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《06》
 BOX(インターネット・ストーレッジ版)

BOX Essays 版 ……●
2002年 10月04日
2002年 11月19日
上記BOXへアクセスできないときは、直接……●

件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-4-1

前半です!
彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 465人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−10−4号(119)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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     匚二コ/
     彡彡ミ ♪♪♪ 
    ⊂OJO⊃
     \▽丿
≡    /く\
    (─〈\◯⊃
≡  ==\\==○
  / ̄\//\/ ̄\
≡ 〈《◎》∨二〈《◎》〉
  \_/   \_/自転車で、今日も健康!
        皆で乗ろう、自転車!  はやし浩司
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「受験ノイローゼ」

【1】あなたの子育てチェック(Let's check out your parenting) 
【2】あなたの子育てだいじょうぶ?(How to cope with Kids at home)
【3】受験ノイローゼ 
【4】随筆(Essays)
   / ̄\ ⊂⌒⌒⊃ 
⊂⌒⌒⊃  |  ⊂〜⊃
 ⊂⊃\_/       _ _
        ◯    / /⊃)
 __    ◯◯  (∂∂)
(⊂\\  ◯◯◯   γ \
 (θθ)┏━━━┓ (   σ
/ γ  ┗┓◯┏┛  ζ ζ
δ   )  ┃ ┃
  η η   ┗⌒┛
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
能力

Q 「子どもの能力は平等」という意見があります。「平等ではない」という意見もあります。あな
たはどちらだと思いますか。

(1)能力は平等である。重要なのは、伸ばし方。その伸ばし方によって差が生ずる。
(2)能力の発達は平等ではない。そのため得意、不得意分野が生じ、それが差となる。
(3)平等な面もあるし、不平等な面もある。それを見極めるのが大切。

+++++++++++++++++++++++++++++++

A 最近の研究によれば、こと知的能力についていえば、平等ではない。専門的に言えば、「脳
の神経シナプスは、非同時的に発達する」※ということがわかっている。この「非同時性」が、
子どもの「差」となって表れる。つまり基本的には平等でも、その発達のし方によって、平等で
なくなるというわけである。

 問題はその発達のし方であるが、環境的要因、教育的要因、遺伝子的要因、本人の意思や
意欲によって大きな影響を受ける。つまりこうした要因が無数にからみあって、その子どもの
能力を形成する。言いかえると、「平等か、平等でないか」という議論は、あまり意味がない。
(正解は(1)(2)(3))
 
※……シナプスの過剰生産と選択は、脳の異なった部分で異なった速度で進む(フッテンロッ
カー・ダーホルカー博士・九七年)という。「選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相
当するものであるが、更にそれに続く四、五年続き、初期の青年期で終わる。このように脳の
部分で異なった速度で進むことは、それぞれの皮質のニューロンでも異なったインプットを受け
て、異なった速度で進む可能性が高い」(ジュラスカ・「動物学について」・八二年)とも。
(1505)

     /⌒⌒^\
     (λハハλ ヽ ♪♪
     ))∂ ∂)) )
    (|^ c  ( (
    )人 v  )し
     _>−−<
    /†_____†ヽ//   食欲の秋です!
    ( ('    ξヽ
  ┏ ||   o//\) )(
 --□---`○_oOO%__------凵---
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(127)

育児ノイローゼのあとに

 育児ノイローゼというのがある。症状は、まさに「うつ病」的だが、子育ての世界では、こうした
病名をつけることは許されない。

 その育児ノイローゼになった母親について、そのあと私は、おかしな現象を経験している。そ
のノイローゼを乗り越えたあと、たいていどの母親も、異常なまでにがんこになるということ。ふ
つうのがんこではない。まったく他人の意見に耳を傾けなくなる。ノイローゼがその母親をたく
ましくしたとも考えられるし、あるいは脳の機能が一部、変調したとも考えられる。Rさん(三五
歳)もそうだった。

 あるとき突然、電話がかかってきた。そしてRさんはこう言った。「先生は、うちの子(小一男
児)の答案に丸をつけたが、まちがっている答もある。どうして丸をつけたのですか」と。そこで
私は、「一生懸命やったら、それでよしとしています。少しくらいのミスは大目に見てあげてくだ
さい」と。

 それで私の方針がわかってもらえたはずだが、また数週間もすると、同じことで、同じような
電話をかけてくる。あとはこの繰り返し。よく観察すると、心のどこかが、きわめて鈍感になって
いるのがわかる。繊細(せんさい)な会話が通じない。あるいは微妙な言いまわしが理解できな
い? まるで心全体が、厚いカラに包まれたかのようになる。何を考えているか、わからなくな
る。会話全体が、ぶっきらぼうになり、ズケズケとものを言う。

 ほかにこのタイプの母親の特徴は、いわゆる面従腹背というのか、表面的には、「ハイハイ」
と従うフリをしながら、結局は、自分の思いどおりにしてしまう。またそうならないと気がすまな
いといったふうになる。そして結果として、まわりのものの言う意見に耳を傾けなくなる。つまり
そうすることで、自分の心を守り、育児ノイローゼから抜け出ることができたとも考えられる。だ
からよけいに、がんこになる?

 子育ての世界で、「がんこ」というのは、自分のまわりにカラをつくり、その中に閉じこもること
をいう。そしてそのカラの中で、自分を正当化し、その返す刀で、相手を否定する。このタイプ
の母親は、たいてい自分が絶対、正しいと思い込んでいる。考えること、すること、すべてが、
である。あえてもう一つの特徴をあげろと言われれば、つぎのようなこともある。何か、私のよう
なものが意見を述べたりすると、視線を下へおろし、わかったようなフリをしながら、結局は無
視するということ。たいていは柔和な表情を浮かべたまま、無視する。心と表情が遊離している
ためと考えられる。

 もちろん私は、こうした現象がなぜ起きるのか、わからない。また心理学の世界で、どのよう
に説明されるのかも知らない。しかし現象としては、ある。ここではそれを書くにとどめる。もう
少しこのタイプの母親を観察してみる。何か新しいことがわかれば、また詳しく報告したい。
(02−9−25)

(注意)このエッセーは、思いついたまま書いたので、正確ではありません。そういう見方もある
のかあという程度に、お読みください。言うまでもなく、私自身、ここまで断言できるほど、じゅう
ぶんな事例にあたっているわけではありません。あくまでも経験的な意見というようにお考えく
ださい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



がんこな子ども

 「がんこな子ども」というときは、ふつう、つぎの二つのタイプを考える。(1)自分のカラにこも
り、かたくなな態度や様子を示す。ある男の子(年長児)は、幼稚園で、いつも同じ席でないと
座ろうとしなかった。また別の男の子(年長児)は、毎朝、いつも同じズボンでないと、幼稚園へ
行かなかった。ほかに二年間、毎朝迎えにきてくれる幼稚園の先生に、一度もあいさつをしな
かった子どももいた。

 もうひとつは、(2)「自分が絶対正しい」と、かたくなになることをいう。このタイプの子どもは、
その返す刀で、「相手は絶対にまちがっている」と主張する。そして結果として、自分の思いど
おりにならないと気がすまない。あるいは自分の思いどおりにしてしまう。教える側からみると、
ともに何を考えているかわからないタイプの子どもということになる。ふつう心と表情が遊離す
るため、柔和な表情や、穏やかそうな顔つきになることが多い。

 こうした「がんこさ」は、子どもにとっては好ましくない。子どもの心に何か変調が起きると、子
どもはがんこになる。で、その対照的な位置にある子どもが、「すなおな子ども」ということにな
る。心と表情が一致している子ども、心のゆがみのない子どもを、すなおな子どもという。うれし
いときは心底、うれしそうな表情をする。悲しいときは、心底悲しそうな表情をする。親切にして
あげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の奥にし
みこんでいくのがわかる。なおここでいう「心にゆがみのある子ども」というのは、ひねくれたり、
つっぱったり、いじけたりしやすい子どもをいう。
 
 子どもにこうしたがんこな様子が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭環
境、とくに親子関係を反省する。もちろん生来の問題もあるが、コツは、今の状態をより悪くし
ないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。私はこのタイプの子どもを預かったときには、
とにかく大声で笑わせることだけを考えて指導する。実際、その「大声で笑う」という行為には、
不思議な力がある。もしあなたの子どもが、ここでいうような「がんこさ」を見せたら、どんな方
法でもよいから、大声で笑わせることに心がけたらよい。大声で声を出させるのもよい。
(02−9−25)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

自意識と一撃論

●自意識
 自意識を一言で言えば、「自分を客観的に見る力」ということになる。子どものばあい、小学
三〜四年生前後に、この自意識が芽生えてくる。それ以前の子どもは、まさに自分であって自
分でない状態にあるとみる。だからたとえば幼児に、「静かにしなさい」「落ちつきなさい」「騒い
ではダメ」と言っても、ムダ。自分がそうであるという自覚そのものが、ない。私はこのことを、
ある中学生(男子)と話していて気づいた。

 その中学生は、幼児から小学二〜三年にかけて、いっしょにいるだけで、こちらの気がヘン
になるほど、騒々しい子どもだった。今、専門機関で診断を受けたら、ADHD児(多動児)と診
断されたかもしれない。その中学生に、私はこう聞いてみた。「君は、小学生のころ、みんなに
迷惑をかけたが、覚えているか?」と。するとその中学生は、「いいや」と。そこであれこれ問い
ただしてみたが、その中学生には、自分がそうであったという意識が、まったくないことを知っ
た。そこで私が、「先生や親に、叱られたことは覚えているだろ?」と聞くと、こう言った。「ぼくが
何も悪いことをしていないのに、先生は、ぼくを目のカタキにして怒った」と。

 この自意識が芽生えてくると、子どもは、自分をコントロールするようになる。どういうことをす
れば、得で、どういうことをすれば、そうでないかがわかるようになる。そしてそういう判断に従
って、行動できるようになる。言いかえると、こういう子ども自身がもつ「力」を利用すると、それ
まであったいろいろな問題を、この段階でなおすことができる。たとえばここにあげた中学生が
そうだった。

 今、どこの幼稚園へ行っても、ADHD児が話題になる。一種のブームのようなものかもしれ
ない。しかしこのタイプの子どもも、小学三〜四年生を境に、その症状は急速に収まってくる。
中学生にもなると、外見的には、まったくわからなくなる。(どこかフワフワとした騒々しさは残る
が、それはプロだからわかることで、ふつうの人にはわからない。)ほかに幼児期に、自閉症に
なった子どもや、緘黙(かんもく)症になった子どもでも、この時期を境に、症状が急速に消える
ことが多い。

 中に症状が残ったり、さらに症状がひどくなる子どももいるが、それは子ども自身がそうなっ
たというよりは、家庭教育の失敗が原因と考えてよい。たとえば幼児期に多動性を示すと、た
いていの親は、はげしく子どもを叱ったり、威圧したりする。こうした無理が、かえって症状をこ
じらせてしまう。そしてこうした問題は、こじらせればこじらせるほど、あとあと立ちなおりがわる
くなる。あるいはさらに症状を悪化させてしまう。とくに注意したいのが、「一撃」である。たとえ
ば子どもの不登校にしても、最初の一撃が、子どもの心を決定的なまでに破壊する。

●一撃論
 A君(小一)は夏休みが終わったころ、ある朝、突然、「学校へ行きたくない」と言い出した。そ
の少し前から、あれこれ神経症による症状を示していたが、母親は、「気のせい」とその兆候を
見落としてしまった。で、その朝、かなりはげしいやりとりをしたあと、A君はトイレに逃げてしま
った。
 この段階で母親が、「あら、そうね。だれだって学校へ行きたくないときもわるわね」と、A君の
心を理解してあげていたら、症状は、それほど重くならなくてすんだかもしれない。しかし母親
は「不登校児になったら、たいへん!」という恐怖心から、さらにはげしく子どもを叱った。怒鳴
った。「トイレから、出てきなさい!」と。が、子どもは泣き叫んで、それに抵抗した。そこで母親
はトイレのドアをドライバーを使ってはずし、A君をそこからひきずり出した。A君はそれに抵抗
し、さらにはげしく泣き叫んだ……。

 これがここでいう「一撃」である。この一撃が、子どもの心を、決定的に、かつ取り返しがつか
ないほどまでに、キズつける。……つけることが多い。しかしこのときもっとも悲劇的なことは、
親自身にその自覚がないこと。親は親で、「私は子どもにとって正しいことをしている」と錯覚す
る。そして子どもの症状を、とことんこじらせる……。このA君も、その日を境に、まったく学校
へ行かなくなってしまった。

 話をもどすが、幼児期にいろいろな症状を示す子どもは、たしかに多い。しかしそういう子ど
もでも、症状さえこじらせなければ、やがてその時期がくると、自然な形でなおっていく。子ども
自身がもつ、自意識によって、なおっていく。子どもというより、人間には、もともとそういう「力」
がそなわっている。そういう力を信じ、またそういう力を利用して、子どもの心の問題はなおす。
そのとき役にたつのが、ここでいう自意識である。かりに今、あなたの子どもに問題があるとし
ても、子どもはやがて、(今のあなたがそうであるように)、自分の意思で自分をコントロールす
ることができるようになる。そこで大切なことは、(1)症状をこじらせないこと、(2)それまでに
自意識の準備をしておくこと、の二つである。「準備」というのは、言うべきことは言いながら、そ
れが「よくないことだ」ということだけは、教えていくことをいう。子どもがいつか自分に気づいた
とき、どうしてそれが悪いことなのかわかるようにしておく。その努力だけは怠ってはいけない。

●今、何かと問題のある子どもをもっているお母さんへ、

 それらの問題は、時期がくれば、かならずなおる。中になおらないケースもあるが、それは幼
児期に、親があせったりして、無理に無理を重ねた結果によるものと考えてよい。この時期
は、何度も書いたように、「今の症状をより悪くしないことだけ」を考えて、一年単位で様子をみ
る。とくにここに書いた「一撃」には、注意する。一見タフに見える子どもの心だが、ときには薄
いガラスの箱のようなときもある。
(02−9−27)


【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
特集
+++++++++++++

受験ノイローゼ

●受験ノイローゼ
 子どもが受験期を迎えると、受験ノイローゼになる親は多い。子どもではない。親がなる。あ
る母親はこう言った。「進学塾の光々とした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼりました」
と。「家でゴロゴロしている息子(中二)を見ただけで、気分が悪くなり、その場に伏せたこともあ
ります」と言った母親もいた。

 親が受験ノイローゼになる背景には、親自身の学歴信仰、それに親自身の受験体験があ
る。「信仰」という言葉からもわかるように、それは確信を超えた確信と言ってもよい。学歴信仰
をしている親に向かって、その信仰を否定するようなことを言うと、かえってこちらが排斥されて
しまう。「他人の子どものことだから、何とでも言えるでしょ!」と。話の途中で怒ってしまった母
親もいた。私が、「これ以上ムリをすると、子ども自身が、燃え尽きてしまう」と言ったときだ。

 また受験体験というのは、親は自分の子どもを育てながら、そのつど自分の体験を繰り返
す。とくに心の動きというのは、そういうもので、子どもが受験期を迎えるようになると、親自身
がそのときの心を再現する。将来に対する不安や、心配。選別されるという恐怖。そしてそれ
を子どもにぶつける。もっと言えば、親自身の心が、極度の緊張状態におかれる。この緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に情緒が不安定になる。

 「受験ノイローゼ」と一口に言うが、それは想像を絶する「葛藤」をいう。そういう状態になる
と、親は、それまで築きあげた家族の絆(きずな)すら、粉々に破壊してしまう。家族の心を犠
牲にしながらも、犠牲にしているという感覚すらない。小学五年の女児をもつある母親はこう言
った。「目的の中学入試に合格すれば、それですべてが解決します。娘も私を許し、私に感謝
するはずです」と。その子どもは毎晩、母親の前で、泣きながら勉強していた。

 その受験ノイローゼにはきわだった特徴がいくつかある。そのひとつ、ふつうの育児ノイロー
ゼと違うところは、親自身が、一方でしっかりと自分をもっているということ。たとえば人前で
は、「私は、子どもが行ける中学へ入ってくれれば、それでいいです」とか、「私はどこの学校で
もいいのですが、息子がどうしてもS高校へ入りたいと言っているので、何とか、希望をかなえ
させてやりたい」とか、言ったりする。外の世界では、むしろ温厚でものわかりのよい親を演じ
たりすることが多い。

 もちろん育児ノイローゼに似た症状も出てくる。育児ノイローゼの症状を、まず考えてみる。

●育児ノイローゼ
 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞……どこかぼんやりとしてくる。うつろな目つき、元
気のない応答など。
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)……同じことを考えたり、繰り返したりする。
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)……ものごとに興味がみてなくなる。
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)……朝早く目が覚めたり、眠っても眠りが浅い。
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)……不注意による事
故が多くなる。
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)……万引きをしてつかまったりする。
衝動的に高額なものを買ったりする。同じものを、あるいは同じようなものを、同時にいくつか
買う。
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)……ささいなことが頭から離れず、それ
が苦になってしかたない。
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)……怒っている最中は、自分のしていることが絶対正しいと思うことが多い。ヒ
ステリックに泣き叫んだりする。
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)……人と会うだけで極端に疲れる。家の中に閉じこも
る。
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。……過食症や拒食症になる。体重
が極端に変化する。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)……ささいなことで、
相手に謝罪の電話を入れたりする。自分のしていることが客観的に判断できなくなる。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●受験ノイローゼ
 受験ノイローゼも、ノイローゼという意味では、育児ノイローゼの一種とみることができる。し
かし育児ノイローゼに見られない症状もある。先に述べたように、「自分をしっかりもっている」
のほか、ターゲットが、子どもの受験そのもの、あるいはそれだけにしぼられるということ。明け
ても暮れても、子どもの受験だけといった状態になる。むしろ子どもの受験以外の、ほかのこと
については、鈍感になったり、無関心になったりする。育児ノイローゼが、生活全体におよぶの
に対して、そういう意味では、限られた範囲で、症状がしぼられる。が、その分だけ、子どもの
「勉強」「成績」「受験」に対して、過剰なまでに反応するようになる。

 毎日、書店のワークブックや参考書売り場へ行っては、そこで一〜二時間過ごしていた母親
がいた。あるいは子どもの受験のためにと、毎日、その日の勉強を手作りで用意していた母親
もいた。しかしその中でもナンバーワンは、Tさんという母親だった。
 
 Tさんは、私のワイフの友人だった。あらかじめ念のために書いておくが、私はこういうエッセ
ーを書くとき、私が直接知っている母親のことは書かない。書いても、いくつかの話をまとめた
り、あるいは背景(環境、場所、家族構成)を変えて書く。それはものを書く人間の常識のよう
なもの。そのTさんは、私が教えた子どもの母親ではない。

 そのTさんは、子どもが小学校に入ると、コピー機を買った。それほど裕福な家庭ではなかっ
たが、三〇万円もする教材を一式そろえたこともある。さらに塾の送り迎え用にと、車の免許
証をとり、中古だが車まで買った。そして学校の先生が、テストなどで採点をまちがえたりする
と、学校へ出向き、採点のしなおしまでさせていた。ワイフが「そこまでしなくても……」と言う
と、Tさんはこう言ったという。「私は、子どものために、不正は許せません」と。

 こういう母親の話を聞くと、「教育とは何か」と、そこまで考えてしまう。そのTさんは、いくつ
か、Tさん語録を残してくれた。いわく、「幼児期からしっかり子どもを教育すれば、東大だって
入れる」「ダ作(Tさんは、そう言った)を二人つくるより、子どもは一人」と。Tさんの子どもが、た
またまできがよかったことが、Tさんの受験熱をさらに倍化させた。いや、もっともTさんのよう
に、子どものできがよければ、受験ノイローゼも、ノイローゼになる前に、ある程度のレベルで
収めることができる。が、その子どものできが、親の望みを下回ったとき、ノイローゼがノイロ
ーゼになる。

●特徴
 受験ノイローゼは、もちろんまだ定型化されているわけではない。しかしつぎのような症状の
うち、五個以上が当てはまれば、ここでいう受験ノイローゼと考えてよい。あなたのためという
より、あなたと子どもの絆(きずな)を破壊しないため、あるいはあなたの子どもの心を守るた
め、できるだけ早く、あなた自身の学歴信仰、および自分自身の受験体験にメスを入れてみて
ほしい。

○子どもの受験の話になると、言いようのない不安感、焦燥感(あせり)を覚え、イライラした
り、情緒が不安定になる。ちょっとしたことで、ピリピリする。
○子どもがのんびりしているのを見たりすると、自分の子どもだけが取り残されていくようで、
心配になる。つい、子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ってしまう。
○子どもがテストで悪い点数をとってきたり、成績がさがったりすると、子どもがそのままダメに
なっていくような気がする。何とかしなければという気持ちが強くなる。
○同年齢の子どもをもつ親と話していると、いつも相手の様子をさぐったり、相手はどんなこと
をしているか、気になってしかたない。話すことはどうしても受験のことが多い。
○子どもが学校や塾へ言っているときだけ、どこかほっとする。子どもが家にいると、あれこれ
口を出して、指示することが多い。子どもが遊んでいると、落ち着かない。
○子どものテストの点数や、順位などは、正確に把握している。ささいなミスを子どもがしたり
すると、「もったいないことをした!」と残念に思うことが多い。
○テスト期間中になると、精神状態そのものがおかしくなり、子どもをはげしく叱ったり、子ども
と衝突することが多くなる。たがいの関係が険悪になることもある。
○明けても暮れても、子どもの学力が気になってしかたない。頭の中では、「どうすれば、家庭
での学習量をふやすことができるか」と、そればかりを考える。
○「うちの子はやればできるはず」と、思うことが多く、そのため「もっとやれば、もっとできるは
ず」と思うことが多い。勉強ができる、できないは、学習量の問題と思う。 
○子どもの勉強のためなら、惜しみなくお金を使うことが多くなった。またよりお金を使えば使う
ほど、その効果がでると思う。今だけだとがまんすることが多い。(以上、試作)
(02−9−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

親が過去を再現するとき(中日新聞東掲載原稿より)

●親は子育てをしながら過去を再現する 
 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日も、中学一年生をもつ父母が、
二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期末試験で、数学が二一点だっ
た。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS
高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべてい
たが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味
 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室
に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動
かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ
親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)
によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%し
かいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた
親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が
思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる
 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過
去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静
かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、
自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものため
でもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをし
た人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育ての陰で……子育て狂騒曲(子育てでおかしくなる親たち)

何をお高くとまってんの!

●「あなたの教育方針は何か」
 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学し
ていたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母親
は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えて
いるか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?
 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教
室の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あ
れこれ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家
に帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち
 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言う
のでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じ
ない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、
それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」
 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと
入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでし
ょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人
 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会
うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこかイ
ンギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃げ
た。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。
「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったら
どうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。私が「息子さん能力とは関係ありませ
ん」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみせ
る!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってしま
った。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ……」と。
(02−9−30)

   /⌒⌒^ヽ ♪♪♪
  / 八))))ハ
  | | ー ー||(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
  | | ・ ・||( どうせ子育てするなら、楽しみましょう!       )
  | |"   )||(____________________       )
  | |  o 丿|。o
  |川|`ー-イ川
【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
日本人の職業観(130)

 高校生が使う英語の教科書に、「POLESTARU」(数研出版)がある。その中に、「仕事を
選ぶ」(Choosing a career、プログラム8)というのがある。高校生のために書いた、いわば仕
事を選ぶためのガイドブックといったものだが、その中に、こんなことが書いてあった。

 「……仕事を選ぶとき、たとえば生物学のような仕事を選べば、(いつも家から離れて仕事を
するので)、家族生活が犠牲になることを考えなければならない。もしとくにしたいことがなけれ
ば、そのときできる仕事しごとをすればよい。しかしあなたに才能(タレント)があるなら、あなた
はどこでもその才能を生かした仕事ができるだろう」と。

 一読すると、何でもないことが書いてあるように思うかもしれないが、これらすべてが、日本人
にはない発想だけに、おもしろい。それを説明する前に、日本人がもつ職業観について書いて
おく。

 この教科書を説明しているとき、私は何人かの高校生に、こう聞いてみた。「君たちの先生
は、『仕事』と言うとき、コンビニや工場でするようなことを、仕事と考えていると思うか」と。する
と、全員、「ううん」と答えた。はっきりとは言わなかったが、「そういうのは、仕事ではない」と。
実は、ここに日本人独特の、ゆがんだ職業観がある。そこでさらに私は聞いてみた。「君たち
にとって、仕事とは何か」と。すると、それぞれが、「弁護士とか医者とか、まあそんなところか
な」「みんなができないことをするのが仕事。だれでもできるようなのは、仕事ではない」「設計
士とか、建築家は仕事。科学者も仕事かな」と。

 こうした職業観は、親たちももっている。目が「上」ばかり、向いている。そしてこうした職業観
が、結局は、学歴信仰の基礎になり、それがまわりまわって、日本の教育をゆがめている。そ
こで改めて、先ほどの教科書の内容を読んでみる。そこには、こうある。

(1)「家族生活が犠牲になる」……ひところ昔よりは目立たなくなったが、単身赴任という制度
は、今でもしっかりと日本の社会の中で生きている。何かにつけて、仕事が優先される。私た
ち日本人は、仕事を考えるとき、「家族の犠牲」という言葉はあまり使わない。最近、単身赴任
は、かえって仕事の効率を悪くするという意見があちこちから聞こえるようになったが、それと
て、「仕事の効率」という視点からの意見である。

(2)「とくにしたいことがなければ……」……この日本では、それが大半の人にとってはそうで
あるにもかかわらず、こうしたものの考え方を認めない。少し前には、「フリーター撲滅論」を唱
える、高校の校長すらいた。仮に進路指導の先生が、「とくにやりたいという仕事がなければ、
店員でも工員でも、何でもいいではないか」などと言ったら、それだけでも問題になるのでは?
 この日本には、「よい仕事」と、「そうでない仕事」がある。江戸時代の身分制度のなごりと言
ってもよい。職業には格づけがあり、その職業によって、人間の価値が決まる。しかもほとんど
の日本人は、無意識のまま、それをする。 

(3)「才能(タレント)があれば……」……これを説明するためには、大学制度の違いについて
書かねばならない。今、アメリカでは、大学へ入学したあとでも、学部の変更はもちろん、ほか
の大学への転籍さえも、自由になっている。公立、私立の区別はない。ヨーロッパでは、大学
は完全に、共通化されている。しかしこの日本では、何かの席で自己紹介するときは、必ずと
いってよいほど、「○○大学を卒業後……」という言葉が出てくる。アメリカでは、最終的にどこ
の大学で学位を認定されたかということは、重要だが、そういうわけで、いわゆる学歴(ブラン
ド)は、ほとんど意味をもたない。博士号などにいたっては、その大学で一度も勉強したことが
なくても、論文審査だけで認められる。(だから博士号を乱発する安っぽい大学も、一方にある
にはある。)「才能(タレント)があれば……」という発想は、そういう大学制度を背景にして生ま
れる。つまり欧米の大学生にとって大切なのは、学歴(ブランド)ではなく、中身ということにな
る。

 私の予想では、あと五〇年ほどで、日本人の考え方も、これに近くなると思う。すでに今、日
本人の意識そのものが大きく変わり始めている。それはそれとして、しかしまだ距離は遠い。
たとえば学校の先生が、あなたの子どもにこう言ったとする。そのとき、あなたはその先生の
言うことに納得するだろうか。

 「仕事というのは、何でもいいのだよ。自分のできることをすれば。コンビニの店員でも、工場
の部品工でも、すばらしい仕事だよ。仕事に上下はない。大切なのは、一生懸命することだ
よ。忘れていけないのは、仕事をする目的は、それで得たお金で、豊かな家庭生活を送ること
だよ。そのために仕事をするのだからね」と。

 日本人がこうした考え方を、当然のこととして、そして自然な形で、そうだと思えるようになる
のに、「あと五〇年ほど」かかる。……と私は思う。
(02−9−27)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

カラスとリス

 私の家の庭は、不思議な庭で、浜松市内からそれほど遠くないところにあるのに、さまざまな
動物が住んでいる。何種類かの野鳥のほか、イタチやリス、ハクビシンやタヌキなど。ときど
き、サルやアライグマもやってくる。ホント! 

 その中のリス。リスが私の家の庭に住み始めたのは、ここ数年のこと。ワイフは最初、それ
を喜んだ。リスがやってくるたびに、「リスよ、りすよ」と。こうした動物のほとんどは、もともと人
間に飼われていたのが、逃げたとか、捨てられたとか、そういうものらしい。種類はわからない
が、結構大型のリスで、体長は、体だけで(尾の長さは別として)、三〇センチくらいはある。と
きどきつがいで来たり、子ども(?)だけで来たりした。私たちは、いつしか、そのリスにエサを
出すようになっていた。

 一方、カラスもよく来る。家の前には、この地域でも最大級のシイの木がある。もともと何百
年もつづいた旧家の墓地があったところだ。が、このカラスはうるさい。ゴミの収集日を覚えて
いて、その日の朝になると、まだ暗いうちから、五、六羽単位でやってきて、カーカーと鳴く。そ
れで私は、カラスが嫌いだった。が、カラスを嫌う、本当に理由は、もうひとつある。

 私の庭には、いつも野鳥がいる。キジバト、ヒヨドリ、ツグミなど。ときどき、コジュケイもやって
くる。フクロウもやってくる。その季節になると、モズやメジロ、ほかに文鳥によく似た鳥など。私
自身も、庭に鳥小屋をつくり、多いときは、その中で、一〇羽以上の小鳥やハトを飼ったことが
ある。が、ヘビやネコに襲われることが重なり、それで小屋で飼うのをやめてしまった。で、そう
いう習慣が残っているのか、野鳥にエサを用意するのが、いつのまにか、私の日課のようにな
ってしまった。カラスは、そういう野鳥の、天敵である。

 が、あるときから、一羽のカラスが、私の庭に住みつくようになった。子どものカラスかと思え
るような、小さなカラスだった。鳴くこともなかったので、私はしばらく様子をみることにした。い
や、内心では、いつか追い出してやろうと思っていたが、それが一か月、二か月となるうちに、
そのカラスがいることには、慣れてしまった。いつ見ても、松の木の小枝にとまっていて、ときお
り庭へおりてきた。カラスのほうから、私たちに近づいてきたというのか、そのうち、私たちが庭
にいても、すぐそばで平気でエサを食べたりしていた。ハトのためにまいたエサだった。

 一方、最初は歓迎したリスだが、そのリスが庭に住みつくようになると、野鳥の数がめっきり
と減った。が、そのときはまだ、リスが野鳥の巣を荒らすということは知らなかった。たしかにリ
スは、木登りがうまい。細い小枝でもスルスルと登って、そこからつぎの木へ、ひょいと飛び移
る。みごとなものだ。しかし野鳥の巣を荒らすとわかってからは、それはずっとあとになってか
らのことだが、見方が変わった。それまではかわいいと思っていたリスだが、どこか大きなネズ
ミに思えてきた。確かにリスは、尾のついたネズミと考えたほうがよい。畑を荒らすということも
考えるなら、ネズミよりも、タチが悪いかもしれない。私たちはそのうち、エサを出すのをやめ
た。

 どうこうしている間にも、カラス、……私たちは「ハグレガラス」という名前をつけていたが、そ
のカラスは、ますます私たちに近づいてきた。しかしそれまでの習慣というか、先入観という
か、私たちはどうしてもそのカラスが好きになれなかった。庭で視線があうたびに、「シーシー」
と追い払った。しかしあのカラスというのは、本当に頭がよい。私たちの攻撃の範囲外スレスレ
のところにいて、好き勝手なことをしていた。そしてその頭のよい分だけ、ほかの野鳥にはな
い、「つながり」ができた。もし餌づけをしようと思えば、いくらでもできただろう。私の手から直
接、エサを食べることだって、したかもしれない。が、私はどうしても、そのカラスが好きになれ
なかった。実のところ、そのときは、野鳥の数が減ったのは、リスではなく、カラスのせいだと思
っていた。

 そこである日のこと。暑くなり始めた初夏のころだと思う。近くのコンビニに行くと、小さな袋に
入ったロケット花火を売っていた。私は一袋、買った。カラスを追い払ってやろうと考えた。が、
その日はなかなか、こなかった。集団でやってくるカラスと違い、そのハグレガラスは、静かな
カラスだった。それに先にも書いたように、体が小さかった。同情はしなかったが、職業がら、
小さいカラスを攻撃するのは、気がひけた。が、ある日、そのときはやってきた。ヒヨドリのため
に置いたパン屑を、そのカラスが食べていたのだ。「道理でヒヨドリが来なくなったはずだ」と思
ったとたん、怒りが充満してきた。私はビンに花火を入れると、ライターで、それに火をつけた。
カラスは、私のほうを見ていたが、どこか親しげな目つきだった。「やめようか」と思ったが、もう
間にあわなかった。花火は勢いよく、ビンを離れた。

 リスのほうはあい変わらず、私の庭へやってきていた。そして、いつの間にか、ワイフが植え
た、ポポーやクルミの実を食べ始めた。フェイジョアや柿も全滅状態になった。「リスというの
は、たいへんな害獣」と気がついたときには、遅かった。そのころには、すっかり庭の住人にな
っていた。「追い払うといっても、方法がないからね」と、ワイフが不平を言うようになった。「そう
だ、あいつは木登りをするネズミだ」と、私。花火を使うことも考えたが、そうすれば、野鳥も逃
げてしまう。木の実だけではない。野鳥の巣を襲う! そのころやっと、テレビで報道されて、そ
れを知るところとなった。

 花火はカラスめがけて、一直線に飛んでいった。そしてカラスを飛び越えたその先で、パンと
爆発した。カラスは、一瞬何がなんだかわからないといった様子を見せたが、どこかおもむろ
に、飛びあがった。私はカラスを追いかけた。カラスは、電線に止まった。と、そのとき、また視
線があった。私に背中を向けていたが、カラスは、じっとそのままの姿勢で私を見つめた。私も
見つめた。時間にすれば、一〇秒前後のことだったかもしれないが、私には長い時間に思え
た。カラスは、「どうして、そんなことをするのか?」という表情を見せた。どこか、さみしそうな目
つきだった。が、私が大きく手を振ると、そのカラスは再びおもむろに飛び去っていった。

 リスのほうは、食べるものがなくなり、エサも与えなくなってからは、姿を見ることがほとんどな
くなった。「ドングリが落ちればまたくるわね」とワイフは笑っているが、それまでにはまだ少し間
がある。またカラスのほうは、つまりあのハグレガラスは、それからは姿を見せなくなった。が、
どういうわけだか、今、私はとんでもないまちがいをしたのではないかという気持ちに、さいなま
れている。リスにエサをあげたのは、ともかくも、その反対の立場で、あのハグレガラスに花火
を放ったことを、だ。思い出してみると、実に、親しげなカラスだった。この二〇年間で、庭にや
ってくる動物や野鳥の中で、唯一私たちに心を許した動物だったかもしれない。私は、その「つ
ながり」をみすみす、自分でつぶしてしまった。

 今もときどき、庭を見る。見ながらあのカラスをさがす。いつもいたのは、松の木の上だった
が、それ以後、その枝にハグレガラスを見たことはない。ただ心の中では、「たとえやってきて
も、前のようには近くまではこないだろうな」と思う。あるいは「一度、破壊された関係は、もう戻
らないだろうな」と思う。そう思いながら、その松の木を見る。そしてそのたびに、私という人間
の、きわめて身勝手な気まぐれが、つくづくと思い知らされる。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
10・10 ……富士市、田子浦小学校(中学校)
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社
       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-6

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /      ありがとうございます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 465人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−10−6号(120)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
     匚二コ/
     彡彡ミ ♪♪♪ 
    ⊂OJO⊃
     \▽丿
≡    /く\
    (─〈\◯⊃
≡  ==\\==○
  / ̄\//\/ ̄\
≡ 〈《◎》∨二〈《◎》〉
  \_/   \_/自転車で、今日も健康!
        皆で乗ろう、自転車!  はやし浩司
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「家庭教師」(House Tutor)

【1】今が、最悪だと思っているあなたへ!(Don't expect your kids to be perfect!) 
【2】あなたの子育てだいじょうぶ?(How to cope with Kids at home)
【3】
【4】随筆(Essays)
   / ̄\ ⊂⌒⌒⊃ 
⊂⌒⌒⊃  |  ⊂〜⊃
 ⊂⊃\_/       _ _
        ◯    / /⊃)
 __    ◯◯  (∂∂)
(⊂\\  ◯◯◯   γ \
 (θθ)┏━━━┓ (   σ
/ γ  ┗┓◯┏┛  ζ ζ
δ   )  ┃ ┃
  η η   ┗⌒┛
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子どもの問題をかかえているあなたへ、
今の状態を最悪だと思っていませんか。「どうしてうちの子だけが……!」と
思っていませんか。もしそうなら、どうかこの文を読んでみてください。あな
たの考えが、大きく変わるはずです。
+++++++++++++++++++++

谷底の下の崖っぷち論

 子どもが何か問題を起こすと、親は、その段階で自分が谷底にいると錯覚し、子どもをなお
そうとする。そして一方で、自分のおかれた境遇をのろい、「どうしてうちの子だけが……」と悩
む。しかしそういう親は、自分の下に、もうひとつの崖があることに気づいていない。つまり今、
置かれている立場は、谷底ではない。崖っぷちなのだ。

 たまたま今朝、こんな相談を受けた。一人の娘(中三)をもつ、母親からのものだった。いわ
く、「金庫からお金を盗んで使っているようだ。勉強はしない。夜は、コンビニに行くといっては
でかけ、そこで何時間も友だちとしゃべってくる」と。「それでどうしたらいいか」と。

 母親は「受験期なのに勉強しない」と悩んでいたが、しかしその程度ですめば、まだよいほう
だ。いまどき、ガリガリと勉強する子どものほうが、おかしい。話を聞くと、「何とか週三回は、近
くの進学塾へ通っている」という。で、そのことについて私が、「それでじゅうぶんではないです
か」と言うと、「でも、そんなことでは、C高校に入れません」と。しかしこのタイプの親にかぎっ
て、子どもがC高校へ入れそうだとわかると、今度は「せめてB高校へ」と言い出す。子どももそ
れを知っている?

 そこでさらに私が、「コンビニでしゃべることくらい許してやらないと、かえってたいへんなこと
になりますよ」と言うと、「どういうことですか?」と。

 この母親も、自分の子どもが谷底にいると思っているらしい。つまりそこが最悪の状態で、そ
の下はない、と。しかしこれは誤解。実はその子どもは子どもで、崖っぷちで、懸命に自分を支
えているのだ。もし親の対処のし方がまずいと、その子どもは、つぎの谷底めがけて、またまた
落ちていく……! よくあるケースは、(親が叱る)→(面従腹背で子どもは従う)→(子どもはま
すます親に反抗する)→(親が叱る)の悪循環の中で、子どもが、つぎの谷底に落ちてしまう。
落ちるというより、親がつき落としてしまう。一方、子どもの行動は大胆になる。つぎの段階で
は、子どもは外泊や、連泊をするようになるかもしれない。さらに家出をするようになるかもし
れない。そうなると、進学どころではなくなる。しかし親には、それがわからない。

 親は、完ぺきな子どもを求める。その気持ちはわからないでもないが、あなたが完ぺきでな
いのと同じように、子どもにそれを求めても意味はない。大切なことは、あるところで親があき
らめ、手を引くということ。私が作った格言に、『あきらめは悟りの境地』というのがある。不思
議なことだが、親があきらめると、子どもはそこを原点として、前に伸び始める。少なくとも、そ
れ以上、悪くはならない。

 しかし親が「まだ何とかなる」「何とかしよう」と思えば思うほど、子どもはつぎの谷底をめざし
て、落ちていく。そして一度この状態になると、「まだ前のほうがよかった」という状態を繰り返し
ながら、子どもはますます悪くなっていく。そこで教訓。

(1)子どもに何か問題が起きたら、「まあ、うちの子はこんなもの」と納得し、あきらめる。その
時期は早ければ早いほどよい。
(2)今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、時間をかけて様子をみる。「子どもを
なおそう」とか、「なおしてやろう」とか、考えてはいけない。

 あなたの子どもが今、どういう状態であるにせよ、その下には、もう一つの谷底があり、さら
にその下にも、別の谷底がある。あなたの子どもは今、懸命にその谷底へ落ちないように、ふ
んばっている。その子どもを、皮肉なことに、つぎの谷底へ落とすか落とさないかを決めるの
は、実は、親のあなたなのだ。それを忘れてはいけない。
(02−9−29)※

     /⌒⌒^\
     (λハハλ ヽ ♪♪
     ))∂ ∂)) )     谷底の下に、さらに別の谷底がある……。
    (|^ c  ( (       フ〜ン、なるほど!
    )人 v  )し
     _>−−<
    /†_____†ヽ//   
    ( ('    ξヽ
  ┏ ||   o//\) )(
 --□---`○_oOO%__------凵---
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

Q 日本の中学生はどれくらい読書をしていると思いますか。「毎日、読書をしない」と答えた子
どもは……

(1)毎日読書をしないと答えた中学生は、約五〇%。この割合は、ほぼ世界最多。
(2)毎日読書をしないと答えた中学生は、約四〇%。この割合は、世界でも中位。
(3)毎日読書をしないと答えた中学生は、約三〇%。日本人の読書好きは世界一。

++++++++++++++++++++++

A 他の先進国では読書が教育の柱になっている。たとえばアメリカでは、どこの小学校を訪
れても、図書室が学校の中心部、あるいは玄関のすぐ奥にある。図書室には、専門の司書(ラ
イブラリアン)がいて、子どもたちは週に一度の、読書指導が義務づけられている。私が「コン
パルサリー(義務教育)ですか?」と聞くと、担当の先生は、「そうです」と笑った(アメリカ・アー
カンソー州)。ふつうの教師は大学卒の学位をもった人でもできるが、司書は、大学院を出た
マスターディグリー(修士号)をもった先生があたるとのこと。つまり「読者は、それだけ重要」と
位置づけられている。

 で、日本の子どもたちの読書について。経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達
度調査」(PISA・二〇〇〇年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対し
て、日本の生徒(一五歳)のうち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二
か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八
位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカ
は四%。しかし日本は二九%!

 日本のアニメは世界一と言われているが、その背景に、日本人の文字離れがあるとしたら、
あまり喜んでばかりはいられない。(正解(1))

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


Q 最近の子どもたちの風紀が乱れていることについて、「甘やかしが原因。家庭でもっときび
しくしつけろ」と主張する評論家がいます。あなたは……

(1)自分自身の子ども時代はどうだったのかということを、謙虚に反省してほしいと思う。
(2)こうした復古主義的なものの考え方は、今に始まったことではない。
(3)きびしくすべきは、むしろおとなの世界。子どもの世界は、むしろその結果でしかない。

+++++++++++++++++++

A 「『いまの若い者は』などと、口はばたきことを申すまじ」と言ったのは、あの山本五十六(書
簡)だが、「青年は老人をアホだと思うが、老人は青年をアホだと思う」(チャップマン「すべての
アホ」)というのは、古今東西、共通の真理と言えるのではないか。

 江戸時代に山鹿素行という人物が、『武教小学』という本を書いた。これは朱子の「小学」を
模範として、武士の子弟のしつけ教育を目的として書かれた本である。その中にこんな一節が
ある。「今世、学講せず、男女幼より便ち、驕惰に懐了し、長ずるに至りて益々狂狼なり、ただ
未だすべて子弟のことをなさざるがために、すなわち、その親において、己の物我ありて肯て
屈下せず、病根常にあり」(「嘉言」)と。

 わかりやすく言うと、「最近は、学問もせず、男の子も女の子も、幼いころから怠惰で、歳をと
るにつれて、ますます狂暴になっていく。こうした子弟の教育をしないことにあわせて、つまり親
自身も我欲が強く、頭をさげることをしないところに、問題の原因がある」と。(何とも意味不明
な難解な文章なので、訳は適当につけた。)

 いつの時代も、老人から見れば、若者の世界がだらしなく見えるもの。声高らかに「きびしく
せよ」と言う人の意見は、じゅうぶん疑ってみる必要がある。人は年をとればとるほど、自分の
青年時代を美化したがるものらしい。(正解(1)(2)(3))
(1503↑)

【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子どもがからんだトラブルは、負けるが勝ちですよ!
+++++++++++++++++++++++++
それでは子どもがかわいそう
負けるが勝ち(失敗危険度★★)

●親どうしのトラブルは日常茶飯事
 この世界、子どもをはさんだ親どうしのトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ザタ、さらには裁判ザタになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子ど
もが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親どうしのつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はい
る。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうま
ともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

●最初に頭をさげる
 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから…
…」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

●つきあいの大鉄則
 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういう
人たちから苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負ける
が勝ち」。これは親どうしのつきあいの大鉄則と考えてよい。
(1298)

   /⌒⌒^ヽ ♪♪♪
  / 八))))ハ
  | | ー ー||(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
  | | ・ ・||( どうせ子育てするなら、楽しみましょう!       )
  | |"   )||(____________________       )
  | |  o 丿|。o
  |川|`ー-イ川
【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
家庭教師と、外見について考えてみました。
++++++++++++++++++++++++++

家庭教師

 私も二〇代のころ、アルバイトで、家庭教師をした。したというより、それが仕事だった。そう
いう経験もふまえて、家庭教師について、書く。

 もともとやる気のない子どもは、いくら家庭教師しても、ムダ。親は高い月謝を払うが、それ
は親の気休めでしかない。教える側が熱意をもって(?)、ガンガンと教えることを親は期待す
るかもしれないが、それについても、子ども自身がそれを求めていないこともある。求めていな
いことを、いくらやってもムダ。「勉強時間をつくる」とか、「不安になっている子どもの話し相手
になる」という意味はあるが、あってもその程度。

 もちろん子ども側にやる気があるときは、別。そのときは、教えたら教えた分だけ、子どもの
頭の中に入っていく。追い込みに入った受験生などは、それだけの問題意識をもっているか
ら、教えやすいというより、家庭教師をする意味がある。そういう子どものばあいは、ガンガンと
教える必要はない。方向性だけをつくってやり、あとは「わからなければ聞け」というような指導
ですんでしまう。もちろんこまかな技術はある。これは私のやり方だが、英語のばあいは、その
子どもの力に合わせて、プリントをどんどんその場で作っていくという教え方をした。もう一つ
は、子どもの書く速さにあわせて、英語を読み、それを録音するという方法。「毎日、一度はテ
ープを聞いて、英語を書け」というような宿題を与える。数学も、同じような教え方をしたが、自
分で教科書を読んで理解させるという方法を、大切にした。(「とりあえず勉強ができるようにす
るだけ」という、何ともつまらない教育だが、しかし家庭教師に求められているには、そういう教
え方。)

 が、能力的にも問題があり、自信をなくしてしまっている子どもは、どうするか。このタイプの
子どもは、たいてい(できない)→(勉強しない)→(ますますできない)の悪循環に入っているこ
とが多く、ふつうの指導では、できるようにはならない。ひとつのことを教え、それがやっとでき
るようになるころには、学校の勉強は、ふたつくらい先へ行っているというようなことが、よくあ
る。しかし本当の問題は、子どもにあるというより、親にある。
 
 自分の子どもがそういう状態にあることを、親が納得していてくれれば、教える側も救われる
が、そうでないときは、その家の玄関をくぐるたびに、重苦しい気分になる。ときどき親から、
「どうしてうちの子はできないのでしょう」とか、あるいは、「いつになったら効果が出てくるのでし
ょう」と言われることぐらい、つらいことはない。家庭教師という個人レッスンに、過大な期待を
寄せることは、禁物である。

 そこで私なりのチャート図を考えてみた。

(家庭教師は効果があるか)

  (やる気あり)■※教えがいがある            ※効果大
         ■
    ↑    ■
         ■※家庭教師がたいへん(効果が疑問)
  (やる気なし)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
         (能力がない)     →      (能力がある)

 要点を言えば、子ども自身が、それを望んでいるかどうかということ。親が押しつけるケース
では、ほとんどが失敗する。仮にそれを子どもが受け入れたとしても、もともと姿勢が受身だか
ら、ある程度までは効果があっても、それ以上は伸びない。あるときから、均衡状態に入る。
「均衡状態」というのは、「身につく分」と「忘れる分」が、均衡状態に入って、進歩そのものが停
滞する状態をいう。子どもに英語を教えていると、そういう現象が、共通してどの子どもにも現
れる。早い子どもで三か月くらい。遅い子どもでも、一年前後で、その均衡状態に入る。その均
衡状態を破るのは、子ども自身の「やる気」ということになる。イギリスの格言に、『馬を水場に
連れていくことはできても、(無理に)水を飲ますことはできない』というのは、そういう意味であ
る。

※……子どもやる気があり、それなりの能力があるなら、もちろん効果はある。しかし子どもに
やる気がなく、能力がないときは、家庭教師をするのも、たいへん。そのたいへんさは、想像以
上のもの。そういうケースのときは、子どもの話し相手、遊び相手になる程度のことしかできな
いのでは……。
※……もちろん中には、熱心な家庭教師もいる。しかしそれ以上に大切なのは、子どもとの相
性ではないか。教える側からすると、親は何を求めているのか。子どもは何を求めているのか
を、しっかりと見極めることが大切。ここを見誤ると、かえって子どもを苦しめる結果となる。
(02−9−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


そんな家庭教師をしていたときのことを書いたのが、つぎの原稿です。家庭教師を考えるとき
の参考にしていただければ、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


ドラ息子症候群

 英語の諺(ことわざ)に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがあ
る。要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう例
は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしな
いのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小
三)は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。その
場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にかなわない
と、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってな
いようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。
バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。こ
うも言った。「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地
主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えることそのも
のが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべき
ことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこともあった。受験を控えた中三のと
きのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまったのである。悪質な万引
きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作
をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。そして彼が高校二年生になった
ある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼ん
でいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」と。そこで私
は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその万年筆を
取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった! とたん私は彼に飛びか
かっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったよ
うに責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)「ああ、これで私の教師生命は断たれ
た」と、そのときは覚悟した。が、M君の父親が、私を救ってくれた。うなだれて床に正座してい
る私のところへきて、父親はこう言った。「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝
しています。本当にありがとう」と。
(中日新聞で発表済み)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


金正日のハイヒール

 月刊誌の「S」(小学館発行)に、金正日(北朝鮮の軍事独裁者(読売新聞社説))のハイヒー
ルについて書いてあった。そこには、「短小コンプレックス、マザコン……」と。北朝鮮の人が読
んだら、激怒しそうな言葉が並んでいた。(ひょっとしたら怒るのは、本人だけかもしれないが
……。)もちろん写真も添えられていた。いわく、「以前は、(クツを)外国へ特注していたが、最
近では、国内で調達するようになった。日本で厚底サンダルがブームになる以前から、金正日
は、厚底ハイヒールをご愛用」と。

 拡大写真を見ると、三〜四重底の厚底! その上に、ハイヒール! 高さまでは書いてなか
ったが、常識的に考えても、一五センチ以上はあるのでは! 私はその記事を読んで、つまり
私には考えられない発想なので、驚いた。ワイフにそのことを話すと、ワイフは笑いながら、
「中身のない人は、外見を気にするからね」と。日本にも一五年ほど前、「ハイヒール大臣」と酷
評された外務大臣がいた。日本ではほとんど話題にならなかったが、もちろん外国では笑いモ
ノだった。が、何を隠そう、私にもこんな経験がある。

 はじめてのデートのときのこと。高校二年生のときだった。私はでかけるとき、近くの文房具
屋で消しゴムを二個買った。そしてそれをそっとクツの底に入れた。身長は数センチ高くなっ
た。が、それからがたいへんだった。しばらくすると、一歩歩くたびに、足の底から、ヤリでつつ
くような激痛が走るようになった。彼女は「どうしたの?」「クツを脱いだら?」と声をかけてくれ
たが、クツなど脱げるものではない。私はその激痛と戦うだけで精一杯。とてもデートどころで
はなかった。

 問題は、一国の元首や外務大臣が、外見を気にすることだ。そういう立場の人は、私たち一
般庶民のレベルを、ふたつもみっつも、超えていなければならない。精神的にも思想的にも、
だ。が、そういう人たちが、私が高校生のときにしたことと同じことをしている! 笑うというよ
り、そのレベルの低さに、ただただあきれる。そこで改めて考えてみる。「外見」とは何か、と。

 同じく昨日(02−9−28)、こんなニュースが、新聞(読売新聞夕刊)に載っていた。今度、韓
国のプサンで、アジア競技大会が開かれるという。それに北朝鮮の選手団も参加することにな
ったという。写真は、北朝鮮からやってきた応援団のものだった。何でも船でやってきたらし
い。見ると、「左側が北朝鮮からの応援団」と。私は記事がまちがっているのではないかと思っ
た。が、まちがっていなかった。見るからに豪華なチョゴリ、チマ(朝鮮の民族衣装)を着ていた
のが、北朝鮮の応援団。Tシャツ風のシャツを着て、握手の手をさしだしているのが、プサン市
民。「トップがトップだから、応援団も、外見を気にするのだなあ」と、私はへんに感心した。ワイ
フは、「韓国へやってくるような人は、北朝鮮でも、トップクラスの人ばかりよ」と言ったが、私も
そう思う。超特権階級の、そのまた一部の人たちに違いない。(あるいは見栄えのよい人が選
ばれた? 内情はわからないが、写真で見るかぎり、ふつうの人たちでないことは、たしか
だ。)

 外見と中身は、ヤジロベーのようなものではないか。外見と中身が、両横でバランスがとれ
て、まん中のヤシロベーは、静止する。そんなわけで外見が気になり始めたら、中身をみがく。
外見が気になったとき、外見ばかりみがくと、ヤジロベーは、バランスを崩して、倒れる。一方、
中身をみがけば、自然と外見も、それらしくなってくる。そういう意味では、ヤジロベーというより
は、最中(もなか)のようなものかもしれない。たい焼きでもよい。中身のまずい最中やたい焼
きは、一口かんでみればすぐわかる……。

 そこで子育て論。人間というのは、一見複雑に見える生き物だが、それほど複雑ではない。
意外と単純というか、わかりやすい。「一事が万事」という言葉があるが、その一事がすべてを
象徴する、……ということはよくある。たとえば私たちが親を見るとき、外見を気にする親という
のは、一方で、子どもの外見も気にする。言いかえると、親を見れば、その親が子どもに何を
求めているかまでわかる。これ以上のことは、ここには書けないが、一方、中身のすばらしい
人もいる。

 私が尊敬するドクターにTさんがいる。Tさんとはあまり話したことはないが、そのTさんの妻
が、何かのことで、ふとこう言った。「夫は、患者さんから送り届けられた金品は、すべて送り返
しています」と。Tさんは、市内の医療機関で、泌尿器系の治療を担当している。私はその話を
聞いて、改めてTさんの子どもたちを見なおした。本当にそのまま生きているという感じの子ど
もたちで、どこにも気取ったところもない。で、私はある日、その子どもにこう言った。「ぼくも死
ぬときがきたら、君のお父さんにみてもらうからね」と。

 ただ外見と違って、中身をみがくのはむずかしい。時間もかかるが、それ以上に努力も必
要。前にも書いたが、それは健康論に似ている。日々の鍛錬だけが、健康を守る。そして中身
をつくる。毎日のんべんだらりと過ごしていて、どうしてその中身をみがくことができるというの
か。……といっても、矛盾することを言うようだが、その中身をみがくことは、日常のほんのささ
いなことから始まる。滝に打たれて修行するとか、座禅を組んで瞑想するとか、そういうことで
はない。毎日何時間も読経すればよいというものではない。中身をみがくということは、日々の
生活の中で、正直に生きるとか、ウソをつかないとか、人に迷惑をかけないとか、そういうこと
で始まる。その日々の生活が、月となり、月々の生活がやがて年となり、その人の人格を形成
する。

 ……改めて、金正日のハイヒールを頭の中に思い浮かべる。そしてふと、こう思う。「彼は、
日々に何を思い、何を考えて生きているのか」と。多分というより、まちがいなく、心のさみしい
独裁者だ。毎日、失うことばかりを心配しているに違いない。あるいはいつか、民衆が自分の
中身のなさに気づくのではないかと、ビクビクしているに違いない。いや、それ以上にかわいそ
うなのは、北朝鮮の人たちだ。ああいう独裁者に支配され、心も魂も抜かれてしまっているこ
と。抜かれたまま、「首領様、首領様」と、たたえている。(……たたえさせられている。)まさに
一事が万事。金正日のハイヒールは、人間が本来的にもつ、愚かさの象徴と考えてよいので
はないだろうか。
(02−9−29)※

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
10・10 ……富士市、田子浦小学校(中学校)
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-8

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 466人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−10−8号(121)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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     匚二コ/
     彡彡ミ ♪♪♪ 
    ⊂OJO⊃
     \▽丿
≡    /く\
    (─〈\◯⊃
≡  ==\\==○
  / ̄\//\/ ̄\
≡ 〈《◎》∨二〈《◎》〉
  \_/   \_/自転車で、今日も健康!
        皆で乗ろう、自転車!  はやし浩司
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「思考と情報」(Wisdom & Knowledge)

【1】近況(Recent News)
【2】あなたの子育てだいじょうぶ?(How to cope with Kids at home)
【3】思考と情報(Wisdom & Knowledge)
【4】随筆(Essays)
   / ̄\ ⊂⌒⌒⊃ 
⊂⌒⌒⊃  |  ⊂〜⊃
 ⊂⊃\_/       _ _
        ◯    / /⊃)
 __    ◯◯  (∂∂)
(⊂\\  ◯◯◯   γ \
 (θθ)┏━━━┓ (   σ
/ γ  ┗┓◯┏┛  ζ ζ
δ   )  ┃ ┃
  η η   ┗⌒┛
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
近況報告

 いつもマガジンをご購読くださり、感謝しています。今日は、最近の私自身のことについて書
きます。

 どこもかしこも、不景気、不景気で、私のほうも、例外ではありません。毎年、一台ずつくらい
の割合でパソコンを買い換えていましたが、今年は、予定もしていません。じっと嵐が過ぎ去る
のを待つという心境ですが、しかしいつその嵐が終わることやら……?

 おかげさまで健康です。数か月かけて体重を、六九キロから六三キロ台に減らしました。ワイ
フが「食費が半分になった」と喜んでいるほどです。事実、どこかへドライブに行くときも、弁当
屋で六〇〇円前後の弁当を一個、買って、二人で分けあって食べています。回転寿司では、
一人四皿までと決めています。少しせこい話ですが、節約というよりは、これもダイエットのた
めです。

 このところ、これはという楽しみはありませんが、しいて言えば、パソコンです。いろいろなこと
を試しながら、そしてそのつど、ハラハラ、ドキドキしながら、楽しんでいます。今は、何とか、ホ
ームページのほうに、自分の動画を載せたいと考えています。実験的にはいくつかの方法を試
していますが、どれもどうもうまくいきません。もともと機械いじりが大好きなので、こうした苦労
は、何ともないのですが……。新しい機器を購入して、そのマニュアルを手にしたりすると、ぞく
っとするほど、楽しいです。

 毎朝、一度、五時ごろに起きて、原稿を書きます。そして長男が仕事にでかける七時ごろ、
一度原稿を書くのをやめ、軽い朝食をとります。それから新聞を読んだりして、また書斎にこも
ります。九時ごろになると、再び眠くなるので、そこで一〜二時間眠ります。ソファの上や自分
の書斎で、居眠りをすることが多いですが、たまにふとんの中にもぐることもあります。

 昼前にまた起きて、風呂に入ったりして、自分の時間を過ごします。このところ本は、ほとん
ど読まなくなりました。雑誌や新聞がほとんどです。あとはワイフの家事を手伝ったり、買い物
に行ったりします。以前は、午前中は、電話による子育て相談で、ほとんどつぶれましたが、こ
の四月(〇二年)からは、電話による相談は、心を鬼にしてすべて断っています。何かと力にな
りたい人もいるのですが、どうかお許しください。

 健康といえば、血圧の問題があります。私は低血圧症(?)で、上が一〇〇、下が六〇くらい
で推移しています。ダイエット中は、もっとさがります。血圧だけをみれば、低血圧症ということ
になるのですが、私は一日に水分を、三〜四リットル前後とります。ふつうの人にはない習慣
だと思います。夏場だと、昼間だけで、二リットル入りのペットボトル(たいていはウーロン茶)
を、二本飲むこともあります。血管がそのため太くなり、それで結果として、低血圧症になって
いるようです。つまり血圧が低いというだけで、ほかに症状はありません。

 私が今、一番大切にしているのは、「静かに考える時間」です。朝、五時に起きるとここに書
きましたが、その五時から七時ごろまでが、私がもっとも私らしくなれる時間です。私にとって
は、たいへん貴重な時間です。その二時間の間に、その日のことを考えます。あるいはその時
間に、考えるテーマを決めます。「今日は何を考えようか」とか、「今日はこのことについて、自
分なりの結論を出そう」とか。そしてそこで決めたことについて、考え始めます。

 家族は、みんな元気です。ワイフも、子どもたちも。しかしワイフとは、こんな話をしています。
「今の健康を、できるだけ長つづきさせようね」と。いつか今の健康が崩れるときが必ずくるの
で、その心の準備だけはしています。「その日がきても、うろたえないで、乗り越えようね」とも。
よく「健康であることに感謝しろ」と言う人がいますが、健康は自分でつくるものです。日々の鍛
錬と、日々の運動で作るものです。だれかに与えられるものではないですね。だから私には、
どうしても感謝するという気が起きないのです。たとえば今日も、日曜日ですが、体がなまってく
ると、自転車で、ハナ(愛犬)と近所を走ってきます。そういう努力は、自分の意思によって、自
分でするものです。

 そう、私は子どものころ、「浩司は、健康で、五体満足だから、親に感謝しろ」と、叔父や叔母
によく言われました。しかしもしこの言い方が正しいとするなら、「体が弱く、五体満足でなかっ
たら、親をうらめ」ということにもなります。事実、私の兄は、同じ親から生まれながらも、まるで
病気のデパートのような人です。だから私は子どものときから、「感謝しろ」と言われるたびに、
「兄貴はどうなんだ」と、そんなふうに反発ばかりしていました。あるいは、母からも、「産んでや
った」とか、「育ててやった」とか、耳にタコができるほど、聞かされました。何がいやかといっ
て、それほどいやな言葉はありませんでした。

 ……とまあ、またまたグチっぽくなってきました。どうもこのところ精神状態がよくないようで
す。私もいろいろ問題をかかえています。心が晴れる日のほうが、少ないかもしれません。で、
ワイフに言わせると、そうなるのは、男の更年期のせいだそうです。そう言えば、このところ性
欲も、どんと落ちてきました。足や腰は毎日自転車で鍛えているので、その分……と、自分で
は考えているのですが、女性に興味をなくしつつあるというか、そういう状態になりつつありま
す。今の私なら、若い女性と一緒に混浴の風呂に入っても、平気で世間話ができると思いま
す。残念ながら、そういう機会はありませんが……。

 それよりもこわいのは、ボケです。みなさんは私のマガジンをお読みくださって、もうしばらくに
なるかたも多いと思いますが、このところ、どのようにお感じですか。「林の書く文章には、この
ところサエを感じなくなった」と思っておられませんか。もしそうなら、それは私にとって、恐怖以
外の何ものでもありません。ただ私自身が、そのボケに気づくことはないと思います。何といっ
ても脳のCPU(中央演算装置)がボケるのですから。ですから、もしみなさんの中で、そうお感
じになったら、どうかそのようにお知らせください。いや、そのためにも、毎日、こうして頭を使
い、ボケないように努力しています。家系的には、ボケることはないと思うのですが、しかし同
年齢の友人の中には、そういう兆候が見られるのが、すでに何割かはいます。「ああはなりたく
ない」と、いつも思っています。

 とりとめのないことばかり書きましたが、これはいわば近況報告です。今は、九月二九日の
午後一〇時過ぎです。これから居間で、ワイフとニュースでも見て、寝ます。おやすみなさい。
(02−9−29)

     /⌒⌒^\
     (λハハλ ヽ ♪♪
     ))∂ ∂)) )
    (|^ c  ( (
    )人 v  )し
     _>−−<
    /†_____†ヽ//   みなさんも、お体を大切に!
    ( ('    ξヽ     がんばって長生きをしましょう!
  ┏ ||   o//\) )(
 --□---`○_oOO%__------凵---
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金沢学生新聞10月号、210号に掲載された記事より転載。
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ルイス・アレキサンドリア(金のかんざし)(15号)

●ハウスでのパーティ
 話が前後するが、私がハウスへ入ったちょうど、その夜のこと。ハウスでダンスパーティがあ
った。私にすれば、右も左もわからないというような状態だった。私はミスインターナショナルの
一行だと聞いていたが、ミスユニバースだったかもしれない。一九七〇年のはじめ、アルゼン
チンのブエノスアイレスであったコンテストだ。その一行が、ハウスへやってきて、ダンスパーテ
ィを開いた。その中に「ジュンコ」という日本の女性もいた。その女性はその後、大橋巨泉という
テレビタレントと結婚したと聞いているが、それはともかくも、その夜にルイスに会ったわけでは
ない。その翌日の夕方、インドネシアの西ジャワの王子が、ルイスを私に紹介してくれた。

 私はもともと、もてるタイプの男ではない。どこから見ても、おもしろくない顔をしている。背も
低い。メガネもかけている。その上、まだ言葉もじゅうぶん、話せなかった。その私がルイスと、
それから一週間の間、毎日、デートを繰り返した。今から思うと不思議な気がする。現実にあっ
たことというよりは、夢の中のできごとという感じがする。いつも誰かが車で私たちをあちこちへ
案内してくれていた。だれの車だったか、どうしても思い出せない。王子の車だったかもしれな
い。運転してくれていたのは、多分、インドネシアの大使館の館員だったと思う。私たちはその
車で、インドネシアレストランへ行ったり、美術館を回ったり、スライドパーティに行ったりした。
スライドパーティというのは、誰かが外国を旅行した際に撮ってきたスライドを、見せてくれると
いうパーティだった。

●ルイス・アレキサンドリア
 ルイスは背が高く、美しい人だった。ただ当時の私は、そういう女性の美しさを理解するだけ
の「力」がまだなかった。金沢の下宿を飛び出して、まだ一週間もたっていなかった。写真です
ら、そういう女性を見たことがない。だから私はルイスに圧倒されるまま、つまり何がなんだか
わからないまま、デートを重ねた。私にしてみれば、観光気分だった。しかもルイスが私に親切
だったのは、それは彼女のボランティア精神によるものだと思っていた。が、一週間たち別れ
るとき、ルイスは、私の目の前でスーッと涙をこぼした。そしてそのとき、ルイスは、私に一本の
金色のかんざしをくれた。コンテストでもらった賞品だと、ルイスは言った。私はそれに戸惑っ
たが、それほど深く考えなかった。少なくとも私は笑って、ルイスと別れた。

 ルイスはインドネシアへ帰ってから、数回手紙をくれたが、私は返事を書かなかった。毎日が
嵐のように過ぎていく中で、やがて私はルイスのことを忘れた。が、ある日。半年ぐいらいたっ
てからのことだが、自分の部屋で何もすることもなくぼんやりしていると、引き出しの中に、その
かんざしがあるのがわかった。私はそのかんざしを手にとると、どういうわけだか、そのかんざ
しをナイフで削りはじめた。キラキラと金色に輝くかんざしだった。私はメッキだとばかり思って
いた。が、いくら削っても、その金色の輝きは消えなかった。私はそれを知ったとき、何とも申し
訳ない気持ちに襲われた。私はルイスの心を、もてあそんだのかもしれない。当時の私は自分
の心がどこにあるかさえわからないような状態だった。静かに女性の心を思いやるような余裕
は、どこにもなかった。そんな思いが、心をふさいだ。

 ルイス・アレキサンドリア。これは彼女の実名だ。彼女は当時、ジャカルタの旅行代理店に勤
めていた。もしルイスの消息を知っている人がいたら、教えてほしい。あるいはもしルイスを知
っている人がいたら、「あのときのヒロシは、今、浜松に住んでいる」と伝えてほしい。今度は、
私が、日本料理をごちそうする番だ。

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

計算力

Q 丸を一〇〜三〇個を描いたものを子どもに見せて、それを子どもに数えさせてみてくださ
い。そのときあなたの子どもは……

(1) 「ヒトツ、フタツ……」とかみしめるようにして数える。正確だが、時間がかかる。
(2) 「イチ、ニイ、サン……」、あるいは、「イ、ニ、サ……」とリズミカルに数える。
(3) 「ピッ、ピッ、ピッ……」と、数を信号化して数え、五秒で二〇個くらい数える。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


A よく誤解されるが、計算力があるから算数の力があるということにはならない。計算力は、
訓練で早くなる。しかし算数の力(考える力)は、日常の生活力と密接にからんでいて、伸ばす
のは容易ではない。「多い、少ない」「ふえた、減った」「得した、損した」という経験をとおして、
子どもは、算数の力を身につける。

 その計算力は、ここに書いたように、訓練で伸びる。訓練すればするほど、計算は早くなる。
で、その計算力を伸ばすカギが、「早数え」。言いかえると、幼児期は、この早数えの練習をす
るとよい。たとえば手をパンパンと叩いて、それを数えさせる。一〇〜三〇の丸を描いたものを
瞬間に見せて、数えさせるなど。

 少し練習すると、一〇秒前後の間に、三〇くらいまでのものを数えることができるようになる。
最初は「ヒトツ、フタツ……」と数えていた子どもが、「イチ、ニイ……」、さらに「イ、ニ……」と進
み、やがて「ピッ、ピッ……」と信号化して数えることができるようになる。こうなると、「2+3」の
問題も、「ピッ、ピッと、ピッ、ピッ、ピッで5!」と計算できるようになる。反対に早数えが苦手な
子どもに、足し算や引き算を教えても、苦労の割には計算は早くならない。(正解(3))
(1500↑)

【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
考えることと、物知りは別ですね。
それについて、しっかりと結論を
だしておきたいと思います。
+++++++++++++

思考と情報

●思考
 人間の脳が、ほかの動物と、大きく違うところは、「連合野」と呼ばれる部分が、広いこと。こ
の連合野は「思考作用の座」と考えられ、「新・新皮質」と呼ぶこともある。

 この連合野は、(1)前頭連合野、(2)側頭連合野、(3)頭頂連合野の三つに分けられる。こ
れらの連合野でいちばんよく知られているのが、言語機能。この連合野のある部分が、何らか
の原因でキズつけられると、「他人の言う言葉は理解できても、自分ではしゃべれなくなります」
(新井康允氏)という。この言語中枢は、「大部分の人は左半球にあり、とくに右利きの人で
は、九〇〜九六%が、左半球にあります」(同)という。

 この言語中枢の働きからもわかるように、連合野の働きは、「入ってきた生の情報を、理化
し、解釈し、判断し、ばあいによっては、行動に移す働きをもち、運動野や感覚野より、次元の
高い働きをもっていると考えられています」(同)と。たとえば前頭連合野は、大脳皮質の約二
五%をしめ、「この部分が損傷を受けると、移り気になり、責任感も薄く、野心もなくなり、節度
に欠け、人格が以前とまったく変わってしまうこともあります」(同)と。そしてその結果、「複雑な
行動が時間を追って、順序よく組み合わせて行うことができなくなります」という。新井康允氏は
こうした働きを総合して、「いうなれば前頭葉は行動のプログラマー」と結論づけている(「脳の
しくみ」、日本実業出版社)。

●記憶
 一方、情報の蓄積は、「記憶」と呼ばれ、その記憶は、記憶の内容により、(1)認知記憶(一
度読んだことがある本の内容を覚えている)と、(2)手続記憶(パソコンのキーボードを、あまり
考えずにたたくことができる)、さらに、記憶している時間から、(3)短期記憶(短い時間、記憶
している)と、(4)長期記憶(古い過去のことを記憶している)に分けられる。

 これらの記憶は、脳の機能の分野でも、先の思考をつかさどる「大脳連合野」とは、まったく
別の部分で、蓄積される。新井康允氏は、アメリカであった例をあげて、こう説明している。「側
頭葉内側部を海馬を含めて両側を削除された患者がいました。しかしこの手術の結果、その
人は、日常生活でのできごとがまったく記憶に残らず、起こるそばから忘れてしまいました。た
だ昔の記憶は残っていて、話すことはできます。そのため現在では、このような手術は行われ
ていません」(同書)と。

 わかりやすく言えば、(3)短期記憶は、海馬でなされるということ。もし海馬が破壊されると、
短期の認知記憶ができなくなるということ。それにひきかえ、手続記憶は、体の運動能力とも
関連し、「海馬とは無関係でなされ、小脳を中心とした神経回路でなされる」(同)ということらし
い。となると、問題は、「では、短期の認知記憶はどこに蓄えられるか」ということ。

 これについては、「大脳連合野に蓄えられると考えられていますが、大脳連合野といっても、
非常に広く、さらなる研究が必要です。おそらく認知のタイプによって、異なった場所が関与し
ているのでしょう」(同書)とのこと。

●思考の深さ
 脳の分野でも、思考と記憶は、まったく別の分野でなされるということ。さらにその思考は、大
脳皮質でなされるものの、成長とともに、厚くなることが知られている。しかしここで注意しなけ
ればならないことは、人間の神経細胞は生まれたときから、約一〇〇万個でそれ以後、ふえる
ことはないということ。その神経細胞がふえないのに、大脳皮質が厚くなるのは、個々の神経
細胞が大きくなり、それにともなう「シナプス(配線)」が、より成長し複雑になることによる。たと
えば一個の神経細胞には、それぞれ、約一〇万個のシナプスがある。そこで一〇〇万掛け
る、一〇万で、約一〇の一五乗のシナプスがあることになる。つまり一〇〇〇兆個のシナプス
があることになる。この数は、DNAの遺伝子情報の、一〇の九乗〜一〇乗よりも多いことにな
る。実は、ここに思考の深遠さがある。つまり人間の思考は、わかりやすく言えば、DNAの遺
伝子情報の外にあるということ。さらにわかりやすく言えば、この「自由度」が、人間の思考の
ハバと深さを決めるということになる。

●思考と情報 
 思考と情報が質的にまったく異質のものである。田丸謙二氏は、有機ゴム開発の例をあげ
て、つぎのように説明している。

「以前に大阪大学の有機化学のK先生が話しておられた。昔から天然ゴムを人工的に作ろうと
してどれだけの一流の有機化学者たちが時間と労力とを費やして努力をしてきたかわからな
いと言う。(ことに第一次世界大戦の頃マレイシアからの天然ゴムが、イギリス海軍の海上封
鎖によりドイツに輸入できなくなり、車のタイヤなどのゴム製品にこと欠いて大変な努力を傾け
たが成功しなかったそうである。) 
しかし、その後第二次大戦中にデュポンで合成ゴムの製造に成功したのであるが、それを知っ
て、大学院生にやらせてみたら、三か月で立派にできてきたという。 最初の物を作り出すの
には膨大の努力を長年かけてきたものでも、一旦知ってしまえば、それとは全く比較にならな
い少ない努力で大学院生でも簡単に作れるのである」

 私たちは思考と情報、つまり「もの知り」を、同列において、それを混同する傾向が強い。とく
にこの日本では、「『学問をする』ことをマナブというし、マネブともいう。真似(まね)をすること
が学問の本質とされてきたわけである」と。そして知識偏重型の教育システムが生まれた。田
丸謙二氏は、さらにつぎのように述べている。

 「わが国での教育はおのずから知識偏重の傾向が生まれ、全体を支配してきたのであリ、そ
の傾向は現実に現在も強く支配的に残っている。学問をすることは知識を取り入れることであ
って、自分の頭で考えだすことではないと決めてかかっていた部分が少なくなかった。それは
正に何千年来の歴史から来る所産なのである。「物知り」が珍重され、「学力」と言うとどれだけ
の知識があるか、が問われるのである。したがって、学校の入学試験もそのように仕組まれ、
その結果として自分で考える能力よりも暗記の強い人が、成功者として、出世をする仕組みに
なっていて、その意味での学閥もおのずからできあがってくる。 教育界の指導者たちも、現場
の教師たちも、おのずから自分たちの持ちあわせている「学力」をつけさせることが教育である
と無意識的に考え、学校での勉強もおのずから『解ったか、覚えておけ』の一方的な教え込み
方式になるのである」 

 少し話が脱線したが、思考(考える力)と情報(知識の量)は、まったく異質のものであり、そ
れゆえに、思考力のあるなしと、情報量(記憶)の多い少ないは、まったく異質のものである。
言いかえると、情報量が多いからといって、頭がよい(思考力がある)ということにはならない。
反対に情報量が少ないからといって、頭が悪いということにもならない。私たちが子どもの教育
を考えるとき、まずもって、思考と情報を分けて考えなければならない理由は、ここにある。

参考……田丸謙二氏(二〇〇一年度、日本学士院賞受賞者)「文明の後進国であった日本の
これから」
新井康允氏(人間総合科学大学教授)「脳のしくみ」(日本実業出版社)

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思考と知識を区別せよ(中日新聞に発表済み)

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行
くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、
「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思ってい
た。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考え
て、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの
 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある
子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わな
い。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言ってい
る。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、
教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)
●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本
になっている。戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わ
っていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育
である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけ
ん」・九八年、田丸謙二氏指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人に
よっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らな
い。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるというこ
とは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜
九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」
(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

   /⌒⌒^ヽ ♪♪♪
  / 八))))ハ
  | | ー ー||(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
  | | ・ ・||( どうせ子育てするなら、楽しみましょう!       )
  | |"   )||(____________________       )
  | |  o 丿|。o
  |川|`ー-イ川
【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(138)

濃密な人間関係

 のどかな田園風景。ワイフとドライブしながら、「ここはいいところだね」と言いつつも、私は心
のどこかで、おかしな疎外感を覚える。「どこかしら入り込めない」という疎外感だ。立派な門構
えの農家、そして田や畑……。しかしどれも、「お前らごときには、近寄らせないぞ」と言ってい
るように見える。

 私は、家族だの親類だのと、濃密な人間関係の中で、生まれ育った。それは息苦しいほどま
でに濃密な人間関係だった。何をするにも、家族や親類の視線がそこにあった。それだけでは
ない。毎日のように、近所や世間の視線まで感じていた。いくら心の中で、「私は私だ」と叫んで
も、そういう生き方そのものを認めるような環境ではなかった。たしかに私はガリ勉だったが、
それとて、「勉強しなければ、(家業の)自転車屋をやれ」と、いつも母におどされていたから
だ。

 田舎といっても、私が住んでいた町は、小さいながらも「町」だった。その町ですら、そうなの
だ。いわんや、一歩外に出た、農家では! 私の母の在所も、祖父の在所も、すべてその農
家だった。
私が「こういう村も、見るだけなら、のどかだけど、いざ、住むとなると、たいへんだろうね。内部
には、いろいろな問題があると思うよ」と言うと、ワイフは「そうよ、きっと」と笑った。

 濃密な人間関係が、悪いというのではない。それがよいというのでもない。人、それぞれだ
し、それぞれが、それでよいとするなら、それはそれでよい。問題は、どちらにせよ、それを望
まない人に、自分の価値観を押しつけてはいけないということ。たとえ相手が、自分の子どもで
も、それを押しつけてはいけない。日本人は伝統的に、自分の子どもを、モノ、あるいは財産と
考える傾向が強い。たとえば結納金という制度がある。あれなどは、まさに「女」を、金で買うと
いう風習そのもの。アフリカのある部族は、嫁と羊を交換するというが、それと同じことをしなが
ら、自分たちだけは、「まとも」と思いこんでいる。そのおかしさに、日本人は、いつになったら
気がつくのか。

 話が脱線したが、子どもを自分のモノと考えるから、日本人の子育ては、どうしても押しつけ
がましくなる。またそうすることが、子育てと思い込んでいる。ガイドとして前を歩いたり、保護者
としてうしろを歩くのは得意だが、友として、子どもの横を歩くのが苦手。苦手というより、そうい
う発想そのものがない。やたらと親意識が強く、親風ばかりを吹かす。いや、これとて、実のと
ころ、親子がそれでよいと納得しているのなら、それはそれでよい。しかし中には、それを苦痛
と思う子どもだっているはずである。そういう子どもに、親風を吹かすのはよくない。吹かせば
吹かすほど、子どもはそれを苦痛に感ずる。

 私は、農家の間に見え隠れする人々を見ながら、こう考えた。「せまいと言っても、日本は広
い」と。いくら濃密な人間関係といっても、日本という全体から見れば、その限られた地域だけ
の、針で刺したようなせまい世界での関係でしかない。「私が生まれ育った環境も針の穴なら、
こうして見る農家の世界もまた、針の穴だ」と。それはちょうど目の前に大砂丘を見ながら、そ
の中の砂粒ひとつにこだわるようなもの。家族や親類のしがらみは、それはそれで大切なもの
だが、しかしそれにとらわれ過ぎると、自分を見失い、つづいて大局からものを考えられなくな
る。繰り返すが、日本はまだまだ広い。世界は、もっと広い。

 一見のどかに見える田園風景だが、その中にも、無数の落とし穴がある。よく都会の人はた
まに田舎へ来たりすると、「ここはいいところですねえ。私もこんなところに住んでみたい」など
と言うが、実際には、そんな簡単なことではない。田舎の生活を決して安易に考えてはいけな
い。私がそういう風景を見ながらも、ある種の疎外感を覚えるのは、そういう思いがあるから
だ。
(02−9−30)

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子育て随筆byはやし浩司(139)

子育て相談

 今年の四月まで、私は電話による子育て相談を受けていた。電話番号を公開していたわけ
ではないが、人が人を呼び、そのまた人がまた別の人を呼ぶというように、それがどんどんと
広がっていった。日によっては、というより、終わりのころには、午前中のほとんどがそれでつ
ぶれてしまった。相談といっても、一回の電話で、平均四〇〜六〇分はかかる。中には二時間
以上というのもある。私はそういう子育て相談を受けながら、多くのことを学んだ。そういう意味
では貴重な体験だった。

 が、そうして相談してくる人で、自分の名前を告げる人は少ない。言っても名字くらいで、住所
まで言う人は、二〇人に一人もいない。事情が事情だから、こちらも聞かない。それに定期的
に相談してくる人もいた。しかし「娘の不登校のことで先日電話しました、○○です」と。しかしそ
う言われると、本当のところ、困ってしまう。覚えていないというより、頭の中でいろいろな人とご
ちゃ混ぜになってしまう。が、何よりも困るのは、責任を追及されることだ。こんな事件があっ
た。

 その母親からは数日おきに、執拗な電話がかかってきた。育児ノイローゼぎみの人だった。
質問をしてくるから、あれこれ答えていると、つぎのとき、私のささいな言葉尻をとりあげては、
それをことさらおおげさに問題にした。「どうして日本の教科書が、日本の悪口を書くのです
か。子どもがかわいそうです」「先生は英語教育に賛成なさるということですが、かえってうちの
子供の日本語がおかしくなってしまいます」とか。が、その内容がやがて、子育てを離れて、夫
婦問題にまでおよんできた。「私は夫と離婚したいと考えています。先生は、どう思いますか」
と。そこで私は、こう言った。「子どもの問題なら相談にのりますが、それ以外の問題について
は、勘弁してください」と。が、この一言が、その母親を激怒させた。突然、ヒステリックな声を
はりあげて、「私は離婚したいと言っているのです。どうしてそれがわからないのですか!」と。
さらにこうまで言った。「私はどうしたらいいのですか? 私は離婚します、離婚を。それでいい
のですね!」と。

 こうした母親たちの気持ちは理解できないわけではないが、本などを書いていると、たいてい
の人は、私を「公」の人間と誤解するらしい。しかし私は、まったくの民間人。身分の保障もなけ
れば、収入の保障もない。そこで私はある日、市内で医院を経営している友人のドクターに、
活動を分担してもらえないかと相談してみた。が、結果は、あっさりと断られてしまった。「一
日、患者が一〇〇人はいないと、看護婦らの給料がペイできないのです。電話相談など受け
ていたら、医院の経営があぶなくなります」と。公的な保護を手厚く受けているドクターですら、
そうなのだ。

 だから私は「〇二年の三月三一日まで」と日を限って、この電話相談はやめることにした。そ
のときまでに一〇年以上してきた活動だったが、心を鬼にして、そうした。残念だが、今もそう
している。ただインターネットを通しての相談は、今のところすべて受けている。今まで断ったこ
とは一度もない。無論、過去においても、今も、金銭を受け取ったことは一度もない。しかしこ
のところ、そのインターネットによる相談も、ふえてきた。がんばれるだけがんばろうと思うが、
それもそろそろ限界にきたように思う。とても残念なことだが、近く、何らかの形で、相談を少し
減らしてもらえるようにしようと考えている。
(02−9−30)

(追伸)たとえば相談を、マガジンの読者に限るとか、そういうふうにしようと考えています。マガ
ジンのどこかにアクセス用のパスワードを置いて、それでアクセスしてもらうことを考えていま
す。いかがでしょうか。そのときは、よろしくお願いします。

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子育て随筆byはやし浩司(140)

育児ノイローゼ(補足)

 育児ノイローゼについては、たびたび書いてきた。後遺症についても、書いた。で、ほかにも
いくつか気づいたことがあるので、ここにメモする。

 育児ノイローゼになった母親は、いつも心の中が緊張状態にある。ささいなことで突発的に
激怒したり、反対に落ち込んだりする。それはよく知られた症状だが、ほかに、たとえば自己中
心性がきわめて強くなり、自分のことしか考えられなくなる。つい先日もこんなことがあった。

 電話で相談を受けているうち、しかもその電話は、日曜日の夕方、私の家でも食事中にかか
ってきたが、突然、激怒して、大声で私を罵倒(ばとう)した。「そんなら、(相談にのってくれなく
ても)、結構です!」と。そして一方的に電話を切ってしまった。何とも後味の悪い電話だった。
 が、翌日、会うと、そんなことを忘れてしまったかのように、ケロリとしている。そして一転、し
おらしい声で、「先生は、怒っていますか?」と。私はなんだか、キツネにつままれたような気分
になった。

 その母親について、ほかに、つぎのようなことに気づいた。

(1)異常な繊細さと、異常な鈍感性……ある部分には、きわめて敏感になり、また別の部分に
は、きわめて鈍感になる。たとえば「先日道で会ったとき、先生にあいさつをしなかった。失礼
を許してほしい」と何度も謝ったあと、私の仕事中でも、そのことで平気で教室へやってきたり、
電話をかけてきたりする。

(2)執拗性……同じことで、同じことを何度も繰り返す。私が「あいさつをしなかったことは、気
づかなかった。何とも思っていない」と言っても、それが心にしみていかない。しみていかないか
ら、数日もすると、また同じことで、私に謝る。あとはその繰り返し。あまりしつこいので、こちら
のほうが気がへんになってしまうほど。
 
(3)妄想性……ささいなことで、誇大妄想して、悩んだり、苦しんだりする。その母親も、学校で
した子どもの計算ドリルのプリントを見せ、こう言った。「答が、すべて一段ずつずれています。
きっと隣の子のを丸写しにしたからです。こういうことを平気でするようでは、先が心配です。う
ちの子はどうなるのでしょう?」と。私が「よくあることです」「子どものすることですから……」と
説明しても、かえって「そんないいかげんなことでは困ります!」と、怒りだしてしまう。

(4)突発的な激怒性……自分を懸命に抑えようとしているが、それが、ふとしたことで、爆発す
る。異常な興奮状態になることもある。こうした感情障害(感情のコントロールができない)は、
育児ノイローゼに共通してみられる症状だが、その母親のばあいは、そのあといつもはげしい
自己嫌悪に陥(おちい)っていた。すぐさままた電話をかけてきて、「先ほどは、すみませんでし
た。私、どうかしていました」と。電話口で、さめざめと泣いたりする。

 育児ノイローゼというのは、いわば極端な例かもしれない。しかし子育てをしている親は、程
度の差こそあれ、みな、育児ノイローゼになると考えてよい。この問題は、シロかクロかという
問題ではなく、濃い灰色の人もいれば、薄い灰色の人もいる。そして時期的に、クロになった
り、あるいはシロになったりする人もいる。つまり母親たちが、共通してもつ問題と考えてよい。

 育児ノイローゼになったら、あるいは自分がそうであると感じたら、子育てから思いきって遠
ざかるのがよい。が、実際には、不可能。遠ざかろうとすればするほど、かえって子育てが気
になり、ますますノイローゼがひどくなる。そこでそういうときは、子育て以外のことで、自分の
生きがいを見出し、それに没頭する。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。これについ
ては、前にも書いたので、ここでは省略する。
(02−9−30)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
10・10 ……富士市、田子浦小学校(中学校)
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-10-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 469人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−10−10号(122)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「ジャンクフード」(Junk Foods)

【1】あなたの子育てだいじょうぶ?(How to cope with Kids at home)
【2】考えてみよう(Let's think)
【3】随筆(Essays)
【4】アラカルト
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||
  /_/
  (___⊃
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)

●独特の動き
 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(ア
メリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース
U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そ
こで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性
 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症
状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があった
ので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て
驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったの
だ。何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめ
るだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよ
い。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程
度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品
を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」(マザーリング・1981)と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化
物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにして
いるというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存
性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談
 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。

 ((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )     無断で、転載、引用しないでくださいね。
    人 ▽ 人′ 〜♪     ここまで書くのに、かなり苦労しましたから……
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
最近書いたエッセーをふたつ、お届けします。
+++++++++++++++++++++++

(1)こわれる心

 ずいぶんと前だが、こんな事件があった。
 私はある男児(小四)の家庭教師をしていた。たいへんよい関係だった。が。ある日、突然、
母親から電話がかかってきた。そしていきなりこう言った。「今週で、もううちへ来てもらわなく
て、結構です。今月分の代金は、明日にでも銀行へ振り込んでおきますから、よろしく、(ガチャ
ン)」と。

 私はその夜はほとんど一睡もできなかった。私はそのとき二七、八歳。まだ経験も乏しかっ
た。しかしそのときほど、自分がつまらない人間に見えたことはなかった。虚(むな)しかった。
さみしかった。それにみじめだった。
 が、その二日後のこと。また母親から電話がかかってきた。何ごとかと思って受話器を取る
と、母親はこう言った。

 「先生、先日はごめんなさい。あのとき、息子とけんかをしていまして、私が『そんな生意気な
こと言うと、林先生の勉強をやめさせる』と言いましたら、息子が、『やれるものなら、やってみ
ろ』と言いましたので、それでああいう電話をしてしまいました。あれは本心ではありませんか
ら。また今週から、いつものように家庭教師においでください」と。

 私は親子げんかのトバッチリを受けたというわけだ。しかしその二日間で、私のその子どもへ
の「思い」は、すべて消えた。たとえそうであっても、母親はその直後にでも、私に電話をするこ
とができたはずである。その夜でもよい。少なくとも、私からその「思い」を消す前に、すべきこ
とはあった。

 こういうケースは、実に多い。最近でも、こういうことがあった。何かのことで、電話で話し合っ
ているうちに、その母親は興奮状態になってしまった。そして最後に、私に、「あら、そう。長い
間、お世話になりました!」と言って、電話を切った。それは怒鳴り声に近いものだった。私
は、めったに人に怒鳴られたことはない。ワイフにしても、たいへん穏やかな性格の持ち主で、
結婚して三〇年以上になるが、私に怒鳴ったことはない。(私はよく怒鳴るが……。)

 しかし一度でもそういう電話があると、私の気持ちは大きく変化する。身内のワイフに怒鳴ら
れるなら、まだ話もわかる。しかし他人に怒鳴られて、そのままですむはずがない。私はその
段階で、その母親や子どもへの「思い」を消す。消すことで、自分の心を整理する。そうでもしな
ければ、この仕事は務まらない。

 が、そういう親にかぎって、その意識がない。数日もすると、ケロッと忘れて、また電話をかけ
てくる。そして「先生、もうひとつ、ご相談したいことがあるのですが……」と。中国には、昔から
『覆水、盆に返らず』※という諺(ことわざ)がある。一度こぼれた水は、もとに戻らないという意
味だが、人間の心というのは、そういうもの。相手は自分のことしか考えていないから、こちら
の心の変化には気づかない。

 先の男児(小四)のとき、私はその母親にこう言った。「もう、終わりましたから。ごめんなさ
い」と。しかし今度は、それに母親が反発した。何度も、「どうしてですか?」「どうして家庭教師
に来ていただけないのですか?」と。私は説明するのもおっくうだったから、そのまま、電話を
切った。
(02−10−2)※

※……再縁を求めた妻に、夫が目の前で盆の水をこぼしてみせ、「この水をもとのとおりにし
たら、求めに応じよう」と言ってみせたという中国の故事による。「一度、離れた心はもとに戻ら
ない」ということを意味する。ほかに「落ち花、枝に戻らず」「破鏡、再び照らさず」ともいう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(2)とぼける、ほとぼりを冷ます

 日本人独特の「ごまかし法」に、(1)とぼける、(2)ほとぼりを冷ます、がある。とぼけたり、ほ
とぼりを冷ますほうは、その人の勝手だが、とぼけられるほうや、ほとぼりを冷まされるほう
は、たまらない。ふつう、それで人間関係は終わる。ただ、自分自身も、日常的にとぼけたり、
ほとぼりを冷ましたりすることが多い人は、自分が他人にそうされても、それほど気にならない
らしい。それはある。

 A氏(五五歳)は、甥(おい)のB氏(三〇歳)に、一〇〇万円にもならない山林を、六〇〇万
円で売りつけた。それから二五年たった今でも、その値段が、一八〇万円程度だという。B氏
はこう言う。「二五年前には、六〇〇万円で、家が建ちました。今、一八〇万円では、駐車場く
らいしかできません」と。
 そこでB氏は、A氏に手紙を書いた。が、それについては、ナシのつぶて。手紙を無視する形
で、A氏はほとぼりを冷まそうとした。「時間がたてば、問題も解決するだろう」と。しかしA氏は
ともかくも、B氏のほうは、半年、一年とたつうちに、心を整理した。と、同時に、縁を切った。
が、こういう状態になったとき、つぎにA氏がとった方法は、とぼけるだった。A氏はこう言って
いる。「山林なんてものは、値段があってないようなもの。あと一〇〇年もすれば、価値が出て
くる」と。(一〇〇年!)

 他人ならともかくも、親子や兄弟では、とぼける、ほとぼりを冷ますは、タブー。こんな例もあ
る。

 Cさん(六〇歳)は、息子(二七歳)から、そのつど、「かわりに貯金しておいてやる」と言って
は、お金を取りあげていた。二万円とか三万円とかいうような、少額ではない。盆や暮れには、
二〇万円単位。ふだんでも、毎月のように、一〇万円単位で取りあげていた。で、ある日、息
子が、Cさんに、「貯金はいくらになった?」と聞くと、Cさんは、「そんなものはない」と。さらに
「貯金通帳はあるのか?」と聞くと、それも「ない」と。そこでさらに、「お金を渡したはずだ」と息
子が詰め寄ると、「そんなもの、もらった覚えはないなあ」と。Cさんは、今、七八歳。ボケたふり
をながら、息子の追及をうまくかわしている。

 とぼける、ほとぼりを冷ますは、日本人独特の、つまりはものごとを、何でもあいまいにしてす
ますという、日本人独特の問題解決の技法のひとつと言ってもよい。もちろん外国では通用し
ない。「あいまい」というと、まだ聞こえはよい。しかしその中身は、「ごまかし」「だまし」「あざむ
き」。とぼける、ほとぼりを冷ますを、日本人の美徳と考える人もいる。つまり、「これこそ、和を
もって貴(とうと)しとなす※の真髄」と説く人もいる。が、これは美徳でも何でもない。それでも
……と、反論する人もいるかもしれないが、しかしここにも書いたように、親子の間では、タブ
ー。ごまかさないから親子という。だまさないから親子という。あざむかないから親子という。だ
から、親子の間では、とぼけたり、ほとぼりを冷ますようなことはしてはならない。
(02−10−2)※

※……「和を以って貴しと為す」は、聖徳太子の一七条憲法のひとつ。「ものごとは争わず、人
と和するのが、何よりも大切」という意味。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃
  /∠_mm_/\ /‥ │
 /        ●∞ │
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司
+++++++++++++
モノへの執着性

●車のキズ
 ワイフの車は、トヨタのビッツ。安い車だが、「乗りやすい」と。喜んでいる。そのビッツのドア
に、キズがついた。どこかの駐車場で、隣の車がつけたものだろう。明らかにドアをぶつけた
……という感じのキズである。

 ワイフにそのことを話すと、「どこでやられたのかしら……?」と、あれこれ考えていたが、こう
したキズは、つけたり、つけられたり。ドアをあけたとたん、突風にあおられ、相手の車のドアに
キズをつけるということもある。しかしこの不快感はどこからくるのか?

 大切にしているモノに、キズをつけられるというのは、気分の悪いものだ。しかしこうしたモノ
への執着性は、いったい、どこからくるのか。考えてみれば、私たちの生活の中には、モノが
氾濫(はんらん)している。モノだらけといった、感じ。車のキズくらい、何でもないはずなのに、
またそんなキズ、あったところでおかしくはないのだが、気になる。ワイフが大切にしている車
だからだろうか。

 が、肝心のワイフは、「まあ、しかたないわね」で終わってしまった。「気にしないのか?」と聞
くと、「なおるわけではないし……」と笑っている。ワイフはいつも、そういう女性だ。私はそれで
救われたが、つまり、私の心も多少楽になったが、そこで改めて、「モノへの執着」について考
えてみる。

●モノへの執着
 「行為障害」という言葉がある。行動そのものが、変調し、ふつうでなくなることを言ったもの
だが、たとえばそのひとつに、買い物グセがある。衝動的に高額なものを買い込んだり、同じ
ようなものを、つぎからつぎへと買い込んだりするなど。意味のない万引きをするのもそれにあ
たる。

 子どもにもそれがある。ある高校生(三年男子)は、万年筆ばかり買っていた。モンブランと
かパーカーとか。そして一本ずつを綿でくるみ、それを金庫に入れてしまっていた。また別の高
校生は、ミリタリーグッズばかり買い込んでいた。しかし買うときはいつも、同じものを、三つ、
四つと買いそろえていた。

 こうした子どもを観察してみると、モノへの執着性が、ふつうでないことがわかる。先の万年
筆を集めていた高校生は、親が金庫の前を歩くだけでも、怒っていた。「歩く振動で、筆の機能
が悪くなる」と。おかしな理屈だが、こうしたケースはいわば極端なケースで、多かれ少なか
れ、そうした傾向はだれにでもある。要は、その傾向が「濃い」か「薄い」かの違い。

 たとえば私が車のキズを気にしたとき、それは「薄い」というだけで、万年筆に執着したあの
高校生と、どこも違いはしない。だから自分自身の心の中をさぐることにより、その高校生の心
理を知ることができる。そしてそれを知れば、ひょっとしたら、人間全体の心理を知ることもでき
る。

●信仰とモノ
 ずいぶんと前だが、こんなことがあった。ある夏の暑い日だった。ふと生徒の一人(小六女
児)を見ると、首のところから汗にまみれたヒモが見えた。そこで私が「これ、何?」とふと指で
つまもうとすると、その女児は、ものすごい声をはりあげて、こう叫んだ。「やめて! 汚(けが)
れる!」と。それは彼女の家族が属するある宗教団体が、信者に渡しているお守りだった。

 私たちは信仰をするとき、その信仰を、自分を離れたモノに、集約することがある。ある宗教
団体では、「本尊」と呼ばれる掛け軸を、自分たちの命より大切にしている。息を吹きかけるこ
とはもちろん、手でさわることさえ許されていない。こうした信仰方法は、たいていどこの宗教団
体にも共通していて、そういう意味では、心とモノは、密接に関係している。言うなれば、心は見
えない。そこでその見えない心を、見えるモノに象徴させて、その心をつかむ?

 私は車のキズを気にした。同じようにあの男子高校生は、万年筆の振動を気にした。そして
あの生徒(小六女児)は、お守りを気にした。こうした一連の「気にする」という行為は、どこか
でつながっている。先にも書いたように、「濃い」か「薄い」の違いがあるだけである。

●脳の補完機能
 私は新しいパソコンを買うと、いつも、しばらくは毎日、それをみがいて過ごす。パソコンなど
みがいてもしかたないのだが、小さな汚れやキズが気になる。しかしたいていその期間は一か
月程度で終わる。終わったあとは、そこらに無造作に置くようになる。パソコンというモノへの執
着性が、そこで終わったことを意味する。

 問題は、なぜそういう執着性が生まれるか、だ。私とてそれが「濃く」なれば、男子高校生や、
あの生徒(小六女児)のようになる。どこかの宗教団体に入れば、そこでの信者のようになる。
これは人間が本来的にもつ、つまり脳の補完機能によるものなのか、それとも脳の欠陥による
ものなのか。あるいははたまた、進化の過程で生まれた本能によるものなのか。もうひとつ、
子どもの世界には、こんなよく知られた現象がある。

 情緒が不安定になると、子どもは独特の症状を示す。ふつうは、攻撃型(ピリピリと神経がい
らだち、攻撃的に激怒したりする)、内閉型(わけのわからないことを言い、グズグズする)、そ
れに固執型(モノにこだわり、それを始終、身につける)の三つのタイプに分けて考える。ここで
いう固執型は、そのまま、今まで述べてきた、執着性と、その症状を共通する。つまりモノに執
着するというのは、それがお守りであれ、宗教上の本尊であれ、自分の情緒不安を、代償的に
解消するためとも、考えられなくはない。となると、こうした執着性は、脳の補完機能によるもの
か。またこう考えると、行為障害の内容も、よく理解できる。

●ここでの結論 
 それが何であれ、モノへの執着性を感じたら、自分自身の情緒が不安定になっていないかを
反省する。その情緒の不安定さを解消するために、人は、無意識のうちにも、代償行為を繰り
返す。幼児でも、モノに執着する子どもは、いくらでもいる。ボロボロになったマンガの本を大切
そうにもっているなど。そういうとき、無理にそのモノを取りあげたりすると、子どもの情緒は、
一挙に不安定になる。おとなも同じように考えてよいが、おとなは子どもと違って、自意識が強
く、セルフコントロールできる。しかし影響がないわけではない。私が車のキズを気にしたの
が、その一例である。言いかえると、モノへの執着性は、そのモノが原因ではなく、自分自身の
心の問題ということになる。
 
 「買ったばかりの新車だから気になるのよ」とワイフ。
 「そうだな。モノは何でもキズまるけになりながら、使い勝手がよくなるもの」と私。
 「そうね」とワイフ。
 「そうだね」と私。
 それでこの問題は、一応結論が出たので、忘れることにした。
(02−10−3)※

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪
【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
奇妙な事件

 北海道にスーパーSという大型スーパーがある。そこで何でも輸入牛肉を国産牛肉と偽って
販売したという事件が起きた。量的にはわずかな量だったらしい。それでそのスーパーSが得
た利益は、数十万円足らずだという。が、ここからつぎの事件が起きた。

 スーパーSは謝罪の意味もこめて、「お金を、(レシートなしでも)払い戻す」と宣言したのだ。
その結果、売りあげ金額の数倍にもおよぶ、五〇〇〇万円近いお金が請求され、そして客に
払い戻された。中には、一人九〇万円近くも請求した人もいるという(テレビ報道)。しかもそう
した請求をした人の大半が、地元以外のところからきた客(?)だという。

 こういう事件が起きると、すぐマスコミはスーパーSという企業をたたく。「レシートなしで、返金
するというのは、常識にはずれている」「悪いことをしたら、お金を返せばよいという発想は子ど
もじみている」(同、報道)と。しかし本当にそうか。

 「中には、本当に、肉を買ってだまされた人もいる」という論法で、こういう人たを擁護する人
もいる。事実そういう人もいるから、そういうふうに請求してきた人全体を非難することもできな
い。しかし私はこの事件を見たとき、人間のあさましさというか、何とも言われないおぞましさを
感じた。テレビで報道されたところを見ると、九〇%以上が、二〇歳前後の若い男女である。
そういう男女が、鬼のクビでも取ったかのような、大柄(おおへい)な態度で、怒鳴っていた。「こ
のヤロー!」「だましやがって!」「金、返せエ!」と。中には店員に暴力をふるって、逮捕され
た若者もいた。私は、スーパーSが起こした事件そのものよりも、むしろ、こうした若者たちの
ほうに関心をもった。

 相手にほんの少しでも、スキやホコロビがあると、そのスキやホコロビをついてくる。教育の
世界でも、似たような事件はよく起きる。たとえば小学生たちに、何か手伝いを頼むと、ほとん
どは、「どうして私がしなければいけないの」とか、「どうして○○君はしなくてもいいの」とか、言
い返してくる。学年があがればあがるほど、その傾向は強くなる。そこで、「君がいちばん近くに
いるか」などと言うと、不機嫌な顔をして、「自分のことは自分でしたら」などと言う。自分のこと
しかしないというのは、立派なドラ息子症候群の一つだが、今では、そうでない子どもをさがす
ほうがむずかしい。

 こうした自分中心の発想と表裏関係にあるのが、他人へのきびしさ。よく『自分に甘い人は、
他人にきびしい』というが、それはその通りで、このタイプの若者は、他人のためには何もしな
いのに、自分の権利が少しでも侵されると、ギャーギャーと騒ぐ。それこそ、ほんの少しでもス
キやホコロビがあると、それをついてくる。自分の非は棚にあげて、相手の非をつく。つまり自
分のことしかしないという自己中心性と、相手を許さないという自己中心性は、ちょうどヤジロ
ベーのバランスのようになっていて、たがいに妙な調和を保っている。

 そこで「やさしさ」である。人間にとってやさしさというのは、「まあ、いいじゃないか」という、あ
いまいな部分で育つ。あいまいであることを悪と決めてかかってはいけない。これも教育の世
界では常識で、たとえば子どもに、二〇〜三〇問、計算問題をさせたとする。大きな、つまり致
命的なミスはともかくも、そうでなければ、一つや二つ、まちがえたところで、どうということはな
い。子どもが一生懸命したら、「よくがんばったね」と、大きな丸をつけてあげる。それは答がす
べて正しいという丸ではない。「よくがんばったね」という、ねぎらいの丸である。そういうおおら
かさがあってはじめて、子どもは前向きに伸びていく。だからといって、スーパーSの不正を許
せというのではない。ないが、店員たちに怒声を浴びせかけねばならないような事件でもない。
巨悪かどうかということになれば、取るにたりない小悪なのである。

 一方、この社会で、「正しく生きる」ということは、本当にむずかしい。昔からこの日本でも、
『正直者はバカをみる』という。小ズルく生きるのが当たり前になっている。またそうでないと生
きられない。そういうことはあるが、では、こうして正義(?)を主張する若者たちが、では、ほか
の部分で、どれだけ正義を貫いているかといえば、それは疑わしい。一人の若者はテレビ画面
に向かって、「私たちはダマされた。許せない」と怒っていたが、それは日ごろから、たとえば適
正価格表示運動などをしている人が使うセリフで、そこらの若者(失礼!)が使うようなセリフで
はない。

 で、改めて、先のスーパーSというスーパーの前に陣取って、大声で怒鳴っていた若者たちを
思い浮かべてみる。一見正義の使者のようにも見えるが、その正義を貫くというほどの、人間
的な深みがどこにもない。私は今まで、何人か、本気で、それこそ命がけで正義を貫いてきた
人たちと直接会ったことがある。たった一人で、日本の巨大宗教集団を相手にペンで戦った
人。戦地のカンボディアで、カメラマンとして戦争の悲惨さを訴えつづけた人など。こういう人た
ちに共通するのは、恐ろしいほどまでの謙虚さである。「本当にこの人が?」と思ったこともあ
る。外に向って正義を追求するということは、結局は、その正義を自分に向って追求していくこ
とになる。あるいは正義を追求することのむずかしさを、こういう人たちは知っている。だから
謙虚になる。これもヤジロベーのバランスのようなもので、外で正義を貫けば貫くほど、自分の
心は重くなる。そしてその重くなった分だけ、腰が低くなる。言いかえると、その「深み」を感じな
い正義の使者は、エセと考えてよい。

 多分、こういう若者たちは、正義の世界を知らないのかもしれない。正義のために戦っている
人の姿すら、見たことがないのかもしれない。あるいは、ずるいことばかりしているおとなたち
を見ている。政治家にしても、親にしても、そして学校の先生にしても。だから自分たちの行為
がどういう行為なのか、それを客観的に見ることができない。言いかえると、ひょっとしたら、そ
ういう若者たちこそ、日本の社会が生み出した犠牲者かもしれない。ちなみにこんなことも報道
されている。

「逮捕された若者たちは、そのスーパーSでは肉を買っていなかったことが、警察の取り調べで
わかった」(〇二年一〇月一日)と。なお念のため申し添えるなら、牛肉を買ってもいないのに
「買った」と言って申告し、補償金を受け取ったら、詐欺罪の構成要件を満足する。つまり立派
な詐欺罪。恫喝(どうかつ)すれば、脅迫罪。店員の暴行を加えれば、傷害罪。どれであるにせ
よ、懲役刑を覚悟したらよい。
(02−10−2)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


現状を受け入れる

 人間というのは、勝手なものだ。ほとんどの人は、自分のことを棚にあげて、自分以外には
完ぺきさを求める。あなたが妻であれば、完ぺきな夫、完ぺきな子ども、完ぺきな家庭、完ぺ
きな生活を求める。

 よく「育自」という言葉を使って、「子育ては育自です」などと、わかったようなことを言う人がい
る。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は、子どもを育てながら、否
応(いやおう)なしに育てられる。が、それだけではない。子育てには苦労はつきものだが、そ
の苦労というのは、「子育てそのものから生まれる」というよりは、結局は自分自身が自ら生み
出している。そういう意味では、子育てというのは、自分との戦いである。そのことは、受験生を
もつ親を見ればわかる。

 子どもの受験に狂奔する親は、珍しくない。あなたのまわりに、一人や二人は必ずいる。ある
いはあなた自身がそうであるかもしれない。そういう親は、「子どものため」と言いながら、結局
は自分のためにそうしているにすぎない。悶々とした毎日を送りながら、「それが子育てだ」と
思い込んでいる。言うなれば、『マッチ・ポンプの子育て』と言ってもよい。自作自演と言ってもよ
い。自分で悩む原因を一方でつくりながら(=マッチで火をつけながら)、その悩みを解消する
ために、また苦労をする(=ポンプで火を消す)。

 そこで子育てをするということは、自分との戦いであることに気づく。子どもを育てるのではな
く、自分自身と戦う。その中でも最大の「敵」は、自分の中に潜む、完ぺきさを求める身勝手さ
である。言いかえると、この身勝手ささえ克服できれば、子育てにまつわるほとんどの悩みや
苦しみは、解消する。そのために、まず、あなたは子どもに何を求めているか、冷静に自分自
身を観察してみてほしい。あなたはいったい、子どもにどうなってほしいと願っているのか。

 友だちと仲よくしてほしい。
 勉強がよくできるようになってほしい。
 すなおで明るい子どもになってほしい。
 家の手伝いをしっかりしてほしい。
 非行や暴力とは無縁でいてほしい。

 しかしこれらはすべて子どもの教育といいながら、結局は、親のエゴでしかない。その中でも
最大のエゴは、「しっかり勉強して、いい高校、いい大学へ入ってほしい」というエゴである。し
かしそんな完ぺきさを、子どもに求めても、意味はないし、やり方をまちがえると、親子の関係
を破壊してしまう。そしてそういう状態になりながら、(つまりは親自身がそういう状態をつくりな
がら)、「どうしてうちの子は?」とか、「どうすればいいの?」と悩んだり、苦しんだりする。それ
はちょうど、一方で、必要でもない高級車を買い、身の丈を超えた高級住宅に住みながら、そ
のローン返済に苦しむ人の姿に似ている(失礼!)。ほどほどのところで、ほどほどの生活を
し、ほどほどのところで満足すれば、こうした苦労は、本来、しなくてもよい苦労である。子育て
も、これにたいへん似ている。

 そこで自分自身の中のエゴと、どう戦うか。いや、自分に向かって完ぺきさを求めるならまだ
しも、自分以外に求める。そういう自分とどう戦うか。実のところ、先にも書いたように、子育て
は、この一点に集約される。そこでつぎのようにする。

(1)子育ては「あきらめ」が、つきもの。……子育てで行きづまりを感じたら、あきらめる。あき
らめることは悪いことではないし、敗北することでもない。私は以前、『あきらめは悟りの境地』
という格言を考えたが、あきらめることを恐れてはいけない。子どもというのは不思議なもの
で、親があきらめると、そこを原点として、また伸び始める。親が「まだ何とかなる」「何とかしよ
う」とあせればあせるほど、逆効果で、子どもはますます親が望むのとは、反対方向に進んで
しまう。

(2)「自分ならできるか」「自分ならできたか」と自問してみる。……ある母親はこう言った。「私
はもう終わりましたから」と。私が、「子どもに読書をさせたいなら、お母さんが自分で読んでみ
たらいいのです」と言ったときのことだ。あるいは、こう言った母親もいた。「夫は学歴がなくて、
苦労しています。息子には、そういうみじめな思いはさせたくありませんから」と。

 要は、自分の欠点をいかに認めるかということ。あなたとて、欠点だらけの人間なのだ。それ
がわかればわかるほど、完ぺきな夫、完ぺきな子ども、完ぺきな家庭、完ぺきな生活など、こ
の世にはないことがわかる。そしてそれがわかれば、あなたがつぎになすべきことは、ただひ
とつ。あとは現状を受け入れる。夫に、あれこれ不満もあるだろう。子どもに、あれこれ不満も
あるだろう。家庭に、あれこれ不満もあるだろう。そういう不満があることが問題ではない。不
満をもつことが問題ではない。問題は、その不満を解消しようと、相手に完ぺきさを求めるこ
と。そのときから、すべてがぎくしゃくとした動きになる。そしてそれがあなた自身のあり方をゆ
がめる。が、受け入れてしまえば、そのときから、あなたの心の中に風が通り始める。そして同
時に、子育てにまつわるすべての問題は、解決する。
(02−10−1)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
10・10 ……富士市、田子浦小学校(中学校)
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-12

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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /      ありがとうございます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) XXX人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  XX人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  XX人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−−号()
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「秋のつれづれに……」(When autumn comes ……)

【1】息子が恋をするとき(When my son falls in Love)
【2】普通こそ最善(How to cope with Kids at home)
【3】子育てエッセー(Perfect Parenting) 
【4】随筆(Essays)
  ///////
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  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ
  / / F| 彡 `─´ 
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  m (________||
  /_/
  (___⊃
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
秋ですね。
どこかセンチメンタルな気分になります。
みなさんはいかがですか?
++++++++++++++++++++++

息子が恋をするとき
(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生
の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と
笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の
女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息
子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。相手
の女性の家は、従業員三〇名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車屋。
「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。が、
二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのまま別
れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つか
と言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が一億円も二億円もある
ようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百
万円もするような着物で身を飾ったタレントが、アフリカ難民の募金を涙ながらに訴える。暴力
映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やフランス政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、
「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちが
っているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえな
い。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、
その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおし
む涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、
過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色
あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝
ていた。六月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなに
なってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度
も何度も私は歯をくいしばった。しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったこ
とはない。そしてそれが今、たまらなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性
でも温かく迎えてやろうね」と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。
私も、また笑った。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


マダム・バタフライ

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。ジャコモ・プッチーニのオペラである。私はあの
曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。遠い昔、長崎からきた女性に恋を
したことがあるからか。色の白い、美しい人だった。本当に美しい人だった。その人が笑うと、
一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆ
いばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけ
ての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結
婚。そして男児を出産。が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。先の歌は、そのピンカートンを待
つマダム・バタフライが歌うもの。今さら説明など必要ないかもしれない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。
少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。ロメオとジュリエットがはじめてベッド
で朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかかった
山の頂上で、つま先で立っている」と。

本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。モヤがそ
のあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たまらないほ
どの切なさを覚える。そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュ
リエット」はすばらしい。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。サウンドトラック版の
CDももっている。その映画の中で、若い男が、こう歌う。ロメオとジュリエットがはじめて顔をあ
わせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前。「息子が恋をするとき」というエッセーを書い
た。先に載せたのがそれ。切なく思うのは、自分の悲しい過去がダブるからか?

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。短い曲だが、映画の最
後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。

私もいつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたい……と思う。
かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。いつか……。
(02−10−5)

 ((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ふつうこそ最善(失敗危険度★★★)

●なくしてから気づく
 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づ
き、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさ
もまたしかり。

 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったの
は奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは
変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでい
い」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登
校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつ
ど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

●子どもは下から見ろ
 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点)を見ろ」というのではない。
「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不
思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性
(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小
便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、
黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたという。私は幸運にも、生ま
れてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持
ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えるようになった。

●健康であることの喜び
 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外
は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年も
していると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友
人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁
だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」
と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通しているのではないか。(1271)

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃
  /∠_mm_/\ /‥ │
 /        ●∞ │
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司
+++++++++++++
親としての限界

Mさん(鳥取県S市の母親)からの相談。「うちの子はいつも、近所の双子(同年齢)の子分にな
っています。こういう関係をつづけてよいものでしょうか。どこかその双子のうっぷん晴らしのた
めに利用されているようなところがあります。いじめにもあっているようです。親として、どこまで
介入したらよいでしょうか」と。

●ボスと子分
 子どもの世界は、いわば動物社会。動物園のサルの世界を想像すればよい。違いは、ほと
んど、ない。もし幼児(五〜六歳児)だけを集めて、しばらく放っておいたら、やがてあのサルの
世界と同じような世界をつくるに違いない。ボスがいて、子分がいて、その周囲に取り巻きがい
て、……というように。

 こうした原始的な集団性は、それがあるから悪いということにはならない。ボスはボスなりに、
あるいは子分は子分なりに、そして取り巻きは取り巻きというように、それぞれが、それぞれの
立場で、集団の秩序を学ぶ。よく誤解されるが、ボスがいつもボスということにはならない。子
分が子分ということにもならない。その関係はいつも流動的である。私の経験を話す。

 私は小学生のころ、近くの山の「大将」だった。いつも年少の子どもたちを、五〜一〇人くら
い連れて、山の中を歩いていた。いわゆるボスだったが、しかし私がそういったボスになれた
のは、自分自身が長い間、子分だったからにほかならない。あまり記憶ははっきりしていない
が、私は幼児のころは、いつもだれかに命令されていたように思う。いつもだれかのあとをつ
いて歩いていたように思う。つまりそういう形で、山の中で遊ぶ知識だけではなく、ボスになる心
構えを学んでいた。

 それに山の中でボスであったというだけで、今度は別の世界では、子分になることもあった。
子どもの世界では、年齢や、体格の大きさが、たいへんものを言う。私はボスだったが、ときど
き同じ山に遊びにくる、年上の元ボスに従って、今度は子分として、行動することもあった。つ
まりボスとか、子分、さらには取り巻きといっても、その関係は、それぞれの世界で複雑にから
んでいて、決して一元的なものではない。

 話は少し脱線するが、私が今でも不思議だなと思うのは、こんなことだ。私たちは山の中で、
いくつかのグループを作って、いつも戦争状態にあった。とくに私のグループは、となりのS町
の連中とは仲が悪かった。よく相手をつかまえてきては、リンチを加えたり、反対につかまえら
れてはリンチを加えられたりした。しかし、そういう関係でも、学校という場で会うと、S町の連中
も、ただの仲間だった。仲がよかったということではなかったが、学校ではけんかをしなかっ
た。心のどこかで、一線を引いていたように思う。山は、山。学校は、学校と。

 そんなわけで、子どもの世界には、いつもボス、子分、取り巻きの関係が生まれる。これは人
間が動物である以上、避けられない宿命のようなものと考えてよい。(逆に、最近、そういう関
係をつくれない子どもたちがふえている。むしろそちらのほうが問題である。)そしてそういう関
係を通して、子どもたちは、ときにボスになったり、ときに子分になったりしたなが、社会の秩序
を学ぶ。最初からボスはいないし、またボスがいつまでもボスということにはならない。その関
係はいつも自分の置かれた立場で決まる。

●Mさんの質問に答えて……
 そこで冒頭のMさんからの相談を考えてみる。Mさんは、「親として、どこまで介入したらよい
でしょうか」と悩んでいる。おそらくMさんは、自分の子どもが子分になることで、たとえば心が
卑屈になったり、あるいはリーダー的な存在になれないのではないかと心配しているのだろう。
しかしこれはまったく無用の心配。子分は子分であることにより、同時にリーダーがどういうも
のかを学び、いつかその機会と場所があれば、そのリーダーになる。反対に、子分になったこ
ともないような子どもは、リーダーがどういうものかもわからないから、リーダーになることはな
い。親としてはつらいところかもしれないが、ここは、じっとがまんして様子をみるしかない。

 ただ子どもの世界では、いくつかの条件がある。いわゆる「いじめ」だが、ほとんどのいじめ
は問題がないとしても、中には、体の弱い子どもや、知恵の発達が遅れ気味の子どもが、ター
ゲットにされて、いじめられることがある。いわゆる「排除的ないじめ」である。こうしたいじめを
感じたら、すぐ先生に相談するのがよい。いつも先生の目の届くところに子どもを置いて、保護
してもらう必要がある。こういうケースでは、限界を超えて、子どもを自信喪失にしてしまうこと
が多い。が、そうでなければ、つまり子どもどうしの関係と割り切ることができるようなら、仮に
泣かされて帰ってくるようなことがあっても、親は、それをなぐさめる程度でとどめる。こうした経
験をとおして、子どもは、たくましく成長していく。一つの目安としては、子ども自身が、どう思っ
ているかを聞いてみるとよい。

(1)それでも双子の兄弟(Mさんのケース)と一緒に遊びたがる。
(2)双子の兄弟と遊ぶことを、それほど苦にしていないようだ。
(3)とりたてて自信喪失になっているとか、いじけるということはないようだ。

 ということであれば、子どもに任すところは任せて、様子をみる。たしかに子どもは外の世界
でキズだらけになりながら家へ帰ってくるかもしれないが、親ができることといえば、せいぜい
そのキズついた心を休める「温かい家庭」を用意してあげることでしかない。親としてつらいとこ
ろだが、しかしそのつらさに耐えれば耐えるほど、子どもはたくましく成長していく。
(02−10−4)

(補足)
 ここにも書いたが、最近は、こうした主従関係がつくれない子どもがふえている。たとえば砂
場で遊んでいても、みなが、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものとき
には、考えられなかった光景である。
 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

 また自分の子どもが子分になったからといって、そのままどこへいっても、子分ということはあ
りえない。子どもは最初は、子分になることによって、別のところで、今度はリーダーになる心
構えを学ぶ。いいかえると、子分になったことがない子どもは、リーダーにはなれない。このこ
とはおとなの世界を見ればわかる。どんなリーダーでも、もとはだれかの子分だったはずであ
る。会社の社長にしても、政治家にしても、すべてである。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


許して忘れる

 私たちは、どこまで人を許し、そして忘れるべきなのか。

 許すというのは、(フォ・ギブ)、与えるためとも訳せる。忘れるというのは、(フォ・ゲッツ)、得
るためとも訳せる。つまり許して忘れるは、「人に愛を与えるために許し、人から愛を得るため
に忘れる」となる。総じて見れば、人の関係は、(許す人、許される人)の関係で成り立ってい
る。たとえばあなたには、許してもらいたい人がいる。許してもらえたら、どんなに気が楽になる
ことか。一方、あなたには許すことができる人がいる。許してあげれば、どんなにその人は喜
ぶことか。

 しかし問題は。どこまで人を許し、そして忘れるか、だ。卑俗な言い方をすれば、『仏の顔も三
度』という。『地蔵の顔も三度』ともいう。たがいに三度くらいなら、許したり、忘れたりすることが
できる。しかし四度目となると、そうはいかない。またその必要はあるのか。

 こうして考えていくと、自分にある種の限界があるのがわかる。「そこまではできるが、そこか
ら先はできない」という限界である。私は実のところ、人と接するとき、いつもその限界で迷う。
苦しむというほど、おおげさなものではないが、しかし迷う。「許して忘れてあげようか」と思いつ
つ、「どうして私がそこまでしなければならないのか」というように迷う。私はもともとお人好しタイ
プの人間だから、何でも頼まれれば、本気でしてしまう。ときにはしすぎることもある。どこかで
ブレーキをかけないと、自分のための時間がなくなってしまう。今でこそ、ワイフもあきらめて言
わなくなったが、少し前まで、いつもこう言っていた。「人の心配もいいけど、来月の家計も心配
してよ」と。

 この原稿を書いている今も、同じような問題をかかえている。その母親(三四歳)はたいへん
情緒が不安定な人で、何かを相談してきては、そのついでに、無理なことを言っては、私を困
らせる。そこで私がやんわりと断ったりすると、最後はどういうわけだか、興奮状態になってし
まう。そしていつも何らかの罵声をあびせかけて、電話を切る。が、数日もすると、また電話を
かけてきて、「先日はすみませんでした」と。

 こういうことが、二度、三度と重なると、電話に出るのも、おっくうになる。その母親が私に電
話をかけてくるのは、私に何かの救いを求めているからだ。混乱する精神状態を鎮(しず)め
たいからだ。それはわかる。しかしどうして、この私が、他人であるその母親に、何も悪いこと
をしていないのに、怒鳴られなければならないのか。ワイフは割と合理的に考える女性だか
ら、「放っておきなさいよ」「無視すればいいのよ」「相手にしなければいいのよ」と言うが、私に
はそれができない。クールに生きるということは、それだけで私にとっては、敗北でしかない。

 「修行」という言葉がある。宗派によっては、何時間も読経をしたり、過酷な行をして、心身を
鍛えるところもあるそうだ。私自身は若いころ、好奇心からオーストラリアの友人と、一週間ほ
ど、禅の道場に通ったことがある。が、どうも自分の体質に合わなかった。瞑想(めいそう)に
ふけるということだったが、つぎからつぎへと、卑猥(ひわい)なことばかりが頭に浮かんでき
て、とても瞑想などできなかった。しかし本当の修行は、こうして生きていく、日々の生活の中
で、ごく日常的になされるものである。無理をして自分の心や体を痛めつけたところで、それに
どれほどの意味があるというのか。

 もし私がその母親を、この段階で、許して忘れることができるなら、私はつぎのステップの、つ
まりはさらに高い(?)境地に達することができるかもしれない。それもわかっている。しかしや
はりブレーキが働いてしまう。心のどこかで、「ヒロシ、神や仏のまねごとをして、それがどうな
のか」と、だれかが言っているようにも聞こえる。だから迷う。私はその母親を許して忘れるべ
きなのか、と。その母親は明らかに心の病にかかっている。本来なら私のところではなく、どこ
か心の病院へ行ったほうがよいと思うのだが……。

 あああ、何とも重苦しい気持ちになってきた。ため息ばかりでる。このあたりで気分を転換し
なければならない。これから本屋へでも行って、パソコンの本をながめてくるつもり。もうこの母
親のことは、考えない。考えたくない。……あああ、だから私は凡人なのだ。いつまでたっても、
凡人なのだ。
(02−10−4)※
   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(148)

尊敬

 「尊敬」という言葉ほど、意味もわからず、安易に使われている言葉はない。あるいはあなた
は「尊敬」という言葉の意味をどのように考えているだろうか。たとえば「あなたは、あなたの父
親を尊敬していますか?」と聞かれたら、あなたは父親のどの部分を、どのようにみて、その質
問に答えるだろうか。

 英語では、少し変わった使い方をする。たとえば日本で、「立派な人」と言いそうなとき、「尊
敬される人(respected man)」という。日本で「立派な人」というときは、名誉や地位のある人を
いう。しかし英語で、「尊敬される人」というときには、名誉や地位はほとんど関係ない。あくまで
も人物本位という考え方が強い。

 また英語国でよく聞かれる表現に、「私は息子を自慢している(I am proud of my son.)」とい
う言い方がある。日本では、へりくだって、「愚息」と言いそうなときでも、「自慢の息子です」な
どとも言う。そういう言い方になれていない日本人は、そう言われると戸惑ってしまう。日本と英
語国とでは、ものの考え方が、基本的な部分で違う。

 さて、「尊敬」。あえて定義するなら、つぎのようになる。つまり「その人の言うことや、すること
を、全幅に信頼している状態を、尊敬という」と。その人をどう思うかは、あくまでもその結果で
しかない。こんなことがある。

 T氏という、今年八五歳になる男性がいる。戦時中は軍医として、中国本土で、隼(はやぶさ)
航空隊に所属していた。帰国後は、浜松市の郊外で、内科医院を開業し、現在に至っている。
そのT氏は、実に温厚で、誠実な人である。その人とのやりとりは、縁あって、毎週のようにつ
づいているが、私は、どういうわけだか、そのT氏の言うことだけは、すなおな気持ちで聞ける。
安心感があるというか、何を言われても、よいほうに、解釈できる。そういう状態を、「尊敬」と
いうのなら、まさに私はそのT氏を尊敬していることになる。

 一方、子どものときから、私はよく、「あなたは両親を尊敬しているか」と聞かれた。一番よく
覚えているのは、大学生のときの就職試験である。どこへ行っても、まずこのことを聞かれた。
で、私のほうは、結構要領がよかったから、そういうとき、どのように答えればよいか、よく知っ
ていた。私はいつも声高らかに、「尊敬しています」と答えていた。しかし実のところ、私は父親
も、母親も、尊敬などしていなかった。

 ところで話は少しそれるが、いわゆるマザコンタイプの男性は、自分のマザコン性を正当化
するために、父親や母親(とくに母親)を、美化する傾向が強い。そしてだれかが父親や母親
の悪口を言ったりすると、妙な忠誠心を発揮して、それに猛烈に反発したりする。ある意味で、
宗教的ですらある。先日も私に、「私がみな悪いのです。親父には責任がありません」と、父親
を必要以上にかばっている男性(五一歳)がいた。もっともこのタイプの人は、そうであることが
善であるという価値観をしっかりともっているから、自分がマザコン的(あるいはファザコン
的?)であることに気づくことはない。

 この日本では、「父親や母親を尊敬していません」などと言うことは、それ自体、勇気がいるこ
とである。「日本人としてありえない」というふうに考えられる。とくに私のように教育評論をして
いるものが、そういうことを言うのは許されない。だから私は私なりに、自分をつくり、自分を飾
ってきた。しかしこのところ、そういう自分がいやになった。とくに自分の心を偽るのがいやにな
った。だからあえて私は言う「私は私の父親や母親を尊敬していない」。理由は無数にあるが、
その理由など書いても意味がない。

 ただ「尊敬していない」ということは、「軽蔑している」ということにはならない。「尊敬できない」
というだけのことであり、それをのぞけば、私のばあいも、ごくふつうの、あるふれた親子関係
であった。さらにあえて言うなら、一人の人間が生きていく過程で、尊敬できる人に出会えるこ
となど、ほとんどない。人を尊敬するというのは、それくらいむずかしいことであり、そのため尊
敬する人に出会うということは、さらにむずかしい。もともと「尊敬」などという言葉は、そこらの
高校生や大学生が、安易に使う言葉ではない。人を尊敬するためには、こちら側にも、相手の
崇高さを理解するだけの素養がなければならない。たとえば暴走族の男が、「オレは、仲間の
Dを、尊敬してるよな」と言っても、所詮、そのレベルの話でしかない。

 そこでさらに問題を先に進めてみよう。あなたは「親」だから、当然、子どもがどう思っている
か気になるだろう。しかしここで大切なことは、あなたの子どもがあなたに対して、どう思ってい
ても、それに干渉することはできないということ。仮にあなたを尊敬していなくても、あなたはそ
れについて、とやかく言うことはできない。いわんや、「私を尊敬しなさい」などと、子どもにそれ
を強要してはいけない。そこでさらに話を先に進める。

 人を尊敬することはむずかしいことだが、それ以上に、自分が尊敬される人間になることは
むずかしい。いわんや子どもに尊敬される親になるのは、さらにさらにむずかしい。他人なら自
分のよい面だけを見せながら、自分を飾ることもできるが、親子ではそれもできない。子どもは
子どもで、あるがままのあなたを見る。が、意外と簡単なのが、自分の子どもを尊敬すること。
私は三人の息子たちに尊敬されていない。それはよくわかる。しかしどういうわけだか、私は三
人の息子たちを尊敬している。

 長男は、就職が決まらなかったころ、工事現場の旗振りをしていた。二男は、高校一年生に
なったとき、体力の弱い仲間を助けるため、毎日学校から帰ってくると、その仲間のために、
伴走をしていた。また三男は、高校三年のはじめにEランク(学校でもビリ)の成績だったが、
たった一年間で、東大へ楽に入れるだけの学力を身につけてしまった。どれも私ができなかっ
たことばかりだ。息子たちがそれぞれの立場で私を超えたことを知ったときから、私は息子た
ちを「子ども」とか「息子」というよりは、一人の人間として見るようになった。少なくとも、それ以
後は、頭ごなしにものを言えなくなってしまった。反対に何か意見を言われたりすると、私は無
理なく、「そうだね」と言うことができる。息子たちの言うことやすることを、全幅に信頼し、すな
おな気持ちで受け入れることができる。

イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜
一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、
必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちの
みが、家族の真の喜びを与えられる」と。改めてこの言葉のもつ意味を、考えなおしてみたい・
(03−10−3)

(注意)『青少年白書』でも、「父親を尊敬していない」と答えた中高校生は、五五%もいる。「父
親のようになりたくない」と答えた中高校生は、八〇%弱もいる(平成十年)。母親についても、
ほぼ同様。

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子育て随筆byはやし浩司(150)

若い母親の死

 Nさん(三五歳、母親)が、こう言った。「先日、私の友だちが死にました」と。話を聞くと、その
死んだ人というのは、まだ三五歳だったという。「悪い病気でしたか?」と聞くと、「そう……」と、
ポツリ。力のない声だった。

 私は私より若い人が死んだ話を聞くと、その年齢のときに、自分は何をしていたかを考える。
そしてそのときの自分を思い出しながら、「私のときは……」と考える。たとえば三五歳といえ
ば、私のばあい、収入が激減して、今の仕事をやめようかどうか迷っていたときである。仕事
そのものに、行きづまりを覚えていた。いくら自分の意見を述べたところで、だれも私を相手に
してくれなかった。

 率直に言えば、さぞかしつらかっただろうと思う。三五歳という年齢は、本来なら、死とは無縁
の年齢である。夫もいる。子どももいる。その子どもも、まだ小さい。その母親の両親も、もしま
だ生きているなら、さぞかし悲しんでいることだろう。話を聞くと、上の子が、まだ小学三年生だ
という。残された夫や子どもは、今、どんな思いでいるのか?

 私は三五歳のとき、懸命に生きていたか。しかし今、思い出だそうとしても、どこか暗いモヤ
に包まれていて、はっきりしない。私がそこにいるようだが、それがどうしてもつかめない。当時
の私は、毎日、お金のことばかり考えていた。出世欲も名誉欲もあった。議論する相手がいる
と、容赦なく議論をふっかけていった。ワイフも含めて、子どもたちの心を静かに思いやるとい
う姿勢にも欠けていた。が、どうしても「私」を思い出せない。

 だいたいにおいて、そういう若い人に、死があること自体、おかしい。どうしてそういう若い人
が、死という過酷すぎるほどの苦しみを味わわなければならないのか。ふつうの苦しみではな
い。ないことは、ほんの少しだけその人の気持ちになってみればわかる。あるいはその人の立
場に置いてみればわかる。

 人間には「後悔」という言葉がある。その後悔にはいろいろな後悔があるが、その中でも、自
分の時間をムダにしたという後悔ほど、胸をしめつけるものはない。お金やモノも、不用意に失
えば後悔するが、しかし時間の比ではない。しかもその後悔の念は、年齢とともに大きくなる。
しかし三五歳くらいのときの私は、まだそれに気づいていなかった。今、あのころの私を思い出
しても、「私」がいないのは、そのためなのか?

 Nさんはこうつづけた。「その人は、健康には人一倍、気をつかっていた人でした。だから余
計に、ショックです」と。そのショックは、そのまま私に伝わってきた。その母親の死が、そのま
ま私の明日の姿のように感じたからだ。いや、他人の死と、自分の死を区別するほうが、おか
しい。それがだれの死であれ、それはそのまま私たちの死なのだ。

 私は今、健康だ。これといって持病もない。成人病とも無縁だ。健康にも気をつかっている。
しかし死などいうのは、そういう私とは無関係にやってくる。そしていつかすぐ、私を襲う。ここに
も書いたように、それは明日かもしれない。来月かもしれない。来年かもしれない。しかしいつ
か、必ずやってくる。ただそのとき願わくば、ここに書いたような後悔だけはしたくない。「私は
私であったのか」と、そんなふうに迷いたくもない。……と思う。

 去り際、Nさんは、「私も死ぬかもしれません」と笑っていた。「つぎは私です」とも。Nさんは、
本当に美しい人だ。静かに座っているだけで、そのあたりを明るくする。私は思わず「ビジンハ
クメイ……」と言いそうになったが、やめた。もし本当にそういうことになったら、多分、私はそ
のショックに耐えられないだろう。Nさんは、私にとっては、とても大切な人だ。で、そのかわり
に、私はこう言った。「Nさん、あなたはだいじょうぶですよ。一緒に長生きをしましょう」と。Nさ
んは、にっこりと笑った。
(02−10−4)

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子育て随筆byはやし浩司(152)

杉原千畝副領事のビザ発給事件を考える 

●杉原千畝副領事のビザ発給事件 
 「一九四〇年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫
害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人六〇〇〇人に対して、ビザ(査証)を発給し
た。これに対して一九八五年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられ
る勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行二〇世紀
デザイン切手第九集より)。

●たたえること自体、偽善
 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、一一〇〇万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュ
ビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約四〇〇万人ものユダ
ヤ人が虐殺されたとされる。杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起き
たものだが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。郵政省発行の記念切
手にもなったことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっ
ては偽善そのものと言ってよい。

●杉原副領事のしたことは、越権行為?
 当時日本とドイツは、日独防共協定(一九三六年)、日独伊防共協定(三七年)を結んだあ
と、日独伊三国同盟(四〇年)まで結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原副領事
のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定
違反の疑いすらある。杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がし
たことはまちがっていると言うに等しい。その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今
になって杉原副領事を善人としてたたえるのは、まさに偽善。いやこう書くからといって、私は
杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。問題は、その先と言ったらとよい
のか、その中味である。

当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっても、その体質はほとんど
変わっていない。どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及し
たというのであれば、話はわかる。そうした事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為を
たたえるというのは、「今の日本人と戦争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくら
い、おかしなことなのだ。

●日本はだいじょうぶか?
 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、一〇〇万単位の外国人不法入
国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日
本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口
の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし
始めたとしよう。もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼
らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払
わないとする。そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のこととして
考えてみてほしい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったころ
のドイツは、まさにそういう状況だった。

つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったということ。ゲーテやシラー、さらにベート
ーベンを生んだドイツが、だ。この日本が狂わないという保証はどこにもない。現に二〇〇〇
年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。そして具体的に自
衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(二〇〇〇年九月)。石原都知事のような日
本を代表する文化人ですら、そうなのだ。

●「日本の発展はこれ以上望めない」
 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日
本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。そしてそれを受け
てその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣
言した。日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果
論。チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、「私た
ち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いませんよ」と言っているのに等しい。

多くの経済学者は、二〇一五年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測してい
る。そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。そういうことも考
えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の発言を考える必
要があるのではないだろうか。
(02−10−4転載)※

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆02-10-14-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /      ありがとうございます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 478人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−10−14号(124)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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今日のテーマ、「人生の密度」(Let's live our lives twice as more…)

【1】あなたの子育て、だいじょうぶ?(Let's think) 
【2】人生の密度を二倍にすることができたら……(Let's live our lives twice as more…)
【3】子育て雑感(How to cope with Kids) 
【4】随筆(Essays)
  ///////
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  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||
  /_/
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
あなたの子育てをチェックしてみましょう!
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神経質 Q 毎日外出から帰ってきたら、手洗いと、うがいをすることになっています。しかしこ
のところ、あなたの子どもは、それを守らなくなりました。 (1) 一応、いろいろなハウスルー
ルはあるものの、それほどしっかりと守らせていない。 (2) とくに健康に関するルールは、例
外なく、きびしく守らせるようにしている。 (3) そのつど臨機応変にすればよい。家庭の役割
は、心と体を休めることと考えている。 +++++++++++++++++ A 子育て
は『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなもの。この
遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。子育ての基本は、子どもを自立させること。
そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはもともと、「自らに由る」という意味。つまり子ど
もには、(1)自分で考えさせ、(2)自分で行動させ、(3)自分で責任を取らせる。過干渉や過
関心は、子どもから考えるという習慣を奪う。過保護は自分で行動するという力を奪う。また溺
愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の子ども(中三男子)が万引きをして補導されたときの
こと。夜中の間にあちこちを回り、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。「内申書に
書かれると、進学にさしさわりがある」というのが、その理由だった。 
 とくに子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」
へと変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あ
まりこまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの
上に座るよりも、気がねせず、カボチャの頭に座るほうがよい』と書いている。ここで(2)を選ん
だ人は、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。(正解(1)(3)) +++++++++
+++++++++++++++++++++++++++++++
 自己中心性 Q あなたは今まで、子どもにおけいこごとをさせるようなとき、どのようにして決
めてきましたか。 (1) そのつど子どもの心を最大限尊重し、子どもに相談しながら決めてき
た。 (2) 子どものことは私が一番よく知っているので、私が親として決めてきた。 (3) 子ど
もにはそれだけの知識も経験もないので、やはり判断するのは親だと思う。 
++++++++++++++++++++++++ A 自己中心性の強い親は、「私
が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしまう。もともとはわがままな性格のも
ち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。このタイプの親は、思い込みであるにせ
よ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子どもに押しつけようとする。本屋へ行っても、子ど
もに「好きな本を買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「それはダ
メ、こちらの本にしなさい」と、勝手に変えたりする。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話
にも耳を傾けない。 
 そこでここで(2)(3)を選んだ人は、子育てそのものが、どこか常識とかけはなれていないか
を疑ってみる。子育てというのは、理屈どおりにはいかない。子どもは設計図どおりにはいかな
い。あるいはあなたの思いどおりにはいかない。そういう前提で、子育てのあり方全体を考えな
おす。 
 親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向かってどん
どんと積極的に伸びていく親。もうひとつは自分の世界の中だけで、さらにものの考え方を先
鋭化する親。自分の世界に閉じこもればこもるほど、風通しが悪くなり、自分の姿を見失う。そ
してその見失った分だけ、子どもの心を見失い、それがやがて親子を断絶させる。(正解
(1)) ++++++++++++++++++++++++++++++++++++
++++
 バランンス感覚 Q 「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」と子どもに聞いたと
き。あなたの子どもは…… (1) 「けんかする」とか、「ぶん殴ってやる」とか、ものごとを短絡
的に考える傾向が強い。 (2) 深く考える様子を見せ、「それは悪いことだ」というような意見を
自分で考える。 (3) ものごとをまじめに考えようとせず、茶化したり、ふざけたりする。 
+++++++++++++++++++++++++++++
 A 強圧的な過干渉(親がガミガミと命令したり、自分の考えを押しつける)が日常化すると、
子どもからバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を冷静に考えて、
その考えに従って自分の意見を述べたり、行動する力のことをいう。そのため言動がどこか常
識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(年長男児)や、
友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)がいた。さら
に「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私は結婚し
て、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。 
 よく誤解されるが、情報量が多いからといって、頭のよい子どもということにはならない。たと
えば掛け算の九九をペラペラと言ったからといって、算数のよくできる子どもということにはなら
ない。頭のよさは、思考力の深さとハバによって決まる。パスカルもパンセの中で、『思考が人
間の偉大さをなす』と書いている。 
 その考える子どもにするには、子ども自身に考える場所と時間をたっぷりと与え、考えたこと
を積極的に高く評価する。「それはいい考えだ」とほめて伸ばす。(正解(2)) (1430) 

 ((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
もし、あなたが自分の人生の密度を二倍にすることができたら、
あなた自分の寿命を二倍に延ばすことができる……
++++++++++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(155)

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生
 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをして
いると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか
 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇
〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある
日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢
で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。
私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっ
ては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。

(追記)
 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生き
ることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生
と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができ
る。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死
すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはない
ということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(156) 

密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の
老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事に行くが、いま
だかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェ
ンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人にな
っても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値に
しかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができ
る。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の
長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、七〇歳や八
〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その
「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつ
も一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが
繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先
へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
童心に返るということは、
悪いことではない。さあ、
あなたも、勇気を出して、
童心にかえり、子どもた
ちに心を洗ってもらおう!
++++++++++++

子どもたちに心を洗ってもらおう!

 その男(五二歳)には、過去がなかった。専門誌に記事を書いたり、講演もしていたが、決し
て、自分の経歴を書いたことも、話したこともない。詳しくは書けないが、一五年ほど前、新聞
に載るような大事件を起こしたことがある。どうもそれがその理由らしい。

 が、その男は、結構、その町の名士として名が通っている。どこでどう化けたのかは知らない
が、先日は地元のラジオ番組で、自分の趣味について語っていた。(もちろんペンネームで、だ
が。)しかしその男、決して他人には心を許さない。柔和で穏やかな表情はしていたが、どこか
演技風。いくら話しても、つかみどころがなかった。が、私が話したいのはこのことではない。

 人も、五〇年、六〇年と生きてくると、心に無数のシミがつく。それは当然だが、そのシミが、
やがてその人の心を曇らせる。五〇歳や、六〇歳になって、明るくすなおな人でいるほうがお
かしいのかもしれない。が、やはり、人は、明るくすなおなほうがよい。そこで登場するのが、童
心である。

 私は幸運にも、毎日のように、幼稚園の年中児から小学六年生までの子どもに接している。
こういう世界で三〇年以上も生きていると、ものの考え方が子ども的というか、反対におとなに
なりきれないままになってしまう。しかし誤解しないでほしい。「子ども的」ということは、悪いこと
ではない。それ自体すばらしいことなのである。私の座右には、ワーズワース(イギリスの詩
人・一七七〇〜一八五〇)の詩が飾ってある。こんな詩だ。

子どもは人の父 

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 私たちはおとなになるにつれて、知識や経験は豊富になるが、その一方で、もっと大切なも
のをなくしていく。それが童心である。そのよい例が、冒頭に書いた男である。ときどき話す機
会があったが、いつも後味が悪い。人の心を盗み見するというか、何かを私が話すたびに、私
の心の裏をみる。もし彼に欠けるものは何かと聞かれれば、私は迷わず、童心をあげる。それ
はちょうど無数のシミが、皮膚(ひふ)にたまったアカのように心をおおい、その心を見えなくし
てしまっている。

 おとなになるということは、決して童心を捨てることではない。むしろその人がすばらしいおと
なになれるかどうかは、どれだけ童心をもちつづけているかで決まる。こんなことがあった。

ある日のこと。A君(年長児)が、何を思ったか、絵を描いているとき、「ぼく、Bちゃん(年長女
児)が好きだよ」と言った。すると少し離れたところにいたBちゃんが、これまた何を思ったか、
こう言った。「私、林先生のほうが好き!」と。少し気まずい雰囲気になった。で、私がA君のほ
うを見ると、何とそのA君が、スーッと涙を流しているではないか。そこで私が「君は、失恋をし
たんだね」と声をかけると、A君は、こう言った。「シ・ツ・レ・ンって何?」と。

子どもはたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、私たちおとなとかわらない。かわらない
ばかりか、おとなたちよりはるかに純粋で、その心は美しい。好奇心も旺盛。その上、生きるこ
とにいつも感動している。心の充実度そのものが、違う。私たちが感ずる一分と、子どもたちが
感ずる一分は、長さそのものが違う。子どもは決して「幼稚」ではない。そういう童心をいかにも
ちつづけるかで、その人の価値が決まるといっても、過言ではない。ワーズワースが、『願わく
ば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい』と言った背景には、ワーズワース自身のそうい
う気持ちが隠されている。

 さて冒頭の男だが、そのあと、うわさを聞けば聞くほど、すべてがインチキだということがわか
った。まず学歴。私にもいつか、S大学商学部の出身と言ったことがあるが、S大学の同窓会
名簿には、彼の名前はなかった。雑誌に載せていた原稿も、図書館で集めた情報を切り張り
して書いたような原稿ばかり。何かの理由で自分では、支払いの決済ができなかったのだろ
う。すでに結婚して姓を変えた長女の名前を使って、それをしていた、などなど。一度は預金詐
取事件の被疑者として、警察の取調べを受けたこともあるという。そうした濁った過去が、彼の
心を曇らせていた。

 さてあなたも、一度、子どもたちの世界に飛び込んでみては、どうだろうか。子どもと一緒に、
テレビゲームやミニモニの話をしてみたらよい。子どもと一緒に、サッカーをしたり、ままごとを
してみたらよい。そしてここが大切だが、そうすることで、子どもたちに心を洗ってもらう。汚れ
たシミを、子どもたちに洗ってもらう。それは決して恥ずべきことではない。実は、すばらしいこ
となのだ。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

いつも同じようなパターンで
子育てがギクシャクしてしまう
あなたへ
+++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(160)

子育ての再現性

 親は子どもをもつと、無意識のうちにも、自分の子ども時代を再現しようとする。たとえば自
分がペットを飼っていた親は、無意識のうちにも、子どもにペットを飼わせたりする。親に抱い
てもらい、本を読んでもらったことがある親は、自分が親になったとき、子どもにそれをする。こ
れを、「子育ての再現性」と、私は呼んでいる。

 この「子育ての再現性」には、二つの意味がある。一つは、プラスの再現性。もう一つは、マ
イナスの再現性。

 プラスの再現性というのは、ここにあげたように、何かよい思い出が心の中にしみこんでい
て、それを自分の子育ての中で反映させる再現性。たとえば自分が子ども時代、ディズニーラ
ンドへ行って、楽しかったという思いがあると、親は自分の子どもにも、そういう経験をさせてみ
たいと思う。

 マイナスの再現性というのは、自分にとって、いやな過去やいやな思い出を再現してしまうこ
と。たとえば自分が受験生のとき、いやな思いをしたことがある親は、自分の子どもが受験期
を迎えると、そのいやな気分をそこで再現してしまう。あるいは自分が親に虐待された経験が
あると、自分が親になったとき、自分自身への自己嫌悪から、自分の子どもに対して、暴力を
振るったりしてしまう。

 もちろんプラスの再現性は問題ない。問題なのは、マイナスの再現性である。もしあなたが子
育てをしているとき、いつも同じパターンで、同じような失敗をするというのであれば、一度、こ
のマイナスの再現性を疑ってみたらよい。何かあるはずである。それに気がつけば、あなたは
マイナスの再現性から自分を解放することができる。気がつかなければ、いつまでも同じ失敗
を繰りかえす。どちらがよいかは、もう言うまでもない。

 人間の行動は一見複雑に見えるが、その実、単純なメカニズムで動いている。子育てもそう
で、いちいち考えながら子育てをしている人は少ない。ほとんどの親は、無意識のまま、自分
が受けた子育てを再現しているだけ。それに気がつくと、あなたは自分の子育てを、より正確
に、より客観的に見ることができる。一度、試してみてほしい。
(02−10−7)
 

   ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃
  /∠_mm_/\ /‥ │
 /        ●∞ │
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司
最近書いたエッセーをいくつか
お届けします。
+++++++++++++

よい人・いやな人

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで
覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、
もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになって
おけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ六〇歳です」と言っていた
が、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どう
いうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間
だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あな
たを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんも
あなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているな
ら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い
時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講
演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分
でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、
それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば三〇分ほどの
時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかし
てつきあうこともできる。が、半年、一年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心は
カガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。もしあなたがB先
生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを介して、あなたのこ
とを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果が、よりよい人間関
係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくな
い」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすば
らしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの
子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくり
なおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からで
も遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」
「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、
それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようにな
ったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、
よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもってい
る「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ご
しやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉
の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心
はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさ
んのようにはなれない。私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩
司って、こんな程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわか
る。過去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早
く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはない
だろうと思う。私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づか
なかった。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(158)

こんな事件

 ビデオのレンタルショップの前でのこと。一台の車が、通路をふさぐように駐車してあった。そ
の横の駐車場には、まだ空いているところがたくさんある。ほかの車が通れない。そこで私は
そのときふと、つまりそれほど深く考えないで、ワイフにこう言った。「あんなところに、車を止め
ているバカがいる」と。ワイフがその方向を見たその瞬間、ななめうしろに立っていた女性(五
〇歳くらい)が、私たちをものすごい目つきでにらみながら、その車のほうに走っていった。そこ
に車を止めていたのは、その女性だった。

 私は瞬間、なぜ私たちがにらまれるのか、その理由がわからなかった。しかし再度、にらま
れたとき、理由がわかった。わかったとたん、何とも言えない気まずさが心をふさいだ。まさか
私たちのうしろに立っていた人が、その人だったとは! 私はたしかに、「バカ」という言葉を使
った。……使ってしまった。

 口は災(わざわ)いのもととは、よくいう。私はその女性とはショップの中で、できるだけ顔を合
わせないようにしていた。が、それでも数度、視線が合ってしまった。いやな気分だった。その
女性は、駐車場でないところに車を止めた。それはささいなことだが、ルール違反はルール違
反だ。しかしそれと同じくらい、「バカ」という言葉を使った、私も悪い。それはちょうど、泥棒に
入ったコソ泥を、棒でたたいてケガをさせたようなものだ。相手が悪いからといって、こちらが
何をしてもよいというわけではない。私にしてみれば、私の「地」が、思わず出てしまったという
ことになる。

 私はもともと、生まれも育ちも、よくない。子どものころは、喧嘩(けんか)ばかりしていた。か
なりの問題児だったようだ。いつも通知表に、「落ち着きがない」と書かれていた。それもその
はず。私が生まれ育った家庭は、「家庭」としての機能を果たしていなかった。私がここでいう
「地」というのは、そういう素性をいう。

 で、こういう状態になると、ゆっくりとビデオを選ぶという気分には、とてもなれない。早くその
場を離れたかった。そういう思いはあったが、ではなぜ私が「バカ」という言葉を使ったか、それ
には理由がある。弁解がましく聞こえるかもしれないが、まあ、話だけは聞いてほしい。

 今、この地球は、たいへんな危機的状況にある。あと一〇〇年で、地球の平均気温は、三〜
四度ほどあがるという。まだ零点何度かあがっただけで、この地球上では、無数の異変が起き
ている。こういう異変を見ただけでも、三〜四度あがるということがどういうことだか、わかるは
ず。しかし、だ。その一〇〇年で、気温上昇が止まるわけではない。つぎの一〇〇年では、も
っとあがる。このまま上昇しつづければ、二〇〇年後には、一〇度、二〇度と上昇するかもし
れない。そうなればなったで、人類どころか、あらゆる生物は死滅する。

 で、こうした異変がなぜ起き始めたかだが、私は、その責任は、それぞれの人すべてにある
と思う。必要なことを、必要な範囲でしていて、それで地球の気温があがるというのであれば、
これはやむをえない。まだ救われる。しかし人間自身の愚かさが原因だとするなら、悔やんで
も悔やみきれない。

●小型ジーゼル車のマフラーを改造して、燃費をよくする人がいる。そういう人の車は、モクモ
クと黒煙をあげて走る。私はそのたびに、ハンカチで口を押さえて、自転車をこぐ。

●信号が赤になっても、しかも一呼吸おいたあと、その信号を無視して、走り抜けようとする人
がいる。私も先日、あやうくそういう車にはねられそうになった。

●私の家の塀の内側は、かっこうのゴミ捨て場になっている。ポリ袋、弁当の食べかす、タバコ
の空箱、ペットボトルなどが、いつも投げ込まれる。そのたびに、しなくてもよい掃除をする。

●小さな車やバイクだが、やはりマフラーを改造し、ものすごい音をたてて走る若者がいる。そ
ういう車やバイクが走りすぎるたびに、恐怖感を覚える、などなど。

 そういう無数の「ルール違反」が重なって、結局は、この地球の環境を破壊する。それもここ
に書いたように、生きるために必要なことをしていてそうなったのなら、まだ救われる。しかし人
間の愚かな行為が積み重なってそうなったとしたら、それはもう、弁解の余地はない。映画『フ
ォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親は、こう言っている。「バカなことをする人をバカと
いうのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 私は駐車場でもないところに平気で駐車している人は、そのバカな人ということになる。こうい
う人たちの「ルール違反」が、積もりに積もって、この地球の環境を破壊する。むすかしいこと
ではない。その破壊は、私たちの、ごく日常的な、何でもない行為から始まる。だから私は「バ
カ」という言葉を使ってしまった。心のどこかで、地球温暖化の問題と、その車が結びついてし
まったからだ。が、しかし、あまりよい言葉ではないこともたしかだ。これからは外の世界では
使わないようにする。もう少し賢い方法で、こうしたルール違反と戦いたい。


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

先の原稿に関して、以前、こんな原稿をかいた。
++++++++++++++++++++++

だれにも迷惑をかけないからいい!

子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ
 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理
 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理が
まかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!
 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まる
で違う。アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを
問題にしたら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外とい
うにふさわしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさ
げて歩いていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?
 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
日本は今、大恐慌の真っただ中!
しかしその実感がないところが
おかしい。このままでは本当に
日本は沈没してしまう!
++++++++++++++++

日本の経済→子ども→教育の三段跳び

●日本の経済を家計にたとえると……

銀行がかかえる不良債権が、一三〇〜一四〇兆円(経済誌)!
国がかかえる借金が、約七〇〇兆円!

日本の国家税収は、約五〇兆円しかない。しかし毎年、約八〇兆円ものお金を使い放題。差
額の約三〇兆円は、赤字国債を発行して補っている!

こうした数字を、家計にたとえてみると、こうなる。

年収五〇〇万円(月収四二万円)しかない人が、つくらなくてもいいような庭の改造費や、通路
の費用に、毎月収入の二〇〜二五%、つまり一〇万円もかけている。残りの三二万円が生活
費だ。しかしそれでは足りないから、毎月約二五万円を借金。その借金は雪ダルマ式にふえ
て、今では、七〇〇〇万円。(七〇〇〇万円だぞ!)しかもあちこちに貸したお金が、どうも返
ってきそうにない。その額が、一三〇〇〜一四〇〇万円! これも損金に加えると、借金は、
計八三〇〇〜八四〇〇万円になる。今は利息を限りなくゼロにしてもらっているからよいよう
なものの、もし金利が一%(たったの一%)になっただけで、毎月の利息だけで、毎月七万円。
二%になれば、一四万円。以前のような五%になれば、三五万円。それだけで家計はパンク
する!

もしあなたの家計がこういう状態になったら、あなたはどう思うだろうか。残された道は、ただひ
とつ。破産!

●ムダな工事
……私の山荘の下に、一日、数台しか車が通らないような山道がある。その山道沿いには、
一軒の廃屋と、石材屋の石材置き場があるだけ。そんな山道が今、改修工事に入っている。
長さが道路沿いに、約三〇〇メートル。高さが、五〜七メートル。道幅を広げるということで、も
う一方の谷川のほうも工事している。そちらのほうも高さがやはり五〜七メートル。見るからに
豪華なコンクリートのカベが、そのあたり一面をおおった。私のような素人が見ても、まったくム
ダな工事。やるところにこと欠いて、とうとうこんなところまで工事を始めた! あるいはお金の
使い道に困っている?

いや、こんなことばかりしているから、日本の経済はおかしくなる。なって当たり前。そりゃあ、
ないよりはあったほうがよいに決まっている。しかしこんな論理で、道路や空港やビルをつくっ
てばかりいたら、経済が破綻して当然。この静岡県でも、だれが望んだわけでもないのに、官
僚と業者が結託して、空港だの、第二東名だの、そんなものばかりつくっている。こういう人た
ちは、お金は天から降って、わいてくるものだと思っているらしい。

●ツケは結局は、子どもたちの世代に!
 こうした借金は、結局は、子どもたちの世代にバトンタッチされる。私たちの世代で返せるわ
けがない。仮に年収五〇〇万円のあなたが、八〇〇〇万円以上の借金をかかえたら、あなた
はどうする? ものごとは常識で考えたらよい。

 が、肝心のその子どもたちの数が減っている。その上、どうも質的に、年々、悪くなっている
らしい。学校から帰っても、テレビを見たり、ゲームをしたりしている。そのテレビも見る番組は
といえば、アニメとバラエティ番組ばかり。中学生や高校生になればなるほど、テレビやゲーム
をする時間がふえ、その分、本を読んだり、勉強する時間が少なくなっている。驚くなかれ、中
学生の約二〇%が、まだ掛け算の九九すら満足に使えない。高校生の約二〇%が、地図上
で、アメリカやロシアがどこにあるかさえ知らない。国立の大学院生(文科系)に小学校レベル
の分数の計算をさせたら、正解率は、たったの五九%だったそうだ(〇一年、国立文系大学院
生について調査、京都大学西村和雄氏)。わかりやすく言えば、一〇〇点満点中、たったの五
九点だったということ。

●お先、真っ暗!
 明るいか、暗いかといえば、日本の将来は、お先、真っ暗。しかもどうしてこうなったかという
ことにメスを入れないから、その改善策も浮かんでこない。みながみな、「明日があるさ」「何と
かなるさ」と、夢を見ているようなことばかり言っている。現実を見ようともしない。あるはその場
だけ、何とかしのげればよいと考えている。

教育にしても、日本の教育改革は、欧米にくらべて三〇年は遅れた。その中でも、とくにひどい
のは、大学教育。どうひどいかは、あなたが大学で学んだことがあるなら、よく知っているはず
だ。一〇年ほど前だが、中日新聞にこんな投書が載った。東京のT私立大学へ通う大学生み
ずからが投書したものだが、いわく、「講義には年数回(たったの数回!)出席しただけで、卒
業できた。試験は、すべて友人のノートを見て受けた。あとはバイトざんまい」と。それからも、
状態が悪くなったという話は聞くが、よくなったという話は聞かない。

しかし日本政府は、そういう大学にさえ、湯水のごとく補助金を注いでいる。いったいこういうし
くみの中でだれがもうけているのか。帝京大学医学部の不正寄付金問題(〇二年)など、あん
なのは、笑い話にもならない。

●教育の自由化を!
 話が、日本の国家経済→ムダな工事→日本の教育と、三段跳びに飛躍したが、ついでにも
う一つ、飛躍する。

 行政改革とか、構造改革とか言われているが、その「改革」が一番必要なのは、実は、教育
の世界である。たとえば大学教育を例にあげてみる。

 アメリカでは、大学でも、入学後の学部変更は自由。ふたつの学部で同時に勉強している学
生だっている。そして入学後も、大学の転籍は自由。公立、私立の区別はない。日本でいえ
ば、早稲田大学で二年間学んだあと、静岡大学へ転籍するということが、自由にできる。しか
もめんどうな手続きはいっさい、ない。寄付金だの入学金だの、わけのわからないお金を払う
必要もない。前の大学の成績が認められれば、それで、OK。

 そのため学科どころか、学部のスクラップ&ビルドさえ日常茶飯事。教える教授も必死なら、
学ぶ学生も必死である。日本でも七年間という、時限をつけて、「研究に成果が出なければク
ビ」という制度を採用するところもふえたが、基本的には終身雇用が原則。しかしそれこそ世界
の非常識。ノーベル賞をとるような教授ですら、講義の前に、二〜三度リハーサルをしてから
講義に臨んでいるそうだ(東大元教授談)。講義が終われば、教授の部屋の前には、質問の
ため、学生の列ができる!

 そしてこういうしくみが、今、国際間でもなされつつある。私が三五年前に学んだ、オーストラ
リアの大学でも、そのときですら、こうしたシステムは常識だった。さらに今では、一歩進んで、
ヨーロッパでは、大学教育は完全に共通化された。どの大学で、そのような単位を取っても、そ
れはどの大学でも通用するようになっている。

 日本人は、いまだに大本営発表しか聞いていないから、こういう事実があることさえ知らない
でいる。が、皮肉なことに、教育改革、教育改革といいながら、その一方で、ゆがんだ受験体
制にしがみついているのが、文部科学省ではないのか。学閥がなくなれば、一番困るのが、高
級官僚たちである。そしてそれが日本の教育の現状ではないのか。もしこの日本から、「大学
受験」がなくなれば、進学塾はおろか、日本の教育体制そのものが崩壊する。

 こうした現状を打開するためには、教育の自由化しかない。それについては、もうあちこちに
書いてきたので、ここでは省略する。

 とんでもない飛躍論に思う人がいるかもしれないが、そのルーツは、ひとつ。今のような官僚
主導型の政治や教育は、もう限界にきているということ。日本は今、ここで、真の民主主義国
家になるか、それとも旧態依然の官僚主義国家のままでいるのか、その大きな分かれ道にき
ているということ。もしこのまま官僚主義を貫けば、教育改革はできないし、ムダな金づかいは
終わらない。そしてそれが終わらなければ、やがて(あるいは明日にでも)日本の経済は破綻
する。行き着くところ、それが日本の近未来像かもしれないが……。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-14-1

お見苦しい点がありましたので、再送信します。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 478人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−10−14号(124)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
+++++++++++++++++++++++++++++
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「人生の密度」(Let's live our lives twice as more…)

【1】あなたの子育て、だいじょうぶ?(Let's think) 
【2】人生の密度を二倍にすることができたら……(Let's live our lives twice as more…)
【3】子育て雑感(How to cope with Kids) 
【4】随筆(Essays)
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  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ
  / / F| 彡 `─´ 
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
あなたの子育てをチェックしてみましょう!
++++++++++++++++++++


神経質 
Q 毎日外出から帰ってきたら、手洗いと、うがいをすることになっています。しかしこのところ、
あなたの子どもは、それを守らなくなりました。 
 (1) 一応、いろいろなハウスルールはあるものの、それほどしっかりと守らせていない。 (2)
 とくに健康に関するルールは、例外なく、きびしく守らせるようにしている。 (3) そのつど臨
機応変にすればよい。家庭の役割は、心と体を休めることと考えている。 

+++++++++++++++++ 
 A 子育ては『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のような
もの。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。子育ての基本は、子どもを自立さ
せること。そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはもともと、「自らに由る」という意味。
つまり子どもには、(1)自分で考えさせ、(2)自分で行動させ、(3)自分で責任を取らせる。過
干渉や過関心は、子どもから考えるという習慣を奪う。過保護は自分で行動するという力を奪
う。また溺愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の子ども(中三男子)が万引きをして補導さ
れたときのこと。夜中の間にあちこちを回り、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。
「内申書に書かれると、進学にさしさわりがある」というのが、その理由だった。 

 とくに子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」
へと変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あ
まりこまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの
上に座るよりも、気がねせず、カボチャの頭に座るほうがよい』と書いている。ここで(2)を選ん
だ人は、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。(正解(1)(3))  
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 
自己中心性 Q あなたは今まで、子どもにおけいこごとをさせるようなとき、どのようにして決
めてきましたか。 
 (1) そのつど子どもの心を最大限尊重し、子どもに相談しながら決めてきた。 (2) 子ども
のことは私が一番よく知っているので、私が親として決めてきた。 (3) 子どもにはそれだけの
知識も経験もないので、やはり判断するのは親だと思う。 

++++++++++++++++++++++++ 
 A 自己中心性の強い親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしま
う。もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。このタ
イプの親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子どもに押しつけ
ようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきながら、子ども
が何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手に変えたりする。子ども
の意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。 

 そこでここで(2)(3)を選んだ人は、子育てそのものが、どこか常識とかけはなれていないか
を疑ってみる。子育てというのは、理屈どおりにはいかない。子どもは設計図どおりにはいかな
い。あるいはあなたの思いどおりにはいかない。そういう前提で、子育てのあり方全体を考えな
おす。 

 親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向かってどん
どんと積極的に伸びていく親。もうひとつは自分の世界の中だけで、さらにものの考え方を先
鋭化する親。自分の世界に閉じこもればこもるほど、風通しが悪くなり、自分の姿を見失う。そ
してその見失った分だけ、子どもの心を見失い、それがやがて親子を断絶させる。(正解
(1)) 
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
++
 バランンス感覚 
 Q 「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」と子どもに聞いたとき。あなたの子ど
もは…… 
 (1) 「けんかする」とか、「ぶん殴ってやる」とか、ものごとを短絡的に考える傾向が強い。 
(2) 深く考える様子を見せ、「それは悪いことだ」というような意見を自分で考える。 (3) も
のごとをまじめに考えようとせず、茶化したり、ふざけたりする。 

+++++++++++++++++++++++++++++

 A 強圧的な過干渉(親がガミガミと命令したり、自分の考えを押しつける)が日常化すると、
子どもからバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を冷静に考えて、
その考えに従って自分の意見を述べたり、行動する力のことをいう。そのため言動がどこか常
識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(年長男児)や、
友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)がいた。さら
に「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私は結婚し
て、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。 

 よく誤解されるが、情報量が多いからといって、頭のよい子どもということにはならない。たと
えば掛け算の九九をペラペラと言ったからといって、算数のよくできる子どもということにはなら
ない。頭のよさは、思考力の深さとハバによって決まる。パスカルもパンセの中で、『思考が人
間の偉大さをなす』と書いている。 

 その考える子どもにするには、子ども自身に考える場所と時間をたっぷりと与え、考えたこと
を積極的に高く評価する。「それはいい考えだ」とほめて伸ばす。(正解(2)) (1430) 

 ((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
もし、あなたが自分の人生の密度を二倍にすることができたら、
あなた自分の寿命を二倍に延ばすことができる……
++++++++++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(155)

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生
 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをして
いると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか
 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇
〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある
日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢
で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。
私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっ
ては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。

(追記)
 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生き
ることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生
と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができ
る。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死
すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはない
ということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(156) 

密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の
老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事に行くが、いま
だかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェ
ンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人にな
っても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値に
しかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができ
る。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の
長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、七〇歳や八
〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その
「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつ
も一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが
繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先
へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
童心に返るということは、
悪いことではない。さあ、
あなたも、勇気を出して、
童心にかえり、子どもた
ちに心を洗ってもらおう!
++++++++++++

子どもたちに心を洗ってもらおう!

 その男(五二歳)には、過去がなかった。専門誌に記事を書いたり、講演もしていたが、決し
て、自分の経歴を書いたことも、話したこともない。詳しくは書けないが、一五年ほど前、新聞
に載るような大事件を起こしたことがある。どうもそれがその理由らしい。

 が、その男は、結構、その町の名士として名が通っている。どこでどう化けたのかは知らない
が、先日は地元のラジオ番組で、自分の趣味について語っていた。(もちろんペンネームで、だ
が。)しかしその男、決して他人には心を許さない。柔和で穏やかな表情はしていたが、どこか
演技風。いくら話しても、つかみどころがなかった。が、私が話したいのはこのことではない。

 人も、五〇年、六〇年と生きてくると、心に無数のシミがつく。それは当然だが、そのシミが、
やがてその人の心を曇らせる。五〇歳や、六〇歳になって、明るくすなおな人でいるほうがお
かしいのかもしれない。が、やはり、人は、明るくすなおなほうがよい。そこで登場するのが、童
心である。

 私は幸運にも、毎日のように、幼稚園の年中児から小学六年生までの子どもに接している。
こういう世界で三〇年以上も生きていると、ものの考え方が子ども的というか、反対におとなに
なりきれないままになってしまう。しかし誤解しないでほしい。「子ども的」ということは、悪いこと
ではない。それ自体すばらしいことなのである。私の座右には、ワーズワース(イギリスの詩
人・一七七〇〜一八五〇)の詩が飾ってある。こんな詩だ。

子どもは人の父 

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 私たちはおとなになるにつれて、知識や経験は豊富になるが、その一方で、もっと大切なも
のをなくしていく。それが童心である。そのよい例が、冒頭に書いた男である。ときどき話す機
会があったが、いつも後味が悪い。人の心を盗み見するというか、何かを私が話すたびに、私
の心の裏をみる。もし彼に欠けるものは何かと聞かれれば、私は迷わず、童心をあげる。それ
はちょうど無数のシミが、皮膚(ひふ)にたまったアカのように心をおおい、その心を見えなくし
てしまっている。

 おとなになるということは、決して童心を捨てることではない。むしろその人がすばらしいおと
なになれるかどうかは、どれだけ童心をもちつづけているかで決まる。こんなことがあった。

ある日のこと。A君(年長児)が、何を思ったか、絵を描いているとき、「ぼく、Bちゃん(年長女
児)が好きだよ」と言った。すると少し離れたところにいたBちゃんが、これまた何を思ったか、
こう言った。「私、林先生のほうが好き!」と。少し気まずい雰囲気になった。で、私がA君のほ
うを見ると、何とそのA君が、スーッと涙を流しているではないか。そこで私が「君は、失恋をし
たんだね」と声をかけると、A君は、こう言った。「シ・ツ・レ・ンって何?」と。

子どもはたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、私たちおとなとかわらない。かわらない
ばかりか、おとなたちよりはるかに純粋で、その心は美しい。好奇心も旺盛。その上、生きるこ
とにいつも感動している。心の充実度そのものが、違う。私たちが感ずる一分と、子どもたちが
感ずる一分は、長さそのものが違う。子どもは決して「幼稚」ではない。そういう童心をいかにも
ちつづけるかで、その人の価値が決まるといっても、過言ではない。ワーズワースが、『願わく
ば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい』と言った背景には、ワーズワース自身のそうい
う気持ちが隠されている。

 さて冒頭の男だが、そのあと、うわさを聞けば聞くほど、すべてがインチキだということがわか
った。まず学歴。私にもいつか、S大学商学部の出身と言ったことがあるが、S大学の同窓会
名簿には、彼の名前はなかった。雑誌に載せていた原稿も、図書館で集めた情報を切り張り
して書いたような原稿ばかり。何かの理由で自分では、支払いの決済ができなかったのだろ
う。すでに結婚して姓を変えた長女の名前を使って、それをしていた、などなど。一度は預金詐
取事件の被疑者として、警察の取調べを受けたこともあるという。そうした濁った過去が、彼の
心を曇らせていた。

 さてあなたも、一度、子どもたちの世界に飛び込んでみては、どうだろうか。子どもと一緒に、
テレビゲームやミニモニの話をしてみたらよい。子どもと一緒に、サッカーをしたり、ままごとを
してみたらよい。そしてここが大切だが、そうすることで、子どもたちに心を洗ってもらう。汚れ
たシミを、子どもたちに洗ってもらう。それは決して恥ずべきことではない。実は、すばらしいこ
となのだ。

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いつも同じようなパターンで
子育てがギクシャクしてしまう
あなたへ
+++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(160)

子育ての再現性

 親は子どもをもつと、無意識のうちにも、自分の子ども時代を再現しようとする。たとえば自
分がペットを飼っていた親は、無意識のうちにも、子どもにペットを飼わせたりする。親に抱い
てもらい、本を読んでもらったことがある親は、自分が親になったとき、子どもにそれをする。こ
れを、「子育ての再現性」と、私は呼んでいる。

 この「子育ての再現性」には、二つの意味がある。一つは、プラスの再現性。もう一つは、マ
イナスの再現性。

 プラスの再現性というのは、ここにあげたように、何かよい思い出が心の中にしみこんでい
て、それを自分の子育ての中で反映させる再現性。たとえば自分が子ども時代、ディズニーラ
ンドへ行って、楽しかったという思いがあると、親は自分の子どもにも、そういう経験をさせてみ
たいと思う。

 マイナスの再現性というのは、自分にとって、いやな過去やいやな思い出を再現してしまうこ
と。たとえば自分が受験生のとき、いやな思いをしたことがある親は、自分の子どもが受験期
を迎えると、そのいやな気分をそこで再現してしまう。あるいは自分が親に虐待された経験が
あると、自分が親になったとき、自分自身への自己嫌悪から、自分の子どもに対して、暴力を
振るったりしてしまう。

 もちろんプラスの再現性は問題ない。問題なのは、マイナスの再現性である。もしあなたが子
育てをしているとき、いつも同じパターンで、同じような失敗をするというのであれば、一度、こ
のマイナスの再現性を疑ってみたらよい。何かあるはずである。それに気がつけば、あなたは
マイナスの再現性から自分を解放することができる。気がつかなければ、いつまでも同じ失敗
を繰りかえす。どちらがよいかは、もう言うまでもない。

 人間の行動は一見複雑に見えるが、その実、単純なメカニズムで動いている。子育てもそう
で、いちいち考えながら子育てをしている人は少ない。ほとんどの親は、無意識のまま、自分
が受けた子育てを再現しているだけ。それに気がつくと、あなたは自分の子育てを、より正確
に、より客観的に見ることができる。一度、試してみてほしい。
(02−10−7)
 

   ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃
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子育て随筆byはやし浩司
最近書いたエッセーをいくつか
お届けします。
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よい人・いやな人

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで
覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、
もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになって
おけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ六〇歳です」と言っていた
が、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どう
いうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間
だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あな
たを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんも
あなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているな
ら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い
時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講
演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分
でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、
それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば三〇分ほどの
時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかし
てつきあうこともできる。が、半年、一年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心は
カガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。もしあなたがB先
生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを介して、あなたのこ
とを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果が、よりよい人間関
係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくな
い」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすば
らしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの
子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくり
なおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からで
も遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」
「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、
それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようにな
ったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、
よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもってい
る「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ご
しやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉
の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心
はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさ
んのようにはなれない。私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩
司って、こんな程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわか
る。過去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早
く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはない
だろうと思う。私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づか
なかった。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。

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子育て随筆byはやし浩司(158)

こんな事件

 ビデオのレンタルショップの前でのこと。一台の車が、通路をふさぐように駐車してあった。そ
の横の駐車場には、まだ空いているところがたくさんある。ほかの車が通れない。そこで私は
そのときふと、つまりそれほど深く考えないで、ワイフにこう言った。「あんなところに、車を止め
ているバカがいる」と。ワイフがその方向を見たその瞬間、ななめうしろに立っていた女性(五
〇歳くらい)が、私たちをものすごい目つきでにらみながら、その車のほうに走っていった。そこ
に車を止めていたのは、その女性だった。

 私は瞬間、なぜ私たちがにらまれるのか、その理由がわからなかった。しかし再度、にらま
れたとき、理由がわかった。わかったとたん、何とも言えない気まずさが心をふさいだ。まさか
私たちのうしろに立っていた人が、その人だったとは! 私はたしかに、「バカ」という言葉を使
った。……使ってしまった。

 口は災(わざわ)いのもととは、よくいう。私はその女性とはショップの中で、できるだけ顔を合
わせないようにしていた。が、それでも数度、視線が合ってしまった。いやな気分だった。その
女性は、駐車場でないところに車を止めた。それはささいなことだが、ルール違反はルール違
反だ。しかしそれと同じくらい、「バカ」という言葉を使った、私も悪い。それはちょうど、泥棒に
入ったコソ泥を、棒でたたいてケガをさせたようなものだ。相手が悪いからといって、こちらが
何をしてもよいというわけではない。私にしてみれば、私の「地」が、思わず出てしまったという
ことになる。

 私はもともと、生まれも育ちも、よくない。子どものころは、喧嘩(けんか)ばかりしていた。か
なりの問題児だったようだ。いつも通知表に、「落ち着きがない」と書かれていた。それもその
はず。私が生まれ育った家庭は、「家庭」としての機能を果たしていなかった。私がここでいう
「地」というのは、そういう素性をいう。

 で、こういう状態になると、ゆっくりとビデオを選ぶという気分には、とてもなれない。早くその
場を離れたかった。そういう思いはあったが、ではなぜ私が「バカ」という言葉を使ったか、それ
には理由がある。弁解がましく聞こえるかもしれないが、まあ、話だけは聞いてほしい。

 今、この地球は、たいへんな危機的状況にある。あと一〇〇年で、地球の平均気温は、三〜
四度ほどあがるという。まだ零点何度かあがっただけで、この地球上では、無数の異変が起き
ている。こういう異変を見ただけでも、三〜四度あがるということがどういうことだか、わかるは
ず。しかし、だ。その一〇〇年で、気温上昇が止まるわけではない。つぎの一〇〇年では、も
っとあがる。このまま上昇しつづければ、二〇〇年後には、一〇度、二〇度と上昇するかもし
れない。そうなればなったで、人類どころか、あらゆる生物は死滅する。

 で、こうした異変がなぜ起き始めたかだが、私は、その責任は、それぞれの人すべてにある
と思う。必要なことを、必要な範囲でしていて、それで地球の気温があがるというのであれば、
これはやむをえない。まだ救われる。しかし人間自身の愚かさが原因だとするなら、悔やんで
も悔やみきれない。

●小型ジーゼル車のマフラーを改造して、燃費をよくする人がいる。そういう人の車は、モクモ
クと黒煙をあげて走る。私はそのたびに、ハンカチで口を押さえて、自転車をこぐ。

●信号が赤になっても、しかも一呼吸おいたあと、その信号を無視して、走り抜けようとする人
がいる。私も先日、あやうくそういう車にはねられそうになった。

●私の家の塀の内側は、かっこうのゴミ捨て場になっている。ポリ袋、弁当の食べかす、タバコ
の空箱、ペットボトルなどが、いつも投げ込まれる。そのたびに、しなくてもよい掃除をする。

●小さな車やバイクだが、やはりマフラーを改造し、ものすごい音をたてて走る若者がいる。そ
ういう車やバイクが走りすぎるたびに、恐怖感を覚える、などなど。

 そういう無数の「ルール違反」が重なって、結局は、この地球の環境を破壊する。それもここ
に書いたように、生きるために必要なことをしていてそうなったのなら、まだ救われる。しかし人
間の愚かな行為が積み重なってそうなったとしたら、それはもう、弁解の余地はない。映画『フ
ォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親は、こう言っている。「バカなことをする人をバカと
いうのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 私は駐車場でもないところに平気で駐車している人は、そのバカな人ということになる。こうい
う人たちの「ルール違反」が、積もりに積もって、この地球の環境を破壊する。むすかしいこと
ではない。その破壊は、私たちの、ごく日常的な、何でもない行為から始まる。だから私は「バ
カ」という言葉を使ってしまった。心のどこかで、地球温暖化の問題と、その車が結びついてし
まったからだ。が、しかし、あまりよい言葉ではないこともたしかだ。これからは外の世界では
使わないようにする。もう少し賢い方法で、こうしたルール違反と戦いたい。


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

先の原稿に関して、以前、こんな原稿をかいた。
++++++++++++++++++++++

だれにも迷惑をかけないからいい!

子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ
 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理
 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理が
まかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!
 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まる
で違う。アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを
問題にしたら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外とい
うにふさわしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさ
げて歩いていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?
 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
日本は今、大恐慌の真っただ中!
しかしその実感がないところが
おかしい。このままでは本当に
日本は沈没してしまう!
++++++++++++++++

日本の経済→子ども→教育の三段跳び

●日本の経済を家計にたとえると……

銀行がかかえる不良債権が、一三〇〜一四〇兆円(経済誌)!
国がかかえる借金が、約七〇〇兆円!

日本の国家税収は、約五〇兆円しかない。しかし毎年、約八〇兆円ものお金を使い放題。差
額の約三〇兆円は、赤字国債を発行して補っている!

こうした数字を、家計にたとえてみると、こうなる。

年収五〇〇万円(月収四二万円)しかない人が、つくらなくてもいいような庭の改造費や、通路
の費用に、毎月収入の二〇〜二五%、つまり一〇万円もかけている。残りの三二万円が生活
費だ。しかしそれでは足りないから、毎月約二五万円を借金。その借金は雪ダルマ式にふえ
て、今では、七〇〇〇万円。(七〇〇〇万円だぞ!)しかもあちこちに貸したお金が、どうも返
ってきそうにない。その額が、一三〇〇〜一四〇〇万円! これも損金に加えると、借金は、
計八三〇〇〜八四〇〇万円になる。今は利息を限りなくゼロにしてもらっているからよいよう
なものの、もし金利が一%(たったの一%)になっただけで、毎月の利息だけで、毎月七万円。
二%になれば、一四万円。以前のような五%になれば、三五万円。それだけで家計はパンク
する!

もしあなたの家計がこういう状態になったら、あなたはどう思うだろうか。残された道は、ただひ
とつ。破産!

●ムダな工事
……私の山荘の下に、一日、数台しか車が通らないような山道がある。その山道沿いには、
一軒の廃屋と、石材屋の石材置き場があるだけ。そんな山道が今、改修工事に入っている。
長さが道路沿いに、約三〇〇メートル。高さが、五〜七メートル。道幅を広げるということで、も
う一方の谷川のほうも工事している。そちらのほうも高さがやはり五〜七メートル。見るからに
豪華なコンクリートのカベが、そのあたり一面をおおった。私のような素人が見ても、まったくム
ダな工事。やるところにこと欠いて、とうとうこんなところまで工事を始めた! あるいはお金の
使い道に困っている?

いや、こんなことばかりしているから、日本の経済はおかしくなる。なって当たり前。そりゃあ、
ないよりはあったほうがよいに決まっている。しかしこんな論理で、道路や空港やビルをつくっ
てばかりいたら、経済が破綻して当然。この静岡県でも、だれが望んだわけでもないのに、官
僚と業者が結託して、空港だの、第二東名だの、そんなものばかりつくっている。こういう人た
ちは、お金は天から降って、わいてくるものだと思っているらしい。

●ツケは結局は、子どもたちの世代に!
 こうした借金は、結局は、子どもたちの世代にバトンタッチされる。私たちの世代で返せるわ
けがない。仮に年収五〇〇万円のあなたが、八〇〇〇万円以上の借金をかかえたら、あなた
はどうする? ものごとは常識で考えたらよい。

 が、肝心のその子どもたちの数が減っている。その上、どうも質的に、年々、悪くなっている
らしい。学校から帰っても、テレビを見たり、ゲームをしたりしている。そのテレビも見る番組は
といえば、アニメとバラエティ番組ばかり。中学生や高校生になればなるほど、テレビやゲーム
をする時間がふえ、その分、本を読んだり、勉強する時間が少なくなっている。驚くなかれ、中
学生の約二〇%が、まだ掛け算の九九すら満足に使えない。高校生の約二〇%が、地図上
で、アメリカやロシアがどこにあるかさえ知らない。国立の大学院生(文科系)に小学校レベル
の分数の計算をさせたら、正解率は、たったの五九%だったそうだ(〇一年、国立文系大学院
生について調査、京都大学西村和雄氏)。わかりやすく言えば、一〇〇点満点中、たったの五
九点だったということ。

●お先、真っ暗!
 明るいか、暗いかといえば、日本の将来は、お先、真っ暗。しかもどうしてこうなったかという
ことにメスを入れないから、その改善策も浮かんでこない。みながみな、「明日があるさ」「何と
かなるさ」と、夢を見ているようなことばかり言っている。現実を見ようともしない。あるはその場
だけ、何とかしのげればよいと考えている。

教育にしても、日本の教育改革は、欧米にくらべて三〇年は遅れた。その中でも、とくにひどい
のは、大学教育。どうひどいかは、あなたが大学で学んだことがあるなら、よく知っているはず
だ。一〇年ほど前だが、中日新聞にこんな投書が載った。東京のT私立大学へ通う大学生み
ずからが投書したものだが、いわく、「講義には年数回(たったの数回!)出席しただけで、卒
業できた。試験は、すべて友人のノートを見て受けた。あとはバイトざんまい」と。それからも、
状態が悪くなったという話は聞くが、よくなったという話は聞かない。

しかし日本政府は、そういう大学にさえ、湯水のごとく補助金を注いでいる。いったいこういうし
くみの中でだれがもうけているのか。帝京大学医学部の不正寄付金問題(〇二年)など、あん
なのは、笑い話にもならない。

●教育の自由化を!
 話が、日本の国家経済→ムダな工事→日本の教育と、三段跳びに飛躍したが、ついでにも
う一つ、飛躍する。

 行政改革とか、構造改革とか言われているが、その「改革」が一番必要なのは、実は、教育
の世界である。たとえば大学教育を例にあげてみる。

 アメリカでは、大学でも、入学後の学部変更は自由。ふたつの学部で同時に勉強している学
生だっている。そして入学後も、大学の転籍は自由。公立、私立の区別はない。日本でいえ
ば、早稲田大学で二年間学んだあと、静岡大学へ転籍するということが、自由にできる。しか
もめんどうな手続きはいっさい、ない。寄付金だの入学金だの、わけのわからないお金を払う
必要もない。前の大学の成績が認められれば、それで、OK。

 そのため学科どころか、学部のスクラップ&ビルドさえ日常茶飯事。教える教授も必死なら、
学ぶ学生も必死である。日本でも七年間という、時限をつけて、「研究に成果が出なければク
ビ」という制度を採用するところもふえたが、基本的には終身雇用が原則。しかしそれこそ世界
の非常識。ノーベル賞をとるような教授ですら、講義の前に、二〜三度リハーサルをしてから
講義に臨んでいるそうだ(東大元教授談)。講義が終われば、教授の部屋の前には、質問の
ため、学生の列ができる!

 そしてこういうしくみが、今、国際間でもなされつつある。私が三五年前に学んだ、オーストラ
リアの大学でも、そのときですら、こうしたシステムは常識だった。さらに今では、一歩進んで、
ヨーロッパでは、大学教育は完全に共通化された。どの大学で、そのような単位を取っても、そ
れはどの大学でも通用するようになっている。

 日本人は、いまだに大本営発表しか聞いていないから、こういう事実があることさえ知らない
でいる。が、皮肉なことに、教育改革、教育改革といいながら、その一方で、ゆがんだ受験体
制にしがみついているのが、文部科学省ではないのか。学閥がなくなれば、一番困るのが、高
級官僚たちである。そしてそれが日本の教育の現状ではないのか。もしこの日本から、「大学
受験」がなくなれば、進学塾はおろか、日本の教育体制そのものが崩壊する。

 こうした現状を打開するためには、教育の自由化しかない。それについては、もうあちこちに
書いてきたので、ここでは省略する。

 とんでもない飛躍論に思う人がいるかもしれないが、そのルーツは、ひとつ。今のような官僚
主導型の政治や教育は、もう限界にきているということ。日本は今、ここで、真の民主主義国
家になるか、それとも旧態依然の官僚主義国家のままでいるのか、その大きな分かれ道にき
ているということ。もしこのまま官僚主義を貫けば、教育改革はできないし、ムダな金づかいは
終わらない。そしてそれが終わらなければ、やがて(あるいは明日にでも)日本の経済は破綻
する。行き着くところ、それが日本の近未来像かもしれないが……。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-16-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 477人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  77人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−10−14号(124)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
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      ___ \____/ ___  鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】四割の善と、四割の悪(40% Righteousness & 40% Wrongness) 
【2】この三〇年を振りかえって(My days of these passed 30 years)
【3】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers) 
【4】随筆(Essays)
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  入" o ") (▼ ▼)
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  / / F| 彡 `─´ 
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  m (________||
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  (___⊃
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
■濱人【連載:子育て、ワンポイントアドバイス by はやし浩司】
メールマガジン「週刊E'news浜松」に掲載した記事より転載
+++++++++++++++++++++++++++++

●No.35「子どもは社会の縮図」

 おとなの世界に四割の善と四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の
 善と四割の悪がある。子どもの世界はまさにおとなの社会の縮図。おとなの
 世界をよくしないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、それはおと
 なの身勝手。もっと言えば、ムダ。子どもの世界をよくしようと考えたら、
 おとなの世界をよくする。たとえばいじめにしても、非行にしても、おとな
 たちの世界にもそれがあるのに、どうして子どもに向かって、それをやめろ
 と言えるのか。子どもしてもはじめて読んだカタカナが、「ソープ」であっ
 たり「ホテル」であったりする(「クレヨンしんちゃん」)。

 ただ悪があるから、悪いというのでもない。もし人間がすべて、天使のよう
 になってしまったら、この世界、何とつまらないものになってしまうことか。
 善と悪のハバがあるから、この世界はおもしろい。無数のドラマもそこから
 生まれる。旧約聖書の中にも、こんな説話が残っている。ノアが、神にこう
 聞いたときのこと。「神よ、どうして人間を滅ぼそうとしているのか。(滅
 ぼすくらいなら)、最初から完全な人間をつくればよかった」と。それに対
 して神は、「(人間に)希望を与えるため」と。つまり人間は悪いこともす
 るが、一方努力によって、神のような人間にもなれる。「それが希望だ」と。

 私も若いころは、子どもの世界をよくしようとがんばったこともある。しか
 し四〇歳になり、五〇歳になると、どんどんそういう気持ちは薄れた。薄れ
 て、その反対に、結局は問題の根源はおとなの世界にあることを知った。「
 犠牲」という言い方はあまり好きではないが、子どもたちこそ、その犠牲者
 に過ぎない。我欲と貪欲のウズに巻き込まれ、子どもたちにしっかりとした
 ビジョンを示せない私たちおとなのほうにこそ、その責任がある。たとえば
 援助交際にしても、子どもたちにそれをやめろという前に、どうしておとな
 たちが、おとなに向かって、それをやめろと言わないのか。あなたの友人や
 仲間が若い女の子と援助交際していても、みんな、見て見ぬフリをしている!

 子どもの世界を見るときは、まずおとなの世界を見る。何か問題が起きたら、
 「自分ならできるか」「自分はどうか」と自問してみる。そしてここが重要
 だが、自分にできないことは、子どもに求めないこと。期待しないこと。「
 子どもの世界は社会の縮図」というのは、そういう意味である。
  
++++++++++++++++++++++++++++++
メールマガジン「週刊E'news浜松」2002/10/7 No.002-035/2322
 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344
 編集発行:E'news編集部

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
今回から、新しい視点で、子育て格言を送ります。
この原稿は、「子育て格言・ママ100賢」を、最近
書きなおしたものです。みなさんのご家庭でお役に
たてば、うれしいです。
+++++++++++++++++++++++

子育て格言集(新シリーズ(1))

●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮
せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきた
ら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうも
のであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえ
ない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう
思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちという
ことになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ〜」(舟木一夫の「高校三年」)と
歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌
った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それが
よいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約六〇%の子どもが、「勉強で苦労
するから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サ
イレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのも
のが、今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、(1)親子のリズムの乱れ、(2)信頼感の喪失、(3)価
値観の衝突がある。このうち(3)価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについてい
けない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観
を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶して
いく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは五五%もいる(「青少年白
書」平成一〇年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは八〇%弱もいる。この時期、
「勉強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康し
かし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠
れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親が
いつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうして
うちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中
に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。

 その娘(中三)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎
日ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、一年もつづくと、母親の精
神状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。
「どうしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだ
やかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダー
で、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方
は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を
悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望
や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ
苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづま
りを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子ども
が生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あな
たの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。


●名前は呼び捨て

 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。
先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してくれ
た。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで
私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、た
いへんなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中に
は、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。し
かし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさせ
ればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、
生活力も身につき、忍耐力も養われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまで
もなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで呼ぶ親を
見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしているように見えるが、
どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、たいていは、そういう子ど
もにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしてい
る。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子で
も、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあって
いる。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則
は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を
閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」で
は、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な問題ではない
かもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨てでよい。


●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

(1)名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子ど
もはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」について
は、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

(2)人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や
威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような
「核」攻撃は、タブー中のタブー。

(3)人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。
子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好まし
いものではない。

(4)自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけ
に、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。
もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

(5)名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前は
すばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることか
ら、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、
高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を
大切にすることを学ぶ。


●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、
その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気
を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、
大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私
はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引き
こもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多
い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうし
た反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体
験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育
て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しい
じめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情
緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。た
とえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうした
恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊んで
いても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の情
緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということ
を、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダというこ
とをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状
況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり
方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多
い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年より
よくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、
立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、
右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報
に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせ
ようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、
あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子ど
もに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあ
るので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないというこ
と。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう
思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出
たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものが
ないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの
「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなた
がこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、三日置いて出す。このタイプの母
親ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だから
三日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えると
よい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週
間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうものか。
その親自身の全人格がそこに反映される。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃
  /∠_mm_/\ /‥ │
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          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司
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子育て随筆byはやし浩司(162)

この三〇年を振りかえって……

 幼児教育にかかわるようになって、今年で、満三〇年になる。早いものだ。その間、楽しいこ
とも山のようにあったが、悲しいこともあった。しかし不思議なもので、楽しかった思い出という
のは、記憶の中に埋(うず)もれてしまっていて、なかなか引き出せない。考えてみれば、私の
仕事は毎日、楽しいことばかりだった。で、その分、つまりほとんどが楽しい思い出ばかりだか
ら、悲しかった思い出や、つらかった思い出が目立つのかもしれない。

 悲しかった思い出といえば、一磨君という少年が、小児がんでなくなったこと。そのとき書い
た、エッセーが、つぎのエッセーである。このエッセーは、「子育て最前線のあなたへ」(中日新
聞出版局)にも収録したが、あとで一磨君のお母さんが、二〇冊近く、その本を買ってくれた。
うれしかった。

+++++++++++++++++++++

●脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」
と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほし
い」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ
イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手術、再発を
繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆ
がんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見
ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、
私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。

私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じ
た。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多
くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に
終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘
は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両
親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文
を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったと
き、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることがで
きる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その
瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きて
いることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。

+++++++++++++++++++

 私の仕事とは関係ないが、私がこの三〇年間でもっともうれしかったのは、三一年ぶりに、
学生時代の友人たちと再会したとき。そのとき書いたのがつぎのエッセー。このエッセーは、金
沢学生新聞にも発表したが、反響は大きかった。学生新聞の編集長が、編集部に届いた読者
からの手紙やメールを、回送してくれた。中には、涙をこぼしながら読んでくれた人もいたとい
う。うれしかった。

+++++++++++++++++++

●三一年ぶりの約束

 ちょうど三一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。「二〇〇一年一月二日、午後一時二
分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだっ
た。当時の私は二二歳。ちょうどアーサー・クラーク原作の『二〇〇一年宇宙の旅』という映画
が話題になっていたころでもある。私にとっては、三一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じ
くらい、「ありえない未来」だった。

 しかしその三一年がたった。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すような冷たい雨
が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。とたん、無数の思い
出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、言葉にならない。細い路
地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。いつもなら海産物を売るお
やじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売りは五日から」という張り紙が、う
らめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを見るこ
とも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯、かっこうをつけて、学者然として写真
におさまっている自分が、どこかいやだった。しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が
私の心をふさぐようになった。アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出
口」ということか。しかし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その
間に無数の思い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそ
のまま出口だった。そんな感じで三一年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「……自分に対する責任のようなもの
だ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだろうか」と
思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、時に美しく、そし
て時に物悲しい。フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、ま
た去る……」と。部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あな
たの、彼の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように……」
と。何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。どこか
らともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握ったと思っても、そ
のまま指の間から漏れていく。

 翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通りにある
茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやんでいた。そこ
から石川門までは、歩いて数分もない。歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」
と聞くと、女房が時計を見ながら、「一時よ……」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばっ
てみた。「ここに立っている」という実感がほしかった。学生時代、四年間通り抜けた石川門
だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑いながらやってくるのに気がついた。同時にう
しろから声をかける男がいた。それにもう一人……! そのとたん、私の目から、とめどもなく
涙があふれ出した。

++++++++++++++++++++++
このときとった写真(石川門の前での記念写真)は、
サイト、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の
「トップページ」→「動画」→「インターディスク」
→「中日新聞記事」の冒頭に載せておきます。興味
のある人は、ご覧ください。
++++++++++++++++++++++

 私がこの仕事をしていて、もっともつらかったのは、一時期勤めていたある幼稚園をリストラ
されたこと。しかもリストラを宣告されたのは、立ち話で、だった。私がある朝、庭で園児を指導
していると、いきなり園長がやってきて、こう言った。「林君、もう来週から来なくていい」と。その
園長が、園長に就任にして、数年目のことだった。

 が、リストラされたからといって、その園長をうらむことはできなかった。それまで、その前任
の園長には、じゅうぶんすぎるほど、世話になっていた。それに園長の様子がかなりおかしい
ということは、私もそれ以前から感じていた。感情が平坦になり、動作も鈍くなっていた。会話も
かみあわなかった。加えてそのときまでに同じようなリストラのし方で、何人もの年配の先生た
ちがリストラされていた。順にそれが進んで、私のところにやってきた。「つぎは私だろうな」と思
っていた。そう、園長は、たしかにおかしかった。これ以上のことは、ここには書けないが、その
とき前任の園長も、かなり深刻に、その園長のことを悩んでいた。私にも、相談があった。

 しかしショックはショックだった。私はその言葉で、プライドはズタズタにされた。実際、その夜
は、体中が熱でほてり、ほとんど一睡もできなかった。朝になってワイフが「どうしたの?」と聞
いたときはじめて、「幼稚園はクビになった」と告白した。以来、その幼稚園には二度と足を踏
み入れていない。また私の書いたものの中に、その幼稚園の名前を書いたことは一度もない。
しかしそのときのリストラが、私を発奮させる原動力になった。私は以後、がむしゃらに幼児教
育に没頭した。

 人生にはいろいろある。しかしこれから先は、今までのような濃密な経験はできないだろうと
思う。この五年間だけを見ても、それ以前の密度の半分くらいになったような気がする。変化よ
りも、安定を求めるようになった。航海にたとえていうなら、もう嵐はこりごり。その嵐に耐える
体力もないのでは。そのかわりこれからはもっと、心の旅をしてみたい。外ではなく、自分の心
の内側に向かう。そういう生き方をしてみたい。まとまりのない回顧録になってしまったが、この
つづきは、また何年かあとに書いてみる。 
(02−10−7)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
考えることが好きな子ども、きらいな子ども

 その子どもが考えることが好きな子どもかどうかは、小学一年のころには、すでにはっきりと
する。この時期、考えることが好きな子どもは、好き。考えることの楽しさを知っている。そうで
ない子どもは、そうでない。表面的な様子にだまされてはいけない。たとえばペラペラとよくしゃ
べるから頭がよいとか、反応がはやいから、頭がよいということにはならない。

 私は今日小学二年生で、こんな実験をしてみた。つぎのような数列を見せ、□の中には、ど
んな数字が入るかという問題である。

問、□の中には、どんな数(かず)が入るか。
    1、2、4、7、11、□

 この問題は、小学二年生にはムリ。それはわかっているが、私は子どもたちの反応をみたか
った。そこでしばらく様子をみると、何とか考えようとする子どもが、一〇人中、四人。考えてい
るフリはするが、深く考えようとしない子どもが、三人前後。残りの三人は、あれこれ思いつい
た数字を口にするだけで、ほとんど考えようとしない。「5かな、7かな……?」と勝手なことを言
っているだけ。一人の子どもは、「これ、足し算? それとも引き算?」と聞いた。

 たいていの親は、ペラペラと調子よくしゃべる子どもを、頭のよい子と誤解する。しかしこのタ
イプの子どもは、脳に飛来する情報を、適当に言葉にしてしゃべっているだけ。もっと言えば、
頭の中はカラッポ。よい例が、夜のバラエティ番組に出てくるお笑いタレントたち。一見反応が
すばやく、頭がよいように見えるが、その実、何も考えていない。たまに気のきいたことを言う
が、それとて、どこかで仕入れた情報の受け売りにすぎない。

 考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのためほとんどの人は、考えることを無意識の
うちにも避けようとする。よい例が、数学の証明問題である。もし今、あなたが数学の証明問題
を解けと言われたら、あなたはどうするだろうか。あれこれ理由をつけて、その問題から逃げる
に違いない。あるいは近くに答があるなら、それを写して、それですますかもしれない。

 当然のことながら、考える子どもとそうでない子どもは、やがて大きな差となって表れる。この
時期に分かれる。考える子どもは、思考することの楽しさを覚え、自ら脳を鍛えるようになる。
そうでない子どもは、そうでない。そしてこの違いが、一年たち、二年たち、さらに一〇年もつづ
くと、大きな差となる。考える子どもは、あらゆる方向に触覚を延ばし、そしてあらゆる場面で考
える。そうでない子どもは、そうでない。どちらがよいかということは、もう明白。聞くだけヤボ。
子どもは、そのはじめの分かれ道に入る前に、考える子どもにする。その方向づけをする。つ
まりそれが幼児教育ということになる。では、どうするか。

(パズルの応用)
 特別の理由がないかぎり、子どもというのは、考えることが好きとみる。それはちょうど、広い
庭を見ると、思わず走りたくなるという、あの衝動に似ている。そういう意味では、子どもは知的
な刺激に飢えている。そこでひとつの方法として、私は知的パズルを与えることを提案する。私
も勉強が嫌いという子どもに対しては、パズルを積極的に与えることによって、まず「考えること
を好きにさせる」という指導をする。少し回り道になるかもしれないが、長い目で見て、そのほう
が効果的である。たとえばアメリカの小学校では、国語(米語)の授業でも、パズルから子ども
を導入する。「この中で、Aで始まる動物はどれ?」「Eで終わる動物はどれ?」(小学一年生)
と。こうしたパズル的な教え方が、アメリカの小学校の教育の基本にもなっている。「教え育て
る」が基本になっている日本の教育と、「種をまいて引き出す(エデュース)」が基本になってい
る欧米の教育の違いと言ってもよい。アメリカの教育法がよいばかりではないが、ひとつの参
考にはなる。
(02−10−7)

【追記】
 子どもの考える力は、親の影響が大きい。子どもは、親の考える様子を見ながら、自分の中
に考えるという習慣を養う。が、それだけでは足りない。子どもを考える子どもにするには、そ
れなりの指導が必要である。子どもに向かっては、いつも、「どう思う?」「どうしたらいいの?」
「どうして?」と問いかけながら、一緒に考えるようにするとよい。しかもこうした考える力は、長
い時間をかけて熟成されるもので、根気と努力が必要である。子どものばあい、考えの深い子
どもは、何かテーマを与えたりすると、目つきがそのつど静かに沈むので、わかる。
 
 このところ、世間では右脳教育なるものが、もてはやされ、どこかカルト化しているような感じ
がする。が、論理や分析をつかさどるのは左脳である。ペラペラと軽いことを言い、頭の中にひ
らめたまま、奇想天外なことを言うから、頭がよいということにはならない。この種の教育法に
は、じゅうぶん注意してほしい。

 そこでおとなの問題。これはあるアメリカで発行された、大人用の「知能テスト」の問題集に載
っている問題である。一度、童心に返って(?)、考えてみてほしい。

 4・5・7・11・19・□

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子育て随筆byはやし浩司(164)

ブルセラ? 生脱ぎ?

 朝のワイドショーを見ていたら、こんな言葉が飛び出してきた。「ブルセラ」「生脱ぎ」と。女子
中学生や高校生の汚れた下着を売買することを、ブルセラ。そして客(?)の目の前で脱いで
販売するのを、生脱ぎというのだそうだ。インタビューに答えていたのは、女子高校生(一年
生)。そういう子どもが、そういう言葉を平気で口にしているのには、心底、驚いた。それだけで
はない。こうも言った。「映画館の中で(生脱ぎ)することもある」「そのままホテルへ行ったり、
援助交際することもある」と。

 私も男だし、性欲も、ふつうにはある。……あった。しかし汚れた下着をほしいと思ったことは
ない。しかも、だ。自分の高校時代を思い出しても、そういう発想は、まったくなかった。考えも
およばなかった。が、今、それが堂々と、白昼になされている! テレビでインタビューに答え
ていたのは、顔はぼかしてあったが、見るからに清楚(せいそ)な感じのする女子高校生だっ
た。

 こういう現実を目(ま)の当たりにすると、私が毎日こうして書いている原稿は、いったい、何
かということになってしまう。レベルが高いとか低いとかいう問題ではない。あまりにもかけ離れ
ていて、何だか、自分がとんでもないほどムダなことをしているようにすら思われてくる。ほかの
分野のことならともかく、私が相手にしなければならないのは、そういう子どもたちなのだ。い
や、ここで「ほかの分野」というのは、たとえば電子工学などの分野では、その専門的な研究だ
けをしていればよい。その果てに携帯電話があり、パソコンがあったとしても、電子工学の研
究をしている人は、携帯電話やパソコンがユーザーにどう使われるかは、関係ない。恐らく関
心もないだろう。しかし私は違う。こうして教育論を考えることは、つまるところ、そういう子ども
が対象なのだ。

 実のところ、私も、こうした子どもたちの「性」の問題には、さんざん翻弄(ほんろう)されてき
た。その結果、というよりも今は、「我、関せず」を貫いている。この問題だけは、知性のワクを
超え、本能の世界と深くかかわっている。もっともそれがあるから、人類は、限りなく生殖を繰り
返し、今日まで生き延びることができた。しかしそれだけに知性で戦って、戦えるものではな
い。道理や理屈が、まったく通じない。しかしこれだけは覚えておくとよい。もしあなたが「うちの
子にかぎって……」とか、「うちには関係ない問題」と思っているなら、それは幻想。一〇〇%、
幻想。これからは、そういう前提で、あなたの子どもを考え、あなたの社会を考える必要があ
る。つまり……、たいへん言いにくいが、あなたの子どもが何か問題を起こしてから、あわてて
も遅いということ。その覚悟だけはしておいたほうがよい。
(02−10−8)

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子育て随筆byはやし浩司(165)

「もう一人の子ども」論

 たいていの親は、「うちの子にかぎって……」とか、「私は子どもとうまくいっている」、あるい
は、「私は子どもの心をしっかりとつかんでいる」と考えている。しかし実のところ、そういう親ほ
ど、あぶない。あるいはあなたは、自分の子どもが、あなたの前で、まったく仮面をかぶってい
ないと、自信をもって、断言できるだろうか。

 そう、何がこわいかといって、この「仮面」ほど、こわいものはない。あなたの前で、よい子ぶ
る、心を隠す、無理をする。そういう不自然さが、長い時間をかけて心のカベにアカのようにた
まり、やがてあなたからみても、子どもの心がつかめなくなる。が、それですめばまだよいほう
だ。子どもはその仮面の下で、もう一人の自分をつくる。

 子どもの非行は、ある日、突然、始まる。本当に、突然だ。ばあいによっては、一週間単位、
あるいは一か月単位で、子どもが急変する。ある男の子(小五)は、ある日、突然、母親に服を
ねだり始めた。それまではほとんどの服は、母親が選んで買っていた。そこで子どもと一緒に、
店へ行くと、その子どもの選んだ服は、キラキラと輝く金文字の入った、紫色のコートだった。
いわゆる暴走族カラーというので、母親はそれを見てはじめて、子どもの心の変化に気づい
た。

 そこで自己診断テスト。あなたの子どもは、今、あるがままの自分の姿をあなたに見せている
だろうか。それを一度、テストしてみてほしい。

○子どもはあなたに向かって、平気で悪態をつくことができる。「ババア」とか、汚い言葉を使う
ことも多い。
○あなたがいてもいなくても、態度は大きく、ふてぶてしい。いつもあなたの前で、好き勝手なこ
とをしている。 
○何か仕事を任せても、あなたは安心して任せることができる。何でもひとりで、自分でやって
しまう子どもなので、ほとんど心配していない。
 
●ときどき何を考えているかわからないときがあるが、あなたの前ではがまんして、よい子ぶる
ことが多い。親の命令には、割とすなおに従ってくれる。
●あなたが近くにいると、あなたを避けるように自分の部屋に行ったり、別の場所に行き、そこ
で心や体を休めることが多い。
●いつも心配先行型の子育てをしてきたように思う。何かにつけ、心配で、そういう意味では、
手間のかかる子どもだったように思う。

 このテストで、白丸(○)より、黒丸(●)が多いようであれば、あなたの子どもは、もう一人の
自分をつくりつつあるとみてよい。もちろん、もう一人の自分をもつことが悪いとはかぎらない。
中には親を反面教師として、前向きに伸びていく子どももいる。しかしたいていは、悪い方向に
進む。

 なお、子どものすなおさを見るときは、「心(情意)と表情が一致しているかどうか」をみて判断
する。このテストは、そのすなおさをみるためにも、利用できる。
(02−10−8)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-18

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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 480人
***************************************

最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

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02−10−18号(125)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers)
【2】溺愛ママ……ファミリスより
【3】評論(Hiroshi's Forum)
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ
  / / F| 彡 `─´ 
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て格言(2)

●何でも握らせる
 
 人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どちらか一方の大
脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって
決まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに
決まるとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手でさわりた
がる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が刺激されるの
か、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、概して言えば、さ
わりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについて、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石でできた
球を売っていた。二個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老人が使う、
ボケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使うのだそうだ。そし
てそれが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳に刺激を与え、それが知
的な意味でもよい方向に作用するということは前から知られている。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも効果
的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)そして
「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握る」「遊ぶ」「作
る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達する。もちろん指先も器用
になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子どもは、
線にそって、髪をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることができない。


●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で一〇年、二〇年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時
間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに幼児の
ばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子どもの心に
大きなキズを残すということ。こんな中学生(中二女子)がいた。「ここ一番」というときになると、
必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と理由を聞くと、こう言った。「ど
うせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の子は、もうとっくの昔に忘れてよいは
ずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうということは、本
来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考えて準備する。もっ
とわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれば、話は別だが……。)

実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子どもが受験
に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的でなかった夫と、
喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしまった母親もいる。さらに、長
男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。子どもの受験には、親を狂わせ
る、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「すべ
る」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもたせてはい
けない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あとはあるがままの
子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすような気持ちですます。
そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその時点から、また、前向きに伸
び始める。


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、
よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに何らかの心の
問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。たとえば学校恐怖症
による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然にぐずる、熟睡できず
眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」である。日本では「就眠儀式」
ともいう。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タ
イム・ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心を
いだいたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気
を消してしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのも
のが不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子どもは、ス
ーッと眠ってしまうので、区別できる。)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと仲よくす
るのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうときは、こう言い
かえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」
「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得力がな
い。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいのかわからない。そ
ういうときは今度は、寸劇法をつかう。子どもの前で、簡単な寸劇をしてみせる。私のばあい、
年に一度くらい、子ども(生徒)たちの前で、交通事故の様子をしてみせる。ダンボール箱で車
をつくり、その車にはねられ、もがき苦しむ子どもの様子をしてみせる。コツは決して手を抜か
ないこと。茶化さないこと。子どもによっては、「こわい」と言って泣き出す子どももいるが、それ
でも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。そうい
うときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎのおもちゃで
遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、あと片づけにうるさ
い民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づけ」については、ほとんど何
も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていていい」
「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあげなく
ていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちがえる
と、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そうしたユー
モアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもない誤解を招くことが
ある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小三男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そこで私
が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつうならそこでそ
の男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた別の男の子が、そ
の立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当にこいつのおしり、ウンチ
臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わったが、
その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥をかかせる
とは、どういうことだ!」と。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ママ診断(6)
あなたは溺愛ママ?
(「ファミリス」11月号より、転載)

●三種類の愛
 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。
一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる
三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語
では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また
子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに
真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。

●溺愛児の特徴
 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。(1)幼児
性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」とい
うつかみどころがはっきりしない)、(3)服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで
自分勝手)、(4)退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。
全体にちょうどひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット
児」(失礼!)と呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのはその年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長していく。たとえば
幼児だと、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を
中間反抗期と呼ぶ人もいる。幼児期から少年少女期への移行期と考えるとわかりやすい。し
かし溺愛児にはそれがなく、そのためちょうど問題を先送りする形で、体だけは大きくなる。そ
していつかそれまでのツケを払う形で、一挙にそのカラを脱ごうとする。しかしふつうの脱ぎ方
ではない。たいていはげしい家庭内騒動、あるいは暴力をともなう。が、子どもの成長というこ
とを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラを脱げない子どもは、そのまま溺愛児とし
て、たとえば超マザコンタイプの子どもになったりする。結婚してからも実家へ帰ると母親と一
緒に風呂へ入ったり、母親のふとんの中で寝るなど。昔、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなた
が好きだった』の主人公)という男性がいたが、そうなる。

●じょうずな子離れを!
 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もいる。
が、溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと自分で確認
すること。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを生きがいにしな
い。子どもに手間、ヒマ、時間をかけないの三原則を守り、子育てから離れる。 

(テストは、ファミリス本誌で!)
    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }   みなさん、「ファミリス」をご購読ください。
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【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(170)

「勉強しろ」とは言うけれど……

 こんなショッキングな調査報告がある。総務省の「社会生活基本調査」でわかった。大学生や
大学院生の、一日の勉強時間は、大学での講義も含めて、たったの二時間五九分(約三時
間!)だというのだ。この時間数は、小学生や中学生、高校生や短大生より少ない!

 総務省の調査によると、つぎのような結果になったという(〇一年一〇月、全国の一〇歳以
上の男女、二〇万人を対象)。

【学校での授業を含めた学習時間】

   一〇歳以上の小学生……4時間41分(4時間40分)
   中学生      ……5時間26分(5時間29分)
   高校生      ……5時間21分(5時間23分)
   短大・高専    ……3時間 5分(3時間 6分)
   大学・大学院生  ……2時間59分(2時間57分)
(かっこ内は、前回九六年の調査結果)

 
 この数字で恐ろしい(?)ところは、「授業時間も含めて」という点にある。仮に大学生が、九
〇分の講義に、二回でれば、それだけで、三時間になる。さらにこれはあくまでも「平均して…
…」という話。一方に五時間勉強する大学生がいれば、一方に一時間しか勉強しない大学生
がいることになる。となると、一体、「大学生とは何か」ということになってしまう。

 そこで大学生に話を聞くと……と、言っても、聞くまでもないし、聞いたこともない。しかし常識
論として、彼らの気持ちは、こうだ。

 「大学に入るまで、さんざん勉強させられた。だから大学に入ったからには、遊ぶ」と。あるい
は本当にこう言った大学生がいた。私が、「親に感謝しているか」と聞いたときのこと。いわく、
「どうして?」と。中には、「親がうるさいから、大学へ入ってやる」と豪語する高校生すらいる。
こういう状況だから、もとから「勉強しよう」という意欲など、起こるはずもない。

 子どもに「勉強しろ」と言うのは親の勝手だが、しかしそう言えば言ったで。責任をとらされる
のは、親。それだけではない。子どもの勉学意欲すら破壊してしまう。何とか「学歴」だけは身
につくが、しかしそれにしても、金がかかる!

ちなみに、親から大学生への支出額は、平均で年、三一九万円。月平均になおすと、約二六・
六万円。毎月の仕送り額が、平均約一二万円。そのうち生活費が六万五〇〇〇円。大学生を
かかえる親の平均年収は一〇〇五万円。自宅外通学のばあい、親の二七%が借金をし、平
均借金額は、一八二万円(九九年、東京地区私立大学教職員組合連合調査)。

 大学へ通う子どもを二人もつと、ほとんどの家の家計はパンクする。
(02−10−9)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(171)

構造的な欠陥

 この浜松市でも、土木建設費は、予算の中でも二〇〜二五%を占める。たいへんな額であ
る。そのため作らなくてもよいような、建物や道路ばかり作っている。それはそれとして、教育
予算のお粗末なことと言ったら、ない。いや、私が言う教育予算というのは、その分、親たちの
負担が大きすぎるということ。

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてヨーロッパでも、親のスネをかじって大学へ通っている
学生など、さがさなければいないほど、少ない。たいていは奨学金を得たり、あるいは自分の
責任で借金をしたりして、大学へ通っている。そういうしくみができあがっている。だから、親の
負担も少ないし、一方、大学生にとっては、「自ら学ぶ」という意欲もそこから生まれる。「日本
の大学生は、アルバイトばかりして、あとは遊んでいる」という話を聞いた、アメリカの大学生
は、「信じられない」と笑っていた。なぜそうなのかというところに、日本の教育システムがかか
える、構造的な欠陥がある。

 しかし問題は、だれもこうした欠陥を改めようとしないこと。親たちは、「この時期だけだから」
とあきらめてしまう。仮に運動を起こしても、成果が出るのが五年先、一〇年先ということにな
る。それを知ると、運動をするという熱意も消えてしまう。それに日本人は、明治の昔から、「こ
ういうのが教育」と、徹底的に洗脳されている。だから私は、今、小学生や中学生の子どもをも
つ親に訴えたい。「これでいいのか」と。みんながそれぞれの立場で、「おかしい」と言い出せ
ば、世の中は確実に変わる。私はそういう力を信じている。

 少し政治的な話になったので、この話はここでやめるが、今、行政改革(官僚主導政治の改
革)が、一番必要なのが、実は、教育の世界である。しかしそのためには、まず親たちの意識
が変わらなければならない。「子どもの教育は私たちがするのだ」という意識が、親たちになけ
れば、行政改革など、まさに絵に描いたモチ。今のように、「教育はもちろん、子育てからしつ
け、さらには家庭教育から心の問題までと、何でもかんでも、学校が……」という意識があるか
ぎり、教育改革など進むわけがない。もっとも、私たちはそこまで骨を抜かれているということ
だが……。

 さあて、どうする? これでいいのか、日本!
(02−10−11)※

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪
【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(168)

子離れ

●子どもが親離れするとき
 子どもは、小学三〜四年を境に、友だちとの世界を、急速にふくらませる。交友関係が広くな
り、友だちの数もふえる。この変化とともに、子どもは、急速に親離れを始める。それまでは学
校でのできごとを話していた子どもも、話さなくなったり、父親と一緒に風呂に入っていた子ども
も、それをいやがるようになる。

 子どもはそういう過程を経て、少年少女期から、おとなになるための準備を始める。しかした
いていの親は、子離れの時期と方法がわからず、その段階で戸惑う。日本のばあい、親が子
離れする時期は、外国とくらべても、遅い。平均して子どもが中学生くらいになってからとみて
よい。しかしこの時期のズレが、多くの、実に日本型の悲喜劇を生みだす。そのひとつが、子
どもの受験戦争。子どもはとっくの昔に親離れを始めているのに、親は、それが理解できず、
子どもの受験戦争に巻き込まれ、それに奔走する。(巻き込まれるというより、自ら飛び込んで
いく?)その意識のズレが、親子の間に深くて大きなキレツを入れることもある。親は子どもの
ためと思って、子どもの受験勉強に奔走するが、子どもから見れば、ありがた迷惑。この「迷
惑」が、親には理解できない。

●子離れのふたつの面
 そこでここではもう一歩、話を進める。その子離れには、二つの面がある。ひとつは、親自身
の自立。もうひとつは、子どもへの依存性からの脱却。この二つのうち、どちらが欠けても、親
は子離れに失敗する。

(1)親自身の自立……親自身が、社会的、あるいは経済的に自立する。母親のばあいは、精
神的にも自立する。そのため情緒的な未熟性(不安定)や、精神的な欠陥(うつ病気質など)が
あれば、当然、それと戦う。精神的な自立性がないと、溺愛や育児ノイローゼに陥(おちい)り
やすく、子離れができなくなってしまう。親自身が自分の目標に向かって、前向きに生きていく。
そういうたくましさを身につける。 

(2)依存性からの脱却……子どもへの依存性は、多かれ少なかれ、だれしももっている。しか
しその依存性が強くなると、子どもの自立を無意識のうちにも、さまたげようとする。「産んでや
った」「育ててやった」と、親の恩を押し売りすることもある。安易な孝行論を美化し、それを子
どもに求めることもある。「私は私で生きていく。あなたはあなたで生きていきなさい」という割り
きりが、子育てには必要である。

●Yさん(六〇歳)のケース
(ケースA)
 Yさん(六〇歳)は、小さな雑貨店を経営していた。しかし一五年前に夫が死ぬ前から、家計
は火の車。長男が同居していたが、その長男は体が弱く、ほとんど仕事ができなかった。そこ
でYさんは、隣町に住む二男から、毎月、一定の金額の援助を受けていた。が、このところの
不況で、それもままならなくなってきた。
 そんなある日、二男夫婦が、中国での合弁事業のため、二年半ほど、中国に行くことになっ
た。そのとき、二男夫婦は、貯金通帳や土地の権利書などを、Yさんに預けて中国に旅立っ
た。が、半年後に帰ってみると、通帳からは一〇〇万円単位のお金が引き出され、土地は他
人に転売されていた。そのことを二男がYさんに迫ると、Yさんは、こう言ったという。「親が、先
祖を守るために、子どもの財産を使って、何が悪い」「子どもなら先祖を守るのは当たり前」と。
さらに二男が、「生活費として渡した一〇〇万円はどうした?」と聞くと、「そんなものもらった覚
えはない」と。最後までとぼけたという。二男は、中国へ旅立つ前、Yさんに一〇〇万円を渡し
ていた。

 Yさんの精神構造を、まず考えてみよう。このタイプの人は、独特の価値観をもっている。信
仰といってもよい。こうした独特の価値観をもっている人を相手にするときは、ふつうの論理を
ぶつけても、意味がない。さらにYさんのように、六〇歳にもなると、説得してどうのこうのという
ことは、不可能と考えてよい。傷口に盛りあがったカサブタのように、脳そのものが硬直してい
る。

 で、こうした「先祖信仰」というのは、原始民族が共通してもつ思想で、日本民族とて例外では
ない。あるいはその一環? アイヌ民族、アメリカインディアン、南米のインディオなど、ちょうど
太平洋を取り巻く環太平洋の民族に、その意識が強い? こうした先祖信仰では、「先祖あっ
ての私」と考える。だから私も先祖の僕(しもべ)なら、そのまた子どもは、そのまた僕となる。
「先祖を守るために、子どもの財産を使って、何が悪い」という発想は、そういうところから生ま
れる。が、Yさんのケースでは、もう一つ考えなければならないことがある。それがここでいう
「依存性」である。

●日本人が民族性としてもつ依存性
 今でも、精神的に自立できない親は多い。「今でも」というのは、私の年代より古い世代で
は、親子でもたがいに依存しあうのが、ごく自然な形であった。そのため親は無意識のうちに
も、子どもに恩を着せ、一方、子どもは、親を美化することで、自分の依存性を正当化する。
「私の親はすばらしい人だ(った)」と公然と言う人は、たいていこのタイプの人とみてよい。

先日もテレビを見ていたら、一人のタレント(五五歳)の様子が紹介されていた。その中で、そ
のタレントは、こう言っていた。「私の母はいつも、『上見てキリなし、下見てキリなし』と言ってい
ました。私はその母の言葉を思い出すことで、どんな苦しいときも乗り切ることができました」
と。しかしこの言葉自体は、戦前の国語の教科書に載っていた言葉で、彼の母親が考え出し
たものではない。(彼は、彼の母親が考えた言葉だと思っているようだったが……。)こうした美
化は、とくにマザコンタイプの男性が、好んでよく用いる手法である。つまり美化することで、自
分のマザコン性を正当化する。結婚してからも、妻に、「私がこうであるのは、それだけ母がす
ばらしいからだ」と言う男は珍しくない。

 で、こうした依存性は相互的なもので、どちらか一方が一方に対して、一方的ということは、ま
ず、ない。親自身が依存性が強く、そういう依存性が、子どもが依存性をもつことを容認してし
まうたとえば依存心の強い子どもがいる。よくそういう子どもよく調べてみると、親自身も依存
性が強いのがわかる。このことは、子どもを判断するとき、重要な指針となる。印象に残った事
件にこんなのがあった。

●D君(年中児)のケース
 D君(年中児)という男の子がいた。柔和でやさしい表情をしていたが、ハキがない。で、ある
日のこと。片づけの時間になっても、D君は、いっこうに片づけようとしない。「片づける」という
意味すらわからないようであった。そこで私があれこれ、ジェスチャで片づける様子をしてみ
せ、片づけるように促した。が、そのうちD君はメソメソと泣き出してしまった。多分、家でそうす
れば、みなが助けてくれるのだろう。しかしこういうとき、その涙にだまされてはいけない。そう
いうときは今度は、「泣いてもムダ」ということを教えるしかない。

 しかしその日にかぎって、運の悪いことに(?)、D君の母親が直接、迎えにきていた。母親は
D君の泣き声を聞きつけ、教室へ飛び込んできた。そしてていねいだが、すご味のある声でこ
う言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか」と。

 このD君のケースでは、D君がきわめて依存性の強い子どもであることがわかる。自立心の
あるなしでみれば、同年齢の子どもとくらべても、きわめて弱い。そこで私はそれを母親に相談
しようと思ったが、母親の意識そのものがズレている。「どうしてうちの子を泣かすのですか」と
いう言葉が、それを表している。つまり相談どころか、説明のしようがない。間に、どうしようも
ないほど遠い距離を感ずる。長い間、母親に接していると、そういうことが直感的にわかるよう
になる。

 つまりD君の依存心が強いのは、母親側にそれを容認する姿勢がある。つまり母親自身が
依存性の強い人とみる。そしてこの相互作用が、D君をD君のような子どもにした。

●悪玉親意識
 さて先のYさん(六〇歳)に話を戻す。このタイプの人は、「私は親だ」という親意識が強い反
面、その返す刀で、子どもには隷属性を求める。子どもをモノ、さらには財産と考える人もい
る。その親意識が、自分に向かうならまだよい。「私は親だから、親としての責任を果たす」と
いうのがそれ。私はこれを善玉親意識と呼んでいる。しかしその親意識が子どもに向かったと
き、それは親風となる。「親風を吹かす」という言葉の「親風」。私はこれを悪玉親意識と呼んで
いる。

子どもに隷属性を求めるということは、子どもの中に、自分の居場所をつくることを意味する。
つまりそれがここでいう依存性である。だからこのタイプは、無意識のうちにも、子どもに親孝
行を求め、また親の立場で、孝行する子どもを高く評価する。「うちのセガレは、孝行息子でね
え」と。まさにYさんが、そのタイプの女性だった。私にもある日、街で会うと、こう言った。「先
生、息子なんて育てるものじゃないですねえ。息子は嫁に取られてしまいましたよ。親なんて、
さみしいものですわ」と。

●伝播する親子意識
 簡単に「子離れ」というが、その中身は深く、大きい。人によっては、子離れは、そんな簡単な
ことではない。「人によっては」というのは、子離れがじょうずな人は、本当にじょうずに子離れ
していく。しかしできない人はできない。どこにその違いがあるかといえば、結局はその人が生
まれ育った環境による。その人自身が、子離れのじょうずな親に育てられたら、じょうずに子離
れできる。そうでなければそうでない。つまり子離れも、世代伝播(でんぱ)する。

 そこで最後にこういうことが言える。ここであなたの親はどうであったかということを思い起こ
してみてほしい。あなたの親はあなたに対して、じょうずに子離れしたであろうか。もしそうであ
るなら、それでよい。しかしそうでないなら、今度はあなたが子離れで、ギクシャクする可能性
がある。またそういう前提で、あなた自身の子離れを考えてみるとよい。
(02−10−8)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-20-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 482人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  79人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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02−10−20号(126)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
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  in your home country. Hiroshi
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今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】欧米人のジョーク(Jokes for laughs)
【2】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers
【3】燃え尽きる子ども(Burnt Out) 
【4】随筆(Essays)
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
日本人とユーモア
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ユーモアと意識

●全英でグランプリを獲得したユーモア
 世界で、ナンバーワンのグランプリをとった、ユーモアは、つぎのようなものであった(〇二
年・全英ユーモア大賞)。

 二人のハンターが、狩に行った。
 一人が木に登って、落ちて意識を失った。
 そこでもう一人のハンターがみると、
 木から落ちたハンターが、息をしていないのがわかった。
 そこでそのハンターは携帯電話で救急隊に電話した。
 すると救急隊の女性が、
 「死んでいるかどうか確かめてくれ」と言った。
 そこでそのハンターは、銃で倒れた男を撃った。
 そしてこう言った。「確かめました」と。

 このユーモアはテレビの昼のワイドショーでも紹介された(〇二年一〇月)。そしてレポーター
が街で、このユーモアを幾人かの人や大学生にこのユーモアを読んできかせ、「おもしろいで
すか」と聞いた。結果、日本人は、全員、「別におもしろくない」と。が、一方、英語のわかる欧
米人にこのユーモアを読ませると、全員、「おもしろい」と。多分あなたも、このユーモアを読ん
で、「どこが……?」と首をかしげたことと思う。

 この結果をふまえて、ワイドショーの司会者は、「日本人は、欧米人とユーモアのセンスが違
いますね」と、結論づけていた。しかしこれほど、日本人の無知をさらけだしたコメントもないだ
ろう。このユーモアには、掛け言葉が隠されている。それを知らないというか、訳に訳しだせな
かったところが、誤解のもと。

 英文では、「確かめてくれ」という部分が、「make sure」になっている。「メイク・シュア」には、
「確認する」という意味と、もうひとつ、「確かなものにせよ(とどめを刺せ)」という、二つの意味
がある。そこでそのハンターは、銃で撃つことによって、木から落ちたハンターの死を確かなも
のにした。実にハンターらしい「確認のし方、イコール、確かなものにした(とどめを刺した)」と
いうところが、このユーモアの柱になっている。(ハンターは、とどめの一発を撃って、動物の死
を確実なものにすることが多い。)

 数人のコメンテイターも、さかんにクビをかしげていたが、私は「このテレビ局には、英語のわ
かる人はいないのか」と思った。わかればこうした誤解はないはずである。こんな話もある。

 もう二〇年ほど前だが、オーストラリアに「トークバック」というラジオ番組があった。その中
で、年間の最優秀賞をとったジョークにこんなのがある。

司会者「あなたは、あなたの今の夫とはじめて会ったとき、何と言いましたか」
女性(五〇歳くらい)「……うむん、……それはむずかしい問題だわね」と。

 これだけの会話が、年間の最優秀賞に選ばれた。その理由があなたには、わかるだろうか。
実はこれも掛け言葉である。その女性は、英語でこう言ったのだ。

 「It's a hard one.」と。その女性は、「それはむずかしい問題だね」という意味で、「イッツ・ア・
ハード・ワン」と言ったのだが、「ハード」には「かたい」という意味がある。それでそれを聞いた
人は、「それ(あなたのペニス)はかたいわね」という意味にとった。まじめそうな女性が、さりげ
なく堂々と言ったところがおもしろい。オーストラリア中の人たちが笑った理由は、そこにある。

●こんなジョークも……
 最近、オーストラリアの友人から、こんなジョークが送られてきた。おもしろいので紹介する。
日本人にもわかるジョークなので、安心して読んでほしい。

 九〇歳の老人が病院へ行くと、ドクターがこう言った。
 「精子の数を検査しますから、明日までに精子をとって、このビンの中に入れてきてください」
と。

 が、その翌日、その老人がカラのビンをもって病院へやってきた。
 そこでそのドクターが「どうしたのですか?」と聞いた。
 すると、その老人はこう言った。

 「いえね、先生……
 右手でやってもだめでした。
 左手でやってもだめでした。
 それでワイフのイーボンに頼んで
 手伝ってもらったのですが、だめでした。
 イーボンが右手でやってもだめでした。
 左手でやってもだめでした。
 そこでイーボンは、入れ歯を全部はずして
 口でやってくれましたが、それでもだめでした。
 しかたないので、隣のメアリーに頼んでやってもらいました」

 ドクターは驚いて、「隣の家のメアリーに!」と聞いた。

 するとその老人は、

 「はい、そうです。メアリーも最初は右手でやってくれましたが、
 だめでした。
 左手でやってくれましたが、それでもだめでした。
 メアリーも口でやってくれましたが、だめでした。
 最後に、足の間にはさんでやってくれましたが、それでもだめでした」と。

 ドクターが目を白黒させて驚いていると、老人はこう言った。

 「でね、先生、どうやっても、このビンのフタをあけることができませんでした。
 イーボンにも、メアリーにもやってもらいましたが、
 フタをあけることができませんでした。
 それで精子をとることができませんでした」と。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て格言(3)

●成熟した社会

 年長児でみても、上位一〇%の子どもと、下位一〇%の子どもとでは、約一年近い能力の差
がある。さらに四月生まれの子どもと、三月生まれの子どもとでは、約一年近い能力の差があ
る。そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約二年近い能力の差が生まれ
ることがある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰なま
でに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで大騒ぎす
る。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう
怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だけ集め
て、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえないのです
か」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその内容を説明したの
だが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、私はそのとき、ふとこ
う考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことではない
か。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に六〇〇以上もの大学が
ひしめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列がある。もともとで
きる子と、できない子を、同じように教えろというほうがムリなのだ。……と思ったが、やはりこ
の考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認めあ
い、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるものがいい生
活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」というのは、一見正論
に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの子どもが、今はでき
がよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……ということを考えていくと、
自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活動に
は競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会はおしまい。
そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能力によって、差別
してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けてはいけない。子どもたち
を温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこで思いやりや同情、やさしさや
協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵というのは、あくまでもその副産物に過
ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、組織
的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の欠陥が隠
されている。冒頭に、私は「上位一〇%」とか、「下位一〇%」とか書いたが、こうした考え方そ
のものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何でもないよ
うなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満五歳児)で、約二〇%はい
る。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。この時
期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」という言い方
は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私も幼児を教えて三〇
年以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえると、「大声で……」ができる
子どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味で、私は、『のどは、心のバロメー
ター』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそうにクッ
クッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思うのだが、大声で笑
わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神経質な子育て、暴力、
暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、萎縮する。意味のないこと
をボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、自分のことがわからない。
「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえってそういう静かな(?)子どもを、で
きのよい子と思い込んでいるケースもある。こうした誤解が、ますます教育をむずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子どもは、そ
れだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 ムリをすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はと
りあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていた
が、まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では
開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、
何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをす
れば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするな
ど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう
言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわ
ねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎりムリ。その前にK君はバーントアウトしてしま
うかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからと
いって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。
それに気づかない。だからあれこれムリをするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K
君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校はムリだと言うのか! ムリならムリとはっきり言ったらどうだ。失敬
ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと
家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるよ
うになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが
起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は
不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題
にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷
底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。一度そ
の悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、つぎつ
ぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。
問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親
は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくし
て、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に
近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親の
ほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめ
てA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうしたムリが、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始ま
る。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかり
つぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間
かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。一度、こういう症状を示したら、親は子ど
もの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれがわからない。子どもを叱ったり、説教し
たりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、
朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつ
けてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて
解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する
不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達し
たとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけではない。バーントアウ
ト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程
度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、二〇人に一人と
も、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食
症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭
にある。が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親
はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に
原因を求め、その責任を追及する。もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮に
そうではあっても、もし家庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たし
ているなら、ほとんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずであ
る。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさ
ないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしな
いことだけ」を考えて、一年単位で様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果。(だ
から悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷
底へ落とさないことだけを考えて、対処する。
(02−10−13)

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
※(参考)以前書いた原稿を、添付しておきます。(中日新聞で発表済み)
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子どもの心が燃え尽きるとき   

●「助けてほしい」   
 ある夜遅く、突然、電話がかかってきた。受話器を取ると、相手の母親はこう言った。「先生、
助けてほしい。うちの息子(高二)が、勉強しなくなってしまった。家庭教師でも何でもいいから、
してほしい」と。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラ
ス中、二〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。
一クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多
いとみるか、少ないとみるか?

●燃え尽きる子ども
 原因の第一は、家庭教育の失敗。「勉強しろ、勉強しろ」と追いたてられた子どもが、やっと
のことで目的を果たしたとたん、燃え尽きることが多い。気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減
退、朝起きられない、自責の念が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、
強い虚脱感と疲労感を訴えるようになる。概してまじめで、従順な子どもほど、そうなりやすい。
で、一度そうなると、その症状は数年単位で推移する。脳の機能そのものが変調する。ほとん
どの親は、ことの深刻さに気づかない。気づかないまま、次の無理をする。これが悪循環とな
って、症状はさらに悪化する。その母親は、「このままではうちの子は、大学へ進学できなくな
ってしまう」と泣き崩れていたが、その程度ですめば、まだよいほうだ。

●原因は家庭、そして親
 親の過関心と過干渉がその背景にあるが、さらにその原因はと言えば、親自身の不安神経
症などがある。親が自分で不安になるのは、親の勝手だが、その不安をそのまま子どもにぶ
つけてしまう。「今、勉強しなければ、うちの子はダメになってしまう!」と。そして子どもに対し
て、しすぎるほどしてしまう。ある母親は、毎晩、子ども(中三男子)に、つきっきりで勉強を教え
た。いや、教えるというよりは、ガミガミ、キリキリと、子どもを叱り続けた。子どもは子どもで、
高校へ行けなくなるという恐怖から、それに従った。が、それにも限界がある。言われたことは
したが、効果はゼロ。だから母親は、ますますあせった。あとでその母親は、こう述懐する。
「無理をしているという思いはありました。が、すべて子どものためだと信じ、目的の高校へ入
れば、それで万事解決すると思っていました。子どもも私に感謝してくれると思っていました」
と。

●休養を大切に
 教育は失敗してみて、はじめて失敗だったと気づく。その前の段階で、私のような立場の者
が、あれこれとアドバイスをしてもムダ。中には、「他人の子どものことだから、何とでも言えま
すよ」と、怒ってしまった親もいる。私が、「進学はあきらめたほうがよい」と言ったときのこと
だ。そして無理に無理を重ねる。が、さらに親というのは、身勝手なものだ。子どもがそういう
状態になっても、たいていの親は自分の非を認めない。「先生の指導が悪い」とか、「学校が合
っていない」とか言いだす。「わかっていたら、どうしてもっとしっかりと、アドバイスしてくれなか
ったのだ」と、私に食ってかかってきた父親もいた。

 一度こうした症状を示したら、休息と休養に心がける。「高校ぐらい出ておかないと」式の脅し
や、「がんばればできる」式の励ましは禁物。今よりも症状を悪化させないことだけを考えなが
ら、一にがまん、二にがまん。あとは静かに「子どものやる気」が回復するのを待つ。


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(173)

悪のドミノ倒し

 このところ浜松市内の交差点の様子が変わってきた。四つ角でも、赤信号に変わってからも
交差点につっこんでくる車がふえた。赤信号になって、一呼吸おいてからつっこんでくる車も、
少なくない。おかげで、横断歩道を渡るのも命がけ。先月は、歩行者用信号が青になったので
渡ろうとして、私が半分ほど渡ったところに、赤信号を無視して飛び出してきた車があった。思
わず「あぶない!」と叫んだが、そういうドライバー(二〇歳代の女性)にかぎって、こちらを見
向きもせず、走り去っていった。

 二〇年前には、こういうことはなかった。ただ地域性があるというか、名古屋市のドライバー
は、マナーが悪いということは、当時から感じていた。しかしこの浜松までそうなるとは! こう
したマナーは、だれか一人が破ると、ちょうどドミノ倒しのように、つぎからつぎへと破られ、あっ
という間に、総倒れになる。これを「悪のドミノ倒し」という。たとえば交差点で、黄色信号になっ
たからと車を止めたりすると、うしろの車が、「早く行け」と、クラクションを鳴らす。あるいはこれ
はワイフが経験したことだが、わざと追突寸前まで、車をこすりつけられたりする。

 こうした「悪のドミノ倒し」は、経済状況が悪化し、社会情勢が不安になると、あちこちで、しか
もあらゆる場面で、起こる。そしてそれがきっかけで、あっという間に、社会秩序は崩壊する。
敗戦直後の日本でも、起きた。あの旧ソ連が崩壊するときも起きた。そして最悪のばあには、
略奪や強奪にまで発展する。店や役所を、焼き討ちするということもある。悪のドミノ倒しを甘く
みてはいけない。

 このドミノ倒しは、いかにその前兆段階でとらえ、そしてその段階で抑えるかが大切。つまり
そのために警察という組織があるが、その警察がこのところアテにならない。決められたこと
を、必要最低限しかしていないという感じ。「法の番人」というよりは、親切でやさしい公務員と
いった感じ。目の前で赤信号になってから飛び出した車を見かけても、見て見ぬフリ。(実際、
そういう場面を見かけたぞ!)正義を守るという気迫が、どこにもない?

 こうしたドミノ倒しは、ここにも書いたように、あらゆる場面で起きる。騒音やゴミ問題。インチ
キやゴマカシなど。もちろん家庭の中でも起きる。家庭が崩壊するときも、同じようにいろいろ
な場面でこの「悪のドミノ倒し」が始まる。電気がつけっぱなしになる。ゴミが散らかったままに
なる。食事の時間が乱れる。たがいに約束が守れなくなるなど。一度こういう状態になると、崩
壊するまでに、それほど時間はかからない。

 私は交差点で、赤信号になってからもつっこんでくる車を見かけるたびに、(今でもどこの交
差点でも、当たり前の光景になってきたが)、「日本も、あぶない段階に入った」とみる。この大
不況の中で、人々の心がどこか殺伐(さつばつ)としてきた。しかしこういう時代に、いかに「自
分」を保ちつづけるか。それで、その人の価値が決まる。私も、実のところ、自信はないが、で
きるだけ自分を保ちたいと思う。これから先、この日本や世界は、たいへんな時代を迎えるだ
ろう。……だろうというより、そうなるという前提で考えたほうがよい。たまたま今日、アイルラン
ドから帰ってきた女性に聞いたが、そのヨーロッパでは、急速に極右勢力が力をもちだし、各
国の政情が不安定になりつつあるという。この極東も、例外ではない。何がどうなるかというこ
とは、ここでのテーマではないので、書かないが、日本の国家経済は、今、完全に破綻(はた
ん)している。日本だけ無事にすむという保証は、もうない。が、ただひとつ、願わくば、子ども
たちの世界だけは、そのワクの外に置きたい。その努力だけは、忘れてはならない。
(02−10−11)

(教訓)正直に生きるのがバカらしいとか、まじめに生きると損という社会をつくってはいけな
い。しかしこの私も、実のところ、そう感ずることが多くなった。ときどき、自分のまじめさが、バ
カらしく思えることがある。みなさんは、どうですか? (本当の私は、決してまじめ人間ではな
い。必死になって、まじめなフリをしているだけ。あるいはまじめでいようと思っているだけ。)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(174) 
 
本当の私

 私はもともと小ズルイ男で、今も、それが自分の中にしっかりと残っている。すべてをあの戦
争の責任にするわけではないが、私が過ごした幼児期というのは、戦後の混乱期。まさにドサ
クサのころで、秩序があるようで、なかった。そういう時代だった。親たちも食べていくだけで精
一杯。家庭教育といっても、その「キョ」の字もなかった。

 その私が一見、まじめそうな顔をして生きているのは、そういう自分を必死になって押し殺し
ているからにほかならない。一度幼児期にできた「自分」を消すことは、私の経験からしても不
可能だと思う。ふと油断をすると、すぐ表面に出てきてしまう。ただ私のばあい、それが「盗み」
とか、「暴力」とか、そういう反社会的な面で出てこないだけ、ラッキーだった。出てくるとするな
ら、「お金」と「女性」についてだ。

 まず、「お金」。たとえば道路でサイフを拾ったりすると、それをどうするかでいまだに、悩んだ
り苦しんだりする。しかしそういう自分がいやだから、つまりあとで、あと味の悪い思いをするの
がいやだから、何も考えず、交番に届けたり、近くの店に届けたりしている。自分の行動パター
ンを決めて、それに従っている。

 つぎに「女性」。私の青春時代は、まさに「女に飢えた時代」だった。高校生のときも、デートを
しただけで先生に叱られた。そうした欲求不満が、私の女性観をゆがめた。イギリスの格言に
も、『抑圧は悪魔をつくる』というのがあるが、まあ、それに似た状態になった。結婚前は、女性
を「おもちゃ」ぐらいにしか考えていなかった。女性の気持ちなどまったく無視。セックスの対象
でしかなかった。が、ある事件を契機に、そういう「女遊び」をまったくやめたが、今でも、そうい
う思いはたしかに残っている。ふと油断すると、女性が「おもちゃ」に見えるときがある。(しかし
これは本能によるものなのか、自分の意識によるものなのかは、よくわからない。たとえば男と
いうのは、射精する前と、射精したあとでは、女性に対する関心が、一八〇度変わる。射精す
る前には、ワイフでもたしかにおもちゃに見える。しかし射精すると、その思いは完全に消え
る。なぜか?)

 話を戻す。こうした小ズルさがあるから、反対に、他人の小ズルさが、よくわかる。相手が、
自分でもしそうなことをすると、それがすぐわかる。先手をとったり、それから身を守ったりす
る。そういう意味では役にたっている。が、それがよいのか悪いのか? 人を疑うのは、あまり
気持ちのよいものではない。しかしこういうことは言える。私のワイフは、同じ団塊の世代だ
が、人を疑うことを知らない。純朴と言えば聞こえはよいが、実際には無知。そのため今まで
悪徳商法の餌食(えじき)にされかかったことが、何度となくある。おかしな料理器具や、アワ風
呂発生器や、あやしげな生協活動や、はたまた新興宗教などなど。私が「やめろ」と言わなけ
れば、今ごろはかなりの損をしていたと思う。

 そんなわけで私が今、一番恐れているのは、やがて気力が弱くなり、自分の本性がそのまま
モロに外に出てくること。そうなったとき、私は実に醜い人間性をさらけ出すことになる。すでに
今、その兆候が現れ始めている?
 
 そこで私は今、つぎのことに心がけている。どんなささいなルールも守る。ワイフが、「そんな
こといいのに……」とあきれるときもあるが、とにかく守る。そのルールが正しいとか正しくない
とか、そういうことは判断しない。一応社会のルールになっているときは、それを守る。

 あるいはどんな少額でも、お金はごまかさない。レジなどで相手がまちがえたときは、おつり
が多くても少なくても、(少ないときは当然だが……)、即、申告する。お金は借りない。貸さな
い。もちろん交通ルールは守る。黄色になったら、どんなばあいでも、止まる。自転車に乗って
いても、それは守る。そういうことを自然にしている人から見れば、「そんなこと当然のことでは
ないか」と笑われるかもしれないが、私はそうしている。そうしながら、つまり、自分の行動パタ
ーンを、できるだけわかりやすくしながら、自分の邪悪な部分を目覚めさせないようにしてい
る。
(02−10−11)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(175)

満五五歳になるについて

 私はもうすぐ満五五歳になる。年齢などというのは、ただの数字だから、それにこだわらねば
ならない理由など、ない。はっきり言って、どうでもよい。しかし無視するわけにはいかない。人
間が社会的動物であるなら、その社会には、そのつど無数の尺度がある。年齢は、その第一
の尺度ということになる。

 私がN氏にはじめて会ったのは、N氏が五五歳になる少し前だった。雪の降り積もった昼の
ことで、すれ違いざま、「このあたりに下宿はありませんか」と聞いたのが、きっかけだった。そ
のとき私は金沢大学の学生で、下宿をさがしていた。そのあと、私はN氏には、N氏がなくなる
まで、ずっと何かにつけて世話になった。今、自分がその五五歳になるとき、どういうわけだ
か、N氏の名前と、顔が一番最初に頭の中に浮かんだ。

 つぎに隣人のR氏のことが頭に浮かんだ。私が今住んでいる場所に引っ越してくるとまもな
く、R氏も引っ越してきた。そのときR氏が、「満五五歳です」と言ったのを、はっきりと覚えてい
る。R氏は、旧国鉄を退職する直前だった。「もうすぐ定年退職でね」と言った言葉もよく覚えて
いる。

 ほかにもあるが、昔は、満五五歳というのは、定年退職の年で、その年齢には特別の意味
があった。中学のときの先生も、高校のときの先生も、みんな満五五歳で退職していった。そう
いう人たちを頭の中に思い浮かべながら、「ああ、私もその五五歳か」と思う。「早い」というよ
り、不思議なことに、私には、自分が満五五歳であるという実感がほとんど、ない。少なくとも私
には定年というものがないし、いわんや退職ということもない。しかし、私は五五歳!

 その五五歳になって、私は今、あがいているのか? 何かができそうで、結局は何もできな
かった。何かをするにも、もう年齢制限は超えている。これから先、今まで以上に何かをできる
ということは、ありえない。しかしまだ何かができそうな気がする。何かをしなければならないよ
うな気もする。が、一方では、心のどこかでは、こんな声も聞こえる。「あきらめろ。あがいても
ムダだ」と。しかし私は自分を止めることができない。行くしかない。前に進むしかない。

 その五五歳になっても、私のまわりには、わからないことだらけ。ときどき講演などで演壇に
立ったとたん、「どうしてこの私がこんなところに立っているのだろう」と思うときがある。何もわ
かっていない私が、さもしたり顔で、みなの前に立つ。何かを教えてもらいたいのは、むしろ私
のほうなのだ。が、そこで壇をおりるわけにはいかない。そういうときは、「ええい、なるようにな
れ!」と心の中で叫びながら、ものをしゃべり始める。つまりそれがそのまま今の私の心境とい
うことになる。私は「ええい、なるようになれ!」と、生きている。

 さて、これから先、私はどのように自分の人生を組み立てたらよいのか。計画はあるのか、
ないのか。目標はあるのか、ないのか。そんなことを自分に問いかけていると、結局は自分が
無限ループの輪の中に入ってしまうのがわかる。つまり堂々巡り。同じことを考えて、また同じ
結論に達してしまう。そしてそれは恐ろしいことだが、「計画はない。目標もない。ただこのまま
死ぬまでがんばるしかないだろうな」と。

 で、タイトルを「満五五歳になるについて」としたので、何か気のきいたことを書きたいのだ
が、それがまったく書けない。昨日は昨日。今日は今日。明日は明日。やはり満五五歳などと
いっても、それは私とは関係のないただの数字でしかない。だから何か特別のことを書けと言
われても、何も書けない。今日は今日で、明日は明日で、私は私なりに懸命に生きていくしか
ない。年齢や日にちに関係なく、だ。

 ただこういうことは思う。N氏にしても、R氏にしても、そして私が知っている先生たちにして
も、そのあと静かに余生を送り、そのほとんどは、もうこの世にいない。「私もあっという間にそ
うなるだろうな」という思いだけは、どうしてもぬぐい去ることができない。だからその分、「急が
ねば」という思いだけは、今、やたらと強い。
(02−10−11)

(追記)多分、ほとんどの読者の方は、私より若いと思う。だからいつか、あなたも満五五歳に
なったら、この文を読み返してみてほしい。あるいはあなたが満五五歳になったとき、どのよう
に考えるようになるか、それを今から想像してみるのもよいかもしれない。私と同じように考え
るだろうか。それとも違うだろうか。それは私にもわからないが、しかし少しだけ未来に自分の
時間を置き、「そのときになったら、自分はどうなるのだろう」と想像することはムダではない。
そうすることで、あなたはあなたの人生を、仮に私を通してでもよいが、二度生きることができ
るようになるのではと思う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(176)

持病との闘い

 私には、二つの持病があった。ひとつは花粉症。もうひとつは偏頭痛。しかし今は、この二つ
を克服した。が、それには長い物語がある。

 まず、花粉症。私が最初に花粉症による症状を自覚したのは、浜松に移り住むようになって
からしばらくのことだった。私が二四歳くらいのことではなかったか。春先になって、ひどい鼻水
とくしゃみが出た。その前に喘息に似た症状も出た。しかしそのときは花粉症という言葉もまだ
一般的ではなく、私は風邪と思い、風邪薬ばかりのんでいた。

 が、年々症状はひどくなった。やがて花粉症という言葉が耳に届くようになり、私は毎年、春
先になると、その花粉症に苦しむようになった。その苦しさは、花粉症になったものでないとわ
からないだろう。杉の木のない沖縄へ移住しようかと本気で考えたこともある。

 もうひとつは偏頭痛。これは三〇歳をすぎるころから現れた。が、それも最初は偏頭痛とは
わからなかった。大病院でも、「脳腫瘍」と誤診されるような時代だった。私はそのころ、年数
回、大発作に襲われ、そのたびにふとんの上で、四転八転の激痛に苦しんだ。「頭を切ってく
れ」と叫んだこともある。

 春が近づくと、私は毎年、ゆううつになった。たいてい二月の下旬からそれは始まり、五月の
連休になって、暖かい南風が吹くまで、つづいた。毎晩巨大なマスクをして眠ったが、それでも
あまり効果はなかった。睡眠不足と不快感で、顔中まっかにはらしながら、それでも何とか、そ
の時期をしのいだ。そして花粉の季節が終わると、「終わった!」と、毎年とびあがって、それ
を喜んだ。

 偏頭痛はやがて、強力な薬が開発されて、それをのめば、ウソのように症状は消えるように
なった。しかし副作用というか、そのため胃がやられ、そのあと、ゲーゲーとものを吐くこともあ
った。で、ドクターに相談すると、効力の弱い薬にかえてくれ、ついでに胃の薬ものむようにと指
導された。しかしその偏頭痛は、四〇歳を過ぎるころまでつづいた。

 花粉症がなおったわけは、一度、浴びるようにその花粉をかぶったことがある。どうしても山
の中で作業しなければならないようなできごとがあり、それでそうした。結果、多分、体のほうが
あきらめたのだと思う。それ以後は、毎年、その季節のはじめに少し症状が出るだけで、それ
以後は症状は出なくなった。人に言わせると、「ショック療法」というのだそうだ。本当にそういう
療法があるのかどうかは知らないが……。

 偏頭痛のほうは、今でも油断すると、出てくるときがある。しかしこちらとは、共存関係という
か、じょうずにつきあうことで対処している。このところは、その前ぶれ症状がわかるようになっ
た。どこか頭が重くなってきたら、要注意。「あぶないぞ」と自分に言い聞かせて、回避するよう
にしている。そういう技術も身につけた。だから大きな発作はないが、しかしそれでもときどき、
偏頭痛は起きる。たとえばチョコレートがダメ。おかしなことだが、チョコレートを一、二個食べ
ると、偏頭痛が起きる。だからこの一〇年、チョコレートは、ほとんど食べていない。いや、食べ
ては、そのあと偏頭痛にみまわれ、後悔している。

 だれしも、ひとつやふたつ、持病があるもの。そういう持病とうまくつきあうのも、健康法のひ
とつかもしれない。
(02−10−12)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-22

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 483人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−10−22号(127)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
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  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
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Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】よりよい子育てのために(To do more perfect parenting)
【2】最近書いたエッセイより(Let't think about Education)
【3】秋の宵に(What is Me and You?) 
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●伸びる子ども

 伸びる子どもには、いくつかの特徴がある。それらを並べてみると、つぎのようになる。

(1)積極的である……何か新しいことを提案すると、「やる!」「やりたい!」と、食いついてく
る。趣味も多く、多芸多才。友人の数も多い。幼児のばあい、「何かしたいことがあるか?」と
か、「何がほしい?」と聞くと、つぎつぎとそれに答えたりする。つまりその分、好奇心が旺盛。
ひとりで待たせても、身の回りからつぎつぎと新しい遊びを発明したりする。そうでない子ども
は、「退屈〜ウ」「早くおうちに帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らせる。

(2)集中力がある……能力の差は、集中力の差といってもよい。その集中力のある子どもは、
一度ものごとに集中し始めると、人を寄せつけないような気迫を見せる。そういう集中力をみせ
たら、できるだけその時間を長くのばすようにする。私も教室などで、そういう集中力を見せる
子どもがいたら、ほかの子どもをそのままにしておいても、そういう子どもが何らかの結論を出
すまで、静かに待つようにしている。

(3)思考が柔軟である……あとあと伸びる子どもは、思考が柔軟、つまり頭がやわらかい。臨
機応変にものごとに対処できる。とくに幼児期には、頭がかたいというのは、好ましいことでは
ない。ものごとにこだわる、がんこになるなど。遊びの内容がワンパターンであるとか、友だち
の数も限られているというのも、好ましいことではない。そういうときは子どもをなおそうと思うの
ではなく、親自身が自分の世界を広める。そしてその世界へ子どもを巻き込んでいくという方
法で対処する。

 子どもの脳は、できるだけいろいろな方向から刺激するのがよい。とくに大切なのが、「アレ
ッ!」と思うような意外性。この意外性が子どもの脳を限りなく刺激する。私にも最近、こんなこ
とがあった。オーストラリア人の夫婦が私の家にホームスティしたときのこと。朝食に白いご飯
を出すと、その夫婦は、白いご飯の上に砂糖とミルクをかけて食べていた。そのときほど、頭
の中でバチバチと常識がショートしたことはなかった。子どももそうで、たとえばおもちゃのトラ
ックに寿司を並べて出してみる、料理で大きな皿の上に絵を書いてみるなどができる。あなた
も一度、ためしてみてほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●のんきママの子どもは明るい

 母親にもいろいろある。その中でも、のんきな母親の子どもは、概して明るく伸びやか。そん
なわけでもし理想の母親とはと聞かれたら、私は迷わず、「のんきな母親」をあげる。しかしの
んきであることは、本当にむずかしい。

 その第一。子どもへの信頼感。さらには、子どもへの全幅の愛情、家庭生活への満足が前
提としてなければならない。母親である以上、それなりの知性や理性が必要なことは言うまでも
ない。「のんき」イコール、愚か、無頓着、無関心ということではない。

 つぎに母親自身の人生観や教育観がしっかりしていなければならない。人生はよく荒波にた
とえられるが、そういう荒波に耐えられるだけの人生観や教育観である。そのためにも、常日
ごろから、「考える母親」でなければならない。また確固たる人生観や教育観が、そのまま盾
(たて)になり、砦(とりで)になる。無知、無学、無教養は子育ての大敵と考える。

 そして三番目に、強靭(きょうじん)な精神力と、安定した情緒。これは健康論に似ている。健
康な体が心の安定には必要不可欠であるのと同じように、安定した家庭は、子どもを育てるた
めの必要条件である。が、その中でも重要なのが、母親の安定性である。言いかえると、母親
の精神力や情緒が不安定になると、長い時間をかけて、家庭も不安定になる。そしてそれが
子どもにもろもろの悪い影響を与える。よく誤解されるが、離婚が悪いのではない。悪いのは、
その離婚にいたるまでの家庭内騒動である。この騒動が、子どもの心を不安定にする。

 ……とまあ、理想論を書いたが、こういう母親など、そうはいない。ここに書いたのはいわば
努力目標ということになる。しかしこういうことは言える。反対にあなたののんき度をみることに
よって、あなたの子育ての内容を、客観的に判断できる。あるいはあなたの子どもの伸びやか
さをみて、あなたの子育てのじょうず、へたを客観的に判断できる。もしあなたの子どもが、幼
稚園や学校で、明るく伸びやかであれば、それでよし。しかし暗く沈んでいるようであれば、家
庭のあり方(幼稚園や学校に原因を求めるのではなく)を反省してみたらよい。簡単な自己診
断テストを考えてみた。つぎの五つの項目にうち、三〜四個当てはまれば、あなたは今の子育
てに、自信をもってよい。

○園や学校から帰ってきたとき、大きな声で、「ただいま!」と言って帰ってくる。
○家の中でも態度が大きく、存在感がある。いつもしたいことをしている。言いたいことを言う。
○まちがえたり、失敗しても、どこか笑ってすますようなところがあり、それを注意したりすると、
「ごめん」とすなおに謝って、それを認める。あとはケロリとしている。
○子どもがそばにいるだけで、自分まで楽しくなる。子どもに意見を求めることも多い。
○子どもがすることに信頼感をもてる。また自分の子どもは、同年齢のほかの子どもとくらべて
も、すぐれていると思う。自慢の子どもと思うことがたびたびある。

 のんびりママの子どもは、概してこのタイプの子どもになる。が、ひとつ、注意しなければなら
ないのは、母親というのは、外見だけ判断してはいけないということ。神経質でピリピリしている
母親ほど、外の世界では、それを隠すため、正反対の人間を演ずることが多い。「私は子ども
にやりたいようにさせています」と公言する母親ほど、家の中では子どもをしめつけている。ほ
んとうにのんびりしている母親というのは、いつも自分の子育てに謙虚。私が何かをアドバイス
しても、「そうですね」と受け入れる。さてさて、あなたはどうか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●子どものバイタリティ

 おかしな時代だと思う。今の世の中、どこかナヨナヨした子どもほど、できのよい子どもという
ことになっている。一方、バイタリティがあり、どこか腕白(わんぱく)な子どもほど、できの悪い
子どもということになっている。私自身が腕白だったこともある。今の世相を見ていると、どこか
自分が否定されてしまうこのようにすら感ずる。反対に、数は少ないが、私の子ども時代を思
い起こさせる子どもに出会ったりすると、どこか心がほっとする。心がなごむ。

 子どもが本来的にもつバイタリティは、大切にする。たとえば最近、多動性児(ADHD児)が
あちこちで問題になっている。が、問題になるのは、「教える側の立場」で問題になるだけで、
子ども自身がもつバイタリティということを考えるなら、むしろあとあとその子どもにとっては、よ
い方向に作用することが多い。(ADHD児のばあい、自意識が芽生える小学三〜四年生を境
として、その症状は急速に収まってくる。自意識の中で、自分をコントロールするようになるか
らである。そしてそれとちょうど反比例する形で、今度は持ち前のバイタリティが、その子どもを
前向きにひっぱっていく。どこか周囲に鈍感なところもあるが、現代社会というワクの中では、
むしろその鈍感さが、よいほうに作用するということもある。むしろこうした世の中では、繊細な
子どもほど、生きにくいのでは?)

 このバイタリティを悪と決めつけてはいけない。たとえば子どもに作文を書かせたとする。そ
のとき、多少字がめちゃめちゃでも、また乱暴でも、さらに文法や書式がおかしくても、子ども
が自分の気持ちをそのまま表現するようであれば、よしとする。そういうおおらかさが、子ども
の表現力を高める。運動面や生活面については、さらに言うまでもない。

 このバイタリティは、自我の発達と深くからんでいる。教育の世界で自我というときは、「つか
みどころ」のことをいう。自我の発達した子どもは、外から見ても、「この子はこういう子だ」とい
うつかみどころがはっきりしている。わかりやすい。たとえば「こうすればこの子は怒るだろう
な」とか、「こうすればこの子は喜ぶだろうな」ということが、わかりやすく、その分、教える側も
教えやすい。反対に自我の発達の遅れている子どもは、どこかグズグズしていて、どういう子
なのか、それがわかりにくい。柔和な表情を浮かべて従順な様子を見せるから、「いいのかな
……?」と思いつつも、少しムリをしたりすると、それがあとで大問題になったりする。

 その自我は、本来、あらゆる動物も、そし人間も、生まれながらにして平等にもっているもの
と考える。そのため「育てる・育てない」という視点からではなく、「引き出す・つぶす」という視点
で考える。子どもはあるがままに、あるべき環境で育てれば、その自我の強い子どもになる。
そうでなければ、そうでない。が、つぶす方法(?)はいくらでもある。強圧的な過干渉、異常な
過関心、溺愛、過保護など。何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。子ど
もの側からみて、つかみどころのない親の心は、子どもをかぎりなく不安にさせる。まさに『親
の情緒不安、百害のもと』ということになる。

 ここにも書いたように、バイタリティの旺盛な子どもは、今の世界では、周囲から白い目で見
られることが多い。しかしそういうときでも、子どものバイタリティを信じ、表面的には、「すみま
せん」と謝りつつも、決してそれを悪いことと決めてかかって、つぶしてはいけない。このタイプ
の子どもは、いつか必ず、何らかの形で、自分の道を極める。それを信じて、前向きに子育て
をしていく。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ある進学塾のマニュアルより

 久しぶりに私塾の経営者たちが集まる会合に出てみた。その席で、こんな話が出た。一人の
経営者が、「生徒が突然やめると言ったときの対策はどうしていますか?」と聞いたときのこ
と。別の経営者が、「こういうものがありますよ」と言って、Y進学塾(東京でも大手の進学塾)の
指導マニュアルを見せてくれた。それにはこうあった。

(生徒がやめるとき)
(1)「長い間、Y塾に来ていただいてありがとうございました。○○さん(生徒名)は、よくがんば
ってくれました。うちの塾で学んだことは、これからもしっかりと役に立つと思います。どうか、こ
れからも元気でがんばってください。またよい結果が出ましたら、どうかお知らせください」と、
親には言う。

(2)生徒に対しては、未来をおどしたり、また親に心配をかけるようなことは言ってはいけな
い。生徒のほうから退塾届けが出たあとは、引きとめるためのどんな言葉も使ってはいけな
い。「やめないでほしい」「やめると成績がさがる」式の言い方は、タブー。「君はよくがんばった
ね」と、ねぎらいの言葉をかけながら、「またいつでも戻っておいでよ」「勉強をしていてわからな
いことがあったら、遠慮せず聞きにおいでよ」と言う。

(3)別れぎわの印象をよくするため、いつもより、努めてやさしい言い方、ひかえ目な言い方を
すること。笑って、にこやかな雰囲気で別れること。電話での応対も、これに準ずる。(以上、ほ
ぼ原文のまま。)

 この指導マニュアルを読んだとき、私は自動車のセールスを思い浮かべた。おもしろいこと
に、自動車のセールスマンも、まったく同じことを言う。私たちが、H社の車から、T社の車に乗
りかえたとき、それまで世話をしてくれていたH社のセールスマンは、こう言った。

 「長い間、当社の車に乗っていただき、ありがとうございました。長く乗っていただくと、あきる
ということもありますね。お気持ちはよくわかります。どうかこれからもよろしくお願いします」と。

 多分、販売会社にも、同じようなセールスマニュアルが用意してあるのだろう。こういうときい
ろいろな言い方があるが、言い方をまちがえると、未来の客を逃がしてしまうことになる。けん
か別れだけは、まずい。つぎの客を紹介してもらいたいという下心もある。別れぎわを美しくす
ることは、それなりに意味がある。もっとも、そのY塾の指導マニュアルには、その前の項目
に、「生徒を引きとめる方法」というのもあり、その中には、「生徒の退塾を、事前に察知する方
法」というのもある。「その結果、退塾するというのであれば、もう引きとめてもムダ」というわけ
である。ここにあげた「生徒がやめるとき」は、そのあとにつづく項目である。

 進学塾にこうしたマニュアルがあるということ自体、生徒をモノ扱いしていることを意味する。
生徒は、金を儲けるためのモノというわけだ。数年前だが、ある銀行員がこんなことを告白して
問題になったことがある。家庭を回りながらわずかな積み立てを集金することを、銀行員の間
では、「ドブさらい」と呼んでいるというのだ。この話には、私も怒った。当時、私はその銀行で
はないが、毎月二万円の積み立て貯金をしていた。しかし実は、教育の世界にも、これに似た
隠語がたくさんある。その中には、「捨て子」という、とんでもないものもある。指導がむずかし
いというより、教師がサジを投げた子どもを、そう言うらしい。話が脱線したが、要するに、この
世界、万事、どこかおかしい。おかしいまま、前に進んでいる……?

 私が「こういうことを戦略的にマニュアル化している進学塾というのも、こわいですね」と話す
と、その経営者はこう言って笑った。「講師が一〇人、二〇人となると、それもやむをえないこと
です。いろいろな講師がいますから」と。しかし方向こそ逆だが、その発送は、客を「ドブ」と呼
んだ銀行員と、どこも違わない。
 
 あなたの子どもが今塾をやめるとき、はたして講師が何というか。それを観察してみるのも、
おもしろいのではないだろうか。多分、どの講師も同じように言うはずである。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


考えるということ

●K君(小二)のケース
 最近とくに気になるのが、「考えようとしない子ども」。以前よりもふえているように思う。何か
問題を出しても、考える前から、「できない」「わからない」「やりたくない」「答を教えて」と逃げて
しまう。決してその能力がないわけではない。しかしその能力の使い方を知らない。だから結果
的に、学力はほかの子どもとくらべても、劣る。

 K君(小二)がそうだった。ちょうどバブル経済がはじける前のころとはいえ、かなり裕福な家
庭の子どもで、「お年だまを、五〇万円もらった」と言うくらいだから、ハンパではない。親のみ
ならず、祖父母の愛情をたっぷりと受けていた。それもあって、それなりの「いい子」だった。朗
らかで明るい。屈託がなく、伸び伸びしていた。しかし考える力がない。まったく考えようとしな
い。あるいは自ら考えることを、避けてしまった。ある日、こんな問題を出してみた。

「3、6、9、12と並んだとき、のつぎの数は何ですか?」と。

 K君は、最初から問題を読もうとしない。「これ、足し算?」「それとも引き算?」とか言うだけ。
「問題を読んでみなさい」と指示しても、問題を読もうともしない。視線は宙に浮いたまま。

 問題は、なぜK君がそうなのかということ。さらに、どうすればK君のような子どもを、考える子
どもにすることができるかということ。

 よく誤解されるが、知識と思考は、まったく別。情報を管理するのは、記憶の分野だが、思考
することには、それ自体、ある種の苦痛をともなう。だからたいていの子ども(おとなもそうだが
……)は、無意識のうちにも、思考することを避けようとする。それがわからなければ、難解な
数学の問題を与えられたときのことを想像してみればよい。だれだって、できるなら答をみて、
すましたいと思う。その分、ビデオか何かを見て過ごしたほうが楽しいと思う。

●享楽は思考の敵
 「享楽(きょうらく)」という言葉がある。「目先の快楽に走るさま。官能的快楽に傾くさま」(講談
社、日本語大辞典)という意味だ。思考はこの享楽と、ちょうど対照的な位置にある。享楽は思
考の敵であり、享楽に走れば走るほど、思考は停止する。言いかえると、享楽は思考の大敵。

 K君のケースでは、K君は、まさにしたい放題。甘やかされた環境。K君の家庭では、すべて
がK君を中心に動いていた。同じ敷地内に祖父母も住んでいて、K君に惜しみなく時間と手間
をかけていた。こういう環境の中で、K君は享楽的に生きることが、生活の柱になった。ただ父
親も母親も、それなりにしっかりとした教育方針をもっていた。だからドラ息子にありがちな、自
分勝手さやわがままな面は、それほど目立たなかった。

 私はK君にその問題を与え、どのような反応を示すか観察してみた。何度も「考えてごらん」
とうながすのだが、取り組もうとすらしない。あちこちをキョロキョロ見ながら、どこかソワソワし
ている。一度こういう状態になると、あとは根(こん)くらべ。ときどき適当な数字を書いてきて、
「これ違うの?」とか聞く。そのつど「10」とか、「5」とか書いてきた。私は「違うよ」と言い、K君
を無視した。が、K君は、「やり方を教えて」「ヒント、ちょうだい」とねだった。私はそれも無視し
た。

 やがてほかの子どもたちがつぎつぎと、よりむずかしい問題ができるようになると、さすがの
K君も、どこか追いつめられたような表情を示し始めた。ときどき数字を見ては、「サン、ロク…
…ウ〜ン」と言っている。その間、一〇分ほど時間が過ぎただろうか、突然、「あっ、そうか!」
と叫んだ。やっ思考の糸口をつかんだようである。そしておもむろに、「15」という答を書いても
ってきた。私はおおげさにほめ、みなに手を叩かせた。

●思考
 思考するかしないかは、クセのようなものではないか。思考する人から見ると、思考しない人
がいることが信じられない。一方、思考しない人には、「思考」の意味すらわからない。ほとんど
の人は、テレビを見たり、新聞を読む程度で、思考していると錯覚している。さらに冒頭に書い
たように、情報と思考を混同している。頭の中に飛来する情報を音声にかえて、ペチャペチャと
口にするのは、思考ではない。

 何度も書くが、思考することには、ある種の苦痛がともなう。それは寒い夜に、ランニングに
でかけるような苦痛である。しかも思考したからといって、何らかの結果を得られるとは限らな
い。ある段階までくると、思考はループ状態に入る。同じことを何度も考えては、またもとにもど
る。あるいは一日、思考しても、「これは!」と思うようなヒラメキに出会うことは、めったにな
い。

 こうした状態から抜け出るためのもっとも簡単な方法は、だれかに思想(思考から得た結果)
を、脳に注入してもらうことである。わかりやすい例では、宗教(カルト)がある。カルトを信仰し
ている人にとっては、思想はすべてが上意下達方式で、「上」からやってくる。結構立派なこと
を言うが、たいていはオウム返し。どの信者も、テープレコーダーのように同じようなことを言
う。つまりノーブレイン(思考力、ゼロ)。はからずもある男性(五〇歳)はこう言った。私が、「あ
なたがたの指導者を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。「R先生は、万巻の
書物を読んでおられる。だから絶対、まちがいはない」と。こうした愚鈍性や盲目性は、多かれ
少なかれ、だれにでもある。もちろん私にもある。いちいち考えてばかりいたら、日常の生活が
できなくなる。

 そこで大切なことは、「考えるべき分野」と、「考える必要のない分野」を分けること。考えるべ
き分野というのは、たとえば生きザマの問題や、自分の専門分野だ。考える必要のない分野と
いうのは、たとえば近隣の人たちのゴシップや、ささいなトラブルだ。こうした分野に巻き込まれ
ると、自分が限りなく小さくなってしまう。自分を見失ってしまう。

●子どもの指導
 考える子どもにするには、テーマをそのつど与えながら、たっぷりと時間を与える。私の経験
では、一日に、一時間や二時間では足りない。もっと、だ。子どもでも、一日、数時間は必要で
はないか。実際には、そういう時間をつくるのは不可能かもしれないが、本当に考える子どもに
するには、それくらいの時間は必要。ぼんやりと遠くを見ながらでもよい。音楽を聞きながらで
もよい。あるいは読書をしたりでもよい。

ただテレビやビデオがよくないのは、見ている人に考えるスキを与えないこと。また考えるヒマ
を与えない。(スキのあるテレビやビデオは、かったるい印象を与え、人気がない。)あたかも
手を引きながら、ぐいぐいと先へ引っぱっていくかのようにして、情報を一方的に与えつづけ
る。だから、思考を養うという意味では、ほとんど効果がない? こう結論づけるのは少し危険
かもしれないが、今の私はそう思う。ではどうしたらよいか。

 アメリカやオーストラリアの小学校を見て驚くのは、いつも先生が子どもたちに問いかけてい
ること。「君は、どう思う?」「君の意見はどうかな?」と。そして生徒が何かを答えたりすると、
先生が、これまたおおげさにほめてみせる。一方、日本では、「わかったか?」「ではつぎ!」と
授業を進める。授業の進め方そのものが、基本的に違う。学校で無理なら、家庭で応用してみ
たらよい。「あなたはどう思うの」と。ためしに、「あなたは今日、ママに何をしてほしいの」と聞い
てみるのもよい。

 ここでのコツは、とにかく「待つ」こと。まさに根くらべと言ってもよい。思考するということに
は、時間がかかる。ばあいによっては、ジリジリと時間ばかりが過ぎる。しかしそれでも待つ。
この段階で、もともと思考する習慣のない親は、せっかちに、答を求めようとするが、そのせっ
かちさこそが、思考の大敵と考える。あるいは親自身が、思考の習慣がない。あるいは思考す
るということがどういうことだか、わかっていない?

 結論から言えば、パスカルも『パンセ』の中で書いているように、自ら思考するから、人間な
のである。人間の偉大さは、思考することで決まる。思考するということには、そういう意味が
含まれる。考えることは、まさに生きることでもある。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

視野の広さ、三つの方向性

 「視野が広い」ということには、三つの方向性がある。ひとつは、自分の世界をできるだけ高
い位置からみること。できるだけ広い知識と情報をもつ。ふつう「視野が広い」というときは、こ
のことを意味する。が、それだけでは足りない。

 もうひとつは、時間的な広さをもつことをいう。自分の位置を、幼児期に置いてみる。あるい
は老年期に置いてみる、など。ただ置くだけではいけない。それぞれの立場でその年齢になり
きってものを考える。「私が子どものころはどうだったか」「私が老人になったらどうか」と。

 ある友人(五七歳)がこう言った。「ぼくもいつか寝たきり老人になるかもしれんなあ」と。そし
て「そうなったら、ぼくはさっさと死ぬよ」と。しかしそうなったところで、簡単に死ねるものではな
い。そこで私が「今、自分が寝たきり老人だったとしたら、どうする?」と聞くと、その友人はこう
言った。「健康のありがたみがわかるだろうな」と。頭の中で簡単なシミュレーションをしてみる
だけで、健康の大切さを実感することができる。つまりそれだけ視野が広くなったということ。

 三つ目は、心情的な広さをもつことをいう。たとえば幸福な人や、反対に不幸な人の立場に
なりきってものを考える。実のところ、この三つ目が、一番大切である。たとえば私は、親たち
からいろいろな相談を受ける。そのとき、私がその親の気持ちを理解するためには、自分自身
がその親の立場にならなければならない。でないと、適切なアドバイスができない。問題は、い
かにすれば、その親の立場や気持ちになりきれるかである。

 話は変わるが、心というのは、シミュレーションができる。たとえば金持ちになったら、どう考
えるか。あるいは総理大臣になったら、どう考えるか、と。これは少し訓練すれば、だれにでも
できるようになる。私が最近感じたことだが、こんなことがある。

 講演会場で、舞台のソデで自分の出番を待つときがある。そのとき、私は瞬間だが、舞台で
歌う大歌手の気持ちがわかったような気がするときがある。もちろん大歌手と私とでは比較に
ならない。私は取るに足らない、一講師。しかしそのとき感じた気持ちを拡大していくと、大歌
手の気持ちを理解することができる。つまりそれぞれの場面で、想像力を働かせれば、それで
よい。最近も、こんな経験をした。

 たまたまワイフがいない日で、私は近くのコンビニに昼食を買いに行った。が、行ってみる
と、サイフがない。あわててカバンの中にある小銭をかき集めてみると、三〇〇円と少し。私は
それで買える昼食をさがした。おにぎりが一個で一四〇円。ほかに一〇〇円のパン。正直言っ
て、自分がみじめだった。レジで小銭を出したとき、自分がなさけなかった。しかし毎日、そうい
うふうにして四苦八苦している人だっている。つまりそのとき感じた「みじめさ」を拡大することに
よって、貧しい人の気持ちが理解できる。(もっともそんなことをわざわざしなくても、貧しい人の
気持ちは、よくわかるが……。)

 この方法を使えば、総理大臣の気持ちも理解できるようなるし、アメリカの大統領の気持ちも
理解できるようになる。反対に不幸のどん底にいる人の気持ちも理解できるようになる。それ
が私がここでいう、「シミュレーション」である。このシミュレーションを、いろいろな立場で、その
つどすることによって、相手の気持ちを理解することができるようになる。そう言えば先日、テレ
ビで、アメリカの俳優のハリソン・フォードも同じようなことを言っていた。外科医の役(映画『逃
亡者』)を演ずることになったときのこと。病院へ行き、そこでしばらく外科医の様子を観察して
勉強した、と。「外科医のもつあの独特の雰囲気を、身につけるため」と。

 視野を広くすることを考えたら、これら三つ方向性を考えてみるとよい。今、見えていないもの
が、よりはっきりと見えてくるはずである。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

オーストラリアの教育

 ワイフと長島ダム(静岡県大井川鉄道上流にあるダム)まで行き、帰りにまたトロッコ列車に
乗って、千頭(せんず)駅に戻った。そのトロッコ列車に乗ったとき、オーストラリアから来た鉄
道マニアの一行と一緒になった。私が「マニア」という言葉を使うと、苦笑いをして、「エンシュー
ジアシスト(熱心なファン)だよ」と言って笑った。一行は二〇人ほどだったが、その中に、ブリス
ベーンの州立小学校(State School)で校長代理(デピュティ・プリンシパル)をしている人が
いた。名前をホプキンズと言った。話は当然、教育の話になった。
 
 私が「日本には教科書の検定制度がある」と話すと、「何かの本で読んだことがある」と言っ
たあと、「アンビリーバブル(信じられない)」と言った。「日本のような国が、教科書の検定制度
をすることは考えられない」と。そこで私が「日本を旅行していて、驚いたことは何」と聞くと、逆
にいくつかの質問をしてきた。「どうして日本の子どもたち(小学生)は、夜九時ごろになっても、
制服を着て、町の中を歩いているのか」と。私が「それは多分、塾へ行くところを見たのではな
いか」と言うと、「塾とは何か」「学校が終わってから行くのか」「何を教えるのか」と、つぎつぎと
質問をしてきた。

 私もいろいろ聞いた。「南オーストラリア州では、テキストすら使っていないと聞くが、クイーン
ズランド州ではどうか」「学校の教師は親に、住所や電話番号を教えるか」「虐待を見たらどう
するか」と。

 その答はこうだった。「テキストはあるが、ほとんどの教師は、ほとんど使っていない。自分で
くふうして、自分で用意している」「教師の電話番号は電話帳には載せないことになっている」
「精神的虐待や肉体的虐待を見たら、州政府に通報する義務はあるが、それ以上の責任は教
師にはない」と。

 おもしろいと思ったのは、オーストラリアほど自由な国はないと思っていたが、ホプキンズ氏
はこう言った。「私は教育の自由化のための運動をしている」と。「今、教育は連邦政府と州政
府と地方政府の三つの監督下に置かれている。これはおかしい。教育は学校独自のベース
(基礎)で、すべきだ」と。具体的には、教師の任命権、カリキュラムの設定など、すべて学校独
自がすべきだと。私が「日本では、北海道から沖縄まで、すべて同じ教育をしている」と話すと、
再び、「アンビリーバブル」と言った。たまたま横で私たちの話を聞いていたオーストラリア人ま
で、「アンビリーバブル」と言って、たがいに顔を見合わせた。国が違うと、教育に対する意識
も、天と地ほど違うようだ。

 ただオーストラリアでも、学力の低下が問題になっているとのこと。「お互いに情報を交換しよ
う」と約束して別れた。彼らの屈託のない陽気な様子を見ていると、ふと「ああ、私もオーストラ
リアに移住すればよかった」という思いが、胸を横切った。「どうして私は、この日本にいるの
か」と。
(02−10−15)

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
秋の宵に……
こんなことを考えました。
++++++++++++++++++

●コピー脳
 いつか人間の脳を、そっくりそのままコピーできる時代がやってくる。時間の問題と言っても
よい。たとえば人間の脳には、生まれたときから、約一〇〇万個の神経細胞がある。ふえるこ
とはないという。が、成長とともに、大脳皮質が厚くなるのは、個々の神経細胞が大きくなり、そ
れにともなう「シナプス(配線)」が、より成長し複雑になることによる。たとえば一個の神経細胞
には、それぞれ、約一〇万個のシナプスがある。そこで一〇〇万掛ける、一〇万で、約一〇の
一五乗のシナプスがあることになる。つまり一〇〇〇兆個のシナプスがあることになる。この数
は、DNAの遺伝子情報の、一〇の九乗〜一〇乗よりも多いことになる。

このシナプス一個ずつを、それぞれ一バイトのメモリーに置きかえると、人間の脳をコピーする
には、一〇〇〇兆バイトのコンピュータがあればよいということになる。最近のパソコンでも、メ
モリーだけでも、一〇億バイト(一GB)の性能をもったのは、珍しくない。つまり一〇〇万台の
パソコンをつなげれば、人間の脳をコピーできることになる。(一〇〇万台!、と驚いてはいけ
ない。ここ二五年だけでも、パソコンの性能は、約一万倍に飛躍した。この速さでいくと、あと二
〇年もすれば、一〇兆バイト、一〇〇兆バイトのパソコンが現れても不思議はない。)

 数字ばかりでわかりにくくなったが、そこで人間の脳をそっくりそのままコピーできたとしよう。
話はここから始まる。つまりそのコピーされた脳、これを「コピー脳」と呼ぶが、そのコピー脳
は、だれかという問題が、まず起きてくる。仮にあなたの脳をすべてコピーして、小さなマッチ箱
大の入れ物に収めたとする。そのコピー脳はだれか。もちろんあなたは、「これは私ではない」
と言う。しかし……。

 そのコピー脳に、カメラとマイクと、スピーカーをとりつけたとする。するとそのコピー脳は、一
個の意思をもった「あなた」として、話し始めるにちがいない。ただし人間とそのまま会話できる
とはかぎらない。コピー脳の頭の回転はやたらと速い。それこそフェムト秒(一〇〇〇兆分の
一秒)単位で動作する。私たちにとって一秒は、コピー脳にとっては、約三〇〇〇万年分の時
間に相当する。コピー脳が話しかけてきても、何を話しているかわからないだろう。そこでコピ
ー脳の性能をわざと落す。わかりやすく言えば、人工的に、バカにする。そして人間との会話を
可能にする。

あなた「あなたはだれ?」
コピー脳「私は○○よ」
あなた「私が○○よ」
コピー脳「私も○○よ」と。

 それは実におかしな会話になるに違いない。あなたはちょうど自問自答するように、外のあな
たに向かって会話をする。コピー脳といっても、記憶も、考え方も、意思も、感情も、そして情緒
的な不安定さも、精神的な欠陥も、すべてそっくりそのままあなたなのだ。隠しごとなど、できる
わけがない。

●私を殺さないで……
 ……と考えると、ここでひとつの大きな問題にぶつかる。「命とは何か」という問題である。仮
にコピー脳の電源を切ろうとすると、きっとコピー脳はこう言うにちがいない。「おやすみなさい」
と。もっともコピー脳にしてみれば、電源を切られても、一向に構わない。切られてから、再度
電源を入れられるまでの間の時間は、時間であって時間でない。仮に一年間切られたままで
あっても、コピー脳にとっては、その「切られた」という自覚そのものがない。電源を入れられた
瞬間に、人間がまばたきをするように、過去とつながる。

 が、もしコピー脳を消去するとなると、ことは簡単ではない。きっとそのコピー脳は、こう叫ぶ
に違いない。「お願いだから、私を殺さないで」と。つまり「消去」は、コピー脳にとっては、死を
意味する。ちょうどあなたが死に対して抵抗するように、コピー脳も消去されることに抵抗する
だろう。もしロボットのような体をもっていたら、消去する人に向かって、攻撃的な姿勢を見せる
かもしれない。

 となると、コピー脳は、命をもっているかどうかということになる。もっているとしたら、コピー脳
は、その命をだれからもらったか、ということになる。人間のばあいは、命は前世から伝えら
れ、来世へとうけつがれると、まあ、そういうふうに説明する人もいるが、コピー脳では、そうい
う論理は通らない。「神がつくった」とも言えない。コピー脳は命なのか、命でないのか?

(この間、三〇分くらい時間がすぎた。たまたま秋の心地よい風が身をつつみ、私は遠くに虫
の声を聞きながら、ぼんやりとこの問題を考えていた。)

●コピー脳はあなたか?
 コピー脳はコピーされた瞬間から、あなたであってあなたではない。しかしあなた以外の人か
ら見れば、あなたなのだ。ところで昔、二男がこんな話をしてくれた。多分、だれかの話の受け
売りだろうが、こういうことだ。

 映画『スタートレック』の中に、よく転送シーンというのが出てくる。丸い台の上にのり、スイッ
チを入れると、シャワーのような光が現れ、そのままその台の上の人が、別の場所に転送され
るという、あれである。あの原理は、(多分)、人間を一度分子レベルまで分解し、それを何ら
かの方法で別の場所に移送し、そこで再び組み立てるというものらしい。それについて二男
は、「パパ、あれはね、一度人間を殺して、また別のところで、生きかえらせているのだよ。つ
まり転送前の人間と、転送後の人間は、外の人から見ればまったく同じ人間だけど、実際には
まったく別の人間だよ」と。

 わかりやすく言えば、「転送」とい技術(?)は、瞬時にあなたのコピー人間をつくると同時に、
あなたを消しているということになる。

 二男の説が正しいとするなら、二度転送すれば、コピー人間の、そのまたコピー人間が生ま
れたということになる。もう一度転送すれば、さらにそのまたコピー人間が生まれたということに
なる。まったく同じコピー人間だから、外の人には、それがわからない。会話をしても、連続した
同じ人間として、ごくふつうに会話ができる。

●子どもは、あなたのコピー?
 ……と考えて、ここで私は重大な事実に気づいた。つまり子どもをつくるということは、自分の
コピーをつくることではないか、と。(本当のところ、今気づいたのではなく、以前からそう思って
いた。それを言いたくて、少し回りくどい言い方をした。)

 たとえばあなたが妻と(あるいは夫と)性交して、その結果、子どもが生まれたとする。その子
どもは、当然のことながら、あなたの妻(あるいは夫)との合作である。まったくのコピーという
わけではないが、足して二で割ったような合作であることには、まちがいない。そのあなたの子
どもを見て、あなたは「あなた」だと思うだろうか。もちろん、「子どもは子ども。私は私」と思うに
違いない。しかし他人から見れば、あなたの子どもはあなたによく似ている。私も最近、こんな
ことを言われる。息子たちの声が、私の声、そっくりだというのだ。電話などでは、区別ができ
ない、と。私は「違う」と思うのだが、他人にはそうではないようだ。

 そこでいよいよ脳の問題である。子どもたちの脳は、生まれた直後は、白紙の状態とみてよ
いのでは。もちろん大部分は、遺伝的に構成された部分だが、知恵や知識などといったもの
は、白紙の状態である。その脳に、私たちは親として、いろいろな情報をコピーしていく。たとえ
ば言葉。たとえば習慣。たとえばものの考え方や常識など。コンピュータのように瞬時にという
わけにはいかないが、しかし時間というものを短縮すると、瞬時ということも言えなくない。だい
たいにおいて、基準となる時間など、そもそも存在しないのだ。先日も、いとこの息子(小六)と
話したが、私はその息子の話し方、考え方がいとことそっくりなのに驚いた。その息子とは、そ
のときはじめて会っただけに、衝撃は大きかった。私はそこにいとこのコピーがいるように感じ
た。時間にすれば、一〇数年の時間が過ぎているはずなのに、私はその一〇数年の時間を
知らない。つまり瞬時に、そういうことが起きたような気がした。

●教育とは?
 となると、「教育」というのは、基本的には、「脳のコピー」と考えてよいのではないか。ただ子
どもの脳には、すでにあなたの脳にある脳細胞と同じ数だけの脳細胞がつくられている。きわ
めて精巧なコンピュータがすでにできていると考えてよい。ただコンピュータと違い、瞬時には、
コピーの作業は終わらないということ。そしてコピーするにも、それなりの手順と苦労が必要だ
ということ。さらにコピーしながらも、よりよいものを残し、そうでないものを消すという作業も必
要だということ。あるいは子どもの脳自体が、違った方向に伸びていくこともできるように指導し
なければならない。

 これで教育の問題は解決するとしても、つぎの問題は、「命」である。仮にコピーされたといっ
ても、子どもは人間である。もし人間でないというのなら、実はあなたも人間でないことになって
しまう。あなたもあなたの親のコピーにすぎない。そんなわけで、あなたが自分を人間と思うな
ら、子どももまた人間である。こうした「命をもった人間であるかどうか」という議論そのものが、
ナンセンス。あるいはそれは言葉の問題だけかもしれない。「もっと生きたい」「死にたくない」と
いう思いが、「命」と考えられなくもない。あるいはそれを「命」と呼んだ? ……となると、「命」と
は何か?

 今、私がみなさんに話せるのはここまでだが、この問題には、ひょっとしたら、「生きる」ことの
謎そのものを解くカギが隠されているかもしれない。少し前まで、コンピュータのことを「人工知
能」と訳す人もいた。この考え方をもう少し飛躍させると、「人工人間」が生まれるのも、もう時
間の問題と言ってもよい。そういう時代がすぐそこまできている。そういう時代がやってきたと
き、ひょっとしたら、今私たちがもっている常識が、すべてくつがえされる可能性がある。(すで
に今、少しずつ、くつがえされつつあるが……。)そういう時代が来てもうろたえないよう、心の
準備だけはしておかねばならない。というのも、技術の進歩は私たちの予想……というより、私
たちの意識変化よりも、はるかに速いスピードでやってくる。そのひとつのテーマとして、どこか
SF的だが、こんなことを考えてみた。秋の宵に……。
(02−10−13)

追記……今夜はこの地区の祭り。遠くでタイコの音が聞こえる。本当に今夜は、涼しい、気持
ちのよい夜だ。中学時代、コーラス部で、「コロラドの月」を歌ったのを、今、ふと思い出した。
「♪静かにふけゆく空……コロラドの月の夜……」と。そうあのとき一緒に歌っていたのが、佐
藤ひろし君。野口五郎という歌手の兄だった。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、お忘れなく!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
■濱人【連載:子育て、ワンポイントアドバイス by はやし浩司】より、転載
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○メールマガジン「週刊E'news浜松」2002/10/14 No.002-036/2335
 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344
 編集発行:E'news編集部
 連絡先:Office'Eiyu
  浜松市渡瀬町256ロジスティック・コンビニエンス・ワタセ2F
  TEL/FAX.053-411-4070
  URL: http://www.eiyus.com/Enews/
+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●No.36「ゆがんだ自然観」

  もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在
 住)。「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持
 ち悪い。ジンマシンのよう」と。この詩はあちこちで話題になったが、基本
 的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を見ただけで、ほとんど
 の子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が
 声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入って
 こない。

  「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでの
 イギリスや世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間
 もあくまでも自然の一部に過ぎなかった。が、ベーコン以来、人間は自らを
 自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコン)と考え
 るようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一
 七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡
 半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)
 と書いている。が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わ
 ったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中
 角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県
 では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。

自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自
 然を分けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、
 人間も自然の一部でしかないという事実の再認識である。さらにもっと言え
 ば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求め
 てからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。
 少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。
 自然を大切にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許
 されない。
      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
●詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 486人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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02−10−24号(128)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育て格言(4)(Hiroshi's Advices for parenting)
【2】子育てアドバイス(To be good parents)
【3】依存と愛着(Relaibility & Attachment)
【4】随筆(Essays)
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  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
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●マガジンのバックナンバーは、
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て格言(4)

●子どもの会話

 ある日幼稚園の庭のすみに座っていると、横の子どもたち(年長児)が、こんな会話を始め
た。

A男「おまえ、赤ん坊はどこから生まれてくるか、知っているか?」
B男「知らないよ」
A男「だからお前は、バカだ。赤ん坊はな、ママのお尻の穴から生まれてくるんだぞ」
B男「ふうん」
A男「いいか、うんちがかたまって赤ん坊になるんだぞ」
B男「ふうん、じゃあさあ、どうして男からは赤ん坊が生まれないんだよ?」
A男「バカだなあ。男はなあ、うんちがかたまって、金玉になるんだぞ。金玉はうんちがかたまっ
たもんなんだぞ」と。

 また別の日。母親とこんな会話をした子ども(年長児)がいた。

C女「お母さん、お肉を食べると、どうなるの?」
母親「やっぱり、お肉になるんじゃ、ないかしら」
C女「野菜は、どう?」
母親「血になるのよ」
C女「でも、野菜は赤くないわ」
母親「でも、トマトは赤いでしょ」
C女「ふうん、わかった。サツマイモを食べると、そのままうんちになるのね」と。

 こんなことを話してくれた子ども(年長児)もいた。「どうしてうんちは茶色になるか、わかった」
というのだ。「どうして?」と私が聞くと、「絵の具をいろいろ混ぜると、茶色になる。うんちも、そ
れと同じだ」と。

 さらにこんなことも。ある男の子(小学三年生)が、トイレから戻ってきて、こう言った。「先生、
青と黄色を混ぜると、緑になるね」と。何のことかと思って、「どうして?」と聞くとこう言った。「ト
イレの水(消臭剤の入った青の水)と、黄色いおしっこがまざったら、緑になった!」と。

 子どもの考えることは、おもしろい。あなたも子どもたちの会話に、一度耳を傾けてみてはど
うだろうか。


●フリップ・フロップ理論

 箱がある。どちらか一方に倒れているときは、安定している。しかし中途ハンパな姿勢になる
と、フラフラとして、たいへん不安定になる。これを心理学の世界では、『フリップ・フロップ理
論』という。もともとは、有神論の人が無神論に、反対に無神論の人が有神論になるときの様
子を説明したもの。有神論の人であるにせよ、無神論の人であるにせよ、どちらか一方に倒れ
ているときは、そういう人は、たいへん静かに落ちついている。が、有神論の人が無神論にな
るとき、あるいはその反対のときは、心理状態がたいへん不安定になる。ワーワー泣き叫ん
で、それ抵抗したり、猛烈にどちらか一方を攻撃したりする。

 学歴信仰も、それに似たところがある。学歴信仰にこりかたまっている人や、反対に、まった
くそれがない人というのは、静かに落ちついている。しかしそれが移行期に入ると、たいへん不
安定になる。人間の心理というのは、そうい不安定状態には弱い。自らどちらか一方に倒れ
て、自分の心理を安定させようとする。言いかえると、不安定になったときというのは、どちらか
一方に倒れるその前兆と考えるとよい。しかもそれが短期間で、コロリと倒れる。そのため私
は、このフリップ・フロップ理論を、勝手に「コロリ理論」と呼んでいる。

 この理論は、子育ての場でも、広く応用できる。もしあなたの子どもが何かのことで、大声で
それに抵抗したり、あるいは反対にぐずぐずしているようであれば、どちらか一方に倒れる前
兆と考えてよい。そういう子どもほど、コロリと倒れると、突然、ものわかりがよくなる。昔から
「今鳴いたカラスが、もう笑った」というが、そういう現象が起きる。が、反対に、よい意味につ
け、悪い意味につけ、どっしりと静かに落ちついている子どもは、それだけ自分をもっているこ
とになる。何かを説得しようとしても、なかなかうまくいかない。とくにがんこで、自分のカラにこ
もってしまったような子どもは、指導がむずかしい。


●子どもの心理

 子どもの心理を考えるとき、現象面だけを見て判断すると、その心理がつかめなくなる。よく
ある例が、引きこもり。

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安という。そういう心理状態のところに、不安や心配
が入り込むと、それを解消しようと、心理状態は一挙に不安定になる。そのひとつが、引きこも
り。

 自分の子どもが部屋に引きこもったりすると、よく親は、「気のせいだ」とか、「心はもちよう
だ」とか言って、それを安易に考える。しかし引きこもりは、あくまでも現象。無理をして、その
状態から子どもを外に出しても、元となる、情緒不安はなおらない。もう少し具体的に考えてみ
よう。

 私も精神状態が不安定になると、人に会うのがおっくうになる。人ごみへ入るのが、いやにな
る。そういうときの自分の心理を観察してみると、こうだ。

 まず人の言動が気になる。しかもささいなことが気になる。タバコを平気で道路へ捨てる人。
道路にツバを吐く人。大声であたりかまわず話す人。体臭のある人。平気で道路に駐車する
人。工事の騒音など。ふだんなら気にならないようなことが、そういうときは、やたらと気にな
る。そしてそういうことがいくつか重なると、頭の中はパニック状態になる。

 この段階で、まず自分の中のセルフコントロール機能が働きだす。どうすれば、そのパニック
を収めることができるか、それを考える。私のばあいは、外出を避けるとか、何かの気分転換
をするとかいう方法で対処する。カルシウム剤が有効なことも多い。こういうことができるのは、
それだけ経験もあるということだが、子どもはそれができない。症状は、一挙に悪化する。

 ある子ども(高三)はこう言った。「外に出ると、人に会うのがこわい」と。ここでいう「こわい」と
いうのは、それだけ心の緊張感が取れないことをいう。相手の言動のすべてが、自分の心を
突き刺すように感ずるらしい。だから引きこもる。心理学の世界では、これを防衛機制という。
自分を守るための心理反応と考えるとわかりやすい。

 要するにこうした現象は、風邪にたとえて言うなら、「熱」のようなもの。その熱をさまそうとし
て、子どもを水風呂につける人はいない。同じように、引きこもりだけを見て、子どもを外の世
界に引きずり出しても意味はない。あるいはそんなことをすれば、かえって逆効果。中には、そ
ういう乱暴な方法で、子どもをなおす(?)人もいるそうだが、私に言わせれば、とんでもない方
法ということになる。昔、Tヨットスクールというのがあったが、あれもそうだ。生徒の死亡事件
がつづいて、当時の寮長は刑事訴追まで受けたというが、当然のことだ。が、この種の乱暴な
治療法(?)は、今でもあとをたたない。最近でも、子どもや親を、大声で罵倒(ばとう)しながら
なおす(?)人もいる。素人(失礼!)にはわかりやすい方法なので、そのときどきの親には受
けるが、こうした方法には、じゅうぶん警戒したほうがよい。


●はじめの一歩

 幼児教育の世界で、『はじめの一歩』というときには、つぎの二つの意味がある。ひとつは、
何でも最初に経験させることは、慎重に選べということ。もうひとつは、そのときの方向づけが、
その後の子どもの方向性に大きな影響を与えるから注意しろという意味。

 体操教室を例にとって考えてみる。
 体操教室に入れたから、体操が好きになるとはかぎらない。恐らく何割かの子どもは、かえっ
て体操を嫌いになってしまう。(そういう事実は、教室側としても隠すが……。)マット運動にして
も、鉄棒にしても、あるいは跳び箱にしても、それができたからといって、どういうこともない。で
きないからといって、これまたどういうこともない。しかしそういうところでは、それがあたかも人
間の成長には必要不可欠な要素でもあるかのように教える。親もそう錯覚する。私も中学の授
業でマット運動をさせられたが、あのマット運動ほどいやなものはなかった。そういう子どもの
「思い」は、外には出てこない。

 こうした「おけいこごと」を子どもにさせるときには、子どもの方向性をじゅうぶん、見きわめる
こと。だいたいにおいて、「できないからさせる」「苦手だからさせる」という発想はまちがってい
る。子どもに何かをさせるときは、「得意な分野をさらに伸ばす」という発想で、考える。要する
に、オールマイティの子どもは求めないこと。また求めても意味はない。

 つぎにこの時期できた方向性は、当然のことながら、その子どもの一生に大きな影響を与え
るから注意する。私にも、いろいろなことがあった。たとえば私は小学三年のときに、バイオリ
ン教室へ通わされた。「通わされた」というのは、それだけいやだったということ。今でもレッス
ンの日が、毎週水曜日の午後四時一五分覚えているほどだから、それがいかにいやなもので
あったかは、わかってもらえると思う。ただ私のばあい、バイオリンがいやだったわけではな
い。あの棒がいやだった。何かをまちがえると、講師の先生は、容赦なく私の頭や手を叩い
た。それがいやだった。一年かかって、やっとやめさせてもらったが、その結果、私は大の音
楽嫌いになってしまっていた。小学六年の終わりまで、「オ・ン・ガ・ク」という言葉を聞いただけ
で、背筋がゾーッとしたのを、今でもはっきりと覚えている。幼児教育では、こういうことは、絶
対にあってはならない。

 で、子どもの方向性をつけるコツは、子どもをほめること。最初はウソでもよいから、ほめる。
「この前よりじょうずになったわね」「せんせいがほめていたよ」とか。父親や母親の前でほめる
のも効果的。この時期の子どもは、自分を客観的に評価できないから、周囲の人にほめられ
ると、その気になってしまう。そしてそれが原動力となって、子どもを前向きに伸ばす。


●「恥」の文化

 極東のアジアの小国には、世界の人が見ても、理解しがたい民族性がある。そのひとつが、
「恥」。たいていの日本人は、奈良時代の昔から、日本は文明国だと思っている。しかし日本程
度の歴史なら、アフリカの各部族ならみんな、もっている。(だからといって、日本の歴史を否定
しているのではない。傲慢になってはいけないと言っている。)

 この「恥」には、二種類ある。他人に向かう恥と、自分に向かう恥である。他人に向かう恥とい
うのは、世間を気にした生き方そのものということなる。他人の目の中で生きる人ほど、この恥
を気にする。

 もうひとつは自分に向かう恥。自分の生きザマにきびしい人。あるいは自分にきびしく生きて
いる人ほど、この恥を気にする。人が見ているとか見ていないとか、あるいは人が知っていると
か知らないとか、そういうことは関係ない。あくまでもその恥は自分に向かう。

 この二種類の恥は、たがいに相関関係がある。他人に向かう恥を意識する人ほど、自分へ
の恥に甘い。「人にバレなければよい」とか、「自分さえよければよい」とか考える。あるいは自
分をごまかしてでも、体裁をとりつくろう。

 一方、自分に向かう恥を意識する人ほど、他人を気にしない。「他人がどう思おうが、知った
ことではない。私は私だ」というような考え方をする。これらをまとめると、他人に向かう恥と、自
分に向かう恥は、いわば反比例の関係にあるということになる。同時に両方の恥をもっている
人は、まずいない。(両方ともない人というのは、いるかもしれないが……。)

 ある母親はこう言った。「私の家は、昔からの養鰻業の本家です。息子にはそれなりの大学
へ入ってもらわねば、恥ずかしいです」と。幼稚園を選ぶときにも、それがある。「B幼稚園では
恥ずかしい。S幼稚園でなければ」と。(幼稚園は幼稚園でそういう親の意識をよく知っている
から、それとなくうちは「S」幼稚園ですと、親ににおわす幼稚園もある。)

 こうした傾向は都会より、当然のことながら、農村地域のほうが強い。今でも身なりや、成
績、進学校などなど。家柄や格式、評判や財産にこだわる人は、少なくない。子どもでもいる。
ある中学生(二年男子)は、ことあるごとに自分の家をいうのに、「D家は……」と、「家(け)」を
つけていた。そこで私が「そんな言い方、よせ」と言うと、こう言った。「うちの先祖は、昔は○○
藩の家老だった」と。(私はこういうところが、「理解しがたい民族性」と言っているのだ。)

 さらにこんなことを言った高校生もいた。ある夏の日に私の家に遊びにきて、「先生、D大学
と、M大学は、どちらがかっこうがいいですかね。結婚式の披露宴でのこともありますから」と。
まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを気にしていた!

 他人に向かう恥を気にし始めると、生きザマそのものが卑屈になる。へんな小細工をしたり、
見栄をはったり。さらには体裁だけを整えたりする。しかしそういう生き方をすればするほど、
結局は自分の人生をムダにすることになる。もちろん「恥」がすべて悪いわけではない。自分に
向かう恥は、むしろ大切にしたい。しかしこれには大きな前提がある。それを恥じるだけの、哲
学なり生きザマ、さらには確固たる信念が必要だということ。それがないと、恥じるべき対象そ
のものがないということになる。言いかえると、哲学や生きザマ、確固たる信念のない人は、自
分に恥じることはない。さらに言いかえると、自分に恥じる人は、哲学や生きザマ、確固たる信
念がある人ということになる。「自分に恥じる」と言っても、そうは簡単なことではない。


●バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決めておく。頭
は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。で、こうした体罰
は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねないので、気をつける。その
ためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているなら、「バツはお尻」と、何度も復
唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。三七人の子どもたち(小
学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。圧倒的に多いのが、「親に
叩かれる」(二〇人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほか、「チビクル」「殴る」「パン
チ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れられる」「家からの追い出し」
という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行くと言って出て行くと、たいて親がさが
しにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみに、「出て行け」と言われたことがある子どもは、
一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしているもの
を、親が取りあげるという。一人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。さらに「しば
られる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。その話を聞いた別の
子どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、みな、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせられる」「頭
の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというのもあった」と私が言
うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてきぼり」「ものを投げつけられる」
など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろしいことだ
そうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその話を聞いて、し
んみりとしてしまった。


●子どもの健康は鼻先見る(あくまでも参考に)
 
 子どもの健康状態を簡単に知りたければ、鼻スジを見ればよい。鼻スジがツヤツヤと輝いて
いれば、体力もあり、健康とみる。反対に、鼻スジから鼻先にかけて、どんよりとしてくれば、体
力が落ち、風邪など、何かの病気の前ぶれとみる。

 ほかにも顔だけを見て診断する方法がある。

(1)額(ひたい)の横に青筋がある子ども……神経質な子ども。かんしゃく発作のある子ども。
キレやすい子どもとみる。
 
(2)両ほほの下が、青白い子ども……貧血を疑うが、そうでないときはお腹(なか)の虫を疑
う。私はそれを言い当てるのが得意で、顔を見ただけで、それがわかる。

(3)顔の色が、あちこち赤白、まばらな子ども……発熱直前の状態とみる。たとえばほおの一
部だけが赤いとか、額の右だけが赤いなど。今はそうでなくても、やがて発熱するとみる。

(4)鼻先など、先端だけが赤い……虚弱体質など。生まれつき体が弱い子どもは、体の先端
部が赤くなったりする。

(5)顔の色がくすんでいる子ども……子どもの顔色は、大勢の中で比較して見ると、判断しや
すい。気うつ症的な子どもは、生彩が消え、粉をまぶしたような感じになる。大声で笑えない、
大声を出せないなど。親の威圧的な過干渉が日常的につづくと、子どもはそうなる。黒ずん
で、生彩がないときは、慢性病を疑ってみる。

(6)くちびるの色が淡い子ども……栄養不足、好き嫌いのはげしい子どもを疑ってみる。胃腸
の弱い子どもも、くちびるの色が淡くなる。あわせて顔全体が青白いようであれば、貧血も疑っ
てみる。

 以上は、あくまでも経験的にみた健康診断法で、必ずしも正しくない。(しかし運勢占いや星
占いよりは、ずっと確実!)一度、ここに書いたことを参考にして、そういう目で、あなたの子ど
もを診断してみたら、どうだろうか。
(02−10−16)

(追記)漢方では、望診論といって、顔色や外の現れた症状をみて、その人の病状を診断する
方法があります。
私が書いた、「目で見る漢方診断」を、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の、「ビデオ・動画コ
ーナー資料倉庫」に収録しておきます。(一部ですが)興味のある方は、一度、お読みください。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

過関心は心をつぶす

 親が自分の子どもに関心をもつのは当然のことだが、それが度を超すと、過関心になる。そ
の過関心、とくに神経質な過関心は、子どもの心をつぶす。

 私は私の授業を例外なく、公開している。そういう中でも、ときに親の視線が強すぎて授業そ
のものがやりにくく感ずることがある。「強い」というより、「刺すような」視線である。それがピリ
ピリと伝わってくる。そこでそれとなくその親の方をみるのだが、表情を見る限り、とくに緊張し
ている様子はない。柔和な笑顔を浮かべていることさえある。しかし視線だけが、異常に強い
……!

 親の過関心が日常的につづくと、子どもの心は内閉したり、さらにそれが進むと萎縮したりす
る。(反対に粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、親の過関心をはね返した子ども
とみる。)子どもらしいハツラツとした表情が消え、顔もどんよりと曇ってくる。また自分で考えて
行動することができなくなるため、外の世界では、常識ハズレな行動をしやすい。バスの窓か
ら体を乗り出してみせた子ども(小四男児)や、先生のコップに、殺虫剤を入れた子ども(中一
男子)がいた。が、そういう事件を起こしても、親にはその自覚がない。ないばかりか、かえって
子どもを激しく叱ったりする。この悪循環が、子どもをますます悪い方向に追い込む。

 実際、神経質な親は多い。子どもの持ち物は言うにおよばず、机の中や携帯電話の中まで、
こっそり調べたりする。子ども部屋に監視カメラをつけている親だっている。こうした親は、口で
は「私は子どもを愛しています」と言うが、その実、子どもを愛していない。自分の心のすき間を
埋めるために、子どもを利用しているだけ(失礼!)。さらにその原因は何かと言えば、子ども
を信じられないという不信感がある。「うちの子は何をしても心配だ」という思いが転じて、過関
心になる。もちろん親自身の情緒的欠陥が原因となることもある。このタイプの親は、うつ型タ
イプの人が多く、一度こまかいことを気にし始めると、そのことばかり気にするようになる。そし
てささいなことを問題にしては、おおげさに騒ぐ……。

 子どものことで、こまかいことが気になり始めたら、過関心を疑ってみる。そしてもしそうなら、
一度思い切って、子どものことは忘れ、子育てそのものから離れてみる。方法はいくらでもあ
る。サークルでも、ボランティアでも何でもすればよい。自分のまわりに、子育てとは関係のな
い世界をもつ。そしてその結果として、子育てそのものから遠ざかる。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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生きるのがマトリックス(母体)

 生きるためにお金を稼ぐ。稼ぐために働く。働くために仕事をする。あくまでも生きることがマ
トリックス(母体)。それが今、逆転している。仕事が生きることより優先され、仕事のために生
きている人はいくらでもいる。たとえば休暇。

 私たちは「休みになったら、○○をしよう」と考えて仕事をする。それは問題ないが、休みにな
ったら、休みなったで、今度は仕事のことばかり考える。よく日本人は休暇の過ごし方を知らな
いと言われるが、その理由の一つはこんなところにもある。子どもの教育とて例外ではない。
土日が休みになって、子どもが家でゴロゴロと横になって休んでいたとする。そういうとき親は、
「勉強はしなくていいの?」とか、「もうすぐテストでしょ」とか言って、子どもを追い立てる。

 生きることがマトリックス(母体)とするなら、仕事の世界はまさに仮想現実の世界。この世界
にハマると、本来大切でないものまで大切と思い込むようになる。学歴だの出世だの、地位だ
の肩書きだの、そんなことばかりを気にするようになる。それだけならまだしも、その一方で、
本来大切にすべきものを、粗末にするようになる。よい例が、単身赴任だ。昔、私のオーストラ
リアの友人たちがこう言った。「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と。

 もちろん仕事をするのが悪いと言っているのではない。しかし本分を忘れてはいけない。この
本分を忘れると、自分の人生そのものまで犠牲にすることになる。やっと楽になったと思った
ら、人生も終わっていた……、と。

 子どもをなぜ教育するかといえば、それは子どもたちに心豊かで、幸せな人生を歩んでほし
いからだ。教育に目的があるとするなら、私たちの知識や経験を武器として、子どもに与えるこ
とだ。つまりそれが教育のマトリックス(母体)。たしかにこの日本には学歴社会があり、それに
まつわる受験競争もある。しかしその本分は忘れてはいけない。これを忘れると、子ども自身
もまた、今のあなたと同じように、いつまでたっても自分の人生をつかめなくなる。いや、その
前に、あなたと子どもの関係は、まちがいなく崩壊する。(はやし浩司のサイト:http://www2.
wbs.ne.jp/~hhayashi/)
    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

依存と愛着

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この二つを混同している人がいる。つまりベ
タベタと親に甘えるのを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを愛着という。子どもが依存を
もつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法として
は、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜いて、体
そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない子どもは、親に抱
かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かしら丸太を抱いているような
感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査による
と、四分の一もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバンドだ」と
言う。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研
究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 子どもは、生後七、八か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわれて
いるが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着が不足す
ると、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。ホスピタリズムという現象を指摘する学者
もいる。いわゆる親の愛情が不足していることが原因で、独得の症状を示すことをいう。だれ
にも愛想がよくなる、表情が乏しくなる、知恵の発達が遅れ気味になる、など。貧乏ゆすりなど
の、独得の症状を示すこともあるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるから、愛
着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということにはならな
い。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依存するのは、大切
なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強いほ
ど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い感じがす
る)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。もともと日本人は、親子で
も、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあうことが、理想の親子と考えている
人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコー
ル、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、何でも自立して行動する子どもを、かわいげのな
い「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえると、よ
く「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独特の子育て観
にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。依存型社会は、ある意味で
温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、「互いになれあいの社会」でもあ
る。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも事実で、この日本を一歩外へ出ると。こう
した依存性は、まったく通用しない。それこそ生き馬の目を抜くような世界が待っている。そうい
うことも心のどこかで考えながら、日本人も自分たちの子育てを組み立てる必要があるのでは
ないか。あくまでも一つの意見にすぎないが……。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、お忘れなく!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(188)

迷信論

 それぞれの国には、それぞれの迷信がある。その迷信を集めて歩くだけでも、結構おもしろ
いのでは……。イギリスの家庭では、塩をこぼすのをいやがる。「日本ではその場所を清める
ため、わざと塩をまく」と教えてあげたら、そのイギリス人の女性(六〇歳くらい)は、心底、驚い
ていた。

 もちろんこの日本にも、ある。私が最初に、その迷信に疑問をもったのは、子どものころだ
が、それについてはよく覚えていない。が、本気で否定するようになったのは、姓名判断に出あ
ったときからだ。ふと「外国人はどうなのか」と思ったのがきっかけだった。「漢字のない国の人
はどうなのか?」と(※)。名前は大切なものだが、画数の組み合わせで、その人の運命が判
断できるというのは、どう考えても、おかしい。

(※これについて、私が、ずっとあとになってからだが、ある著名な姓名鑑定士に、質問する
と、その鑑定士はこう言った。外国人のばあいは、カタカナに一度表記しなおして、そのカタカ
ナの画数によって、判断する、と。)

 その迷信というのは、いわば理性の敵。人は迷信を信ずることによって、理性を放棄する。
あるいは理性の穴を埋めるために、迷信を信ずる。似たようなものに、手相とか、家相とかが
ある。他人の思想(思想と言えるようなものではないが)を否定するのもどうかと思うが、相手
が私を放っておいてくれない以上、否定せざるをえない。山荘の設計図を描いたときも、設計
士の人が、「玄関はここでいいのですか?」と聞いてきた。鬼門の位置に玄関があるというの
だ。私は「構わない」と言ったが、家が建築され始めると、今度は村の人がやってきて、こう言
った。「あんた、この家の玄関は鬼門だよ」と。今の自宅だってそうだ。私はもっと別のところに
玄関をつくりたかったが、母が猛烈に反対した。それで今の位置にした。おかげでどこか住み
にくい。

 私とワイフの籍を入れたのが、一〇月xx日。私の誕生日。仏滅の日だったが、その日のほう
がわかりやすいということで、その日にした。母が「その日だけはやめてくれ」と言ったが、私は
気にしなかった。今でも、かろうじてだが、無事、夫婦でいるところをみると、やはりそんなのは
迷信だった。要するに、こうした迷信は、相手にしないこと。それはクセのようなもので、一度気
にし始めると、それが生活の基本になってしまう。そればかりか、愚にもつかないような行為を
するようになる。

 N氏(四〇歳男性)は、今の家を改築する前、一年間、わざわざ別のところにアパートを借り
て住んでいた。「家(や)移り」という儀式のためだそうだ。K氏(五〇歳男性)は、自分の会社の
社員を雇うとき、その社員の住む家の方角で、雇うかどうかを決めていた。G氏(五〇歳男性)
は、新車を買ったとき、納車の日にちと時刻、さらにどちらの方向から車を車庫に入れるかま
で、こまかくセールスの人に指示していた。どの人も、近くの神社の神主におうかがいをたて、
それで決めてもらっていた。

 私が神様なら、(仏様でもよいが)、いちいちそんなことなど気にしない。仮に一人の人間が
自分の意思に反したことをしたからといって、バチなど与えない。それが宗教であるとするな
ら、宗教は教えによるもの。しかしこうした迷信は、教えではない。論理など、どこにもない。

 ……と書きながら、実のところ、私はうんざりしている。反論するのも、それについて書くのも
バカらしい。時間のムダ。しかしとても残念なのは、子どもたちの世界にまで、こうした迷信が
どんどんと入り込んでいること。占いやまじないを信じている子どもは、いくらでもいる。さらに
霊やカルト、超能力となると、今では信じていない子どもをさがすほうが、むずかしい。星占い、
タロット、風水、手相、四柱推命なども、子どもの世界に、どんどんと入り込んできている。……
ということは、こういうエッセーを書くということは、そういうもの信じている多くの人を敵に回すこ
とになる。しかし大多数の人は、そういったものを信じながらも、どこかおかしいと思っているの
ではないか。もしそうなら、私のような考え方をする人間もいることをどうか忘れないでほしい。
私はそういったものとは、まったく無縁の世界に生きている。が、今までに不都合に思ったこと
は一度もない。タバコと同じで、なければないで、少しも困らない。困ったこともない。

 運命などというのは、自分で切り開くもの。仮にあるとしても、最後の最後で、ふんばって、そ
れと戦うのは、私たち自身の意思による。決して決められたものではない。確かにこの世の中
は、ひとりで生きていくには、不安だ。わからないことも多い。だからといって、未熟で未完成で
あることを恥じることはない。唯一私たちがすべきことがあるとするなら、懸命に生きること。た
だひたすら懸命に生きること。人間の生きる価値や尊さは、そこから生まれる。もしそれがまち
がっているというのなら、それを言う人がまちがっている。

 ……と言っても、実のところ、私には自信がない。最後の最後まで、こうした迷信と無縁でい
られるかというと、どうも自信がない。恩師のK教授も昔、こう言った。「老人の心理は、老人に
ならないとわからないものですよ」と。しかし今は、私は自分の理性をまず大切にしたい。とりあ
えずは、そういう生き方を貫いてみたい。その先に何があるか、本当のところは、よくわからな
いが……。
(02−10−16)

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子育て随筆byはやし浩司(189)

「尊敬」という言葉

 少し前、ある団体が、こんな世界的な調査をした。「あなたは親を尊敬していますか」と。思っ
たとおり、日本の子どもたちの数字が、一番低かった。

 しかし、こうした国際的な比較調査で、一番注意しなければならないのは、英語の訳である。
日本語でいうところの「尊敬」と、英語でいうところの「respect」とでは、基本的な部分でそのニ
ュアンスが違う。そうした違いを無視して、こうした調査をしても意味がない。よい例が「愛国
心」である。日本政府は、ことあるごとに、「愛国心は世界の常識」というようなことを言うが、英
語で「patriotism」というときは、もともとは、「父なる大地を愛する」というラテン語に由来する。
つまり正確に訳せば、「愛郷心」ということになる。「愛土心」と言ってもよい。そこに「国」という
文字を入れる日本語とは、内容がまったく違う。そういう違いを無視して、「日本の子どもたち
は、愛国心がない」と決めてかかるのは、たいへん危険なことである。言うまでもなく、この日本
では、愛国心というときは、国家体制を意味する。

 さて、その「respect」という単語だが、英語国では、日常的によく使われている。「あなたの
意見はなかなかいいですね」「あなたはすばらしい人ですね」というような意味で、「I respect 
you.」というような言い方をするときもある。日本語でいう「尊敬」という言葉よりも、ずっと気楽
に使われている。だからたとえばアメリカの子どもたちが、「あなたは親を、respectしますか」
と聞かれれば、大半の子どもたちは、「Yes」と答えるだろう。しかし日本ではそうはいかない。
「尊敬」という言葉のもつ意味は、たいへん重い。完全な服従、もしくは、完全な受諾を意味す
る。だから日本の子どもたちが、「あなたは親を尊敬しますか」と聞かれれば、大半の子どもた
ちは、その場で、考え込んでしまうに違いない。

 こうした国際比較の調査は、たいてい何らかの意図をもってなされることが多い。とくに保守
的な人たちによってなされる調査は、じゅうぶん警戒したほうがよい。言葉をたくみにすりかえ
るというのは、日本のお家芸。たとえばよく知られているのに、「教科書問題」がある。〇一年
の国会答弁の中で、「ドイツの教科書検定制度では……」と、堂々と言っていた国会議員がい
た。そこであわてて私がドイツの友人にメールで確かめると、こう言った。「旧東ドイツにはあっ
たが、現在のドイツでも、旧西ドイツでも、検定制度はいっさい、ない」と。英語でいう「テキスト
ブック」を、日本では「教科書」と訳すが、英語でいうテキストは、日本で言う補助教材に近い。
一方、日本語でいう教科書は、いわゆる検定済み教科書を意味する。「テキスト」と「教科書」
は、まったく異質のもの。そういうものをうまく、ごまかしながら、「ドイツの教科書検定制度では
……」と。とても残念なことだが、こうした体質は、戦前の大本営発表、そのままと言ってもよ
い。
(02−10−17)

(注)私が確かめたところ、欧米先進国(G7参加国)の中で、教科書の検定制度をもうけてい
る国は、日本だけ。しかもその検定制度は、実質、国の管轄下にありながら、「国は関与して
いない」という、まあ何というか、巧みなお膳立てをしていることにも注意。

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子育て随筆byはやし浩司(190)

諮問機関という、ごまかし

 官僚が世間を動かすとき、きまって使われる手法が、「諮問(しもん)委員会」の設立である。
懇談会、研究会、検討会、審議会などという名称を使うこともある。(名称は決まっていない。
教育の世界には、中央教育審議会などがある。)

 まずもっておかしいのは、委員を選ぶときの、その人選のし方。不明確、不明瞭。どういう基
準で、だれが選んでいるかが、まったくわからない。委員ですら、どうして自分が選ばれたの
か、わからないときがある。関係機関に問い合わせても、「お答えできません」と言われるの
み。もちろん委員に選ばれるのは、「イエス・マン」だけ。この世界には、こうした諮問機関をつ
ぎからつぎへと渡り歩いている「有識者?」がいくらでもいる。

 そうして委員会は始まるが、(そうした会議はテレビでもよく紹介されるから、みなさんもご覧
になったことがあると思う)、会議での討論内容のほとんどは、あらかじめ官僚によって作成さ
れる。そして座長と呼ばれる人が、それを順に読みあげ、「いかがですか?」「ご意見は?」と
いう調子で、会議が進んでいく。時間は委員一人あたり、約五〜一〇分程度。一方的に意見を
述べるだけ。討論に発展することは、まずない。大きな諮問委員会でも、回数は五〜六回程
度。最後に座長が、官僚の意向にそった結論をまとめて、文書にして、答申する。それでおし
まい。

 あとはいわゆる「お墨付き」を得た官僚は、その答申をもとに、したい放題。大きな国家プロ
ジェクトの大半は、こうして決まる。空港も、高速道路も、港も、はたまた博覧会も。日本が官
僚主義国家だと言われるゆえんは、こんなところにある。

 さて今夜も、あちこちの諮問委員会の模様が、テレビで報道されることだろう。一度、ここに
書いたような知識を頭に置きながら、ああいった委員会をながめてみたらよい。あなたも諮問
委員会のもつおかしさに、気づくはずである。

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子育て随筆byはやし浩司(191)

インターネット時代に

●クールになった、私

 アメリカで、「クール」というと、「すごい」とか、「かっこいい」という意味になる。若者がよく使
う。私が学生時代には、「グルービィ」とか「ヘビィ」とか言った。

 その「クール」ではなく、日本語のクール。つまり、「冷たい」という意味で、私はこのところ、た
いへんクールになってきた。

 インターネットの影響だと思う。この世界では、ささいな「お人好し」が、命取りになる。何度
も、そういうことがあった。ごく最近では、ある女性から、たてつづけに二通のメールが送られて
きた。一通のほうには(件名)がなかった。しかしもう一通のほうが、ごくふつうの相談のメール
だったので、その件名のないほうのメールまで開いてしまった。とたん、ウィルスの侵入! プ
ロバイダーのウィルスチェックも受け、パソコン独自でもチェックしていたが、やられた! 

 こういうことが重なると、いやがおうでも、クールにならざるをえない。そうでなくても、こうして
メールアドレスを公開しているため、多いときは、一日で数回の攻撃を受けることもある。

 私のばあい、つぎのようにして、防御している。

(1)プロバイダーのウィルスチェック(有料)を受けている。
(2)無線ルーターの暗号化したり、ファイアウォールなどを使って、不正アクセス(ハッカー)を
シャットアウトしている。
(3)パソコンごとに独自のウィルチェックをしている。
(4)ワープロ用、インターネット用、ホームページ用と、パソコンの使い分けている。
(5)件名のないメールなど、あやしげなメールは、プレビューウィンドウに開くことなく、即、削除
している。
(6)あやしげなメールをくれた人などは、アウトルックのフィルタリング機能※を使って、以後、
受信と同時に削除している。(これはあやまって開いてしまうのを避けるため。)

 またホームページからの問い合わせについても、住所や名前のないものは、即、削除。あと
は定期的に、パソコン全体をウィルスチェックしている。ウィルスに侵入されたときの被害(心的
ストレスや再設定などの時間的被害)を考えたら、これはやむをない措置だと思う。攻撃してく
る人も、自分が被害者だということに気がついていないことも多い。

 で、ふと振り返ってみると、私の人間性も少なからず影響を受けているのに気づいた。インタ
ーネットの世界だけではなく、それ以外のところでも、結構、クールになったように思う。こういう
のを「リセット症候群」というのか。人間関係も、切るときは切るという姿勢が強くなった。割り切
り方がシャープになったというか、自分で「この人とはつきわない」と思ったとたん、バサリとそ
の人との関係を切ってしまう。こうしたクールさは、以前の私にはなかったのだが……。

 社会情勢が変化するにつれて、こうした人間の質的変化も起きるだろう。すでにいろいろな
分野で、問題になりつつある。そしてその傾向はこれから先、大きくなることはあっても、もとに
戻ることはない。そんなことを考えながら、今日も、いくつかのメールを、心を鬼にして、削除し
た。あまり気分のよいものではないが……。

※フィルタリング機能……(アウトルックエキスプレス)→(ツール)→(メッセージルール)→(メ
ール)→□「送信者にユーザー名が含まれている場合」にチェック→□「削除する」にチェック→
送信者の名前、アドレスの一部を書き込む。この方法を使うと、受信と同時に、メールを削除し
てくれるので、うるさいメール、迷惑メールなども、シャットアウトできる。便利な方法。

●希薄になる人間関係

 もうひとつ、こんなことにも気づいた。人との通信が、前よりも格段に便利になった。便利にな
りすぎたといってもよい。その結果だが、かえって人間関係が希薄になってしまったように感ず
る。不特定多数の人と、広く浅く通信しているうちに、かえって大切な人との交信が少なくなっ
た。「いつでも交信できる」という思いが、「いつか交信しよう」という思いに変わる。そしてつい、
交信するのがのびのびになってしまう。

 もうひとつ困るのが、混乱。たとえば見知らぬAさんとしばらく交信したりする。しばらくして今
度は見知らぬBさんとしばらく交信したりする。すると頭の中で、AさんとBさんが混乱してしま
い、どちらがどちらだったかわからなくなってしまう。そこへさらにCさん、Dさんが加わると、こ
の状態はますますひどくなる。……やがて、だれがだれだか、わからなくなってしまう。

 便利なインターネットだが、いろいろ問題があるようだ。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞










件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-26

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 487人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−10−26号(129)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
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  in your home country. Hiroshi
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今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育て格言・新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers) 
【2】随筆(Essays)
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 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●『ひまな子どもほど、忙しいと言う』

 『ひまな子どもほど、忙しいと言う』は、イギリスの格言。つまりひまで、時間をもてあましてい
る子どもほど、何かを言いつけたりすると、「忙しいからできない」を口実に、しない。日本でも、
昔から、『大工は、いそがしい大工に頼め』という。いそがしい大工は、それだけ仕事から手を
抜くかといえば、そうではない。反対にヒマそうな大工ほど、それだけよい仕事をしてくれるので
はと思いがちだが、実際には、しない。

 人はある緊張感に巻き込まれると、そのリズムで、仕事をするようになる。わかりやすく言え
ば、「活気」ということか。これは教師についても言える。毎日、忙しそうにキビキビと動いてい
る教師は、そのリズムの中で、どんどんと仕事をこなしていく。仕事ぶりもよい。しかし毎日ひま
そうな教師は、そのリズムで、どんどんと仕事をあと回しにしていく。そのため仕事から、できる
だけ手を抜こうとする。

 子どもを伸ばすコツは、言うなれば、こうした緊張感のあるリズムの中に、子どもを巻き込む
こと。そして子ども自身が、日々の生活をキビキビとこなしていくようであれば、よし。そうでなけ
れば、……と書いたが、この先がむずかしい。一度だらしなくなってしまった生活は、なかなか
もとには戻らない。たとえば子どもに退行的な生活態度(約束や規則、目標が守れない。時間
がルーズになる。生活習慣が乱れる。だらしなくなる)が見られるようになると、それをなおすの
は、容易ではない。要は、そういう子どもにしないことだが、親が寝そべって、せんべいを食べ
ながら、「あんたはしっかりしてね」はない。結局は、親の心がまえの問題ということになる。

 そこであなた自身はどうか。毎日、メリハリのある生活を、キビキビとこなしているだろうか。
さらに月単位、年単位で、キビキビとこなしているだろうか。もしそうなら、そうした緊張感は、子
どもによい影響を与えているはずである。そうでなければ、そうでない。

 ふつうキビキビと目標をもって生活している子どもは、「忙しい」とは言わない。「時間がない」
という。だからこのイギリスの格言をもじると、こうなる。

 『忙しい子どもほど、時間がないと言う』と。さて、あなたの子どもはどうか。あなた自身はどう
か。


●肥満傾向は手の甲を見る

 もう三〇年前になるが、仕事で香港へ行くたびに、私は低周波治療器なるものを数台買って
きた。向こうでは五〜六万円のものだったが、日本へもってくると、一〇万円以上で売れた。日
本では針治療や、ハリ麻酔の研究にそれを使った。治療器と言っても、簡単な機械で、ぎょう
ぎょうしい外装とは別に、中身はがらんどうだった。

 その機械を日本でもできないかと考えていたとき、私は皮膚電気抵抗値という言葉を知っ
た。人間の体に微弱な電流(3V程度)を流すと、体の部位によって、抵抗値が違うというのだ。
測定はマイクロアンペア計ですればよい。このアンペア計が、当時、精度のよいもので、四〜
五〇〇〇円。あとはそれに整流体(一方向に電流を流すようにするもの)や抵抗体(電流を、
測定しやすい値に補正するもの)をつければ、それで皮膚電気抵抗値を測定できた。実に簡
単な装置だった。値段も、乾電池を含めても、五〇〇〇円前後だった。私はそれを使って、ハ
リ麻酔の研究をつづけた。

 が、やがてその皮膚電気抵抗値を応用して、体脂肪測定器ができるとは、思ってもみなかっ
た。脂肪分の多い人は、当然抵抗値が大きくなる。脂肪は電気を通さないからだ。一方、脂肪
の少ない人は、それだけ抵抗値が小さくなる。この値を補正すれば、「体脂肪率○○%」と表
示することができる。まちがいなく、私はそのとき皮膚電気抵抗値の研究では、最先端を走っ
ていた。もしそのとき、それに気づいていれば、億万長者になっていたと思う。人生には、そう
いう、つまり、あとで気がついてみるとわかるが、そのときは見逃してしまうチャンスというの
が、ときどきあるものだ。しかしこれは余談。

 その肥満。長い間、子どもの肥満を見ていて気づいたことがある。満四歳前後までは、乳幼
児期の肥満がつづいているが、それ以後、子どもの体形は、少年少女期に向かって、スリム
になっていく。そのとき、肥満傾向がつづく子どもは、手の甲の肉がぷっくりとふくれたような感
じになる。そうでない子どもは、そうでない。もう少し詳しく言うと、こうだ。

 手のひらをぐいとのばしてみる。すると五本の指の付け根に、指からのびる五本の腱が現れ
る。この腱の様子を見れば、子どもの肥満度をある程度、判断できる。

(肥満度一)子どもの肥満傾向が進むと、四肢の末端からその傾向がはっきりとわかるように
なる。たとえば手の甲(てのひらの部分の反対側)が、何となくぷっくりと張れたような感じにな
る。腱そのものが、わかりにくくなる。

(肥満度二)さらに肥満度が進むと、この腱がまったく見えなくなり、かわって、付け根のところ
に、えくぼが現れるようになる。

(肥満度三)さらに肥満度が進むと、手の甲全体が丸くふくらんだようになり、手を伸ばすと、甲
に深いえくぼが現れるようになる。この段階になると、肥満がだれの目にもわかるようになる。

 子どものばあい、肥満は大敵。(太る)→(運動不足になる)→(ますます太る)の悪循環に入
ると、肥満度は一挙に加速する。学習にも大きな影響が出てくる。これはあくまでも見た感じだ
が、脳へ行くべき血流が、どこかほかへ行くような感じになってしまう。そのため集中力や思考
力が弱くなる。

 こうした肥満傾向が見られたら、できるだけ初期の段階で、家庭の中から、食べ物を一掃す
るのがよい。思い切って捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、そうする。そういう「思
い」が、まちがった買い物習慣を改めさせる。このタイプの親ほど、「うちの子はそれほど食べ
ていません」とか、「食事には注意しています」とか言う。しかしその反面、家の中には、食べ物
がゴロゴロしているもの。基準そのものが、ふつうの家庭と大きくズレていることが多い。

 なおこの手の甲をみる肥満度検査法は、ここにも書いたように、満四歳児以下には応用でき
ない。


●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まましてしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。「ヒロシ、日
本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、「ドラ化して
いる」という意味だ。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。しかしそれを見て見ぬフリし
たり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家庭教育のあり方を、かなり反
省したほうがよい。子どもをかわいがるということは、どういうことなのか。子どもを育てるという
ことがどういうことなのか。それをもう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。


●昼寝グセはガムで

 慢性的な睡眠不足とは別に、満五歳をすぎても、昼寝グセが残っているようなら、その時間、
ガムをかませるとよい。(だからといって、昼寝が悪いといっているのではない。もし気になるな
ら、ということ。)

 ここまで書いて気がついたが、本来人間は、生物学的に、昼寝をする習慣をもっているので
はないか。外国へ行っても、昼食後、昼寝する民族は多い。スペインに住んでいる知人も、少
し前メールで、こう教えてくれた。「このあたりでは、昼休みが長く、子どもたちは一度家へ帰っ
て、昼寝する。それで子どもたちも、夜一〇時をすぎても、通りで遊んでいる」と。日本の生活
習慣、あるいは常識が、そのまま世界の生活習慣の基準と考えるのは、正しくない。

 実のところ、私も五〇歳を過ぎるころから、昼寝をするようになった。毎日というわけではない
が、数日おきくらいにそうしている。そういう自分を振り返ってみると、昼寝は悪いものではない
と思うし、それが子どもにあっても、不思議ではない。むしろ現代生活のほうが、人間本来の生
活習慣をねじまげているのではないか?

 話はそれたが、ガムをかむことには、いろいろな利点がある。頭がよくなる(サイエンス誌)と
いう説もあるが、これなどは、素人が考えても、納得できる。あごの運動が、脳の活動を活発
化する。ほかにあごの筋肉を鍛えるということもある。当然、咀嚼(そしゃく=かむ)力が鍛えら
れる。胃腸のためにも、よい、などなど。そんなわけで、子どもにはガムをかませるとよい。が、
これにはいくつか、コツがある。

(1)当然のことながら、菓子ガムは、避ける。
(2)ガムは、一枚与えて、最低でも三〇分は同じガムをかませる。つぎつぎと交換するのは避
ける。
(3)はげしい運動中は、ガムは避ける。息を吸い込んだとき、のどをつまらせる。
(4)子どもの口にあった適量にする。幼児のばあい、ふつうのガムの半分の量でよい、など。
ほかにガムを捨てるときの、マナーを最初に、しっかりと教えておくというのもある。


●不安の原因は、わだかまり

 子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、あなた自身
の中に潜む、「わだかまり」をさぐってみる。わだかまりは、あなたの心の奥に巣をつくり、あな
たを裏から操る。

 わだかまりがあるということが悪いのではない。ほとんどの人は、何らかのわだかまりをもっ
ている。わだかまりがあるということが悪いのではなく、その「ある」ことに気がつかないまま、そ
れに振り回されるのが悪い。

 望まない結婚であった。望まない子どもであった。妊娠中に大きな不安があった。実家とうま
くいっていない。不幸な家庭生活だった。生活苦がある。夫婦げんかが絶えない。夫婦関係が
ぎくしゃくしている、などなど。こうした「思い」が、わだかまりとなり、それが「子育ての不安」を
増大させる。

 ある母親は、小学一年生の男の子を、「イヤーッ!」と叫んで、手で払いのけていた。長い
間、その理由がわからなかったが、いろいろ振り返ってみると、望まない結婚が原因だったと
いうことがわかった。

現在の夫(子どもの父親)は、その母親に対して、結婚前、執拗なストーカー行為を繰り返して
いた。が、その母親は心のやさしい人だった。「実家に迷惑がかかってはいけない」「私ひとり
ががまんすれば何とかなる」と考えて、その男と結婚した。が、そんな結婚だから、最初からう
まくいくはずがない。殺伐(さつばつ)とした結婚生活がつづいた。そこでその母親は、「子はか
すがいという。子どもをつくれば何とか、うまくいくだろう」と考えて、その男の子をもうけた。子ど
もが「ママ!」とすりよってくるたびに、その母親は、無意識のまま、その男の子を払いのけて
いたというわけである。

 こうしたわだかまりは、それに気がつくだけで、消えることはないが、おとなしくさせることはで
きる。そのあと少し時間はかかるが、やがて問題も解決する。そこで大切なことは、冒頭に書
いたように、いつも同じようなパターンで、同じように失敗するというのであれば、このわだかま
りを疑ってみる。何かあるはずである。


●子どもは芸術品

 母親にとって、子どもは芸術品。とくに乳幼児期から幼児期にかけての子どもは、そう思うべ
し。こんな投書が載っていた。

 郵便局で並んで待っていたときのこと。前に立っていた母親が、子どもをおんぶしていた。子
どもは母親の背中で、アイスを食べていた。そのアイスで、その人の服を汚してしまった。そこ
でその人が、「アイスで服が汚れましたが……」と母親に注意すると、その母親はこう言ったと
いう。「子どものすることだから、しかたないでしょ!」と。投書したその人は、「何ともやりきれな
い気持ちになった」と書いていた。

 私にも似たような経験がある。

 新幹線の中で走り回っている子どもたちがいたので、注意すると、いっしょにいた母親はわざ
と私に聞こえるような大声で、こう言った。「うるさい、おじさんねエ」と。以後、私はともかくも、
一時間近く、ピリピリとした雰囲気のままだった。さらにレストランで、箸を口に入れたまま、走
っている子どもがいたので、「あぶないよ」と声をかけたことがある。どこかの子どもが、綿菓子
の棒が喉に刺さって死ぬという事件が起きる、少し前のことだった。が、その子どもの母親は、
私にこう言った。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと言わないでくれ」と。すごみのある
声だった。

 こうした母親は、自分の子どもが注意されると、自分の作品をけなされたかのように感ずるら
しい。芸術家が、自分の作品をけなされたような気持ち? つまり親と子の間に、カベがない。
子どもとの間に距離をおいて、子どもを客観的に見ることができない。私自身は母親になった
ことがないので、そういう心理はよくわからないが、そういうことらしい。

 こうした心理がよいとか悪いとか判断する前に、母親にはそういう心理があるという前提でつ
きあうこと。だから、母親の前で、子どもを注意したり、批判したりするときは、じゅうぶん注意
する。そのときはそうでなくても、『江戸の敵(カタキ)を、長崎で討つ』ということも、この世界で
はよくある。クワバラ、クワバラ。


●美徳の陰に欠点あり

 『美徳の陰に欠点あり』。これはイギリスの格言。美徳とまでは言わなくても、こうした例は、
子どもの世界ではよくある。たとえば「字のきれいな子どもは、書くのが遅い」など。こんなこと
があった。

 E君(小三)という子どもがいた。習字の教室で書くようなきれいな字で、いつも書いていた。
それはそれでよいことかもしれないが、その速度が遅い。みなが書き終わって、一服している
ようなときでも、まだ半分も書いていない。ノロノロといったふうではないが、遅い。そこで何度も
はやく書くように言うのだが、それでも、それが精一杯。

 が、とうとう私のほうが、先に限界にきてしまった。そこでこう言った。「ていねいに書かねばな
らないときもある。そうでないときもある。ケースバイケースで、考えて書きなさい」と。とたん、E
君ははやく書くようになった。が、その字を見て、私は驚いた。まったく別人の字というか、かろ
うじて読めるという程度の悪筆だった。しかしそれがE君の「地」だった。

 ほかにも「よくしゃべる子どもは、内容が浅い」など。ペラペラとよくしゃべる子どもは、一見、
利発に見えるが、その実、しゃべっている内容が浅い。脳に飛来する情報を、そのつど加工し
て適当にしゃべっているだけといったふうになる。子どもの世界には、『軽いひとりごとは、抑え
ろ』という格言もある。子どもがペラペラと意味のないことを言いつづけたら、「口を閉じなさい」
といって、それをたしなめる。

 言葉というのは、それを積み重ねると、論理にもなるが、反対に軽い言葉は、その子ども
(人)の思考を停止させる。まさに両刃の剣。たとえば、「ほら、花」「きれい」「あそこにも花」「こ
こにも花」「これもきれい」式の言葉は、その言葉の範囲に、子ども(人)の思考を限定してしま
う。人間の思考は、もっと複雑で深い。それにはやい。が、こうした軽い言葉を口にすることで、
その言葉にとらわれ、それ以上、子ども(人)はものを考えなくなってしまう。

 その状態が進むと、いわゆる多弁性が出てくる。「多弁児」という言葉は、私が考えたが、こ
のタイプの子どもは多い。概して女の子(女性)に多い。

 これについて、こんな興味ある研究結果が報告されている。ついでにここに書いておく。

 言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)は左脳にあるが、女性のばあい、機能的MRIを使って
脳を調べると、右脳、つまり右半球のだいたい同じような場所(対照的な位置)にも、同じような
反応が現れるという。また言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)の神経細胞の密度も、女性の
ほうが高いということもわかっている。このことから、男性よりも女性のほうが、言葉を理解する
のに、有利な立場にあるとされる。つまり女性のほうが、相手の言葉をよく理解できると同時
に、おしゃべりということ(「脳のしくみ」新井康允氏)。ナルホド!

 
●『人、その子の悪、知ることなし』

出典はわからないが、昔から、『人、その子の悪、知ることなし』という。つまり、親バカは、人の
常ということ。

私の印象に残っている事件に、こんなのがあった。それを話す前に、子どもの虚言(いわゆる
ウソ)と、空想的虚言(妄想)は分けて考える。空想的虚言というのは。言うなれば病的なウソ
で、子ども自身がウソをつきながら、自分でウソをついているという自覚がない。Tさん(小三)
という女の子がそうだった。

 もっともそういう症状があるからといって、すぐ親に報告するということはしない。へたな言い
方をすると、それこそ大騒動になってしまう。また教育の世界では、「診断」はタブー。何か具体
的に問題が起き、親のほうから相談があったとき、それとなく話すという方法をとる。

 が、そのTさんが、こんな事件を起こした。ある日、私のところへやってきて、「バスの中で、教
材用の費用(本代)を落とした」と言うのだ。そこでそのときの様子を聞くと、ことこまかに説明し
始めた。「バスが急にとまった。それで体が前にフラついた。そのときカバンが半分、さかさま
になって、それで落とした」と。落とした様子を覚えているというのも、おかしい。そこで「どうして
拾わなかったの」と聞くと、「混んでいた」「前に大きなおばさんがいて、取れなかった」と。

 しかしその費用が入った袋の中にあった、アンケート用紙は、カバンの中に残っていたとい
う。これもおかしな話だ。中身のお金と封筒だけを落として、その封筒の中のアンケート用紙だ
け残った? それ以前からTさんには、理解しがたいウソが多かったので、私は思いきって事
情を、父親に説明することにした。が、父親は私の話を半分も聞かないうちに、怒りだしてしま
い、こう怒鳴った。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。父親は、警察署で、刑事をしていた。

 そこで私は謝罪するため、翌日の午後、Tさんの家に向かった。Tさんの祖母が玄関で私に
応対した。私は疑って、失礼なことを言ったことをわびた。が、そのときこのこと。私は玄関の
右奥の壁のところに、Tさんが立っているのに気づいた。私たちの会話をずっと聞いていたの
だ。私はTさんの顔を見て、ぞっとした。Tさんが、視線をそらしたまま、ニンマリと、笑ってい
た。

 そのあとしばらくして、Tさんの妹(小一)から、Tさんが、高価な人形を買って、隠しもっている
話を聞いた。値段を聞くと、そのときの費用と、一致した。が、私はそれ以上、何も言えなかっ
た。

 子どもを信ずることは、家庭教育の要(かなめ)だが、親バカになってはいけない。とくに子ど
もを指導する園や学校の先生と、子どもの話をするときは、わが子でも他人と思うこと。そうい
う姿勢が、先生の口を開く。先生にしても、一番話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリと神経質になる親。つぎに「うちではふつうです」とか、「うちでは問題ありませ
ん」と反論してくる親。そういう親に出会うと、「どうぞ、ご勝手に」という心境になる。


●『火の中に、鉄を入れすぎるな』 

 『火の中に鉄を入れすぎるな』は、イギリスの教育格言。詰め込みすぎても、かえって逆効果
ということ。子どものやる気(火)は、消えてしまう。が、親にはそれがわからない。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と考える。また多少できるようになると、「もっと」とか言
い出す。そういう親の心理が理解できないわけではないが、子どもはロボットではない。あなた
と同じ人間だ。そういう視点をふみはずすと、子どもの姿を見失う。

 やはり印象に残っている子どもに、S君(小二)がいる。S君は、能力的にはそれほど恵まれ
ていなかったが、たいへん生まじめな子どもで、学校の宿題でも何でも、言われたことをきちん
とやりこなす子どもだった。

 しかし実際のところ、このタイプの子どもほど、何か心の問題をもっていることが多い。たいて
いの親は、そういう状態をみると、「まじめないい子」と誤解するが、誤解は誤解。S君は毎日
学校から帰ってくると、一時間は書き取りの勉強をした。ときには、それが二時間にもなること
があったという。しかし、動きざかりの子どもが、二時間も机の前にすわって、黙々と書き取り
の練習をすることのほうが、おかしい。そこで私は、何度も、「そういう勉強はやめたほうがよ
い」と忠告した。

 しかし家族、とくに祖母はその言葉に耳を貸さなかった。まったく耳に入らないというよりは、
むしろ、そういう子ども(孫)を喜んでいた。「先生の指導のおかげで、ああいうう子どもになりま
した」と。「きのうは三時間(三時間!)も勉強してくれました」と言ったこともある。

 やがて小学三年になるころには、漢字練習だけではなく、算数のワークブックも、それなりの
量をこなすようになった。そうしたワークブックは、励ます意味もこめて、私が一応目を通すこと
にしている。が、そのワークブックを見て、私はさらに驚いた。たとえば計算問題なども、まちが
えたところには、別の紙がはりつけてあり、きちんとやり直してあったのだ。

 こうした家庭学習では、ほぼあっていれば、大きな丸をつけてあげるのがよい。いいかげんと
言えば、いいかげんだが、子どもはその「いいかげんな部分」で、息を抜く。羽をのばす。とくに
計算練習などは、一〇問やって、七〜八問できればよしとする。あとは大きな丸を描いて、ほ
めてしあげる。が、その祖母にはそれがわからなかった……らしい。私がそういった丸をつけ
ると、そのつどやってきて、「こういういいかげんな丸をつけてもらっては困ります」と。

 こうなるとS君が、プツンするのは時間の問題だった。S君はやがて慢性的なものもらいにな
り、はげしいチック(筋肉の不規則なけいれん)が起こすようになった。眼科でみてもらうと、塾
が原因と言われた。そこで祖母は、それまで行っていた、おけいこ塾すべて(スイミング、英会
話、算数教室)を、やめた。

 こういうケースでは、一挙にすべてやめるのは、たいへんまずい。やめるとしても、少しずつ
やめるのがよい。あとあとの立ち直りができなくなってしまう。が、S君の祖母は、そういう私の
アドバイスも無視した。私としては、もうなずべきことは何もない。

 で、S君はその直後から、はげしい無気力症状ができてきた。学校から帰ってきても、ただぼ
んやりと空を見ているだけ。反応そのものまでなくなってしまった。好きだったゲームを与えて
も、上の空。もちろん漢字の学習も、計算練習もしなくなってしまった。

 S君はいわゆる、バーントアウト(燃え尽き)してしまったわけだが、そのS君がなぜ、こうまで
私の印象に残っているかといえば、それには理由がある。そういう症状が出てからしばらくした
あと、父親と母親が私のところに相談にやってきた。そしてこう言った。

 「先生、わかっていたら、どうして前もって、それを言ってくれなかったのですか!」と。私が
「こうなることは予想していました」と話したときのことだ。何ともやりきれない思いだけが、あと
に残った。「どうしてこの私が叱られなければならないのか」という思いだけが、強く残った。と、
同時に、S君のことは忘れられない子どもになった。

 S君がそういう子どもになったのは、要するに『火の中に鉄を入れすぎた』からにほかならな
い。しかし親は、「まだだいじょうぶ」「まだいける」と、どんどんと鉄を入れる。そして火が消えて
はじめて、それが失敗だと気づく。これも家庭教育のもつ、大きな落とし穴のひとつということに
なる。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(196)

男子の能力と女子の能力

 男子と女子とでは、その能力に差があるということは、以前から指摘されている。とくに空間
図形の回転テストで、大きな差があらわれる。たとえばやや複雑な形をした「見取り図」を子ど
もに見せ、別の角度から見た同形のものを選ばせるテストでは、男子のほうが女子より、全体
によくできる。こうした差が生まれるのは、動作性IQに関する遺伝子が、Y染色体上にあるた
めと言われている。これから先も、こうした分野での研究がさらに進んで、よりはっきりしてくる
のだろうが、能力の差というのは、どこかで遺伝子の問題と深くからんでいるらしい。努力によ
ってどうにかなる部分もあるが、そうでない部分も多いということか。
 
 一般に男子は、つぎの分野が得意とされる。
○空間回転、空間図形(立体の見取り図を見て、別の角度から見たものを選ぶ)
○標的をねらうような運動技能(的にボールをあてるなどの技能)
○数理的能力(数学の分野で論理的にものを考える能力)
○図形変化の予測(折り紙をすると、どの形になるか頭の中で推理する)
○同形分離と弁別(複雑な模様の中から、目的の図形を選ぶ。)

一方、女子は、つぎの分野が得意とされる。
○知覚速度(ものを瞬間的に見て、どれとどれが同じか、違うかを判断する能力)
○観念類推(「赤くて丸いものは?」と聞かれたとき、つぎつぎとものを思い浮かべる)
○同形判断、異型判断(「この中で同じものは?」と聞かれて、それを瞬時に判断する)
○手作業の器用さ(単純反復作業を繰り返す。こまかい作業をする)
○計算能力(+−×÷の計算)

全体的に見ると、男子は、頭の中で空間図形を描き、それを自由に回転させたりすることが得
意だが、女子は苦手。一方女子は、手先が器用であるということのほか、感覚的にものを見
て、瞬時に判断する能力にすぐれているが、男子は苦手ということ。こうした違いは、遺伝子に
よるものという説のほか、ホルモンによるものという説もある。

 たとえば「空間図形の回転テスト」では、男子のほうがすぐれた成績を示すということについ
て、たとえば精巣機能低下症の男子は、「有意に苦手」ということも報告されている。原因として
は、「生まれつきアンドロゲンの分泌が不足しているためと考えられる」(新井康允氏著「脳のし
くみ」より)とのこと。

 「私」という個人的な体験からしても、私は昔から空間図形が得意だったが、反復するような
単純作業は苦手だった。一方、私のワイフは、空間図形が苦手だが、こまかい作業をコツコツ
とすることが得意。こうした違いは、遺伝子の違いや、ホルモンの影響によるというのだ。今、
ここではこれ以上のことは書けないが、こうした知識は、子どもの能力をより深く理解するため
に、何かの役にたつかもしれない。
(02−10−19)※

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子育て随筆byはやし浩司(197)

ある信仰団体

 今日も、その人たちがやってきた。Aというユダヤ系の宗教教団に属する人たちだ。みな、大
きなカバンをもち、一様に満ち足りた表情をしている。彼らの教団では、月にX十時間の布教
が義務づけられている。私が電話で「義務ですか?」と問い合わせると、「義務ではありませ
ん。しかし熱心な信者なら、みなそうしています」と。

 月にX十時間と言えば、土日の計八日で割っても、一日、X時間前後になる。たいへんな重労
働だ。彼らはそのため、土日は、ほとんど丸一日を、その布教活動のために使っている。で、
会って話を聞くと、その布教のために使う小冊子などは、すべて自前で購入するという。一方で
教団には、一円も寄付しないということだが、こうした形、つまり教団から布教に必要な小冊子
や冊子、さらには聖書などを購入することによって、財政的に教団を支えている。……らしい。

 ユダヤ教と言えば、旧約聖書に基づく。私は若いころ、あることからシュメール文化に興味を
もち、つづいて、アッシリア物語に興味をもったことがある。現在、当時の記録を残す楔形(くさ
びがた)文字で書かれた土板が大量に発掘されていて、それらが翻訳されている。アッシリア
物語は、いわば旧約聖書の母体となった物語だと思えばよい。そのアッシリア物語を読んで
も、旧約聖書がかなり「いいかげんな書物だ」ということがわかる。それもそのはずで、旧約聖
書は、シュメール文化が滅んでから、七〇〇〜一〇〇〇年もたってから、ユダヤ人たちによっ
て書かれた書物だからである。日本で言えば、二〇〇二年に、鎌倉時代の物語を思い出しな
がら書いたようなものだ。

 ……だからといって、旧約聖書を否定しているのではない。私が「聖書だって、まちがいがあ
るかもしれませんよ」と言ったときのこと。彼らは血相を変えた。横にいた女性は、「聖書を疑う
なんて!」とそのまま絶句してしまった。彼らにとって、聖書というのは、そういものらしい。その
気持ちはわかる。

多かれ少なかれ……というより、ほとんどの宗教は、自らの宗教的権威のハクづけを信仰の
「柱」にする。宗教的権威のない宗教はないとさえ言える。たとえばこの日本では、経文を現代
日本語に翻訳しただけで、あちこちからクレーム(抗議)が殺到する。「勝手な解釈をしてもらっ
ては困る」「経文には、うわべの意味と、底に沈んだ意味がある」「経文を翻訳することができる
のは、私たちの法主(ほっす)だけだ」と。経文というのは、チンプンカンプンであればあるほ
ど、信者にはありがたみが増すというわけだ。

 しかし私は僧侶の、あの読経を聞くたびに、いつもこう思う。「中国人が読んでも意味がわか
らないような漢文を、これまたメチャメチャな発音で読んで、本当にインド人のお釈迦さまが、
理解できるのか」と。

 もちろん信仰するのは、その人の自由。勝手。反社会的な宗教教団は別として、彼らの信仰
は信仰として、尊重しなければならない。よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいる
のではない。それを求める信者がいるから、宗教教団がある。宗教教団を否定しても意味が
ない。それはわかるが、ではなぜ、彼らはスカズカと、私の家に入り込んでくるのか。「私たち
は絶対正しい」と私に向かって言うことは、「あなたはまちがっている」と私に言うに等しい。そう
いう失礼なことを言いながら、なぜ彼らは、わからないのか。

 私たちは今、自分の足で立ちあがろうとしている。どれもこれも不完全で、未熟なものだ。し
かしそれでも自分の足で立ちあがろうとしている。人間の生きる美しさは、そこから生まれる。
無数のドラマもそこから生まれる。私とて、神や仏に頼ることができたら、どれほど気が楽にな
ることか。身を寄せ、すべてを任せてしまえば、もう考える必要はない。しかしそれは、私にとっ
ては、敗北以外の何ものでもない。私は、たった一度しかない人生だから、自分の足で歩いて
みたい。自分の頭で考えてみたい。もしそれがまちがっているというのなら、神や仏のほうがま
ちがっている。野を走る動物を見ろ。野に咲く花を見ろ。みんな自分の力で生きているではな
いか。みんな自分の力で懸命に生きているではないか。

 冒頭のAという宗教教団の信者はこう言った。「それではあなたは救われません」と。「救う」と
か「救われない」とか、そこらの人間が軽々に言ってもらっては困る。口にするような言葉では
ない。具体的には、「終末(世の終わり)に、神の降臨があり、信したものだけが救われる」とい
う。もしそうなら、その宗教教団は、まちがっている。野を走る動物や、野に咲く花は救われな
いのか。懸命に生きている私は救われないのか。もし、そうならそれで結構。私は死んだら、ま
っさきに、その神様のところへ行き、「あんたはまちがっている」と言ってやる。

 そう、私は神や仏ではないが、毎日子どもたちに接していると、神や仏の気持ちが理解でき
るときがある。いや、キリストにせよ、釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったのか。私はそう
いう子どもたちに接しながら、「先生、先生」と、ベタベタとすりよってくる子どもよりも、「林のバ
カヤロー」と悪態をつく子どものほうが、かわいい。「先生の言うことなんか、まちがっている。
ぼくのほうが正しい」と言う子どものほうが、たのもしい。いわんや、「君は、私の教えに従わな
かったから、人生で失敗する」とか、「バチが当たる」とか、そういうことは言わない。

この地上で、その人が少しくらい、神や仏の意思に反したことをしたからといって、どうしてその
人を救わないということがあるのか。またそういうことがあってよいのか。私が神や仏なら、「あ
んたも、ずいぶんと、勝手なことをしましたね」と笑ってすます。無量無辺に心が広いから、神と
いう。仏という。そういう神や仏に甘えてよいというのではない。その前に、まず自分の足で立
ちあがってこそ、私たちは人間なのだ。

 彼らは実に楽しそうだ。私に対してはともかくも、仲間どうし、実にわきあいあいとしている。
振り返ると、私の家へ来た信者たちは、電柱のところに待っていた別の信者と合流した。うれし
そうだった。もっともこういう関係があるから、宗教教団は強い。まとまる。信仰する。私も子供
会や自治会、PTAの役員などをしてきたが、そういうところでは、絶対に味わうことができない
関係といってもよい。

私は、半ば「うらやましいな」と思いつつ、玄関のドアを閉めた。
(02−10−19)※

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子育て随筆byはやし浩司(194)

心の実験

 どこまで本当のことを書くか。私はこうしてものを書くとき、いつもこのテーマで悩む。いや、そ
の前に、私には、そこまで本当のことを書かねばならないのかという迷いもある。だれもそんな
こと、望んでいない。知りたいと、言ってきているわけでもない。仮に百歩譲って、本当のことを
書いたところで、それがどうだというのか。……そこであえてここで、ひとつの実験をしてみる。
私にとって、一番恥ずかしい話を、どこまで書けるかという実験である。

 私にも人に知られたくない秘密がいくつか、ある。その中でも、あえてテーマを選ぶとするな
ら、やはり「性」の問題か。とくに私は、一応、教育評論をしている。その立場上、性について書
くのは、半ばタブーになっている。だとするなら、なおさらこのテーマは、実験という意味では、
おもしろい。私がどこまで書けるか。またそれを読んだ、みなさんは、どう感ずるか。

 私の性癖で、ゆがんでいる部分といえば、「のぞき」がある。ワイフと結婚して以来、ほとんど
毎回、いっしょに入浴している。そんな私だが、たまにワイフがひとりで風呂に入っているのを
見たりすると、ゾクゾクと感じたりする。垣間(かいま)見る女体には、不思議な魅力がある。そ
れをワイフに話すと、「バカねエ」と笑う。「見たければ、いくらでも見せてあげる」と言う。しかし
そういうふうにして見せられても、ほとんど何も感じない。

 そんなわけで若いころは、よくストリップを見に行った。もっとも私が好きだったのは、ストリッ
プというより、あの場の雰囲気だった。浜松市の中心街に、昔、K劇場という、これまたうらぶ
れたストリップ劇場があった。イスは破れかぶれ。やたらとトイレ臭い劇場だった。そういうとこ
ろで踊り子たちが踊っている姿をぼんやりと見ていると、人生を感じた。とくに太ももの肉がこ
け、三段腹、四段腹の、四〇歳、五〇歳代の女性が懸命に足を広げて踊っているのを見たり
すると、人生そのものを感じた。私が帽子を深くかぶり、眠ったフリをしていると、踊り子がいつ
もこう言った。「あんた、ウソ寝してないで、ちゃんと見てよ。私のはね、色は黒くても、名器なん
だからさ」と。ある時期から、東南アジアからきた若い女性が踊るようになったが、そういうの
は、ただの「女体」。きれいはきれいだが、人生は感じなかった。

 私は、商社マンだった一時期をのぞいて、バーとか、キャバレーとか、はたまた風俗店へ足
を踏み入れたことは、ただの一度もない。若いころ、貿易会社の顧問をしたり、ドクターの代筆
をしたこともあり、そういう人たちに連れられて、トルコ風呂へはときどき行った。ときどきといっ
ても、合計して一〇回くらいか。しかしそれも、あるときフィリッピンの女性がエイズになったとい
う話を聞いてからは、完全にやめた。

 若いころは、そして今も、それほど深い道徳や倫理観はもっていなかった。だから、そういう
ことをしても、罪悪感はあまり感じなかった。ストリップにしても、いつもワイフの了解を得て行っ
た。そうワイフは、実にさっぱりした女性で、何かあると、「あんたも、ストリップでも見て、気分
転換してきたら」と、私に言ったりした。

 ……さて、ここまで読んで、あなたは私のことをどう思っただろうか。私はあえて正直に、自分
のことを書いた。これが実験である。そういう読者はいないと思うが、私にもし幻想を抱いてい
る人がいたら、ショックを受けるかもしれない。私も、どこかの牧師や僧侶がここに書いたよう
なことを書いたら、驚くと思う。しかし私は牧師でも僧侶でもない。ごくふつうの、ただの「男」で
ある。よく子ども(生徒)たちが、私にこう聞く。「先生は、スケベか」と。そういうとき私は、こう言
う。「君たちのお父さんと同じだよ」と。あるいは「先生は、エロビデオを見るか」と聞くときもあ
る。そういうとき私は、こう言う。「もう見飽(あ)きたよ」と。

 さて今度は私の心境。こうして正直に自分のことを書いてみると、意外と、何でもないことだと
わかった。書く前は、「こんなことを書いていいものか」と思ったが、書き終わってみると、「くだ
らないことを書いたな」というふうに思うようになった。あるいはこんなつまらないこと書いたとこ
ろで、どうなのかとも思った。だいたいにおいて、「正直に書かねばならない」と構えるようなテ
ーマではない。しかしこの実験の結果というか、こうして自分のことを書いてみることによって、
つぎのようなことは学んだ。

 ものを書くときは、正直に書くとか書かないとか、そういうふうに気負うことはない。ありのまま
を書く。それでよい。へんな気負いをもつと、書くほうも疲れる。それをどう判断するかは、読者
の問題であって、私の問題ではない。言いかえると、ありのままを書いてもよいように、いつも
自分の身辺を整えておかねばならない。実のところ、ものを書く人間は、ものを書くときよりも、
そちらのほうに気をつかう。ごまかして、自分を飾ってもすぐボロが出る。またそういう文章は、
あとで読み返しても後味が悪い。つまりそれこそ時間をムダというもの。これからも、そういう後
味の悪い文章だけは書きたくない。……書かない。

 以上で、今日の実験は、お・し・ま・い。
(02−10−18)

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
●詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-28-1

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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 487人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−10−28号(130)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】あなたの子育て、だいじょうぶ?(To be good parents)
【2】日々に考えること(Let's think about our life!)
【3】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers) 
【4】随筆(Essays)
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 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
うちの子は何を考えているかわからない!
仮面をかぶらせるな(失敗危険度★★★★)
++++++++++++++++++++++++++++
●仮面をかぶる子ども
 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。

●心と表情の一致
 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が
日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込
むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいる
が、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮
面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる
前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、
わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、
つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。

●言いたいことを言わせる
 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。しかし平気な親もいる。「バカ!」と言うこと
を許せというのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけ
ない。

●子どもの心は風船
子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、
子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心と
いうのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注
意する。 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


あなたはダメな子ネー!
いつも前向きの暗示を(失敗危険度★★★★★)
++++++++++++++++++++++++
●前向きの暗示を!
 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの暗示が、
子どもを伸ばす。また前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何か新しい
ことを提案したりすると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。これは家庭教育の常識
だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。
 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子どもを伸ば
す。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、子どもに伝わる。言葉ではない。そこでテ
スト。

●「年齢はいくつ?」
 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級生が
歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」と聞いたと
する。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。

 自分の子どもに自信のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。「まだ
五歳ですけど……」と。「うちの子はまだ五歳だけど、すばらしい子どもに見えるでしょ」という気
持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をしかめながら、「もう」と
いう言葉を使う。「もう五歳なんですけどねえ」と。「もう五歳になるが、その年齢にふさわしくな
い」という気持ちからそう言う。もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のような
なら、あなたの心をつくりかえる。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消えていく。
そうなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。

●うしろ向きに考える中学生
 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自ら伸びる芽
をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところになると、いつも、「どう
せ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、ある日聞いてみた。すると彼女
はこう言った。「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。その子どもは、もうとっくの昔に
忘れてよいはずの、しかも一〇年近くも前のことを気にしていた。こういうことは子どもの世界
ではあってはならない。

 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、「あなたは
すばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあなたがこの言葉を自
然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっているはずである。当然、あなた
の子どもの表情も明るくなっているはずである。
(1292)
((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(201)

整形という不道徳

●安易な肯定論
 「整形をしたおかげで、人生が明るくなった」「前向きに生きられるようになった」という、男性
や女性は多い。そういう肯定的な評価だけが先行し、このところ、整形する若い男女が、ぐんぐ
んとふえている。正確な数字はわからないが、浜松市内だけでも、この種の美容整形をする医
院が、急速に数をました。しかも市の中心部の一等地に、それが並ぶ。

 身体コンプレックスはだれにでもある。この私にもある。……あった。私がそれを一番強く感
じたのは、オーストラリアで留学しているときだった。当時、あの人口三〇〇万人のメルボルン
市でさえ、日本人の留学生は私一人だけだった。目立つというよりも、いつも好奇の対象として
見られた。そういう中、私は、私のサイズに合うズボンをさがすのに苦労をした。結局、子ども
サイズのズボンを買って、それをなおして使ったが、あのとき感じた屈辱感は、いまでも忘れる
ことができない。もしあのとき、足の長さをあと、一〇センチ長くする手術があったら、私はそれ
を受けたかもしれない。

 だから整形する人の気持ちがわからないわけではない。しかし「賛成!」と言うには、あまり
にも遠い距離を感ずる。賛成か反対かと聞かれれば、当然、反対に決まっている。だいたいに
おいて、整形して何をなおす? 「なおす」といえば、まだ聞こえはよい。実際には、「ごまか
す」? 悲しいかな日本人の骨相は、もっとも貧弱というのが、世界の定説。長い間、極東の島
国で、孤立していたのが原因らしい。他民族と血の交流をほとんどしてこなかった。私も含め
て、顔のこわれた人や、崩れた人は多い。ほとんどがそうではないのか。そういう日本人が、
少しくらい顔をいじったところで、それがどうだというのか。

 整形することについて、何かの哲学があれば、まだ救われる。しかしそんな哲学など、どこに
もない。よい例が、あの厚底サンダル。私はあの厚底サンダルが、若い女性の間で流行したと
き、「日本人の短小コンプレックス、ここに極(きわ)まれり」と思った。髪の毛を茶色にしたり、
肌を脱色したり、つまりは白人コンプレックスのかたまりのようなことばかりしている。そしてそ
の延長線上にこうした美容整形があるとしたら、「賛成」とは、とても言えない。

●外面世界と内面世界
 世界には二つある。一つは、私たちを取り巻く、外面世界。この宇宙そのものということにな
る。もう一つは、私たちの心の中にある、内面世界。この内面世界も、外面世界の宇宙と同じく
らい、広い。もしそれがわからなければ、静かに目を閉じてみればよい。そのときあなたは、暗
闇の向こうに、何を感じ、何を思うだろうか。それが内面世界である。この内面世界が広くなれ
ばなるほど、相対的に外面世界は小さくなる。ばあいによっては、ちっぽけな世界になるかもし
れない。あるいは「外面世界など気にしてどうなる」とさえ思うようになるかもしれない。もう少し
わかりやすい例で説明してみよう。

 私はもう三〇年近く、自転車通勤をしている。その自転車通勤をしていることについて、群馬
県のT市で公認会計士をしているK君(私と同年齢)はこう言った。「そんな恥ずかしいこと、よく
できるな」と。彼に言わせれば、自転車通勤は、恥ずかしいことだというのだ。そこで話を聞く
と、彼はこう言った。「ぼくらの仕事はメンツを大切にする仕事だから、自転車なんかに乗って
いたら、それだけで相手にされなくなるよ」と。実際には、彼は、黒塗りの大型乗用車で仕事先
へ行くという。

 しかし私は一向に構わない。自転車通勤をしていることを、恥ずかしいだとか、かっこう悪い
ことなどとは、思ったこともない。もしそういうふうに思う人がいたら、私はむしろそういう人たち
を笑う。もとはと言えば、健康ために始めた自転車通勤だが、あるときから、それを誇りにさえ
思うようになった。「私は環境を破壊していないぞ」と。もし本当に天国というものがあるなら、私
はまっさきに天国へ入る資格がある。神様も私を一番に、迎えてくれるだろう。「あなたは地球
環境を守るために努力しましたね」と。

 自転車通勤を、恥ずかしいこと、つまりコンプレックスにするかどうかは、その人の考え方に
よる。もっと言えば、内面世界の広さによる。いや、だからといって、私の内面世界が、その公
認会計士の友人より広いと言っているのではない。たまたまこの分野については、私のほうが
広いというのだ。だから気にしない。人が何と言おうと、気にしない。

●戦うべきは、内面世界
 さて整形の話にもどる。身体的なコンプレックスがあるかどうかを問題にする前に、その人自
身の内面世界はどうなのかという問題がある。そういう内面世界が一方にあって、それでいて
なおかつ外面世界を気にするというのであれば、それはそれとして理解できる。が、その内面
世界がないまま、外面世界だけを気にして、コンプレックスを感ずるというのであれば、整形が
どうのこうのということを問題にする前に、生き方そのものがまちがっているのではないのか。
もし冒頭のような論理がまかりとおるなら、どんな行為でも正当化されてしまう。「大麻を吸って
みたら、いやな気分を吹き飛ばすことができた」「いやなヤツを殺してみたら、胸がスーッとし
た」と。

 それほど深く考えないで、流行だから茶パツにするというのなら、それはそれでよい。流行だ
から厚底サンダルをはくというのであれば、それはそれでもよい。しかし整形を、それらと同じ
に考えることはできない。健康な体に、不必要なメスを入れるということ自体、自然に対する冒
涜(ぼうとく)行為なのだ。自分の体は自分のものであって、決して、自分のものではない。たと
えばあなたの手を見てほしい。あなたは自分の手を見て、あなたがその手を自分で作ったと、
本当に思えるだろうか。あなたの体を見て、あなたがその体を自分で作ったと、本当に思える
だろうか。私は思えない。思えないばかりか、ときどき自分の手や体を見て、不思議に思うこと
がある。「いったい、これはだれの手なのだろうか」「これはだれの体なのだろうか」と。私は、
そういうものを勝手に作りかえることは、私を超えた私に対する、冒涜だと言っているのだ。

 みんなコンプレックスの一つや二つは、もっている。コンプレックスのない人など、いない。し
かしそのコンプレックスを戦うのは、自分自身の内面世界なのだ。仮に身体的なコンプレックス
があったとしても、戦うべきは、それをコンプレックスと思う自分自身なのだ。理由は簡単だ。
仮にあなたの顔がこわれていたとしても、それを恥ずかしく思うのは、「顔」ではない。あなたと
いう内面世界の人間なのだ。つまり戦うべき相手は、あなたの心なのだ。繰り返すが、そういう
戦いが一方にあって、なおかつ外面世界を気にするのなら、話はわかる。しかしそういう戦い
をすることもなく、外面世界だけを気にするというのであれば、それはまちがっている!
(02−10−21)

(追記)道徳をともない自由は、危険ですらある。「人に迷惑さえかけなければ、何をしてもい
い」という論理ばかりが先行したら、世の中はどうなる。こうした美容整形医に高い道徳を求め
ることはできないのか。もとからそんな道徳のない人間が、医者をしている? 今、この日本で
は、こうした「自由観」が、大手を振ってまかり通っている。若者たちは、それに踊らされている
だけ? ある意味で本当の犠牲者は、その若者たちなのかもしれない。
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子育て随筆byはやし浩司(202)
 
静かに考える時間

 ある県会議員のスケジュールを見て、驚いた。(かなり誇張して書いてはあったが……。)毎
日、それこそ分刻みのスケジュールが、ぎっしり! 「○○会出席」「XX団体との懇談会」「S県
○○施設視察団と昼食」と。私は、その議員が忙しいことに驚いたのではない。驚いたのは、
「この人は、静かに考える時間をどこで作っているのか」と。
 
 私もある時期、一か月に、休みがたった一日という状態で仕事をしたこともある。朝から晩ま
で仕事、仕事の毎日だった。そういう自分を振り返ってみると、静かに考える時間など、どこに
もなかったことがわかる。いや、仕事をしながら、そのつど、何かを考えていたはずだが、実際
には、たいへん浅いレベルで、思考をループさせていたに過ぎない。だから「考える」という意
味においては、ほとんど何も残らなかった。

 静かに考えるということは、人間に与えられた、最高のぜいたくである。……この一文を書く
とき、実のところ、最初は「多分、人間に与えられた、最高のぜいたくではないか」と書いた。
が、それを書きなおして、「最高のぜいたくである」とした。こうしてものごとを断定するのは、そ
れ自体、勇気のいることだ。言い方をまちがえると、読者の反発をかう。しかし何度も自分に問
いかけてみたが、やはり、「ぜいたくである」と断定してもよいのではないか。だからあえて断定
する。「静かに考えるということは、人間に与えられた、最高のぜいたくである」と。

 ただし、考えるといっても、ループ状態になってはいけない。たとえば私は先日、二〇年ぶり
に、ある知人(六一歳)と会った。昔、一緒に仕事をしたことがある人だった。その人と一緒にタ
クシーに乗っているときのこと。その知人は、こう言った。「何だかんだと言っても、日本はいい
国ですよ」と。そしてそのあと、彼は、持論をあれこれ展開したが、私はそれを聞きながら、ま
たまた驚いた。その言葉にせよ、持論にせよ、それはそっくりそのまま二〇年前に聞いた内
容、そのものだったからである。つまり彼は、その部分については、この二〇年間、まったく進
歩しなかったことになる。

 こうしたループ性は、よく感ずる。私自身も、だれかと話をしていて、それを感ずることがあ
る。不思議なことに、同じ人と会うと、同じような話になってしまう。たとえば姉と会うと、そのた
びに、どういうわけだか、話の内容はいつも、川の話になってしまう。「今年は、鮎はとれた?」
「今年も川原は、キャンパーたちでにぎわった?」と。そういうことはよくある。

 そこで「静かに考える」には、ひとつの条件がある。それはいかにして、そのループ性から抜
け出るか、である。私のばあい、あくまでも参考的意見だが、つぎのようにして戦っている。一
つは、同じことを考えない。これは当然だ。そしてもう一つは、そのつど、いつも心の実験をす
る。何か、心の分野で、いつも新しい実験をしてみる。この方法は、私がまだ二〇歳そこそこ
のころ、気がついた。

 東京に行ったときのこと。山手線に乗って、隣の駅に行くのに、私はわざと反対回りの電車に
乗ってみた。時間があったということもある。景色を楽しみたかったということもある。東京の人
たちを観察してみたかったということもある。ともかくも、最初はそうした。そうしながら、自分の
心がどう変化するかを知りたかった。あるときは、隣の駅に行くのに、山手線を三周くらいした
ことがある。

 今でもときどき、この方法を使う。わざと歩いてみるという方法が多いが、そうすることで、そ
れまで気がつかなかったことに気づくことがある。先日も、市内へ行くのに、とんでもないほど
大回りをして行った。さすがそのときは途中で疲れてしまい、途中からバスに乗ったが、私のば
あい、そういうことをするのが楽しい。

 つまりこうした変化を自分の中につくらないと、その段階で、あるいはある一定の段階で、思
考はループ状態に入ってしまう。そして一度、そのループ状態に入ってしまうと、その段階で思
考は停止する。あるいはその段階から退化する。そういう意味では、思考というのは、「運動」
に似ている。毎日練習するだけでは足りない。(練習しなければ、退化する。)新しい技術を身
につけ、それを磨かねばならない。思考について言えば、静かに考える時間というのは、その
ために、どうしても必要な時間ということになる。

 冒頭の県会議員は、忙しいことを売り物に、自分の仕事ぶりを誇示しているのだろう。それ
はわかるが、やはり、県政のリーダーとして、どこかで静かに考える時間をつくってもらわねば
困る。私ならたとえば、そういうスケジュールの中に、こう書く。「朝五時から七時まで、○○とい
う本を読む。その感想を、著者Aに書いて送る」「昼食後二時間ほど、ベートーベンの第五を聞
きながら、しばらく瞑想(めいそう)する」と。忙しいだけの政治家であっては、いけない。
(02−10−21)

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子育て随筆byはやし浩司(203)

コンピュータ時代の心得

 先日、私のミスから、ホームページに、私信集を載せてしまった。私が書いた手紙や、その返
事などである。幸い(?)気がつくのがはやかったので、多分、だれの目にもとまることはなかっ
たと思う。そのときのこと。私はあるひとつの重大なことを悟った。それは、パソコンは、絶対に
信用してはいけないということ。

 パソコンを相手にするときは、パソコンをいつも「見知らぬ他人」と思うこと。パソコンに何か
記録を残すときも、写真やデータを残すときも、見知らぬ他人にそうしていると思うこと。メール
だってそうだ。このパソコンという電子装置は、よく故障をする。そのたびに修理に出すことに
なる。そのとき、だれがそういったメールを読むか、わかったものではない。私のばあい、さん
ざんそういう苦い経験をしてきたので、そういった記録は、いっさい、パソコンの中には残さない
ようにしている。いや、その前に、読まれて恥ずかしいもの、見られて恥ずかしいものは、載せ
ないというより、考えないようにしている。

 が、その私信集を載せたとわかったときには、少なからず、あわてた。それに気づいたの
は、夜、寝るためにふとんの中にもぐり込んだあとだったが、私は起きて、すぐ削除した。私信
には、当然、相手の住所や実名が書かれてある。いくら恥ずかしくないといっても、それはまず
い。

 そこで気がついてみると、これはまさにパソコンの利点といってもよいが、私はパソコンを前
にすると、身が引きしまるというか、気が引きしまる。「いいかげんなことは書けないぞ」という思
いが、いつしか、「いいかげんなことは考えないぞ」という思いに変わった。そしてさらに気がつ
いてみると、自分の考え方が、きわめてまじめになったというか、まともになった。(勝手にそう
思っているだけかもしれないが……。)が、それでも安心できない。

 先週、数年前に買った、シャープのパソコンが故障した。五年間保証に入っていたので、そ
れで修理に出した。ショップの人は、「多分、ハードディスクの故障でしょう。取りかえになると思
います」と言った。つまり私は修理に出す前に、つごうの悪いファイルやデータを消すことがで
きなかった。それで、心のどこかでひっかかりを覚えた。とくに気になったのは、そのパソコン
で、ある証券会社と電子商取り引きをしていたこと。たいした額ではないからよいが、しかしそ
の中には、私の電子認証番号と、パスワードも入っていた。もし悪意のある人がそれを知った
ら、その口座からお金を引き出すこともできる。

 そこで教訓。パソコンの中には、絶対に、他人に見られていけないものは、残さないこと。メ
ールでも、読んだら、即、削除。必ず、即、削除。いわんや文章にして残すものは、いつか、ど
んな形かは知らないが、公開されるものという前提で残すこと。絶対にパソコンは信用しないこ
と。少なくとも、私はそうしている。
(02−10−21)

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子育て随筆byはやし浩司(204)

老人体質

 もうすぐ満五五歳になる。そういうこともあって、このところ、老後の自分のことをよく考える。
まず健康面。

 これは私が見た老人観だが、老人になったら、やせ気味のほうが健康を維持しやすいので
は。標準体重というのがあるが、あれはアテにならない。若い人も老人も、同じ標準体重という
のは、おかしい。老人は、その標準体重×(0・9)くらいでよいのでは。体を支える筋肉が弱
い。

 で、私は今、六四キロ弱(標準体重では、適正体重の上限ギリギリ)。これに(0・9)をかける
と、五八キロという数字が出てくる。このあたりが、私の標準体重ということか。それはともかく
も、肥満はいけない。(太る)→(運動不足になる)→(筋力が弱る)→(体が不調になる)の悪循
環の中で、ますます不健康になる。太った体をもてあまし、ヨタヨタと歩いている老人を見ると、
「どうしてあんなに太ってしまったのか」と思う。もっともそのころ気づいても、遅い。へたにダイ
エットをすれば、体が本当に動かなくなってしまう。

 つぎに考えるのが、精神面。私は精神的に、それほど強くない。一方、ワイフは強い。ワイフ
と見ていると、その精神力の強さに感心する。ときどき「これが同じ人間か」と思うときさえあ
る。つまり私は、それくらい、弱い。ありとあらゆる精神病を、まんべんなく、広く浅くしょいこん
でいる感じ。今は、何となく、自意識でそれを抑えてはいるが、しかしいつ、そのうちの一つが
噴きだすかわからない。

 問題は、ひとりになったとき。ワイフには、「ぼくが先に死ぬからね」と言っているが、もしワイ
フが先に死んだら、どうする? そのときは、もう私は今の精神状態を保つことはできないだろ
う。多分、気がヘンになってしまうだろう。そういうときのために、心の準備と用意はしておかね
ばならない。まあ、一番よい方法は、早めに老人ホームに入居し、そこで好き勝手なことをする
ことだ。まわりの人とワイワイしているうちに、気がまぎれるかもしれない。

 もちろん仕事と収入のことも考える。仕事は、このところの大不況で、どうしようもない。よく
「林先生でも、影響がありますか?」と言う人がいるが、私なんか、モロに受けている! 公務
員ではないのだ。退職金も、年金も、天下り先もないのだ! こういう生活をしていると、私がカ
スミか何かでも食べて生きていると思う人もいるかもしれないが、とんでもない誤解である。サ
ラリーマンの人より、はるかに状況はきびしい。

 もっとも仕事は、収入のためというより、自分の心と頭の健康のためにつづける。死ぬまでつ
づける。もしやめたら、とたんに、私は腐ってしまう。心も頭もだ。健康だっておかしくなるに違
いない。今、かろうじて健康なのは、仕事のために自転車通勤をしているからだ。だから赤字
になっても、仕事だけはつづける。つづけるしかない。

 こうして老後を考えていると、同時に、過去のことも、いろいろ思い出す。「これからどうしよ
う」と思うと、その一方で、「いろいろあったなあ」と。私としては、自分のできることはすべてした
ような感じなので、これから先、同じようなことをしても意味がないような気がする。つい先日
も、ある出版社から教材作りの依頼を受けたが、断った。あんなこと、これから先、何度繰り返
しても、時間のムダ。教材ができるころには、どこかの教授様が、その教材の表紙に名を載せ
ることになるだけ。もうそういうくだらない、提灯(ちょうちん)もちは、したくない。

 残り少ない人生だから、新しいことにチャレンジしてみたい。今は、こうしてマガジンの発行に
全力を尽くしている。この先、どうなるかわからないが、まあ、やるだけのことはやってみる。結
果がどうなるかはあまり考えたくない。ただひたすら、がむしゃらに、前に進むしかない。
(02−10−21)※

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
新子育て格言(5)

●不安がデマを呼ぶ

毎年、受験期が近づくと、いろいろなデマが飛び交うようになる。おもしろいのは(失礼!)、毎
年、同じデマだということ。親にしてみれば、その年一回だけだから、それがわからない。しか
し毎年みていると、それがわかる。もっと言えば、毎年親や子どもは移り変わるが、親や子ども
の質は変わらないということ。

 S小学校の入試についても、今までこんなデマがあった。

○今年は受験者数が多い。男子(もしくは女子)が、とくに多いので、不利。
○学校の内部資料(合格基準)が漏れている。一〇〇万円出せば、手に入る。
○幼稚園から内申書が行くようになった。幼稚園の先生には、よくしておいたほうがよい。
○不合格者も、四〇〇万円寄付すれば、合格にしてもらえる。
○親の職業が重要視される。母子家庭の子どもは合格できない。
○S小学校の現役(もしくは退職)教師が、個人レッスンをしている。受けたほうが有利。

さらに具体的になると、「ハサミやホッチキスが使えない子どもは合格できない」「あいさつがき
ちんとできなければ、不利」「野菜の名前をすべて知っていないと、合格できない」などなど。こ
れらすべてが、デマ(ウソ)だから、すさまじい。

 こうしたデマの背景には、親の不安がある。その不安が、正常な判断力をなくし、ふつうなら
(?)と思うような話まで、信じてしまう。そしてそれが人から人へと伝わるうちに、勝手にどんど
んとふくらんでいってしまう。

 「受験」という制度は避けては通れないものかもしれないが、しかし合格したからといって、そ
の人が優秀だとか、反対に不合格だったから、その人が劣っているということにはならない。だ
いたいにおいて、基準そのものが、いいかげんである。どこがどう「いいかげんか」ということに
なると、話が長くなるが、ともかくも、いいかげんである。そういうものを基準にして、人間の価
値まで決められたら、たまらない。

 もっとも親が不安になるのは、親の勝手。デマを飛ばしあうのも、親の勝手。しかしその不安
を子どもにぶつけてはいけない。あるいはそのデマで、子育てを見失ってはいけない。私はと
きどき親たちにこう言う。「あるがままの子どもを育てましょう。そういう子どもがダメだというの
なら、こちらからそんな学校は、蹴飛ばしてやりましょう!」と。親が子どもの心を守らなかった
ら、だれが守る? そんな心構えも、子どもの受験には必要だということ。


●夫婦円満は、教育の要

子どもは絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、疑
いを抱かないということ。そのためには、子どもの前では、夫婦は円満に。よく誤解されるが、
夫婦が子どもの前でベタベタする姿を見せるのは、悪いことではない。悪いことでないことは、
外国へ行ってみればわかる。欧米の夫婦は、(もちろん仲のよい夫婦だが)、日常的にベタベ
タしている。日本人の私たちが見ていても、恥ずかしいほどだが、だからといって、子どもがど
うこうということはない。子どもたちは子どもたちで、ごく日常的な光景として、それを受け入れ
てしまっている。

 一般論として、心豊かな家庭で、親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、どっしりとした
落ち着きがある。態度も大きく、ばあいによっては、ふてぶてしい。そうでない子どもは、どこか
セカセカいて、愛想はよいが、心を許さない。許さない分だけ、心をゆがめやすい。ひねくれ
る、いじける、ひがむ、つっぱるなど。が、夫婦が円満であることには、もっと大切な意味があ
る。

 子どもは親たちが、助けあい、いたわりあい、慰めあい、励ましあい、教えあう姿を見て、自
分の中に、あるべき家庭像や夫婦像をつくる。つまりそういう家庭で育った子どもは、いつか自
分が親になったとき、自然な形で、よい家庭や夫婦関係を築くことができる。そうでなければそ
うでない。これも一般論だが、不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、夫婦関係や親子関係
が、ぎくしゃくしやすい。「親像」「家庭像」が、脳にインプットされていないとみる。このタイプの
人は、「いい家庭をつくろう」「いい親にならなければ」という気負いばかりが先行する。いわゆ
る「気負い先行型」の子育てというのは、こういう子育てをいうが、親が気負えば気負うほど、
親も疲れるが、子どもも疲れる。この疲れが、たがいの間に、ミゾを入れる。

 ……だからといって、不幸な家庭に育った人が、すべてよい家庭作りに失敗するというので
はない。人間は、学習によって、あるべき夫婦や、あるべき家庭の姿を学ぶことができる。友
人や知人の家庭を見たり、親類や映画の中の家庭を見たりして、それを自分のものにするこ
とができる。いろいろ回り道をすることはあるかもしれないが、幸福な家庭や、よい親子関係を
築いている人は、いくらでもいる。

 ともかくも、子どもの前では、夫婦は円満に。中には、「夫婦げんかは子どもに見せろ。意見
の対立を教えるにはよい機会だ」(C大元教授)と、とんでもないことを言う人もいる。夫婦で哲
学論争でもするならともかくも、ほとんどの夫婦げんかは、とるにたりない痴話げんか。そんな
ものは子どもに見せる必要はない。見せてはならない。

 
●子どもの自立

 アメリカには「要保護者遺棄罪」という、恐ろしい法律がある。子どもを家に残し、夫婦だけで
外出したりすると、その罪に問われる。アメリカに住む二男がそのことについて、「日本はいい
国だね」と言った。何でもアメリカでは、子どもだけで外へ遊びに行くということすら、考えられな
いというのだ。「そんなことをすれば、すぐ誘拐されてしまう」と。

 しかし日本では、そこまでうるさくない。そういう意味では安全な国だ。ここで書くことは、その
「安全」を前提にしてでのことだが、私は以前、『夫婦で外出』という格言を考えた。子どもがあ
る程度大きくなり、子どもたちだけで何となく生活ができるようになったら、できるだけこまめ
に、夫婦だけで外出するとよい。親にすれば、子離れの準備ということになるし、子どもに対し
ては、親離れをうながすということになる。

 一般的に、子どもは、小学三〜四年生ごろ、親離れを始める。それまで学校でのできごとを
話していた子どもも、急に話さなくなる。親と一緒に、入浴しなくなる。家族と一緒の外出をしぶ
るようになる。あるいは自分だけの部屋を求めるようになる。こうなれば親離れの時期は近い
とみる。ただそのとき、子どもの情緒は不安定になり、幼児期にもどったり、あるいは妙におと
なびてみせたりする。それを繰り返す。幼児にもどれば、幼児に、おとなびたりしてみせたら、
それなりにおとなに扱う。いきなりあるときからおとなあつかいをするとか、反対に幼児ぽくなっ
たりすることを、叱ったりしてはいけない。

 コツは、成長することを喜ばせながら、そのつどおとなあつかいをする。「あんたも、おとなの
スカートがはけるようになったね」とか、「一度、ネクタイをしめてみるか」などと言ってみる。親
どうしが外出したあとも、きちんと家の管理ができていれば、それをほめる。「あんたももう、一
人前ね」と。こうした前向きな指導が、子どもを伸ばす。

 さらにそれができるようになったら、金銭的な自立、生活的な自立をうながす。ひとりで祖父
母の家まで旅をさせる。親どうして、子どもを交換するという方法もある。ただし無理をしないこ
と。無理をすると、夜中に迎えに行くということになりかねない。またこれは私の個人的な経験
だが、こんな方法も効果的である。

 私は思い立ったとき、息子たちを連れてよく、「目的なしの思いつき旅行」に連れていった。行
き先は、その先々で子どもたちと相談して決める。が、いつもうまくいくとは限らない。ある夜な
どは、泊まる宿をさがして、夜中の一時ごろまで、その小さな町をさまよい歩いた。しかしそうい
う旅をするごとに、子どもたちが精神的にたくましくなっていくのを、肌で実感することができた。
結構、お金のかかる旅になるが、子どもの自立をうながすという意味では効果がある。


●『深い川は静かに流れる』

 『深い川は静かに流れる』は、イギリスの格言。日本でも、『浅瀬に仇(あだ)波』という。つまり
思慮深い人は、静か。反対にそうでない人は、何かにつけてギャーギャーと騒ぎやすいという
意味。

 子どももそうで、その子どもが思慮深いかどうかは、目を見て判断する。思慮深い子どもの
目は、キラキラと輝き、静かに落ち着いている。会話をしていても、じっと相手を見据えるような
鋭さがある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 私は先日、ある女性代議士の目をテレビで見ていて驚いた。その女性は何かのインタビュー
に答えていたのだが、その視線が空を見たまま、一秒間に数回というようなはやさで、左右、
上下にゆれていたのだ。それはまさに異常な視線だった。その女性代議士は、毒舌家として
有名で、言いたいことをズバズバ言うタイプの人だが、しかしそれは知性から出る言葉というよ
り、もっと別のところから出る言葉ではないのか。私はそれを疑った。これ以上のことはここに
は書けないが、そういうどこかメチャメチャな人ほど、マスコミの世界では受けるらしい。

 が、この時期、親というのは、外見的な派手さだけを見て、子どもを判断する傾向が強い。た
とえば本読みにしても、ペラペラと、それこそ立て板に水のうように読む子どもほど、すばらしい
と評価する。しかし実際には、読みの深い子どもほど、一ページ読むごとに、挿絵を見たりし
て、考え込む様子を見せる。読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

 これも子どもをみるとき、よく誤解されるが、「情報や知識の量」と、「思考力」は、別。まったく
別。モノ知りだから、頭のよい子どもということにはならない。子どもの頭のよさは、どれだけ考
える力があるかで判断する。同じように、反応がはやく、ペラペラと軽いことをしゃべるから、頭
のよい子どもということにはならない。むしろこのタイプの子どもは、思考力が浅く、考えること
そのものから逃げてしまう。何か、パズルのような問題を与えてみると、それがわかる。考える
前に、適当な答をつぎからつぎへと口にする。そして最後は、「わからない」「できない」「もう、
いや」とか言い出す。

 その「考える力」は、習慣によって生まれる。子どもが何かを考える様子を見せたら、できる
だけそっとしておく。そして何か新しい考えを口にしたら、「すばらしいわね」「おもしろいね」と、
それを前向きに引き出す。そういう姿勢が、子どもの考える力を伸ばす。


●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

○教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちてい
ませんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小
五)は、あたりをさがし始めた。しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで
私が、「忘れたら忘れたで、最初からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、
「そんなことはありません!」と。そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、とき
おり、あたりをさがすマネをしてみせる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たし
かにここに置きました!」と。
○A君(小三男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそ
れを渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫ん
だ。が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出し
た。それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな
顔をして見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。
○R子(小六)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と
言ったときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ
野郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない
状態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目
をしていた。

こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみる。
何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱ったり、
注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。たとえばシ
ャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆがめていた。B
君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見られる症状で
ある。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ父親から性的虐待を受けていた、など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。「おいで」と手を広げてあげると、
そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子どもを観察してみてほしい。何人か子
どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。もしあなたの子どもの行動や言動
が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなたの子育てのし方そのものを反省し
てみる。子どもではない。あなた自身の、だ。
(02−10−20)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、お忘れなく!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(198)

ひたすら懸命に生きる

 世の中に「完全」はない。それが完全と思っていても、しばらくすると、またつぎの完全が現れ
る。つまり完全であるかないかということは、相対的なもの。もっと言えば、完全と思っているも
のでも、「今の段階ではベスト」というに過ぎない。だから、不完全であることを、恥じることはな
い。恥じるべきことがあるとするなら、それは「懸命でなかった」ことだ。

 私は今、音楽を聞きながら、この原稿を書いている。たまたま今は、パッヘルベルの「カノ
ン」。こうした曲を聞いていると、この曲はこの曲で完成されていることを知る。しかし完全では
ない。完全ではないことは、この曲が、無数の曲の一つにすぎないことでもわかる。もし完全な
ら、あとにも先にも、この曲だけが曲であり、それ以外に曲はないことになる。たとえば今は、カ
ノンが終わり、グルックの「聖霊の踊り」になった。どこか牧歌的な、澄んだ曲だ。この曲はこの
曲で、すばらしい。

 人生にも、これに似たところがある。私たちは生きている。生きて、それぞれの人生を織りな
している。しかしどの一つをとっても、完全な人生などない。あるはずもない。そこで大切なこと
は、完全でないことを嘆くことではなく、それぞれの人生を、精一杯、懸命に生きることである。
そしてそれぞれの人が、それぞれの人生を完成させることである。どんな人生でもよい。懸命
に生きて生き抜いて、そしてそれぞれの人生をまっとうする。人間が生きる美しさはそこから生
まれる。無数のドラマもそこから生まれる。そして生きる意味や価値も、そこから生まれる。

 曲はさらに変わって、バダジェフスカの「乙女の祈り」になった。今度は、どこかラジオ体操風
の曲だ。それをぼんやりと聞いていると、さらにヨハン・シュトラウスUの「ウィーンかたぎ」にな
った。今、聞いているCDは、NHKが編集した「名曲アルバム」。つぎつぎと曲がかわっていく。
そのたびに、私はこう思う。「こうした曲を作曲した人も、懸命に生きたのだな」と。その懸命さ
が、時代や国を超えて、私たちのところに今、届く。そしてそれが私たちを感動させる。つまり
私たちの人生もそれと同じで、もしあなたや私が、「私」をなくし、そして毎日ただひたすら同じこ
とを平凡に繰り返しているだけとするなら、そういう人生からは、ドラマは生まれない。またそう
いう人生には、生きる意味も価値もない。だから人の心をとらえることもない。……こう言いき
るのは、危険なことかもしれないが、今の私は、そう思う。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、完全を求めるのがムダであるとか、まちがっ
ているとか言っているのではない。完全を求めることは、それ自体、すばらしいことなのだ。事
実、私たちはいつも心の中で、「完全」を求めている。しかしそれは同時に、あくなき戦いでもあ
ると言ってもよい。一つの山を越えると、その向こうに今度は谷がある。そこでその谷を越える
と、また山がある。「この山こそ最高の山だ」と思って登ってみると、またその向こうに、別の山
がある……。ゴータマブッダは、そういう状態を、「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現し
た。つまり日々に前に進むことこそ、生きる道である。「完全」、言いかえると、「絶対的な真理」
はない、と。

 これは私の勝手な解釈によるものだが、「完全」というものは、そういうものではないのか。さ
らに曲は変わって、グリーグの「ノクターン」になった。たとえていうなら、それぞれの曲が、「山」
のようなものだ。どの山がすぐれているとか、高いということはない。どの山も、登ってみると、
それが山であり、その山ごとの美しさがある。そこでつぎに大切なことは、それぞれの山のす
ばらしさを、そのつど堪能することである。決して山はひとつと思ってはいけない。またその山
だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。山は無数にあるし、同じ数だけ谷も無数にあ
る。つまりそうして懸命に山を登ったり、谷を越えたりするのが、人間が織りなす、まさにドラマ
なのだ。

 繰り返すが、不完全であることを恥じることはない。大切なことは、与えられた人生を、ただひ
たすら懸命に生きること。ただただひたすら、どこまでも懸命に生きること。結果は、向こうから
必ずやってくる。たとえ結果が不満足なものであっても、人から認められなくても、気にすること
はない。大切なのは、いかにして自分が自分の人生を完成させるか、だ。これはあくまでも自
分自身の問題。どこまでもどこまでも、自分自身の問題。……と、少し偉そうなことを書いてし
まったが、今、自分にそう言い聞かせている。
(02−10−19)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(199)

言葉と文字

 静かな朝。どこかモヤがかかって、景色が白くかすんでいる。風はない。音もない。いや、時
折、チッチッと小鳥のさえずる声。それに昨夜降った雨で増水したのだろう。谷のほうから、川
の流れる音が聞こえてくる。 

 ふと見ると、窓の左のところで、いつものクモが、いつものように巣をつくり、さかさまにぶらさ
がっている。一本の糸を、ちょうど窓ワクの端にひっかけているため、窓をあけるたびに、糸が
切れる。しかしそのクモは、先週も、そこにいた。その前の週も、そこにいた。

 クモという虫は、私たち人間が考えているより、はるかに頭がよいようだ。どこにそんな知恵
があるのかと思うようなことを、平気でやってのける。そう言えば、ハチもそうだ。とくにスズメバ
チは頭がよい。先日も山荘の近くまでエサを取りに来ていたので、ハチが一度巣へ帰ったあ
と、そのエサをわざと移動してみた。が、そのハチは、しばらくそのあたりをさがしたあと、すぐ
そのエサを見つけてしまった。
 
 もちろん人間も、頭がよい。山荘の下の谷にそって、国道が走る。その国道が、ちょうど橋の
ところで山が切れ、よく見える。まだ早朝なので、走っている車は少ないが、それでも思い出し
たころ、車が走る。その車を見ると、「人間もすごいものを作ったものだ」と思う。いや、目の前
のパソコンだってそうだ。

 そこで私は考える。目の前のクモと、人間を区別するものは、何か、と。ハチと人間でもよ
い。どこがどう違うのか、と。ただ誤解してはいけないのは、人間がこうしてモノを作り始めたの
は、それほど昔ではないということ。石器時代の石器を見ればわかるように、人間はごく最近
まで、そういうものしか作ることができなかった。新石器時代にしても、つまりその時代から、人
間にとっては、「有史」の時代になるわけだが、それとて、たかだかこの七〜八〇〇〇年前に
過ぎない。人類が誕生してから、数一〇万年になるというから、人類は、大半の時代を、「闇」
の中で暮らしていたということになる。その間、人間はクモやハチのようだったとは言わない
が、しかしサルやイヌのようであったとは言える。

 そこでさらに考えると、人間が発明したもので、最大のものは、やはり「言葉」であり、「文字」
であることに気づく。私は今、こうして考えながら、その言葉を文字として書きとめている。が、
もしその言葉や文字がなかったら、私は自分の考えを、「形」として書きとめるどころか、まとめ
ることさえできない。それはちょうど静かな朝、ふとんの中で目をさまし、あれこれぼんやりと考
えている状態ではないか。いくら考えても、思考そのものがまとまらない。しかし起きて、お茶を
飲んで、そしてパソコンに向かい、おもむろに指を躍らせ始める。そうすると、考えが言葉にな
り、そしてこうして文字になる。

 クモやハチにはそれがない。恐らく、つぎつぎと飛来する、思想の原型のようなものは感じな
がらも、それをただ、繰り返し、ループさせているだけなのだろう。だからいつまでたっても、進
歩はない。言葉も生まれない。このことは、飼っているイヌを見ればわかる。私の家には二匹
のイヌがいるが、生まれて半年くらいはともかくも、それ以後の一〇年間は、毎日、ほぼ同じこ
とを繰り返している。そしてそれ以上の変化も、進歩もない。

 ……となると、クモと人間を分けているのは、モノではなく、言葉だということになる。そう言え
ば、有史になってはじめて人間は、文字を発明し、そしてそれを何らかの形で記録するように
なった。簡単な言葉はそれ以前からもあったのだろうが、文字の発明によって、言葉は飛躍的
に進歩した。繰り返すが、人間にとって、最大の発明は、言葉であり、文字だったのだ。言うま
でもなく、クモやハチには、それがない。

 先ほどまでクモは、逆さまにつりさがっていたが、(クモにとっては、どちらが逆さまということ
はないのかもしれないが……)、今は何やらせわしく足を動かして、仕事をしている。巣のあち
こちには、虫がからんだのだろう。いくつかの糸のかたまりができている。あたりはすっかりと
明るくなった。私は心のどこかで抵抗を感じながらも、窓をあけることにした。そして先週と同じ
ように、もちろんそうすれば、その前の週と同じように、これからクモの糸を切ることになる。「も
っと別の場所に巣をつくればいいのに」と思うが、クモというのは、そういう虫なのだ。私とて朝
のすがすがしい冷気を、一度、自分の山荘の中に取り込まねばならない。
(02−10−20)

(追記)言葉と文字……人類最大の発明などというのは、常識。「今ごろ、そんなことを知った
のか」と、どうか笑わないでほしい。私は今朝、それを改めて再確認したということ。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
●詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-30-1A

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 491人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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02−10−30号(131)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】R子さんからの相談より 
【2】他人を祝福するものは、祝福される
【3】秋の夜の、UFO話 
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
■濱人【連載:子育て、ワンポイントアドバイス by はやし浩司】より転載

●No.37「机は平机」

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購
 入後三か月で、約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。
 いろいろな附属品がついている棚は、一時的に子どもの関心を引くことはで
 きても、あくまでも一時的。棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれ
 る。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。あなたも一度、カベに机を向
 けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどういうもの
 か、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好
 ましい。あるいはこの時期、まだ机はいらない。

 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はど
 うしても型にはまりやすい。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長
 線上にある。小学校の低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルな
 ど利用して学習している。もしそうであれば、それでよい。この時期、あま
 り勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思いを子どもがもつ
 ようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。

 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのと
 き子どもがそれをそのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、
 その食べ物を別の場所に移して食べるようであれば、机との相性はよくない
 とみる。長く使っていると、それが勉強嫌いの遠因になることもある。

 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休
 むためにある。どんな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題は
 その疲れたときだ。子どもがそのまま机に向かって休めればよし。そうでな
 いと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。勉強というのは、一度中
 断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。が、それ
 でもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。

 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休める
 かを観察してみる。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そう
 いうところを思いきって勉強部屋にする。あなたの子どもは進んで勉強する
 ようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。
 そうでなければ失敗する。

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愛知県のR子さんより……

こんにちは、先日は講演すごくよかったです。
ありがとうございました。
ホームページもとても充実していますね、びっくりしました。 先生が作ったのですか?

はっきりわかりました。
自分は「マズイ」ぞっと、思いました。
お話の中心は幼稚園に通う子どもの年齢だったのですが、
上の子は八歳で男、下の子は四歳で女です。
下の子は特に問題はないと思うのですが、
(上の子は)保育園の時からなんですけど嫌な事をいやと言わないみたいです。
だからたたかれたりしても、怒らないし、やり返したりしないみたいで、
保育園では年下の子には人気があったようですが
(なにしても怒らない優しい子だったようです)

園長先生にもこのままだといつか爆発するよ!っといわれました。
本人に聞いたこともあるのですが。(嫌な事されても言わないから)
「遊びだからいいんだ!」っと言っていて? 大人みたいっと思っていました。

家ではものすごくいやだーと泣くし妹とよく喧嘩をするし、
パパがあきれてうるさがるくらいの大声で泣きます。
でも、小学校に通ってもどうもたたかれたり、しているみたいで、
帽子のゴムをきられてしまったり、まあふざけているうちはいいんですけど、
エスカレートしたら困るなと思っています。

私が小学校の時に三、四年の頃いじめられていて本当にいやで、
先生にそれらの子と、別なクラスにして欲しいっとお手紙をだしたりしました。
クラスが変わってからは明るい人生でしたが、あの時のようになったら
困るなーと心配になります。

私が情緒不安定で怒りっぽいし、だから安心できなくって
どっしりとできないのかなぁーっと思いました。
人の顔色をうかがうように、上手い事を言ってくれるのもそうなのかぁー。
っと思いました。
それをやはり私が自覚して気をつけるようにしないとだめなんだなぁー
つくづく思いました。まったく
自分の母親やパパから、よくそこがあんたの悪い所だよ、よくないよっとは言われても
実際に私の悩みの答えがそこにあるとは思わなかったです。

「子供がおびえるようになるよ。」っと母に言われても
私は「?」なんで???
「だってイライラが爆発してしまうと、、、
子供が忙しい時にあーでもないコーでもないとなると。
爆発しちゃうもん。」「反省はしているけどさー。」って感じでしたが。。
先生の言っていることがあんまりにも当たっているのでびっくりでした。

大泣きをしている時、ママを求めてぶそくりながらもわざとキーキーないている時は
「わかっているから」っと言って抱きしめてあげるようにしてはいます。
でも忙しくって大半は
パパは「いいかげんにしろ」っと怒鳴るまでほって置いてしまいます。
あまえているのか、あまったれているのか?
いまだに赤ちゃんの火がついたように泣いている時
どうやった安心できるのかと思ってしまいます。

パパもD君を怒りすぎて悪かったっと思っています。
太陽のお母さんになりたいのですが、大地の母になりたいのですが、
現実はそうもいかず。反省
でもお話を聞く事はやっぱりいい事ですよね、知らない事いっぱいあるし
そうなんだ-っと思うことが出来たし。
今回ぎくっと特にしてしまったので、いきなり長いメールになってしまったのですが。

下の子は上の子を見ているのか甘え上手です。
両方ともとっても可愛くって大好きです。

「勉強は何故しないといけないの?」っといつも上の子に聞かれます。
「K子ばっかり遊んでいてずるい」っと
宿題をする時間より遊んでいたいから、だっと言っています。

私は「知ることは面白いよ、字が読めれば本人の好きなプラモデルが自分で作れるし、
恐竜の本も自分で読めるよ」とは言ってみても、わかんないっと言っています。
できたとかやれるようになった喜びをいっぱい感じて欲しいし、と思うのですが

私は勉強が嫌いで高校でもう勉強はまっぴらご免って感じでした。
二〇歳の頃仕事をしながら宅建の勉強をした時に覚える事が面白いと思いまして、
あーもっと前に気が付いてやっていたらなぁーっと思いました。

去年はパソコンの勉強を会社でさせてもらい、朝早起きをして勉強する一年でした。
教室が夜の六時から八時週二回だったので子どもたちが寂しかったかも?
でも充実していました。

大泣きをしている時いまさら恥ずかしいんだけど、どうしたらいいのでしょうか?
勉強は何故しないとっと聞かれた時の私の返事はマズイでしょうか?
夜寝る時には「D君が大好き、D君だーいじ、D君ちゃん大丈夫。ママや
パパがいるからね」っと、言っているのはかえって良くないのかしら?
安心できるかなぁっと思ってたまに言ったりするのですが、

学童保育に行っていてもどーも、いい子みたいでおとなしいようです。        
家ではくそババーとか言っているし、威勢はいいのに。
でもそれは私の情緒不安定が悪かったのには参りました。

今先生の講演を聴けたきっかけを忘れずにしようと思いました。
ありがとうございました。
パパにも聞かせてやりたかったなぁと思いました。
二人で聞けばもっとD君について話ができるから。

またメールします。

(愛知県T市・R子より)転載了解済

+++++++++++++++++++++++

R子さんへ

 メールから浮かびあがってくるご家庭は、とてもすばらしいですね。どこか全体にほのぼのと
して、それでいて活気があって。R子さんの、生き生きしたママぶりが、目に浮かんできます。ま
ったく問題ないですよ。順にご質問について、考えてみます。

●いやなことを、『いや』と言わないこと……長男、長女は、総じてみれば、神経質な子育てを
してしまうため、その分、子どもも萎縮し、(あるいは無理をするため)、どうしても意思表示が
へたになります。いやなことがあっても、「いや」と、はっきり言うことができないわけです。しか
し「がまん強い子」と誤解してはいけません。このタイプの子どもは、ストレスを内にためやす
く、そしてその分だけ、心をゆがめやすくなります。ひねくれる、いじける、ぐずる、つっぱるなど
の症状があれば、要注意です。

 しかし一度、そういった行動パターンができると、なおすのは容易ではありません。ただしここ
で誤解していけないのは、そのパターンはだれに対しても、同じというのではありません。子ど
もは相手によって、パターンを変えますので、一部分だけをみて、それが子どものすべてと思っ
てはいけません。家の中で見せる様子と、友だちとの世界で見せる様子が、大きく違うというこ
とはよくあります。A君に見せるパターンと、B君に見せるパターンが、大きく違うということもよく
あります。

 だから一部だけを見て、「うちの子はダメ」とか、「心配だ」と思ってはいけません。もちろん威
圧的な過干渉や、神経質な過関心が日常化すると、子どもの心は内閉しますが、(あるいは反
対に粗放化することもあります)、そういうケースでは、全体に行動や言動が萎縮します。もし
そうなら、それは子どもの問題ではなく、親の問題だということです。

●「いつか爆発するよ」と言われたこと……多分、園長先生は、「ストレスがたまると、それが心
をゆがめ、それがあるとき臨界点を超えて、爆発することもある」という意味で言われたのだと
思います。

 一般に、ふつうでない家庭状況で育てられた子どもは、大きく分けてつぎの二つの経過をた
どります。ひとつは、そのままのパターンでおとなになるタイプ。もうひとつは、その途中で、ゆ
がんだ自分を、自ら、軌道修正しようとするタイプ、です。

 たとえば親の過干渉で、精神そのものが内閉したような子どものばあい、そのまま内閉した
ままおとなになるタイプと、その途中で、そうした自分を一度リシャッフルするタイプがあります。
リシャッフルといっても、ふつうのリシャッフルではありません。心に受けたキズが大きければ
大きいほど、あるいはあとになればなるほど、はげしいリシャフルのし方をします。はげしい暴
力をともなう家庭内騒動に発展することも珍しくありません。子どもの成長ということを考えるな
ら、一見、扱い方がたいへんなように見えるかもしれませんが、後者のほうが、好ましいという
ことになります。

 もちろんR子さんのケースがそうだと言っているのではありません。これも一般論ですが、幼
児教育の世界では、「いい子」ほど、心配な子どもなのです。親に向かって、「ババア」とか、「ク
ソババア、早く死んでしまえ」と言う子ども、あるいはそういうことが言える子どものほうが、正常
だということです。子どもの口が悪いことを、あまり深刻に悩まないこと。言いたいだけ言わせ
ながら、相手にしないようにします。相手は、子どもなのですから。

●イライラすることについて……約七二%の母親が、子育てでイライラしています(日本女子社
会教育会・平成七年調査)。そのうち、七%は、「いつもイライラする」と答えています。だから、
ほとんどの母親は、子育てをしながら、イライラしていると考えて、まちがいないようです。R子
さんだけが、例外ではないということです。
 
 そこで大切なことは、そのイライラを、自分の範囲にとどめ、それを子どもにぶつけないこと。
……と言っても、子育てはいちいち考えてするものではありません。子育てはいわば、条件反
射のかたまりのようなものです。たいていの母親は、「頭の中ではわかっているのですが、いざ
その場になると、つい……」と言います。子育てというのは、そういうものです。あまり自分を責
めないように。子どもにも適応能力があるので、その能力を信じてください。情緒不安もある一
定の範囲なら、子どものほうがそういう親でも適応してしまいます。

 子育てをしていて、イライラしたら、子育てそのものから離れる方法を考えます。少し無責任
な言い方かもしれませんが、ときには、「なるようになれ!」と、子育てそのものから離れるよう
な「いいかげんさ」も大切だということです。またそのほうが、子どもも羽をのばすことができ、
かえって子どもの表情も明るくなります。

●「赤ちゃんが火がついたように怒る」について……かんしゃく発作が疑われます。時期的に
は、もうそろそろ落ちついてくるものと、思われます。自意識(自分の意思)で、コントロールす
るようになるからです。ただこのタイプの子どもは、興奮性だけは残りやすく、そのため年齢が
大きくなっても、緊張したりすると、声がうわずったり、反対におどおどしたりすることがありま
す。興奮させないように。食生活の面で、カルシウム分やマグネシウム分の食生活が、この時
期、たいへん効果的ですので、一度、ためしてみてください。

●甘えじょうず……心の開いている子どもは、甘えじょうずです。甘え方が自然で、親のほうが
やさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中にしみていくのがわかります。R
子さんのお子さんは、「甘えじょうず」ということですので、心の問題はないとみます。このままス
キンシップを大切にして、お子さんたちが心を開いてきたら、それをいつもやさしく包んであげ
てください。一般に愛情豊かな家庭に育った子どもは、ぬいぐるみを見せたりすると、ほっとす
るようなやさしさを見せます。

●「どうして勉強しなければいけないの?」について……R子さんの答え方は、満点です。視線
がお子さんの目の高さにあるのが、よくわかります。コツは、言うべきことはしっかり言いながら
も、あとは「時」を待つということです。その場で、「わかんない」とか言って、反応がなくても、あ
せってはいけません。子どもと接するときのコツは、言うべきことは言いながらも、そのときは、
わからせようと思わないこと。イギリスの格言に、『子どもの耳は長い』というのがあります。もと
もとの意味は、「子どもはおとなのヒソヒソ話でも聞いてしまうから、注意しろ」という意味です
が、私は勝手に、「子どもの耳は長く、耳に入ってから脳に届くまで時間がかかる」と解釈して
います。参考にしてください。

●寝る前の愛情表現……心安らかな眠りは、子どもの情緒の安定のためには、とても重要で
す。欧米では、「ベッドタイムゲームの時間」として、たいへん大切にしています。日本でも就眠
儀式といいますが、子どもは毎晩、眠りにつく前、同じ行為を繰り返すという習性があります。
まずいのは、子どもをベッドへ無理に追い込み、電気を消してしまうような、乱暴な行為です。
子どもの情緒が不安定になることがあります。R子さんのやり方でよいと思います。概して言え
ば、日本人は、元来スキンシップの少ない民族です。遠慮せず、ポイント的に濃厚な愛情を表
現してみてください。ベタベタの愛情表現がよいわけではありません。要するに、子どもを安心
させるようなスキンシップを大切にします。

●「いい子みたいでおとなしいようです」について……内弁慶外幽霊というのですね。

 以上です。R子さんの子育てで、参考にしていただければ、うれしく思います。
(02−10−21)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(208)

The one who blesses others is abundantly blessed. (proverb 11:25)

●他人を祝福するものは…… 
 私のホームページに、「カード」というコーナーがある。トップページの一番下に、それがある。
私はそのコーナーを、アメリカのあるキリスト教団体(無宗派)が発行するフリーソフトを利用し
て、構成している。興味のある方は、一度、訪れてみてほしい。

 私はクリスチャンではないが、そのデザインのすばらしさに、いつも圧倒される。自分も、いつ
かそういうホームページにしたいと思っている。どうすれば、こういうカードができるのかとも、考
える。少なくとも、私がつくるホームページとは、格段の差がある。そのカードの一つに、こんな
ことが書いてあった。

「他人を祝福するものは、祝福される」と。英語では、「The one who blesses others is 
abundantly blessed.」となっている。

さて、いつもの、英語のレッスン。ここで「ブレス」という単語が二度出てくる。こうした単語の訳
で気をつけなければならないのは、正確な訳というのは、そもそも無理だということ。生活習慣
というか、宗教的バックグラウンドがまるで違う。で、大型辞書を調べてみると、つぎのようにあ
った。

 Bless……(1)聖別する、祝別する
        (2)祝福する、恩寵(おんちょう)を与えられんことを、神に祈る
        (3)恩恵を与える
        (4)神聖なものとして、あがめる
       (小学館、ランダムハウス英和辞典)  

 訳についてワイフに相談すると、ワイフは、いとも簡単にこう言ってのけた。「他人を幸福にし
てあげれば、自分も幸福になれるということね」と。ワイフには、恐ろしい才能がある。私が三
〇分も悩んだ英文の訳を、あっという間につけてしまった!

 たしかにそのとおりで、この英語を、「他人を祝福するものは、祝福される」と訳すと、どうも意
味がはっきりしない。「ブレス」を、「恵む」と訳すと、まだわかりやすい。「他人に恵みを与えるも
のは、豊かに恵みを与えられる」と。しかしそれでも、よくわからない。そこであれこれ、思いを
めぐらす……。が、「他人を幸福にしてあげれば、自分も幸福になれる」というのは、わかりや
すい。いや、そのことを教えてくれたのは、二男だかもしれない。

●二男のこと
 私の二男は、本当に心のやさしい子どもだった。幼稚園児のときは、私の勤め先の幼稚園
へ通っていたが、見ると、いつもほかの子どもが乗った三輪車をうしろから押していた。それに
乗りたいため、順番を待っている子どもが、別のところで列をつくっていた。そこである日、私
は二男にこう言った。「たまには、お前が押してもらいなよ」と。すると二男は、にこにこ笑いな
がら、こう言った。「パパ、ぼくは、このほうが楽しいよ」と。

 その二男は、高校を卒業するまで、私たちと一緒に生活したが、家事をよく手伝ってくれた。
男の子だったが、掃除も洗濯もしてくれた。料理もしてくれた。ワイフは、よく、「Sは、女の子だ
ったらよかったのに」と言っていた。その二男は、一度も大声を出して、怒鳴ったことも、暴れた
こともない。その二男のことで、よく覚えているのは、二男が高校一年生になったときのことだ。

入学式のあと、しばらくすると、毎日、学校から帰ってくると、ランニングに行くようになった。
「ほほう、高校生になると、変わるもんだな」と思っていたら、ワイフがこう言った。「ちがうのよ、
あなた。Sはね、体の弱い友だちのために、毎日、伴走しているのよ」と。

 二男は、その友だちと、ワンゲル部に入部する予定だった。しかし希望者が多くて、選抜テス
トがあるという。その友だちは、体力がないため、その選抜テストで落とされそうだという。それ
で二男が、その友だちを励ますために、伴走を始めた。

 私はその話を聞いて以来、二男を、「息子」とか、「子ども」とかは、思わなくなった。一人の対
等の人間と思うようになった。が、実は、この話には、その前の部分がある。

●受験勉強を放棄した二男
 二男が中学二年になったときのこと。二男は、生徒会の学年代表に選ばれた。そこで彼が最
初にはじめた運動が、朝のあいさつ運動だった。毎朝、ひとりで校門の前に立ち、そこを通る、
先生や生徒にあいさつをした。

 しかしやがてこの運動は、生徒会にとりあげられ、つづいて職員会議でもとりあげられた。そ
して「あいさつ運動」が、内申点として評価される「ボランティア活動」となった。どうしてあいさつ
運動が、ボランティア活動になるのかは、よくわからないが、ともかくも、そうなった。

 この静岡県では、高校入試が人間選別の関門になっている。しかも入学試験は、ほとんど内
申点で決まるしくみになっている。で、それが内申点として評価されると決まったとたん、校門
の前には、その点数がほしくて集まった、生徒たちがずらりと並ぶところとなった。あとで二男
はこう言った。「みんな、あいさつなんかしていなかったよ。ただ立っていれば、内申点がよくな
るから、立っていただけだよ。みんなヤジを飛ばしたり、からかっていただけだよ」と。

 そのあとしばらくして、二男は、こういう結論を出した。「パパ、受験勉強なんてくだらないよ。
そんなことまでして、みんな、いい高校に入りたいの?」と。私は二男の言葉に、返す言葉がな
かった。「そうだね」と言うのが精一杯だった。そしてそのまま、二男は、本当に、受験勉強をし
なくなってしまった。

 ワイフは少なからずそれにあわてたが、私は気にしなかった。二男は六歳のとき、一度死に
かけている。二男がそのとき助かったのは、まさに奇跡だった。以来、何があっても、二男に対
しては、「こいつは生きているだけでいい」と思うようになった。それが子育ての「柱」になった。
そのときもそうだった。私は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、それを乗り
越えた。……乗り越えることができた。

●いよいよ受験
 で、いよいよ受験が近づいてきた。二男は自転車に乗り、あちこちの高校を自分で見てき
た。そして選んだ高校が、地元でも、A、B、C、DとつづくEランクの高校だった。「何もそこまで
レベルを落とさなくても……」と思ったが、二男は「そこでいい」と。が、ここでいくつか事件が起
きた。

 二男はE高校を選んだが、「二男と同じ高校に行く」と言い出した仲間が続出したのだ。それ
に困ったのが、彼らの親たちだった。そのうちの何人かの親たちから、つぎつぎと、電話がか
かってきた。そしてこう言った。「どうか、うちの子を、E高校へ誘わないでほしい」「うちの子もE
高校へ行くと言い出し、困っている」「お宅の息子がどこの高校へ入るかは、お宅の問題です。
行くなら、どうかお宅の子、ひとりで行ってください」と。

 私は二男を呼び、「友だちを誘うな」と言うと、「ぼくは何も誘っていない。あいつらが勝手に、
ついてくるだけだ」と。私は二男を信じた。二男は、そういう人間ではない。

 その伴走していた相手というのは、そういうふうにして二男についてきた、仲間の一人だっ
た。

●生徒会長選挙 
 一方、三男はおもしろい子どもで、小学校のときも、中学校のときも、賞という賞を総ナメにし
たような子どもだった。私と違って、女の子にももてた。中学三年生のときには、三男のファン
クラブまででき、その名簿には、一六〇人の女子の名前が記されていた。(これはホイト!)だ
から三男が歩くときは、いつもそのあとにゾロゾロと、女の子の親衛隊がついてきた。その三
男が、生徒会長に選ばれたときのこと。家族で祝賀会を開いていると、二男が何をひがんだの
か、「ぼくだって、生徒会長くらい、なれる」とポツリと言った。

 そこで私は、「あのな、言うのは簡単だけど、実際になるのは、むずかしいぞ」と。私も中学三
年生のとき、生徒会長に立候補して、落選した経験がある。が、その言葉を二男は、真(ま)に
受けてしまった。が、彼は自分では、生徒会長には立候補しなかった。すでにそのとき、文化
委員長として、学校祭の指揮をとっていた。

 そこで三男は、仲間のA君を立候補者にたてて、会長選挙に臨んだ。二男の立場は選挙責
任者だった。で、A君は、みごと当選。が、そのあと、しばらくしてから、A君の母親が、私のワイ
フにこう言ったという。「あの子が、あそこまで明るくなれたのは、おたくのS君(二男)のおかげ
です。ありがとうございました」と。ワイフからその話を聞いたとき、私は目頭が熱くなった。二
男は、まさに「他人に恵みを与えることで、恵みを得た」ことになる。

●常識論
 難解な神の言葉も、自分で親を経験してみると、簡単にわかることが多い。こう書くと、聖職
者の人には怒られるかもしれないが、聖書といっても、それほど気を張って読む必要はないの
ではないか。読み方によっては、ごくふつうの常識を書いてあるだけのような気もする。だから
「聖書」「聖書」と、重箱の底をほじるような解釈は、あまり意味がないのではないか。私たちの
心の中には、神や仏の教え以上の、「常識」というものが、すでに備わっている。人間が、何十
万年もかけてつくりあげた常識だ。鳥は水の中に入らない。魚は陸にあがらない。その常識の
おかげで、私たちは、この何十万年という、気が遠くなるほどの時間を生き延びてくることがで
きた。もし私たちが邪悪な存在なら、もうとっくの昔に絶滅していたはずである(注※)。

 私たちは、その常識の声に耳を傾ければ、よい。それでよい。人に親切にしたり、やさしくし
たりすれば、心地よい響きがする。人に意地悪をしたり、人をいじめたりすれば、いやな響きが
する。それが常識だ。まず自分の中の常識の声に静かに耳を傾ける。あとはそれに従って懸
命に生きればよい。それですべての行動が決まる。

 他人を幸福にしてあげれば、自分も幸福になれる。……考えてみれば、これも常識ではない
か。どこもまちがっていない。ごくごく当たり前の、常識ではないか。その先、それを実践するか
どうかは、人間の問題ではなく、それはひとえに、その人個人の問題ということになる。
(02−10−22)※

(注※)
 ダーウィンの進化論は、あまりにも有名。しかしダーウィンの進化論は、外形的進化論をい
う。あらゆる生物は、外界に適応するため、進化しつけたというのが、それ。しかしもうひとつ忘
れてはならないのは、内形(心)的進化論である。この進化論は私が考えたものだが、あらゆ
る生物は、種族を後世に残すため、精神面や心理面、感情面での進化も遂げてきた。もし同
族の仲間を殺すことに快感を覚えるような生物であれば、その進化の過程で、とっくの昔に滅
亡していたことになる。あるいは生まれたばかりの子どもに、親がかわいさを覚えないような
ら、その種族はとっくの昔に滅亡していたことになる。こうしてあらゆる生物は、その内形(心)
を進化させてきた。つまり人類が今、ここに存在するということは、そもそも人間が、少なくとも
仲間の人間に対しては、善なる存在であるからにほかならない。その善なる心が、私がいう
「常識」である。

++++++++++++++++++++++++++++++++
付録
三男について書いた原稿を添付します。中日新聞で発表した原稿です。
++++++++++++++++++++++++++++++++

子育てのトゲが心に刺さるとき

●三男からのハガキ 
富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付と時刻に続いて、
こう書いてあった。「一三年ぶりに雪辱を果たしました。今、どうしてあのとき泣き続けたか、そ
の理由がわかりました」と。 
 一三年前、私たち家族は富士登山を試みた。私とワイフ、一三歳の長男、一〇歳の二男、そ
れに七歳の三男だった。が、九合目を過ぎ、九・五号目まで来たところで、そこから見あげる
と、山頂が絶壁の向こうに見えた。そこで私は、多分そのとき三男にこう言ったと思う。「お前に
は無理だから、ここに残っていろ」と。ワイフと三男を山小屋に残して、私たちは頂上をめざし
た。つまりその間中、三男はよほど悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けていたという。

●三男はずっと泣いていた!  三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、
全国大会にまで出場している。今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単
なことらしい。その日も、大学の教授たちとグループを作って登山しているということだった。ワ
イフが朝、新聞を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私はその
三男のハガキを見て、胸がしめつけられた。あのとき私は、三男の気持ちを確かめなかった。
私たちが登山していく姿を見ながら、三男はどんな思いでいたのか。そう、振り返ったとき、三
男がワイフのズボンに顔をうずめて泣いていたのは覚えている。しかしそのまま泣き続けてい
たとは!

●後悔は心のトゲ  「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかし
そのトゲにも、刺さっていることに気づかないトゲもある。私はこの一三年間、三男がそんな気
持ちでいたことを知る由もなかった。何という不覚! 私はどうして三男にもっと耳を傾けてや
らなかったのか。何でもないようなトゲだが、子育ても終わってみると、そんなトゲが心を突き刺
す。私はやはりあのとき、時間はかかっても、そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべきだ
った。

重苦しい気持ちでワイフにそれを伝えると、ワイフはこう言って笑った。「だって、あれは、E君
が足が痛いと言ったからでしょ」と。「Eが、痛いと言ったのか?」「そう、E君が痛いから歩けな
いと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」「じゃあ、ぼくが登頂をやめろと言ったわけではない
のか?」「そうよ」と。とたん、心の中をスーッと風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。さっ
そくそのあと、三男にメールを出した。

「登頂、おめでとう。よかったね」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


付記

子育てで失敗したと思っている、あなたへ

 子育てで、失敗なんかありませんよ。とことん「許して、忘れる」。それだけをただひたすら繰
り返してください。ただひたすら、許して、忘れるのです。あとは時間が解決してくれます。鉄の
ように固かった心も、やがて氷のように溶け始めます。それを信じて、ただひたすら、許して忘
れる、です。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
後半部へ、よろしく……








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-30-2

はやし浩司より、後半部です!

【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
秋の夜のロマン、UFO

●資質を疑われるから、書かないほうが……
 私は超自然現象というものを信じない。まったく信じない。信じないが、UFOだけは別。信ず
るも信じないもない。私は生涯において、三度、UFOを目撃している。一度は、ワイフと一緒に
目撃している。(あとの二度については、目撃したのは私だけだから、だれにも話したことがな
い。文として書いたこともない。ここにも書かない。)

 が、私には、こんな不思議な体験がある。結婚したとき、ワイフにだけは打ち明けたが、こう
してものに書くのははじめて。だから前もって断っておくが、これはウソではない。ここにはウソ
は書かない。こういう話は、書けば書いたで、私の評論家としての資質が疑われる。損になる
ことはあっても、得になることは何もない。事実、「林君も自分の仕事を考えたら、そういうこと
は人には言わないほうがよいよ」とアドバイスしてくれた人もいる。それはわかっているが、しか
しあえて書く。

●不可解な体験
 オーストラリアに留学していたときのこと。あと一か月ほどで、日本へ帰るというときのことだ
った。オーストラリアの暑い夏も、終わりに近づいていた。私は友人のD君にビーチハウス(海
の別荘)で、最後の休暇を過ごしていた。ビーチハウスは、ローンという港町の手前、一〇キロ
くらいのところにあった。避暑地として有名なところで、そのあたりには、「グレートオーシャンロ
ード」という名前の街道沿いに、無数の別荘が点在していた。

 ある日のこと。D君の母親が、サンドイッチを作ってくれた。私とD君は、そのサンドイッチをも
って、ピクニックにでかけた。「オーストラリアの最南端にある、オッツウェイ岬に行こう」というこ
とになった。時刻は忘れたが、朝、ほどよい時刻に出かけたと思う。あともう少しで、オッツウェ
イ岬というところで、ちょうど昼食時になったのを覚えている。小高い山の中に入って、私たち
は車の上に座って、そのサンドウィッチを食べた。

 そこからオッツウェイ岬までは、車で半時間もかからなかったと思う。彼らがいうブッシュ(や
ぶ=雑木林)を抜けてしばらく走ったら、オッツウェイ岬だった。

 私たちは岬へつくと、百メートルくらい先に灯台が見える位置に車を止めた。そして車の外へ
出ると、岬の先のほうへと向かって歩き出した。そのときのこと。どちらが言ったわけではない
が、「記念に大地に接吻をしよう」ということになった。背丈の短い雑草が、点々と生えているよ
うな殺風景な岬だった。ほかに見えるものといえば、灯台だけだった。たしか、「オッツウェイ
岬」「オーストラリア、最南端」というような表示だけは、どこかにあったように思う。私たちは地
面に正座してひざまづくと、そのまま体を前に倒した。そして地面に顔をあてたのだが、そこで
記憶がとだえた。

 気がつくと、ちょうど私が顔を地面から離すところだった。横を見ると、D君も地面から顔を離
すところだった。私とD君は、そのまま車に戻り、帰り道を急いだ。ほとんど会話はなかったと
思う。

 そのオッツウェイ岬からは、舗装された道がつづいていた。そしてほどなく、アポロベイという
港町に着いた。港町といっても、波止場が並ぶ、小さな避暑地だった。私たちはそのひとつの
レストランに入って、ピザを食べた。日はとっくに暮れていた。まっ暗といったほうが正確かもし
れない。

 この話はここで終わるが、それからほぼ一週間後のこと。そのとき私とD君は、D君の両親
の住むジーロンの町の家にきていた。そこで、ベッドに入って寝る前に、私はD君に、こう切り
出した。胸の中でモヤモヤしているものを、吐き出したかった。

 「D、どうしてもわからないことがある……」
 「何だ、ヒロシ?」
 「いいか、D、あの日ぼくたちは昼食を食べたあと、オッツウェイ岬に向かったね」
 「そうだ」
 「サンドイッチを食べたあと、すぐオッツウェイ岬に向かった。時間にすれば、三〇分もかから
なかったと思う」
 「そんなものだな、ヒロシ」
 「でね、D、そのオッツウェイ岬で、同時に二人とも眠ってしまった。そんな感じだった。あるい
は眠ったのではないかもしれない。同時に地面に顔をつけ、同時に地面から顔を離した。覚え
ているだろ?」
 「覚えている……」
 「それでだ。ぼくたちは、オッツウェイ岬から帰ってきた。そしてあのアポロベイの町で、夕食
を食べた。ぼくはそれがおかしいと思う」
 「……?」
 「だってそうだろ。オッツウェイ岬から、アポロベイまで、どんなにゆっくりと走っても、一時間
はかからない。が、アポロベイへ着いたときには、外はまっ暗だった。時刻にすれば、夜の七
時にはなっていた。ぼくたちは、同時にあの岬で眠ってしまったのだろうか」と。

 昼過ぎにオッツウェイ岬に着いたとしても、午後一時か二時だったと思う。それ以上、遅い時
刻ではなかった。が、そこからアポロベイまで、一時間はかからない。距離にしても、三〇キロ
くらいしかない。が、アポロベイに着いたときには、もうとっぷりと日が暮れていた! どう考え
ても、その間の数時間、時間がとんでいる!

 私はその話をD君にしながら、背筋がどこかぞっとするのを感じた。D君も同じように感じたら
しい。さかんに、ベッドの上で、首をかしげていた。

 そのオッツウェイ岬が、UFOの有名な出没地であることは、それから数年たって、聞いた。D
君が、そのあたりで行方不明になったセスナ機の事件や、UFOが撮影された写真などを、そ
のつど届けてくれた。一枚は、あるカメラマンが海に向けてとったもので、そこには、ハバが数
百メートルもあるような巨大なUFOが写っていた。ただしそのカメラマンのコメントによると、写
真をとったときには、それに気づかなかったという。

 さらにそれから五、六年近くたって、私たちと同じような経験をした人の話が、マスコミで伝え
られるようになった。いわゆる、「誘拐」というのである。私はあの日のあの経験がそれだとは
思いたくないが、どうしてもあの日のできごとを、合理的に説明することができない。簡単に言
えば、私とD君は、地面に顔をつけた瞬間、不覚にも眠ってしまったということになる。そして同
時に、何らかのきっかけで起きたということになる。しかも数時間も! しかし現実にそんなこと
があるだろうか。私はその前にも、そのあとにも、一度だって、何の記憶もないまま、瞬間に眠
ってしまったことなど、ない。電車やバスの中でもない。寝つきは悪いほうではないが、しかし瞬
間に眠ってしまったようなことは、一度もない。

 私とD君は、UFOに誘拐されたのか?

 今になってもときどきD君と、こんな話をする。「ぼくたちは、宇宙人に体を検査されたのかも
ね」と。考えるだけで、ぞっとするような話だが……。

●再びUFO
 ワイフとUFOを見たときの話は、もう一度、ここに転載する。繰り返すが、私たちがあの夜見
たものは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛び去
るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのようにして消えて
いった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。その原稿
につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点については、
ワイフも同意見である。つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに
気づいた。そのときは、黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を
取り囲むように、ブーメラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜空に目
が慣れてきたために、そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かびあがってきたの
かもしれない。つぎの原稿が、その夜のことを書いたものである。

++++++++++++++++++
 
●見たぞ、UFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私とワイフの二人で、
それを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ二五年近くも前のことで、「ひょっとしたら
……」という迷いはある。が、その後、何回となくワイフと確かめあったが、いつも結論は同じ。
「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くとワイフも同じことをしていたとい
う。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲む
ように、夜空よりさらに黒い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。私がヨタカだと思った
のは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反
対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部所に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFO
とは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、
まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。が、このことを矢追純一氏
(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私は
アルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組の
ディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私とワイフは、その
中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったから
だ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしくはない。もしあの夜
見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘
う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラムを汚したくないし、第一ウ
ソということになれば、私はワイフの信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっ
ても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野
だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国
語にも翻訳されている。そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えて
いる。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、
私はそれについて書いてみた。
(02−10−21)

(追記)私は宇宙人が、この地球の近くにいると聞いても、驚かない。みなさんは、どうですか?
 そんなことを考えていると、秋の夜、星空を見あげるのも、楽しくなりますね。まあ、「林もとき
どき、バカなことを書くものだ」とお笑いくださればうれしいです。そうそう私とワイフと見たUFO
ですが、新聞記事に書いたあと、二人、同じものを見たという人が、連絡をとってきました。こ
の話は、またいつか……!


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、お忘れなく!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(209)

++++++++++++++++++++++++++++
Sさん(四八歳母親・浜松市在住)の報告より
 
親子断絶のトンネルから、やっと抜け出たような気持ちです。
重苦しい、よどんだ空気から解放されたような喜びを感じます。
やっと我が家にも、親子の会話が戻ってきました。

++++++++++++++++++++++++++++

子育ては根比(こんくら)べ

 子育てはまさに、根比べ。小さい根比べ、大きい根比べ。それが無数につづいて、またまた
大きな根比べ。まさにその連続。しかし恐れることはない。愛さえあれば、何も恐れることはな
い。愛さえあれば、必ず、勝つ。勝って、鉄のようにかたまった子どもの心でも、必ず溶かすこ
とができる。

 まったく会話のない父子がいた。現在、父親は今、満五〇歳。息子は満二五歳。もとはとい
えば家庭騒動が原因だが、そのまま家族の歯車そのものが狂ってしまった。その父子は、息
子が中学生になるころから、まったく会話をしなくなってしまった。いっしょにテレビを見ていると
きも、食事をしているときも、父親のほうは、それなりに何かを話しかけるのだが、息子のほう
は何も答えなかった。父親の姿が見えたりすると、息子は、そのままスーッと姿を消したりし
た。はじめのころは、「何だ、その態度は!」「うるせエ〜」というやり取りもあったが、それもし
ばらくすると、消えた。

 やがて息子は、お決まりの非行コース。ときおり外出しては、そのまま何時間も帰ってこなか
った。外泊したこともある。真夜中に花火をあげて、近所の人に苦情を言われたこともある。コ
ンビニの前でたむろしたり、あるいは友人のアパートにあがりこんで、タバコを吸ったり、ときに
はシンナーも吸ったりした。親子の間は、ますます険悪なものになっていった。

 が、そのとき父親は、仕事の過労も重なって、一か月入院。そのときから、父親のほうに、大
きな心の変化が生まれた。息子が高校一年生のときだった。それまでは息子のこととなると、
すぐカリカリしていたが、まるで人が違ったかのように穏やかになった。「一度は、死を覚悟しま
したから」と、母親、つまりその父親の妻がそう言った。

 が、一度こわれた心は、簡単には戻らない。息子は相変わらず非行、また非行。やがて家の
中でも平気でタバコを吸うようになった。夜と昼を逆転させ、夜中まで友人と騒いでいることもあ
った。茶パツに腰パン。暴走族とも、つきあっていた。高校へは何とか通ったが、もちろん勉強
の「ベ」の字もしなかった。学校からは、何度も自主退学をすすめられた。しかしそのつど、父
親は、「籍だけは残してほしい」と懇願した。ときどき爆発しそうなときもあったが、父親はそうい
う自分を必死に押し殺した。あとになって父親は、こう言った。「まさに許して忘れるの、根比べ
でした」と。

 息子は高校を卒業し、専門学校に入ったが、そこは数か月でやめてしまった。そのあとは、
フリーターとして、まあ、何かをするでもなし、しないでもなしと、毎日をブラブラして過ごした。母
親のサイフから小づかいを盗んだり、父親の貯金通帳から勝手にお金を引き出したこともあ
る。しかし父親は、以前のようには、怒らなかった。ただひたすら、それに耐えた。父親は、息
子の意思でそうしているというよりは、心の病気にかかっていると思っていた。「これは本当の
息子ではない。今は、病気だ」と。そうアドバイスしたのは私だが、この段階で、「なおそう」と考
えて無理をすると、このタイプの子どもは、つぎの谷底をめざして、さらに落ちてしまう。今の状
態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、対処する。

 そうして一年たち、二年がたった。この段階でも、親子の間は、いつも一触即発。父親が何
かを言おうとするだけで、ピリピリとした緊張感が走った。息子は息子で、ささいなことでも、何
でも悪いほうに悪いほうにとった。しかしそれでも父親はがんばった。まさにそれは、血がにじ
み出るような根比べだった。「息苦しい状態がつづきましたが、やがて、息子がいても、いなくて
も、気にせず、自分たちの生活をマイペースでできるようになりました。それからは多少、雰囲
気が変わりました」と。

 私はいくつかのアドバイスをした。その一つ、何をしても、無視。その一つ、「なおそう」と思う
のではなく、今の状態を悪くしないことだけを考える。その一つ、ただひたすら許して、忘れる、
と。

 無視というのは、息子が何をしても、気にしないこと。生活態度がだらしなくなっても、ムダな
ことをしても、親の意思に反することをしても、気にしないことをいう。子どもの存在を忘れるほ
どまでになればよい。

 今の状態を悪くしないというのは、「今のままでよい」と、あきらめて、それを受け入れることを
いう。ここにも書いたように、この段階で無理をすると、子どもは、つぎのどん底をめざして、ま
っしぐらに落ちていく。

 「許して忘れる」は、英語では、「フォ・ギブ(与えるため)・アンド・フォ・ゲッツ(得るため)」とい
う。「愛を与えるために、許し、愛を得るために忘れる」ということ。その度量の広さこそが、親
の愛の深さということになる。

 父親はそれに従ってくれた。そしてさらに一年たち、二年がたった。息子はいつの間にか、二
四歳になった。突然の変化は、息子に恋人ができたときやってきた。父親は、その恋人を心底
喜んでみせた。家に招いて、食事を出してやったりした。それがよかった。息子の心が、急速
に溶け始めた。穏やかな表情が少しずつ戻り始め、自分のことを父親に話すようになった。父
親はそれまでのこともあり、すぐには、すなおになれなかった。しかし息子が自分の部屋に消え
たあと、妻と抱きあってそれを喜んだという。

 こうしたケースは、今、たいへん多い。「こうしたケース」というのは、親子が断絶し、たがいに
口をきかなくなったケースだ。そしてその一方で、子どもは親のコントロールのを離れ、そこで
非行化する。しかしこれだけは覚えておくとよい。「愛」があれば、必ず、子どもの心を溶かすこ
とができる。そして子どもは立ちなおる。で、あとは根比べ。まさに根比べ。愛があれば、この
根比べは、必ず、親が勝つ。それを信じて、愛だけは放棄してはいけない。ただひたすら根比
べ。

 今まで無数のケースを見てきたが、一度だって、この方法で、失敗したケースはない。どう
か、どうか、私の言葉を信じてほしい。今、その息子は、運送会社で、倉庫番の仕事をしてい
る。母親はこう言った。「とにかく息子の前では、夫婦で仲よくしました。そういう姿は、遠慮せ
ず、息子に見せました。息子に安心感を与えるためにです。それがよかったのかもしれませ
ん。もともと息子の様子がおかしくなったのは、夫に愛人ができたことによる、家庭騒動が原因
でしたから……」と。
(02−10−22)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 
子育て随筆byはやし浩司(210)

●負担は少しずつ減らす

 ときに子どもは、オーバーヒートする。子どもはまだ後先のことがわからないから、そのときど
きで、あまり考えないで、「やる」とか、「やりたい」とか言う。しかしあまりそういう言葉は信じな
いほうがよい。子どもが、音楽教室などへ行くのをしぶったりすると、「あんたが行くと言ったか
らでしょ。約束を守りなさい」と叱っている親を、よく見かける。が、それは酷というもの。

 で、慢性的な過負担がつづくと、やがて子どもの心はゆがむ。ひどいばあいには、バーントア
ウトする。症状としては、気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念
が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴える
ようになるなどが、ある。もっともこれは重症なケースだが、子どもは、そのときどきにおいて、
ここに書いたような症状を薄めたような様子を見せることがある。そういうときのコツがこれ、
『負担は、少しずつ減らす』。

 たとえば今、二つ、三つ程度なら、おけいこ塾をかけもちしている子どもは、いくらでもいる。
音楽教室に体操教室、英会話などなど。が、体の調子が悪かったりして、一つのリズムがおか
しくなると、それが影響して、生活全体のリズムを狂わせてしまうことがある。そういうとき親
は、あわててすべてを、一度にやめさせてしまったりする。A君(小二)がそうだった。

 A君は、もともと軽いチックがあったが、それがひどいものもらいになってしまった。そこで眼
科へ連れていくと、ドクターが、「過負担が原因です。塾をやめさせなさい」と。そこで親は、そ
れまで行っていた塾を、すべてやめさせてしまった。とたん、A君には、無気力症状が出てき
た。学校から帰ってきても、ボーッとしているだけ。反応そのものが鈍くなってしまった。

子どものばあい、突然、負担を大きくするのもよくないが、突然、少なくするのもよくない。こうい
うケースでは、少しずつ負担を減らすのがよい。おけいこごとのようなものについても、様子を
みながら、少しずつふやす。ひとつのおけいこが、うまく定着したのを見届けてから、つぎのお
けいこをふやすというように、である。そして減らすときも、同じように数か月をかけて、徐々に
減らす。でないと、たいていのばあい、立ちなおりができなくなってしまう。

 A君のケースでは、そのあと、無気力症状が、一年近くもつづいてしまった。もし負担を徐々
に減らしていれば、もっと回復は早かったかもしれない。さらにしばらくして、こんなこともあっ
た。

以前のような子どもらしい活発さをA君が取り戻したとき、親が、「もう一度……」と、音楽教室
へ入れようとしたことがある。が、それについては、今度はA君は狂人のようになって暴れ、そ
れに抵抗したという。もちろんそのため、A君は、勉強全体から遠ざかってしまった。今も、も
う、それから数年になるが、遠ざかったままである。

 子どもというのは、一見タフに見えるが、その心は、ガラス玉のようにデリケート。そしてこわ
れるときは、簡単にこわれる。もしそれがわからなければ、あなた自身はどうなのか。あるいは
どうだったかを頭の中に思い浮かべてみるとよい。あるいはあなたならできるか、でもよい。た
いていその答は、「ノー」である。
(02−10−22)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(211)

問題意識

 今、英語の個人レッスンをしているK君が、「おみやげ!」と言って、韓国製のノリをくれた。
「何?」と聞くと、さりげなく、「韓国へ行ってきた」と。「韓国!」と驚くと、「修学旅行だった」と。

 私がはじめて韓国へ行ったのは、一九六八年。また日韓の間に国交のない時代で、私たち
はユネスコの交換学生として、韓国へ渡った。行きは博多から、船でプサンへ向かった。その
プサンでは、高校生のブラスバンドに迎えられた。そういう時代と比較するのも、ヤボだが、し
かし「修学旅行」とは!

 そういう話をしていたら、ワイフの料理教室仲間の一人が、ヨーロッパを一周してきたという。
地中海では、ギリシア、イタリアと回って、スペインまで行ったという。その仲間というのは、今
年六〇歳の女性。どこか脳の活動が、低調になってきたと噂(うわさ)される女性である。「(旅
行などして)だいじょうぶだったのか?」と聞くと、「ツアーで、添乗員もいたから」と。

 私が留学したころには、たとえば東京、シドニー間の航空運賃だけでも、往復四二万円だっ
た。当時のお金で四二万円である。大卒の初任給が、やっと四、五万円という時代だから、今
の貨幣価値になおすと、二〇〇万円ということになる。そういう時代だから、「外国へ行く」とい
うことには、それなりの意味があった。またそれなりの覚悟をもって、行った。が、今はちがう。
高校生が修学旅行で、そして六〇歳の女性が、ツアーで行く。そこで私はハタと考え込んでし
まった。

 私は二〇歳代のころは、毎月のように外国を飛び歩いていた。毎週、日本と香港、あるいは
台北を往復したこともある。二四歳のときでも、香港までの往復旅費が一二万円だったと記憶
している。ちょうど大卒の初任給の二倍だった。だからそれなりの利益を考えて、仕事をした。
つまり外国へ行くということについて、そもそもの真剣味が違った。貿易の手伝いをするだけで
はなく、情報を集めたり、友人をつくるというのも、大切な仕事だった。現地の人に積極的に話
しかけ、住所と名前を聞き出す。そして日本へ帰ってくると、こまめに手紙を出したり、プレゼン
トを送ったりした。

 長い前置きになったが、私が「ハタと考え込んだ」というのは、この点にある。問題意識がま
るで違う。冒頭にあげたK君に、「韓国はどうだった?」と聞くと、「日本と変わらなかった」と。
「食べ物は?」と聞くと、「まずかった」と。いや、K君を責めているのではない。私の時代とはあ
まりにも違うので驚いた。そこで私はこう考えた。

 私は今でも、つまりこの年齢になっても、外国へ行くと、郷里の言葉で言うと、「元(もと)を取
る」ということを、まっ先に考える。元を取るというのは、投下した資本に見あうだけの、利益を
得るという意味である。これは私の体にしみついたクセのようなもの。「利益」といっても、金銭
的なものだけではない。自分の頭の中を、できるだけひっかき回して帰ってくる。自分の頭の
中がバチバチと火花を飛ばしてショートするのを感ずるのは、私にとっては楽しい。いわんや、
観光気分で、のんびりと、ヨーロッパを回るなどということは、私にはできない!

 そこで改めて、子どもの世界をながめてみる。子どもを伸ばすためには、というより、子ども
自身が伸びるためには、問題意識がなければならない。この問題意識をいかにもちつづける
か、あるいはもたせるかということが、重要なポイントとなる。問題意識がなければ、目や耳の
中に飛び込んできた情報は、ただの色や形、音にすぎない。もしそうなら、お金がもったいない
というより、時間がもったいない。もちろんK君はK君なりに、何かをつかんで帰ってきたのだろ
うが、しかし率直に言えば、私の時代とは明らかに違う。「外国へ行ってきた」という意識そのも
のが、はるかに薄い。それがよいことなのか悪いことなのかは、別にして、若い時代は、もっと
問題意識をもってもよいのではないか。韓国へ行ってきて、「日本と変わらなかった」というので
は、あまりにもさみしい。

 しかし、だ。ワイフにこの話をすると、ワイフはこう言った。「旅行だもん、いいじゃない。楽しん
でくれば……」と。なるほど。しかし私には、どうしてもそういう考え方ができない。いつも元を取
るということばかり考える。これも戦後という、あのひもじい時代を生きた人間の後遺症かもし
れない。
(02−10−23)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
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      │6 6 b
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 494人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−11−1号(132)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メニュー
今日のテーマ、『時』(Time)

【1】やわらかい頭 (Felxible Mind)
【2】子育て随筆(Essays for good parenting)
【3】ある母親の自殺(A suiside of a mother)
【4】「時」について(On Time)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

やわらかい頭

●こんなジョーク
 オーストラリアの友人のBob君は、若いときから、ジョークが好きで、いつも自分でジョークを
作って楽しんでいる。最近、メールで送ってきてくれたのを、いくつか紹介する。

★ある老人は、寝る前にいつも、バイアグラ二錠と、鉄分剤を三錠、のんでねた。だから朝起
きると、いつも彼の体は、北をさしていた。

★ある老人は、バイアグラを、いつも一錠しかのまなかった。そこでドクターが、「バイアグラ
は、二錠のまないと、効果がないから、二錠のみなさい」と、指示した。すると、その老人は、こ
う答えた。「いえ、先生、わしは小便をするとき、足元をぬらさなければ、それでいいのです」と。

 こんなのもある。

★ある老人が、深刻な顔つきで、病院へやってきた。そしてドクターにこう言った。「先生、わし
は最近、小便をしたあと、ときどきチャックをあげ忘れるのです。いよいよボケのはじまりでしょ
うか」と。すると、そのドクターは、こう答えた。「いいや、チャックをあげ忘れるのは、ボケでは
ない。チャックをさげ忘れたら、ボケです」と。

★カトリック教の神学校では、トイレで小便したあと、三度までは、あれを振ってもよい。四度以
上は、マスターベーションになるから、ダメ(チャプター・69条)。

★暑い夏の日だった。男が、道端のレストランに入ると、一人の大柄な女性が、ミートパイ(オ
ーストラリアの名物料理)を食べていた。見ると、スカートを、上にまくしあげていた。そこで男
が、その女性に、「あんたは、暑いからそうしているのか?」と聞いた。するとその女性は、ニコ
リともせず、こう言った。「いいや、うるさいハエどもを、下へ寄せつけておくためさ」と。

●教育論
 さて、教育論。子どもでも、頭のやわらかい子どもは、ジョークがわかる。そうでない子ども
は、そうでない。昨年、ワールドカップのとき、私は、年長児クラスで、思わずこう言ってしまっ
た。

 「あのね、みんな、アルゼンチンのサポーターの中には、女の人はいないんだってエ」と。する
と、子どもたちが、「どうしてエ〜?」と。そこで私はおもむろに、「だってねえ、アル・ゼン・チン
だもんね」と。これを言い終わったとき、「このジョークは、幼児には無理だろうなと思って、見ま
わすと、一人だけニヤニヤと笑っている男の子がいた。そういう子どもは、頭がよい。この先も
伸びる。

 幼児の能力をみるときは、今、できるかできないかをみるのではない。この先、伸びるか伸び
ないかをみる。そのときポイントは、頭のやわらかさ。頭のやわらかい子どもは、伸びる。そう
でない子どもは、伸び悩む。ジョークがわかるかどうかは、その大切なバロメーターということに
なる。私の印象に残っている事件に、こういうのがあった。

●チョーク箱を持ちかえった、U子(年中児)さん
 ある日、幼稚園へ行くと、教室に、A組のA先生のチョーク箱が置き忘れてあった。そこで私
は、近くにいたU子さんを呼んで、「これをA組のA先生のところへもっていってね」と頼んだ。U
子さんは、元気な声で「ハーイ!」と言って、教室を飛び出した。

 当時、園舎は「コ」の字型になっていた。一方の端から一方の端がよく見えた。私は心配だっ
たので、廊下に立って、U子さんを見送った。が、U子さんは、そのチョーク箱を、A組へ置いて
こないで、もって帰ってきてしまった。途中、廊下で、A先生とすれ違っている。そこで私はU子
さんに、「どうしてA組に、チョーク箱を置いてこなかったの?」と聞いた。するとU子さんは、「だ
って、A先生がいなかったもん」と。さらに私が、「じゃあ、どうして廊下でA先生とすれ違ったと
き、A先生にチョーク箱を渡してくれなかったの?」と聞くと、こう言った。「だって、A先生は、教
室にいなかったもん」と。
 
 そのU子さんは、A組で、A先生にチョーク箱を渡すことしか考えていなかった。頭のかたい子
どもというのは、そういう子どもをいう。概して、早熟タイプに生育する女児に、この傾向が強く
みられる。一見、しっかりしてみえるが、融通がきかない。あとあと何かにつけて、伸び悩む。

 さて、あなたの子どもはどうか。あなた自身はどうか。あなたは冒頭のジョークを読んで、スラ
スラと意味がわかり、笑っただろうか。

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邪悪な心

 心の邪悪な人が近くにいると、こちらの心まで邪悪になる。こちらがその気でなくても、巻き込
まれてしまう。そしていつの間にか、自分まで邪悪になる。そこで大切なことは、自分のまわり
の人にその邪悪さを感じたら、その人には近づかない。相手にしない。

 ある母親から、こんなメールが届いた。何でもその母親が住んでいるマンションは、「G中学
マンション」と呼ばれているというのだ。G中学というのは、神奈川県でも、有名な私立中学。た
またまそのマンションから、G中学校のグランドがよく見える。それにそのマンションには、G中
学の教員が、六、七人住んでいる。それでそういうニックネームがついたらしい?

 こういう世界で、「私」を保つのは容易ではない。同年齢の子どもをもつ親が集まると、自然と
そういう話になってしまう。その母親は、メールで、こう話してくれた。「G中学に入学して当たり
前。入学できなければ、人にあらずというような雰囲気です。そういう世界で、自分を保つの
は、容易ではありません」と。

 たとえば一人の子どもが、受験のためにA進学塾に通い始めたとする。するとその話は、あ
っという間に、ほかの親たちに知れてしまう。そして同じ進学塾に通うほかの子どもを通して、
成績は筒抜け。成績がよければよいで、ひがまれ、悪ければ悪いで、陰口をたたかれる。月
謝の高い進学塾だと、これまたひがまれ、安い塾だと、これまた陰口をたたかれる。「あのお
宅、無理をしてるわねえ」とか、「あのお宅では、しかたないわねえ」とか。その母親は、「私の
ようなよそ者から見れば、バカげているのですが、みんな真剣なところがおかしいです」と。

 こうした邪悪な人たちと戦う方法があるとすれば、自分の視野を広くし、視点を高くすることで
しかない。自分という人間が、相手を二ランクとか、三ランク超えたとき、はじめてその邪悪さ
を、はらいのけることができる。へたをすれば、その邪悪な世界に巻き込まれ、自分自身もそ
の邪悪な人間になってしまう。つまり邪悪さには、そういう魔力がある。だから結論は、結局
は、「近づかない」「相手にしない」ということになる。あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう
書いている。「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」と。

 が、その母親は、メールでこう書いてくれた。「ところで最近、先生のメールマガジンを読まさ
せて頂いております。近所のお母さん方のお稽古熱が激しいので、何度も流されそうになった
り、へこみそうになったりしていますが、いつも先生の記事で自分を取り戻しています」(原文の
まま)と。そういう形で、私のマガジンが役だっていることを知り、うれしかった。
(02−10−24)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(214)

達成感

 子どもの学習を指導するときは、(1)動機づけ、(2)楽しませる、(3)達成感を大切にする。
動機づけと、楽しませるについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、もう一
つの達成感について。

 達成感というのは、「やった!」という、満足感をいう。量的にも、学力的にも、その満足感を
子ども自身が味わうようにしむける。量的というのは、たとえばワークブックを一冊やり遂げた
ようなことをいう。この段階では、あまりこまかいことを言わないのが、コツ。たとえば計算問題
にしても、一〇問やって、七〜八問あっていれば、「できた」とみる。こまごまとした指導は、か
えって子どものやる気を奪う。

 「学力的」というのは、「勉強ができるようになった」というのが、それにあたる。しかし実際に
は、この指導は、たいへんむずかしい。しかも私の経験では、子どもが小学生になってからだ
と、何かにつけてうまくいかない。が、幼児だと、効果てきめんというか、簡単な指導で、それが
できる。言いかえると、この時期までの指導がたいへん重要である。たとえば幼児がやっとた
どたどしい文字を書いてみせたとする。そういうとき、少しおおげさにほめてみる。「こんなにじ
ょうずに書けるようになったの!」と。あるいは「この前より、字がうまくなったね!」と言ってあ
げる。「もっとあなたはじょうずに書けるようになるよ!」と、前向きな暗示を与えるのもよい。

 この時期の子どもは、ややうぬぼれかげんのほうが、あとあとうまくいく。「ぼくは、すごい」
「私は、できる」と子どもに思わせながら、前向きにひっぱっていく。

 子どもの学習を家庭で指導するときは、動機づけ、楽しませる、達成感、この三つを頭に置
きながら進めるとよい。

(注)「楽しませる」というのは、子ども自身が楽しむような雰囲気を大切にする。子どものばあ
い、一時間机の前にすわって、その中で一〇〜二〇分、勉強らしきことをすれば、よしとする。
雑談をしながらでもよい。お茶を飲みながらでもよい。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。
ガリガリと勉強するような姿は期待しないほうがよい。英語にも、「Happy learners learn best」
(楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ)というのがある。

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ペットは、心をはぐくむ

 最近の子どもは、幼児も小学生も、そして中学生も、小さな虫を見ただけで、ギャーギャーと
声をあげて、逃げ回る。いわんやゴキブリがいたとなると、大騒動。しかしA君(年長児)は違っ
た。

 ある日のこと、教室に、一匹のクモが迷い込んできた。それを見て、子どもたちは、いつもの
ようにギャーギャーと声をあげて、逃げ回った。しかしA君は、両手でそのクモをすくいあげる
と、窓の外までもっていき、そこでクモを放した。これを見て、私は驚いた。あとにも先にも、そ
して今までも、そういうふうにしてクモを逃がした子どもは、見たことがなかった。

 あとで母親と話す機会があったので、その秘訣を聞いた。するとその母親は笑いながら、こう
話してくれた。

 父親が大の動物好きで、家の中は、動物園のようだというのだ。犬やネコだけではない。ウ
サギもハムスターもいる。庭には大きな水槽があって、魚もいる。もちろん虫という虫は、あら
ゆるものを飼っている、と。「いつも二人で散歩に行っては、いろいろなものをつかまえてきま
す」と。

 そのA君、本当に心のやさしい子どもだった。話しているだけで、おとなの私ですら、ほっとす
るような温もりを感じた。ほかにも似たような子どもがいたが、動物好きな子どもに、心の冷た
い子どもは、まずいない。そんなわけで、もしあなたが子どもをやさしい子どもにしようと考えて
いるなら、何か、ペットを飼わせるとよい。しかしこれには、ひとつ、大切な条件がある。

 それはあなた自身が、「好き」でなければならないということ。こんな子どもがいた。ある日の
こと、どこからどう迷い込んできたのかは知らないが、白い子犬がやはり教室へ入ってきたこと
がある。子どもたちは、「犬だ、犬だ」と、騒いだが、そのときのこと。一人の女の子(年長児)
が、何を思ったか、その犬めがけて、スリッパを投げつけた。ふざけて投げたというよりは、本
気だった。すかさず、「どうして、そんなことするの!」と私が叱ると、その女の子は、ニコリとも
せず、「私、犬が、嫌い!」と。

 あとであれこれ話を聞くと、その女の子の母親は、大の動物嫌い。一度、父親が犬を飼いそ
うになったことがあるが、それだけで夫婦関係がおかしくなってしまったこともあるという。つまり
ここでいう「条件」というのは、これは子育て全般にかかわることだが、こうしたケースも含め
て、「子どもだけ……」というのは、絶対にうまくいかないということ。

 親が本嫌いなのに、子どもだけを本好きにする。
 親がスポーツ嫌いなのに、子どもだけをスポーツ好きにする。
 親が勉強嫌いなのに、子どもだけを勉強好きにする。
 そして親が動物嫌いなのに、子どもだけを動物好きにする。

 すべて、こういうケースは失敗する。それこそ親の身勝手というもの。反対に、親が好きなこ
とは、子どもも好きになる。「好き」とか「嫌い」というのは、そういうもので、教えて教えられるも
のではない。感化されるものである。

 で、最近、講演した小学校で、こんな話を聞いた。あるクラス(小三)で、虫を飼うことになった
という。そこでのこと。一人の男の子が、カマキリをつかまえてきた。別の男の子が、小さなバッ
タをつかまえてきた。そこまではよかったのだが、もう一人の男の子が、何を思ったか、その小
さなバッタを手でもちあげ、カマキリの入ったカゴに落としたというのだ。

 その話をしてくれた女の先生はこう言った。「そういうことが平気でできる子どもの心が、私に
は理解できません」と。バッタを落とした男の子は、カマキリがバッタを食べるところが見たかっ
たと言ったという。

 最近の子どもは、どこか心がゆがんでいるのかもしれない。ただ、全体がゆがんでいるか
ら、その「ゆがみ」がわかりにくくなっているのも、事実だ。

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親は、気高く

●B君(小三)のケース
 親は子どもの前では、努めて気高く生きる。こうした姿勢が、子どもに安心感を与える。その
安心感が、子どもを前向きに伸ばす。

 へつらう、ゴマをする、おべっかを使う、機嫌をとる、愛想をよくする、とりつくろう、ペコペコす
る、YES・NOをはっきりさせるよりは、ものごとをナーナーですまそうとする……、こういうの
は、日本人のお家芸だが、それだけ日本人は、卑屈になりやすい民族ということになる。長くつ
づいた封建時代が、独特の民族性をつくった? こんな事件があった。

 A君(小三)は、わがままな子どもだった。そのA君が、クラスで乱暴をした。それを見た、正
義感の強いB君(小三)が、A君にとびかかり、A君に、軽いケガをさせた。が、問題は、ここか
ら起きた。

 B君の家は、母子家庭。そしてその母親は、A君の父親が経営する会社で、事務員として働
いていた。だからこの事件を知って、B君の母親は、少なからず、あわてた。そこで母親は、B
君を連れて、その夜、A君の家まで、あやまりに行った。玄関には、A君の父母と、A君が並ん
だ。

 しかしいくら母親がたしなめても、B君は、がんとして頭をさげなかった。しかたないので、B君
の母親だけが、何度も何度も、ていねいに頭をさげてあやまった。

 この話は何度か、私の本やコラムにも書いた。で、それ以後、B君と母親の間には、まったく
会話がなくなってしまった。そこでB君の母親から、私に相談があった。「どうしたらいいか」と。

 ところで子どもにも、自尊心がある。実は、犬にもある。このことは、私の飼い犬と散歩をして
いて気づいた。私は犬のハナ(ポインター、猟犬)と散歩に行くときは、自転車で行く。とても歩
いて散歩するような犬ではない。で、そのハナだが、ほかの犬がその姿を見て、ワンワンとほ
えたりすると、背筋をのばすというか、頭をぐいともちあげるのである。かなり疲れていて、首を
うなだれて走っているようなときでも、である。そういうとき私は、「ははあ、こいつも、ほかの犬
に、かっこうのいいところを見せたがっているのだな」と思う。

 話を戻すが、この自尊心は、大切に守る。とくに子どもの自尊心は、大切に守る。こういうケ
ースでも、「どうせ、おとなになればわかるよ」というような言い方で、軽くあつかってはいけな
い。安易な妥協はしてはいけない。これは生きる誇りのようなもの。生きること、そのものと言
ってもよい。この誇りが、尊厳になり、その人の人格の基礎になる。この誇りがないと、たとえ
ば「悪」に対して、ブレーキがきかなくなる。歯止めがきかなくなる。つまり自尊心は、その子ど
も(人)を守る、心の砦(とりで)ということになる。

 さてB君のことだが、こういうケースでは、修復はまず不可能と考えるべき。一度キズついた
心は、簡単にはなおらない。……というより、なおそうと思うほうが、まちがっている。親子の会
話が途絶えたということだが、表面的な修復は、時間が解決してくれる。が、会話はもどって
も、心がそれで修復されたということにはならない。

 私が「どうしてお母さんだけで、あやまりに行かなかったのですか」と聞くと、その母親は、「だ
って……」と言ったが、むしろ母親がすべきことは、B君の立場で、B君の心を守ることだった。
母親には母親の立場があったのだろうが、そうならそうで、母親だけがあやまりに行けばよか
った。ペコペコと頭をさげる母親を見て、B君は、どんな気持ちでいたか……。私にはそのとき
のB君の気持ちが、痛いほど、よくわかる。

 生きる誇りは、どこでもつか。それは人それぞれだが、私は以前、こんな原稿を書いたことが
ある。これは中日新聞に載せてもらった記事である。

●落ちていた、五〇セント硬貨

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そしてその
正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いて
いた。私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はそ
の委員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くた
びに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。そんなある日、私は正田氏に、「どう
して私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。正田氏はソバを食べる手を
休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおい
て、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊りをすることになったメ
ルボルン大学のインターナショナル・ハウスは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。私の隣人は
西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などな
ど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にし
た。元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき各国
からノーベル賞級の研究者がやってきて、数か月単位で宿泊することもあった。井口昌幸領事
が、よど号ハイジャック事件で北朝鮮へ行った、山村政務次官を連れてきたこともある。山村
氏は事件のあと、休暇をとってメルボルンへ来ていた。

しかし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしている
ことすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思
ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一
度だけ、私は、自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあっ
た。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。誰かが落と
したものを、別の誰かが拾ってそこへ置いたらしい。当時の五〇セントは、今の貨幣価値で八
〇〇円くらいか。もって行こうと思えば、誰にでもできた。しかしそのコインは、次の日も、その
また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこにあった。私はそのコインがそこにある
のを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「私は最高の教
育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松
市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いて
いるという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも、私を支
え、救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。私は、情緒もそれほど安定していない。精
神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさな
いですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげだった。あの五〇セント硬貨を思い出すこと
で、私は、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。
(02−10−24)

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子育て随筆byはやし浩司(217)

子どもの勉強時間

 こんな調査結果がある。

【学校での授業を含めた学習時間】

   一〇歳以上の小学生……4時間41分(4時間40分)
   中学生      ……5時間26分(5時間29分)
   高校生      ……5時間21分(5時間23分)
   短大・高専    ……3時間 5分(3時間 6分)
   大学・大学院生  ……2時間59分(2時間57分)

(総務省・〇一年一〇月、全国の一〇歳以上の男女、二〇万人を対象・かっこ内は、前回九
六年の調査結果)

 
 総務省の「社会生活基本調査」でわかった。大学生や大学院生の、一日の勉強時間は、大
学での講義も含めて、たったの二時間五九分(約三時間!)だというのだ。この時間数は、小
学生や中学生、高校生や短大生より少ない! 

 されはさておき、小学生のばあい、4時間41分=281分から、学校での勉強時間、250分
(50分x5時限)※を引くと、家での学習時間は、塾などで学習する時間も含めて、31分という
ことになる。私の実感でも、だいたいこんなものではないかと思う。その分、テレビを見たり、ゲ
ームをしたりする時間が、ふえている。ふつうの高校生でも、毎日、四、五時間は、テレビを見
ている。あるいは部屋では、一日中、テレビはつけっぱなし?

 こうした調査で平均値というのは、あまり意味がない。それはちょうど、毎月、一〇〇万円の
収入がある人と、一〇万円の収入の人を、足して二で割って、五五万円と算出するようなもの
だ。問題は、平均値ではなく、不公平さ。

 同じように、勉強する高校生は、学校以外でも、一日、五、六時間勉強している。こうした高
校生が、上位一〇%はいる反面、まったく勉強しない子どもも、五〇〜六〇%はいる。あるい
はもっと多いかもしれない。問題は、こうした子どもたちをどうするか、だ。つまりこうした子ども
たちは、そもそも「学ぶ」という姿勢そのものがない。ただその日、その日を享楽的に生きてい
るだけ。損とか、得とかいう話をしても、「損をしている」という意識すらない。何も受験だけが勉
強ではない。「勉強」というのは、そのほとんどは利益とは結びつかない。ある意味で、生き様
(ざま)そのものの問題である。

 それにしても、今の子どもたちは勉強しなくなった。本当にしなくなった。子どもたちがこうなっ
た背景には、いろいろ原因もあるのだろうが、現状はそういうものだという前提で、子どもの勉
強時間を考えるしかない。

※……ここでいう総務省の平均値というのは、たとえば土日の勉強時間をどう計算しているか
ということが明確ではないので、この計算式は正しくないかもしれない。

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    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
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子育て随筆byはやし浩司(213)

ある母親の自殺

 もうあれから、二七年になる。あの朝、あの母親は、自分の家の前で車に飛び込んで、自殺
してしまった。中学三年生の息子が、高校受験に失敗してから、数週間後のことだった。

 私はその息子を、週に一度、家庭教師をしていた。そういう関係から、その家の事情は、よく
知っていた。知りすぎていた。夫は、小さな貿易会社を経営していた。裕福な家庭だったが、夫
は、名古屋に愛人がいて、その愛人と密会を重ねていた。しかもそのとき、愛人との間に六歳
になる子どもがいた。

 その母親は、家庭教師が終わるたびに、何かと口実をつくっては、あれこれ相談をもちかけ
てきた。たいていはどうという話ではなかった。しかしそういう話にまぶして、私を誘惑しようとし
た。「私の体は、一〇万人に一人の体なのよ」と言ったこともある。しかし私はそれに応じなか
った。男というのは勝手なもので、そういう状況でないときは、あらぬロマンスを想像するものだ
が、しかしいざ、実際その場になると、それができない。私は、そういう意味では不器用な男
だ。フランス映画のようには、どうしてもできない。

 そしていよいよ息子の受験が近づいてきた。頭のよい子どもだったが、しかしS高校を受験
するには、無理があった。ただ私が教えていた英語だけはよくできた。それで何となく私も、そ
の受験に反対することはできなかった。そんなある夜、その母親から電話がかかってきた。受
験まであと二か月というときだった。受話器をとると、「どうしても相談したいことがある」と。私
はその真剣さに驚いて、その夜遅く、母親の家に向かった。時刻は、もう一一時を過ぎていた
と思う。

 母親はいつものようなやさしい笑みを浮かべていた。そして一通り、いつものようにお茶を出
し、あいさつが終わると、こう切り出した。「夫に、愛人がいるということだが、あなたは知らない
か?」「隠し子のことは?」と。私は知っていた。私とその会社の総務部長とは、別の仕事で懇
意にしていた。その部長から、その話は聞いていた。が、私は「知らない」と答えた。母親は、さ
らに、「総務部長から何か、話を聞いていないか」とたたみかけた。それも私は、「知らない」と
答えた。そのあと、いくつかその母親は、私に相談したが、それについては、ここに書けない。

 母親は、明かに私に助けを求めていた。淡々とした会話だったが、しかし私にはどうすること
もできなかった。私にとっては、ただの家庭教師先。それ以上の関係は求めていなかった。ま
た求められても困る立場にあった。男との女の関係になるのは、さらにまずかった。だからそ
の母親の話を、半ば茶化しながら、そして冗談ぽく、切り返していた。

 私とその母親との関係はそこまでで、そして息子の受験の数日前に、家庭教師の仕事もや
めた。が、しかし、その母親が自殺するとは思ってもみなかった。で、そのニュースは、義理の
姉からの電話で知った。「あんた、昨日の夜、○○会社の奥さんがなくなったっていう話を知っ
ている?」と。飛び起きてテレビのチャンネルを入れると、ちょうどそのニュースを、報道してい
るところだった。私はワイフにしたくさせると、すぐ車に飛び乗った。私はその母親とのことは、
すべて、ワイフに話していた。

 それから二七年。あの事件を思い出すたびに、胸が重くなる。ワイフは、「あなたの責任では
ない」とそのつど言うが、しかし心のどこかに、その責任を感じてしまう。もしあの夜、私がその
母親の話を、もう少し真剣に聞いていていれば、あの母親は自殺しなくてすんだかもしれない。
そういう思いが、心をふさぐ。
 
 では、なぜ、今、この話をここに書いたか、である。実は、数週間前からだが、よく似た事例
が、私の身辺で進行しつつある。母親は育児ノイローゼ気味で、このまま放置したら、何らか
の事件に発展する可能性が大きい。夫とは、先週、一対一で話したが、夫はポツリとこう言っ
た。「林さん、ぼくたち夫婦は、もう形だけなんですよ……」と。

 私はもう後悔をしたくない。だからできるだけその母親の相談にはのっている。……のってき
た。しかしこのケースでも、男と女の関係になるのは、たいへんまずい。私の仕事には、いつも
そういう問題がからむ。限界がある。だからやはり淡々とした関係をつづけながら、その範囲
でアドバイスするしかない。ワイフに相談すると、「あなたの問題ではないから」とか、「もうあの
夫婦はこわれているわ。それについては、あなたの責任ではない」とか言う。それはわかる
が、一度、失敗しているから、「私は知らない」で、どうしてもすますわけにはいかない。ただ今
は、何ごともなければよいがと願っている。そういう願いをこめて、この文を書いた。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


正統派

 コンピュータの世界には「正統」というものがあるらしい。私は、長い間、パソコンとつきあうこ
とで、それを思い知らされた。

 二七、八歳のころ、当時の金額で、三四万円という大金を出して、「ペット」というパソコンを買
った。コモドール社のパソコンである。あとで聞いたら、あのマイクロソフト社のビル・ゲーツも、
高校生のとき、同じパソコンをもっていたそうだ。(あのままその主流に沿ってがんばっていれ
ば、私も彼のような人物になれたかもしれない?)

 そのあと、パソコンは、まさにとっかえひっかえだった。しかし寄り道ばかりだった。

 最初の寄り道は、NECのパソコンに乗り換えたことだ。当時、六〇〇〇とか、八〇〇〇とか
いう機種が、NECからつぎつぎと発売された。それがやがて、九〇〇〇になり、九八となったと
思う。今もそのころのパソコンが、一台だけ座右に残っている。機種は、「PC98・21・V13」と
なっている。ある日、オーストラリアへ行ったとき、友人が、「ヒロシは、何を使っている?」と聞
いたから、私が「NECの98だ」と言うと、「何、それ?」と言った。そのとき私ははじめて、NEC
の98は、日本だけしか通用しないOSと知った。無知だった。

 このときすでに世界の潮流は、DOS/V規格のパソコンに向いていた。が、私はNECを信
じ、ただひたすらNECを買いつづけた。しかしこれがまちがいのもとだった。やがてNECは、
私のような純朴なユーザーを裏切り、膨大な付属資料やソフトを残したまま、DOS/V規格へ
と流れを転向してしまった。「あとに残されたユーザーはどうすればいいのだ!」と、そのとき
は、そう心の中で叫んだ。

 このとき、それと並行して、世の中には、ワープロなる電気製品が現れた。私はあえてNEC
に背を向けた。NECへの怒りが大きかった。そこで対抗馬のフジツーのワープロにこだわっ
た。ワープロというのは、一度その会社の製品に決めると、以後、その会社のものでないと、
役にたたない。互換性がない。それで今度は、ワープロをとっかえひっかえ、買いつづけた。し
かしこれもやがて、裏切られるところとなる。

 フジツーはやがて新製品を出さなくなった。それまでは年に三〜四回、新製品を発表してい
たが、ある時期から、パタリとそれが止まった。店の人に聞いても、「これからはパソコンの時
代です」と。この言葉に、あわてた。もしそうなら、今まで私が蓄積してきた文書が、全部、ムダ
になってしまう!

 が、私はワープロにこだわった。世の中にインターネットがはびこるようになっても、ただひた
すらワープロにこだわった。ワードだ、エクセルだといっても、ワープロにこだわった。フジツー
のワープロは、キーボードが特殊だったということもある。が、それがまちがいのもとだった。気
がついたときには、私は時流に完全に乗り遅れていた。そこでしぶしぶ、パソコンの世界に逆
戻り。今度は、正統派をただひたすらさがし求めた。……といっても、すべてDOS・V仕様にな
っていたが……。

 ほかにもある。レザーディスク(パイオニア)が出たころ、少数派だが、ビデオディスク(シャー
プ)というのもあった。私はそのビデオディスクにこだわった。ビデオも、VHSが出たころ、ソニ
ーからベータが出た。これはおとなしく、VHSにしたので、よかった。同じく今は、デジタルカメラ
はフジフィルムのファインピクスに統一しているが、スマートメディア(記録媒体)が、どうも劣勢
になってきた。パソコンで最初から、スマートメディアが読み書きできるようになっている機種
は、今のところ、ひとつもない、などなど。

 今から思うと、私はもっとすなおに、正統派に身を寄せるべきだった。私のようなものが、あ
えて、ひとり「流れ」に背を向けたところで、どうにかなるものではない。が、私は昔から、どこか
ひねくれている。それがわざわいした。

さあて、今、この世界では、何が正統派なのか。それをしっかりと見極めないと、結局はお金を
ムダにしてしまうことになる。……みなさんも、どうか、お気をつけください。
(02−10−24)


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
人生で大切なのは、「時」

 近所の女性(八五歳)は、私がその家を訪れるたびに、仏壇の金具をみがいている。それほ
ど高価なものではない。しかしその女性にとっては、それが財産なのだ。命なのだ。人生なの
だ。

 こうした老人を論ずるとき、一番注意しなければならないのは、老人の心理は、老人にならな
いと理解できないということ。いつか、大学の恩師がそう話してくれた。安易な解釈や理解は、
誤解のもと。

 それはそれとして、私はこのところ、自分の中の変化が気になる。モノや財産に、それほど興
味をもたなくなったのだ。たとえばテレビ番組で、「このお宝は、二〇〇万円の価値がありま
す!」などとだれかが言ったとすると、すぐ、「それがどうしたの?」と思ってしまう。こういうこと
だ。

 この宇宙には、一つの砂丘(浜松市の中田島砂丘なら中田島砂丘でもよい)にある、砂粒の
数ほどの星がある。あるいはもっと多いかもしれない。この太陽系でいえば、太陽は星だが、
地球や火星は、その星の数にも入らない。いわば、星のゴミ。しかもだ、この宇宙の歴史は、
四〇億年とも五〇億年とも言われている。そういう地球の表面に、かろうじてへばりついて生き
ながら、宇宙の歴史からみれば、まばたきにもならない瞬間に生きながら、どうしてモノにこだ
わる? どうせ死ねば、宇宙もろとも、しかも永遠に「無」という闇の世界にもどる……。

 前世、来世論というのがあるが、本当にだれか、それを見たことがあるのだろうか。神はとも
かくも、釈迦は一言もそんなことは言っていない。それを言い出したのは、釈迦滅後、それも数
百年前後たってからの、その弟子と称する学者(?)たちである。ウソだと思うなら、一度でもよ
いから、『スッタニパーダ』(釈迦の生誕地に残る原始仏教の経典)に、目を通してみることだ
※。

 モノがムダと言っているのではない。私たちには、もっと大切なものがある。大切にしてしすぎ
ることがないものがある。それが、「今、ここに生きているという時」である。その価値は、とても
お金には換算できない。一秒、一秒に、かけがえのない価値がある。まさに私たちが、今こうし
て、この地球で生きていること自体が、奇跡なのだ。そういう奇跡を前にして、何が、モノだ。地
位だ。名誉だ。財産だ。……というのは、少し過激な意見だが、しかしそういうふうに考えるの
も、ときとして大切ではないのか。今、あまりにも、「時」の価値が、ないがしろにされすぎてい
る。

 要するに、生きるということは、その「時」を、いかに大切に使うかということに集約される。そ
れについては、また別のところで考えてみたい。ただ願わくば、私は冒頭に書いたような女性
のような生き方だけはしたくない。その年齢になったら、私の考え方も変わるかもしれないが、
今は、そう思う。自信はないが……。
 
+++++++++++++++++++++++++++

※釈迦は、つぎのように述べている。

 「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(二・二六)と。生きるのはあくまでも自分
自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正し
さを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。ゴータ
マ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。死の臨終に際しても、
こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、というこ
とをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のため
に、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村
元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使って
いない。いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。事実、「あとの書かれ
た経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。そういうことを言わないと、日本の仏教
そのものが、総崩れになってしまうからである。たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日
本に氾濫(はんらん)している。そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉
だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。

それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しか
しその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えにも
っとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつである
ということは常識。故中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威)も、「原始仏典を読
む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです」(「原始仏典を読
む」)と書いている。で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパ
ダ(法句)』である。中国で、法句経として訳されたものがそれである。ここに転載した一節は、
その法句経の一部である。

 また神がいう、天国だが、残念ながら私はクリスチャンではないから、門前払いということに
なる。しかたない。しかしどちらにせよ、つまりあの世があるかないかは別として、ともかくも、
今、生きている間は、そういうものは「ない」という前提で生きる。それはちょうど宝くじのような
ものではないか。宝くじを買っても、当たることをアテにして、土地や家を買う人はいない。すべ
ては当たってからの、お楽しみ。同じように、まずこの世を生きるときは、「あの世はない」とい
う前提で生きる。懸命に生きる。そして死んでみて、あの世があれば、もうけもの。それから神
や仏を信じても、遅くはない。何といっても、あの世での生活は、永遠なのだから。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


親孝行は美徳か?

●旧世代から新世代へ
 ワクや権威でしばりあげて、家族をつくる時代は終わった。それにかわって、家族もそれぞれ
が対等の人間関係で結ばれるという時代がやってきた。しかし意識というのは、そうは簡単に
は変わらない。……変えられない。今でも、旧世代の中には、親の威厳や権威の重要性を説く
人は多い。若い人でも少なくない。中には、武士道や戦前の軍人訓までもちだして、それを説く
人もいる。こういう人にとっては、日々の子育ては、まさに「孤独との戦い」ということになる。

 ある女性(60歳)はこう言った。「林さん、子どもなんて育てるもんじゃないですよね。息子は
横浜の嫁に取られてしまいました」と。その女性は、息子が結婚して、横浜に住んでいること
を、「取られた」というのだ。私はなぜその女性が、そういう心理になるのか、最初は理解でき
なかった。意識のズレというのはそういうもので、意識がたがいにズレているときは、たがいに
理解できない。あるいはその意識にハマっている人は、自分が正しいと思うあまり、自分と違う
意識をもっている人を否定する。いや、私も、どちらかというと、その女性に近い年代なので、
その女性の気持ちが、まったく理解できないというわけではない。しかし、「取られた」とは…
…?

●日本の三〇年前!
 先日、NHKのテレビ報道を見ていて、驚いた。中国の若者たちの生活ぶりを伝えていたもの
だが、その中の何人かの若者が、こう言っていた。「私は親に産んでもらい、育ててもらいまし
た。その恩返しをするため、給料の何割かは、親に仕送りをしています」と。私が驚いたのは、
中国の若者たちが、そういった意識をもっていたことではない。そのように答える様子が、三〇
年前の自分自身と、まったく同じだったからだ。実のところ、私はそうだった。私もそういう意識
にしばられ、今のワイフと結婚する前から、収入の約半分を、毎月実家に仕送りしていた。

 だれに命令されたわけではない。当時としては、それが常識だったが、その経済的負担感と
いうより、その社会的重圧感は、相当なものだった。私も生まれながらにして、父や母に、「産
んでやった」「育ててやった」「大学を出してやった」と、それこそ耳にタコができるほど聞かされ
た。そういうもので自分の体ががんじがらめに、しばられた。重圧感というのは、それをいう。

 が、考えてみれば、これほどおかしな意識はない。私も三人の息子を育てたが、その過程
で、一度だって、「産んでやった」とか「育ててやった」という意識をもったことがない。ワイフも
「ない」と言う。むしろ子どもたちがいたおかげで、どれほど生活が楽しく、潤(うるお)ったこと
か。教えられたことも多い。感謝することはあっても、感謝されることは何もない。だいたい子ど
もをもうけるについても、私とワイフはいつも相談して決めた。三人の息子たちが、ちょうど三
年目ごとに生まれたのは、そのためだ。つまり子どもを産むのを決めたのは、私たちの意思に
よる。そして産んだ以上、育てるのは、親の義務ではないか。それを「産んでやった」「育ってや
った」とは?

●子どもに恩を着せる子育て
 この問題については、もう何度も書いてきたから、結論だけを書くと、こうなる。

 親がいるから子どもがいるという考え方は、観念論に根ざした考え方といってもよい。一方、
実存的な考え方では、「生まれてみた。そして父と母を認識した」と考える。どちらが正しいと
か、正しくないとかいうことではない。ただ親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないという
こと。「産んでやった」「育ててやった」と言うのは、親の勝手だが、生まれ出る子どもは、自分
の意思で生まれるのではない。自分の意思で生まれたのでないのに、生まれたら、「産んでや
った」と言われる。考えてみれば、これほどおかしな話はない。いや、私も学生時代、よく母に
そう反論したことがある。が、母のそういうときの決り文句は、いつも同じだった。「そういうバチ
あたりのことを、よく言うな!」「産んでやった親に向かって、何てこと言うの!」だった。

 私たちはたしかに子どもを産み、子どもを育てる。しかしそれは子ども自身のためであって、
親のためではない。あるいは人類全体のためかもしれないが、親のためではない。また親の
ためであってはならない。理由は簡単だ。子どもといっても、一人の人間。決して親の所有物で
はない。モノではない。そもそも「産んでやる」とか、「育ててやる」とかいう対象ではない。だか
ら、「私の息子」「私の娘」と、「私の……」をつけること自体、まちがっている。

●親の義務
 親は子どもが巣立つとき、一度は、こう言ってあげる。「あなたの人生は、あなたのもの。たっ
た一回しかない人生だから、思う存分、この広い世界をはばたきなさい。親孝行? ……そん
なバカなこと、考えなくてもいい。家の心配? ……そんなちっぽけなこと、考えなくていい。あ
なたはあなたの人生を、まっすぐ前だけ見て、前に進みなさい」と。それでこそ親は、親として
の義務を果たしたことになる。

 もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家のめんどうをみるというので
あれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。しかし親がそれを、子どもに求めてはいけな
い。子どもに強要したり、期待してはいけない。そういう意味では、子育てにはいつも、ある種
のきびしさがともなう。が、そのきびしさを孤独にするかしないかは、結局は、その人の考え方
による。

●親孝行は美徳ではない
 私はまだ息子たちが赤ん坊のころ、その小さな手を見ながら、「どうしてこんな手ができるの
だろう」と思ったことがある。「この子は、少し前には、どこにいたのだろう」と思ったことがある。
しかし「私がつくった」などとは、思ったことはない。「私」は、親子という狭い関係を超えた、もっ
と大きく、もっと深い、つまりは生命の流れの中にある。「子ども」もそうで、生まれたときから、
子どもは、私を超えた、もっと大きく、もっと深い、つまりは生命の流れの中にある。「産んでや
った」とか、「育ててやった」とかいうような、そういうレベルの話ではない。いわんやそういう言
葉で、子どもをしばってはいけない。

 子どもはあなたから生まれるが、もっと大きく、もっと深い、生命の流れの中にある。そうした
流れに謙虚になるということは、とりもなおさず、あなた自身も、その流れの中にあることを知
ることになる。あなた自身が、親のために自分の人生を犠牲にすることは、決して美徳でも何
でもない。あるいはあなたは、自分の子どもがあなたのために自分の人生を犠牲にしているの
を見て、「それがいいことだ」と思うとでもいうのだろうか。私なら、「やめてくれ!」と叫ぶ。子ど
もが自分のために犠牲になっている姿など、見たくもない。考えたくもない。

 今、日本は旧世代から、新世代への移行期にある。そのためあちこちで、はげしい衝突や摩
擦が起きている。どちらを選ぶかは、あなたの問題だが、ひとつのヒントとして、ここに書いたこ
とを、一度真剣に考えてみてほしい。なぜならこの問題は、子育て全般に、しかも子育ての根
幹にかかわる問題だからである。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
詳しい講演日時は、
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-3-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 496人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  81人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−3号(133)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「善と悪」(What is Right and What is Wrong)(2)

【1】子どものクイズ(Riddles)
【2】子どもの問題(How to cope with kids)
【3】 善と悪(What is Right and What is Wrong)
【4】トラウマ(Trauma)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
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  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子どものクイズ

 英語には、クイズのほか、「リドル」と呼ばれる、なぞかけ問題がある。こんなのがある。私が
もう三〇年以上も前から知っているので、こうして転載しても、著作権の問題はないと思う。

●ジョンは、14歳です。生まれてから今までに、誕生日(バースディ)は、何回あったでしょう
か。

●ある月は、30日あります。またある月は、31日あります。では、28日がある月は、一年に、
何回あるでしょうか。

●デニスは、シドニーで死にました。ではどうして、彼は、メルボルンで埋めてもらえないのでし
ょうか。

●ここに5個のリンゴがあります。3個取ると、今、もっているのは、何個でしょうか。

●レモンを、メロンに変えるには、どうしたらいいでしょうか。

上の問題の答は、つぎのとおり。

○1回。だれも、誕生した日は、1回しかない。
○12回(か月)。どの月にも、28日があるから。
○デニスは、もう死んでいて、自分の気持ちを言うことができないから。
○3個。3個手に取った(TAKE)したから、手にもっているのは、3個。
○L・E・M・O・N(レモン)の文字を並びかえると、M・E・L・O・N(メロン)になる。

さて、あなたは何問正解しただろうか。意外と、子どものほうが、正解率が高いかも?

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(223)

振り回される親たち

 少し前、赤ちゃんがおしゃぶりを使うと、指しゃぶりが残りやすいという説があった。そこで一
時期、おしゃぶりが、子どもの世界から姿を消した。しかし今度は、無理におしゃぶりをやめさ
せると、子どもの情緒が不安定になるという説が出た。すると親たちは、再び、おしゃぶりを子
どもに与えるようになった。が、再び、おしゃぶりが、よくないという説がまた出てきた。理由は
あれこれあるらしいが、もっともらしい説が、つぎつぎと育児雑誌をにぎわした。

 そのつど、親たちは、ささいな情報に振り回される。新説が出るたびに、ああでもない、こうで
もないと振り回される。が、またまたまおしゃぶり論争。こんどは、おしゃぶりは、必要という説。
それに火をつけたのが、子どもたちによく見られる、口呼吸。「最近の子どもは口呼吸をする。
それは母乳で、じゅうぶん育てられなかったからだ」と。あるドクターが、テレビ番組の中でしゃ
べったのがきっかけだった。つまり赤ちゃんは、母親の乳首を吸っている間、鼻呼吸をする。
その乳首を吸う回数が少ないと、口呼吸になりやすいというのだ。そして鼻には、バイ菌などを
遮断する機能があるので、鼻呼吸する子どもは健康に、一方、口呼吸する子どもは、病気にな
りやすい、と。つまりおしゃぶりは、その鼻呼吸を子どもにさせるには、効果的であるということ
らしい。とたん、また、おしゃぶりが、復活した……!

 こういう論争を耳にすると、(私は乳児については、まったくの門外漢ということもあるが)、
「?」と思ってしまう。「どうしてもっと基本的なことを論じないのか」と。

 仮に百歩譲って、口呼吸より鼻呼吸が健康によいということにしよう。しかしそれでも、この問
題は、無数にある問題のひとつにすぎない。「無数」だ。こうした情報というのは、夜のバラエテ
ィ番組に出てくるクイズのようなもの。アフリカの一民族が使うような料理用の道具を持ち出し、
「これは何でしょうか?」と。自称、知識人やタレントたちが、さもしたり顔で、それを討論した
り、ときには、ギャーギャーと騒いだり……。しかしそれがわかったところで、どうということはな
いし、わからないからといって、これまたどうということはない。少なくとも、テレビというマスメデ
ィアを通して、全国の人たちに知らせなければならないような問題ではない。

 たしかに口呼吸と鼻呼吸はちがうが、子どもが口呼吸したらしたで、それはそのとき考えれ
ばよい。赤ん坊のときから、神経を使わねばならないような問題ではない。どうして親たちは、
こういう重箱の底をほじくりかえすような、ささいな問題で、そのつど振り回されるのか? 私に
はむしろ、そちらのほうを問題としたい。

 では、どう考えるべきか。 

この口呼吸と鼻呼吸の問題にしても、子育てを自然体でしていれば、何も問題はないはず。人
類は、そうして何十万年も生き延びてきた。つまりこれからも自然体で子育てをすれば、何十
万年も生きられる。そうした視点に立ちかえれば、一挙に、無数の問題を解決することができ
る。口呼吸と鼻呼吸の問題も、それに含まれる。

「口」はものを食べるため。「鼻」は呼吸をするため。そんなことは、自然の中では、常識ではな
いか。こうした「自然体」というか、「自然にかえれ」ということを、なぜ、もっとみんなが声を大き
くして言わないのか。言いかえると、もしあなたが子育てをしていて、何かのことで迷ったり、わ
からなくなったら、自然にかえればよい。それで結論は出る。すべてが解決する。私はこうした
情報が出るたびに、それに振り回されている親をみると、「はたして情報とは何か」と、そこまで
考えてしまう。
(02−10―25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


考える力

 考える力というのは、無限にあるわけではない。それはちょうど体力に似ている。使えば使う
ほど、疲れる。一日に運動できる量(時間)が決まっているように、一日に考えられる量(時間)
も、決まっている。その上、その量は、年齢とともに、減少する。とくに体の調子が悪かったりす
ると、とたんに減少する。考えるのも、おっくうになる。

 が、それだけはでない。考えるとき、大切なのは、いかに鋭く、いかに深いかということ。疲れ
てくると、その力が弱くなる。ものを書いても、どこか、いいかげんになる。浅くなる。私はこれを
「うわすべり」と呼んでいる。うわすべりした文章は、つまらない。あとから読みなおしても、どう
もおもしろくない。

 また、考えるというのは、習慣のようなもの。その習慣のない人は、考えることすらしない。ま
たその習慣があっても、いつも考えていないと、その技術が低下する。これは運動に似てい
る。しばらく考えないでいると、考えるコツすら忘れてしまう。

 そこで年をとると、その考える力を、いかに大切に使うかが、重要になる。それは限られた予
算のようなもの。ムダには使えない。ムダに使ってはいけない。私のばあい、考える前に、それ
が考える価値があることかどうかを、まず決める。価値があることについては、考える。価値の
ないと判断したものについては、考えない。

 よく「考えることは苦痛ではありませんか」と言う人がいる。しかし私は考えることが楽しい。反
対に、頭の中がモヤモヤとしてくると、それを吐き出したくなる。そう、すべてを吐き出したとき
の、あの爽快感(そうかいかん)は、何ものにも、かえがたい。だから考える。

 ただこのところ、自分でも、その考える力が衰えてきたように思う。一番、気になるのは、集
中力がなくなってきたこと。一、二時間、文章を書いただけで、すぐ疲れてしまう。若いころは、
一晩で何一〇枚も原稿を書くことができた。今は、とても無理。ときどきワイフに、「ぼくは最
近、ボケてきてないか?」と聞く。ワイフは、「別に……」というが、もしワイフも同じようにボケて
いたら、それはわからない。

 みなさんは、今の私の文章を読んで、どう感じるだろうか。鋭さが消えたと思うだろうか。深み
がなくなったと思うだろうか。一年前の文章と比較して、どうだろうか。つまらなくなったと思うだ
ろうか。もしこれからも、このマガジンを読んでくださるようなら、そういうことも注意して読んでく
ださると、うれしい。
(02−10−25)

(付記)
 私の近所に、夫も妻も、同時に、同じようにボケてしまった人がいる。その会話をワイフが聞
いてきた。実にユニークな会話だったそうだ。夫は、勝手に山の話をしていた。妻は勝手に海
の話をしていた。しかし不思議なことに、たがいに結構、会話になっていたそうだ。「私たち夫
婦の近未来像よ」と、ワイフは笑っていた。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子どもの自殺

ある母親が、こんな相談をしてきた。「うちの子(小五女児)は、何かあると、すぐ、死ぬ、死ぬと
言います。こういうとき、どうしたらいいでしょうか」と。しかし「死ぬ、死ぬ」と言う子どもにかぎっ
て死なない。七歳以下の子どもには、まだ「死」は理解できない。また日本では一二歳以下の
自殺は、きわめてマレで、あなたの身辺では、まず、ないとみる。しかし一二歳をすぎたら、要
注意。

 私が経験した事例の中で強く印象が残っているケースは、高校三年生(当時)の女子だっ
た。私の家の近所に住む高校生で、学校へは通わず、中学二年のときから、高校三年になる
まで、私のところで勉強していた。その女子が急に変わったのは、中学三年になってからだっ
た。

 ある日、私にこんなことを言った。「先生、私、明日、学校へ行く途中に、交通事故を起こす」
と。そこで私が、「どうして明日のことがわかるのか」と聞くと、「私には自分の未来が見える」
と。
 
 その翌日、本当にその女子は、交通事故を起こした。話を聞くと、道路のスミを自転車で走っ
ていて、体ごとブロック塀にぶつけたらしい。顔、腕、足とけがをしていたが、とくに顔がひどか
った。それ以後、奇異な言動が目立つようになった。たとえばこんなことも言った。「私は、今、
Aさん(友人)とBさん(友人)が、学校の校門のところに立って話をしているのが、聞こえる」と。
あるいは、「夜、寝ていると、星のひとつから、電波が送られてくる。ときどきそれが、人間の声
のように聞こえるときがある」と言ったこともある。

 一応、高校には入ったが、断続的に休むようになり、しばらくすると、ほとんど行かなくなって
しまった。母親から「家庭教師の回数をふやしてほしい」と頼まれ、それからは、週一回から、
週二、三回とふやした。医学的には、それなりの診断名がつき、「要治療」ということになるの
だが、私の前では、とくに変わったところはなかった。まあ、ふつうの女子高校生という感じだっ
た。たた、勉強といっても、大半は雑談ばかりだった。気分が変わりやすく、それに合わせるの
に苦労したことはある。

 そしてその女子が高校三年生になったとき、何が原因だったのかよく覚えていないが、私と
けんかになっていまい、そのまま私のところへこなくなってしまった。高校生のばあい、勉強す
るかどうかは、本人が決める。それでそのままにしておいたら、数か月後のこと。その女子は
手首を自ら切って自殺をはかったという。幸い、発見が早かったので、命には別状がなかった
が、しかしその事件のあとすぐ、家族ごとどこかへ引っ越してしまった。その女の子は、父親の
実家に預けられたということだったが、あるいは病院へ入院したのかもしれない。
 
 子どもの自殺には、一定の前兆があることが知られている。それをまとめると、つぎのように
なる。こうした前兆がみられたら、要注意。

● いつも何かに脅迫されている様子。強迫観念が強く、おぼえたり、不安になる。
●「死」について語ることが多く、自分なりの独自の考え方や概念をもっている。またそれにつ
いて書いたりする。
●近辺に自殺した人がいて、それを例として見ている。
●自分の自殺願望を、消滅させたり、発散する場所をもっていない。自分だけの世界に閉じこ
もりやすく、被害妄想をもちやすい。
●精神的な欠陥、情緒的な未熟性がある。
●薬物、アルコール、シンナー遊びなどの前歴がある。
●家族から孤立し、家族とも会話がない。あるいは家族との交流を自ら拒否する。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

善と悪

●神の右手と左手
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言われ
ている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえな
いということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う
 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし
悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。
もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、
至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道
徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだ
れもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の
中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する
 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」と
か、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルー
ルがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場で
は、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信
号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、
そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題で
はない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にすると
いう意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。
かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だか
ら、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を
得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思
う。

●子どもの世界
 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力
 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな
い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分
の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ
れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも
ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、
しつけも、それに含まれる。もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り
早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということ
になる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」とい
う問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人
間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは
考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、
「神の力」ということになる。
(02−10−25)

++++++++++++++++++++

●補足
 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。
小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本
当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目
の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われると
か、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ
に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ
「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自
分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
ここに転載する。

++++++++++++++++++++

四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に
対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親
は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも
しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話
が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

●子どもの世界だけの問題ではない
 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘
もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた
ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはし
ないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、
その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆ
がめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)
 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

本能

 性欲、食欲とならんで、子育て本能がある。たまたま昨夜、高校生たちと話していたら、少し
顔を赤らめながら、T君(高二)がこんなことを言った。

 「先生、授業中、女の人の裸ばかり、頭の中に浮かんできて、勉強に集中できないときがあ
るよオ」と。

 それを聞いて、ほかの数人も、笑いながら、「ぼくなんか、もっとひどい。トイレで小便できなく
なるときがある」とか、「図書館で女性の解剖図を見ただけで、歩けなくなってしまった」とか言
いだした。
 こういうのを性欲という。これがあるから、人間は、生殖活動をする。子孫をつぎの代に残す
ことができる。

 つぎの食欲は別にして、子育て本能。母親というのは、自分の赤ん坊が泣いたりすると、い
たたまれない気持ちになる。ある母親はこう言った。「自分の子どもの寝顔を見ていたら、かわ
いくて、そのまま食べたくなってしまったことがある」と。

 しかし誤解してはいけないのは、親だからみな、子育て本能があるかというと、そうではない
ということ。たとえば今、「子どもを愛することができない」「どうしても自分の子どもを好きにな
れない」と、人知れず悩んでいる母親は、七〜一〇%はいる※。また母性や父性は、本能とい
うより、学習によって身につく。だから不幸にして不幸な家庭に育った人は、どうしても子育て
がぎこちなくなる。それだけ「親像」のない人とみる。

 ところで子どもに、母性にせよ、父性にせよ、それが育っているかどうかを知りたければ、温
もりのある素材でできた、ぬいぐるみを与えてみれば、わかる。母性や父性が育っている子ど
もは、抱き方もじょうずで、さもいとおしいといった様子で、そのぬいぐるみを抱く。そうでない子
どもは、関心を示さないばかりか、中には放り投げて遊んだり、キックしたりする子どももいる。

 が、大半の人は、この子育て本能をもっている。そして子どもを育てる。しかし本能であるだ
けに、やっかいな面もある。そのひとつ。ときとして歯止めがきかなくなり、それにおぼれてしま
うことがある。日本ではこれを「溺愛」というが、英語では、「dotage」という。「dotage」には、「老
いぼれ、もうろく」という意味もある。一般には、「foolish affection」という。ズバリ「愚かな愛」と
いう意味である。

 要するに、本能に、おぼれてよいものは、何もない。だからあなたがもし、「うちの子はかわい
い」と思ったら、(思うことは悪いことではないが……)、それが愛によるものなのか、本能によ
るものなのかを自問してみるとよい。(自問しても、あまり意味はないが……。)そしてそれが本
能によるものだと感じたら、心のどこかでブレーキをかけるようにしてみるとよい。それはあな
たのためというより、あなたの子どものためである。
(02−10−26)

(追記)男の性欲本能について。本能がアクティブのときは、男は、自分の意思でそうしている
と思い込む。自分が本能に操(あやつ)られているとは、思わない。しかし結局は、操られてい
る。男と女のドラマはこうして生まれるが、どうしてそうなのか。つまりどうして、操られていると、
わからないのか。その理由のひとつは、本能は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だからであ
る。知性や、理性が届く範囲の外にある。だから自分では操られているとは、思わない。

※……東京都精神医学総合研究所の調査によれば、自分の子どもを気が合わないと感じて
いる母親は、七%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待していること
がわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)という。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

トラウマ(精神的外傷)

 心にフタ(lid)をしてはいけない。フタをすれば、その心は行き場をなくし、やがて心そのものを
ゆがめる。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856―1939、オーストリアの心理学者)は、
それをネズミの穴にたとえて言った。「カワネズミの入り口をふさげば、そのカワネズミは、また
別の穴から出てくる。(抑圧された)潜在意識は、別の形となって、その人の心を裏から操(あ
やつ)る」と。

 そこでフロイトは、そのフタを取り除くために、まず患者自身に、思いつくままを話させた。こ
れがよく知られている、「自由連想法」(free association)という手法である。これは患者をリラッ
クスした状態におき、患者に自由にしゃべらせることにより、その話の内容から、患者の心理
状態をさぐるという方法である。フロイトは、ささいなことも、不愉快なことも、さらには恥ずかし
いようなことも、すべてしゃべらせた。そして患者の心をふさいでいる「フタ」が何であるかを知
ろうとした。たとえばノイローゼ患者がいる。このタイプの患者は、自分の心をふさぐ「不愉快な
こと」(unpleasant thing)を、取り去ろうともがくことによって、ノイローゼ状態になることが知られ
ている。問題は不愉快なことがあることではなく、どうしてそれを不愉快に思うか、である。その
思いを封じ込めてしまっているのが、ここでいう「フタ」である。

人間の心は一見複雑のようで、単純。単純のようで、複雑。私は幼児を教えるようになって、い
つしか、幼児には、大声で話させる訓練をするようになった。レッスンが始まると、最初の五〜
一〇分は、とにかく大声を出させるようにしている。つまりこうすることで、まず子どもの心を解
放させる。フロイトの言葉を借りるなら、「フタを取る」ということになる。この方法を用いると、簡
単な情緒障害なら、その場でなおってしまう。「治る」という言葉は使えないので、あえて、「なお
る」とするが、それに近い状態になる。そして子どもの心は一度、解放させてあげると、あとは
自らの力で、前に伸びていく。

 さて、その「自由連想法」だが、実のところ、これを自分でするのは、むずかしい。何人かの
高校生に試してもらったが、なれないうちは、「何を思うの?」「どうすればいいの?」という質問
が出てくる。私も自分でしてみたが、「思い」というのは、なかなか形になって出てこない。そこで
私なりに方法を変えてみた。何かマイナスの思い出がトラウマ(trauma、精神的外傷)の原因
になることが多いので、それについて、簡単な作文を書かせてみた。読者の方も、一度、自分
を試してみるとよい。これはいわば、私が考えた「作文連想法」ということになる。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。
(質問2) 今までで一番。悲しかったことを、三つ書きなさい。
(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。
(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。
(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。
(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。
(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。
(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。
(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。

 この質問、正直に答えてみてほしい。そして、答の中に、ある共通点を見出したら、今度はそ
の理由を考えてみる。「なぜ、そうなのか」「なぜ、そうなったのか」と。そのときその原因を、で
きるだけ自分の過去に求めてみるとよい。それがあなたのトラウマということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、ほとんど、どの人も、トラウマの一つや二つはもっ
ているということ。あるいはもっと、もっている。トラウマのない人はいない。だからトラウマがあ
ることが問題ではない。問題は、そういうトラウマがあることに気づかず、それに振りまわされ
ること。そして同じパターンで、同じ失敗を繰り返すこと。言いかえると、もしあなたが子育てを
していて、いつも同じパターンで、同じような失敗を繰りかえすというのであれば、このトラウマ
を疑ってみる。虐待にしても、暴力にしても、あるいは育児拒否にしても、だ。さらに夫婦不仲、
夫婦げんか、近隣との騒動などなど。そしてそれを知るための一つの方法が、ここでいう、「作
文連想法」である。

 そしてこのトラウマというのは、おもしろい性質をもっている。つまりそれが何であるかわから
ない間は、いつまでもあなたを裏から操る。が、ひとたびわかってしまうと、消えることはないに
しても、心のスミに、なりを潜めてしまう。そしてそのあと多少時間はかかるが、やがて問題は
解決する。そういう意味で、自分のトラウマが何であるかを知るのは、とても大切なことである。

ちなみに、私もこの質問に答えてみた。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。
         父が酒を飲んで暴れたこと。
XXXXX(Secret)。
若いとき恋人と別れたこと。

(質問2) 今までで一番。悲しかったことを、三つ書きなさい。
         信じていたXXに裏切られ、だまされたこと。
         親友を、私の不用意な言葉で失ったこと。
         XXXXXX(Secret)

(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
         ウソ
         世間体
         酒
 
(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。
         XXXタイプの人間。
         だらしなく、XXXXの人間、
         ギャーギャーと騒ぐ軽薄な人間、。

(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。
         XXXへ、行くこと。
         人にへつらうこと。
         飛行機に乗ること。

(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。
         XXの問題。
         環境問題。
         将来への不安。

(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。
         XXがあること。
         自分をごまかすこと。
         XXXXX(Secret)。
        
(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。
         父が酒を飲んで暴れたときの夜。
飛行機事故。
         アメリカへ、02年10月に行ったときのこと。
         
(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。
         孤独死。
         絶望。
         ムダ死。
 
(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。
         飛行機に乗ること。
         XXXXX(Secret)
         無一文になること。

 自分の回答を読んでも、何となくどこにトラウマがあるか、わかるような気がする。そしてそれ
が今まで、私の心を裏から操ってきた。それが何となくわかるような気がする。正確なものでは
ないかもしれないが、自己分析のためには、役立つかもしれない。
(02−10−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


日本の常識、世界の非常識

●国あっての国民?
 国あっての国民なのか。国民あっての国なのか。この議論とよく似ているのが、これ。学校あ
っての生徒なのか。生徒あっての学校なのか。

 日本では、そして北朝鮮でも、国あっての国民と考える。だから教育も、学校あっての生徒と
考える。国民も生徒も、「国の財産」という考え方である。だから国民が、国の方針にたてつくな
どということは、ありえない。その色彩が色濃く残っているのが、実は教育の世界である。

 あなたは一度だって、親として、子どもが通う学校のカリキュラムについて、学校に要望を出
したことがあるだろうか。全国の学校で、親が要望したカリキュラムが、一度だって、通ったこと
があるだろうか。答は、ノー。日本中の親たちは、そして子どもたちは、ただひたすら上(文部
科学省)から言われるまま、それに従順に従っている。しかし、これこそ、まさに世界の非常
識。

 アメリカでは、公立学校でも、各学校が独自で、親と相談して、カリキュラムを編成している。
学年の編成すら自由で、たとえば「うちの小学校は四歳児からの、プレスクール学級もありま
す」「うちの小学校は、小学二年(grade 2)までです」というような学校にすることもできる。PTA
という組織は、そのためにある。もちろんPTAという組織には、教師の任命権、罷免(ひめん)
権も、ある。そういうのが当たり前の世界から見れば、日本の教育は、何と遅れていることか。
大半の日本人は、「私たちは北朝鮮とは違う」と思っているが、世界的な視野から見れば、日
本も北朝鮮も同じ。

●不登校児は悪?
 文部科学省は、「不登校児ゼロ運動」なるものを始めた。すでにいくつかの都道府県が、そ
れに呼応した動きを見せている。しかし、その大前提として、「どうして不登校児が悪なのか」。

 これもアメリカの例だが、いわゆる学校へ行かないで、自宅で学習する子どもが、〇一年末
には、二〇〇万人(九七年には、一〇〇万人)を超えたと推定されている。日本流に言えば、
「不登校児」ということになるが、日本でいう不登校児ではない。「真に自由な教育は家庭でこ
そできる」という理念が、そこにある。「自由に学ぶ」(LIF)という組織が出しているパンフレット
には、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、つぎのようにある(K・M・バンデ
ィ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、つぎのように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率
はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

●現状に合わせるアメリカ
 ここからがアメリカのおもしろいところで、こうした「動き」を悪と決めてかかるのではなく、こう
した実情にあわせて、それぞれの州政府は、希望する親や子どもには、カウンセラーや教師ま
で派遣している。ウソではない。私の義理の娘の母親(アメリカ人教師)は、その仕事をしてい
る。さらに各地のホームスクーラーが集まり、会を開いたり、合同で旅行会を開いたり、勉強会
を開いている。私とワイフが前回(〇一年一〇月)にアメリカへ行ったときも、たまたま児童館
で、そういうグループと行きあった。その楽しそうな姿を見たとき、彼らの教育観は、日本人の
それとまったく異質のものであることを、思い知らされた。

 何でも一つの型にあてはめようとする、日本の教育。それが「不登校児ゼロ運動」。一方、現
状を受け入れ、それに合った形の教育を用意しようとする、アメリカの教育。もちろんアメリカ
の教育にも、いろいろな問題点はある。しかし基本となる発想、そのものが違う。つぎの原稿
は、こうした違いをテーマにして書いた原稿(中日新聞で発表済み)である。

++++++++++++++++++++

●学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてく
れ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「その
ほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親
から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級
(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。その小学校では、その
年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見ながら、その人が「ど
うして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。「もうすぐ聴力に障害の
ある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

 私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカで
はどうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」友「どうして、いやがらなければならない
のか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなに遅れているの
か?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。

+++++++++++++++++++++++

●教育の世界は、戦前のまま
 こう書くからといって、私は何も、学校教育を否定しているのではない。ここにも書いたよう
に、アメリカの教育にも、いろいろな問題点がある。一方、日本の教育にも、すぐれた面があ
る。それは認める。しかし私がここで問題としたいのは、「自由への発想」である。「日本は自由
の国だ」とは言うが、本当に自由な国なのか。自由な国と思い込まされているだけではないの
か。あるいは本物の自由を、本当に知っているのか。

今、ほとんどの日本人は、あの北朝鮮を見ながら、「私たち日本人は、違う」と思っている。しか
しあの北朝鮮ほど、戦前の日本を思い起こさせる国はない。戦前の日本、そのままと言っても
よい。言いかえると、戦後私たち日本人は、一度だって、あの戦前の日本を、歴史の中で清算
したことがあるのかということになる。それがない以上、日本人の生活のあらゆる場面に、「戦
前」が残っていても、おかしくない。少なくとも、欧米の人から見れば、日本も北朝鮮も区別でき
ない。

 民あっての国。それが民主主義の考え方の根幹ではないのか。同じように、教育の世界も、
生徒あっての学校。その学校が旧態依然のままで、どうしてこの国に、民主主義が根づくとい
うのだろうか。
(02−10−26)
      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-5-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 501人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  80人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−5号(134)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
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Hiroshi Hayashi, Japan
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今日のテーマ、「私とは何か」(Whai is Me?)

【1】あなたの子育てだいじょうぶ?(Is your parenting OK?)
【2】子育て随筆(How to cope with Kids at Home)
【3】「私」とは何か(Whai is ME?)
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

あなたには本当のことがわかっていない

子どもの心を大切に(失敗危険度★★★★★)

●無理は禁物
 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖
症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して
無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人
がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなたには本当のところがわかっていない」とか、「うちの子ども
のことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

●こわい悪循環
 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそ
んな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入
れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

●ウリのつるに、ナスビはならぬ
 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるに、ナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


うちの子は問題をよく読みません

音読と黙読は違う(失敗危険度★★)

●子どもの読解力
 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。

●音読と黙読
 話は少しそれるが、音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度自
分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳(ウェルニッケの言語
中枢)がそれをつかさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して
文の内容を理解する。つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限
らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで
子どもが文字をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法
は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。国立国語研究所の調査によっても、黙読にす
ると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちることがわかっている。

●読解力は、学習の基本
 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別
の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」
ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、も
っとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがるということはよくある。決して軽くみてはいけない。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

■濱人【連載:子育て、ワンポイントアドバイス by はやし浩司】

●No.38 「勉強部屋は開放感がポイント」

  以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結
 果、ドアから一番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。子
 どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席から
 は、入り口と図書室全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、
 つぎのようなことに注意するとよい。
 
 (1)机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ド
    アが見えればなおよい。ドアが背中側にあると、落ち着かない。
 (2)棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。
 (3)光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につ
    けて机を置く方法もあるが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようで
    あれば、窓から机をはずす。
 (4)机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大き
    めのゴミ箱、物入れなどを用意する。

  多くの親は机をカベにくっつけて置くが、この方法は避ける。長く使ってい
 ると圧迫感が生じ、それが子どもを勉強嫌いにすることもある。

  また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじか
 けがあるとよい。フワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長
 く使っているとかえって疲れる。また座ると前に傾斜するイスがあるが、た
 しかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそのイスでは、休むこと
 ができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れてしま
 う。一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強
 するためではなく、休むためにある。それを忘れてはならない。

  子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だ
 けの部屋を求めるようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らっ
 て用意するとよい。それ以前については、ケースバイケースで考える。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ 

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子育て随筆byはやし浩司(234)

本能(2)(前回につづいて、本能について、考えてみました)

 本能に、自らブレーキをかけることは可能なのか。……と、ときどき、そんなことを考える。こ
んな事件が、ずいぶんと前だが、私の近辺であった。

 一人の中学生(中二男子)がいた。学校では、そして家の中でも、借りてきたネコの子のよう
におとなしい子どもだった。その子どもが、近くの公園で、幼女に性的ないたずらを繰り返して
いたというのだ。

 こうした事件は珍しくないが、しかしその男子の話を聞いて驚いたのは、その手口というか、
方法だった。実にこまめに、しかも周到に準備して、幼女に近づいていたということ。それこそ
一日の大半を、その行為のために準備していた。幼女の好きそうなものを買ったり、作ったり
するなど。

 つぎにその男子で驚いたのは、だれが聞いても、「まさか!」と言うような男子だったというこ
と。おとなしいだけではなく、ひ弱で、どこかナヨナヨした感じの子どもだった。近所での評判
は、「静かで、穏やかな感じの子」ということだった。

 私はこの事件を知ってから、本能(本能にもいろいろあるが……)は、その人の人格や知性
とは切り離して考えるべきだと思うようになった。外見からは判断できないし、人格や知性でコ
ントロールできる範囲の、その外の世界にある、と。

 実のところ、これは私の意見ということになるが、この年齢になって、つまり満五五歳になっ
て、やっと本能をコントロールすることができるようになった。しかしその私が、三〇代や四〇
代のころ、それができたかどうかと聞かれれば、答はノーである。ある時期は、「コントロール
するほうが、おかしい」と居なおったことがある。いわんや二〇代のころには、不可能だった。
私がよく覚えているのは、大学二年生か三年生のころだったが、街を歩いていて、前を歩く若
い女性の足を見ただけで発情してしまい、歩けなくなってしまったことがある。

 当時の私は、それを「異常なことだ」と思い込み、かなり深刻に悩んだ覚えがある。しかし今
から思えば、異常でも何でもない。それは若い男の、むしろ自然な現象だったのだ。

 で、ここから先は性教育ということになるが、本能とは、そういうものであるという前提で、子ど
もの性の問題は考えたらよい。この問題だけは、人格や知性の外にある。また人格や知性だ
けでは、どうにもならない。少し飛躍した例だが、これだけエイズが騒がれていても、エイズ(HI
V)の陽性者は増える一方である。あるアメリカの大学(A州・H州立大学)のフットボールチー
ムの学生六〇人を調べてみたら、何と、そのうちの一五人が、陽性だったという報告もある。
わかっていても、そして警戒していても、そうなのだ。

 本能については、また別の機会に考えてみる。今のところ私の結論は、「若い人が、本能に
自らブレーキをかけることは、不可能」ということになる。またそういう前提で、この問題は考え
る必要がある。もっとはっきり言えば、道徳や倫理で、子どもの性を抑制しようとしても、ムダと
いうこと。もっとほかの手段を考えるべきではないか。
(02−10−27)

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子育て随筆byはやし浩司(235)

本は抱いて読む

 子どもに何かを教えるときは、「どこまで覚えたか」「どこまでできるようになったか」ではなく、
「どう楽しんだか」を大切にする。そうした「思い」が、子どもを前向きに伸ばす。

 たとえば子どもに本を読んであげるときも、まず子どもをひざに抱き、親の温かい息を吹きか
けながら読んであげる。その時期は、早ければ早いほどよい。期間は、長ければ長いほどよ
い。そういう経験をとおして、子どもは、「文字は温かい」「文字は楽しい」という思いを、自分の
中につくることができる。そしてそれが、子どもを前向きにひっぱっていく、原動力になる。

 今、年中児(満五歳児)でも、「名前を書いてみようね」と声をかけただけで、体をこわばらせ
る子どもが、二〇%はいる。中には、鉛筆をもたせただけで、涙ぐんでしまう子どもがいる。さ
らにやっと書かせても、一筆ごとに、「これでいいの?」「これでいいの?」と聞いてくる子どもが
いる。文字に対して何らかの恐怖心をもっている子どもとみてよい。しかし幼児期に一度、こう
いう症状を示すようになると、それをなおすのは、容易ではない。(逃げる)→(ますます苦手に
なる)の悪循環の中で、その子どもは、ますます文字嫌いになる。

 私の印象に残っている子ども(女の双子の姉妹)に、こんな子どもがいた。私がクヨヨンと紙
を渡して、「好きな絵を描いてごらん」と促したときのこと。言えば言うほど、体をこわばらせてし
まうのだ。絵に対して、特別な思いがあることがわかった。そこで後日、その子どもの母親と話
す機会があったので、理由を聞くと、こう教えてくれた。

 その子どもの家は、市内でも昔からある料亭で、祖母が、「家が汚れるから」という理由で、
いっさい、クレヨンを使わせないというのだ。一度は、そのクレヨンで壁をよごし、祖母にはげし
く叱られたこともあるという。

 子どもに何かを教えたあとは、子どもがどのような反応を示すか、静かに観察してみるとよ
い。「もっとしたい!」とか、「もう終わるの!」とか、子どもが言えば、そのレッスンは、大成功
だったということになる。
(02−10−27)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(238)

Q:子どものことで、つぎつぎとわずらわしいトラブルが起きてきます。たいていは、親同士のつ
きあいに関することです。「悪口を言った、言わない」「礼儀を欠いた、欠かない」など。ときど
き、「もういいかげんにしてほしい」と思うことがあります。こういうとき、どうしたらいいでしょう
か。

A:何かトラブルが起きたら、そのトラブルのレベルを考えます。これは私流の、トラブルの解決
のし方ですが、一つの方法として、参考になると思います。つまり私は、そういうささいなトラブ
ルについては、無視するという方法を使います。逃げるのではなく、虫するのです。しかしただ
「無視しろ」と言われても、簡単にはできません。そこで私のばあいは、よりレベルの高い問題
にぶつかっていくことで、結果として、そのトラブルを無視するという形をとります。それについ
て書いたのが、つぎの「レベル論」です。

+++++++++++++++++

●レベル論

 身のまわりで起こる問題には、レベルがある。たとえば……。

レベル1…… 少し前、自転車でコンビニの駐車場を横切ろうとしたら、一台の車が、けたたま
しい急ブレーキをかけて、目の前で止まった。私はあやうく、はねられるところだった。見ると、
若い男女で、男は私に、「バ〜カ」と言った。声は聞こえなかったが、口の動きでそれがわかっ
た。女のほうは、視線をはずしたまま、ニヤニヤ笑っていた。

レベル2…… 私の家の近くは、かっこうの犬の散歩道。そのため、犬の糞だらけ。先日は、
何と、私の家の玄関前にそれがあった。そこで私は張り紙を木にぶらさげた。「どうか玄関の
前で、犬のフンをさせないでほしい」と。しかし数日後、その張り紙は破って捨てられてしまっ
た。おまけに、その下には、犬の糞がおいてあった。腹いせのためにしたのだろう。

レベル3…… 隣の空き地が、水道工事の「土場(どば)」になった。「土場って何ですか?」と
聞いたら、「資材置き場だ」と。それで安心していたら、それがとんでもないウソ。工事が始まる
と、終日、ユンボとダンプが、ゴーゴーとうなり音をあげるようになった。その騒音がいつ始まる
とも、またいつ終わるともなく、断続的につづく。短い期間ならよいが、もうそれが六月から、丸
四か月、つづいている。

レベル4…… 国政選挙になるたびに、どこかの宗教団体が、いっせいに選挙活動に動き出
す。思うように外出できない老人や、老人ホームにいる人、あるいはひとり暮らしの老人を、自
分の車に乗せ、投票所まで一日中、ピストン移送している。車の前には、申し訳程度に、「小さ
な親切運動」と書いたカードがはってある。「なるほど、小さな親切運動か」と思いたいが、どう
もスッキリしない。そういうタイプの老人(失礼!)に、そういうサービスをするのは、買収行為に
なるのでは? いくら無料でも、車の償却費、ガソリン代、それに「うべかりし人件費」を加えれ
ば、立派な買収行為になる。

レベル5…… 北朝鮮が、何人もの日本人を拉致(らち)した。「拉致」というと、わかりにくい
が、中身は、国家的誘拐事件。しかもその半数近くが、すでに死亡しているという。実際には、
拉致された日本人は、数十人とも、あるいはそれ以上とも言われている。在日朝鮮人の拉致
は、もっと多いとも(週刊S誌)。金日正という独裁者が、ありもしない外国の脅威をでっちあ
げ、自国の国民をだましつづけている。日本人の拉致事件は、こういう流れの中で起きた。

 以上、五つのレベルの話を書いた。私にとっては、どれも、少なからず、頭にくる話だ。が、こ
こで、重大な事実に気がつく。それは人というのは、相手にしている、その相手を見れば、自分
のレベルがわかるということ。小さな人間は小さな人間を相手にする。大きな人間は、大きな
人間を相手にする。(だからといって、金正日が大きな人物と言っているのではない。彼は見る
からに小さな人間だ。)

 そこでこの(レベル1・コンビニの車)から(レベル5・拉致問題)までの問題を自分にあてはめ
てみた。本当はどれも、頭にくるが、しかし(レベル1・コンビニの車)と、(レベル2・犬の糞)の
人間は、相手にしない。無視する。問題は(レベル3・騒音問題)だが、これについては、実は
先日、地主に手紙を書いた。これは相手にするとか、しないとかいう問題ではなく、静かな環境
を求めるのは、正当な権利だ。

 さて(レベル4・選挙問題)と、(レベル5・拉致問題)はどうか。時間があれば、(レベル4)も問
題にしたい。本当に今、問題すべきは、(レベル5)の問題だ。しかし私のような地方に住む人
間が、(レベル5)を問題にしてどうなる。さらにここには書かなかったが、(レベル6)として、環
境問題がある。この問題も、私のような地方に住む人間が論じたところで、ほとんど意味がな
い。

 しかしレベルの高い問題を考えるということは、自分を大きくするという意味で、とても大切な
ことである。レベルが高ければ高いほど、低い問題が、相対的に小さく見えてくる。たとえばこ
こでいう(レベル5・拉致問題)を考えていると、(レベル1・コンビニの車)や、(レベル2・犬の
糞)の問題は、どうでもよくなる。

 そこで今、あなたはどうなのかと、少しだけ振り返ってみてほしい。あなたは今、どのレベル
の問題を考えているだろうか。もしレベルの高い問題なら、それでよし。しかしレベルの低い問
題なら、できるだけ視野を高くもって、大きな問題にぶつかっていくとよい。そうすれば結果とし
て、今ある問題を、自然消滅的に解決できる。

+++++++++++++++++++++++

(追記)相談者の件でも、「つぎつぎとわずらわしいトラブルが起きる」ということであれば、それ
はトラブルが起きることに問題があるのではなく、「わずらわしい」と思う、その相談者自身に問
題があるとみる。つまり視点が低い(失礼!)。レベルが低い(失礼!)。そういうときは、ここに
も書いたように、もっと大きな問題、大きな敵を考え、それにぶつかっていく。そうすれば、あな
た自身を大きくすることができると同時に、それまでのささいなトラブルを、「無視できる」という
形で、一挙に解決することができる。
(02−10−28)

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子育て随筆byはやし浩司(236)

本物を与える

 子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、本物をこころがける。実際にはなかな
かむずかしいことだが、努めてそうする。絵画でも音楽でも、はたまた食べるものでも……。

 今、この世の中、あまりにも、ニセモノが多すぎる。子どもたちは、そういうニセモノを見なが
ら、その上で、自分の人生を組み立ててしまう。小ずるく生きていくには、手っ取り早い方法だ
が、しかしその分、人生そのものをムダにする。

 先日も、高校生たちを対象に、一番理想的な父親像についての調査があった(某、新聞
社)。結果、タレントのX氏が選ばれていた。見るからに軽薄な、テレビのバラエティ番組の中で
は、ギャグばかり飛ばしている男である。「どこに知性があるの?」と、疑いたくなるような男で
ある。しかしこうした調査をみて、そのX氏が、若者に一番支持されていると考えるのは、まち
がい。こういうことだ。

 仮に、X氏を10人のうち、1人が支持し、9人が支持しなかったとする。しかしもしそのX氏
が、テレビか何かのマスコミを通して、全国、500万人の若者に知られているとするなら、50
万票を獲得することになる。

 一方、A氏がいる。かれは10人のうち、9人の人に支持されているとする。しかし彼はマスコ
ミにはほとんど顔を出さない。知名度が、1%とすると、A氏を知っている人は、若者の中でも、
5万人だけということになる。つまり5万人掛ける0・9で、支持者はそれでも、4・5万票にすぎ
ない。要するに、こうした調査は、知名度の問題であって、支持されているとか、されていないと
かいうこととは関係ない。はっきり言って、こういう調査そのものに意味がない。ないばかりか、
かえって誤解を招く。

 が、この日本。知名度ばかりが先行し、知名度があることイコール、支持されているイコー
ル、正しいという評価がくだされる。中身など、ほとんど関係ない。また中身など、見ない。もと
もと本物とニセモノを見分けることすらすらしない。だから愚にもつかないような、見るからにIQ
(知的品性)の低そうなタレントを、すばらしい人と思い込んでしまう。またそういうタレントを、理
想の人物と思い込んでしまう。若者たちの未来に与える影響を考えるなら、これほど悲劇的な
ことはない。

 今の子どもたちは、芸術家たちが苦しんで書くような大作よりも、薄暗いマンションのスミで、
コソコソと描いたようなアニメのほうがすばらしいという。何年もかけて技術をみがいて歌う歌
手の歌よりも、音がズレたような音楽のほうが、すばらしいという。母親が手をかけ、コツコツと
つくった料理よりも、ファーストフードの店で出される料理のほうが、おいしいという。

 ニセモノに染まれば染まるほど、当然のことながら、本物が見えなくなる。しかしそれは同時
に、ムダな回り道をすることになる。いつかその子どもがそれに気づけばよいが、でないと、回
り道をしたまま、人生を終えることになる。実際、そういう人は多い。いや、回り道をしたことす
ら気づかない。気づかないまま。人生を終える人も、同じくらい多い。
(02−10−28)

(追記)先ごろ、未成年の愛人と密会していたところをフォーカスされた、人間国宝の人物がい
た。妻が大臣ということもあったのだろう。ホテルのドアのところで、チンチンを見せて愛人と別
れる写真が掲載され、問題になった。しかしその後、その人物が、人間国宝の肩書きを返上し
たという話は聞いていない。さらにそういう人物を人間国宝に指定した人たちの責任問題は、
いっさい、追及されていない。ここに日本のマスコミ社会のおかしさが、集約されている。私た
ち自身が、たとえ大きな川の中でも、その川底に根を張るようなことをしないと、その川に流さ
れるままになり、結局は、自分を見失うことになる。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「私」とは何かについて、考えてみました。

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私とは何か(1)

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないかと。よく
「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。手に
生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるはずも
ない。ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の
顔」と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわからない。
多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それはサッカー選
手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いていると思っているかも
しれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、動かされているだけ? 
同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされているだけ
かもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャックとローズを思
い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。そして数日のうち
に、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心をと
らえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に翻弄(ほんろ
う)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意思というよりは、その
意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。いや、だいたい男と女の関
係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにしてもローズにしても、「私は私」と思っ
てそうしたかもしれないが、実はそうではなく、もっと別の力によって、そのように動かされただ
けということになる。このことは、子どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期は、
乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、子どもは
急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこういう子だ」
という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残るようになる。(それ以前
の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは野脳の中の、辺縁系にある海馬
という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆるふ
つうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さや闘争心
も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。子ども一人ひとり
は、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し高い視点から見ると、どの子ど
もも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動いている。もちろん方向性が違うというこ
とはある。ある子どもは、作文で、あるいは別の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲
さや闘争心を、昇華させていく。反対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらに
は心をゆがめる子どももいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうし
ているにすぎない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局はそのハ
バの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、本当に私は私
なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、もう
一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつかってしまったよ
うだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。これから先、ゆっくりと時
間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

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私とは何か(2)

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カップヌ
ードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じられて、
そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出して、近く
のコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」ではない。だ
れでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をする。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入れる。
となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないということになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連絡しあ
っているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。しかしどのスズ
メも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそういう意識はないだろう
が、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」というの
か、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には楽器
をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若さで華
やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を使って、
コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴きあうのと、それほ
ど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その裏に
あるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現したらいい
のかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その裏から基本的
に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言葉をつくらないとい
けないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分がある。「オ
ペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。いわばコンピュータの
ハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわかりや
すい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。そのスイッチを機能的
に動かすのが、OSということになる。人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナプスも、
このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と
表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その
範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、それは可
能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。のんび
りと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったような感じだ。
とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷やしてから考える。

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私とは何か(3)

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人の一人
のキロンも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけ
だ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623−62)も、『パンセ』の
中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」
ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、釈迦
が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行すること。ひた
すら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死ぬまで精進しろ。そ
れが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」ということになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの
目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかっ
てほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こう言うに
ちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたという政治家
が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出なくてはいけな
い。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金を
つき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることにな
る。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)
としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってし
まう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであ
れば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒントとなった
のが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。彼は、こう書いてい
る。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」
と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」というこ
とか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もちろんこれは私の方
法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。しかしあえて言
うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。書くことイコー
ル、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今のところ、そ
れが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。中日新聞で掲載
してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。書いたのは、ちょうど一
年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。

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「子どもの世界」最終回(中日新聞掲載記事より、転載)
●ご購読、ありがとうございました。
 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書くと言うの
は、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなものだ。読者の顔が見えない。反応もわか
らない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」と怒っている人
だっているに違いない。私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気
分になった。果てのない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリン
グな世界でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、
「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみた
い。そしてその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれ
ない。しかしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、
長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうございました。 

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          









件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-5-2

後半部です。すみません。

++++++++++++++++++++++++++
【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て段階論

●『まいた種のものしか、実はならない』
 『まいた種のものしか、実はならない』は、イギリスの格言。日本でも同じように、『蛙(かわ
ず)の子は、蛙』とか、『ウリのツルに、ナスビはならぬ』とかいう。

 こう書くと、『トビがタカを生む』とか、『青は藍(あい)より出でて、藍より青し』とも言うではない
かと言う人もいる。まあ、そういうことも、たまにはあるが、しかしふつうは、『まいた種のものし
か、実はならない』。

 子育ては、つぎの四つの時期に分けて考えるとよい。

●子育て段階論
(第一期)(夢と希望の時期)……乳幼児期から小学校入学前までの時期をいう。この時期は、
親は、子どもにかぎりない夢や希望を託す。それが悪いというのではない。この夢や希望があ
るから、子育てもまた楽しい。少しボールを蹴っただけで、「将来は、サッカー選手に」、少しお
もちゃのピアノの鍵盤をたたいただけ、「将来は、ショパンコンクールに」と親は考える。

 しかしこの時期、それが過剰期待になってはいけない。親の夢や期待が過剰になればなる
ほど、子どもにとっては、重荷になる。その重荷が、子どもの伸びる芽すら、押しつぶしてしま
う。

 またこの時期、子どもの得意分野と不得意分野が、少しずつ分かれ始める。そのときコツ
は、不得意分野をどうこうしようと考えるのではなく、得意分野をより伸ばすようにすること。そ
れを「一芸」というが、子どもの一芸は大切にする。中には、「勉強一本!」という子どももいる
が、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、坂をころげ落ちるかのように成績がさが
る。だから子どもの一芸は大切にする。子どもを側面からささえるのみならず、生来の仕事に
つながることも多い。さらに時期、才能の芽が見えてくるが、その才能は、つくるものではなく、
見つけるもの。無理につくろうとしても、たいてい失敗する。

 ときに戦場のようにもなり、イライラすることも多い。あたふたとするうちに、その日が終わっ
たというようにして、日々はすぎていく。

(第二期)(落胆と抵抗の時期)……子どもが小学校へ入ってから、受験勉強に入るまでの時
期をいう。この時期、親は、そのつど落胆を味わいながらも、それに抵抗する。子どものできが
悪かったりすると、「そんなハズはない」「うちの子はやればできるハズ」と、考える。たまによい
成績をとってきたりすると、「やっぱりそうだった」と、自分を納得させる。

 この時期は、親の方にも、心の余裕ができる時期でもある。乳幼児期の雑務から解放され、
子育ても一段落する。親が再び活動的になり、外に目を向けるようになる。またこの時期は、
子どもがちょうど親離れする時期に重なる。が、それに合わせて親も子離れをすればよいが、
それがむずかしい。親は自分から離れていく子どもを、一方で喜びながら、一方でさみしく思っ
たりする。親自身の心も、この時期、揺れ動く。

 日々はそのつど平凡に流れる。朝、起きると子どもがそこにいる。私もそこにいる。子どもは
子どもで、勝手なことをし、親は親で勝手なことをする。そんな感じで流れる。しかしこの時期、
子どもは、それまで親がもっていた夢や希望を、ちょうどキャベツの葉のように、一枚ずつはぎ
取りながら成長していく。

(第三期)(地獄と絶望の時期)……子どもが受験期を迎え、受験の結果が、出されるまでの時
期をいう。この時期、親は無意識のうちにも、自分の受験時代を再現する。選別されるという
恐怖、将来への不安。もっとも親がそれを感ずるのは、親の勝手。しかしそれを子どもにぶつ
けてはいけない。が、たいていの親は、その恐怖や不安を、子どもにぶつけてしまう。「もっと勉
強しなさい!」「こんな成績では、いい中学に入れないでしょ!」と。

 この時期以前は、日本のばあい、親子関係が外国のそれとくらべても、とくに悪いということ
はない。しかしこの時期を境に、日本では、親子関係は急速に悪化する。最初は小さなキレツ
だが、それがやがて断絶へと進む。今、中学生でも高校生でも、たがいに信頼しあい、慰めあ
い、助けあっている親子など、さがさなければならないほど、少ない。その原因がすべてこの受
験勉強にあるとは言えないが、受験勉強が原因でないとは、もっと言えない。

 が、それだけではすまない。この「受験」には、恐ろしいほどの魔力が潜んでいる。それまで
は美しく、どこか華やいでいた母親も、この時期に入ると、血相が変わってくる。子どものテスト
週間になっただけで、「お粥しかのどを通りません」と言った母親がいた。「進学塾の明かりを
見ただけで、カーッと頭に血がのぼりました」と言った母親もいた。

 そして受験が近づくと、親は、いよいよ狂乱の時期へと突入する。たかが子どもの受験と笑っ
てはいけない。子どもが入試に失敗したあと、自殺を図った母親だっている。夫婦関係がおか
しくなり、離婚騒動になるケースとなると、いくらでもある。子どもの受験という、あの独得の緊
張感が、それまで家族の中でくすぶりつづけていた火種に火をつけるからである。

 そしていよいよ子どもの受験……。親は狂乱し、子どもはその中で、悶絶する。程度の差も
あるが、この時期の親は、合理的な判断力すら失う(失礼!)。私は以前、『受験家族は、病人
家族』という格言を考えた。受験生がいる家族は、大きな病気をかかえた病人のいる家族と思
えばよい。みながみな、どこかピリピリしている。安易ななぐさめや、はげまし、さらには興味本
位の詮索(せんさく)はタブー。言い方をまちがえると、かえってその家族を苦しめることにな
る。その家族の気持ちになって、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 日々は、まさに緊張と一触即発の状態ですぎていく。暗くて重苦し毎日がつづく。

(第四期)(あきらめと悟りの時期)……まさに地獄のような受験期を抜け、一段落したあと、子
どもが巣立っていくまでの時期をいう。やがて親は、少しずつだが冷静さを取り戻す。そしてこ
う思うようになる。

 「いろいろやってはみたけれど、やっぱり、あんたはふつうの子だったのね。考えてみれば、
何のことはない。私だって、ふつうの人間ではないか」と。

 親はあきらめの境地に達するわけだが、あきらめることは悪いことではない。あきらめること
により、親は子どもの本当の姿を見ることができる。「まだ何とかなる」と思っている間は、それ
が見えない。子どもも心を開かない。「やっぱりあんたはふつうの子だったのね」と、親がそう思
うことで、子どもは、その重荷から解放される。そしてそのときを出発点として、親子という上下
意識のある関係から、「友」という対等の関係へと、その関係が、質的に変化していく。

●親子関係を大切に
 要するに、親はいつ、どこで、『まいた種のものしか、実はならない』という事実を悟るかという
こと。しかしあえていうなら、その時期は早ければ早いほどよい。親子といえども、その基本は
一対一の人間関係。子育てには、山もあれば谷もある。とくに子どもが受験期を迎えるころに
は、その山や谷は大きく深くなる。が、これだけは、ここに書ける。

この日本では、子どもの受験は避けては通れないものかもしれないが、しかしそれには親子の
人間関係まで破壊する価値はない。またたかが受験(失礼!)のことで、親子関係を破壊して
はいけない。それはちょうど、ドロの玉を包むのに、絹のハンカチを使うようなものだ。いや、子
どもの受験に狂奔する親にしても、結局は、大きな流れの中で、踊らされているに過ぎない。
「私は私」と思っているかもしれないが、「私」そのものが、流されているから、自分ではそれが
わからない。

●終わりに……
 「ふつうの家族」「ふつうの子育て」「ふつうの子ども」には、すばらしい価値がある。賢明な親
は、ふつうの価値をなくす前に気づく。そうでない親は、なくしてから気づく。仮に気づくとして
も、ほとんどの親は、その前に大きな回り道をする。が、ふつうの価値に気がついてしまえば、
何でもない。すべての問題は解決する。そして日々はまた平穏、無事に流れ始める。それはお
おらかでゆったりとした世界。まさに悟りの境地。だから、私はこの時期を、あえて、「悟りの時
期」とした。

 ここでいう「子育て段階論」は、あくまでも一般論。しかし大多数の親が、多かれ少なかれ通
る道でもある。ひょっとしたら、あなたとて例外ではない。そんなことも考えながら、子育て段階
論を頭の中に入れておくと、道に迷ったときの地図のように、あなたの子育てで役にたつ。
(02−10−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


元気のない社会

●もうすぐ借金が1000兆円!
 このところ郊外の町や村へドライブに行くと、やたらと公共工事ばかりが、目立つ。そのほと
んどは、やらなくてもよいような工事ばかり。ゆるやかなS字カーブの上に、わざわざ橋をか
け、直線にしてみたり、昼間でもほとんど人が通らないような山道を、舗装しなおしたり……。
いったい、何の工事(?)と、首をかしげるようなものが多い。まさにお金の使い道に困ったあ
げくのはての工事ということか?

 しかしこんな愚かな工事ばかりしていれば、国の財政が破綻(はたん)して当然。いや、もうと
っくの昔に破綻している。毎年、毎年、国の借金は雪だるま式にふえ、もうすぐ、1000兆円と
いう、とほうもない額になる。国の年間の税収が、50兆円弱だから、1000兆円という金額が
どういう額だか、わかるはず。わかりやすく言えば、年収500万円の人が、1億円の借金をか
かえたのと同じ。そんな借金、逆立ちしたところで、返せるわけがない。

 あのバブル経済が崩壊したとき、すぐに日本は、手を打つべきだった。私の知人にこんな人
がいる。

●ある知人の例
 その人は最初、500万円の借金をした。駐車場をなおし、その上に長男の勉強部屋をつくる
ためだった。大金だったが、すでにそのとき、その人は会社を退職することを考えていた。その
退職金が、1200万円。

 が、ここでひとつミスをした。友人がおこした会社に、900万円の投資してしまった。退職後
は、その会社で、役員として迎えてもらうつもりだった。しかしやがてすぐ、900万円ではすまな
くなった。何だかんだと、出資額は、数か月後には、計1200万円になった。退職金は、すべて
その投資に回った。とたん、500万円の借金が返せなくなった。悲劇は、ここから始まる。

 その人は500万円の借金を返すため、毎月約5万円の返済をすることになったが、給料どこ
ろか、その出資会社の経営がなかなか軌道に乗らなかった。そこでその人は、サラ金に手を
出した。あとは、その繰り返し。結果的に、ちょうど一年後には、借金は4000万円になり、さら
にそのあと、一年半後には、1億3000万円になった!

 どうしてそういう額になったかについては、そのウラには、この世界独特のカラクリがある。ま
るでゴミにハエがたかるように、無数のサラ金会社がその人にとりついた。まだ土地や家がも
のを言う時代だった。言い忘れたがその人は、父親から受けついだ、土地と家をもっていた。
土地は90坪。浜松市内でも中心街に近かったので、評価額は、4000万円。が、その土地だ
けでは、とても1億3000万円にはとどかなかった。そこで最後は、お決まりの自己破産。

●もっと早く手を打つべきだった
 日本の経済も、これに似ている。よく「ゾンビのような会社」と言われるが、そういう会社がゴ
ロゴロしている。経済誌によると、株価が100円以下の会社は、そのゾンビ会社だと言われて
いる。いつ倒産してもおかしくないが、大きすぎてつぶすにつぶせない会社ということらしい。
が、どうして日本の経済が、ここまでこじれてしまったかといえば、先に書いた、「その人」に似
ている。500万円とか、1200万円という借金の段階で、手を打てば、土地と家を売る程度
で、まだカタがついた。おつりもあったから、生活には困らなかったはず。しかし無益にずるず
ると先延ばしにした。で、最終的には、1億3000万円に! 自己破産という、これまた不名誉
な結果になってしまった。

 日本が自己破産するのは、いつか? 明日か、来週か、それとも来月か? もう来年というこ
とはないかも。いや、今年も、あと2か月でおしまいということなら、来年の春くらいまではもつ
かも。しかしそれ以上は……?

 たまたま日本の経済が、安定しているように見えるのは、みんながセッコラセッコラと、タンス
預金をしているからだ。もしそのタンス預金が、一部でも流出し始めたら、あっという間に、日
本はインフレ。超インフレ。ハイパーインフレ! みんな明日がわからないから、お金を使わな
いでいるだけ。しかしこの状態も、いつまでつづくことやら?

●元気のない社会
 暗いことばかり書いたが、本当にこのところ、みんな元気がなくなってきた。私の近辺でも、
事務所を閉鎖したり、会社をたたむところがふえてきた。こうこうと光をつけ、車が頻繁出入り
するところが、ビデオショップや、進学塾では、話にならない。もうこうなると、道はただひとつ。
私たちは、やがて襲いくる大恐慌に、静かに耐えるしかない。長くて苦しい嵐になるだろうが、
じっとそれに耐えるしかない。その嵐が去ったとき、日本は、アジアでも、ごくふつうの国になっ
ているだろう。台湾や韓国より、そのときでも優位を保てると考えるのは、もう幻想でしかない。
すでに世界は、そういう方向で動いている。知らないのは、日本人だけ。

 たとえば2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。こ
の数はピーク時の約三分の一(90年は125社)。さらに2002年に入って、マクドナルド社や
スイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。理由は「売り上げ減少」と「コ
スト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だ
そうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけ
て日本語に翻訳しなければならない。

 さらに昨年(01年)、ひさしぶりにアメリカへ行って驚いた。今、アメリカでは、日本の経済ニュ
ースは、シンガポール経由で入っている(NBC、CNNなど)。日本の経済ニュースは、一応トッ
プでは報じられているが、もうアジアの経済ニュースの一つにすぎない。また10年ほど前か
ら、ハーバード大学以下、日本語を学ぶ学生が急減し、かわって中国語がそれにとってかわっ
た。世界は、もう日本を見放したとみてよい。

 で、そのあと、問題は、日本が再生するかだが、もうそのチャンスはないだろう。そのことは
今の子どもたちを見ればわかる。少子化だけが問題ではない。今の子どもたちには、私たち
が子どものときもっていたような、元気は、もう、ない。つまり日本の未来を支える子どもたち自
身に、元気がない。日本の教育改革は、30年は遅れた。今ごろやっと重い腰をあげたところ
で、手遅れ。今の改革が成果を出すのは、早くて20年後。そのころ世界は、どこまで行ってい
ることやら? 

 本当なら、何か希望のもてることを書かねばならない。ダメだ、ダメだと書くくらいなら、だれ
にでもできる。またそれは評論をするものの書くことではない。それはわかる。しかし大切なこ
とは、まず現状認識をしっかりとすること。政治家も含めて、日本人は、その現状認識すらして
いないのでは? それでは今私たちがかかえる問題は、解決しない。
(02−10−26)※

(補足)現状認識をしていないという一例ですが、こんなニュースが報じられています(10−2
7、TBSより転載)。これだけ日本が、借金漬けになっているのに、まだ「道路!」とは。怒れる
よりも先に、あきれてしまいます。みなさんは、こういうおめでたい人たちを、どう思いますか?
●江藤氏、道路公団民営化反対を協調 
 自民党江藤派の江藤会長は、宮崎市内であいさつし「道路公団民営化に関する法律は、国
会でいっさい通さない」と述べ、民営化に反対する姿勢を改めて強調しました。

 「やるならやってみろ。約200本法律を作らなければ道路公団の民営化はできない。絶対通
さん、国会を」(自民党江藤派 江藤T会長)

 また橋本派の村岡会長代理も「民営化推進委員会の主張は、もう道路を造るなというに等し
い」と指摘し、推進委員会の方針に反対していく姿勢を鮮明にしました。(NEWS・i・TBS系
列・27日 )


      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page090.html
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●また、よりアカデミックな(?)マガジンをご希望の方は、「はやし浩司の世界」を
どうかあわせて、ご愛読ください。お申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page140.htmlまで
Please subscribe to another magazine, "The Hiroshi's World",
published periodically by Hiroshi Hayashi, for which I thank you very much.
Please go to the "Magazine Corner" from the Top Page of my Website to 
apply for subscription of the magazine. Free to read!
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●二男のホームページができました。よろしかったら、
のぞいてやってください。
I appreciate your kindness to pay a visit to my second 
son's website in USA, for which I thank you very much.
Soichi Hayashi (林 宗市のホームページ) http://dstoday.com
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●ホームページに「動画コーナー」ができました。まだ初歩ですが、これから先、
充実させていきます。私のサイトのトップページ、右列の「動画」よりどうぞ!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page317.html
●「子育てワンポイント集1〜600」も、そちらに収録しておきました。CDにして
  販売する予定でしたが、希望者が10名にならなかったので、こうします。お申し
  込みいただきましたみなさんには、申し訳なく思いますが、お許しください。もち
  ろん無料です。
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●ホームページのほうで、「タイプ別、子ども相談」を充実しました。
トップページから、「タイプ別」へお進みください。お待ちしています。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page295.html
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! よろしくお願いします!
 
   ♯♯♯    ♯♯♯
  ♯♯♯♯♯  ♯♯♯♯♯
  ‖⌒ ⌒‖  ‖山山山‖    また次回お会いしましょう!
  ⊂ヘ ヘ⊃  ⊂σ σ⊃      寒いときは、温かいものを食べて
   〃_〃    〃ο〃         元気を出しましょう!    
  ノ 川=○つ ノ @=○つ
  ○―――   ○―――
   \ /    \ /
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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(イラストは、パナソニックパソコン付録のフリーソフトを転用・改変しました。)








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-7-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 506人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  82人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  51人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−7号(135)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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今日のテーマ、「

【1】新・子育てポイント 
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【3】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers) 
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
新しく、子育てポイントを考えてみました。どうか参考にしてください。
++++++++++++++++++++++++++++++++++

●毎日、子どもの姿を見る

 私は高校二年まで、将来は建築屋になるのだと思っていた。設計士を考えていたが、現場の
大工にも、大きな魅力を感じていた。その私がやがて法科へ進み、商社マンになり、最終的に
は、今のような原稿を書くようになったのには、いろいろな理由がある。ともかくも、私は、ずっ
と、建築には興味をもっていた。今も、もっている。そういう立場で、少し専門分野を離れるが、
家の間取りについて……。

 子ども部屋を考えるとき、一番重要なポイントは、何らかの形で、子どもと家族が顔を合わせ
る接点をもつことである。具体的には、子どもが自分の部屋に行くときは、必ず、家族が集まる
居間や台所を通るようにする。このポイントだけはずさなければ、あとはそれほど、大きな問題
ではない。

 反対にこの接点がないと、そうでなくても、家族の心がバラバラになりやすいという現状にあ
っては、ますますバラバラになってしまう。「いつ学校から帰ってきたかわからない」「いつ出か
けたかわからない」「いつ帰ってきたかわからない」というのは、家族のあり方としては、たいへ
んまずい。ただし、それには条件がある。

 その一つは、そういう間取りではあっても、一方に親の過関心や過干渉があれば、逆効果だ
ということ。かえって子どもは、そういう間取りをうるさく思うかもしれない。息苦しく思うケースも
あるだろう。つまり「子どもを監視する」という目的で、こうした間取りを考えてはならないという
こと。あくまでも家族のパイプを大切にするという意味で考える。

 またこれはオーストラリアの例だが、オーストラリアでは子どもが高校生くらいになると、子ど
もたちは、親に別棟のバンガローを作ってもらい、同居する家そのものから離れることが多
い。これは子どもを自立させるという、親の思惑によるものである。いくら顔を見せあうといって
も、年齢的な上限があるようだ。その上限については、親子の信頼関係があれば、高校生に
なる前に、別居してもよいかもしれない。それはあくまでもケースバイケースということになる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●任せて育てる

 子どもは、任せて育てる。これも子育ての柱といってもよい。任すところは任せながら、親は
一歩、ひきさがる。まずいのは、何でもかんでも、親が口を出してしまうこと。とくに完ぺき主義
の親は注意する。こまごまとしたことを言いつけながら、それを子どもに最後まで守らせる、な
ど。子育ては、『まじめ七割、いいかげん三割』と覚えておく。いいかげんであることを恐れては
いけない。子どもはこの「いいかげんな部分」で、心を休め、心をいやし、そして羽をのばす。

 こんな家庭があった。その子ども(中一男子)は、学校でも、一〇〇人中、五〇〜六〇番あた
りをうろうろしているような子どもだった。その子どもに向かって父親がこう言っていた。「あの
な、お前、無理して勉強して、一番になることはないよ。のんびりやって、二、三番になればい
いよ」と。それに答えて子どもが、「ウルサイ!」とやり返していたが、私には、何とも、ほほえま
しい光景に見えた。

 たしかにこの日本では、受験勉強は避けて通れない道かもしれない。しかし子育てが終わっ
てみると、その受験勉強のむなしさが、ヒシヒシとわかる。そしてたいていの親は、こう悟る。子
どもにとって大切なことは、たくましく生きることだ、と。が、それ以上に大切なことは、家族の
絆。少なくとも、家族の絆を、子どもの受験勉強のために犠牲にしてはいけないということ。ま
た犠牲にするだけの価値は、絶対に、ない。

 話がそれたが、ときには、「お前の人生だから、お前はお前で、勝手に生きなさい」と、子ども
を突きはなすことも必要。子育ての目標は、子どもを自立させること。その目標を子育ての前
にかかげるなら、答はもう出たようなもの。『子どもは、任せて育てる』。
(02−10−30)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(おまけです)
●西田ひかるさんのこと

 実名を出して恐縮だが、西田ひかるという、すばらしい女優がいる。私はその女優が、マスコ
ミに出てくるたびに、あの夜のことを思い出す。そして人間どうしをからませる、無数の縁の糸
を、ふと感ずる……。

 私はそのとき、G社という日本でも大手の出版社で、企画の仕事を手伝っていた。そんなある
日、そのG社のO氏と、伊豆を旅することがあった。そして伊東の旅館に泊まった。

 その温泉につかっていると、O氏がこう切り出した。「林さん、ぼくね、英語の雑誌を考えてい
るんですよ。ついては、力を貸してくれませんか」と。私は、「雑誌はたいへんですよ。ご存知の
ように、億単位の予算がかかりますから」と。そして最初は、その企画には反対した。

 が、一泊して熱海でO氏と別れるころ、その間に、どういう会話があったのかは、忘れたが、
「企画案だけは作っておきます」と、約束した。以後、数か月、私は英語雑誌の企画に、没頭し
た。カセットテープも、二〇本近く試作した。自宅にあったカラオケセットを利用して、それを編
集した。

 が、それから半年近くは、何の音沙汰もなく、過ぎた。が、その企画が、ひょんなことから、G
社でいう「社長会」の席で、通ってしまった。それについての経緯(いきさつ)はいろいろある
が、それについてはここには書けない。ともかくも、その企画が通ったのは、偶然に近いものだ
った。O氏自身も、「ひょうたんからコマです」と笑っていた。

 ふつう、単行本のばあい、人件費は別にして、安くて二、三〇〇万円前後の予算があれば、
出版できる。カラー刷りの豪華本となると、一〇〇〇万円前後。さらに全国販売の雑誌となる
と、ここにも書いたように、億単位のお金がかかる。私は「雑誌が無理なら、単発ものでも…
…」と思っていた。が、月刊雑誌になるとは! 予算規模がケタはずれに、違う。

 で、正式に、試作品をつくることになった。雑誌の名前は、当初考えていた「ピーカーブー」か
ら、「ハローワールド」に変更された。NHKに同じタイトルの海外報道番組があったが、簡単に
言えば、その名前を拝借した。たまたまNHKは、その名前を商標登録していなかった。

 で、試作という段階になって、O氏は、英語が話せて、マスコットガールになる女の子をさがし
始めた。その部分については、私は報告を受けるだけの立場の人間だったから、詳しい経緯
は知らない。が、O氏は、こう言った。「内藤Y子さんの娘さんに、Kさんという人がいますね。あ
の人を打診したら、ギャラが○○万円と言います。試作用の予算では、とても無理です」と。

 そこで困り果てたO氏は、横浜のアメリカンハイスクールに、自ら出むいて、適当な子をスカ
ウトすることにした。「適当」という言い方は、今の西田ひかるさんには、たいへん失礼な言い方
になるが、当時は、そういう雰囲気だった。そこで見つけたのが、その西田ひかるさんだった。
「英語はもちろん、歌もうまいです。すばらしい子ですよ」と。電話で報告してくれたO氏は、興奮
していた。

 そうして西田ひかるさんにお願いして、試作品が完成し、それからは月刊雑誌へと話がトント
ンと進んでいった。その西田さんと私が最初に会ったのは、創刊号が出る数か月前の、パーテ
ィの席だった。紺のジーパンをはいた、ごくふつうの高校一年生という感じだった。髪の毛も、
ふつうのおかっぱ頭だった。で、私はどういうわけか、その西田さんの横に座らせてもらった。

 もちろん西田ひかるさんは、私のことなど、覚えていない。ひょっとしたら、O氏のことも覚えて
いない。その後の西田さんの活躍ぶりは、すでにみなさんご存知のとおり。あれよあれよと思う
まもなく、日本を代表する女優となった。……なってしまった。

 で、最初の話。私はその西田ひかるさんを見るたびに、あの伊東の温泉を思い出す。いや、
このことはその後、O氏と会うたびに話題になった。「あの西田さんが、ああまで売れっ子にな
るなんて、思ってもいませんでしたね」「そうですねえ」と。もちろんそういう西田さんが、今の西
田ひかるさんになったのは、彼女自身のすばらしい才能と努力があったからにほかならない。
しかし人間の縁というのは、無数の糸がからみあってできるもの。もしあの夜、O氏が、英語雑
誌の話をしなかったら。もしそのあと、私が企画を始めなかったら。もしそのあと、企画が、社
長会を通らなかったら。そしてもしそのあと、O氏が横浜のアメリカンハイスクールへ出むかな
かったら、今の西田ひかるさんは、いなかったと思う。

 西田ひかるさんの名前を聞くたびに、私はふと、人間どうしをからませる、無数の縁の糸を感
ずる。西田さんの熱烈なファンの一人として……。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
あなたの子育てだいじょうぶ?
++++++++++++++++++++

隠しごとがないのが、いい親子?
逃げ場を大切に(失敗危険度★★★★★)

●逃げ場で心をいやす
 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。

またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴
がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した
子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出る
ので、区別できる。)

●逃げ場は神聖不可侵
 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

●子どもの人格を守る
 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。「隠しごとがないほど、
いい親子」と言う人さえいる。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが
老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカ
バンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そ
ういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


友を選ぶか、親を選ぶか?
友を責めるな(失敗危険度★★★)

●行為を責める
 あなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちとつきあい始めたときの鉄則がこれ。
「友を責めるな、行為を責めよ」。イギリスの格言だが、たとえばどこかでタバコを吸ったとす
る。そういうときは、タバコは体に悪いとか、タバコを吸うことは悪いことだと言っても、決して相
手の子どもを責めてはいけない。名前を出すのもいけない。

この段階で、たとえば「D君は悪い子だから、つきあってはダメ」などと言うと、それは子ども
に、「友を選ぶか、親を選ぶか」の、二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた(親)
を選べばよいが、そうでなければあなたと子どもの間に大きなキレツを入れることになる。あと
は子ども自身が自分で考え、その「好ましくない友だち」から遠ざかるのを待つ。こういうケース
では、よく親は、「うちの子は悪くない。相手が悪い」と決めてかかることが多いが、あなたの子
どもがその中心格になっていると考えて対処する。が、それでもうまくいかないときがある。そう
いうときは、つぎの手を使う。

●信じて伸ばす
 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そこであ
なたは子どもの前で、相手の子どもをほめる。○○君は、おもしろい子ね。ユーモアがあって、
お母さんは大好きよ」とか。あなたのそういう言葉は必ず相手の子どもに伝わる。その時点で、
相手の子どもは、あなたの期待にこたえようとし、その結果、あなたの子どもをよい方向に導
いてくれる。いうなればあなたはあなたの子どもを通して、相手の子どもを遠隔操作するわけ
だが、これは子育ての中でも高等技術に属する。

●一度こわれた心はもどらない 
ほとんどの親は、子どもが非行に向かうようになると、子どもを叱ってなおそうとする。暴力や
威圧を加える親もいる。しかし一度こわれた子どもの心は、そんなに簡単にはなおらない。もし
そういう状態になったら、今より症状を悪化させないことだけを考えながら、一年単位で子ども
の様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果になるので注意する。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(242)

飛行機

 私は子どものころから、飛行機が好きだ。子どものころは、そのためパイロットになるのが、
夢だった。それはそれとして、飛行機には、不思議な魅力がある。そのひとつ。ムダがない。

 今、書店で、飛行機の模型のついた雑誌(デル・プラド「世界の戦闘機」)が売られている。毎
週一冊ずつ発行されるものだが、私はときどき、その雑誌を買っている。一六〇〇円ほどする
ので、決して安い雑誌ではない。しかしときどき買っているだけなのだが、すでに飛行機は、二
〇機を超えた。で、そういう飛行機を並べてみると、おもしろい特徴があるのに気づく。それは
私自身の特徴でもあるわけだが、こういうことだ。

 私が好きな飛行機というのは、第二次大戦中のプロペラ機か、戦後まもなくしてから空を飛
び始めたジェット機だ。ここ一〇〜一五年に開発された飛行機というのは、あまり好きではな
い。(だからあまり買っていない。)いつも手にとってながめているのは、今は、アメリカの「リパ
ブリク・F84」という旧式のジェット戦闘機だ。胴体が、川魚のようで美しい。空気の吸入口も、
ちょうど魚の口のようでかわいい。だれかが「この飛行機は、魚の形をまねて設計した」と言っ
ても、私は驚かない。魚というのは、水の抵抗を最小限におさえるように進化して、今の形にな
った。

 で、私のそういう趣向というか、趣向性がいつできたかをさぐってみる。すると、それはちょう
ど、こうした飛行機が話題になったときと一致しているのがわかる。F84は、私が子どものこ
ろ、「ジェット機だ、ジェット機だ」と騒いだころに、活躍した飛行機である。あわせて当時は、ま
だ戦前のプロペラ機が、強く印象に残っていた。だから私のこうした趣向性は、そのころできた
ということがわかる。言うなれば、私の方向性の一部は、そのとき決まった。

 そして今度は、反対に、こういうこともあることに気づいた。私はそのF84を手にすると、どう
いうわけか、口で飛行機の爆音をつくり、急旋回してみせたり、上昇、下降をしてみせたりす
る。「大のおとなが……?」と思われるかもしれないが、私には結構それが楽しい。と、そのと
きだ。自分自身が、あの童心にかえっているのを知る。私が子どものころ、「ジェット機だ、ジェ
ット機だ」と騒いだころの自分である。そのあたりの情景というか、心の情景がもどってくる。今
は記憶にないが、ひょっとしたらそのとき、すでに、「ジェット機は魚みたいだ」と思ったのかもし
れない。私の郷里のほうでは、魚といえば、川魚がほとんどだった。

 今も飛行機が好きだ。見ているだけで、うっとりとする。人はいろいろなものに美しさを感ずる
というが、私のばあい、ムダのないものが好きだ。とくに飛行機には、ムダなものがない。小さ
な部品、小さな形ひとつひとつに、すべて何らかの意味がある。このF84にしても、尾翼の下
が、やや不自然にふくらんでいる。私はそのふくらみを見ながら、「どうしてだろ」「何があるの
だろ」と考える。多分、排気ノズルの調整装置か何かがついているのだろう。そういうふうにあ
れこれ考えるのが楽しい。ああ、そういえば、飛行機の機体と、女性の肉体は、どこか似てい
る。もっとも私のワイフの肉体は、もうムダばかりだが……。ははは。これは余談。ははは。ま
ったくの余談。

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子育て随筆byはやし浩司(243)

つまらない人間

 世の中には、つまらない人間がいる。どこがどうつまらないかは書けないが、いる。あなたの
まわりにも、いる。そういうつまらない人間は相手にしない。相手にするということは、あなた自
身も、そのつまらない人間ということ。

人間というのは、自分と同程度の人間を気にする。自分が相手をはるかに超えているときは、
気にしない。たとえば私は、幼稚園児に、「バカ!」と言われても、(当然だが……)、まったく気
にしない。もともと相手にしていないからだ。同じように、暴走族風の若者に、「バカ」と言われ
ても、気にしない。もともと相手にしていないからだ。

 そこであなたが気になる人間を、頭の中で思い浮かべてみるとよい。そしてその人間が、ど
の程度の人間かを、客観的に見つめてみるとよい。つまりそれがあなたの「レベル」ということ
になる。もしそのレベルが高ければ、それでよし。そうでなければ、あなた自身の視点を変えて
みる必要がある。でないと、長い時間をかけて、あなたも、そのつまらない人間になってしまう。

 具体的には、私のばあいは、もともとレベルの高い人間ではないので、「無視する」という方
法で、そういう人間からは遠ざかるようにしている。決して逃げるのではない。相手にしないと
いうことは、自分の心の中に、その人間を置かないということ。そのために無視する。その相手
はもちろんのこと、その相手にかかわるもの、すべてを、だ。ときどき好奇心にかられて、気に
なることはあるが、そういうときでも、あえて無視する。

 一方、世の中には、自分を高めてくれる人間もいる。会うだけで、その人の知性や理性が、
響きとなって伝わってくる人だ。私は幸運にも、今まで、日本でもトップクラスの人や、それに近
い人たちと交際することができた。さらに幸運にも、今でも、そういう人の何人かと、親密に交
際している。私はとても、そういう人たちのレベルではないし、一生、そのレベルに届くことはな
いと思う。しかし努力目標にはなっている。それはたとえて言うなら、山登りのようなものかもし
れない。登れないとわかっていても、その高い山を前に見ることで、自分の意思を高めること
ができる。

 これは人間の話だが、同じように、つまらないものは相手にしない。つまらないことも相手にし
ない。これは自分を高めるとか、低めるとかいうことではない。時間のムダだから、だ。

若いときは無限につづくと思われた時間も、このところ、その限界を強く感ずるようになった。
ただ私のばあい、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。こうして時間の限界を感ずるように
なったのは、満四五歳から四七、八歳にかけてではないかと思う。はっきりとはわからないが、
それまでの私は、実に怠惰(たいだ)な生活をしていた。時間をムダにしていた。今になって、
それが悔やまれる。

 つまらない人間、つまらないものやことを相手にするというのは、それだけ人生の回り道に入
ることを意味する。ゴールが「真理」だとするなら、そのゴールから遠ざかることにもなる。ゴー
ルにたどりつけるという自信は、今のところまったくない。ないが、しかし少しでも近づいてみた
い。だから改めて、ここで自分に言ってきかせる。つまらない人間は相手にしない。無視する。
つまらないものやことは、相手にしない。無視する。……まあ、こうしてあえて自分に言って聞
かせねばならないということは、私も、そのレベルの、つまりはつまらない人間ということになる
のだが……。

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子育て随筆byはやし浩司(247)

人間の欠陥

 人間には、明らかな欠陥がある。個人としての、欠陥。それに集団を組んだときの欠陥。「教
育」というと、子どもを、前に向かって伸ばすことしか考えないが、しかしその欠陥をどう克服す
るかということについても教えていかないと、いつまでも人間は、同じ失敗を繰り返す。で、その
前提として、人間のもつその「欠陥」が何であるかを、知らねばならない。

 もちろん最大の欠陥は、殺しあいであり、戦争ということになる。太古の昔から争いや戦争は
絶えなかったし、今も絶えない。問題は、戦争ではなく、また戦争にいたる、大義名分でもな
い。なぜ人間は戦争するかという、その深層部にまでメスを入れないと、結局は、その繰り返し
になってしまう。仮に宇宙時代がやってきても、今度は、宇宙という場で、同じような戦争を繰り
返すようになる。

 では、人間にとっての最大の欠陥とは何か。そのヒントは、幼児の成長を、発展段階的に観
察してみると、わかる。たとえば満四、五歳ころの幼児は、純粋で無垢(むく)である。この時期
まで、あるべき環境のもとで、あるがままに育った子どもというのは、実に平和で、のどかな様
子を見せる。しかしその子どもが、やがて少年、少女期への移行期に入ると、もろもろの「しが
らみ」ができると同時に、無数の「しみ」が身につくようになる。いわゆる私たちおとなの原型
が、そこでできる。

 で、この時期をさらに詳しく観察してみると、この時期を境に、「欲」が生まれることがわかる。
フロイトは、「自我」という言葉を使って、それを説明したが、自我とも違う。名誉欲、所有欲、独
占欲、我欲、支配欲など。俗にいう「わがまま」、あるいは「我(が)」という言葉に総称される欲
である。教育の世界では、こうした欲を、善なるものとして、肯定的に受け入れる傾向が強い。
少なくとも、悪いものだとは思わない。事実、それによって伸びる部分も少なくない。しかしこう
した「欲」は、まさに両刃の剣。使い方をまちがえると、その人の人間性そのものまで狂わす。
集団になると、社会、さらには国のあり方まで、狂わす。戦前の日本や、現在の北朝鮮を見る
までもない。

 そこでこの欲を、どう位置づけるかだが、この欲を、人間が生来的にもつ欠陥と位置づけて
はどうだろうか。つまり欠陥と位置づけた上で、そのコントロールのし方を考える。一つの基準
としては、他者に対して、物理的な影響を与える「欲」については、「悪」という前提で考える。
「物理的」というのは、精神的な影響以外のものということになる。仮にその「欲」をもった人か
ら精神的な影響を受けたとしても、つぎにその影響を「行動」に移し、他者に影響を与える段階
で、コントロールする。その「コントロールのし方」が、もう一つの教育ということになる。

 たとえば昔、『おしん』というテレビドラマが、あった。あのおしんは、数年前、数千億円の借金
をかかえて倒産した、Yジャパンの社長のW氏の母親の、Kさんがモデルだとされる。最初、お
しんは、生きていくために働いた。しかしあるときから、ある意味で金の亡者になり、今度は、
働くために生きるようになった。日本中はその出世ぶりに感動したが、私はちがった。私の家
は昔からの自転車屋だったが、その系列の大型店ができてからは、閉店寸前まで追い込まれ
た。もしおしんが、生きるために働くということであれば、ああまで店の規模を大きくする必要な
どなかった。つまりおしんのもつ我欲が、私たちに物理的影響を与えた。もっと言えば、おしん
には、そうした我欲にブレーキをかけるだけの哲学がなかった。恐らく「マネー、マネー」という
だけの人ではなかったのか。その証拠にというわけではないが、日本中がおしんの苦労話に
は泣いたが、その反面、あのYジャパンが倒産したとき、関係者は別として、涙をこぼす人は、
一人もいなかった。

 たまたま今、中央教育審議会(文部科学省の諮問機関、鳥居泰彦会長)が、教育基本法の
見なおしをしている。そしてその中間報告素案が、明らかになっている。それによると、教育の
基本理念に愛国心や、社会形成に主体的にかかわる「公」の意識を前面に出ていることがわ
かる。もともと遠山敦子文部科学相が、昨年(〇一年)の一一月に、中教審に行った諮問は、
(1)伝統・文化の尊重、(2)家庭の役割、(3)宗教的情操の育成の三つの視点が「柱」になっ
ていた。しかし今回の中間報告素案では、三番目の宗教的情操の育成が見送られた。いろい
ろな意見が付記されているが、これはしごく当然のことである。「宗教」といっても、今のように、
K党(S宗教団体が支持母体)が、政権の中枢部にいる「国」では、その宗教的中立性があや
ぶまれる。ただ方向性としては、まちがってはいない。今の日本には、そして教育には、たしか
に「柱」となる情操的理念がない。

 そこで二つの考え方ができる。一つは、既存の宗教に依存するという考え方。遠山敦子氏が
諮問した、「宗教的情操」というのが、それにあたる。もう一つは、私たち自身が、新しい「柱」を
自らつくるという考え方。当然のことながら、私は後者を支持する。そしてその一つとして、ここ
に、「人間の欠陥」について考えてみた。これは情操のほんのひとつの「柱」にすぎないが、み
なが、それぞれの立場で、無数の柱をつくり、またそれを補強していけば、やがて宗教に負け
ないだけの大きな「柱」をつくることができる。何も神や仏に頼らなくても、自分たちの力で、そ
れができる。

 話が少しおおげさになってしまったが、人間には、生来的に欠陥があるという前提で、人間や
人間社会をみていくことは、まちがっていない。そうした謙虚さがあれば、私たち自身も、そして
この社会も、もう少し住みやすくなるのではないか。今の人間たちは、あまりにも傲慢(ごうま
ん)すぎる。

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子育て随筆byはやし浩司(240)

賢さとは何か

●高く登れば、まわりが低く見える
 どんな山にも登ってみるものだ。低い山だと思ってみても、登ってみると意外と遠くまで見え
る。たとえば浜松市の北西に舘山寺温泉という温泉街がある。その温泉街の反対側に、小さ
な湖をはさんで大草山という山がある。ロープウエィで一〇分足らずで登れる小さな山だが、そ
んな山でも浜松市はもちろんのこと、遠くは太平洋すら一望できる。

 人もそうだ。どんなささいなことでもよい。賢くなった状態から、そうでない人を見ると、その人
の愚かさがよくわかる。しかし愚かな人にはそれがわからない。対等だと思っている。もっとは
っきり言えば、賢い人には愚かな人がわかるが、愚かな人には賢い人はわからない。

 ……と言っても、実は人は、もちろん私も、賢い部分と愚かな部分をいつも同時にもってい
る。さらに賢いか愚かかということは、あくまでも相対的なものでしかない。私より賢い人はいく
らでもいる。つまり私が賢いと思っているのは、それは愚かな人に対してだけである。一方、そ
ういう私を愚かだと思っている人はいくらでもいる。

たとえば同じAさんならAさんとくらべても、「この部分はAさんより賢いぞ」と思う部分もあれば、
「そうでない」という部分もある。さらに自分のことについても、同じことが言える。何か新しいこ
とがわかったとする。すると、それまでの自分が愚かに見えることがある。それは無数の道を
同時に走るマラソンのようなものだ。一本の道をマラソンで走るなら、Aさんが一番、Bさんが二
番と、その順位がよくわかる。だれが賢くて、だれがそうでないか、よくわかる。が、無数の道を
別々に走ったら、それはわからない。それぞれの道で、「差」ができる。少し入り組んだ話にな
ってしまったが、要は、いかにして人は賢くなるかということ。

●賢くなるために
 方法はいくらでもある。しかしここで重要なことは、技術や知識では人は賢くならないというこ
と。いくらすぐれた技術にたけていたとしても、また世界中の科学者の名前を知っていたとして
も、それは「賢い」とは言わない。もっとわかりやすい例で言えばこうだ。たとえば一人の幼稚
園児が、剣玉をスイスイとしてみせても、また掛け算の九九をソラでペラペラと言っても、賢い
子どもとは言わない。となると、人の賢さは何によって決まるかということになる。またどうすれ
ば賢くなれるか。ここが重要だ。一つの方法としては、人間が本来的にもっている「愚かさ」を、
徹底的に追及するという方法がある。その愚かさを追及することによって、一方で賢さを浮か
びあがらせる。

 たとえば夜の繁華街を歩く。そこにはケバケバしいネオンサインが立ち並び、遊ぶ男と遊ぶ
女が、あたかもゾンビのように動き回っている。せっかくすばらしい健康と、明晰(めいせき)な
頭脳をもちながら、彼らは流れ行く「時」を、流れていくままムダにしている。あるいは威圧や暴
力を売り物にして、他人から金銭をまきあげている人がいる。ゴマカシばかりをして、コソコソと
生きている人がいる。もっと身近な例では、空き缶やゴミを空き地へ平気で捨てていく人がい
る。こうした人たちに愚かさの原型があるとするなら、賢くなるためには、そうした世界からの脱
却をめざせばよい。しかしここ別の問題が起きる。仮に脱却するとしても、学校の先生が子ど
もたちに校則のようにあたえるような、教条主義ではいけない。一つ、夜遊びはしないこと。二
つ、暴力を振るわないこと。三つ、ウソはつかないこと。四つ、ゴミを捨てないこと、と。

 こうした教条を守る人は、一見賢い人に見えるかもしれないが、しかし賢い人とは言わない。
人の賢さというのは、もっと根源的なもので、その人の底辺から上に向かって湧き出るようなも
のをいう。つまりそういう「教え」があるからするのではなく、「自らがつかんだ知恵」によってし
なければならない。「知性」や「智慧(ちえ)」と言ってもよい。問題のすべては、ここに集まる。
「自らがつかんだ知恵」だ。
(02−10−29)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ここから先は、かなり専門的になります。
興味のある方は、お読みください。子どもの見方が
もうひとつ、深くなると思います。
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●ADHD児について

 ADHD児の原因について、「内部分泌攪乱(かくらん)物質などの化学物質が、子どもの脳が
発達する時期である、妊娠期や授乳期に子どもの体の中に入って、危険がもたらされる可能
性が高い」(奥田洋一郎・朝日新聞・99年5月)というのが、最近の定説になりつつある。つま
りADHD児は、脳そのものがダメージを受けた、精神障害のひとつである、と。

 となると、その症状は、学童期にもっとも顕著にあらわれるものの、「おとなになってからも残
る」ということになる。実際、ADHD児といっても、知的障害をともなうケースと、知的障害をとも
なわないケースがある。また「脳の微細な障害」によって、症状も「多彩である」(以上、福島章
「子どもの脳があぶない」PHP)ということらしい。

 が、これはあくまでも精神医学の話。育児の世界では少し違った見方をする。たとえば子ども
には、自意識というのがある。「私は私」と自覚する意識である。この自意識が発達してくると、
子どもは自分で自分をコントロールするようになる。

 この自意識には、強弱があり、仮に脳の機質障害による行為障害があっても、その自意識
を強くすることで、障害といえるものを克服することができる。事実、この自意識が発達してくる
小学三、四年生を境として、ADHD児特有の症状は、急速に消滅し、外見的にはわかりにくく
なることが多い。子ども自身が、「こういうことをすると、みなに迷惑をかける」「こういうことをす
ると、先生に叱られる」「こういうことをすると、みんなに嫌われて、損をする」と、コントロールす
るからである。むしろ問題は、ADHD児であることではなく、それ以前の段階で、無理な指導
や、威圧的な指導が、症状を取り返しがつかないほどまでに、こじらせてしまうことである。
 
(教訓)
☆妊娠期、授乳期に親が食べるものには注意しよう。
☆子どもの自意識を、じょうずに育てよう。

 ついでに子どもの行為障害(CONDUCT DISORDER、略してCD)について、つぎのような
診断基準が発表されている(DSM式診断基準)。

 他者の基本的人権の侵害、または年齢相応の重要な社会規範や規制を侵害する行動パタ
ーンが見られる。以下の15項目のうち、3つ以上が当てはまれば、行為障害と診断される。各
項目、末尾(かっこ)内の数字は、小学5年生、10人に対して、私が聞き取り調査した結果の
数字。「そういうことをしたことがある」と答えた子どもの数である。

(1)他人に対するいじめ、脅迫、威嚇(いかく)。(5)
(2)取っ組み合いのけんか。(0)
(3)凶器を使用して、他人に重大な身体的危害を加える。(1)
(4)他人の体に対して、残酷な行為をする。(0)
(5)動物の体に対して、残酷な行為をする。(1)
(6)強盗。(0)
(7)性行為を強いる。(0)
(8)放火。(0)
(9)器物損壊。(2)
(10)他人の住居、建造物、自動車の中への侵入。(0)
(11)嘘をつく、人をだます。(0)
(12)万引き、侵入盗以外の窃盗、深夜の外出がしばしば。(0)
(13)外泊が二回以上。(0)
(14)不登校(一三歳未満から)。(0)

 さらにADHD児が、おとなになってからの症状としては、つぎのようなものがあるという(DSM
―W、「反社会的人格障害」)。

 他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、(一五歳以前に行為障害の履歴があり)、以下
の症状のうち、三つ以上によって示される。

(1)法律に違反する行動を繰り返し、逮捕される。
(2)人をだます傾向がある。自分の利益や快楽のために嘘をつき、偽名を使い、人をだますこ
とをくりかえす。
(3)衝動的で、将来の計画を立てられない。
(4)易怒性と攻撃性。けんかや暴力をくりかえす。
(5)自分や他人の安全を考えない、向こう見ずさ。
(6)一貫した無責任さ。仕事をつづけず、経済的な義務を果たさない。
(7)良心の呵責(かしゃく)の欠如。これは他人をいじめたり、傷つけたり、または他人のもの
を盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。

 もちろんADHD児がすべて、ここにあげるような反社会的人格障害をもつようになるというわ
けではない。大半は、そのままふつうの人間(健常人)として、一般的な社会生活を営むように
なる。

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●隠蔽(いんぺい)記憶

 記憶としては覚えていないが、心のどこかに隠蔽(いんぺい)された記憶のことを、隠蔽記憶
(secret memory)という。フロイトが言い出したというと、ありがたい言葉に聞こえるかもしれな
いが、日本語で言えば、「わだかまり」ということになる。多少ニュアンスは違うが、ほぼ同じと
考えてよい。

 そのフロイト(ジークムント・フロイト・1856―1939、オーストリアの心理学者)は、ゲーテの
幼児期を例にあげて、その隠蔽記憶を説明している(「詩と真実」)・1917)。

 ゲーテ(ドイツ・作家・1749−1832)は、幼児期に、つぎからつぎへと皿やビンを窓の外に
投げて、こわしたという。そんな回想録を残している。ゲーテが、四歳か、その前のころのこと
だったという。それについてフロイトは、弟が生まれたことにより、ゲーテは、その不満を、皿や
ビンに向けたのだというような説明をしている。もちろんゲーテ自身は、それには気づいていな
かった。これを心理学の世界では、「転移」と呼んでいる。つまりひとつの不満が、形を変えて、
別の姿であらわれることをいう。ゲーテのばあい、弟を投げ出してしまいたいという思いが、転
移して、皿やビンを投げたのだ、と。つまり弟への嫉妬(しっと)心が、ここでいう隠蔽記憶という
ことになる。

 こうした例は、子どもの世界では、よく見られる。こんなことがあった。

 ある日、M君(年中男児)に、「お父さんの絵を描いてごらん」と、画用紙とクレヨンを渡したと
きのこと。しばらくは描くのだが、やがてすぐ、M訓は紙をクレヨンで塗りつぶしてしまった。そこ
で軽く注意して、また画用紙を渡すと、その画用紙も塗りつぶしてしまった。三度目もそうだっ
た。そのひきつった顔に驚いて、その場はそれでやめたが、理由は、翌日わかった。

 母親にその話をすると、母親はこう言った。「実は、その前日、父親が蒸発しまして……」と。
当時は「蒸発」という言葉を使った。突然いなくなることを、蒸発と言った。おそらくその蒸発に
いたる過程の中で、家族ではげしい騒動があったのだろう。M君は、その騒動の中で、いわゆ
る心的外傷(トラウマ)、つまり心にキズを負った。

 M君が巻き込まれた騒動が、隠蔽記憶。そして画用紙を塗りつぶしてしまったことが、転移と
いうことになる。このことは、子どもを理解するためには、いろいろな場面で応用できる。たとえ
ば子どもが何らかのふつうでない症状を示したとき、第一には、その症状を責めても意味がな
いということ。つぎに、その子どもを動かしている隠蔽記憶をたどりながら、心的外傷をさぐると
いうこと。先のゲーテの話によく似た例だが、こんなこともあった。

 ある母親から六歳になる女児についての相談があった。いわく「うちの姉は神経質で困りま
す。自分のものが、少しでも動いていると、激怒して、暴れたりします」と。

 そこで調べてみると、その女の子の妹が原因だということがわかった。妹への嫉妬が転移し
たと考えられた。その女の子は、ある日、ふと私にこう漏らした。「私、○○(妹名)なんて、ダー
イ嫌い!」と。理由を聞くと、その女の子がだいじにしているおもちゃなどを勝手にいじるという
のだ。そこで私が、「いいじゃない、少しくらい」というと、その女の子は、憤慨(ふんがい)した様
子で、こう言った。「あんな○○なんて、死んでしまえばいい」と。

 この隠蔽記憶、つまりわだかまりは、心の奥底に潜んでいて、あなたや子どもを、裏からあや
つる。しかもあなたや子どもが、なぜそうするかということがわからないまま、あなたや子どもを
あやつる。だからあなたや子どもに、どこか不自然で、どこか理解に苦しむ言動があれば、こ
の隠蔽記憶を疑ってみる。よくある例は、親は、自分の子育てをしながら、自分自身が受けた
子育てを、よきにつけ、悪しきにつけ、無意識のうちに再現する。それも隠蔽記憶ということに
なる。その自分自身が受けた子育てが、心豊かで、愛情に満ちたものであればそれでよい
が、そうでなければ、あなた自身の子育てに、何らかの悪い影響を与えているはずである。そ
ういう目で、自分の子育てを静かに観察してみる。

 まずいのは、そういう隠蔽記憶があることではなく、(だれにでも、そういう記憶はあるものだ
し、心豊かで、愛情に満ちた環境で育った人のほうが少ない)、それに気づかないまま、それに
振りまわされることである。そしていつも、同じパターンで、同じ失敗を繰り返す……。

私もこの「わだかまり」に気づいてから、もう二〇年になる。子どもの行動を観察していて、常識
的なプロセスでは、理解できないこと重なったからだ。「子どもならこうするはずだ」という思い
が、ときどき、行きづまることがあった。当時、印象に残っている事件に、こんなのがあった。

K君とY君という兄弟(兄が六歳、弟が三歳)がいた。見た目には仲がよい兄弟に見えたが、親
がいないところでは、兄は弟を殺す寸前までの虐待を繰り返していた。母親がこんなことを話し
てくれた。「兄は弟を、隣の家との空き地に連れていって、そこで弟を逆さづりにして、頭から落
としていました!」と。

 その兄が、なぜそうしたかということは、そのときは理解できなかった。その兄は、私の目の
前でも、弟思いの、よい兄を演じていたからだ。で、私はその「わだかまり」に気づいた。フロイ
トがいう、隠蔽記憶である。それからは、こうした屈折した子どもの気持ちが理解できるように
なった。と、同時に、子どもは表面的な様子だけを見て判断してはいけないということを、学ん
だ。
(02−10−29)

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●子どもの記憶

 フロイトは、子どもの記憶について、つぎのようなことを書いている。つまり幼児期記憶の回
想について、「言葉や観念によって思い出すという形で回想するだけなく、むしろその回想する
体験にともなう感情や対人関係のパターン、態度のほうを先に反復する」(「フロイト思想のキ
ーワード」小此木啓吾・講談社現代新書)と。

 このことは、たとえば子どもに、ぬいぐるみを与えてみればわかる。心豊かで、愛情に恵まれ
て育った子どもは、ぬいぐるみを見ただけで、うれしそうな笑みを浮かべ、さもいとおしいといっ
た様子で、それを抱こうとする。それはぬいぐるみを見たとき、自分自身が受けた環境を、そ
の場で再現するからである。

 あるいは絵本を与えてみればわかる。「あっ、本だ!」と喜んで飛びついてくる子どももいれ
ば、目をそむけてしまう子どももいる。その本の内容を確かめる前に、だ。こうした違いは、
「本」というものに、よい印象をもっているかどうかで、決まる。幼いときから、たとえば親に抱か
れて本を読んでもらった子どもは、本を見たとき、その周囲の状況や情景を、心の中で再現す
る。つまり本にまつわる「温もり」を、そこに感ずる。だから本を見ただけで、それを好意的にと
らえようとする。一方、たとえばカリカリとした雰囲気の中で、無理に本を読まされて育ったよう
な子どもは、本を見ただけで、逃げ腰になる。

 このことは、人間関係にも影響する。私はメガネをかけているが、初対面のとき、私の顔を見
て、こわがる子どもは少なくない。そこで理由を聞くと、親は、たとえばこう言う。「近所にこわい
犬を飼っている男性がいて、その人がメガネをかけているからではないでしょうか」と。つまりそ
の子どもにしてみれば、(こわい犬)→(こわい人)→(メガネ)→(メガネの人は、こわい)という
ことになる。

 フロイトは、こうした現象を、「転移」と呼んだ。しかしこうした転移は、おとなの世界でも、ごく
日常的に見られる。とくに人間関係において、それが顕著に見られる。たとえば、電話の相手
によって、電話のかけ方そのものが、別人のように変わる人がいる。自分より目上の人だとわ
かると、(無意識のうちに、しかも即座にそれを判断するが)、必要以上にペコペコする。一方、
目下の人だとわかると、今度は必要以上に、尊大ぶったり、威張ったりしてみせる。

 で、こういう人にかぎって、……というより、例外なく、テレビドラマの『水戸黄門』の大ファンで
あったりする。三つ葉葵の紋章か何かを見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝する
と、周囲の者たちが、「ハハアー」と言って、頭をさげる。このタイプの人は、そういう場面を見る
と、痛快でならない。……らしい。

 そこでさらに調べていくと、こういう人たち自身もまた、そうした権威主義的な社会、あるいは
家庭環境の中で育ったことがわかる。つまりこうした感情なり、言動は、それぞれ一貫性をもっ
てつながっている。(権威主義的な環境で生まれ育った)→(自分自身も権威主義的である)→
(無意識のうちにも、それがその人の価値観の根底にある)→(無意識のうちにも、人を上下関
係を判断する)→(水戸黄門が痛快)と。言うなれば、水戸黄門を見ることで、このタイプの人
は、自分の価値観を再確認しているのかもしれない。その確認ができるから、水戸黄門はおも
しろく、また痛快ということにもなる。

 何だか、話が込み入ってきたが、要するに、子ども、なかんずく幼児を相手にするときは、表
面的な「心」とは別に、「もうひとつの心」を想定しながら、接するとよい。たとえば何らかの学習
をさせるときも、(何を覚えたか、何ができるようになったか)ではなく、(そのことが全体として、
どのような印象をもって、子どもの心の中に残るだろうか)を、考えながらする。そしてその印象
がよいものであれば、よし。そうでなければ、失敗、と。先にあげた例で言うなら、子どもに絵本
を見せたとき、「あっ、本だ!」と飛びついてくれば、よし。逃げ腰になるようであれば、失敗、と
いうことになる。フロイトの言葉を借りるなら、「よい転移ならよし。悪い転移には気をつけろ」と
いうことになる。

これを私たちの世界では、「前向きな姿勢」と言っているが、この時期は、こういう前向きな姿
勢を育てることを大切にする。この前向きな姿勢があれば、子どもは自らの力で、前向きに伸
びていくし、そうでなければ、そうでない。が、それだけではすまない。一度子どもがうしろ向き
になってしまうと、それをなおすのに、それまでの何十倍もの努力が必要になる。たとえば小学
校の入学までに、一度本嫌いになってしまうと、以後、好きになるということは、ほぼ絶望的で
あると言ってもよい。「だから幼児教育は大切だ」と言ってしまえば、あまりにも手前ミソというこ
とになるかもしれないが……。
(02−10−30)


      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-9

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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−9号(136)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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今日のテーマ、「子どもの不安」(Uneasiness)

【1】失敗危険度(How to cope with kids)
【2】子育て随筆(Essays for good parenting)
【3】雑感(Forum)
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
うちの子がこわい!
子どもを叱れない親(失敗危険度★★★★★)

●こわくて叱れない
ある雑誌社から原稿依頼があった。「子どもを叱れない親がふえているが、それについて記事
を書いてほしい」と。それについて……。

子どもをこわくて叱れないというのであれば、すでに断絶状態にあるとみる。原因は(1)リズム
の乱れ(親側がいつもワンテンポ早い)、(2)価値観の衝突(親側が旧態依然の価値観に固執
している)、それに(3)相互不信(「うちの子はダメだ」という思いが強い)。この状態で子どもを
叱れば、あとはドロ沼の悪循環!

●親の三つの役目
親には三つの役目がある。(1)ガイドとして子どもの前を歩く。(2)保護者(プロテクター)として
子どものうしろを歩く。(3)友(フレンド)として子どもの横を歩く。日本人はこのうち三番目が苦
手、……というより、「私は親だ」という親意識だけがやたらと強く、子どもを友として見ることが
できない。

●今の状態をより悪くしない
もしあなたが子どもをこわくて叱れないというのであれば、まず子どものリズムで歩き、親の価
値観を一方的に押しつけるのをやめる。そしてここが重要だが、子どもを対等の友として受け
入れる。英語国では、親子でも「お前はパパに何をしてほしい?」「パパは、私に何をしてほし
い」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。また一度断絶状態になったら、
「修復しよう」などとは考えないで、今の状態をより悪くしないことだけを考えて対処する。

●叱ることはむずかしい?
 「叱る」というのは、本当のところは、たいへんむずかしい。子どもを叱るというのは、叱る側
にそれだけの「人格」がなければならない。たとえば教える立場でいうと、よく宿題を忘れてくる
子どもがいる。宿題ならまだしも、テキストや鉛筆すら忘れてくる子どもがいる。しかし私は、ど
うしてもそういう子どもを叱ることができない。理由は簡単だ。私自身もよく忘れ物をするから
だ。自分でもできないのに、どうして子どもを叱ることができるのか。それともあなたは、あなた
の子どもに向かって、「正しいことをしなさい」「まちがったことをしてはだめだ」と子どもを叱るこ
とができるとでもいうのか。もしそうなら、きっとあなたはすばらしい人だ。

●何を偉そうなことを!
 私は幼児を教えるようになって、もう三〇年になるが、どういうわけだか「叱る」ということにつ
いて、おおきな抵抗を感ずる。ときどきは叱ることもあるが、そのたびに心のどこかで、「何を
偉そうなことを」と思ってしまう。先日も図書館の中で騒いでいる高校生がいた。その高校生た
ちを注意してやろうと考えたが、たまたま日本がかかえる不良債権のことが頭の中を横切っ
た。「七〇〇兆円とか八〇〇兆円とかいう、ぼう大な借金をつぎの世代に残して、何を偉そうな
ことを言えるのか」と。とたん注意してやろうという気持ちが吹き飛んでしまった。……そういう
意味でも、子どもを叱るというのは、とてもむずかしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


無理をする→ますますさがるの悪循環
子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●親の欲目
 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で
見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれ
だが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

●やってここまで
 ある子ども(小六男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。またある夜一人の父親が、A君(中
一)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまっ
た」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの
中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しい
が、子どもの学力となると、さらに難しい。

たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強
の量が少なかっただけ」とか、「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかるが、
しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も力の
うち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

●子どもを受け入れる
 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしても
し後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほど
よい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成
績はますますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それ
まで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」という
のは、そういう父親をいう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


それでは子どもがかわいそう
負けるが勝ち(失敗危険度★★)

●親どうしのトラブルは日常茶飯事
 この世界、子どもをはさんだ親どうしのトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ザタ、さらには裁判ザタになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子ど
もが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親どうしのつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はい
る。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうま
ともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

●最初に頭をさげる
 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから…
…」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

●つきあいの大鉄則
 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういう
人たちから苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負ける
が勝ち」。これは親どうしのつきあいの大鉄則と考えてよい。(1298)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ    もし、同じような問題をかかえている人がいたら、
   /│田│ 田│ヽ    このエッセーを、転送してあげてくださいね。   
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(254)

負けるが、勝ち

 子どもを間にはさんだトラブルは、相手が先生であれ、親であれ、子どもであれ、『負けるが
勝ち』。これは子育ての大鉄則。

 ほかのことならともかくも、子どものことで、先生や、親や、相手の子どもと争っても意味はな
い。ないばかりか、争えば争うほど、かえってあなたの子どもの立場は悪くなる。たとえば園や
学校の先生、あるいはほかの親から、何か子どものことで苦情を言われたとする。そういうとき
は、まずこちらが頭をさげる。さげて謝る。あなたが「ごめんなさい、うちの子はできが悪いもの
ですから」と。それを先に言ってしまえば、相手も、「いいんですよ、うちも悪いんです」となる。
そしてあとは、ものごとがスムーズに流れる。理由はいくつかある。

 わかっているようでわからないのが、自分の子ども。とくに子どもは、小学校へ入って、友だ
ちとの第三世界(家族を中心とする世界を、第一世界、園や学校を中心とする世界を、第二世
界という)が大きくなると、何かにつけて親の目が届かなくなる。そして子どもによっては、それ
ぞれの世界で、まったく別の人間を演ずるようになる。そういう子どもの姿を知るためには、ま
ず、親自身が謙虚になること。そのために、先に頭をさげる。

 また子どもに居心地のよい世界をつくるのは、親の役目でもある。中には「それでは子どもが
かわいそう」と言う親もいるが、親がカリカリすればするほど、結局はそのシワヨセは、子どもに
集まる。子どもの問題は、子どもの問題。「どうせ子どもの問題ではないか」という、割り切り
も、ときには大切。こんな事件があった。

 ある子ども(小三男児)が、学校から帰るとき、「足で石を蹴った」。子どもは「蹴った」と言った
が、本当は悪意をもって投げたのかもしれない。が、その石が、運悪く、A教師の車に当たって
しまった。子どもは「たまたま当たった」と言ったが、本当は当てるつもりで当てたのかもしれな
い。A教師の車は、買ってまもない、新車だった。事件は、ここから始まる。

 A教師は、保険で修理費をまかなうことにした。しかしそのためには、事故調書を取らねばな
らない。で、こういうケースでは、教師はその子どもの保護者である親を、加害者にして調書を
作成するしかない。が、その親は、がんとして、それを受け入れなかった。最後の最後まで、
「子どものしたことだから」「そんなところに車をとめた、先生が悪い」と。私にも相談があったの
で、私は、「いいじゃないですか。適当に応じておけば」と言った。A教師の目的は、修理費を保
険でまかなうことだった。その子どもを責めることではなかった。が、それについても、「私は子
どもの名誉のために戦います」と。しかし「戦う」とか、「戦わない」とか、もともと、そういうおお
げさな話ではない。

 もちろんこのケースでも、その事件を境に、親と教師、教師と子どもの信頼関係は、こなごな
に崩れた。教育というのは、その信頼関係で成りたつ。信頼関係がなかったら、教育そのもの
が成りたたない。事実、その事件があってからまもなく、その子どもは、あちこちで問題を引き
起こすようになった。友だちを殴って、ケガをさせるなど。恐らくA教師がその子どもにブレーキ
をかけなくなったためではないか。

 もちろん親に卑屈になれと言っているのではない。正義をまげろと言っているのでもない。た
だ、自分を、子どもと同等の世界に置いてはいけないと言っている。えてして親は、子どもの世
界で、何かトラブルが起きると、その世界に巻き込まれてしまう。そしてそのトラブルに関わって
いるうちに、自分を見失ってしまう。これがこわい。少し前だが、親どうしの、言ったの、言わな
いのがこじれて、裁判沙汰になったケースもある。親や教師の不用意な発言が原因で、親や
教師が転校させられる事件となると、これまた日常茶飯事。が、そういう事件が起きるたびに、
結局は一番キズつくのは、子ども自身ということを忘れてはならない。

 だから、『負けるが、勝ち』。子どものことで、親が争っても、よいことは、何もない。
(02−11−1)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(255)

まじめ七割、いいかげん三割

 子育てでこわいのが、スパルタ主義、極端主義、それに完ぺき主義。

 スパルタ主義というのは、「スパルタ教育」をいう。きびしい鍛錬主義の教育をいう。古代ギリ
シアのスパルタで、戦士教育のために使えわれた、「勤倹・尚武の厳格な教育をいう」(日本語
大辞典)。この主義は、もともと親像に欠ける親が、短絡的な思考で用いることが多い。とくに
幼児期には、してはならない。幼児期は、心豊かな親の愛のもと、穏やかな家庭環境を大切に
する。

 つぎに極端主義というのは、バランス感覚に欠けた教育法をいう。おけいこ塾にしても、毎
日、分きざみのスケジュールを組んだり、あるいは反対に、朝から晩まで、同じことをさせるな
ど。数年前、日本の中学校を訪問したあるアメリカ人の教師が、こう話してくれた。

 「日本の中学校では、たとえば野球部の生徒は、学校が始まる前も、終わってからも、野球
ばかりしている。土曜日も、日曜日も、野球ばかりしている。異常だ」と。

 そこで私が、「では、アメリカの子どもたちは、どうしているか」と聞くと、こう話してくれた。

 「アメリカでは、私たちは毎日、いろいろなスケジュールを組むようにしている。野球部の生徒
でも、音楽鑑賞をさせたり、美術館を回らせたりしている。毎日、野球ばかりさせるようなことは
しない」と。

 日本では、極端であればあるほど、よい教育と誤解しているようなところがある。しかし極端
であればあるほど、「いびつな人間」(失礼!)ができる。しかしこれは本来あるべき、子どもの
姿ではない。またそうであってはならない。

 そして完ぺき主義。この完ぺき主義には、いろいろな意味がある。こまかなことを、神経質に
子どもに守らせるというのも、完ぺき主義。音楽も、体育も、勉強も、はては人間関係もすべて
うまくさせようと考えるのも、完ぺき主義。しかしそれが何であるにせよ、完ぺき主義は、子ども
に害になることはあっても、よいことは何もない。

 子どもは、(そしておとなも)、「いいかげんな部分」で、息を抜き、羽をのばす。いいかげんな
ことを容認せよというわけではないが、手抜きができないほどまで、子どもを追い込んではいけ
ない。言うべきことは言いながらも、あとは適当にすます。先週も、ある講演会へ行ったら、あ
とで、こんな質問が出た。「うちの子(小学生)は、食事中も、姿勢が悪くて困ります。どうしたら
いいでしょうか」と。

 私はこう答えた。「言うべきことは言っても、あとはあきらめなさい。そういう場になったとき、
それができればそれでよしとします。家庭というのは、心をいやし、家族といこう場所です。そう
いうところで、あまりカリカリ言うと、家庭が家庭としての機能を失ってしまいます」と。

 今、親の完ぺき主義が原因で、神経症、さらには情緒障害や、さらには何らかの精神障害に
なる子どもは少なくない。もしそれでもあなたが完ぺき主義がよいというのなら、あなたも明日
から、禅道場かどこかへ入ったような気持ちで、自らを律してみることだ。それをまず、あなた
自身が実行し、それを子どもに見せながら指導する。が、それができないというのであれば、
あ・き・ら・め・る。『まじめ七割、いいかげん三割』というのは、そういう意味である。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

今、子どもの世界では……

●J君の言葉
 中学二年生の、J君と話す。そのJ君が、自分の不安について、ポツリポツリと話し始めた。
彼は、こう言った。

 「次回の期末試験が、気になる。点数が気になる。いつも気になるが、今回は、テスト範囲が
広いから、気になる。勉強の調子はふつうだが、不安な教科がある。英語だ。英語は暗記しな
ければならないことが、たくさんある。暗記はしているが、すべて暗記できるかどうか、不安だ。
一〇〇点をめざしているわけではない。八〇点くらいでいい。しかし八〇点もむずかしい。悪い
点数をとったときのことを考えると、不安になる。点数だけなら気にならない。親が気にするか
ら不安になる。親は気にして、怒る。こわくはないが、ゆううつになる。そして先のことが不安に
なる。成績は、そのまま高校受験に関係してくる。今、言えることは、しっかり勉強して、あとに
なって後悔しないこと」と。

●後悔?
 J君は、「後悔」という言葉を使った。そこで私が、「それはだれかの受け売りではないか」と聞
くと、「ぼくの言葉だ」と。が、今度は、私のほうが考えてしまった。私は、もともと負けず嫌いの
人間だから、後悔という言葉は好きではない。実際には、その言葉を、ほとんど使ったことがな
い。その時点、時点で、現状を受け入れ、そのつどあきらめるべきことは、さっさとあきらめて
いる。今も、そうだ。考えれば、後悔すべきことは、たくさんある。しかしできるだけ、それについ
ては、考えないようにしている。後悔するということは、私にとっては、敗北を認めるようなもの
なのだ。

 それに、私は、いつも、そのつど、懸命に生きてきた。失敗ばかりしていたが、しかしやるべ
きことをやったという思いが強いから、後悔というものはない。たとえば今、知人や友人の中に
は、「肩書き」や「地位」という面では、出世(この言葉は、本当に不愉快だが)した人も多い。日
本でも、一、二を争う大学で、教授になっている人もいる。そういう人たちに基準を置けば、静
岡県の片すみで、こうして売れもしない原稿を書いている私は、まさに失敗組ということにな
る。後悔しろと言われれば、私ほど、後悔しなければならない人間もいない。しかし私は後悔し
ない。その必要もない。しかしこれは私の負け惜しみか。それとも、開きなおりか。あるいはひ
ょっとしたら、後悔するのがこわくて、懸命にふんばっているだけか。……ふと、そんな迷いが、
心をふさぐ。

 が、この問題も、何が本当に大切かという視点にもどれば、おのずと結論が出てくる。名誉
か、地位か、肩書きか、立場か、財力か、と。これについては、私のワイフが教えてくれた。私
のワイフは、まったく野心のない女性で、結婚したころは、同じ人間の中に、そういう人間がい
ること自体、信じられなかった。一方、ワイフは、いつも私にこう言っていた。「あなたはかわい
そうな人ね」と。

 ここまで考えて、私はJ君に作分を書かせた。

●今の自分とこれからの自分

 とうとう一一月に入り、期末テストが近くなってきました。前回のテストでは、まあまあよい成績
をとることができましたが、今回のテストは、今までの努力の結果が出るかどうかという意味
で、特別なテストです。この四か月、自分の不安な科目について、重点的に勉強をしてきまし
た。しかし不安です。もしこの努力について、結果が悪いと、いけないからです。(文は、少し、
筆者が改めた。)

 そのときだ。私は、あのワイフの言葉が、頭の中を横切った。「J君は、かわいそうな子ども
だ」と。

●かわいそうな子ども
 J君は、勉強が好きで、勉強しているわけではない。勉強がしたいから、週に一度、私のとこ
ろにきているのではない。彼がなぜ、私のところにきているかと言えば、背負い込んだ不安と
戦うためにきている。しかしその不安というのは、J君自身がつくった不安というよりは、社会的
な重圧感と言ってもよい。彼は、市内でも一番という進学校に通っている。そういうところでは、
否応なしに、そういった不安の世界に巻き込まれてしまう。

 J君は、さかんに「あとで後悔したくないから」と言っていた。それについて、私は、こう話した。

 「あのね、懸命に生きれば、後悔なんてしないよ。やるだけのことを、やればいい。結果はあ
とからついてくる。しかしね、懸命にやれば、それがどんな結果であれ、それは君自身なんだ。
君が、君自身をつかめば、絶対に後悔はしない。だいたい高校にも、大学にも、いい高校、い
い大学なんて、ないんだよ。またそういうところへ行ったからといって、成功者ということにはな
らない。もちろん、幸福になれるということでもない。君には、すばらしい健康と、才能があるで
はないか。君は、すでに幸福なんだよ。それを信じて、そしてそれを大切にして、今、やるべき
ことをやろう。それでいいんだよ」と。

 J君は、懸命に笑みを浮かべながら、暗く沈んだ心を隠そうとしていた。それが私にはつらか
った。私がせいぜいできることと言えば、J君のそうした不安を軽くすることだが、しかしそれは
もうできないだろう。J君の心をふさぐ大きな石は、石というより、巨大な岩石に近かった。もし
私が精神科医なら、気うつ症という診断をくだしたかもしれない。いつしか私は、J君の好きな、
釣りの話に話題を変えた。そして一時間ほど、その釣りの話をした。

帰り際、岐阜の友人が送ってくれた長良川の写真集を、「あげるよ。いつか、こういうところで、
釣りをしてごらん」と言って渡すと、うれしそうに、それをカバンに入れて、帰っていった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


子育て随筆byはやし浩司(252)

成功?

 二男から、こんなメールが届いた。「昨夜は、S(私の孫)がはげしく泣いた。たいへんだっ
た。……生活はたいへんだけど、ぼくもいつか、パパのように成功したい」と。

 私は最後の「成功」というところで、ハタと息を止めた。「成功? 私が、成功している?」と。

 私自身には、私が成功者だという自覚は、まったくない。ないばかりか、毎日が、まるで薄い
氷の上を歩いているようなもの。また自分の過去を振り返っても、損をすることはあっても、得
をするということは、ほとんどなかった。全体としてみれば、一〇の努力をして、報われたの
は、そのうちの七とか八程度ではなかったか。たとえば親の遺産にしても、ワイフの父親が死
んだとき。一二万円もらっただけ。あとにも先にも、その種類のお金を手にしたことは、ただの
一度もない。

 もちろん私には、肩書きも地位もない。名誉もない。何もない。しかし二男は、私のように「成
功したい」と。いったい、二男は、私の何を見て、そう言っているのか。

 もっとも人生には、そんなに得をすることなど、ない。中には貧乏クジばかり引いている人だ
っている。そういう人からみれば、たしかに私はラッキーだ。健康だし、家族も健康だ。いろい
ろ問題はあるが、みんなで力を合わせれば、何とかなる。たいしたぜいたくはできないが、それ
ほど大きな不幸もなかった。今のように、ほどほどに生きられれば、満足しなければならない
のかもしれない。これから先は、今までのようにはいかないと思うが、しかしその覚悟はできつ
つある。が、自分が成功者だとは、決して思っていない。

 そこで改めて考えてみる。成功者って、何か、と。

 地位や肩書きを得ることか? ……ノー! 名誉や名声を得ることか? ……ノー! 財力
や権力を得ることか? ……ノー! では、何か?

 私は生きることにまつわる無数の「地獄」から解放された状態を、成功というのではないかと
思う。いろいろな地獄がある。

 孤独。だれにも相手にされないこと。
 生きる目的がなくなること。自分の価値がなくなること。
 病気、家族の事故や死、別離。

 どれが一番とか二番とかいうことではないのかもしれない。どれもいやなものだ。ある意味
で、生きるということは、そういう地獄との戦いであると言ってもよい。そういう地獄を味わいたく
ないから、みな、歯をくしばって、懸命にがんばっている。仮に地位や肩書き、名誉や名声があ
るとしても、それはあくまでも結果。またそれがあったからといって、こうした地獄から抜け出る
ことはできない。地獄の中では、何の助けにもならない。ただお金について言えば、お金は人
を幸福にはしないが、なければ、その人を不幸にする。

 ……とまあ、どんどん話がわき道にそれていくのは、そもそも、「成功」とか、「失敗」とか、そ
ういう尺度で人生をみることが、まちがっているからだ。人生には、成功も、失敗もない。だか
ら成功者も、失敗者もいない。またそういう目で、人をみてはいけない。自分もみてはいけな
い。まあ、あえて言うなら、人生の最後の最後まで、生き生きと前向きに生きられる人のこと
を、成功者というのか。たいへんむずかしいことだが、ひとつの努力目標として、私はそう考え
る。

 二男には二男の意見があるのだろう。このエッセーをメールで送ってみて、二男の意見を聞
いてみたい。
(02−10−31)

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子育て随筆byはやし浩司(253)

善人ぶる

 私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。とくにそれを強く感ずるのは、講演に招
かれたときだ。講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。主催者のあいさつのあ
と、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。そのとき、私は、ふと、「どうして
私がここにいるのか」と思う。

 善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらない。さも
知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。何かを聞かれても、
きれいごとだけを並べていればよい。しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うこと
だ。堕落(だらく)から、身を守ることだ。あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いてい
る。「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。
前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないから、善人と
いうわけでもない。人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

 たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。一〇〇万円とか二〇〇万円
でよい。まわりにはだれもいない。あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、まず、な
い。しかもあなたは今、お金に窮している。その日に食べる食事代もない。そういうとき、あなた
は自分の中の邪悪さと戦うことができるか。それが、ここでいう「悪と戦う」ということである。

 こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そういう意味
では、人間はまさに社会的な動物である。人と会っただけで、いつもそういう立場に立たされ
る。そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。ウソをつかない。ゴミを捨てない。ルー
ルを守る。インチキをしない。そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につける。自分を鍛え
る。私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で教条的に、それを決め
て従うようにしている。たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。つじつまを合
わせるために、つぎつぎとウソをつかねばならない。気をめぐらさなければならない。考える力
があったら、もっとほかのことに使いたいという思いもある。だからウソはつかない。が、それで
ももし、大金の入ったサイフが落ちていたら……。

 そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。

 私が大学三年生のときのこと。夜、バス停でバスを待っていると、足もとに一〇〇〇円札が
落ちているのに気がついた。私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを足で踏み
つけて隠した。うしろはたまたま交番だった。私はそのままの姿勢で、じっと立った。今でもそ
のときの気持ちをよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。手でつか
んだとたん、うしろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。私はつぎつぎとやってくるバ
スを見送りながら、時間にして、三〇〜四〇分はそのまま立っていた。

 一〇〇〇円といっても、今のお金になおすと、五〇〇〇円ほどの価値がある。その上、当時
の私は貧乏学生。一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べてみたいと思っ
ていた。が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。私は法科の学生だった。
そういう自負心もあった。だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だったと思う。
あとから並んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、バスに乗り込ん
でいったのを覚えている。

 私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。「君た
ち、交番の前で、五〇〇〇円を拾ったら、どうする?」と。六人の中学生がいた。すると、全員
が、「交番に届ける!」と。そこですかさず、「君たちは、本気か? きれいごとを言っているだ
けではないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。ひとり、「どうせそういうお金は、自分の
ものになるよ」と。

 そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかったの
か、と。いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされるのとでは、
受けとめ方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。そこで話を変え
て、「一〇〇〇円だったら、どうする?」「五〇〇円だったら、どうする?」と聞いてみた。する
と、「一〇〇〇円なら、もらってしまうかな」「一〇〇円だったら、ぼくのものする」と。どうやら、こ
うした善悪は、金額によって決まるようだ。……ということは、彼らがもっている論理は、倫理で
はない。

 それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見ていると
か、見ていないとかいうこととは関係ない。このケースで言えば、金額の大小ではない。あくま
でも自分の問題なのだ。たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミ
なら捨てる」というのは、倫理ではない。たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういう
ふうに、自分を律する力が、倫理なのだ。

 私はしかし、中学生たちが、「一〇〇〇円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったとき、正直
言って、ほっとした。理由は簡単だ。

 私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その一〇〇〇円札を拾って、すかさず自分
のポケットにつっこんだ。そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしかった。本当
にうれしかった。そして私は今でも、はっきりと思えているが、その一〇〇〇円で、喫茶店でお
茶を飲んだあと、あのトンチャン屋へ足を運んだ。ライスが一〇〇円。トンチャンが一皿、一五
〇円。それを腹いっぱい食べた。

 そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……? いつか私を講演会で見る人がいた
ら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。そしてこう思ってほしい。「あの、林め、偉そう
な顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。そう思ってもらったほ
うが、私にとっては、ずっと気が楽になる。
(02−11−1)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     「はやし浩司のサイトの、♪テーマ音楽」が
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【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子育て随筆byはやし浩司(251)

日本の美

 イギリス人の街づくりで、感心するのは、どの街へ行っても、全体のバランスを考えて、街づく
りをするということ。このことは、イギリス本土にかぎらない。いわゆるイギリスの植民地になっ
た国々でも、そうだ。家々のカベの色、屋根の色、形なども、それぞれが調和している。

 一方、日本では、そうではない。先日、インド人の友人が東京へやってきた。「秋葉原へ行き
たい」というので、案内をした。するとその友人は、タクシーの窓から東京の街を見ながら、こう
言った。「すべてがメチャメチャだが、東京は曼荼羅(まんだら)のように調和している」と。彼と
しては、精一杯のお世辞を言ったつもりなのかもしれない。

 で、こうした文化の違いについて、「欧米は、押す文化、日本は、引く文化」と説明した人がい
る。たとえば刀で人を殺すときも、欧米人は、その刀を相手に押しながら、殺す。日本人は、引
きながら殺す。こうした違いは、ほかにも、包丁やノコギリの使い方にも表れる。欧米人は、も
のを切るときも、押しながら切る。日本人は、引きながら切る。

 同じように町並みをつくるときも、欧米人は、外から見た美を追求する。これに対して日本人
は、家の中から見た美を追求する。たとえば欧米では、通りから見たとき家が美しくなるよう
に、家の色や形を考える。しかし日本人は、まず自分の家を高い塀で囲み、その中だけで美を
追求する。つまり塀の外は、どうでもよいと考える。

 こうした民族性がつもりにつもって、今の違いとなった。たとえば私が住んでいるこの地域
は、どういうわけだか、コンクリートのブロック塀が多い。どれも暗い灰色にくすんでいる。また
その上には、クモの巣のように、電線が無数に張り巡らされている。こうした見苦しさは、しばら
く外国を旅行して、日本に戻ってきてみるとよくわかる。わかりやすく言えば、日本人は、街づく
りがへた。

 実際、アメリカへ行ってみると、家の豪華さには、度肝を抜かれる。全体のサイズが日本の
家より数倍大きいこともあるが、それぞれの家々が、全体のバランスを考えてつくられている。
(もちろんそうでない家も多いが……。)地域によっては、屋根の色、カベの色が統一されてい
る。芝生にしても、雑草をはやしておこうものなら、たとえ自分の家の庭でも、行政指導を受け
る。そういうアメリカから見ると、日本の家々は、まだまだといった感じがする。

 ……と、考えて子育て論。どこかこじつけの感じがしないでもないが、こうした「引く文化」は、
どこかで「自分さえよければ」という考え方につながる。「自分の家(うち)さえよければ」が、転じ
て、「うちの子さえよければ」となる。実は、こうした考え方が、教育改革の大きなネックになって
いる。私のような者が、いくら教育改革を唱えても、それ以上は広がっていかない。たいていの
親たちは、自分の子どもが学校を離れると、「うちはもう関係ありませんから」と逃げてしまう。

 こうしたことを総合的に考えると、「押す文化」と「引く文化」の、どちらがよいかという議論は
別にして、社会も、教育も、そして文化も、民族性に大きく影響を受けているのがわかる。言い
かえると、ものごとを考えるとき、そうした民族性の部分までメスを入れないと、解決しないこと
もあるということ。一つの考え方として、参考にしてほしい。
(02−10−31)

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夢判断(the Interpretation of Dreams)

 フロイトの「夢判断(the Interpretation of Dreams)」は、よく知られている。フロイトによれば、
夢は、二重の構造に分かれるという。たとえば眠っているとき、何かの夢を見る。その夢その
ものを、「顕在的夢内容(manifest dream)」といい、その夢の奥に隠されている、意識下の意味
を、「潜在的夢思考(latent dream thought)」という。

 わかりやすく言えば、人間は夢を見るが、夢には、意味があるということ。たとえばソーダ水
の夢をみたとする。その夢そのものが、「顕在的夢内容」。しかしなぜソーダ水の夢を見るかと
いえば、のどがかわいていて、水を求めるから。その「求める部分」が、「潜在的思考」というこ
とになる。

 フロイトは、「夢は、現実と、潜在的意識をつなぐ」と考えた。というのも、潜在的意識は、その
人自身は意識することができない。脳の深い部分に隠されていている。が、その潜在的意識
は、夢という形であらわれるというのだ。そこでフロイトは、その人が見た夢をてがかりに、その
人の脳の奥にひそむ潜在意識をさぐろうとした。それが「夢判断」である。

 実は、こうした手法は、東洋医学にもあって、すでに少なくとも二〇〇〇年ほど前には、中国
で確立されていた(霊枢、淫邪発夢篇)。私が書いた本、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社版)で
も、とりあげた。「フロイトが書いた」というと、どこかありがたい感じがするのは、それだけ私も
権威主義者ということか。それはさておき、もう少し、フロイトの説に耳を傾けてみよう。

 フロイトが言うには、「人はあることを忘れようとすればするほど、そのことを無意識の世界
で、考えるようになる」という。このことも、現実の生活に当てはめてみると、よくわかる。たとえ
ばAさんならAさんのことで、いやなことがあったとする。そのときそのAさんのことを忘れよう
と、心にフタをすればするほど、そのいやなことは、潜在意識の中に、より強くもぐり込む。だか
ら表面的には忘れたかのように見えるが、実際には、潜在意識の中で、より強く、Aさんや、そ
のいやなことを考えるようになるという。

 が、こうした潜在意識のこわいところは、その先である。潜在意識は、あなたが意識できない
ところに巣をつくり、やがてあなたを裏から操るようになる。無意識の世界から、あなたを操る
から、あなたがそれに気づくことはない。

たとえばあなたがもし、子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すと
いうことであれば、まずこの「巣」を疑ってみる。たとえば子どもが何かを失敗したとき、思わ
ず、手が出てしまうとか……。ある母親は、自分の子(四歳児)を叩くとき、いつも「あんたさえ、
いなければ!」と叫んでいた。なぜそう叫ぶのか、自分でもわからなかったという。が、私が「そ
れはあなたが、今の夫との結婚を望んでいなかったからではないですか」と言うと、そのときは
じめて、その母親は、自分の言葉のもつ意味に気づいたようだった。

●あなたの夢判断
 何人かの高校生に、「君たちは、よく、どんな夢を見るか」と聞いてみた。すると、こんな答が
かえってきた。

☆「学校の階段の上から、飛び降りて、空を飛ぶ夢」
☆「バスに乗り遅れる夢」
☆「どこかのホテルに泊まっている夢」
☆「ロボットに追いかけられる夢」と。

「学校の階段から飛び降りる夢」は、抑圧からの解放を願っているということか。「バスに乗り遅
れる夢」「ホテルに泊まっている夢」というのは、追いつめられた高校生の心情を表していると
もとれる。私も、この種の夢をよく見る。「ロボットに追いかけられる夢」もそうだ。この種の夢
は、幼児でもよく見る。幼稚園の年長児にも聞いてみたが、子どもだから、ほんわかとした楽し
い夢を見るというのは、ウソ。大半(半分以上)の子どもは、ほとんど毎日、「こわい夢」を見て
いる(筆者、調査。詳しくは別のところで)。

 そこであなた自身はどうか。あなたは夜眠っているとき、どんな夢を見るだろうか。私が今
朝、こんな夢を見た。その夢を、正直に書く。

 ……私は、数人の仲間と、車に乗っていた。道端に、大きな木の枝が数本、落ちていた。
一、二本はやり過ごしたが、三本目のとき、木の枝が車をこすりそうになったので、私はドアの
外に出て、その木の枝を、さらに遠くに投げた。

 また私は車に乗った。途中、青い壁の家の前で止まった。そこで友人の一人がおりた。それ
までは気がつかなかったが、彼は青い目をしていた。「あいつはアメリカ人だったのか」と隣の
男に聞くと、その男は、そうだと言った。

 が、気がつくと、私はその青い壁の家の中にいた。ずいぶんと粗雑なつくりの家で、中は、ベ
ニア板で仕切られていた。私は自分の部屋をさがすと、窓際の狭い部屋が、それだった。この
あたりで、目がさめた……。

 この夢は、いったい、何を表しているのか。あるいは、何も表していないのか。私のばあい、
夢というと、たいていいつもどこかを旅している。それだけ精神状態が落ち着いていないという
ことか。しかもその旅には、いつも不安がついてまわる。スンナリといかない。道端の木の枝が
それを表している。それはそのまま、今の心理状態を代弁している。私は毎日、心のどこかに
不安をかかえながら生活している。(不安のない人はいないと思うが……。)

 青い目の友人が出てきたのは、これは毎度のことで、あまり意味はないと思う。しかし青い壁
の家は……? そういえば、先月、招待された友人の家は、青い壁の家だった。そこには、オ
ーストラリア人の夫と、スイス人の妻がいた。それが記憶に残っていたのかもしれない。

 最後の狭い部屋は何か。多分、あの部屋は、学生時代の下宿を表していたのだと思う。あの
部屋も、ベニア板で仕切られていた。広さは、四畳しかなかった。……などなど。こうしてときに
は、自分の夢を分析してみるのも、おもしろいかもしれない。さて、あなたは今朝、どんな夢を
見ただろうか。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  みんなでさがそう!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       きっと、どこかに真実があるわ!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時〜12時)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-11-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 512人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  83人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★★★★★★★★★★★★★★
02−11−11号(137)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「知能と記憶」(Brain & its Memory)

【1】こんにちは!(G'day, Mates!)
【2】子育て随筆(How to cope with Kids)
【3】随筆(Essays)
【4】Forum
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
男尊女卑の日本人(金沢学生新聞・02年11月号より)

●私の体は正常ではない?
 私のばあい、足の短さが、いつも悩みのタネだった。何度かズボンを買いに行ったが、私に
合うズボンはない。そこで私はいつも子ども用のズボンをはいていた。長距離列車もそうだ。向
こうのトイレは、おとな用、子ども用と分かれている。男用、女用ではない。しかしおとな用で
は、下まで足が届かない。列車がゆれるたびに、それ以上に体がゆれる。それでは用を足す
ことができない。そこで私はいつも子ども用のトイレを使っていた。まだある。

オーストラリアの学生たちは、よく、パブの前の道路にすわりこんでビールを飲む。そのとき彼
らはひざを立てた状態で、三角ずわりをする。そういう姿勢をとると、ひざの上に、ちょうどうま
いぐあいに頭がのる。が、私はのらない。まさかそういうところで正座するわけにもいかない。
そんなわけで皆と一緒に並んでビールを飲むのが、私には苦痛でならなかった。

●日本の男はモテない
 人種の違い。日本に住んでいると、それを感ずることはない。しかし外国に住んでいると、そ
れを毎日のように感ずる。メルボルン大学の中に、日本人の留学生は私、一人だけ。オースト
ラリア人は、私を通して日本を見、そして日本人を見ていた。そういう視線を感ずるたびに、私
はその人種の違いを意識した。が、それですんだわけではない。いつしか私は違和感を覚える
ようになった。一度や二度ではない。「ここは私の国ではない」という思いだ。あるときは町の中
を歩きながら、自分の足が宙を飛んでいるように感じたこともある。

皆は、親切だった。しかしその親切も、ある一定のワクの中の親切であって、それを越えること
はなかった。それをもっとも強く感じたのは、やはり女性を意識したときだった。日本の男は、
モテるかモテないかということになれば、そのレベルを、はるかに下回っていた。私は異性とし
て相手にされる存在ではなかった。私の身長は一六六センチで、当時の日本では平均的だっ
たが、ハウスの中でも、私より背が低いオーストラリア人は、一〇〇人の中で一人しかいなか
った。加えて日本人は、世界の中でも、骨相学的にも、もっとも貧相をしているということだっ
た。極東の島国で、多民族との血の交流がなかったため、そうなったらしい。目が細くつりあが
り、あごが細く、歯が前へ飛び出している。私はよく、「ヒロシは、日本人のようではない。君の
両親は中国人か」と言われたが、そのたびに喜んでいいのか、悲しんでいいのか、複雑な心境
になったのを覚えている。

●モテない理由はほかに……
 が、本当のところ、日本人の男がオーストラリアの女性に相手にされない理由はほかにあっ
た。たとえばオーストラリア人の男たちは、うしろからやってきた女性でも、ドアを通すとき、そ
の女性を体で包み込むようにして先へ行かせる。マナーの違いといえばそれまでだが、日本人
にはそうした基本的なマナーが欠けていた。が、マナーだけの問題でもなかった。

オーストラリアでは、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだけで離
婚事由になる。日本ではごく当たり前の会話だが、こうした男尊女卑的な体質が、日本人の男
性には、体のシミのようにしみこんでいる。そしてそれがそのつど顔を出す。しかも悪いことに、
少し親しくなると、気がゆるみ、それがそのまま出てきてしまう。私も「おい、お茶!」という言い
方こそしなかったが、それに近い言い方を何度かしたことがある。そしてそのたびに「しまっ
た!」と思い、相手の女性にそれをわびなければならなかったことがある。

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子育て随筆byはやし浩司

●今日も一日、終わった!

 今日も一日、終わった。午前中は、原稿を書いたり、雑務をこなしたりして終わった。昼ごろ
ワイフが、ドライブに行こうと誘ったので、気賀の関所まで行ってきた。浜名湖の北にある関所
だ。正確には、関所跡というのか。今は資料館になっている。

 帰ってきたのが、午後三時ごろ。それから私はコタツに入って原稿書き。ワイフはその間、買
い物に行ったらしい。私があとで、「買い物に行こうか?」と声をかけると、「今、行ってきたとこ
ろ」と言った。そう、私はコタツに入るとまもなく、居眠りをしてしまった。

 夢の内容は、よく覚えている。どこかの温泉で、歌を歌っている夢だった。カベを隔てた隣の
女湯のおばちゃんたちが、パチパチと手をたたいてくれた。二曲目を歌おうとしたら、そこで目
がさめた。時計を見ると、午後四時半を過ぎたところだった。私は、あわててまた原稿を書き始
めた。日曜日に書き溜めておかないと、原稿が足りなくなってしまう。いや、ワイフは、多すぎる
から減らせと、そればかりをいう。私が発行しているマガジンの量のことだ。

 夕食は、ギョーザだった。ニンニクをたっぷりとつけて食べた。こうしてニンニクを食べられる
のは、日曜日の夕食だけ。何といっても、臭いがきつい。犬のハナでさへ、私がニンニクを食
べると、そばにも寄ってこない。息を吹きかけてやると、くしゃみばかりする。犬には、よほどこ
たえるらしい。

 このニンニクは、強壮剤だ。昔、どこかの科学者が、こう教えてくれた。「ニンニクには、興奮
剤と鎮静剤の二つが入っています」と。が、私のばあい、ニンニクを食べると、急に男性的にな
る。もっともそうなるのは、私だけで、ワイフには効果がないようだ。が、それ以上に、私のばあ
い、どういうわけだか、頭がスッキリする。きっと脳のシナプスをつなぐ脳間伝達物質が活性化
するためではないか。これは私の勝手な解釈。

 夜、書斎を出て、居間へ行くと、ワイフは、居間のコタツでコックリコックリと居眠り。テレビは
つけたまま。そこでテレビを消そうとすると、「見てるから、ダメ」と。家の改築をテーマにした番
組だった。今夜は、元銭湯を改築するという番組だった。私もコタツに入って、しばらくいっしょ
に見る。「BEFORE」では、古い銭湯だったが、「AFTER」では、モダンな家に変身していた。
それを見ながら、「うちも改築しようか」と声をかけると、ワイフは、「テレビだから安くできるの
よ」と。つまりテレビ番組だから、業者も安く請け負ってくれるのだ、と。「あんなの七〇〇万円
で、できるわけないじゃない」とも。

 その番組のあと、しばらく、世間話をする。ワイフは、私にとっては、大切な情報源。あちこち
から、いろいろな話題を集めてきてくれる。少し前、「私、スパイみたいでいやだわ」と言ったの
を覚えている。そう、ワイフは、スパイかもしれない。「女の話」は、女のスパイが集めるにかぎ
る。

 夜、一〇時ごろ、またワイフは居眠り。「寝ようか」と声をかけると、「まだはやい」と。そこでま
た雑談。しばらくすると、ワイフは、コタツから出て、インターネットをのぞいた。それを私も横で
見る。「あんたがニンニク臭くないということは、私も臭いということね」と。たがいに臭いときに
は、たがいの臭いがわからない。

 そしてあれこれするうちに時間が過ぎて、ワイフは、先に寝室の中に入っていった。私も寝室
へ入ったが、今度はそこにあるコタツに入り、この原稿を書き始めた。私の家では、各部屋に
一台ずつパソコンが置いてある。一年に一台くらいの割で買いつづけていたら、そうなってしま
った。ときどきワイフが、「下取りに出したら?」と言うが、私にはそれができない。それぞれの
パソコンには、思い出がしみついている。とくに買ったときの喜びがしみついている。パソコン
は、私にとっては、ただの電気製品ではない。

 さて、今日の日記。こうして今日も、平凡に、何ごともなく過ぎた。終わった。何かをしたよう
で、何もできなかった。あっという間に終わってしまった感じ。ニンニクのおかげで、今夜の私
は、かなり男性的だが、肝心のワイフは、ふとんをかぶってもう眠っている。軽いいびきがここ
まで聞こえてくる。そうそう、さきほどワイフは、こんな話をしてくれた。何でもどこかの国で、四
〇歳くらいの妻が、五〇歳くらいの夫を、かみ殺してしまったというのだ。理由は、セックスをし
てくれなかったから、とか。警察が来たときにも、その妻の口のまわりは血だらけだったという。
夫の肉片もあったという。女でも、そうなるのかなと、しばらく考えてしまった。男が女をかみ殺
したという話なら、私にもわかるにだが……。

 今日は〇二年、一一月三日。文化の日だった。今、時刻は、一一時半。これから私も眠る。
いつもの就眠儀式をすましてから眠る。言い忘れたが、寝る前に、いろいろな電気製品のカタ
ログを見て眠るのが、私の就眠儀式。どうか、誤解のないように!

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

回り道は、危険信号

●不登校ばかりが話題になるが……
 園や、学校から、意気高々と、「ただいま!」と帰ってくればよし。そうでなければ、家庭のあり
方を、かなり反省したほうがよい。

 今、不登校ばかり話題になるが、それと同じくらい、問題になっているのが、帰宅拒否。つぎ
の原稿は、その帰宅拒否(中日新聞に掲載済み)である。

●帰宅拒否
 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。「幼稚園で帰る時刻になると、うちの
子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにき
てほしいと。どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがすのですが、お
かげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。私はその話を聞いて、「帰宅
拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、家庭が、家庭としての機能を
果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼児の
ばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当
然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。子どもは外の世界で疲れた心や、
キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければな
らない。が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。「子どもが外
の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』というのがある。つまり人というの
は、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるとい
うことを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関
係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこか
へ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。もう少
しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いということであれ
ば、この帰宅拒否を疑ってみる。家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子ど
もは無意識のうちにも、いやなことを避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家
がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。裏を返して言う
と、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの
家庭はすばらしい家庭ということになる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


マンネリは、知能の大敵

『人は、教育がつけばつくほど、ますます好奇心が強くなる』と言ったのは、ルソー(一七一二ー
一七七八、フランスの文学者、啓蒙思想家。教育論『エミール』など)である。言いかえると、好
奇心が旺盛な子どもは、伸びる。伸びる子どもは、ますます好奇心が、旺盛になる。

 そこで、伸びる子どもの三条件は、(1)好奇心が旺盛であること、(2)生活力があること、
(3)持続的な集中力があること。この三つを兼ねそなえている子どもは、たとえ今は、「5」の能
力であっても、やがて「6、7……」と伸びていく。好奇心の旺盛な子どもは、常に新しいものに、
挑戦的な姿勢を見せる。趣味や遊びが、周期的にどんどん変化していく。幼児の場合、趣味や
遊びがいつも同じというのは、あまり好ましい姿ではない。もしそうであれば、お母さん自身が
新しい趣味や遊びを始め、子どもをその世界の中に引き込むようにする。特にマンネリ化した
生活は、知能発達の大敵と考える。子どもの周辺にはいつも、変化を用意する。

 つぎに持続的な集中力。集中力のある子どもは、人をよせつけないほどの気迫を見せる。お
絵描きでも、ブロック遊びでも、夢中になってする。ただし反復性の強い作業をいつまでも黙々
とするというのは、子ども本来の姿ではないから、もしそうであれば、興味の対象を子どもから
静かにそらすようにする。またテレビゲームなど、強い興奮性をともなう遊びも、幼児には好ま
しいものではない。真夜中でも突然飛び起きてゲームをするというようであれば、当然、やめさ
せる。

 なおこの集中力の大敵は、睡眠不足。年中児で、10時間15分、年長児で10時間というの
が、平均的な熟睡時間。何らかの原因で、恒常的に睡眠時間が短くなると、子どもは特有の睡
眠不足症状を見せるようになる。日中生彩なくボーッとしている、など。集中力に持続性がなく
なるのが特徴で、ものごとにあきっぽくなる。この時期、昼寝ぐせのある子どもも同じような症
状を見せるが、昼寝ぐせのある子どもはその時間にだけ、その症状を見せるという点で区別で
きる。いつまでも昼寝ぐせが取れないということであれば、その時間だけ、ガムをかませるとい
う方法でなおす。

 さてルソーの名言。ルソーは、『教育がつけばつくほど、好奇心がます』と言っている。それだ
け子どもの世界が広がるからということになる。そしてその世界を広げてあげるのが、教育と
いうことになる。

 方法は簡単。子どもにはあらゆる経験をさせる。そしてあらゆるところへ連れていきます。お
金を使って、旅行をせよということではない。郵便局で切手をはらせることだって、子どもには
すばらしい経験になる。こうした日常的な努力が、子どもの世界を広め、続いて、子どもの好奇
心をかきたてる。

 ある著名な女流評論家のお母さんは、その評論家が小学生だったころ、ただの一度も同じ
お弁当を作らなかったという。つまりそういうお母さんの努力が、その評論家をすばらしい女性
にしたと考えられる。
(02−11−3)

(追記)現代の子どもの問題点は、まさに「情報のシャワー」の中で、育っていること。生後まも
なくから、テレビづけになり、しばらくすると、今度は、ゲームづけになったりする。車社会の発
達とともに、親の行動半径も広くなり、その分、ますます子どもに与える情報も多くなる。こうし
た情報のシャワーによる悪影響も、あちこちで指摘され始めている。「子どもの脳があぶない」
(PHP)の著者、福島章氏は、同書の中で、「環境ホルモンという化学物質による、脳そのもの
(ハード)の変化があり、さらに情報環境の変化による脳の働き方の基本システム(OS)の変
化がある」(同書一九ページ)と書いて、この情報シャワーが子どもの脳に与える影響を、危惧
(きぐ)している。
 
 子どもの脳、とくに右脳(形の認識、直感的総合的な判断、創造的想像的思考、情緒的な感
情をつかさどる)ばかりを刺激することの弊害を、もう少し、煮詰めてみる必要があるのではな
いだろうか。とくに最近の子どもたちは、ものごとを分析して、論理的に考える傾向が弱くなっ
たように感ずる。私の年代と比べても、著しく劣っているような気がする。その分析や論理をつ
かさどるのは、右脳ではなく左脳である。

 さらに最近は、「右脳教育ブーム」で、右脳教育そのものが、カルト化している。しかしこれだ
け情報が氾濫してくると、情報の選択と整理こそ必要で、あえて子どもに右脳教育をほどこす
必要はないというのが、私の考えであり、結論である。あくまでも参考までに。

 つぎの原稿は、こうした情報シャワーについて、私の意見を書いたものである(中日新聞掲
載済み)。以前にもこのマガジンで取りあげた。お許しください。

+++++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども
 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突
然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。
その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こち
らの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに
数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級
 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病
欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答し
ている。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九
〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」
(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたり
する」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ
 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてそ
の結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ず
る」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?
 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期
に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレ
ビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしません
でした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎ
る。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎ
る。

●ゲームは右脳ばかり刺激する
 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直
感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつか
さどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こ
うした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えている
ことはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということにな
る。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

++++++++++++++++

(付記)
●ふえる学級崩壊
 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。一九九九年一月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海
道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにさ
れた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生七〇名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……一九人
 教師の指示を行動に移せない       ……一七人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……九人、など(同大会)。

●心を病む教師たち
 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人
から二二〇人程度で推移していたが、九七年度は、二六一人。さらに九八年度は三五五人に
ふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六
年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職
者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患
者は、一六一九人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約
半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレス
によるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策
 現在全国の二一自治体では、学級崩壊が問題化している小学一年クラスについて、クラスを
一クラス三〇人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとってい
る(共同通信社まとめ)。また小学六年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的に
は、小学一、二年について、新潟県と秋田県がいずれも一クラスを三〇人に、香川県では四
〇人いるクラスを、二人担任制にし、今後五年間でこの上限を三六人まで引きさげる予定だと
いう。福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小一でクラスが三〇〜三六人のばあいでも、
もう一人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の
小学校では、六年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入して
いる。大分県では、中学一年と三年の英語の授業を、一クラス二〇人程度で実施している(二
〇〇一年度調べ)。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   もしよろしかったら、このマガジンのことを、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    お友だちの方に、教えてあげていただけませんか。
  /∠_mm_/\ /‥ │     よろしくお願いします。
 /        ●∞ │   もちろん気に入っていただいたらの、話ですが……
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

脳の診断法

 ときどきワイフと、ボケについて、話しあう。幸い、私の家系にも、ワイフの家系にも、ボケた
人はいないので、多分、私たちもボケないだろうと思う。しかしこの年齢になると、心配は、心
配だ。

 そのボケについて、いろいろな診断基準があるようだ。子どもの知能訓練にも役立ちそうな
ので、ここで考えてみる。あるいはあなたの自身の脳の診断に応用できるかもしれない。なお
テスト内容は、田辺敬貴氏や池田学氏の文献を参考に、私が作成した。

(1)再生テスト
だれかに、五つのものの名前を言ってもらう。そしてそのあと、その五つのものの名前を復唱
(再生)する。
例「ハサミ、机、トラック、こいのぼり、くじら」

(2)手がかり再生テスト
身につけているものを、一つ取りあげ、それがいつ、どのようにして、自分のものになったかを
話させる。
例「(サイフを見せながら)、これはいつ、どこで買いましたか。値段はいくらでしたか。あるいは
だれにもらいましたか」

(3)再認テスト
過去に見たことがあるものを取りあげながら、それを見たことがあるかどうかを聞く。
例「(近所の店の写真の一部を見せながら)、この店を見たことがありますか。またそれはどこ
ですか。何の店ですか」

(4)単語完成テスト
言葉の一部を抜いて、それを答えさせる。
例「海□山□」「馬□東□」「油□大□」

(5)再学習テスト
何かむずかしい言葉を与え、それをどれくらい早く、正確に暗記できるかをみる。
例「『脳の辺縁系には、帯状回、海馬(かいば)、扁桃体(へんとうたい)などの組織がある』とい
う言葉を、暗記してください」

 さて、あなたはこれら五つのテストを、クリアできただろうか。実のところ、私は自分の脳の機
能が低下していることが、このところよくわかる。記憶力が悪くなった。集中力がなくなった。洞
察力が浅くなった。機転がきかなくなった。口のロレツが回らなくなった。が、何よりも心配なの
は、思考そのものが混乱し、うまくまとめられなくなったこと。頭の中で、ぼんやりとしているだ
けで、どうしてもそれを吐きだすことができない。文を書いていても、堂々巡りしてしまう。先へ
進まない。もうそろそろボケ始めても、おかしくない年齢だから、心配でならない。今のところ、
一応、これらのテストはクリアできたが、自分が作った問題だから、当然といえば、当然だ。

 ところで最初(1)の、五つのものは、何だったか。「クジラ、トラック、机、……」。三つは思い
出せたが、「ハサミ」と「こいのぼり」は、思い出せなかった。自分で作った問題なのに……。心
配だア!
(02−11−3)

(追記)かなりボケた人(七二歳男性)が、近くにいる。郷土史を書いているが、そんなわけで、
その人が書いた文章は、読むに耐えない。ヘタクソというか、支離滅裂。主語と述語が一致し
ない文章ばかり書いている。たとえば、「佐鳴湖畔に、A聖人(しょうにん)が建立したとされる、
XX寺の近くに、私が訪れると、寺の住職は、うれしそうに、その文書が陳列してある」と。で、あ
る日、私はその人にこう聞いてみた。

 「その年齢で、文章を書いておられますが、脳というのは老化しないのですか」と。するとその
人は、我が意を得たりというような顔をして、こう言った。

 「林君、文を書けるようになるには、三〇年の修行が必要だよ。人に読んでもらえるようにな
るのには、さらに三〇年に修行が必要だよ。私なんか、七〇歳を過ぎて、やっと自分の文章が
書けるようになった。年齢は関係ない。心配しないことだ」と。

 私はその言葉を聞いて、ますます心配になった。

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ホルモンと脳障害

 環境ホルモンが、脳に微細障害を与えるらしいということは、今では常識である。微細障害と
いうのは、目では見えないほどの障害という意味である。そしてこの障害が、今、話題になって
いる、ADHD(attention deficit hyperactivity disorder・注意欠陥多動性障害)にも関連してい
るという(福島章氏「子どもの脳があぶない」・PHP)。もちろん微細障害の原因は、ホルモンだ
けではない。「(妊娠六〜七ヶ月から、生後一年くらいまでの間に)、子どもの脳に、感染、外
傷、酸素欠乏、栄養不足、有害物質、中毒などの悪影響が加わると、脳の形成や発達に異常
が起こる」(同書、二六頁)ということだそうだ。

 福島章氏は、ある少年犯罪者の例をあげ、「この少年の人並みはずれた攻撃性と、性衝動
は、胎児期に(母親に)与えられた、黄体ホルモン製剤によって、彼の脳がふつう以上に、《男
性化》されたためではないか?」と書いている。黄体ホルモン製剤は、天然の女性ホルモンを
まねてつくられた、化学物質である。

 ……何ともおどろおどろしい話である。というのも、今では環境ホルモンは、ありとあらゆる場
所に侵入していて、もはやそれと無縁であることは、不可能になってしまったからだ。北極に住
むアザラシですら、汚染されている。そうした環境ホルモンが、生態系そのものあり方を崩し、
環境すら今までとは、違ったものにしつつある。子どもの脳への影響は、ほんのその一部に過
ぎない。そこで私たちは、親として、どのように考えたらよいのだろうか。いや、考えれば考える
ほど、不安が募(つの)るばかりで、その先が見えてこない。こうした感覚は、恐らく、読者の皆
さんも、同じではないかと思う。そこで私は、つぎの三つのことを提案する。

(1)子育ては、「自然」と旨(むね)とする。「自然を旨とする」というのは、生活の基盤を、過去
一〇〇年はどうであったか、その前の一〇〇年はどうであったかという視点で見なおすという
こと。こと環境ホルモンということになれば、食物に注意する。

(2)この問題を考えるときは、「うちさえよければ……」という論理は通用しない。あなたの子ど
もはたとえ無事でも、そのまた子ども(孫)はどうかという問題につながってくる。自分の子ども
が障害をもつのはつらいが、孫が障害をもつのは、もっとつらい。孫のことで苦しむ、あなた自
身の子どもの姿を見るとことは、言うなれば、ダブルパンチということになるのか。ある母親が
そう話してくれた。そこでおかしいと思ったら、どんどんと戦っていく。電話や手紙、あるいはメ
ールで、抗議する。 

(3)問題をもった子どもや、その親に、心から温かく接する。新約聖書の中にも、こんな一節が
ある。

「他人の悲しみや苦しみを、痛み嘆く人は、幸いだ。なぜなら、彼らは、心安らかに、慰められ
るだろうから(Blessed are those who mourn, for they will be comforted.)」、
「慈悲深い人は、神に祝福されるだろう。なぜなら彼らは、慈悲を与えられるだろうから
(Blessed are the merciful, for they will be shown mercy.)」(Matthew 5-9)と。

 訳は私がつけた。クリスチャンの人が読んだら、怒るかもしれない。私がもっている聖書は、
アメリカ人の友人のJimがくれたもの。Ryrie版の分厚い聖書だ。表紙には、金文字で私の名
前が入っている。こんなことはどうでもよいが、その人の価値は、相手の立場で、いかにその
悲しみや苦しみを共有できるかということで決まる。それができる人は、人間としての価値があ
る。できない人は、そうでない。それはわかるが、むずかしいことだ。今の私には、とてもできそ
うもない。できないが、しかしそういう温かい心を忘れたら、この問題は、絶対に解決しない。ま
たそういう温かい心さえあれば、いかに環境ホルモンで、子どもたちの脳や心が侵されても、こ
わがるものは何もない。
 
 こう書くと、人間には救いがないということになるが、決してそうではない。このエッセーを書く
ときに読んだ、『子どもの脳があぶない』(福島章氏著)の中には、こんな記述があちこちにあ
る。その一つを、引用してみる(同書、三〇ページ)。

 「早幼児期脳障害児は、その障害による適応不全の上に、思春期の心身の変化と動揺が重
なって、たまたま非行に陥ることがあるが、成人後には心身ともに安定するので、適応障害が
起こりにくくなる。また、非行的なサブカルチャに接触して、逸脱した価値観に染まった脳障害
のない青年よりも、そのようなものと無縁の状態で、偶発的・衝動的に事件を起こした脳障害
児のほうが、青年期を脱すると、非行から足を洗いやすい」と。

福島氏は、「問題を起こすのは、思春期だけで、成人になれば落ちつく」「かえってふつうの子
どもより、非行から足を洗いやすい」と書いている。福島氏のこの言葉は、私たちにとって、大
きな励みになる。
(02−11−3)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪       

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-11-2

後半部です!

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

夕暮れどき

 私は夕暮れが、子どものときから嫌いだった。その時刻になると、父は近くの酒屋で酒を飲
み、いつも通りをフラフラと歩いていた。おかげで私のプライドは、ズタズタにされた。しかもそ
れが私が五、六歳のときから、中学三年の終わりごろまでつづいた!

 一度もそういうことはなかったが、学校の参観日でも、父だけには来てほしくなかった。ときど
き先生が、「今度はお父さんにくるように言ってください」と言ったこともあるが、そのたびに、私
は父ではなく、先生や母をうらんだ。

 たまたま先日も、ワイフと買い物を終え、通りへ出ると、その夕暮れだった。薄水色の空を残
し、その向こうには、赤茶けた夕暮れが、広がっていた。冷たい風が頬を切ったそのとき、私
はふと、ワイフにこう漏らした。「ぼくは、こういう夕暮れが嫌いだ」と。

 それからもう四〇年以上になる。とっくの昔に忘れてよいはずなのに、いまだにあのころの自
分が、重く、心をふさぐ。恐らく、私はその重荷から、死ぬまで解放されることはないだろう。何
度も何度も、ワイフの胸の中で泣いたことがある。父が酒を飲んで暴れるたびに、五歳年上の
姉と私は、家の中を逃げ回った。恐ろしかった。こわかった。今でも、「姉ちゃん、こわいよ」「姉
ちゃん、こわいよ」と泣きつづけた自分を、忘れることができない。ときどき、真夜中に、体をガ
タガタと震わせて、泣くこともある。そういうときワイフは、いくらかの水を私の口にふくませ、「あ
なた、なんでもないのよ」「なんでもないのよ」と、私を胸に抱いてくれる。私は私で、子どものよ
うに、ワイフの乳首を吸いつづける。

 こうした心的外傷(トラウマ)は、だれにでもあるものか。あるいは、ほとんどの人にはないの
かもしれない。私がもつ、多重人格性(?)は、こうした心的外傷に起因しているのかもしれな
い。ふだんはやさしくて穏やかな私。しかしどこがどう狂うのか知らないが、ときとして冷酷にな
ってしまう。ときどき、どちらの自分が本当の自分かわからなくなる。……なった。ある意味で、
私の三〇歳代、四〇歳代は、そういう自分との戦いの連続だった。今でも油断すると、別の人
格が顔を出す。すべてを投げ出して、どこか遠くへひとりで逃亡したくなることさえある。「こんな
世界なんか、めちゃめちゃになってしまえ」と思うこともある。

 本当の私はどちらなのか。こうしてものを冷静に書いている私が、本当の私なのか。それと
も、ひょうきんで、冗談ばかり言い、人にペコペコとへつらう私が、本当の私なのか。さらにそれ
とも、つんと冷酷な私が、本当の私なのか。ただ幸いなことに、そういった多重人格性がありな
がらも、いつも冷静な自分が、ほかの自分をコントロールしていてくれる。別の人格になってい
るようなときでも、もう一人の私がそういう自分を客観的に見ていて、「浩司、やめろ」「今のお
前は、本当の自分ではないぞ」と、声をかけてくれる。

(人前での私)……冗談が好きで、笑わせじょうず。口が達者で、おもしろい。好奇心が旺盛
で、行動的。さみしがり屋で、気が小さい。冷静な判断力があって、正義感が強い。

(ときどき顔を出す私)……冷酷な判断を、ズバズバ出す。孤独に強く、ひとりでも生きていか
れるように思う。めんどうなことをしていると、頭が混乱する。とくに反復作業ができない。もの
ごとに攻撃的、かつ暴力的になる。

(本当の私?)……学者的で、理論家。沈着、冷静で、合理的なものの考え方をする。静かに
ぼんやりしていることを好む。人に会ったとたん、愛想のよい男に変身する。

 そういう私が、子どものころ、かろうじて自分を支えることができたのには、二つの理由があ
る。ひとつは、やさしい祖父母が同居していたこと。近くに親類がいたことも、幸いした。私は家
族とは、決して一対一の関係にはならなかった。

 もう一つは、末っ子の強みというか、よい意味でも悪い意味でも、放任されたこと。毎日、真っ
暗になるまで、外で、目いっぱい、遊んだ。そして夏休みや冬休みなど、休みごとに、母の実家
で、好き勝手なことをしたこと。もしこれら二つのことがなかったら、私は今、確実に精神を病ん
でいただろうと思う。

 今、私のそういう経験が役にたっているとは思わないが、しかしそういう意味では、そうでない
人より、「心の問題」がよくわかる。恐怖症にしても、神経症にしても、私はそういうのを、自分
で体験している。よく冗談ぽく私は、「ありとあらゆる精神病を、広く、浅くもっていますから」と言
うが、それは決して誇張でも何でもない。こうしたコラムをとおして、私のそうした「欠陥」が、皆
さんのお役に立てれば、うれしい。

 話がとんでもないわき道に入ってしまったが、夕暮れの中でも、とくに秋の夕暮れは、さみし
い。どこがどうというわけではないが、自分という人間を、かぎりなく小さくする。私はコートのチ
ャックをあげると、ワイフにこう言った。「今夜は鍋物にしてよかったね。うんとあったかくして食
べよう」と。ワイフはそれに答えてニコリと笑い、私の腕の内側に、自分の手を入れてきた。

(追記)私の恐怖症についての、原稿を転載します。

+++++++++++++++++++++++++

私の恐怖症(中日新聞に掲載済み)

●九死に一生
 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして
文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れ
た。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように
感じた。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった
……。恐怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたく
ない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがあ
る。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続
出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。
それが恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふ
つう、次の三つに分けて考える。

(1)対人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程
度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注
意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて行ったような場所
でも、わがもの顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に
出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこ
わくて行けなくなる(学校恐怖症)などの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できな
い、人と会えない、人と話せないなどの症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗
れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。これはある子ども(小一男
児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始めるという。親から相談が
あったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにある、トンネルらしいということ
がわかった。その子どもは閉所恐怖症だった。実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足
すことができなかった。それと関係があるかどうかは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに
入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

(3)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶって見せただけ
で、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、一五人に一人はいる(年中児)。ただ子ども
のばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原因がわから
ないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多い。

これも私のことだが、私は三〇歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのため
それ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、い
つも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原
因になる。また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となっ
て表れる。高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パター
ン)ができるためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機
恐怖症になり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番
 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意
味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無理をすればするほ
ど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、
できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。

私のときも、その事故から数日間は、車の速度が五〇キロ前後を超えると、目が回るような状
態になってしまった。「気のせいだ」とはわかっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと
汗をかいていた。が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言い
きかせることで、克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、
夜中でも興奮状態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではど
うにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学
不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別
する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者も
いる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりや
すい。

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北朝鮮

 ありもしない外国の脅威をかきたて、独裁政権を維持しようとする北朝鮮。あの国を見ている
と、教育の恐ろしさもさることながら、人間が本来的にもつ愚かさを見せつけられるようで、もの
悲しくすらなる。

 すでに北朝鮮の国家経済は、完全に崩壊している。自国の紙幣は、外国では、紙クズ同然。
北朝鮮では、彼らが言うところのレートで換算すると、タバコ一箱が、六万円(!)だという。仮
にあの見るからに粗悪なタバコを、国際の市場価格で、五〇円と計算しても、何と彼らは、自
分たちの通貨を、一二〇〇倍も、サバを読んでいることになる。(実際には、あのようなタバコ
は、商品価値はない。)ここまでくると、笑うよりも先に、もののあわれすら感ずる。 

 彼らが鎖国しているのは、自国民につきつづけているウソが、バレるのがこわいからだ。少し
前まで、「韓国は、私たちより貧困で、アメリカの支配下で、民は奴隷になっている」とさかんに
宣伝していた。聞くところによると、テレビもラジオも、チャンネルは固定式で、国営の放送しか
見たり聞いたりできないそうだ。また新聞も、黒刷り、青刷り、赤刷りと三種類に分かれてい
て、一般庶民は、黒刷りの新聞しか読むことができないという。青刷りというのは、高級官僚
用。赤刷りは、さらにその上の政府要人用。青刷りも、赤刷りも、読んだら、回収されるしくみに
なっているという。

 もし北朝鮮が、外国の情報を解禁したら、あの独裁政権は、「三日でつぶれる」(国会審議会
答弁)というが、私もそう思う。だからあの独裁者は、必死になって、鎖国政策をつづける。つ
づけるしかない。が、そこで私は気がついた。あの北朝鮮という独裁国家を見ていると、それ
がそのまま、個人にも、当てはまるということ。私が以前、カウンセリングした家族に、こんな人
がいた。

 G氏(七五歳)という男性がいた。相談してきたのは、そのG氏の長男の嫁にあたる女性だっ
た。いわく、「G氏ほど、見栄、メンツ、世間体にこだわる人はいないが、どうしたらいいか」と。

 一度、見栄、メンツ、世間体を気にし始めると、自分がなくなってしまう。そしてそれが長くつ
づくと、生きザマそのものが、常識的なものの考え方から、はずれてしまう。が、当の本人が、
それに気づくことはない。自分では正常だと思う。またそれが世のあるべき姿だと、錯覚する。
G氏について、その女性はこう言った。

☆家系が火の車でも、冠婚葬祭の仏前、香典、祝儀などを少なめにすると、不機嫌になる。
☆車は、古いベンツに乗っているが、車検は切れ、登録は抹消されている。近所を乗り回す程
度だからよいが、いつ警察にバレるかと、ハラハラしている。
☆あちこちに空き地をもっているが、その空き地を担保に、お金を借りている。しかも借りる相
手は、親戚ばかり。
☆二男や長女からも、お金を借りている。「質素に生活しよう」と何度も提案しているが、その
たびに、激怒する。
☆「家の中の恥ずかしい話を外でするな」と、そればかりを口ぐせにしている。実家へ数日行っ
て帰ってくると、親にどんな話をしたか、しつこく聞く。
☆長男(その女性の夫)には、「育ててやった」が口ぐせ。「お前の大学の費用は、○千万円か
かったから」と。

どこかどう北朝鮮的であるかは、もうおわかりかと思う。一応、あの国にも、国としてのメンツも
あるだろうから、これ以上のことは書けないが、結局はその被害者は、北朝鮮の国民自身で
あること。そのことは、日本から拉致(らち)された、日本人の被害者を見るだけでもわかる。だ
から私は、あえて言う。

 金正日よ、……。

ああいう頭のおかしい独裁者を批判するのは、もういやになった。あの顔を頭の中に思い浮か
べるだけで、ぞっとする。(……)の部分には、適当な言葉を入れて読んでほしい。

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子育て随筆byはやし浩司(267)

読者の数が五〇〇人(E−マガのみ)を超えた日に

●読者の方との「糸」
 私は若いころから、たくさんの本を書いてきた。自分のペンネームで出したのも含めると、三
〇冊以上になる。二〇歳代のころは、有名人やタレントたちのゴーストライターもしていた。一
応、守秘契約にサインをしているので、その人や本の名前を明かすことはできない。

 で、このところ、マガジン用の原稿に、全力を注いでいる。以前も同じように書いていたが、本
のことは、もう頭にない。「これ以上、本を出したところで、それがどうなのか?」という思いが強
い。私の本は売れない。出版社の人も、こう言う。「あなたにもう少し、知名度がもう少しあれば
ねえ……」と。

 が、このマガジンには、不思議な魅力がある。それは「私」と「読者の方」が、それぞれ一本の
糸でつながっていることだ。本よりは、それがはるかにはっきりしている。私は日々に、思いつ
いたことを書き、それをこうして配信する。本のばあいは、中身の原稿が、何度も選択、推敲さ
れる。印刷に回るまでにも、数か月かかることがある。出版されるころには、自分がはるか先
へ行ってしまっていることが多い。が、マガジンは、そうでない。この原稿にせよ、書いているの
は、一一月三日。配信日は、一一月一一日を予定している。少し間を置くことになるのは、私
のばあい、予約を入れながら、配信するからだ。一一日号は、多分、明日(四日)に、配信予
約を入れることになる。

 ただ大きな迷いはある。ときどき「どうしてこんなことをしているのだろう」と。あるいは「何にな
るのだろう」と思うこともある。が、そういうとき、一人、二人と読者の方から、「役に立っていま
す」というメールが入ったりすると、そういう迷いが吹き飛んでしまう。「発行してよかった」という
気になる。

 私はこのマガジンをとおして、自分の経験のすべてを読者の方に伝えたい。私はこの地球に
生まれ、ほんの瞬間だが、皆さんといっしょに、生きている時間を共有できた。同じ文化をも
ち、同じ言葉を話し、そして同じような立場で、無数の子育てを経験してきた。それはまさに奇
跡のようなものかもしれない。いや、奇跡だ。

●時間を共有するために
 私が死ねば、私はもちろんのこと、この宇宙も、消えてなくなる。どこかへ行ってしまう。「あ
る」はずなのに、「消える」。「見えない」。スティーブン・ホーキングというイギリスの科学者は、
そういう宇宙が、ここにもそこにも、あそこにも、無数にあるという。要はその宇宙に生まれて
みないと、その宇宙がわからないということか。が、たまたま私は、皆さんと同じように、この宇
宙に生まれた。そして今、その宇宙の片隅にある地球で、同じ空気を吸っている。私とあなた
は、別々の人間かもしれないが、宇宙という規模、さらには宇宙の歴史という中でみると、他人
というよりも、仲間というよりも、一つの同じ生命体ということになる。

 何とも大げさな話になってしまったが、しかし私は、そう考える。だから、その共有をしっかりと
するために書く。自分の経験をすべて出し切ることについて、それがもったいないとか、そうい
うことはもう考えない。出し惜しみもしない。いつも最善のものを、すべて出し切っている。今も、
そうだ。これからも、そうだ。死ぬまで、そうだ。こうしたマガジンが、みなさんの役に立つかどう
かは、本当のところ、よくわからない。中には、「こんなこと書いて!」と怒っている人も、いるか
もしれない。しかしもしそうなら、私を許してほしい。私はあなたという人を、不愉快にしたり、怒
らせるために、このマガジンを発行しているのではない。

 私は、こうして「今」という時間を、あなたという読者と、共有できることを、心から感謝してい
る。私は生きている。あなたも生きている。いっしょに生きている。そのように実感できること
を、心から感謝している。願わくば、これから先、いろいろ苦しいことや悲しいことがあるかもし
れないが、みんなが力をあわせて、そういう苦しみや悲しみを共有したい。助けあい、励ましあ
い、慰めあい、そしていっしょに生きていく。そのための一つの武器として、私の経験が役にた
てば、こんなうれしいことはない。

●私はただの「情報屋」
 親は子どもを育てる。それを「子育て」という。しかし子育ては、ただの子育てではない。そこ
には、人生の意味、生きる意味、そして私たちがなぜここにいて、どこへ行くかという理由、そ
れが隠されている。それを知るかどうかは、その人の問題意識の深さによる。しかしもしあなた
が、謙虚に、そのドアをたたけば、子どもたちのほうが、それを教えてくれる。実のところ、私が
そうだった。このマガジンをとおして、そういう私が学んだものを、みなさんにお伝えしたい。

 もちろんそれを判断し、選択し、ときには批評しながら、利用するのは、あなた自身ということ
になる。私ではない。そういう意味では、私はただの「情報屋」にすぎない。そういう本分を忘れ
ず、これからも力がつづくかぎり、マガジンを発行する。本当に、このマガジンをご購読してくだ
さっていることについて、心から感謝している。これからも末ながく、どうか、どうか、よろしく!
(02−11−3)※


      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-13-1

彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 512人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  83人
***************************************

はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−13号(138)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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q ・・│\\  (( ( ((  //│・・ p
   O ) つ⊆        В⊂ ( フ
   ̄ ̄ ̄   \\△◆□●◎◆//    ̄ ̄ ̄
         ┐─────┌
      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「平凡は美徳だが……」(Life is beautiful, but…)

【1】今、子どもたちの世界で(Children Nowadyas)
【2】ゴーストライター(A Ghost Writer)
【3】 平凡は美徳だが……?(Life is beautiful, but …)
【4】時事評論(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

今、子どもたちの世界で……

 今、小学生の間で流行しているのが、ダジャレ。この中のいくつかを覚えておいて、子どもの
前で言ってみるとよい。子どもは、あなたを尊敬するようになる。なおこれらのダジャレは、子ど
もたちから聞き取り調査したもの。ほとんどは、雑誌などからの受け売りかと思われる。

★オオカミがトイレに入って、こう言った。「オー、カミが、ない」。
★カエルが、ヒックリカエル。
★「山田さん、本、返した」「いや、まだです」
★お山が火山で、ふっとんだ。おや、マー。
★教育テレビに、きょう、行く?
★浅草は、朝、臭い。
★グラスが、三つで、サングラス。
★パンを、ジーと、見つめて、ジーパン。
★パンが二枚で、パンツー。
★ダジャレを言ったのは、ダーレジャー。
★ジーが二人で、ジジイ。
★カッパが二匹で、カッパ・ツに泳いでいた。
★アルミ缶の上にある、ミカン。
★屋上に、ウンコ、置くじょう。
★下駄箱の上に、げっ、タバコ!
★ロシアの殺し屋、ああ、おそろしや。
★スパイダーマンが、梅ぼしを食べて、オー、スッパイダー。
★ジャイアン、死んじゃ、イヤ〜ン。
★林先生が、ひげ、はやした。

 これを書いていて思い出したが、私にも、こんなことがあった。留学しているころ、オーストラ
リアの小学校へ行くと、子どもたちが私のところへやってきて、手を合わせ、「アッソウ、アッソ
ウ」と言った。どこかで日本語を覚えたらしい。私はたいへん気をよくして、それを喜んでいた
ら、オーストラリア人の友人が、こう話してくれた。「ヒロシ、君はからかわれているんだよ。アス
というの、おしりの穴、ソアというのは、痛いという意味。だから『アッソウ』というのは、『おしり
の穴が痛い』という意味だよ」と。

 実はその少し前、日本の天皇がアメリカを訪問して、この言葉を連発した。それをオーストラ
リアのテレビ局が、それを報道したらしい。それでオーストラリアの子どもたちの間で、この言
葉が流行した。当時といえばまだ、日本や日本人が、オーストラリアでは警戒されている時代
だった。
(02−11−4)

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「なぜ」「どうして」

 年中児(満五歳ごろ)から、年長児(満六歳ごろ)にかけて、子どもの会話の中に、「なぜ」「ど
うして」が、急速にふえる。こうした質問をとおして、子どもは、「論理」を学ぶ。だからこの時
期、子どもの質問には、ていねいに答えてあげること。しかし、親子のチン問答も少なくない。

(子)「お母さん、どうしてテレビは映るの?」
(母)「それは映るようにできているからよ。映るからテレビというのよ。映らないのは、テレビと
は言わないでしょ」
(子)「……?」

(子)「お母さん、どうしてテレビは映るの?」
(母)子どもに、外の電線を見せながら、「あそこから入ってくるのよ」
(子)「……?」

 まずいのは、何でも神様のせいにすること。

(子)「どうして夜になると、お星様が出てくるの」
(母)「そのように、神様がしたからよ」
(子)「どうしてお日様があるの?」
(母)「神様が、そうしたからよ」
(子)「どうして風が吹くの?」
(母)「神様が、そうしたからよ」

 この時期をとおして、A=B、B=C、だからA=Cという論理を学ぶ。しかし最近読んだ本に、
こんなのがあった。これは中学校で使う英語の教科書(Sun Shine・中二)に出ていた話であ
る。

 ある女の子(バージニア、八歳)が、「サンタクロースはいるか?」という手紙を出したことに対
する返事だが、これがおもしろい。

「だれもサンタクロースを見たことがないわね。しかしこの世界には、見ることができないものが
たくさんあるよね。たとえば愛は見ることができないでしょ。しかし愛はあるよね。だからサンタ
クロースはいるのよ」(プログラム8)と。

 これはもうメチャメチャな論理である。こんな論理がまかりとおったら、幽霊も、悪魔も、ドラキ
ュラもいることになってしまう。天国も、地獄もあることになってしまう。(本当にあるかもしれな
いが……。)

 一方、こうした子どもたちの論理が、破壊されつつあるのも事実。少し前だが、幼稚園の年
長児で、「学校へ行きたくない」という子どもが続出した。理由を聞くと、「花子さんがいるから」
だった。当時、「学校の怪談」というテレビドラマがはやった。それが理由だった。ほかに、小学
校の中学年から高学年にかけて、まじないや、占いにこる子どもは多い。信じている子ども
は、本気で信じている。私が「あんなのはインチキだよ」と言っても、まったく聞く耳をもっていな
い。携帯電話の運勢占いには、毎日、一〇〇万件以上ものアクセスがあるという。とても悲し
むべきことである。

 子どもの質問には、どんなばあいも、ていねいに答える。これは子育ての要(かなめ)と言っ
てもよい。そうそうテレビについてだが、あるお母さんは、虫眼鏡(めがね)をもってきて、テレビ
の画面を拡大して子どもに見せたそうだ。そしてこう説明した。「テレビには、こまかい電気が
いっぱい集まっているのよ。それがついたり消えたりして、映像が映るのよ」と。どうもこのあた
りが正解のようだ。
(02−11−4)

●仮に運命というものがあっても、最後の最後まで、ふんばって生きよう。そこに生きる人間の
尊さがある。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ゴーストライター

 一一月も入って、まもないころ、一人のドクターから、ハガキが届いた。読むと、「このところ
体調をくずして、年始の年賀状を失礼させていただきます」とあった。よほど体の具合が悪い
のだろう。追伸の欄には、「お手紙をいただきましても、返事を書く気力もないと思いますので、
どうかお許しください」とあった。私とワイフは、そのハガキを見て、しばし言葉をつまらせた。

 私は二〇代のころ、いろいろな出版社で、ゴーストライターをしていた。そうして書いた本は、
一五冊はあると思う。「思う」というのは、こうして生まれる本は、いろいろな人の手を経て出版
されるからだ。私があらかじめ原稿を書き、あとで著者が手なおしするというケースもあった。
あるいは著者が、まず自分の声をテープレコーダーに吹き込み、それを聞きながらリライトす
るというケースもあった。だから実際のところ、何冊書いたかと聞かれても、わからない。

 が、どういうわけか、私が書いた本は、どれも売れた。その中の一冊に、「xxx」という本があ
る。あるホームドクターの日常的なできごとを書いたものだが、これはあとで、テレビのドラマに
もなり、そののち、一〇年以上も売れつづけた。が、私はいわば、請け負い業者。原稿ができ
た段階で、いくらかのお金を受け取って、それでおしまい。ふつう、相手の方が私を忘れる。…
…忘れたがる。

 ゴーストライターには、一応、守秘義務というのがある。原稿を売った段階で、著作権も渡
す。と、同時に、以後、その原稿にまつわるいっさいの権利を放棄する。あとになって、「あの
本は私の書いたものです」とは、言わない。言えない。言ってはならない。

 が、その本が、そこまで売れるとは思ってもみなかった。出版後、ちょうど一年で、一二万部
も売れた。定価が一八〇〇円。そのドクターへの印税は、一二%だったから、それだけで約二
六〇〇万円近くになった。なんとか賞という、賞まで取った。私はそのニュースを出版社からの
電話で聞いたが、そのドクターは、さぞかし居心地の悪い思いをしたことだろうと思った。とても
いっしょに、喜ぶ気にはなれなかった。
 
 が、ふつうなら、著者(?)と私の関係は、私が出版社へ原稿を売り渡したときに終わる。しか
しどういうわけだか、そのドクターとは、それから三〇年近くも、関係がつづいた。そのドクター
は、ことあるごとに、私に気をつかった。その気持ちは、よくわかった。あるいはあとになって、
私が彼の名誉をひっくり返すようなことをするとでも思っていたのだろうか。しかし私はそんなタ
イプの人間でない。

 そのドクターからは、年賀状だけは、毎年届いた。ときどき数年、私のほうが出さなかったこ
とはあるが、それでも、毎年届いた。が、そのうち何というか、私は親近感を覚えるようになっ
た。実のところゴーストライターとして書いた本など、見たくもない。思い出したくもない。その著
者(?)の名前を聞くだけで、不愉快になる。いつか私は、ゴーストライターは、娼婦のような商
売だと思ったことがある。娼婦は体を売るが、ゴーストライターは、魂を売る、と。それに私が書
いた本が売れたという話を聞くのは、気持ちのよいものではない。何だか損をしたという気持ち
になる。

 マスコミの世界は、本当に不可解な世界だ。中身など、ほとんど評価されない。そのドクター
は、先にも書いたように、なんとか賞という賞を受賞している。が、その賞は、本来、私がもらう
べきものだ。しかしなぜ彼がその賞を取ったかといえば、その本が売れたからにほかならな
い。そしてなぜ売れたかというと、中身ではない。そのドクターのもっていた、知名度だ。彼の父
親は、xxxの世界ではよく知られた有名人だった。

 実際には、私はそのドクターとは、一度しか会っていない。最初、出版社の編集長が、私を彼
に紹介したときだ。あとは私のほうで勝手に原稿を書き、そのまま出版社に渡した。ここにも書
いたように、この種の本は、いろいろな方法で出版される。しかしその本は、私があちこちの病
院を取材し、ほぼ一〇〇%、私が書きあげた。ただ「本」というと、特別の思いをもつ人も多い
が、私にとっては、ただの商品。それを書くのは、私のビジネスだった。だからそういうインチキ
なことをしながらも、私自身には罪の意識はなかった。が、それが一〇年、二〇年とたつと、変
わってきた。その後、私が自分の名前で出した本は、どういうわけだか、売れなかったこともあ
る。「やはり、この世界、知名度が大切」ということを思い知らされるたびに、自分のしてきたこ
とを後悔するようになった。

 そのドクターから、ハガキが届いた。文面からすると、冒頭にも書いたように、病状はかなり
重いらしい。読み返せば読み返すほど、病状の重さが、ひしひしと伝わってきた。心のどこか
で、憎んだこともある。心のどこかで、軽蔑したこともある。心のどこかで、ねたんだこともあ
る。そのドクターが、重病だという。もう少し若ければ、知人の死として、距離を置くことができた
だろうが、「自分の時代は終わった」という思いが、私の心をふさいだ。仮にそのドクターが死
ねば、ゴーストライターをしていたころの自分も死ぬことになる。あのときのあの本が私の本だ
と、それを証明する人がいなくなる。

 「しかしこのドクターも、根はいい人だったんだね」と私が言うと、ワイフも、「そうね」と。「最後
の最後まで、ぼくのことが気になったのだろう。いや、ぼくなら気になる。降ってわいたような企
画に、名前を貸しただけで、数千万円の印税を手にした。その上、賞までもらい、ちょっとした
有名人にもなった。そのもととなる本が、ゴーストライターによるものだとなるとね」と。
 「あなたがいつか名乗り出るとでも思ったのかしら?」
 「ははは、ぼくはそんなことはしない。しかし、だよ。そのドクターは、その前にも、そしてその
あとにも、一冊も本を書いてない。きっと書けなかったのだろうね」
 「でも、何だかかわいそう」
 「そうだね。結局は自分の人生を汚してしまった。でも、あの賞の授賞式のとき、『この本は、
林というゴーストライターが書いたものです』と言いたかったのかもしれないね」
 「でも、できなかった……」
 「そうだね。彼としては、この話は墓場までもっていくつもりだよ」

 私はそのハガキをもう一度ゆっくりと読みなおすと、壁につりさげた状さしの中にしまった。そ
していつものように外へ出て、自転車にまたがった。
(02−11−5)

(追伸)このエッセーは、そのドクターのために書いた本の文調と構成をまねて書いてみた。こ
の文調と構成こそが、その本が私の本であるという証拠でもある。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

平凡は美徳だが……

 平凡は美徳だが、その平凡からは、何も生まれない。この相矛盾した命題を、どう考えたら
よいのか。

 そもそも平凡であることには、すばらしい価値が隠されている。賢明な人は、その価値をなく
す前に気づく。愚かな人は、それをなくしてから気づく。しかしここでひとつのカベにぶつかる。
「だからどうなのか?」というカベである。

 実のところ、私は最近、何をしても、この「だからどうなのか?」というカベにぶつかる。昨夜も
テレビを見ていたら、若い女性たちが温泉の露天風呂に入り、「ああ、いい気持ちイ!」「気分
は最高!」「モミジがきれいイ!」と叫んでいるのが、目にとまった。そのときもふと、「だからど
うなのか?」と思ってしまった。

 ……と考えてみると、私たちは日常生活の中で、「だからどうなのか?」という部分を、ほとん
ど省略して生きているのがわかる。あるいはそれを考えるのを避けているのかもしれない。も
し「だからどうなのか?」ということころまで考えてしまうと、生活そのものが成り立たなくなってし
まう。あるいは懸命に生きているあなたに向かって、だれかが、「だからそれがどうなの?」と
聞いたとしたら、あなたはいったい、それに何と答えるだろうか。

 「平凡であること」には、この「だからどうなのか?」という問題が、いつもついてまわる。人は
平凡であることを求めながら、平凡すぎると、生きる意味そのものを見失ってしまう。そこでこ
の問題を解くために、私は、あえて「平凡」を、二つに分けて考えてみることにした。

 一つは、日々の生活者としての平凡。もう一つは、人間としての平凡。前者は、「生物として
の平凡」と言いかえてもよい。たとえば朝起きて、朝食を食べる。仕事に行く。昼食を食べる。
仕事をして、家に帰り、そして床につく。そういう平凡をいう。

 これに対して後者は、人間としての平凡をいう。「人間」から、「人」をとった、その「間」にある
ものということになる。わかりやすく言えば、「思想」「知恵」「道徳」「哲学」ということになる。もっ
と言えば、精神的な生きザマをいう。

 平凡を、とりあえず、この二つに分けることによって、最初の命題に答えることができる。
日々の生活者としての平凡は美徳だが、精神的な生きザマにおいて平凡というのは、美徳で
も何でもない。むしろその人にとっては、危険なことでもある、と。人生そのものを、ムダにする
ことにもなりかねない。

 そこで大切なことは、日々の生活者としての平凡は守りつつ、精神的な生きザマを、いかにし
て高揚させるかである。この部分を省略してしまうと、いつも、「だからどうなのか?」というとこ
ろで、その人の生きザマが止まってしまう。動物と同じになってしまう。先に例をあげた、温泉に
入った若い女性たちの例で考えてみよう。

 彼女たちが露天風呂の温泉に入ったのは、日々の生活の延長でしかない。あるいは日々の
生活の一部でしかない。「ああ、いい気持ちイ!」と叫んだのは、食事をしたあと、「ああ、おい
しかったア!」と言うのと、どこも違わない。人は、パンと水があれば生きることができるが、し
かしパンと水だけで生きても、生きたことにはならない。そこで彼女たちが人間として生きるた
めには、「だからどうなのか?」という部分に、彼女たち自身が答えなければならない。

 ……とまあ、またまた複雑な話になってしまった。本当はこのつづきを書きたいが、書けば、
多分、読者の皆さんが、逃げてしまうと思う。「林の話は、理屈ぽくて、ダメだ」と。多分ワイフに
相談しても、「むずかしいことは考えないで、楽しめばいいのよ」と言うにちがいない。それがわ
かるからここまでにしておく。しかしこれだけは、言いたい。

 ここにも書いたように、日々の生活者として、平凡であることは、これはまちがいなく美徳であ
る。それを守り、それを維持するのは、とても大切なことである。で、そのとき、少しだけ自分に
問いかけてみてほしい。「だからそれがどうなのか?」と。ほんの少し、そういういった視点か
ら、日々の生活者としての平凡さを疑ってみたとき、あなたはもう一つの平凡さに気づくはずで
ある。そしてそれに気づけば、あわよくば、そのことがきっかけとなって、あなたは自分の生き
ザマを、より高揚させることができるかもしれない。
(02−11−4)

●みなと同じことをしていると感じたら、思い切って、そのカラから飛び出してみよう。その先に
は、新しいあなたが待っている。

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愚劣な人たち

●いやがらせ
 一人の母親が娘(小三)を迎えにきて、こう言った。「よくうちの車にペンキがかけられるので
すよ」と。犯人(こういう言い方は適切ではないかもしれないが……)は、だいたいのところわか
っているのだという。しかし最後の証拠がつかめないのだという。

 そこで「どんな人ですか」と聞いたが、私はその話に驚いた。

 その犯人らしい男というのは、道の反対側に住んでいる、小学校の元校長の男だというの
だ。今年、六五歳になる。私が「多分、頭のほうが……」と言いかけると、「それがその人は、
公民館で、俳句の指導をしているんですよ。ボケてはいないと思います」と。それにはまたまた
驚いた。

 が、それだけではない。そこで駐車場に入れないように、入り口のところに自転車をたてかけ
ておくのだが、今度は、腹いせに、自転車のタイヤをパンクさせていくのだという。「まさか…
…!」と言いかけたが、やめた。こういう事件は、ないことはない。

●アンビリーバブルな事件
 私が経験した事件の中で、もっともアンビリーバブルな(信じられない)事件は、こんな事件だ
った。

 ある日、近くの大型スーパーへワイフと行くと、一人の男(六〇歳くらい)が、自転車置き場
で、つぎつぎと自転車を放り投げるようにして、倒していた。すでに数人のブラジル人らしき人
たちがそれを、あきれ顔で見ていた。そこで私が割って入り、「どうしてこんなことをするのです
か!」と叫ぶと、その男はこう言った。「じゃまだ、じゃまだ!」と。そこで私はこれみよがしに、
男の前で、倒れた自転車をつぎつぎと、立ててやった。やがてブラジル人たちも、笑いながら、
それに加わった。それは実に奇妙な光景だったに違いない。自転車をつぎつぎと倒す男。その
一方で笑いながら、自転車を立てる私とブラジル人。

 やがてその男は自分の自転車を取り出すと、そのまま、つまり無言のまま走り去っていった。
私たちはそのうしろ姿を見ながら、声を出して笑った。実は、その男というのも、学校の元教師
だった。

●そういう前提で考える
 なぜ、そういう人間がいるかということよりも、この世の中には、そういう人間もいるという前
提で考える。それはスーパーで起きる、万引きのようなものかもしれない。大きな店では、最初
から万引き率を計算して、商品の価格を決めている。いくら取り締まっても、万引きはなくなら
ない。

 が、問題はこの先である。仮にそういう事件に遭遇(そうぐう)すると、されたほうは、本当に
不愉快になる。心のカベに、ガムテープか何かが張りついたような不快感である。そしてそのと
き、そういう不愉快なことを、心からすぐ流しさることができればよいが、そうでなければ、それ
は心の中に住みついて、その人自身の人間性を狂わす。

●心の免疫性
 そこでこうした問題が起きたら、どう対処するか、である。そこで出てくる言葉が、「免疫(めん
えき)」という言葉である。そのヒントとして、こんな話がある。

 私がインターネットを始めたころ、よくウィルスの攻撃を受けた。アンチウィルスのソフトも入っ
ていなかった。で、そのたびに、冷や汗をタラタラと流しながら、ただひたすらリカバリーを繰り
返した。当時は(今も)、いつも四〜五台のパソコンを同時に動かしていたから、これはたいへ
んな作業だった。いつしか私は、息子たちに、「パパは、リカバリーの神様だね」と言われるよう
になった。リカバリーのし方だけは、だれにも負けない。

 そのリカバリーをしているとき、最初のころは、そのウィルス入りのメールやファイルを送った
人を、心底、うらんだ。憎んだ。こうしたイライラは、腹の底まで熱くする。相手を、怒鳴りつけて
やりたかった。その衝動をこらえるのに、苦労した。が、それもなれてくると、そのうち、気にな
らなくなった。今では、「また、やられた!」という感じでリカバリーできる。ウィルスは、仮にXさ
んの名前で、送られてきても、Xさんが送ったとは限らない。中には、他人の名前を勝手に使う
ウィルスもある。

●心の家に入れない
 そこで大切なことは、自分の中に、いかに免疫性をつくるか、である。もちろん犯人がわかれ
ば、それには抗議しなければならない。しかしいちいちそんなことで腹をたてていたら、こちら
も、そのレベルに落ちてしまう。要するに、相手にしない。無視する。それにまさる方法はない。
そういう招かざる客人は、心の家の中には、入れないこと。

 ……と考えて、子どもたちのこと。子どもの世界では、もっと濃密に、もっと頻繁(ひんぱん)
に、いじめが起きている。そういういじめの被害者となって苦しんでいる子どもも、多い。もちろ
んいじめは、容認してはいけない。できれば根絶しなければならない。しかしこのいじめにあう
と、子どもは、大きく二つのタイプに分かれる。ひとつは、ここでいう免疫性を身につけるタイ
プ。たいへん合理的で、すなおなものの考え方ができるようになる。もうひとつは、自らも、陰湿
になり、今度は反対にいじめる側にまわるタイプ。いじめられることで、自らも心がゆがめたと
考えられる。

 さて冒頭の話。この話には、もう一つ、伏線がある。それは「元校長」という部分である。どう
いうわけだか、私も含めて、子どもを相手にしている人は、どこか常識はずれになりやすい。長
い間、まさに「子どもの王国のキング」として君臨しているためではないか。このことについて
は、また別の機会に考えるが、これもまた、教師の陥りやすいワナかもしれない。子どもを相
手にしていても、視点がいつも上にあり、子どもを見おろすような教育をしている教師ほど、自
分を見失う。

 私はその母親と別れるとき、こう言った。「そういう先生に、子どもたちが習っていたかと思う
と、ぞっとしますね」と。すると母親も、こう言った。「まあ、先生にもいろいろありますから。それ
に同じ人間でも、いろいろな面がありますから……」と。
(02−11−4)

●心の客人は、よく選んで迎えよう。おかしな客人は、招き入れないこと。

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子育て随筆byはやし浩司(269)

イメージ・トレーニング

 ささいなことが気になったら、イメージ・トレーニングをするとよい。(本当の意味での、イメー
ジ・トレーニングとは違うが……。)私はもともと気が小さく、臆病(おくびょう)な人間なので、ささ
いなことを気にして、よくクヨクヨ悩む。そういうときの解決法が、これ。

(1)まず頭の中に、直径0・5ミリ(1ミリの半分)の針の頭を思い浮かべる。それが地球。その
地球から、約10メートル離れたところに、直径15センチのボールを想像する。それが太陽。
そのボールを、琵琶湖にぎっしりとつめて並べる。それが銀河系にある星の数。それと同じよう
に、今度はそのボールを、太平洋にこれまたぎっしりとつめて並べる。それが私たちの宇宙を
とりまく、大銀河にある星の数。この大宇宙には、太陽のような星が、(地球は、残念ながら星
ではない。宇宙のゴミ)、中田島(浜松市の南にある三大砂丘のひとつ)の砂粒の数ほどある。
あるいはもっと多いかも?

(2)つぎに反対に、5000メートルのロープを頭の中に思い浮かべる。地球の歴史を50億年
として、その5000メートルのロープにたとえると、100年は、最後の1ミリの、そのまた10分
の1に過ぎない。つまり0・1ミリということ。仮にあなたが100歳まで生きたとしても、5000メ
ートルのロープの上では、最後の0・1ミリにしかならない。

 ここまで頭の中で想像できたら、今度は、逆のことを頭の中にイメージしてみる。

(3)中田島の砂丘の一粒を頭の中に思い浮かべてみる。その一粒を、学校のグランドの中心
部に置いてみる。その砂粒の一つの、ほんの2センチ程度のところに、チリを置く。それが地
球。グランド全体が、太陽系ということになる。そして本州全体が、この銀河系。地球全体が、
大銀河ということになる。

(4)そして今度は、こう考える。仮に地球の歴史の50億年を、1日にたとえると、100年といっ
ても、0.0017秒にしかならない。まばたきする時間より、はるかに短い。まばたきする時間
の約100分の1。いくら速くまばたきしても、5秒間に25回はできない。つまりまばたきする時
間は、約0・2秒とみる。つまり仮にあなたが100歳まで生きたとしても、地球の歴史を一日に
たとえると、あなたの生きている時間は、まばたきする時間の100分の1でしかないというこ
と。

 ここまでできたら、(1)〜(4)を、静かに頭の中で繰り返してみる。できるだけビジュアルに想
像してみるのがよい。そのときコツは、ほかのことは何も考えないこと。このトレーニングで、悩
みを解決しようとか、気を大きくもとうとか、そういう下心ももたないこと。ただひたすら、(1)〜
(4)を繰り返す。電車の中でもよいだろうし、バスの中でもよい。静かに目を閉じることができ
るところなら、どこでもよい。

 ……そのあと、どうなるか? それは一度、あなた自身でたしかめてみてほしい。効果がなく
て、ダメもと。私のばあい、よくこのトレーニング法を使うので、数分くらいするだけで、軽い悩
みなら、そのまま抜け出ることができる。とくに人間関係で悩んだときには、効果がある。たい
ていはいつも、夜、床に入ってから眠るまでにする。あえて言うなら、私のばあい、ときどき、そ
こにいろいろな宇宙人を登場させるが、これは邪道。それについてはまた別の機会に書く。
(計算はおおざっぱなものですが、だいたいこんなものです。)
(02−11−4)

●つまらないことで、クヨクヨ悩んでいるヒマはありません。人生は短いですよ。愚かな人は相
手にしないこと。無視すること。


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          
後半部へ、
すみません!







件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-13-2

後半部です!
一度に送信ができないので、2部にわけました。

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
辛口評論を書いてみました。
このところ不況で、ますます生活がしぼんできました。
そんな怒りをこめて、この原稿を書きました。
++++++++++++++++++++++++++++

子育て随筆byはやし浩司(275)

若者を中心に、HIV陽性者、一万五〇〇〇人!

●一〇人に一人が、エイズに!
 京都大学のK教授の推計によれば、二〇〇二年、HIV(エイズ)の陽性者は、若者を中心
に、一万五〇〇〇人に達するだろうと言われている。そしてこの数は、今後二〇一〇年までの
八年間で、数倍以上の、五万人にまでふえるという(NHKのニュース解説・一一月四日夜放
送)。

 五万人という数字がどういう数字かと言えば、たとえば満一八歳から二五歳までの若者の数
を、約八〇〇万人とすると、一〇〇人に一人弱という割合になる。しかもそこで陽性者の増加
がとまるわけではない。以後、二次曲線的に陽性者はふえ、二〇二〇年には、……? 想像
するだけで、恐ろしいことになる。もしあなたの子どもが今、四〜六歳の幼児なら、二五歳まで
にエイズに感染する確率は、このままのハイペースで進めば、一〇%以上とみてよい。繰り返
すが、一〇%以上だ! 一〇人に一人だ!

 こういう現状を前にして、あなたはどう考えるだろうか。またどう行動したらよいだろうか。

●親自身が賢くなる
 そのためにはまず親自身が、賢くなる。こういう現実が迫ってくると、「教育を何とかしろ」と
か、「学校で指導をしてほしい」という声ばかりが、大きくなる。しかし改めるべきは、子どもの
世界ではなく、おとなの世界である。おとなの私たちが愚かなことを繰り返していて、どうして子
どもに向かって、賢くなれと言えるのか。また何でもかんでも、学校に……という発想では、もう
問題は解決しない。そうでなくても、学校には問題は山積している。しかも問題はたまる一方
で、今では、ほとんどの学校では、教育そのものが、マヒ状態に陥っている。

 そこで一つの提案だが、もしあなたが私のマガジンの読者なら、私の記事を参考に、そのつ
ど、子どもに話しかけてみてほしい。「あなたはどう思う?」「あなたなら、どうする?」と。もちろ
んこのエイズだけの問題ではない。私も力のつづくかぎり、こうして最善の情報を、みなさんに
伝える。だから、それぞれについて、あなたの子どもに話しかけてみてほしい。時間はかかる
し、根気のいる作業になるかもしれない。しかしこうした努力が、あなたの子どもを、根底から
賢くする。

●親子で話しあいを……
たとえば最近私が書いた原稿の中には、「心の客人論」「常識論」「公について」「愚劣論」など
がある。どれも私のオリジナルの原稿である。こういうテーマを、あなたの子どもに直接ぶつけ
てみてほしい。「林という人間が、こんなことを言っているけど、あなたはどう思う?」と。私が正
しいとか、正しくないとかいうことはあまり考えなくともよい。あくまでも話題として、そのたたき台
になればよい。その目的は、言うまでもなく、あなたの子どもを、「自ら考える子ども」にするこ
と。このHIVの陽性者の問題にせよ、子どもを守るためには、それ以上の方法はない。

 まあ、考えてみれば、よくもこれだけ、つぎからつぎへと問題が起きるものだと思う。私も毎
日、こうして原稿を書いているが、テーマが尽きることはない。「今日は、これで書き尽くしたぞ」
と思って、床に入ると、またつぎからつぎへと、書きたいことが襲ってくる。ワイフは、「マガジン
の量が多すぎるから、減らしたらいい」とよく言うが、しかし私自身は、かなり原稿を削ってい
る。おそらく半分以上は削っている。が、それでも「多すぎる」と。

●自ら考える子どもにしよう
 話を戻すが、仮に一〇人のうち、一人がエイズに感染したとなると、もう教育はその時点で崩
壊する。教育どころではなくなってしまう。そこで私たちは何をしたらよいかという問題にぶつか
る。で、参考になるかどうかはわからないが、私とワイフは、今まで、つぎのようにして戦ってき
た。

☆私の住む地域には、Y街道という大きな街道が走っている。その街道沿いには、いまだかっ
て一度も、テレクラやその種の捨て看板(棒に布を張った看板、ベニアにチラシを張った看板。
俗に「捨て看」という)などが、並んだことはない。だれかが立てたら、その夜のうちに、私とワイ
フが、それを回収して、捨てている。(法律的には、捨て看は、ゴミ。いくら勝手に撤去しても、
罪に問われることはない。みなさんも、遠慮せず、堂々と撤去したらよい。念のため。)

☆テレクラなど、あやしげな大きな看板が、合法的に立てられたときには、地主を調べて、電
話攻勢をかける。あるいは直接、その番号に電話をかけて抗議をする。だからいまだかって、
そのY街道沿いには、大きな看板が立ったことはない。いや、一度だけ、N郵便局(このあたり
の中央集配所)の四つ角に、その看板が立ったことがある。そのときは、私はその日のうち
に、電話番号のところに、シールを張り、見えなくした。ほかにその看板の上に、抗議文を張り
つけたこともある。たしか「子どもたちを守ろう」と書いた抗議文だった。数回、こうした攻防が
繰り返されたが、数回目に、相手側があきらめ、看板を撤去した。Y街道沿いは、私の縄張り。
勝手なことはさせない。

●あなたの地域で活動しよう!
 これは私の戦いだが、しかしみんながそれぞれの地域で、こうした戦いをすれば、少しは社
会が動く。そしてそういう力が、やがて大きくなって、結果的には、子どもたちの未来を守ること
になる。だから、みんなも、勇気を出して行動してほしい。何かできるはずである。また何かを
しなければならない。

 が、やはり何といってもそれ以上に大切なのは、繰り返すが、やはり親の私たち自身が、賢く
なること。親が賢くなれば、子どもも賢くなる。賢くなって、自分で判断するようになる。あなたの
子どもをエイズから守るためには、この方法しかない。
(02−11−5)

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、子どもの抵抗力について、かいたものです。中日新聞発表済み。
++++++++++++++++++++++

子どもが非行に抵抗するとき 

●あやしげな男だった
 あやしげな男だった。最初は印鑑を売りたいと言っていたが、話をきいていると、「疲れがと
れる、いい薬がありますよ」と。私はピンときたので、その男には、そのまま帰ってもらった。

 西洋医学では「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻撃する」という治
療原則を打ちたてる。これに対して東洋医学では、「結核になったのは、体が結核菌に敗れた
からだ」と考える。だから「体質を強化する」という治療原則を打ちたてる。人体に足りないもの
を補ったり、体質改善を試みたりする。これは病気の話だが、「悪」についても、同じように考え
ることができる。私がたまたまその男の話に乗らなかったのは、私にはそれをはねのけるだけ
の抵抗力があったからにほかならない。

●非行は東洋医学的な発想で 
 子どもの非行についても、また同じ。非行そのものと戦う方法もあるが、子どもの中に抵抗力
を養うという方法もある。たとえばその年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚
えてくる。最初はささいな好奇心から始まるが、問題はこのときだ。たいていの親は叱ったりす
る。で、さらにそのあと、誘惑に負けて、そのまま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をは
ねのける子どももいる。東洋医学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないか
は、抵抗力の問題」ということになる。そういう意味では予防的ということになるが、実は東洋医
学の本質はここにある。東洋医学はもともとは、「病気になってから頼る医学」というよりは、
「病気になる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「より病気を悪くしない医学」と考えて
もよい。ではどうするか。

●子育ての基本は自由
 子育ての基本は、自由。自由とは、もともと「自らに由る」という意味。つまり子どもには、自
分で考えさせ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。しかもその時期は早ければ早
いほどよい。乳幼児期からでも、早すぎるということはない。自分で考えさせる時間を大切に
し、頭からガミガミと押しつける過干渉、子どもの側からみて、息が抜けない過関心、「私は親
だ」式の権威主義は避ける。暴力や威圧がよくないことは言うまでもない。「あなたはどう思
う?」「どうしたらいいの?」「どう始末したらいいの?」と、いつも問いかけながら、要は子ども
のリズムに合わせて「待つ」。こういう姿勢が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力のあ
る子どもにする。

+++++++++++++++++++++

●子どもを守るために、あなたの地域で行動しよう。
●子どもを、考える子どもにしよう。そのために、まず親のあなたが、考える親になろう。

(追記)「Y街道」と書いたが、「雄踏(ゆうとう)街道」をいう。浜松市の西と中心部を結ぶ、幹線
道路である。読者の中には、浜松の人が多いので、あえて実名を書くことにした。この地域の
人は、その種の捨て看を、道路沿いに見たことがないはずである。私はその雄踏街道をワイフ
と守るようになって、もう二〇年以上になる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「公」について

 以前、教育改革国民会議は、つぎのような報告書を、中央教育審議会に送った。いわく「自
分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬(いけい)の
念をもち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てるとともに、社会
生活に必要な基本的知識や教養を身につけることを、教育の基礎に位置づける」と。

 こうした教育改革国民会議の流れに沿って、教育基本法の見なおしに取り組む中央教育審
議会は、〇二年一〇月一七日、中間報告案を公表した。それによれば、「国や社会など、『公』
に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)することが大切」とある。

 一読するだけで頭が痛くなるような文章だが、ここに出てくる「涵養(かんよう)」とは何か。日
本語大辞典(講談社)によれば、「知識や見識をゆっくりと身につけること」とある。が、それに
しても、抽象的な文章である。実は、ここに大きな落とし穴がある。こうした審議会などで答申さ
れる文章は、抽象的であればあるほど、よい文章とされる。そのほうが、官僚たちにとっては、
まことにもって都合がよい。解釈のし方によっては、どのようにも解釈できるということは、結局
は、自分たちの思いどおりに、答申を料理できる。好き勝手なことができる。

 しかし否定的なことばかりを言っていてはいけないので、もう少し、内容を吟味してみよう。

 だいたいこの日本では、「国を守れ」「国を守れ」と声高に叫ぶ人ほど、国の恩恵を受けてい
る人と考えてよい。お寺の僧侶が、信徒に向かって、「仏様を供養してください」と言うのに似て
いる。具体的には、「金を出せ」と。しかし仏様がお金を使うわけではない。実際に使うのは、
僧侶。まさか「自分に金を出せ」とは言えないから、どこか間接的な言い方をする。要するに
「自分を守れ」と言っている。

 もちろん私は愛国心を否定しているのではない。しかし愛「国」心と、そこに「国」という文字を
入れるから、どうもすなおになれない。この日本では、国というと、体制を意味する。戦前の日
本や、今の北朝鮮をみれば、その意味がわかるはず。「民」は、いつも「国」の道具でしかなか
った。

 そこで欧米ではどうかというと、たとえば英語では、「patriotism」という。もともとは、ラテン語
の「パトリオータ(父なる大地を愛する人)」という語に由来する。日本語では、「愛国心」と訳す
が、中身はまるで違う。この単語に、あえて日本語訳をつけるとしたら、「愛郷心」「愛土心」とな
る。「愛国心」というと反発する人もいるかもしれないが、「愛郷心」という言葉に反発する人は
いない。

 そこで気になるのは、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かん
よう)することが大切」と答申した、中教審の中間報告案。

 しかしご存知のように、今、日本人の中で、もっとも公共心のない人たちといえば、皮肉なこと
に、公務員と呼ばれる人たちではないのか。H市の市役所に三〇年勤めるK市(五四歳)も私
にこう言った。「公僕心? そんなもの、絶対にありませんよ。私が保証しますよ」と。とくに長
年、公務員を経験した人ほどそうで、権限にしがみつく一方、管轄外のことはいっさいしない。
情報だけをしっかりと握って、それを自分たちの地位を守るために利用している。そういう姿勢
が身につくから、ますます公僕心が薄れる。恐らく戦争になれば、イの一番に逃げ出すのが、
官僚を中心とする公務員ではないのか。そんなことは、先の戦争で実証ずみ。ソ連が戦争に
参画してきたとき、あのとき満州から、イの一番に逃げてきたのは、軍属と官僚だった。

 私たちにとって大切なことは、まずこの国や社会が、私たちのものであると実感することであ
る。もっとわかりやすく言えば、国あっての民ではなく、民あっての国であるという意識をもつこ
とである。とくに日本は民主主義を標榜(ひょうぼう)するのだから、これは当然のことではない
のか。そういう意識があってはじめて、私たちの中に、愛郷心が生まれる。「国や社会など、
『公』に主体的に参画する意識」というのは、そこから生まれる。

 これについて、教育刷新委員会(委員長、安倍能成・元文部大臣)では、「本当に公に使える
人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。それが今まで、
日本に欠けていたのではないか」(哲学者、務台理作氏)という意見が大勢をしめたという(読
売新聞)。私もそう思う。まったく同感である。言いかえると、「個人」が確立しないまま、「公」が
先行すると、またあの戦時中に逆もどりしてしまう。あるいは日本が、あの北朝鮮のような国に
ならないともかぎらない。それだけは何としても、避けなければならない。

 再び台頭する復古主義。どこか軍国主義の臭いすらする。教育の世界でも今、極右勢力
が、力を伸ばし始めている。S県では、武士道を教育の柱にしようとする教師集団さえ生まれ
た。それを避けるためにも、私たちは早急に、務台氏がいう「個人の確立」を目ざさねばならな
い。このマガジンでも、これからも積極的に、この問題については考えていきたい。
(02−11−4)

(読者のみなさんへ)
 私の意見に賛成してくださいそうな人がいたら、この記事を転送していただけませんか。みな
さんがそれぞれの立場で、民主主義を声を高くして叫べば、この日本は確実によくなります。
みんなで、子孫のために、すばらしい国をつくりましょう!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

日本は官僚主義国家

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。学生時代、私が学んだオーストラリ
アの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国家」となっていた。「君主(天皇)官僚主義国
家」となっているのもあった。日本は奈良時代の昔から、天皇を頂点にいだく官僚主義国家。
その図式は、二一世紀になった今も、何も変わっていない。たとえばこの静岡県でも、知事も
副知事も、みんな元中央官僚。浜松市の市長も、元中央官僚。この地域選出の国会議員のほ
とんども元中央官僚。「長」は、中央からありがたくいただき、その長に仕えるというのが、この
あたりでも政治の構図になっている。その結果、どうなった?

 今、浜松市の北では、第二東名の道路工事が、急ピッチで進んでいる。その工事がもっとも
進んでいるのが、この静岡県。しかも距離も各県の中ではもっとも長い(静岡県は、太平洋岸
に沿って細長い県)。実に豪華な高速道路で、素人の私が見ただけでもすぐわかるほど、金が
かかっている。現存の東名高速道路とは、格段の差がある。もう少し具体的にデータを見てみ
よう。

 この第二東名は、バブル経済の最盛期に計画された。そのためか、コストは、一キロあた
り、236億円。通常の一般高速道(過去五年)の五・一倍のコストがかかっている。一キロあた
り236億円ということは、一メートルあたり2300万円。総工費一一兆円。国の年間税収が約
五〇兆円だから、何とこの道だけで、その五分の一も使うことになる。片側三車線の左右、六
車線。何もかも豪華づくめの高速道路だが、現存の東名高速道路にしても、使用量は、減る
か、横ばい状態。つまり今の東名高速道路だけで、じゅうぶんということ。国交省高速国道課
の官僚は、「ムダではない」(読売新聞)と居なおっているそうだが、これをムダと言わずして、
何という。何でもないよりはあったほうがマシ。それはわかるが、そんな論理で、こういうぜいた
くなものばかり作っていて、どうする。静岡県のI知事は、高速道路の工事凍結が検討されたと
き、イの一番に東京へでかけ、先頭に立って凍結反対論をぶちあげていたが、そうでもしなけ
れば、自分の立場がないからだ。

 みなさん、もう少し、冷静になろう! 自分の利益や立場ではなく、日本全体のことを考えよ
う。私とて、こうしてI知事を批判すれば、県や市の関係の仕事が回ってこなくなる。損になるこ
とはあっても、得になることは何もない。またこうして批判したからといって、一円の利益にもな
らない。

 あの浜松市の駅前に立つ、Aタワーにしても、総工費が2000億円とも3000億円とも言わ
れている。複雑な経理のカラクリがあるので、いったいいくらの税金が使われたのか、また使
われなかったのか、一般庶民には知る由もない。が、できあがってみると、市民がかろうじて使
うのは、地下の大中の二つのホールだけ。あの程度のホールなら、四〇〇億円でじゅうぶんと
教えてくれた建築家がいた。事実、同じころ、東京の国立劇場は、その四〇〇億円で新築され
ている。豪華で問題になった、東京都庁ビルは、たったの一七〇〇億円! 浜松市は、「黒字
になった」と、さかんに宣伝しているが、土地代、建設費、人件費のほとんどをゼロで計算して
いるから、話にならない。が、それでムダな工事が終わるわけではない。その上、今度は、静
岡空港!

 これから先、人口がどんどん減少する中、いわゆる「箱物」ばかりをつくっていたら、その維
持費と人件費だけで、日本は破産してしまう。このままいけば、二一〇〇年には、日本の人口
は、今の三分の一から四分の一の、三〇〇〇〜四〇〇〇万人になるという。日本中の労働者
すべてが、公務員、もしくは準公務員になっても、まだ数が足りない。よく政府は、「日本の公務
員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、これはウソ。まったくのウソ!

国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公団、公
社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけで
も、「日本人のうち七〜八人に一人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。が、これですべてではな
い。この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施
設、社団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全国の津々浦々、市町村
の「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、一八〇〇団体
近くもある。

 今、公務員の人も、準公務員の人も、私のこうした意見に怒るのではなく、少しだけ冷静に考
えてみてほしい。「自分だけは違う」とか、「私一人くらい」とあなたは考えているかもしれない
が、そういう考えが、積もりに積もって、日本の社会をがんじがらめにし、硬直化させ、そして日
本の将来を暗くしている。この大恐慌下で、今、なぜあなたたちだけが、安穏な生活ができる
か、それを少しだけ考えてみてほしい。もちろんあなたという個人に責任があるわけではない。
責任を追及するわけでもない。が、もうすぐ日本がかかえる借金は、1000兆円になる。国家
税収がここにも書いたように、たったの50兆円。あなたたちの生活は、その借金の上に成り
立っている!

 こういう私の意見に対して、メールで、こう反論してきた人がいた。「公共事業の七〇%は、人
件費だ。だから公共事業はムダではない」と。

 どうしてこういうオメデタイ人がいるのか。やらなくてもよいような公共事業を一方でやり、その
ために労働者を雇っておきながら、逆に、「七〇%は人件費だから、ムダではない」と。これは
たとえていうなら、毎日五回、自分の子どもに、やらなくてもよいような庭掃除をさせ、そのつど
アルバイト料を払うようなものだ。しかも借金までして! それともあなたは、こう言うとでもいう
のだろうか。「アルバイト料の七〇%は、人件費だ。だからムダではない!」と。

 日本が真の民主主義国家になるのは、いつのことやら? 尾崎豊の言葉を借りるなら、「しく
まれた自由」(「卒業」)の中で、それを自由と錯覚しているだけ? 政府の愚民化政策の中で、
それなりにバカなことをしている自由はいくらでもある。またバカなことをしている間は、一応の
自由は保障される。巨人軍の松井選手が、都内を凱旋(がいせん)パレードし、それに拍手喝
さいするような自由はある。人間国宝の歌舞伎役者が、若い女性と恋愛し、チンチンをフォー
カスされても、平気でいられるような自由はある。しかし日本の自由は、そこまで。その程度。し
かしそんなのは、真の自由とは言わない。絶対に言わない。

 少し頭が熱くなってきたから、この話は、ここでやめる。しかし日本が真の民主主義国家にな
るためには、結局は、私たち一人ひとりが、その意識にめざめるしかない。そしてそれぞれの
地域から、まずできることから改革を始める。政治家がするのではない。役人がするのではな
い。私たち一人ひとりが、始める。道は遠いが、それしかない。
(02−11−5)

●官僚政治に、もっと鋭い批判の目を向けよう!
●ムダなことにお金を使わず、子どもの養育費の負担を、もっと軽くしよう!

+++++++++++++++++++++++
新聞に掲載したコラムを、転載します。
+++++++++++++++++++++++
大学生の親"貧乏盛り"
 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均十一
万七千円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではす
まない。アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に四十
−五十万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネット
も常識。…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。
世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。しかも、だ。日本の対G
NP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。欧米各国が、七−九%
(スウェーデン九・〇、カナダ八・二、アメリカ六・八%)。日本はこの十年間、毎年四・五%前後
で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだ
け親の負担が大きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、
四兆円近い大金を使った。それだけのお金があれば、全国二百万人の大学生に、一人当たり
二百万円ずつの奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。い
まだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている! 日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、三十年はおくれている。その意識となると、五十年はお
くれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育
てたくない!」と。「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがい
ろいろあって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ三十年。この状態はいまだに変わってい
ない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育て
たくない」と。

 私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞





件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-15-1

11−15スミ
彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 517人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  84人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−15号(139)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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●愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時〜12時
        主催  尾張旭市教育委員会
●静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課  
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しま
した。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「三つ子の魂、百まで」(Young mind lasts forever)

【1】三つ子の魂、百まで(Young mind lasts forever)
【2】子どもの世界(Childrens' World)
【3】子育て随筆 (How to cope with Kids at Home)
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

昔から「三つ子の魂、百まで」と言いますね。

++++++++++++++++++++++

三つ子の魂、百まで

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、三歳ごろまでに決ま
るので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの四つの意味を
もつ。

(1)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについ
て、おおよその見当がつくということ。
(2)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろと
いう意味。
(3)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向
性はいじってはいけないということ。
(4)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳
までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えな
いことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌
に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「三歳までに不幸だった子
どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「三歳」と切るこ
とはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも
明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは
簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格形成第一期と呼
んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格形成第二期と呼んでい
る。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満四・五歳〜五・五歳)の時期である。この時期を
経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」という
つかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。が、こ
の時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満四・五歳から五・五
歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にできる基
本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾
ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができ
る。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかにつ
いて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から
学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学
習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそうい
う体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てが
できるようになる。そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家
庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)

●三歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
++++++++++++++++++++++++++++++++++

教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る
 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ
 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手
にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一
見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あ
るいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私
実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく
 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どもの世界を考えてみました。

++++++++++++++++++++

消しゴム依存症

●私のばあい
 「依存症」という精神障害がある。アルコール依存症とか、買い物依存症とかいうのがあるそ
うだ。依存症というのは、ある一定の限度を超えて、病的になったサマをいうが、これを薄めた
ものなら、だれにでもある。私にもある。もっとも私の世界では、依存症という言葉は、使わな
い。「こだわり」という。

 私のこだわりといえば、今はパソコンか。年に一度くらいは、新しいパソコンを買っている。こ
のパソコンは、まさに日進月歩。CD−Rがついたかと思えば、今度はDVD。さらにLANに。最
近ではUSB2・0など。どんどん新しい機能が追加される。インターネットにしても、今ではADS
Lが当たり前。一年前の機種が、陳腐に見えるから不思議である。

 で、新しいパソコンを買ったからといって、それでこだわりが終わるわけではない。私のばあ
い、どの機能も完ぺきに動作しないと、気がすまない。たとえば新しいソフトを入れたとする。そ
のとき、98やMeでは動作していたソフトが、XPの方では動作しないときがある。そういうとき
は、その原因を徹底的に追究する。マニュアルを読んだり、電話をあちこちにかけたりするな
ど。結構たいへんな作業に見えるかもしれないが、私にはそれが楽しい。問題が大きければ
大きいほど、そして苦労をすればするほど、解決したときの喜びは大きい。

 そして依存症。私は週に数回は、大きなパソコンショップをのぞいている。ただパソコンは値
段が値段だから、おいそれと買うわけにはいかない。そこで年に一回程度ということになるが、
その機種選びが、これまた楽しい。(〇二年度は、予算がないので、買っていない。)買う前の
数か月は、迷いに迷う。いや、ときどき、カタログを見ただけで、「これだ」と思って買うのもある
が、たいていは迷う。カタログを集めて、それを毎晩、寝る前に読む。この程度が、もう少しは
げしくなれば、依存症ということになるのか。もっとも寝る前に読むカタログは、パソコンにかぎ
らない。デジタルカメラや、周辺機器のもある。一か月もすると、結構な分量になるので、ときど
きメーカーも、たいへんだろうなと思う。つまり私のようなユーザーが多いと、カタログの印刷代
ばかりがかさむ。

●子どもの依存症
 さて子どものこと。こうした依存症というか、依存性は、たいていどの子どもにも見られる。そ
れぞれが何かの依存性をもっている。よく見られるのが、筆記用具。大きなペンケースに、五
〇〜一〇〇本近い筆記用具をもっている子どももいる。「二、三本、あればいいじゃない」と言
うと、「どれも使う」と答えたりする。鉛筆だけではない。いろいろな種類のペンやシャープペン
シルなど。カラーペンも、全色もっている。

 もう一つは、消しゴム依存症。このタイプの子どもは、考えてから書くというよりは、書いてか
ら考える。何でも一応書いてみて、それを見ながら頭の中を整理するというわけだ。だから一
時間も勉強すると、消しゴムの消しクズが、山のようになる。が、考えてみれば、これほど時間
のムダはない。仮に一分間に、数回消しゴムを使ったとする。そして一回に五秒前後の時間を
使ったとする。それだけで、一分間に、一五秒前後は、消しゴムを使ったことになる。だからこ
ういう消しグセのある子どもは、テストなどでも、決定的に不利である。たとえば五〇分のテスト
でも、消しグセのある子どもには、三〇〜四〇分しかないことになる。

 そこで私は幼児については、消しゴムを使わないように指導している。「考えてから書きなさ
い」と指導している。が、この段階でも、すでに消しグセのついている子どもは、おかしな症状を
見える。たとえば消しゴムを取りあげたりすると、イライラして、勉強が手につかないといった様
子を見せる。私はこれを、勝手に、「禁断症状」と呼んでいる。しかし一度、こうした消しグセが
身につくと、それを改めるのは、容易ではない。いくら注意しても、親や教師がいないところで
は、消しゴムを使うからだ。だからこうした消しグセは、つけないほうがよい。具体的には、幼
児には消しゴムを与えない。

 こう指導すると、「まちがえたときはどうするのですか?」という質問が、親や子どもからよく出
る。そういうときは、一本線を引いて、それで消したことにすればよい。それがまた国際的な消
し方である。もちろん重要な文書や、だれかに提出する文書は、ていねいに消してから出す。
それは常識。

 それに大切なのは、「答」ではなく、「考え方」。もっといえば、その答にいたるまでのプロセ
ス。そのプロセスを残すためにも、消しゴムは使わないほうがよい。これは私の人生観にもか
らんでくるが、私は「消せばなおる」という人生観が大嫌い。そういうこともあって、どうにもこう
にも、消しゴムが好きになれない。

 さらにもう一つ。これは日本人の悪いクセなのだろうが、日本人は、消しクズを、手で払って、
手前に落とす。欧米人は、これに対して、手で払って向こう側の前に出す。そしてそこに集めて
おく。日本人のように、下へ落とさない。板間の部屋ならよいが、ジュータンを敷いたような部屋
だと、消しクズは、やっかい。子どもが足で踏みつけたりすると、鉛筆の汚れなどが、ジュータ
ンに、そのまましみついてしまう。

 ところでアメリカでは、消しゴムをほとんど使わないそうだ。小学生のばあい、反対側に消しゴ
ムがついている鉛筆を使うという。「まちがえたときは、消しますか」と聞いたら、その先生は、
「そうです」と意外とあっさりと答えてくれた。しかし小さいだけに、かえって使いにくいらしい。だ
から結果として、「ほとんど使わない」そうだ。

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子どもの問題が起きたら、まず内容を分析してみましょう。

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子どもの問題

 子どもの問題には、三種類ある。

(1)子ども自身では、解決できなくなる問題。
(2)あとで、親の力で、どうにでもなる問題。
(3)子ども自身がやがて、自分で解決できる問題。

 子どもに何か問題が起きたら、あるいは起きそうだったら、まずこの三つのうちのどれにあた
るかを、判断してみるとよい。たとえば……

(1)子ども自身では、解決できなくなる問題
 神経症、情緒障害、精神障害にかかわるような問題。子ども自身の力では解決できそうもな
く、こじれたとき、その後遺症がずっとつづくと思われるような問題。

(2)あとで、親の力で、どうにかなる問題。
 しつけ一般、たとえば簡単な健康問題。歯みがき、手洗いなどの日常的な習慣。たとえ「失敗
した」と思う状態になっても、あとから親がケアすれば解決できる問題。

(3)子ども自身がやがて、自分で解決できる問題。
 家庭環境、貧困、家庭不和など。そのときは、子どもの心がキズついたりするが、子どもが
成長するにつれて、子ども自らが克服できる問題。

 ……ここまで書いたところで、先日、講演先で、一人の母親から、こんな質問があった。「祖
父母と、教育問題で対立する。どうしたらいいか」「私の目を盗んでは祖父母のところへいき、
小づかいをもらっている。子どもがダメになっていくようで心配だ」と。祖父母が、子どもに甘く、
それで家庭教育が乱れるというのだ。

 この問題は、ここでいう(3)の問題に属する。子どもによっては多少ドラ息子化するかもしれ
ないが、しかしこの程度の問題なら、やがて子ども自身が自分で克服する。さらに自意識が発
達してくると、反対に祖父母を批判するようになる。だからあまり深刻に考えないこと。言うべき
ことは言いながらも、あとは時間に任せる。子ども自身がやがてそれを悪いことだと、自分で気
がつくときがくる。

 それに祖父母との同居の問題は、別居かさもなくば離婚というところまで覚悟するなら話は
別だが、そうでなければ、受け入れてあきらめる。祖父母の子育て方針に、いろいろ問題はあ
っても、そうしたことから得るデメリットよりも、メリットも多いはず。親としては不満だろうが、そ
のメリットを生かして、親は親で好き勝手なことをすればよい。

 むしろ親と祖父母が対立することによって、家庭全体のムードが、おかしくなること。それから
生ずるギクシャクした雰囲気のほうが、子どもに悪い影響を与える。家族の中で、家族どうし
が、子育てのことで対立すると、子どもは糸の切れたタコのような状態になる。しかもそのと
き、子どもへの親(嫁)が祖父母のことを、いやな祖父母だと思っていると、祖父母もまた、親
(嫁)のことを悪い親(嫁)だと思っているもの。そういう意味では、人間の心はカガミのようなも
の。だからこの問題も、いきつくところ、あきらめる。あきらめて、あとは受け入れる。そして祖
父母の言いたそうなことを先に言ったり、やってしてやる。そして「おじいちゃんや、おばあちゃ
んのおかげでたいへん助かっています」と、おじょうずの一つでも言えばよい。

 子育てにはいろいろな問題が、つきまとう。そのとき大切なことは、それが大切な問題なの
か、どうかということを、まず選択する。そうでないと、つまりその選択をまちがえると、何がなん
だかわからなくなってしまう。混乱する。

 親としては、完ぺきな環境を子どもに提供したいと考えるが、完ぺきな子育てなどないし、ま
たそれができないからといって、自分を責めてはいけない。子ども自身にも、今のあなたと同じ
ように、自分で問題を解決する「力」がある。そういう意味では、子育ては、決してあなたひとり
の問題ではないし、ひとりですべてを背負ってはいけない。子どものもつ「力」を、信ずる。そし
てここにも書いたように、言うべきことは言いながらも、いつか子どもが、自分で判断できるよう
に、その下地だけはつくっておく。「お母さんは、そういうふうにして小づかいをもらうことは、悪
いことだと思う。あなたはそれについて、どう考えるの?」と。(1)の問題はともかくも、(2)や
(3)の問題は、そういう視点でとらえる。

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自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意味であ
る。

 この自由には、三つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動させるこ
と。(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が強いの
で、「〜〜しなさい」「〜〜してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこういう言い方は、子ど
もを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しかしその一方で、子どもから考える力
を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あなたはどう思うの?」「あなたは何をしたいの?」
「あなたは何をしてほしいの?」「あなたは今、どうすべきなの?」と。時間は、ずっとかかるよう
になるが、子どもが何かを言うまでじっと待つ。その姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。しかし
過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護になるケー
スなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しかし何が悪いかとい
って、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室育ち」になり、「外の世界
へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされても、メソメソするだけで、それに対
処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、明日の
宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子どもを起こし、
いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっさと寝て、明日先生に
叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースもあり、宿題といっても、いろい
ろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意味では、後者の母親のほうが、望まし
い。日本人は、元来、責任ということに甘い民族である。ことを荒だてるより、ものごとをナーナ
ーですまそうとする。こうした民族性が、子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に集中す
る。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝手なことをさせる
ことと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかってもらえれば、それでよい。

●子どもは自由にして育てよう。
●子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。

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見せる質素、見せぬぜいたく

 子どもの前では、質素を旨(むね)とする。つつましい生活、ものを大切にする生活、人間関
係を大切にする生活は、遠慮せず、子どもにはどんどんと見せる。

 ときに親もぜいたくをすることもあるが、そういうぜいたくは、できるだけ子どもの目から遠ざ
ける。あなたの子どもはあなたの子どもかもしれないが、その前に、一人の人間である。それ
を忘れてはいけない。子どもは、一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいたくから離れることが
できなくなってしまう。こんな子どもがいた。

 ある日、私の家に遊びに来ていた中学生(中二女子)が、突然、家に帰ると言い出した。理由
を聞いても言わない。しかたないのでタクシーを呼んであげたら、あとで母親がこう教えてくれ
た。「あの子は、よその家のトイレ(便座式)が使えないのですよ」と。「ボットン便所だったら、な
おさらですね……」と言いかけたが、やめた。

 このまま日本が、今の経済状態を維持できればよし。しかしそうでないなら、それなりの覚悟
を、親たちもしなければならない。多くの経済学者は、二〇一五年には、日本と中国の立場が
入れかわるだろうと予測している。実際には、二〇一〇年ごろではないかという説もある。すで
にASEAN地域での、政治的指導力は、完全に中国に握られている。そういうことも考えると、
二〇一五年以後は、日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならなくなるかもしれない。たいへん
残念なことだが、すでに世界はそういう方向で動いている。

 で、こういう状況の中、子どもにぜいたくをさせるということは、たいへん危険なことでもある。
先日も、中国で使っている教科書(国定教科書)を小学生に見せたら、全員が、「ダサ〜イ」と
声をあげた。見るからに質素な装丁の教科書だった。しかし日本の教科書のほうが、豪華すぎ
る。ほとんどが四色のカラーページ。豪華な写真に、ピカピカの表紙。

アメリカのテキスト(アメリカには日本でいう教科書はない)も、豪華で、その上、たいへん大きく
重い。しかしアメリカでは、テキストを学校で生徒に貸し与えたり、順送りにつぎの学年の子ど
もにバトンタッチしたりしている。日本では、恐らくこうした教科書産業のウラで、官僚と業者が
何らかの関係をもっているのだろうが、しかしそれにしても……? たった一年しか使わないテ
キストを、ここまで豪華にする必要はない。カラー刷りが必要だったら、子ども自身にカラーペ
ンで色を塗らせれば、よい。

 またまたグチになってしまったが、将来、今のような経済状態が保てれば、それはそれでよ
い。しかしそうでなくなれば、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。「昔はよかった」
と思うだけならまだしも、親が生活の質を落としたりすると、「あんたがだらしないから!」と、そ
れだけで親を袋叩きにするかもしれない。よい例が、小づかい。今どきの中学生や高校生は、
一万円や二万円の小づかい程度では、喜ばない。それもそのはず。今の子どもたちは、すで
に幼児のときから、そらゲーム機だ、そらソフトだと、目いっぱい、ほしいものを買い与えられて
いる。あのプレステ・2にしても、ソフトを含めれば三万円を超える。そういうものを一方で平気
で買い与えておきながら、「どうすればうちの子を、ドラ息子にしないですむでしょうか?」は、な
い。

 この「質素」の問題とからんで、「家庭経済」の問題がある。よく「家計はどこまで子どもに教え
るべきか」ということが話題になる。子どもに不必要な不安感を与えるのもよくないが、しかしあ
る程度は、子どもに見せる必要はある。たとえばアメリカの学校には、「ホームエコノミー」とい
う科目がある。小学校の中学年くらいから教えている。日本でも家計簿の使い方を教えている
が、アメリカでは、家計の管理のし方まで教えている。機会があれば、家計のしくみや、予算の
たて方、実際の支出などを子どもに教えてみるとよい。子どもをよき家庭人として育てるという
意味では、決して悪いことではない。

●質素な生活を大切にしよう。
●子どもには、ぜいたくは見せないようにしよう。
●子どもには、ぜいたくな生活をさせないようにしよう。
●ある程度の家計の流れは、子どもに見せておこう。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

少し否定的な意見ですが、新しい視点で
子どもの世界を見るために、参考にしてください。

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心を失う子どもたち

 少し冷めた目で、受験教育をながめてみると……

 光あふれる進学塾。ガンガンとしゃべりつづける講師。それをただひたすら、黙々とノートをと
る受講生たち。見ると、受講生たちは、みな、「必勝」と書いたハチマキをしめている。席は、前
回の模擬テストの結果で決まる。右の最前列が、トップの学生。左の最後尾が、ビリの学生。
それ以上成績が落ちると、二軍のBクラスに落とされる……!

 こういう授業を、すばらしいと思う親がいる。またそれが教育のあるべき姿だと思う親もいる。
しかしこんなのは教育でも何でもない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練でも、そこまで
しない。

 問題は、なぜこういう非常識が、日本の常識となってしまったか、である。それには長い歴史
と、日本独特の学歴社会がある。それについては、また別のところに書くとして、こういう教育
を受けた子どもほど、スイスイと人間選別期間を通りすぎていくというのは、まさに悲劇的です
らある。が、問題は、その先。

 仮にその子どもたちが、関門を通りぬけたとしても、それによって受けた心のキズは大きい。
さまざまな形で、子どもの心を大きくゆがめる。高校や大学へ入ってから、精神を病む子どもも
多い。日本では、それを指摘すると、教育システムそのものが崩壊する。だからだれもあえて
問題にしようとしない。あるいはそれが日本人全体の国民性にまでなっている。だからだれも
気づかない。

 たとえばガリガリの受験勉強を経験した人ほど、心が冷たくなる。これはウソでも何でもな
い。常識だ。それを疑うなら、あなたの周囲を少しだけ見回してみればよい。あなたの周囲に
は、心やさしい人もいれば、そうでない人もいる。しかし受験勉強とは無縁で育った人ほど、心
やさしいということを、もうあなたはずでに知っているハズ。

 私は週末は、浜松市郊外の山荘で過ごす。そこで会う人たちは、明らかに浜松の人たちとは
違う。どこがどう違うかということを書き始めたら、それだけで一冊の本になってしまうが、とも
かくも違う。人間の質そのものが違う。山荘の周辺で会う人たちには、牧歌的な温もりがある。
しかし一方、もっともいじめが陰湿で、悪質なのが、県内でも一番と目されているS進学高校。
はからずも私の息子もその高校に通ったが、三年間で、二度自転車が盗まれ、三度破壊され
た。ほかの小さな被害を数えたら、キリがない。この傾向は、有名国公立大学でも同じで、頭
が切れる分(?)、さらに陰湿かつ悪質になる。

 だいたいにおいて、受験教育は教育ではない。「指導」である。点を稼ぐための指導である。
そういう指導を、教育と錯覚し、受験指導をする講師もあわれなら、受講生たちはもっとあわれ
である。先日も北朝鮮のコンピュータ学校を取材した番組を見たが、そこで学ぶ子どもたち
は、まさに人間ロボット。画面を一心不乱にみつめながら、機関銃のようにキーボードを叩いて
いた。しかも見ると、小学一、二年生程度の子どもたちである。ああいうのを「教育」と思い込ん
でいる北朝鮮政府は、まさに狂っている。いや、日本だって、同じようなことをしている。国際的
に見れば、それほど変わらない。

 私も若いころ、進学塾の講師をしたことがある。当時のやり方で、そして日本の常識的なやり
方で、ただ一方的にガンガンとしゃべりながら授業を展開した。しかしそのやり方の基本は、私
が高校時代、私の高校で身につけた教育法である。私はそれがあるべき教育の姿だと、信じ
て疑わなかった。あるいはほかの教育法を知らなかった。が、私はまちがっていた。私の教育
法も、まちがっていた。そんなのは、教育ではない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練
でも、そこまでしない。……と、話が繰り返しになったので、ここで書くのをやめる。

●受験教育を、一度、冷めた目でながめてみよう。
●ああいう受験教育が本当に教育なのだろうか。それを一度、疑ってみよう。
●またああいう教育を通り抜けた人は、本当に優秀と言えるのだろうか。それも一度、疑って
みよう。

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自己管理能力

 自己管理能力のない子どもがふえている。しかも中学、高校と、受験勉強に明け暮れた子ど
もほど、その自己管理能力がない?

 ある母親はこう言った。「毎月生活費として、一〇万円(マンション代は別)渡していますが、
足りたことがないようです。ほとんど毎日アルバイトをし、内緒で車まで買っていました」と。

 そのためその大学生は、ローンの返済と、ガソリン代に追われる毎日。で、母親がそのマン
ションをたずねてみると、どの部屋もこうこうと電気がつき、冷暖房は一日中、つけっぱなし。冷
蔵庫には、腐った肉まであったという。

 決してドラ息子タイプの子どもではない。外の世界では、むしろできのよい大学生といったふ
う。しかし単位はほとんど落としていた。そこでいよいよごまかしがきかなくなり、最後は、父親
に泣きつくハメに。

 勉強はよくできる。そこそこの大学にも入った。しかし自己管理能力が、まったくない。経済観
念もない。予算を決めて、その中で生活することもできない。すべてがどんぶり勘定。すべてが
場当たり的。そういう現象が今、特殊な一部の子どもというより、ほとんどずべての大学生に共
通して見られる。

 なぜ、子どもがそうなるか。もう、言わずもがな。

 日本の子育ては、どこかおかしい。狂っている。本来教えるべきことを教えない。そういう狂
いが、そのまま突っ走っている感じ。こういう子どもがどうなるかということよりも、結局は、その
シワ寄せは親に集まる。爪に火をともして学費を工面して、子どもに送る。しかし肝心の子ども
は、そんな親の苦労など、どこ吹く風。大学生とは名ばかり。毎日、遊びこけている。

 さあて、みなさん。本当にこれでよいのか。このままでよいのか。もう一度、子育てのあり方
を、根本から考えなおそう。でないと、最終的に不幸になるのは、子どもたち自身ということに
なる。
(02−11−7)

●子育ての目標は、自立したよき家庭人をつくること。その原点を、もう一度確認しよう。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ハレンチ番組

 一一月三日、M大学で、民主党の鳩山由紀夫代表が講演をしていたときのこと。一時間ほど
したところで、聴衆の中から、突然、「コーラスを捧げたい」と申し出があり、その連中が、二曲
歌を歌ったという。で、大学側が調べたところ、このコーラスはNテレビのバラエティー番組製
作の一環と判明し、スタッフは「取材」と称して会場に入っていたことがわかった。

この事件に対して、大学側は、学部長名で日本テレビに抗議するとともに、陳謝と放送の中止
を求めることを決定した。また、事態を知らずに巻き込まれた民主党の鳩山代表も、「視聴率
稼ぎのために、人の心をズタズタにする行為を平気で行うことに断固抗議してまいりたい」と 放
送中止を求めたという(TBS・inews より)。

 カメラがうしろにあれば何をしてもよいという傲慢さ。これは今のテレビ界がもつ、共通の傲
慢さと言ってよい。先日もこんな番組があった。

 二人のお笑いタレントが、地方を旅し、突然、その家にあがりこみ、昼食や夕食をその家の
家人にもらって食べるという番組であった。私が見たときは、その家の妻が、夫のために用意
しておいた昼食を、一人のタレントが、何だかんだと理由をつけて食べるところであった。一
見、ほほえましい番組に見えたが、私はその番組を見ているうちに、何とも言われない不快感
に襲われた。もしあなたが、個人の立場でそんなことをすれば、即、その家から追い出される
であろう。警察に逮捕されるかもしれない。あるいは地方のテレビ局が、無名のタレントを連れ
て、東京へ行ったら、東京の人は、同じように、その地方の人を迎えてくれるとでもいうのだろう
か。

 こうした傲慢さの背景にあるのは、地方の人の、都会コンプレックス。それにマスコミコンプレ
ックスがある。この浜松市でも、東京からきたというだけで、何でもありがたがる傾向がある。
たとえば同じ講演でも、中央からきた講師だと、「東京から来た」というだけで、一回、三〇〜五
〇万円が相場。テレビなどで少し名の通った講師だと、一〇〇万円プラス旅費と宿泊費が相
場。タレントの世界には、「中央で有名になって、地方で稼げ」が、合言葉になっている!

 今回のM大学でのハレンチ事件は、こうした流れの中で起きた。あの低俗きわまりない連中
と、それを指揮する同じように低俗なプロデューサーとディレクター。こういう連中が一体となっ
て、起きた。が、ここで忘れてならないのは、こうしたテレビ番組が、若者や子どもたちに与える
影響は、想像以上のものだということ。いくら学校という場で、良識を学んでも、そんなものは、
こうした番組の前では、ひとたまりもない。むしろ学校教育そのものが、逆に破壊されることだ
ってある。

 こうしたテレビ局に、倫理や道徳を求めても、ムダ? もともとそういう人たちが、番組を作っ
ているのではない。また、本来なら、勇気ある有識者が、もっとこうしたマスコミのあり方を批判
してもよいはずなのだが、それはしない。批判すれば、テレビ界から追放されてしまう。テレビ
界から追放されたら、(あるいは嫌われたら)、「地方で稼ぐ」ということができなくなってしまう。

 もっと、みなさん、いっしょに賢くなろう。賢くなって、もっともっと中央に背を向けよう。そしても
っと中央を批判し、本物とニセモノを見分ける目をもとう。私たちはともすれば、中央から流さ
れてくる情報を、ただ一方的に受け止めるだけ。そして中央の意のままに、あやつられるだ
け。こんなことをしていたら、地方は、いつまでたっても、「地方、地方」とバカにされるだけ。

 M大学は、学長名で、Nテレビ局に抗議したというが、ひょっとしたらM大学にせよ、「テレビ
取材」ということで、飛びついたのではないか。シッポを振ったのではないか。今の大学に、こ
れは私立大学全般に言えることだが、こうしたハレンチ行為に抗議するだけの良識があると
は、とても思えない。だいたいにおいて大学教育が、そうした良識を育てるしくみになっていな
い。

 私はこの事件を聞いたとき、「またか……」と思った。今まで何度となく、この種の事件が起き
るたびに、テレビ局へ抗議をしてきた。しかしすべてがムダだった。たとえば七、八年前、イス
ラム教徒のトルコに行き、素っ裸になって踊ったお笑いタレントがいた。体育館に集まった聴衆
の中には、女性や子どももいた。結局、その番組は放映されなかったが、日本そのものが、世
界の人に笑われた。私もテレビ局に電話で抗議したあと、文書でも抗議した。で、そのタレント
は、しばらくはなりを潜めていたが、今度はパプア・ニューギニアに住む裸族のレポーターとし
て、再び、番組に登場していた。彼はその番組の中で、チンチンの先に大きな、筒をつけ、誇
らしげに笑っていたが、それはまさにトルコの事件を、逆手にとったような番組だった。

 こういう番組を見ると、私たちは低俗タレントのほうばかりを責めるが、本当に責められるべ
きは、その上のディレクターであり、プロデューサーなのだ。あるいはテレビ局本体なのかもし
れない。しかしさらに責められるべきは、そういう番組に対して批判力をもたない、私たち自身
なのかもしれない。テレビ局は、そしてマスコミは、何かあると報道の自由を盾にとって、もっと
もらしいことを言うが、しかしこんな番組のために、報道の自由があるわけではない。私たちは
もう一度、「報道がどうあるべきか」という原点に立ち返って、現在のテレビ界の姿勢をながめ
てみる必要がある。

●こういうハレンチ番組を見たら、テレビ局へどんどんと抗議の電話をしよう。テレビ局によっ
ては、苦情処理センターを置いているところが多い。中には、常時留守番電話になっているの
もあるが、遠慮せず、抗議しよう。伝言を残そう。私たちは子どもたちのために、戦うのだ!

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人間宣言

 人間宣言!
 人間らしく、生きよう!
 人間らしく、仕事をしよう!
 
 あなたは、軍服を着た軍人に人間を感ずるか?
 あなたは、制服を着た警察官に、人間を感ずるか?
 あなたは、スーツにネクタイをしめたサラリーマンに、人間を感ずるか?

 人間宣言!
 私たちは、ロボットではない!
 私たちは、機械の歯車ではない!

 私たちは、人間だ!
 私たちは、温かい血をもった人間だ!
 私たちは、温かい心をもった人間だ!

不完全であることを、恥じることはない。
未完成であることを、恥じることはない。
ボロボロであることを、恥じることはない。

さあ、あなたも勇気を出して、制服をぬいでみよう。
さあ、あなたも勇気を出して、カラから飛び出してみよう。
さあ、あなたも勇気を出して、心から叫んでみよう!

私たちは、人間だ!
私たちは、人間だ!
私たちは、人間だ!

 昔、東京オリンピックのとき、日本の選手団が一糸乱れぬ入場行進をしてみせたとき、日本
人はみな、そのすばらしさに(?)、歓声をあげた。しかし今、だれもそんな行進など、見向きも
しない。

 同じように、今、北朝鮮がそのつどする、あのマスゲームを、だれもすばらしいとは思わな
い。先日も、北朝鮮の上級小学校(?)の模様が、テレビで報道されていた。子どもたちは不自
然な笑みを顔いっぱいに浮かべて、これまた一糸乱れぬ演技をしていた。しかし今、そんな演
技を、だれもすばらしいとは思わない。そういう画一行動は、ただ不気味なだけ。恐ろしいほ
ど、不気味なだけ。

 さあ、私たちも自分の姿を振り返ってみよう。私たちの周囲には、そういう不気味さはない
か。私たちは今、自信をもって、私たちは、あの北朝鮮と違うと、胸を張って言えるか。さあ、あ
なた自身はどうか。あなたはどこかで、画一行動をしていないか?

 さあ、あなたも制服をぬいで、ネクタイをはずして、行列から離れて歩いてみよう。もし、それ
が無理なら、まず、あなたの心から制服をぬいで、ネクタイをはずして、行列から離れて歩いて
みよう。心を解き放てば、体はあとから、ついてくる!

 私たちは人間。だから遠慮せず、人間らしく、生きよう!

●ロボットのような人間が、近代的だと、だれが言い出した? 私は中学生のとき、はじめてデ
パートへ行った。そのとき、人形のようなデパートガールを見て、「これは人間か?」と思った。
しかしあのとき受けた強烈な印象は、そののち、色あせ、いつの間にか私から消えた。私が変
わったのか? それとも日本人全体が、ロボットのようになってしまったのか?

●もっとガタガタの人間でよい。また、そういう人間であることを恥じる必要はない。もっと私た
ちは、ありのままに生きよう。ありのままでいいのだ。それを私は、「人間宣言」と呼ぶ。

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子育て随筆byはやし浩司(287)

無料のマガジン

 今、電子マガジンを無料で出している。読者も合計で七〇〇人足らずと、この日本の巨大な
マスコミ社会の中では、取るに足らないマガジンである。しかし私は、このマガジンに不思議な
魅力を感じている。正直言って、楽しい。それについて書くまえに、少しだけ、私の過去を書か
ねばならない。

 私は、ずっと、この道に入ってからというもの、ただひたすら最底辺の立場を歩いてきた。今
もそうだが、それだけに無数の辛酸(しんさん)をなめさせられた。そのため私はいつしか、「私
のもっている知識や情報は、タダでは人に教えない」と思うようになった。私がつかんだ知識や
経験は、それこそ私の汗の涙の結晶でもある。血だって流した。同僚の年配の教師にひっぱ
たかれたことは、数度ある。親に首をつりあげられたことも、数度ある。電話で怒鳴られたこと
となると、数知れない。が、もし私がそれなりの地位や立場にあれば、そういうことはなかった
だろうと思う。

 だから私はいつしか、「親族(おやぞく)」という言葉を考えた。「親族は信用してはいけない」
「親族は肩書きで人を判断する」「親族は……」と。そういう意味では、私はクールだった。いか
にその子どもが、そのとき失敗の道をまっしぐらに落ちる一歩手前にいても、金の切れ目が縁
の切れ目。その子どもが金銭的な意味で、私とつながっていないときには、黙った。無視した。
正直に告白するが、私はその親族に、どれほどいじめられたことか! そうして黙ることは、親
族に対する、唯一の私の抵抗方法だった。

 が、その心境が変わり始めたのは、私が四六、七歳になるというころだった。今から思うと、
何がきっかけだったかはよくわからない。たぶん、できの悪い息子たちのことで、あれこれ悩ん
だり、苦しんだ結果ではないかと思う。ともかくも、私は親族に少しずつ心を開き始めた。そして
電話による相談にのり始めた。もちろん無料である。多少でも、お金を受け取れば、かえって
そのほうが、プライドに傷つく。私が得た経験や知識は、そんな安っぽいものではない。つまり
そう思うから、お金は受け取らない。もしもらうということであれば、それ相当の報酬を要求す
る。そのときは、徹底的に責任をとる。

 そんな私だが、一方で、たくさんの本を書いてきた。お金儲けは、そちらで、と考えた。ところ
が私が書いた本は、ほとんど売れなかった。たいていは、初版で、そのまま絶版。よく売れて、
二刷。三、四刷までいったのは、ほんの数冊にすぎない。いつしか私は、本でお金を儲けよう
などとは思わなくなった。

 この状態は今も変わらないが、そういうとき、電子マガジンを発行してみた。最初は、興味本
位だった。しかしそのうち、本気になってきた。この電子マガジンは、お金にもならなし、名誉に
もならない。はっきり言って、何にもならない。しかしだからこそ、私に合っている。有料マガジ
ンという手もあるが、有料にするならするで、相場の月額三〇〇円程度では、売りたくない。私
の原稿は、そんな安っぽいものではない。(勝手にそう、うぬぼれているだけだが……。)どう
せ金額が少ないなら、ただのほうが気が楽だ。それに気が変われば、いつだってやめられる。
フリーのカードは、自分のところに残しておきたい。つまり「無料」というのは、そういう私の現在
の心境に、ぴったりと合っている。

 しばらく私は、とにかく全力で、マガジンの原稿を書いてみる。何になるか、あるいは何にもな
らないのか、それはわからないが、とにかく、書いてみる。結果はあとからついてくる。あるいは
何もついてこないかもしれない。やってみるしかない。その「やってみるしかない」という投げや
りなところが、今の私には、楽しい。

●読者の皆さんへ、少し生意気なことを書いてしまいましたが、どうか気分を悪くしないでくださ
い。しかしこれだけは約束します。このマガジンを読んでくださっている方だけは、子育てで失
敗(失敗というものはないのですが……)しなくてすむようにします。私のありったけの経験を、
このマガジンを通して、みなさんにお伝えします。このマガジンを読めば、一〇〇人力、あるい
は一〇〇〇人力という状態にします。約束します。そんなわけで、これからもよろしくお願いし
ます。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。 
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞






件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-17-2

後半部です

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【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

妻たちの計算

●財産目当ての妻
 夫に生活力がないと、初期の段階では、妻は、夫の生活力のなさを嘆き、夫を責める。しか
しその段階をすぎると、つぎに妻は、夫の実家の財産、あるいは同居する親の財産に目をつ
ける。そして夫への愛情を減らす一方、それと反比例する形で、夫の実家への依存性を強め
る。

 こうしたパターンは、きわめてよく見られる。ごくふつうのことである。ひょっとしたら、あなたの
周囲にも、同じようなケースの一つや二つは、あるかもしれない。

 で、その前の段階として、夫の親、つまり義理の親は、自分のメンツを構うあまり、妻、つまり
嫁の前で、よい格好(かっこう)をして見せることが多い。具体的には、財産家であるようなフリ
をする。で、調べてみると、おもしろいことに、たいていの日本人はそう形でミエを張る。そして
そうしたよい格好が、妻にあらぬ期待をいだかせ、のちのちのトラブルの原因になることもあ
る。

 さて、夫の実家に依存性を強めた妻は、そこで今度は、義理の親の前で、よい「女」を演じる
ようになる。よい妻やよい嫁ではない。よい「女」を、だ。こうして義理の親の心をつかみ、親に
取り入ろうとする。目的は、もちろん、親の財産である。こうしたパターンも、たいてい共通して
いて、どの妻も、ほぼ同じような経過をたどる。が、ここで誤算が生ずるときがある。妻が義理
の親と対立するときがある。いつもいつも、うまくいくとはかぎらない。

 そういうとき妻がもちだすのが、「子ども」。子どもをエサにして、義理の親の歓心を買おうと
する。あるいは自分と、義理の親をつなぐ接着剤にしようとする。ここから先は、現実にあった
話を書く。

●N氏のケース
 N氏はそのとき、すでに四〇歳になっていた。しかしどこかヌボーッとした性格で、よい結婚相
手に巡りあうことができなかった。で、四〇歳になったとき、夫の両親が、彼に見合いをさせ
た。相手は、三〇歳の女性だった。女性には、すでに離婚歴があった。で、最初の数か月は、
それなりにうまくいっていたが、うまくいったのは、その数か月だけ。そのうちたがいの間は、急
速に冷却化していった。原因や理由は山のようにあった。が、それでも離婚することなく、五年
経ち、七年経った。二人の間には、五歳の男児と、三歳の女児がいた。

 ふつうならとっくの昔に離婚していてもおかしくない状態だったが、一つだけほかの家族と内
情が違っていた。夫の実家は、昔からの農家で、H市の郊外に、数千坪単位の土地をもってい
た。しかも区画整理の工事がはいるたびに、数千万円単位の現金を手にしていた。妻はこの
財産に目をつけた。

 妻は、土日になると、足しげく二人の子どもを連れて、夫の実家へ通った。なんだかんだと理
由をつけて、泊めてもらうこともあった。さらに自分のほうから、実家の親に、子どもたちをその
実家から、小学校や幼稚園へ通わせたいと申しでたこともある。しかしそのもくろみは、うまくい
かなかった。実家の親たちが断ったからだ。多分、心のどこかで割りきれないものを感じたか
らではないか。あるいは夫婦関係が冷えていることを知っていたためではないか。が、孫のか
わいさには勝てなかった。そんな関係が、それからまた、二年、三年とつづいた。

 もうこういう状態になると、修復は不可能。夫は「ぼくたちは形だけの夫婦です」と言ったが、
本当に形だけの夫婦、形だけの家族だった。夫は運送会社の倉庫番をしていたが、夜勤がほ
とんど。家族の会話も、ほとんどなかった。

●それでも夫婦、それでも家族
 で、その夫婦はどうなったか? ……ところがである。今でも、その夫婦は夫婦のまま。家族
は家族のまま。何も変わっていない。読者の皆さんも、何かしら劇的な結末を期待したかもし
れないが、そういう結末もない。ただの夫婦。ただの家庭。

 実はここに家族の不思議さがある。人はそれぞれの方法で家族を築くが、その家族は、一つ
とて同じものはない。そうでない人からみると、いくら問題があるように見えても、それぞれの夫
婦は、そして家庭は、それなりに夫婦であり、家庭である。はたからみていると、このN氏のケ
ースでも、N氏に、「それでいいのか?」と問いつめたくなるが、そんなことをしても意味はない。
何も解決しない。第一、本人たちがそれを望んでいない。

 妻とは話したことがないので、その気持ちは、よくわからない。
 夫は、相変わらず淡々と自分の仕事をつづけている。
 実家の親たちは、こう言っている。「まあ、いいじゃないですか」と。嫁が財産目当てで近づい
てきていることについても、「ぜんぶわかっています。まあ、いいじゃないですか」と。老齢になる
と、そういう心境になるらしい。

●『夫婦げんかは、イヌも食わない』という。同じように、夫婦の問題、家庭の問題は、アンタッ
チャブル。ふれたところで、どうにもならない。干渉するだけ、ヤボ。本人たちに、なるように任
せるしかない。

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人間に設計図はあるのか?

 人間に設計図はあるのか? もちろん、ない。あるはずもない。あるはずもないのに、しかし
現実には、設計図がある?

 日本では、それをコースという。保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学……と。ほと
んどの親は、それがあるべき人間のコースであると、信じて疑わないでいる。そしてそのコース
に合わせて、つぎに自分の子どもの設計図を描く。

 家を建てるときも、道路をつくるときも、設計図があれば楽。楽というより、設計図がなけれ
ば、仕事が先に進まない。しかし子どもというのは、家や、道路ではない。「心」をもった人間で
ある。だから設計図どおりにはいかない。またいくはずもない。いかなくて、当たり前。そういう
前提で、子どもの設計図を描くのは、悪いことではない。しかし、その設計図にこだわってはい
けない。

 人間に形はあるのか? もちろん、ない。あるはずもない。あるはずもないのに、しかし現実
には、形がある。だからその「形」にそぐわない子どもがいたところで、何もおかしくない。また
そぐわないからといって、まちがっているとか、正しくないとか、言ってはいけない。

 日本では、それを「世間一般の常識」という。(私がよく使う「常識」とは、意味が違うが…
…。)たとえば女性は、その年齢になったら、年上の男性と結婚して、家庭をもうける。男性は
それなりの会社で定職につき、立派な社会人となる、と。

 しかしこんな常識は、神様が決めたのでも、仏様が決めたのでもない。長い間、人間が生き
てきた中で、最大公約数的にできたものにほかならない。だからそれが人間のあるべき「道」と
決めてかかってはいけない。
 
 私が今、直接知っている事例をいくつか、あげてみよう。

(事例1)J君(現在三〇歳)は、高校を中退。浜松市でもナンバーワンという進学校である。そ
して一年ほどブラブラしたあと、名古屋市にある演劇学校に入学。そこで「?」(どういうふうに
ジャンル分けしたらよいのかわからない職業)を身につけ、今は行楽地や遊園地で、ぬいぐる
みの衣装を着て、舞台で踊っている。彼はそれを、「とても楽しい」と言っている。

(事例2)C君(現在二七歳)は、今度、八歳年上の女性と結婚することになった。親が反対しよ
うと思ったころには、すでに子どもができていた。しかし今は、子どもが生まれるのを楽しみに
しながら、浜松市内のアパートで、楽しそうに生活している。

(事例3)F君(現在二五歳)は、大学三年生のとき、学生結婚。相手の女性も学生だった。が、
F君は、そのまま大学を中退。東京R大という名門校(こういう言い方は好きではないが……)
を出て、しばらくはフリーターとして生活費を稼いでいた。今も、定職にはつかず、奥さんと、そ
のつど、いろいろな仕事をして暮らしている。

(事例4)K君(現在二〇歳)は、高校の夏休みに、アメリカにホームステイした。が、帰国すると
また、そのまま渡米。親の反対を押しきっての渡米である。今は、ロスで、映画人としての道を
歩み始めている。

 今、教育の世界では、「個性」という言葉がよく使われる。しかし個性を伸ばすためには、そ
の前に多様性のある社会、また人間の多様性を認める社会が必要である。それがないまま、
「個性、個性」と言っても、言われたほうが困る。また個性をもてばもつほど、結局は苦しむの
は、その子ども自身ということになる。

 だから親が子どもを育てるときは、ふたつの覚悟をしたらよい。ひとつは、子どもがどんな道
を歩むことになっても、それを認めるだけの寛容さと、度量の広さを用意しておくこと。もうひと
つは、そういう子どもになるという前提で、あなた自身の中にある設計図や世間一般の常識
を、一度疑ってみるということ。疑うだけでよい。そういう疑いが、日本全体に広がったとき、日
本は確実に変わる。

 子どもというのは、あなたから生まれるが、決して、あなたの思い通りにはいかない。それが
わからなければ、あなた自身を見つめてみればよい。あなただって、決して、親の思い通りに
は、なっていないはずだ。もっともそれに気づいている人は、まだよいほうだ。たいていの人
は、「自分は何も問題はなかったはずだ」と考えている。しかしそういう人ほど、あなた自身を振
り返ってみてほしい。それはあなたのためというより、これから先、あなたとあなたの子どもの
パイプを破壊しないため。このタイプの人ほど、子どもの設計図にこだわり、世間の一般常識
にこだわる傾向が強い。

●子どもに、自分の設計図を押しつけては、いけない。
●子どもに、世間の一般常識を押しつけてはいけない。
●多様性のある社会、多様性を認める社会をめざそう。

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スランプ

 英語で、デプレッションというと、「うつ状態」をいう。私の友人のR君(オーストラリア人)も、長
い間、そのデプレッションで苦しんだ。「暗いトンネルの中にいたようだった」と、当時を振り返っ
て、彼はそう言う。

 私もときどき、そのうつ状態になる。いくつかトラブルが重なると、そのあと、そうなる。ホッとし
たときに、そうなる。何をするのもおっくうになる。ひどいときは、テレビを見たり、新聞を読んだ
りするのも、いやになる。どこか精神状態がフワフワしたような気分になり、つかみどころがなく
なる。

 もっともそういう状態は、今に始まったことではない。若いときからあった。だからなれたという
か、その状態とうまくつきあう方法を、自分なりに身につけた。その方法、第一、そういう状態に
なったら、さからわず、そのままの状態で、よく眠る。第二、カルシウム剤をたくさんとる。第三、
……。いろいろあるが、その中でも、もっとも効果的なのは、買い物。ほしいものを、バカッと買
ってしまう。もっともあまり高価なものだと、かえって落ち込みがひどくなるので、そこそこの値
段のもの。買い物依存症になる人がいるというが、そんなわけで、私はそういう人の気持ち
が、よく理解できる。私も、その仲間?

 結局は、人間は、何も考えないほうが、生きやすい? 先ほどもテレビを見ていたら、どこか
の鉄道の車掌が、原稿を読みながら、客にあたりの様子を説明しているシーンが出てきた。の
どかな光景だった。今ごろは、紅葉の見ごろ。私はその車掌の、どこかヌボーッとした表情を
見ながら、「この複雑な社会を生きるためには、かえってこのほうがいいのかなあ」と、思わず
考えてしまった。言われたことだけを、まあまあ、そこそこにやって、あとはのんびりとその日、
その日を、無難に暮らす……。

 私は私だが、では、その私は、私の息子たちには、どんな人生を歩んでほしいかというと、ひ
ょっとしたら、その車掌のような人生かもしれない。あまり高望みはしない。(しても無理だが…
…。)そこそこの人生を、のんびりと送ってくれれば、それでよい。本人がそれだけの力があ
り、野心もあり、そしてそれを望むなら話は別だが、そうでなければ、健康を大切にしながら、
自分の力の範囲内のことをしてくれれば、それでよい。

 そうそう少し前だが、私はこんなことを思った。インドのマザーテレサが、大きく話題になって
いたころのこと。私はもし私の息子が、インドへ行って、マザーテレサのようなことをしたいと言
い出したら、それに賛成するだろうか、と。世界中の人は、マザーテレサを賞賛していたが、で
は、それが人間として、あるべき人間の姿かというと、そうは思わない。……思えなかった。そ
こで当時当、私は何人かの父母にこう聞いてみた。「あなたは、あなたの息子(娘)に、マザー
テレサと同じようなことをしてほしいですか?」と。すると、全員、「ノー」と答えた。

 話がそれたが、そう考えると、「生きる」ということが、どういうことなのか、またまたわからなく
なってしまう。まあ、あえて言うなら、自分の力の範囲で、自分の力の限界をわきまえ、無理せ
ず、生きていくということか。そういう意味では、私など、恵まれた環境にある。ときどき、自分
の仕事がこんなに楽でよいものかと思うときがある。あるいは私のばあい、職場そのものが、
ストレス発散の場所になっている。自由な時間はたっぷりあるし、私に命令する人は、だれもい
ない。(ワイフは別だが……。)もっともこういう環境をつくったのは、無意識のうちにも、私自身
の弱点を避けるためだったかもしれない。もし私が、大きなオフィスビルのどこかで、パソコン
相手に、数字とにらめっこしているような仕事をしていたとしたら、とっくの昔に発狂していた
か、自殺していたかもしれない。自殺はしなくても、心筋梗塞か脳内出血で死んでいたかもしれ
ない。

 そういうこともあって、いつしか私は、落ち込みそうになると、いつも、こんな歌を口ずさむよう
になった。

♪……のんびり行こうよ、俺たちは……あせってみたって 同じこと……

 この歌は、小林亜星氏作曲によるもの。日本の高度成長期に、ある石油会社のコマーシャ
ルソングとして、歌われたものである。あなたも気分が滅入ったら、この歌を口ずさんでみた
ら、どうだろうか。少しは気が楽になるかも? そう、私たちはのんびり行こう。あせってみて
も、どうせ同じこと。
(02−11−9)

●今、落ち込んでいる人へ、いっしょに助けあいながら、励ましあいながら、がんばって生きて
いきましょう。人生にはいろいろありますね。まあ、本当にいろいろありますね。私もときどき、
美しい景色をながめていたりすると、「よくがんばっているなあ」と、自分のことがいとおしくて、
涙をこぼすことがあります。みなさんは、いかがですか。

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子育て随筆byはやし浩司(298)

今日もまた……

 今日もまた、とても悲しいことがあった。一人、山荘の窓から外を見ていたら、涙がこぼれて
きた。どうしてつづくときは、こういうことばかりつづくのか? 

 生きるということは、雲の間の光を見ながら、それをたよりに、森の中をさまよい歩くようなも
の。数えてみれば、楽なことより、苦しくてつらいことのほうが多い。楽しいことより、さみしいこ
とや悲しいことのほうが多い。わずかな夢や希望に自分をたくし、「何とかなるだろう」と、自分
を励ましながら、自分の体にムチを打つ。

 今、できることは、現実を受け入れ、その中で最善をつくすこと。ワイフを愛し、息子たちを愛
し、ただひたすら、許して忘れる。ただただ、ひたすら、許して忘れる。問題があることが悪い
のではない。また問題と戦っても、意味はない。そういう問題が、人生にはつきものという前提
で、問題を受け入れる。なるようにしかならないときは、なるようにしかならない。しかし何もしな
くても、なるようになるときは、なるようになる。それを人は、「運命」というが、決して運命を受け
入れろということではない。あきらめろということでもない。最後の最後までふんばるから人間。
生きるドラマも、そこから生まれる。生きる美しさも、そこから生まれる。

 人生はよく航海にたとえられる。私自身は、航海をしたことがないから、本物の航海がどうい
うものかは知らない。しかし人生は、まさに航海のようなもの。私はよく、自分が、大波や小波
をかぶりながら、航海しているさまを頭の中で想像する。ときどき問題にぶつかると、「さあ、来
い!」と、その問題を波にみたてて叫ぶのは、そのためだ。今も、そう。私は懸命に、「さあ、来
い! 負けるもんか!」と、波に向かって叫んでいる。

 ふと見ると、横で、ワイフもさみしそうに、空を見あげていた。私は顔中に笑みを浮かべなが
ら、「だいじょうぶだよ。何とかなるよ」と言った。ワイフは、だまってそれにうなずいた。

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日本人の結果主義

●結果主義
 あの世があるという前提で生きると、死に際は、まさにあの世への入り口ということになる。
大乗仏教で、死に際の様子を重視するのは、こういうところに理由がある。そのため、大乗仏
教では、たとえばキリスト教を批判するとき、決まってもちだすのが、キリストの十字架への張
りつけである。「キリストは、最期はあのような、無惨な死に方をした。それがキリスト教はまち
がっているという証拠だ」と。私も学生のころ、地元の寺の僧侶に、そう聞かされたことがある。

 どちらが正しいかということを、ここで論じても意味がない。また私には、それを判断する力は
ない。しかしこうした大乗仏教的な思想、つまり結果主義は、私たちの生活のあらゆる部分に
影響を与えている。もちろん教育にも、そして子育てにも、である。

●ある母親の例
 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「すべてがムダでした」と。
「いろいろな教室に通わせました。家庭教師もつけました。高額な教材も買いました。しかしム
ダでした」と。親がこうした心境になる背景には、ここに書いたような、結果主義がある。ほかに
も、例がある。その一つが、「産んでもらいました」「育ててもらいました」という、日本人独特
の、「もらいました」論である。少し飛躍した感じがしないでもないが、こういうことだ。

 「今、私がいるのは、親に産んでもらい、育ててもらったからだ」と言う人がいる。日本人には
たいへんなじみのある言い方で、大半の人は、「そのとおり」と思っている。しかしこの考え方
は、あくまでも結果論にもとづいた考え方でしかない。実のところ、私も子どものときから、いつ
も父や母に、そう言われて育った。「お前を、産んでやった」「育ててやった」と。耳にタコができ
るほど、そう聞かされた。で、ある日、こう反発した。私が中学生くらいのときではなかったかと
思う。「いつ産んでくれと、頼んだ!」と。それを言うと、母は激怒して、「親に向かって、何てこと
言う!」と、私に大声で叫んだ。

 そこで親は、子どもを育てる過程でも、「教室へかよわせてやった」「家庭教師をつけてやっ
た」「高額な教材を買ってやった」と考える。実際、私なども、ことあるごとに、親に「お前には、
学費で、○百万円もかけたからな」と言われた。この段階で、子どもも、「教室へ通わさせても
らいました」「家庭教師とつけてもらいました」「高額な教材を買ってもらいました」と思えば、た
がいの関係は、うまくいく。しかし今の子どもたちはそうは、思わない。その思わないところか
ら、断絶が始まる。話が脱線したが、親子の断絶にも、この結果主義が関係している。

 もともと子どもをもうけるかもうけないかを決めるのは、親の意思ではないのか。しかも子ども
をつくるといっても、私たちが直接組み立てるわけではない。男の立場でいうなら、セックスをし
て、射精すれば、それでこと足りる。少なくとも、私はそれ以上のことはしなかった。女の立場で
も、妊娠中はたしかに苦しいが、しかしそれとて生まれてくる子どもに頼まれたからそうしてい
るのではなく、むしろ生まれてくる子どもが楽しみだから、そうしている。子どもは、まさに夫婦
の愛の結晶ということになる。

 それがあるときから、一転して、親は、子どもに向かって、「産んでやった」という。この親の変
化は、いつどのようにして生まれるのか。いや、もしその女性が、いやいや、それこそあと継ぎ
か何かのために、不本意ながら子どもをもうけたというのであれば、こうした考え方もあるかも
しれない。しかしそうでなければ、つまり望んで、自分の意思で子どもをもうければ、もともとこう
いう発想は生まれない。子どもが生まれてきたことについて、「ありがとう」と言うことはあって
も、「産んでやった」とは、決して思わない。

●親がいるから子どもがいる
 そこでさらに考えを推し進めていくと、この問題は、「親がいるから子どもがいる」という考え方
と、「生まれてみたら、親がいた」という考え方の、どちらかに集約されるのがわかる。親の立
場から、一方的に子どもを、「自分のモノ」と見る考え方と、子どもの側から見て、子どもの世界
を中心に、親を認識するという考え方といってもよい。日本では伝統的に、前者の考え方をす
る。で、こうした考え方も、つまるところ、結果主義的な見方ということもできる。さらに念をおす
と、こういうことになる。

 親がいるから、子どもがいる。だから子どもにとって、親は絶対。そういう意味で子どもは、服
従的であればあるほど、できのよい子どもということになる。日本独得の親孝行論も、こういう
流れの中で生まれた。美化された。つまりこの時点で、「子どもがいる」のは、「親のおかげ」、
つまり「親がいる結果、子どもがいる」と考える。そして自分自身も、先祖がいるから、その結
果、自分もいると考える。このタイプの人が、好んで、「先祖、先祖」と言うのは、そのためであ
る。

 こうして日本人の結果主義は、ありとあらゆる部分に入り込んでいる。そしてそれが日本の
社会をつくるバックボーン(背骨)になっている。で、あなたはどうか。簡単なテストをしてみよ
う。

(A派)
●子どもは親に服従的であるべき。親に向かって、「バカ!」などと言うことは許さない。
●先祖があっての私。その私あっての子ども。先祖を敬うのは、家庭生活の基本。
●親孝行は家庭教育の要。親は、デンとした威厳があることこそ、大切。

(B派)
○子どもといっても、未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけば、対等の人間。
○子どもは子どもで、自分の納得する人生を、自分なりに思う存分、羽ばたけばよい。
○親子でも尊敬しあう関係こそ、理想的。たがいに大切にするという姿勢があればよい。

 さてあなたはA派に近いだろうか、それともB派に近いだろうか。それを少しだけ、自問してみ
てほしい。

(注意)私のマガジンを読む人で、A派の人はほとんどいないと思う。マガジンというのはそうい
うもので、フィーリングが合わなければ容赦なく、解約される。だからこのマガジンを読む人は、
私のフィーリング、つまりB派だと思う。しかしこの問題は、生きザマの根幹にかかわる問題だ
から、頭からA派ならA派を否定すると、それこそたいへんなことになる。たとえば先祖を大切
にしている人に向かって、その先祖を否定すると、それはそのままその人自身を否定すること
になる。じゅうぶん注意してほしい。

 私のばあい、周囲にA派の人はいくらでもいるが、そういう人だとわかった段階で、その人に
合わせるようにしている。この問題は、ここにも書いたように、生きザマの根幹にかかわる問題
だから、多少争ったところで、それでどうにかなる問題ではない。相手を説得できるということも
ない。大切なことは、相手の考え方を認め、そして相手の立場で、ものを考えてやること。A派
の人もB派の人も、仲よく共存すること。それが大切である。

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(おまけの辛口批評……このところ、どうも、神経がイラだっているようです。)

息苦しい社会

●ガチガチの管理社会
 日本ほど、ガチガチに管理され、息苦しい国は、ほかにない。何をするにも、許可だ、認可
だ、資格がいる。

 アメリカの田舎町でタクシーに乗る。メーターなど、ついていない。料金は、乗るとき、決め
る。「一人一〇ドルで、二人で二〇ドル」と。で、翌日も来てくれと頼んだら、今度は夫が別の車
でやってきた。「妻は、ほかの仕事で、ほかへ行っているから、かわりに私が来た」と。

 こうしたおおらかさが、日本からは消えた。一見、すごしやすい国に見える。が、その実、すご
しにくい。が、それだけではない。これだけ管理されると、いわゆるすきま産業がなくなる。すき
ま産業がないということは、夢が生まれないということ。すべての人が、すべての立場で、歯車
となって動くしかない。

 教育とて例外ではない。今、H市のどの小学校、中学校、それに高校へ行っても、スリッパに
はすべて通し番号がつけられている。そしてそのスリッパは、その番号の書いた下駄箱に入れ
るならわしになっている。だから学校へ入る人は、その下駄箱から、スリッパを出し、帰るとき
は、その番号の下駄箱にそのスリッパをしまう。

 そこで懸命に、アメリカの学校はどうだったかを思い出してみるのだが、彼らはまずクツを脱
がない。そのまま教室へ入る。いいかげんと言えば、いいかげん。スリッパさえない。下駄箱な
ど、さらにない。しかしいつも不思議に思うのは、どの学校でも、床にジュータンを敷きつめてい
ること。「汚れないのか?」と思うが、彼らは気にしない。そういうアメリカの学校とくらべると、
「では、スリッパは、いったい何のためにあるのか」ということになる。

 そこで中学生たちに聞いてみた。「どうして学校では、スリッパをはくのか?」と。いろいろな答
が返ってきた。「靴下を汚さないため」「トイレへ行くとき、困るから」など。一人、「スリッパをはく
のは、日本の習慣だから」と言った子どもがいた。そこで私が、「スリッパというのは、英語だ」
と言うと、「へえ、英語だったの?」と。

 話がそれそうなので、ここまでにしておくが、学校には学校の言い分があるのだろう。しかし
仮にスリッパが必要だとしても、通し番号までつける必要があるのかという疑問もある。カゴか
箱に、どさっと入れておけば、それでよいのではないか。そういうことで神経をつかうなら、もっ
とほかのことにつかったほうがよいのでは? これはあくまでも、(?)としておく。

 それはともかくも、この日本、何から何まで息苦しい。本当に息苦しい。「自由だ」「自由だ」と
言ったところで、どこに自由があるのか。

●日本は官僚主義国家 
 日本がなぜこうなってしまったか、だが、理由は簡単。日本は官僚主義国家。決して民主主
義国家ではない。官僚たちは、まず民衆を管理する。あらゆるところを管理する。そうして管理
しながら、役人をふやし、権限を拡大する。彼らの息がかかった組織や団体がふえればふえる
ほど、それはそのまま彼らの天下り先となる。

 しかしこういう管理型社会では、まず、若者が窒息する。それについて書いたのが、つぎの原
稿である。この原稿は、もともと中日新聞に掲載してもらうつもりで書いたが、編集者の意向で
ボツになったものである。なぜ、ボツになったか、読んでもらえば、わかる。内容が少しダブる
が、許してほしい。

++++++++++++++++++++

日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?
 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦
労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマも
ない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。また
別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるまま、ま
じめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで言うよ
うになる。

●最後はメーター付きのタクシー
 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど四〇年前
の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。あの国では誰もがギラギラとした脂汗
を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。若者とて例外ではない。タクシーの運
転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場
で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、
それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼
ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった
 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれてい
た。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行
った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小
づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。が、今の日本にはそれは
ない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私と
こんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、私「君は何ができる?」、学「翻訳ぐらいなら、何とか」、私
「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか書いてくれば、
仕事が回ってくるかもしれない」、学「カッコ悪いからいやだ」、私「なぜカッコ悪い?」、学「恥ず
かしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その
学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろ
んその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる
 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者
たちを見れば、日本の未来がわかる。で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論
から先に言えば、お先まっ暗。このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国
になってしまう。いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏
にのみ込まれてしまうだろうと予想している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。たとえばアメリカでは、今では日本
の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NBC)。どこの大学でも日本語を学ぶ学
生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハーバード大学)。私たちは飽食とぜ
いたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。そのツケを払うのは、結局は子どもた
ち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。私たちが子どものために、よかれ
と思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとしている。

(参考)
●日本の中高生は将来を悲観 
 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏四カ国の中高生を対象に
した調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。現在
の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きること」。
学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で
最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニュー
ヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。「二一世紀は希望
に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上に達したが、日本
は三三・八%と際立って低かった。自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えた
が、日本は二三・一%。学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低
だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは
弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽し
む」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三
二・四%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だった
のに対し、米国は七八・八%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七
六・四%と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利
益よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なこ
とも浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希
望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。一九八〇年代からの傾向で、豊
かになったことに伴ったのだろう」と分析している。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄  講演会においでください!
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄       お待ちしています!
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞





件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-17-1

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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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02−11−17号(140)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
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●Hello, my friends overseas!
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今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育て失敗危険度
【2】神経質ママ
【3】祖父母との同居問題
【4】随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
  / / __|__∩
  m (________||       
  /_/
  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい
自己中心ママ(失敗危険度★★★)

●もともとはわがままな性格
自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしまう。
もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。

 このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子ども
に押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきなが
ら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりす
る。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。 

●バランス感覚
 こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依
存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静
かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。このバランス感覚が欠落すると、言動
がどこか常識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小一
男児)や、友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)が
いた。さらに「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私
は結婚して、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。

●家族のカプセル化
 ところで母親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向
かってどんどんと積極的に伸びていく母親。もう一つは自分の世界の中だけで、さらにものの
考え方を先鋭化する母親である。外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自
分のカラを厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人
もいる。一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。

たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉
になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。五〇歳をすぎた男性だが、八〇歳の
母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生ま
れつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。

●悪循環に注意!
 子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと
何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの
心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状
はさらに悪くなる。

 自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。
(1309)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


育児から解放されたい!
子どもは甘えるもの(失敗危険度★★★★)

●自然な「甘え」
 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、
「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受
けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい
柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、
そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●抱かれない子ども
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど
感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨
床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

●原因は「抱っこバンド」?
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。
(1303)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ママ診断(7)
あなたは神経質ママ?

{ファミリス・12月号より、転載}
++++++++++++++++++++++

●『まじめ七割、いいかげん三割』
 子育ては『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなも
の。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。

たとえば参観授業のようなとき、親の鋭い視線を感じて、授業がやりにくく思うことがある。とき
にはその視線が、ビンビンとこちらの体をつらぬくときさえある。そういう親の子どもは、たいて
いハキがなく、暗く沈んでいる。ふつう神経質な子育てが日常的につづくと、子どもの心は内閉
する。萎縮することもある。(あるいは反対に静かな落ち着きが消え、粗放化する子どももい
る。このタイプの子どもは、神経質な子育てをやり返した子どもと考えるとわかりやすい。)

●子育ての三悪
 子育ての三悪に、スパルタ主義、極端主義、それに完ぺき主義がある。スパルタ主義という
のは、きびしい鍛練を主とする教育法をいう。また極端主義というのは、やることなすことが極
端で、しかも徹底していることをいう。おけいこでも何でも、「させる」と決めたら、毎日、それば
かりをさせるなど。要するに子育ては自然に任すのが一番。人間は過去数一〇万年もの間、
こうして生きてきた。子育てのし方にしても、ここ一〇〇年や二〇〇年くらいの間に、「変わっ
た」と思うほうがおかしい。心のどこかで「不自然さ」を感じたら、その子育ては疑ってみる。

●こわい完ぺき主義
 完ぺき主義もそうだ。このタイプの親は、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に無理やり
子どもをあてはめようとする。こまごまとした指示を、神経質なほどまでに子どもに守らせるな
ど。このタイプの親にかぎって、よく「私は子どもを愛している」と言うが、本当のところは、自分
のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の欲望を満足させるために、子どもを利用してい
るだけ。

●子育ての基本は自由
 子育ての基本は、子どもを自立させること。そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはも
ともと、「自らに由(よ)る」という意味。つまり子どもには、(1)自分で考えさせ、(2)自分で行動
させ、そして(3)自分で責任を取らせる。過干渉や過関心は、子どもから考えるという習慣を奪
う。過保護は自分で行動するという力を奪う。また溺愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の
子ども(中三男子)が万引きをして補導されたときのこと。夜中の間にあちこちを回り、事件そ
のものをもみ消してしまった母親がいた。「内申書に書かれると、進学にさしさわりがある」とい
うのが、その理由だった。

●家庭はいやしの場に
 子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」へと
変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あまり
こまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの上に
座るよりも、気がねせず、カボチャの頭のほうがよい』と書いている。このテストで高得点だった
人ほど、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。

●子どもには自分で失敗させる
 また子どもに何か問題が起きたりすると、「先生が悪い」「友だちに原因がある」と騒ぐ人がい
る。しかしもし子どもが家庭で心をいやすことができたら、そのうちのほとんどは、そのまま解
決するはずである。そのためにも「いいかげん」を大切にする。「歯を磨かなければ、虫歯にな
るわよ」と言いながらも、虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。痛い思いをしてはじめて、子
どもは歯をみがくようになる。「宿題をしなさい」と言いながらも、宿題をしないで学校へ行け
ば、先生に叱られる。叱られれば、そのつぎからは宿題をするようになる。そういういいかげん
さが、子どもを自立させる。たくましくする。

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。
          ⊂▼▼ ⊃
【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
長野県松本市のKJさんより、こんなメールが届いています。
軽い神経症を発症しているU男君(長男、現在中一の男子)に
ついて、アドバイスしたあと、いただいたメールです。
今日は、この問題について、考えます。
(KJさんからは、転載許可をいただいています。)
+++++++++++++++++++++++++++++

こんばんは! はやし先生、

U男(長男)へのご丁寧なアドバイス本当に有難う御座いました。
神経症と不登校のページ何度も 読み、とても勇気づけられました。
私が、本人をいかに追い詰めていたかが、明白になり 反省しています。

U男は、小3からサッカーを初め、そのすばしっこさから少年団ではいつもレギュラーとして監
督に起用して頂いていました。
本人にとって サッカーが全てで、「夢はサッカー選手」でした。5年の終わりに、監督の推薦を
うけ、プロのコーチからトレーニングさせて頂く機会を得ました。
本人の意思で、参加すると言ったのに、数回で「もう止める」というのです。

「楽しいサッカーじゃない。周りの子が、あまりにうまく、レベルがちがうから、
一緒にやると迷惑かける。いじめにもあっている。」と…

同じ地区から参加している父母の母親は、カンカンでした。
「子供は、つらい時、逃げたいって言います。うちの子だって行きたくないって言ったことがあっ
たけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導いてあげる事こそ
が、親としての使命なのではありませんか?しかも行きたくても行けなかったお子さんもいるの
ですよ! 監督の推薦を受けてもいるのだし、監督にも、今後の推薦を受けられるかどうかと
いう意味で、チームにも迷惑をかけることになるのですよ。そんなに簡単に辞められるのです
か?」と… 

本人には「もう少しがんばってごらん」と励ましたりしたのですが、全くの逆効果でした。
代表、監督、コーチ父兄に謝罪し辞めました。

少年団でのサッカーは、楽しく6年まで続け、卒団しました。
JY(ジュニアユース)はまた、本人の意思で入団しました。
が、3ヶ月しないうちに辞めるといいだしました。
1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監督に「動きが悪い、
態度がなってない」といつも眼をつけられていたようです。
決定的だったのは、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです。
俗に言う熱血指導なのでしょうが、本人は、「もう、小学校の時のような楽しいサッカーじゃなく
なちゃった。
動きがだめだと言われるからこう動けば良いかと思って動くとそれもダメだと言う。
監督の言うようにはどうやっても無理なんだ。完全に自信無くしちゃったよ。」
その間、親として、本人の心の叫びを受止められたかと言うとノーである。

脳裏にプロのトレーニングを止めるとき、父兄から非難された悪夢が蘇りました。
はやし先生の言う「わだかまり」である。

追い詰めたり、叱咤激励したり…一言でも「それが、あなたのだした結論ならやめればいい
よ。」と、子供を信頼し、任せていれば、神経症に至らなかったかもしれませんね。
大切な事に気付かせて下さり、本当に有難う御座います。

10月上旬、ずーっと休部していたU男に、代表から、電話がはいった。
「どうしても1名メンバーが足りず、困っている。公式戦出場のために、是非試合に出てほし
い。」と…いままで、JYに入部してから1度も試合に出たことがないのだ。
が、本人が出なければ、棄権になってしまうのだ。
「どうすりゃいい?すぐに返事の電話を待ってるって…」
監督は旅行中で不在、代表が代理監督を務めるという。
「自分で決めると良いよ。出れるかどうかは自分次第だからネ!そして、もうそろそろ今後続け
るか辞めるか結論をださないとネ!」と私
「じゃあ、試合には出る、それで辞める。」決心には、かなりの勇気が必要だったろう。
精一杯考えて、チームが、棄権になることだけは避けたい思いだったのだろう。
我が子ながら、心から「えらい!」と言ってだきしめてあげたい衝動にかられた。(が、できなか
った)

試合当日、辞める挨拶もかねて、試合会場に応援に行った。
案の定、練習を積み重ねてきたチームメイトとは、力の差は歴然だった。
何度も倒れながら、精一杯グランドを走った。チームも本人を信頼し、パスを出してくれる。
心無い父兄の声、「何?なんであんなにバタバタ倒れるの。
しばらく練習してないから?もう、疲れちゃってるみたいね!
なんであんなとこパス出してるの?なんだ、一応彼がいたんだ。(身長が低く遠くからは見えに
くい)」さらに「あの陰の監督に黙って彼をだしちゃっていいの?
知らないよー。」(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんといわれていた
らしい。)

相手は強豪チームで、結果は大差で負けた。
父兄、代表に挨拶し、この日をもって、やめた。
このあと、無気力な様子がみられ、現在に至っている。
心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。
今は、U男の心の声にじっと耳をすまし、寄り添えればと思っている。
今日、「ただいまー」と帰り、「陸上、かなり疲れたヨ!」と言うU男に、「大変だったね!ゆっくり
休むといいよ!」と自然に答える事が出来た。

これもはやし先生のお蔭です。本当に有難う御座いました。
幸いにも、親子断絶度は、良好(ホントかナ?)
こんなに長くなってしまってすみません。
 
では、お休みなさい                  

(長野県松本市KJより) 

+++++++++++++++++++++++++++

失敗と挫折 

●私のばあい
 もう一〇年になるだろうか。私はワイフと、テニスクラブに通うようになった。で、最初のうち
は、それなりに結構自由に、楽しむことができた。しかしそのうち、コーチが、あれこれ言い始
めた。「腕の曲げ方が悪い」「腰のひねり方が悪い」と。とたん、私はやる気をなくした。「何も、
私はウィンブルドンで出るつもりは、ないのだ!」と、言いそうになったがやめた。同時に、その
テニスクラブもやめた。

 私はもともと「球」を相手にするスポーツが、苦手。大嫌い。原因は、わかっている。小学六年
生のときだったか、いつか、野球をしていて、デッドボールを当てられたからだ。それまでは軟
式ボールを使っていたが、そのときは硬式ボールだった。まるで石をぶつけられたかのような
衝撃だった。それでボールがこわくなってしまった。それで「球」が苦手になってしまった。

 一度、こういう形で挫折(ざせつ)すると、(「挫折」というほど大げさなものではないかもしれな
いが……)、この時期、それを修復するのは、容易ではない。「この時期」、つまり少年少女期
は、あっという間にすぎてしまう。何とかしようと思っているうちに、一年、二年とたってしまう。私
も高校を卒業するまで、結局は、あの野球だけは、好きになれなかった。

●正しい道?
 子どもは、当然のことながら、未経験。そのときは何もわからず、あれこれとやりたがる。親
が「ピアノ教室へ行ってみる?」と聞いたりすると、「うん、やりたい」と言ってみたりする。しかし
この時点で、子どもの約束など、本気にしてはいけない。しばらくして子どもが、「もうやめたい」
と言ったりすると、親は、「あんたがちゃんと、約束したからでしょ」と言ったりするが、それは酷
というもの。あるいは中には、「一度始めたことを、途中でやめるなんて、これから先、心配だ」
と考える親もいる。しかしそんなに大げさに考えてはいけない。

 このU男君のケースもそれにあたる。U男君の親に向かって、「うちの子だって行きたくないっ
て言ったことがあったけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導
いてあげる事こそが、親としての使命なのではありませんか?」と言った人がいる。私は子ども
を教えさせてもらうようになって、もう三〇年以上になるが、親に向かって、このように言ったこ
とは、ただの一度もない。とても、言えない。だいたいにおいて、いまだにその「正しい道」すら
わからない。多分、U男君の親に向かって、そう言った人は、すばらしい人格者なのだろう。私
には、とてもまねできない。

 たかがサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか。どうしてもっと「楽しむ」ということ
をしないのか。あえて言うなら、サッカーは、手段であって、目的ではない。サッカーをとおして、
温かい人間関係をつくれれば、それでいいではないか。またそういう人間関係におけるドラマ
のほうこそ、大切なのだ。私にもこんな経験がある。

●息子のサッカー教室
 息子の一人も、しばらくサッカークラブに通った。そのクラブの監督は、ある楽器メーカーの
サッカー部のキャプテンもしたことがある人だという。そこで話を聞くと、「ボランティアでしてい
るから、無料だ」と。私はこの言葉に感動した。「無料で、子どもを指導する」というのだ。私は
私をはるかに超えた、すばらしい人格者を思い浮かべた。また最初は、そういう目でその人物
を見ていた。が、そのうち、様子がおかしいのに気づいた。

 その人物をA氏ならA氏としておこう。そのA氏の目的は、ただ一つ。「勝つ」ことだけ。一応型
どおりの指導はするが、素質がないとわかると、その子どもには、見向きもしない。実のところ
私の息子も、その一人だったが、結局は、そのクラブに一年以上通ったが、最後まで、一度も
公式の試合には出させてもらえなかった。あとで話を聞くと、「あの監督は、盆暮れに、ある程
度の現金をもっていかないとダメ」と聞かされた。しかもそれも一〇万円単位だという。「一〇万
円!」と驚いていると、「月謝だってそれくらいでしょ! 毎週日曜日に、それくらい世話になっ
ているのだから」と。そういう監督に、子どもの「教育」を期待した私が、バカだった。

U男君の母親も、「一年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監
督に『動きが悪い、態度がなってない』といつも眼をつけられていたようです。決定的だったの
は、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです」と書いている。もち
ろんこういう否定的な見方ばかりしていてはいけない。中にはすばらしい監督やコーチがいて、
すばらしい指導をしている人もいる。またそういうクラブで、鍛えられ、すばらしい子どもになっ
た例も多い。しかしその一方で、キズつき、挫折して子どもも多いのも事実。私の経験では、こ
うした経験が効を奏して、「よかった」「すばらしかった」という思いで、クラブを去っていくのは、
全体の、三〜四割程度ではないか。それと同じくらいの子どもが、「もうこりごり」という思いをも
ちながら、クラブを去っている。

●日本人の結果論
 日本では、大乗仏教の影響か、「結果」を大切にする。「結果こそ、すべて」というわけであ
る。「死に際の様子で、その人の一生が評価される」と教える宗教団体もある。しかし結果はあ
とからついてくるもの。たとえその結果が悪くても、その人の人生がまちがっていたということに
はならない。

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「いろいろやってみました
が、すべてがムダでした」と。「音楽教室にも、算数教室にも、体操教室にも、進学塾にも入れ
ましたが、ムダでした」と。もしこんな論理がまかりとおるなら、その人が、最後に交通事故か何
かで、悲惨な死に方をしたら、すべてがムダだったということになってしまう。しかしそんなこと
はありえない。大切なのは、そのプロセスなのだ。その中身なのだ。

 が、実際には、日本人の体質としてしみついた「結果重視論」を、是正するのは、簡単なこと
ではない。ものの視点や考え方が、親から子どもへと、無意識のまま、代々と受け継がれてい
る。英語にも『終わりよければ、すべてよし』という格言がないわけではない。しかしものの見方
が、日本人とはかなり違う。つぎのエッセーは、中日新聞に掲載してもらった記事である。話を
先に進めるまえに、それをここに転載する。内容がここに書いたことと少し重複するが、許して
ほしい。

+++++++++++++++++++++++++

●子育てプロセス論

 クルーザーに乗って、海に出る。ないだ海だ。しばらく遊んだあと、デッキの椅子に座って、ビ
ールを飲む。そういうときオーストラリア人は、ふとこう言う。「ヒロシ、ジスイズ・ザ・ライフ(これ
が人生だ)」と。日本人ならこういうとき、「私は幸せだ」と言いそうだが、彼らはこういうときは、
「ハッピー」という言葉は使わない。

 私はここで「ライフ」を「人生」と訳したが、ライフにはもう一つの意味がある。「生命」という意
味である。つまり欧米人は人生イコール、生命と考え、その生命感がもっとも充実したときを、
人生という。何でもないような言葉だが、こうした見方、つまり人生と生命を一体化したものの
考え方は、彼らの生きざまに、大きな影響を与えている。

 少し前だが、こんなことをさかんに言う人がいた。「キリストは、最期は、はりつけになった。そ
の死にざまが、彼の人生を象徴している。つまりキリスト教がまちがっているという証拠だ」と。
ある仏教系の宗教団体に属している信者だった。しかし本当にそうか。この私とて、明日、交
通事故か何かで、無惨な死に方をするかもしれない。しかし交通事故などというものは、偶然と
確率の問題だ。私がそういう死に方をしたところで、私の生き方がまちがっていたということに
はならない。

 ここで私は一人の信者の意見を書いたが、多くの日本人は、密教的なものの考え方の影響
を受けているから、結果を重視する。先の信者も、「死にぎわの様子で、その人の人生がわか
る」と言っていた。つまり少し飛躍するが、人生と生命を分けて考える。あるいは人生の評価と
生命の評価を、別々にする。教育の場で、それを考えてみよう。

 ある母親は、結果として自分の息子が、C大学へしか入れなかったことについて、「私は教育
に失敗しました」と言った。「いろいろやってはみましたが、みんな無駄でした」とも。あるいは他
人の子どもについて、こう言った人もいた。「あの親は子どもが小さいときから教育熱心だった
が、たいしたことなかったね」と。

 そうではない。結果はあくまでも結果。大切なのは、そのプロセスだ。つまりその人が、いか
に「今」という人生の中で、自分を光り輝かせて生きているかということ、それが大切なのだ。子
どもについて言えば、その子どもが「今」という時を、いかに生き生きと生きているかというこ
と。結果はあとからついてくるもの。たとえ結果が不満足なものであったとしても、それまでして
きたことが、否定されるものではない。

このケースで考えるなら、A大学であろうがC大学であろうが、そんなことで子どもの評価は決
まらない。仮にC大学であっても、彼がそれまでの人生を無駄にしたことにはならない。むしろ
勉強しかしない、勉強しかできない、勉強だけの生活をしてきた子どものほうが、よっぽど人生
を無駄にしている。たとえそれでA大学に進学できた、としてもだ。

 人生の評価は、「今」という時の中で、いかに光り輝いて、自分の人生を充実させるかによっ
て決まる。繰り返すが、結果(東洋的な思想でいう、人生の結論)は、あくまでも結果。あとから
ついてくるもの。そんなものは、気にしてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++

 同じような立場で、もう一つ書いたのが、つぎのエッセーである。これも中日新聞に掲載して
もらったものである。

+++++++++++++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論の
ある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映る
のは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、
心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そ
ういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切では
ないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。

+++++++++++++++++++++++++++

●KJさんへ 
 このKJさんのメールに話をもどす。一つ気になるのは、KJさん自身の視点の中に、子ども
がいないこと。親意識が強すぎるというか、子どもの友として、子どもの横をいっしょに歩くとい
う姿勢が、あまり感じられない(失礼!)。KJさん自身も、「その間、親として、本人の心の叫び
を受止められたかと言うとノーである」と書いている。

 この時点で忘れてはいけないことは、すでに子どもは、「学校」という大きなワクにしばられて
いるということ。その上、その学校の外で、ギューギューとしぼられたらたまらない。これはたと
えて言うなら、会社員が仕事の外で、また別の仕事をもつようなもの。私が先に書いた、「たか
がサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか」という意味は、ここにある。将来、Jリー
グへと思うなら話は別だが、そうでなければ、クラブはクラブとして、楽しめばよい。才能のある
子どもは、そういう状態でも伸びるし、ない子どもは、いくらしぼっても、伸びない。こんな話もあ
る。

 数か月前に、あるテレビ局が、アメリカのあるリトルリーグ(少年野球クラブ)を取材していた。
そのリトルリーグは、どこで試合しても、負けるだけ。勝ったためしがない。しかし監督も、コー
チも、選手も、そして親も、いっこうに気にしていない。それもそのはず。そのクラブのメンバー
は、身体のどこかに障害をもった子どもたちばかりである。しかも監督は、障害がひどくて、自
信をなくし始めたような子どもほど、選手として前に出す。そしてその子どもが、たまにヒットらし
きものを打つと、みんなが小躍りして喜ぶ。相手のチームの監督も、コーチも、そして選手たち
も、小躍りして、いっしょに喜ぶ。どうして日本よ、どうして日本人よ、こうしたやさしさをもてな
い! どうしてもたないのか! バカヤロー!

 結局、その違いがどこからくるかと言えば、まさに生きザマの違いということになる。結果を重
要視する日本人。プロセスや中身を大切にする欧米人。この違いは大きい。そしてそれが、長
野県の松本市という小さな町にまで、影響している。U男君のプレーを見た、ほかの父母につ
いて、KJさんは、つぎのように書いている。

「心無い父母の声、『何?なんであんなにバタバタ倒れるの。しばらく練習してないから? も
う、疲れちゃってるみたいね! なんであんなとこパス出してるの? なんだ、一応彼がいたん
だ。(身長が低く遠くからは見えにくい)』と。さらに『あの陰の監督に黙って彼をだしちゃってい
いの? 知らないよー』と。(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんとい
われていたらしい。)」と。

 U男君のプレーをみながら、ほかの親たちは、笑うどころか、「陰の監督に内緒で出していい
の?」と言ったというのだ。監督だけではない。それを見守る親たちも。「勝つこと」イコール、結
果しか考えていない。が、最後にKJさんは、こう結んでいる。

 「心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。今は、U男の心の声にじっ
と耳をすまし、寄り添えればと思っている。今日、『ただいまー』と帰り、『陸上、かなり疲れた
ヨ!』と言うU男に、『大変だったね!ゆっくり休むといいよ!』と自然に答える事が出来た」と。

 おめでとう! KJさん。あなたはすばらしいお母さんになりましたね。おめでとう!
(02−11−8)

●教育のレベルは、いかに弱者にやさしい教育かで決まる。またそういう視点をふみはずし
て、教育のレベルを語ることはできない。


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

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件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-19-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 521人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  83人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  53人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
    Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
☆===================☆==================

★★★★★★★★★★★★★★
02−11−19号(141)
★★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワード
です! 日記を読んでいただけます!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazine is translated into English
  for your convenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子どもの問題、親の問題」(How should we be …?)

【1】子育て格言(How to cope with kids at homes)
【2】親として……(As his or her father…)
【3】子どもの問題、親の問題(How should we be when faced with kids' problems)
【4】辛口随筆(Essays)
  ///////
 ///へ へ) _
  C ・ ・| /▲\
  入" o ") (▼ ▼)
  >ーイ 彡 ▼▼ノ  
  / / F| 彡 `─´ 
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  m (________||       
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  (___⊃
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
新・子育て格言(6)

●マンネリは、知能発達の敵

「アレッ」と思う意外性が、知恵の発達をうながす。その瞬間、子どもの脳は、全開状態にな
る。そしてその意外性に対応していくことで、思考の柔軟性が生まれ、知能が発達する。このこ
とは、大脳生理学の分野でも、つぎのように説明される。

 人間の大脳には、約一〇〇億の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞は、約一〇万
個のシナプス(細い回線)をもっている。その数だけで、10の15乗、つまり1000兆本になる。
しかし遺伝子がこれらすべてを管理しているかといえば、そうではない。遺伝子の中のDNA
は、多くても、10の10乗程度といわれている。つまり脳のシナプスは、それだけ柔軟性をもっ
ていると同時に、その人個人の、置かれた環境、教育、努力によって影響を受けるということ
になる。が、それだけではない。

 シナプスどうしが、複雑にからみあい、連絡しあうことによって、人間はより複雑な思考をする
ことができるようになる。たとえば脳の神経細胞の数は、生まれてから死ぬまでほとんど同じで
も、大脳皮質は成長にともなって厚くなる。神経細胞自体がふえるわけではないのに、大脳皮
質が厚くなるのは、細胞自体が大きくなり、「樹状突起も複雑に分岐し、繁茂した状態になるこ
と。脳のほかの部分の成長にともなって、たくさんの入力繊維が入ってくること。グリアが増殖
することによる」(新井康允氏)ためだそうだ。専門用語ばかりでわかりにくいが、、要するに、
それだけ回線が複雑になるということ。この回線をふやすのが、意外性である。意外性が、新
しい回線の発達をうながし、そしてその意外性を処理するために、回線どうしがつながり始め
る……。

 そこで子どもには、いつも意外性のある環境を用意する。たとえば少し前、オーストラリア人
の夫婦が、私の家にホームステイしたことがある。そのときのこと。毎朝、まずそうな顔をして
朝食を食べていたので、半ば冗談のつもりで、「チョコレートでも出そうか?」と言うと、「オー、
イエス!」と。あいにくチョコレートがなかったので、ココアを出すと、彼らはそのココアと砂糖
を、あの白いご飯の上にかけ、さらにその上からミルクをかけて食べていた。そのときのこと
だ。私は頭の中で、バチバチと、脳細胞がショートして火花を放つのを感じた。それがここでい
う「意外性」である。

 そこで具体的には、こうする。

(1)何でも体験させる……よく誤解されるが、「お金をかけろ」ということではない。ごく日常的な
ことで、いろいろ体験させる。郵便局へ行っても、切手を買わせ、それをハガキや封筒にはら
せる。電車に乗るときも、自分で切符を買わせるなど。コツは一歩退いた状態で、子どもに任
すようにする。
(2)家の中に変化を求める……いつも家の様子や、もように変化をつける。イスや机、テーブ
ルの配置など。子どもが外から帰ってきたとき、「アレッ」と思うようにしむける。以前、こんな女
子中学生がいた。年がら年中、いつも自分の机とイスをもって、家の中を移動しているというの
だ。母親は、「ヤドカリみたいです」と笑っていたが、その子どもは、頭のよい子どもだった。ほ
かによく「転勤族の子どもは、頭がいい」と言う。それも、やはり、こうした環境の変化が、よい
方向に作用しているためと考えられる。
(3)どこへでも、連れていく……子どもは外へ出すにかぎる。そのときも、できるだけ歩くように
するとよい。車というのは便利だが、やはり汗をかきながら受ける刺激と、そうでない刺激に
は、大きな違いがある。たとえばテレビで見る、アメリカのグランドキャニオンと、実際に見るグ
ランドキャニオンとでは、受ける印象は、まったく違う。
(4)同じことを繰り返さない……これは親の努力目標ということになる。いつも違った刺激を与
えるようにする。食事でも、何でも。ある母親は、娘のために、一日とて同じ弁当をつくらなかっ
たという。その女性はやがて、日本を代表するような女流評論家になったが、母親のそういう
姿勢が、そういう女性をつくったとも考えられる。
(5)ユーモアを大切に……日本人は、欧米人とくらべても、ユーモアがたいへん少ない民族と
考えてよい。生真面目(きまじめ)といえば、まだ聞こえはよいが、その実、頭がカタイ? 子ど
もが、「お母さん、雨だよ!」と言ったら、「私が、飴(あめ)? なめてみてごらん?」くらいのジョ
ークは、いつも会話の中にあってほしい。

 あとは、子どもといっしょに、意外性を楽しめばよい。たまには、おもちゃのトラックをよく洗
い、その中に寿司を並べてもよい。たまには、料理を大きな皿に並べて、絵を描いてみてもよ
い。そういう意外性が、子どもを伸ばす。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●見栄は、目つぶし

狭い世界に住んでいると、どうしても見栄をはる。だいたい、人間というのは、自分と対等の相
手を、気にする。言いかえると、今、自分がどんな人間を相手にしているかがわかれば、それ
があなたのレベルということになる。そこであなたは、どんなとき、どんな相手に見栄をはるか、
少しだけ頭の中に、思い浮かべてみてほしい。そしてその相手が、レベルの高い人であればよ
い。しかしレベルの低い人であれば、長い時間をかけて、あなたもそのレベルの低い人になる
から、注意する。

 もっとも、見栄などはっても、意味はない。もっと言えば、自分のない人ほど、見栄をはる。自
分をかざる。ごまかす。隠す。あなたのまわりにも、見栄をはる人は多いと思うが、そういう人
ほど、自分がない。あるいは心のさみしい、つまらない人とみてよい。

 実のところ、私の息子の一人が、長い間、就職先がなく、しばらく道路工事の旗振りの仕事を
した。「もっと楽な仕事があるだろう」と、私とワイフは息子にそう言ったが、息子はこう言った。
「こういうきびしい仕事をしておけば、あとはどんな仕事をしても、楽になる」と。私ができること
と言えば、せいぜい日焼け止めクリームを、そっと用意してあげることでしかなかった。そのと
きのことだ。息子はこう言った。「パパは、ぼくがこんな仕事をするのを恥ずかしくないか?」と。

 私には、もう「恥ずかしい」という意識は、どこにもない。あるわけがない。だいたい、だれに
恥ずかしがらなければならないのか。近所の人にしても、親類にしても、私の生徒の親にして
も、私が相手にしなければならないレベルではない(失礼!)。私も小さな人間だが、そういう人
たちを、とっくの昔に超えている(失礼!)。そこで私は息子にこう言った。「がんばれるだけが
んばれ。だれかがお前を笑ったら、私がそいつを、たたきのめしてやる!」と。

 見栄を気にすると、自分の姿が見えなくなる。そして自分の子どもを見失う。見栄はめつぶ
し。わかりやすく言えば、「見栄など、クソ食らえ!」ということか。私は私で生きる。あなたはあ
なたで生きる。そういうわかりやすさが、私を光らせ、あなたを光らせる。つまるところ、生きる
ということは、いかに自分であるかで決まる。他人の目の中で生きれば生きるほど、自分を失
うことになる。はたから見ても、それほどつまらない人生はない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●ミルクは泣いてから与える

子育てはリズム。そのリズムが、子どものリズムと合っていればよし。そうでなければ、子ども
が親のリズムに合わせることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。

 たとえば赤ん坊が泣いてから、ミルクを与える親がいる。泣く前にミルクを与える親もいる。
 たとえば子どもが、「行きたい」とせがんでから、英語教室へ入れる親がいる。子どもが求め
る前に、英語教室へ入れる親がいる。
 たとえば子どもが、「もっと勉強したい」と言ってから、塾へ入れる親がいる。子どもが望む前
から、塾へ子どもを押し込む親がいる。

 こんな親がいた。あと少しで夏休みというときのこと。母親が分厚いパンフレットをもってき
て、こう言った。「先生、うちの子(小三男児)は、ああいうグズな子でしょ。だから夏休みの間、
洋上スクールへ入れようと思うのですが、どうでしょうか?」と。そこで私が、「本人は行きたが
っているのですか?」と聞くと、「いえね、先生、それで困っているのです。本人は、行きたくない
と言って、私を困らすのです」と。

 こうしたリズムは、一度できると、それがずっとつづく。一生つづくといっても、過言ではない。
親は、いつまでたっても、心配先行型の子育てをする。その結果、子どもはいつもそういう親
に、引き回されるだけ。自立心の弱い子どもになる。あるいは自分で自分を律することができ
ないから、どこか常識ハズレになりやすい。親から見れば、「グズな子」ということになる。

 そこでテスト。もしあなたの子どもが、ベッドで寝る直前になって、「明日の宿題をやっていな
い」と言ったとする。そのとき、あなたはどうするだろうか。

 子どもを起こし、宿題をいっしょに片づけてやる親もいる。あるいは反対に、「あなたが悪い
から、明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言って、そのまま寝させる親もいる。これもリズ
ムで決まるが、もしあなたのリズムが、子どものそれと違っているようなら、今日からでも遅くな
いから、子どものリズムで歩いてみるとよい。方法は簡単。子どもを子どもとしてみるのではな
く、友として、その横を歩くようにすればよい。そしていつも「あなたは何をしてほしい」「あなた
は何をしたい」と静かに語りかければよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●みんな、不安

子育てをしていて、不安でない人のほうが少ない。前提として、みんな、不安と考えてよい。つ
まり、不安なのは、あなただけではない。

 「うちの子は、ちゃんとおとなになれるかしら」「ひとりで、だいじょうぶかしら」「交通事故は?」
「けがは?」と。学校へ入れば、今度は「勉強は、だいじょうぶかしら」「いじめれれるのではな
いかしら」「不登校児になるのではないかしら」「落ちこぼれるのではないかしら」と。さらに、こ
のところ国際情勢もあやしくなってきた。経済情勢も悪い。子どもを取り巻く環境は、悪化する
ことはあっても、よくなることは何もない。「紫外線は?」「化学物質は?」「環境ホルモンは?」
などなど。その上、連日のように、暗い事件がつづく。コンビニの前を通ると、どうも素性のよく
ないような若者が、たむろしている。「うちの子はだいじょうぶかしら?」と。

 こうした不安と戦う唯一の方法は、自分の子どもを信ずること。また信じられるように、親側
の心を整える。またそういう子どもに、子どもを育てる。「うちの子は、うちの子で、たくましく、何
とかやっていくだろう」という思いが、親の不安を解消する。が、それがないと、あとは、何をし
ても、その不安から解放されることはない。

 しかし、実のところ、自分の子どもを信ずることは楽ではない。簡単なことでもない。それ自体
が、子育ての大きな「柱」といってもよい。つまり子育ての目標のすべてが、ここに集約される。
しかし方法がないわけではない。

(1)子育てを楽しむ……「子どもを育てる」「育ててやる」と考えるのではなく、「子どもといっしょ
に、友として、人生を楽しむ」という視点で、子育てを組み立てる。私も長男が生まれたとき、
「いつかこの子と、会話ができるようになればいい」と本心からそう思った。
(2)「あなたはいい子」を口グセにする……いつも「あなたはいい子」を口グセにする。子どもと
いうのは不思議なもので、親の口グセどおりの子どもになる。長い時間をかけてそうなる。あな
たが「うちの子はグズだ」と思っていると、あなたの子どもは、そのグズな子どもになる。が、「い
い子」と思っていると、そのいい子になる。最初はウソでもよいから、そう言う。言いつづける。
(3)親子のパイプを大切にする……同じような不安を感じても、親子のパイプが太いうちは、い
っしょにそれを乗り越えることができる。助けあい、励ましあい、いたわりあい、なぐさめあう。そ
ういう意味で、家庭は、子どもにとっては、いこいの場、いやしの場とする。子どもがある程度、
大きくなったら、こまごまとしたしつけを、家庭の中ではしていはいけない。
(4)なるように任せる……子どもというのは、何とかしようと思っても、そうならないときは、なら
ない。しかし何もしなくても、自分の力で育っていくもの。自分のことならともかくも、親としては、
子ども自身の中に感ずる、子どもの運命に、任すしかない。さからってもムダ。流れを変えよう
としても、ムダ。あるがままを認め、そのあるがままの中から、子どもを引き出す。仮に子ども
が不登校児になっても、「まあ、そういうこともあるわね」「うちの子はうちの子」という思いが、
子どもの心を守る。あなた自身の心を守る。
(5)「今日」を維持する……大切なことは、こうした不安を感じたら、「今日」の状態をより悪くし
ないことだけを考えて、明日にそれをもっていく。その今日が無事なら、明日も無事。来週も、
来月も、来年も無事。今日があるように、明日も同じようにやってくる。決して不安になること
も、心配することもない。流れに静かに身を任せば、明日は必ずやってくる。自分のことならと
もかくも、子どものことではそうする。
(6)視野を広く、大きく……こうした不安は、視野がせまく、低くなったとき、倍加する。だからい
つも視野を広く、高くもつ。子育てをしていると、つぎからつぎへと、いろいろな問題が起きてく
る。しかしそのとき、そういう問題に、同じレベルで巻き込まれると、自分を見失ってしまう。こ
れはまずい。どんなばあいも、自分をできるだけ高い位置から見おろす。そのために、日ごろ
から、子育てについて考える習慣をなくしてはいけない。

 さてさて、本論。今、みなさんは、こうして私の原稿を読んでいる。私はそのこと自体が、すば
らしいことだと思う。私がすばらしいというよりは、恐らく私ほど、現場で、しかも最前線で、子育
てを見てきたものはいないということ。二〇代から三〇代は、まさに修羅場の連続だった。そう
いう意味では、私は、どんな教育者より、豊富な経験をつんでいる。それをこうしてみなさんに、
お伝えしている。だから私は、それをすばらしいことだと思う。ほとんどの人は、うたかたにただ
よう低劣で、浅はかな情報に振り回され、右往左往しているだけ。先人の知恵や経験に耳を傾
けることをしない。しかし今、あなたは私の経験に耳を傾けている。それを、私は、すばらしいこ
とだと思う。またそういう視点で、私の子育てエッセーを利用してほしい。私は必ず、あなたの
不安が解消できるだけの、知識と経験を提供する。またそれができる自信がある。……とま
あ、何とも、自己宣伝ぽくなってしまったが、それがわかってもらえなくて、ときどき、歯がゆく感
ずることが多い。

 みんなで力をあわせて、子育てをしていこう。私もあと何年、こういう活動ができるかわからな
いが、力のかぎり、がんばってみる。そして少しでも、みなさんの不安を解消できればと思って
いる。このエッセーの終わりの、「さてさて、本論……」以下は、私の余談。無視していただい
て、かまわない。

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●自分の運命、他人の運命

久しぶりに、大阪へ行ってきた。外回り線という電車に乗った。で、そこで、そこが大阪とわか
るのは、大阪弁という方言があるから。まわりの人たちがみな、どこか聞きなれない方言で、ペ
チャペチャと早口でしゃべっている。それをのぞいたら、東京と大阪の区別はつかない。「この
電車は山手線です」とだれかが言っても、私は、それを信じてしまうだろう。つまり、大阪の人
も、東京の人も、それぞれが、「私たちは東京とは違う」「大阪とは違う」と思っていても、外の
「私」から見れば、オ・ナ・ジ。

 この話は、運命論と関係している。他人を、「私」から見ると、それぞれが決まったパターんの
中で、決められた未来に向かって動いているように見える。まさに運命を感ずるときは、そのと
きだ。大阪の人も、東京の人も、ある一定のワクの中にいるのがわかる。私が「区別はつかな
い」と書くのには、そういう意味も含まれる。

 同じように、こうまで長く、そのときどきにおいて、たとえば不登校の子どもを扱っていると、ど
の子どもも同じに見えてくる。一〇年前に経験した不登校児も、二〇年前に経験した不登校児
も、そして今、経験している不登校児も、同じに見えてくる。区別はつかない。そしてそれぞれ
の子どもが、ほぼ同じようなコースをたどって、いつか、何ごともなかったかのようにして、おと
なになっていく。私はそういう流れの中に、やはり運命を感ずる。つまり、「決められたコース」
を、だ。

 そこで私は、運命をふたつに分ける。ひとつは、自分の運命。もう一つは、他人の運命。ここ
に書いたのは、どれも他人の運命だが、もし運命というものがあるなら、それは「他人の運命」
をいう。で、問題は、自分の運命だ。はたして、自分の運命は、あるのか?

 そこで視点を、まず「私」からはずす。はずして、その視点を、より高いところにおき、そこから
自分をながめてみる。そうすると、不思議なことだが、私が大阪で、そしてあの電車の中で見
た、大阪の人のように、自分を客観的にみることができる。と、同時に、自分自身の運命を知
ることができる。

 私が考える自分の運命というのは、まず、まあ、このまま浜松市の郊外のボロ家で、一生を
終えるだろうなという事実。ひとり、何だかんだと、犬の遠吠えのようなことを繰り返して、一生
を終えるだろうなという事実。そのうち、ワイフか私が先に大きな病気になり、深い悲しみや苦
しみを味わうだろうな事実。たいしたこともできず、まあ、そこそこの人生をその時点で、終える
だろうな事実。それを運命といえば、運命ということになる。

 が、今度は、視点をずっと下におろして、自分の中から、運命をみてみる。すると、視野が一
転する。「私は私、運命などない」という考え方に、一転する。仮にそういうそういう運命がある
としても、私は今、こうして懸命にふんばって生きている。「このまま終わるだろうな」という人生
であってはいけないという思いも強い。だから懸命に、それと戦っている。つまり「自分にとっ
て、自分の運命はない」ということになる。もっと言えば、私の道は、私が決める。

 そこで結論から言えば、人は「運命」という言葉を口にするとき、ひょっとしたら、この二つを
混同しているのではないかということ。中の世界から見る自分の運命と、外の世界からみる他
人の運命を混同している。だから話がややこやしくなる。おかしくなる。さらにもっと言えば、外
から見る他人の運命というのは、あくまでも結果であって、それは運命ではないということにな
る。話がわかりにくくなってきたが、そもそも、運命などというものはないのではないか。またそ
う考えたほうがわかりやすい。

 この問題は、もう少し先でもう一度考えてみるが、今のところ、そういう結論になる。仮にそう
いう運命が、それぞれに人にあるとしても、最後の最後のところで、ふんばって生きるのが人
間。そこからドラマが生まれ、生きる人間の価値が生まれる。美しさが生まれる。決して、自分
の人生を、運命論で、安易にかたづけてはいけない。

(付記)きわめて卑近な話になるが、こう考えても、運勢だとか、占いだとか、占星術だとか、タ
ロットだとか、そういうことを言っている人の気が知れない。はっきり言って、バカげている。道
に迷ったら、自分で考える。それが人間ではないか。

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●夢中こそ、力

子どもが何かのことで、夢中になる様子を見せたら、そっとしておく。子どもは夢中になること
で、集中力を養い、思考力を養う。一般論として、「頭をよくする」ためには、今まで使っていな
かった脳の部分を使えばよい。つまりできるだけ変わった分野に進出すればするほど、頭はよ
くなる。子どもについて言えば、できるだけ変わった経験をさせればよい。させればさせるほ
ど、頭はよくなる。

 ……ということは、もう一〇年も前に出した本(「子育て格言」(山手書房新社))の中で書い
た。が、私はここまで書いて、ふと考えてしまった。私自身はこの一〇年の間に、新しい分野に
進出したか、と。そしてそこで、さらに考えてしまった。今、思いつくものが、何もない。これとい
って、「新しいことをした」という部分が、何もない。生活そのものも、一〇年前と、ほとんど変わ
っていない?

 そう言えば、このことは、先日会った、恩師とも話題になった。それについて恩師はこう言っ
た。「責任ある仕事をしなさい。そういう仕事をすれば、またいろいろな人に会える。会うこと
で、自分をみがくことができる」と。つまり変わった分野とは、それ相当の人に会うことだ、と。そ
こで私が、「具体的に何をすればいいですか?」と聞くと、「H市の市長ぐらいにはなりなさい」
と。私は、「先生は、冗談が好きですね」と笑ったが、つづけて私はこう言った。「そういう仕事を
すれば、自分の時間がなくなる。そうでなくても、自分の時間が足りないと思っているのに、あ
んな忙しい仕事をさせられたら、たまりません」と。

 これは私の負け惜しみでも何でもない。もし政治家をめざしていたとしたら、とっくの昔になっ
ていた。そういうチャンスは、何度かあった。しかし同時に、今の私に一番欠けるものといえ
ば、緊張感かもしれない。「責任」ということになると、私には社会的責任は、ほとんどない。気
楽といえば気楽だが、しかしこの気楽さこそが、私が求めてきたものである。自由の原点も、そ
こにある。そんなわけで、この「気楽さ」を、簡単に放棄するわけにはいかない。

 で、子どもの話に、もどる。子どもは未経験な存在だから、いろいろな経験をさせる。これは
子育てにおいては、たいへん重要なことである。決して、小さな世界に閉じ込めてはいけない。
コツはある。親自身が、新しい世界につぎつぎとチャレンジしていく。そしてそれから生まれる
緊張感の中に、子どもを巻き込んでいくようにする。親が居間で寝そべりながら、「あなたは外
で遊んできなさい」は、ない。

 ただし、子どもの夢中にも、条件がある。その(1)反復作業はさせない。(2)興奮性の強い
夢中は、避ける。

(1)反復作業はさせない……よい例が、反射運動だけをためすようなテレビゲームなど。ある
いは黙々と、単純作業を繰り返す。同じことを、何度も繰り返したり、それにこだわったりする。
同じ夢中でも、こうした夢中は、子どもの性格を自閉させる。以前、小さな丸だけをつなげて
黙々と絵を描いていた女の子(年中児)がいた。親や先生は、「根気のあるいい子です」と言っ
ていたが、しかしそれは自閉症の初期症状だった。
(2)興奮性の強い夢中……幼児期に避けなければならない感情に、嫉妬(しっと)と、攻撃心
がある。この二つは、おそらく人間が原始的な生物であった時代からもっていた感情で、この
二つをいじると、子どもの性格がゆがむことがある。そのため子どもが嫉妬するような場面
は、できるだけ避ける。またゲームでも、スポーツでも、俗にいう、「頭に血がのぼるような興奮
性」は、好ましいものではない。この興奮性が強くなればなるほど、理性的にものを考えること
ができなくなる。以前、こんな子ども(年長男児)がいた。私が、「ブランコを横取りされました。
あなたはどうしますか」と聞いたときのこと。その子どもは、こう言った。「そういうヤツはぶん殴
ってやる。どうせ口で言ってもわかんねえ」と。そういうようなものの考え方をするようになる。

 さてまた、私の話。私はそのつど、いろいろなものに夢中になる。宗教論の本を書いたときに
は、日本中の寺をあちこち回った。(この本はペンネームで書いた。)木工にもこったし、山荘
を建てるときは、家以外の工事は、ほとんど私とワイフがふたりでした。小さな教室をもってい
るが、その教室の机やイスなど、備品にいたるまで、すべて私が自分でつくった。私の趣味
は、定期的に変化するのが特徴で、だいたい数か月から数年単位で変化していく。本を書くと
きも、多い年は、一年で一〇冊あまり出版した。今は、電子マガジンづくりがおもしろい。私は
何かに夢中にならないと、すぐ退屈してしまう性格らしい。のんびりとブラブラしているということ
が苦手。先に、「生活そのものも、一〇年前と、ほとんど変わっていない?」と書いたが、こうし
て改めて考えなおしてみると、結構、「変わった部分」もあるのかもしれない。ただ、どうしても、
それを実感として、つかむことができない。

(02−11−11)

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ 〜♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

親として……

 久しぶりに、二一歳になった息子が、Y市から帰ってきた。夜、遅く、帰ってきた。何やら、夜
中までバタバタとしていたが、理由はわからなかった。が、よく朝、書斎で一仕事すまして、息
子の部屋をのぞくと、仰天! 私は自分の目を疑った。息子の顔が二つある!

 よく見ると、もう一つの顔は、若い女性の顔だった。しかし二つの顔が、頬を寄せあい、うれし
そうな顔をして並んでいた。つぎの瞬間、私は、もう一度、「ひどい乱視になった!」と自分の目
を疑ったが、まちがいなく、もうひとつは若い女性の顔だった。

 居間へ行くと、ワイフが朝食をつくっていた。私はワイフに何と言おうかと迷いながら、こう言
った。「……おい、彼女と寝てるぞ!」と。ワイフは瞬間、驚いたふうだったが、「へえ」と言った
きり、黙って笑った。

 こういうとき親は、どう反応したらよいのか。……というより、私の反応だが、私はこう思った。
「私も若いころ、好き勝手なことをしたが、こいつ(息子)のやることは、何かについて、私がし
たことより、二〜三年、早い」と。「まあ、オヤジがオヤジだから、偉そうなことは言えないな」と
も。

 私は基本的には、恋愛は、息子たちの自由に任せている。どこでどんなことをしようが、私の
知ったことではない。ただときどき、「いくら夜遅くまで遊んでもかまわないが、女性を泊めては
いけない」とだけは、話している。しかしそれも原則論。子どもも二〇歳を過ぎたら、自分で考え
て行動すればよい。

 しかしそれにしても、時代が変わった。私の時代でも、ガールフレンドとつきあっている仲間
はいるにはいたが、自宅に連れてきて、いっしょに寝るということはなかった。で、その私が、そ
ういう息子を許すのは、私の意識が変わったというよりは、「性」そのものへの考え方が変わっ
たことによる。昔、今東光(こんとうこう)という作家がいた。その今東光は、私がある日、病院
へ見舞うと、こう話してくれた。「しょせん、性なんて、無だよ」と。そのときは、「そうかなあ」と思
ったが、それからほぼ三〇年。私も年齢とともに、そう思うようになってきた。本人たちが、自分
で自分の行動に責任をもてば、それでよいのでは……。どうせ無なのだから……。親がとやか
く言っても始まらない。

 私は、置き手紙を書くと、ワイフと山荘へ行くことにした。「どうせ、あいつら昼過ぎまで寝てい
るだろうから」と。ワイフも、「私たちがいないほうが、気が楽でしょうね」と。

 そうそう、その置き手紙には、こう書いた。「Eへ、山荘にいるから、気が向いたら、ガールフ
レンドを連れておいで。何かごちそうするよ」と。しかし息子は、来なかった。夜遅く家へ帰ると、
息子はひとりで家にいた。「ガールフレンドは?」と聞くと、「もう、(東京へ)帰った」と。それで、
この話は終わり。いや、ただ一言、「大切な女性だったら、きちんと紹介しなよ」とだけ、私は言
った。それでこの話は、本当に終わり。

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子育て随筆byはやし浩司(303)

正田氏のこと

 私は日豪経済委員会の全額給費留学生として、オーストラリアのメルボルン大学に留学し
た。その委員会の、人物交流委員会の委員長をしていたのが、正田英三郎氏だった。現在の
美智子皇后陛下の父親だった。委員会は、東京商工会議所の中にあった。当時、正田氏は、
N製粉という会社の重鎮だったが、いつもその会議所の一室が連絡先だった。そのときは理
由がわからなかったが、東京商工会議所は、大通りをはさんで、皇居のまん前にあった。その
とき、美智子妃殿下は、何かとたいへんな時期にあったという。今になってみると、「それで正
田氏は、あそこにいたのか……?」とは思うが、本当のところはわからない。

 その正田氏、会いに行くと、いつも近くのソバ屋へ連れていってくれた。今から思うと、何かま
ちがったことをしたのではないかという気持ちになるが、私はまさにこわいもの知らずだった。
それほど立場の違いを意識せず、いろいろな話を聞いた。

 が、正田氏がどんな話をしたかは、ここには書けない。書くつもりもない。これからも書かな
い。ただ何度目かに会ったとき、ふと私が、「どうして私を留学生に選んでくれたのですか?」と
聞くと、正田氏は、瞬間、ソバを食べる手を休め、ジロリと私をにらんでこう言った。「浩司(ひろ
し)の『浩』が同じだろ」と。私は「なんだ、そんなことか……」と、内心ではがっかりしたが、その
ころその浩宮殿下は、六歳くらいではなかったか。かわいい盛りだった。それについて、正田
氏は、「孫にも自由に会えんのだよ」と、ポツリと言った。

 おかげで私は、留学先では、とんでもない世界に入ってしまった。私が寝泊りすることになっ
たメルボルン大学のIHカレッジは、各国の皇族や王族の子息ばかり。あるいはその国でも、け
たはずれの金持ちの息子たちばかりだった。このことは、「世にも不思議な留学期」(「はやし
浩司のサイト」に収録)に書いた。で、私は、そういう(ふつうでない仲間)とつきあううち、彼らに
は、一般庶民が知る由もない、これまたけたはずれの重圧感があることを知った。無責任な庶
民は、ただ一方的に、そういう皇族や王族たちを祭りあげるが、しかし肝心の皇族や王族たち
がそれを望んでいるかどうかということについては、あまり考えない。この「あまり考えない部
分」が大きければ大きいほど、かえって、そういう皇族や王族を苦しめることもある。

 たとえば今、その正田英三郎氏らが住んでいた、旧正田邸をどうするかという問題が浮上し
ている(〇二年一一月)。まわりの人たちは保存を訴え、また軽井沢の人たちは、軽井沢への
移築を希望している。しかし肝心の美智子皇后陛下は、「固辞している」(報道)という。「固辞」
というのは、「かたく断わる」という意味。もっとはっきり言えば、「取り壊してほしい」と言ってい
る。私はこういうケースでは、美智子皇后陛下のお気持ちを、最優先すべきだと思う。まわりの
庶民が、自分勝手な判断で、「美智子皇后陛下は喜ぶハズ」という、「ハズ論」だけで、ものごと
を考えてはいけない。

 私はここで「正田氏がどんな話をしたかは、ここには書けない」と書いた。数年前、その正田
氏がなくなっているから、なおさらである。しかし私の印象では、もし正田英三郎氏が生きてい
たら、美智子皇后陛下と同じことを言うだろうと思う。正田英三郎氏はそういう人だったし、美
智子皇后陛下は、その正田氏に、全幅に愛されていた。美智子皇后陛下の気持ちが、正田氏
の気持ちとまったく同じと聞いても、私はそのとおりだと思う。正田氏にはお世話になりながら、
結局は、私は何も恩返しはできなかったが、今、こうして美智子皇后陛下の気持ちを擁護する
ことが、精一杯の恩返しの一つだと思う。

 たいへん微妙な問題なので、この話はここでやめる。ただ当時の私は、あまりにも若すぎた。
何がなんだかさっぱりわからないまま、がむしゃらに生きていた。本当のところ、当時は、正田
氏からあれこれ聞きながらも、本当にそれを理解していたわけではない。また理解できるだけ
の能力も経験もなかった。多分、というより、まちがいなく、正田氏の目に映った私は、「アホな
学生」でしかなかった。今ここで、「正田氏」の名前を出すこと自体、本当なら許されないことか
もしれない。
(02−11−11)

    ⌒⌒    Ω
   ∫ 》》》 / ↑ \
   §§σσ§ {←・ }
   §ξ 。ノξ \ _ /
   <ξヽ ヽ>
   /\~~~~l\  ∩ _   何か、テーマをいただけるようでしたら、
  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │‖┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
  /∠_mm_/\ /‥ │     メールは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 /        ●∞ │       の、トップページの(メール)より。

          ⊂▼▼ ⊃








件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆11-19-2

後半部です。
ごめんなさい。
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【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子どもの問題、親の問題

不登校の子どもの相談を受けているとき、
いつも感ずること。それは不登校の問題
は、子どもの問題ではなく、親の問題だ
ということ。それについて……。

+++++++++++++++++++

 子どもがある朝、突然、「学校へ行きたくない!」などと言おうものなら、たいていの親は、狂
乱状態になる。それまでは意識したことがなくても、そのとたん、学歴信仰、学校神話、受験競
争が、どっと怒涛(どとう)のように、親にのしかかる。

 もっとも親が狂乱状態になるのは、親の勝手。親の問題。しかしこの段階で、ほとんどの親
は、それを自分の中に収めることができない。できないまま、不安や心配を、子どもにぶつけ
てしまう。極度の不安状態が、妄想を呼び、その妄想がさらに混乱状態に拍車をかけることも
ある。「このままでは、うちの子はダメになってしまう!」「落ちこぼれてしまう!」と。

 もしこの段階で、親が、子どもに向かって、「あら、そうね。だれだって、ときには学校なんか
行きたくないこともあるのよ」「休みたかったら休みなさい」「お母さんと、いっしょに、動物園でも
行かない? きっとガラガラよ」とでも、言うことができれば、そのあと、子どもの症状は、それ
ほど重くならないですむかもしれない。が、そうはいかない。ある母親は、トイレに逃げ込んだ
子どもを、ドライバーでドアをはずし、そこからひきずり出して学校へ連れていった。子どもは、
大声で泣き叫んで、それに抵抗した。

 この段階で、さらに悲劇的なのは、親自身に、子どもの症状を悪化させているという自覚がな
いこと。ほとんどの親は、「子どものため」と思いつつ、無理に学校へ連れていったり、叱った
り、説教したりする。この無理が、本当のところ、不登校の最大の原因と言ってもよい。

 が、親にはそれもわからない。子どもの言い分だけを真に受けて、「学校が悪い」「先生が悪
い」「友だちが悪い」と言い出す。そして子どもに向かっては、「どうして学校へ行かないの!」と
叱ったりする。……あとは、この繰り返し。その結果、本来、数週間ですむはずだった不登校
が、数か月になり、数年になる。こうした心の問題は、症状をこじらせればこじらすほど、立ち
なおるのに、時間がかかる。

 ではなぜ、親は、そうまで狂乱状態になるか、である。とくに日ごろから、エリート意識が強く、
教育熱心で、完ぺき主義の親ほど、そうなる。単純に考えれば、それだけ学歴信仰なり学校神
話の信奉者ということになるが、どうもそれだけではないようだ。

 その理由は、要するに、このタイプの親は、他人の不幸を笑うことで、自分の幸福を実感す
るという傾向が強いということ。子どもの世界には、「他人の子どもを笑った分だけ、自分の子
どもが同じ立場に置かれたとき、その親は数百倍苦しむ」という大鉄則がある。もっと言えば、
このタイプの親ほど、ものの考え方が自己中心的で、自分のことや、自分の子どものことしか
考えない。そして他人が不幸になればなるほど、あるいは他人が不幸な目にあえばあうほど、
相対的に、自分は幸福だと思う。もともと学歴信仰には、相対的価値観がともなう。「私は四
番。あの人は、一〇番。だから私のほうが優秀」と。だから、いきおい、心に余裕がなくなる。そ
して自分の子どもが、その「不幸な立場」(本当は不幸でも何でもない)に置かれたりすると、狂
乱状態になる。

 そこで今度はあなた自身のこと。

 あなたは絶対に、他人の不幸を笑ってはいけない。不幸の最中にいる相手を、さげすんだり
してはいけない。「ああ自分の子どもでなくて、よかった」と、喜んでもいけない。胸をなでおろし
てもいけない。仮に今、あなたの子どもに、何も問題がなくても、今、あなたがすべきことは、相
手の立場で、ものを考え、その悲しみや苦しみを共有することだ。しかしそれはあなたが今度、
その立場に置かれたとき、(いつかそうなる可能性は、じゅうぶんあるが)、あなたの悲しみや
苦しみを軽くするためではない。そんな薄っぺらい目的のためではない。

 あなたが今、他人の悲しみや苦しみを共有することによって、あなたは自分の心を、広くする
ことができる。それは未来のためではない。やがてやってくるかもしれない、悲しみや苦しみに
対する準備でもない。まさに、今のあなたのためである。というのも、この種類の問題は、姿や
形を変え、大小さまざま、ごく日常的にやってくる。つまりそのつど、親としてのあなたの心は、
試される。が、そのためだけでもない。

 残念ながら、子どもの不登校の問題で私のところへやってくるほとんどの親は、自分のこと
や、自分の子どものことしか考えていない。それはわかるが、その度量の狭さというか、浅さを
感ずると、アドバイスするほうも、どうアドバイスしてよいかわからなくなる。その親の人生観そ
のもののカベというか、それを感じてしまう。しかしそのカベの問題は、子どもの不登校がもつ
問題とは比較にならないほど、大きい。学歴信仰や学校神話に、コリコリにかたまっている人
を、どうやって説得しろというのか? どうやって親の人生観や価値観を変えろというのか?

 子どもに何か問題が起きると、親は、自分と切り離して、それを子どもの問題と位置づける。
しかし本当のところ、子どもの問題のほとんどは、このように親の問題である。それに気づくか
どうかは、結局は、親自身の度量の広さというか、深さの問題ということになる。そのために、
「今」、あなたは身の回りを見て、いろいろな問題で苦しんだり、悲しんだりしている親や子ども
の立場になって、その問題を共有する。もちろんそういうことをしておけば、あなたやあなたの
子どもが、同じような問題をかかえ、同じような立場に置かれたとき、その問題を、もっと軽くす
ますことができる。しかしそれとて、あくまでも、結果にすぎない。大切なのは、「今」、あなたの
度量を広くし、深くすること。

人間が本来的にもつ「やさしさ」は、そういう度量の広さ、深さから生まれる。そういうやさしさ
が、あなたの心にあふれたとき、あなたは子どものすべての問題から解放される。問題が問題
となる前に、問題そのものが、粉々に粉砕(ふんさい)される。もちろん子どもの不登校など、
何でもなくなる。仮にあなたの子どもが不登校児になっても、ウソのように軽く、すますことがで
きる。
(02−11−11)

●他人の不幸をおもしろおかしく、話題にしてはいけない。
●他人の不幸を、できるだけ共有し、その人の立場で考えてあげよう。

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●最近の子どもたち(中日新聞掲載ずみ)

市立図書館で、女子高校生六人に聞いてみた。「君たちは将来、何をしたいか」と。私は当
然、キャリアウーマン的な人生観をもっているものとばかり思っていた。が、五人までがこう答
えた。「結婚して、はやく家庭に入りターイ」「家庭でダンナの帰りを待ちながら、料理しターイ」
と。私が「家庭の主婦になるということか」と聞くと、「そうだヨー」と。そこでさらに「仕事はしない
のか?」と聞くと、「したくないヨー。ダンナの給料だけでやっていきたいヨー」と。

見た感じ、ごく普通の高校生である。ちょうどテスト週間で、図書館に来ていた。私は質問を変
えて、「では、どんな男と結婚したいか」と聞いた。すると一人が、「一にマスク、二に経済力…。
『これオヤジのマンション』と言うような金持ちの息子がいい」と言った。私が「心はどうする。結
婚するというのは、心の問題だよ」と言うと、「マスクのいい人は、心もいいに決まってルー」と。

あれこれ話したが、政治の話を持ちだすと、「ダサーイ」とはねのけられてしまった。私「国の借
金が七百兆円もあるんだよ。一人六百万円だよ。君たちの借金なんだよ。それはどうする
の?」。高校生「私ら、そんな話、関係ないもんネー」「そうよネー」と。

言いたいことは山ほどある。あるが、こういう現実を見せつけられると、自分をのろいたくなる。
五十歳をすぎても、日本の将来を心配している自分が、なさけなくなる。少し飛躍した感想かも
しれないが、なぜあの三島由紀夫が腹を切ったか、その心情がよくわかる。私たちはこういう
高校生をつくるために、がんばってきたのか、と。

少し前だが、こんなこともあった。あるキャンプ場で国旗の掲揚をしたときのこと。何人かの高
校生が、「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」を口ずさんでいるのを聞いた。アメリカの国
歌である。日本の国歌には言いたいこともいろいろあるが、しかし今、日本の若者たちがここ
まで脱線しているかと思うと、ゾッとする。そう、何かが狂っている。しかし相手は子どもだ。日
本の将来をになう子どもだ。そういう子どもをさして、「失敗作」と、どうして言えるだろうか。子ど
もを笑うということは、即、自分を笑うということになる。そんなことは、私にはとてもできない。

 ……何ともやりようのない空しさを感じながら、私は図書館を出た。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


私の政治論
もともと法科の出身ということもあり、
いつも政治には、興味をもっています。
少し辛口(いや、かなり辛口)ですが……
興味のある方は、お読みください。

+++++++++++++++++++

新しいタイプの社会主義国家?

公務員の人も、準公務員の人も、どうか怒らないで聞いてほしい。
これは日本全体の問題だから……。

●公務員志望が、ナンバーワン
 〇二年度の冬のボーナス予想が、出そろった。それによると、民間企業は、昨年度より、全
体に四〜五%の下落。しかしこの大恐慌下にあっても、公務員のボーナスだけは、反対にふ
えつづけている。全体に三〜四%の増加!

 数年前、財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが東京、ソウル、ニューヨーク、
パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。その結果、希望する職業
は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は
医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・
五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)と
いうことがわかった(二〇〇〇年七月)。

 それぞれの公務員の人に、責任があるわけではない。またそういう人の、責任を追及してい
るわけでもない。ただしかし、このままでよいかということ。こうまで日本で、公務員や準公務員
がふえ、またこうまでこうした人たちが優遇されると、日本の社会そのものが、活力をなくしてし
まう。もちろん経済力も落ちる。そのことは、旧ソ連を見ればわかる。今の北朝鮮をみればわ
かる。

 私の周囲でも、民間の企業ですら、官僚体制への依存度を高めている。何かにつけて、「○
○をすれば、補助金が出ます」とか「○○で申請すれば、交付金が出ます」とか、そんなことば
かり言っている。お金は天から降ってくるものではない。地からわいてくるものでもない。しかし
この日本では、そんなわかりきったことすら、わからなくなってきている? H市の市役所に勤
めるE氏(四五歳)は、はからずもこう言った。「デフレになったおかげで、私ら、生活が楽にな
りました」と。

●知事も市長も、国会議員も、元官僚
 本来なら、政治によって、日本の流れを変えなければならないが、その政治そのものが、官
僚の思うがままに動かされている。総理大臣以下、野党の党首すら、元中央官僚。全国四七
の都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜九の県では副知事も元中
央官僚。七〜九の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の
多くも、元中央官僚。明治の昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図
そのものが、すでにできあがっている。こういう国で、構造改革、つまり官僚体制の是正を期待
するほうが、おかしい。

その結果、国の借金だけでも六六六兆円(国の税収は五〇兆円)。そのほか、特殊法人の負
債額が二五五兆円(〇〇年)。もうすぐ合計で一〇〇〇兆円に達すると言われている(〇二
年)。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もいる。が、だ。さらに驚くべきことは、
こういう日本にあっても、公務員や準公務員、さらに官僚体制にぶらさがる団体の職員数は、
減るどころか、今の今も肥大し続けている!

●日本はこれでよいのか?
 この国がこれから先、どうなるか、そんな程度のことなら、中学生や高校生でもわかる。日本
は、やがて行きつくところまで、行く。が、こうなってしまったのは、結局は、日本人が、そのつ
ど、「考える」ということを放棄してしまったからではないのか。その責任は、政府にあるのでは
ない。官僚にあるのでもない。私たち自身にある。もう一五年も前になるだろうか。明日が国政
選挙の日というとき、一人の子ども(小五男児)が、こう言った。「明日は、浜名湖で、パパとウ
ィンドサーフィンをする」と。私が「お父さんは、選挙には行かないのか?」と聞くと、「あんなの
行かないって、言っている」と。こういう無関心が、積もりに積もって、今の日本をつくった。

 選挙のたびに、低投票率が問題になるが、その低投票率をもっとも喜んでいるのは、皮肉な
ことに、官僚たちではないのか。国民の政治意識が薄くなればなるほど、好き勝手なことがで
きる。

 また私のようなものが、こんなことを訴えても、何の効果もない。彼らにしてみれば、その立
場にない私の意見など、腹から出るガスのようなものだ。その立場にある人でも、この日本で
は、反官僚主義をかかげたら、それだけで、排斥されてしまう。仕事すら回ってこない。あるい
はこれだけ公務員や準公務員が多くなると、あなたの家族の中にも、一人や二人は、必ずそう
いう人がいる。あるいはあなた自身がそうかもしれない。そういう現実があるから、内心ではお
かしいと思っていても、だれも反旗をひるがえすことができない。へたに騒げば、自分で自分の
クビをしめることになる。

 公務員が、人気業種ナンバーワンというのは、そういう意味でも、実に悲しむべき、現象と考
えてよい。あなたもこの問題を、一度、じっくりと考えてみてほしい。
(02−11−10)

●すこし前、K県A高校の校長が、「フリーター撲滅論」を唱えた。「フリーターというのは、まと
もな仕事ではな」と。「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味である。私はこの言葉に、
猛烈に反発した。その校長が言うところの、「まともな仕事」というのは、どういう仕事のことを
言うのか。仕事にまともな仕事も、まともでない仕事も、ない。私は幼稚園講師になったとき、さ
んざんこの言葉を浴びせかけられた。母にも言われた。叔父にも言われた。高校時代の担任
にも言われた。その言葉で、私はどれほど自信をなくし、キズついたことか。具体的には、三〇
歳をすぎるまで、自分の職業を隠した。しかし社会的なきびしさという点では、自分で選んだ道
とはいえ、その校長とは、比較にならない。そういうきびしさが、日本を下から支えているのだ。
決して、こういう校長が、日本を下から支えているのではない。それがわからなければ、一度で
よいから、この大不況下で、職業安定所を出入りする元サラリーマンの気持ちになって考えて
みることだ。それともリストラにあった人は、この校長は、「まともな人間ではない」とでも、言う
のだろうか?

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減りつづける人口

 このままのペースで、人口が減りつづけたら、西暦二一〇〇年には、日本の人口は、約三〇
〇〇〜四〇〇〇万人になってしまうという。今の人口の四分の一から、三分の一である。

 こうなると、日本の国家そのものが、存亡の危機に立たされる。経済力はもちろんのこと、何
よりも心配されるのは、国防力、食料生産力。さらに公務員や準公務員の数を減らしていかな
いと、二一〇〇年には、日本人のほぼ全員が、その公務員、もしくは準公務員、あるいはその
家族ということになってしまう。つまり国の生産力は、かぎりなくゼロに近くなる。

 問題は、なぜこうまで少子化が進んでしまったかということ。いろいろな調査結果が発表され
ている。が、親の身になれば、答はすぐわかる。この日本では、子どもを育てるのが、本当に
たいへん。第一に、お金がかかりすぎる。小学生や中学生ならまだしも、高校生、さらに大学
生ともなると、一〇〇万円単位の出費がのしかかってくる。しかも世界に名だたる不公平社
会。すべてがガチガチに管理され、途中で息を抜くことも許されない。管理されればされるほ
ど、元気がなくなる。ある調査によっても、「日本の中学生たちは、授業についていけず、学問
への情熱も、自信も責任感もとぼしい」(日本青少年研究所調査、〇一年三月、〜〇二年一〇
月※)という結果が出た。こんなことは当然だ。それほど苦労しなくても、ノーノーと生きられる
人がいる一方、働いても働いても、どうしてこんなに生活が苦しいのかと思っている人も多い。
この私ですら、もし、もう一度、人生をやりなおすことができるとしても、子どもは三人もつくらな
いと思う。せいぜい一人?

 そこで思いきって発想を変えよう。日本が二二世紀にも存続できるようにするには、どうした
らよいかという発想で考えよう。

 二〇一五年には、日本と中国の経済的立場は、逆転する。これは予測でも何でもない。すで
に既成の事実になりつつある。早ければ二〇一〇年という人もいる。あと八年だ。すでにASE
AN(東南アジア諸国連合)では、日本は、脇役。中国がリーダーシップをとるようになってしま
った(二〇〇二年)。

 そこでひとつの提案だが、……といっても、私はこの提案を、すでに二〇年前からしている
が、英語とあわせて、中国語も、学習科目に加えたらどうだろうかということ。今からその準備
を始めても早すぎるということはない。教育学部に中国語学科をもうけ、教授まで育てるのに、
二〇年はかかる。学校で中国語教育が始まるのは、そのあとだ。

 また日本が一国で存在できない以上、よその国との連携(れんけい)も、深めねばならない。
今のようにアメリカと連携を保つという方法もあるが、それよりも大切なのは、韓国、あるいは
朝鮮(今の北朝鮮は、やがて崩壊する)、さらには東南アジア各国と、連携を保つということ。
中国とでも、よい。どちらにせよ、私たちの国は、アジアの国の中の、ワンオブゼムになるとい
う前提で、未来を考える。今の日本人にしてみれば、とても受け入れがたい未来像かもしれな
いが、しかし現実的な考え方をすれば、そうなる。

 が、悲観ばかりしていては、いけない。そのかわり私たち日本人は、文化的、思想的指導者
として、今度はアジアの中で、そして世界の中でリードすることができる。そういう意味では、私
たちはまちがいなく、アジアの中でも、先進的な位置にある。つまり文化や思想を、この日本の
中で、もっともっと高揚させることができる。またそのほうが、アジアの人のみならず、世界の人
たちの心をつかむことができる。少なくとも、お金の力でアジアに君臨する時代は、もう限界に
きている。

 本来なら、ここで教育を自由化して、日本の教育に活力をとりもどすことだが、それはこの日
本の中では、もう不可能。ここまで官僚支配が徹底してくると、身動きひとつできない。たとえば
ドイツでは、子どもたちは、たいてい午前中に授業を終え、午後はそれぞれクラブで勉強した
り、運動したりしている。民間の活力をじょうずに利用している。どうしてこの日本では、それが
できないのか? 言いかえると、そのできないところに、官僚支配の「陰」がある。もっとも今の
日本で、教育を自由化すれば、進学塾ばかりが勢力を伸ばす。なぜそうなのかということも考
えないと、教育の自由化も、かえって日本をおかしな方向に導いてしまう。しかしこの問題こそ
が、少子化の本当の原因であると言ってもよいのだが……。

 まとまりのないエッセーになってしまったが、この問題は、もう一度、じっくりと考えてみる。こ
れからのテーマとしたい。
(02−11−9)

●中国語の科目を考えよう。
●教育を自由化しよう。
●不公平社会を是正しよう。

※……一ツ橋文芸教育振興会、日本青少年研究所の両財団法人が、日米中の三か国調査
をして、つぎのような結果を発表した(それぞれの国、1000〜1300人について、調査、〇二
年一一月)。それによると、

数学の授業の理解度……ほとんど理解できない、少しは理解できる……日本、35%
                                米国、14%
                                中国、13%
           自分で行ったことは、自分の責任    ……日本、25%
                                米国、60%
                                中国、50%
           自分に満足している          ……日本、 9%
                                米国、54%
                                中国、24%
                      (一〇分の一の位は、四捨五入した) 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Indifferent people)」というのは、それだけで軽蔑の対象にな
る。非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言われたりすると、その人はそ
れをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。関心もな
い。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話を
してみるとよい。ほとんどの子どもは、「セイジ……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねの
けてしまう。(実際、どの部分がどのようにダサイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサ
イ」という意味すら、よく理解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、そ
の結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。その
きっかけとなったのが、文部省の三通の通達である。

●文部省からの三通の通達
日本の教育の流れを変えたのが、三通の文部省通達である(たった三通!)。文部省が一九
六〇年に出した「文部次官通達」(六月二一日)、「高校指導要領改定」(一〇月一五日)、それ
に「初等中等局長通達」(一二月二四日)。

 この三通の通達で、中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、生徒会活動
から、政治色は一掃された。さらに生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞいて、禁止さ
れた。当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があ
ったが、それから四〇年。日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造された。
その結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に入る
と、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、それである。
構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう一〇年以上になるが、結局は、ほとんど何も改
革されていない。このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。いや、すでに、
日本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。あとはいつ爆発し、崩
壊するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった三通の、次官、局長クラス程度の通達で、日
本の教育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、どうか理解
してほしい。日本の教育は、こういう形で、中央官僚の思うがままにあやつられている。

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
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      │6 6 b
      (" 。 "人
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


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