だからといって学校教育を否定するわけではありませんが、山に登る道は一つではないし、
また一つと考える必要もないのです。もっとおおらかに考えたらいかがでしょうか。

 メール、ありがとうございました。また何かあれば、ご連絡ください。
(02−11−28)

●みんなで力をあわせて、狂った日本の常識を変えましょう!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(353)

無知と無理解と誤解と……

●心の病気は、外から見えない
 体の病気は、外からわかる。しかし心の病気は、外からわからない。わからないから、親は、
「気のせいだ」「わがままだ」「仮病だ」と考えやすい。しかし心も、ときとして風邪をひく。肺炎に
もなる。あるいはそれがこじれて慢性病になることもある。

 あなたは熱を出して苦しんでいる子どもを、学校へつれていって、勉強させるか。あなたは足
の骨を折って、痛がっている子どもを、外につれていき、運動させるか。答は、ノーのはず。
が、心の病気のときは、そうでない。あなたは熱を出して苦しんでいる子どもを学校へつれてい
ったり、足の骨を折って、痛がっている子どもを、外につれていくようなことを、平気でしてい
る!

 「心」というのは、「体」より、ずっと複雑で、デリケート。熱を出したり、折れたりするようなこと
はないが、しかしキズついたり、壊れたり、変調したり、さらに狂ったりしやすい。ほんのちょっ
とのことで、そうなる。しかも心の病気は、一度病気になると、その症状は一年単位(一年でも
短いほうだが……)で、推移する。人によっては、一生、その病気に苦しむこともある。しかしそ
れにしても、どうしてこうまで日本人は、心の病気に対して、無知なのか。無理解なのか。誤解
しているのか。

●日本人独特の偏見
 前提として、日本人は、「心は病気にならない」と考えている? あるいは、心に病気のある
人を、昔から、「ふつうでない人」として、忌み嫌ってきた? そうした日本人独特の偏見が、心
の病気に対する理解をさまたげてきたとも言える。私も子どものころ、父や母に叱られるとき、
いつも、こうおどされた。「お前を、精神病院へ入れるぞ!」と。私はその言葉におびえたが、そ
ういえば、一度、こんなことがあった。

 何かのことで、ある精神病院の近くまで行ったことがある。小学五、六年生のころではなかっ
たか。それは大きな病院だったが、窓という窓には、鉄格子がはめられていた。私はその病院
を見たとき、言いようのない恐怖感に襲われた。心底、ゾーッとするような恐怖感だった。多分
私がそうなったのは、それまでさんざん、父や母に、おどされていたためではないか。こういう
偏見が、まだこの日本には残っている?

 心の病気など、何ら恥ずべきことでも、悲しむべきことでもない。風邪をひいて、熱を出すよう
に、だれだってある特殊な状況におかれれば、そうなる。私だってなるし、今、この文章を読ん
でいる、あなただってなる。またなったからといって、自分がまちがっているとか、おかしいと
か、特殊だとか、さらには欠陥人間なのだと思ってはいけない。思う必要もない。

●岐阜県T市の母親からの相談
 こんなメールがある母親(岐阜県T市在住)から届いた。その家庭では、中学生になった上の
女の子(姉、中二)が、断続的に不登校を繰り返していた。が、それを見ている下の女の子
(妹、小六)が、姉を、「ずるい」とか、「またサボっている」とか言って、非難するというのだ。そ
れで「どうしたらいいか?」と。母親は、「姉の不登校もさることながら、妹にどんな影響を与え
るか心配です」と書いていた。

 このケースでも、(当然だが……)、妹が姉の病気をまったく理解していないことがわかる。偏
見すらもっている。こうした無理解や偏見は、子どもだけのものではない。おとなの世界でも、
妻が育児ノイローゼになったとき、「お前は怠け病だ」と、妻を責める夫はいくらでもいる。少し
前だが、こんなこともあった。

 ある子ども(小一男児)が、毎朝、学校へ行くのをいやがるという。そこで親が車でつれていく
のだが、車で行けば、何ともない。最初、親は、不登校ではないかと心配したが、ほかに症状
はない。そこで調べてみると、その子どもは、閉所恐怖症であることがわかった。学校へ行く途
中にトンネルがあって、みなと行くときは、そこをくぐらねばならなかった。それが原因で、子ど
もは学校へ行くのをいやがっていた。

 私が「恐怖症だから無理をしないでください」とアドバイスしたが、相談してきた祖母は、「そん
なことで!」と驚いていた。そこで私は、私の恐怖症について説明してやった。「おとなの私で
も、恐怖症になります」と。心の病気は、決して、安易に考えてはいけない。

 で、メールで相談してきた母親の話にもどる。

●結局は、親の心の代弁者
 小学六年の子ども(妹)であれば、もう心の病気を理解できる年齢になっている。だから親
は、それを正直に、かつ正確に話すべきだと思う。言い方はいろいろあるだろうが、「心の風
邪」という言葉がよいかもしれない。「体が病気になるように、心だって、病気になるのよ」という
ような言い方で、よい。しかし私がこの相談を受けて、心配しているのは、姉の不登校のことで
はなく、家族の心が、少しバラバラになっていること。どこに原因があるのかはわからないが、
それぞれ三者が、別の方向を向いているような気がする? とくに妹が、他人の目で、姉を見
ている……?

 原因として考えられるのは、これはあくまでも私の憶測だが、母親自身が、まだ姉を受け入
れていない? もっと言えば、姉に対して心を開いていない? どこか他人行儀な感じすらす
る? 恐らく妊娠したときから、この母親がしてきたことは、不安先行型の子育てだったかもし
れない(失礼!)。たとえば望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか(失
礼!)。そういうどこか、リズムのかみあわない子育てが、今の親子関係に反映しているという
ことがじゅうぶん考えられる。それを、つまり、妹は、妹で、そういう母親の考え方を、無意識の
うちにも、感じ取ってしまっているのではないか? こういうケースは、少なくない。印象に残っ
ている女の子(年長児)にこんな子どもがいた。

 話が少し脱線するが、ある日、一人の母親が私のところにきて、こう相談してきた。「先生、
私は自分の娘がこわくてなりません」と。そこで話を聞くと、こう言った。

 「うちの娘は、何でも私の思っていることを、そのまま口に出して言ってしまうのです。それが
テレパシーのように伝わってしまうのです。たとえばお客さんがやってきたとします。そのとき、
私が、『いやなときに来た』と思っていると、娘が、そのお客さんに向かって、『あなたはいやな
ときにきたわね』と言ってしまうのです。あるいは、私が内心で、義理の父親のことを、『汚い』と
思っていると、娘がその父親に向かって、『あなたは汚い』と言ってしまうのです」と。

 親子の関係が濃密だと、こういう現象はよく起きる。つまり子どもの心をつくるのは、親だとい
うこと。姉に対して、「またサボっている」と妹は言ったということだが、それは母親の中に潜
む、潜在意識の代弁かもしれない? こう断言するのは危険なことだが、しかしその可能性は
高い。

 そこで私はその母親に、こうアドバイスした。

●まず、親の心をつくりなおす
 「今こそ、あなたの愛情が試されているときと思ってください。方法は簡単です。上の子(姉)
を、すべて許し、忘れることです。あなたが上の子を、すべて許し、忘れることができたとき、あ
なたの心の中に温もりがうまれ、下の子(妹)の心を溶かします。時間はかかりますが、いつか
下の子が、上の子に向かって、『お姉さん、無理をしないでね。お姉さんは、よくがんばっている
よ』とねぎらいの言葉をかける日がくることを信じて、ただひたすら、許して、忘れるのです。一
見、この問題は、下の子の問題のように見えますが、実は、下の子は、あなたの知らない心を
代弁しているだけなのです。それにもし、あなた自身の中に、わだかまりがあるようなら、思い
切って、そして勇気を出して、一度、あなたの心の中をのぞいてみてください」と。

 話がずいぶんと脱線してしまったが、まず私たちは、心の病気に対する、無知と無理解と誤
解を取り除かねばならない。子どもの不登校の問題にしても、その背景には、こうした無知と
無理解と誤解がある。それらが、偏見を生み、そしてもろもろの悲劇を生む。だからあえて、私
はここで繰り返す。

 心の病気なんてものは、何でもない! だれだって、なるときはなる! なったところで、自分
や、家族を、欠陥のある人間などとは、思ってはいけない。思う必要もない。何でもないことな
のだ!
(02−11−28)

●心の病気に、理解をもとう!
●心の病気に苦しんでいる人に、やさしくしてあげよう!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(354) 

男の子・女の子

●アンドロゲン
 「うちの娘(小三)は、おてんばで、遊びも、女の子のものというよりは、男の子のものばかり。
人形でも、ほとんど遊びません。スカートをはくのも、いやがります。どうしたらいいですか」(熊
本県M市H)というメールをもらった。

 これはサルの実験だが、妊娠中のメスザルに、アンドロゲンという性ホルモンを注射したとこ
ろ、そのメスザルから生まれてきた、メスのサルは、明らかに男性的な遊びをするようになった
という(アメリカ・ウィスコンシン大学の研究レポート)。

 このように、「男の的」「女の子的」というのは、遺伝子によるものというよりは、アンドロゲンと
いうホルモンによるものであることは、よく知られている。人間のばあいでも、副腎過形成という
先天的な病気になると、体内でアンドロゲンが過剰に分泌され、女児でも、「男の子的な遊びを
好むようになる」になることが報告されている(新井康允氏「脳のしくみ」)。(これに対して、男の
子が男の的になるのは、胎児期に自分の精巣から分泌されるアンドロゲンによるものと考えら
れている。)

 ここでいう「男の子的」「女の子的」というのは、だいたい、つぎのような尺度でみるとよい。

☆男の子的(男の子の遊びの行動パターン)……攻撃的、暴力的、闘争的、能動的。
☆女の子的(女の子の遊びの行動パターン)……保守的、家庭的、平和的、受動的。

わかりやすく言うと、男の子は、乗り物や闘争的な遊びやスポーツに興味を示し、女の子は、
ままごとや、おしゃれ、技術的な体操に興味を示すということになる。が、こうしたパターンが、
そのまま子どもによっては、当てはまらないときがある。冒頭の相談もその一例である。

●私のばあい
 私は小学六年生になるまで、女の子と遊んだ経験がほとんどないという、まあ、どちらかとい
うとイビツな環境の中で、育った。女の子と遊ぶことなど、考えられなかった。遊べば遊んだ
で、「女たらし」と呼ばれた。私の生まれ育った世界では、「女たらし」と言われることくらい、不
名誉なことはなかった。そんな私だったが、小学三年生か四年生のころ、無性に、人形がほし
くなったことがある。愛情に飢えていたのかもしれない。で、ある日、そのことを、大阪に住む叔
母にこっそりと話すと、叔母は、一体の人形をつくって送ってくれた。私は以後、その人形を毎
晩、抱いて寝た。

 だからといって、私に同性愛的な趣向があるということではない。私は男の中でも「濃い男」だ
と思う。「濃い、薄い」というのは、かなりスケベなほうの男ということ。同性にはまったく興味は
ない。好きか嫌いかと言われれば、若いときは、セックスほど楽しいものはなかった。

 こうした経験があるから、私は、「男の子的」「女の子的」という言い方には、どこか抵抗を覚
える。男の子だって、女の子の遊びをしてもかまわないし、女の子だって、男の子の遊びをして
もかまわない。……と考えていた。今も基本的には、その考え方は変わっていないが、問題な
のは、男児の女性化である。このことについては、別のところで書いたが、それには環境ホル
モン(内分泌かく乱化学物質)が影響しているという説もある。たいへん深刻な問題と考えてよ
い。

 ただ私の経験では、こと、おてんばな女の子について言えば、それは思春期までのことであ
り、その時期に入ると、女の子は、急速に、女性ぽくなっていくことがわかっている。しかもおて
んばであった女の子ほど、そうで、教育的には、ほとんど問題はない。印象に残っている女の
子に、Sさんという女の子がいた。

●胸を平気で見せていたSさん
 Sさんは、セーラー服を着た、男の子だった。私の教室へ来ても、夏の暑い日だと、平気で制
服を脱いで、シャツ一枚になっていた。小学五年生ともなると、胸もかなり大きくなる。そこで私
が「服を着ろ。女の子が、そういうかっこうをするもんじゃない!」と叱ると、「暑いから、いいだ
ろ」と。そこで別の机の上に脱いである制服を、私がSさんに投げて渡すと、「うるせエーナー、
着ればいいんだろ、着ればアー」と。

 母親もそういうSさんに、かなり悩んでいた。家の近くに材木店の空き地があるのだが、そこ
で毎日、真っ暗になるまで、男の子たちとサッカーをしているというのだ。「あんたは、チンチン
を私のおなかの中で忘れてきたのね」と母親が言うと、「ちゃんと産まネーから、こういうことに
なるんだよ」と言い返していたという。

 が、そのSさんが、急速に変化したのは、六年生になってからだ。その時期のことはよく覚え
ていないが、中学一年生になるころには、別人のようになっていた。記憶に残っているのは、
笑い方まで変わってしまったこと。それまでは、足を広げて、ゲラゲラと大声で笑うタイプの子ど
もだったのだが、気がつくと、足をすぼめて、フフフと、顔をかしげて笑うタイプの子どもになっ
ていた。生理か何かが始まって、体内のホルモンが、大きく変化したのかもしれない。そのとき
は勝手にそう思ったが、その変わりように、私は驚いた。

 で、ある日、私はSさんに、こう言った。「あんたは、少し前まで、メチャメチャおてんばだった
けど、どうして、そんなに変わったの?」と。するとSさんは、恥ずかしそうに顔をゆるめて、こう
言った。「そんなこといいでしょ。もう忘れて……フフフ」と。

そのSさんは、少し前まで、近くの保育園で保育士をしていて、最近結婚したと聞いている。

 だから……。この時期、つまり幼児期から少女期にかけて、女の子が男の子的な遊びをする
からといって、それほど深刻になることはない。……というのが、私の結論ということになる。少
なくとも、思春期を迎えたときどうなるかを見きわめるまで、今は、静かに様子をみる。それ以
後のことは、また別に考えたらよい。
(02−11−29)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

後半部へ
よろしく
はやし浩司







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-9-2

後半部です!
はやし浩司
+++++++++++++++++++++++++++++++++

ものに固執する子ども

群馬県T市に住む母親から、つぎのような相談をもらった。

我が家には五歳の息子と三歳の娘がいます。
二人とも幼稚園に通っていて、幼稚園の先生に伺うと二人とも別に問題もなく、
友だちの面倒などをみてくれて、いいお子さんですよと言われています。
二人とも夜眠るとき、上の子は枕カバーの端っこを、
下の子は決まった布団の端っこを触りながら寝ます。
洗濯などしてないときはブーブー文句を言いますが、ないならないで眠れるようです。
なぜ触るのかを聞くと気持ちよいからと言う答えが返ってきます。
二人とも心に何かさびしさみたいなものがあるのでしょうか?
それと上の子は近所に同級生(Y君)がいて、同じ幼稚園に通っているのですが、その子と遊
ぶときは時々、下の子をのけ者にして遊ぶことがあります。
二歳違いなので体力的に下の子が付いていけないから面白くないのかなとも思うのですが、私
は、親として、見ていてムカッとすることもあります。
上の子はY君の事が大好きです。
妹とY君とどっちが好きと聞くとY君だと答えます。
それを聞くとドット疲れがきます。
頻繁(ひんぱん)ではないのですが、
以前から時々家族なのだから、皆が一人一人を守っていかなくてはいけないんだと話していま
す。
その時は涙を流して聞いているのですが、
まだ幼稚園なので兄弟より友だちのほうが、大切なのでしょうか?
それとも私が……?
私が長女で、子どものころ、「よくお姉ちゃんでしょ」と言われていて、それがいやだったので、
上の子には、なるべくお兄ちゃんでしょとは言わないようにしています。
どうかよきアドバイスをお願いします。

(ものいじりする子ども)

 情緒が不安定な子ども(心の緊張感がとれない子ども)は、その緊張感をやわらげるため
に、いろいろな行為を、代償的にすることが知られている。指しゃぶり、髪いじりなど。ものいじ
りもその一つ。

 したがって、こういう行為(代償行為)を、禁止しても意味がないばかりか、無理にやめさせる
と、ますます情緒が不安定になるから注意する。問題なのは、なぜものいじりをするかではな
く、なぜ心の緊張感がとれないか、である。まず疑ってみるべきことは、愛情不足、愛情不安。
子どもの側からみて、どこかに不安を感じていないかを反省してみる。親の完ぺき主義、過干
渉、過関心など。親の情緒不安も反省してみる。あるいは親自身にわだかまりはないか? そ
うしたわだかまりが遠因となって、子育てが不安先行型になっていないか、心配過剰になって
いないか、など。また子どもによっては、外での生活(このばあいは、幼稚園での生活)で、精
神的に疲れやすく、同じような症状を示すことがある。

 あとは濃厚なスキンシップをふやし、一方で、カルシウム分やマグネシウム分の多い食生活
にこころがける。家庭が、子どもにとって、ほっと心の休まる場所であるかどうかも、あわせて
反省してみる。こまごまとしたしつけ、神経質なしつけは、ひかえる。

(兄弟の問題)

 親は「兄と妹は仲よく……」と思っているが、これほど、身勝手な「思い」はない。仲のよい兄
弟も多いが、たいていは上の子は、下の子を嫌う。下の子が生まれる前は、一〇〇%の愛情
を受けていたのが、下の子が生まれることによって、それが五〇%に減ることによる。親は、
「平等にかわいがっています」と言うが、上の子にしてみれば、平等ということ自体が不満なの
だ。

 子どもの世界では、嫉妬(しっと)がからむ問題は、慎重にあつかう。原始的な感情であるだ
けに、扱い方をまちがえると、子どもの心に大きなキズを残すことになる。

 で、この相談のケースだが、五歳の子どもに、「兄弟、仲よくしなさい」は、ない。親が子ども
の心の中身まで干渉してはいけない。まさに典型的な過干渉ということになる。いわんや、子ど
もに、「妹とY君とでは、どっちが好き」などという質問は、乱暴すぎる(失礼!)。これは妻に向
かって、夫が、「お前の実家の親と、オレの親と、どっちが好き」と聞くようなものである。わかっ
ていても、またわかっていなくても、そういうことは、聞くべきことではない(失礼!)。

(いい子の問題)

 幼稚園の先生は、「いいお子さんですよ」と言っているのだから、まずそれを信じて、そして先
生を信頼してよいのでは。先生というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。ただ問題な
のは、無理にいい子ぶるケース。子どもによっては、先生の歓心を買うため、無理にいい子ぶ
ったり、あるいは反対に、いい子ぶることで、自分をガードしようとしたりする。これを「仮面」と
いう。こうした仮面性がみられたら、注意する。このケースでは、メールからだけでは、その点
がよくわからない。が、ふつうは参観日での様子を見て、判断する。家での様子とそれほど違
わなければ問題はないが、どこか無理をしているように感じたら、その仮面性を疑ってみる。

 仮面をかぶるようになると、(仮面をかぶることを、悪いことと決めてかかってはいけないが…
…)、子どもは外の世界で無理をする分だけ、精神疲労を起こしやすくなる。そのため反対に
家の中では、暴れたり(プラス型)、ぐずったり(マイナス型)しやすくなる。もしそうであるなら、
なおさら、家庭は、いやしの場、いこいの場であることを最優先にする。ゆるめるところは、思
いっきり、ゆるめる。「うちの子は、外の世界でがんばっているから……」と、あきらめるところ
は、あきらめる。

(「お姉ちゃんでしょ」という「だから論」)

 親としては、子どもに自覚をもたせたいがため、よく「だから論」を使う。しかしこの「だから論」
ほど、子どもを苦しめるものはない。この母親自身も、「いやだった」と述懐している。

 考えてみれば、この「だから論」ほど、意味のない論法は、ない。「親だから……」「子どもだ
から……」「親子だから……」と。もし私がだれかに、「お前は、長男だから……」と言われた
ら、多分、私はこう反論するだろうと思う。「だから、どうなの? それがどうしたの?」と。

 言うまでもなく、こうした「だから論」の背景にあるのは、「ワク」。人間関係を、ワクでしばろう
とする考え方である。たいていは上下意識を柱とした権威主義をともなう。この相談をしてきた
母親は、無意識のうちにも、その権威主義をふりかざしていることになる(失礼!)。

こうした権威主義がこわいのは、それ自体が子育てをゆがめることもあるが、やがて親子の間
にキレツを入れ、さらには断絶の原因となっていくこと。この母親のばあいも、子どもの前に立
って、子どもをぐいぐいと引っぱっていこうという姿勢ばかり目立つ。友として横に立つという姿
勢が弱いように思う。言うなれば悪玉親意識(親風)が強すぎる(失礼!)。もっと肩の力を抜い
て、子育てを楽しむという姿勢を大切にしたらどうかと、私は思うのだが……。かなり失礼なこ
とばかり書いたが、どうか許してほしい。
(02−12−1)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(364)

子どもの世界の「流れ」

 子どもの世界が大きく変わりつつある。幼児の世界にも、流行が入り込こみ、今では、ミニモ
ニだの、遊戯王だの、さらにはファッションだのと、何かと騒がしくなってきた。ゲームもそうだ。
今では、テレビゲームをしていない子どもをさがすほうが、むずかしい。

 こういう変化を前にすると、「だいじょうぶ?」「これでいいのか?」という議論が、必ずといって
よいほど、わき起こってくる。しかし私は、こうした問題を考えるたびに、いつも私自身の子ども
時代を思いだす。

 私が子どものころには、まだ、盆暮れ払いというのが、残っていた。ツケを、盆のころ、あるい
は年末の暮れに支払うという方法である。そういう意味では、実にのんびりとしていた。たとえ
ば私の家は自転車屋だったが、客がきても、私の父などは、別の客と平気で将棋をさしてい
た。客は客で、その勝負が終わるまで、横で立って待っていた。

 そういうところへ、いわゆる商業資本主義が私の町にもやってきた。衝撃的だったのは、「主
婦の店」というスーパーができたことだ。私は子どもながらに、その規模の大きさに、驚いた。
一つの店の中に、やおやも肉屋も、そしてコロッケ屋(どういうわけか、このコロッケ屋はよく覚
えている)もあった。私は毎日、学校の帰り道にそのスーパーに寄り、あれこれ店に並んだも
のを見て楽しんだ。

 とたん、それまであった商習慣が、いろいろな意味で崩れ始めた。たとえば私の父などは、
勝手にテリトリーを決めて、その中だけで自転車を売っていた。「ここから先は、○○自転車屋
の縄張りだから、ウチは、売らない」とか。しかしそういう「やさしさ」など、こうした商業資本主義
の前では、ひとたまりもなかった。やがて父は、「Jストアより安いものもあります」「よそで買っ
た自転車でも、パンクの修理をします」と、どこか、おかしな張り紙を店先に張るようになった。
私が小学四年生か、五年生のころのことではなかったかと思う。

 実は、私が話したいことは、このことではない。もし、私がその当時、今の私のように、教育
評論をしていたとしたら、恐らく、私は、商業資本主義の功罪について論じていただろうというこ
と。「こうした商業資本主義は、日本の古きよき慣習を破壊する」「そのため、子どもたちの世
界を変える」「その悪影響は何か」と。

 しかしその結果、今はどうなったか? 今ではこうした商業資本主義は、日本の社会のすみ
ずみまで根をおろし、どこへ行っても当たり前になってしまった。今では、商業資本主義の功罪
を論ずる人など、どこにもいない。社会全体が、その上で成りたっている。

 そこで私はこう考える。こうした変化の過渡期(毎月、毎年が、その過渡期のようなものだが
……)には、必ず、その過渡期に応じた議論が、わき起こってくる。冒頭に書いた変化も、その
ひとつ。で、こうした議論をするとき、大切なことは、世の中には「流れ」というものがあるから、
その流れに逆らっても、意味はないということ。またその流れに乗って、子どもたちがどういう
世界をつくるかは知らないが、それは私たちおとなが決めることではなく、子どもたち自身が決
めるということ。やがて子どもたちの社会は、その流れの上に、成りたつようになる。

 もちろん、だからといって、子どもの世界の問題を、無視せよということではない。ないが、こ
の「流れ」を読みまちがえると、議論しても、その議論そのものがムダになる。今までにも、いろ
いろあった。たとえば、マンガの功罪論、テレビの功罪論などなど。ゲームの功罪論も、その延
長線上にある。インターネットの功罪論、さらには携帯電話の功罪論も、その延長線上にあ
る。

 だから……。よく話題にはなるが、こうした「流れ」には、私は逆らわないようにしている。何と
言っても、波が大きすぎる。私たちがせいぜいできることと言えば、その波を見ながら、「こっち
へおいで」「あっちへ行きな」と、親や子どもたちに指示することでしかない。無力といえば、無
力だが、教育評論にも大きな限界がある。

【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(365)

別れ

 今日、いとこを山荘へ迎えた。そして食事をいっしょにした。数年前、いとこ会をしたので、何
十年ぶりというような大げさな出会いではない。が、それでも、それに近い感じがした。私も老
(ふ)けたが、いとこも老けた。

 私は夢中で、自分のことを話した。いとこも、夢中で、自分のことを話した。どうしてそういう会
話になったのかは知らないが、ともかくも、たがいにそうした。私は自分の過去……、つまり子
ども時代が終わってから、今にいたるまでの記憶を、そのいとこに伝えたかった。同じように、
いとこも、子ども時代が終わってから、今にいたるまでの記憶を、私に伝えたかったのだろう。
たがいに途絶えた記憶を、たがいに懸命に補った。

 それは過ぎ去りし過去への郷愁か。それともやがて襲いくる老後への準備か。はたまた今を
いとしむ、嘆きの抵抗か。

 別れ際、「また会いましょう」と、かたく約束をかわす。握手をする。「元気でな」と言いあって
はみたものの、どこかさみしい。五五年の歳月を、こうして一日延ばすことに、どれだけの意義
があるのか。またいつか会って、その間の記憶を補ったところで、どれだけの意義があるの
か。振り返ると、冬の冷たい、小雨まじりの風。「時間よ、止まれ!」といくら叫んでも、そんな声
など、どこにも届かない。会うのはうれしいが、そのあと別れるのは、もっとつらい。

 やがていとこの乗った車は、高速道路のゲートの中に消えた。私はそれを見ながら、シートベ
ルトを、ホックに入れた。「今日は、いろいろありがとう」とワイフに言うと、ワイフはウンとうなず
いて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
(02−12−1)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(360)

ケチ論

 私が今まで出会った中で、最高のケチは、R氏(四五歳)だった。R氏というより、R氏夫婦だ
った。

 ある日、物干し竿(ざお)に、よく見かけるが、しかしそういうところには、あってはならないも
のが、ぶらさがっているのがわかった。「何だ?」と思って見ると、のびきったコンドームだっ
た。R氏夫婦は、コンドームでも、そのつど洗って使っていた! いろいろなケチがいるが、コン
ドームを洗って使う人は少ない?

 ふつうケチというときには、二種類ある。プラス型のケチと、マイナス型のケチ。

 プラス型のケチ……お金はあるのに、質素なフリをするケチ。ケチである必要もないのに、ケ
チケチしている。わざとヨレヨレの衣服を身にまとい、「私はモノを大切にしています」と、それを
誇示したりする。子ども時代の貧しい時代を回顧しながら、「今もそうでなければならない」と説
いたりする。

 マイナス型のケチ……お金がないのに、外見だけはとりつくろうケチ。サイフの中には、これ
みよがしにいつも大金が入っている。しかし実際には、そのお金は使わない。家の中も、ガラク
タのようなものであふれかえっている。要するに、モノを捨てられないタイプ。冒頭に書いた、R
氏夫婦がこのタイプ。
 
 ところで「質素」と「ケチ」は、どこが違うか。

 質素とは、分相応に、つつましく生活することをいう。だれが見ても、まあ、そういうものだろう
なという範囲で、生活する。モノやお金への執着心が弱い。一方、ケチというのは、生活全体
が、どこかチグハグ。ヘンなところで出し惜しみしたり、もの惜しみしたりする。モノやお金への
執着心が強い。

 一般論からいうと、長男、長女はケチ。これは下の子が生まれたあと、生活態度が防衛的に
なることによる。しかし本人には、その自覚は、ほとんどない。ケチかケチでないかということ
は、あくまでも相対的なもの。それに加えて、もともと長男、長女は、与えられることや、してもら
うことになれているため、それが生活の基盤になっている。だからケチであることが、当たり前
になっている。

 R氏も、そしてR氏の妻も、その長男、長女。ケチの相乗効果というか、私もいろいろなケチ
に会ってきたが、あそこまでのケチを知らない。何度か、いっしょに食事をしたことがあるが、
一度だって、食事代をもってくれたことがない。割り勘すらない。いつも自分たちだけが、サーッ
と食事をすまして、「ごちそうさま」ですんでしまった。そうそう一度だけ、ワイフが本を借りたこと
がある。借りたというか、「読んだら?」と言われて、ワイフが預かった。で、その本のことを忘
れていたのだが、二年後に、その本を取り返しにきた。
 
 ところで、私は三男ということもあって、モノやお金には、ほとんど執着心がない。ケチかケチ
でないかということになると、その前に私はケチケチしている人は、好きではない。肌に合わな
いというか、波長が合わない。つまりこの世界、ケチでない人からは、ケチがわかるが、ケチの
人からは、ケチがわからない。だからケチなひとが、どういう人なのか、私にはよくわかる。もっ
ともケチな人から言わせると、私は、モノやお金を大切にしない、だらしない人間ということにな
るのだが……。
(02−11−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(356)

バカ論

 人間のレベルについて考えたり、論じたりするのは、タブー中のタブー。しかし……。

 映画『フォレスト・ガンプ』の中で、ガンプの母は、ガンプにこう言う。「バカなことをする人をバ
カというのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 この世の中には、そういう意味でバカな人はたしかに、いる。そういう人を基準にすれば、人
間のレベルを知ることができる。が、どういう人をバカというのか。

(レベル1)平気でゴミを捨てる人。道路にツバをはく人。駐車違反をする人。社会のルールを
守らない人。

(レベル2)自分勝手な人。人に迷惑をかける人。小ズルイ人。ウソをつく人。約束を守らない
人。

(レベル3)人をだます人。社会に害毒を流す人。人の心をもてあそぶ人。人を傷つけたりする
人。

 こうした(レベル)がこわいのは、そのレベルに応じて、やがてその人の風格なり品性となっ
て、外に現れること。若いうちは、自分がもっている気力でそれをごまかすことができる。が、
歳をとると、そうはいかない。気力が弱くなると、それと反比例する形で、その人の品性が、外
に出てくる。こんなことがあった。
 
 O君(中二)がこう言った。「家の前に、花の植木バチを置いておくと、すぐ盗まれる。盗んで
いくのは、近所のおばさんだ。お母さんが、昨日も怒っていた」と。そこで「近所のおばさんっ
て、どんな人?」と私が聞くと、「七〇歳くらいのおばさんだ」と。

 私はこの話を聞いたとき、最初、そのおばさんが、どういう気持ちで盗んできた花を見るの
か、そちらのほうに興味をもった。(盗む)という邪悪な行為と、(花を楽しむ)という清廉(せい
れん)な行為は、明らかに矛盾している。そこでさらに話を聞くと、どうも、こういうことらしい。

 そのおばさんは、もともと、そういう人だったそうだ。しかし年齢とともに、そういう自分をごま
かすことができなくなり、平気でそういうことをするようになった、と。一度、植木バチを返してほ
しいと、O君の母親が言ったときも、まったく悪びれる様子もなく、こう言ったという。「名前は言
えないが、これは、ある人からもらったものだ」と。こういうおばさんのような人を、「バカ(ガンプ
の母親が言うところのバカ)」というが、こういう人は、もっと大切なものをなくしていることに気
づかない。「時間」だ。時間をムダにしている。

 そこで私は、(レベル4)として、つぎのような人を考える。

(レベル4)時間をムダにする人。自分に正直に生きない人。人生の真理から自ら遠ざかる
人。

 人はバカをすればするほど、回り道をすることになる。人生が永遠にあればそれでもよい
が、人生は決して永遠ではない。今までのあなたの人生が、あっという間に終わったように、こ
れからの人生も、あっという間に終わる。そういう人生の中で、私たちはいくつの真理をつかむ
ことができるのか。どれだけ真理に近づくことができるのか。回り道をしているヒマなど、だれに
もない。私にも、あなたにも、ない。もしバカなことを繰り返していれば、そのつど、回り道をする
ことになる。真理から遠ざかり、時間をムダにすることになる。

 若い人がバカなことをするなら、まだ許される。私もそうだった。若いうちは、無数のバカをし
ながら、それをバネに、利口になることができる。しかし人生も晩年になったら、バカは許され
ない。それはこの世界を生きる、人間の責任のようなものでもある。私たちは生きてきた証(あ
かし)として、ほんの少しでも、つぎに生きる人たちのための踏み台にならねばならない。その
ためにも、ほんの少しでもよいから、私たちは、前に向かって進む。

 さてその植木バチを盗むおばさんについて、O君はこうも言った。「見るからにヘンな人だよ」
と。中学生のO君にもわかるほど、「ヘンな人」だというのだ。私はこの話を聞きながら、「そう
はなりたくないものだ」と思いながら、一方で、「自分も多分、そうなるだろうな」と思った。今は、
まだ気力で、自分をごまかしているが、私の中では、いつも邪悪なものが、ウズを巻いている。
もう少し歳をとると、その気力が弱くなり、やがて邪悪な自分が表に出てくる? それにかく言う
私は、いまだにバカなことばかりしている。回り道ばかりしている。正直言って、そういう自分
が、ときどきこわくなる。バカというのは、結局は、私自身のことかもしれない。そこで(レベル
5)

(レベル5)知ったかぶりをする人。真理を安易に口にする人。偉そうなことを言って、バカ論を
説く人。
(02−11−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


運命論(2)

 私は今の住宅地に住んで、今年で、二六年目になる。もともとは、山の中だったという。私が
住み始めたときも、このたりは一帯、緑豊かな雑木林でしかなかった。

 が、そこに土地改良の波が押し寄せた。見たこともないような巨大なダンプや、大型ブルドー
ザーが、ゴーゴーと山を削り、谷を埋めた。そんなある日、車で通りかかると、ガリガリにやせ
たキツネが、目の前を横切った。皮膚病か何かで、体はまだらに毛が抜けていた。歩き方も、
どこかヨタヨタしていた。そのキツネは、私のほうを見ることもなく、そのまま反対側のヤブの中
に消えていったが、私はスローモーションの映画を見ているかのような錯覚を覚えた。

 このあたりでキツネを見たのは、それが最後だった。あとで農家の人に聞くと、昔は、キツネ
がたくさん住んでいたとのこと。タヌキも、イタチもいた。もっともタヌキやイタチは、数こそ少なく
なったが、今でもときどき見る。しかしキツネは、いない。少なくとも、この一五年は、見ていな
い。恐らくこのあたりのキツネは、どこかへ移動したか、あるいは、絶滅したにちがいない。キ
ツネが住めるようなヤブすら、ない。

 ……と、キツネの話を書いて、実は、この話を書いた裏には、もうひとつ、私の隠された意図
がある。私は「運命論」を書きたくて、キツネの話を書いた。

 キツネという動物に視点を置いて、運命論を考えてみよう。キツネがどこかへ移動したにせ
よ、絶滅したにせよ、それは運命だったのか、と。もしそれが運命だとするなら、その運命は、
だれが決めたのか、と。その前に、運命があるのは、万物の霊長である「人間」だけであって、
「そのほかの動植物」には、ないと言う人もいる。しかしこれほど、自分勝手で、おめでたい理
屈もない。

 人間とて、自然の一部であり、自然を離れて、人間は人間ではありえない。「人間は動物より
すぐれている」と主張する人もいるが、脳の一部(とくに大脳連合野の新・新皮質部)が、ほか
の動物よりは発達しているという点をのぞいて、とくにすぐれているということはない。百歩譲っ
て、もしこの理屈がとおるとするなら、人間がかつて下等動物のときはどうだったかということに
なる。人間も、大昔は、サルのようだった。さらにそのまた前の大昔は、そこらのネコやネズミ
のようだった。今は、たまたま、この地球上で、大きな顔をしているにすぎない。しかもその時
代は、新石器時代が始まってから、たかだか、五〇〇〇〜六〇〇〇年にすぎない。「人間が
長」であることを証明するには、まだ時間そのものが、短かすぎる。ちなみにあの恐竜などは、
一億年※近くも、この地球上に君臨していた。

 もし運命論というのがあるとするなら、それは少なくとも、この地球上のありとあらゆる生命に
あることになる。人間だけにあるというのは、そもそもおかしい。となると、冒頭にあげたキツネ
の運命は、だれが決めたのかということになる。キツネがこのあたりからいなくなったのは、そ
れはこのあたりに住んでいたキツネの運命だったのか、と。

 もちろん答は、ノーである。キツネがこのあたりからいなくなったのは、私も含めた、人間たち
の貪欲(どんよく)な、経済活動の結果でしかない。それは神や仏の意思によるものではなく、
土地を開発して金をもうけようとする、人間たちの欲望の結果でしかない。そうした人間たち
が、神や仏ではないことからもわかるように、キツネの運命を決めたのは、人知を超えた、神
や仏の意思によるものではない。あくまでも私たち人間の意思による。

 が、肝心のキツネたちはどうだろうか。私が見たキツネにせよ、キツネたちは、一言も抵抗す
ることなく、このあたりから消えた。もし彼らが意思をもった生物なら、人間の傲慢(ごうまん)さ
に対して、抗議行動をしたり、ばあいによっては、抵抗運動をしたかもしれない。しかし彼らは
何もしなかった。静かにこのあたりから、消えた。キツネたちがそう思っているかどうかは知ら
ないが、キツネたちは、あるがままの運命を受け入れ、それに従った?

 となると、もう一度、人間に話をもどしてみると、人間はどうかということになる。私たちは今、
こうして日々の生活を送っている。生きるということは、まさにできごとの連続。そういうできごと
が無数に集まって、ときには山となり谷となる。そしてそういう山や谷がまた折り重なって、あた
かも海の波のようにして襲ってくる。「私は私だ」といくらんでも、結局は、私たちは、その波間
に翻弄(ほんろう)されてしまう。それを運命といえば運命ということになるが、しかしそれは決し
て、私たちの人知を超えた力によるものではない。私たち人間の意思が、どこかで集合され
て、それが結果として、私たちに作用しているにすぎない。

 では、なぜ私がこうまで運命論にこだわるか、だ。それはとりもなおさず、運命論は、他方で、
神や仏と結びつき、そしてその先では宗教とからんでくる。言いかえると、神や仏に近づくため
には、運命論がどうしても、その最初の関門となる。少し飛躍した論法に聞こえるかもしれない
が、運命論と宗教論は、紙の表と裏のような関係にある。仮に運命論が否定されるようなこと
があると、神や仏も否定される。同時に宗教も否定される。

 この問題は、行くつくところ、「神や仏が人間をつくったのか」、それとも、「人間が神や仏をつ
くったのか」というところまでいく。その答のカギを握っているのが、実は運命論なのである。
「神や仏が人間の運命を決めているのか」、それとも、「人間が自ら、自分の運命を決めている
のか」と。

 さてさて、キツネの運命を決めたのはだれか。人間なのか? それとも私たち人間の上にい
て、私たち人間をも支配する、神や仏なのか? ただここで言えることは、あのキツネの姿を
思い出すたびに、人間も残酷な生き物だと思う。そしてもし私たちの上に、神や仏がいるとする
なら、その神や仏も、罪なことをすることだと思う。あるいはキツネたちは、何か悪いことをし
て、それでバチが当たったとでもいうのだろうか。ははは。これは冗談。キツネにバチを与える
神や仏がいるとしたら、それは神や仏ではない。悪魔だ。同じように、人間にバチを与える神
や仏がいるとしたら、それは悪魔だ。相手にしないほうがよい。
(02−11−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(357)

宗教団体

 それぞれの人は、それぞれの思いをもって、宗教団体に身を寄せる。よく誤解されるが、宗
教団体があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、宗教団体がある。
それにしても日本の宗教団体は、どれも、もっともらしい名前をつけている。「○○会」「○○
教」「○○教会」など。「○○○科学」というのもある。

 私はこうした宗教団体が、どういう目的や、教えをもっているかは知らない。だから安易に批
判したり、論じたりすることはできない。それに信者にしても、それぞれの信者は、それぞれの
思いをもって、宗教団体に身を寄せている。そういう個人の「思い」は、尊重しなければならな
い。私のような部外者が、とやかく言ってはいけない。

 しかしこうした団体の活動の、その影響が、信者でない「私」に及ぶときは、この限りではな
い。無視することはできないし、無関心であってはいけない。信仰が組織のための組織信仰に
すりかわったとき、そしてその組織信仰が、政治や経済に影響を与え、さらには犯罪的行為ま
でするようになったら、そのときは、私たちはそれらと戦わねばならない。たとえば「○○○教」
は、あのいまわしいサリン事件をひき起こしている。「○○会」は、支持母体となって天下の公
党を陰で支えている。「○○教会」は、あやしげな経済活動を、今でも行っている。実のところ、
私の母も、その被害者である。先日も、実家へ帰ってみると、どこか見覚えのある大理石のツ
ボが置いてあった。「これ、何?」と聞くと、母はこう言った。「あれこれ親切にしてくれる女の子
がいたからね。買ってあげたよ」と。値段を聞くと、二〇万円! 韓国の原産地では、五〇〇〇
円前後で売られているツボである。

 本来、人の心を守り、その心のよりどころになるべき宗教が、政治活動や経済活動をする。
そのおかしさに、私たちはもっと敏感であるべきではないのか。よくこれらの団体は、「信仰の
自由」を盾にとって、こうした活動を正当化する。が、「心」というのは、組織があるから守られ
るものでも、また組織がないから守られないものでもない。どこまでいっても、その人個人の、
しかも心の問題である。いわんや、政治活動をしたり、経済活動をしたりするとは?
 
 これから先は、私の専門分野外だから、私は何とも言えない。しかしこの問題から、目をそら
すわけにはいかない。これからも、よく考えてみたい。
(02−11−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(363)

パソコン

 このところパソコンの値崩れが、はげしい。NECなどは、それぞれの店で、三〇〜二〇%前
後の値引きをしている。フジツーも、独自のサイトで、箱キズもの、ちょいキズものを、四〇%
前後値引きして売っている。ユーザーの私としてはうれしいが、しかしそれだけに迷う。

 私のばあい、パソコンを買いかえる理由は、第一に、「新製品がほしいから」。使うといって
も、ワープロが中心だから、本来なら、それほど機能がよくなくても、かまわない。今ではハード
ディスクの容量が、80Gとか、中には120Gとかいうものまであるが、そんなに必要はない。せ
いぜい30Gもしくは40Gもあれば、それでじゅうぶん。

 ただ、ときどきゲームをして楽しむので、グラフィックは高速であればあるほど、よい。あとは
……。ここが重要だが、相性。事務機器的な機種は、好みではない。思わずさわってみたくな
るような、美しい機種がよい。それに重要なのが、キーボード。右のエンターキーの横(右)に、
UPキーとか、DOWNキーがついているのは、ダメ。その分、エンターキーと、バックスペース
キーが大きいのがよい。エンターキーの小さいのは、最初から除外して考える。あとは指のタッ
チ感。

 こうして年に一回は、新しい機種を買い求める。しかし昨年(〇一年)末、フジツーの大型機
種(FMVワイド17インチ画面・PEN4・80G)を購入してしまった。「してしまった」というのは、
この機種はメチャメチャ性能がよく、今年新規に購入する機種が、なくなってしまったというこ
と。メモリーも512Mに増強したし、カメラも取りつけた。USB2・0ポートなど、いろいろなポー
トも、自分で取りつけた。こういう機種をもつと、ほかのものが買えなくなる。……買っても意味
がない。

 が、ビョーキというのは、こわいもの。年末になると、やたらと新しい機種がほしくなる。今、ね
らっているのは、NECの機種。いくつかある。ワイフも、あきれ顔だが、「もうそろそろ買っても
よい」というような雰囲気になってきた。だからこのところ、あちこちの店から、パンフレットを集
めている。値段も調べている。しかしほしいのは、二〇万円弱もする。安いのもあるが、すぐあ
きるような気もする。ここが思案のしどころ……。

 しかし、だ。こうして新しい製品や機能に興味をもち、それに挑戦していくというのは、ボケ防
止のためには、たいへん効果があるのでは? 反対に、五〇歳をすぎた人で、まだパソコンを
やっていない人を見ると、どこかもの足りない気がする。電子工学的なサエ(?)を感じない。そ
んなわけで、少しお金はかかるが、私は、こうした買いかえを、いわば頭のための授業料のよ
うに考えている。買いかえるたびに、頭の中がバチバチと刺激される。

 新しい機種があれば、もっとバンバンと原稿を書けるのに、と思う。しかしこのところ、どうも
仕事が低調。不景気だし、どこもかしこも、元気がない。そういう波にのまれて、私も元気がな
い。だから今年は、もうあきらめるか……とも、思い始めている。

ああ、どうしようか?
(02−12−1)


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-9-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 534人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  55人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−9号(151)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育てポイント
【2】随筆
【3】雑談
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

学歴信仰論

+++++++++++++++++++++++++++

ある相談より

 ある父親が、こんな相談をしてきた(〇二年一一月)。何でも中学三年生になった娘が、学校
のテストで悪い成績を取ってきたというのだ。それについて、その父親は、こう説教したという。

 「お父さん(私)は、仕事をしながら、家族を支えている。仕事をするから、家族が生活でき
る。家族も大切だが、やはり仕事も大切だ。だからお父さんは、自分のしたいことをがまんしな
がら、仕事をしている。お前にとっても、いろいろやりたいことはあるだろうが、勉強が、お前の
仕事だ。だからまず勉強をしなければならない。今、お前が考えなければならないことは、学校
での成績をよくすること。自分の生活を楽しむのは、そのあとだ」と。

 その父親は、この話を切々としながら、最後にこう言った。「私は娘にこう指導しましたが、そ
れでよかったでしょうか?」と。が、私は、しばらく考えて、こう言った。「何から何まで、すべてお
かしいです」と。

 この父親の言い分は、この日本では、実に説得力がある。たいていの日本人は、こういう話
を聞くと、「そのとおり!」と思う。しかし本当にそうか。順に反論してみよう。

●「家族を支えてやっている」「仕事をするから、家族が生活できる」という考え方は、本末が転
倒している。今でも、家族(妻)に向かって、「お前たちは、だれのおかげで生活できると思って
いるのか! オレが仕事をしてやっているから、生活できるんだぞ!」と、暴言を吐く男はいくら
でもいる。

 家族が支えてくれるから、男は(女も)、外で仕事ができる。仕事をするために、家族がいる
のではない。家族生活を豊かにし、充実させるために、私たちは仕事をする。あくまでも「家
族」が主である。たとえばオーストラリア人たちは、土日に家族で週末を楽しむのを、何よりも
大切にしている。つまりそういう生活を楽しむために、男は(女も)仕事をする。こうした違い
は、たとえば日本の単身赴任という制度に、如実に現れている。

 もう三五年近くも前の話だが、私がメルボルン大学のロースクールのコモンルームでお茶を
飲んでいると、ブレナン法学副部長がやってきて、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(当時
は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)という制度があるが、法的な規
制はないのかね?」と。そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家
族がバラバラにされて、何が仕事か!」と叫んだ。

 「支えてやっている」という、実に日本的な、恩着せがましい考え方こそ、問題である。この発
想は、親が子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言う発想に通ずる。あるい
は、どこがどう違うのか。その背景にあるのは、「夫が上、妻が下」「親が上、子が下」という、ま
さに日本型上下社会そのものといってよい。

 だからといって私は何も、仕事を否定しているのではない。しかし日本人の意識は、基本的
な部分で、イビツである。仕事第一主義が、家族のあり方そのものを、狂わせている。こういう
ケースは、実に多い。昨年、私が書いた原稿(中日新聞発表ずみ)をここに掲載しておく。

+++++++++++++++++++++

仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 
二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のス
ポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を
決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!
 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫
は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲に
いた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち
 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばアメリカでは学校の先生が、親に子ど
もの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものために
なると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半
狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身
赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

++++++++++++++++++++++++++

●「まず勉強」という発想が、実に日本的である。私はその父親の話を聞きながら、こういうと
き、アメリカ人の親や、オーストラリア人の親なら、何と言うだろうかを考えた。たとえば自分の
子どもが、学校で悪い成績をとってきたようなときだ。
 
 日本では、まず親は子どもを叱る。叱らないまでも、「がんばれ!」とか、「こんなことでは、い
い学校に入れない!」とか、言う。しかしアメリカ人の親なら、多分、こう言うだろう。「テイク・イ
ット・イージィ(気楽にやりなよ)」と。

 子どもたちは、成績が悪いならなおさら、学校という場で、不愉快な思いをしているはずであ
る。つらい思いをする子どもも多い。そういう子どもが、家に帰ってきて、そこでまた親に説教さ
れたらどうなるか? 私は父親にこう聞いた。

 「もしあなたの給料がさがって、落ち込んでいたとする。その状態で会社から家に帰ったと
き、妻が、『何よ、この給料! こんなことでは、いい生活ができないでしょ!』と言ったら、あな
たはそれに耐えられるか?」と。するとその父親は、こう言った。「いいや、うちの女房は、そう
いうことは言わないですよ」と。

 そのとおり。妻は、そういうことは言わない。(平気で言う妻もいるにはいるが……。)またそう
いうことは、言ってはいけない。しかしその父親は、娘に対しては、その言ってはいけない言葉
を言っている。父親としては、娘に緊張感をもたせ、あるいは娘の自覚を促すために、そういっ
たのだろうが、しかしその父親は、結局は、親のエゴを中学三年生の娘に押しつけているだ
け。少しも、娘の立場で考えていない。

 これに関して、やはり以前、書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに掲載しておく。

+++++++++++++++++++++++++

学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてく
れ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「その
ほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親
から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級
(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。その小学校では、その
年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見ながら、その人が「ど
うして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。「もうすぐ聴力に障害の
ある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカでは
どうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれている
のか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。

+++++++++++++++++++++++++++++

 ここまで話すと、父親はこう言った。「先生、そうは言いますが、現実に、受験競争というもの
があります。もしうちの娘に、『気楽にやりなよ(テイク・イット・イージィ)』などと言うと、うちの娘
は、本当に何もしなくなります。それでも困ります」と。

 本当にそうだろうか。今、世界の教育は、自由化に向けて、どんどんと進歩している。たとえ
ばヨーロッパの大学では、単位はすべて共通化された。ドイツの中学校、高校では、子どもた
ちはたいてい午前中に授業を終え、そのあと、クラブに通っている。またアメリカでは、入学後
の学部変更は自由。大学から大学への転籍も自由になっている。そういう自由化の流れに、
ひとり背を向けているのが、日本の教育である。少なくとも、これからは学歴をぶらさげて生き
る時代ではない。プロの時代である。またそういうプロが評価される時代である。

 たしかに受験競争はある。日本の子どもたちは、その受験戦争を避けては通れない。それ
はわかる。しかしその基本なっているのが、「学歴信仰」。ここにも書いたように、日本では、
「進学率の高い(?)学校ほど、いい学校(?)」ということになっている。しかしそれは世界の常
識ではない。つまり「受験、受験」と言う親ほど、その学歴信仰に頭が侵されていることになる。

 これについても、以前、つぎのような原稿を書いたので、ここに掲載する。この原稿は、私が
アメリカの小学校を見学したあとに書いたものである(〇一年五月)。

++++++++++++++++++++++++++++++

アメリカの小学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。写真は、アメリカ中南部にあ
る公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペリット小学校。生徒数三百七
十名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりする。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガ
イダンスに従って、学校独自が、親と相談して決めることができる。オクイン校長に「ガイダンス
はきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかなものです」と笑った。もちろん日本でいう
教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。
そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。
費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによっ
て、親は補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧
米では、図書館での教育を重要視している。この学校でも、図書館には専門の司書を置いて、
子供の読書指導にあたっていた。

 授業は一クラス十六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の三人で当たっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ
が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい
くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。アメリカには、家庭で教えるホー
ムスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さらには学校券で運営するバウチ
ャースクールなどがある。行き過ぎた自由化が、問題になっている部分もあるが、こうした「自
由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

+++++++++++++++++++++++++++++

ついでに、アメリカの大学についても、レポートしてみた。世界の教育がどういう方向に向かっ
ているかがわかれば、少しは考え方も変わるかもしれない。

+++++++++++++++++++++++++++++

アメリカの大学生

 たいていの日本人は、日本の大学生も、アメリカの大学生も、それほど違わないと思ってい
る。また教育のレベルも、それほど違わないと思っている。しかしそれはウソ。恩師の田丸先
生(東大元教授)も、つぎのように書いている。

「アメリカで教授の部屋の前に質問、討論する為に並んで待っている学生達を見ると、質問が
ほとんどないわが国の大学生と比較して、これは単に風土の違いで済む話ではないと、愕然
(がくぜん)とする」と。

 こうした違いをふまえて、さらに「ノーベル化学賞を受けられた野依良治教授が言われてい
る。『日米の学位取得者のレベルの違いは相撲で言えば、三役と十両の違いである』と」とも
(〇二年八月)。もちろん日本の学生が十両、アメリカの学生が三役ということになる。

 私の二男も〇一年の五月に、アメリカの州立大学で学位を取って卒業したが、その二男がそ
の少し前、日本に帰国してこう言った。「日本の大学生はアルバイトばかりしているが、アメリカ
では考えられない」と。アメリカの州立大学では、どこでも、毎週週末に、その週に学んだこと
の試験がある。そしてそれが集合されてそのままその学生の成績となる。そういうしくみが確立
されている。そのため教える側の教官も必死なら、学ぶ側の学生も必死。学科どころか、学部
のスクラップアンドビュルド(廃止と創設)は、日常茶飯事。教官にしても、へたな教え方をして
いれば、即、クビということになる。

 ここまで日本の大学教育がだらしなくなった原因については、田丸先生は、「教授の怠慢」を
第一にあげる。それについては私は門外漢なので、コメントできないが、結果としてみると、驚
きを超えて、あきれてしまう。私の三男にしても、国立大学の工学部に進学したが、こう言って
いる。「勉強しているのは、理科系の学部の学生だけ。文科系の学部の連中は、勉強のベの
字もしていない。とくにひどいのが、教育学部と経済学部」と。理由を聞くと、こう言った。「理科
系の学部は、多くても三〇〜四〇人が一クラスになっているが、文科系の学部では、三〇〇〜
四〇〇人が一クラスがふつう。ていねいな教育など、もとから期待するほうがおかしい」と。

 日本の教育は、文部省(現在の文部科学省)による中央管制のもと、権利の王国の中で、安
閑としすぎた。競争原理はともかくも、まったく危機感のない状態で、言葉は悪いが、のんべん
だらりと生きのびてきた。とくに大学教育では、教官たちは、「そこに人がいるから人事」(田丸
先生)の中で、まさにトコロ天方式で、人事を順送りにしてきた。何年かすれば、助手は講師に
なり、講師は助教授になり、そして教授へ、と。それはちょうど、水槽の中にかわれた熱帯魚の
ような世界と言ってもよい。温度は調整され、酸素もエサも自動的に与えられてきた。田丸先
生は、さらにこう書いている。

 「私の友人のノーベル賞候補者は、活発な研究の傍(かたわ)ら、講義前には三回はくり返し
練習をするそうである」と。
 日本に、そういう教授はいるだろうか。

 グチばかり言っていてはいけないが、いまだに文部科学省が、自分の権限と管轄にしがみつ
き、その範囲で教育改革をしようといている。もうそろそろ日本人も、そのおかしさに気づくべき
ときにきているのではないのか。明治の昔から、日本人は、そういうのが教育と思い込んでい
る。あるいは思い込まされている。その結果、日本は、日本の教育はどうなった? いまだに
大本営発表しか聞かされていないから、欧米の現状をほとんど知らないでいる。中には、いま
だに日本の教育は、世界でも最高水準にあると思い込んでいる人も多い。

 日本の教育は、今からでも遅くないから、自由化すべきである。具体的に、アメリカの常識を
ここに書いておく。

(1)アメリカの大学には、入学金だの、施設費だの、寄付金はいっさいない。
(2)アメリカの大学生は、入学後、学科、学部の変更は自由である。
(3)アメリカの大学生は、より高度な教育を求めて、大学間の移動を自由にしている。つまり大
学の転籍は自由である。
(4)奨学金制度、借金制度が確立していて、アメリカの大学生は、自分で稼いで、自分で勉強
するという意識が徹底している。
(5)毎週週末に試験があり、それが集合されて、その学生の成績となる。
(6)魅力のない学科、学部はどんどん廃止され、そのためクビになる教官も多い。教える教官
も必死である。教官の身分や地位は、保証されていない。
(7)成績が悪ければ、学生はどんどん落第させられる。

 日本もそういう大学を、三〇年前にはめざすべきだった。私もオーストラリアの大学でそれを
知ったとき、(まだ当時は日本は高度成長期のまっただ中にいたから、だれも関心を払わなか
ったが)、たいへんなショックを受けた。ここに「今からでも遅くない」と一応、書いたが、正直に
言えば、「遅すぎた」。今から改革しても、その成果が出るのは、二〇年後? あるいは三〇年
後? そのころ日本はアジアの中でも、マイナーな国の一つとして、完全に埋もれてしまってい
ることだろう。

田丸先生は、ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫氏のつぎのような言葉を引用している。「人
生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを入試のための勉強
に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論
から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え自分で判
断するという訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間
を育てる教育をしなければ、二〇五〇年の日本は本当にだめになる」と。 

問題は、そのあと日本は再生するかどうかだが、私はそれも無理だと思う。悲観的なことばか
り書いたが、日本人は、そういう現状認識すらしていない。とても残念なことだが……。

++++++++++++++++++++++++++

 話がそれたので、もとにもどす。

繰り返すが、結局はこの父親は、自らの学歴信仰を娘に押しつけているだけということになる。
しかし大切なのは、「家族」。受験勉強も大切だが、しかしそれと引き換えに、家族を破壊しな
ければならないほどの、価値はない。

 最後に、なぜこの父親は、娘に受験競争に自分を忘れてしまうのか。それについても、以
前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたので、掲載する。

++++++++++++++++++++++++++

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 
 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日も、中学一年生をもつ父母が、
二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期末試験で、数学が二一点だっ
た。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS
高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべてい
たが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味
 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室
に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動
かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ
親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)
によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%し
かいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた
親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が
思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる
 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過
去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静
かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、
自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものため
でもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをし
た人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。

+++++++++++++++++++++++++++

 ずいぶんと長い反論になったが、今、私たちに求められているのは、親自身の意識改革であ
る。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、明治政府が国策としてかかげた、「学校神話」
「学歴信仰」「受験競争」を、いまだに引きずっている。しかしそうした日本独特の教育観は、も
う世界では通用しない。少なくとも、世界の常識ではない。

 最後に私はその父親と別れるとき、こう言った。「あなたがもっている意識を変えるのは、簡
単なことではないでしょう。しかし今、それを変えないと、日本はいつまでたっても、異質な国と
して残るだけです。それでよければ、それでもかまいませんが、私はそれではいけないと思い
ます。だからこうしてひとりで、戦っているのです」と。
(02−11−30)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ      このマガジンのことを、読んでくださいそうな人が
   /│田│ 田│ヽ      いたら、その方に紹介していただけませんか。
   / │ │  │ ヽ      よろしくお願いします。
 ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(359)

幸福論

 イギリスの教育格言に、『幸せにするのが、最高の教育』というのがある。それはそのとおり
だが、問題は、その中身である。

 日本人の多くは、子どもの物欲を満足させることが、子どもを幸福にさせることだと誤解して
いる。あるいは「より高価なものを買ってあげれば、親子のパイプは太くなったはず」「子どもは
感謝しているはず」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。あるいはまったくの逆効果。
物欲を満足させればさせるほど、子どもは、ドラ息子になる。ドラ娘になる。

 幸福であるかないかということは、「モノ」の問題ではない。「心」の問題。しかし日本人は、戦
後のあのひもじい時代をとおして、「モノ」に対して、異常な執着心をみせるようになった。こうし
た異常さは、外国へ出てみるとわかる。実際、アメリカの家庭でも、オーストラリアの家庭でも、
「モノ」は、恐ろしく少ない。質素といえば質素だが、本当に少ない。

 たとえばこの日本では、小さな家庭でも、足の踏み場がないほど、「モノ」が氾濫(はんらん)し
ている。それが恐ろしく氾濫している。こうした日本人独特の「モノ」に対する執着心は、当然の
ことながら、子育てにも大きな影響を与えている。先に書いた、誤解もその一つ。「モノさえ与え
ておけば、子どもは幸せなはず」と。

 しかしこうした日本人の子育て観は、まさに世界の非常識。子どもを幸せにするということ
は、そういうことではない。またそういうことであってはならない。では、どうするか。それがここ
でいう「幸福論」である。

 子どもを幸福にするということは、家族で、地域で、そして園や学校で、子どもを温かい心で
包むことをいう。たとえば家族では、家族どうしが、守りあい、助けあい、いたわりあい、励まし
あい、教えあい、なぐさめあうことをいう。そういうつながりを太くすることをいう。つまり子ども
を、絶対的な愛情や安心感で包むことをいう。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という
意味。「モノ」ではない。「マネー」でもない。「心」なのだ。

 が、私たち日本人は、そういう「幸福の原点」を忘れてしまっている。忘れたまま、今でも、「モ
ノ」に執着している。こうした傾向は、戦後のあのひもじい時代を生きた世代ほど、強い。しかし
今こそ、その原点に立ち返るべきではないのか。たまたま今は、大不況のとき。生活もたいへ
んだが、子育てのあり方を見なおすには、そういう意味では、絶好の機会かもしれない。
(02−11−30)

●つつましく生活することを、恥じることはない。
●子どもの物欲を満足させてあげられないことを、恥じることはない。そのほうが、子どものた
めになる。親子のきずなも太くなる
●だいたい年端(としは)もいかない子どもに、二万円だとか、三万円もするゲーム機など買っ
てあげるから、子どもの金銭感覚がおかしくなる。どうして世の親たちよ、それがわからない?
 買ってあげなければ、親子のパイプがつなげないというなら、それはあなたの子育て観がす
でに狂っているということ。「モノ」で子どもの、そして人の心を釣ってはいけない。つないではい
けない。(少し過激な言い方で、すみません!)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-11-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 534人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  55人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−11号(152)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育てポイント
【2】随筆
【3】雑談
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞子育てポイント∞

子どもは入院した……

●ある朝、突然に
 もうそれから一〇年になるだろうか。S君は、やや多動性はあったものの、ほかの子どもとく
らべても、とくに違うということはなかったという。そのころのS君については、私は知らない。そ
のS君が、ある日、突然、幼稚園へ行くのはいやだと言い出した。S君が年長児になったばか
りの、春の日のことだった。

 母親はあわてた。見たところ元気そうだったし、とくに病気の兆候もなかった。理由を聞いて
も、はっきりしない。そこで母親は、S君を車に無理やり乗せると、そのまま幼稚園へ行った。
母親の頭には、「不登校」という言葉が横切った。

 幼稚園では、前もって連絡を受けていた先生が二人、門のところで待っていた。その前に園
長に電話で相談すると、「無理をしてでもよいから、連れてきなさい。休みグセがつくといけな
い。こういう問題は、はじめが大切」と園長は言った。

母親と三人で、S君を車からおろそうとした。しかしS君は、どこからそんな声が出るのかと思え
るような大声で泣いて、それに抵抗した。「ものすごい力でした」と、あとになって母親がそう言
った。

 で、その日を最後に、S君は幼稚園へは行かなくなってしまった。途中、何度も幼稚園へ連れ
ていったが、ムダだった。が、そんなある日。両親を震撼(しんかん)せしめるよう変化が起き
た。

●はげしい呼吸困難
 S君が公園から帰ってきたときのことだった。母親が汚れた手を見て、「手を洗ってきなさい」
と言った直後のことだった。突然、S君は倒れ、そのままの状態で、体中を大きく、けいれんさ
せ始めたのだ。今にも呼吸が止まるのではないかと思えるほど、それはひどいけいれんだっ
た。あわてた母親は、救急車を呼んだ。
 
 その少し前に、その母親から、私に最初の相談があった。「幼稚園へ行かないが、どうしたら
よいか」と。私は症状から、学校恐怖症と判断した。だから、「三か月は何も言ってはいけない」
「幼稚園のことは忘れなさい」「家の中でも、何も言ってはいけない」とアドバイスした。

 しかし母親にすれば、三か月どころか、一週間でも長い。一週間もすると、母親から電話が
かかってきて、こう言った。「今日、幼稚園へ連れていきましたが、やっぱりダメでした」と。学校
恐怖症にせよ、不登校にせよ、こういうことを繰り返しながら、症状は悪化する。親は、そういう
とき、「うちの子は、最悪の状態」と思うかもしれない。しかしこういう心の問題には、その底の
底、さらにはそのまた底がある。これを私は二番底、三番底と呼んでいる。一度こういう状態に
なると、「まだ前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、子どもは、その二番底、三番底
へと落ちていく。が、親にはそれもわからない。

 母親は、幼稚園へ行かないからという理由で、S君を、リトルリーグ(軟式野球)とK式算数教
室へ入れた。これについても、私のアドバイスを無視した。母親はこう言った。「不安だったし、
家でゴロゴロしているよりはいい」と。

 が、そのうち、S君には、奇行が目立つようになってきた。夜中に大声を出して暴れたり、二
階の窓から、通りに向かって小便をしたりする、など。算数教室では素っ裸になって走り回った
こともある。そのつど母親はS君を強く叱ったが、そのときはそのときで、S君はしおらしくして
いた。そのけいれんが起きたのは、そんなある日のことだった。

 救急病院では原因がわからず、近くの総合病院へそのままS君は回された。幸いにも、けい
れんはすぐ収まったが、脳の病気も疑われ、CTスキャンなど、ありとあらゆる検査がなされ
た。が、どこにも異常は見つからなかった。

●薬づけの治療法
 が、それで終わったわけではない。S君は、ある総合病院の小児科で、連続して、治療(?)
を受けることになった。母親は「効果の弱い薬です」と言ったが、S君は、それから毎日、まさに
薬づけの生活をするようになった。朝、昼、晩と、三回の薬を、それぞれ数種類ずつのんだ。
私はそれにも反対した。脳間伝達物質をホルモン剤でいじるような治療法は、危険ですらあ
る。が、母親は、私の指示ではなく、医者の指示に従った。

 子どもの「心の問題」は、子ども自身がもつ、自然治癒(ちゆ)力をうまく利用してなおす。薬を
つかえば、その自然治癒力を、かえって妨げることになる。とくに幼児期から少年期というの
は、その自然治癒力が高まるときである。が、S君の母親からは、毎日のように電話がかかっ
てきた。で、私はこう言った。

 「私にどんなアドバイスができるというのですか? 今は、ドクターにみてもらっているのです
から、そちらに相談されるほうがいいと思います。船頭が二人では、どうにもならないでしょう」
と。が、それからも、母親は自分が不安になるたびに、あれこれと電話をしてきた。真夜中の
一二時すぎにかかってくることもあった。

 そののちS君は、小学校に入ったが、ほとんど学校には行かなかった。気分のムラが異常に
はげしく、元気よく活発に動いていたかと思うと、その夜には、まったく無気力になったり、ある
いは反対に、夜中中、キャーキャーと大声を騒いだりした。機嫌がよいと思った直後には、二
歳年下の弟に、ものを投げつけて、けがをさせたりしたこともある。けいれんも、発作的に、相
変わらず、ときどき起きた。医師から処方された薬をのんでいたが、症状と発作の回数は、ま
すますひどくなるばかりだった。

●私のできることにも、限界が……
 が、最後に私と決別する事件が起きた。母親はそのつど、私にアドバイスを求めてきたが、
そのころになると、何のためのアドバイスか、わからなくなっていた。もともとその母親には、私
のアドバイスを聞く耳など、もっていなかった。それに私は母親の中に、岩のようにかたい、学
歴信仰を感じていた。母親が私に聞きたかったのは、「何としても、学校へ行かせたい。その
ためには、どうしたらいいか?」だけだった。

 私はこう言った。「学校はあきらめなさい。学校どころではないでしょう。今、あれこれあせっ
て何かをすると、もっと症状はひどくなりますよ」と。すると母親は激怒して、「他人の子どものこ
とだと思って、よくもそういうことが言えますね。あなたはそれでも教育者ですか!」と。

 念のため申し添えるなら、私はその母親から、一円の報酬も受けていない。相談を受けるよ
うになったのも、たまたま母親教室で知りあった知人の紹介があったからだ。その私が、どうし
て怒鳴られなければならないのか。そう感じたとき、私はこう言った。「もう、私には電話をしな
いでください。ご自分で判断なされば、それでいいのではないですか?」と。するとその母親
は、ますます怒って、「私のように困っている親のために、何かをするのがあなたの仕事でし
ょ!」とまで言った。母親は母親で、必死だった。こういうケースでは、たいていの親は、平常心
をなくす。しかし私は、牧師ではない。

 で、私はS君のことはほとんど忘れていた。だが、心のどこかでは気にはなっていた。で、あ
る日のこと、それから五年近くもたってからのことだが、同じ学校に子どもが通っている別の母
親に、S君のことを聞くと、こう話してくれた。

 「S君は、たまに学校へも来ますが、いつもひとりでニヤニヤ笑っているだけです。ときどき授
業中でも、大声をはりあげて、教室の中を走り回ったりしています。弟さんがいましたが、弟さ
んは、今は、祖父母の家から学校に通っています。S君が家にいるときは、弟さんに乱暴する
からです」と。

 それからさらに五年になるだろうか。今はもうS君は、どこかの病院へ入ったままで、そこで
生活をしているという。健康でいれば、今ごろは高校生になっている年齢である。が、悲劇は終
わらない。さらに残念なことに、そのときの弟も、そのあとS君と同じような症状を見せるように
なり、やはり病院通いをしているということだった。

●『母原病』
 昔、どこかで『母原病』という言葉を聞いたことがある。子どもの心の問題は、そのほとんど
は、母親が原因で起こるという説である。私はS君の母親と、一、二度、会っているが、本当の
ところ、どういう人かはよくわからない。しかし第一印象としては、実にセカセカとした、落ち着き
のない人だったような気がする。何でもかんでも、こまごまとした指示を子どもに与え、それを
守らせるようなタイプの人だった。ひょっとしたら、S君がそうなったのは、その母親に原因があ
ったのかもしれない。S君の弟が同じような症状を示したと聞いたとき、なおいっそう、強く、そう
思った。

 このあとの判断は、読者のみなさんに任せる。ただ私は、一度S君のことを、記録にとどめて
おきたいと思った。それでこの原稿を書いた。
(02−12−2)

●親は、自分で失敗してみるまで、自分が子育てで失敗するなどとは思っていない。
●親は、子どもに何か問題が起きると、それが「底」だと思うが、その底の下に、もう一つの別
の底があることを知らない。そして子どもをなおそうと無理をして、その底へと落ちていく。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(370)

日本型の子育VSアメリカ型の子育て

●日本の子どもは、一〇〇%、ドラ息子
 五年ほど前、日本に住んでいたアメリカ人の友人が、こう言った。「ヒロシ、日本の子どもたち
は、一〇〇%、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、日本語に訳せば、「ドラ息子
化している」という意味。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう思うのか」と聞いた。する
と、彼はこう言った。

 「ときどき子どもたち(自分の英会話教室の生徒)を、ホームスティさせてやるのだが、何もし
ないよ。食事の用意も手伝わないし、食後の食器洗いもしない。シャワーを浴びても、アワを流
さないし、朝起きても、ベッドもなおさない。何もしないよ」と。

 たまたまそんなとき、知人と知人の娘夫婦が、我が家へやってきた。二歳になる女の子を連
れてきた。そして我が家へ一泊した。私には、日本型の子育てを観察するには、絶好の機会
だった。もっとも、こう書くからといって、決して、その夫婦の子育てを批判したり、それであって
はいけないと言っているのではない。私は、もう少し高い視点で、その子育てぶりを観察した。
で、わかったことがいくつか、ある。

 まず第一。日本人の親たちは、この時期、子どもには、何もさせない。ただ一方的に、子ども
にサービスをするだけ。食事の世話、遊び、身の回りの世話など。知人(祖父母)も、親も、そ
の娘を、楽しませることだけを考えているといったふう。泣けば、「どうしたの?」と声をかけて、
心配する。少し退屈そうな顔していると、あれこれもたせて、機嫌をとる。何か食べ物がある
と、「これ、おいしいよ」と、真っ先に、子どもに食べさせる。コップにジュースを入れて飲ませて
も、そのコップは、親が片づける。子どもは、まさに、したい放題、やりたい放題。

 王子様、王女様という言葉がある。しかしその子どもは、まさに王女様。好き勝手に家の中を
走り回っては、キャッキャッと声を張りあげて、騒ぐ。そのつど、知人や、娘夫婦が、あとをおい
かけて遊ぶ。こうした子育て方は、日本ではごく当たり前の子育て方になっている。そうでない
子育て方をしている家庭など、ほとんどない。またそれだけに疑問に思う人も、ほとんどいな
い。

 しかしここがアメリカ型の子育てとちがうところ。もっともアメリカと言っても広いし、それにあ
の国は、まさに人種のルツボ。もちろん日系人もいる。しかしアメリカ人の家庭は、かいま見た
だけでわかるが、雰囲気がまるで違う。その女の子は、四歳になったばかりの白人の女の子
だったが、台所でオレンジジュースを飲んだあと、そのコップをそのままキッチンまでもっていっ
た。日本では見られない光景だったので、私は驚いた。つまりすでにその時期までに、アメリカ
人の子どもたちは、そういうことが自然にできるように、しつけられている? その女の子という
のは、義理の娘の姪にあたる子どもだった。

●その違いの背景にあるもの
 こうした違いは、いったい、いつから、またなぜ始まるのか? 言うまでもなく、この日本で
は、親はいつも、子どもに対して、「育ててやる」という意識をもつ。日本独特の親意識、あるい
は日本独特の保護意識が、その背景にある。子どもに対して、犠牲的であればあるほど、よい
親だと誤解しているようなフシすら、ある。そしてさらにその背景には、「子どもは子ども」と、子
どもの人格を認めない、日本人独特の子ども観がある。今でも古い世代を中心に、「子どもは
財産」、あるいは「跡取り」と考える人は多い。そういう独特の子育て観が、全体として、日本人
独特の子育て方をつくる。

 一方、アメリカでは、子どもは、生まれながらにして、一人の人格者として認められる。「友」と
いう感覚も強い。それに子育ての世界だけではなく、学校という教育の世界でも、「自立したよ
き家庭人づくり」が、その柱になっている。つまりひとりで、家庭生活ができるようにするのが、
子育ての目標ということになっている。何でもないようだが、この違いは大きい。

 たとえばアメリカでは、幼児期から、あるいはもっと早い時期から、子どもにはどんどんと家
事をさせる。「させる」という意識すらないほど、自然な形で、そういう雰囲気に、子どもを巻き
込んでいる。そのため、日本のように、「いただきました」と言ったあと、汚れた食器をそのまま
にして、自分の部屋に行ったり、テレビを見始める子どもなど、ほとんどいない。夫とて、例外
ではない。みなが、並んで食後のあと片づけを始める。

 こういう話をすると、日本の親の中には、「子どもに、家事をそこまで手伝わさせるなんて!」
と驚く人がいる。あるいは、「それって、虐待じゃないの?」「子どもがかわいそう!」と言う人も
いる。が、実際には、家族全体のムードが、そういうふうに動いているので、現場で見ている
と、そういう違和感は、まったく、ない。子育て観、あるいは子育て方そのものが、基本的な部
分で、日本人のそれとは、まったく違う。たとえば日本人は、「あと片づけ」にはうるさい。しかし
アメリカの家庭でも、オーストラリアの家庭でも、私は親が子どもに向かって、「あと片づけしな
いさい!」と叫んでいる姿を見たことがない。しかし彼らは、「あと始末」には、うるさい。たとえ
ばジュースを飲んでも、汚れたコップをそのままにしておこうものなら、(実際には、そういう子
どもはいないが……)、親は子どもをかなり神経質に叱る。

●子どもの育て方を改めよう
 「子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)」「子どもにいい思いをさせれば、子どもは
親に感謝するはず。親子のパイプも、それで太くなるはず」と考えている人は多い。それもその
はず、その人自身も、子どものとき、そういう子育てを受けている。だから何の疑問ももたない
まま、自分が受けた子育てを、今度は自分の子育てで、繰り返す。しかしこうした子育て方が、
今、限界にきつつある。いろいろな統計調査を見ても、日本では、断絶していない親子をさが
すほうが、むずかしい。親子関係は、バラバラ。昔のように、親の威厳だけで、家庭がまとまっ
た時代なら、いざ知らず、今は、そういう時代ではない。若い世代から、それを取り巻く意識
が、どんどん変化している。そういう時代に、旧態依然のままの、子育て方でよいのかというこ
とになる。あるいはこのままだと、親子の関係は、さらにバラバラになってしまう。

 そこで私たちは、どう考えたらよいのか。それを防ぐための方法は、いくつかある。

(1)子どもの人格を認める……一方的にかわいがるのは、一見、子どもを大切にしているよう
に見えるが、その実、子どもの人格を無視している。
 
(2)子どもを、よき家庭人として、自立させる……乳幼児のときから、家事を手伝わさせるよう
に、しむけよう。子どもを決して、王子様、王女様にしてはいけない。
 
(3)あと始末に、もっと神経質になる……日本人は、国際的にみても、あと始末が苦手な国民
ということになっている。何でもナーナーですまそうとする風潮が強い。なぜそうなのかというと
ころに、日本型の子育ての問題点が隠されている。子どものときから、そういう家庭で育ってい
る。子どもがシュースを飲んだら、コップを洗わせよう。コップをしまわせよう。ジュースは、冷蔵
庫に戻させよう。
(02−12−3)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ      このマガジンのことを、読んでくださいそうな人が
   /│田│ 田│ヽ      いたら、その方に紹介していただけませんか。
   / │ │  │ ヽ      よろしくお願いします。
 ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞随筆∞∞∞∞∞∞∞

直観像素質者

 「直観像」という言葉がある。視覚的にとらえたものを、瞬時に頭に焼きつけてしまうことをい
う。右脳教育の分野でも、しばしば使われる言葉である。たとえば瞬間に見ただけで、漢字や
英語の単語を暗記してしまうなど。しかし、それが人間にとって好ましい能力かどうかということ
になると、それは疑わしい。

 この直観像というのは、まさに両刃の剣。よい方面で使われればよいが、悪い方面で使われ
ると、子どもに、予想できないショックを与える。たとえば幼児の世界には、「お面恐怖症」と呼
ばれる、よく知られた現象がある。年中児でも、一〇〜一五人に一人くらいの割合で出現す
る。このタイプの子どもは、先生が、お面をかぶってみせただけで、泣きだしてしまう。

 このタイプの子どもをよく観察してみると、目でとらえた情報が頭の中に入った段階で、現実
と空想の区別がつかなくなってしまうのがわかる。私が、「これはお面だよ。何でもないのだよ」
といくら説明をしても、「こわい、こわい」と言って、泣きだしてしまう。ただこわがるというのでは
ない。明かに、おびえた様子を見せる。ふつうの人には、ただのお面でも、このタイプの子ども
には、そうではない。お面から受ける印象が強烈すぎて、脳の中で、お面がお面として分離で
きないためと考えてよい。印象に残っている子どもに、P君という子どもがいた。

 P君は年中児のとき、私がお面をかぶろうとしただけで、「こわいから、いやだ」と言って、そ
れをこばんだ。おばけとか、怪獣のお面はもちろんのこと、鬼、さらには、動物のお面までこわ
がった。

 そのP君が、小学一年生(現在小学六年生)になったときのこと。P君がふと、こう言った。「ぼ
くは、映画を見たことがない」と。P君がそれを言ったとき、私はP君が年中児のとき、お面恐怖
症であったことを思い出した。そこであれこれ聞くと、こう言った。

P君「ぼくは、こわいから、映画を見ない」
私 「どうして?」
P君「こわい」
私 「こわい?」
P君「とくに、予告がこわい。殺しあいとか、そういうのがある」
私 「ビデオはいいの?」
P君「ビデオはそんなにこわくない」
私 「どうして?」
P君「うちで見るから、こわくない」

 P君が映画をこわがるのは、映像から受ける印象が、ふつうの子どもとは違うからと考えてよ
い。ふつうおとなは、(おとなでも直観像素質者はいるが)、視覚でとらえた像を、無意識のうち
にも、それが現実のものかどうかを判断しながら見る。たとえばテレビの中の人が血を流して
いても、それは現実の血とは区別して考える。しかし直観像素質者は、その区別ができない。
区別ができないから、現実にあったこととして、映像を脳の中に焼きつけてしまう。よい例が、
あの『淳君殺害事件』を引き起こした、少年Aである。少年Aは、その直観像素質者であるとい
う鑑定結果がくだされている。

 このところ、右も左も、右脳教育ブーム。まだそれが安全だと確認されたわけでもないのに、
何かしらそれがすばらしい教育でもあるかのように、もてはやされている。ここでいう直観像も
その一つだが、しかし私たちは、子どもの教育には、もう少し慎重であるべきではないのか。あ
る右脳教育団体の案内書には、こうある。「この教育を受けた子どもたちが、一〇年後、二〇
年後には、東大の赤門を、ぞくぞくとくぐることになるでしょう」と。もしそれが東大の赤門であれ
ばよいが、精神病院の玄関だったら、どうするのか? この問題は、また別の機会に、もう少し
深く掘りさげて考えてみたい。
(02−12−2)

(追記)たまたまこの原稿を書いているとき、その少年Aの手記が報道された。参考までに、そ
の手記を転載する(TBSニュースより)

「改めて事件の動機を説明すれば、自分がそこにいるという証拠がほしかったということになり
ます。当時の僕は、そこにいるという実感が持てず、幽霊みたいにスカスカした感じで何か起こ
して、世間が騒げば自分がいるという実感が持てると考えたのだと思います」

 「一番大事なのは、被害者のことを一生忘れないことだと思います。被害者の気持ちは、自
分の想像を超えるものだと思いますが、その痛みや悲しみに近づき、少しでも僕に背負わせて
ほしいという気持ちです」(少年A 中等少年院の報告から)

 「振り返ってみると、僕たち母子は人間であり、女性である前に、母親という役割を演じている
母と、無意識のうちに息子という役割を押しつけられ、演じている僕だったように思います。もっ
と生身の人間対人間の関係を持ちたかったようにも思うのです」(以上、少年A 中等少年院の
報告から)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(371)

過剰サービス

 もう一五年になるだろうか。バブル経済、まっさかりのころのことだった。久しぶりに浜松市内
の繁華街を歩いてみて、驚いた。夜の一〇時近くだったが、通りは若者であふれかえってい
た。私が学生時代には、そういうところは、仕事帰りのサラリーマンか、あるいは中高年の男た
ちが遊ぶところだった。が、それからさらに一五年。今では、私のような老年に近い男など、さ
がしてもいない。で、そんなとき、またまた浜松市は、四〇〇〜五〇〇億円という巨費を投じ
て、市の中心部にZシティなるビルを建設した(〇一年)。ターゲットは若い女性だそうだ。ビル
全体が、若い女性向けの商品で、あふれかえった。

 ……で、私は考えた。私たちおとなは、そこまで若い人たちに、サービスをする必要があるの
か、と。そこまで若い人たちの歓心を買う必要があるのか、と。またそういうことをするのが、本
当に町の活性化につながるのか、と。答は、ノーである。

 そこで今度は、子育てに焦点を当ててみる。とくに乳幼児期から、幼児期にかけての子育て
である。私たちはこの時期、子どもを、まさに「蝶よ、花よ」と育てる。時間もかける。手間もか
ける。そしてお金もかける。先ごろ、アメリカ資本の、Tというおもちゃ会社が、赤ちゃん用品を
中心とした専門店を開業した(〇二年一二月)。名前も、「Tべイビー」とか。テレビに出てきた
経営者の言葉が憎い。「(お金をもっている)おじいちゃん、おばあちゃんが、ターゲットです」
と。が、それだけではない。日常の生活も、まさに「お子様中心」。休日の過ごし方も、まさに
「お子様中心」。しかしこういう環境の中で育てられた子どもが、どうなるか? 

 今、若年層の若者たちの、「ジョブレス(無業者)」がふえている。仕事をしようという意欲その
ものがない。それもそうだ。幼児のときから、一〇万円、二〇万円のお年玉になれた子どもた
ちである。どうして時給八〇〇円の仕事など、できるだろうか。親は親で、ただ一方的に、スネ
をかじられるだけ。

 ちなみに早稲田大学のばあい、〇二年度の卒業生のうち、進路指導に応じた一万二六五人
のうち、就職したのは、五七%の五八九四人に過ぎず、九六年度にくらべて、一〇ポイントも
低下した。同大学の「キャリアセンター」のH氏は、「卒業すれば就職するのが当たり前という時
代は、終わった」(読売新聞報道)と述べている。さらに第一生命経済研究所の調査によれ
ば、就職活動もしていない、いわゆる失業者にもカウントされない無業者が、一五歳から三四
歳までに、六〇万人以上いるという。

   一五〜二四歳の無業者……三一万人
   二五〜三四歳の無業者……三〇万人
 
 世の親たちよ、もうバカなことはやめようではないか。私たちが子どものためと思っていること
が、実は、まったく子どもたちのためになっていない。そればかりか、かえって子どもたちをダメ
にしてしまっている。「かわいがる」という言葉は、日本では、「子どもに楽をさせる」「子どもにい
い思いをさせる」という意味で使われる。しかしもしそうなら、子どもをかわいがるのは、もうや
めようではないか。そのかわり、子どもの人格を認め、生まれながらに一人の人間としてあつ
かおうではないか。子どもを大切にするということがどういうことなのか、みんなでもう一度考え
ようではないか。このままでは、あなたの子どもも、例外なく、ドラ息子、ドラ娘になる。これはお
どしでも何でもない。一〇年後、二〇年後にやってくる、現実である。

 (以上、どうも、お説教がましくて、すみません。つい、力が入ってしまいました。)
(02−12−3)

【付記】(1)
●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。


(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

【付記】(2)

 もし、あなたの子どもが仕事をしないなら……。

 当然のことながら、親のスネを一方的にかじり、仕事をしない子どもをかかえている親も多
い。あるいは仕事(バイト、フリーター)をしながらも、すべて遊興費に使い、一円も家計を助け
ない子どもをかかえている親も多い。

 こういうケースのときは、すでにそういう「関係」ができあがってしまっているため、それを改め
たり、修復したりするのは、容易ではない。つまりその「関係」は、それまでの子育てが、いわ
ば地層のように積み重ねられたもので、あるとき突然、それを改めたり、修復したりすることは
できない。無理にそれをすれば、「関係」は崩壊し、ついで親子関係も、崩壊の危機に立たされ
る。

 そうした子どもをかかえる多くの親たちは、そうした「関係」を黙認し、子どもに妥協しながら、
生きている。「何とか、なるだろう」「まあ、しかたないさ」と。

 しかし、望みがないわけではない。それが「結婚」である。そういう子どもでも結婚し、親にな
ると、様子が一変する。もちろんそのまま身を崩してしまう子どももいるが、しかし結婚を契機
(けいき)に、大きく変わる子どもも多い。さらに子ども(あなたから見れば孫)ができると、大き
く変わる子どもも多い。だから、今、そうであるからといって、あせってはいけない。この段階で
あせると、かえって症状がこじれてしまい、ばあいによっては、親子関係が崩壊してしまう。そう
なると、子ども自身が、糸の切れた凧のようになってしまう。そうなると、まずい。本当に、まず
い。それについては、また別の機会に書く。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(372)

明日があるさ……

 M党は、前回の国政選挙のとき、「♪明日があるさ……」と歌っていた。そのM党が、今、崩
壊の危機に立たされている。党首の辞任劇が、このところ毎日のように報道されている。当然
だ。「♪明日があるさ……」などという生きザマは、それ自体が、世界の哲学者の間では、お笑
いもの。今どき、こういう歌を平気で歌う政治家の哲学観を、私は疑う。

 いろいろな識者の言葉を拾ってみよう。

●「明日は、明日こそは」と、人はそれを慰める。この「明日」が、彼を墓場に送り込む、その日
まで。……ツルゲーネフ「散文詩」

●汝、明日のことを語るなかれ。それは一日生ずるところの如何なるを知らざればなり。……
旧約聖書「箴言(しんげん)」二七章一節(ソロモン)

●私は未来については、決して考えない。なぜなら未来は、確実にやってくるから。……アイン
シュタイン「語録」

●過去を追わざれ、未来を願わざれ、およそ過ぎ去りしものは、すでに棄てられたものなり。ま
た未来はいまだ到達せず。ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。……長部経

●今日の一つは、明日の二つにまさる。……フランクリン「語録」

●現在を享楽せよ。明日のことはあまり信ずるなかれ。……ホラティウス「カルミナ」

●愚者は言う。「我、明日に生きん」と。……マルテイィアリス「警句」、ほか。

もうじゅうぶんだろう。「明日に生きる」というのは、それ自体が長ずると、来世思想そのものに
なる。現世での夢や望みをなくした人たちが、来世での幸福を求めて、現世から厭世(えんせ
い)するというのが、それ。「まあ、いいじゃないか、今は。来世で幸せになれば……」と。

 私たちは、明日に生きてはいけない。「今を生きる」。それがプラス型思考のすべての原点で
もある。
(02−12−4)※

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞雑談∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(366)

大切な人

 私は毎日、何かのエッセーを書く。そういうとき、当然のことだが、いろいろな人やその事例
を書く。しかしそれには、私自身が自分に課した、不文律がある。

(1)メールなどを引用するときは、必ず、その人の了解を得る。(当然だ!)
(2)了解があっても、その人とわかるような部分は、すべて改変する。(当然だ!)
(3)事例を書くときも、(1)と(2)に同じ。(当然だ!)
(4)現在、お世話になっている人、知人、友人の例は、それが批判めいた内容になるときは、
書かない。(当然だ!)
(5)現在、お世話になっている人、知人、友人がかかえる問題については、書かない。(当然
だ!)
(6)過去において、たいへんお世話になった人についても、(4)と(5)に同じ。(当然だ!)

 それ以外についての人について書くときも、いくつかの事例を混ぜたり、あるいは分解したり
して書く。ときどき、抗議の意味をこめて、ズバリ本当のことを書くときもある。しかしそういう人
は、一〇〇%、私のエッセーなど読まないだろう。それに書くとしても、遠い過去のことで、本人
も覚えていないだろう。

 が、今まで、失敗がなかったわけではない。事例というのは、それ自体が、いろいろな人と共
通点をもつ。だから私はAさんを念頭に置きながら、その事例を書いたとしても、それがBさん
の事例に似ているときがある。あるいは部分的に、同じになることがある。そういうときBさんの
ほうから、「私のこと?」と、抗議のメールが入ったりする。そこで私は、いつしか、つぎの不文
律を作った。

(7)大切な人の事例については、ふれない、考えない、書かない。(当然だ!)

 「大切な人」というのは、今まで私の心の支えになってくれた人、あるいはこれからもずっとつ
きあいたい人という意味。そういう人の事例は、使わない。個人的にも、いろいろ相談を受けた
り、教えられたりしたこともあるが、それについても、書かない。そういう点では、私はたいへん
器用な男で、「この人は大切な人だ」と思ったときには、その人を、心の中の戸棚にしまうこと
ができる。そして封をすることができる。

 だから……。いろいろ誤解もあるかもしれないが、私と親しい人も、またそうでない人も、どう
か安心して私のエッセーを読んでほしい。私は自分の「文」をとおして、個人的なうらみを晴らし
たり、あるいは個人を攻撃するということは、しない。またそうすることによって、自分の「文」
を、汚(けが)したくない。これも重要な不文律ということになる。だから、八番目は、こうなる。

(8)私の能力と文を、個人攻撃や誹謗(ひぼう)のために利用しない。(当然だ!)
(02−12−2)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(367)

自分が見えない人たち

 退職してからも、現役時代の肩書きや地位を引きずって生きている人は多い。とくに「エリー
ト」と呼ばれた人ほど、そうだ。そういう人にしてみれば、自分が歩んだ出世コースそのもの
が、自分の人生そのものということになる。Y氏(六七歳)もその一人。

 私に会うと、Y氏はこう言った。「君は、学生時代、学生運動か何かをしていたのかね? そ
れでまともな仕事につけなかったのかね?」と。

 彼は数年前まで、大手の都市銀行で、部長をしていた。この浜松へは、生まれ故郷というこ
とで、定年と同時に、移り住んできた。彼の父親の残した土地が、あちこちにあった。そこで私
が、「本も書いています」と言うと、「いやあ、こういう時代だから、本を書いてもダメでしょ。本は
売れないでしょ」と。たしかにそうだが、しかしそういうことを面と向かって言われると、さすがの
私でもムッとくる。

 問題は、なぜY氏のような人間が生まれるか、だ。仕事第一主義などという、生やさしいもの
ではない。彼にしてみれば、人間の価値まで、その仕事で決まるらしい。いや、それ以上に、な
ぜ、人は、そこまで鼻もちならないエリート意識をもつことができるのか。自尊心という言葉が
あるが、その自尊心とも違う。肩書きや地位にしがみつくのは、自尊心ではない。自尊心という
のは、生きる誇りをいう。肩書きや地位とは、関係ない。彼のような人間は、戦後の狂った経
済社会が生みだした、あわれなゾンビでしかない。

 もっとも彼にしてみれば、過去の肩書きや地位を否定するということは、自分の人生そのも
のを否定することになる。最後は部長になったが、その部長をめざして、どれほど身を粉にし
て働いたことか。家庭を犠牲にし、自分を犠牲にしたことか。それはわかるが、「では、Y氏は
何か?」という部分になると、実のところ何もない。何も浮かんでこない。少なくとも私には、た
だの定年退職者(失礼!)。

 別れぎわ、「今度、また自治会の仕事をよろしくお願いします」と言ったら、こう言った。「あ
あ、県や市でできることがあれば、私に一度、連絡してください。私のほうから口をきいてあげ
ます」と。そうそう、こうも言った。「林君は、カウンセリングもできるのですか。だったら、国のほ
うでも、そういう仕事があるはずですから、今度、私のほうでも、話してみてあげますよ。知事と
も、懇意にしていますから……」と。

 おめでたい人というのは、Y氏のような人をいう。が、私は心の中で、Y氏とは、完全につなが
りを切った。「何かの仕事の話になっても、(そういうことはありえないが)、断ろう」と心に決め
た。
(02−12−2)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞





件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-13-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 537人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  55人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−13号(153)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
WWWWW     )) ) ))   MMMMM
q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育てチェック
【2】随筆
【3】雑談
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

(1)親孝行(1488−1491)

Q 今でも親孝行は美徳と考えている人は多いですね。あなたは親孝行をどのように考えてい
ますか。

(1)親孝行は、子育ての基本。子どもが親の老後のめんどうをみるのは、当然。
(2)親子もつきつめれば、対等の人間関係で決まる。「ワク」にこだわる必要はない。
(3)アメリカ人のように親子の関係がドライになるのは、かえって好ましくない。

++++++++++++++++++++++

A つい先日も、「あなたは日本人の美徳のひとつである親孝行を否定するのか」と言ってきた
女性(四〇歳)がいた。私は親孝行を否定しているのではない。たとえば私は二四歳のときか
ら、収入の約半分を実家へ仕送りをしてきた。当時の常識として、そうしただけだが、経済的負
担感もさることながら、その社会的重圧感は相当なものだった。それを知っているから、私は
自分の息子たちには、そういう思いをさせたくない。

 またよく、「日本人の美徳論」を説く人がいるが、たしかに英語には、「孝行」にあたる単語す
らない。しかし現実には、こんな調査結果がある。

 平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者は
たったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由意識の強いフ
ランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である。  ほかにフィリ
ッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、タイ五九%、ドイツ三八%、スウェーデン三
七%など。日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを
裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになる。欧米の人ほど、親子関係が
希薄というのは、誤解である。

 今、日本は、大きな転換期にきているとみるべきではないのか。(正解(2))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(2)ジェンダー

Q 『内助の功』という言葉があります。男は仕事、女は家事。妻は家庭で夫を支えてこそ、妻
の価値が認められるというのですが……

(1)まさにジェンダー。文化的、社会的性差別。こういう言葉があるかぎり日本は後進国!
(2)やはりこれが家庭のあるべき姿。夫の出世があってこそ、家族は平和で、安泰。
(3)アメリカでは夫婦でも裁判闘争しているケースが多い。悪しき欧米化には反対!

++++++++++++++++++++

A いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚き
でしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、二割
近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(二〇〇〇)によると、「掃除、洗
濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上。「夫も家事や育児を平
等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反
対だ」と答えた女性も二三・三%もいる!

 ある農村地域でこのジェンダーについて話したら、担当者(教育委員会課長)が、「そういう話
はまずいです。そうでなくても、どの家も、嫁の問題で頭をかかえているのだから」と。「夫が家
事をするというのも、現実的な話ではない」とも。この話に私は驚いた。

 それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻も
ふえている。「第二回、全国家庭動向調査」(厚生省・一九九八年)によると、「家事、育児で夫
に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよ
りも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もとも
と期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。なお、アメリカでは裁判闘争が多いのは
事実だが、これは裁判制度の違いによるもの。(正解?)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(3)わだかまり

Q あなたは電撃に打たれるような恋をして、相思相愛のまま結婚し、心から望んで今の子ど
もをもうけましたか?

(1)どこか不本意な結婚だった。出産するにもいろいろ問題があり、不本意な出産だった。
(2)何となくなりゆきで結婚し、そのまま子どもを出産。あとは平凡な結婚生活だった。
(3)まさに電撃に打たれるような恋愛だった。子どもも万全の状態でもうけた。

++++++++++++++++++++++++

A 心の奥底に潜み、人間の心や行動を裏から操るのが、わだかまり。このわだかまりがある
と、無意識のまま、人は同じ失敗を繰り返す。しかし問題はわだかまりがあることではなく、(だ
れだって無数のわだかまりをもっている)、そのわだかまりに気づかないまま、それに操られる
こと。ある母親は子ども(三歳)が、何か失敗するたびに、「あんたさえ、いなければ!」と、子ど
もを虐待していた。その母親は、いわゆる「できちゃった婚」で、今の夫と、不本意な結婚をして
いた。その母親はこう言う。「ふだんはいい母親だと思うのですが、とっさの場になると、わけも
わからないまま、子どもを虐待してしまいます」と。

 そこでもしあなたがいつも同じパターンで、同じ失敗を繰りかえすというのであれば、まずそ
のわだかまりをさぐってみる。何かあるはずである。ある母親は、息子(小二)に、服のソデを
つかまれるたびに、息子をはげしく手で払いのけていた。条件反射的に、そうしていた。そこで
私のところに相談があったが、話を聞くと、その母親は結婚前に、ある男性のストーカー行為
に苦しんでいたことがわかった。つまり息子にソデをつかまれるたびに、そうしたいやな思い出
が、無意識のまま、その母親を動かしていた。

 このわだかまりは、それが何であるかがわかるだけで、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間が解決してくれる。(正解(3))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(4)表情

Q 子どものほしがっていたものを、子どもの前にそっと出してみてください。そのとき子どもの
表情を観察すると……

(1)すばやく反応し、ニコニコと顔中に喜びを表現し、ワーッと声を出す。
(2)驚くものの、喜びが顔に出てくるのに、時間がかかる。「どうして」と聞くことがある。
(3)見て見ぬふりをしたり、ほとんど表情を変えない。黙ってそれを受け取ることが多い。

++++++++++++++++++

A 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子ども
は、やはり表情が豊か。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔
をする。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこ
の「表情」には、いろいろな問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、全体
の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。ほかの子どもたちがドッと
笑うようなときでも、表情を変えない。うれしいときも悲しいときも、無表情のまま行動する、な
ど。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊離であ
る。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無表情のままで
ある、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離が現れることが多い。

 とくに幼児教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いやだ
ったら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心の状態がわかりやすい。
表情は、それを見分ける大切な手段ということになる。(正解(1))

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ      このマガジンのことを、読んでくださいそうな人が
   /│田│ 田│ヽ      いたら、その方に紹介していただけませんか。
   / │ │  │ ヽ      よろしくお願いします。
 ⊂▼▼ ⊃
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(378)

幻想

 子どもの学習には、いろいろな幻想がある。親にしてみれば、いつもはじめての経験で、何
が幻想で、何が幻想でないかわからない。だからどの親も、繰り返し、同じような失敗をする。

●むずかしいワークブックをやらせれば、勉強ができるようになると考えるのは、幻想……能
力を超えたワークブックをかかえたため、そこで勉強がストップしてしまうというケースは、たい
へん多い。あるいは量が多く、とてもやりおおせないというケースもある。そういうときは、各ペ
ージの、一番の問題だけをまず、やる。そして一番最後のページまでいったら、またもどって、
今度は、二番の問題だけを、やる。そして一番最後のページまでいったら、またもどって、三番
の問題だけを、やる。

●長く時間勉強すれば、勉強ができるようになると考えるのは、幻想……勉強の能率は、かけ
る時間の長さでは決まらない。ダラダラとするダラ勉、あるいは時間ツブシ、時間殺しが見られ
たら、勉強のやり方そのものを変える。コツは、子どもの能力の範囲で、短時間ですますように
する。六〇分くらいなら勉強しそうだったら、思いきって、三〇分にする。

●有名な進学塾へ入れれば、勉強ができるようになると考えるのは、幻想……こわいのは、
「空回り」。その塾の指導が、子どもの能力の範囲にあればよいが、その範囲の外にあるとき
は、効果がないだけではなく、子どもにとっては、大きな負担となる。子どもの能力を見きわ
め、その能力の範囲の進学塾に入れる。空回りを感じたら、即、退塾したほうがよい。方法とし
ては、子どもが上位をねらえるような進学塾へ入れ、そこで力をつけたら、さらに上位の進学
塾へ入れるという方法が好ましい。
 
●小人数のほうが、ていねいな指導がしてもらえると考えるのは、幻想……子どもどうしの、相
乗効果というのがある。あるいは子どもどうしが、競いあったり、励ましあったりして、たがいに
伸ばしあうということは多い。小人数レッスンというのは、一見効果があるようで、ないばあい
も、同じように多い。家庭教師にしても、子ども自身に「勉強したい」「勉強しなければ」という自
覚があるときは、効果的だが、そうでなければ、あまり効果はない。

●子どもに受験の自覚をもたせれば、勉強をするようになると考えるのは、幻想……子どもを
おどせば、一時的には効果はあるが、あくまでも一時的。「こんな成績では、A中学には入れな
いでしょ!」と。この方法は、子どもによっては、逆効果。子どもが一度、反発したら最後、おど
しは一挙に崩壊する。そしてこの種のおどしは、二度目がない。

子どもの学習には、こうした無数の幻想がつきまとう。誤解、先入観、それに独断と偏見。こう
いうのものが、無数にからんで、ひとつの幻想をつくる。そしてその幻想が、やがてかたまっ
て、一つの方針になる。学歴信仰や、学校神話などが、それを支える。しかし今のあなたが、
「限界」の中で生きているように、子どももまた、その「限界」の中で生きている。その限界を知
り、その限界を認め、その限界の中で、子育てをすることも大切。要するに「あきらめるべきこ
とは、あきらめる」ということ。

そういう意味では、子どもというのは、不思議なものだ。親が「うちの子は、やればできるはず」
と、子どもを追いたてれば追いたてるほど、あるいは、「そんなはずはない」と、親ががんばれ
ばがんばるほど、子どもは伸び悩む。しかし反対に、「うちの子はこんなもの。親が親だから」
と、あきらめたとん、伸び始める。子どもの心に風穴があき、風とおしがよくなるためと考えてよ
い。そのためにも、子育てには「幻想」はもたない。その一つとして、子どもの学習にまつわる
幻想を考えてみた。
(02−12−6)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
***************************************

【雑感】

子育て随筆byはやし浩司(375)

冬のうたた寝

 コタツに入ると、すぐ眠くなる。そんなとき、窓からさしこむ小春日和(びより)の陽光を感じな
がら、ウトウトとする。今も、そうだ、そのうたた寝から、さめたところ。気がつくと、もう一時間近
くも寝ていたことになる。夢はいくつか見たようだが、よく覚えていない。どこかへ旅行をした夢
のようだった。

 一方、原稿を書いていると、すぐ時間がたつ。あっという間というほどではないが、少し調べも
のをしていると、三〇分とか一時間が過ぎる。ときどき、どうしてこんなにはやく時間が過ぎる
のだろうと思うときがある。今朝も七時に起きて、原稿を書き始めた。たった一作しか書いてな
いのに、そんなわけで、時計を見ると、もう一〇時半! 昼からはあれこれと予定が入ってい
る。

 今、背筋をのばして、大きく、あくびをしたところ。全身に、ブルブルと血が流れるのを感じ
た。どうやら今日も、健康のようだ。頭の回転はあまりよくないが……。そんな回転のよくないと
きには、こんな原稿しか書けない。はっきり言って、どうしようもない駄文。まったく意味のない
駄文。しかしこれも私の一面。そう思って、ここまで書いた。

 これから居間へ行って、お茶を飲んでくる。そしてワイフと買いものに行ってくる。クリスマスカ
ードと、年賀状を買うつもり。あとは本屋へ寄って、いくつか雑誌を買ってくる。ああ、それにし
ても新しいパソコンがほしいな。
(02−12−7)

●結論……今年はパソコン購入をとうとう断念。そのかわり、数年前買ったパソコン(シャープ
のPNZ15)を掃除することにした。しばらく使っていなかったので、掃除したら、何だか新しい
パソコンを買ったような気分になってきた。人間の心というのは、ごまかせるものなのか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(376)

回避性障害

 「回避性障害」という障害がある。「人と会うのを回避する」という意味で回避性障害という。対
人恐怖症の一つと考えられている。私も「障害」といえるほどおおげさなものではないが、とき
どき、人に会うのが、心底、わずらわしくなることがある。人に会うのがおっくうになる。人の顔
を見るのがいやになる。多くの人の流れを見ていると、目が回る、など。そのつど微妙に症状
が違うが、そういうときは、どこか頭が重ぼったい。気分が晴れない。すっきりしない。

 原因のほとんどは、他人とのトラブルである。……といっても、たいしたトラブルではない。ささ
いなトラブルが引き金となって、そうなる。だから、トラブルそのものが原因というよりも、気分
が落ち込んでいるときに、それが重なると、そうなる。ふだんは、そういうトラブルがあっても、
軽く受け流すことができるが、落ち込んでいるときは、そうではない。ささいなことで、気をもむ。

 そこで私は、どういうときに、落ち込むか、だ。たいていは、ものごとが、うまくいかないとき
に、そうなる。あるいは予定していたのと反対の結果が出たようなとき、そうなる。そういう意味
では、私は人生で、あまり失敗を経験していないので、耐久性がない。あるいはもともと気が小
さいので、失敗を事前で回避しようとする。慎重派といえば慎重派だが、ときに慎重すぎるとき
がある。

 よく誤解されるが、こうした症状と、「考える」こととは、関係ない。友人のT氏はこう言う。「林
さんは、ものごとを考えすぎるよ。だから落ち込むんだよ」と。それにこうも言った。「ふつうは、
酒でごまかすが、林さんは、酒が飲めないからね」と。

 私のばあいは、むしろ逆で、頭の中がモヤモヤしてくると、かえって不愉快になる。そこでそ
のモヤモヤを吐き出したい衝動にかられる。文を書くというのは、結局は、そのモヤモヤを吐
き出すためということになる。うまく吐き出したときの、爽快感(そうかいかん)は、何ものにもか
えがたい。頭の中がそれだけでスッキリする。……そう、それは難解なパズルを解いたときの
爽快感に似ている。「ヤッター」という思いにかられる。

 その私が回避性障害になる? 今も、実は、そんな気分になっている。だから……とつなげ
るのも、おかしな話だが、私はその回避性障害になった子どもの心理がよくわかる。少し前、A
さんという女子高校生がいた。彼女は「人に会うのがこわい」と言って、ひとり、親元すら離れ
て、アパート暮らしをしていた。まわりの人たちは、(親も)、「そんなのは気のせいだ」と言って
いたが、私はそうは思わなかった。

 で、子どもがそういう状態になったら、どうするか。これは学校恐怖症になった子どももそうだ
が、(そういう意味では、学校恐怖症も、対人恐怖症の一つと考えてよい)、放っておくのが最
善。本人がしたいようにさせておく。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子どもの側か
らみて、親の視線や関心をまったく感じさせないほどまで、放っておく。家族が空気のような存
在になればよい。そういった障害から立ちなおった子どもたちも、みな、そう言っている。「放っ
ておいてくれたのが、一番よかった」と。

 さてさて私の場合は、運動し、汗をかいて、子どもたちに会うと、それがなおる。今日は、大好
きな年中児のクラスだ。Nさん、Yさん、Sさん、Tさん。たった四人だけのクラスだが、本当に心
のやさしい子どもたちばかり。教えていても、ほんわかしたムードに包まれる。私のような人間
には、とてもありがたい。

 では、これからそのクラスにでかける。いつものように自転車に乗って……。
(02−12−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(377)

電子マガジンのこと

 これから電子マガジンを発行してみようと考えている人は、多いと思う。そういう人のために、
私の経験を、書いておきたい。

 私が最初に発行したのは、〇一年の夏。最初は、どういうものかなという思いながら発行し
た。で、最初は、不定期に、月に一回とかニ回だった。それがときには週に二回になったりし
た。それが、定期的になったのは、一年も過ぎてからだった。

(発行日)自分に義務を課すということであれば、定期的なほうがよい。人間は、追いつめられ
ないと、よい仕事をしない。どうしても発行するのがおっくうになる。だからどんなことがあって
も、発行すると、心に決めてかかる。

(無料との戦い)「無料」ということが頭にあると、どうしてもいいかげんになる。私のばあい、最
初のころは、そういう意識との戦いでもあった。文を推敲(すいこう)することもなく、そのままマ
ガジンにしたこともある。しかしそういういいかげんさは、絶対に許されない。マガジンを発行す
るときは、たとえ小部数でも、真剣勝負と考える。

(読者の獲得)読者がふえるというのは、大きな励みになる。「数は関係ない」とはわかっていて
も、どうしても気になる。で、問題は、伸び悩んだとき。あるいは読者が減り始めたとき。私もこ
の一年で、何度か、そういうことがあった。そういうとき、「もう廃刊にしようか」と迷った。そうい
う自分とどう戦うかも、一つの問題。

(出し惜しみしない)本を書くとき、よく編集者からこう注意される。「出し惜しみするな」と。これ
はマガジンも同じで、書くときは、もったいぶらず、すべてを書く。読者に思わせぶりを書いたり
してはいけない。「このつづきは、また今度……」というのも、ダメ。それは読者に対する、最低
限のエチケットと考えてよい。「読んでいただきます」「ついては、すべてを提供します」と、そう
いう姿勢を書く。

(読者の獲得はむずかしい)私は講演をするとき、マガジンの紹介もしてもらう。それでも、一会
場で、一〜二人の人が読者になってくれれば、よいほう。つまり読者になってもらうことは、そ
れくらいむずかしい。だいたい、今、この種のマガジンは、まさに雨後の竹の子のように生まれ
ては、そして消えている。つまりそれだけライバルが多いということ。数年前だったら、発行す
れば、すぐ一〇〇人、二〇〇人の読者がついたというが、今は、そういうことはない。年々、ま
すますむずかしくなってきている。とくに電子マガジンは、ほかに宣伝媒体をもたない。読者の
口コミだけが、頼り。つまりそれだけにきびしい。

(ほかに……)いろいろなマガジンをあたってみると、あやしげなマガジンも多い。ほとんどがそ
うではないか。宗教がらみのもの、商品の販売がらみのもの、違法すれすれのものなど。出合
い系や、競馬などのギャンブル系、ピンク系などもある。このところマガジンの質と品が急速に
低下しているのも事実。そのため信用度も落ちている。そういうとき、いかにマガジンを充実さ
せ、信用をかちとるかも大切だが、それには、基本的に、自分自身にきびしくなければならな
い。長くつづけていると、必ずボロが出る。つまりマガジンを出すということは、そういう自分と
の戦いでもある。決していいかげんな気持ちで、発行してはいけない。……と思う。

 まだ一年と少ししかたっていないから、偉そうなことは言えないが、今日までに感じたことをま
とめてみた。みなさんの中で、マガジンを発行している人がいたら、ぜひ、教えてほしい。情報
を交換できればと願っている。
(02−12−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(373)

最高のジコチュー人間

●Dさんのこと
 この原稿が、その「ちぎり絵教室」のメンバーに読まれないことを、ただひたすら願いながら、
書く。もし読まれたら、私はその女性に、袋叩きにあう。あるいは殺されるかも……?

 ある町のある公民館に、「ちぎり絵教室」というのがある。その地域の女性たち、四〇歳から
六〇歳前後の人が集まっている。もちろん、それよりも若い人もいる。年をとった人もいる。

 その中に一人、Dさん(六〇歳)がいる。この教室では、古株だが、そのDさん、とにかく、口う
るさい。ほかのメンバーの、それこそ紙のちぎり方、張り方まで、いちいち口を出す。もちろん
自分の絵が最高だと思っている。一度、出品展覧会で金賞をとり、そのあと一〇万円の売り値
(もちろん売れなかったが……)がついたのが、かえってわざわいした。講師の指導にも、ほと
んど、従わなかった。

 そんなわけで、ほかのメンバーとの衝突も絶えなかった。「私の題材を盗んだ」「もう少し静か
にしてほしい」「あんたがいると神経が集中できない」など。年に一度、合同で大作に挑戦する
のだが、どんな絵にするかを決めるだけで、大騒動。今年も、「四季の風景にする」と、Dさん
は、一歩も譲らなかった。

 そのDさんの口うるささといったらなかった。とにかく、うるさい。「まともに接していると、こちら
の気がヘンになる」と、ある人は言った。しかもDさんは、ズケズケとそれを言う。自分より技術
のある人に向かっては、「あんたのようなじょうずな人がいると、ほかの人が萎縮してしまう」と
言った一方で、技術の足りない人がいると、「あんたは今度の合作には出るべきではない」と
言った。

 ふつう自己中心的な人は、他人のことはズケズケ言うが、自分が反対に言われたりすると、
狂ったように反撃する。一人の会員が、Dさんに、「そういう言い方はないでしょ!」とたしなめ
たことがあるが、そのときも、Dさんは、顔をまっかにして大声で怒鳴り散らしたという。

 私はその話を聞いたとき、Dさんの脳の病気を疑った。しかし何年もDさんを知っている人
が、「Dさんは、昔からそうよ」と言ったので、どうやらその可能性はないようだ。

 が、ある日、とうとうメンバーの怒りと不満が爆発してしまった。それはみなが、合同の大作に
取り組んでいるときだった。例のごとく、Dさんが、「ここは、こう」「そこは、こう」「だめ、だめ」
と、いちいち口を出したからだ。そして一番技術のある人に向かって、「あんただけが、そんな
にじょうずにやったら、全体のバランスが崩れるでしょ!」と。

 メンバーたちが、怒った。しかしDさんは、逆に攻勢にでた。「いつも私だけを悪者にして!」
と。あとは、お決まりの大騒動!
●なぜ、Dさんは、そうなのか?
 こうした自己中心性は、だれにでもある。もちろん脳の病気のときも、ある。よく知られた例と
しては、アルツハイマー型痴呆症の初期症状がある。私が疑ったのは、その病気だったが、D
さんは、どうもそれではないようだ。記憶力もしっかりしている。こまかいことにもよく気がつく。
「感情の鈍化はないですか?」と聞くと、「それもない」と。

 その大騒動のあと、つぎの回の教室へは、Dさんと講師、事情を知らないでいた女性の三人
しかこなかった。講師は、Dさんを責めたが、そこでもまた大げんか。講師の人はこう言ったと
いう。「何も、賞が目的ではない。みなが、楽しめばそれでいい」と。それに対してDさんは、「私
が最初に習った先生は、賞を取らねば意味がないと言った。私はそれに従っているだけ!」
と。

 これらの話からわかるように、Dさんは、まるで自分のことがわかっていなかった。自分が嫌
われていることすら気づいていなかった。あるいはなぜ、メンバーが全員、その日、欠席した
か、その理由もわかっていなかった。この話を聞いたとき、私は自己中心性にも、ふたつの方
向性があることに気づいた。

 ひとつは、自分のことだけを主張するという自己中心性。自分だけが正しいと思うのが、そ
れ。もうひとつは、自分の姿を客観的に見ることができないという自己中心性。他人の目の中
で、自分がどう映っているかわからない。

 そこでさらに分析してみると、自分のことだけを主張するというのは、それだけ頭が硬直化し
ていることを意味する。融通がきかない、がんこ、偏屈など。住む世界が狭いときも、同じよう
になる。よく学者と呼ばれる人が、似たような症状を示す。細分化された専門知識はもっている
が、それ以外の世界を知らない。人間関係をうまく調整できない。だから自分にへつらう人と
は、それなりにうまく交際するが、そうでない人とは、何かにつけてすぐ衝突する。

 また自分の姿を客観的に見ることができないというのは、それだけ「わがまま」ということか。
他人の立場でものを考えることができない。その結果というか、どうしても独断と偏見が多くな
る。このタイプの人は、それだけ交際範囲が狭いので、(あるいは交際しても、相手を受け入れ
ないから)、その分、たとえば子育てという世界でも、どうしてもギクシャクしやすい。一般論とし
て、交際範囲の広い親ほど、子育てがじょうず。それだけ無意識のうちにも、子どもの多様性
を受け入れることができるからとみる。(反対に、交際範囲の狭い親ほど、多様性を受け入れ
ることができず、自分が決めたワクの中に、子どもを押しこめようとする。そのため、失敗しや
すい。)

 こうした自己中心性を打ち破る方法といえば、結局は、社会の荒波の中で、もまれるしかな
い。そういう意味では、苦労が、人間を丸くする。たとえば一般社会では、自己中心的な人は、
それだけで、社会からはじき飛ばされてしまう。相手にされなくなる。だからどうしても、丸くなら
ざるをえない。

●ちぎり絵教室は、解散に
さらにそのつぎの回の教室では、メンバーの全員が集まった。会の解散を宣言するためであ
る。しかし、だ。その会に、Dさんもやってきた。これは予想外のことだった。が、それだけでは
ない。何とDさんが、みなにと、茶菓子を買ってきたというのだ。これには、みなが、驚いた。た
まげた。Dさんは、こう言った。「昨日、○○山へ行ってきたので、みなさんにと、おみやげを買
ってきました」と。Dさんは、まるで自分の立場がわかっていなかった。

 で、そのあと、どうなったか? 講師がみなの前で、こう切り出した。「一度、会を解散して、来
月からまた、新しい会として、発足します。新しい会では、新入会のメンバーについては、講師
の入会許可をもって、入会できるという規約をつけ加えます。いかがですか?」と。しかし、それ
についても、まっさきにDさんが、手をあげ、「賛成!」と。公民館主宰(しゅさい)の教室というこ
とで、Dさんだけを排除することもできない。しかしもうこうなると、マンガの世界。みなが、いっ
せいに吹き出してしまった。講師も笑った。ほかのメンバーも笑った。つられてDさんも笑った。
私も、その話を聞いて、笑った。

 考えてみれば、のどかな、のどかな世界。で、今も、Dさんはそのちぎり絵教室に通っている
という。そして相変わらず、ああでもない、こうでもないと、うるさく口を出しているという。しかし
私は、ここまで自己中心的な人を、ほかに知らない。Dさんは、まさに私が生涯で知った、最高
の「ジコチュー人間」ということになる。
(02−12−4)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(374)

アンビリーバブル

 世の中には、信じがたい人たちというのは、たしかにいる。ふつうの常識では、考えられない
人たちである。実は、先日も、こんなことがあった。

 その男性は、現在、八五歳。子どもはいない。大手の自動車会社の研究所で、研究員を長
年したあと、筑波(つくば)の国立研究所で、一〇年ほど研究員をした。そのあと、しばらく私立
大学の教壇に立ったあと、今は、退職し、年金生活を送っている。が、そのあといろいろないき
さつがあって、このH市に住んでいる。

 ここまではよくある話だが、実は、その男性は、がんを患っている。もう余命はそれほど、な
い。手術も考えたが、年齢が年齢だからという理由で、抗がん剤だけで治療している。が、私
が「信じがたい」というのは、そのことではない。その男性は、莫大な資産家でもある。市内だ
けでも、大きなビルを、三か所もっている。それに大地主。市の中心部と郊外に、一〇〇〇坪
単位の土地をいくつかもっている。ハンパな金持ちではない。

 が、だ。その男性、今、別の男性(五二歳)と、わずか一〇坪の土地について、民事調停をし
ている。本来なら、話しあいでどうにかなった問題だが、関係が、こじれてそうなった。先日も、
その土地をはさんで、二人が道路で、大声で怒鳴りあう喧嘩(けんか)をしていたという。

 私はこの話を聞いて、「へえエ〜」と言ったきり、言葉が出なかった。

 もし私ががんを宣告されたら、それだけで意気消沈してしまうだろう。何もできなくなるだろう。
しかも八五歳といえば、私より三〇歳も年上ということになる。そういう人生の大先輩が、その
上、大金持ちが、わずか一〇坪の土地のことで、言い争っている? 人間の「生」への執着心
というか、はっきり言えば、愚かさというか、それが私には信じられなかった。あるいは何がそう
まで、その男性を、駆り立てるのか?

 ここまで考えて、私はしばらく、あちこちの本を読みなおしてみた。で、最初に目についたの
が、ミルトン(一六〇八〜七四、イギリスの詩人)の『わめく女』。その中でミルトンは、こう書い
ている。「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。これだけを根拠にするわけではない
が、どうも年をとればとるほど、人間的な円熟味がましてくるというのは、ウソのようだ。中に
は、退化する人もいる? そういえば、ギリシャのソフォクレスも、「老人は再び子ども」という有
名な言葉を残している。

 私はこの男性の話を聞いたとき、「老年とは何か」、それを考えてしまった。あるいはこういう
人たちは、その年齢になっても、まだ人生は永遠につづくとでも、思っているのだろうか。仮に
あの世があるとしても、あの世まで、財産をもっていくことができるとでも思っているのだろう
か。さらに「死」を目前にして、我欲にとりつかれることの虚しさを覚えないのだろうか。さらにあ
るいは、老年には老年の、私たちが知る由もない、特別の心理状態があるのだろうか。

 これは近所の男性(八〇歳)のことだが、こんな話もある。ある夜、隣の家の人に、その男性
が「助けにきてほしい」と電話をしてきたという。そこでその隣の人が、その男性の家にかけつ
けてみると、その男性は玄関先で倒れていたという。隣の人がそれを見て、「救急車を呼びま
しょうか?」と声をかけると、その男性は、こう言ったという。「恥ずかしいから、それだけはやめ
てくれ」と。

 この話を聞いたときも、私はわが耳を疑った。その男性は、だれに対して、何を恥ずかしいと
思ったのだろうか。

 さてさて、人はだれしも、老いる。それは避けることのできない未来である。末路と言ってもよ
い。そういうとき、どういう心理状態になり、どういう人生観をもつか。私は私なりに、その準備
というわけでもないが、それを知りたいと思っている。で、こういう人たちが一つの手がかりにな
るはずのだが、しかし、残念ながら、私には、まったく理解できない。冒頭に書いたように、どれ
だけ、また何回、頭の中で反芻(はんすう)しても、理解できない。信じられない。つまりアンビリ
ーバブルな話ということになる。この問題は、ひょっとしたら、私自身がもう少し年をとらねば、
わからない問題なのかもしれない。

 ただここで言えることは、老人のなり方をまちがえると、かえってヘンな人間になってしまうと
いうこと。偏屈でがんこになるのならまだしも、邪悪な人間になることもある。そういう意味で
は、人間は、死ぬまで、前向きに生きなければならない。うしろを向いたときから、その人間
は、退化する。釈迦も、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、それを説明した。「死ぬまで精
進せよ(前向きに生きろ)」と。
(02−12−4)

●老人が、人生の大家であるというのは、まったくの幻想である。何と醜い老人が多いことか。
またこの世の中に、のさばっていることか。……と書いて、私たちはそうであってはいけない。
またそういう老人になってはいけない。一方的に老人を礼さんする人というのは、その人自身
がすでに、その老人の仲間になっているか、前向きに生きるのをやめたということを意味す
る。本当にすばらしい老人というのは、自らが醜いことを知っている老人である。安易な老人美
化論には、注意しよう!

●私の観察では、人間は、早い人で、もう二〇歳くらいから進歩することをやめてしまう。ある
いは三〇歳くらいから、それまでの人生を繰り返すようになる。毎年、毎月、毎日、同じことを
繰り返すことで、そのときどきを、無難に生きようとする。あるいは考えることをやめてしまう。
が、なおさらに、タチが悪いことに、自らを退化させてしまう人もいる。そういう意味で、人間にと
っては、「停滞」は、「退化」を意味する。それはちょうど、川の流れのようなものではないか。よ
どんだ水は、腐る。

●自らを輝かせて生きるためには、いつも前向きに生きていかねばならない。恩師は、一つの
方法として、「新しい情報をいつも手に入れることだ」と教えてくれた。また別の恩師は、「いつも
トップクラスの人とつきあうことだ。新しい世界にチャレンジすれば、自然と、自分が磨かれる」
と教えてくれた。方法はいろいろある。山に登るにも、道は必ずしも一つではない。

●そこで考えてみよう。あなたのまわりには、老人と呼ばれる人がたくさんいる。あなた自身
も、すでにその老人の仲間になっているかもしれない。そういう老人や、あなたは、今、輝いて
いるか、と。実は、これは私自身の問題でもある。私は今、満五五歳。このところとみに気力が
衰えてきたのがわかる。何かわずらわしいことが起きると、それが若いころの何倍も気になる
ようになった。チャレンジ精神も薄れてきたように思う。できるならひとり、のんびりと暮らしたい
と思うことも多い。つまり私自身、輝きをなくしつつあるように思う。

●そこで、考える。どうすればいいのか、と。逃げるわけではないが、この問題は、これから
先、私にとっては、大きな問題になるような気がする。今は、ここまでしか書けないが、この問
題は、近々、決着をつけなければならないと思っている。

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
1・16  ……尾奈小学校・幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-15-2

後半部です。今回は、少しカタイ話ばかりで
ごめんなさい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(380)

見せかけの偽善

 善人ぶることなら、だれにでもできる。たいした努力はいらない。あるアメリカの映画俳優は、
こう告白している。「私は、いつも他人の目の中で、自分がどう映るか、そればかりを気にして
いました」と。

 何も映画俳優でなくても、多少、名前の知られた人なら、そう思う。そういう人は、またそれら
しく振るまうのが、うまい。いつもどうすれば相手の心をとらえることができるか、そればかりを
考えている。研究している。しかし仮面は仮面。偽善は偽善。このタイプの人は善人ぶること
で、利己心を満足させている。

 そこで大切なことは、私たち無名人は無名人なりに、庶民は庶民なりに、こうした仮面や偽善
を見抜かねばならない。それは社会の底辺を生きる私たちの、精一杯の抵抗であり、誇りでも
ある。でないと、そういう偽善者を見抜けないばかりか、私たち自身の道を踏みはずすことにも
なる。

(宗教的偽善)
 偽善の中でも、最悪が、宗教的偽善。私の家にも、ときどき、いろいろな宗教団体の信者た
ちが勧誘にくるが、どの人も、満ち足りたような笑みを浮かべている。さも、私は人間ができて
いますというような顔をしている。こうした傾向は、同じ宗教団体の中でも、立場が上の人ほ
ど、強い。トップレベルともなると、神様や仏様のような顔をしている。「中には本物の宗教団体
もあるが……」と言いたいが、残念ながら私は知らない。(知っていれば、すでに信者となって
いる?)

(文化的偽善)
 文化的偽善者は多い。何を隠そう、私もその一人? 講演などに行き、壇上に立つと、ときど
き、「どうして私のような人間がこんなところに立っているのだろうか」と思うときがある。もし聞
きにきている人が私の実像を知ったら、あきれて帰ってしまうかもしれない。私はそういう自分
を知っているから、そういう意味では、文化的偽善者を見抜く力がある。昔から「泥棒は、泥棒
を見分けられる」というが、それと同じかもしれない。ただ誤解しないでほしいのは、私のばあ
いは、無理に善人ぶることは、もうやめた。だいたいだれも、私のことなど、善人だとは思って
いない。また思ってほしくない。そういう視線を感ずると、本当に疲れる。

(学者的偽善)
 今、学問の世界が、きわめて細分化されている。またほとんどの学者たちは、細分化された
世界をさらに専門化することで、自分の立場を確立している。そんなわけで、今、学者と呼ばれ
ている人たちは、つまりきわめて専門的な知識はあるが、それ以外の世界は、ほとんど知らな
いとみてよい。私たちは「学者」というと、「博学者」を連想し、ついで、人格的にも高邁(こうま
い)な人を連想するが、それは正しくない。(もちろん中には、きわめてすぐれた人もいるが…
…。)しかしそういうまちがった先入観が、ときとして、自分の目を曇らせる。先日、ビデオ映画
を見ていたら、こんなセリフがあった。「大学の教授だって、牧師だって、マスをかくんだぜ」と。
むしろ専門バカ(失礼!)というか、学者と呼ばれる人ほど、世間知らずが多い。常識はずれ
の人も多い。ずいぶんと昔だが、東京のD大学から、幼児教育の大家(?)と称する人が、H市
で講演をした。あとで聞くと、その教授は、赤ん坊の歩行のし方を研究している学者ということ
だった。そういう教授が、「幼児教育とは……」と論ずるから、話がおかしくなる。今でも、ほとん
ど幼児を教えたことがない元教授が、幼児教育の大家になりすましていたりする。

(マスコミ的偽善)
 マスコミの世界には、偽善者が、ゴロゴロしている。だいたいあのマスコミの世界に顔を出す
ということ自体、悪魔と何らかの取りひきをして、魂を売り渡した人とみてよい。私もプロダクシ
ョンの下請けとして、番組の企画を書いていたことがあるが、あの世界は「まともな世界」では、
ない。もっとも、私にはそういう経験があるから、マスコミ的偽善がどういうものであるか、私に
はよくわかる。もちろん偽善者も、わかる。年俸が数億もあるようなニュースキャスターが、「不
況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せたりすると、「何、言ってるんだ!」と、思わず、
つぶやいてしまう。

(教育的偽善)
 教育の世界は、これまた偽善だらけ。まあ、どう偽善なのか、それを話したら、キリがない。
ないから、あえて言えば、教育もまた偽善の上に成りたっているという前提で、考える。教育の
世界に不正はない。あってはならないと考えること自体、幻想である。またそういう幻想がある
と、とてもつきあえない。

 大切なことは、こうした偽善を前にして、キズつかないだけの覚悟と、その心がまえはしておく
ということ。そしてここにも書いたように、そうした偽善から身を守るのは、結局は私たち自身で
あることを知る。要するに賢くなるということ。それは現代という社会を生きるための、必要条
件といってもよい。
(02−12−6)

●慈善は、それが犠牲であるときのみ、慈善である。(トルストイ「読書の輪」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(381)

ひがみ、やっかみ、嫉妬(しっと)心

 アメリカの中南部を旅行してみると、「住」環境のすばらしさには、どこへ行っても、度肝を抜
かれる。「すごい!」などというものではない。圧倒される。

 もちろん貧しそうな家も多いが、しかし日本では考えられないような大豪邸が、まさに軒並み
並んでいる! 大きさも、広さも、日本の「上」の家とくらべても、楽に数倍から一〇倍以上はあ
る。それぞれの部屋も広い。天井も高い。私が訪れた、K氏の家などは、地下に小さな体育室
まであった!

 そういう家々が、豊かな山林と、芝生の庭に抱かれるように並んでいる。さらに驚くべきこと
に、その地域の人たちが、景観を守るために、屋根や壁の色、さらに、家の外観まで統一して
いる。「芝生など、自分の家の芝生でも、きちんと管理しないと、近所の人から叱られる」という
ことだった。少し窮屈な感じがしないでもないが、それがまた「住」環境を、なお一層、すばらし
いものにしている。

 で、そういうのを見せつけられると、「何だ、これは!」と思ってしまう。一応、日本も豊かな国
ということになっているが、はっきり言って、アメリカから見ると、日本と台湾は、もうどこも違わ
ない。いや、反対に、成田空港におり、東京駅まであの電車に乗ると、そのあまりの落差に、
がくぜんとする。狭い土地に、家々が雑然と並び、その家々をおおうかのように、電線が、クモ
の巣のように張りめぐらされている。

 ……と、書いて、少し話をもどす。「何だ、これは!」と思うのは、私のひがみか。やっかみ
か。それとも嫉妬心か。と、いうのは、アメリカを旅してみるとわかるが、あのアメリカ人が、あ
あした豊かな生活を送れるのは、日本のおかげによるところが、きわめて大きい。たとえばホ
テルに泊まっても、部屋の中には、アメリカ製は、ほとんどない。電話はオランダ製、時計は台
湾製、ラジオは日本製というぐあいである。家具はアメリカ製だが、つくりはどれも荒い。日本
へもってきても、あんな家具、だれも見向きもしないだろう。つまりアメリカがアメリカなのは、軍
事産業と映画産業、それにコンピュータのソフト産業があるからにほかならない。経済構造だ
けをみれば、ブラジルのそれとそれほど、違わない。そのアメリカが、強いドルを維持できるの
は、日本が、せっこらせっこらと、あのドルを買い込んでやっているからだ。もっとわかりやすく
言えば、日本がアメリカにお金を貸しつづけている。もし日本が、アメリカのドルを買い支えな
ければ、アメリカのドルは、そのまま大暴落。ああした豊かな生活を送れるわけがない。

 私は、私たちを案内してくれた、日系人のYさん(四〇歳)に、こう言った。「日本は毎年、何十
兆円というドルを、買いつづけている。その一部でも、返してくれたら、日本の経済も少しはよく
なるのに」と。するとYさんはこう言った。「それは無理でしょうね。前のH政権では、H首相がそ
れを口にしたから、クビが飛んでしまったのよ」と。日本は返してもらうアテのないお金を、アメ
リカに貸しつづけるしかないようだ。

 何度目かに私が、フーとため息をもらしたときのことだ。私は、貧しい国の人たちの心情が、
理解できたような気がした。日本人の私ですら、それだけのショックを受けるのだから、さらに
貧しい国からの人は、もっと大きなショックを受けるに違いない。が、ショックはショックだけで
は、終わらない。それは大きな矛盾となって、その人の心をふさぐ。〇一年で、二度目にアメリ
カを訪れたときには、ブッシュ大統領が、「ここ数日中に、第二のテロがあるかもしれない」と警
告した、その日だった。もちろん私はテロリストの肩をもつつもりはない。ないが、しかし彼らも
また、こうした矛盾を感じていたかもしれない。いくら豊かな国といっても、落差があまりにも大
き過ぎる。またそれから感ずる不公平感は、相当なものだ。

 さて、日本はどうか。今、日本と北朝鮮の関係は、極度に緊張している。それはそれとして、
そういう北朝鮮を日本から見ると、あまりの貧しさに、言葉を失う。しかしそれは同時に、彼ら
からすれば、日本のこの豊かさは、矛盾となって映ることを意味する。私たち日本人は、「北朝
鮮に敵意はない」と言うのは勝手だが、彼らはそうは思わない。……思っていない。私たち日
本人は、過去の歴史の中で、他民族に隷属したことがない。それ自体は、たいへんハッピーな
ことなのだが、それゆえに、隷属させられた人たちの心情を理解できない。もっとわかりやすく
言えば、弱者の立場、弱者の心がわからない。これは、日本民族にとっては、たいへん不幸な
ことでもある。
 
 もちろん今の北朝鮮を支持する気持ちは、みじんもない。もうあの金正日体制は、崩壊すべ
きだと考える。またこれ以上、存続させてはいけない。しかしそれと同時に、日本人も、もうそろ
そろ覇者(はしゃ)の論理を捨て、謙虚な気持ちで、貧しい国々に住む人たちの言葉に耳を傾
けなければならない。で、ないと……。なぜあのアメリカが、こうまで世界中で嫌われているか、
その理由もわからないし、なぜ日本が、こうまでアジアの国々で嫌われているか、その理由も
わからないだろう。つぎの世代の日本人にとっても、これほど、不幸なことはない。
(02−12−6)

●他人の所有する幸福を悔やむ心で、われわれの心を、はなはだむしばむ。それは他人の幸
福を裏返して、われわれの不幸とする。(シャロン「知恵論」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(384)

もの考えぬ民たち

 戦後教育の中で、最大の失敗は、政治的無関心を、国是(こくぜ)としたこと。それはまさに
官僚政治が行き着く、最終目標と言ってもよい。戦前の「もの言わぬ民」づくりが、戦後は、「も
の考えぬ民」づくりに変わった。その結果、子どもたちは、そして若い世代は、政治についての
議論をやめてしまった。役人にとっては、きわめて住み心地のよい国になったが、そのため日
本は自ら、自分の流れを修正する手段をなくなってしまった。

 見ろ、あの第二東名高速道路の愚かな工事を! 国家税収が、四〇数兆円にまで低下した
今、一一兆円もかけて第二東名高速道路を作る必要が、どこにあるのか。現在の東名高速道
路でさえ、利用者数は頭打ち。これから先、減少すると言われている。が、どこもかしこも、ギリ
シャ神殿を思わせるような、巨大な橋脚ばかり。その豪華さには、ただただ唖然(あぜん)とす
るのみ。行政責任者は、ことあるごとに「道路は必要」と言う。が、だれが必要としているの
か? 道路「工事」を必要としている人は、いるかもしれない。が、だれが道路を必要としている
のか。私か? ノー。あなたか? ノー。

 そしてたまりにたまった借金が、もうすぐ一〇〇〇兆円。だれがその借金を返すのか。どうや
って返すのか。そりゃあ、ないよりは、あったほうがよい。しかしそんな論理で、湯水のごとく、
お金を使っていたら、この日本は、どうなる? 道路ばかり作りたがる議員たちよ、議員バッジ
を捨てて、野にくだれ! 野にくだって、自分に恥じろ! お前たちのような愚か者が、この日
本をダメにしている! どうしてそれがわからぬ、この愚か者どもよ!

 しかしキバを抜かれた庶民は、悲しいかな、ただそれを見て見ぬフリをするだけ。何も考えら
れない。何もできない。反対デモすら、考えない。できない。しかしこの日本が、そして日本人が
こうなったのは、結局は、教育の責任。ウソだと思うなら、高校生に、こう話しかけてみればよ
い。「公共事業をどう思う?」「北朝鮮が攻めてきたらどうする?」「日本はこれからどうあるべき
だと思う?」と。だれも、「ダサ〜イ!」と逃げてしまう。まじめに考える子どもなど、まず、いな
い。大学生とて、例外ではない。大学祭などで呼ばれる講師を見れば、それがわかる。たいて
いはアホみたいなテレビタレントをつかまえきては、キャーキャーと騒いでいる。

 さあ、私たちは、もっと考えよう! 考えて、自分の道を生きよう! 私たちのすばらしき人生
を、まっとうするために!
(02−12−7)

●人は思考することにより、隷属から自由へと、自らを解放する。(エマーソン「人生の行動」)
●思考は、行動するための種子である。(エマーソン「社会と孤独」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(385)

年賀状

 またまた年賀状の季節になった。昨日、ワイフが、○百枚の年賀状を買ってきた。昨年か
ら、約半分程度に減らしたが、それでもかなりの出費である。で、今年はさらに○百枚、減らし
た。

 数年前まで、私は「年賀状は出さねばならないもの」と思っていた。かなりカルト的で、そうい
う自分を疑ったこともなかった。習慣といえば、習慣のようになっていた? しかしあるとき、ふ
と振りかえったとき、私はその習慣は、国策として作られた習慣ではないかと思った。もちろん
郵政省のふところを肥やすための、である。こういう例は、多い。たとえばあのタバコにしても、
明治時代、税収をふやすため、国策として、吸うのを奨励された時期がある。

 遠い記憶なので、はっきりしないが、私が小学生のころ、年賀状を出す運動なるものが、学
校でもなされたような気がする。何かしら、年賀状はとても大切なもので、それを出すことによ
って、人間関係が深まるというようなことを教えられたような気がする。私が小学三、四年生の
ころではなかったか。だから年賀状の書き方だけではなく、年賀状用の版画も、図工の時間な
どに彫った覚えがある。つまり教育全体が、恐らく郵政省の音頭とりか何かがあって、年賀状
に向いていたような気がする。

 結果、今の私がもつような意識がつくられた。いや、その意識を思い知らされたのは、オース
トラリアへ留学生として渡ったときだ。向こうには(当然だが……)、年賀状はない。それを知っ
たとき、「どうしてこの国では年賀状を出さないのか? おかしな国だ」と思った。そしてつづい
て、何かしら大切なものが、欠けているように感じた。そういう意味では、意識というのは、相対
的なものだ。自分とは違った意識をもった人間にふれてはじめて、自分の意識がわかる。その
「形」がわかる。

 もっとも、西欧には、年賀状にかわって、クリスマスカードというのがある。しかしクリスマスカ
ードは、値段も高いし、そのため、数も少ない。家族とか、本当に親しい人たちの間だけで交換
されている。もともと自分たちの宗教を祝うというものであって、年賀状とは少し、意味が違う。

 で、改めて私は考えてみる。そして自分の意識を疑ってみる。その第一。印刷された文面で、
大量発行される年賀状に、どれほどの意味があるのか、と。あるいはひょっとしたら、意味が
あると思い込まされているだけではないのか、と。そういう意味でも、意識というのは、こわい。
一度作られると、それを変えるのは、容易ではない。日々の生活に流されるままになると、そ
れを疑うこともしない。繰り返すことで、考えることすらやめてしまう。

 年賀状は、日本の習慣という人がいる。本当に、そうか?
 年賀状を出して、たがいの消息を確認する。それはすばらしいことだと言う人がいる。本当
に、そうか?
 年賀状によって、年度のけじめができる。そういうけじめをつけることは、大切だという言う人
がいる。本当に、そうか?

 私は若いころは、毎年、受け取る年賀状が、どんどんとふえていったのを見て、それをうれし
く思ったことがある。年賀状には特別の意味があった。しかしこのところ、そういう虚礼(=あま
り意味のない交換)に、どこか虚しさを覚えるようになった。去る人は去る。遠ざかる人は遠ざ
かる。かく言う私ですら、残りの人生は短い。この社会そのものから遠ざかりつつある。「自分
が他人にどう思われようがかまわない」という思いが、「他人が自分をどう思おうがかまわない」
という思いに、微妙に変わってきた。つまり年賀状を出し、それで親交が深まったところで、そ
れがどうなのか、と。反対に出さないことで、親交が切れたとしても、それがどうなのか、と。

 もちろん年賀状にも、いろいろな意味がある。旧年中に、お世話になった人に礼状として書く
年賀状もある。利害関係にあって、その利益をねらって書く年賀状もある。相手をねぎらった
り、励ましたりして書く年賀状もある。消息をたずねあう年賀状もある。自動車会社のセールス
のように、宣伝をねらった年賀状もある。内容も、目的もさまざまだから、一概には言えない
が、しかし同時に、今度は、出費ということも考えなければならない。ハガキは一枚、五〇円。
二〇〇枚で一万円になる。一〇〇〇枚で、五万円! 五万円を安いと言う人もいるが、私には
そうでない。家計の中に占める通信費ということになったら、この数年、インターネットの費用も
重なって、急速にふえている。

 こうして考えていくと、やはり今年も、年賀状は減らさなければならないということになる。心の
どこかでさみしい気もするし、今まで交換してきた人には、申し訳ない気もする。しかしこれも時
代の流れ? が、その分、作業が減ったわけではない。マガジンの読者の方には、全員、電子
年賀状を出すつもり。サイトの年賀状コーナーは、思いっきり、楽しくするつもり。方向性が少し
変わっただけと考えてほしい。

 そんなわけで、みなさん、少し、早いですが、よい新年をお迎えください。
(02−12−7)

●日の下には、新しき者あらざるなり。見よ、これは新しきものなりと、指して言うべきものある
や。それは我らの前(さき)にありし、世々にすでに久しくありたる者なり。(旧約聖書・伝道之書
(一章九〜一〇節))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(387)

不安なときを生きる、あなたへ

 右を見ても、左を見ても、暗い話ばかり……。これでは気が滅入る。体がいくつあっても、足
りない。こういう不安な時代を、どう生きるか。どうやって生きたらよいのか。

 私のばあい、ふとしたきっかけで、心が緊張状態になる。たいていは、……というより、ほとん
どが、人間関係がこじれたときに、そうなる。仕事や健康の問題もあるが、それは自分なりにう
まくコントロールしている。問題は、やはり人間関係だ。

 ときどき、人と会うのさえ、わずらわしくなる。逃げたくなる。だからといって、ひとりでいれば、
それでなおるということでもないようだ。一度、そういう緊張状態になると、テレビでニュースを
見ただけで、言いようのない不安に襲われたりする。戦争、暴力、事件、事故など。ふだんは
客観的に見ることができるが、そういうときは、思わず目を伏せてしまう。

 いや、仕事や健康も、やはり大きな問題だ。よくこれから私の仕事はどうなるのだろうと考え
る。私とて、不況の嵐をモロに受けている。このところ、本など、まったくと言ってよいほど、売
れない。出版社からの原稿依頼も、まったくない。都市部でみなが仕事を奪いあっているような
状態で、地方のこの町まで、仕事が回ってこない。

 健康にしても、五五歳というのは、本当に不安な年齢だ。ときどき、今までに経験したことが
ない痛みや不調を感じたりすることがある。そういうとき、「もしや……」と思ってしまう。おととい
も、歩いていたら、足の関節に激痛が走った。幸い、しばらく歩くと痛みはおさまったが、そのと
きも、「もしや……」と思ってしまった。

 こうなると、家族のありがたみが、身にしみてわかる。小さくて、ボロボロの家だが、もし私に
この家がなく、また心を休めたり、癒すことができる家庭がなければ、今の私は、とても外で、
仕事などできないだろう。ときどき自転車で家に向かって帰ってくるとき、あと一〇分、あと五分
……と思って、ペダルをこぐときがある。「あと五分で、楽になれる」と。

 そんな私だから、スーパーなどで人が歩いているのを見ると、「みんな、よくがんばって生きて
いるなあ」と思ってしまう。あるいは「みんな、どうやって生きているのだろう」と思うこともある。
「どうして私だけが……」と思うこともあるし、「私だけではないのだ……」と思うこともある。そし
てそういう自分を振りかえりながら、「私も、よくがんばっているなあ」と思うこともある。

 しかし、不安が悪いばかりではない。人は、病気になって、はじめて健康のありがたみがわ
かるように、不安になって、はじめて、「生きる」ということがどういうことかわかる。ともすれば
傲慢(ごうまん)になりがちな自分を、その不安が、いましめてくれることもある。それにそういう
ときほど、人の心の温もりがわかる。だれが本当の友で、だれがそうでないかもわかる。さらに
何が大切で、何が大切でないかも、わかる。

 だから……。ここで言えることは、ただひとつ。不安なのは、私だけではないということ。あな
ただけでもない。ひょっとしたら、みんな、不安。だから大切なことは、私も、あなたも、そしてみ
んなも、この不安に負けてはダメということ。歯をくいしばって、そして足でふんばって、生きて
いくしかないということ。そしてもしできれば、みながみなを、励まし、助けあうということ。いやい
や、本当のところ、励ましてほしいのは、この私かもしれない。助けてほしいのは、この私かも
しれない。こうして偉そうなこと書いてはいるが、本当のところ、私とて、どうしたらよいのか、わ
からないでいる。

 ……あとは、静かに目を閉じて、眠るだけ。夫に抱かれ、妻を抱いて、静かに眠るだけ。子ど
ものやさしい寝息を聞きながら、眠るだけ。それでよい。朝、目をさませば、新しい一日が待っ
ている。穏やかで、心静かな朝が待っている。それを信じて、静かに目を閉じて、眠るだけ。
(02−12−7)※

●闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有難さが分かるん
だ。世の中は幸福ばかりで満ちてゐるものではないんだ。不幸といふものが片方にあるから、
幸福つてものがある。(小林多喜二「書簡集」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(382)

希望

 今回は、暗い話ばかり書いた。だから自分でもどんどん気がめいっていくのがわかる。このと
ころ、よい話は、あまりない。それはそうだが、つまりこういうことばかり書いていると、読者も、
嫌気(いやけ)がさしてくるだろう。そこで明るい話……。

(経済問題)
 日本はたしかに多額の借金をかかえているが、貿易は、いまだに黒字。健在。この黒字がつ
づくかぎり、日本の経済は、簡単には沈没しない。それに儲けたお金は、アメリカやアジアの
国々に貸している。わかりやすく言えば、日本は巨大なサラ金の役割をしている。あるいは高
利貸し? この立場が維持されるかぎり、日本の立場は安泰。サラ金のおやじが、それほど働
かなくても食べていかれるように、日本人もまた、それほど働かなくても、食べていかれる。

(国際問題)
 北朝鮮が、大きな問題になっているが、軍事的には、問題はない。日本やアメリカのもつ、近
代兵器の前では、北朝鮮は手も足も出せないはず。たとえば空軍力にしても、日本の戦闘機
一機で、北朝鮮の戦闘機六〇機を相手にする能力をもっている。実際には、レーダーとミサイ
ルの性能で、戦闘能力が決まる。北朝鮮の戦闘機は、離陸した直後から、日本のレーダーに
捕捉(ほそく)される。つまり北朝鮮に勝ち目はない。海軍力も同じ。また北朝鮮は、一〇〇万
人以上の兵力をもっているが、間には日本海がある。この海を渡ることは、簡単にはできな
い。北朝鮮の核問題については、国際世論がだまっていない。それを動かせば、解決できる。

(教育問題)
 いろいろ問題はあるが、日本の教育は、善良な市民を育てるには、きわめて効率よく機能し
ている。また実際にその効果をあげている。独創的で個性のある人間を生み出すことができな
いという欠点はあるが、同時に、日本の教育システムの中では、めちゃめちゃ悪い人間も生ま
れない。よりよい教育を求めなければ、これといって大きな問題もない。現状維持でも、そこそ
こに、すぐれた教育は可能だし、そういうシステムはもう、完成している。ものごとは悪い方ば
かりに考えてはいけない。

(社会問題)
 日本の民主主義は、アジアの中では、最高レベルにある。私のように、これだけこっぴどく政
府や、教育機関を批判しても、逮捕されることもない。いやがらせを受けることもない。一応の
言論の自由も保証されているようだ。「一応」というのは、ある特殊な団体を批判すると、そうは
いかないということ。それはあるが、一庶民として、平凡に暮すには、問題はないはず。また安
全性も高い。子どもの誘拐(ゆうかい)も少ない。凶悪な犯罪も少ない。何といっても、銃がない
社会というのは、すばらしい。

(日本の未来)
 日本と中国の立場は、二〇一五年ごろ逆転する。それはしかたないとしても、だからといっ
て、日本人の生活レベルがさがるわけではない。何といっても、中国の人口一二億。日本の約
九倍。相手は「数」で勝負してくる。勝ち目はない。ないが、それ以上、日本が追い越されること
はない。これは(追いつかれる立場の日本)と、(追い越そうとする中国との立場)の違いと言っ
てもよい。中国はかぎりなく日本に追いついてくるが、日本を追い越すことはできない。わかり
やすく言えば、現在の日本が、中国の未来と考えてよい。

 私の恩師はいつも私にこう言う。「日本はいい国でしょ。林君は、何が不満なのですか?」と。
私は何も、不満に思っているわけではない。何とか、もっとよくしたいと思っているだけ。評論活
動をしていると、不満だらけの人間によく誤解されるが、本当の私はもっと楽天的。もっと楽し
い人間。ときどきどうすれば、それが、みなにわかってもらえるかを考えることがある。

 メリークリスマス!
(02−12−6)

●望みが少なければ少ないほど、平和が多くもたらされる。(トーマス・ウィルソン「敬虔とキリス
ト教精神」)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-15-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 537人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  55人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−15号(154)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「善」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

(1)心配(1492−94)

Q 近所で大きな交通事故がありました。そのため一人の子どもが死にました。あなたの子ど
もと同年齢です。その話を聞いて……

(1)言いようのない不安にかられ、子どものことが心配になる。子どもの外出を禁止する。
(2)他人の話は他人の話として処理できる。一応心配はするが、その範囲でとどめる。
(3)心配が高じて、不安発作、さらには妄想にかられ、夜も眠られなくなることがある。

+++++++++++++++++++++

A こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人の
話として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなくてよかった」
と思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。そしてその心配を、か
ぎりなく広げていく。「歩道といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだから心配
だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」など。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていないかを反省
する。こうした心配は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのものをゆがめることが
ある。ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘
れた。そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多くあ
たると、おとなになってから皮膚ガンになるから」と。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパターンで
現れるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれに気づき、そこ
でブレーキをかけるようにする。(正解(2))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(2)過去

Q 子どもが受験期を迎えたとき、あなたは言いようのない不安にかられました。その不安に
ついて、あなたは……

(1)子どもの受験のことで親が不安になるのは、ごく自然なこと。どの親もそうだ。
(2)子どもが選別されるというのは、親にしてみれば身を切られるほど、つらいこと。
(3)自分の中に自分を不安にさせる、もっと別の、大きな原因があるように思う。

++++++++++++++++++++

A 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまで
はそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安に
襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。受験にま
つわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子
どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてはいけない。このタ
イプの親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装
置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それ
だけではない。こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。青少年白書によれば、
「父親を尊敬していない」と答えた中高校生は、五五%もいる。「父親のようになりたくない」と答
えた中高校生は、八〇%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてれ
ばたてるほど、子どもの心は親から離れる。

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、
その過去に振り回される。そこで、まず自分の過去に気づく。それで問題は解決する。受験時
代にいやな思いをした人ほど、一度自分を冷静に見つめてみるとよい。(正解(3))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(3)夫婦

Q 今日も、夫(妻)は、仲間たちと、ゴルフ(コンサート))にでかけました。そういう夫(妻)を玄
関先で見送りながら、あなたは……

(1)それぞれが自分の世界をもち、楽しむことは、大切なことだ。いつもそうしている。
(2)夫婦が休日を別々に過ごすということは、本来、あってはならないことと思う。
(3)アメリカでは離婚率が三〇%を超えているという。日本型夫婦のほうがよい。

+++++++++++++++++++++++

A 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。

 またよく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、欧米型の
家族主義を主張するが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」と。

 これについて反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家
族がしっかりしていることにもならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女性が
がまんしているからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想もまだ
残っている。たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものな
ら、それだけで即、離婚事由になる。実際にはそういう会話をする夫はいない。

 日本では何かにつけて、仕事が優先され、そのため家族が犠牲になってきた。夫婦が別々
の生活をするという、「いびつな家庭」をつくりながら、それがいびつだとさえ思わない。そこまで
日本の社会は狂っている……、とみるべきではないのか。(正解(2))

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(一休み)
●兄弟、皆、同じ名前
 そのうちには三人の、息子がいた。長男がジョン、二男もジョン、三男もジョン。そこで母親
に、「皆、同じ名前だと困るでしょう?」と聞くと、その母親は、こう言った。「いいえ、便利です
よ。たとえば、ね、『ジョン、荷物を運んでちょうだい』と言えば、三人がみな、いっしょに助けてく
れます」と。そこでさらに、「では、三人を別々に呼ぶときはどうするのですか」と聞くと、母親は
こう言った。「そういうときは、ラーストネームで呼びます。長男はジョン・ベア、二男はジョン・キ
シア、三男はジョン・ケンプです。だから、それぞれ『ベア』『キシア』『ケンプ』と呼びます。みんな
父親が違うのですよ、ははは」と。

【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(383)

アメリカの教育省(The United States Department of Education )

 一九八六年、アメリカの教育省は、当時のレーガン大統領に対して、「学習とは何か、教える
ことと学ぶことについて」(What works: Research about Teaching and Learning)というタイトル
の報告書を提出した。その報告書は、家庭教育の重要性を説いたものだが、その内容はつぎ
のようになっている。

「子どもの教育においては、両親の役割がもっとも重要である。

(1)両親が子どもに対して、読み、話し、聞き、物語を読んで聞かせ、ゲームをし、趣味を共有
し、テレビの番組などについて、議論をするという姿勢をもっているとき、子どもは、よりよく、話
し、読み、理由づけをし、ものごとを理解する。

(2)食事、就眠時刻、宿題など家で規則正しくしている子どもは、学校での日課をよりたやすく
こなす。

(3)家庭で、両親が、子どもと学校でのできごとを話しあい、(課題の)締め切りに対して、計画
をたててあげたり、用意をしてあげると、子どもは、学校での勉強に、興味を示すようになる。

(4)両親は、子どもの問題や、子どもがうまくできたこと、友だち、あるいはその日に子どもた
ちがしたことについて、子どもたちと話すのがよい。そして日々の問題をどう処理するかを、子
どもに教えることは、両親の重要な役目である。

 アメリカやオーストラリアへ行ってみると、家庭教育と学校教育の比重が、少なくとも半々くら
いになっているのがわかる。本屋さんへ行っても、ほぼ同じくらいの割合で、それぞれの本が
並んでいる。(これに対して、日本では、学校教育の本は多いが、家庭教育の本は、それにくら
べて、はるかに少ない。)こんなところにも、教育に対する考え方の違いがあらわれている」(同
報告書)。

 アメリカでは、家庭教育が主で、学校教育が従になっている。親たちが先生を雇って開く、チ
ャータースクールなどもある。親の権限が、日本では考えられないほど、強い。学校によって
は、PTAが教師の任命権はもちろん、罷免(ひめん)権すらもっている。一方、日本では、学校
万能主義のもと、家庭教育すら学校が指導するようになっている。どちらがよいとか悪いとか
いうことではない。日本では、子どもは国の財産とする考え方が、伝統的に強い。だから子ども
たちをできるだけ学校に拘束し、国にとって、つごうのよい子どもをつくろうとする。そしてその
分、家庭での教育が、どうしても軽んじられる。こうした流れの中で、親は親で、何か子どもに
問題が起きると、すぐ「学校で……」と考える。日本の教育が、依存型教育であると言われる理
由は、こんなところにもある。
(02−12−6)

●王様であろうと、百姓であろうと、自分の家庭で幸福を見出すものが、いちばん幸福な人間
である。(ゲーテ「格言と反省」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(386)

善人論

 かつてフロイトは、第一次世界大戦をかいま見て、人間の中に潜む、根源的な邪悪さに気が
ついた。そしてこう結論づける。「何も急に、人間が堕落したわけではない。なぜなら人間は、も
ともとわれわれが信じていたほど、立派だったわけではないから」(「戦争と死に関する時評」)
と。そしてその攻撃の矛先を、「国家」に向ける。「国家悪」という言葉も、ここから生まれた。こ
の考えをおし進めると、要するに、人間は生まれながらにして、すべて偽善者であるということ
になる。……しかしこの考え方は、私の考え方と、まっこうから対立する。

 そのときフロイトが、「集団心理」というものを知っていてかどうかは知らない。個人、個人で
は働かない心理が、集団になると働きはじめる。それを集団心理という。その集団心理の中で
は、個人で働く心理が、集団の中では働かないことがある。反対に集団の中でそうであるから
といって、個人もそうであると決めてかかることはできない。個人が個人でいるときの心理と、
集団の中にいるときの個人の心理は、分けて考えるべきである。

 そこで改めて考える。「善人とは何か」と。

 よいことをするから善人というわけではない。善人ぶること、あるいは善なる行為をすること
は、それほどむずかしいことではない。また悪いことをしなければ、善人というわけでもない。
小さい世界に閉じこもって、小さく生きようと思えば、いくらでも生きられる。しかしそういう人を
善人とは言わない。善人が善人であるためには、自分の中の邪悪さと戦わねばならない。戦っ
てはじめて、人は、善人になる。が、それがむずかしい。

 その理由。善なる行為をするときは、そこに人の目がある。目がないときもあるが、たいてい
は人の目の前でも、それができる。しかし悪なる行為をするときは、ふつう、人の目の前ではし
ない。だからたいていの人は、つまりそれを隠そうとする気力のある人は、その悪を、人の見
ていないところでする。その人の見ていないところで、自分の悪と戦うのは、むずかしい。もう少
しわかりやすい例で考えてみよう。

 今、あなたはガムをかんでいる。もう長い間かんでいるから、味はない。通りは暗い。近くに
はだれもいない。で、あなたはそのガムを捨てようと考える。そのときだ。あなたはそのガムを
どうするだろうか。通りへ捨てるだろうか。あるいは紙に包んで、ポケットやバッグにしまうだろ
うか。人前では、紙に包んでゴミ箱へ捨てる人でも、そういうとき、ふと迷いが生ずるかもしれな
い。そのまま道路脇へ、プッとはき捨てれば、それで悩みから解放される。

 こういうとき、自分の中の邪悪さと戦うのは、簡単なことではない。「そんなことで?」と思う人
も多いと思う。が、しかし、人間の行動というのは、一事が万事。ささいな行動が無数に積み重
なって、その人の生活となり、その生活がこれまた積み重なって、その人の人格となる。「ゴミ
を捨てない」「ツバをはかない」「ルールを守る」「ウソをつかない」「人をキズつけない」など、そ
ういうささいな行動が積み重なって、人格となる。言いかえると、いかにして、自分の中の邪悪
さ、それがいかに小さいものであれ、また人が見ていると、見ていないとにかかわらず、その邪
悪さと戦うかで、その人の人格が決まる。

 そういう意味では、自分の中の邪悪さと戦うのは、一見、簡単なようで簡単ではない。簡単で
はないが、しかし見方を変えれば、善人になるのは、今度は一転、簡単なことということにな
る。ごく日常的なできごとの中で、ごく当たり前の常識を守り、それに従えば、善人になれる。そ
れでよいということになる。

 ここでひとつ問題となるのが、「気力」の問題である。この気力がある間は、人はいつも、自
分を善人に見せようとする。あるいは自分の中の邪悪な部分を、隠そうとする。しかし年齢とと
もに、この気力は、弱まってくる。そうなると、その人の人間性が、モロに、外に出てくる。つまり
ごまかしがきかなくなる。それまではそうでなくても、ある年齢を境に、邪悪な部分が、どっと出
てくる人がいるのは、そのためである。Yさん(七〇歳女性)がそうだ。

 それまでは近所でも、「仏様」とあだ名されるほど、穏やかな人だった。しかし六〇歳を過ぎる
ころから、様子が変わってきた。平気で近所の家から、花や木を抜いてもってきてしまう。ゴミ
は、家の横を流れる小川に捨てる。自治会の費用をごまかす、など。実にそういったことを、こ
まめにするようになった。そこでその息子(私の友人、四五歳)に聞くと、こう話してくれた。「母
は、昔からああでしたが、人前ではしなかっただけです。今は、平気でするようになってしまい
ました」と。

 そこで冒頭の話。個人が複数、集まって、集団となったとき、こうした個人のルールが、ことご
とく応用できなくなってしまう。仮に一〇人の集団があって、九人までが、平気でゴミを道路へ
捨てたとする。そういうとき、一人だけ、それと違った行動をすることは、かえって許されなくな
い。そういう意味では、集団心理というのは、集団へ帰属したいという、帰属心理のことである
と言ってもよい。個人の善をつらぬくよりも、集団の中での居心地のよさを優先させる。さらに
戦争という極限状態の中では、人間の心理そのものが、狂気化する。フロイトも、「戦争をおし
進める国家は、個人であったら汚名を浴びせかけられるようなあらゆる悪徳、あらゆる暴力
を、敵に対しては、ほしいままにすることを、なぜ許されるのか」と述べた上で、「国民を(み
な)、ある種の禁治産者にしてしまう」(同書)と書いている。もっとわかりやすくいうと、集団の中
では、個人のもつ善悪論は、もはや通用しない。

 その集団心理がどういうものかは、もう少し勉強してみたい。これから先、時間をかけて考え
てみたい。近く、何らかの形で、読者のみなさんに報告できると思う。ただここで言えることは、
フロイトは、「われわれが信じていたほど、立派だったわけではないから」と言ったが、それは
正しくないということ。人間は、生まれながらにして、善なる存在である。私たちが数十万年とい
う進化の過程を経て、今、ここに存在するということが、善なる存在であるという、動かぬ証拠
である。日本でも、沢庵(たくあん)宗彭(一五七三〜一六四五、江戸初期の禅僧)も、「万物皆
純善にして悪なきなり」(「玲瓏日記」)という有名な言葉を残している。

もし生まれながらにして悪なら、人間は、その進化の過程で、恐らくアメーバになる前に絶滅し
ていたはずである。ウソだと思うなら、幼児を見ればよい。中にときどき、心のゆがんだ子ども
もいるが、その子どもにしても、生まれながらにそうであるというよりも、生まれたあとの環境で
そうなったと考えるのが正しい。子どもは、そして人間は、あるべき環境の中で、あるがままに
育てられれば、善なる人間になる。私は、子どもたちの、あの、澄んだ、明るい笑顔を見るたび
に、それを確信する。

 さあ、そこであなたも、勇気を出して、善人をめざそう。今からでも間にあう。善人になって、
生きることのすがすがしさを、みんなで楽しもう。ゴミを捨てたいときもあるだろう。ウソをつきた
いときもあるだろう。ズルイことをいたいときもあるだろう。そういうとき、ふと立ち止まって、そ
れにブレーキをかけてみよう。たったそれだけのことだが、あなたはあなたの心の中を、軽い
風が吹き抜けるのを感ずるはず。なぜなら、私たちは、もともと善人だからである。
(02−12−7)

●愛して、その悪を知り、憎みて、その善を知る。(「礼記」)

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださいそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(379)

戦後最大の日本の危機

 仮に北朝鮮が、核兵器を、東京湾で爆発させたら……。決してありえない話ではない。〇二
年一〇月三日、アメリカのケリー国務次官補との米朝協議の席上、北朝鮮の代表(姜錫柱第
一外務次官)は、ケリー国務次官補に、「核は日本だけを対象にしたものだ」と明言している。

 北朝鮮が、韓国に対して核を使うことはありえない。たがいに同胞意識がある。またアメリカ
に使うこともありえない。そんなことをすれば、北朝鮮は、一夜にして、吹っ飛んでしまう。今、
崩壊か、戦争かの瀬戸際に立たされた北朝鮮が、ゆいいつ、生き残り作戦としてとるべき道が
あるとするなら、対日本への宣戦布告でしかない。そしてその中でも、もっともありえる方法
が、東京への核攻撃である。

 「どうして、北朝鮮が日本に?」と顔をかしげる日本人も多いと思う。少し前だが、市内の図書
館で、女子高校生たちにその話をすると、一人の高校生は、こう言った。「何でエ〜。私らア、
ナンモ、悪いことしてないのにねエ〜」と。私が「北朝鮮が日本へ攻めてきたらどうする?」と聞
いたときのことだ。平和ボケというよりは、日本人のこの国際感覚のなさは、一体、どこからくる
のか。

今の状況から考えて、この核攻撃は、きわめてありえる。日本人の多くは、「アメリカがバック
にいるから、だいじょうぶ」と言っている。が、日本が核攻撃されても、アメリカは動かない。動
けない。理由はいくつかある。その一つは、朝鮮半島を戦場にしたくないという思いが、韓国の
みならず、アメリカにも、抑止力となって働くからである。韓国には四万人(三万七〇〇〇人)弱
のアメリカ兵がいる。そういうアメリカ兵を核攻撃の危険にさらすことはできない。韓国に駐留し
ているアメリカ兵は、一方で、アメリカにとっては人質、そのもの。九四年、ペリー長官も、「(北
朝鮮と戦争すれば)、アメリカンボーイズ(駐留アメリカ兵)が、殺されてしまう」と、北朝鮮との
戦争にクギをさしている。もちろん韓国は、日本のためには、絶対に戦争などしない。するわけ
がない。

 では、中国やロシアはどうだろうか。北朝鮮を、一応の非難はするだろうが、「日本のために
動く……」ということはありえない。現に今、中国人の六四%近くは、「日本はまだ戦争責任を
果たしていない」※と考えている。いや、それ以上に、朝鮮半島が、戦場になることを、彼らもま
た恐れている。

 で、そのとき、日本は、つまり北朝鮮に核攻撃をされた段階で、終焉(しゅうえん)を迎える。
同時に、日本各地で、北朝鮮の工作員によって、生物兵器、化学兵器が使われるだろう。経
済はマヒ、通信、交通もマヒする。ヘタをすれば、自衛隊も機能しなくなってしまう。人々は、先
を争って逃げ惑い、わずかな食料を奪いあって、壮絶な争いをする。円の価値は急落し、一
方、ハイパーインフレが日本を襲う。それを短期間で繰りかえしながら、日本という国は、やが
て破滅状態に追いこまれる。

 こう考えていくと、私たちが今、感じている平和や繁栄は、いったい、何であったのかというこ
とになる。あるいは戦後の日本は、いったい、何であったのかということになる。日本の平和や
繁栄は、決して磐石(ばんじゃく)なものではない。きわめて薄い氷の上に成りたっている。ただ
残念なのは、戦後五七年近くにもなった今でも、あの戦争を美化している人があとを絶たない
ということ。先週も、Y新聞にこんな投書が載っていた。四〇歳の女性のものだが、いわく、「特
攻隊員たちの、美しさに私は心をひかれます。国のために命を落としていった、若者が、この
日本にもいたことを忘れてはなりません」と。

 もしこの論理がまかりとおるなら、自爆テロを繰り返すパレスチナ人は、何かということにな
る。ニューヨークの貿易センタービルを破壊したアルカイダは、何かということになる。さらに先
日、日本の船に追いつめられ、自爆した北朝鮮の工作船の乗組員は、何かということになる。
もちろん特攻隊員には、罪はない。責任はない。彼らの心は、心として理解できる。が、同時
に、そういう純真な若者たちを、そこまで追いつめた、その上で指揮をとった戦争責任者の責
任こそ、問われねばならない。その責任を問わずして、特攻隊員たちだけを美化するのは、そ
のために死んでいった若者たち自身にとっても、許されないことである。

 恐らく、北朝鮮が東京を核攻撃するときは、漁船か何かに核兵器を積み込んできて、東京湾
で自爆するという方法をとるだろう。そのとき自爆する北朝鮮の工作員は、北朝鮮の英雄とし
て、以後、たたえられることになる。北朝鮮の人たちが、そういう工作員をたたえるのは、北朝
鮮の勝手だが、そういう国とは、日本は、仲間にはなれない。なれるわけがない。どうして日本
よ、それがわからない? 

そういえば、あのニューヨークの貿易センタービルが、アルカイダのメンバーによって破壊され
たとき、ブッシュ大統領は、イの一番に、「第二のパールハーバーだ」と叫んだ。もしあれが第
二のパールハーバーなら、それを指揮したビンラディーンは、東条英機ということになる。オマ
ル師は、天皇ということになる。が、その日本は、これまたイの一番に、「旗をあげた(ブッシュ
大統領を支持し、報復攻撃に賛成した)」。それが問題というのではない。日本の外交を考えて
いくと、いつもこの種のおめでたさが目につく。今も、そうだ。
 
 私たちはもう平和ボケしているヒマはない。北朝鮮については、本腰を入れて、防衛体制をと
らねばならない。ああいう国だから、刺激するのは、極力ひかえねばならない。が、しかし国
内、あるいは領海内での防衛体制を強化することについては、問題はないはず。私が防衛庁
長官なら、工作船はもちろんのこと、北朝鮮からやってくるすべての漁船、商船をすべてマーク
し、追跡する。東京湾へ入る船は、すべて洋上で臨検する。すでに「第三次朝鮮半島核危機
(The Third Korean Nuclear Crisis)」の幕は、切って落とされた。つまり日本は、今、戦後、最
大の危機を迎えたといってもよい。
(02−12−6)

※……中国の社会科学院日本研究所が日中国交三〇周年記念を機に行った調査(〇二年)
によれば、
      日本への親しみを感ずる ……5・9%
              感じない……43・3%
      日本の国連安保理常任理事国入りに反対……62・3%
      中国侵略を今もきちんと反省していない……63・8%
      靖国神社への参拝について、どんな状況下でもすべきでない……50・9%
      日本へのイメージ    中国を侵略した日本軍……53・5%
                  桜         ……49・6%
                  富士山       ……46・6%
                  ブランド家電    ……35・4%

●箴言(しんげん)……「目には目を、歯には歯を」と言えることあるを、汝(なんじ)ら聞けり。さ
れど我は汝らに告ぐ。悪しき者に逆らうな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けろ。(「新約
聖書」マタイ伝五章三八節〜三九節・イエス)







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-17-2

後半部です。
はやし浩司より、
+++++++++++++++++
子育て随筆byはやし浩司(390)

加工された記憶

 日本では最近、「心的外傷(トラウマ)」という言葉がよく使われる。ここ数年、とくにその傾向
が強い。しかし全体としてみると、アメリカより、約一〇年遅れで、日本もそうなりつつあるよう
に思う。アメリカで、「トラウマ」という言葉が使われるようになったのは、九〇年前後のこと。
で、肝心のそのアメリカでは、あまり「トラウマ」という言葉が聞かれなくなった。つまりつぎのス
テップに入ったとみてよい。

 で、調べてみると、今、アメリカで、よく使われている言葉が、「記憶(memory)」。ただ単なる
「思い出としての記憶」ではなく、個人の中で、さまざまに加工された記憶をいう。再生された記
憶(recovered memory)、まちがった記憶(false memory)、などという言葉を使う。こうした加工
された記憶が、その人(子ども)の心理に、さまざまな影響を与えているというのだ。

 たとえば学校で先生に叱られたとする。そのときそれを見た、ほかの子どもたちが笑ったとす
る。このとき、叱った先生や、笑った子どものほうは、そのままその場で、そのできごとを忘れ
てしまう。しかし笑われたほうは、そうではない。それを不愉快な思い出として、記憶の中にき
ざむ。

 こうして人(子ども)は、ものごとを記憶するとき、そこに、もろもろの自己体験を上乗せする。
この上乗せするとき、その記憶は、変形されたり、ゆがめられることが多い。「A君は笑いなが
ら、ぼくを軽蔑した」「Bさんは、そのあとぼくを無視するようになった」と。これが「まちがった記
憶」ということになる。

 そしてその記憶は、脳のすみに格納される。記憶としては、表に出てくることはない。が、そ
れはまったく別のところで、まったく別の形で出てくることがある。それが「再生された記憶」で
ある。

 S氏(四〇歳)は、息子(小三)とのけんかが絶えなかった。息子は、「パパはすぐ怒る」と言
い、S氏は、「息子は生意気だ」と言う。そこで話をきくと、こうだ。「息子は、私が何かを言うと、
人をバカにしたような目つきで私を見る。あれが許せない」と。そこでいろいろ話を聞くと、その
S氏は、中学時代、仲間から、いじめを受けていたことがわかった。そのいじめグループの中
心にいた男が、その目つきで、S氏を見ていたという。無意識のうちにも、S氏は、息子の目つ
きの中に、中学時代の、その男の目つきを感じていた。つまり、それが再生された記憶であ
る。S氏の中で、無意識のまま、中学時代の不愉快な記憶が、再生されていた。

 「心的外傷」と「記憶」の違いは、必ずしも明確ではない。ただここで言えることは、記憶は、そ
れ自体、問題ではないということ。問題は、その記憶が、そのときどきに、そのときの心理状態
の中で、加工されるということ。加工のし方によっては、キズ、さらにはトラウマにもなりかねな
い。親からみれば何でもない記憶が、子どもにとっては、そうでないということも、起こりえる。
先生からみれば何でもない記憶が、子どもにとっては、そうでないということも、起こりえる。記
憶は、そういう意味で、いつも、加工される。……加工されやすい。

 これから先、この日本でも「記憶(メモリー)」という言葉が、よく使われるようになるだろう。注
意してみていると、おもしろいと思う。
(02−12−8)

●ここでいう「加工された記憶」という言葉を日本で最初に使ったのは、はやし浩司である。ホ
ント!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 
子育て随筆byはやし浩司(391)

笑われしもの

 一人の高校生(男子)が、こう言った。「K国では、手術用のメスも、さびているって!」「手術
台も腐った血だらけ!」と。それを聞いた別の高校生が、「汚ネエ〜」と笑った。

 何でも隣のK国は貧しいため、医療設備も老朽化し、医薬品も不足しているという。麻酔薬も
使わないまま、手術することもあるという。K国から逃げ帰ったドイツ人医師が、そう暴露した。
しかし問題は、そのことではない。

 他人の貧しさを笑ってはいけない。笑うほうは、それほど深く考えないで笑うかもしれないが、
笑われるほうはそうではない。その笑われたことがわかったとき、笑われたほうは、その「笑
い」を、何千倍もの「怒り」に変える。もしK国の人たちが、自分たちの貧しさを、日本の高校生
たちが笑っていると知ったら、K国の人たちは、いったい、それをどう思うだろうか。

 これとよく似た話だが、同じような論理が、(いじめる側)と、(いじめられる側)にも働く。いじ
める側は、おもしろ半分かもしれないが、いじめられる側は、そうではない。ばあいによって
は、いじめられる側は、そのいじめられたことを、一生忘れない。一見、同じような立場に見え
るかもしれないが、強者と弱者とでは、まったく別の論理が働く。

 たしかに今、日本とK国との関係は、たいへん悪い。世界で今、一番戦争に近い関係にある
という人もいる。評論家の加藤英明氏も、「諸君」(03−1号)の中で、「地球上でもっとも危険
な地域といえば、イラクや中東ではない。日本と朝鮮半島だ」と明言している。日本にはその敵
意も意思もないとしても、K国はそうでない。少なくとも、K国の国民は、K国の政府によって、
日本への敵意を、この上なく、かきたてられている。一触即発の状態といってもよい。その理由
の一つに、ここでいう(笑いしもの)と、(笑われしもの)の論理がある。

 仮にK国の人たちが日本へやってきて、この日本の繁栄ぶりを見たら、どう思うだろうか。そ
れを少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。あまり考えない人は、「うらやましがる」とか、「ね
たむ」とか、あるいは「驚く」「感動する」とか言う。しかし本当にそうだろうか。自分の国の人た
ちは、その日、食べるものもなくて苦しんでいる。しかしこの日本では、食べものが、掃いて捨
てるほどある。店という店には、食べ物があふれかえっている。道を歩く子どもですら、見たこ
ともないようなぜいたくな食べ物を口にしている。

 もちろんK国が貧しいのは、K国の為政者の失政によるもの。日本には責任はない。ない
が、しかしそれは日本の論理。日本からみれば、ゆがんでいるにせよ、K国にはK国の論理が
ある。それを忘れると、日本とK国のミゾは大きくなるばかりか、本当に戦争ということにもなり
かねない。

 そこで私たちが今、すべきことは、謙虚になること。K国は今、何からなにまで、おかしな国
だ。狂っている。しかし絶対にそれを笑ってはいけない。またそういう目で、K国を見てはいけな
い。悪いのは、K国の指導者たちであって、K国の人たちではない。いわんや、日本に住んで
いる在日K国人ではない。

 私はその高校生にこう言った。「君たちは、それに対して、K国の人たちに、何かができる
か?」と。すると、また別の高校生がこう言った。「できない」と。だから私はこう言った。「だった
ら、笑うな。むしろ笑われるべきは、君たちのほうだ。他人の不幸を笑う人間こそ、本当に笑わ
れるべきだ」と。

 私の話が通じたかどうかはわからない。高校生たちは、ヘラヘラとした笑いを消さないまま、
自分たちの勉強を始めた。私も黙って、この文を書き始めた。
(02−12−8)

●私は、子どものころ、ボットン便所を使っていた。すべての家がそうだった。だから今、子ども
たちが、たまにボットン便所を見て、キャーキャーと笑うのを見たりすると、何だか、自分の過
去が否定されたかのように感ずる。今の子どもたちは、日本人は、太古の昔から水洗便所を
使っていると思っているらしい。が、今のこの状態をつくるために、つまりボットン便所を水洗便
所に変えるために、戦後の日本人がいかにがんばったことか! それを私は知っているから、
私はもちろん笑わない。笑えない。むしろ、そう言って笑う子どもたちをかわいそうだと思う。は
たして今の子どもたちは、生活のレベルがさがったとき、それに耐える力をもっているだろう
か、と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(392)

母校意識

 オーストラリアの大学には、「同窓会(クラス・リユニオン・パーティ)」なるものはない。何度
か、問いあわせてみたが、ないものはない。そこで今、つきあっている友人(オーストラリア人)
に確かめると、こう教えてくれた。「親しい友だちとは、そのつどつきあうが、そういうものは、オ
ーストラリアにはない」と。

 大学制度の違いもあるが、学生たちの意識そのものが、ちがう。そもそも、彼らには、日本
人的な帰属意識がない。つまり日本でいうところの、「学閥・学歴」意識がない。ただ私のばあ
い、帰国後、それぞれのグループから、寄付金をアテにして、それらしき「会?」から、何度か、
誘いの手紙はきたことがある。が、基本的な部分で、意識がちがう。日本では、昔から、「身元
(みもと)」という言葉を使うが、その身元確認のひとつとして、学歴が利用されている。

 で、私はG県のM高校を卒業した。私がその学校の高校生だったころは、まだ進学率もよく、
それなりの風格(?)を保っていた。G県でも三番目に古い高校ということもあった。しかし今で
は、見る影もない。同窓会のたびに、(もっともこの話とて、一〇年以上も前の話しだが……)、
幹事が「今は、ああいう高校ですが、私たちは誇りをもって……」と、あいさつをしていた。何と
も痛々しい感じすら、した。

 一方、このH市には、静岡県でもナンバーワンと言われている進学校に、S高校がある。この
高校のもつエリート意識には、ものすごいものがある。学校全体はもちろんのこと、それぞれ
の部活動にも、OB会というのがある。その部活動の総会ともなると、OBたちがズラズラと壇
上に並ぶ。そして「私は○○年卒業の、XXです」と、あいさつしたりする。たまたま県下ナンバ
ーワンの進学率を誇っているから、そういうこともできるのだろう。しかし、まあ、何というか、こ
れほどまでに、こっけいで、愚劣な世界を、私はほかに知らない。

 G県のM高校のように落ちぶれても、「今は、ああいう高校ですが……」と言う必要はない。
思う必要もない。一方、H市のS高校のように、県下一の進学率を誇っているからといって、胸
を張る必要はない。はっきり言えば、どちらにせよ、いまどき、母校意識など、バカげている。
封建時代ならまだしも、出身高校や大学で、自分や他人を評価するほうがおかしい。もっと言
えば、江戸時代の身分制度が、学歴制度に置きかわり、江戸時代の身元引き受け制度が、母
校意識に置きかわっただけ。日本人は、江戸時代の昔から、まず身元を確かめ、つづいて地
位や肩書きで、相手を判断する。今に見る母校意識というのは、その流れの中にある。

 だからといって、学生時代つちかった友情を、否定しているのではない。たがいの友情や仲
間意識を確かめるというのは、別の問題である。それは純然たる人間関係で決まる。それが
冒頭にあげた、オーストラリアの友人の言葉である。「親しい友だちとは、そのつどつきあう」
と。

 この母校意識というのは、それ自体が、先にも書いたように、「学閥・学歴」意識の温床にな
っていることを忘れてはならない。学歴社会を裏がえした意識と言ってもよい。そしてそういう意
識が、日本の社会を硬直化させている。そのワクの中にいる人は、その権利と権限を守りあ
い、得をする。しかしその分、そのワクの外にいる人は、損をする。さらにその意識が進むと、
ワクだけで人は判断し、その分、個人という中身を見なくなる。今の日本の社会が、まさにそう
いう社会ということになる。

たとえば今年(〇二年)、田中耕一という人が、一介のサラリーマンでありながら、ノーベル賞を
受賞した。あの田中氏にしても、日本の社会の中では、つねに「番外の世界」を生きてきた人
である。仮に学士院賞か何かの選考委員会が開かれても、候補にあがる前に、番外として、
蹴(け)とばされてされていただろう。こうした例は、この日本には、無数にころがっている。そし
てそれらが幾重にも折り重なって、日本の社会を、息苦しくしている。

 要するに、この問題は、人は、何に自分の心のより所を求めるかという問題に行きつく。人
は、それぞれ、そのより所に身を寄せ、そしてそこに、生きる誇りを見だす。それが家であった
り、財産であったり、名誉や地位であったりする。学歴もそのひとつということになる。しかし生
きる誇りというのは、自分を離れてはありえないし、自分を離れたものは、決して、心のより所
にはならない。自分が頼るべきは、「己(おのれ)」しかない。釈迦も、法句経の中で、こう述べ
ている。『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』と。法句経というのは、釈迦の生誕
地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その
自分をさておいて、誰に頼るべきか」と言っている。

 日本は、近代国家になったとはいうが、その実、古い因習をそのまま引きずっている。ここで
いう母校意識もその一つということになる。それを書きたくて、この問題を考えてみた。
(02−12−9)

+++++++++++++++++

この原稿を書いているとき、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を思い出したので、ここに
転載する。ここでいう母校意識が、子どもの教育そのものをゆがめていることを、忘れてはなら
ない。

+++++++++++++++++

見え、メンツ、世間体

 見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。
裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。ま
ず見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だからどう
してもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親も苦し
むが、それ以上に、子どもも苦しむ。

 つぎにメンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も顔
を出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で送
り迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だっ
たようだ。また駅の近くで、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。が、こうい
う姿勢は子どもの自尊心を傷つける。子どもを卑屈にする。

 最後に世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「どうし
てもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思います
が」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」と。
何とか「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立
場の人間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、無駄。この
タイプの親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中
が自分に注目しているようかのように錯覚している。

 考えてみればドングリの背くらべ。A高校だろうがC高校だろうが、日本というちっぽけな国
の、そのまたちっぽけな町の、序列にすぎない。この地球という惑星にしても、宇宙から見れば
ゴミのような存在ではないか。私の部屋には太陽と地球の模型がかざってある。太陽を直径一
五センチの球にしてみると、地球は、それから約一〇メートルも離れたところにある、直径〇・
五ミリ(一ミリの半分!)の玉にすぎない。にもかかわらずその時期になると、多くの親たちは
子どもの受験戦争に狂奔する。

 しかし一言。学歴にぶらさがって生きている人は、結局はその学歴で苦しむようになる。ある
父親は、ことあるごとに自分の出身高校を自慢していた。「そうそう今度ね、A高校の同窓仲間
と、ゴルフをしましてね」とか。それとなく会話の中に、自分の出身高校名を織り込むわけだ
が、やがて自分の息子(中三)がいよいよ高校受験ということになったときのこと。しかしその子
どもにはその力はなかった。なかったから、その分その親は、見えとメンツの中で、地獄の苦し
みを味わうハメになった。ほとんど毎晩、その父親と息子は、「勉強しろ!」「ウルサイ!」の大
乱闘を繰り返していた。

 この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」とい
う、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうも
ので、一朝一夕には確立できない。

●隣のK国では、出生成分(身分)によって、身分が、何十ランクにも区別されているそうだ。
日本から見ればおかしな制度だが、しかしそれに似たようなことも、日本もしている。学歴制度
もその一つということになるが、「制度」そのものというより、「意識」はまだ根強く残っている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(393)



 今日(〇二年一二月九日)は、朝から雨。東京や横浜では、雪が降ったそうだが、こちらでは
雨。その雨を見ながら、ふと、こんなことを考える。

 昔、オーストラリアの友人のD君は、真冬の寒い朝、それも雨が降っている朝に、テントをもっ
て、キャンプにでかけていった。キャンプというのは、夏休みなど、暑い時期の、それも晴れた
日にするものとばかり思っていた。当時の私の常識からすれば、考えられないことだった。そこ
で「どうして雨の日に行くのか?」と聞くと、「どうしてそれがダメなのか?」と言い返されてしまっ
た。D君に言わせると、「キャンプは、雨の日にかぎる」と。

 日本人は、どういうわけか、ぬれることを嫌う。ほんの少しでも、雨が降ると、「かさ……」と考
える。しかし雨に対する感覚は、国によって違う。たとえば今、このH市には、数万人単位のブ
ラジル人や、その家族が住んでいる。しかし彼らはザーザーと降る雨の中でも、かさなしで、平
気で歩いている。セーターがビショビショになっても、だ。夏などは、むしろ、ぬれることを楽しん
でいるかのようにも見える。

 そこで私はある日、D君にこう聞いてみた。「雨の日が、どうしていいのか?」と。するとD君
は、いろいろ話してくれた。まず、雨の日は、景色がすばらしい。静かで、心が落ち着く、と。
「寒くないのか?」と聞くと、「冬の冷たい空気は、フレッシュでいい」と。

 そういうこともあって、私も、彼らの生活をまねてみた。それほどひどい雨ではなかったが、雨
の中を歩いてみたこともある。しかしこれは、私には合わなかった。やはりぬれるのは、不愉
快だった。つぎに、雨の日に家族を連れて、キャンプにでかけてみたこともある。しかしその日
は夕方から、たまたま雷をともなった、とんでもない大豪雨になり、みんなであわてて帰ってき
てしまった。が、一つだけこんなことを知った。

 私は週末は、たいてい山荘でひとりで暮らす。そのときのこと。そこで見る、本当にすばらし
いのは、雨の日か、雨あがりの朝だということ。もちろん若葉がしげる春もすばらしい。山の
木々が色を変える秋もすばらしい。野生のジャスミンが咲きほこり、ホトトギスが鳴きはじめる
五月の終わりもすばらしい。しかしそういった日々の間で、ふだんのときなら、やはり雨の日が
すばらしい。あたりの山中が、白いモヤに包まれ、一面が水墨画のようになるときがある。そう
いうとき、新鮮な空気とあわせて、木々や草のにおいなどが、あたり一面を包む。まさに心が
洗われるような状態になる。少しおおげさな言い方に聞こえるかもしれないが、そんなとき私
は、心底、「生きていてよかった」と思うことがある。

 雨といっても、いろいろな考え方があるようだ。またいろいろな楽しみ方もあるようだ。今日
も、窓の外に、その雨が見える。どこか悲しげに、疲れた栗の葉をぬらしている。まあ、本当の
ことを言えば、私は、晴れた暖かい日が好きだ。雨よりはよい。そういうことを考えながら、この
話は、ここまでにしておく。
(02−12−9)

●日本はラッキーな国だ。放っておいても、緑だけは育つ。四方を海に囲まれ、気候は温暖。
年中、雨が降り、四季の変化が大きいのは、三〇〇〇メートル前後の山々が連なるからだ。
すでに世界中のあちこちでは、温暖化によって、大きな気象変化が起きている。しかし日本で
は、それほどでもない。とくにこの浜名湖周辺は、日本でも、もっとも温暖な地方として知られて
いる。照葉樹林帯というのだそうだ。日本でも、こうした環境に恵まれているのは、鹿児島県の
一部と、この浜名湖周辺だけだそうだ。ああ、よかった!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(394)

中国語

 私は学生時代、中国語を選択した。で、それを二年間、学んだ。たった二年間だが、そのあ
と、あちこちで役にたった。中国人の友だちも、何人かできた。このH市にも、何人かいる。そ
の中の一人と、町で出会って、こんな話をした。

私「ごめんなさいというのを、中国語で何と言いいましたかね?」
中「対不知(トイ・プー・チー)」
私「ああ、そうでしたね」と。

 いろいろな話の中ででてきた会話の一部だが、彼と別れてから、ふと、こう考えた。「どうし
て、ごめんなさいを、中国語では、『対不知』と言うのか」と。そのまま訳せば、「ちょっと知らな
い」ということになるのか。そこまで考えて、私は、ハタと気づいた。

 そう言えば、日本語でも、「つい知らず、ごめんなさい」と言うではないか、と。この「つい知ら
ず」というのが、「対不知」にあたる。「ひょっとしたら、『つい知らず』というのは、中国語からき
た言葉かもしれない」と。

 こうした例は、本当に多い。日本語には、外来語というのがあるが、しかしそれを除いても、
日本語そのものが、外来語、つまり中国語や朝鮮語のかたまりのようなものと言ってもよい。
私の名前を、「林浩司」と書くことだって、まさに中国語で書いているようなものだ。いや、日本
人は、「中国語ではない」と思っているかもしれないが、中国人はそうは思っていない。それが
わからなければ、相手、つまり中国人の立場で考えてみればよい。北海道のハシにある小さな
島の住民が、名前をカタカナを使って書いていたとする。それを見れば、あなただって、その島
の住人は、日本の一部だと思うに違いない。

 だからといって、日本の文化を否定するわけではない。ただ大切なことは、日本とて、そして
日本人とて、東洋の一部、アジアの一部に過ぎないということ。私たちは日本人である前に、東
洋人であり、アジア人なのだ。決して、白人ではない。欧米人でもない。が、子どもたちは、そう
は思っていない。

 少し前だが、テレビを見ていたら、日本人の子どもたち(小学五、六年生?)と、アジアやアフ
リカからの留学生が、はげしくバトルしている場面が飛びこんできた。そのバトルがおもしろか
った。アフリカからの留学生が、日本人の小学生に、「君たちはアジア人だ!」と叫んだとき、
その小学生は、大声で、こう叫んだ。「ぼくたちは、アジア人ではない! 日本人だ!」と。する
とまた、そのアフリカからの留学生が、「君たちの肌は、黄色い。アジア人だ!」と叫んだ。する
とそれに答えて、その小学生は、こう叫んだ。「ぼくたちの肌は黄色ではない! 肌色だ!」と。

 そのあとしばらくしてから、私も、独自に調査してみた。小学校の高学年児、一〇人くらいに、
こう聞いてみた。「日本人は、アジア人か、欧米人か。あるいはどちらに近いか」と。すると半数
くらいの子どもが、「欧米人」と答えた。「欧米人に近いアジア人」と答えた子どももいた。しかし
「アジア人」と答えた子どもは、一人もいなかった。

 私たちはまぎれもない、アジア人である。だれが何と言っても、アジア人である。そうでないと
思っている人もいるかもしれないが、それでもアジア人である。いくら髪の毛を赤くして、肌を白
く化粧しても、アジア人はアジア人である。……と、リキんだところで、話をもとに戻す。

 近い将来、中国が、再び、アジアの超巨大国として、私たちの前に登場する。好むと、好まざ
るとにかかわらず、そうなる。それはもう時間の問題と言ってもよい。あと一〇年か、それとも
二〇年か。少なくとも、今の子どもたちがおとなになるころには、そうなる。問題は、そうなった
とき、今のままの教育で、はたしてそれでよいかということ。たとえばこの日本に住んで、日本
で教育を受けていると、知らず知らずのうちに、私たちは自分を、欧米人と思うようになる。一
方、アジア人であることを忘れてしまう。日本人はそれでかまわないかもしれない。しかしそうい
う日本人の意識を、中国人が感じたら、はたして中国人は日本をどう思うだろうか。いや、どう
思おうと、それはかまわない。しかしそのとき……。話が入り組んできたので、この話はここで
やめる。

 そこで私の提案。今は、北海道から沖縄まで、学校では、英語だけが外国語ということになっ
ている。もちろん英語は重要だ。しかしそれと同じくらい、中国語も重要ではないのか。「これか
らは中国の時代」というだけではない。私たちの中にある、「私たち」を知るためにも、重要だと
いうこと。それがここに書いた、「対不知」である。私たちは日本人だが、その日本の文化は、
中国文化の上に成りたっている。その中国を知ることは、とりもなおさず、私たち日本人を知る
ことになる。ちなみに、オーストラリアでは、ほとんどのグラマースクール(中高一貫校)では、ド
イツ語、フランス語、中国語、日本語のほか、インドネシア語から一科目選択できるようになっ
ている。インドネシア語があるのは、隣国だからである。日本も、そういう視点で、外国語を考
えるべきではないのか。

 総じてみれば、日本の教育は、硬直化している。小学校の英語教育にしても、議論が始ま
り、実験教育が始まるまで、何と一四年もかかった! 全員の意思統一をはかろうとするか
ら、そうなる。だったら、ドイツやイタリアのように、クラブ制にすればよい。英語を学びたい子ど
もは学ぶ。教えたい親は教える。教えたい教師は教える。基本的な基礎学習は、学校で、そう
でない科目は、クラブで、と。中国語も、そうすればよい。そうすれば、来年からでも、中国語教
育は可能になる。つまり、ここでも必要なのは、教育の自由化である。

 どうして文部科学省は、教育の自由化を恐れるのか。教育がバラバラになるとでも、思って
いるのか。とんでもない! 戦前ならいざ知らず、私たちは、文部科学省が心配するほど、バ
カではない。……と、またまた話が入り組んできたので、この話も、ここでやめる。

 もっとも今、英語教育そのものもおかしい。TOEFLの国際英語検定試験でも、日本人の英
語力は、アジアでも、ビリ二。(ビリは、モンゴル。)何でもあの北朝鮮と、そのビリ二を争ってい
るらしい。こんなとき中国語教育を導入したら、日本の英語教育は、どうなるか。さらにメチャメ
チャになる? そういうことも考えると、今は、やはり中国語教育は無理なのか? いやいや、
英語教育とて自由化すればよい。民間の活力を利用すればよい。そうすれば、日本人の英語
力も、確実にあがる。「何でもかんでも、学校で!」という発想が、もうおかしい……、と書いて、
この話はここでやめる。どうもこういう話になると、ついつい(対対)、力が入ってしまう。対不
知!
(02−12−9)

●こんなこと、私のようなものが、いくら叫んでも、また書いても、日本の教育行政は、ビクとも
しないのです。ハイ!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(395)

要領

 中学三年生のテストに、こんな問題が、出た。英語の質問に、英語で答えるという問題であ
る。ここ五、六年、こうした問題が、急速にふえた。

(1)When is your birthday?(誕生日はいつですか)
(2)What sport do you like?(何のスポーツが好きですか)
(3)Do you like English?(英語が好きですか)
(4)What do you want to do next year?(あなたは来年、何をしたいですか)
(5)Do you come to school on foot or by bus?(あなたは学校へ歩いてきますか、それともバ
スで来ますか)

 このテストを受けてきた子ども(女子)がこう言った。「何も、書けなかった……」と。「白紙で出
したのか?」と聞くと、「そう……」と。

 そこで理由を聞くと、こう言った。「私の誕生日は、二月。フェブルアリィ(二月)という単語を忘
れてしまった。スポーツは、バレーボールが好きだけど、バレーボールという単語がわからなか
った。英語は、好きなときもあるし、嫌いなときもある。話すのは好きだけど、書くのは嫌い。来
年は、これといって、とくにしたことはない。それに私、毎朝、母に学校まで送ってきてもらって
いる。英語で何と書けばよいか、わからなかった……」と。

 私は、こう言った。

 「二月という単語がわからなければ、五月(May)と書けばよい」
 「バレーボールという単語がわからなければ、テニスと書けばよい」
 「英語が好きかと聞かれれば、はいそうですと書けばよい」
 「来年は、富士山へ登りたいと書けばよい」
 「学校へは歩いてくると、そのまま書けばよい」と。

 だから、答は、(My birthday is May 10th.)(I like tennis.)(Yes, I do.)(I want to
climb Mt. Fuji.)(I come to school on foot.)となる。

 それに対して、その子どもはこう言った。「へえエ〜、私、五月生まれじゃ、ない。テニスは好
きではない。英語も好きとは言えない。富士山なんか、登りたくない。それに学校へは歩いてい
かない」と。
 
 そこでさらに私は、こう言った。「君の英語の力で、『英語は好きなときもあるし、嫌いなときも
ある。話すのは好きだけど、書くのは嫌い』とは、書けない。またそこまでの答など、だれも期
待していない。だったら、どうして、Yes, I do.(はい、好きです)と書かないのか。それで丸がも
らえる」と。

 「でも、それはウソになるでしょ! ウソは書けない」
 「ウソ? 英語は、バツでなければ、マル。何も、本当のことを書けという問題ではない。すな
おに簡単に書いて、マルをもらえばよい」
 「誕生日は、二月で五月ではない」
 「たとえそうでも、そんなこと、学校の先生が、いちいち調べるとでも思っているのか。そんな
ことはしない。だったら、May(五月)と書いておけばいい。正直に二月と書く必要はない」

 ……と教えながら、当然のことながら、言いようのない矛盾が、私の心をふさいだ。しかししょ
せん、受験勉強などというのは、そういうもの。またそういうことが平気でできる子どもほど、よ
い成績をとる。要領といえば、要領。その要領のよい子どもが、有利。もっと言えば、受験指導
など、教育ではない。だからそれを教えるのは、教師ではない。先生ではない。ただの指導
者。

 しかしこの日本には、歴然とした受験競争がある。また好むと好まざるとにかかわらず、それ
が人間選別の関門になっている。要領が悪い子どもほど、つまり正直な子どもほど、この受験
競争の世界では、不利。もちろんすべてがそうであるとは言えないが、しかしそういう面がある
ことも否定できない。この子どものケースでも、何ともあと味の悪い指導になってしまったが、受
験競争には、いつもそういうあと味の悪さがつきまとう。

 その子どもは、それからずっと、顔をふせたまま、何も言わなかった。私も、その子どもの気
持ちがわかるので、何も言えなかった。気まずい沈黙だけが、最後までつづいた。
(02−12−8)

●こうした受験競争をスイスイと通りぬけた人が、結局は、社会のリーダーになっていくという
のは、悲劇的ですらある。たとえば高校時代、勉強しかしない、勉強しかできない、どこかおか
しな子どもほど、スイスイと受験競争を通りぬけていく。中には、よい点をとるのが、趣味になっ
ているような子どもすらいる。日本では、こういう子どもほど高く評価されるが、本当にそれでよ
いのか。あなたもそういう視点で、一度、受験勉強そのものをながめてみてはどうだろうか。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-17-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 541人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  56人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−17号(155)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「依存型子育て論」
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
夢(1497−98)

Q あなたの子どもに、未来の夢についての絵を描かせてみてください。そのときあなたの子ど
もは、どんな絵を描きますか。

(1)子どもらしい夢のある絵をつぎつぎと描き、その絵の中に自分を投影させて楽しむ。
(2)「描くものがない」と言って描かない。あるいは描いても身近なものが多い。
(3)「おとなになりたくない」と言ったり、描くとしてもどこか幼稚っぽいものが多い。

++++++++++++++++++++++++

A 赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりをする子どもがふえている。大きくなることに恐怖感をも
っているためと考えるとわかりやすい。よくある例は、兄や姉のはげしい受験勉強をみていて、
それで恐怖心をもち、幼児がえりを起こすケース。動作、話し方、遊びまで幼児的になる。ある
男の子(小六)は、ボロボロになった幼児漫画をかたときも離さず、カバンの中に入れてもって
いた。私が「これは何?」と声をかけると、「どうチェ、ダメだと言うんでチョ、言うんでチョ」と。

 一方、最近の子どもたちは、夢が何であるかさえわからないでいる。三〇年前には、「野球の
選手になりたい」「幼稚園の先生になりたい」「花屋さんになりたい」と子どもたちは言ったもの
だが、今は、「魔法使いになりたい」「ゲームのプロになりたい」「金持ちになりたい」などと言う。
私が「君たちも宇宙飛行士のM氏が言っているように、夢をもったら?」と言うと、「どうせなれ
ないもんね」などと答えたりする。大卒者の人気就職業種のナンバーワンが、公務員というの
も、そのひとつ。時代が変わったというより、子どもたちの世界から夢をうばってしまったおとな
たちに責任がある。

 当然のことながら、将来に向かって前向きに生きていく子どもは伸びる。子どもはそういう子
どもにしなければならない。(正解(1))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


悪魔性

Q あなたの子どもは日ごろ、どんな絵を描いていますか。ノートのはしなど、子どもが何気なく
描いている絵を見てください。

(1)そのときどきの人気キャラクターや、アニメの主人公の絵を描くことが多い。
(2)おとなが見ても、ぞっとするような絵(がい骨、戦争、武器)の絵が多い。
(3)空想力や想像力を働かせた、どこか楽しいドラマのある絵が多い。

+++++++++++++++++++

A イギリスの諺に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。心の抑圧状態が続くと、ものの考え
方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺はない。き
びしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、まさ
に悪魔的になる。こんな子ども(小四男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。見た感じでは、ごくふつうの子どもだった。が、
ある日、私はその子どものノートを見て、びっくりした。何とそこには、血が飛び散ってもがき苦
しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。しかも描
かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。ほかに首のない死
体や爆弾など。原因は父親だった。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。そういう
症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干渉が原
因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散さ
せようとする。(2)のような絵を描くようであれば、家庭のありかたそのものを、かなり反省した
ほうがよい。(正解(1)(3))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

週刊E−magaより転載
+++++++++++++++

■連載:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 -------------------

●No.43「学力は低下している?」

  国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・1999年)の調査によると、
 日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港
 についで、第5位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリ
 スと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3位。以
 下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

  この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、
 (日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言え
 る」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦
 氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」
 と述べていることとは、対照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた
 割合は、日本の中学生が最低(48%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓
 国についでビリ2であった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学
 外学習も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(1995年)と比べて、
 テレビやビデオを見る時間が、2.6時間から3.1時間にふえている。

  で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある
 調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によ
 ると、つぎのような結果だそうだ。

 この20年間(1982年から2000年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、
 小学6年生で、80.8%から、61.7%に低下。分数の割り算は、90.7%から66.5
 %に低下。小数の掛け算は、77.2%から70.2%に低下。たしざんと掛け算の
 混合計算は、38.3%から32.8%に低下。全体として、68.9%から57.5%に低
 下している(同じ問題で調査)、と。

いろいろ弁解がましい意見や、文部科
 学省を擁護した意見。あるいは文部科学省を批判した意見などが交錯してい
 るが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがない。
 同じ澤田教授の調査だが、小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答
 えた子どもが、2000年度に30%を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算
 数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、2000年度には35%弱しかいない。
 原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だ
 れも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップク
 ラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

依存型の子育て論

●日本の子育て
 日本人の子育ては、依存型子育て法。そういった子育て法は、おじいちゃん、おばあちゃん
いの、孫育てのし方をみればわかる。

(まず手なずける)
 日本人は、まず子どもを、自分に手なずけようとする。子ども(孫)に、よい思いをさせなが
ら、自分のほうへ関心をひく。子どものほしがるようなものを買ってあげたり、小づかいを渡し
たりする。「子どもの世話をしてあげるのが、子育て」と考えている人も多い。あるいは「子ども
に楽をさせてあげるのが、親の愛の証(あかし)」と考えている人も多い。つまり「親(おじいちゃ
ん、おばあちゃん)に従えば、いいことはいっぱいある」「得をする」と、子どもに教える。もっとも
「教える」という意識はあまりない。伝統的に、それを繰り返しているだけから、たいていの人
は、その意識すらない。

(おどす)
 つぎに、日本人は、子どもをおどす。「親(おじいちゃん、おばあちゃん)がいなければ、生活
できない」ということを、子どもに教える。これについても、「教える」という意識はあまりない。た
とえば「ホレホレ、お母さんは、行ってしまうよ」と、子どもの目の前で親が消えてしまうなど。子
どもは、それにおびえて、ワーワーと泣く……。あなたもこうした子育てのし方を、どこかで見た
ことがあるかもしれない。あるいはひょっとしたら、あなた自身が、日常的にしているかもしれな
い。「そんなことをしたら、夕食は作りませんよ」「親に逆らったら、小づかいは、なし」とかいうの
も、それ。

 この(手なずける)(おどす)を、交互にしながら、日本の親たちは、子どもに依存心をつけて
いく。そしてその結果として、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子
とする。「かわいい」という言葉は、「かわいがる」という言葉と語源が同じ。かわいがるというの
は、子どもに楽をさせ、よい思いをさせることを意味する。つまり、かわいいから、親は子どもを
かわいがり、かわいがるから、また子どもは、かわいい子どもになる。日本人はそれを、無意
識のうちにも、相互に繰り返す。

●依存心
 こうした依存型子育てをする背景には、親自身(あるいは祖父母自身)が、だれかに依存し
たいという思いがある。ただこうした依存性は、親が、青年期、壮年期には、一度、心の中、奥
深くにもぐる。その時期は、一見、自立心が旺盛になり、外からはわからなくなる。が、親が、
老後にさしかかったとき、再び、顔を出す。おじいちゃん、おばあちゃんの孫に対する態度を観
察すると、それがわかる。

 ある祖母(六〇歳くらい)は、電話で、孫(小学四年生くらい、女児)に向かって、こう言ってい
た。「おばあちゃんのウチへ、遊びにおいでよオ〜。お小づかいあげるからさア〜。あんたのほ
しい、お洋服、買ってあげるからさア〜」と。

 この女性は、孫の心を、エサで釣っているわけだが、こうした光景を見ても、日本人のほとん
どは、それを疑問にも思わない。むしろ大半の人は、「ほほえましい光景」として、とらえる。し
かしこの女性の言い方は、まさに子どもを手なずける言い方そのものということになる。

 つまり親は、そして祖父母は、自分がだれかに依存したいという思いを、裏返して、子どもに
依存心をもたせる。そういう意味でも、依存心は、相互的なものと考えてよい。だから依存性の
強い親ほど、子どもが親に依存性をもつことに、甘くなる。無頓着(とんちゃく)になる。そして長
い時間をかけて、ベタベタの親子関係をつくりあげる。

●親を美化する子どもたち
 極端な例としては、マザーコンプレックスがある。もちろんファザーコンプレクスもある。まとめ
てマザコンという。よい年齢になっても、「お父さん……」「お母さん……」と言っている。たいて
いは溺愛児のなれの果てだが、その溺愛児にしても、自分がそうであるという自覚はほとん
ど、ない。自分ではふつうだと思っている。そしてその一方で、親を、必要以上に美化する。

 ある男性(六〇歳)は、父親の悪口の話になりかけたとき、顔をまっかにして、こう叫んだ。
「親の悪口を言うのは許さん!」と。そして親がした悪行の一つについて、だれかが口にする
と、「あれは、私がしたものだ」と、わざとらしく、罪をかぶったりした。

 見方によっては、親孝行のすばらしい男性ということになる。しかし結局は、その男性は、自
分のマザコン性を正当化するために、親を美化しているに過ぎない。つまり親への依存性の強
い人ほど、その依存性を正当化するため、親を美化し、親孝行論を口にする。こうした傾向
は、一般に、男性に強い。もちろん女性にも、このタイプの人はいる。いるが、圧倒的に、男性
に多い。

 ただこうしたマザコン性が、悲劇的なのは、それがそのまま夫婦の間にもちこまれること。今
でも、「妻よりも、親のほうが大切」と公言する夫は、いくらでもいる。少し前だが、結婚するにさ
いして、相手の女性に、「親のめんどうをしっかりとみること」という条件をつけた、プロ野球選
手がいた。こういう男性をみると、「妻は家政婦?」とさえ聞きたくなる。もちろん、結婚した時点
から、その夫婦関係は、不安定なものになる。夫婦観、結婚観、家族観が、基本的な部分で、
狂いはじめる。(女性側も同じ考え方なら、問題はないかもしれないが、そういう女性は、少なく
なってきた。)

 この考え方に関して、いくつかのエッセーを書いた。

++++++++++++++++++++++

日本人の依存性を考えるとき(中日新聞掲載済み)
 
●森進一の『おくふろさん』
 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たち
は、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日
本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独
立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係
 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ
着はもちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、
教室に戻ってきたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出す
こともできない。できないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰
かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになっ
てしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりす
るなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこ
と。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてき
た。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるの
よ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」
 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう
だろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、そ
れである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜
(だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。
もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」
子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。
実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ
……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、
日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

(参考)
●夫婦別称制度
 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した(二〇〇一年)。それによると、同制度導入のための法律改正に賛成
するという回答は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査(九六年)では
反対派が多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用す
る法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)にあがっ
たというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・
八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が
高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感
に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱ま
る」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。ただ、夫婦別姓が子供に与える影響につい
ては、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、「影響はない」の二六・八%を大きく上回っ
た。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は
六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したば
あいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は一八・二%にとど
まったという。

++++++++++++++++++++++++

親子の断絶の三要素、(2)価値観の衝突

 日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存性
をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。たとえばこの日本では、親にベタベタと甘
える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも
思わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。

言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなればなるほ
ど、子どもの自立は遅れる。が、この日本では、「依存すること」そのものが、子育ての一つの
価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番組があった。

数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながらに、母への恩
を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京へ出て、歌手
になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と言っていた。私
はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらしい人
だなと思った。しかし一〇分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるの
を感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育て
ながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれな
い。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがあ
る。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?

 で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、
子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子
どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そ
のまま子育てに反映される。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせること
だ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先
日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った六〇歳くらいの女性が、五歳くらいの孫に
こう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすること
が、子どもを愛することだと誤解している人は多い。

 そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日
本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若
い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、一九%に過ぎない(総
理府、平成九年調査)。どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつ
けても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観
の衝突へと進む。

+++++++++++++++++++++++++

一部、内容が重複するが、許してほしい。自著から、
転載する。(「子育てストレスが子どもをつぶす」(リヨン社)より)

+++++++++++++++++++++++++ 
  
子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行
論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ
のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの
勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?
 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、
本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ
こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親
はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子
 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか
しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ
んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分
は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」
 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言う
のに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言
うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない
 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる
 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命
に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六
年)は、次のようになっている。
 フィリッピン ……八一%(一一か国中、最高)
 韓国     ……六七%
 タイ     ……五九%
 ドイツ    ……三八%
 スウェーデン ……三七%
 日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読
むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 

++++++++++++++++++++++++

●結論
 日本は、今、大きな過渡期にきている。旧来型の子育て法から、それをよしとしない新世代
型への子育て法へと、変わりつつある。こうした大きな流れに対して、もちろん抵抗も強い。し
かし古今東西、世界の歴史の中でも、旧世代の価値観が、新世代の価値観に勝ったためしが
ない。言うまでもなく、旧世代は、先に、この世界から消える。だとするなら、旧世代は、新世代
に対して、謙虚でなければならない。「お前たちは、まちがっている!」と叫ぶのは買ってだが、
そう叫べば叫ぶほど、結局は、親子の間、さらには、孫との間にキレツを入れることになる。

 ここでは日本型の子育ての中の、一つの問題点として、「依存性」を考えてみた。
(02−12−8)

●このテーマで原稿を書くと、必ずといってよいほど、旧来型の考え方をする人から、抗議の
電話やメールをもらう。「あなたは親孝行を否定するのか!」とか、「お前は、それでも日本人
か!」と言ってきた人もいる。数年前だが、「あんたのような人が、あちこちで講演をしているの
は、おかしい」とまで言ってきた人(女性)がいる。日本人の価値観の根幹にふれる問題である
だけに、こうした抵抗は、避けて通ることができない。


    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(388)

骨つぼ

 先日、陶芸教室の案内書をもらってきた。年会費は一万五〇〇〇円。月謝が、週二回程度
で五〇〇〇円。あとはできあがった作品ごとに、一グラム一円で計算するのだそうだ。たとえ
ば一キログラムのつぼをつくれば、一〇〇〇円ということになる。ワイフに「入りたい」と相談す
ると、「やってみたら……」と。

 自分で自分の茶碗や皿を作るというのは、楽しそうだ。しかし私には、もう一つ、秘めた目的
がある。それは自分の骨つぼを作るという目的である。

 私は三男なので、本当なら、自分で自分の墓を用意しなければならない。しかし一番上の兄
は死に、つぎの兄には子どもがいない。つまり私が実家の墓の守りをするのは、私ということ
になる。が、ここで大きな問題が起きる。私は、あの郷里のM市には帰りたくない。死後の世界
のことはわからないが、あるとするならなおさら、あのM市には帰りたくない。いわんや、あの
墓には入りたくない。あの墓からは、母校のM高校が眼下に見える。毎日、あの高校を見てす
ごさなければならないとしたら、それこそ私にとっては、地獄だ。

 それに、私は、あの家がいやだった……。何がいやかって、すべてがいやだった。いやでい
やでたまらなかったから、家を出た。今でも、実家へ帰ると、あのぞっとするような憂うつ感と戦
わねばならない。実際には一晩が限度。二晩も泊まると、気がヘンになる。実家へ帰ると予定
しただけで、今でも、頭が重くなる。

 そこでときどき、自分が死んだら、どうなるかと考える。ワイフは、ときどき、こう言う。「このH
市にお墓を作ろうか?」と。しかし作れば、今度は、私の息子たちが同じ問題をかかえることに
なる。墓というのは、それに納得した人には、心の拠(よ)りどころになるが、納得しない人に
は、重荷でしかない。息子たちが納得すれば、それでよいが、重荷に感じたら、どうする。私は
そういう形で、息子たちをしばりたくない。

 だから、私は骨つぼを考えた。いや、これには、こんな話がある。もう一〇年近くも前だろう
か。水晶を加工して、骨つぼを作っている友人がいた。何度か私の家に泊まっていったことも
ある。その友人が、私に、その骨つぼをすすめてくれた。「これからは、こういう形で、仏様を供
養すればよい」と。そのときは、どこか上の空で、彼の話を聞いていた。が、このところ、その話
が急速に私の心をおおうようになった。「なるほど、骨つぼか」と。

 で、私は、今、ワイフとこう話しあっている。もし私が先に死んだら、遺骨はワイフが預かる。
そしてワイフが死ぬまで、それを預かってもらい、ワイフが死んだら、ワイフの遺骨といっしょに
して、息子のだれかに渡す。あとの処理は、息子たちに任せる、と。海へ捨てるのもよし、畑の
肥料にするのもよし。はたまた自分たちで考えて、墓をつくるのもよし。もしワイフが先に死ん
だら、私がワイフの遺骨を預かり、私も、同じようにする。

 ……となると、やはり骨つぼが必要ということになる。遺骨を入れるつぼである。で、話を聞く
と、私のような考え方をしている人は、少なくないようだ。現に、そういうし方をしている人も、た
くさんいる。で、問題は骨つぼだが、外国で買ってきたみやげのつぼを、骨つぼにしている人も
いる。どこかの門前町で買ってきた、きれいなつぼを、骨つぼにしている人もいる。「骨つぼ」と
いっても、決まったものがあるのではない。人、さまざまだが、私は、私の(私たちの)骨つぼ
は、自分で作りたいと思っている。だから、陶芸教室……!

 陶芸教室の先生は、こう言った。「自分の作った皿で、料理を食べると、なおいっそう、おいし
くなりますよ。で、林さんでしたっけ、あなたはどんなものを作りたいですか?」と。私は、「はあ
……」と答えるのが、精一杯だった。まさか「骨つぼを作りたい」とは、言えなかった。もっとも、
この話は急ぐ話ではないので、そのときは入会しなかった。春になったら、入会するつもりでい
る。秘めた目的を隠しながら……。
(02−12−8)

●「墓」や「先祖」にこだわる人は、多い。そういう人の考え方は、そういう人の考え方として、尊
重しなければならない。人はそれぞれの思いをもって生きている。そして同じように、それぞれ
の死生観をもっている。私はそういう人たちの考え方を、否定しない。だから同じように、どうか
私のこうした考え方を、否定しないでほしい。

●こういう話を書くと、決まって抗議をしてくる人がいる。私のサイトにも似たようなことを書いて
いるので、それについて、「君の考え方はおかしい」と言ってきた人が、何人もいた。「評論家と
してふさわしくない」と言ってきた人もいた。さらに「骨をまいて、海を汚すな」と言ってきた人も
いた。(もし、そうなら、魚はどうなのか?)たいへんデリケートな問題だが、しかし墓を買うにし
ても、今では莫大なお金がかかる。維持するのは、もっとたいへんだ。どうせ無縁仏になるな
ら、早くても遅くても、私は構わない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


後半部へ!

________________________________________








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-19-2

後半部です!
+++++++++++++++++++++++++++++
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

雑誌「ファミリス」1月号より。診断テストは、本誌をご覧ください。
++++++++++++++++++++++

あなたは自己中心ママ?

●一方的な押しつけ
 自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしま
う。もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。
 このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子ども
に押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきなが
ら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりす
る。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。

●常識ハズレの子どもたち 
 こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依
存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静
かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。そのため言動がどこか常識ハズレに
なりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小一男児)や、友だちの誕
生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)がいた。さらに「核兵器
か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私は結婚して、早く未亡
人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。

●プライドが強い人ほど注意
 家庭へ入った母親の最大の問題点は、自ら「家庭」というせまい世界に閉じこもってしまうこ
と。そしてその中でものの考え方を極端化したり、絶対化したりする。とくに高学歴の母親やプ
ライドが高い母親ほど、この傾向が強い。本来ならそうならないためにも、風通しをよくしなけ
ればならないのだが、このタイプの親にかぎって人づきあいはほとんどしない。あるいはして
も、儀礼的。特定の人と、表面的なつきあいしかしない。「私は正しい」と思うのはその人の勝
手だが、相手に向かっては、「あなたはまちがっている」とはねのけてしまう。

●自分の常識を疑う
 そこでこのテストで高得点だった人は、子育てそのものが、どこか常識とかけはなれていない
かを疑ってみる。子育てというのは、理屈どおりにはいかない。子どもは設計図どおりにはい
かない。あるいはあなたの思いどおりにはいかない。そういう前提で、子育てのあり方全体を
考えなおす。が、問題はさらにつづく。

●カプセルに閉じこもる親
 母親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向かってど
んどんと積極的に伸びていく母親。もう一つは自分の世界の中だけで、さらにものの考え方を
先鋭化する母親である。外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自分のカラ
を厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人もいる。
一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。

たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉
になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。五〇歳をすぎた男性だが、八〇歳の
母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生ま
れつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。

●こわい悪循環
 子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと
何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの
心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状
はさらに悪くなる。

 自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。


    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(396)

今、暗いトンネルの中にいる、あなたへ、

 子育てをしていて、どこか、ギクシャクしたら、肩の力を抜こう。よい親であろうとか、よい家庭
をつくろうとか、そんなふうに考えない。またそういうふうに考えて、自分を追い込まない。あな
たは、あなた。だからあなたは、ありのままのあなたでよい。

 おならをしたかったら、すればよい。鼻くそをほじりたかったら、ほじればよい。泣きたかった
ら、泣けばよい。いやだったら、いやだと言えばよい。気負うことはない。また気負ってはいけ
ない。あなたが気負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。あなたはすでにすば
らしすぎるほど、すばらしい親。不完全で、ボロボロの親かもしれないが、それでも、すばらしい
親。不完全であることを、恥じることはない。ボロボロであることを、恥じることはない。

 ただ、これには、一つだけ条件がある。それは「許して忘れる」。あなたはどこまでも、子ども
を許して忘れる。その度量の広さこそが、あなたの愛情の深さになる。その愛情だけは、忘れ
てはいけない。捨ててはいけない。どんなことがあっても、あなたはそれを守る。最後の最後ま
で、守る。どんなに子どもと言い争っても、またどんなに子育てがわずらわしく感じても、その愛
情だけは、守る。それはまさに、最後の砦(とりで)。それを捨てたら、あなたはおしまい。あな
たの家族は、おしまい。

 もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子どものわが
ままを通せということではない。あなたはあなた。言うべきことは言えばよい。すべきことはすれ
ばよい。おかしいことは、おかしいと言えばよい。まちがっていることは、まちがっていると言え
ばよい。子どもの機嫌をとる必要はない。歓心を買うこともない。へつらったり、遠慮することも
ない。あなたは、あなた。

 子どもというのは、不思議なもの。あなたが何かをしたからといって、どうにもならないとき
は、どうにもならない。しかしあなたが何もしなくとも、子どもというのは、自分で育っていくもの。
ちょうど、今のあなたにその「力」があるように、子どももまた、自分の力をもっている。その力
を信じて、そして、大切なことは、子どもに任すところは任せて、そして一方、あなたはあなたの
「力」を信じて、前向きに生きていく。

 さあ、あなたも、自分のしたいことをしよう。勇気を出して、自分の道を歩こう。一人の母親で
もなく、一人の妻でもなく、一人の女でもなく、一人の人間として、したいことをしよう。すべきこ
とをしよう。そういう姿勢が、あなたの子どもに伝わったとき、それは子どもにとっても、夢や希
望になる。
 
 あなたが今、ここにいるように、一〇年後、二〇年後、あなたの子どもは、そこにいる。だか
ら何も恐れることはない。何も心配することはない。必ず、このトンネルには出口がある。朝の
ない夜はないように、必ず、いつかあなたはそのトンネルから出る。そしていつか必ず、今の状
態を、笑い話にすることができる。

 あなたはすでにすばらしい親だ。じゅうぶん、がんばってきた。今も、がんばっている。だから
もっと、自信をもって前に進む。自分に、もっと自信をもって足を踏み出す。愛情だけは、しっ
かりと保ちながら……。
(02−12−10)

●Kさんへ……完ぺきママのこわいところは、子どもに完ぺき性を求める一方、自分でも完ぺ
きなママを演ずることです。もしあなたが子どもへ完ぺき性を感じたら、同時に、あなた自身
が、完ぺきママを演じていないかを、反省してみてください。今のままだと、あなたも疲れます
が、子どもも疲れます。そしてその「疲れ」が、子育てそのものを、ギクシャクしたものにします。
だから……。肩の力を抜いて、居直るのです。勇気を出して、居直るのです。不完全であること
を恥じることはないというのは、そういう意味です。

++++++++++++++
前にも掲載した原稿ですが……
++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四
歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような
恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始
め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無
神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キ
ンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認
めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏
は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」へ
の執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、い
つまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、
道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になるこ
とはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、な
い。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終
着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。
(中日新聞東掲載済み)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(397)

もしも、あのとき……

 三男が、このところ、いろいろ落ちこんでいる。大学を落第したこともある。家に帰ってはきた
ものの、意味もなくパソコンをのぞいては、ため息ばかりついている。話しかけると、軽く笑う
が、どこか上の空。元気がない。

 私はそんな夜、三男にこう言った。「お前がいなかったら、この家族は、とっくの昔に崩壊して
いたよ。今、この家があるのは、お前のおかげだよ」と。私は、視線を合わせないまま、あの日
のことを、話し始めた……。

 ……もうあれから一八年になる。早いというより、あの日だけは、時の流れがとまったまま、
脳裏にしっかりと焼きついている。忘れようとしたこともあるが、もがけばもがくほど、深い、奈
落の底に落ちていく。ぞとするような、鉄のクサリにからまれる。

 その日、私たちは、浜名湖の弁天にあるボート屋で釣り船を借りた。小さな船外機のついた
ボートだ。Nという店だった。浜松市に住むようになったころ、しばらくだが、その弁天に住んだ
ことがある。それでその店の若い男と、親しくなった。

 私たちは、夏になると、よく船外機を借りて、浜名湖を回った。当時は、まだ「免許」について
は、それほど……というより、ほとんど、問題にならなかった。ほとんどの人が、免許など、もっ
ていなかった。私ももっていなかった。しかしいつの間にか、操縦だけはプロ並になっていたと
思う。ボート屋の若い男も、同じ客でも、私にだけは一目置いていた。いつも、最新の高馬力の
船を貸してくれた。

 で、その日も、いつものように、海へ出た。「湖」といっても、海。場所によっては、遠くの水平
線が、かろうじて見えるというところがある。私たちはそういうところを、またよく好んだ。潮の満
ち干きもあるが、場所をうまくとらえると、自然の、巨大なプールのようになっているところがあ
る。遠浅で、しかもほとんど、人がいない。船も、めったに通らない。

 私たちは浜名湖のあちこちを回ったあと、船をそこにとめた。弁当も食べた。しばらく魚も追
いかけた。三人の息子たち……、上から、長男の小学二年(九歳)、二男の年長児(六歳)、そ
れに三男(三歳)は、しばらく泳いでは、また船にもどり、船にもどっては、泳いだりしていた。ど
れくらい時間が過ぎただろうか。私とワイフは、錨(いかり)をおろし、船の上で、寝転んだ。夏
の白いひざしが、ビニールでできたシートを通して、私たちの顔を照らした。私は、そのまま目
を閉じた。ワイフも、多分、そうしていたと思う。船のヘリをたたく小さな波の音ともに、ゆるやか
に船がゆれるのを、私は感じていた。

 そのときだ。突然、三男の声で、静寂が破られた。「お兄ちゃんが、いない!」と。

 私はその声で飛び起きた。ワイフも飛び起きた。三男の視線の方向を見ると、長男と二男が
流れにさらわれ、波間に消えるところだった。私は何も考えず、海に飛び込んだ。とたん、そこ
がすりばちのように、突然深くなっていることに気づいた。浜名湖には、海の中に、「川」がある
ことは、前から知っていた。しかしそこに川があるとは! 私たちが船の上で寝ている間、船が
流されていたらしい。私は長男の手を取ると、ワイフが立っているところまでもどった。が、振り
返ると、二男は、すでにそのとき、五〇〜六〇メートル先まで流されていた。

 二男は泳げない。それを知っていた。もうそのとき、二男の顔は見えなかった。海の上にあ
げた両手だけが見えた。私はとっさの判断で、ボートに飛び乗った。ボートで助けにいくつもり
だった。が、イカリがあった。私はイカリをあげようとしたが、ビクとも動かなかった。ロープも、
一〇メートルは、のびていた。私はロープをたぐろうとした。必死だった。が、それでも、ロープ
は、ビクともしなかった。船全体が、川の流れの中にあった。

 が、そのとき、奇跡が起きた。本当に奇跡だ。あの広い海のまん中で、たった一人だけ、魚
を釣っている人がいた。本当に一人だけだった。いや、そのときまで、そんな人がいることさえ
知らなかった。私たちがそこにボートをとめたのも、人がいなかったからだ。その人が、私たち
の異変に気づき、二男を助けるために、別の方向から、海へ飛び込んでいた。

 「もうダメだア!」と絶望的な声を、いや、声ではなく、心の中でそう叫んだとき、私はもう二男
のほうを見ると、その人が、ちょうど二男を海から救い出すところだった。ものすごい水しぶき
だった。瞬間、「モーターボートのようだ」と思った。あとで聞くと、その人は、水泳の元国体選
手。国体に出場したことがある人だった。私はそれを見て、そのままヘナヘナとボートの上に
座りこんでしまった。

 もしも、あのとき、三男が、「お兄ちゃんが、いない!」と声をあげていなかったら、私は二人
の息子を、そこでなくしていただろう。少なくとも、二男は助からなかった。が、それだけではな
い。私たち夫婦は、まだ若かった。どこか不安定な夫婦だった。もしあのとき、あの海で、二人
の息子を失っていたら、私はその悲しみや苦しみを乗り越えることはできなかっただろう。ワイ
フとて、できなかっただろう。離婚する程度ですんでいたとは、とても思えない。もしも、あのと
き、三男が、あの声をあげていなかったら……。

 ……「お前は、お兄ちゃんたちを救ったのだよ。それにこの家族を救ったのだよ。お前にはそ
の意識はないかもしれないが、私たちは、お前に救われた。だから感謝している。心から感謝
している。だから今、今度は、私たちがお前を助ける番だ。わかるか?」と。そう言い終わっ
て、ふと三男の顔を見ると、目の周囲がうっすらと赤くなっているのを知った。私は飲みかけて
いたお茶を一挙に飲ほすと、そのままその場を離れた。三男は、パソコンの画面から目を離さ
なかった。が、離れるとき、ふと私が、三男に、「ありがとう」と言うと、三男は、軽く、どこかとま
どいがちに、それにうなずいた。
(02−12−9)

●以後、あの浜名湖へは、一〇年近く、一度も足を踏み入れなかった。今でも、浜名湖を見る
と、その美しさとは対照的に、あの日のことを思い出す。ときどき浜名湖へ客を接待することは
あるが、そんなわけで、私は浜名湖を楽しむことはできない。客が帰るたびに、その緊張感か
らか、疲れがどっと私を襲う。

●二男を救ってくれたのが、市内で水道管工事をしているS氏だった。その直後、何度も名前
を聞いたが、「いいです、いいです」と言って、教えてくれなかった。しかし私はそれに食いさが
った。そして何とか名前(名字)だけは、聞き出した。聞き出して、さらにそのあと、名前だけを
手がかりに、浜松市中をさがしまわった。しかしこの浜松市(人口六〇万人)も、広いようで狭
い。そのS氏は、そのとき私が教えていた生徒(年長児)の、叔父にあたる人だった。……それ
以後、二男が高校に入学するとき、アメリカへ旅立つとき、そのつど、(当たり前のことだが…
…)、私は二男を、あいさつに行かせている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(400)

おなかがすいたなあ……

 私は寿司が好き。とくに「K寿司(回転寿司)」が、好き。口に合っている。一皿一〇〇円で、
安い。ワイフと二人で食べても、一〇〇〇円と少しで足りる。あとはショウガを、たくさん食べ
る。ショウガは、タダ。何ともせこい話だが、ダイエットによいそうだ。

 街の中では、「Kとも」という串カツ屋と、「Mひろ」というラーメン屋がおいしい。これらの名前
は、浜松に住んでいる人なら、みんな知っている。ほかにもいくつかあるが、値段が高いところ
は、あまり行かない。ただ遠方から客が来たときには、佐鳴湖畔の、「T善」で接待することにし
ている。佐鳴湖が一望できるので、みんな、喜んでくれる。

 私は昭和二二年生まれの、団塊の世代。たいへんひもじい時代を過ごしている。毎日が、そ
のひもじさとの戦いだった。が、今の子どもは、「ひもじい」という言葉の意味すら知らない。「ひ
もじいの意味を知っているか?」と聞いても、みな、「知らない」と言う。一人、「貧しいこと?」と
聞いた、中学生がいた。「ひもじい」と、「貧しい」は、似ているが、意味がちがう。ひもじいという
のは、おなかをすかして、さみしく、つらい思いをすること。

 その「ひもじさ」で思い出したが、私は、子どものころ、時代劇を見るたびに、「いつか、俳優
になろう。俳優になって、腹いっぱい、おいしいものを食べよう」と思ったことがある。映画の中
で、侍たちが、いつも豪華な料理を飲み食いしていたからだ。それにもう一つよく覚えているこ
とがある。電車の中でのできごとだった。小学二年生か、三年生のころのことではなかったか。
私はそのとき、町内会の旅行で、電車に乗っていた。前の席にすわった親子づれが、弁当を
食べ始めた。その中に、大きなソーセージがあった。子どものほうがそれを取り出すと、皮をむ
き、頭からパクパクと食べ始めた。私はそれを見ながら、「いつかおとなになったら、腹いっぱ
い、ソーセージを食べてやる」と心に誓った。

 まだ、ある。食べ物のうらみは、大きい。だからよく覚えている。これも小学二、三年生のころ
のことだったと思うが、当時、日本でも、バヤリース・オレンジというジュースが売りだされた。値
段は一本、一〇〇円。ラムネが、一本、一五円という時代だった。お好み焼き一皿、うどん一
杯が、三〇円という時代だった。そういうとき、一〇〇円のジュース! しかもそのジュースは、
これみよがしに、菓子屋の一番奥の、一番高いところに並べてあった。そのときも、そう思っ
た。「ようし、いつか、あのジュースを飲んでやる」と。

 そんなわけで、私は今でも、高級料理というのは、あまり口に合わない。懐石料理を食べて
も、「どうせ、腹に入れば同じだろ」と、そんなふうに考えてしまう。そのかわり、マグロやカツオ
の缶詰が好き。それを白いご飯の上にのせて、箸(はし)でかきまぜて、食べる。ギョーザとラ
イスが、好き。ギョーザのおいしさは、この静岡県に住むようになって知った。子どものころは、
食べたことがなかった。それにサシミが好き。花カツオに醤油(しょうゆ)を、白いご飯にかけて
食べるのが好き。どれも安あがりのものばかり。ワイフもときどき、こう言う。「あんたほど、料
理のつくりがない人はいない……」と。

 私は自分でも、よく料理をする。が、私の世代では珍しいらしい。先週も、いとこ夫婦が遊び
にきて、こう言った。「浩ちゃん(私のこと)が、こんなに、こまめ(こまかい雑用をいろいろするこ
と)だとは、知らなかった」と。そう、私は、「こまめ」だ。実にこまめだ。洗濯以外の家事は、よく
する。とくに山荘のほうでは、全部、する。「ワイフは客」と心に決めている。またそうして、何と
いうか、民宿のオヤジのマネをするのが、楽しい。

 ……ということで、今、今夜の夕食は何にしようかと考えている。こうしておなかがすくと、考え
ることは、食べることばかり。それでこんな意味のない原稿を書いてしまった。ああ、それにし
ても、おなかがすいたなあ……。
(02−12−11)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆12-19-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 545人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  56人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−19号(154)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    【マガジン読者の方のための、専用掲示板です】
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【チャット(おしゃべり)ルームへのご案内】
マガジン読者の方どうし+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
●http://8411.teacup.com/hhayashi/chat
へ、アクセスしてください。
●実験的に一度、してみます。日時は、12月19日午前10:00〜11:00
  です。以後、曜日と時間帯を決めて、定期的にできればと思っています。
   ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
                           では、お待ちしています!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育てポイント」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育てポイント

●はだし教育を大切に!
 子どもを将来、敏捷性(びんしょうせい・キビキビとした動き)のある子どもにしたかったら、子
どもは、はだしにして育てる。敏捷性は、すべての運動の基本になる。子どもがヨチヨチ歩きを
始めたら、はだし。厚い靴底のクツ、厚い靴下をはかせて、どうしてその敏捷性が育つというの
か。もしそれがわからなければ、ぶ厚い手ぶくろをはめて、一度、料理をしてみるとよい。あな
たは料理をするのに、困るはず。

 子どもは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。その敏捷性は、川原の石ころの
上、あるいは傾斜になった坂の上を歩かせてみればよい。歩行感覚のすぐれている子ども
は、そういうところでも、リズミカルにトントンと歩くことができる。あるいは、階段をおりるときを
見ればよい。敏捷性のある子どもは、数段ずつ、ピョンピョンと飛び降りるようにして、おりる。
そうでない子どもは、一段ずつ、一度、足をそろえながらおりる。

 またあなたの子どもが、よくころぶということであれば、今からでも遅くないから、はだしで育て
る。
 

●言葉教育は、まず親が
 親が、「ほれほれ、バス! ハンカチ、もった? バス、くる、バス、くる! ティッシュは? 先
生にあいさつ、ね。ちゃんと、するのよ!」と話していて、どうして子どもに、まともな(失礼!)言
葉が育つというのだろうか。そういうときは、多少、めんどうでも、こう言う。「もうすぐ、バスがき
ます。あなたは外でバスを待ちます。ハンカチは、もっていますか。ティッシュペーパーは、もっ
ていますか。先生に会ったら、しっかりとあいさつをするのですよ」と。

 こうした言葉教育があってはじめて、その上に、子どもは、国語能力を身につけることができ
る。子どもが乳幼児期に、親がだらしない(失礼!)話し方をしていて、どうして子どもに国語力
が身につくというのか。ちなみに、小学校の低学年児で、算数の応用問題が理解できない子ど
もは、約三〇%はいる。適当に数字をくっつけて、式を書いたり、答を出したりする。そのころ
気がついても、手遅れ。だから子どもには、正しい言葉で話しかける。つまり子どもの言葉の
問題は、親の問題であって、子どもの問題ではない。


●正しい発音を大切に
 文字学習に先立って、正しい発音を子どもの前でしてみせる。できれば一音ずつ区切って、
そのとき、パンパンと手をたたいて見せるとよい。たとえば「お父さん」は、「お・と・う・さ・ん」。
「お母さん」は、「お・か・あ・さ・ん」と。ちなみに、年長児で、「昨日」を正しく「き・の・う」と書ける
子どもは、ほとんどいない。「きお」「きのお」とか書く。もともと正しい発音を知らない子どもに向
かって、「まちがっているわよ!」「どうして正しく書けないの!」は、ない。

 地方によっては、母音があいまいなところがある。私が生まれ育った、G県のM市では、「鮎
(あゆ)を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ、エジ」と発音する。だから「この鮎はよい味
ですね」を、「このエエ、エエ。エジヤナモ」と発音する。そんなわけで、私は子どものころ、作文
が、大の苦手だった。「正しく書け」と言われても、音と文字が、一致しなかった。

 子どもに正しく発音させるときは、口を大きく動かし、腹に力を入れて、息をたくさん吐き出さ
せるようにするとよい。テレビ文化の影響なのか、今、息をほとんど出さないで発音する子ども
もいる。言葉そのものが、ソフトで、何を言っているかわからない。

 なお子どもの発音について、親はそれなりに理解できたり、親自身も同じような発音をしてい
ることが多い。そのため親が子どもの発音異常に気づくことは、まずない。そういうことも頭に
入れながら、子どもの発音を考えるとよい。


●同年齢の子どもと遊ばせる
子どもは、同年齢の子どもと、口論をしたり、取っ組みあいのけんかをしながら、社会性を身に
つける。問題解決の技法を身につける。子どもどうしのけんかを、「悪」と決めてかかってはい
けない。

 今、その社会性のない子どもが、ふえている。ほとんどが、そうではないかと思われる。たと
えば砂場で遊んでいる様子をみても、だれがボスで、だれが子分かわからない。実にのどかな
風景だが、それは子ども本来の姿ではない。あるべき姿ではない。こう書くと、「子分の子ども
がかわいそう」「うちの子を、子分にしたくない」と言う親がいる。が、子どもは子分になること
で、実は、それと平行して親分になる心構えを学ぶ。子分になったことがない子どもは、同時
に、親分にもなれない。子分の気持ちを、把握できないからである。

 またここ一〇年、親たちは、子どものいじめに対して、過剰反応する傾向がみられる。いじめ
を肯定するわけではないが、しかしいじめのない世界はない。問題はいじめがあることではな
く、そのいじめを、仮に受けたとき、その子どもが自分でどう処理していくかである。ブランコを
横取りされたら、「どうして、取るんだ!」と抗議すれば、それでよい。ばあいによっては、相手
をポカリとたたけば、それでよい。「取られた、取られた……」とメソメソと泣くから、「いじめ」に
なる。

 子どもをたくましい子どもにしたかったら、できるだけ早い時期から、同年齢の子どもと遊ば
せる。(だから早くから保育園へ入れろということではない。誤解がないように!)親と子どもだ
けの、マンツーマンの子育てだけで、すませてはいけない。


●ぬり絵のすすめ
 一時期、ぬり絵は、よくないという説が出て、幼児の世界からぬり絵が消えたことがある。し
かしぬり絵は、手の運筆能力を養うのに、たいへんよい。文字学習に先立って、ぬり絵をして
おくとよい。

 子どもの運筆能力は、丸を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズな
きれいな丸をかく。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。もしそうなら、ぬり
絵をすすめる。小さなところを、縦線、横線、曲線をうまくつかってぬらせるようにする。ちなみ
に、横線は、比較的簡単。縦線は、それだけ手の動きが複雑になるため、むずかしい。実際、
一度、あなた自身が鉛筆をもって、手の動きを確かめてみるとよい。

 また年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは、約五〇%とみる。(別に正しいもち方というのは
ないが……。)鉛筆を、クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残り、二〇%の子ども
は、たいへん変則的なもち方をするのがわかっている(はやし浩司・調査)。鉛筆をもち始めた
ら、一度、鉛筆をもつ練習をするとよい。コツは、親指と人さし指を、ワニの口にみたてて、鉛
筆をかませる。その横から中指をあてさせるようにするとよい。


●色づかいは、なれ
ぬり絵は、常識的な色づかいの練習にも、効果的。「常識的」というのは、色づかいになれてい
る子どもは、同じぬり絵をさせても、ほっとするような、温もりのある色づかいをする。そうでな
い子どもは、そうでない。

 たとえば同じ図柄の景色(簡単な山と野原、家と木)の絵を、四枚子どもに与えてみる。そし
て、「夏の絵、冬の絵、夜の絵、雨の絵にぬってごらん」と指示する。そのとき、夏は夏らしく、
冬は冬らしく色がぬれれば、よしとする。そうでない子どもは、まだ色づかいになれていないと
みる。

 なおこの段階で、色彩心理学の立場で、いろいろなことを言う人がいる。が、私は、過去三〇
年以上、色の指導をしてきたが、今ひとつ、理解できないでいる。たとえばこの時期、つまり満
四歳から六歳までの幼児期というのは、子どもによっては、周期的に、好きな色が変化するこ
とがある。ある時期は青ばかり使っていた子どもが、今度は、黄色を使ったりするなど。しかし
そういう子どもでも、色づかいになれてくると、だんだん常識的な色づかいをするようになる。
今、色づかいがおかしいからといって、あまり神経質になる必要はない。

 ただし、色の押しつけはしてはいけない。昔、「髪の毛は黒よ! 肌は肌色よ!」と教えてい
た絵の先生がいたが、こういう押しつけはしてはいけない。髪の毛が緑でも、何ら、おかしいこ
とではない。


●ガムをかませる
 アメリカの『サイエンス』という研究雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」という記事がのっ
た。で、その話をすると、Nさんという母親が、息子(年長児)にガムをかませるようになった。
で、その結果だが、数年後には、その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。

 その後、いろいろな子どもに試してみたが、この方法は、どこかぼんやりして、勉強が遅れが
ちの子どもに、とくに効果的である。理由は、いろいろ考えられる。ガムをかむことで、脳への
血流が促進される。かむことで、脳が刺激される。眠気がとれて、集中力がます、など。

 コツは、言うまでもなく、菓子ガムは避ける。また一枚のガムを、最低三〇分はかませるよう
に指導する。あとは、マナーの問題。かんだガムは、紙に包んで、ゴミ箱へ捨てさせる、など。

 またあまり多量の大きなガムは、口に入れさせてはいけない。咳きこんだようなとき、ガムが
のどに詰まることがある。年少の子どもにかませるときは、注意する。


●マンネリは知能の敵
 人間の脳細胞の数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど変わらない。しかしその一個ずつの
脳細胞は、約一〇万のシナプスをもっている。このシナプスの数は、成長とともにふえ、老化と
ともに、減る。そのシナプスの数と、「からまり」が、頭のよし悪しを決める。

 このシナプスは、子どものばあい、刺激を受けて、発達する。数をふやす。ほかのシナプスと
からんで、思考力をます。刺激がなければ、そうでない。つまり子どもの教育は、すべて「刺激
教育」と言ってもよい。子どもには、いつも良質の刺激を与えるようにする。もう少しわかりやす
く言えば、「アレッと思う意外性」を大切にする。つまり、マンネリは、知能発達の大敵。

 ……と言っても、お金をかけろということではない。日々の生活の中で、その刺激を容易す
る。たまたま昨日も、年長児のクラスで、こんな教材を使ってみた。

(1)カタカナで「ヒラガナ」と書いた紙を見せ、子どもたちに「これは何?」と聞いた。子どもが、
「ひらがな!」と言ったら、すかさず、「これはカタカナだよ」と言う。つづいて、今度は、ヒラガナ
で「かたかな」と書いた紙を見せ、「これは何?」と聞く。すると今度は子どもたちは、「ひらが
な!」と言う。またすかさず、「何、言ってるんだ。よく読んでごらん。か・た・か・なって書いてあ
るだろ!」と。

(2)子どもたちに「君たちは、ひらがなが読めるか?」と聞くと、みなが、「読める! 読める!」
と。そこで私はつぎのように書いたカードを、見せ、子どもに読ませた。「はい!」「いや!」「よ
めない!」「しらない!」「みえない!」と。それらのカードを見せたとき、子どもがどんな反応を
示したか、多分、みなさんも容易に想像できると思う。やがて子どもたちは、「先生は、ずるい、
ずるい」と言い出したが、それが私が言う「良質な刺激」である。

 家庭では、いつも、何らかの変化を用意する。部屋の模様がえはもちろん、料理にしても、休
日の過ごし方にしても、そこに何らかの工夫を加える。ある母親は、おもちゃのトラックの荷台
の上に、寿司を並べた。そういったことでも、子どもには、大きな刺激になる。


●抱きながら本を読む
 「教える」ことを意識したら、「好きにさせる」ことを一方で考える。それが子どもを伸ばす、コ
ツ。たとえば子どもの文字を教えようと思ったら、一方で、文字を好きにさせることを考える。日
本でも、『好きこそ、ものの上手(じょうず)なれ』という。「好きだ」という意識が、子どもを前向き
に伸ばす。

 満四・五歳(四歳六か月)を境にして、子どもは、急速に文字に興味をもつようになる。それま
での子どもは、いくら教えても、教えたことがそのままどこかへ消えていくような感じになる。し
かし決して、ムダではない。子どもは、伸びるとき、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではな
い。ちょうど階段を登るように、段階的に、トントンと伸びる。たとえば、言葉の発達がある。子
どもは、一歳半から二歳にかけて、急に言葉を話し始める。それまで蓄積された情報が、一度
に開花するようにである。

 同じように、文字についても、そのあと子どもがどこまで伸びるかは、それまでに子どもが、
文字に対して、どのような印象をもっているかで決まる。「文字は楽しい」「文字はおもしろい」と
いう印象が、あればよし。しかし「文字はいやだ」「文字はこわい」、さらには「文字を見ると親の
カリカリとした顔が思い浮かぶ」というのであれば、そもそもスタート時点で、文字教育は失敗し
ているとみる。

 もしあなたの子どもが、満四・五歳前であるなら、(あるいはそれ以後でも遅くないから)、子
どもには、抱いて本を読んであげる。あなたの温かい息を吹きかけながら、読んであげる。そう
することにより、子どもは、「文字は温かい」という印象をもつようになる。いつか子どもが自分
で文字を見たとき、そこにお父さんやお母さんの温もりを感ずることができれば、その子ども
は、まちがいなく、文字が好きになり、つづいて、本が好きになる。書くことや、考えることが好
きになる。
 

●何でも、握らせる
 ためしに、あなたの子どもを、おもちゃ屋へつれていってみてほしい。そのとき、あなたの子
どもが、つぎつぎとおもちゃを手にとって遊ぶなら、それでよい。(おもちゃ屋さんは、歓迎しな
いだろうが……。)しかし見るだけで、さわろうとしないなら、それだけ好奇心の弱い子どもとみ
る。が、それだけではない。

 最近の研究によれば、指先から刺激を受けることにより、脳の発達がうながされるということ
がわかっている。よく似た話だが、老人のボケ防止のためには、老人に何か、ものを握らせる
とよいという説もある。たとえば中国には、昔から、そのため、石でできたボールがある。二個
のボールがペアになっていて、それを手の先でクルクルと回して使うのだそうだ。私も東南アジ
アへ行ったとき、それを買ってきたことがある。(残念ながら、現地の人が見せてくれたように
は、いまだに回すことはできないが……。)

 それだけではないが、子どもには、何でも握らせるとよい。「さわる」という行為が、やがて、
「こわす」「組み立てる」「なおす」、さらには「調べる」「分析する」「考える」という行為につながっ
ていく。道具を使う基礎にもなる。

 なお好奇心が旺盛な子どもは、何か新しいものを見せたり、新しい提案をしたりすると、「や
る!」「やりたい!」とか言って、くいついてくる。そうでない子どもは、そうでない。また好奇心が
旺盛な子どもは、多芸多才。友人の数も多く、世界も広い。そうでない子どもは、興味をもつと
しても、単一的なもの。何か新しい提案をしても、「いやだ……」「つまらない……」とか言ったり
する。もしそうなら、親自身が、自分の世界を広めるつもりで、あれこれ活動してみるとよい。そ
ういう緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。


●才能は見つけるもの
 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその
子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、二歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、
その子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始め
た。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので
なければならない。この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子
どもを側面から支える。勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉
強でつまずくと、そのままズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見
つけ、その才能を用意してあげるのは、親の大切な役目ということになる。

 これからはプロの時代。そういう意味でも、才能は大切にする。たとえばM君(高校生)は、ほ
とんど学校には行かなかった。で、毎日、近くの公園で、ゴルフばかりしていた。彼はそのの
ち、ゴルフのプロのコーチになった。またSさんは、勉強はまったくダメだったが、手芸だけは、
だれにも負けなかった。そのSさんは、今、H市内でも、最大規模の洋品店を経営している。


●何でもさせてみる
 子どもには、何でもさせてみる。よいことも、悪いことも。そして少しずつ、様子を見ながら、ち
ょうど、彫刻を削るようにして、よい面を伸ばし、悪い面を削りながら、形を整えていく。まずい
のは、「あれはダメ、これはダメ」と、子どもの世界を狭くしていくこと。

 たとえば悪い言葉がある。悪い言葉を容認せよというわけではないが、悪い言葉が使えない
ほどまで、子どもを押さえ込んではいけない。一応、叱りながらも、言いたいように言わせておく
……、そういう寛容さが、子どもを伸ばす。子どもが親に、「ジジイ!」と言ったら、「何だ、未来
のクソババア!」と言いかえしてやればよい……と私は考えているが、どうだろうか。私は私の
生徒たちに対しては、そうしている。

 威圧的な過干渉、神経質な過関心、盲目的な溺愛、精神的な過保護が日常化すると、子ど
もは一見、できのよい子になる。しかしそういう子どもは、問題を先送りするだけ。しかも先送り
すればするほど、あとあと大きな問題を起こすようになる。この時期、『よい子は悪い子』と考え
るとよい。とくに親や先生に従順で、ものわかりがよく、しっかりとしていて、まじめで、もの静か
な子どもほど、要注意!


●幼児教育は、種まき

 幼児教育は、すべて「種まき」と思う。教えても、すぐ効果を求めない。またすぐ効果が出ない
からといって、ムダと思ってはいけない。実際、ほとんどのことは、一見ムダになるように見え
る。しかしムダではない。子どもの心の奥底にもぐるだけと考える。

 言うべきことは言う、教えるべきことは教える、しかしあとは時間を待つ。が、それができない
親は、多い。本当に多い。こんなことがあった。

 ある日、ひとりの母親が私のところにきて、こう言った。「先生は、うちの子(年長児)が書いた
ひらがなに、丸をつけた。しかし書き順はメチャメチャ。字も逆さ文字(上下が反対)、鏡文字
(左右が反対)になっているところがある。どうして丸をつかたか。そういう(いいかげんな)教え
方では困る!」と。

 その子どもは、たしかにそういう字を書いた。しかし大切なことは、その子どもが一生懸命、
それを書いたということ。私はそれに丸をつけた。字のじょうず、ヘタは、そのつぎ。これも大き
な意味で、種まきということになる。子どもには、プラスの暗示をかけておく。おとなが見たらヘ
タな字であっても、子どもにはそうでない。(自分の字がじょうずかヘタか、それを自分で判断で
きる子どもは、いない。)「ぼくは字がうまい」という思いが、子どもを前向き伸ばしていく。

 要するに、子どもに何かを教えるときは、心の中で、「種まき、種まき……」と思えばよい。


●えびで鯛(たい)を釣る
 『えびで鯛を釣る』という。えびをエサにするのは、もったいない話だが、しかしそのエビで鯛
をつれば、損はない、と。子どもの学習をみるときは、いつも、この格言を頭の中に置いておく
とよい。が、中には、えびで鯛を釣る前に、そのえびを食べてしまう人がいる。いろいろな例が
ある。少しこじつけのような感じがしないでもないが、最近、こんなことがあった。

 A君(小三)は、勉強が全体に遅れがちだった。算数も、まだ掛け算があやしかった。自信も
なくしていた。そこで私はA君を、小二クラスへ入れてみた。A君は、勉強がわかるようになった
ことが、よほどうれしかったのだろう。それまでのA君とは、うってかわって、明るい表情を見せ
るようになった。そして半年もすると、小三レベルまで何とか追いつくことができた。私は、A君
を小三クラスへもどした。

 が、ここで親の無理が始まった。追いついたことをよいことに、親はA君に、ドッサリとワーク
ブックを買い与えた。勉強の量をふやした。とたん、再び、A君はオーバーヒート。以前より、さ
らに気力をなくしてしまった。つまりA君のケースでは、せっかく(えび)を釣ったのに、それで
(鯛)を釣る前に、親が、その(エビ)を食べてしまったことになる。ちょっとわかりにくい例かもし
れないが、その(エビ)をじょうずに使えば、A君はそこで立ちなおることができたはず。

 ついでに……。こういうケースでは、二度目は、ない。しばらくすると、親は、「また一学年さげ
てみてほしい」と言ったが、今度は、A君がそれに応じなかった。子どもの世界では、一度失敗
すると、二度目は、ない。


●やなぎの下には……
 何かのことで失敗したとき、子どもの世界では、二度目はない。子ども自身が、それに応じな
くなる。

 たとえばAさんは子ども(小五男児)のために、家庭教師をつけた。きびしい先生だった。子ど
もとは相性が合わなかった。子どもは、「いやだ」「かえてほしい」と、何度も親に懇願した。が、
親は、「がまんしなさい!」と子どもを叱りつづけた。結果、子どもの成績はさがった。無気力症
状も出てきた。そのため半年後に、親は家庭教師を断った。

 ここまではよくあるケース。が、こうした失敗は、必ず、尾を引く。それから何か月かたったと
きのこと。Aさんは、また子どもに家庭教師をつけようと考えた。「今度は慎重に……」と思った
が、息子が、それに反発した。ふつうの反発ではない。部屋中をひっくり返して、それに抵抗し
た。

 一般論として、何かのことで、一度挫折すると、子どもは同じパターンでものごとが始まること
を、避けようとする。親は「気のもちようだ」「乗り越えられる」と考えがちだが、子どもの心理
は、もう少し複雑。デリケート。いや、時間をかければ、乗り越えられなくもないが、それよりも
早く、子どもは大きくなっていく。乗り越えるのを待っていたら、受験時代そのものが、終わって
しまう。そんなわけで、この時期の失敗や、挫折は、子どもに決定的な影響を与えると考えてよ
い。

 『やなぎの下には、どじょうは……』と言うが、子どもの世界では、『失敗は、二度ない』。この
時期、つまり子どもの受験期には、「うまくやって成功する」ことよりも、「へたなことをして失敗
する」ことのほうが多い。成功することよりも、失敗しないことを考えながら、子どもの受験勉強
は組みたてる。


●航海のし方は、難破したことがある人に聞け
 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイと東大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。
本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイと東大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。「こうして私は東大へ入った」とか、な
ど。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、
うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗する。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子
育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分
は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。が、その「知ることができない」
部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての度量が決まる。「うちの子のことは、私が
一番よく知っている」という親ほど、実は、そう思い込んでいるだけで、子どものことを知らな
い。だから、子どもの姿を見失う。失敗する。一方、「うちの子のことがわからない」と、謙虚な
態度で子どもの姿を見ようとする親ほど、子どものことを知っている。だから、子どもの姿を正
確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。
(02−12−18)

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

あなたの親子関係を診断してみませんか?

チェック項目

あなたの子どもは、家であなたの姿を見ると……
そのまま平気で、体や心を休めている。(0点)
      どこかへスーッと逃げていく。(1点)
親のいるところにはいたがらないようだ。(2点)

あなたの子どもは、学校での悩みや問題を……
よく話してくれる。私もよく相談にのる。(0)
あまり話してくれない。聞けば話してくれる。(1)
まったく話してくれない。うるさそうな顔をする。(2)

あなたは、子どもの友だちの名前や、遊びについて……
3人以上をスラスラ言え、遊びも知っている。(0)
1人か2人は知っている。遊びは知らない。(1)
どこでだれと遊んでいるか、知らない。(2)

あなたの子どもは学校から帰ってくると……
意気揚々と、明るい声で帰ってくる。(0)
いつも同じように、定刻に帰ってくる。(1)
いつも回り道をしたりして、不規則に遅い。(2)
   
春休みの旅行計画を、子どもに相談してみると……
楽しそうに、話題にのってくる。(0)
あまり楽しそうではない。(1)
親たちとの旅行をいやがるような様子を見せる。(2)

子どもの学習について、今まであなたは……
子どもの意思を尊重して決めてきた。(0)
ワークブックも、内容も、だいたい親が決めた。(1)
子どもの学習のし方は、親が決めてきた。(2)

子どもがあなたに反抗したとき……
子どものことだから、相手にしなかった。(0)
よく親子で、やりあうことがある。(1)
親に反抗するのは、まちがっている。許さない。(2)

あなたから見て、あなたの子どもは……
どこに出しても恥ずかしくない。いい子だ。(0)
何かと心配なことはあるが、任せている。(1)
何かと問題が多く、心配でならない。(2)


以上、8項目について
合計点が、10点以上の人は、親子関係がかなり危険な状態にあるとみます。(おどしてすみま
せん!)
(0)……0点、(1)……1点、(2)……2点として計算します。

(02−12−11)

後半部へ
ごめんなさい!








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-21-2

はやし浩司
++++++++++++++++
後半部です
ごめんなさい!

●親とのつきあいは、如水淡交
 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。
数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。しかしこの方法も、ひ
とつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、できるだけ身近でない人
のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題がある。理由はいく
つかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」と
いう、利己主義的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、
おかしい。そのため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもない
ことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 二〇年前、三〇年前には、まだ気骨のある
教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師
もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっている
うちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先
生たちが萎縮してしまっています」と。こういう状態をつくったのは、結局は、親自身ということに
なる。つまり園や学校の先生が、それなりに(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を
責めることもできない。私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。
が、今は、むしろ同情する側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が
抜ける場所です」と、こっそりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろ
ん、しつけから、道徳、さらには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほか
ならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(1)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個
人的な問題や、相談はしない。
(2)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ
ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って
はならない。
(3)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子どもの
名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。
(4)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。
(5)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にからま
れると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。
(6)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざかる。
見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。できれ
ば、どこか「穴」にこもるとよい。
(7)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、へ
たに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだけ
は、何としても避ける。


●表情は豊かに
表情のない子どもがふえている。大阪市内で幼稚園を経営するS氏が、こう話してくれた。
「今、幼稚園児で、表情のない子どもや、乏しい子どもが、約二割はいる」と。

少し前に書いた原稿を掲載する。

++++++++++++++++++
スキンシップ
++++++++++++++++++

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いている。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく
平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップにしかならないだろ
う。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分け
て考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップ
への誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だ
が、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合
で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そ
うだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

+++++++++++++++++++++

 一般論として、豊かな親の愛情に包まれて育った子どもは、表情が豊かで、すなお。「すな
お」というのは、心の状態と、表情が一致していることをいう。うれいしいときには、うれしそうな
顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。しかし心がゆがんでくると、それが一致しなく
なる。すねたり、ひねくれたり、いじけたりする、など。さらに症状が進むと、心と表情が遊離し
始める。うれしいはずなのに、無表情だったり、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 その子どもが心を開いているかどうかは、抱いてみるとわかる。心を開いている子どもは、抱
くと、スーッと体をすり寄せてくる。しばらく抱いていると、自分の体と一体化し、さらに呼吸のリ
ズムまで同じになる。また親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさが、
子どもの心の中に、そのまましみこんでいくのがわかる。本来、子どもというのは、そうでなけ
ればならない……という前提で、考える。もしそうでないというなら、……。いろいろな問題が考
えられる。

 さて、あなたの子どもは、どうか? 園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただい
ま!」と言って、うれしそうな顔をするだろうか。もしそうなら、それだけでも、あなたの子ども
は、すばらしい子どもということになる。


●「何とかしてくれ」言葉
 日本語の特徴なのか? 日本人は、おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。
「おなかがすいたア〜、(だから何とかしろ)」というような言い方をする。

幼児「先生、オシッコ!」
私 「オシッコがどうしたの?」
幼児「オシッコがしたい」
私 「ふうん、だったら、そこでしたら?」
幼児「ここでは、いやだ」
私 「どこでしたいの?」
幼児「トイレへ行きたい!」
私 「だったら、最初からそう言おうね」と。

 ほかにもいろいろ、ある。「のどがかわいたア〜」「足が痛いイ〜」など。幼児や子どもだけで
はない。私の叔母だが、電話で話すたびに、いつもこう言っていた。「オバチャンも、年をとった
からね……」と。つまり「年をとったから、何とかしろ」と。

 こうした言葉が生まれる背景には、日本人独特の、依存型社会がある。「甘え」という言葉を
使って表現する人もいる。つまりたがいに、ベタベタと依存することにより、支えあっている。ま
たそれを美徳と考えている。その一つの例として、たとえば今でも、子どもに向かって、「産んで
やった」「育ててやった」と恩を着せる親はいくらでもいる。それに対して、「産んでいただきまし
た」「育てていただきました」と言う子どもは、これまたいくらでもいる。ともに自立できない、つま
りは依存型親子ということになる。

 たがいに依存型世界に生きる人どうしにとっては、その社会は、それなりに居心地がよい。も
のごとが、ナーナーで動く。が、若い世代を中心に、「それではいけない」と言う人もふえてき
た。そうなると、そこで世代間の対立が生まれる。この対立が、親子関係、さらには家族をぎく
しゃくしたものにする。今、この問題は、日本中の、あらゆる場所で、またほとんどの家庭で起
きつつあるといってもよい。

 英語国では、親子でも、「お前は、パパに何をしてほしい」「パパは、ぼくに何をしてほしい」と
たがいに聞きあっている。これからの日本で求められるのは、こうしたわかりやすさではないの
か。だから……。子どもがここでいう「何とかしてくれ」言葉を口にしたら、「それがどうなの?」と
言って、それをたしなめる。これは子どもを自立させる、そして親自身も自立する、第一歩と考
えてよい。
(02−12−13)

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
  (チャットルーム開設しました。詳しくは、このマガジンの冒頭のところを!)
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

熊本県のHさんから、チックについてのご質問がありましたので、報告します。

+++++++++++++

子どもがチックになるとき

●チックの子ども 
 チックと呼ばれる、よく知られた症状がある。幼児の一〇人に一人ぐらいの割合で経験す
る。「筋肉の習慣性れん縮」とも呼ばれ、筋肉の無目的な運動のことをいう。子どもの意思とは
無関係に起こる。時と場所を選ばないのが特徴で、これをチックの不随意性という。たいてい
は首から上に症状が出る。首をギクギクと動かす、目をまばたきさせる、眼球をクルクル動か
す、咳払いをする、のどをウッウッとうならせるなど。つばを吐く、つばをそでにこすりつけると
いうのもある。上体をグイグイと動かしたり、さらにひどくなると全身がけいれん状態になり、呼
吸困難におちいることもある。稀に数種類のチックを、同時に発症することもある。七〜八歳を
ピークとして発症するが、おかしな行為をするなと感じたら、このチックを疑ってみる。症状は千
差万別で、そのためたいていの親は、それを「変なクセ」と誤解する。しかしチックはクセではな
い。だから注意をしたり、叱っても意味がない。ないだけではなく、親が神経質になればなるほ
ど、症状はひどくなる。

●回り道をして賢くなる?
 ……というようなことは、私たちの世界では常識中の常識なのだが、どんな親も、親になった
ときから、すべてを一から始める。チックを知らないからといって、恥じることはない。ただ子育
てには謙虚であってほしい。あなたは何でも知っているつもりかもしれないが、知らないことの
ほうが多い。こんな子ども(年長女児)がいた。その子どもは、母親が何度注意をしても、つば
を服のそでにこすりつけていた。そのため、服のそでは、唾液でベタベタ。そこで私はその母親
に、「チックです」と告げたが、母親は私の言うことなど信じなかった。病院へ連れていき、脳波
検査をした上、脳のCTスキャンまでとって調べた。異常など見つかるはずはない。そのあとも
う一度、私に相談があった。親というのはそういうもので、それぞれが回り道をしながら、一つ
ずつ賢くなっていく。

●原因は神経質な子育て
 原因は神経質な子育て。親の拘束的(子どもをしばりつける)かつ権威主義的な過干渉(「親
の言うことを聞きなさい」式に、親の価値観を一方的に押しつける)、あるいは親の完ぺき主義
(こまかいことまできちんとさせる)などがある。子どもの側からみて息が抜けない環境が、子ど
もの心をふさぐ。一般的には一人っ子に多いとされるのは、それだけ親の関心が子どもに集
中するため。しかもその原因のほとんどは、親自身にある。が、それも親にはわからない。完
ぺきであることを、理想的な親の姿であると誤解している。あるいは「自分はふつうだ」と思い
込んでいる。その誤解や思い込みが強ければ強いほど、人の話に耳を傾けない。それがます
ます子育てを独善的なものにする。が、それで悲劇は終わらない。

チックはいわば、黄信号。その症状が進むと、神経症、さらには情緒障害、さらにひどくなる
と、精神障害にすらなりかねない。が、子どもの心の問題は、より悪くなってから、前の症状が
軽かったことに気づく。親はそのときの症状だけをみて、子どもをなおそうとするが、そういう近
視眼的なものの見方が、かえって症状を悪化させる。そしてあとは底無しの悪循環。
●症状はすぐには消えない
 チックについて言うなら、仮に親が猛省したとしても、症状だけはそれ以後もしばらく残る。子
どもによっては数年、あるいはもっと長く続く。クセとして定着してしまうこともある。おとなでもチ
ック症状をみせる人は、いくらでもいる。日本を代表するような有名人でも、ときどき眼球をク
ルクルさせたり、首を不自然に回したりする人はいくらでもいる。心というのはそういうもので、
一度キズがつくと、なかなかなおらない。

(参考)
●チックの症状
 チックの症状は、千差万別だが、たいていは首から上の頭部に症状が表れる。ふつうでない
と思われるようなクセが続いたら、このチックを疑ってみる。(詳しくは、「はやし浩司」のサイト
へ、

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。

   (チャット・ルームを開設しました! 詳しくは、冒頭をご覧ください。)
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(402)

欧米コンプレックス

 何か、私が欧米を支持したようなことを書くと、その道の知ったかぶりをする人が、私を批判
するために、決まって使う言葉が、これ。「欧米コンプレックス」。それを口にすることによって、
その人は、私より優位な立場に立ち、私を完全否定しようとする。しかしその実、たいていその
人自身は「欧米」を知らない。つまり知らないまま、この言葉を使って、私を封じ込めようとす
る。

 実のところ、私はよくそう言われる。「あなたの意見は、欧米コンプレックスのかたまり」「欧米
かぶれ」と。つい先日も、わざわざ私の教室までやってきて、そう言ってきた人※がいた。いわ
く、「あなたは、アメリカの学校制度を礼さんしているが、(私は何も礼さんはしていないが…
…)、アメリカの学校では、暴力事件が多発し、どこも荒れているではないか。銃による乱射事
件もある。日本がそうなってもいいのか」と。驚いて、「あなたはどこを見て、そう言うのですか」
と聞くと、「ニュースや映画で見た」と。

 アメリカの学校にも、問題はある。問題だらけといってもよい。しかしアメリカといっても広い。
中国を含めた、アジア全体ほどの広さがある。インドネシアで暴動が起きたからといって、日本
でも暴動が起きていると思うのは、正しくない。それと同じように、ニューヨークの下町(ダウンタ
ウン)の学校が荒れているからといって、中南部の州の学校も荒れていると考えるのは、正しく
ない。あのテキサス州だけでも、日本の国土の二倍の広さがある。それに、私は何も、アメリカ
の銃社会をまねしろとか、エイズを蔓延(まんえん)させろと言っているのではない。

 一方、日本には日本のよさが、たしかにある。私はその「よさ」まで否定しているのではない。
ただ何といっても、日本は極東の島国。しかもつい半世紀前までは、今の北朝鮮とそれほど変
わらない体制をとっていた。今も、その亡霊は、あちこちに生き残っている。民主主義国家とい
いながら、本当の民主主義が何であるかさえわかっていない? そういう意味で、日本にもま
た問題がある。問題だらけといってもよい。私はそれでは、いけないと言っている。それでは、
世界の人に相手にされないと言っている。決して、欧米コンプレックスをもっているわけではな
い。

 少しぐらい欧米を知ったからといって、欧米を礼さんするのは許されない。しかし同じように、
ほとんど欧米を知らない人が、相手に向かって、「あなたの意見は、欧米コンプレックスのかた
まり」と言うのも、許されない。私が子どものころは、ずっとスケールは小さいが、同じような言
葉に、「都会かぶれ」という言葉があった。どこかの田舎にひっこんだような人が、好んで使っ
た言葉だ。そういう人は、自分のコンプレックス(劣等感)をごまかすために、都会的になった
人を、その言葉を使って排斥した。つまりそういう言葉を使うその人自身が、実は、「都会コン
プレックス」をもっていたことになる。それが、もう少しスケールが大きくなり、今は、「欧米コンプ
レックス」という言葉に置きかわった。つまり、「欧米コンプレックス」という言葉を好んで使う人
ほど、欧米を知らない、つまりは、欧米コンプレックスのかたまりということになる。
(02−12−13)

●(※)その人は四〇歳くらいの女性だった。こうも言った。「アメリカ人は、日本を自分の州に
しようとしている。あなたはそういうアメリカ人の意図がわからないのか」と。

●しかし日本には日本人がいるが、アメリカにはアメリカ人はいない。そこで私が「アメリカ人っ
て、どういう人ですか」と聞くと、「ハア〜?」と。まさかその人は、アメリカインディアンをアメリカ
人と言うわけでもあるまい。アメリカはまさに人種のルツボ。アジア人も多いが、その中には日
系人もいる。しかしその日系人も、いろいろな人種の人と結婚していて、日系人をほかのアジ
ア人と区別しても、あまり意味がない。私の義理の娘にしても、先祖はフランス人、ドイツ人、ス
ペイン人だそうだ。遠い昔には、インディアンの血も混ざっているという。もしアメリカ人が何か
と聞かれれば、彼らはこう答えるだろう。「アメリカという土地にいっしょに、住んでいる人」と。
日本人が本来的にもつ、人種意識とは、まったく異質のものと考えてよい。これは、オーストラ
リアについても同じ。これらの国は、もともと移民国家なのだ。

●ここまで説明しても、その女性は私の言っていることが理解できなかったようなので、私はこ
う説明した。「『東京人』とだれかが言ったとします。『東京人が、この浜松市を支配しようとして
いる』と言ったとします。しかし東京人というのは、どこにいますか。またどういう人を、東京人と
言うのですか」と。あまりよいたとえではないかもしれないが、ニュアンスはそれに近い。

●今では、「私は薩摩(さつま)の人間だ」「私は長州の人間だ」とかは、言わない。言っても意
味はない。同じように、いつか、遠い未来かもしれないが、「私は日本人だ」「私はアメリカ人
だ」と言っても意味のない時代がやってくる。必ずやってくる。まさにジョン・レノンが、『♪イマジ
ン』の中で夢を見た世界だが、私たちがめざすべき世界は、そういう世界である。国境も、戦争
もない世界だ。みんなが友だちで、仲よく暮らす世界だ。ああ、私もその「夢見る人(a 
dreamer)」なのか。

●何とも、弁解がましいエッセーになってしまったが、反省すべきところは、反省する。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(403)

北朝鮮

 あの北朝鮮が、核開発を再会すると世界に向かって、宣言した(02−12−12)。追いつめ
られた北朝鮮が、とうとう捨て身の戦術に出てきたとも言える。「瓦解(がかい)か、戦争か」(読
売新聞)ということを書いている評論家もいる。

 一方、書店には、北朝鮮の悪行を書きたてた本が、ズラリと並んでいる。どれも驚愕(きょう
がく)すべき内容の本である。強制収容所のような施設もあちこちにあるという。そしてそこで
は、日本人や日本人妻のみならず、かなりの数の北朝鮮人もそこで殺されているという。「ドイ
ツのナチスがしたような残虐行為が繰りかえされている」と書いている本もある。(このあたり
は、立ち読みなので、内容は不正確。)

 ここまでくると、あの国は、もう救いようがない。狂っているとしか言いようがない。やることな
すこと、メチャ、メチャ。しかもそれが、だれの目にも、はっきりとしてきた。ロシアにしても中国
にしても、あきれ果てているにちがいない。この段階で、「北朝鮮は友好国だ」などと、ロシアや
中国が言えば、ロシアや中国が、世界の笑いものになる。

 が、問題は、あの金正日という男だ。(昨日のNセンターを見ていたら、キャスターのK氏も、
「あの男」と、「男」と呼び始めたので、私も、それにならう。)独裁者の常として、こうした独裁者
は、自己崩壊する前に、国民の目を外にそらすため、外国に戦争をしかけることが多い。また
その可能性が、きわめて高い。おとなしく自己崩壊するなどということは、考えられない。そんな
ことをすれば、自分が今までにした悪業の数々が、白日のもとにさらされることになる。

 で、その相手は、日本か、それとも韓国か。

 ここで仮定だが、もし日本のバックにアメリカがいなければ、北朝鮮は一〇〇%、日本に向
けて戦争をしかけてくるだろうということ。あるいは、とっくの昔に、しかけてきただろうというこ
と。私は六八年に、ユネスコの交換学生として、韓国にいたが、そのときですら、韓国の人がも
つ日本への敵対心は、ふつうではなかった。もし北朝鮮の人たちの敵対心があのときのまま
だとするなら……。想像するだけでも、ゾッとする。

 いろいろ言う人がいる。反米を唱える人もいる。しかし今回ほど、日本がアメリカに助けられ
た例は、ほかにない。先の米朝会議(02−10−3)で、北朝鮮の姜?柱第一外務次官が、「核
兵器は、日本に向けたもの。(アメリカではない)」と明言したという(「諸君」一月号)。これに対
してアメリカのケリー国務次官補は席を蹴って、立った。……立ってくれた。もし仮に、そのと
き、ケリー国務次官補が、席を立ってくれていなかったら、どうなっていたか。さらに仮に、それ
が逆の立場だったら、つまり日本の代表に、北朝鮮の高官が、「核兵器は、アメリカに向けた
もの。(日本ではない)」と言ったとしたら、どうだっただろうか。日本の政府高官は、席を蹴って
立ったであろうか。北朝鮮としては、敵はアメリカではないということを言いたかったのだろう。
が、それはアメリカには通じなかった。

 こうしたアメリカの姿勢に、日本は感謝しなければならない。が、それだけではない。それを
受けて、数日前、アメリカ政府は、大量破壊兵器の拡散防止に関する新戦略の中で、「大量破
壊兵器や長距離ミサイルを開発したり、取得しつつある国家やテロ組織に対しては、先制攻撃
も認める」(九三年度版「包括的大量破壊兵器拡散防止戦略」)と言明した(一一日付「ワシント
ンポスト紙」)。そしてその上で、「大量破壊兵器による攻撃には、核兵器による報復も辞さな
い」とも。さらにアメリカのブッシュ大統領は、「……アメリカおよび同盟国が、大量破壊兵器で
攻撃されたら、即座に大量の兵器を投入して、徹底的に反撃する」(読売新聞)と述べたとも伝
えられている。この新戦略のもつ意味というか、北朝鮮に与えるショックは、大きい。わかりや
すく言えば、「北朝鮮が、仮に日本に対して、核兵器を使うようなことがあれば、北朝鮮を抹殺
する」という意味である。この点でも、日本は助けられた。

 北朝鮮の今の金正日体制は、もう崩壊する。まさに瓦解する。時間の問題といってもよい。
ムダな戦争など、してはいけない。する必要もない。が、私たち日本人は、それにともなう混乱
に対しては、心の準備をしておかねばならない。仮に米朝戦争ということになれば、韓国や日
本も、当然、それに巻き込まれる。形の上では、米朝戦争でも、これは実質的には、日本と朝
鮮の戦争である。先の朝鮮動乱とちがって、日本が傍観者であることはありえないし、許され
ない。では、どうするか。

 とにかく、戦争はしない。とくに北朝鮮とはしない。ああいう愚劣な国は、相手にしない。だか
ら外交的には、ノラリクラリと北朝鮮の矛先(ほこさき)をかわしながら、金正日体制が自然死
するようにしむける。そしてそれを待つ。そのときは、北朝鮮内で、内乱のようなものが起こる
かもしれないが、それについては傍観する。とにかくああいう狂った指導者だから、『さわらぬ
神に、たたりなし』。一見、頼りなく見える小泉政権だが、今回の一連の北朝鮮問題に関して
は、今の小泉政権のやり方を、私は支持する。
(02−12−13)

●いさましい好戦論には警戒しよう。
●日本国内におけるテロ活動には警戒しよう。
●日本国内の、在日朝鮮人の人たちには、やさしく親切にしてあげよう。彼らとて、金正日とい
う頭のおかしな男に翻弄(ほんろう)された、犠牲者に過ぎない。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞










件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-21-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 546人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  56人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−21号(155)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    【マガジン読者の方のための、専用掲示板です】
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
このマガジン読者の方どうし+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
(3)http://8411.teacup.com/hhayashi/chat をクリックしてください。
(4)ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
●毎日午前10:00〜11:00、もしくは午後10:00〜11:00前後
  に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただきます。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育てポイント」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(401)

子育てポイント

●ぼんやりする
 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ドリーム」と
いう。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。デイドリームとい
うのは、「ぼんやりすること」をいう。

 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心のホコリ
を払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにしても、エジソンにし
ても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デイドリーマー(夢見る人)」とい
うニックネームがつけられていた。

 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、好まし
いことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。


++++++++++++++++++++++
子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++++++++

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」とい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。
(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)

++++++++++++++++++++++

●ハングリー精神を大切に
 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす
ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい
かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習
量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ
ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ
ど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ
せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの
が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと
である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学
生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、
一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩
んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って
あげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日
本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本
人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい
る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の
パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ
りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき
た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ
の親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ
け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ
にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ
とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全
体のリズムの中で考えるようにする。


+++++++++++++++++++
小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み)
+++++++++++++++++++

子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感
覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期
を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お
となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与
えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す
る。

「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくな
ったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは「子
どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小
二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行っても
らう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてし
まう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入り
にくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容
そのものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビ
にこんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答
えていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚その
ものが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円
のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると
しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前
に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し
かしこれだけは覚えておくとよい。

五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校
生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えなくてはならな
くなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と
度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあな
たの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労する
のはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

+++++++++++++++++++++

●それでも、ゲームを買ってあげたいと思っている、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう
すればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。
そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき
どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは
パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、
パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ
が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ
イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。

+++++++++++++++++++++

●子どもの目を見る
 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけない。賢
い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子どもの目は、そ
うでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕され
た、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の目のような目をしている。あ
あいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思うと、ぞっとする。

 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみるとよ
い。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでなく、どこかフワ
フワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいていはこわいから、おとな
しくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママに叱られているとき、ポケモンの
歌を、心の中で歌っている」と。

 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャとよくしゃべ
り、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを言う。このタイプの
子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テレビのバラエティ番組に出
てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なことを、思いついたまま、言葉にしてい
るだけ。

 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与えたりす
ると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきというより、習慣
によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくるのは、親の育て方の問
題ということになる。

 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。


++++++++++++++++
考える子ども(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++

人間は考えるアシ

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別
のことである。たとえば、こんな会話。

 A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているにすぎな
い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ
と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで
きるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、間違っ
ているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。ある朝幼稚
園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石
の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。
おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。

+++++++++++++++++++

●叱るテーマはひとつ
 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、おとなの
ほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩をしっかりと
つかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おどしたり、威圧してはい
けない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考えるようにし向ける。

 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。とくに大切
だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださない。「いつになっ
たら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一度叱ったら、あとはときを
待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親子げんかは、一日で消す』という格
言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日で消せ』。

 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこんな
ことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子どもを叱ると
きは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「たしかに威圧
感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的ではないですね」と。
私も同意見だった。

子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をしっかりと
見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、それで本当に叱
れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を説く人が現れる。


+++++++++++++++++++++
子どもの叱り方(中日新聞掲載済み)
+++++++++++++++++++++

子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳から遠い』
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、
ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれて
しまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結
果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの
理解を示してあげる。

++++++++++++++++++++


●居なおり論
 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」「どうで
もなれ」「勝手にしろ」と。私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえ
ば子どもの夜尿症にしても、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッ
コをしたければしろ。あと何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。そ
ういうことは、子どもの世界では、よくある。

 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。この
スジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子どもに、安
心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。……と、どこか、『風が吹けば、オ
ケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。心理学の世界にも、フリップ・フロップ理
論というのがある。判断がどっちつかずで、フラフラしている(=フリップ・フロップ状態)ときとい
うのは、心もたいへん不安定になる。しかしどちらかへころんでしまえば、心は落ちつく。

 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め!
 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる!
 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ!

 こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればしているほ
ど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むことができる。要する
に、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てには、居なおりはつきもの。
それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くなるはず。


●たくましさは、緊急時をみる
 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、その
つど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみる。見かけ
や、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。こんなことがあっ
た。

 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、ときには
友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていったときのこと。私が
別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそをかいて、私のところへ飛
んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「たき火が一挙に燃えあがって、こ
わくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近くの雑草に燃え移るところだった。私はす
かさず足で踏んで火を消したが、それにしても……? Y君のたくましさは、見かけだけだっ
た。

 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急用がで
きた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、家をあけた。
母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。

 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も炊事もし
てくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」と。こういう子ども
を、たくましい子どもという。

++++++++++++++++++++

子育て自由論(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++ 

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


●あせりは禁物
 子育てをしていて、(1)あせり、(2)イライラ、(3)子どもの遅れを強く感じたら、親は手を引
く。それは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態をつづければ、子ど
もは勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、神経症から精神を病ん
で、うつ病になる。が、それだけではすまない。親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしく
なる。では、どうするか? あなたはあなたで、子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自
分の生きがいを見つける。が、それでも「勉強を……」ということなら、プロに任せたほうがよ
い。多少、お金を出しても、そのほうが、結局は安あがりになる。

 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考えられ
る。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メンツ、世間
体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。そういうもの
が、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あなたはつぎの項目で、い
くつが自分に当てはまるだろうか。

(1)子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはそのつど、子ど
もを叱ってしまう。
(2)近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、また問題
があるように見える。
(3)ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」と考える
だけで、夜も眠られないときがある。
(4)何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であっても、いつ
もおおげさに子どもを叱ってしまう。
(5)子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考えると、家
にいても、気が晴れない。

 これらの項目で、三〜四個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と考えてよ
い。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見ただけで、カーッ
と頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いたように、子育てから手を
引く。

 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それは子ど
もの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚であったとか、
あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にして、不幸な家庭で育
てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、あなた自身を疑い、心の
中までメスを入れてみる。この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根
は深い。このことについては、また別のところで考える。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

後半部へ


++++++++++++++++++++++++++++++++









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-21-1(再)

一部、配信ミスがありましたので、再配信します。重複する方は
お許しください。

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 546人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  56人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★ ★★★★★★★★★★★★★
02−12−21号(155)
★ ★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

● 静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    【マガジン読者の方のための、専用掲示板です】
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
このマガジン読者の方どうし+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
(3) http://8411.teacup.com/hhayashi/chat をクリックしてください。
(4) ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
● 毎日午前10:00〜11:00、もしくは午後10:00〜11:00前後
  に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただきます。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育てポイント」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(401)

子育てポイント

●ぼんやりする
 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ドリーム」と
いう。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。デイドリームとい
うのは、「ぼんやりすること」をいう。

 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心のホコリ
を払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにしても、エジソンにし
ても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デイドリーマー(夢見る人)」とい
うニックネームがつけられていた。

 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、好まし
いことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。


++++++++++++++++++++++
子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++++++++

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」とい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。
(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)

++++++++++++++++++++++

●ハングリー精神を大切に
 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす
ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい
かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習
量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ
ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ
ど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ
せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの
が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと
である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学
生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、
一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩
んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って
あげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日
本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本
人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい
る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の
パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ
りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき
た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ
の親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ
け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ
にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ
とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全
体のリズムの中で考えるようにする。


+++++++++++++++++++
小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み)
+++++++++++++++++++

子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感
覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期
を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お
となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与
えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す
る。

「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくな
ったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは「子
どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小
二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行っても
らう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてし
まう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入り
にくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容
そのものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビ
にこんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答
えていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚その
ものが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円
のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると
しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前
に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し
かしこれだけは覚えておくとよい。

五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校
生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えなくてはならな
くなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と
度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあな
たの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労する
のはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

+++++++++++++++++++++

●それでも、ゲームを買ってあげたいと思っている、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう
すればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。
そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき
どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは
パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、
パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ
が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ
イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。

+++++++++++++++++++++

●子どもの目を見る
 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけない。賢
い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子どもの目は、そ
うでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕され
た、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の目のような目をしている。あ
あいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思うと、ぞっとする。

 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみるとよ
い。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでなく、どこかフワ
フワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいていはこわいから、おとな
しくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママに叱られているとき、ポケモンの
歌を、心の中で歌っている」と。

 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャとよくしゃべ
り、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを言う。このタイプの
子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テレビのバラエティ番組に出
てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なことを、思いついたまま、言葉にしてい
るだけ。

 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与えたりす
ると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきというより、習慣
によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくるのは、親の育て方の問
題ということになる。

 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。


++++++++++++++++
考える子ども(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++

人間は考えるアシ

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別
のことである。たとえば、こんな会話。

 A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているにすぎな
い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ
と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで
きるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、間違っ
ているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。ある朝幼稚
園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石
の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。
おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。

+++++++++++++++++++

●叱るテーマはひとつ
 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、おとなの
ほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩をしっかりと
つかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おどしたり、威圧してはい
けない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考えるようにし向ける。

 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。とくに大切
だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださない。「いつになっ
たら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一度叱ったら、あとはときを
待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親子げんかは、一日で消す』という格
言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日で消せ』。

 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこんな
ことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子どもを叱ると
きは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「たしかに威圧
感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的ではないですね」と。
私も同意見だった。

子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をしっかりと
見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、それで本当に叱
れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を説く人が現れる。


+++++++++++++++++++++
子どもの叱り方(中日新聞掲載済み)
+++++++++++++++++++++

子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳から遠い』
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、
ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれて
しまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結
果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの
理解を示してあげる。

++++++++++++++++++++


●居なおり論
 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」「どうで
もなれ」「勝手にしろ」と。私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえ
ば子どもの夜尿症にしても、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッ
コをしたければしろ。あと何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。そ
ういうことは、子どもの世界では、よくある。

 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。この
スジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子どもに、安
心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。……と、どこか、『風が吹けば、オ
ケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。心理学の世界にも、フリップ・フロップ理
論というのがある。判断がどっちつかずで、フラフラしている(=フリップ・フロップ状態)ときとい
うのは、心もたいへん不安定になる。しかしどちらかへころんでしまえば、心は落ちつく。

 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め!
 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる!
 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ!

 こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればしているほ
ど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むことができる。要する
に、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てには、居なおりはつきもの。
それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くなるはず。


●たくましさは、緊急時をみる
 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、その
つど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみる。見かけ
や、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。こんなことがあっ
た。

 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、ときには
友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていったときのこと。私が
別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそをかいて、私のところへ飛
んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「たき火が一挙に燃えあがって、こ
わくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近くの雑草に燃え移るところだった。私はす
かさず足で踏んで火を消したが、それにしても……? Y君のたくましさは、見かけだけだっ
た。

 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急用がで
きた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、家をあけた。
母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。

 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も炊事もし
てくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」と。こういう子ども
を、たくましい子どもという。

++++++++++++++++++++

子育て自由論(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++ 

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


● あせりは禁物
 子育てをしていて、(1)あせり、(2)イライラ、(3)子どもの遅れを強く感じたら、親は手を引
く。それは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態をつづければ、子ど
もは勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、神経症から精神を病ん
で、うつ病になる。が、それだけではすまない。親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしく
なる。では、どうするか? あなたはあなたで、子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自
分の生きがいを見つける。が、それでも「勉強を……」ということなら、プロに任せたほうがよ
い。多少、お金を出しても、そのほうが、結局は安あがりになる。

 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考えられ
る。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メンツ、世間
体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。そういうもの
が、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あなたはつぎの項目で、い
くつが自分に当てはまるだろうか。

(1) 子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはそのつど、子
どもを叱ってしまう。
(2) 近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、また問題
があるように見える。
(3) ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」と考える
だけで、夜も眠られないときがある。
(4) 何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であっても、いつ
もおおげさに子どもを叱ってしまう。
(5) 子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考えると、家
にいても、気が晴れない。

 これらの項目で、三〜四個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と考えてよ
い。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見ただけで、カーッ
と頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いたように、子育てから手を
引く。

 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それは子ど
もの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚であったとか、
あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にして、不幸な家庭で育
てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、あなた自身を疑い、心の
中までメスを入れてみる。この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根
は深い。このことについては、また別のところで考える。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++

後半部へ
よろしくお願いします。
メリークリスマス!
はやし浩司











件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-23-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)    メリークリスマス!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 547人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  86人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  56人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−23号(156)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    【マガジン読者の方のための、専用掲示板です】
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
このマガジン読者の方どうしの方+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
(3)http://8411.teacup.com/hhayashi/chat をクリックしてください。
(4)ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
●毎日午前10:00〜11:00前後に、時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参
加させていただきます。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育てポイント」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(407)

子育てポイント

●過剰期待は、禁物
 何が苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。親は励ましのつ
もりで、「あんたはやればできるハズ」「まだ何とかなる」「そんなハズはない」と、子どもを追い
たてるかもしれない。が、追いたれば追いたてるほど、子どもは、崖っぷちに立たされる。

 そこで教訓。「うちの子は、やればできるハズ」と思ったら、すかさず、「うちの子は、やってこ
こまで」と思いなおす。(やる・やらない)も力のうち。(やらない)というのは、すでにその力しか
ないということ。それがわからなければ、あなた自身のことを思い浮かべてみればよい。

 だれしもその限界の中で、懸命に生きている。限界があるのが悪いのではない。その限界が
あるから、人は、体や心の健康を維持できる。が、もしその限界を超えればどうなるか? 短
い間ならともかくも、その「ひずみ」は、必ず、症状となって現れる。私も三〇歳前後のころは、
ただひたすらがむしゃらに働いた。休日も、月に一度あるかないかというような状態だった。
で、その結果だが、私は突発性何とかという病気で、左耳の聴力を完全になくしてしまった。

 あなたも、そして子どもも、無意識のうちに、その「限界」を感じ、その範囲の中で生きてい
る。これは体や心を守るための防衛本能といってもよい。とくに子どものばあいは、「やってこ
こまでね」と、あきらめる。そういう親の思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもは伸
び始める。親が「何とかなる」とがんばっている間は、伸びない。

 たいていの親は、子育ても終わりに近づくと、こう言う。「いろいろやってはみたけれど、あな
たはやっぱりふつうの子どもだったのね。考えてみれば、何のことはない。私だって、ふつうの
人間なのだから」と。

+++++++++++++++++++++
ふつうの価値について、書いたのが、つぎの
原稿(中日新聞掲載済み)です。
+++++++++++++++++++++

生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこ
にいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをして
いる……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価
値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決す
る。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●子どもは環境で包む
 ウソか本当かは知らないが、ヨモギでも、麻(あさ)の中でいっしょに育てると、曲がらず、まっ
すぐ伸びるという。中国の荀子(じゅんし)(中国戦国時代の儒者、紀元前三一五〜二三〇)
も、つぎのように書いている。いわく『蓬(よもぎ)麻の中に生(お)いて扶(たす)けずして、自ず
から直し』と。

 こうしたたとえ話は、中国人や、そして日本人が、好んでよく使う。が、自然の中には、そうで
ないケースもあるので、たまたまヨモギがそうであるからといって、ほかの植物がそうであると
はかぎらない。こういうのを「コジツケ」という。『青は藍より出でて、藍より青い』というのも、そう
だ。そう言われると、何となく、「そうかなあ」と思ってしまう。しかしそれこそ、相手の思うツボ。
相手は、そういう形で、あなたの批判力を煙に巻く。

 しかし、だ。そうは言っても、この荀子の言っていることは、まちがってはいない。子どもはま
さに環境の産物。そういう環境におけば、そうなるし、そうでない環境におけば、そうでなくな
る。たとえば読書好きの親の子どもは、読書が好きになる。そうでない親の子どもは、そうでな
くなる。勉強好きの親の子どもは、勉強が好きになる。そうでない親の子どもは、そうでなくな
る。以前、こんなことがあった。

 その子ども(小五男児)は、どこかつっぱり始めていた。言葉や態度が乱れ、生活もだらしな
くなっていた。母親が何かを言おうとすると、即座に、「ウッセー!」と。そこで相談があったの
で、私は、その子どもをしばらく預かることにした。

 高校二年生が、四、五人集まるクラスがあった。私はそのクラスに、その子どもを入れてみ
た。中学生は、みな、受験生で、緊張感が違った。最初のころは、その子どもはその雰囲気に
圧倒されて、ガチガチだった。しかしそのうち、喜々として勉強するようになった。そして半年も
すると、あのつっぱり症状が、ウソのように消えた。理由があった。

 あとでその子どもの母親に、話を聞くと、こう教えてくれた。その高校生の中に、野球部の生
徒がいた。その子どもは、その生徒を、理想の先輩をとらえた。自分も野球が好きだったこと
もある。「日曜日など、その高校生が出る試合に、いつも応援に行っていました」と。

 つまりその子ども(ヨモギ、失礼!)は、高校生(麻?)の中で育つうちに、曲がり始めた心
を、まっすぐ、自ら伸ばしてしまったというのだ。すべての子どもが、このようにうまくいくとはか
ぎらないが、しかしこういうケースは、少なくない。子どもは環境で包み、その環境の中で、伸ば
す。

 ……ということになるが、押しつけではいけない。反対に、『麻でも、ヨモギの中で育てると、か
えって曲がってしまうこともある』のでは? 少し前だが、こんなエッセーを書いたことがある。

++++++++++++++

私の子育ては、何だったの?

++++++++++++++

親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?
 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし
た。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、
読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も
部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんど
うがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、
当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費
ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反し
て、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最
近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇
歳の女性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち
 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプ
リントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、
時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だ
と、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は
何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一
緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。
それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今
度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつ
ど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス
 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとは
っきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確か
めた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするというこ
とを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの
私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母
親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるい
はどこが違うというのか。

●親の役目
 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかも
しれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはき
びしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであ
ろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとっ
て、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望
んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。が、もう一つ問題が残
る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないというこ
と。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体
何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●子どもを代用品にしない

 自分の子どもを、父親のかわり、あるいは母親のかわりに使う人は多い。ある母親は、小学
生の息子に、こう言った。「生活が苦しいのは、お父さんの稼ぎが悪いからよ。お母さん(私)が
苦労するのは、お父さんに生活力がないからよ。あなたはがんばって、いつか、お母さんを楽
にしてね」と。

 その母親は、自分の息子を、自分の味方につけたいと思ってそう言ったのだろうが、こういう
ケースでは、まちがいなく、息子の心は、母親から離れる。たとえ息子が同意したとしても、今
は、体も小さく、母親の世話にならなければならないから、そうしているだけ。

父親が娘に、母親の代用を求めるケースもあるにはあるが、このように、母親が、息子に、父
親の代用を求めるケースが、圧倒的に多い。その背景には、望まない結婚であったとか、不本
意な結婚であったとか、さらには結婚後、夫婦関係がおかしくなったことなどがある。ただ代用
のし方は、その人によってちがう。さらに代用しながら、それに気づかない親も多い。

 子どもの受験勉強に狂奔する親。子どもにベタベタに依存する親。子どもを溺愛する親。子
どもに夢や期待を託す親。あるいは反対に、「あなたはお兄ちゃんだから」と、何かにつけて、
「だから論」を振りまわし、子どもをしばる親など。たいていは心のどこかで、満たされない何か
を求めて、そうする。

 「子どもの自立」を考えたら、同時に「親の自立」も考える。親が自立しないで、子どもに自立
を求めるのは、酷というもの。あるいは不可能。これは子どものためというより、親自身のため
でもある。今、日本の親子関係をとりまく環境が、急速に変わりつつある。自立していく子ども
と、自立できない親という図式が、よりはっきりとしてきた。そういう中、結局は、さみしい思いを
するのは、親自身ということになる。

 私たちは、親として、私たち自身の人生を前向きに生きる。その第一歩が、ここでいう『子ど
もを代用品にしない』ということになる。 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●まず信ずる
 子どもは(おとなも)、自分を信じてくれている人の前では、自分のよい面を見せようとする。
そういう子どもの性質をうまく利用して、子どもは、伸ばす。そこであなたは、どうか・ あなたは
子どもを、信じているか? そこでテスト。

Q1:あなたと子どもが通りを歩いていたら、偶然、高校時代の友人が通りかかったとする。そ
のときその友人があなたの子どもをしげしげと見て、「いくつ?」と、年齢を聞いたとする。

そのとき自分の子どもに自信のある親は、「まだ一〇歳よ」と、「まだ」という言葉を無意識のう
ちにも使う。自信のない親は、「もう……」と言って顔をしかめたりする。

あなた自身はどうか、頭の中で想像してみてほしい。もし後者のようなら、子どもをなおそうと思
うのではなく、あなた自身の心を作りかえることを考える。このタイプの親は、たいてい子どもの
悪い面ばかりをみて、よい面をみようとしない。「あそこが悪い」「ここが悪い」と、欠点ばかりを
指摘する。もしそうなら、今すぐそういう子育て観は改める。

 ……ということは、前にも書いた。しかし実際には、子どもを信ずることは、簡単なことではな
い。「信ずる」という言葉を使うこと自体、すでに疑っていることになる。そこでここでは、「子ども
を信ずることのむずかしさ」について、考えてみる。

 英語国では、親はことあるごことに、「私は息子の○○を自慢に思っています」とか、「自慢の
娘です」とか言う。子どもがいる前でも、平気でそう言う。日本語にはない言い方なので、言わ
れた私のほうが、とまどってしまうことも多い。たとえばそういうとき日本では、へりくだって、「う
ちの愚息です」とか言うのだが……。

 同じように、学校の授業などでも、英語国の先生たちは、実によく生徒をほめる。見ていて、
「?」と思うほど、よくほめる。たとえば先生が生徒に、「君は、どう思うか?」と聞く。そのとき生
徒が、かなりトンチンカンなことを言っても、「君の意見は、ユニークでいい」とか、「今までにな
い新しい考え方だ」とか言って、ほめる。

 が、日本では、そうはいかない。親には親の権威、教師には教師の権威というものがある。
その権威を使って、親や教師は、子どもを指導しようとする。私が子どものころでさえ、学校の
先生や、親に逆らうことなど、考えられなかった。身のまわりは、まさに権威だらけ。もちろんそ
の中でも、最高の権威は、教科書であった。当時の日本では、「教科書に書いてある」というだ
けで、それこそ泣く子も黙った。そして当時の為政者たちは、その教科書にそって、つまり教科
書どおりの子どもをつくろうとした。今でも、その亡霊は残っている。少し、こまかい話になる
が、最近、こんなことを経験した。

 今、小数どうしの掛け算は、小学五年生ですることになっている。その掛け算でのこと。たと
えば、0・5掛ける0・6は、「0・3」が、正解である。「0・30」は、まちがいということになってい
る。しかしどうして「0・30」は、まちがいなのか? 有効数字ということを考えるなら、「0・30」
のほうが、正確ではないのか? そこで子どもたちに聞くと、「教科書がそうなってるウ!」と。

 少し話が脱線しそうになってきたので、もとにもどす。要するに、私は権威をもちだすこと自
体、子どもを信じていないということを書きたかった。信じていないから、権威で子どもをしば
る。信じていないから、子どもを権威で押さえつける。そういう意味でも、「子どもを信ずる」とい
うことは、いろいろな部分にからんでくる。ある部分では、子育ての根幹にまでからんでくる。も
っと言えば、この日本では、「子どもは、信ずべき存在ではない」という前提で、親たちは子育
てを始める。そういう意味では、子どもを信じている親など、ほとんどいない。「子どもは親がつ
くるもの。そしてそれが家庭教育」と、ほとんどの親は、そう思っている。学校の先生もそうで、
「子どもは学校がつくるもの。そしてそれが学校教育」と、そう思っている?

 そういう大きな流れがあるから、あなたが子どもを信じられないからといって、それはしかた
ないことかもしれない。実のところ、私自身も、現在、大きな問題に直面している。まさに私自
身が、子どもを信じているかどうかをためされているような問題だ。

息子の一人が、今、通っている大学を中退するか、さもなくば学部を変更したいと言い出してい
る。別の大学を受験しなおすことも考えているようだ。どうするかは、息子自身の問題だから、
私は、こう言った。「お前の問題だから、自分で考えて、結論を出しなさい」と。しかしそうは言っ
たものの、この胸の中の雑音は何か。「もし中退したら、どうなるのか?」「学部変更ということ
になると、さらに何年も、大学へ通うことになるのか?」「また受験勉強でもするつもりなの
か?」と。

 息子のこの問題に直面したとき、まっさきに思い出したのが、私自身のこと。私が、M物産と
いう商社をやめて、幼稚園の講師になったとき、母は、電話口でこう言って、泣き崩れてしまっ
た。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と。母だけは私を信じてくれると思っていたが、それ
は、はかない幻想だった。そういう残念な経験が私にはあるから、私は今、懸命に息子の、心
の支えになってやろうと思っている。私だけは、息子を信じてやろうと思っている。その思いは、
かなりしっかりしているが、しかしそれとは別に、ここでいう「胸の中の雑音」があるのも事実。
まったくないというわけではない。ザワザワしている。しかしそういう雑音があるということ自体、
私は息子を信じていないということになるのか? できれば息子に、「中退する? ああ、それ
もいい考えだね」と言ってあげたいが、私には、そこまで言えない。

 さてさて、あなたはあなたの子どもを信じているか。本当に信じていると、自信をもって言える
か。これは子育ての中でも、たいへん大きなテーマだから、あなたも一度、じっくりと考えてみて
ほしい。
(02−12−15)

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(408)

サービス過剰

 子どもに遠慮する親、子どもに気がねする親、子どもの歓心を買う親、子どもの機嫌をとる
親……。ある母親は、こう言った。「私からは言えません。先生のほうから、うちの子(小四男
児)に言ってくれませんか?」と。「どうしてお母さんから、言えないのですか?」と聞くと、「こわ
いです……」と。

 さらにこんな親もいた。「娘(中三)が、どうしてもB高校へ行くといって困っています。先生の
ほうから、何とか、C女子高校へ行くように説得してください。……で、こんなこと、先生にお願
いしたことは、絶対、娘には内緒にしておいてくださいね」と。

 サービス過剰が転じて、親はこういう親になるが、このタイプの親は、子どもに嫌われるの
を、何よりも恐れる。もともとは子離れできない、依存心の強い親とみる。「私は私」という姿勢
が貫けない。甘い。で、一度こうなると、すでに親子関係は、崩壊しているとみてよい。親子の
リズムそのものが、合っていない。

 要はこうならないようにする。予防する。なってしまってからでは遅いし、リズムというのは、一
度できると、変えるのは、たいへんむずかしい。が、ほとんどの親は、「自分はだいじょうぶ」と
か、「うちの子にかぎって……」とか思っているうちに、そうなる。その前兆症状を見逃してしま
う。そしてにっちもさっちもいかなくなってはじめて、それに気づく。

 そこであなたは、だいじょうぶか。まだ子育てが始まったばかりのあなたを、少し診断してみ
よう。あなたは、つぎの項目のうち、いくつに該当するだろうか。

(1)どちらかというと、サービス精神が旺盛で、子どものためなら、犠牲になることをいとわな
い。
(2)子ども中心の生活になっていると感ずることが多い。また結果的そうなっていることが多
い。
(3)親にベタベタと甘える自分の子どもを見ると、いとおしく、かわいい子どもだと思う。
(4)自分自身も親への依存心が強く、何かにつけて、親に相談したり、親の援助を受けること
が多い。
(5)何でも子どもがそれを望む前に、自分のほうで用意することが多い。心配先行型の子育て
をしている。

 これらの五項目のうち、四つとか五つ、該当すれば、あなたはかなり危険な状態にあるとみ
てよい。親子のリズムそのものが合っていない。で、こうしたリズムの乱れを感じたら、親が子
どものリズムに合わせるしかない。子どもは、親のリズムに合わせることはできない。ただリズ
ムを合わせるといっても、子どもの言いなりになれということではない。子どものリズムに合わ
せるということは、子どもの意思や気持ちを確かめながら、そのつど行動することをいう。育児
拒否や放棄が子どもにとってはよくないのと同じように、サービス過剰や溺愛もよくない。必要
なことはするが、やりすぎないということ。そういう姿勢で、子育てのあり方を、もう一度、見なお
してみる。
(02−12−15)

【追記】●サービス過剰とサービス不足
 子育ては、やりすぎてもいけない。しかし不足していても、いけない。ほどほどのところで、必
要なことはするが、限度を超えてはいけない。一方、必要なことをしないのもいけない。そういう
意味で、子育ては、大きく、(サービス過剰)と、(サービス不足)の二つに分けられる。

(サービス過剰)……溺愛、過保護、過干渉、過関心、
(サービス不足)……育児拒否、虐待、冷淡、無視、育児放棄

 どちらにせよ、子どもには大きな影響を与える。ただしこうした過不足には、客観的な尺度が
ない。だからかなりの(サービス過剰)と思われている親でも、「私は不足している」と思ってい
るケースもあるし、反対に、「もっとサービスをしなければ……」と思うような親でも、「私は過剰
だ」と思っているケースもある。自分の子育てを客観的にみるのは、たいへんむずかしい。

 そこで私は、「ママ診断」という方法で、母親の子育てを診断するという方法を思いついた。サ
イトの中にも、いくつか収録したので、興味のある人は、そちらを見てほしい。

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(404)

心の病気

●心の病気
 「病気」という漢字からもわかるように、病気は、もともと「気の病(やまい)」をいう。とくに東洋
医学では、そのため、体の病と心の病を区別しない。体の病イコール、心の病、心の病イコー
ル、体の病と考える。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、要するに、心だって、病気に
なる。なってあたりまえ。なったところで、おかしくない。

 その心の病気をもった人がふえている? 本当はふえてはいないのかもしれないが、目立つ
ようになってきた? 少し前までは、心の病気になることは恥ずかしいことだということで、みな
は、隠そうとしてきた。しかしそれを、隠さなくなってきた? だから見た目にはふえてきた?

 こうした心の病気に対して、まだ無知と誤解が、蔓延(まんえん)している。「無知」というの
は、心の病気というものが、どういうもので、またどのように対処したらよいのか、それがよく理
解されていないということ。つぎに「誤解」というのは、どうしても心の病気を軽く考えがちという
こと。そのため、すべきことをしなかったり、してはいけないことを、してしまう。

 私自身は、どういうわけか、心の病気を広く、まんべんなくもっている。あるいはひょっとした
ら、みな、そうなのかもしれない。風邪をひいたり、下痢をしたり、熱を出したり、頭痛になった
りするように、だれしも、ときには落ち込んだり、不安になったり、気をもんだり、イライラしたり
する。しかしそういう状態がある一定の範囲で収まっているあいだは、問題はない。が、その範
囲を超えて、症状がひどくなるときがある。私のばあいを、書く。

●はげしい偏頭痛
 私は三〇歳前後のころ、はげしい偏頭痛に苦しんだ。きびしい仕事がつづいて、ほっと一息
ついたようなときに、その発作が起きた。それは頭痛と呼べるような頭痛ではなかった。ふとん
の中で体を丸めて、「頭を切ってくれ!」と叫んで、四転八転するような頭痛だった。が、当時は
まだ偏頭痛のメカニズムもわかっていなかった。総合病院へ行くと、脳腫瘍(しゅよう)と診断さ
れた。「明日、入院して、開頭手術」という前々日、別の総合病院へ行くと、そうでないとわかっ
て、その手術をしなくてすんだ。が、あのときもし手術をしていたら、今ごろ、どうなっていたこと
か……。

 で、偏頭痛については、その後、強力な薬が開発されて、発作はそれで抑えられたが、なぜ
その発作が起きるかということになると、そこには私自身の心の病気があった。

 私は子どものころ、ひどいあがり症で、人前に立つと、よく頭の中がパニック状態になってし
まった。よく覚えているのは、中学二年の終わりに、生徒会の会長に立候補したときのこと。そ
れまでは、「会長くらい何だ」と思っていたのだが、いざ、あの壇上にのぼってみると、何も話せ
なくなってしまった。ある程度、原稿を暗記していたはずなのだが、その原稿など、まるで頭に
思い浮かばなかった。だからかなりトンチンカンなことを言って、その演説を終えたと思う。もち
ろん何を話したか、覚えていない。恥をかくというのは、ああいうときの様(さま)を言うのだろ
う。私はまさに恥をかいただけ。

 こうした傾向は、そのあと、ずっと大学生になるまでつづいた。で、そういう自分を思い起こし
てみると、そういう傾向が、すでに幼児期に始まっているのがわかる。私は子どものころ、覚え
ているのは、泣いたあと、よくしゃっくりをしていたということ。ヒック、ヒック、と。そのことから、
私はかなりはげしい泣き方をしていたのがわかる。かんしゃく発作をもっていたのかもしれな
い。興奮性の強い子どもだったかもしれない。情緒はかなり不安定だったようだ。ちょっとした
ことで、すぐパニック状態になった。

 つぎによく覚えているのは、暗いトイレでは、用を足せなかったこと。しかたなしに、つまり否
応(いやおう)なしに、自宅のトイレを使っていたが、私は、あのトイレがいやだった。暗くて、臭
かった。台の上にのると、床がブカブカとした。そのこともあって、私は閉所恐怖症になり、つづ
いて暗闇恐怖症になり、さらにはそれが転じて、高所恐怖症になったりした。こうした恐怖症
は、一度、頭の中に思考回路(思考パターン)ができると、あれこれ姿を変えて、外に出てくる。
少なくとも、そうでない人よりは、ずっと出やすくなる。最近でも、交通事故をきっかけに、私は
車恐怖症や、スピード恐怖症になった。

●不安神経症
 そんな私が、不安神経症になったのは、何といっても、高校受験や大学受験がある。高校受
験のときは、「勉強しなければ、(家業の)自転車屋を継げ」と脅された。大学受験のときは、
「国立大学でなければ、お金は出せない」と脅された。そういう意味で、私はいつも、何かに脅
されていたような気がするが、それが私の母の指導のし方だったかもしれない。私は、本当に
ゆううつな高校時代を過ごした。

 が、ここまで書いて私は、自分の生い立ちが、もっと大きな原因だったことを知る。まだ母が
生きているから詳しくは書けないが、私の家庭は、「家庭」としての機能を失っていた。心が休
まる場所すらなかった。食堂をかねた居間はあったが、その横が、そのまま裏口につづく通路
になっていた。落ち着いて体を休めることもできなかった。私は「家庭」にいつも大きな不安を
いだいていた。もっといえば、私の心は、何らかの形で、いつも緊張していた。あるいはその緊
張感がとれなかった。よく私は、「愛想のいい子ども」と言われた。しかしその「愛想」にしても、
心の底からにじみ出るような愛想ではなく、自分をごまかすための愛想だった。私は愛想をよく
することで、相手の心をたくみに、自分のものにしようとした。相手にうまく取り入ろうとした。

●私であって、私でない私
そういう私だから、本当の「私」と、外で見せる「私」の間には、距離があった。たとえば私はた
しかに愛想がよい子どもだったが、しかし心は許さなかった。愛想をよくしながら、いつも別の
目で、相手を見、相手の行動を観察し、そして相手の心を読んだ。もっと言えば、相手を利用
することだけしか、考えていなかった。これは同時に、私にとっては、たいへん不幸なことだっ
た。

 私には友人がいなかった。仲よく遊んだり、つきあったりする仲間はいたが、「友」と呼べるよ
うな友人はいなかった。実際のところ、今でも、どういう人が「友」であり、どういう人が「友」でな
いのか、よくわからない。ただ一人、心を開き、何でも話せ、安心できる人というのは、ワイフし
かいないのではとさえ思うときがある。あとは家族だが、私の息子たちは別として、どうもこのと
ころ、親戚づきあいもギクシャクとしてきた。親戚といっても、離れて住んでいると、いつの間に
か、考え方も生き方も変わってくる。もう少し若ければ、多少の違いを乗り越えて、自分の心を
調整することもできるのだろうが、このところ、それもおっくうになってきた。ときどき、「親戚でも
他人のようなものだなあ」と思うときが多くなった。

 他人に心を開けないというのは、そういう状態にいる子どもを見ればわかる。たとえば幼児で
も、やさしくしてあげると、本当にうれしそうな顔をして、そのやさしさが、そのままスーッと心の
中にしみていくのがわかる子どもがいる。が、そうでない子どもいる。ものの考え方が、ひねく
れている。いじけやすい。すねやすい。つっぱりやすい、など。このタイプの子どもは、相手に
心を開かない。開かないから、こちらからも入っていくことができない。……つまり私は、そうい
う子どもだった?

●心の病気との闘い 
 私はいつも、自分の心の病気と闘っているような感じがする。ときどき、薄い氷の上を、恐る
恐る歩いているような気分になるときがある。ふと油断すると、そのたびに、恐怖症になった
り、不安神経症になったり、パニック状態になったりする。うつ病的になることもあるし、そのた
め、人に会うのさえ、いやになることもある。まさに何でも、ござれという感じ。
 
 先日も、読者の一人から、そういう相談があったので、私はこう書いた。「私のばあい、精神
が不安定になったら、煮干を腹いっぱい食べ、あとはワイフの乳首をチューチュー吸いながら
寝ます。ハハハ」と。煮干を食べれば、カルシウム分やマグネシウム分を摂取できる。ワイフの
乳首を吸うというのは、それがどんなものであるかは、男性なら、みな知っているはず。あなた
が女性で、それがわからなければ、夫に聞いてみたらよい。(そう言えば、女性はかわいそう
だ。そういうとき、どうするのか? まさか夫の乳首を吸うわけにもいかないだろう? いや、吸
うときもあるかな……? この話はここまで。)

 あとは、引き金となるような事件をできるだけ起こさないようにする。私の三男は、買ったば
かりの新車のワイパーを、だれかに折られ、それでひどく落ち込んでしまったことがある。私
も、そういう点では、モノによくこだわる。数年前だが、通信販売でパソコンを通信販売で買っ
たが、そのパソコンには、買ったときから、小さなスリキズがついていた。私はそれが苦になっ
てしかたなかった。そういうことは、ある。だからそういう状態に、自分を追い込まないようにす
る。

 が、それでも処理できなくなったら……。私のばあいは、真正面から、その問題にぶつかって
いく。ときには、けんかすることもある。昔、アパートに住んでいたころ、道をはさんだ向こう側
の住人に、何かといやがらせをされたことがある。話せば長くなるが、そのときも私は相手の
家の中まで乗り込んでいって、けんかをした。ふつうのけんかではない。暴力までは使わなか
ったが、大声では、だれにも負けない。そんなけんかだった。

 こうして自分の中に、ストレッサー(ストレスの原因)をためないようにしている。つまりこうした
心の病気は、「なおす」という考え方ではなく、「その状態にならない」という方法で、対処してい
る。それも心病気と闘うには、大切なことではないか。
 
●心の病気を隠さない
 あなたにせよ、あなたの子どもせよ、仮に心の病気になっても、隠す必要はない。明るくおお
らかに構えればよい。またそのほうが、結果的に、はやくなおる。……と、自分のことを書いて
いるのか、心の病気について書いているのか、自分でもわからなくなってしまった。言いかえる
と、私は「私」のことを話していると、いつもこの「心の病気」の話になってしまう。そういう意味
で、「私」イコール、「心」ということになる。多分、この原稿を読んでいる、あなたもそうかもしれ
ない。「あなたは何か?」と聞かれたら、きっとあなたも、あなたの心をテーマにするのではない
だろうか。こう決めてかかるのも、失礼な言い方になるかもしれないが、私はそう思う。

 結論から言えば、心に問題のない人はいない。病気にならない人もいない。今は病気でなく
ても、かつて病気になったとか、あるいはこれから病気になるということもある。だれも、この心
の病気とは無縁ではありえない。だから……。どうせ病気になるなら、明るく、前向きにとらえて
いけばよい。決して、うしろ向きにとらえてはいけない。
(02−12−14)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(405)

利己主義

 自己中心と、自分本位はちがう。自己中心というのは、自分を中心にしてものを考え、かつま
た自分の姿を、客観的にとらえられないことをいう。自己中心的な人は、そのため、「自分が絶
対、正しい」と過信するあまり、その考えを他人に、(もちろん、子どもにも)、押しつけようとす
る。あるいはその返す刀で、相手に向かっては、(もちろん、子どもに向かっても)、「あなたは
まちがっている」と決めてかかる。

 自分本位というのは、わがまま、自分勝手なことをいう。「自分さえよければ……」という考え
方を、いつも優先させる。そのため、独断、偏見、ひとりよがりな考えをもちやすい。「あとは、
知ったことか! 野となれ、山となれ!」と。

 問題は、利己主義。「他人の迷惑をかまわず、自分の快楽・利益だけを第一とする考え方」
(日本語大辞典)という意味だが、英語では、エゴイズムという。これが家族の中に入りこむと、
やっかいなことになる。そうでない人には信じられないような話だが、利己主義的な親はいくら
でもいる。ある程度は、だれしも、見栄、メンツ、世間体を気にするものだが、利己主義的な親
は、自分のために子どもさえも、その道具に使ってしまう。子どもの将来については、ほとんど
考えない。人格や人間性も認めない。いろいろな特徴がある。

(代償的愛)自分の支配下に子どもを置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいというのが、
代償的愛。一見、「愛」に見えるが、しかし愛ではない。利己主義的な親ほど、「産んでやった」
「育ててやった」「かわいがってやった」と言うが、その実、「子どもを大切にする」ということがど
ういうことなのかさえ、わかっていない。このタイプの親は、必要以上に、子どもの世話をやく。
手間をかける。しかしそれは、結局は、子どもを自分に手なずけるためにすぎない。ある母親
は、こう言った。「息子なんて、産むものじゃ、なかった。親なんて、さみしいもんですわ。あんな
にかわいがってやったのに、親を捨てるなんて!」と。息子が、大学を卒業したあと、結婚し、
遠くに住むようになったのを、その母親は、そう言った。

(虚栄心)利己主義的な親は、自分の「外見」を必要以上に、飾ろうとする。つくろう。そのた
め、子どもも、その道具に使ってしまう。たまたま自分の子どものできがよかったりすると、そ
れをことさら見せびらかしたりする。あるいは反対に隠すこともある。ある母親は、「子ども(高
校生)の制服を見られるのがいやだ」という理由で、毎日、自分の子どもの送り迎えを、車でし
ていた。さらに息子夫婦をだまして、その財産を使い込んでしまった親すら、いる。息子がそれ
に抗議すると、「親が自分の子どもの財産を使って、何が悪い!」と、その母親は居なおったと
いう。

(固執性)利己主義的になれば、なるほど、当然のことだが、モノ、金、過去、名誉、地位などに
固執するようになる。「自分のものは、絶対、自分のもの」というような考え方をする。そういう
意味では、計算高くなり、ケチになる。が、それがさらに進むと、「子どものものも自分のもの」
と考えるようになり、さらに子どもそのものも、「自分のモノ」と考えるようになることもある。たと
えば親の反対を押し切って結婚した娘に対して、毎晩、「お前をのろい殺してやる」と脅してい
る母親すらいる。
 
 こうした利己主義というのは、子育てのみならず、生活の場でも、「心の敵」と考える。それを
自分の中に感じたら、戦う。戦うしかない。生きザマが利己主義的になればなるほど、結局は、
その反射的作用により、その人は、社会からも見放され、ついで家族からも見放される。しか
しそれだけではすまない。人生に「真理」があるなら、その真理からも遠ざかってしまう。つまり
は時間をムダにする。浪費する。さらに……。利己的な利益にしがみつけばしがみつくほど、
魂そのものまで、束縛してしまう。それはまさに、魂の「死」そのものと言ってもよい。利己主義
を、決して安易に考えてはいけない。
(02−12−14)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(406)

真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。いくら、自由を求めても、死の前では、ひとた
まりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んで
も、死を乗り越えて自由になることはできない。はっきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。が、へたに財産があると、そうは
いかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが
気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。
泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私か
ら「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。もっと言えば、真理が何であるか、その謎
を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言えば、究極の自由を求めることが、真理に到
達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

無条件の愛
真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などな
い。一文無しの人は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おい
でになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は
死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるよ
うになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれ
を、私に教えてくれた。

+++++++++++++++++

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれな
い」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカ
ギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた
地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。財宝は、その先? 
いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わからない。そこには、ひょ
っとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なことに、それ以上の手がか
りは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。彼の
言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちがって
はいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。
(02−12−15)

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-25-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  今日はクリスマス!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /     メリークリスマス!     
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 552人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  58人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−25号(157)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    【マガジン読者の方のための、専用掲示板です】
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
このマガジン読者の方どうしの方+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
(1)http://8411.teacup.com/hhayashi/chat をクリックしてください。
(2)ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
●毎日午前10:00〜11:00に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させ
ていただきます。(毎週月曜日は、できるだけ参加します。)
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「メリークリスマス」
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育てワンポイント

●成長は段階的
子どもの成長は、段階的なもの。何かを教えても、一次曲線的になだらかに伸びるのではな
く、段階的(あるいは階段的)に、トントンと伸びていく。とくに「はじめの一歩」のときは、そうで、
子どもはしばらく(観察)→(蓄積)を繰りかえし、それが一定の臨界点にきたとき、つまりある
日を境に、爆発的に伸び始める。たとえば何かのおけいこをさせるとき、子どもによっては、最
初の数か月は、ほとんど反応を示さないことがある。教えても教えても、教えたことが、そのま
まどこかへ消えていくような感じになる。

 よく短気な親は、この(観察)→(蓄積)の段階で、子どもを叱ったりする。しかし叱れば、子ど
もの興味そのものを、そいでしまうことがある。動機そのものを、つぶしてしまうこともある。こ
の時期は、一見、伸びが停滞するかのように見えるが、じっと、「待つ」。待って、子どもの中
で、「力」が臨界点に達するのを待つ。待ちながら、一方で、子どもを励ます。ほんの少しでも、
あるいはどんな小さなものでも、進歩が見られたら、ほめる。そういう姿勢が、子どもを伸ば
す。


●成長を喜ぶ
 子どもを伸ばすコツは、いっしょに成長を喜ぶ。「もうこんなことができるの!」「どんどんいい
子になるわね!」「今度は、もっとすごいことができるわよ!」とか。そこでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、そのつど、あなたに報告にくる
だろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、家庭教育のあり方を、かなり反省したほう
がよい。今は小さなキレツだが、やがて断絶ということにもなりかねない。

 ある家庭には、四人の男の子がいたが、どの子どもも明るく屈託がない。ふつう下の子が、
上の子のおさがりをもらうのを、いやがるものだが、その家庭ではそうでなかった。下の子が、
お兄ちゃんのズボンをもらったりすると、みんなに「見て!」「見て!」と言って、走りまわるの
だ。秘訣はすぐわかった。母親が、そのおさがりを下の子どもに与えるとき、母親はこう言って
いた。「ああら、すごい! あんたもお兄ちゃんのが、はけるようになったのね。すごい、すご
い!」と。


●名前を大切に
 子どもの名前は大切に。ことあるごとに、「あなたの名前は、いい名前」を口グセにする。子ど
もの名前が、新聞や雑誌にのったら、それを大切にする。切り抜いてアルバムにしまったり、
高いところに張りつけたりする。そういう姿勢の中から、子どもは名前を大切にするようにな
る。そしてそれがやがて、転じて、子どもの自尊心となる。この自尊心が、子どもを前に伸ば
す。

 何かのことで、道からはみ出しそうなとき、自尊人が、それを踏みとどまらせる。私とて、本当
は、邪悪な人間かもしれない。が、「はやし浩司の名前を汚したくない」という思いが、いろいろ
な場面で、ブレーキとなって働く。たとえばこうしてものを書くときも、「はやし浩司」の署名を入
れるときは、その文には、大きな責任を感ずる。決していいかげんな気持にはなれない。

ためしに、あなたの子どもに、こう聞いてみてほしい。「あなたは、自分の名前が好き?」と。
「どう思う?」と聞くのもよい。そのとき子どもが、うれしそうに、「好きだよ」と言えばよし。そうで
ないなら、ここに書いたことを参考に、子どもの名前の扱い方について、もう一度、よく考えて
みてほしい。


●喜ばす喜びを
 子どもをやさしい子どもにしたかったら、子どもには、喜ばす喜びを教える。たとえばスーパ
ーでいっしょに買い物をするときも、「これがあるとお兄ちゃん、喜ぶわよ」「これを妹の○○に
分けてあげると、○○は喜ぶわよ」と。そのつど、だれかを喜ばすように、しむける。

 やさしい子どもというのは、だれかを喜ばすことを知っている子どもということになる。こんな
子どもがいた。

 幼稚園でみると、いつもだれかを三輪車に乗せ、そのうしろを押していた。見ると、その三輪
車に乗りたいため、ほかの子どもたちが列をつくって待っていた。そこである日、私はその子ど
も(年長児)に、こう言った。「たまには、君の乗った三輪車を、だれかに押してもらったら?」
と。するとその子どもは、こう言った。「ぼく、このほうが、楽しいもん」と。

 実はその子どもというのは、私の二男だが、二男は、本当に心のやさしい子どもだった。今も
そうだ。そういう二男のことを思い出すと、親の私でさえ、心が洗われる。またそういう思い出
が、私の心を豊かにしてくれる。


●スキンシップを大切に
 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。これから先、
科学的研究がさらに進み、やがてスキンシップのもつ、不思議な力が解明されていくだろうが、
しかし現象としては、すでに証明されている。

 よく「抱きグセ」が問題になるが、抱きグセは、問題ではない。抱くことによって象徴される、依
存心が問題なのである。しかしその依存心は、スキンシップが多いからつくものでも、また少な
いからつかないものでもない。スキンシップと依存心は、まったく別のもの。少なくとも、分けて
考える。

 日本人は、もともとスキンシップの少ない(少なすぎる)民族である。南米などを旅するとわか
るが、向こうの親子は、(夫婦も)、本当にいつも、しかも日常的にベタベタしている。こちらが
見ていても、恥ずかしくなるほど、ベタベタしている。で、何か問題があるかというと、そういうこ
とはない。

 むしろ、スキンシップを受けつけない子どものほうが、心配。心のどこかに大きな問題をかか
えているとみてよい。たとえば心の緊張感がとれないタイプの子どもは、親が抱こうとしても、心
を許さない。許さないだけ、抱かれようとしない。(反対に、心を開き、心を許している子ども
は、抱くと、そのまま体を親のほうに、すり寄せてくる。)この話を、ある会合の席で話したら、一
人の父親が、こう言った。「子どもも女房も、同じですなあ」と。

 つまり夫婦でも、たがいの心が親密なときは、妻でも抱きごこちがよいが、そうでないときは、
そうでない、と。「夫婦げんかのあとなどは、妻でも、丸太のように感ずるときがあります」とも言
った。不謹慎な話だが、どこは的(まと)を得ている。

 そこであなたも一度、子どもを抱いてみてほしい。しばらくして子どもが、あなたの体と一体化
するようなら、それでよし。ふつう一体化すると、呼吸のリズムまで同じになる。が、そうでない
なら、スキンシップをふやし、どこかに何かのわだかまりがないかをさぐってみる。


●口グセに注意する
 あなたは日ごろ、子どもに向かって、どんなことを言っているだろうか。口グセにしていること
を、少しだけ、思い浮かべてみてほしい。長い時間をかけて、あなたの子どもは、その口グセ
どおりの子どもになる。口グセを、決して軽くみてはいけない。理由が、ある。

 子どもの心は、カガミのようなもの。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、
あなたを思う』というのがある。つまりあなたがあなたの子どもを、「いい子」と思っていると、あ
なたの子どもも、あなたのことを「いい親」と思っているもの。そうでなければそうでない。そして
こういうたがいの思いが、長い時間をかけて、たがいの心をつくる。

 口グセというのは、まさにあなたの「心」ということになる。そしてその口グセが、よいものであ
れば、それでよし。そうでなければ、今からすぐ、その口グセを改める。とくに、子どもをマイナ
スに引っぱるような口グセには注意する。「あなたはダメね」「いつになったら……」「どうしてこ
んなことができないの」は、タブー。


●ペットを飼う
 もしあなたにその余裕があれば、子どもにはペットを飼わせる。子どもはペットをとおして、多
くのことを学ぶ。犬やネコが代表的なものだが、ウサギ、小鳥、ハムスターなどもある。ペットを
ていねいに飼い、心をかよわせている子どもは、どこかほかの子どもと違う。ほっとするような
温かさを感ずる。

 が、そのペットが無理なら、温かい素材でできた、ぬいぐるみを与える。私の調査でも、約八
〇%の子どもが、(男女の区別なく、年中児〜小学高学年児)、日常的にぬいぐるみと親しん
でいることがわかっている。が、それだけではない。

 子どもに母性が(父性でもよいが)、それが育っているかどうかを知るためには、ぬいぐるみ
をもたせてみればわかる。心豊かな環境で、親の愛情をしっかりと受けて育ったような子ども
は、ぬいぐるみを見せると、さもいとおしいといった様子で、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せた
りする。そうでない子どもは、そうでない。同じく私の調査だが、約八〇%の子どもは、ぬいぐる
みを見せると、心温かい反応を示す。しかし二〇%の子どもは、ほとんど反応を示さない。中
には、ぬいぐるみを見せたとたん、キックしたり、放り投げる子どももいる。


●上の子教育を大切に
 子どもの心の中でも、嫉妬心と攻撃心は、できるだけいじらないほうがよい。これらのもの
は、原始的な感情であるだけに、扱い方をまちがえると、そのまま子どもの心をゆがめること
にもなりかねない。よくある例が、赤ちゃんがえりという現象。

 下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よく知られ
ている。それまでしなかった夜尿症を再び始めたり、あるいは話し方そのものまで、赤ちゃんぽ
くなったりするなど。これは下の子への嫉妬心が、本能的な部分で、子どもの脳をいじるためと
考えられる。そういうとき、親は、よく、「上の子どもも、下の子どもも、平等にかわいがっていま
す」と言うが、上の子にしてみれば、平等ということが、不満。それまで一〇〇%受けた愛情
が、半分に減ったことが問題なのだ。

 本来は、そうならないよう、下の子どもを妊娠したときから、少しずつ、上の子教育を始める。
コツは、下の子が生まれるのを、少しずつ、楽しみにさせるようにしむける。「あなたの弟か
な? 妹かな?」「生まれたら、いっしょに遊んであげてね」と。まずいのは、いつの間にか、下
の子が生まれたというような状況にすること。

 ある母親は、下の子の出産のとき、上の子を立ちあわせたというが、それも一つの方法かも
しれない。参考までに。
(02−12−17)

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

賢い人・愚かな人

●愚かな人
 賢い人からは、愚かな人がよくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわからない。さらに
悲劇的なことに、愚かな人は、自分では、決して愚かだとは思っていない。自分の愚かさがわ
からないから、愚かな人ということにもなる。もっと言えば、賢い人は、自分の中の愚かさを知
る人と言ってもよい。つまり賢い人は、愚かな人を見ながら、自分の中の愚かさを知り、その愚
かさを克服しようと、前に進む。だから……。賢い人は、どんどん賢くなる。そして結果として、
ますます愚かな人が、よくわかるようになる。

 数年前だが、一人の女性(四〇歳くらい)が、私の家に飛び込んできて、こう言った。「日本の
教科書が、どうして日本の悪口を書いているのか? また書かねばならないのか?」と。たま
たま教科書問題が、世間をにぎわしているところだった。そこで話を聞くと、こう言った。

 「日本の植民地政策は、正しかった。日本が植民地にしてやったおかげで、中国も、韓国も、
あそこまで発展できた。道路も鉄道も整備してやった」
 「中国や朝鮮は、自分たちの教科書で日本の悪口ばかり書いている。そういうことは許せな
い。もっと日本としても、抗議すべきだ」
 「日本が朝鮮や満州を植民地にしたのも、結局は、彼らが日本を攻撃してきたからだ」などな
ど。

 私はそういう意見そのものよりも、四〇歳前後の若い母親が、そう言ったのには、驚いた。ふ
つうこういうことを口にするのは、五〇歳、あるいは六〇歳以上の男性である。しかし、そんな
若い女性が! そうそう、その女性は、こんなことも言った。「アメリカは、日本を自分たちの第
X番目の州に組み入れようとしている。あなたはそういうことが許せるか?」と。

 最初のうちは、私もひとつずつ、ていねいに説明していたが、そのうち怒り出したのは、私で
はなく、その女性のほうだった。「あんたは、それでも日本人か!」と。そこで私もこう言った。
「私は頭のてっぺんから、足の先まで日本人だ。ほかのだれよりも、この日本のことを心配して
いる!」と。

 結局、議論にならなかったが、あえて言うなら、もしその女性の論理がとおるとするなら、いつ
か日本が、隣のK国ならK国でもよいが、どこかの国に侵略されて、その国の植民地になって
も、文句は言えないということになる。自己中心的というか、こういう女性は、相手の立場でも
のを考えることができない。まるで謙虚さがない。ただ一方的に、自分の意見を押しつけようと
しているだけ。……というのが、その女性の愚かさである。

●自分の愚かさ 
その女性の視野は、きわめて狭いものであった。それに無学というか、不勉強というか、私
は、間に、越えがたいほどの距離を感じた。たとえば「日本を攻撃してきたから」という部分に
ついて、「いつ、中国や朝鮮が、日本を攻撃してきたのですか?」と私が聞くと、「ハア〜、あん
たはそんなことも知らないの?」と、逆に言いかえされてしまった。

 が、こうした愚かさは、その女性だけのものではない。相対的な立場で、私自身にもある。…
…あった。先日も、大学時代の恩師とメールであれこれ議論するうち、とうとうその恩師を怒ら
せてしまった。その恩師は、こう書いてきた。

 「君の意見は、レベルが低すぎます。あとで第一級の論文を送ってあげますから、まずそれ
を読んで、世界の知性がどのレベルにあるか、それを謙虚に知ることです」と。

 で、数日後、その論文が贈られてきた。書いたのは、国立R研究所の主任研究員でもあり、
かつその所長であったM氏が書いたものだった。内容は、日本の科学概論と言えるものだっ
た。私はそれを読んで、愕然(がくぜん)とした。あまりにも大きなレベルの違いを感じたから
だ。もっとも科学の分野は、私の専門ではないから、そうした違いを感じたとしても、おかしくは
ない。たとえば電子工学について言えば、私はパソコンをある程度は操作できる。しかしCPU
(中央演算装置)の設計図については、拡大図を見ても、何がなんだか、さっぱりわからない。
あえて言うなら、その論文は、科学を論じながら、CPUの未来像を論じたようなものだった。そ
ういう「違い」はある。しかし私は愚かだった……。

 そこで私は気がついた。自分の愚かさを知るためには、視野を広く、深くするだけでは、足り
ない。まず自分自身に謙虚でなければならない、と。もっと言えば、傲慢(ごうまん)であること
自体、すでにその人(私)は、愚かであるということになる。さらにもっと言えば、愚かな人は、
自分の愚かさに気づかない。私が恩師に、一人前の顔をして、しかも対等のつもりで反論して
いたが、まさか自分が、その愚かな人間だったとは!

 その人(私)が、賢いかどうかは、結局は、相対的な問題にすぎない。下には、下がいるが、
同時に、上には上がいる。だから自分では賢いと思っていても、それは自分でそう思っている
だけ……ということになる。つまりこの世の中には、私も含めて愚かな人はいくらでもいるが、
賢い人はいないということになる。仮に賢い人がいるとしても、それは相対的にそうであるにす
ぎない。
(02−12−17)

●「愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知る」(シェークスピア「お気に召すま
ま」(五幕一場))

●「偉大なる精神は、偉大なる精神によって形成される。ただし、それは同化するということで
はない。むしろ多くの軋轢(あつれき)によって、形成される。ダイヤモンドがダイヤモンドを研
磨するように」(ハイネ「ドイツの宗教と哲学」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


夫婦の会話

 夫婦の間でも、ほとんど会話のない人もいるという。寝床はもちろん、寝室まで別という人が
いる。人、それぞれだし、それでうまくいっているなら(?)、他人がとやかく言ってはいけない。
言う必要もない。「夫婦のあり方」に、形はない。

 で、私たち夫婦は、私の仕事の関係もあって、ほぼ四六時中、いっしょにいる。「四六時中」と
いっても、私が市内で、仕事をしているときは別だが、ほとんどの行動をともにしている。風呂
さえも、結婚してからこのかた、いっしょに入っている。たいてい長湯で、ああでもない、こうでも
ないと話しながら、ときには一時間以上も、入っている。ふとんにもぐってから、一時間以上、
話すことも少なくない。ワイフは、静かな感じのする女性だが、結構、私とはおしゃべり。そんな
わけで、こと「夫婦の会話」ということになれば、私たち夫婦は、会話が多い。顔と顔をあわせ
れば、何かをしゃべっている。しっかりと計算したわけではないが、平均して毎日、四時間以上
は会話をしているのではないか。あるいはそれ以上かもしれない。

 そのためかどうかは知らないが、当然、よく衝突もする。意見の対立というよりは、ささいな言
動がきっかけとなって、衝突する。若いころは、とっくみあいのけんかもよくした。私は性格的に
は、決して、温厚な人間ではない。子どものころから、気は小さいくせに、負けず嫌いで、何か
につけてけんかばかりしていた。決してヤワな男ではない。一方、ワイフも、七人兄弟の中で、
もまれて育っている。これまた根性がある。「いやだ」と一度、言い出したら、一歩も引きさがら
ない。こういう夫婦だから、衝突しないほうがおかしい。しかしその内容も、変わってきた。

 若いころは、同じフトンの中で、ワイフが、腸内ガスを放出すると、私は足で蹴飛ばして、ワイ
フを外へ追いだしていた。すなおにあやまればよいのだが、「私じゃ、ない。あんたでしょ!」な
どというから、そうした。が、最近は、ワイフの腸内ガスも、自分の腸内ガスのように、まあ、何
とか寛大にとらえることができるようになった。昔、だれだったか、ギリシャの哲学者が、『自分
のウンチは、臭くない』と言ったが、三〇年もいっしょにいると、それに近くなる……らしい。

 で、ときどき、こう思う。どちらが先に死ぬかはしらないが、どちらが先に死んでも、たがいに
さみしくなるだろうな、と。ときどきワイフにこう聞く。「お前は、ぼくが先に死んだら、どうする? 
話し相手もいなくなるぞ」と。するとワイフは、たいていこう言う。「私はだいじょうぶ。友だちがい
るから」と。なるほど、女性はそういう意味では強い。しかし男性はそうはいかない。……と思
う。本当は、この問題について、もっと深刻に考えなければならないのかもしれないが、実のと
ころあまり考えたくない。「なるようになるだろう」というふうに考えて、忘れるようにしている。ま
さか、今から心の準備をしておくというわけにもいかないだろうし……。

 会話が多いほうがよいか、少ないほうがよいかということになれば、多いほうがよいに決まっ
ている。こう決めてかかるのは正しくないかもしれないが、そのほうが意思の疎通(そつう)がで
きる。しかし問題は、会話の中身。あるいはその前提として、たがいの信頼や愛情がなければ
ならない。基本的な生きザマも同じでないとまずい。夫がA宗教を信じ、妻がB宗教を信じてい
たのでは、うまくいくはずがない。(それでもうまくいっている夫婦も、いるにはいるが……。)

 これから先、たがいに何年、いっしょに暮らせるかわからないが、今は今で、今のときを大切
に生きたい。残り少ない人生を、心のどこかでヒシヒシと感じながら……。私のばあい、熟年離
婚というのはないと思うが、しかし安心しているわけでもない。そうそう、そういえば、女性の美
しさは、若さではない。たしかにスベスベした若い女性の肌は、美しい。魅力的だ。しかし本当
の女性の美しさは、無数に重なりあったシワの中にある。そのシワを手でのばしながら、その
肌に自分の唇(くちびる)を、はわせる。よくも悪くも、そのシワこそが、私たちの人生。そのシ
ワ一本、一本に、私とワイフの人生がきざまれている。いろいろあったが、本当に、いろいろあ
ったが、それが私たち夫婦が生きてきた道。それにまさる美しさは、この世界には、存在しな
い。
(02−12−17)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


クリスマス

 わが家のクリスマスも、すっかりさみしくなった。このところ、ワイフと二人だけで祝う年も、多く
なった。小さなケーキを買ってきて、何本かローソクを立てて、おたがいに、「メリークリスマ
ス!」と言いあって、それでおしまい。正月の元旦には、家族が全員集まるようにはしている
が、クリスマスについては、そういう約束はない。息子たちは息子たちで、勝手にそれぞれのク
リスマスを楽しんでいる。

 クリスマスの最大の楽しみは、やはりプレゼント。しかし今年は、あれほど買わないと誓って
いたパソコンを、また買ってしまった。近くの店で投げ売りしたものがあったので、それを買って
しまった。〇二年の夏モデルだったが、性能は、悪くない。「誕生日とクリスマスのプレゼントを
合わせてならいい」とワイフが言ってくれたので、買った。今、そのパソコンで、この原稿を書い
ている。(気持ちいい!)

 ワイフへのプレゼントは、まだ決めていない。(この原稿を書いているのは、一二月一六日。)
「クリスマスに何がほしい?」と聞くと、ワイフは、「私はいらない」と。私のワイフは、実に質素な
女性で、ほとんど何もほしがらない。若いときからそうで、それは今も変わっていない。「何か、
ない?」と聞くと、やはり、「……ない」と。私としては、かえってそのほうが困るのだが……。

 さて、クリスマス。イエス・キリストの誕生日。例年だと、私にとっては、一番、気ぜわしいころ
である。どういうわけか、この前後に、懇談会や講習が重なる。それに年末、年始の準備もし
なくてはいけない。もっとも、それもいいかげんになってきたが……。息子たちが子どものころ
は、ウスまで買って、毎年、餅つきをしていた。が、この五、六年は、それもしていない。しかし
忙しいのは、変わらない。おせち料理を用意して、やっと一息つけるのが、だいたい一二月三
〇日。

 そう言えば、その年末、年始の過ごし方も、このところいいかげんになってきた。「寝ていたほ
うがいい」とか、「ビデオでも見よう」とか、そんな過ごし方になってしまった。ただひとつ欠かさな
い行事は、映画の『ベン・ハー』を見て、ベートーベンの第九交響曲を聴くこと。学生時代には、
毎年、この第九を歌っていた。その流れから、そうなった。で、その『ベン・ハー』で思い出した
が、あのベン・ハーを演じた、チャールトン・ヘストン氏は、今、アルツハイマー型痴呆症と闘っ
ているという。私にとっては、俳優というより、ベン・ハーその人だから、こういう話は、本当にさ
みしい。

 さて、〇三年は、どんな年になるのか。やはり最大の関心ごとは、景気と国際問題。私が住
む浜松市は、工業都市で、ホンダやスズキががんばっている。ホトニクスやローランドもがんば
っている。ヤマハもがんばっている。しかしそれでも、街の中は、元気がない。……なくなった。
「まだ、浜松はラッキーなほうだ」と、自分をなぐさめているが。いつまでなぐさめられることや
ら。みんな、もうとっくの昔に、息切れしてしまっている。あきらめている。

 国際問題については、何と言っても北朝鮮の動向。戦後、日本がズルズルと引き伸ばしてき
た、ことなかれ主義が、ここにきて急に、破綻(はたん)しつつある? 日本外交が、まさに正念
場を迎えたという感じだが、どうなることやら? まあ、どうなってもよいように、心がまえだけは
しておこう。無責任な言い方に聞こえるかもしれないが、この私がいくら叫んでも、日本は、日
本の政治は、ビクともしない。このところ何かにつけて、気力が弱くなった。私の正義感もいつ
までつづくことやら。同時に、何というか、無力感がただようようになった?

 しかし本当に、神様っているのかなあ……。子どものときから、毎年、クリスマスになると、そ
のことばかり考えていた。今もその習慣が残っていて、クリスマスになるたびに、それを考え
る。「本当に、神様っているのかなあ……」と。そう思いながら、みんなには、こう言う。「メリーク
リスマス!」と。結構、私も、ロマンチストなのかもしれない。

 では、みなさん、(今年も)、メリークリスマス!

++++++++++++++++++++

クリスマスについて、書いたのが、つぎの
原稿です。ある本で発表するつもりでいま
したが、出版社の編集長の判断で、ボツに
なった原稿です。

++++++++++++++++++++

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は
一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は
神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がい
る。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っ
ても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り
 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。一方、今、小学生たちの間で、占い
やおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアク
セスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなの
だろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」と
いうのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だ
って持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を
使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こ
んな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く
と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと
ができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると
 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回
向論である。これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それ
は仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽
に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事
典・石田瑞麿氏)となる。しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何が
なんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでし
まう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことでは
ないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ
行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育
するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、
そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論
 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判
されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうと
きでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神
や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらい
で、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だ
いたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが
地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわ
かる。

●キリストも釈迦も教育者?
 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生
……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをか
なえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そ
うなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。スーパー
パワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学
も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心
境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。
(02−12−16)

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな方がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

未完成の原稿なので、掲載するかどうか
迷いましたが、掲載してみます。またい
つかこの原稿については、よく考えなお
してみたいです。おもしろくない内容で
ごめんなさい。お忙しい方は、どうかこ
こをとばして、つぎへ進んでください。

++++++++++++++++++++

「私」と「己(おのれ)」

●外面世界と内面世界
 「私」と「己(おのれ)」は、ちがう。私が勝手にそう思っているだけだが、私は分けて考えてい
る。

 外面世界で、外に向かった意識が、「私」。これに対して、内面世界で、中に向かった意識
が、「己」。たとえば「私の……」というのは、外面世界で、外の人に向かって使う言葉。「私の
名誉」「私の地位」「私の財産」など。一方、「己の……」というときは、あくまでも、内面世界で、
自分自身に向かって使う言葉。「己の考え」「己の主義」「己の思想」など。

 人は、いつも、外面世界と、内面世界という、二つの世界のはざまで生きている。どちらが大
切とか、どちらが優れているとかいうことではない。要は、バランスの問題。外面世界だけを、
世界と思ってはいけない。反対に内面世界だけを、世界とも思ってはいけない。その両者は、
同じくらい広い。深い。そして大切。

 この二つの世界では、同じものでも、まったく違った性質をもつ。たとえば「自由」。外面世界
で、いくら「私は自由だ」と叫んだところで、自由はない。「私」がくっついているかぎり、自由は
ない。「私の……」といえるものは、いつも、だれかに奪われる心配がある。「私の名誉」にせよ
「私の地位」にせよ、はたまた「私の財産」にせよ、それを得たときから、今度は、なくすことを
心配しなければならない。つまりそのときから、束縛される。

 しかし内面世界では、そんなことを、わざわざ叫ばなくてもよい。自由は完全に保障されてい
る。だれもあなたの内面世界に、足を踏み入れることはできない。内面世界にいるあなたを、
侵すことはできない。あなたがどんな思想をもっているにせよ、あるいはどんな宗教に身を寄
せているにせよ、あなたがそれを身につけたときから、それはあなた自身のものとなる。

●優先される外面世界
 ただ残念なことは、(それはその人の勝手かもしれないが)、今、あまりにも多くの人が、外面
世界だけを、世界と思い込んで、四苦八苦していること。こうした傾向は、子育てにも反映され
る。子どもの外見的な、でき、ふできばかりを気にして、子どもの内面世界での、でき、ふでき
は、ほとんど気にしない。同じように、親子関係にしても、見栄えばかり気にして、中身を気にし
ない。中には、「いい学校さえ入ってくれれば、親子関係が犠牲になってもかまわない」と言う親
さえいる。あるいは「子どもは、いい学校へ入れば、それで感謝してくれるはず。そのとき親子
関係は修復できる」と。

 もっとも、内面世界だけをふくらませもらっても、困る。カルト教団の信者などは、内面世界だ
けを、異常にふくらませてしまう。そしてその中だけで生きているから、生きザマそのものが、お
かしくなる。常識はずれなことをしながら、それを常識はずれとも思わない。教祖の髪の毛を煎
じて飲んだり、教祖がつかった風呂の湯で、ご飯をたいたりしている。あるいは死んでミイラ化
した死体を、「生きている」と言い張ったりしている。

 問題は、ここで二つある。ひとつは、どうすれば、この二つの世界をバランスよく保てるかとい
うこと。もうひとつは、どうすれば、内面世界を、より広くすることができるかということ。
 
(バランスを保つためには、ごくふつうの生活の中で)……私たちの外面世界にせよ、内面世
界にせよ、それはごくふつうの生活の中で、ふつうに生活をすることによって、広くすることがで
きる。よく出家すれば、俗世間と決別して、精錬(せいれん)潔白な境地に達することができると
説く人がいる。しかし本当にそうか。むしろそういうことを売り物にして、かえって俗化した人は
いくらでもいる。いわんや、滝に打たれたり、針の台座の上に寝たり、はたまた燃えさかる火の
上を歩いたからといって、外面世界や内面世界が、広くなるということは、ありえない。ともすれ
ば私たちは、オカルト的な鍛錬(たんれん)法に、あこがれをいだきやすい。神秘的であればあ
るほど、魅力的である。が、そういう神秘性に、幻想をいだくのは危険なことでもある。それに
ハマると、自分を見失ってしまう。

(内面世界を広くするためには、考える時間を大切に)……内面世界を大きくするゆいいつの
方法は、自ら考えること。思考が人間を深くする。賢くする。人間を人間らしくする。あのパスカ
ルが『パンセ』の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったのは、そういう意味である。「考え
ること」に疑問をもつ人も多いが、考えるから人間は人間である。考えなかったら、そこらにい
る犬やネコと同じ。反対に、「人間は犬やネコとはちがう」というその根拠は何かと言われれ
ば、この「考えること」。その部分をのぞけば、人間は、犬やネコとそれほどちがわない。あるい
はどこがちがうのか。で、そのためにも、私たちは、考えることを大切にする。あるいはそのた
めの時間をつくる。 

●内面世界の深遠性
 内面世界の広い人と、内面世界の狭い人のちがいは、簡単にわかる。内面世界の狭い人
は、それだけ動物に近いから、行動や言葉が、それだけ動物的。たとえば男であれば、若い
女性の裸を見ただけで、カーッとなって、その欲望のウズの中に飛び込んでいく。ものの考え
方が短絡的で攻撃的。見るからに浅はか。

 ただ皮肉なことに、内面世界の狭い人は、自分が狭いとは思わない。自分では「まとも」と思
っている。自意識そのものが弱いから、自分を客観的に見ることができない。それはちょうど肩
をいからせて歩く、暴力団の組員のようなもの。内面世界の広い人から見れば、こっけいでし
かない。が、本人たちは、決してそうは思っていない?

 内面世界の広い、狭いは、その人自身が、より広い世界をもつことによってはじめて、わか
る。それはちょうど山登りのようなものではないか。より高い山に登るたびに、それまでの山が
低く見える。下から見ると、それほど高くないと思って登った山でも、登ってみると、意外と視野
が開ける。遠くに、広い海まで見えたりする。同じように、内面世界の広い人からは、狭い人が
わかるが、狭い人からは、広い人がわからない。もっとわかりやすく言えば、賢い人からは愚
かな人がわかるが、愚かな人からは、賢い人がわからない。愚かな人は、自分が愚かである
ことさえ、わからない。

 そこでひとつの、問題にぶつかる。では、私自身はどうかという問題。あなた自身はどうかと
いう問題に置きかえてもよい。もちろん私もあなたも、山の頂上にいるわけではない。まだその
途中にいるにすぎない。道はいつまでもつづいている。そういう意味でも、内面世界の広さは、
外面世界の宇宙ほどの広さがある。こう私が書くからといって、私の内面世界が、あなたの内
面世界より広いと言うつもりはまったくない。仮に広いとしても(失礼!)、それはひょっとした
ら、ドングリの背比べをしているようなもの。数万キロもある道のりで、一歩や二歩、私が先に
歩いたからといって、それがどうだというのか。……と考えて、実は、ここに内面世界の深遠性
がある。

●さあ、内面世界を進もう!
 目の前には、空がある。そしてその空の向こうには、宇宙がある。広大な宇宙だ。それと同じ
ように、あなたの思考の中には、もう一つの宇宙がある。これも広大な宇宙だ。それを知るた
めには、静かに目を閉じれば、よい。それでよい。目を閉じて、あれこれわき起こってくる、モヤ
モヤしたものに、一つずつ、耳を傾ければよい。何でもよい。つまらないこと、いやなこと、悲し
いこと、さみしいこと、うれしいこと、楽しいこと、何でもよい。そしてそれらについて、ひとつず
つ、自分の考えを織りこんでいけばよい。そのとき、いくつかのコツがある。

 ひとつは、どんな簡単なことでもよいから、一つの結論に達したら、それを定理とすること。
「いやなことがあると、気が重くなる」というようなことでもよい。あるいは「暴力映画を見ると、気
分が悪くなる」ということでもよい。そういうふうに、一つずつ、結論を出していく。これは考えを
ループさせないためにも、たいへん重要なことである。というのも、こうした考えは、えてして、
ループの環(わ)の中に入りやすく、一度入ると、同じことを繰り返し、繰り返し考えるようにな
る。こうなると時間のムダ。前に進めなくなってしまう。ばあいによっては、そこで考えが止まっ
てしまう。

 もうひとつは、どんなことでもよいから、それについて考える。そのとき、簡単に結論を出して
はいけない。「これはどうだろう」「あれはどうだろう」と考えていく。するとそのテーマとは別に、
キラリと光るものを見つけることある。私はこれを勝手に、「思考の宝石」と呼んでいる。実は、
考えることのおもしろさは、ここにある。たとえば私も、こうして「考えること」について書きなが
ら、すでにつぎに書くべき、いくつかのテーマを発見した。こうして内面世界を、今度はどんどん
と横に広げていく。

●あとは、それぞれの道を!
 そのあと、どうなるか? それは私にもわからない。あなたにもわからない。だれにもわから
ない。……と書きながら、実は、子どもも同じ。考える子どもにするには、まったく同じ手法をつ
かう。そしてそのあと、その子どもがどのように考えるようになるかは、それはお楽しみ。子ども
の問題。いつかあなたも、あなたの子どもから、あなたの知らない新しい考えを聞くかもそれな
い。しかし、それほど、また楽しいこともない。

 何ともまとまりのない原稿になってしまった。「子育て随筆byはやし浩司」集の中に収録する
かどうか、かなり迷った。が、「これも私の一部」と思い、収録することにした。これから先、ここ
に書いたことを頭の中で反復させながら、さらに煮つめてみたい。
(02−12−16)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(411)

たき火

 私は、自宅の庭でも、山荘でも、よくたき火をする。地球温暖化が問題になっているから、気
が引けるが、大きなたき火ではない。自宅の庭では、枯れ草や枯れ葉など。山荘のほうでは、
料理のためなどに、少量の枯れ木を燃やす。全体としてみれば、家庭で使うコンロや、ストーブ
のガスが出す炭酸ガスとは、比較にならない。(言い訳をしてはいけないが……。)

 で、自分では、「たき火の名人」と思っている。「名人」というのには、いろいろな意味が含まれ
る。まず第一。火をつけるのが、うまい。かなり湿った枯れ草や枯れ葉でも、燃やしてしまう。小
雨の日でも、それをすることができる。

 つぎに、火の予想をつかむのが、うまい。これくらいなら、これくらいの火になるだろうという予
想を、正確につかむことができる。たき火で、これを読みまちがえると、たいへんなことになる。

 三つ目に、安全。私は安全に、最大の注意を払っている。(当然だが……。)たとえばたき火
のあとは、必ず水をかける。そのとき、いいかげんな消し方をしない。水をかけ、さらに水をか
け、「もういいだろう」と思っても、もう一度、水をかける。「火」は、決してなめてかかってはいけ
ない。

 そこで山荘では、たき火コーナーを、石とセメントで、囲んだ。直径、四メートルくらいの円の
中心に、それをつくった。が、それだけでは安心できない。(実際には、村の人たちに安心して
もらえない。)だからそのコーナー全体を、これまた「島」のようにして、三方を道路で囲んだ。
(一方は、南側の土手になっている。)まわりに、消火用に水道の蛇口を二つつけ、さらに、常
時水の入ったバケツを、数個横に置いた。

 もちろん何度か、あやうく! ……というような失敗をしたことがある。そういう経験があって、
自称、名人になった。そのたき火には、不思議な魅力がある。

 夏の夜など、真っ暗な山の中で、チリチリと小さなたき火をする。その火を見ながら、あれこ
れ考える。歌を歌うこともあるし、あるいは何も考えないで、ボーッとしていることもある。だれ
か昔、「水は心をしずめる。しかし火は心を鼓舞(こぶ)する」と言ったが、私もそう思う。たき火
の炎を見ていると、心のどこかで原始時代の私の中の自分が、うずうずするのを感ずるときが
ある。私という人間がそのまま原点に戻っていくかのように感ずることもある。

 あるいは自宅の庭で、たき火をしていると、そこに牧歌的なぬくもりを覚えるときがある。赤い
炎、青白い煙、ただよう燃えた草のにおい……。火の燃え方を気にしながら、つまり心のどこ
かでかすかな緊張感を楽しみながら、その中に新しい枯れ草をほうりこむ……。そういうとき、
心は無になる。カラッポになる。軽くなる。いろいろなストレス解消法があるが、たき火は、たし
かにその解消法の一つと言ってもよい。ワイフなど見ていても、たき火をしている姿は、どこか
軽やかである。

 さて今も、庭のほうから、パチパチという音が聞こえてくる。窓の向こうには、澄んだ青い煙
が、クルクルと小さな渦を描きながら、空にのぼっていくのが見える。犬のハナが、その下を、
行ったり来たりしている。あとで、焼き芋でもするつもりなのだろうか。ワイフが燃えたあとに残
った灰を、丸く集め始めた。それを上から、白い冬の陽光が、明るく照らす。時間がとまってい
るかのような錯覚すら覚える。何とものどかな光景である。のどかな、のどかな光景である。つ
まりこの「のどかさ」こそが、たき火の最大の魅力ということになる。
(02−12−16)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(410)

〇二年を振りかえって……

 今年も、よい年だった……と、今、自分にそう言って聞かせた。健康だったし、大きな事件も
なかった。仕事は低調だったが、これはしかたない。結局、何かをしたようで、何もできなかっ
た……。この一年、ほとんど進歩もなかった……。去年の自分とくらべても、どこが変わったの
か。そんな思いで、この原稿を書いている。

(健康)毎日、一時間前後の運動はした。運動といっても、自転車通勤だが、これは欠かさなか
った。体重は、年始には、六八キロだったが、今は六二キロ台に。六キロの減量に成功! 体
が軽く感ずる。

 体重を減らすのを決めたのは、老人を観察してみて、それが必要だと感じたから。健康な老
人は、ムダなぜい肉がない。どこかほっそりとして、筋肉が発達している。そうでない老人は、
ブヨブヨとして、体をもてあましている感じ。だから減量しようと決めた。


(仕事)講演は、毎月四、五か所を回った。が、これくらいが限度かもしれない。ワイフは、「月、
三回ぐらいにしておきなよ」と言っている。

 講演をしていていやなことは、いつもあとで後悔すること。「ああ言えばよかった」「こう言えば
よかった」と思うこと。うれしいのは、講演の感想で、よいことを書いてもらうこと。せっかく会場
に来てもらうのだから、役にたちたいと思う。それだけを考えて話す。

(家族)まあ、つぎからつぎへと、いろいろなことがあった。航海にたとえて言うなら、大波、小
波、水しぶきをかぶりながら進んだという感じ。嵐や台風こそなかったが、終わってみると、結
構、楽しかった。

 まあ、活発ざかりの息子を三人もかかえると、あれこれあるもの。子どもが巣立ったから、そ
れで子育てはおしまい……とは、いかない。お金もかかる。行事もふえる。人づきあいもふえ
る。何かと忙しくなる。
 
(大きな思い出)とくにないが、電子マガジンを、一日おきに発行したこと。これが生活に、メリ
ハリをつけてくれた。たいへんだったが、読んでくれる人がいるかぎり、発行するつもり。

 読者が少しずつだがふえたのが、大きな励みになった。今は、毎回、A四サイズで、約二〇
ページ前後のマガジンを発行している。読者数が、約七〇〇人だから、一回で、一万四〇〇〇
枚。一月で、一五回発行しているから、一月で、二一万枚! たいへんな枚数である。改めて
インターネットのものすごさに驚く。

(〇三年の抱負)毎年、一応抱負を書くが、あまり意味がない。少しくらい力んだところで、来月
は、今月の繰り返し。同じように、来年は、今年の繰り返し。「来年は〜〜しよう」と思っても、あ
まり意味はない。だから今年は、抱負を書かない。……まあ、それでも、来年は、ワイフと、オ
ーストラリアへ行ってみたいと思っている。

 何かしたいことは……と聞かれると、困る。毎日、したいことをして生きているので、その点で
は、ハッピーだと思う。今、したいことは、とにかく、頭の中を走りまわって、新しいことを発見し
たい。大きな宝石のような「思想」や、「考え方」を発見したときほど、うれしいことはない。

(目標)だれともけんかしないで、平和に暮らしたい。心の平和を大切にしたい。毎日、新しいこ
とを発見したい。自由に考え、自由に生きたい。

 トラブルは、こちらが予定していなくても、あるいは、こちらにその気がなくても、向こうからくる
ことがある。そういうトラブルは、どうやって避けたらよいのか。よく何かトラブルがあると、「不
徳のいたすところで……」と言う人がいる。たしかにそのとおりで、トラブルがあるということは、
その人自身にも、問題があることが多い。そういう不徳を、どう克服するか。それも〇三年度の
大きなテーマになると思う。
(02−12−16)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-27-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄     ☆チャットルームができました!
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 551人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  88人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  57人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−27号(158)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■  
「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    (マガジン読者の方のための、専用掲示板です)
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
☆このマガジン読者の方どうしの方+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
 http://8411.teacup.com/hhayashi/chat をクリックしてください。
☆ ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
●毎日午前10:00〜に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただ
きます。毎週月曜日は、できるだけ私も参加するようにしています。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●緩慢(かんまん)行動に、注意
 私が最初に、子どもの緩慢行動に気づいたのは、三〇年近くも前のこと。

ある日A君(小三)が、忘れものをしたので、近くにいたB君(小三)に、「これをもっていってあ
げて!」と叫んだ。私はB君が、パッと行動するものだとばかり思っていた。が、B君の行動
は、意外なものだった。ゆっくりと腰をあげ、まず自分のものを片づけ、おもむろに、イスを引い
て立ちあがった。それではまにあわない。そこで私は「おいおい、A君は帰ってしまうぞ。急
げ!」と号令をかけた。が、B君は、とくに気にするようでもなし、これまたゆっくりと歩き始めた
……。ノソノソと……。

 親はそういう子どもを見ながら、「うちの子はグズで」とか、「のろい」とか言う。ふつうは、親子
のリズムがあっていないだけと考えるが、しかしもう少し深刻なケースもある。それがここでいう
緩慢行動である。

 一般的に、子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。腹痛、下痢、頭痛
などの体の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指
しゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強
迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、夜尿症、頻尿症な
ど。緩慢行動も、その一つということになる。わかりやすく言えば、心をふさぐ抑圧感が、慢性
化すると、子どもの行動は鈍くなる。さらにその行動そのものが長期化すると、それがその子
どもの特性(特質?)そのものになってしまう。こうなるとなおすのがむずかしくなるだけではな
く、一生つづくことにもなりかねない。

 あなたの子どもは、あなたが何かを頼んだり、号令をかけたとき、機敏に行動できるだろう
か。もしそうなら、それでよし。しかしどこか重く、ノソノソしているなら、一度、この緩慢行動を疑
ってみたらよい。


●イライラゲームにご注意
 最近、ゲームに没頭している子どもの脳について、いろいろな報告が出されている。脳の機
能的CTスキャンが発達し、脳の活動部を、リアルタイムで観察できるようになったこともある。
それによっても、ゲームに没頭している子どもの脳は、ある特異な部分だけが興奮状態にな
り、それ以外の部分は休眠状態になることがわかってきた。つまり子どもがゲームに没頭した
ところで、それが子どもの脳を、正常に発達させるということは、大脳生理学の分野で考えて
も、ありえない。

 一人、ゲーム狂いの子ども(小一)がいた。道を歩いていても、ゲーム機を手にして、指先で
カチャカチャとそれを動かしていた。両親が共働きで、その子どもに目が届かなかったこともあ
る。その子どもはまさに、四六時中、ゲームをしていた。

 その子どもだけを見て判断するのは、正しくない。しかしその子ども特有の、ふつうでない症
状がいくつかあった。たとえばゲームをしていないときは、燃え尽きたようにボンヤリしている
が、何かのことで、突発的に興奮状態になった。ギャーというものすごい声をあげて騒いだりし
た。そのときの様子が、ふつうでないため、あれこれ抑えると、今度は一転、またボンヤリして
しまう。慢性的な睡眠不足児の症状や、かんしゃく発作の症状とも違う。キレる子ども特有の、
いわゆる錯乱(さくらん)状態とも違う。過剰行動児とも違う。どこかふつうでない。心の緊張状
態が、短い時間の間に大きく乱れ、緊張しているときに何かあると、突発的に興奮状態になる
といったふうだった。もちろん静かな思考力は、ほとんどなかった。

 そこで母親に会って話を聞くと、「夜中でも、ガバッと起きて、ゲームをしていることもありま
す」とのこと。

 こうなったら、もちろんゲームを遠ざけるのがよいが、無理にゲームを取りあげたりすると、
今度は、禁断症状が現れる。これは別の子ども(小五男児)のケースだが、母親が、無理にゲ
ームを取りあげたとき、その子どもは、母親を殺す寸前までのことをして、暴れまくったという。

 ゲームにもいろいろあるが、反射運動型の、やればやるほど、イライラがつのるようなゲーム
は、子どもには避けたほうがよい。とくに、就学前の幼児には避けたほうがよい。本当は、「そ
んなバカなゲームを、子どもに与えるな!」と言いたいが、立場上、そこまでは書けない。あと
はみなさんの、判断に任せる。


●いいかげんさの勧め
 子育ては『まじめ七割、いいかげん三割』と覚えておく。いいかげんであることが悪いのでは
ない。子どもはそのいいかげんな部分で、息を抜く。伸びる。たとえば「毎日手を洗いなさいよ」
と言いながらも、言うだけにとどめる。仮に病気になったら、病院へ行けばよい。虫歯だってそ
うだ。「歯をみがきなさいよ」と言いながらも、適当にしてすます。虫歯になったら、歯医者へ行
けばよい。子どもは虫歯になって、「痛い」ことを知る。痛いことがわかれば、自分でみがくよう
になる。

 ……こう書くと、「何て、いいかげんなことを!」と思う人も多いかもしれない。しかし今、あまり
にも、親たちは子育てに神経質になりすぎている。そしてその神経質さが、子育てをゆがめ、
ついで子どもを萎縮させてしまっている。そういう現状を私は知っているから、あえて、常識
(?)に抵抗してみた。

 これはずっと先の話だが、今、自己管理ができない大学生がふえている。子どものときから
ずっと勉強しかしてこなかったような、優秀な(?)子どもほど、そうなる。大学生になり、ひとり
で生活を始めたとたん、生活が乱れる。三食はすべてコンビニ食。炊事、洗濯はしない。でき
ない。睡眠時間も乱れる。そのため、精神そのものを病むようになる子どもも多い。

 子どもを自立させるということは、子育てからいかにして、手を抜くかということ。手を抜けば
抜くほど、子どもは自立する。子どもというのは、そういう意味でも、皮肉なもの。たとえば子ど
もは使えば使うほど、たくましい子どもになる。生活力も、それで身につく。一方、子どもは、か
わいがればかわいがるほど、スポイルされ、ドラ息子、ドラ娘になる。同じように、親が手を抜
けば抜くほど、もっと言えば、いいかげんになればなるほど、子どもは自立する。

 とくに日本では、「子どもをかわいがる」ということは、「子どもをかわいい子どもにする」という
ふうに考える人が多い。無意識のうちにも、そう育てる。そして「子どもに楽をさせること」、「子
どもにいい思いをさせること」が、親の愛の証(あかし)と考えている人がいる。しかし、これは
誤解。まったくの誤解。

 あなたが自分の子育てをしていて、心のどこかで、「いいかげんかなあ」と迷ったら、すかさ
ず、「これでいい」と、思いなおす。そういう思いが、子どもを伸ばす。
(02−12−19)

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!
【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ゴールの向こうに

 子どもが、やっとのことで大学へ入った。まあまあの大学で、親もひと安心……と言いたい
が、今はそういう時代ではない。

 子どもが大学へ入ったからといって、それで安心はできない。つぎからつぎへと、いろいろ問
題が起きてくる。大学へ通うだけではない。事故もある。病気もある。事件もある。すんなりと大
学を出て、就職というわけにも、いかない。それが今の世相である。

 もちろん予想していなかった出費もかかる。学費だけではすまない。落第すれば、その分、
学費は倍増する。借りた車で、交通事故をおこせば、賠償だのなんだので、これまたお金がか
かる。無免許で事件を起こせば、即、退学処分。しかもそのあと始末に、一〇〇万円単位、さ
らには一〇〇〇万円単位のお金がかかる。親の上に、容赦なく、ふりかかる。

 ……と、どうも暗い話になってしまったが、思うようにならないのが、この世の中。思うように
育ってくれないのが、今の子どもたち。そこでどうだろう、こう考えたら。つまり「思うようにならな
いのが、子ども」という前提で、子育てを考える。そう考えれば、あなたも、ずっと気が楽になる
はず。気負いもとれるはず。こんな相談があった。

 女子大生をもつ母親からのものだった。その学生は、東京で、ひとり暮らしをしていた。地元
のS進学高校を卒業したあと、T女子大学に進学した。中学時代は、生徒会の副会長までし
た。ピアノコンクールでは、県代表に選ばれたこともある。ここまではすべてが順調だった。だ
れもが、そう思っていた。しかしその学生は、大学二年生になるころから様子がおかしくなって
きた。

 夜、なかなか連絡がとれない日がつづいた。母親が「何をしているの?」と聞くと、「家庭教師
をしている」「図書館でレポートをまとめている」と。そのつど、もっともらしい理由を口にしてい
た。しかし実際には、風俗店でホステスをしていた。遊興費を稼ぐためである。が、ここで話が
終わったわけではない。夏休みに、東南アジアへ行くと言い出した。「友だちと行く」ということだ
ったが、これまた実際には、風俗店で知りあった、男性と行っていた。文科系の学部に籍を置
いていたが、そんなわけで、ほとんど講義には出ず、つぎつぎと単位を落としていった。

 が、本当の悲劇はそのあと、起きた。もうすぐクリスマスというあるとき。その学生は、妊娠し
ていることがわかった。「だれの子ども?」と聞いても、「わからない」と。そのときすでに妊娠五
か月をすぎていて、中絶もむずかしい状態だった。が、それだけではなかった。検査をしてみる
と、いくつかの性病のほか、C型肝炎にも感染していることがわかった。今、その学生は、地元
のH市で年末を過ごしながら、大学を中退するかどうかで悩んでいる。母親は、「家に置いてお
くわけにはいきません」と言っているが、一方で、「東京へひとりで戻すこともできません」とも。

 今、こういうケースは、少なくない。いくらでもある。親自身が、絶望のどん底にたたき落とさ
れ、どう判断するか、その判断の糸口すら見つからない。考えれば考えるほど、頭の中が混乱
してしまう……というようなケースだ。

 要するに、こういう場面になったら、過去を振りかえらない。そして未来に希望を託さない。
今、そこにいる子どもをそのまま受け入れて、それを認めて、その範囲で全力を尽くす。その
結果として、明日は必ずくるし、来月も来年も、必ずくる。親としては、いろいろつらいだろうが、
とにかく、今、できることを、今、するしかない。あとのことは考えない。考えてもしかたない。

 親の苦労や心配は、尽きることはない。いつまでもつづく。息子や娘が結婚してからも、つづ
く。孫が生まれてからもつづく。それこそ、親が死ぬまでつづく。子育てというのは、そういうもの
だが、これまた不思議なことに、ちょうど今のあなたが今、そこにいるように、あなたの子ども
は子どもで、そのときは、そこにいる。つまりそれを延々と繰りかえしながら、私の人生は流
れ、子どもたちの人生は流れる。昔からこう言うではないか。『案ずるより産むがやすし』と。子
育ては、まさにその連続。なるようにはならないのが、子育てだが、しかしそれでもどうにかなっ
ていくのが、子育て。あとはその繰りかえし。だから「今」だけをしっかりと見つめて、あとは前に
向かって進んで行く。結局は、それしかない。

 みなさん、がんばりましょう! Life is beautiful!
(02−12−19)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


考える人

●「考える」こと
 「考える」ということと、「動物的」ということとは、反比例する。これを計算式で、表現すると、
(考える)=(定数)/(動物的)ということになる。(こんな公式を作っても、意味ないが……。)

 つまり人間は考えれば考えるほど、動物的ではなくなるということ。動物が動物であるのは、
考えないから。一方、人間が人間であるのは、考えるから。だから公式にするまでもなく、こん
なことは当然といえば、当然。

 そこで改めて、「考える」ということは、どういうことなのかを、考えてみる。……と考えて、最初
に思いつくのが、「言葉」。私のばあい、(おそらく、ほとんどの人にとっても、そうではないかと
思うが……)、言葉があるから考えられる。もっとも言葉がなくても、考えることはできる。絵画
や音楽、さらに芸術の世界では、言葉というのは、それほど重要な意味をもたない。が、私にと
っては、「考える」ことイコール、「言葉」ということになる。たとえば今、私はこうして文を書いて
いるが、「書く」ということが、「考える」ということになる。実際、こうして書いているとき以外、私
はほとんどものを考えない。……考えることができない。ヒラメキのようなものは、しばしば感ず
るが、しかしそれは「考え」ではない。

●考える人 
 考える人からは、考えない人が、よくわかる。(多分、考えない人からは、考える人がわから
ないだろうが……。)たとえば、考えない人は、どこか動物的。ものの考え方が、短絡的。直感
的。浅い。それにすぐ感情的になる。子どもでも、「スベリ台を、下からあがってきた子がいま
す。どうしますか?」と聞くと、「そういうヤツは、ぶん殴ってやればいい」と答える子どもがいる。
原因はいろいろあるが、そういうような発想をする。

 一方、考えない人は、その分、反応が鈍くなる。子どもでもそうで、考える子どもは、どこか様
子が重い。「重い」というのは、何かテーマを与えたりすると、それを頭の中で反芻(はんすう)
するようなしぐさを見せる。もっとも、それは相対的なもので、考えない子どもと比較してみて、
はじめてわかる。考えない子どもは、ペラペラと調子はよいものの、中身がない。

 ……となると、「考える・考えない」は、能力の問題というよりは、習慣の問題ということにな
る。あるいは教育の問題といってもよい。たとえば日本では、学校の授業でも、「わかった
か?」「では、つぎ!」が、教え方の基本的な形になっている。しかしアメリカでは、「君はどう思
う?」「それはいい考えだ!」が、教え方の基本になっている。この「形」は、家庭でも同じで、こ
うした形の違いが、やがて独特の日本人像をつくったともいえる。つまり日本人は、その構造
からして、もともと、考える人間をつくる構造になっていない。

●違った意見
 日本人が、考えない民族であることは、世界へ出てみると、よくわかる。あるいは、小学生で
もよい。外国の小学生とくらべてみてもわかる。ひとつの基準として、それぞれの子どもが、ど
の程度、違った意見をもっているかが、ある。それを知れば、それがわかる。

 たとえばオーストラリア人の子どもに、「将来、何になりたい?」と聞くと、それぞれが、てんで
バラバラなことを言い出す。中には、「イタリアの女王様になりたい」と言う子ども(女児)もい
る。おそらく一〇人に聞けば、一〇人の意見が出てくるのでは……。しかし日本では、子どもの
意見というのは、そのときどきにおいて、流行に流される。そして子どもたちのものの考え方
は、ある一定のパターンに集約される。……することができる。

 少し話がそれるが、この私の意見を補足するために、こんなことを書いておきたい。

 七〇年代に、中国の北京大学へ留学したオーストラリア人の友人がいた。その友人が、北京
から帰ってきて、こう言った。「向こうでは、みな、テープレコーダーみたいだった」と。つまりど
の学生も、同じ意見しか言わなかったというのだ。こうした傾向は、独裁国家ほど、顕著にな
る。ほかの意見をもたせない。もつことを許さない。つまりそもそも考える人間を必要としていな
い。

 では、日本はどうか。日本はどうだったか。日本も戦前は、今の北朝鮮のようなものだった。
あるいは江戸時代は、今の北朝鮮以上に北朝鮮的だった。こうした傾向は、私が子どものとき
ですら、何かにつけて、まだ色濃く残っていた。よく覚えているのは、政府を批判しただけで、父
や母から、それをとがめられたこと。あるいは「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られたこ
と。岐阜県の田舎のほうでは、言論の自由はもちろん、思想の自由すらなかった。

●考える人間にするために
 こう考えると、日本人が考えない民族であることは、民族性というよりも、長くつづいた封建時
代と、そのあとの君主(天皇)官僚制度の中で、「ものを考えない国民」に飼育されたためという
ことになる。しかもそれがあまりにも長くつづいたので、「考えない」ということが、社会のスミズ
ミまで、根をおろしてしまった。あるいは、脳の構造そのものにまで、影響を与えてしまった。

 言いかえると、日本人を考える国民にするということは、同時に、こうした過去の亡霊との決
別を意味する。またその決別なくして、日本人を考える国民にすることはできない。教育の世
界では、いかにして、中央による思想管理を排除するかということにもなる。家庭においては、
いかにして、価値観の多様性を、親がもつかということになる。たとえば教科書問題をひとつ取
りあげても、いまどき、検定制度があること自体、おかしい。国としては、「まちがったことを教
えたくない」という意図があるのだろうが、それは同時に、「思想統一」につながる。繰り返す
が、中央政府が、思想を統一しようとすればするほど、それは国民から考える力を奪うことに
なる。

 今、この日本で大切なことは、たとえば「A」というテキストで学んだ子どもと、「B」というテキス
トで学んだ子どもが、たがいに自由に意見を対立させ、討論することである。「考える」という習
慣は、そういう軋轢(あつれき)の中から、生まれる。

 家庭においても、同じで、今のように、「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」と親が
考えているような状態の中で、どうやって子どもの個性を伸ばすことができるというのか。親自
身が、ガチガチの思想にこりかたまっていて、子どもに向かって、「個性をもて」「もっと考えろ」
は、ない。

●「考える」こと
 「考える」というテーマは、実は、このように奥が深い。そしてそのテーマは、個人の問題とい
うだけではなく、社会や家庭など、あらゆる部分にからんでくる。もちろん「考える」ことによっ
て、人間は、より人間らしくなる。つまり「人間とは何か」というテーマにもからんでくる。

 ……と書いても、こんなことは、実は、常識。識者の意見を並べてみる。

 よく知られているのが、パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者、数学者)。『人間は考
えるアシである』(「パンセ」)と書いた、あのパスカルである。『人間は一本のアシにすぎない。
自然のうちで、もっともひ弱いアシにすぎない。しかし、それは考えるアシである』と。彼は、同じ
本の中で、こうも書いている。『思考が人間の偉大さをなす』と。「考えるから、人間は人間であ
り、そこに人間の偉大さがある」という。

 そのパスカルと、どこかで接点があったのかもしれない。さらに思考の重要性を、完結させた
のが、デカルト(一五九六〜一六五〇、フランスの哲学者)。『われ思う、ゆえにわれあり』(「方
法序説」)という、有名な言葉を残している。「私は考えるから、私はここに存在するのだ」と。も
うこの言葉を疑う人は、だれもいまい。

 「考えること」を、決して、粗末(そまつ)にしてはいけない。生きることの「柱」にしてもよいほ
ど、重要な問題と言っても、決して言い過ぎではない。
(02−12−18)

【追記】
●一般論として、人間は、そのレベルに応じて、自分のまわりに仲間をつくる。そこで、では、
そのレベルとは何かということになると、思考の深さということになる。思考の深い人は、深い
人どうしで集まる。思考の深い人は、浅い人の間にいると、落ち着かない。同じように、思考の
浅い人は、浅い人どうしで集まる。思考の浅い人は、深い人の間にいると、落ち着かない。実
は、子どもの世界もそうで、もしあなたがあなたの子どもを客観的に、どういう子どもであるか
を知りたかったら、あなたの子どもが、今、どんな友だちとつきあっているかを見ればよい。

●それはさておき、子どもでも、考える子どもと、考えない子どもは、かなり早い時期に分かれ
る。小学一年生くらいの段階で、かなりはっきりしてくる。考える子どもは、考えることそのもの
を楽しむ。そうでない子どもは、考えることから逃げる。こうした子どもの違いは、かなり早い時
期に決まるのでは。おそらく生後まもなくからの、親の接し方によって決まる? 要するに、子
どもを考える子どもにしたかったら、親の過干渉などで、子どもを振りまわさないこと。いつも親
のほうが一歩、退いて、子どもが自分で自分の考えを言うまで、待つ。この「待つ」という姿勢
が、子どもを、考える子どもにする。
 

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。
【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

世にも不思議な留学記(番外編)

 私が書いた、『世にも不思議な留学記』が、好評のようだ。現在、金沢学生新聞のほうで、連
載してもらっている。一部は、『はやし浩司の世界』というマガジンのほうで、紹介した。で、その
留学記には、いくつかの番外編がある。「番外編」というのは、発表するのに、どこか抵抗を感
じた原稿である。俗にいう、ボツ原。その中の一つが、「ペンシル・ペニス」。

●ペンシル・ペニス
 オーストラリア人のもつ「肌」感覚は、明らかに日本人のそれとは異なっていた。簡単に言え
ば、彼らは平気で、裸になる。こんなことがあった。

 車、二台でドライブに行ったときのこと。男が五、六人に、女が、三、四人いた。暑くなり始め
た初夏のころだった。海沿いに走っていくと、きれいなビーチが見えた。とたん、車を止めて、
みなが、「泳ごう!」と、叫んだ。そう叫ぶのは勝手だが、私は水着を用意していなかった。で、
車の中でもじもじしていると、もう全員が、海に向かって走りだしていた。走りながら、つぎつぎ
と着ていた服を脱いでいた。全員、素っ裸である。

 が、私は、彼らのあとを追いかける勇気はなかった。みなは、「ヒロシ、来い、来い!」と叫ん
でいた。しかし私にはどうしてもできなかった。

 あとになって、一人が私にこう聞いた。「ヒロシは、どうしてこなかったのか?」と。私はそのと
きどうしてそう答えたのかは知らないが、こう答えた。「日本には、武士道というものがあって、
簡単には、人前では、アレを見せてはいけないことになっている」と。が、この事件がきっかけ
で、私には、「ペンシル・ペニス」というニックネームがつけられてしまった。「ヒロシのは、ペンシ
ルペニス。だから、裸になれなかった」と。

●ペニスの大きさくらべ
 ペニスの性能は、大きさではなく、膨張率、それに硬度で決まる。そこである日私は、私をペ
ンシルペニスと呼び始めた、K君を私の部屋に呼んだ。そしてこう言った。「君のと、どちらが性
能がよいかくらべてみようではないか」と。K君は、半ば笑いながら、すぐ、それに応じてくれ
た。

 私とK君は、背中あわせに立ち、下半身を出して、アレに刺激を加えた。そしてほどよくその
状態になったとき、アレに石膏(せっこう)を塗った。アレの型をとって、それで大きさを比べる
ためである。

……五分くらいたったであろうか。一〇分くらいかもしれない。とにかく気がついたときには、石
膏が半分くらいかたまり始めていた。で、それをゆっくりとはずそうと思ったとたん、激痛が走っ
た。陰毛が石膏に入り込み、型がはずれなくなってしまっていた。K君も、同じだった。大部分
の石膏は割ってはずしたが、根元のは、はずれなかった。あいにくナイフも、ハサミも、手元に
なかった。

●同性愛者
オーストラリアでは、同性愛者は、「プフタ」と呼ばれて、軽蔑されていた(失礼!)。少なくとも
「プフタ」と呼ばれることくらい、不名誉なことはなかった。まだ同性愛者に対する理解のない時
代だった。

 私とK君は、石膏を、シャワールームで流して落とすことにした。しかし石膏の重みで、体が
ゆれるたびに激痛が走る。私たちはそれぞれ下半身をタオルで隠した。隠した状態で、両手で
石膏を包むようにして、支えた。

私たちはドアの隙間から、だれもいないことを確かめると、廊下におどり出た。しかし運が悪か
った。あろうことか、うしろ側に、一人の学生が立っていた。そして私たちを見ると、悲鳴に近い
ような大声をあげた。何しろ二人とも、うしろからは、お尻がまる見えだった!

 そのあと、どうなったか? 私とK君は、予定どおり、シャワールームにかけこみ、そこで湯を
流しながら、石膏を無事、はずした。しかしそれとは別に、私とK君は、今度は、「プフタ」と呼ば
れるようになってしまった。

 そのK君、今は、オーストラリアのM大学で教授をしている。専門が、社会人類学というから、
あのときの経験が少しは役に立ったのかもしれない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


オナラ論

●夫婦のオナラ
 何かの文士たちが集まる席で、一人の男が、いきなり、私にこう聞いた。「林君、君の奥さん
は、君の前でオナラをするかね?」と。

 私が「ハアー?」ととまどっていると、さらにまた、「するかね?」と。そこで私が、「……ええ、う
ちのワイフは、そういうことはしないです……」と答えると、まわりにいた男たちまでが、一斉
に、「そらあ、かわいそうだ、かわいそうだ。あんたの奥さんは、かわいそうだ。オナラをしない
のかねエ?」と。つまり夫の前で、オナラをすることができない妻というのは、かわいそうだとい
うのだ。ナルホド!

 「オナラ」には、別の意味がある。つまりオナラは、いやなもの。とくに他人のオナラほど、い
やなものはない。そのいやなものを、受け入れることができるかどうかで、たがいの人間関係
を評価できる? そこでテスト。あなたは、あなたの妻や夫のオナラを、受け入れることができ
るか。たとえば居間でいっしょにテレビを見ていたとする。そのとき、あなたの夫か妻が、豪快
に、プリプリと出したとする。結構、臭いもキツイ。そういうときあなたは、それに対して、どのよ
うな反応を示すだろうか。あるいは反対に、あなた自身は、妻や夫の前で、豪快に、プリプリと
出すことができるだろうか。

 ……と、書いて、実は、オナラは、ひとつの象徴にすぎない。オナラの問題をつきつめていく
と、ここにも書いたように、そこに夫婦の人間関係が浮かびあがってくる。夫や妻のオナラと同
じように、あなたは夫や妻の、(いやな面)を、受け入れることができるかということ。夫婦といっ
ても、もともとは他人。恋愛時代はともかくも、それをすぎると、一対一の人間関係が基本にな
る。そのとき相手の(いやな面)を、どこまで受け入れることができるか。それで、夫なり、妻の
愛情の深さが決まる。

 ある夫は、妻との口論が絶えなかった。原因は、いつもささいなことだった。夫が何かを言う
と、即座に妻が、あれこれ言いわけをした。それが夫にはがまんできなかった。

夫「手紙を出しておいてくれたか?」
妻「雨が降ったから……」
夫「だから、出してくれたのか?」
妻「雨が降ったからと言ったでしょ」
夫「出してないのか?」
妻「行こうと思ったけど、行けなかった。しかたないでしょ!」と。

 一言、「ごめんなさい」と言えばそれですむのだが、その妻は、どこか根性がひねくれていた。
生い立ちが貧しかったこともある。

 こういうケースでも、夫が妻をどこまで受け入れるかで、その愛情の深さが決まる。「そういう
女だ」と思うことで、納得し、あきらめるか、それとも、「何だ! その言い方は!」ということで、
けんかになるか。その違いはどこにあるかと言えば、結局は、オナラの問題ということになる。
この夫婦のばあいは、夫は、妻のオナラを受け入れていなかった。夫はこう言った。「女房は、
何かにつけてすぐ私に反抗する。心の奥底では、私を憎んでいるせいかもしれない。どちらか
とういうと、女房にとっては、不本意な結婚だったから」と。

●親子のオナラ
 親子のオナラ論を話す前に、前に書いた原稿を転載する。

+++++++++++++++++++++

 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛す
る心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言ってい
た。

しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母
親は、約一〇%(私の母親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査で
も、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして
「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇
人・二〇〇〇年)そうだ。

妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしている
という。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞ
れについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段
階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のう
ちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。)

 だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少
し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が
高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い
時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。つまり生まれなが
らにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由と
は言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包
まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。

このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知
らない親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にある
のではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまり
にもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかない
ということになる。

 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子
どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生
み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。

+++++++++++++++++++

 この原稿をここに掲載した意図は、もうおわかりかと思う。「親子だから……」という理由だけ
で、人間関係を決めてかかってはいけない。ほとんどの親は、自分の子どものウンチやオシッ
コを汚いとは思わない。ある父親は、子どもがウンチをしたとき、それを思わず、手で受け止め
たという。また別の父親は、体中、子どものウンチにまみれてしまったという。いっしょに子ども
と、風呂へ入れているときのことだった。しかし、中には、子どものウンチやオシッコを、汚いと
思っている親もいるということ。

●そこであなたのこと
 そこであなたのこと。夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、あなたはあなた。全幅の愛情が
あれば、それに越したことはないが、しかし、それがないからといって、無理をしてはいけない。
「臭かったら臭い」と言えばよい。「いやだったら、いやだ」と言えばよい。万事、自然体でいけ
ばよい。

 問題は、そういうあなたにあるのではなく、そういうあなたに気づかないまま、それに振りまわ
されること。そしていつも、同じ、失敗を繰りかえすこと。何かの「わだかまり」や、「こだわり」が
あれば、なおさらで、こうしたわだかまりや、こだわりは、あなたの心を裏からあやつる。これ
が、こわい。たとえば「夫のオナラは、どうしてもいやだ」「夫が鼻クソをほじっているのを見る
と、ぞっとする」「夫が使ったタオルは、どうしても使えない」「夫の下着と自分の下着を、いっし
ょに洗濯をすることができない」「夫の寝息が、うるさくて眠られない」というのであれば、何か、
大きなわだかまりや、こだわりが、あなたの中にないかをさぐってみる。そういうわだかまりや、
こだわりが、あなたの夫婦関係を、ギクシャクしたものに、しているはずである。

 親子の同じ。「親だから子どもを愛しなければならない」と、気負うことはない。もちろん全幅
に愛していれば、それに越したことはない。しかしこれも、無理をしていはいけない。無理をす
る必要も、ない。万事、自然体でいけばよい。

 ……と書くと、絶望的に感ずる人もいるかもしれない。「自然体で考えたら、離婚になってしま
う」とか、「親子がバラバラになってしまう」と。しかしそうではない。もうひとつ、大きな「救い」が
ある。それは、「人間関係」という救いである。一対一の人間関係という救いである。今、あなた
がどういう状態であるにせよ、その状態から、今度は、一対一の人間関係を発展させることが
できる。「夫婦」とか、「親子」とかいうワクで考えるのではなく、「対等の人間」として考える。わ
かりやすくいえば、近くにいて、親しい「友」と考えることができる。

 そういうふうに考えて成功している夫婦や親子は、いくらでもいる。別々の場所に住んでい
て、別々の仕事をしながら、仲のよい夫婦は、多い。若いのに、ほとんどセックスをしなくても、
仲のよい夫婦は、これまた多い。生活時間が違い、寝室も別々という夫婦となると、さらに多
い。夫婦に形はない。どんな形であれ、たがいにそれに納得し、たがいがそれでハッピーなら、
それでよい。

 親子も、また同じ。子どもをこの世に引き出した以上、それなりの責任はとらねばならない。
それは親として、当然のこと。しかしそこから先には、「形」はない。もともと日本人は、形が好
きな民族だから、何かにつけて、形の中でものを考えようとする。しかし形に押しこめようとす
ればするほど、あなたも苦しむが、子どもも苦しむ。が、この時点で、子どもを「友」として、受け
入れてしまえば、ものの考え方が逆転する。いや、逆転しないまでも、あなたの気分は、はるか
に楽になるはず。

●ワイフのこと
 家に帰ってから、しばらくしたある日のこと。私は、おそるおそる、ワイフにこう言った。「あの
な、おまえは、あまりぼくの前でオナラをしないけど、したかったら、すればいいよ」と。

 私のワイフは、そういう点では、あまり融通のきかない女性。まじめというより、カタブツ人間。
私がそう言うと、「何を言いだすの!」というような顔をして、驚いた。で、私は、先の文士たち
の集まる会での話をした。「みんなが、お前のことを、かわいそうだと言ったからね」と。

 かく言う、私は、ワイフの前でも、平気でオナラを出す。鼻クソだってほじるし、言いたいことも
平気で言う。遠慮したり、隠したりすることは、ほとんど、ない。しかしワイフは、どこか私の前で
は、いつも遠慮している? そういう意味では、心を隠している? ひょっとしたら、別に愛人が
いて……? (多分、それはないと思うが……。しかし昔からこう言う。『知らぬは亭主ばかりな
い』(江戸川柳)と。)

 で、この会話はこれで終わったが、それから数日後のこと。私の言ったことが、やはりワイフ
も気になっていたらしい。何かのついでに、ワイフが、ふとこうもらした。

 「私ね、あのあと、いろいろ考えてみたけど、やっぱり、私は、あなたの前ではオナラはできな
いわ。それはあなたとの関係がどうのこうのとか、夫婦だからどうのこうのということではなく、
女のたしなみのようなものではないかと思うの……」と。どこか説得力があるようで、ないような
弁解だったが、私はあまり深く考えず、「そういう考え方もあるのかなあ」と、そのときはそれで
終わってしまった。

 ワイフがそう考えるなら、それはそれでよいのではないか。ついでだが、そのあと、私の教室
の生徒たちに、こう聞いてみた。「みんなのお母さんは、君たちの前で、オナラをするか?」と。
すると、全員、「するする、臭い、臭い」と答えた。幼児クラスの生徒も、小学生クラスの生徒
も、全員、そう答えた。答えたので、私も自信をもって、こう言った。「君たちのお母さんは、いい
お母さんだなあ」と。しかしこれは余談。
(02−12−19)

●「羞恥心は塩のやうなものである。それは微妙な問題に味をつけ、情趣をひとしほに深くす
る」(萩原朔太郎「虚妄の正義」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(433)

依存心と依頼心

●甘えの関係
 依存性の強い人は、自分自身も、だれかに依存されることを望む。意識的にというよりは、
無意識的に、そうする。あるいはそうであることが、当たり前になっているから、自分でそれに
気づくことはない。

 そういう意味では、依存心というのは、相互的なもの。親子の関係でいえば、依存心の強い
親は、子どもが自分に依存することに、どうしても甘くなる。このタイプの親は、親にベタベタ甘
える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子とする。こうした相互性は、なぜ生まれる
か。理由は、簡単。自分自身も、子どものとき、そういう子育てを受けからにほかならない。だ
から自分自身も、親への依存心が強い。が、それだけでは、すまない。それが依頼心である。

 「依頼心」というのは、適切な言葉ではない。ほかによい言葉が見つからなかったから、この
言葉を使った。こういうことだ。

 依存心の強い人は、一方で、だれかに頼られることに、生きがいを感ずる。それをまた生き
がいにする。それを、ここでは、「依頼心」という。(不適切だが……。ほかに何というのか。言
葉が思いつかない。あえて言うなら、被依頼心?)一見、依存心と、依頼心は、正反対にみえ
るが、その構造は、同じ。映画『男はつらいよ』の主人公、『寅さん』を例にあげて、考えてみよ
う。

●映画『寅さん』論
 渥美清氏が演じた、『男はつらいよ』は、日本が生み出した名作である。いつも全体として、
ほのぼのとした温もりに包まれている。だれもがやさしく、だれもがよい人である。そしてみんな
が助けあい、なぐさめあっている。私たち日本人は、そういう映画に、牧歌的な温もりを感ず
る。しかし見方を、少し変えると、評価は一転する。寅さんは、本当に自立した人間と言えるの
か。あるいは望ましい人間像といえるのか。

 寅さんは、どこまでも未熟で、未完成な人間である。精神的にも、情緒的にも、未熟で、未完
成である。「童心」と言えば聞こえはよいが、子どものまま大きくなった、おとな? もっとも映画
の中の寅さんは、渥美清氏という名優によって演じられているため、渥美清氏自身の知性や
人間性が混在している。しかし寅さんの生きザマを客観的にみると、ここに書いたようなことに
なる。

 その寅さんは、いつもお人よし。だれかに頼まれると、ホイホイと引きうけてしまう。実はそれ
が、ここでいう依頼心なのである。寅さんは、だれかに頼られることによって、自分の立場をつ
くっている。そしてそのつど、そのだれかのために、働く。そしてそれがドラマの「柱」になってい
る。そこでなぜ寅さんが、そこまでお人よしなのかといえば、実は自分自身もだれかに依存した
いという思いがあるからと言ってよい。自分自身の依存心が強いから、だれかが反対に、自分
に依存してくることについて、どうしても甘くなる。

 ……と言っても、それが映画『男はつらいよ』のおもしろさにもなっている。寅さんは、自分で
も解決できないような、大きな問題をかかえては、そのつど四苦八苦する。その奮闘ぶりがお
もしろい。そのドジぶりがおもしろい。だからそれを否定したら、映画そのものが、成りたたなく
なってしまう。だからそれは否定しないが、問題は、その先である。

 なぜ日本人は、映画『男はつらいよ』をおもしろいと思うのかという問題である。それは言うま
でもなく、あの映画に、日本人は共感を覚えるから。自分たちの心情を、あの映画の中に投影
させ、寅さん自身の中に、自分の人格を移植するからである。そして自分自身を、寅さんの中
に確認する。つまりあの映画が、日本の国策映画のようにもなっているということは、とりもな
おさず、日本人全体が、精神的に未熟で未完成で、依存心が強く、かつ、ここでいう依頼心が
強い民族ということになる(失礼!)。

 ただここで誤解しないでほしいのは、だからといって、私は日本人がおかしいとか、まちがっ
ているとか言っているのではない。日本人は日本人だし、世界の人は世界の人だということ。
ただこうした日本人独得の民族性というのは、どこまでいっても、日本人独得のものでしかない
ということ。少なくとも、世界の中では、こうした「甘さ」は通用しない。さらに「寅さんは、自由気
ままに生きる人間」として評価する人もいるが、自由とは、もともと「自らに由る」という意味。そ
ういう意味では、寅さんは、本当の意味で、自由に生きていることにはならない。もし寅さんが、
自由人ということになってしまうと、これは極論だが、日本では、ホームレスの人こそ、本当の
自由人ということになってしまう?

 こうして映画『男はつらいよ』を批評することは、日本では、たいへん勇気のいることである。
私のほうが、むしろ袋叩きにあうかもしれない。しかしそこは冷静に、もう一度考えてなおして
みてほしい。「寅さんは、本当に自立した人間か」と。そういう視点から見つめなおすと、私がこ
こで説明していることの意味が理解してもらえると思う。

●日本民族独得の心情
 さて話をもどす。依存心は相互的なものであると同時に、その依存心は、ここでいう依頼心
と、表裏の関係にある。切っても切れない関係と言ってもよい。そこであなたはどうか。あなた
の子育てはどうか。さらにあなたの子どもはどうかという視点で、考えてみよう。

 あなたは子どもに依存していないか。あなたの子育ては、どこかベタベタしていないか。そし
てあなたの子どもは、あなたから自立しているか。もしそうならそれでよい……というふうには
書けないが、私はそういう姿勢が、今までの日本人には欠けていたのではないかと思う。先に
も書いたが、そういう姿勢は、日本の国内では通用するが、世界では通用しない。日本という
風土の中で、依存型社会にどっぷりとつかってしまった人にとっては、子どもが自立していくの
を見るのは、さみしいことかもしれない。事実、それはそのとおりで、私とて、いつもそのさみし
さと戦っている。できれば、依存型社会でも何でもよいから、たがいにベタベタの人間関係の中
で、子どもに甘え、甘えられて生きていきたい。「温もり」ということになるなら、そういう人間関
係のほうが、ずっと居心地(いごこち)がよい。しかしそれでは、日本人は、国内のみならず、世
界という場でも、いつまでたっても自立できないままで終わってしまう。私は、それではいけない
と思っている。だからあえて、この文を書いてみた。

 あとは、みなさんの判断の問題になると思う。まあ、そんな考え方もあるのかなという思いで、
この原稿を読んでもらえば、うれしい。私ももう一度、じっくりとこの問題について考えてみる。こ
こに書いたことは、服でいえば、仮縫いのようなものと思ってもらえばうれしい。あるいはあなた
も、身近の人と、この問題について、話しあってみてほしい。おもしろいテーマになると思う。

 最語に一言。つけ加えるが、私はあの渥美清氏が、数年前なくなったのを知ったとき、何とい
うか、ガクリと力が抜けてしまったのを覚えている。私の心の中で生きていた温もりが消えたよ
うにも感じた。私は、そういう温もりまで、否定しているのではない。どうかどうか、誤解しないで
ほしい。
(02−12−19)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


チャットルーム

 マガジン読者のために、チャットルームを解説した。今日(一二月一九日)が、その初日。で、
告示した午前一〇時。しばらく待ってみたが、訪問してくれた人は、ゼロ。さらに三〇分後、し
ばらく待ってみたが、やはりゼロ。居間におりてきて、ワイフに、「だれもきてくれなかった」と話
すと、「あんたも、バカねえ」と。「あんたと話したい人なんて、いないわよ」とも。ナルホド!

 結構、その直前までドキドキしていたのに! まあ、そういうものか。考えてみれば、仮にだれ
かの「入室」があったとしても、何を話せばよいのか。「こんにちは」ではおかしいし、「何か、ご
用ですか」も、おかしい。私は、それにつづく会話をまったく、考えていなかった。ドジといえば、
ドジ。私には、こんな苦い経験がある。

 私が中学二年生のときのこと。私は、Kさんという、すばらしい女の子に恋をした。初恋だっ
た。本当に好きだった。で、くる日もくる日も、考えるのはそのKさんのことばかり。Kさんの住む
家のほうを見ては、ときに涙までこぼしていた。

 で、私はそんなある日、決意をした。電話をかけることにした。簡単に「決意した」と書いた
が、その緊張感たるもの、相当なものだった。よく覚えていないが、数日前から、食事ものどを
通らなくなっていたと思う。そしてその運命の日がきた。

 私は学校から帰ると、自転車に乗った。乗って、駅の横にあった公衆電話に向かった。家に
も電話はあったが、家の電話は使う気にはなれなかった。で、公衆電話から、電話をすること
にした。そのあたりのことは、今でもよく覚えている。私の緊張感は、最高レベルにまでなって
いた。ドキドキなんていうものではない。心臓は、はりさけんばかりに、鼓動していた。全身、汗
だらけ。緊張で、体中がかたくなっていた。で、思い切って電話した。それはもう、高いビルから
飛び降りるような思いだった。

 ベルがなる。二度、三度……。声がした。Kさんの母親の声だった。私は言った。「Yさん(名
前)はいますか?」と。母親は私がだれかもたしかめず、向こうにむかってこう叫んだ。「Y子!
 電話よ!」と。

 首をしめられるような沈黙。長い時間。私は受話器をもとにもどうそうとする自分と、必死に
戦った。「もうだめだ」と何度か思ったあと、そのKさんが、電話に出た。

 「もしもし……、Kです」
 「……林です……」と。

 そこまで言って、私ははじめて気がついた。本当にはじめて気がついた。私は電話をすること
だけを考えていた。しかしそのあとのことは何も考えていなかった。Kさんは、何度も、「何か
用?」と聞いたが、私は何も答えられなかった。で、最後は、受話器をもとに戻そうとする自分
に負けて、そのまま受話器を置いた。それでおしまい。

 ……今度のチャットルームでも、同じ、失敗をした? チャットルームを開くことは考えていた
が、どう利用するか。あるいは利用してくれる人が、どう利用してくれるか、それについては、ま
ったく考えていなかった。ドジといえば、ドジ。これほど、ドジな話はない。ああああ。

●「チャットルーム」は、毎日午前一〇時〜に、利用してくださる方は、どうぞ利用してください。
毎週月曜日の午前一〇時には、私もできるだけ参加するようにします。よろしくお願いします。

     Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また次回、お会いしましょう!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-29-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  2002年、最後のマガジンに
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)   なりました。この一年間
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /   このマガジンを愛読してくださり
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄     ありがとうございました。
 ===○=======○====KW(8)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 555人
最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  87人
はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  57人 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−12−29号(159)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【掲示板】
マガジン読者の方のための、専用掲示板を用意しました。
どうか、おいでください。ご希望、ご質問、テーマなどいただければ、うれしいです。
会員、みなさんの相互連絡にも、ご利用ください。
     http://6302.teacup.com/bw884/bbs
    (マガジン読者の方のための、専用掲示板です)
【チャットルームへのご案内】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
☆このマガジン読者の方どうしの方+はやし浩司の、チャットはいかがですか。
 http://8411.teacup.com/hhayashi/chat をクリックしてください。
☆ ニックネーム、(BW)が、私こと、はやし浩司です。
●毎日午前10:00〜に時間帯を合わせて、ご利用ください。私もときどき、参加させていただ
きます。毎週月曜日は、できるだけ私も参加するようにしています。
                   では、楽しく、仲よく、ご利用ください!
 ≪≪≪
《   》   メニュー
‖へ へ‖     今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)
⊂ U ⊃
  フ           【1】子育てポイント
| |          【2】子育て随筆
/ ▼ \         【3】雑談
  ■           【4】哲学ノート
  ■
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育てポイント
 
●叱っても、威圧しない
 『威圧で閉じる、子どもの耳』と覚えておく。威圧すれば、子どもの耳は閉じてしまい、一度、
その状態になると、あとは叱っても意味がない。

よく親や先生に叱られて、しおらしくしている子どもがいる。しかし反省しているからそうしている
のではなく、こわいから、そうしているだけ。中には、叱られじょうずな子どもがいる。先生が何
か叱りそうになると、パッと土下座して、「すみません」と、床に頭をこすりつけるなど。多分、親
の前でもそうしているのだろう。が、このタイプの子どもほど、何も反省していない。その場をの
がれたいがため、そしているだけ。

 子どもを叱るときは、恐怖心を与えてはいけない。言うべきことを淡々と言い、あとは時間を
まつ。


●「核」攻撃はしない
 子どもを叱るときでも、その子どもの人格の根幹、つまり「核」にふれるような攻撃はしてはい
けない。「あなたはやっぱりダメな子ね」「あんたなんか、いないほうがよい」など。

 子どもにもよるが、核に近ければ近いほど、子どもはキズつく。親は、励ましたり、自覚させる
ためにそう言っているだけと思っているかもしれないが、受け止める子どものほうは、そうでは
ない。私も子どものころ、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」とよく言われた。しかしその言葉
ほど、私を追いつめる言葉はなかった。つまりそれが私にとっては、「核攻撃」だった。


●恐怖感は禁物
 恐怖感、とくに極度の恐怖感は、子どもの心をゆがめる。はげしい夫婦げんか、暴力、虐
待、育児拒否など。親は「たった一度」と思うかもしれないが、そのたった一度で、大きな心の
キズを負う子どもは、いくらでもいる。

 あの女の子(二歳)は、はげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役のひとりごとを言うよ
うになってしまった。母親は「気味が悪い」と言ったが、その女の子は、精神そのものが、分裂
してしまった。

 また別の男の子(四歳児)は、お湯をこぼしたことを、祖父にはげしく叱られた。それが原因
で、その男の子は、自閉症を誘発してしまった。

 こうしたケースで共通しているのは、「恐怖」である。親や祖父は「叱っただけ」と思うかもしれ
ないが、子どもは、それを「恐怖」ととらえる。あくまでも子どもの立場で考える。


●引き金を引かない
 インフルエンザは、インフルエンザの菌が原因で起こる。同じように、心の病気は、ショックが
原因で起こる。だれでも、その条件さえ整えば、風邪をひく。同じように、どんな子どもでも、ショ
ックを与えると、心の病気を引き起こす。つまり心の病気にかからない子どもは、いない。そう
いう前提で、子どもの心は考える。

 先生に叱られたのが原因で、チックや夜尿症になる子どもは、いくらでもいる。迷子を経験し
たあと、分離不安になってしまう子どもも多い。そんなわけで子どもに与えるショックには、注意
する。とくに満四・五歳前の子どもには、注意する。

 ほとんどの親は、ショックを与えながら、その与えたことにすら気づかないでいる。よくある例
は、泣き叫ぶ子どもを無理に車に押し込め、学校へつれていくケース。親は「不登校児になっ
たらたいへん!」と思ってそうするが、そのたった一度のショックこそが、子どもを本物の不登
校児にしてしまう。そしてそのあと、「A君が悪い」「先生が悪い」と言い出す。(もちろんそうでな
いケースも多いが……。)

 どんな子どもにも、心の問題は潜んでいる。問題のない子どもは、いない。だから引き金は
引かない。


●親の情緒不安定は、百害のもと
 何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。長い時間をかけて、子どもにさ
まざまな影響を与える。もっとも、親自身が、それに気づいていれば、まだよい。大半の親は、
自分がそうであることに気がつかないまま、それを繰り返す。

 子どもの側からみて、とらえどころのない親の心は、子どもの心を、かぎりなく不安にする。そ
の不安がつづくと、子どもは心のよりどころをなくす。「よりどころ」というのは、絶対的な安心感
を得られる場所のこと。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。子どもは、この絶
対的な安心感のある場所があってはじめて、やさしく、おだやかな心をはぐくむことができる。

 もしあなたが自分自身の不安定さを感じたら、基本的には、子育てから遠ざかるのがよい。
「今の私は、おかしい」と感じたら、なおさらである。これは子育ての問題というよりは、親自身
の問題ということになる。 


●家庭教育は、心づくり
 子ども(幼児)にものを教えるときは、何をどう教えたかではなく、また何をどう覚えたかでは
なく、何をどう楽しんだかを考えながら、する。そういう意味で、子どもの家庭教育は、すべて、
「心づくり」と考える。「楽しい」「楽しかった」という思いが、やがて子どもを伸ばす原動力とな
り、子どもを前向きにひっぱっていく。

 よく子育ては、「北風と太陽」にたとえられる。北風というのは、威圧、強制、無理などが日常
化した育て方をいう。一方、太陽というのが、ここでいう「心づくり」をいう。家庭学習では、太陽
がよいに決まっている。

 こう書くと、「それではまにあいません」という親がいる。「心づくりをしていると、遅れてしまう」
と言うのである。しかしそれも子どもの「力」のうち。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。子ど
もの学習には、ある程度の無理はつきものだが、コツは、無理を加えるにしても、そのおらかさ
を、食いつぶしてしまわないこと。ほどほどのところで、あきらめ、ほどほどのところでやめる。

 子どもがあなたと勉強らしきことをしたあと、「ああ、楽しかった」と言えば、それでよし。そうで
なければ、勉強のやり方そのものを、反省する。


●神経疲労に注意
 子どもは、神経疲労には、たいへんもろい。それこそ、昼間、一〇分程度神経をつかわせた
だけで、ヘトヘトに疲れてしまう。五分でも、疲れる子どもは、疲れる。病院で診察を受けただ
けで疲れる子ども、おけいこ塾の見学に行っただけで疲れる子ども、先生にきつく叱られただ
けで疲れる子どもなど。決して、安易に考えてはいけない。

 子どもは神経疲れを起こすと、わけもなくぐずったり(マイナス型)、暴言を吐いたり、暴れたり
する(プラス型)。吐く息が臭くなったり、腹痛や下痢などを繰り返す子どももいる。どちらにせ
よ、そういう形で、自分の中にたまったストレスを発散させようとする。だからそれを悪いことと
決めてかかって、子どもをおさえつけるようなことはしてはいけない。

 もし子どもが神経疲れの症状を見せたら、ひとり、のんびりとくつろげるような環境を用意す
る。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果になるので注意する。あとはスキンシップを多く
して、CA分、MG分の多い食生活に心がける。


●あきらめることを恐れない
 子どもというのは、親が何かをすれば伸びるというものではない。しかし何もしなくても、伸び
る。しかし親があせればあせるほど、実際には、逆効果。かえって伸びる芽をつんでしまうこと
もある。しかし親には、それがわからない。「まだ何とかなる」「うちの子はやればできるはず」
と、子どもを追いたてる。で、結局、行き着くところまで、行く。また行かないと、親も気がつかな
い。

 こわいのは、子どもには、二番底、三番底があるということ。たとえば進学希望校にしても、B
中学からC中学へレベルを落としたとする。そのとき、親は、C中学へレベルを落としたことで、
子どもを責める。しかしこの状態で、子どもを責めれば、今度は、D中学、E中学へと落ちてい
く。実際、こういうケースは、多い。

 が、親が、「まあ、こんなものだ」とあきらめたとたん、その時点を起点として、子どもは伸び
始める。だから、子どもの勉強では、あきらめることを恐れてはいけない。もちろんだからとい
って、子どもに好き勝手なことをさせろとか、子育てを忘れろということではない。「あきらめる」
ということは、「受け入れる」ということ。つまりその度量の広さこそが、親の「愛」の深さというこ
とになる。
(02−12−26)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


受験期の心がまえ

 子どもの受験は、受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。こ
んな中学生(女子)がいた。

 「ここ一番!」というときになると、決まって、「私は、どうせダメだもん」と言って逃げてしまうの
だ。そこである日、理由を聞くと、こう言った。「どうせ私はS小学校の入試に落ちたもんね」と。
その中学生は、七、八年前の失敗を、まだ気にしていた!

 が、実は、そのように気にしたのは、その子ども自身ではない。まわりの親たちが、気にし
た。それをその子どもが見て、自分でも気にするようになった。

 この時期の子どもには、まだ「受験」「合格」「不合格」を、客観的に判断する能力は、ない。
たとえば子どもが受験で失敗し、不合格になったとき、不合格がどういうものであるかを教える
のは、まわりの親たちである。子どもはその様子を見て、不合格というのが、どういうものであ
るかを知る。

 ある母親は、息子(年長児)が、S小学校の入試に失敗したあと、数日間、寝こんでしまった。
また別の夫婦は、それがきっかけで離婚騒動を起こした。そのあと幼稚園を長期にわたって
休んだ親もいるし、何と、自殺を図った親もいる。子どもは、そういう親たちの動揺を見て、不
合格というのが、どういうものであるかを知る。……知らされる。

 そこで子どもの受験は、合格を考えて準備するのではなく、不合格を考えて準備する。そして
そのときこそ、親の真価が試されるときと、覚悟する。仮に失敗しても、それは親の範囲だけで
とどめ、その段階で、握りつぶす。そして振り向いたその顔で、子どもには明るいこう言う。「さ
あ、これからどこかでおいしいものを食べてこようね」と。そういう姿勢が、子どもの心を守る。
親子のきずなを守る。
(02−12−20)

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

受験は淡々と

 人間が人間を選別する。受験の基本は、ここにある。しかしそれは恐ろしく、非人間的なこと
でもある。それゆえに、受験期の子どもをもった親は、理解しがたい恐怖感と、そして不安感を
覚える。

 こうした子どもの受験戦争に巻きこまれ、精神をおかしくする親も、少なくない。とくに長男、
長女のときは、そうなる。「学校の定期テストのたびに、お粥しかのどを通りません」と言った母
親がいた。「進学塾の明かりを見ただけで、血がカーッとのぼるのを感じました」と言った母親
もいた。

 しかしこうしたときこそ、親が親である、その本分を試される。たいていの親は、「子どもを愛
しています」と言うが、本当のところ、それが「愛」であるかどうかは、疑わしい。子どもを自分の
支配下において、子どもを思いどおりにしたいという愛を、代償的愛というが、ほとんどの親
は、代償的愛をもって、子どもを愛していると錯覚する。しかし代償的愛は、代償的愛。真の愛
ではない。

 たとえば子どもが、学校のテストで悪い点をとってきたとする。家の中でも元気がない。そうい
うとき、あなたは何といって、子どもに声をかけるだろうか。「何よ、この点数は!」と、あなたは
言うだろうか。あるいは「こんなことで、どうするの!」と、あなたは言うだろうか。ほかにもいろ
いろな言い方があるが、英語酷では、こういうとき、「TAKE IT EASY!」と言う。日本語に訳
せば、「気楽にしな」という意味になる。

 この話をある会合ですると、ひとりの母親が笑いながら、こう言った。「そんなこと言えば、うち
の子、本当に、何もしなくなってしまいます」と。一方、子どもは子どもで、こう言った。「もしもう
ちの親がそんなことを言ったら、いよいよ見放されてしまったかと、かえって不安になる」と。そ
う言ったのは中学生だが、それを聞いた私は、思わず笑ってしまった。しかしこれだけは言え
る。「勉強しなさい!」と子どもを叱るのは、親の勝手だが、しかしその言葉ほど、親子の間に
ヒビを入れる言葉はない。反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが作った夕食の料理をみて、あなたの夫が、「何だ、こんな料理。まずいぞ。六五点
だ。平均点以下だ!」と言ったら、あなたはそれに耐えられるだろうか。が、それだけではすま
ない。

 あなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」と言えば言うほど、その責任は、親がとらねばな
らない。今、大学生でも、親に感謝しながら、大学へ通っている子どもなど、さがさなければな
らないほど、少ない。お金を渡せば、そのときだけ、「ありがとう」と言うかもしれないが、本当に
感謝しているかどうかは、わからない。中には、「親がうるセ〜から、大学へ行ってやる」と豪語
(?)する高校生すら、いる。

 そんなわけで、子どもの受験は、淡々とすますのがよい。親のためでもあるし、子どものため
でもある。さらに親子の絆(きずな)を守るためでもある。この日本では、受験競争は避けては
通れない道だが、その受験戦争で、家族の心がバラバラになってしまったら、それこそ、大失
敗というもの。また家族の心を犠牲にするだけの価値は、受験競争には、ない。
(02−12−20)

    >\
     〜〜⌒し〜〜
      /⌒ \く
     / |
    /  |
  <∵∧〜 |
 ‥※※∴≫※|
∴※※¨※※:)      みなさんのご家庭で、このマガジンが役立って
  <≪ ※≫※       いますか?
  ∵※∨>∴         何かテーマがあれば、どうか、メールを!

【2】子育て随筆∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

BW教室、
●新年中児、新年長児のみなさんへ、

 「BW教室」の「BW」は、「ブレイン・ワーク」という意味。「知能ワーク」という意味である。昔、
「主婦と生活」という雑誌社に、井上K氏という編集長がいた。その編集長が、私の教室を紹介
してくれるとき、「林教室ではおもしろくないなあ」と言ったので、その場で「BW教室」とした。今
では、この名前が、たいへん気にいっている。

 私の教室では、年間を四四レッスンに分け、毎回、まったくちがった授業をしている。四月か
ら順に並べてみる。(「まなぶくん・幼児教室」(学研)では、四八のテーマに分け、商品化したこ
ともある。)

 あいさつ……大きな声を出せるように指導する。
 ちえあそび……考える楽しさを教える。
 もじ……文字のもつおもしろさをわからせる。
 かず……数の基本について。
 ことば……言葉を音に分解したりして、言葉の遊び。
 おおきい、ちいさい……大小の判断、数の大小。
 かぞく……家族の関係と、役割について。
 とおい・ちかい……遠近感覚から、距離を数値で表すところまで。
 おえかき……絵の話。絵の描き方など。
 かたち……形の基本、形遊びなど。
 いろ……色の世界、色づかい、ぬり絵あそび。
 えいご……英語だけで、授業を展開。
 きのう、きょう……時間の世界と、きのう、今日の感覚。
 おはなし……紙しばいづくりと、発表。
 ながい、みじかい……長い、短いの判断。
 いいこと、わるいこと……善悪の判断と、その感覚。
 おんかん……音遊び、音感遊び。
 さぎょう……こまかい手作業をとおした、遊び。
 しごと……家庭における役割と、手伝いについて。
 しつけ……基本的なマナーほか。
 きせつ……四季と、一二か月の話など。
 えんぎ……体や手足をつかった表現力。
 ほんよみ……読書指導。
 どうぶつ……虫、魚、けもの、鳥の特徴と分類。
 はな、き……植物の基本。
 こうさく……工作の楽しさと、箱づくり。
 うた……歌唱指導とみなの前での表現力、ほか。

 こう書くと、つまらない内容に思う人もいるかもしれないが、実際には、子どもたちを笑わせな
がら、授業を進める。「笑えば伸びる」が、BW教室の持論でもある。もしあなたが興味をもって
くれるなら、授業はすべて公開しているので、見学にきてほしい。あなたは子どもたちの伸びや
かな様子に、必ず驚くだろう。これはウソでも、誇張でもない。この教室の授業には、私の三三
年のキャリアがこめられている。ここまでカリキュラムを作りあげるのに、それだけで一〇年以
上かかった。もちろん教材類は、すべて手作り。毎回一〇〇枚以上の教材を使っている。自信
がある。

(見学を希望してくださる方へ)
  053−452−8039まで伝言を残してください。
  あるいは、「はやし浩司のサイト」から、メールで。
  追って、日時などを、連絡します。
  現在、二〇〇三年度四月からの、新年中児、新年長児のみなさんを募集しています。
 「さあ、どうだ! これがはやし浩司の世界だ!」と言えるような、個性的な教室です。決し
て、みなさんの期待を裏切るようなことはしません。どうか一度、ご訪問ください。
(場所、浜松市伝馬町311−1、TKビル、3階です。)
(02−12−24)

●机もイスも、自分で作った。温もりのある教室をめざした。
●こどもがおもちゃ箱に入ったような錯覚を覚える教室にした。
●私の教育の哲学のようなものを、BW教室に感じていただければ、うれしい。

●子どもは、人の父(ワーズワース「われ見るとき、わが心は、はずむ」)

    /⌒⌒⌒^ヽ
   /(八八八ミ ヽ ┌┐
   ((へ  _ ミ) ││|/ 
   |∂  −  ξ └┘|\
   | /   ^ 3
   ((  (  /) n     どなたか、このマガジンに興味をもってく
   入 ノ ノ( (ξ)    ださりそうな人がいらっしゃれば、この
    ト─´(  / /      マガジンのことを話していただけませんか。

【3】雑感∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

幸福への道

 三男が苦しんでいる。三年間、通った大学だが、「自分には合わない」と言い出している。理
由は無数にあるのだろう。落第したことも、大きな理由かもしれない。あるいはそれ以前にも、
いろいろあった? ワイフは、「一応、休学届けということにしたら?」と話している。私もそう思
うが、しかしすべては三男が決めること。

 ちょうどクリスマスイブの夜だった。今年のクリスマスも、ワイフと二人だけ。長男が仕事から
帰ってくるのを待ったが、残業とかで、いなかった。

 ハッピーバースディ、ツー、ユー!
 ハッピーバースディ、ツー、ユー!
ハッピーバースディ、ディア、イエス・キリスト!
ハッピーバースディ、ツー、ユー!

 しばらくしてから、まず二男に電話をした。家にはいなかった。留守番電話に伝言を残した。
クリスマス休暇には、デニーズの家に行くと言っていた。つづいて三男のアパートに電話をし
た。三男も留守だった。伝言を残した。

 「幸福になる道はひとつではないよ。回り道も寄り道もある。わき道もある。でも、どんな道で
も、全部、幸福につながっているよ。もともとね、まっすぐな道なんてものは、ないよ。お前はお
前で、判断すればいい。学部変更ができなければ、退学もいいだろう。自分で決めな。どんな
判断でも、パパは、お前を支持するからね」と。

 私もずっと、わき道ばかり歩いてきた。浜松へきてからは、そうだった。一度だって、王道を
歩いたことがない。でも、私は自由だった。いつもしたいことができた。今も、している。私が頭
をさげなければならない人は、だれもいない。公的な保護も恩恵も、一切、受けていない。ずっ
と、私だけの力で生きてきた。が、その私が不幸だったかといえば、決してそうではない。不幸
というのは実感できるものだが、幸福というのは、それがなくなってはじめてわかる。私は、そう
いう意味で、不幸になったことはない。つまり幸福だった。

 たいしたことはできなかった。そういう思いは、いつもある。不完全燃焼したままの人生だっ
たような気もする。しかし思い残すことは、ほとんどない。だれが私のかわりに生きても、また
何度生きても、その人生は、こんなものだったと思う。これが限界だったと思う。私はやるべき
ことはした。できることはした。それ以上、私は何を望むのか。何を望むことができるのか。

 やがて長男が仕事から帰ってきた。プレゼントで買ってきた手袋を渡すと、うれしそうに、何
度もはめたり、はずしたりしていた。そしてもう一度、みんなで、あの歌を歌った。

 ハッピーバースディ、ツー、ユー!
 ハッピーバースディ、ツー、ユー!
ハッピーバースディ、ディア、イエス・キリスト!
ハッピーバースディ、ツー、ユー!

 内心では、こんなふざけた歌を歌うと、デニーズの両親は怒るだろうなと思いながら歌った。
あちらの家族は、サザン・バプティストの熱心な信者だ。長男は、宣教師をしているという。「来
年からは、やっぱりこの歌はやめて、『きよし、この夜』を歌うことにしよう」と、ワイフに言うと、
ワイフは軽く笑った。
(02−12−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


私はドンキホーテ

 セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・一五四七〜一六一六・スペインの小
説家)の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家とい
うか、妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするとい
う物語である。

 この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。自らを騎士と思い
こみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでし
まう。そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗っ
て、旅に出る……。

 こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。実のところ、この私にもある。よく
ワイフは私にこう言う。「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを
言うね」と。最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。私があれこれ国際情勢を心配
するからだ。

 が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したとこ
ろで、日本や世界は、ビクともしない。もともと、だれも私など、相手にしていない。それはいや
というほどわかっているが、しかし、私はそうではない。「そうではない」というのは、相手にされ
ていると誤解しているというのではない。私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレ
ーキをかけることができないということ。そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。
あるいはどこが違うのか。

 よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。私塾の経営者といっても、
経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者
も、少ないが、いる。私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう
経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。

 私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。しかし、いくら議論しても、まったく無意
味。それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。
あるいはそれ以下かもしれない。論じたところで、マスターベーションにもならない。しかしそれ
でも、私たちは議論をつづける。まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。あるいは頭
の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。だれにも相手にされず、ただひた
すら、自分で自分をなぐさめる……。

 その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。ジプシーたちの芝居を、現
実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでい
くドンキホーテ。それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのも
のと言ってもよい。

 さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。「役にたってい
る」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。読んでもらっているかどうか
さえ、わからない。しかしそれでも、私は書いている。考えてみれば小さな世界だが、しかし私
の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 
国連の事務総長より高い? ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう
思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。

 これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。だれにも相手にされなくても、書き
つづける。おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私な
のだ。だから書きつづける。
(02−12−21)

●毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。それは頭の回転というのは、そのときのコン
ディションによって違うということ。毎日、微妙に変化する。で、調子のよいときは、それでよい
のだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にから
れる。そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。こわいのは、ア
ルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるの
では……という期待もある。

●ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化し
たとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、
どんどんとボケていく……。そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者し
かいないのでは。あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。「林の書いて
いる文は、このところ駄作ばかり」と。……実は、私自身もこのところそう思うようになってき
た。ああ、どうしよう!!

●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばなら
ない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス
「ドン・キホーテ」)
●真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


家族のために

 「家族のため」と思いながら、懸命にふんばっている人は多い。必死になって、自分を支えて
いる人は多い。この私とて、もし守るべき家族がいなかったら、いまごろは、ホームレスか何か
になって、公園のベンチの上で寝ているだろう。いや、ときどきホームレスの人を見ると、ほっ
とするような親近感を覚える。多少、「形」こそ違うが、「中身」は同じ。どこも違わない。

……こう書くからといって、決してホームレスの人を、バカにしているのではない。人生は、無数
の歯車の中で、動く。運・不運というよりも、そういう無数の歯車を、すべて把握(はあく)するの
は、不可能。そのため狂うときには、狂う。しかし狂ったからといって、その人の責任ではない。
仮にその人がホームレスになったからといって、その人の責任ではない。また今、ホームレス
でないからといって、私はホームレスの人とは違うと思うのは、正しくない。

 私たち夫婦も、どれだけ険悪なムードになっても、息子たちの前では、平静を装う。仲のよい
フリをして、心配をかけないようにしている。仕事にしても、家族のためと思うから、多少の無理
もできる。無理をしても、苦にならない。もう少し若いころには、息子たちのほしがりそうなもの
を手に入れたとき、私は息子たちの喜ぶ顔を早く見たくて、家路を急いだことがある。家族とい
うのは、そういう形で、私を支えてくれた。今も支えてくれている。

 ……と、書いて、今、こんな問題が起きつつある。私の家は、築二六年になる。二六年という
と、それほどボロ家ではないと思う人もいるかもれない。しかし実際には、ボロボロ。いまでいう
欠陥住宅で、新築当初から、ドアも開き戸も、満足に開けたり閉めたりできなかった。ピンポン
玉を置いたら、あちこちにころがっていった。新築後、数か月目に台風がやってきて、そのと
き、八畳間の天井が、天井さら、どさっと落ちてきたこともある。(ホント!)

 その建築会社は、私たちの家を建てたあと、そのまま倒産。その上、その親会社は、暴力団
が経営する建設会社。あれこれ文句を言ったが、結局、何もしてもらえなかった。で、そういう
状態で、二六年がすぎた。

 ところが、である。たまたまある建築会社の見学会に行き、そこで住所と名前を書いたら、何
と、「金賞」が当たったのである。生涯において、クジなど、めったに当たったことがない私が、
である。これには驚いた。三〇〇〇人近い応募者の中から、五人だけという。(もっともそれが
建築会社の手かもしれないが……?)

 金賞といっても、坪単価を、一三万円ほど安くしてくれるというもの。たとえば坪単価三八万
円の家が、二五万円になる、と。こういうデフレの時期だから、家を建てるというのは、ある意
味でチャンスかもしれない。金利も安い。五〇〇万円借りても、月々の返済額は二万円と少し
だそうだ。仕事は、ジリ貧、斜陽、先細りだが、しかし今のままのボロ家では、あと一〇年も耐
えられそうにもない。雨戸など、引いたとたん、こわれてしまう。そこで……、思い切って……
と、考えたが、この不景気感は、何ともしがたい。
 
 いや、私たち夫婦だけなら、今のボロ家で、一向に構わない。ワイフも、そう言っている。しか
し来年五月に、二男夫婦が、孫をつれてアメリカから帰ってくる。それを思ったとたん、ムラム
ラとやる気が起きてきた。改築する気が起きてきた。「今が、チャンスだ!」と。

 こうして「家族」が、そのつど私を動かす。今までも、繰り返し、動かしてきた。懸命になったこ
とも、必死になったこともある。そこで最初の話。もし私に家族がいなかったら、私はこうまで自
分を動かすことはなかっただろうと思う。また動かなかった。だから、もしその家族がいなかっ
たら、私はまちがいなく、今ごろはホームレスになっていたと思う。それは推察ではない。本当
にそう思う。私はもともとそういう人間なのだ。
(02−12−24)

●実際に建てるかどうかは、まだ未定です! 迷っています!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


恐怖

 その数日前から、少しおかしいとは感じていた。しかしその夜になって、症状がはっきりと現
れてきた。右腕の関節の内側が、勝手にはげしくけいれんするようになった。シャツをまくって
見ると、血管を含めた筋肉が、そのつどギクギクと動くのがわかる。

 先日、大学の同窓会に出たら、ひとり、脳腫瘍(しゅよう)になった男がいた。その男が、自分
の病歴を、あれこれと話してくれた。手術についても。幸い、彼のばあい、手術が成功して、そ
うして同窓会に顔を出すことができたわけだが、話を聞いているうちに、背筋が何度もこおりつ
くのを覚えた。本や雑誌、あるいは人づてに聞く話とは、迫力がちがう。その中で、その男は、
「脳腫瘍の二大症状は、はげしい頭痛と、しびれだ」と言った。これはあくまでも、彼が経験した
症状だが……。

 私は、勝手にけいれんを繰り返す腕を見ながら、やがて言いようのない恐怖にかられた。「も
しや……」と思いつつ、「そんなはずはない……」と、一方で打ち消す。この繰り返し。そしてそ
のたびに、言いようのない恐怖が、増幅される。

 私はそのとき、「死」について考えた。時計を見ると、もう夜中の一時。床についた直後には、
心地よい眠気があったが、こうなると、眠気など、どこかへ吹っ飛んでしまう。横で寝ていたワイ
フを起こして、症状について話した。ワイフは、「筋肉痛じゃないの」と、寝とぼけたことを言っ
た。「湿布薬でも張っておいたら」とも。私は起きて、湿布薬を張った。しかしけいれんは収まら
なかった。

 こういう心理状態になると、ものの考え方が、極端にうしろ向きになる。「自分は今まで、何を
してきたのだろう」という思い。「このまま生きていて、何になるだろう」という思い。そういう思い
が、つぎからつぎへと現れては消える。同時に、無数の後悔が、これまたつぎからつぎへと現
れては消える。「あの人に、もっと親切にしてあげればよかった」「あの人を、許してあげればよ
かった」と。が、その中でも一番、後悔したのは、脳腫瘍になった男に対する、私の態度だっ
た。私はその男の話を聞きながら、恐怖は感じていたが、どこか興味本位だった。彼も、どこ
か茶化して話したこともある。私はそういう深刻な話を聞きながらも、同情することさえしなかっ
た。私は自分の恐怖をヒシヒシと感じながら、そういうふうに恐怖を覚えるのは、きっとそのせ
いだと思った。

 で、翌日、起きると、ウソのように症状は消えていた。それから数日、症状は出なかった。さら
にそれから数日も、症状は出なかった。そういうことから、原因は、パソコンの使いすぎというこ
とになった。とくに今度新しく買ったパソコンは、キーボード部が高く、その分、手や腕を宙に浮
かした状態で使う。それがよくなかったらしい。が、それはそれとして、私はまた新しい学習をし
た。

 「死の恐怖」を前にすると、懸命に生きてきた自分など、まったく価値がないということ。もちろ
ん名声(私には名声はないが……)や、地位、肩書き(これらもないが……)もまったく価値が
ないということ。そういうものは、一片の助けにもならない。まったくならない。そして私は、その
状態のとき、「さあ、死よ、おいでになりましたか」とは、とても思えなかった。死の恐怖を前にし
て、ガタガタになってしまった。と、同時に、私という人間は、その程度かと、改めて思い知らさ
れた。
 
 おかげで今日は健康だった。おかげでこのところ、毎日、自分の健康を、それまで以上に実
感できるようになった。そしてそういう思いが、私をして、以前にもまして、考え、書かせるように
なった。「元気なうちに、とことん考えてやるぞ。とことん書いてやるぞ」と。腕がけいれんでダメ
になっても、かまうものか!
(02−12−25)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

挑戦的に生きる

 人間というのは、うしろ向きに生き始めると、どこまでもうしろ向きになる? そしてものごと
を、悲観的に、かつ悪いほうばかりに考える? 気力も弱くなり、その分、保守的になる? 変
化よりも、安泰(あんたい)を好むようになる?

 人間の「やる気」を生むのは、脳の中でも、辺縁系にある帯状回という組織だそうだ。この帯
状回がうまく機能すれば、やる気が出てくる。しかしそうでなければ、そうでない。つまり「やる
気」も、大脳生理学の分野で、生理の一つとして説明されるようになってきた。しかし……。

 「しかし……」と書いたのは、いくらそうだとわかったところで、「人間」というものを全体として
見たときには、考え方も変わってくる。たとえば私の電子マガジンを例にとって、考えてみよう。

 私は今のところ、二日おきに、電子マガジンを発行している。この発行について、一番の励み
になっているのは、毎回、少しずつだが、読者がふえていること。「新しい読者を失望させたくな
い」という思いが、ともすればいいかげんな気持ちになりそうな私を、いましめる。そしてそれが
「やる気」へとつながっていく。

 この段階で、(読者がふえる)→(喜びになる)→(快感に思う)というのは、脳の中で、どういう
メカニズムが働くことによるのか。ふつう(快感)は、脳の中に、エンドロフィンとかエンケファリ
ンとか、麻薬様の物質が放出されることによって、生まれる。が、その前提となる(喜び)は、脳
のどの部分で、どのようにして生まれるのか。それがわかれば、ここでいう(やる気)は、どのよ
うにすれば引き出せるかがわかる。

 ……が、残念ながら、私にはわからない。私には、ここまでしか書けない。しかし経験的に
は、こういうことは言える。

 冒頭で、うしろ向きな生き方について書いたが、やる気を起こすためには、その反対のことを
すればよいのではないか、と。要するに前向きに生きるということだが、もう少し具体的には、
挑戦的に生きるということ。「やってくだけろ」式に生きるということ。それは決して、むずかしい
ことではない。これは私の経験だが、ほんの少しの思い切りがあれば、それができる。清水の
舞台から飛びおりる……というような、おおげさなことではない。風に向かって、「さあ、こい!」
と叫ぶ程度でよい。たったそれだけのことだが、それで私たちの生き様は、ドミノ倒しのドミノの
ように、つぎつぎと変わっていく。

 人間というのは、前向きに生き始めると、どこまでも前向きになる? そしてものごとを、楽観
的に、かつよいほうばかりに考える? 気力も強くなり、その分、革新的になる? 安泰よりも、
変化を好むようになる?

 ……私は、いつも自分にそう言い聞かせながら、生きている。本当のところは、よくわからな
いが……。
(02−12−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩











件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-29-2

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

※2

ある老人の苦悩

●ドラ息子
 その老人(八二歳)には、二人の息子がいた。長男は、今、四五歳。二男は、今、四〇歳。長
男は、市内で、小さなレストランを開いている。二男は、隣のM県の県立病院で、ドクターをして
いる。

 その老人は、長男と同居している。もともと何かと問題のある長男で、高校を卒業したあと
は、仕事をするでもなし、しないでもなし、十年近く、ブラブラしていた。老人は、元国鉄職員。
毎月の年金は、約三二万円。そこそこの生活をするのには、困らないはずだったが、長男は、
その老人のスネをかじりつづけた。が、それだけではなかった。

 長男は、金庫から、老人の貯金通帳を盗み、そこから勝手にお金を引き出し、遊興費に使っ
たりしていた。車を買ったり、趣味のモデルガンを買ったりなど。が、やがて老人の妻が倒れ、
死んだ。老人が、七五歳のときのことだった。

 が、相変わらず、長男は遊びつづけた。ときどきアルバイトらしいことはしていたが、生活費
は、一円も入れなかった。まったくのドラ息子。とんでもないドラ息子。しかしそんな息子でも、
他人には、やさしかった。おだやかな男だった。とくに女性には、親切だった。結婚こそしなか
ったが、そんなわけで、老人の家には、いつも若い女が出入りしていた。

 老人の財産は、自宅の土地(一〇〇坪)と家。それに遺産で相続した、畑が六〇〇坪あまり
あった。長男は、この財産に目をつけた。ああでもないこうでもないと理由をつけては、その土
地を担保に、借金を重ねた。そのとき老人は、どこか頭の働きが鈍くなり始めていて、こまかい
計算ができなくなっていた。が、気がついたときには、その畑は、宅地に転用され、さらに人手
に渡っていた。

 二男はドクターをしていたが、ほとんど実家には帰ってこなかった。長男が二男を避けた。何
かにつけてできの悪い長男、何かにつけてできのよい二男。そういう関係で、良好な兄弟関係
など、育つはずがない。そういう長男だったが、ある日、その老人は私にこう言った。「昔から、
できの悪い子どもほど、かわいいと言いますね。そのとおりですよ。S(二男)は、どこへいって
も、ひとりで、しっかりやっていく子どもです。心配していません。しかしY(長男)は、そうではあ
りません。だからよけいにかわいいです」と。

 今でも長男は、その老人の目を盗んでは、サイフからお金を抜き取っているという。小さな金
庫もあるが、長男は、合いかぎをもっているらしい。しかしそれを知りつつ、その老人は、「ま
あ、いいじゃないですか……」と。「どうせ、すべて長男のものになるのですから」と。

●リズムでできる人間関係
 親に依存する子ども。子どもに依存する親。こうした依存関係は、一度できると、一方的なも
のになる。……なりやすい。尽くす側と、尽くされる側の立場が、はっきりしてくる。

 ある女性(七六歳)は、生活費のすべてを、息子(四九歳)に依存していた。息子は見るにみ
かねて、そうしていたが、今では、それが当たり前になってしまっている。息子はこう言う。「母
にお金を渡すと、決まってこう言います。『大切に、つかわさせてもらうからね』と。まるで私がお
金を出すのが当然というような言い方をします」と。

 一方、ここに書いたようなドラ息子がいる。ただ親からむしりと取るというだけの子どもであ
る。それなりに社会性もあり、責任感もある子どもなのだが、親に対してだけは、そうでない。
「してもらうのが当然」と考える。このケースでは、親が子どもに尽くしていることになる。

 問題は、なぜ、そうした依存関係が、「尽くす側」と、「尽くされる側」に、分かれるかというこ
と。そこで調べてみると、最初は、ごくささいなことで始まるのがわかる。たとえば、「教える世
界」でも、こんなことがある。

 定規を忘れる子どもがいる。そこで私は、いくつか定規を買いそろえておく。忘れた子ども
に、貸してやるためである。しかしそういうことをすると、とたんに、定規を忘れる子どもがふえ
る。一度、こういう関係ができると、それを改めるのは、容易ではない。ある日突然、「もう定規
は貸してやらない」などと言おうものなら、大混騒動になってしまう。

 さらに定規を用意しておくと、そのままもって帰ってしまう子どもが出てくる。「盗む」という意識
からではない。無意識のまま、自分のケースに入れて、もって帰る。そこで毎月のように新しい
定規を買い足して、補充することになる。が、ここで終わるわけではない。子どもは定規を粗末
に扱うようになる。あちこちで使うたびに、定規をなくすようになる。そしてそのたびに、私のとこ
ろから定規をもって帰る……。

 こうして定規について、「尽くす側」と、「尽くされる側」の立場ができる。もっともこれは定規と
いう、教育の中の、ほんの一部の「部分」にすぎない。しかしこうした関係が無数に積み重なっ
て、やがてそれが人間関係をつくる。子育てのリズムというのはそういうもので、一事が万事。
最初は小さな流れが、無数に集まって、やがて大きな流れになる。で、一度そうなると、その流
れを変えるのは、もう、容易なことではない。

●小さな流れのときに……
 大切なことは、「尽くす側」にしても、「尽くされる側」にしても、そういう流れをつくらないこと。
わかりやすく言えば、サービス過剰も、またサービス不足も、子育てでは、決して好ましいもの
ではないということ。とくに親としては、サービス過剰に注意する。サービス過剰は、決して子ど
ものためにならないばかりか、結局は、そのツケは、親に戻ってくる。苦労するのは、親自身と
いうこと。

 家庭では、こんなことに注意するとよい。

(1)一〇%のニヒリズムを大切に……全幅に子どもを愛するということと、全幅に子どもに尽く
すということは、まったくの別問題。いつも心のどこかで、「子どもは子どもで、勝手に生きれば
いい」と、冷たい心をもつ。割合としては、一〇%くらいか。これを「一〇%のニヒリズム」とい
う。

(2)必要なことと、そうでないことを分ける……子どもに何かをしてあげるときは、「子どもにと
って、それが必要なことか、そうでないか」を、まず頭の中で考えるようにする。これはちょっと
したコツで、それを覚えると、できるようになる。そして「不必要」と感じたら、ぐんと自分をおさえ
る。あるいはしない。

(3)自分自身の中の依存性を知る……依存性というのは、体にしみついたシミのようなものだ
から、それを正したり、消すのは容易ではない。しかしそれに気づくだけでも、方向を変えるこ
とはできる。もし今のあなたが、親になっても、あなたの両親に対して、どこかベタベタしている
ようなら、あなたは無意識のうちにも、同じように、子どもにベタベタの関係を求めていることが
多い。そしてその分、子どもは子どもで、あなたに対して依存心をもちやすくなっていると思って
よい。

(4)「必要な訓練(トレーニング)はするが、その限度をわきまえている親のみが、真の家族の
喜びを与えられる」(バートランド・ラッセル)の言葉を、かみしめる。子育ては、いつもこの「限
度」との戦いである。溺愛も、過保護も、過干渉も、過関心も、その限度を忘れたときに、問題
になる。
(02−12−23)

●イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二
〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬
し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たち
のみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

元気をなくす高校生

 一人の女子高校生が、肩を落として、教室へ入ってきた。つくり笑いをしているものの、元気
がない。「どうだった?」と聞くと、「だめだった……」と。模擬テストの結果が悪かったらしい。

 その女子高校生は高校生なりに、がんばった。夏休みの間は、「一日一冊勉強」をこころが
けた。一日一冊というのは、ワークや参考書を、一日に一冊するという勉強法をいう。たいへん
な負担だが、しかしそれをやりこなせば、それなりに効果が出るはずだった。しかしその間に、
父親が経営する会社が倒産するという事態をむかえた。母親は、その間、実家に帰った。その
女子高校生だけは、受験も近いということで、父親のそばにいたが、とても勉強どころではなか
った。そのあとのテストである。

 「君はよくがんばったよ」と声をかけると、「先生、何もわからなくなってしまった……」と。「どう
いうこと?」と聞くと、「得意な英語も、何もわからなくなってしまった」と。そこで私が「そんなは
ずはない。君の力は、ぼくが信じている。それを信じて、くじけないで、今やるべきことすればい
い」と。

 しかし一度、こういう無気力症状が出てくると、それから抜け出させるのは、容易ではない。
励ませば励ますほど、逆効果になる。もちろんおどすのは、タブー。が、それ以上に心配なの
は、こうした無気力症状が出てくると、勉強そのものが、空回りをしてしまう。勉強しているはず
なのに、何も頭に入らなくなってしまう。テストでは、わかるはずの問題、解けるはずの問題ま
で、わからなくなったり、解けなくなってしまう。こうなると、成績は一挙に、さがる。

 今、こうして受験勉強の途中で、つまづき、キズつき、そしてそのまま倒れていく子どもは、た
いへん多い。まじめな子どもほど、そうなるというのは、悲劇的ですら、ある。もちろんそうなる
までに、いろいろな原因や背景がある。しかしそういう問題を別としても、受験勉強には、そう
いう面があることは、否定できない。つまり「勉強」という言葉が、どこかひとり歩きをしてしま
い、本来子どものためであるはずの「勉強」が、子どものためのものではなくなってしまってい
る。もっと言えば、子どもたちは、学ぶ楽しさを覚えないまま、その勉強に追われている。子ど
もの側からみれば、勉強が、子どもを苦しめる責め具になっている。諸悪の根源は、すべてこ
こにある。

 この女子高校生は近い未来の、あなたの子どもの姿といってよい。「うちの子はだいじょうぶ
……」「うちの子にかぎって……」と、もし今、あなたがそう思っているとするなら、それは「甘い」
の一言。

 おおざっぱに分けて、高校生の六〇%は、家でも、ほとんど勉強などしていない。大学進学を
考えて、受験勉強を本気でしている子どもは、一〇〜一五%。勉強を、そこそこにしている子ど
もは、二五〜三〇%。あるいは、もっと少ない。しかもその勉強している子どものうち、約半数
が、この女子高校生のような状態と考えてよい。ほとんどの高校生は、「入れる大学の、入れ
る学部」という視点で、大学を選んでいる。先日も、ある女子高校生がこう言った。「私、B大学
の国際関係学部へ行く」と。そこで「何、それ? どんな勉強をするの?」と聞くと、「知らない…
…。そこなら入れる」と。これが現実である。まぎれもない現実である。

 否定的なことばかり書いたが、日本の教育は、基本的な部分で、本当に、おかしい。おかし
いまま、日本の風土の中に定着し、今にみる、受験体制をつくった。私やあなたがそうであった
ように、子どもたちもまた、その犠牲者にすぎない。

 その女子高校生は、一枚のプリントと取り組んでいた。ときおりため息をついていた。どこか
上(うわ)の空といったふうだった。私とて、何もできない。そのまま静かにその高校生の勉強を
見守るしかなかった。
(02−12−23)

●幸福になる道は、決して一つではない。曲がりくねった道、わき道、回り道。道はいろいろあ
っても、しかし幸福には、変わりない。決してあせらないこと。もともとまっすぐな道なんてモもの
は、ない。不幸だと思っても、そこがゴールと思ってはいけない。そこが幸福につながる道へ
の、出発点なのだ。(はやし浩司「語録」)

●雨降って、地かたまる(イソップ「寓話」)
●われらの目的は、成功ではない。失敗にたゆまずして進むことである。(スティーブンソン「語
録」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


裸の王様

 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王
様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実
にも、そういう例は、いくらでもある。

 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ〜、どうしてあ
んたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を
見抜いた、純真な心ということになる。

 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。
H市は、市の中心部に、四〇〇億円とか五〇〇億円とかをかけて、商業開発ビルを建設し
た。映画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。当初は、結構なにぎ
わいをみせたが、それは数か月の間だけ。二フロアをぶちぬいて、子ども向けの児童館も作っ
たが、まだ一年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装にかけた費用が五億円
というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石でおおわれている。も
ちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。で、その児童館について、ふ
と、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。すると子どもたち(小学生)は、
「行かなア〜イ」「つまらなア〜イ」「一度、行っただけエ〜」と。

 私の教室は、一八坪しかない。たった一八坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い
方にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アル
バイトの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を
稼ぐだけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。

 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得に
なることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成して
いる。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさり
と、「つまらナ〜イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そう
だ」と。

 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ一〇〇〇兆円になる。日本人一人あた
り、一億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、四人家族なら、四億円の
借金ということになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を
重ねて、道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、こ
の国を、どうしようとしているのか?

 もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。
が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金
を背負わされている。いつかあの児童館には、五億円もかかったことを知らされたとき、子ども
たちは何と思うだろうか。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをし
たからだ」と、怒るだろうか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私
も救われるのだが……。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一
つ、ふえただけ? あああ。

 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか?

 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、崩壊する。そして
かつて経験したことがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることにな
る。が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったり
の、つまりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなる
だけ。となると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるし
かない。そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのな
いこと。私たち自身が、そういう国をつくってしまった!

 ただ願わくば、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しな
ければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身
が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。
自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそ
ういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。

 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目
は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。
すなおな気持ちで……。
(02−12−21)

●子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。
●おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに
考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ
化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳
に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学五年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テ
レビを、毎日四〜五時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、一日中、テレビ
を見ている子どももいる。よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がな
い。たとえば毎日四時間テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均
値は、二時間となる。だから「平均的な子どもは、二時間、テレビを見ている」などというのは、
ナンセンス。毎日、四時間、テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだ
まされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその
一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソ
の中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考え
ようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なく
とも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。このタイプの子どもは、自分自身が何ら
かの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、
その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先に言えば、そういうことになるが、問題
は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。K君(小五男児)を例にとっ
て、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加
工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、一日中、テレビを見てい
る。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え
方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子ども
のときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になっ
た。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということにな
る。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたの
で、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそ
うでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子ど
もも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。とても残念なことだが、こうした子
どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そして新しいタイプの日本人像をつ
くりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけではない。おとなの世界でも、ギ
ャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもいる。中には、あちこちから「文化人」
(?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、ますます「白痴化」(大宅壮一)しつ
つあるとみてよい。とても残念なことだが……。
(02−12−21)

●まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
●あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよ
う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


不安神経症

●私のばあい
 国際情勢がおかしい。経済状況もよくない。ふと気がつくと、今まで経験したこともないよう
な、痛みがある。もしや……と思う。それに、何かにつけて、忙しい。すべきことは山のようにあ
るのに、どれもはかどらない……。

 そういうとき、どっと不安感が、押し寄せてくる。何をしても、心の中がフワフワした状態にな
る。つかみどころがない。何も状況は悪くなっていないはずなのに、「変わった」「悪くなった」と
思う。あるいは「本当は問題はあったのだが、今まで、それに気がつかなかっただけ」と思う。

 一度、こういう状況になると、「なぜ生きているのか」とか、「生きていて、何になるのか」とか、
そんなことを考えてしまう。「この先、生きていかれるだろうか」とか、「今まで何のために生きて
きたのだろうか」とも考えこともある。こういうのを、一般では、「うつ」という。ひどくなったのを、
「うつ病」という。

 私のばあい、何かのきっかけで、よくそうなる。大きな事件ではない。ささいなことで、そうな
る。それをしばらく考えていると、やがて悶々とした袋小路に入ってしまう。そうなると、自分の
姿が客観的に見えなくなる。わからなくなる。小さな問題と大きな問題の区別ができなくなる。
それこそ悩まなくてもよいような問題で、悩んでしまう。

●解消法
 幸運にも、本当に幸運にも、私のワイフは、たいへん情緒の安定した女性である。結婚して
から三〇年、今までにただの一度も、自分を取り乱して、泣いたり叫んだりしたことはない。私
とちがい、クソまじめ。融通がきかないところはあるが、そのため、私には、よい「カガミ」になっ
ている。カガミというのは、私は自分の姿を、ワイフの心の中に映して、自分の姿を見ることが
できる。

 たとえば自分の精神状態がおかしくなったら、「いま、ぼくはおかしいか?」と聞く。するとワイ
フは、「そうね、ピリピリしているわね」と、アドバイスしてくれる。あるいは、問題の大小がわか
らなくなったときは、「どう思う?」と聞く。するとワイフは、「何でもない問題よ」と教えてくれる。

 たとえば少し前、私が市内で借りている駐車場のことで、隣人とトラブルになったことがある。
いつもその隣人は、私の駐車場のほうへ、ギリギリに駐車してくる。反対側は大きくあけたまま
である。そのため、私のほうは、車の乗りおりさえ、たいへん窮屈(きゅうくつ)な思いをしなけ
ればならなかった。

 こういうとき、である。文句を言えば、それで問題は解決する。しかし隣人は、どこかがんこそ
うな男だ。が、悪い人ではない。「どう言おうか」「何と言おうか」と考えているうちに、その袋小
路に入ってしまう。「まあ、がまんすればそれですむことだから、穏便にすまそう」という気持ち
も働く。それに文句を言わねばならないほど、大きな問題でもない。

 そんなとき、また別の問題が起きてきた。そのときも、私が書いた本のことで、それを読んだ
人から、抗議のメールが入った。「会って話をしたいから、会わせろ」と。さらに、つぎの問題が
起きてきた。夜、寝るときになったら、右腕の関節の筋肉が、勝手にピクピクと動き始めた。い
つか脳腫瘍(しゅよう)でもそうなると、何かの本でそう読んだことがある。こういうことが重なる
と、頭の中がパニック状態になる。わけがわからなくなる。

 で、そういうときは、まず、ワイフに相談する。が、それですぐ解決するわけではない。そのと
きはそのときで、「ワイフのほうが、まちがっている」というような心理状態になる。「ワイフは、
何もわかっていない」と思うこともある。どういうわけだか、「自分が正しくて、ほかの人は無知
だ」というふうに思うこともある。が、私のほうがふつうではない。ないことは、長い間の経験で
わかるようになった。こういうのを、医学の世界では、病識というらしい。「自分でおかしいこと
が意識できること」をいう。私のばあい、まだその病識がしっかりしているから、まだよい。もし
この病識がなくなったら……! ゾーッ!

●まじめ病
 現代生活というのは、まじめな人ほど、生きにくい。そういうしくみになっている。反対に、どこ
かズボラで、ずるく、ふてぶてしい人ほど、生きやすい。このことは子どもの世界を見ればわか
る。子どもの世界でも、繊細(せんさい)で、感受性が強く、まじめな子どもほど、何かと、集団
になじめない。生きにくい。ストレスから、いろいろな問題をひき起こす。

 その「生きにくさ」が、私のような人間を、一方で大量生産している。一説によると、アメリカ人
のうち、約三分の一がそうだといわれている。つまりそれくらい、現代生活には、「ひずみ」があ
る。つまりそれくらい、私のような人間は多い。ひょっとしたら、あなたもそうかもしれない。あな
たの夫や妻がそうかもしれない。だからこうした状態を、「まじめ病」と呼ぶ人もいる。病気の
「病」という文字を使うのはいやだが、こじらすとたしかに病気になる。

 だから私は、もう気にしない。私は私だ。こういう私が私なのだ。いくら注意していても、風邪
をひくときは、ひく。同じように、心も、落ちこむときは、落ちこむ。しかたのないこと。どうしよう
もないこと。ただ私のばあい、一つだけ注意していることがある。

 自分が落ちこんでいると感じたときは、自分で自分に、「今は、おかしい。正常ではない。だ
から今は、判断をくだしてはいけない」と、言い聞かせるようにしている。これは長い間、自分の
心の欠陥(けっかん)と戦っているうちに身につけた、私の生きる処世術のようなものである。
(02−12−24)

●悲しみは、知識である。多く知れば知るほど、恐ろしき真実を知り、嘆くことになる。なぜなら
知識の木は、生命の木ではないからである。(パスカル「パンセ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


コロラドの月

 夜、犬が騒いだので、庭へ出てみた。美しい夜だった。つんと冷たい風。澄み切った星空。

 中学生のとき、コーラス部で、「コロラドの月」という歌を歌った。簡単な曲だった。しかしあの
ころの私は、まだ見ぬ外国に、限りないロマンをいだいていた。いや、まだ知らぬ恋に、限りな
いロマンをいだいていたと言うべきか。「♪……君よ、こよ、うるわしき……」と。

 そのせいか知らないが、昔、飛行機の上からはじめてコロラド川を見たときには、本当に感
激した。「ああ、あのときの川だ」と。……そんなことはどうでもよいが、こういう静かな夜は、ど
ういうわけか、「コロラドの月」が、自然と鼻歌となって出てくる。

 あのときの、あの仲間はどうしているかな……とふと、思う。先生は、どうしているかなと、ふ
と、思う。おかしな話だが、あのときコーラス部の顧問をしていた、Sという先生は、そのあと、
女生徒に手を出して、新聞沙汰(ざた)になり、教職を追われたという。しかし私には、よい先生
だった。ユーモアがあって、お茶目で……。きっと魔がさしたのだろう。

 男子の部員は、四〜五人しかいなかった。あとは全員、女子。その中に佐藤君という後輩が
いた。歌手になった野口五郎という人の、兄だった。今はどこかで作曲の仕事をしているという
ことだが、それ以後、音信はない。

 こういう夜は、無性に、人が恋しくなる。それは過ぎ去りし日々への郷愁か。それとも、人生
の終盤にやってきた自分への悔恨か。若いころの思い出が、ツユと消えたように、私もまた、
つぎの瞬間には、ツユと消えるのか。そんなはがゆさが、こうしてあのころの思い出を、輝かせ
る。

 そう、今、脳裏に飛来したのは、コンクールに行くときの私たちだ。みんなでゾロゾロと、どこ
かの会場に向かっている。並んでいるわけではないが、前のほうに、女子が、歩いている。コ
ーラス部には、美しい人が集まっていた。Iさん、Tさん、Yさんなど。その女子たちが、明るく、声
を張りあげて、何やらはしゃいでいる。初夏の陽光を、まばゆいばかりに浴びながら……。

 遠い昔のような気もするし、つい先日のことだったような気もする。時間でみれば、ちょうど四
〇年も前のことだが、その実感が、まったくない。ただ私だけが、いつの間にか、歳をとったよ
うな感じがする。記憶はそのままなのに、肌からはハリが消え、シワもふえた。頭は、もう白髪
だらけだ。そんな私が、気分だけは中学生のままで、コロラドの月を口ずさむ……。

♪コロラドの月(Moonlight On The Colorado)
キング作曲(近藤玲二訳詞)

コロラドの月の夜 一人ゆく岸辺に
思い出を運びくる はるかなる流れよ
若き日いまは去りて 君はいずこに
コロラドの月の夜 はかなく夢はかえる
 
コロラドの山の端に 涙ぐむ星かげ
今もなお忘れられぬ うるわしき瞳よ
夜空に君の幸を 遠く折れば
コロラドの山の端に はかなく夢はかえる

 部屋にもどって、コタツのふとんを肩までかぶせた。体はシンまで冷えているはずなのに、ど
こか心の中だけは、ポカポカしている。私はさらにふとんを深く、顔までかぶせると、そのまま
眠ってしまった。甘い夢に包まれて……。 
(02−12−23)

●少し前、アメリカに行ったとき、二男が、「パパ、コロラド州はいいところだよ。いっしょに来て
住まないか」と言ってくれた。私がもう少し若くて、それにアメリカに人種偏見がなければ、そう
しただろう。が、今の私には、もうその気力はない。今ある世界の中で、今ある自分を大切にし
て生きたい。「冒険」ということになれば、私は、若いころ、さんざんしてきた。思い残すことは、
ほとんどない。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


胸騒ぎ

 この胸騒ぎは、何か? どこかザワザワする。落ち着かない。
 原因は、どうも北朝鮮のようだ。あの国は、この九月から、ハイパーインフレに見舞われ、国
家経済は、まさに壊滅状態。今年は食料不足で、さらなる餓死者が出るかもしれないという。

 が、独裁国家の常として、静かには、自滅しない。たいていは自分の失政をごまかすたに、
国民の目を外へ向けようとする。つまり戦争を考える。その矛先(ほこさき)が、日本というわけ
である。

 今日も夕方のテレビニュースで、北朝鮮問題を取りあげていた(02−12−22)。それによる
と、すでに核兵器は配備済みだという。しかもミサイルに搭載できるところまで、開発が進んで
いるという。目標は、もちろん東京。そして日本各地の自衛隊基地。この浜松市も、ターゲット
に入っているかもしれない。ゾーッ!

 今回の大統領選挙で、韓国の新大統領は、選挙運動中に、「仮に米朝戦争になっても、韓国
は中立の立場をとる」と、公言している。つまり日米韓の三国の間に、大きなキレツが入った。
こうなると、日本は日本で、覚悟を決めるしかない。そしてそれが、私の胸騒ぎの、大きな原因
となっている。

 同じく今朝のニュースを見ると、K元防衛庁長官の秘書が、五〇〇〇万円近いワイロを受け
取っていたと報道されていた。例によって例のごとく、K元防衛庁長官は、「秘書のやったこと」
と逃げている。あああ。こんなことで、自衛隊は、日本を守れるのか。日本の政府は、国民を
守れるのか。恐らく政治家や官僚は、戦争にでもなれば、イの一番に、東京から逃げ出すに違
いない。

 ザワザワ、ザワザワ、ザワザワ……。

 私一人が騒いだところで、どうにかなる問題ではない。私一人が心配したところで、どうにか
なる問題ではない。それはわかっているが、しかし一方、「われ、関せず」と、無関心でいること
もできない。どうしたらよいのだ!

(要求(1))国民に、簡易防毒衣服とマスクを、支給せよ。
(要求(2))細菌兵器に対して、予防接種を開始せよ。
(要求(3))戦争を想定した、避難訓練を実施せよ。

 ……と書きつつ、自分や家族の身の安全は、私たち自身で守るしかない。いつも最悪の事
態を想定しながら、その対処法を考える。さあて、どうするか? ここが思案のしどころ。

(私案(1))自警団、自衛団の発足。地域の人と連合して、防衛協力をする。
(私案(2))簡易防毒衣服を、自作する。大きなビニールの袋があれば、できる。
(私案(3))食料や避難場所の確保を、組織的にする。また家族で連絡しあっておく。

 日本の平和は、まさに風前のともしび。しかし日本の平和が、かくも薄い氷の上にあったと
は、私も予想さえしていなかった。いやいや、その氷は、私の予想以上に薄かったと書くべき
か。

●戦争によってもたらされるものは、また、戦争によってもち去られるであろう。(ジューベル
「パンセ」)
●平時における賢者は、戦争に備える。(ホメロス「諷刺詩」)









件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■12-29-3

※3BYはやし浩司
【4】哲学ノート∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

絶望論

 巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破壊さ
れるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。

 SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、足元を
すくわれるような絶望感を味わうに違いない。自分が何であるかさえわからない絶望感と言っ
てもよい。だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにいるかさえわからな
い。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突するという大げさな話は
別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。そしてそのつど人々は何らかの形で、日々に、
その絶望感を味わう。

 仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。社会情
勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。人間には、希望もあ
るが、同時に絶望もある。しかしこの二つは、対等ではない。希望からは絶望は生まれない
が、希望は、絶望の中から生まれる。人々はそのつど、絶望しながら、その中から懸命に希望
を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となっていく。

 SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗って、
宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をはずす。そし
てハッピーエンド。

 が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。ハッピー
エンドで終わることなど、十に一つもない。たいていは何とかしようともがけばもがくほど、その
ままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりから小さな希望を見出し、
それにしがみついていく……。

 何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思うから、絶
望は絶望になる。しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。つまり、「今」をそのま
ま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやすく言えば、そのつど、
「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することはない。

 仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気になっても、
結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれても、これまた
結構、と。少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、
絶望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、虚妄(き
ょもう)ということになる。いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれない
が、「絶望は虚妄である」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(一八八一〜一九三六・中国の
作家、評論家)である。彼は、こんな言葉を残している。

『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」)

 が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そのまま受
け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるのか。あるいは
死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについては、私はまだよくわ
からない。が、こんなことはあった。 

 昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽にな
れると思うのは、立派な希望だよ」と。私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つまり、絶望した
ら、死ぬのだろうね」と言ったときのことだ。しかしもし、絶望が虚妄であるとするなら、「死ねば
楽になれるという希望」もまた、虚妄ということになる。つまり「死に向かう希望」など、ありえな
い。もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、決して希望ではない」ということになる。この点か
らも、N君の言ったことは、まちがっているということになる……? もう一度、この問題は、頭
を冷やして、別のところで考えてみたい。
(02−12−20)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


Kさん夫婦

 Kさんは、今では珍しい、専業農家を営んでいる。「珍しい」というのは、このあたりでは、専業
農家の人は、ほとんどいないということ。数年前までは、もっぱらミカンを栽培していた。が、高
齢になったこともあって、今は花木に主流を移している。その分、ミカンは少なくなった。

 そのKさんは、いつも奥さんと二人で仕事をしている。何をするにも、二人といった感じ。そう
いうKさん夫婦を見ていると、「ああ、これが夫婦の、もともとの、あるべき姿なんだなあ」と思
う。言いかえると、夫は会社勤め、妻はもっぱら家事、あるいは共働きというのは、もともとある
べき姿ではないということになる。このことは、外国の夫婦と、くらべてみても、わかる。

 たとえば同じサラリーマンにしても、夫婦の密着度は、国によって違う。オーストラリアの友人
も、長い間、サラリーマンをしているが、若いころは昼食を食べるためにも、家に帰っていた。
あるいは奥さんが、夫の会社の近くまでやってきて、いっしょに昼食を食べていた。「今は?」と
聞くと、「今は、(たがいに歳をとり)、めんどうになった。(I can't be bothered so muc
h.)」と。その違いがきわまったものが、単身赴任ということになるが、オーストラリアでは、今
も、昔も、日本型の担任赴任など、考えられない。

 こう考えていくと、夫婦とは何かという問題にまで、発展してしまう。いくら「夫婦には形はな
い」とは言うものの、「ではなぜ、男と女は結婚するのか」ということまで考えていくと、夫婦に
も、ある程度の「形」があるのではないかということになる。もちろんその形にこだわるのも、よ
くない。反対に今、いわゆる「形だけの夫婦」が、多い。多すぎる。

 そこでKさん夫婦を見てみると、たがいに夫婦というよりは、仲のよい友だちといった感じが
する。たがいに仕事をしているときでも、助けあうとか、いたわりあうとか、そういう意識はない
ように思う。ただ淡々と自分のことをしているだけといったふう。若い夫婦のように、「愛してい
る」とか、「愛されている」とか、そういうイチャイチャしたムードはもちろんない。あえて言うな
ら、たがいに空気のような存在? が、それでいて、二人の呼吸がピタリとあっている。

 ……となると、夫婦というのは、その「呼吸」ということになる。呼吸があっていれば、夫婦。呼
吸があっていなければ、夫婦ではない? 形があるとするなら、それが夫婦の、あるべき形と
いうことになる。外見ではなく、あくまでも中身。中身さえあれば、それを包む形には、それほど
意味はない。

 これからの日本は、夫婦がこうした中身のある夫婦になれるよう、少しずつでも、そのしくみ
を変えていかねばならない。たとえば夫が同僚と飲み食いするときでも、妻が同席するとか、あ
るいは夫の仕事を手伝うために、たまには妻も会社へいき、アルバイトをする、とか。住居と職
場を近づけるとか、あるいは在宅ワークを、もっとポピューラーにするとか。方法はいくらでもあ
る。少なくとも、今までのように、夫の仕事のために、妻のみならず、家族全体が犠牲になるよ
うな、あるいはそれを当然とするような社会のあり方は、お・か・し・い。

 Kさんの家で、ミカンを数箱分けてもらいながら、私はそんなことを考えていた。
(02−12−22)

●結婚、つまり両性の結合は、それ自体はもっとも小さな社会の一つだとしても、もっとも大規
模な政府の存在そのものとなる源泉である。(ベンジャミン・フランクリン)

●強い家族をもてば、米国はより強くなる。(クリントン元大統領)

●すべての幸福な家庭は、たがいによく似ているが、不幸な家庭は、それもが、それぞれの流
儀で、不幸である。(トルストイ「アンナ・カレーニア」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

♪夕焼け、小焼け

 幼児クラスで、「♪夕焼け、小焼け」を歌った。歌いながら、こんなことを、子どもたちに聞いて
みた。

私「これは、朝の歌かな、夜の歌かな?」
子「夜の歌!」
私「でも、真っ暗ではないよね」
子「もうすぐ、夜になるの」
私「山には、何があるの?」
子「お寺!」
私「お寺の何が鳴るの?」
子「鐘!」
私「どんな音?」
子「キンコンカンコーン」

 私は、こういう発想が、大好き。とても楽しい。ふと、こう思った。「日本の寺も、いつまでもゴ
ーン、ゴーンにこだわっていないで、たまにはキンコンカンコンーにしてみてはどうか」と。

 「伝統」とは、何か? 長くつづいた、固定化した文化を伝統というのか。当然、そこには、人
間の経験が蓄積されている。あとの世界に生きる人は、その蓄積の上に、自分の進歩を組み
たてる。そういう意味では、伝統には、伝統としての意味がある。便利だ。が、その伝統が、反
対に、進歩の足カセになることもある。とくに「伝統」の名のもとに、それがループ状態になり、
考えることを放棄してしまったばあいに、弊害が出る。

 ……と考えると、この世界には、守るべき伝統と、そうでない伝統があるのがわかる。あえて
言うなら、善玉伝統と、悪玉伝統ということになる。それに意味のない、無害伝統もある。そこ
で、自分なりにこれら三つを分類してみようと考えて、ハタと困ってしまった。頭の中では分類で
きると思ったが、それぞれの伝統そのものに、善玉的な部分と、悪玉的な部分が共存している
のがわかった。たとえば、「地域の風習」。

 たとえば私が山荘を構えた、S村では、まだほんの一〇年前まで、その地域の最長老の家
に、毎月一回、その村の若い嫁たちが、食事を届けるという風習が残っていたそうだ。明治時
代や大正時代の話ではない。平成時代に入ってからの、「今」である。

 こうした風習は、善玉伝統なのか、それとも悪玉伝統なのか。はたまた意味のない、無害伝
統なのか。私が「どうして今は、しないのですか」と聞くと、当時自治会長をしていたN氏は、こう
言った。「若い嫁さんたちが、いやがりましてね」と。つまり若い女性たちの意識には、そぐわな
くなったというのだ。たしかに想像するだけでも、息苦しい。しかも毎月となると、手間もたいへ
んだ。その地域の女性たちは、ほとんどが共働きをしている。時間をつくるのも、これまた、た
いへんだ。

 しかし一方、こうした風習には、牧歌的な温もりを感ずるのも、事実。現代人が忘れてしまっ
た、人のつながりさえ感ずる。どこかアメリカのインディアン的でもあるし、どこかオーストラリア
のアボリジニー的でもある。(本当のところ、彼らにそういう風習があるかどうかは、知らないが
……。)私には、そうした風習が、「おかしい」とか、「まちがっている」とか言う勇気はない。

 さて子どもたちの話。私はこう言った。「そうだね、キンコンカンコーンだね。それは楽しいね。
もしそういうお寺があったら、みんなも喜ぶね」と。日本のお寺も、「お寺らしさ」にこだわるので
はなく、「自分らしさ」を追求してみたらどうなのだろうか。……というのは、暴論だが、どうして
「ゴーン、ゴーン」ではよくて、「キンコンカンコーン」ではダメなのかという問題の中には、伝統
がかかえる本質的な問題が隠されているような気がする。
(02−12−21)

●伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。……伝統を作り得る
ものはまた伝統をこわし得るものでなければならない。(三木清「哲学ノート」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


新聞の投書から……

 少し前、M新聞の朝刊にこんな投書が載っていた。今では、新聞記事でも、そのまま転載す
ることはできない。著作権の問題がからむ。で、少し内容を変えて、ここに紹介する。

 「私にとって、記憶に残る大切な日。それは、姉と結婚したいと言って、一人の男性が、私の
家にたずねてきた日。だれも姉の結婚に反対したわけではないが、父は、そのあと一日中、押
し黙ったまま、背中を丸めて、テレビを見ていた。母も、台所で洗いものをしながら、ハンカチで
顔を押さえて泣いていた。それから一週間ほど、私の家は、重苦しい雰囲気に包まれた。冷や
やかなムードになり、母はふて寝を繰りかえし、口数も少なくなった。私も怒ったり、泣いたりし
た。姉がいなくなるという、さみしさに、家族それぞれが、それぞれの方法で耐えていた」と。

 長女の結婚について、家族の狼狽(ろうばい)ぶりが、よくわかる。しかし私は、この投書を読
んだとき、「どうして?」という気持ちが、先にきてしまった。「どうして、家族は、長女の結婚を、
そのようにとらえたのか?」と。

 結婚の申しこみが、あまりにも急なことだったので、心の準備ができていなかったのか。長女
が、まだ若くて、結婚を考える年齢ではなかったのか。長女が、一家の中では、大切な存在だ
ったので、それがつらかったのか。いろいろ考えられる。その家族には、その家族しかわから
ない、心の事情というものがある。が、私が「どうして?」と思ったのは、そのとき、家族のだれ
か一人でも、結婚の申しこみを、喜ぶことはできなかったのかということ。投書を出した二女ま
で、「おとなげない態度を、姉にしてしまった」と書いている。どうして? まさか長女にとって、
不本意な結婚というわけでもなかったと思う。投書の終わりは、こうなっている。「今では元気な
三児の母。これからも幸せを願わずにはいられない」と。

 まず考えられるのは、日本人は昔から、娘の結婚を、「取られる」ととらえること。今でも、「娘
を、嫁にくくれてやる」とか、「嫁をもらう」とか言う人がいる。いわゆる娘に対して、モノ意識をも
っているとも考えられる。しかし、どうもそれだけではないようだ。私はこの投書を読んだとき、
たがいの間に流れる、ベタベタの人間関係を感じた。子離れできない親、兄弟離れできない
妹、そしてそれをつなぐ、相互の依存関係。それが悪いと言っているのではない。(悪いと言っ
ているようなものだが……。)それが日本の家族であり、その家族には、外国にはない、温もり
がある。

 たとえば、私の母は、いくら「いらない」と言っても、朝ごはんを用意してくれる。「急いで帰る
から、朝食は食べない」と言っても、だ。実家の土間で靴をはきかけていると、母はこう言う。
「いいから、食べていけ」と。

 一方、アメリカでは、こうはいかない。「〜〜してくれ」「〜〜してほしい」と、いちいち言わなけ
れば、何もしてくれない。へたに、「朝食はいい」などと言おうものなら、本当に、何もしてくれな
い。日本人の私からみると、アッケラカンとしすぎていて、どこかもの足りない。

 こうした違いが積もりに積もって、たがいの国民性をつくる。そしてそれが家族のあり方、さら
に家族の関係にまで影響をおよぼす。

 もしこの段階で、つまり「一人の男性が、私の家にたずねてきた日」に、もう少し、親は親で自
立していたら、親の見方は変わったのではないだろうか。二女は二女で自立していたら、二女
の見方は変わったのではないだろうか。全体として、もう少し、長女の結婚を前向きに喜び、前
向きに祝うことができたのではないだろうか。「おめでとう! よかったね! 幸せになって
ね!」と。私には、「そうあるべきだ」とまで書く勇気はないが、しかし私がもっている感覚とは、
ずいぶんと違うように思う。もっとも、私には娘がいない。だから娘をもった親の気持ちはわか
らない。だから軽率なことは書けないが、どう頭の中でシミュレーションしてみても、そのときの
その父親のような心境にはならない……と思う。

 さて、みなさんは、どうだろうか。親の立場というよりも、自分自身を娘の立場に置いて、考え
てみてほしい。あなたに恋人がいた。結婚を考えるようになった。そこで相手の男が、自分の
両親に会いにきた。そして承諾を求めた。とたん、一転して家庭の中が暗くなってしまった! 
険悪なムードが流れ、たがいにピリピリし始めた。しかしだれも結婚に反対しているわけではな
い。が、そういうムードになってしまった!

 この先は、その投書の人に失礼になるので、書けない。しかしこれだけは言える。日本には
日本の、これから克服していかねばならない問題は、山のようにある。この投書の中には、そ
れを考えさせる、ひとつのヒントが隠されている。もう一度、みなさんも、この投書を、じっくりと
読んでみてほしい。
(02−12−22)

●女……それは男の活動にとっては、大きな(つまづき)の石となる。女を恋しながら、何かを
することは、むずかしい。しかし、ここに恋が妨げにならない唯一の方法がある。それは恋する
女と結婚することである。(トルストイ「アンナ・カレーニア」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


世間体という世界

●人、それぞれ……
 私はタバコを吸わない。だから、タバコを吸う人の気持ちが、ほとんど理解できない。あんな
ムダなものを吸って、デタラメな税金を払って、病気になる。ガンになる。家は煙で茶色にな
る。カーテンもジュータンも、ソファも汚れる。それに臭い。が、なぜ人は、タバコを吸うのか。

 同じように、私は世間体を気にしない。だから、世間体を気にする人の気持ちが、ほとんど理
解できない。世間体を気にする人は、ことあるごとに、「世間、世間」というが、その世間は何を
してくれる? 世間体を気にすればするほど、自分がどこかへ行ってしまう。人生をムダにす
る。が、なぜ、人は世間体を気にするのか。

 ……と、今までは考えていた。しかしタバコの味は、タバコを吸う人しかわからない。同じよう
に世間体を気にする人の気持ちは、世間体を気にする人しか、わからない。人は、それぞれ
の思いをもって、考え、行動する。私のような部外者が、あれこれ言っても、はじまらない。

 そこで、タバコは、ともかくも、もう一度、世間体について考えてみる。人は、なぜ世間体を気
にするか? そこには何か、理由があるのか?

●世間体という世界
 世間体を気にする人は、当然のことながら、他人のことを、人一倍、気にする。気にかける。
もともとは面倒みのよい、世話好きな人とみる。そのため詮索(せんさく)好きで、他人の話に、
何かにつけてクビをつっこむ。ある女性(六五歳)は、その近所の人のことは、すべて知ってい
る。家族構成はもちろん、息子や娘の嫁ぎ先、さらには就職先まで。つまりその女性は、そうい
う形で、相手の家庭の内部事情を知りつくすことで、自分の立場を確保している。

 相手を知りつくすということは、相手の弱みをにぎることになる。そしてその弱みを握れば、そ
の分だけ、自分は優越的な位置に立つことができる。そういう点では、世間体を気にする人
は、総じて、自意識過剰であり、そのためどうしても、ものの考え方が自己中心的になりやす
い。あるいは世間の中心に自分がいると錯覚する。世間体にコリコリにかたまっている人にす
れば、自分が裁判官であり、さらには神なのだ。

 実は、ここに世間体を気にする人の、心のメカニズムがある。実に簡単なメカニズムである。
つまり世間体を気にする人は、自分自身も相手に対しては、その「世間体」として働く。ときに
は、相手をたたえ、ときには、相手をけなす。またときには、相手に同情し、ときには、相手を
笑う。つまり相互にそうしあうことで、自分たちの人間関係を濃密にしている。その人間関係こ
そが、世間体を気にする人どうしの、「心のつながり」になっている。

●孤独という無間地獄
 孤独を前にすると、かなり精神的に強い人でも、ひとたまりもない。孤独を、無間地獄の一つ
に考える人もいる。それはまさに地獄そのものといってよい。ふつうの地獄ではない。そのため
自分の命すら断つ人もいる。人はなぜ人とのつながりを求めるかといえば、それはとりもなおさ
ず、孤独と戦うためである。孤独が、すべての「人間的なつながり」の原点にあるといってもよ
い。つまり孤独が、あらゆる人間の行動のすべてを操っている。で、孤独から逃れるため、あ
るいは孤独と戦うため、人は、心の世界をさまよう。

 ところが、世間体を気にする人は、ここにも書いたように、濃密な人間関係をもっている。一
見、窮屈(きゅうくつ)な世界に見えるが、その濃密な人間関係の中に身をおくと、孤独感がぐ
んとやわらぐ。それは実に、「甘美な世界」でもある。私は麻薬を知らないが、麻薬で心をまぎ
らわすような、そんな世界と言ってもよい。

 ……と書くと、「つながりというなら、親子でも、夫婦でもあるではないか」と反論する人がいる
かもしれない。何も、世間という他人の中に求めなくてもよいではないか、と。しかしこのタイプ
の人にしてみれば、「世間体の世界」そのものが、生きがいになっている。もっと言えば、世間
に映る自分の姿が、そのままステータスになっている。そのため当然のことながら、世間体を
気にする人は、メンツ、見栄、体裁にこだわる。が、それだけではない。

●独特の世界
 先の女性(六五歳)と話していると、一種独得の世界に住んでいるのがわかる。バーチャルな
世界というか、それに近い世界である。その女性のばあいも、自分自身の価値を、他人の目
の中に置き、他人に注目されればされるほど、死後の世界も、豊かになると考えている。具体
的には、葬式のあり方を、たいへん気にしている。まだ六五歳だというのに、会うひとごとに、
「私が死んだら、線香の一本でもあげにきてください」を、口グセにしている。そういう意味で
は、このタイプの人にとっては、子どもも、そして妻や夫も、自分を飾る道具にすぎない。

 このように世間体というのは、それを気にする人の心の中では、その人の価値観、人生観、
さらには死生観と深く結びついている。が、ただ結びついているだけではない。こうしたつなが
りをもつことによって、孤独という地獄に対して、みなが団結して共同戦線を張ることになる。ひ
とりではできないが、皆といっしょなら、こわくない、と。

●あくまでも相手の立場で
 だから世間体を気にする人に向かって、「くだらないから、やめなさい」と言っても意味がな
い。ないばかりか、ばあいによっては、それを言うことによって、その人を窮地(きゅうち)に追
いこむことになる。つまり口で言うほど、この問題は、簡単なことではない。とくに他人の目の中
で生きている人にとってそうである。他人の目を否定するということは、そのままその人を否定
することになる。軍人に向かって、「勲章など、無意味ですよ」と言うのと同じになる。あるいは
公務員に向かって、「肩書きや地位など、無意味ですよ」と言うのと同じになる。

 要するに生きザマの問題ということになる。「世間体」についての問題が、一筋縄ではいかな
いことがわかってもらえれば、うれしい。この問題は、日本の風土、文化、歴史に深く根ざして
いる。
(02−12−25)

●因習にぜんぜん屈しない男女から成りたつ世界のほうが、みんなが画一的になるような社
会よりも、おもしろいであろう。(バートランド・ラッセル「幸福の征服」)
●皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき。(マーク・トウェーン「ト
ム・ソーヤの冒険」)

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    
        (。″  _)
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\     マガジンをご購読くださり、ありがとう
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )    ございます!
/  #   #   /( ̄ ̄乃   これからもよろしくお願いします。
\____#_____/ ̄ ̄     では、また来年!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



戻る
戻る