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《03》
 BOX(インターネット・ストーレッジ版)

BOX Essays 版 ……●
2002年 04月03日
2002年 06月20日
上記BOXへアクセスできないときは、直接……●

件名:子育て情報(はやし浩司)4-3

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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ご覧ください。
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子育てアドバイスから、いくつかを選んでお送りします。
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ほうで紹介しています。トップページから、「ワンポイント」へと
お進みください。

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近況

 女房がトヨタのビッツを買い、毎日ドライブに連れ出されています。1日は浜名湖、
2日(きのう)は中田島へと。女房は、「ここは鳥取砂丘よ」とはしゃいでいます。つま
り、「鳥取までドライブした気分になれ」と。まあ、この不況下、あまりお金は使えませ
んから、近いところを回って、遠くまで来た気分になって、それを楽しんでいます。
皆さんはいかがお過ごしですか。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(266)

馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。
 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつ
として説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種
族維持などを維持するための機関と考えられていた。)
 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。
 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。
 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(269)

学力の低下が心配?

 二〇〇二年三月末の読売新聞社の調査によれば、小中学校の教科内容が削減されること
に対して、六七%もの人がそれに反対していることがわかった。「新学習指導要領、削減反対
六七%、完全学校週五日制、反対六〇%(賛成三六%)」など。とくに教科内容の削減につい
ては、小学校高学年児をもつ親の七一%が、また中学生をもつ親の七三%が反対しているこ
とがわかった。で、問題はその理由だが、トップは、「学力が低下する」。これが六九%。小学
校の高学年児をもつ親の七六%、中学生をもつ親の七四%が、そう答えている。読売新聞は
「学力低下に対する危機感をもっているため」と分析しているが、本当にそうか。これらの親た
ちは、本当に「学力が低下する」ことを心配しているのか。
 実は、これらの親たちが、学力の低下を心配しているというのは、ウソ。まったくのウソ。これ
らの親たちが心配していることは、「学力の低下」ではなく、「自分の子どもが受験競争で不利
になる」ことを心配しているのだ。簡単に「三割削減」というが、三割といえば、六年掛ける0・三
で、約一・八年分ということになる。わかりやすく言えば、小学校の六年間のうち、約二年分が
削減されるということになる。これからは今まで小学四年で勉強していたことを、六年でするこ
とになる。私立小学校や中学校は「削減しない」と言っているから、この差は大きい。受験とい
うことになったら、公立学校へ通っている子どもは、絶対に不利である。親たちが心配している
点は、すべてこの一点に集中する。
 今、日本の教育はにっちもさっちも、たちゆかなくなってきている。中学一年生で、私の推計
でも、掛け算の九九がまだじゅうぶんでない子どもが、二〇%弱もいる(推計……というのも、
掛け算の九九は言えても、瞬間に「サンパ?」と聞かれても、即座に答えられない子どもも多
い。ほとんど九九を言えない子どももいれば、ところどころあやしい子どももいる。調査をする
にも、基準の設定がむずかしい。)週刊ポスト誌(〇二年四月一二日号によれば、小学校の六
年生で、「九九のできない子ども」は、「二〜三割はいる」)ということだそうだ。全体として、約二
〇%の中学生は、掛け算の九九すら満足にできないとみてよい。そういう子どもが、一方で、
一次方程式だの二次方程式だのを学んでいるおかしさを、あなたは想像できるだろうか。とも
かくも、「三割削減」は、こうした現状の中から生まれた。
 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、「なぜ親たちが心配するか」というこ
と。もっと言えば、受験勉強の深層部分にメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。なぜ
親たちは、自分の子どもが受験競争で不利になることを心配するか、である。それは当然のこ
とながら、「受験」という制度が、この日本では人間選別の手段として使われているからにほか
ならない。さらに言えば、この日本には、受験で得をする人、損をする人、それがはっきりとし
ている。そういう不公平社会があることこそが問題なのだ。そこにメスを入れないかぎり、この
問題は解決しない。絶対に解決しない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(270)

ぬり絵

 以前、一時期、ぬり絵が子どもたちの世界から消えたことがある。中に「子どもたちをぬり絵
というワクの中に閉じ込めてはいけない」などと、とんでもないことを言う教育家も現れたりし
た。しかしぬり絵には、すばらしい効果がある。
(1)運筆能力を養う……手でペンや鉛筆をもって絵や文字をかくという能力は、いわば特殊な
能力である。ある程度の指導と訓練があってはじめて、それができるようになる。しかもその時
期は、かなりはやい時期で、年中児(五歳児)になるころには、すでにその能力は定着する。だ
から子どもにペンをもたせるようになったら、ぬり絵をすることをすすめる。子どもはこまかいと
ころを、縦線、横線、あるいは円い線を使いながら塗りつぶすことを覚える。文字の学習に入
る前に、ぬり絵をするとよい。
(2)色彩感覚……たとえば白黒の線だけでかいた、森や家や川のある絵をわたし、子どもに
色をぬらせてみてほしい。色彩感覚が豊かな子どもは、色づかいが自然で、おとなが見てもほ
っとするような色づかいで色をぬる。そうでない子どもは、たとえば紫色の空、茶色の川、黒い
家など、どこかぞっとするような色をぬる。(緑の木を茶色にぬったりすれば、色覚障害が疑わ
れるが……。)その色彩感覚も、ぬり絵で養うことができる。
いくつかの注意点もある。そのひとつは、常識の押しつけをしないということ。「髪の毛は黒でし
ょ!」「川は青でしょ!」式の押しつけは禁物。またこの時期、子どもは周期的に自分の好きな
色をつかうことが多い。ある時期は青ばかりで。それが終わると今度は紫ばかりで、というよう
に。よくある現象なので、あまり神経質になる必要はない。
幼児心理学の世界では、色づかいによって幼児の心理を判断するという方法もある。私は三
〇年間、この問題を考えてきたが、結論は、「?」。中にもっともらしい解説をつける人もいる
が、私はいつも「?」マークをつけている。それはちょうど、「赤い服の人は情熱的で、青い服の
人は心が冷たい」と判断するようなものだ。服の色などというのは、そのときの気分で決まる。
幼児の心理は、もっと別の方法でさぐるべきではないのか。またそのほうが、正確に判断する
ことができる。ただこういうことは言える。子どもというのは、心理的に大きく変化するとき、つい
で色好みが変化することもある。しかしこのばあいも、子どもが思春期になってからのことで、
幼児にあてはめることはできない。
(注)色覚障害者……男性に多く見られる劣性遺伝で、黄色人種は男性の5%、女性は0.
2%。(白人は8%、黒人は1%)と言われている。つまり、日本人男性の5%、男性の人口が5
123万人(95年調べ)なので、その5%=約256万人が、色覚障害者ということになる(厚生
労働省「手引き」より)。 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(267)

水槽の中の魚

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう一四年目になる。平成元年に飼い始めたから、一四
年という数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう
考える。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一
生、水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。
 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知っ
てはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。あの時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。それは客
観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは疑わし
い。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。だ
から外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなものでは
ないか。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北朝鮮の
人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国
だと思っているかも知れない。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部の
エリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。
 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな
意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の
中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。たとえば私が、三
井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、「はやしは頭が狂っ
た」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそんな中でも、私を支え
てくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択だ!」と。こうした意
識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人には、外で呼
吸をするくらい当たり前のことなのだ。そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。たと
えば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少
し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどとい
うのは、ないということか?
 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(272)

知恵の発達のバロメーター

 幼児というのは、そのときどきにおいて、ちょうど昆虫が脱皮するように成長する。精神の発
達だけではない。知恵の発達もそうだ。たとえば四歳以前の子どもは、文字にほとんど興味を
示さない。ところが満四・五歳を過ぎることから、急速に文字に興味を示し始める。(だからとい
って四歳以前の子どもに、文字学習が無駄であると言っているのではない。四歳以前は、たと
えば親が本を読んであげるなどの、読み聞かせが大切。そういう下地があってはじめて、子ど
もはやがて文字に興味をもつようになる。)この時期、子どもは文字をまねて書くようになるが、
もちろん文字の「形」にはなっていない。クルクルと丸を描いたり、それを重ねたような図形を
描いたりする。この時期をうまくとらえると、子どもは文字に興味をもつようになり、ついで自分
でも文字を書きはじめる。コツは、あれこれルール(形や書き順など)はうるさく言わないこと。
文字を書く楽しみを何よりも大切にする。
 ……というように、幼児は段階的な発達をするが、そこでひとつの基準として、つぎのように
考えるとよい。
 形……三角と四角を組み合わせたような図形を子どもに見せ、それを別の紙に書き写させ
てみる。形の弁別ができない子どもが、三角とも四角ともわからないグニャグニャの形を描く。
しかし四歳前後から、形の弁別ができるようになり、何となく三角、何となく四角というような図
形を描けるようになる。
 数字……ほとんどの子どもは、数字から文字の世界に入る。最初は、「1」「2」など。自分の
名前を書こうとする子どももいる。そのとき同時に、子どもは1から10までを数えるようになり、
少しの指導で30までなら数えることができるようになる。年中児の終わりで30まで、年長児の
終わりで100までを目標にするとよい。「多い、少ない」「ふえた、減った」の感覚から、「得をし
た、損をした」も理解できるようになる。
 ただ文字といっても「8」「9」は、幼児にはたいへんむずかしい。年長児でも正しく書ける子ど
もは、全体の六〇〜七〇%とみる。
 ひらがな、カタカナ……年長児(満六歳児)の約八〇%弱(夏休みの段階)が、ほぼ自由にひ
らがなを読み書きできる。しかし一方で、文字に対して恐怖心をもつ子どもも、この時期急増す
る。家庭での無理な学習が原因と考えてよい。それはともかくも、この時期までに子どもは、と
くに教えなくても、いつの間にかひらがなを読めるようになった、というふうにして文字を読み書
きできるようになる。
 これはあくまでもひとつの目安であり、個人差もある。大切なことは子どものリズムをうまくつ
かみ、無理をしないこと。そのリズムにうまくのれば、子どもは伸びやかに成長するし、そうでな
ければそうでない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(273)

遠慮

 以前私は、『遠慮は黄信号』という格言を考えた。子どもの中にその遠慮を感じたら、親子関
係はかなり危険な状態にあると判断してよい。
 ふつう、満ち足りた家庭環境の中で、親の濃厚な愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、
見るからにどっしりとしている。態度も大きく、ときにふてぶてしく感ずるときもある。そうでない
子どもはどこか、コセコセしている。よく誤解されるが、だれにでも愛嬌がよいとか、愛想がよ
いとかいうのは、子どもの世界ではあまり好ましいことではない。このタイプの子どもは、そうい
う形で相手の心に取り入ろうとする。しかし本当のところは心を許していない。気を抜かない。
だから子ども自身も疲れるが、つきあうほうも疲れる。
 遠慮するというのは、その心を許さない状態と考えてよい。もっとも他人との関係なら、ある
程度の遠慮はつきものだし、むしろ遠慮なくわがもの顔でふるまうほうが問題となることもあ
る。たとえば多動児(ADHD児)の特徴のひとつとして、無遠慮、無警戒がある。しかし本来心
を許すべき相手に心を許さないとか、許せないとかいうのは、それ自体がたいへんなストレスと
なってかえってくる。親子とて例外ではない。「実家の親に会うだけで、神経がすり減る」「正月
に実家に向かうだけで言いようのない緊張感に襲われる」などと言った母親がいた。
 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうか冷静に判断してみてほしい。あなたの子ども
はあなたの前で態度も大きく、図々しいだろうか。あなたのいる前で、平気で好き勝手なことを
しているだろうか。ときに体を休め、ときにあなたに甘えてくるだろうか。もしそうならそれでよ
し。しかしどこかあなたの目を気にしたり、あなたの機嫌をうかがうようなところがあれば、あな
たは今の子育てをかなり反省したほうがよい。今は、一見、何ごともなくうまくいっているように
見えるかもしれないが、やがてあなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツが入る。そしてそ
れが断絶につながるかもしれない。
 ただしこの問題は、あなたはそれに気づいたとしても、解決するのに、半年とか一年とか、長
い時間がかかる。子どもの年齢が大きければ、もっとかかる。そういう前提で、あなたの子育
てのあり方を反省する。 


(以後、600作になるまで、このシリーズをつづけます。どうか今しばらく、このシリーズのまま
でお許しください。)
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ほかにも長編、中篇(?)など、いろいろな子育て論を書いています。どうか「はやし浩司の
サイト」http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/へおいでください。

またお知りあいの方で、このマガジンに興味をもってくださりそうな方がいらっしゃれば、
どうかご案内ください。現在、三誌合計で、約390人の読者になりました。みんなで力を
あわせれば、日本の子育ては変わると思います。

      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃よろしく!   ┃
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ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
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件名:子育て情報(はやし浩司)4-6

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午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
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6・16……袋井市教育委員会子育て講演会

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園、ほか

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ファミリスの2001年度の連載が、この4月号で終了しました。
その中で書いた記事をまとめてお送りします。

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(2)子どもが非行に走るとき

●こぼれた水は戻らない
 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼる
ように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→
(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴
行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮
がちに、しかも隠れて悪いことしていた子どもでも、(叱られる)→(居直る)→(さらに叱られる)
の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきことは、
「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれが理解できない「なおそう」とか、「元に
戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に無理
を重ねる……。

●独特の症状
 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変
調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年
に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも、その特徴としては、(1)拒否的態
度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「ウッセー」と拒否する。意識的に拒否する
というよりは、条件反射的に拒否する)、(2)破滅的態度(ものの考え方が、投げやりになり、
他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関心になる。他人への迷惑に無頓着
になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、(3)自閉的態度(自分のカラに閉
じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「悪霊」などという言葉に鋭い反応を示すよう
になる。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも損なのだ」と話しても、このタイプの子どもには
それが理解できない。親のサイフからお金を抜き取って、それを使い込むなど)、(4)野獣的
態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方
も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツは、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をす
るようになる)などがある。

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければ
ならない。しかしこれがむずかしい。このタイプの親に限って、その自覚がないばかりか、さら
に強制的に子どもをなおそうとする。はげしく叱ったり、暴力を加えたりする。これがますます子
どもの非行を悪化させる。こじらせる。

●最後の「糸」を切らない
 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自
分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨て
られた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら
(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛して
いますからね」という姿勢を、徹底的に貫く。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前で
は、自分のよい面を見せようとする。そういう性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおら
せる。そのためにも最後の「糸」は切ってはいけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧
ように、子どもは行き場をなくしてしまう。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なお
そう」とは思わないこと。現在の症状を今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様
子をみる。一般に、この非行も含めて、「心の病気」は、一年単位(一年でも短いほうだが…
…)で、その推移を見守る。こじらせればこじらせるほど、その分、子どもの立ちなおりは遅れ
る。



(3)子どもの心が離れるとき

●恩着せがましい日本の子育て
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。親孝行?
……そんなこと、考えなくていい。家の心配?……そんなこと考えなくていい」と、一度は、子ど
もの背中を叩いてあげる。それでこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。もちろんそ
のあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれば、それは
子どもの問題。子どもの勝手。

 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と、恩を着せてしま
う。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。以前、NH
Kの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏が、涙なが
らに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育てられまし
た。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめは私は、I氏の母
はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、本当にす
ばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そこまで思
わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育
てながら、無意識のうちにも、I氏をそこまで追い込んでしまったのかもしれない。同じような例
は、あの『かあさんの歌』の中にも見られる。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの
歌である。が、この歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞
した「かあさんの歌」は三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つま
りこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

 「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁(わら)打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう思うだろうか。心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう。親が子ど
もに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、手袋を編ん
だよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれ
ば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきである。つまり
「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り込まれ
ている。

●うしろ姿の押し売りはしない
 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている」と言う人
がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「ど
んなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(三年後の平成九年には
19%にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ、59%。イギリスで46%。あの
アメリカでは、何と63%である。日本は今、大きな転換期にさしかかっているとみるべきではな
いのか。



(4)子どもがやる気をなくすとき

●学習の四悪
 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超
えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テスト
で百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「A君は、もう英検の四級
が受かったのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実に
やる気をなくす。勉強嫌いになる。

●無理・強制・条件・比較
(1)無理……子どもに与える教材やワークなど、半分がお絵かきになっても構わない。そうい
うおおらかさが、子どもを伸ばす。……と書くと、「何てことを言うのだ!」と怒る人もいる。が、
私は無数の市販教材を作った経験がある。「まなぶくん・幼児教室」(指導制作)「ハローワー
ルド」(創刊)「TOM」(指導)「なぜなぜ子ども学習百科」(指導)(以上、学研)ほか。その昔は
「幼児の学習」「なかよし学習」(学研)なども担当した。こうした教材を作るときには不文律のよ
うなものがあって、たとえばレベルも、次のようにして決める。「上位10%と、下位10%の子ど
もは、読者対象からはずす。残りの80%の子どもで、平均点が60点くらいになる教材が、好
ましい」と。そういう意味では、実にいいかげんなものだ。だから半分はお絵かきになってもよ
い。大切なのは、子どもが勉強を楽しんだかどうか、だ。イギリスの格言にも、「楽しく学ぶ子
は、よく学ぶ」というのがある。

(2)強制……やはりイギリスの格言に、「馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ま
せることはできない」というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要
するに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子
どもの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のう
ち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきら
めが子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。

(3)条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかも
しれないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの
財力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、
「勉強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」
という意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生す
らいた。そうなる。反対に子どものほうから条件を出すこともあるが、そういうときは、「勉強は
自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局は子
どもを自立させる原動力となる。

(4)比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人
の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そう
なればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。……というのは、
少し大げさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族も少
ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代を経験したために
そうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だから、私は幸福」
「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。しかしこの生き方は、こ
れからの生き方ではない。要するに、無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強さ
せるにはよい方法だが、長い目で見れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。



(5)親が愛に溺れるとき

●溺愛は、愛ではない
 溺愛は愛ではない。代償的愛という。いわば愛もどきの愛と思えばよい。この溺愛がふつう
の愛と違う点は、(1)親子の間にカベがないこと。こんなことがあった。参観授業でのこと。A君
(年長児)がB君(年長児)に向かって、「バカ!」と言ったときのことである。その直後、うしろに
並んでいた母親たちの間から、「バカとは、何よ!」という声が聞こえてきた。またこんな例も。
ある母親が私のところにやってきて、こう言った。「先生、私、娘(年中児)が、風邪で幼稚園を
休んでくれると、うれしいのです。一日中、娘の世話ができると思うと、うれしいのです。それに
ね、先生。私、主人なんかいてもいなくても、どちらでもいいような気がします。娘さえ、いてくれ
れば。それでね、先生、私、異常でしょうか?」と。私はしばらく考えてこう答えた。「異常です」
と。

ほかに中学三年の息子が初恋をしたことについて、激しく嫉妬した母親もいた。ふつうの嫉妬
ではない。その母親は、相手の女の子の写真を私の前に並べながら、人目もはばからず、ワ
ーワーと泣いた。「こんな女のどこがいいのですか!」と。

 次に(2)溺愛する親は、その溺愛を、えてして「親の深い愛」と誤解する。ある中学での懇談
会で、先生が親たちに向かって、「皆さんは、お子さんたちが汚してきた運動着をどうしていま
すか」と聞いたときのこと。そのとき一人の母親がまっ先に手をあげて、こう言った。「私は息子
が汚してきたシャツは、いとおしくていとおしくて、頬ずりしています!」と。

●情緒的な欠陥が原因
 親が溺愛に走る背景には、親自身の精神的な未熟性と、情緒的な欠陥がある。それがたと
えば生活への不安や、夫への満たされない愛、あるいは子どもの事故や病気が引き金となっ
て、親は溺愛に走るようになる。が、溺愛に走るのは親の勝手だとしても、その影響は、子ども
に出てくる。子どもはいわゆる溺愛児と呼ばれる子どもになる。特徴としては、(1)幼児性の持
続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的に
なる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、柔和でおとなし
く、満足げでハキがなくなる。ちょうどひざに抱かれたペットのように見えるから、私はペット児
(失礼!)と呼んでいる。が、それで悲劇が終わるわけではない。

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば
子どもには、満4・5歳から5・5歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中
間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。し
かし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてある時、そのカラを一挙に脱ごうとす
る。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内暴力をともなう。子「こんなオレにしたのは、
お前だろ!」、母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。しかし子どもの成長という
ことを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マザコンタ
イプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」という男性がいたが、そうなる。

●生きがいを別に
 この溺愛を防ぐためには、親自身が子どもから目を離さなければならない。しかし実際には
むずかしい。このタイプの親は、「子離れをしよう」とあせればあせるほど、子育てのアリ地獄
へと落ちていく……。では、どうするか。親自身が、子育てとは別に、別の場所で生きがいを求
めるしかない。ボランティア活動でも、仕事でも。子育て以外に、没頭できるものを別に求め
る。そしてその結果として、子どもから離れる。子育てを忘れる。 



(6)親子のきずなが切れるとき

●親に反抗するのは、子どもの自由?
 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗
してはいけない」と考えている高校生は、5%。この数字を、アメリカや中国と比較してみると、
親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国15%。親に反抗してはいけない……アメリカ8
2%、中国84%(「日本青少年研究所」九八年調査)。日本だけは、親に反抗してもよいと考え
ている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけないと考えている高校生が、ダントツに少な
い。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家
O氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそう
なのか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。

●受験が破壊する子どもの心
 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストをもって帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。さらに「あんたを幼稚園児のときから、高い月謝を払って
英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子
どもからやる気をなくす。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親
子の信頼感、さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「8
5%」という数字は、まさにその結果であるとみてよい。

●親の責任を追及する子ども
 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には二人の娘がいた。一人は大学一年生、もう一人は高校三年生だった。R
氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費
がむずかしくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の
娘はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんた
の義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻ま
で、「生活ができない」と言って、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。
「家族って、何ですかねえ……」と。

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。
 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」という言葉にしても、
いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を変えてみたら…
…。たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気
楽にやりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子ども
がテストの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりな
よ」と。この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでや
る気を起こす。   



(7)子どもがドラ息子になるとき

●ドラ息子・ドラ娘
教育の世界には、誤解がまん延している。その一つが「忍耐力」。ある日一人の母親が私のと
ころにやってきて、こう言った。「うちの子はサッカーだと、一日中している。忍耐力はあるはず
だ。そういう力を、勉強のほうに向けさせたいが、どうしたらいいか」と。しかしそういう力は、忍
耐力とは言わない。その子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって忍耐力とは、いや
なことをする力のことをいう。試しにあなたの子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを
始末して!」と。風呂場の排水口にたまった、毛玉でもよい。そのときあなたの子どもが、「ハ
ーイ」と言って、それを手で始末できれば、よし。あなたの子どもは忍耐力のある子どもというこ
とになる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。理由は簡単だ。もともと学習には、ある
程度の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だから、である。

 子どもは使えば使うほど、すばらしい子になる。忍耐力もそこから生まれる。が、今の子ども
たちは、家の手伝いをしない。……というより、させることが、ない。ある母親はこう言った。「掃
除は掃除機で、ものの一〇分ですんでしまう。洗濯も全自動、料理も電子レンジ、食器も食器
洗い機に任せている。何をさせるのですか」と。「料理のときキッチンの前でウロウロされると、
かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と言った母親すらいた。しかしこういうス
キをねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。その症状は、(1)自己中心的(自分勝手でわ
がまま)、(2)退行的(目標や規則が守れない。生活習慣がだらしなくなり、無礼、無作法。依
存心が強い割に、無責任になる)、(3)ものの考え方が消費的(一時的な楽しみに走りやすい)
になり、(4)バランス感覚(ものごとを静かに考えて、正しく判断する感覚)が消える、など。子
どもは自分で苦労をして、はじめて他人の苦労が理解できるようになる。これも試しに、子ども
の前で重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのとき「ママ、手伝ってあげる」と走り寄ってくれ
ば、よし。しかしそういうあなたの姿を、見て見ぬフリをしたり、ゲームに夢中になっているよう
であれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘と見てよい。今は、体も小さく、あなたの
支配下で、おとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。

●バランス感覚を大切に
 子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)生活感のある生活に心
がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせ
る。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意
識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。(3)忍耐力をつけさせる
ため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを守らせる。(5)不自由であることが、生活の
基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、(6)バランスのある生活に心がける。こ
こでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさとやさしさが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもは、先に書いたバランス感覚をなくす。

 もし今、あなたが「子どもに楽をさせるのが、親の愛」などと誤解しているようなら、今すぐ、そ
ういうまちがった子育て観は改めたほうがよい。子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、
将来苦労するのは、結局は子ども自身ということを忘れてはならない。



(8)家族の心が犠牲になるとき

●子どもの心を忘れる親
 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち
は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな
相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい
るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義
 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、
家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され
る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。たとえば国立社会保
障人口問題研究所の調査(九八年)によれば、今でも「家事をまったく手伝わない夫」が、53
〜61%もいるそうだ。仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の学
歴社会があり、それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、
何よりも恐れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえる
と、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族の心を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義
 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの
は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ
のまま欧米人の幸福観の基本になっている。少し前メル・ギブソンが主演する「パトリオット」と
いう映画を見たが、あの中でも、深い家族愛がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」
を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父
なる大地を愛する」という意味の言葉に由来する。)「国のためには戦わない」と言う欧米人も、
「家族のためなら、命がけで戦う」と言う。家族を守るということには、そういう意味も含まれる。
回りまわって、愛国心にもつながる。

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても、「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、4
0%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが4
5%になった。たった一年足らずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人
にとっては革命とも言えるべき大変化である。そこであなたもどうだろう、今日から子どもには
こう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあ
い、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
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件名:子育て情報(はやし浩司)4-11

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
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★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−4−11号(036)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。
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近況

 先日ユニバーサルスタジオへ行ってきました。楽しかったです。しかし、ですよ。
「楽しさ」という点では、私のBW教室も負けてはいませんよ。昨日も年中児のクラ
スがありましたが、50分間、子どもたちを笑わせつづけてやりました(4・10)。
子どもたちは、あははは、あはははと笑っていましたよ。よくもまあ、
これほどよく笑うものだと思うほど、よく笑っていました。(ウソじゃ、ない
です。ウソを書いてもしかたないし、もしウソなら、この時点で、私は参観にきている
父母の信用をなくすことになります。私の教室は、この31年間、すべて参観は
自由にし、授業を公開しています!)

 「笑えば子どもは伸びる」……これが私の持論です。イギリスの格言にも、「楽しく
学ぶ子どもは伸びる」というのもあります。子どもを伸ばそうと考えたら、「教えよう」
と思うのではなく、「楽しませれば」よいのです。あとは、子ども自身の力で、自分で
伸びてくれます。それが私の教え方の基本です。……とまあ、今年度も、何とか、
BW教室のほうは、無事スタートしました。よろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7月4日……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園、ほか

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……おおがかりな講演会です。どうかおいでください。お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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「子育てワンポイント」の続編を送ります。1〜300作は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→トップページ→「ワンポイント」で
お読みいただけます。どうかおいでください。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(274)

追えば追うほど、心を削る

 私に月謝袋を渡すとき、爪先でポンとはじいて、「おい、あんた、あんたのほしいのはこれだ
ろ」と言った高校生がいた。市内でも一番という進学高校に通う子どもだった。私が黙っている
と、「とっておきな」と。私は生涯において、三度、生徒を殴ったことがある。そのときがそのうち
の一度になった。
 父親はそのときある教育団体の職員をしていた。母親は結婚するまで、中学校の教師をして
いた。教育熱心な家庭だったが、どこかでその歯車がズレたらしい。その原因がすべて受験競
争にあるとは言えないが、受験競争に関係ないとはもっと言えない。その子どもも、小さいとき
から「勉強づけの生活」をしてきた。
 受験教育の弊害をあげたらきりがないが、そのうちのひとつが、子どもから温かい人間的な
心を奪うこと。『追えば追うほど、心を削る』という格言を私は考えたが、子どもを受験で追えば
追うほど、子どもから温かいぬくもりが消える。ものの考え方が功利的、打算的になる。勝っ
た、負けたという計算だけが頭の中を支配する。そういう状態になると、「教育」という言葉は、
もう通用しない。指導だ。教育ではなく、指導ということになる。「どうすればよい点を取れるか」
「どうすればよい(?)大学へ入れるか」と。
 この日本では、受験競争は避けて通れない道かもしれないが、子どもに受験勉強をさせると
きのは、一方で子どもの心をケアすることを忘れてはならない。でないと、結局はそのツケは私
たち自身が払うことになる。少し前だが、私にこう言った市の職員がいた。彼はその市の市役
所でも部長職にあったが、いわく、「はやしさん、このH市は工員の町だよ。工員というのはね、
お金をもつと働かなくなるよ。工員には金をもたせてはいけないよ。だからたくさん遊ぶところを
つくって、もっているお金を吐き出させるのだよ」と。もし日本中がそんなエリートばかりになっ
たら、この国はいったいどうなるのだろうか。
 で、先の高校生だが、その直後、父親と母親につれられて謝罪にきた。結果的にみれば、そ
れがよかった。その子どもはその事件を契機に、みちがえるほど人が変わった。礼儀正しくな
り、ものごしもやわらかくなった。私の教室(教室といっても、三〜四人の小さな教室だが……)
へは、高校三年の終わりまできてくれたが、その分、私との人間関係も太くなった。今でもとき
どき消息を聞くが、現在は埼玉県で高校の教師をしているという。きっとすばらしい教師をして
いることと思う。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(275)

遅れたら、「核」づくり

 ときとして子どもは、学校の勉強に遅れることがある。(「遅れる」という言い方は、本当に不
愉快だが……。)それはちょっとした油断でそうなるが、そうなったときの鉄則が、これ。「核」を
つくる。
 たとえば算数の力が遅れたとする。たとえば小一で足し算、引き算につまづいて、子どもが
自信をなくしたようなとき。そういうときは、つぎに学ぶ掛け算なら掛け算を、前もって徹底的に
教える。あれこれ全体に教えるのではなく、掛け算なら掛け算を、「これなら人には絶対負けな
い」という状態にする。つまり立ちなおりのきっかけをつくる。私はこれを「核づくり」と呼んでい
る。
 これは一例だが、この方法は、子どもが何かでつまづいたとき、いろいろに応用できる。どこ
かに書いた「一芸論」もそうだが、反対に子どもをオールマイティにしようとすると、失敗する。さ
らに言いかえると、子どもがつまづくというのは、そもそも親側に問題があるとみる。親が子ど
もをオールマイティにしようとして、結局は子どもを袋小路に追い込んでしまう。
年長児を過ぎるころから、子どもにも得意、不得意ができてくる。できて当たり前。この当たり
前のことがわからない。算数も、英語も、その上、体操も、音楽も……とやりだす。こうした無
理が、……というより、飽食的な子育て観が子どものやる気をつぶす。そして子どもはあちこち
で、同時多発的につまづき始める。わかりやすく言えば、「二兎を追うもの、一兎も得られず」と
いうことだが、そういうときは、「一兎」に的をしぼる。算数も国語もと考えるのではなく、まず算
数なら算数だけとする。その算数の中でも、掛け算なら掛け算だけとする。
子どもというのはおもしろいもので、得意な一教科が沈みはじめると、ほかの教科全体も沈み
はじめる。が、一教科だけがぐんぐんと伸び始めると、ほかの教科もそれにつられて伸びると
いうことがよくある。ほかの教科をとくに勉強しなかったとか、したというわけでもないのに、そう
なる。たとえば英語だけがぐんぐんと伸び始めると、数学をとくに勉強したわけでもないのに、
数学も伸び始めるなど。私はこれを「相乗効果」と呼んでいるが、こうした現象は子どもの世界
では珍しいことではない。そういうことも考えながら、「核」づくりを大切にする。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(276)

子どもの理性

 「理性」とは、善と悪を両方に置き、その善悪の判断に従って冷静に考えたり行動したりする
感覚のことを、理性という。簡単に言えば、「バランス感覚」ということになる。このバランス感覚
に欠けると、子どもは極端なものの考え方をするようになる。
 「地球の人口は多すぎるから、核兵器か何かで、人口の半分を殺せばいい」と言った男子高
校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になって、黒い喪服を着てみたい」と言った
女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をして、みじんも恥じなくなる。
 子どもの理性は、かなり早い時期にできる。年長児の段階では、かなり決まっている。たとえ
ば「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」という問題を出したとき、バランス感覚
のすぐれている子どもは、「順番を待ってもらう」とか、「先生に言いつける」とか言う。しかし中
には、「そういうヤツはぶん殴ってやる」とか言う子どもがいる。そこで私が「どうして?」と聞く
と、「どうせ、そういうヤツは口で言っても、わからネエ」と。
 このバランス感覚は、静かで穏やかな家庭環境ではぐくまれる。もちろん愛情も大切だが、
それ以上に大切なのは、子ども自身が静かに考えて行動する環境があるかどうか、だ。神経
質な過関心、威圧的な過干渉、さらには家庭騒動や家庭崩壊などがあると、子どもは心の落
ち着きをなくし、ついでそのバランス感覚をなくす。さらにたとえば極端に甘い父親、極端にき
びしい父親が同居するようなばあいにも、子どもはこのバランス感覚をなくすこともある。J君
(中一)がそうだった。ある日私にこう言った。「先生、おれの親父ね、毎晩ひとりでこっそりと、
エロビデオ、見てるんだよ。先生も見てるのか?」と。言ってよいことと悪いことの区別すらつか
ない。昔からの裕福な家庭で、外見からは問題があるようには見えなかった。しかしいろいろ
話を聞くと、家庭をかえりみない父親、教育熱心な母親、それにデレデレに甘い祖父母と同居
していることがわかった。つまりJ君の家庭では、J君に対してそれぞれがてんでバラバラな接
し方をしていた。それが原因だった。
 理性のこわいところは、それは一度破壊されると、以後、修復がたいへんむずかしくなるとい
うこと。その後の経験で、理性的な判断力が育つことはあるかもしれないが、それは古いキズ
の上にかさぶたができるようなものではないか。さらに幼児期に一度心がすさむと、それをな
おすのは、不可能とさえ言える。要はそういう状態にまで子どもを追いつめないということ。幼
児期に一度キズついた心は、顔についたキズのようで、消えることはない。
 ついでに一言。理性はつくるのに、数年かかるが、こわすのは、半日でよい。それくらいデリ
ケートなものであることを忘れてはならない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(277)

教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。たとえばアメリ
カ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。
(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)そこで調べてみると、小学生の全員は、自分
の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。
つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられな
くても教えられてしまうことになる。
 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この
教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもという
のは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの
教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。
 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。先日も中学生たちに、
「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどう
か」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」
と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。
 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(278)

親のうしろ姿

 生活のために苦労している親の姿。子育てのために苦労している親の姿。そういうのを日本
では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を、子どもに見せることを、この日本では美徳
のように考えている人がいる。しかしこれはまちがい。親が見せたくなくても見せてしまうのが、
親のうしろ姿。子どもが見たくなくても見てしまうのが、親のうしろ姿。親のうしろ姿というのはそ
ういうものだが、しかし中には、うしろ姿を見せながら、親の恩(?)を押し売りする人がいる。
「産んでやった」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらっ
た」と、恩を着せられてしまう。
 子育ての目標は、子どもを自立させること。そして親は、一度は子どもに対して、「あなたの
人生はあなたのものだから、思う存分、あなたの人生を生きなさい」と肩を叩いてあげてこそ、
親の義務を果たしたことになる。安易な孝行論や、「家」制度で、子どもをしばってはいけない。
いわんやそれを子どもに求めたり、強制してはいけない。子どもの人生は、あくまでも子どもの
人生。もちろん子どもがおとなになって、そのあと親のめんどうをみるとか、家の心配をすると
いうのであれば、それはあくまでも子どもの勝手。子どもの問題。
 日本の親たちは子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着。たとえば日本では親
にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコールよい子とする。そして独立心が旺盛で、
親になつかない(?)子どもを、「鬼っ子」として嫌う。そのため日本の親は子どもを育てるとき、
ちょうど、飼い犬を手なずけるかのようにして、子どもを育てる。エサを見せてはひっこめ、また
見せてはひっこめる。それでもそのエサをねだったら、ころあいを見はかりながら、おもむろ
に、つまり恩着せがましくエサを与えるというように、である。結果、子どもは親なしでは生きて
いかれないということを、徹底的に教え込まれる。そしてそれがやがて、ここでいう依存心へな
っていく。
 よく日本は依存型社会だと言われる。「生きるのは私」と考えるよりも先に、「人に何とかして
もらおう」とか、「人が何とかしてくれるだろう」と考える。どこかでいつも他人に甘えるような生き
方をする。あるいは集団にならないと、力が発揮できない。日本はこのままでよいという人に
は、私は何も言わないが、子育ての目標は、子どもを自立させること。そういう視点に立つな
ら、親のうしろ姿は見せない。親は親で、どこまでも気高く生きる。それが結局は、長い目で見
て、親と子どものきずなを深めることになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(279)

おどしは理性の敵

 子どもをわざと不安にさせる。わざと孤立させる。あるいはおどす。日本人には日本人独特
の子育て法というのがある。
一五年ほど前だが、私はT教授が書いた本を読んで、体中が怒りで震えたことがある。当時
(今も?)、日本を代表する教育評論家だった。いわく、「親子のきずなを深めるためには、遊
園地などで子どもをわざと迷子にしてみればよい」と。とんでもない教育法である。当時の日本
人は、この程度の教育論(失礼!)を読んで納得したかもしれないが、それにしてもお粗末。も
しあとで「わざと」であったことを子どもが知ったら、その時点で親子のきずなは、こなごなに破
壊される。いや、そういう卑怯なやり方ができるということ自体、その人の人間性そのものを疑
ってよい。親は子どもには、どこまでも誠実でなければならない。たとえ子どもが親を裏切った
としても、親は子どもに誠実でなければならない。それがまた親の親としての愛の深さを決め
る。
話を戻すが、こうした方法は、子育てでは邪道。手っ取りばやく子どもをしつけるには、それな
りの効果があるが、長い目で見れば、逆効果。よくある例が、デパートなどで泣き叫ぶ子どもに
向かって、「あなたを置いてきますからね」とか、「あんたを捨てますからね」と言う親がいる。親
としては軽いおどしのつもりで言うかもしれないが、子どもはそれを本気にしてますます大声で
泣き叫ぶ……。そういうとき子どもは、わかっていて泣き叫ぶのではない。恐怖心にかられて
泣き叫ぶ。だからしつけとしての効果はまったくないばかりか、ばあいによっては、子どもの理
性そのものを破壊する。
 そこで「おどしは、理性の敵」を覚えておく。おどしが日常化すればするほど、子どもから、静
かに善悪を判断するというバランス感覚が消える。ものの考え方が極端になったり、先鋭化し
たりする。いや、その前に、おどさなければ子どもがあなたの言うことを聞かないというのであ
れば、もうすでにあなたと子どもの関係は、かなり危険な常態にあるとみてよい。やがてあなた
の子どもは、あなたの手に負えなくなる。 
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(280)

未来を楽しみにさせる

 子どもを伸ばす秘訣の一つは、いつも「未来を楽しみにさせる」こと。明日は今日よりよくなる
という希望が、子どもを伸ばす。そのために子どもには、いつも前向き(プラス)の暗示をかけ
る。「あなたは去年よりすばらしい子になった」「来年はもっとすばらしい子になる」と。
 前向きに伸びている子どもは表情も生き生きとしていて、明るい。何か新しいことができるよ
うになるたびに、親に向かって、「見て!」「見て!」と言い寄ってくる。そうでない子どもは暗
い。そこでテスト。あなたの子どもはつぎのうちのどちらだろうか。
何か新しいことをやってみないと提案したとき、(1)「やる」とか「やりたい」と言って、すぐくいつ
いてくる。(2)「いやだ」とか「やりたくない」とか言って、すぐ逃げ腰になる。その中間もあるだろ
うが、もしあなたの子どもが(1)のようなら、よし。(2)のようなら、あなたの子育てをかなり反
省したほうがよい。その一つの方法に、あなたの心を作り変えるというのがある。
 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。ウソではいけない。親子というのはそ
ういうもので、長い時間をかけて、あなたの心はそっくりそのままあなたの子どもに伝わる。そ
こでもしあなたが「うちの子は何をしても心配だ」と思っているなら、こうする。「あなたはいい子
だ」を口グセにする。子どもの顔を見たら、そう言う。最初はどこかぎこちなく、とまどいを覚え
るかもしれないが、あなたがその言葉を自然に言えるようになったとき、あなたの子どももまた
その「いい子」になっている。
 話が少しそれるが、以前、「小学校へ行きたくない」という園児が続出したことがある。理由を
聞くと、「花子さんがいるから」と。『学校の怪談』に出てくる花子さんのことだった。おとなは興
味本位にこういうテレビ番組をつくるかもしれないが、子どもに与える影響を、少しは考えてほ
しい。幼児期には、こういうことはあってはならない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(281)

本当の問題

 この日本では、一度コースにのってしまえば、役職は向こうからやってくる。そうでない人から
見れば、夢のまた夢のような役職ですら、町内の役職が回ってくるように回ってくる。そしてそ
の役職をそれなりにうまくやりこなしていると、いわゆる「出世」できる。こういうのを日本では、
学歴社会という。「学歴」という言い方に問題があるなら、コース社会と言ってもよい。不公平社
会と言ってもよい。
 こうして出世(?)した人の中には、もちろん力のある人もいるが、しかし大半は、コースという
「波」に乗っただけとみてよい。つまり「運」。が、問題は、こうしたコースがあることもさることな
がら、こうしたコースは、代々、それぞれの人に受け継がれ、それをまたつぎの代に残している
ということ。コースにのるということは、生活が安定するばかりではなく、それ自体、たいへん居
心地のよい世界でもある。地位や名声が高ければ高いほど、あがめたてまつられる。その人
が発する一言一句、一挙一動が注目される。
 信じられないような話かもしれないが、こうして出世した人は、講演にしても、一時間で一〇〇
万円をくだらない。テレビや雑誌に出るような人だと、もっと高額になる。事実を一つ、書く。もう
二〇年ほど前だが、私はいろいろな人のゴーストライターをしていた。書いた本は、一〇〜二
〇冊はある(冊数が不明なのは、半分だけ書いたというのもあるから)。ほとんどは初版だけで
絶版になったが、何冊かは結構売れた。その中でもあるドクターの名前で書いた一冊だけは、
専門書だったが、年間、数一〇万部も売れた。そのドクターにとっては、最初で、今にいたるま
で最後の本だったが、しかしそのドクターは、私が書いた本をぶらさげて講演するようになっ
た。そのときの講演料が一日、二〇万円。大卒の初任給が一〇万円前後の時代だった。日本
にはこういう社会が、歴然として存在する。
 ……というような話なら、あなたもどこかで聞いたことがあると思う。しかし本当の問題は、こ
うした不公平社会があるということではない。本当の問題は、そういう社会を容認している「私
たち」自身にある。ひょっとしたら、あなたも、「あわよくばそうなりたいものだ」と思っているかも
しれない。そういう「思い」が、結局はこうした社会を容認し、支えてしまう。が、ここで大きな問
題にぶつかる。では、そういう社会がまったくなくなってしてまったら、それはそれでよいのかと
いう問題である。不公平であることそのものが、目標になることがある。社会を動かす原動力
になることもある。そこで言えることは、不公平なら不公平でもよいが、それが合理的なもので
あればよいということ。その人の努力や能力が、正当に評価されるなら問題はない。が、いび
つな不公平がはびこればはびこるほど、他方で、もともと正当に評価されるべき人が正当に評
価されなくなってしまう。それこそが本当の問題ということになる。そしてそういう社会がはびこ
れば、人はまじめに働くことをやめ、社会そのものが崩壊する。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(282)

見方を変える

 中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていること
そのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのた
びに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。
 名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
 ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹
が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。
するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだ
けだよ」と。
 ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も一八〇度変わるということだが、「何もかも
ダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方な
のだ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを
吸う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うの
は、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけ
なければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。そしてそういうと
き親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さえいる。が、そう
いうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方なのだ。
 今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数一〇億年という歴史の、その
瞬間に、同じく数一〇億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ
時代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、ど
んな問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた
自身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべて
の問題は解決する。
 ……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの
考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は
「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は
一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後
の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。何とも深刻な話になってしまったが、
あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。
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※……イラン映画「桜桃の味」



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(283)
 
子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓
がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活
発になる。が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲
不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされ
る」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。
 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どもの
ばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」についても、夜尿(お
ねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私がそれを指摘す
ると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、
夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経
が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受
けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。
 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそう
いうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問
題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるか
らといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの
中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所
が、「家庭」ということになる。
 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を
反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子
どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。た
いていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感
ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょに
ついても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。そ
してあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということにな
る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(284)

男らしさ、女らしさ

 男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られてい
る。男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、
ある程度の性差があることも知られている。そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はよ
り女性的な遊びを求めるということらしい。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男
性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)
男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。た
とえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。その友人には二人の娘がいたのだが、
その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかりほしがる」と。そこでその友人は、「男と女
というのは、生まれながらにして違う部分もあるのではないか」と。
 が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別
をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこ
んなことはある。ごく最近、あった事件だ。
 私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからか
っても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や
肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中
のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)が、女児の
中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてくるのだ。しか
しそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為は誤解を生
む。その女の子(小三)もそうだった。何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイス
に座って休んでいると、平気でそのひざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもか
わした。が、ところが、である。その女の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私に
ヘンなことをする」と言いふらしているというのだ。私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女
は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(うわさ)は決定的にまずい。親に言うべきか
どうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視しなさい」と。
 この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には
微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしそ
の微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。昔の日本人はそう考えたが、あく
までもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男らしく」「女らしく」と言うだけで、差
別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代はすぐそこまできている。そういう前
提で、この問題は考えたらよい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(285)

親子とは

 東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、
その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。ある男性(四五歳)は、母親(七六歳)
に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にその通帳からお金を引き出し、全額、
自分の借金の返済にあててしまった。その男性(四五歳)が、たまたま半年あまり、アメリカへ
行っている間のできごとだった。帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」
と迫ったが、母親はこう言ったという。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い!
 親子の縁など切れるものではない!」と。しかしその事件があって、その息子は親との縁を
切った。一〇か月近くも苦しんだあとの結果だった。今年五〇歳になるその男性はこう言う。
「母はその一〇か月の間、ほとぼりを冷まそうとしたのですが、私のほうはその一〇か月で心
の整理をしました」と。
 その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づ
けることはできないが、しかしこれだけは言える。いろいろな家族がいる。そしてその中身も人
それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。
あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを一人の人間としてみるときがくる。一方、あな
たの子どももあなたをいつか、一人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」
に耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して
永遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味
で、親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。
 とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互
いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」
のかわからないことをいう。ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子
のその男性に、お金を無心にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくると
いう。その男性はこうつづける。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはそ
の方法しかないのでしょうが、私はもう母から解放されたいのです」と。
 親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこ
の問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの
芥川龍之介は、こう書いている。
 「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの
参考にはなる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(286)

ユニバーサルスタジオ

 大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれ
ていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「タ
ーミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感
じなかったわけではない。
 その一つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パ
ビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい……
という願いはもっている。しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んで
しまった。つまり「いまどき、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させ
るとしたら、少なくともユニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。となると、そ
のためにどういう方向性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回
れば回るほど、絶望的にならざるをえなかった。
 つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいも
のかという疑問。私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中
に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。当然のことながら、ユニバー
サルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までもが、完全に抜かれてしまってい
る。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまたアメリカ風のみやげを買う。けば
けばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これまたロックンロールであったり、ジ
ャズであったりする。こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感ずるだろうか。いや、ほかの国
のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客が、何割かがそうであるというぐ
らい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本でアメリカを見ているのだ!
 ……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにする
と、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。三〇〇万人の日本人がそ
のために死に、同じく三〇〇万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何の
ために死んだのか」と。
 女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も五〇歳を過ぎ
ると、そうは小回りがきかなくなる。脳みそをカラッポにして楽しむというわけにはいかない。と
きどきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w







件名:子育て情報(はやし浩司)4-14

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
 ================          
★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−4−14号(037)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
********************************
いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。
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「子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7月4日……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園、ほか

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……おおがかりな講演会です。どうかおいでください。お待ちしています!
********************************

「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

********************************

「子育てワンポイント」の続編を送ります。1〜300作は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→トップページ→「ワンポイント」で
お読みいただけます。どうかおいでください。

********************************

静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。

**************************************
今回は、「子育て狂騒曲」の一部を、いち早くお届けします。
**************************************

子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ
 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。
 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。
●低俗文化の論理
 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理が
まかり通れば通るほど、文化は低俗化する。
文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、その人個人を律する道徳性によって決まる。「迷惑をかけない」というのは、最低限
の人間のモラルであって、それを口にするというのは、その最低限の人間のレベルに自分を
近づけることを意味する。
●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。
●まるで宇宙人の酒場!
 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔かたちだけではない。服装もそうだ。国によって、まるで違う。
アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にし
たら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさ
わしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩い
ていても、だれも見向きもしないだろう。
●結局は島国の問題?
 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。
 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。



神経質になる母親たち(失敗危険度★★★★)

●「あなたの教育方針は何か」
 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学し
ていたこともある。まあ、音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母
親は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考え
ているか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。
●幼児と教育論?
 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教
室の先生は思った。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれこれ
説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に帰っ
て、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?
●「失礼」を知らない母親たち
 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてくる母親さえいる。さらに「うちの子はBW
(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言うのでよろしく」と言ってき
た母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じない。で、私は私で、そ
ういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、それすら口で言うほど簡
単なことではない。
●「フン、何をお高くとまってんの!」
 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと
入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでし
ょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。
●初対面のときとは別人
 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会
うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、インギン
無礼というのは、そういう父親をいう。で、一通り話は聞いたが、「返事はあとで」とその場は逃
げた。親の希望が高すぎるときは、私とて安易に引きうけるわけにはいかない。で、その数日
後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。「貴様は、う
ちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったらどうだ!」
と。初対面のときの態度とはうって変わった声だった。私が「息子さん能力とは関係ありませ
ん」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみせ
る」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってしまっ
た。私と女房は、妙にその事実に納得した。「やっぱりねえ……」と。



結婚するというのは冗談です(失敗危険度★★)

●やがて大騒動になるとは!
 乱暴な子どもというのは、いる。「こんにちは」と言いながら、足でこちらを蹴飛ばしてくる。「さ
ようなら」と言いながら、また蹴飛ばしてくる。丸井さん(年中女児)もそうだった。そこである日、
丸井さんが私をいつものように蹴飛ばしてきたので、すかさずこう言った。「丸井さん、ぼくは君
がおとなになっても、結婚しないからな。結婚するなら、あの大野さんとする」と。たまたま大野
さんの顔が目に入った。だからそう言った。が、この一言が、やがて大問題になるとは!
●「もちろん冗談です」
 それからちょうど一週間後のこと、同じクラスの母親の一人に会うと、その母親がこう言っ
た。「先生、大野さんの件ですけどね。何でも大野さんが、私はおとなになったら、林先生と結
婚するんだと、真剣に悩んでいるというのですよ」と。大野さんが私の冗談を真に受けてしまっ
たらしい。「まずかった……」と思っていると、たまたまその日、大野さんの父親からメールが入
った。休みの問い合わせだった。で、すかさず返信の形で、こう書いた。「実のところ、大野さん
といつか結婚すると言ってしまいましたが、もちろん冗談です。ご本人は本気にされてしまった
ようですが、どうかお許しください」と。
●私の失敗談
 が、その夜。夕食を終えて、そろそろ風呂のしたくをと考えていたら、玄関先で人の気配が…
…。出てみると、大野さんの父親と母親がものすごい剣幕で立っているではないか。「どうした
のですか?」と声をかけると、「説明してほしい」「どういうことですか」と。父親は、私が母親に
結婚の話をしたと思ったらしい。私はこの幼児教育の世界へ入ってからというもの、子どもでも
すべて名字で呼んでいる。それが誤解を招いた。つまり父親は、私が母親と結婚の約束をした
と思ったらしい。以前こんな失敗をしたことがある。
●ウンチのついたパンツ
子どもを指導するとき、「○○をするな」とか「○○をしなさい」とかいう命令は、できるだけ避け
たい。これは私の教育理念の一つでもある。で、たとえば授業中フラフラと歩いているような子
どもには、私はこう言う。「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」と。そしてそれで
も立っていたら、さらに「おしりがかゆいのか?」と真顔で聞いたりする。そのときもそうだった。
小学三年生のK君が、フラフラと歩いていた。そこで「ウンチがついているなら、立っていてい
い」と。ところがそのあとハプニングが起きた。私がそう言い終わらないうちに、別の子どもが、
K君のおしりに顔をうずめて、「先生、本当にくさ〜い」と。
 その夜K君の父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのことで、皆に
恥をかかせるとは、どういうこどだ!」と。
 これらの話は、この本のタイトルとは関係ない。つまり私の失敗談ということになる。



誤解と無知(失敗危険度★★★)

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。
 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書
いてあった。
●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。
●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。その後数年後、関東
周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひっこめざる
をえなかったのだろう。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表するA新聞社の小冊子
として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。
●ゴーストライターの書いた本
 さて先のK教授だが、一方で数一〇万部を超えるベストセラーを数冊もっている。たまたま私
が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、こう
話してくれた。
 「ああ、あの本ね。実はK教授が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライターが書
いてね、それにK教授の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、K教授専用のライター
(担当者)がいて、そのライターも、K教授のために原稿を書いているとのこと。もう二〇年も前
のことだが、彼の書いた(?)知恵パズルブックは、やがてアメリカの雑誌からの翻訳とわか
り、表に出ることはなかったが、出版界では話題になったことがある。
●タレント教授の錬金術
 このタイプの教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生
に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そし
て本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学系でこのタイプのゴーストライターをし
た経験があるので、内情をよく知っている。
 こうした常識ハズレな教授は、決して少数ではない。数年前だが私がQ社に原稿を持ち込ん
だときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこかバカにしたような言い方で、こう言
った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」と。もち
ろん私は断ったが、それから数年後。近くの本屋へ行くと、Q社の教育本のセールがなされて
いた。見るとI教授の本がずらりと並んでいた。手にとってパラパラと読んでみたが、漢字づか
いはもちろんのこと、文体も、とても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思われないほど、若々
しさに満ちていた……!
●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の本当のところは、「肩書き」に弱い、日本
人自身にある。
●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。
 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔(とむら)うことで教える。ペットでも何で
も、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を
通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。
 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!
 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして
考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。
 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは痴話喧嘩。そんなもの見せたからといって、子どもが
「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家の意見につ
いては、もう書いた。
●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういうとんでもない意見に
対して、批判力をもたない母親たちにある。こうした母親たちが世間の風が吹くたびに、右へ
左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。


      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
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件名:子育て情報(はやし浩司)4-19

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
 ================          
★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−4−19号(038)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。
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お願い

 島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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「親バカたちの子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7月4日……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園、ほか

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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「子育てワンポイント」の続編を送ります。1〜300作は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→トップページ→「ワンポイント」で
お読みいただけます。どうかおいでください。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。

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今回は、「子育て狂騒曲」の一部を、いち早くお届けします。(第2回目)
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うちの子は、まだ何とかなる!
あきらめは悟りの境地(失敗危険度★★★)

●子育てはあきらめの連続
 親の欲望には際限がない。子どもができなければできないで悩むが、少しでもできるようにな
ると、「もっと……」と考える。たとえば中学への進学。「せめてC中学、それが無理ならD中学」
と言っていた親でも、子どもがC中学へ入れそうだとわかってくると、今度は「B中学」と言い出
す。しかしこういう親はまだラッキーなほうだ。中には、D中学、E中学と、どんどんと志望校をさ
げていかなければならないときがある。しかし一度こういう状態になると、あとは何をしても空回
り。親があせればあせるほど、子どもの力は落ちていく。「そんなはずはない」「まだ何とかな
る」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかな
くなる。
要するにどこであきらめるかだが、受験にかぎらず、子育てをしていて、あきらめることを恐れ
てはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開
ける。しかもその時期は早ければ早いほどよい。もともと子育てというのはそういうもの。
●自分で失敗するしかない
 ……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うの
は適切でないかもしれないが)とはっきりとわかるまで、自分が失敗するとは思っていない。「う
ちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつく
ところまで行かないと気がつかない。
子どもの限界にできるだけはやく気づくこと。それがわかれば親も納得し、その段階であきら
める。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならでき
るか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだった
か」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向か
って、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。
●あなたなら耐えられるか?
 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あ
なたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差
値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入四○○万円程度の男」と。ま
たそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ!」「何だ、この点数は!」とあなたを
叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに
近い。
●親は身勝手?
 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を
読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親
は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだ
が、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり
始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめて
みてほしい。それで道は開ける。



うちの子は生まれつきそうです!
勉強が苦手な子ども(失敗危険度★★★★★)

●勉強が苦手な子ども
 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣ってい
る子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不
良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。最近よく話題になる子どもに、
学習障害児(LD児)という子どももいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応
用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。
●症状をこじらせない
 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもの
のところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっている
ということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということその
ものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっ
ている子どももいる。
原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、
「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、
「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる
人などいない!)
●コースからはずれたらダメ人間?
 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあ
って、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」
というのは、国際的な基準からしてという意味。)こういうばあいでも、本来なら子どもの能力に
あわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。ス
ポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがい
る一方、不得意な子どもがいる。いてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方が
できない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。このことが、本来何でもないはず
の問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルを
はってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の
子育てはゆがんでいる。
●落第を喜ぶアメリカの親たち
……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強
などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもの勉強は子どもの視点で考える。たとえばア
メリカでは、学校の先生が親に、子どもの落第を勧めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」
だ。ウソでも誇張でもない。事実だ。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落第を頼
みにいくケースも多い。アメリカの親は、「そのほうが子どものためになる」と考える。しかし日
本ではそうはいかない。そうはいかないところに、日本の子育ての問題がある。



うちの子は何を考えているかわからない!
仮面をかぶらせるな(失敗危険度★★★★)

●仮面をかぶる子ども
 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。
●心と表情の一致
 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が
日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込
むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいる
が、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮
面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる
前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、
わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、
つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。
●言いたいことを言わせる
 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。しかし平気な親もいる。「バカ!」と言うこと
を許せというのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけ
ない。
●子どもの心は風船
子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、
子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心と
いうのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注
意する。 



昔は子殺しというのも、あったからねえ!
女性の三悪(失敗危険度★★★★)

●人間そのものを狂わす
嫉妬、虚栄心、母性本能を、女性の三悪という。ここで母性本能を悪と決めつけるのは正しく
ないかもしれないが、性欲や食欲と同じように考えてよい。この本脳があるからこそ、親は子を
育てるが、使い方をまちがえると、人間そのものを狂わす。そういう意味で、三悪のひとつに加
えた。
(1)まず嫉妬……こういう話は、プライバシーの問題がからむため、ふつうは正確には書かな
い。しかしそれにも限度がある。あまりにもふつうでない話のため、あえて事実を正確に書か
ねばならないときもある。こんな話だ。
●ライバルの子どもを足蹴り
 H市の郊外にU幼稚園という小さな幼稚園がある。あたりは高級団地で、そのレベルの家の
子どもたちがその幼稚園に通っていた。そこでのこと。その母親は自分がPTAの会長であるこ
とをよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていた。そして自分のライバルの子ども(年中女
児)を見つけると、執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。まずその女の子の横をそれ
となく通り過ぎながら、足でその女の子を蹴飛ばす。その勢いで倒れた女の子を、「どうした
の?」と言いながら抱くフリをしながら、またカベに投げつける……。年中児なら、かなり詳しく
そのときの状況を話すことができる。
 その女の子は、その母親の姿を見ただけで、まっさおになっておびえるようになったという。
当然だ。そこでその女の子の母親が「どうしたらいいか」と相談してきた。いや、その前に、そ
の母親は相手の母親に、それとなく抗議したというが、相手の母親は、とぼけるだけで話にな
らなかったという。しかも相手の母親の夫というのは、ある総合病院の外科部長。自分の夫
は、同じ病院でもヒラの外科医。夫の上司の妻ということで、強く言うこともできなかったという。
●珍しい話ではない
 こういう話は、この世界では珍しくない。嫉妬がからむと、人間はとんでもないことをする。脳
のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うときがある。これも実話だが、ある母親は同じ団地
に住む別の母親の子ども(四歳児)を、エレベータの中で見つけると、いつも足蹴りにしていじ
めていた。そのためその子どもは、エレベータを見るだけでおびえるようになったという。
問題は、なぜ、そこまで母親というのは狂うかということ。先にあげた母親は、幼稚園でもPTA
の会長をしていた。多分会合の席なのでは、それらしい人物として振舞っていたのだろう。考え
るだけでもぞっとするが、しかし人には、その人でない部分がある。この話を叔母にすると、叔
母はこう言った。「昔は子殺しというのもあったからねえ」と。母親も嫉妬に狂うと、相手の子ど
もを殺すことまでする……?
 つぎに(2)虚栄心。「世間」という言葉を日常的に使う人ほど、虚栄心の強い人とみる。いつ
も他人の目の中で、自分を判断する。価値観というのが、いつも相対的なもので、他人より財
産があれば、豊かと感じ、そうでなければ貧しいと考える。子どもにしても、このタイプの母親に
は、「飾り」でしかない。もともと自己中心性が強いため、親意識も強い。「私は親だ」と。そして
その返す刀で、子どもに向っては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。
●他人の不幸を喜ぶ親
 このタイプの母親には、他人の不幸ほど、楽しい話はない。ここに書いたように価値観が相
対的であるため、他人が不幸であればあるほど、自分がより幸福ということになる。Tさん(三
五歳女性)がそうだった。幼稚園へはいつも、ものすごい着物でやってきた。そして若い先生に
会ったりすると、その場できどった言い方で、こう言った。「アーラ、先生、お元気そうザーます
ね。まあ、すてきな香り、よいご趣味ザーますわね」と。私はてっきりすごい家柄の母親だとば
かり思っていた。そしてこんなこともあった。
 幼稚園で遠足に行くことになったときのこと。母親たちの間で、昼の弁当はどうするかという
話がもちあがった。二、三人の親が、サンドイッチはどうかしらと提案したそのとき、Tさんはあ
たりをおさえるようにして、こう言った。「ア〜ら、(幼稚園生活で)最後の遠足ザーますから、皆
さんで仕出し弁当か何かを頼んだら、いかがザーますかしら」と。
 で、どういうわけだかそのときは反対する人もなく、その仕出し弁当になってしまった。何でも
Tさんの知人がそのお弁当を作ってくれるという。値段は「割安」とは言ったものの、当時の平
均的な弁当の二倍以上の値段だった。私はそのとき三〇歳少し前。年上の母親には何も言え
なかった。
●豪華な着物
 そのTさんだが、子どもへの執念にも、ものすごいものがあった。たとえば誕生会は、市内の
レストランで開いていた。しかも招待するのは、そのレベルの人たちばかり。私にも招待の声
がかかったが、何を着ていこうかと迷ったほどである。そしてさらに秋の遊戯会でのこと。その
クラスで、浦島太郎をすることになった。が、Tさんは、「どうしてもうちの息子に、乙姫様をやら
せたい」と申し出てきた。男の子が乙姫様というのもおかしいという声もあったが、結局Tさんに
押し切られてしまった。が、驚いたのは最後のリハーサルの日のこと。Tさんがもちこんだ着物
は、日本舞踊で使うような、これまた豪華な着物だった。これには担任の若い先生も驚いて、
「そこまではしない」ということになったが、Tさんは悪びれる様子もなく、こう言った。「うちには
昔からのこういった着物がありますザーますの。皆さんにもお貸ししましょうかしら、ホホホ」と。
 Tさんは、ただ着物をみせびらかしたかっただけだった。
●私はわが目を疑った!
 私は少なからずTさんに興味をもった。大会社の社長の夫人か。それとも大病院の院長の夫
人かと思った。が、ある日のことだった。それは偶然だった。私が何かの用事で、ふらりとある
大型スーパーの、そのまたある売り場へ行ったときのこと。そこで私はわが目を疑った。(こう
書くからといって、そういう人がザーます言葉を使ってはだめだと言っているのではない。誤解
がないように!)何とそのTさんが、頭にタオルを巻いて、その店で裏方の仕事をしていたの
だ。髪の毛も、幼稚園へくるときとは、まったく違っていた。それに目がねまでかけていた。それ
を見て、私は声をかけることもできなかった。何か悪いものをみたように感じ、その場をそそく
さと離れた。
 そして(3)母性本能……前にも書いたが、母性本能があるから悪いといっているのではな
い。この本脳というのは、扱い方が本当にむずかしい。母親自身もそうなのだろうが、まわりの
ものにとっても、である。この母性本能が狂い始めると、親と子が一体化する。これがこわい。
●子どもは芸術品
 母親にとっては、子どもは芸術品。それはわかる。だから子どもを批評したり、けなしたりす
ると、子ども以上に、母親はそれを不愉快に思う。それもわかる。が、それにも限度がある。こ
んなことがあった。
 M君(年中男児)は、かん黙症の子どもだった。かん黙症といっても、全かん黙と、場面かん
黙がある。私はこのほか、条件かん黙というのも考えている。ある特定の条件下になると、か
ん黙してしまうのである。M君もそんなタイプの子どもだった。何かの拍子に、ふとかん黙の世
界に入ってしまった。そのときもそうだった。順に何かの発表をさせていたのだが、M君の番に
なったとたん、M君はだまりこくってしまった。視線をこちらに合わせようともしない。やさしく促
せば促すほど、逆効果で、柔和な笑みを一方で浮かべながら、ますますかたくなに口を結んで
しまった。
●M君の問題点
 実はそのとき私はM君の母親に、それとなくM君の問題点を見てもらうつもりでいた。教育の
世界では、ドクターが患者を診断して診断名をくだすような行為はタブー。こういうケースでも、
「あなたの子どもはかん黙児です」などとは、言ってはならない。わかっていても、知らぬフリを
する。フリをしながら、それとなく親に悟ってもらうという方法をとる。M君のケースでも、私はそ
う考えた。で、その少し前、M君の母親に会ったとき、そのことについて話すと、M君の母親は
そのまま激怒してこう言った。「うちではふつうです。うちの子は、新しい環境になじまないだけ
です!」と。それで私はその日は母親に参観に来てもらうことにした。が、その日にかぎって、
ほかに三、四人の母親も参観に来ていた。それがまずかった。
 じりじりとした時間が流れていくのが、私にはわかった。ふつうならそこで隣の子にバトンタッ
チして、その場を逃げるのだが、そういう問題点を母親にも見てほしかった。それでいつもより
時間をかけた。私「あなたの番だよ、どうかな?」、M「……」、私「こちらを見てくれないか
な?」、M「……」、私「もう一度言うから、よく聞いてね?」、M「……」と。
●激怒したM君の母親
こういうとき親のほうから、「どうしてでしょう?」という問いかけがあれば、そのときから指導が
できる。問いかけがなければそれもできない。少し時間はかかるが、親自身が子どもの問題点
に気づくのを待つしかない。私はM君の母親の心の中を思いやりながら、時間が過ぎるのを待
った……。が、そのときだった。
M君の母親がものすごい勢いで子どもたちのほうの席へやってきた。そしていきなりM君の腕
をつかむと、M君をそのままひきずるようにして、部屋の外へ出て行ってしまった。本当にあっ
という間のできごとだった。ただ最後に、M君の母親が、「M! 行くのよ!」と言ったのだけ
は、よく覚えている。
 が、それですんだわけではない。M君の母親からその夜、猛烈な抗議の電話がかかってき
た。「あなたの指導方法はうちの子にあっていません」と。私は平謝りに謝るしかなかった。M
君の母親は、こう言った。「うちの子をあんな子にしたのは、あなたの責任です。ちゃんと話せ
ていたのに、話せなくなってしまった。どうしてくれるんですか! 明日園長に話して、責任をと
ってもらいます」と。いろいろあって、私にも微妙な時期だったので、私は「それだけは勘弁して
ください」としか、言いようがなかった。
●自分で行き着くところまで行くしかない
 しかし今でもときどきあのM君を思いだすときがある。そしてこう思う。親というのは、結局自
分で行き着くところまで行って、はじめて、自分に気がつくしかない、と。またその途中で、それ
に気づく親はいない。いても、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。「うちの子
に限って、問題はない」と思う親もいる。子育てにはそういう面がいつもついて回る。それは子
育ての宿命のようなものかもしれない。


      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
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件名:子育て情報(はやし浩司)4-25

彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
 ================          
★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−4−25号(039)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。
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ご案内

 島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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「親バカたちの子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園、ほか

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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「子育てワンポイント」の続編を送ります。1〜300作は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→トップページ→「ワンポイント」で
お読みいただけます。どうかおいでください。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。

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今回は、ワンポイントと、「子育て狂騒曲」の一部を、いち早くお届けします。(第3回目)
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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(287)

大声で笑わせる

 「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。「笑う」という行為に
は、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいな
い。反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑
わせることによって、それがなおることがある。そのため私は教室では、子どもを笑わせること
だけを考えて授業を進める。五〇分一単位の授業だが、五〇分間、笑わせつづけることも珍
しくない。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもし
ここに書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)

 笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくして
はいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえ
ば粘土のボール四個と、四本のひごで四角形を作ってみせる。そのとき、空中でそれを作って
みせると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこ
れ口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくで
きない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラ
ゲラと笑う。

 「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子ども
の前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園
元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。「子どもの前に立つ
ときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあいは、服装の乱れを絶対
に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M先生についてはありえ
なかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。

 それから三〇年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになっ
てしまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合ってい
る。実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえる
と、先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほ
ど威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶっ
ても、しかたない。
 私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(288)

子どもへの禁止命令 
 
 「〜〜をしてはダメ」「〜〜はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多け
れば多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規
則を好む」というのがある。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえ
ば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒
ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。また指しゃ
ぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と
声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなっ
た分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけで
はない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも
学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがある。心が緊張すると、それだけ大脳の活動
が制限されるということか。私は勝手にそう解釈しているが、そういう意味でも、「緊張」は避け
たほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性
があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以
前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子ど
もたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだ
が、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しか
し一人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう四年になるが、(というのも、こ
の話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、そ
の子どもは、今、飛び級で二年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子ども
は、どうしても伸び悩む。

 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(289)

依存心と自立心

 アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこ
ち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。そういうとき日本人ならすぐ、通り
の人に声をかけて、今いる場所を聞く。そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かない
か?」と声をかけたのだが、その友人はけげんそうな顔をするだけで、何も言わなかった。で、
それが気になっていたので、別のある日、アメリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれ
を聞くと、こう教えてくれた。「アメリカ人は、人に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞く
のは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」と。つまり「そういう習慣はない」と。

 よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へ
は、この道をまっすぐ行って、二本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というの
は、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。それとも皆さんの中で、いま
だかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよいが)、道路で道を聞かれたこ
とがあるだろうか。少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道なんか聞かない。彼らはま
ず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。つまりそれだけ自立心
が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本人なら皆、そうだが)、
それだけ依存心が強いということ。

 もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカは
アメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこ
のまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけ
ないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識
とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。

 私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車を
その中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生た
ちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、20ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバ
イトになっていた。二男は「同じ学生だから」ということで、一〇ドルにしてもらったというが、こう
いうドライさというのは、日本人は理解できないものだ。しかしそれが世界の常識でもある。
 日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(290)

あるがままを受け入れる

 親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入
れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないこ
とは、親ならだれしも知っている。

 で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるが
ままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさ
らけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。

 Tさん(五五歳)は、息子(四〇歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼
まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の
理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。

 この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親で
ありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。し
かしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子であり
ながら心を開いていないことになる。しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことがで
きない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう
状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなった
で、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。

 少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきず
なを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しい
ものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければなら
ない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっ
ているということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといっ
て、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻
滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。しかしそうなったとしても、それはしかたないこ
と。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、そ
れだけきびしいことだということ。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てるこ
と」という人がいる。そんなことは当然のことで、それをしなければ、結局は子どもにあきられ
る。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自
分をみがくことを忘れてはならない。



先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った
教育をとおして、自分を知る(失敗危険度★★★★)

●自分を知ることの難しさ
自分を知ることは本当にむずかしい。この私も、五〇歳を過ぎたころから、やっと自分の姿が
おぼろげながらわかるようになった。表面的な「自分」はともかくも、「自分」は、「私」というよ
り、「私の中の私」に支配されている。そしてその「私の中の私」、つまり「自分」は、表面的な
「自分」が思うより、はるかに複雑で、乳幼児期につくられた「自分」と密接に結びついている。
が、それを知ることすら、容易なことではない。こんなことがあった。

●「ぼくは何も悪くなかった」
 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ
た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな
い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを改めて思い知らされたからだ。親とて例外
ではない。

●問題の本質は?
ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めのことではない。その子どもにはチックも
あったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいな
いか」ということのほうこそ、もっと深刻な問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議では
なく、その相談だ。

●私のばあい
 ところで教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところに
ある。たとえば私はときどき、自分の幼児期を想像させるような子どもに出会うことがある。「あ
あ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもをさらにさぐっていくと、それ
まで知らなかった自分を知ることができる。が、ほかにも方法がないわけではない。まず自分
が幼児期から少年少女期にかけて、どんな子どもだったかを思い出す。そしてそれを手がかり
に、自分を知る。たとえば私のばあい……。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。
私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が
汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山
荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。
私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてし
まうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きを
して、その女の子を泣かせてしまったことのがそれ。その女の子にフラれる前に、私のほうが
先手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れてとにかく遠くへ行き
たかったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだっ
たようだ。そんなふうにして、自分をさぐっていく。

●自分であって自分でない部分
話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをす
るかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のど
こかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし
まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな
ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ
れに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつ
までも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。



部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)

●独特の動き
 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(ア
メリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース
U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そ
こで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性
 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症
状に似た症状があらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったの
で、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚
いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。
何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだ
け。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか……」と。

●砂糖は白い麻薬
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよ
い。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程
度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品
を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談
 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。





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件名:子育て情報(はやし浩司)4-27

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いつもこのマガジンをご愛読くださり、ありがとうございます。
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ご案内

●「女性セブン」(小学館)(今週号)にはやし浩司のコメントが載っています。どうぞ! 女房も
「女性セブン」を読むのは何年ぶりかしらと笑っています。私は若いころ、「週刊女性」のライタ
ーをアルバイトでしていました。久しぶりに女性週刊誌をのぞいて、なつかしかったです。(5月
9・16日号、現在発売中)86−87P

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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「親バカたちの子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園、ほか

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。

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サイトに、「エッセイ選集」コーナーを新設しました。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページから、「2001年度・エッセイ選集」へ、どうかおいでください。

今回は、その一部をここに紹介します。

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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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子どもに生きざまを教える法(懸命に生きてみせろ!)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと
 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの
高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たか
がボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、そ
れほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この
世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか
 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ
の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争
と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。
 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に
意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの
箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある
 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。
 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生
の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日
その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私た
ちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教える
ことがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手
たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味は
ない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶ
し。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私た
ちに教えてくれる。



子育てのすばらしさを学ぶ法(許して忘れろ!)

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    
 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ
 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。先日も息子が疲れてソファの上で横になって
いたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、
形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであっ
て、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父が
いる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているの
を、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超え
た、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲
 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれ
ができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子ども
のできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛す
ることの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことが
できるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならでき
る。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。
それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者
 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわか
る。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そし
て生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫に
わたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそうい
う意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。



アイドリングから抜け出る法(アクセルを踏め!)

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四
歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような
恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始
め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無
神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キ
ンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認
めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。
昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏
は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」へ
の執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、い
つまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、
道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になるこ
とはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、な
い。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終
着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。



子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない
 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分
を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではな
い。親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の
親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親
は、確かに若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手
さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を
卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてく
る。

●子どもは下からみる
 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。
 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは
近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ち
ゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私
は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟にも
どり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。
そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男
を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」
 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリな
し。下見てキリなし』と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活は
やってこないということだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのでは
ない。下から見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決
するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 
 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。
同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。
 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、
子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを
許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き
勝手なことをさせろということではない。子どもの言いなりになるということでもない。許して忘れ
るということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子どもの苦しみや
悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分のものとして
認めるということをいう。
 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。



真の自由を手に入れる法(「私」を捨てろ!)

真の自由を子どもに教えられるとき 

●真の自由を手に入れる方法はあるのか? 
 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか
……? その方法はあるのか……? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、
ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育て
の中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛
 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカの
その地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、
私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段
階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなか
った。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメ
リカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……い
いだろ」と。
 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと
 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由など
ない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私
は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができ
るようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子が
それを、私に教えてくれた。



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件名:子育て情報(はやし浩司)5−1

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いつもこのマガジンをご愛読くださり、ありがとうございます。毎回読者の方が
少しずつですがふえています。少しでも皆さんの家庭教育でお役にたてれば、
こんなうれしいことはありません。

今、確かに家庭教育は混乱しています。「教育力」の低下を理由にしている人
もいますが、いろいろな統計結果をみても、教育力は低下していません。少な
くとも30年前よりは、親子のふれあい密度は、はるかに高くなっています。
ただ昔のように、「親が絶対」という価値観はもう通用しなくなってきているという
ことです。昔は親が「親に向って何だ!」と一喝すれば、それで子どもは黙りま
したが、今はもうそういう時代ではないのですね。

そこで家庭教育が混乱した。今大切なことは、新しい家庭教育観を、私たち自
らが、つくりだすことです。いつも改革は混乱の中から生まれます。混乱している
ことを恐れないで、前に進みましょう。

一方こわいのは、こうした混乱に乗じて、「復古主義」も台頭してきているという
ことです。中には「親の威厳論」、さらには、「先祖論」などをもちだして、家庭
教育論を説く人もいます。愉快なのは(失礼!)、封建時代の武士道をもちだ
す人もいます。みなさんも、こうした復古主義には、じゅうぶんお気をつけくださ
い。

********************************

島田市での講演会においでください。詳しくはこのマガジンに末尾に
書いておきました。

********************************
今回も、子育てポイント集(最新)からいくつかを選んでお送りします。
前半は、「依存性」にこだわりました。少し話の内容がカタいですが、
お許しください。後半は、ご家庭でも、そのまま利用していただける
こ内容だと思います。                   はやし浩司
********************************

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(291)

依存性の二つの側面

 依存性には、二つの側面がある。(1)相互依存性と、(2)依存性の伝播(連鎖)である。相互
依存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまた
だれかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるた
めに、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。

 つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいと
いうこと。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子
どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け
継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。

 何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。
 たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べた
い」とは言わない。「おなかがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こ
うした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い
方をする。ある女性(六〇歳)は、いつも自分の息子(三五歳)にこう言っている。「私も歳をとっ
たからねエ〜」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。

 ……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと
言うのを避ける民族だと。しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに
依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それ
が依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。

 で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。一
人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生
活の中でもよく観察される。このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分
に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言
いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。

 こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子
育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょ
うどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に
無頓着になる。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標に
するなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでも
ない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(292)

赤ちゃん言葉

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」
と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その
数は日本語より、はるかに少ない。

 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な
問題が隠されている。

 先日、遊園地へ行ったら、六〇歳くらいの女性が孫(五歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗
り込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の
話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホ
レ、ワー、楽チィーネー」と。

 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をし
ているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子ども
の人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱う
ことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている! それだけその
女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依
存心をもたせていることになる。ある女性(六三歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小四男児)
に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。
それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結局はその子
どもを、一人の人間として認めていない。

 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを
一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はある
が、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影
響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが
同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべ
ると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたっては、その差はもっと開く。これは民族性の違
いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高校生にしても、日
本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ経験のある人な
ら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを子どものときか
ら、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。

 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとお
して、わかってもらえれば幸いである。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(293)

依存心と人格

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの自立は遅れる。そしてその分、人
格の「核」形成が遅れる。よく過保護児は子どもっぽいと言われるが、それはそういう理由によ
る。

 人格というのは、ガケっぷちに立たされるような緊張感があって、はじめて完成する。いわゆ
る温室のようなぬるま湯につかっていては、育たない。そういう意味では、依存心を助長するよ
うな甘い環境は、人格形成の大敵と考えてよい。

 で、その人格。わかりやすく言えば、「つかみどころ」をいう。「この子どもはこういう子どもだ」
という、「輪郭」と言ってもよい。よきにつけ、悪しきにつけ、人格の完成している子どもは、それ
がはっきりしている。そうでない子どもは、どこかネチネチとし、つかみどころがない。「この子
どもは何を考えているのかわからない」といった感じの子どもになる。そのため教える側からす
ると、一見おとなしく従順で教えやすくみえるが、実際には教えにくい。たとえば学習用のプリン
トを渡したとする。そのとき輪郭のはっきりしている子どもは、「もうやりたくない。今日は疲れ
た」などと言う。そう言いながら、自分の意思を相手に明確に伝えようとする。しかし輪郭のはっ
きりしない子どもは、黙ってそれに従ったりする。従いながら、どこかで心をゆがめる。それが
教育をむずかしくする。

 が、問題は、子どもというより、親にある。設計図の違いといえばそれまでだが、依存心が強
く、従順で服従的な子どもを「いい子」と考える親は多い。つい先日も、私の教室をのぞき、「こ
んなヒドイ教室とは思いませんでした」と言った母親がいた。見るとその母親がつれてきた子ど
も(小二男児)は、まるでハキがなく、見るからに精神そのものが萎縮しているといったふうだっ
た。表情も乏しく、皆がどっと笑うようなときでも、笑うことすらできなかった。そういう子どもがよ
い子と信じている母親からみると、ワーワーと自己主張し、言いたいことを言っている子ども
は、「ヒドイ」ということになる。私は思わず、「あなたの子育て観はまちがっている」と言いかけ
たが、やめた。親は、結局は自分で失敗してみるまで、それを失敗とは気づかない。それまで
は私のような立場の人間がいくら指導しても、ムダ。しかも私の生徒ならまだしも、見学に来た
だけだ。私にはそれ以上の責任はない。

 総じて言えば、日本人は自分の子どもに手をかけすぎ。そうした日本人独特の子育て法が、
日本人の国民性にまで影響を与えている。が、それだけではない。日本人の考え方そのもの
にも影響を与えている。その一つが、日本人の「依存心」ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(294)

心の風邪……いかにして「無」になるか

 夢や期待がある間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたと
きはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になっ
たときから、子どもは立ちなおり始める。親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思ってい
る間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。

 ある高校生(高二女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくら
い、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときか
ら、高校には通っていなかった。こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の
存在を感じさせないほどまで、親が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だ
から、勝手にしなさい。そのかわり私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という
親の姿勢が伝わったとき、子どもの心はゆるむ。こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が
軽かった」という状態を繰りかえしながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、
あとは何をしても裏目、裏目に出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にす
る。ポイントはいくつかある。

(1)子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきた
ようなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだ
ろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよ
い。子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、
心と体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。

(2)症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾
向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。
月単位ではない。もちろん週単位でもない。親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれな
いが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということ
は、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単
位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと。

(3)必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問
題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」にな
る。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけ
で、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的
な対処法ということになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(295)

自分を知る

 教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。た
とえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。
「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の
過去を知ることがある。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。
私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が
汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山
荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。

 私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけて
しまうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書き
をして、その女の子を泣かせてしまったことがある。その女の子にフラれる前に、私のほうが先
手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きた
かったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだった
ようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。

 が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問
題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に
気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。このタイプ
の親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」
に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけ
ることができない。

 「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされて
しまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずる
など。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。
それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」
に出会うことができるかもしれない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(296)

親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば
園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。
そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとした
ら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそうい
う話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそうい
うばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。一つの基準として、あなたの子ども
が、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなたの子ども
は園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもと
にして、どの子どもを招待するかどうかを決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも
多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮
だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということが
わかった(小学生三〜五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、
だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」
という答がかえってきた。親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもということに
なる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。やさしい
子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私は
こう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(297)

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王
の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やは
りその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるた
めに長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉
を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、
世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換
えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を
基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分
の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなく
ても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事
休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければなら
ない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外
側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければ
ならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいてい
はグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらえるのは、
それなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分で
なくなってしまう。が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。私が知っている
人の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった
人はいくらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはな
りたくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということに
なる。もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなけれ
ばならない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを
小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが
私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロ
ー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすよう
にしている。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(298)

親は外に大きく

 生きザマにも二種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に
変えてもよい。前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考
ということになる。たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、
過去の栄光にしがみつくようになる。たとえば退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだ
わるのがそれ。退職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそ
んなことを気にしていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、
「自分は大切にされるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自
分の家柄にこだわる人も同じように考えてよい。

 実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人
もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きにな
ったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。
一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続く
と、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますま
すにっちもさっちもいかなくなってしまう。

 こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大
きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。大きくなる方法はいくらでもある。仕
事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくっ
て、身近なささいな敵は相手にしないようにする。私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に
本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわかったが、しかしそれも終わってみると、いつ
の間にか、私はこわいもの知らずなっていた。あるいは私は三〇歳くらいのときから、あちこち
で講演活動をしている。最初のころは、より大きな講演会場になればなるほど、神経をすり減
らしたものだ。数日前から不眠症になってしまったこともある。しかしそれを繰り返すうちに、や
はりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、そういう方法で大きくすることができる。

 自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どもの
ためでもあるが、結局は自分のためでもある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(299)

互いに別世界

 世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。し
かしその世界の中にいる人には、それがわからない。それはいわば信仰の世界のようなも
の。その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界
そのものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。が、そ
の信仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信
仰にも、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、
現に今、この日本だけでも約二〇万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそ
が絶対正しい」と言って、しのぎを削っている。二〇万という数は全国の美容院の数とほぼ同
じ。

 子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起
こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を
必死になって隠そうとする。自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。
しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるよ
うになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたの
だろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その
外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。

 ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、
勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。「勇気を出して」というのは、実際、一つの信
仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはも
のすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。たとえば
たいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展
開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だから
よけいに、勇気がいる。

 同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混
乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少
なくない。だから勇気がいる。しかし……。

 仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正
しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで
眠らせてはいけない。子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静
な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子
どもを見失うことになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(300)

バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフ
リをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強した
ほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親に
なればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味
が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ
一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。映画『フォレストガンプ』
の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃ
ないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたこ
とにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないと
きがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふ
れるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手
にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。が、バカな親というのは、それが
ちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つま
り「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりする
と、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子ども
が言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そうい
うこともふまえた上で考える。私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。し
かしそういうときは、こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイ
だ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大
切である。
  
(現在310〜以後を執筆しています。近く、サイトのほうで掲載します。)
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ご案内

●「女性セブン」(小学館)(今週号)にはやし浩司のコメントが載っています。どうぞ! 女房も
「女性セブン」を読むのは何年ぶりかしらと笑っています。私は若いころ、「週刊女性」のライタ
ーをアルバイトでしていました。久しぶりに女性週刊誌をのぞいて、なつかしかったです。(5月
9・16日号、現在発売中)86−87P

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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「親バカたちの子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園

ほかに南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
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件名:子育て情報(はやし浩司)5-4

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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    子育て最前線の育児論
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02−5−4号(042)
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      by はやし浩司(ひろし)
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ければ、それについて書きますので、何かテーマをおもちの方がいらっしゃれば
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島田市での講演会においでください。詳しくはこのマガジンに末尾に
書いておきます。

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今回も、子育てポイント集(最新)からいくつかを選んでお送りします。
現在、320〜前後を書いています。最近書いたのは、サイトの
「ワンポイント」のほうで、紹介しています。どうかおいでください。  はやし浩司
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(301)

会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、母、会
話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、再び私、子ど
もに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽しかったわね。そうで
しょ。だったら、そう言いなさい」と。

(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ〜、ママとイッチョで、
楽チィワネエ〜」と。

(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何になりたい
のかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ〜と、ママのそばにいるわ
よねエ。どこへも行かないわよね〜」と。

(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人だ
ったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセントが身につく
のではと、心配です」と。

(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私はあな
たの親よ!」と。
(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがねエ〜。
こんなことでだいじょうぶですかネ〜?」と。……などなど。

 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに書いた
ような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだし、私はもとも
とこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることは確かだ。(だから電車
などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるようにしている。ホント!) 

 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をしたい
の?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわかる。どちら
がどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発展途上国的であ
る。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言ってもよい。家庭教育の充実
が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、よくわかっていないのでは……? 旧態
依然の親子観が崩壊し、今日本は、新しい家庭教育を求めて模索し始めている段階と言って
もよい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(302)

家庭教育の過渡期

 家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていない。三
〇年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が低下したの
は、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家庭教育そのもの
が混乱しているためと考えるほうが正しい。

 昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういうのを
「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同時に、家庭の
中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実のところ親の権威
の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育観を組み立てられな
かった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでもその症状のひとつにすぎ
ない。

そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひとつ
は、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父親は権威
だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。もうひとつは、「新し
い家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しいとか正しくないとかいう前に、
こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象である。たとえば一九七〇年前後のアメ
リカ。

 戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカンドリーム
の時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経験する。そのこ
ろアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリカ社会を混乱させた。
旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本にたいへんよく似ている。
たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも大きな
テーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちのエネルギー
は、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげしくなった。わかり
やすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、新しい価値観をつく
りだすことができなかった。まただれもそれを提示することができなかった。ここに「混乱」の最
大の原因がある。

 今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあるとみて
よい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリカの親子は、
日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さきにも書いたように、
こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち始めているということ。中
には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私たちが
めざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な価値観
ではない。前に進んでこそ、道は開ける。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(303)

数は生活力

 計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」は、
学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということになると、疑わし
い。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。

 O君(小三)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知らない
が、中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり方で解い
てしまった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかったので、定価の2
割引で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」という問題など。それ
こそあっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のある子どもという。

 が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミカンの
入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」という問題で
も、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、少し内容を変える
と、もう解けなくなってしまう。「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのもの
が弱い。「そんな問題、どうでもいい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げ
てしまう。そんなわけで私は、いつしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」
「取った、取られた」「得をした、損をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて
「数の力」を伸ばすことができる、と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計算力をみ
がいても、また教科書を学んでも、ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほとんどならない。

 ……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在の教
育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしすぎている。
子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、一次方程式だ、二次法手式だ」とやりだすから、話
がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、子どもに勉強を押しつけ
る……。

ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表している。
小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超え
た(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇
〇年度には三五%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこの
ままでいい」とは、だれも考えていない。

むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力を考えた
らよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(308)

意識の違い

 意識は脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、仮に自分の意識がズレていても、それに
気づくことは、まずない。とくに教育の世界では、そうだ。

 今から三〇年前、私はオーストラリアの大学で学んでいたときのことだが、向こうの教授たち
は平気で机の上に座っていた。机に足をかけて座っている教授すらいた。今でこそ笑い話だ
が、こうした光景は当時の日本の常識では考えられないことだった。さらにその少し前、東京オ
リンピックがあった(一九六四年)。その入場式のときのこと。日本の選手団は一糸乱れぬ入
場行進をして、高い評価(?)を受けた。当時ですら、アメリカの選手団はバラバラだった。私
はそのとき高校生だったが、「アメリカの選手たちはだらしない」と思った。しかし……。

 一方、一〇年ほど前だが、こんなこともあった。アメリカ人の女性が私に、「ヒロシ、不気味だ
った」と言って、こんな話をしてくれた。何でもその女性が海で泳いでいたときのこと。どこかの
女子高校生の一団が、海水浴にきたというのだ。「どうして?」と聞くと、その女性は、「みんな、
ブルーの水着を着ていた!」と。つまりその女性は、日本の高校生たちがみな、おそろいのブ
ルーの水着を着ていたことが、不気味だったというのだ。が、私には、その女性の意識が理解
できなかった。「日本ではあたりまえのことだ」とさえ思った。思って、「では、アメリカではどうな
のか」と聞くと、こう言った。「アメリカでは、みんなバラバラの水着を着ている」と。

 このアメリカ人の女性の意識については、それからしばらくしてから、理解できるようになっ
た。ある日のこと、当時のマスコミをにぎわしていたO教団という宗教団体があった。その教団
の信者たちが、どこかふつうでない白い衣装を身にまとい、頭にこれまたふつうでない装置
(?)をつけて、道を歩いていた。その様子がテレビで報道されたときのこと。そのときだ。私に
はそれがぞっとするほど不気味に見えた。と、同時に、「ああ、あのときあのアメリカ人の女性
が感じた不気味さというのは、これだったのだ」と思った。

 意識というのは、そういうものだ。人にはそれぞれに意識があり、その意識を基準にしてもの
を考える。しかしその意識というのは、決して絶対的なものではない。その人の意識というの
は、常に変わるものであり、またそういう前提で自分の意識をとらえる。今、おかしいと思って
いることでも、意識が変わると、おかしくなくなる。反対に、今、おかしくないことでも、意識が変
わると、おかしくなる。たとえば今、北朝鮮の人たちが、一糸乱れぬマスゲームをしているのを
見たりすると、それを美しいと思う前に、心のどこかで違和感を覚えてしまう。が、もし三〇年前
の私なら、それを美しいと思うかもしれないのだが……、などなど。

 進歩するということは、いつも自分の意識を疑ってみることではないか。言いかえると、自分
の意識を疑わない人には、進歩はない。とくに教育の世界では、そうだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(309)

固い粘土は伸びない

 伸びる子どもと伸び悩む子どもの違いといえば、「頭のやわらかさ」。頭のやわらかい子ども
は伸びる。そうでない子どもは伸び悩む。たとえば頭のやわらかい子どもは、多芸多才。趣味
も特技も幅広く、そのつどそれぞれの分野で、自分を楽しませることができる。子どもにいたず
らはつきものだが、そのいたずらも、どこかほのぼのとした子どもらしさを覚えるものが多い。
食パンをくりぬいて、トンネルごっこ。スリッパをつなげて、電車ごっこなど。

 一方伸び悩む子どもは、融通がきかない。ある子どもとこんな会話をしたことがある。子、「ま
ちがえたところはどうするのですか?」、私、「なおせばいい」、子「消しゴムで消すのですか」、
私「そうだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」と。実際、小学三年生の子どもとした会
話である。

 簡単な見分け方としては、ひとりで遊ばせてみるとよい。頭のやわらかい子どもは、身の回り
からつぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。そうでない子どもは、「退屈ウ〜」と
か、「もうおうちに帰ろウ〜」とか言ったりする。遊びそのものが限定されている。また同じ遊び
でも、知恵の発達が遅れ気味の子どもは、とんでもないいたずらをすることが多い。先生のコ
ップに殺虫剤を入れた中学生や、うとうとと居眠りしている先生の顔の下に、シャープペンシル
を突きたてた中学生などがいた。その先生はそのため、あやうく失明するところだった。幼児で
も、コンセントに粘土をつめたり、溶かした絵の具をほかの子どもの頭にかけたりする子ども
がいる。常識によるブレーキが働かないという意味で、心配な子どもということになる。

 頭をやわらかくするためには、意外性を大切にする。子どもの側からみて、「あれっ」と思うよ
うな環境をいつも用意する。私も最近、こんな経験をしたことがある。オーストラリア人の夫婦
を、ホームステイさせたときのこと。彼らは朝食に、白いご飯にチョコレートをかけて食べてい
た。それを見たとき、私の頭の中で「知恵の火花」がバチバチと飛ぶのを感じた。それがここで
いう意外性ということになる。言いかえると、単調で変化のない生活は、子どもの知能の大敵と
考える。生活の中に、いつも新しい刺激を用意するのは、子どもを伸ばす秘訣であると同時
に、親の大切な役目ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(313)

思考回路

 東京へ行くことになった。そこで私がまずしたことは、JRの浜松駅に電話をして、発車時刻を
調べること。が、なかなか電話はつながらない。が、そのとき気がついた。今では電話などしな
くても、インターネットを使えば、発車時刻など即座にわかる。思考回路というのはそういうもの
で、一度、できると、それを改めるのは容易ではない。私は昔から、電車の発車時刻は、電話
をして確かめていた。それが今になっても、つづいている?

 実のところ、思考回路には、便利な面もある。人間の行動をパターン化することにより、行動
そのものをスムーズにする。たとえばテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を手にするとき、右
手でとろうか、左手でとろうかなどと考えてからとる人は、いない。自然に右手が出て、そしてい
つものように茶碗をもちあげる。しかしその思考回路にハマりすぎると、それ以外の考え方が
できなくなってしまう。そういうとき思考回路は、かえって思考のじゃまになる。

 が、思考回路があることが問題ではない。問題は、その思考回路が、柔軟なものかどうかと
いうこと。たとえば子どもたちの行動パターンを観察すると、おもしろい連続性を発見すること
がある。たとえばポケモンカードがある。年齢的には小学校の低学年児に人気がある。それが
中学年になると遊戯王になり、高学年になると、マジックザギャザリング(通称「マジギャザ」)に
なる。より複雑なゲームになるというよりは、子どもたち自身が、ひとつの思考回路にハマって
いるといったほうが正しい。友人関係にせよ、遊び仲間にせよ、さらにはごく日常的な会話にせ
よ、全体としてひとつの思考回路となっているから、途中で、それを変えるのは容易なことでは
ない。仮にカードゲームから離れて、趣味が読書に向かうとしたら、それまでの環境すべてを
変えなければならない。

 ……と書いて、実はこれはおとなの問題でもある。思考回路というのは、歳をとればとるほど
柔軟性をなくす。冒頭にあげた例がそのひとつ。そこで問題は、いかにして思考回路の柔軟性
を確保するかということ。いろいろな刺激を与えればよいことは、私にもわかるが、体そのもの
が新しい刺激を受けつけないということもある。日常的な行動そのものがパターン化されてい
る現状で、どうすれば新しい刺激を自分に与えることができるのか。もっとも私のばあいは、た
とえば旅行で、たとえば読書でと、そういったところで刺激を受けるようにしている。が、本当の
問題は、このことでもない。本当の問題は、いかにすれば固定した思考回路をつくらないです
むか、だ。あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じこ
とをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。自分の中にひとつの思考回路
を感じたら、その思考回路そのものと戦う。そしてそれをつくらないようにする。そういうのを自
由といい、進歩という。行動面はともかくも、思想面では、思考回路は、思考そのものの障害と
なることもある。そういう視点で自分の思考回路をながめる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(314)

あなたは裁判官

(ケース)Aさん(四〇歳女性)は、Bさん(四五歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、
こう言った。AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさ
い」と誘ったという。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫
がBさんに向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。それに
対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃない!」と
反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直
な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けと
めた。一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があ
いさつ言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。
相手が断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。そのとき大切なことは、誘われたほうは、あ
いまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り方をすると、かえって誘ったほうが困ってしま
う。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」という言葉がある。昼食は簡単にすますという習
慣である。恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出
してもらえるなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件に
なった?

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では
何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。私な
らまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。あるいは
どうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をしろ」は、な
い。つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。
Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受
け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけ
ればならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!

 私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感
じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(315)

心をゆがめる子ども

 これはあくまでも教える側からの観察だが、心をゆがめ始める子どもには、いくつかの特徴
がある。その中でも最大の特徴は、(1)心がつかめなくなるということ。もう少し具体的には、
何を考えているかわからない子どもといった感じになる。よい子ぶったり、見た目にはよくでき
た子といった印象を与えることが多い。静かで従順、何を言いつけても、それに黙って従ったり
する。この段階で、多くの先生は、「いい子」というレッテルを張ってしまい、子どものもつ問題を
見落としてしまう。そしてある日突然、それが大きな問題になり、「えっ!」と驚く……。不登校
がその一例。あとになって「そう言えば……」と思い当たることもあるにはあるが、それまでは
たいていの教師はその前兆にすら気づかない。

 つぎに(2)「すなおさ」が消える。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときには、二つ
の意味がある。一つは、心の状態と表情が一致していること。悲しいときには悲しそうな顔をす
る。うれしいときにはうれしそうな顔をする、など。が、それが一致しなくなると、いわゆる心と表
情の「遊離」が始まる。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコと笑ったりするなど。

 もう一つは、「心のゆがみ」がないこと。いじける、ひがむ、つっぱる、ひねくれるなどの心の
ゆがみがない子どもを、すなおな子どもという。心がいつもオープンになっていて、やさしくして
あげたり、親切にしてあげると、それがそのままスーッと子どもの心の中にしみこんできくのが
わかる。が、心がゆがんでくると、どこかでそのやさしさや親切がねじまげられてしまう。私「こ
のお菓子、食べる?」、子、「どうせ宿題をさせたいのでしょう」と。

 家庭でも、こうした症状が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方を
かなり真剣に反省する。そしてここが重要だが、子どもの中に心のゆがみを感じたら、「今の
状態をより悪くしないこと」だけを考え、一年単位でその推移を見守ること。あせればあせるほ
ど、逆効果で、一度(何かをする)→(ますます症状が悪化する)の悪循環に入ると、あとは底
無しのドロ沼に落ちてしまう。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



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ご案内

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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「親バカたちの子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園

ほかに南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
       ̄ ̄  ̄ ̄


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件名:子育て情報(はやし浩司)5-7

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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「はやし浩司」のサイトが、この5月5日で、満1歳を迎えました。当初は見よう見まね
ではじめたサイトですが、こうして満1歳になったということは、皆さんのご支持があ
ったからではないかと思います。……どこか、政治家のするようなあいさつになってし
まいましたが、率直に、……皆さん、ありがとうございます。

またデシタルマガジンも、このところ読者の方がふえて、やる気が出てきました。これ
からもより良質な「育児アドバイス」を掲載していきますので、よろしくお願いします。も
しお知りあいの方で、興味をもってくださりそうな方がいらっしゃれば、どうかこのマガ
ジンを紹介していただけませんか。みなさんと一緒に、日本のこれからの子育てを考え
ていきたいと思っています。

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島田市での講演会においでください。詳しくはこのマガジンに末尾に
書いておきます。

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●現在、「金沢学生新聞」で、「世にも不思議な留学記」を連載させていただいて
います。この5月号で、連載も11回目を迎えました。で、一応15回で終了する
ことになっていたのですが、もうしばらく続けさせていただけるということで、追加
原稿を書いています。一部をここに掲載しますので、よろしかったら、読み物として
お楽しみください。

●「ファミリス」(静岡県出文協会発行)で発表した原稿の一部をここに転載しておきます。

●「子育てワンポイント」の新作の一部を掲載します。

さらに読んでくださる方へ

   「世にも不思議な留学記」http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/より
   (トップページ)→(総合目次)→(私の青春時代へ)とお進みください。

   「ファミリス」のバックナバーは、同じく(総合目次)→(子どもが変わるとき)へ

   「子育てワンポイント」は、(トップページ)より、「ワンポイント」へ、それぞれ
   お進みください。
  
   はやし浩司
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「世にも不思議な留学記」より

最高の教育とは(生きる誇り)

●私はとんでもない世界に!
 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。現在の皇后陛下の父君。こ
のことは前にも書いた。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏
だった。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。私は東京商工会議所の中にあった、日豪経
済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委員会の中で、人物交流委員会の委員長をして
いた。その東京商工会議所へ遊びに行くたびに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってく
れた。そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞い
たことがある。正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の
『浩(ひろ)』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだ
よ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。このことも前に書いたことだが、
私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のインターナショナルハウスは、各国の王族
や皇族の子弟ばかり。私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマ
レーシアの大蔵大臣の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政
治家がやってきて、夕食を共にした。元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダ
ム・ガンジーも来た。ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿
泊することもあった。東京大学から来ていた田丸謙二先生(二〇〇〇年度日本学士院賞受
賞)もいたし、井口領事が、よど号ハイジャック事件(七〇年三月)で北朝鮮へ連れていかれた
山村運輸政務次官を連れてきたこともある。山村氏は事件のあと、休暇をとって、メルボルン
へ来ていた。

が、「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしているこ
とすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思っ
たことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一度
だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

●落ちていた五〇セント硬貨 
ハウスの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあった。
ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。だれかが落と
したものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。当時の五〇セントは、今の貨幣価値で
八〇〇円くらいか。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しかしそのコインは、次の日も、
また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこにあった。私はそのコインがそこにある
のを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「最高の教育を受
けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松
市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いて
いるという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも、私を支
え、救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。私は、情緒もそれほど安定していない。精
神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさな
いですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげだった。私はあの五〇セント硬貨を思い出すこ
とで、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。



英語と日本語(言葉のごまかし)

●何という愛国心!
 オーストラリアでは、「安保条約」は、ズバリ、「ミリタリー・ツリーティ(軍事同盟)」と訳されてい
た。「自衛隊」は、「アーミィ(軍隊)」と訳されていた。そこで私がある日、「日本の軍隊は軍隊で
はない。セルフ・デフェンス・アーミィ(自己防衛隊)だ」と言ったら、まわりにいた学生たちはけ
げんそうな顔をして、こう言った。「何、それ?」と。

 英語と日本語は一致しない。あるの日こと、講義が終わってたまり場でお茶を飲んでいたとき
のこと。私はふとこう聞いてみた。「もしインドネシア軍がオーストラリアへ攻めてきたら、君たち
はこのカントリーを守るために戦うか」と。オーストラリアではインドネシアが仮想敵国ということ
になっていた。パプアニューギニアの領有権をめぐって、互いに対立していた。が、そこにいた
五、六人の学生全員が、「守らない」と答えた。「父の故郷のスコットランドへ逃げる」と言った
のもいた。何という愛国心! あきれていると一人の学生がこう言った。「ヒロシ、オーストラリ
ア人が手をつないで一列に並んでもすき間ができるんだよ。どうやってこの広いカントリーを守
ることができるのか」と。

 英語で「カントリー」というときは、「大地」という土地をさす。が、日本ではカントリーを「国」と
訳す。だからアメリカ人たちが、カントリーソングを大声で歌ったりすると、日本人は「アメリカ人
も、結構愛国的ではないか」などと感心したりする。あるいは日本人の中には、「愛国心は、世
界の常識」などと言う人がいる。しかし「愛国心」を意味する「ペイトリアチズム」という英語の単
語にしても、もともとはラテン語の「パトリオータ」、つまり「父なる大地を愛する人」に由来する。
日本語では「愛国心」に「国」という単語を入れるが、彼らは愛国心といっても、そもそも体制を
意味する「国」など、考えていない。同じ愛国心といっても、国によってそのとらえ方はまるで違
う。そこで私は言葉を変えた。変えて、「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどう
する」と聞いたら、みな、いっせいに血相を変えて、こう叫んだ。「そのときはヒロシ、命がけで
戦う!」と。

●言葉でごまかす日本政府
 一方、こんなこともあった。大学で使うテキストの中に、「日本は官僚主義国家」と書いてある
のがあった。「君主(ローヤル)官僚主義国家」と書いてあるのもあった。これには私が反発し
た。「日本は民主主義国家で、官僚主義国家ではない」と。しかし教官以下、だれも私が言うこ
とに耳を貸そうとしなかった。で、このことはしばらくしてからまた別のところで話題になった。ス
ミス氏という研究者の家で食事の世話になっていたときのこと。スミス氏はこう言った。「あの北
朝鮮ですら、正式の名称は、朝鮮民主主義人民共和国というではないか。ヒロシは、あの国が
本当に民主主義国家だと思うか」と。東大からきていた松尾教授(刑法)も横にいて、「そうで
す、そうです」と笑っていたが、私はもうそれには反論することができなかった。

 ……で、それから三二年。ふりかえってみると、日本はやはり官僚主義国家だった。今もそう
だ。日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日本人だけではないのか。事実、私がオ
ーストラリアでかいま見た彼らの民主主義は、日本のそれとはまったく異質のものであった。そ
れに今でも言葉をごまかすのが、政治手法のひとつになっている。「銀行救済」を「預金者保
護」と言いかえてみたり、「官僚政治の是正」を「構造改革」と言いかえてみたりしている。この
手法は、軍事同盟を安保条約と言いかえたり、軍隊を自衛隊と言いかえた手法と、どこも違わ
ない。これはあくまでも余談だが……。



ルイス・アレキサンドリア(金のかんざし)

●ハウスでのパーティ
 話が前後するが、私がハウスへ入ったちょうど、その夜のこと。ハウスでダンスパーティがあ
った。私にすれば、何がなんだか、まださっぱりわからないというような状態だった。私はミスイ
ンターナショナルの一行だと聞いていたが、ミスユニバースだったかもしれない。一九七〇年の
はじめ、アルゼンチンのブエノスアイレスであったコンテストだ。その一行が、ハウスへやってき
て、ダンスパーティを開いた。が、その夜にルイスに会ったわけではない。その翌日の昼、イン
ドネシアの西ジャワの王子が、彼女を私に紹介してくれた。

 私はもともと、もてるタイプの男ではない。右から見ても、左から見ても、おもしろくない顔をし
ている。背も低い。メガネもかけている。その上、まだ言葉もじゅうぶん、話せなかった。その私
がルイスと、それから一週間の間、毎日、デートを繰り返した。今から思うと不思議な気がす
る。現実にあったことというよりは、夢の中のできごとという感じだ。いつも誰かが車で私たちを
あちこちへ案内してくれていた。だれの車だったか、どうしても思い出せない。王子の車だった
かもしれない。運転してくれていたのは、多分、インドネシアの大使館の館員だったと思う。私
たちはその車で、インドネシアレストランへ行ったり、美術館を回ったり、スライドパーティという
のにも、行ったりした。スライドパーティというのは、誰かが外国を旅行した際に撮ってきたスラ
イドを、パーティ形式で見せてくれるというものだった。

●ルイス・アレキサンドリア
 ルイスは背が高く、美しい人だった。ただ当時の私は、そういう女性の美しさを理解するだけ
の「力」がまだなかった。金沢の下宿を飛び出して、まだ一週間もたっていなかった。写真です
ら、そういう女性を見たことがない。だから私はルイスに圧倒されるまま、つまり先導役をまか
せたまま、デートを重ねた。私にしてみれば、観光気分だった。しかもルイスが私に親切だった
のは、それは彼女のボランティア精神によるものだと思っていた。が、一週間たち別れるとき、
ルイスは、私の目の前で涙をスーッとこぼした。そしてそのとき、ルイスは、私に一本の金色の
かんざしをくれた。コンテストでもらった賞品だと、ルイスは言った。私はそれに戸惑ったが、そ
れほど深く考えなかった。少なくとも私は笑って、ルイスと別れた。

 ルイスはインドネシアへ帰ってから、数回手紙をくれたが、私は返事は書かなかった。毎日が
嵐のように過ぎていく中で、やがて私はルイスのことを忘れた。が、ある日。半年ぐいらいたっ
てからのことだが、自分の部屋で何もすることもなくぼんやりしていると、引き出しの中に、その
かんざしがあるのがわかった。私はそのかんざしを手にとると、どういうわけだか、そのかんざ
しをカッターで削りはじめた。キラキラと金色に輝くかんざしだった。が、いくら削っても、その金
色の輝きは消えなかった。私はメッキだとばかり思っていた。私はそれを知ったとき、何とも申
し訳ない気持ちに襲われた。私はルイスの心を、もてあそんだのかもしれない。当時の私はま
だ右も左もわからないような状態だった。静かに女性の心を思いやるような余裕は、どこにも
なかった。そんな思いが、心をふさいだ。

 ルイス・アレキサンドリア。これは彼女の実名だ。彼女は当時、ジャカルタの旅行代理店に勤
めていた。もしルイスの消息を知っている人がいたら、教えてほしい。あるいはもしルイスを知
っている人がいたら、「あのときのヒロシは、今、浜松に住んでいる」と伝えてほしい。今度は、
私が、日本料理をごちそうする番だ。



非日常的な日常(やがて矛盾から違和感を……)
 
●ケタはずれの金持ちたち
 王族や皇族の子弟はもちろんのこと、公費留学生は別として、私費で留学してきたような連
中は、その国でもケタ違いの金持ちばかりだった。アルジェリアのレミ(実名)、ベネズエラのリ
カルド(実名)などは、ともにその国の石油王の息子だった。フィージーから来ていたペイテル
(実名)もそうだった。しかしその中でも異色中の異色は、香港から来ていたC君という学生だ
った。実名は書けない。書けないが、わかりやすく言えば、香港マフィアの大親分の息子という
ことだった。彼の兄ですら、香港の芸能界はもちろんのこと、映画、演劇などの興行を一人で
牛耳っていた。ある日C君の部屋に行くと、彼の兄とピンキーとキラーズ(当時の日本を代表す
るポップシンガー)が、仲よく並んで立っている写真をがあった。ピンキーとキラーズが、香港で
公演したときとった写真、ということだった。いつかC君が「シドニーにも、おやじの地下組織が
ある」と話してくれたのを覚えている。

●インドネシア海軍の前で閲兵
 こういう世界だから、日常の会話も、きわめて非日常的だった。夏休みに日本でスキーをして
きたという学生がいた。話を聞くと、こう言った。「ヒロシ、ユーイチローを知っているか」と。私が
「ユー……」と口ごもっていると、「ユーイチロー・ミウラ(三浦雄一郎、当時の日本を代表するス
キー選手)だ。ぼくはユーイチローにコーチをしてもらった。君はユーイチローを知っている
か?」と。しかも「日本の大使館で大使をしている叔父と、一緒に行ってきた」などと言う。そうい
う世界には、そういう世界の人どうしのつながりがある。そしてそういうつながりが、無数にから
んで、独特の特権階級をつくる。それは狂おしいほどに甘美な世界だ。一度、ある国の女王
が、ハウスへやってきたことがある。息子の部屋へ、お忍びで、である。しかしその美しさは、
私の度肝を抜くものだった。私は紹介されたものの、言葉を失ってしまった。「これが同じ人間
か……」と。あるいはインドネシア海軍がメルボルン港へやってきたときのこと。将校以下、数
一〇名が、わざわざバスに乗って、西ジャワの王子のところへ挨拶にやってきた。たまたま休
暇中で、ハウスにはほとんど学生がいなかったこともある。私はその友人と並んで、最敬礼を
する将校の前を並んで歩かされた、などなど。

●やがて離反
 が、私の心はやがて別の方へ向き始めた。もう少しわかりやすく言えば、そういう世界を知れ
ば知るほど、それに違和感を覚えるようになった。私はどこまでいっても、ただの学生。あるい
はそれ以下の自転車屋の息子だった。一方、彼らはいつもスリーピースのスーツで身を包み、
そのうちのまた何人かは運転手つきの車をもっていた。そういう連中と張りあっても、勝ち目は
ない。仮に私が生涯懸命に働いても、彼らの一日分の生活費も稼げないだろう。そう感じたと
き、それは「矛盾」となって私の心をふさいだ。最近になって、無頓着な人は、「そういう王子や
皇太子と、もっと親しくなっておけばよかったですね」などと言う。「旅行したら、王宮に泊めても
らいなさい」と言う人もいる。今でも手紙を書けば、返事ぐらいは来るかもしれない。しかし私は
いやだ。そういうことをしてペコペコすること自体、私にとっては敗北を認めるようなものだ。
 やがて私は彼らとは一線を引くようになった。彼らもまた、私がただの商人の息子とわかる
と、一線を引くようになった。同じ留学生でありながら、彼らは彼らにふさわしい連中と、そして
私は私にふさわしい連中と、それぞれグループを作るようになった。そしてそれぞれのグルー
プは、どこか互いに遠慮がちになり、やがて疎遠になっていった。



********************************

「ファミリス」3月号、4月号より

(7)子どもがドラ息子になるとき

●ドラ息子・ドラ娘

 教育の世界には、誤解がまん延している。その一つが「忍耐力」。ある日一人の母親が私の
ところにやってきて、こう言った。「うちの子はサッカーだと、一日中している。忍耐力はあるは
ずだ。そういう力を、勉強のほうに向けさせたいが、どうしたらいいか」と。しかしそういう力は、
忍耐力とは言わない。その子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって忍耐力とは、い
やなことをする力のことをいう。試しにあなたの子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミ
を始末して!」と。風呂場の排水口にたまった、毛玉でもよい。そのときあなたの子どもが、「ハ
ーイ」と言って、それを手で始末できれば、よし。あなたの子どもは忍耐力のある子どもというこ
とになる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。理由は簡単だ。もともと学習には、ある
程度の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だから、である。

 子どもは使えば使うほど、すばらしい子になる。忍耐力もそこから生まれる。が、今の子ども
たちは、家の手伝いをしない。……というより、させることが、ない。ある母親はこう言った。「掃
除は掃除機で、ものの一〇分ですんでしまう。洗濯も全自動、料理も電子レンジ、食器も食器
洗い機に任せている。何をさせるのですか」と。「料理のときキッチンの前でウロウロされると、
かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と言った母親すらいた。しかしこういうス
キをねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。その症状は、(1)自己中心的(自分勝手でわ
がまま)、(2)退行的(目標や規則が守れない。生活習慣がだらしなくなり、無礼、無作法。依
存心が強い割に、無責任になる)、(3)ものの考え方が消費的(一時的な楽しみに走りやすい)
になり、(4)バランス感覚(ものごとを静かに考えて、正しく判断する感覚)が消える、など。子
どもは自分で苦労をして、はじめて他人の苦労が理解できるようになる。これも試しに、子ども
の前で重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのとき「ママ、手伝ってあげる」と走り寄ってくれ
ば、よし。しかしそういうあなたの姿を、見て見ぬフリをしたり、ゲームに夢中になっているよう
であれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘と見てよい。今は、体も小さく、あなたの
支配下で、おとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。

●バランス感覚を大切に
 子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)生活感のある生活に心
がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせ
る。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意
識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。(3)忍耐力をつけさせる
ため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを守らせる。(5)不自由であることが、生活の
基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、(6)バランスのある生活に心がける。こ
こでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさとやさしさが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもは、先に書いたバランス感覚をなくす。

 もし今、あなたが「子どもに楽をさせるのが、親の愛」などと誤解しているようなら、今すぐ、そ
ういうまちがった子育て観は改めたほうがよい。子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、
将来苦労するのは、結局は子ども自身ということを忘れてはならない。



(8)家族の心が犠牲になるとき

●子どもの心を忘れる親
 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち
は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな
相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい
るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義
 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、
家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され
る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。たとえば国立社会保
障人口問題研究所の調査(九八年)によれば、今でも「家事をまったく手伝わない夫」が、53
〜61%もいるそうだ。仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の学
歴社会があり、それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、
何よりも恐れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえる
と、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族の心を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義
 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの冒険を通して、ドロシーは、幸福というの
は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ
のまま欧米人の幸福観の基本になっている。

 少し前メル・ギブソンが主演する「パトリオット」という映画を見たが、あの中でも、深い家族愛
がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」と
いうのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の言葉に由来す
る。)「国のためには戦わない」と言う欧米人も、「家族のためなら、命がけで戦う」と言う。家族
を守るということには、そういう意味も含まれる。回りまわって、愛国心にもつながる。
 
 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても、「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、4
0%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが4
5%になった。たった一年足らずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人
にとっては革命とも言えるべき大変化である。そこであなたもどうだろう、今日から子どもには
こう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあ
い、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。


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子育てポイント集より

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(316)

心を開かない子ども

 心を開かない子ども……と、書いて、実はあなた自身のこと。あなたはだれかに対して、一人
だけでもよいが、心を開くことができるだろうか。あるいはそういう人がいるだろうか。「心を開
く」ということは、そういう意味でもたいへんむずかしい。実のところ、この私にしても、「この人
だけになら心を開くことができる」と思える人は、ほとんどいない。どうしても自分をさらけ出すこ
とができない。そのためどうしても自分を作ってしまう。

 そこで「本当の自分」とは何かを考えてみる。……この間、一〇数分の時間が過ぎたが、本
当の自分と言われると、そこでまたハタと困ってしまう。本当の私は、小心者で、小ずるく、無
責任で、冷酷で、自分勝手。そういう自分がつぎつぎと浮かんでくる。しかしそういう自分をさら
け出すことはできない。だれかと接するときは、どこかでそういう自分と戦わねばならない。あり
のままの自分をさらけ出したら、相手もびっくりするだろう。

 ここから先はたいへん不謹慎な話になるが、異性と、裸になってセックスをするときは、ひょっ
としたら、心を開いた状態なのかもしれない。肉体や感情や、それに欲望をさらけ出している
と、ついでに心までさらけ出すことになる。もっともその前提として、互いに愛しあっていなけれ
ばならない。自分の欲望を満たすために、心を偽るようでは、心をさらけ出したことにはならな
い。「私はどうなってもいい」という思いの中で、自分をさらけ出してこそはじめて、心を開いたこ
とになる。

 ……と、書いて、子どもの話にもどる。親子だから、互いに心を開きあっているとは限らな
い。親のほうはともかくも、子どものほうが心を閉ざすケースはいくらでもある。「親がこわかっ
た」「親の前にすわると緊張する」「親に会うと疲れる」「実家には帰りたくない」「何か言われる
と、反発してしまう」など。若い母親でも、約三〜四割の人が、そういう悩みをかかえている。子
どもの立場でみて、親にどうしても心を開くことができないというのだ。そこでさらに問題を掘り
さげて、あなたという親と、あなたの子どもの関係はどうかということ。あなたは子どもに心を開
いているだろうか。反対にあなたの子どもはあなたに心を開いているだろうか。こういう質問を
すると、たいていの人は、「うちはだいじょうぶ」と言うが、だいじょうぶでないことは、実はあな
た自身が一番よく知っている。それともあなたは、あなたの親に対して、全幅の心を開いている
と自信をもって言えるだろうか。

 「心を開く」ということは、そんな簡単な問題ではない。またそんなふうに簡単に考えてもらって
は困る。私の経験では、生涯、心を開くことができる相手というのは、ほんの数人ではないかと
思う。あるいはもっと少ない……? こちらが心を開いても、相手が開かないとか、その反対の
こともある。なかなかうまくいかないのが人間関係だが、それはそのまま親子についても言え
る。はたしてあなたは本当にだいじょうぶか?



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(320)

二番目の子は、親と疎遠?

 「三人兄弟の第二子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大学大
学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞〇二年五月)という。

 同大学院認知行動科学研究所が、全国の三人兄弟の大学生男女一二九人に、一か月に何
回、両親に電話するかを聞いたところ、

 長子…… 6・9回
 第二子……4・6回
 末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。男女別に分けても、傾向は同じだった
という。さらにその報告によれば、「出生順位と親子関係について、一九九八年にカナダで行
われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の子どもは両親をあまり親しい人物と考えてい
ないという結果が出ている」という。理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占で
きる期間があり、末子も、その後に弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析して
いる。そして「一方、じゅうぶんに手をかけてもらっていない中間の子どもは、両親への清密度
を減らす」とも。

 ……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査によれ
ば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこちの本の中で、
そう書いてきた。が、問題はその先。

 嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、愛想
がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ようになり、仮面をか
ぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に引こうとする。が、さら
にその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、何を考えてい
るかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやすくなる、いじけやすく
なる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」が出てくるようになる。タイプと
しては、(1)暴力的、攻撃的になるプラス型と、(2)ジクジクと内へこもるマイナス型に分けるこ
とができる。大切なことはそういう状態になる前に、子ども自身が今、どう状態なのかを親側が
知ることである。ここにも書いたように、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心はゆがむ。
 さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両親へ
の清密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の子だけに
特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」と。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(321)

ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。
中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもがいる。しかし
そういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員
は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年五〇歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順
で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまってい
る。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言
わない。何もできない。その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういう
J氏でありながら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年七五歳になる母親のあとばかり追い
かけている。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くと
ころによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべ
て、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくとも
この二〇年間は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なも
ので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だっ
た」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自
分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、
まさに悲劇としか言いようがない。J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り
離そうと何度も試みた。それについては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに
応じなかった。いつものように、「お母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」と
いう関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本
的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばる
のは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何
をしてもよいというわけではない。子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待され
ても虐待されても、子どもは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく
言われる。そういう子どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。
悪魔だ。ケダモノだ。いや、ケダモノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わ
ってくる。

***************************************


ご案内

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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「親バカたちの子育て狂騒曲」が、今度、出版されることになりました。まだ詳しい
ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
少し過激なタイトルをつけましたが、内容はかなりアカデミックなものに……と
勝手に考えています。来週中には原稿を完成させ、出版社で最終的なGOサインを
もらうつもりです。また詳しく報告します。

……と書きつつ、すでにつぎの本の制作にとりかかっています。こういう不況の中、
しかも本離れが進んでいる中、こうして本が出せることを喜んでいます。売れるか
売れないかということになれば、売れませんが、しかし発表する機会があるという
ことだけでもラッキーだと思っています。これからもよろしくお願いします。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園

ほかに南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━--━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━--━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
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件名:子育て情報(はやし浩司)5-9

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
 ================          
★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−5−9号(044)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。こうしたはやし浩司の
意見は、あくまでも「考え方の一つ」としてご利用ください。ときどき(今回も!)
過激なことを書きますが、こうしたエッセイを一つの叩き台として、皆さんのご
家庭で、さらに議論を深めていただければ、うれしく思います。私の思想とて、
いつも流動的です。そういう流動性も、私のエッセイの中に感じ取っていただ
ければうれしいです。。

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子どもの自立、親の自立

子どもを、(1)未完成な半人前の人間とみるか、(2)一人の人格者とみるか、その違い
が、日本の子育てと、世界の標準的な子育ての違いです。

この日本では、子どもをおとなの世界と切り離し、あたかもペットを手なずけるかの
ような方法で、子どもを育てます。子どもにエサ(失礼!)をみせつけながら、「ホレ
ホレ、このエサがほしければ、親の言うことを聞きなさい」と。しかしこの子育て法は
今、限界にきています。またこの方法では、これからの子どもたちを指導することは
できません。そしてそれが家庭教育を混乱させている、一つの原因にもなっています。

子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。この視点に立つなら、
子どもの依存心は、百害あって一利なし。そのためにも、親自身も自立しなければ
なりません。

今回は、こうした視点に立って、子育てを考えてみます。


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子どもの心が離れるとき

●恩着せがましい日本の子育て
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。親孝行?
……そんなこと、考えなくていい。家の心配?……そんなこと考えなくていい」と、一度は、子ど
もの背中を叩いてあげる。それでこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。もちろんそ
のあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれば、それは
子どもの問題。子どもの勝手。

 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と、恩を着せてしま
う。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。以前、NH
Kの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏が、涙なが
らに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育てられまし
た。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。

 はじめは私は、I氏の母はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI
氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過
ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとした
ら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏をそこまで追い込んでしまったのかも
しれない。同じような例は、あの『かあさんの歌』の中にも見られる。「♪かあさんは、夜なべを
して……」という、あの歌である。が、この歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。
窪田聡という人が作詞した「かあさんの歌」は三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ
付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並
べてみる。

 「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁(わら)打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう思うだろうか。心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう。親が子ど
もに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、手袋を編ん
だよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれ
ば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきである。つまり
「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り込まれ
ている。

●うしろ姿の押し売りはしない
 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている」と言う人がいる。しかし事実は逆
だ。こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養
う」と答えた日本の若者はたったの、23%(三年後の平成九年には19%にまで低下)しかい
ない。自由意識の強いフランスでさえ、59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%
である。日本は今、大きな転換期にさしかかっているとみるべきではないのか。

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(以下、一部、上の記事と内容が重複しますが、お許しください。)
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(322)

人格の分離

 日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子どもの世
界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位置づけてしま
い、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペ
ットを育てるかのような育て方をする。その結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子
イコールよい子と位置づける。そうでない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

(例1)ある女性(七〇歳くらい)は、孫(六歳くらい)に向かってこう言っていた。「オイチイネ(お
いしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ(おいしいね)」と。子どもを完全
に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫
なら、何と言うだろうか。「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。

(例2)ある女性(七〇歳くらい)は、孫(一〇歳くらい)に電話をかけて、こう言った。「おばあち
ゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買ってあげるよ」と。最近は、そ
の孫がその女性にところに遊びにこなくなったらしい。それでその女性は、モノやお金で子ども
を釣ろうとした。が、しかしもしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子ども
と、バカにするな」と叫ぶかもしれない。 

 こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりとおって
いる。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法として、だれ
も問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。未熟で未経験かもし
れないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視点が、日本人の子育て観
にはない。

 子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見えるが、そ
の実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、日本独特の子
育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」ということになるが、こ
れについては別のところで考える。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(327)

子どもの世界(1)

 子どもを、未熟で未完成、そのうえ幼稚であると、おとなの世界から切り離してしまう。つまり
子どもを一人の人格者として認めるのではなく、不完全な「半人前」な人間として位置づけてし
まう。日本の子育ての最大の欠陥は、ここにある。

 そのため日本では、親が子どもを育てるときも、その前提として子どもを人間として認めてい
ないから、あたかもペットを育てるかのようにして、子どもを育てる。たとえば親は、まず子ども
に対して、目いっぱい、よい思いや楽しい思いをさせる。そしてそのあと、「もっとよい思いや楽
しい思いをしたかったら、親の言うことを聞きなさい。聞けば、もっと楽しいことがある」というよ
うなしつけ方をする。

 欧米ではこれが逆で、欧米の親たちは、生まれながらにして子どもを一人の人格者として認
める。認めたうえで、「よい思いや楽しい思いをしたかったら、まず苦労をしなさい」と子どもをし
つける。その一例として「家事」がある。私がよく知っている、オーストラリアやアメリカの子ども
にしても、実によく家事を手伝っている。料理はともかくも、食後のあと片づけは、たいてい子ど
もの仕事になっている。

 その結果、この日本では、独特の「保護と依存」関係が生まれる。保護はともかくも、問題は
「依存」。あるアメリカ人の教育家は、日本の子育てを批評して、かつてこう言った。「日本人
は、自分の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着すぎる」と。その教育家の名前
を忘れてしまったのは、たいへん残念だが、そのためこの日本では、親にベタベタと甘える子
どもイコール、かわいい子イコール、よい子とした。一方、独立心が旺盛で、自立した子ども
を、「鬼の子」として嫌う。そしてさらにその結果、この日本ではいわゆる「恩着せがましい子育
て法」が、当たり前になっている。しかも悲劇的なことに、それがあまりにも当たり前であるた
め、子どもに対して恩着せがましい子育てをしながら、それにすら気づかないというケースが多
い。

 数年前、演歌歌手のI氏が、NHKの「母を語る」というテレビ番組の中で、こう言っていた。
「私は女手一つで育てられました。その母親の恩にこたえようと、東京に出て、歌手になりまし
た」と。

 私はこのI氏の話を聞きながら、最初は、I氏の母親はすばらしい母親だと思った。しかしその
うち、それは番組が始まってから一〇分くらいたってからのことだが、「果たしてこのI氏の母親
は、本当にすばらしい母親なのか?」と思うようになった。I氏は半ば涙ながらに、「私は母親に
産んでもらいました。育ててもらいました」とさかんに言っていたが、そう無意識のうちにも思わ
せてしまったのは、母親自身ではないかと考えるようになった。母親自身が、子どもに恩を着
せる形で、「産んでやった」「育ててやった」と思わせてしまったのではないか、と。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(328)

子どもの世界(2)

 子どもの依存性は、必ずしも子どもから親への一方的なものではない。親自身にも、「だれ
かに依存したい」という潜在的な願望があるとみる。その願望が姿を変えて、子どもの依存心
に甘くなる。

 ある女性(六〇歳)は、通りで会うと私にこう言った。「息子なんて育てるもんじゃないですね。
息子は横浜の嫁に取られて、今、横浜に住んでいます」と。「親なんてさみしいもんですわ」とも
言った。こうした女性の背景にあるのは、子どもを「モノ」あるいは、「財産」と考える意識であ
る。それはともかくも、その女性はそのあとこう言った。「息子は小さいときから、かわいがって
やったのですがねえ」と。

 もっともこの段階で、子どもも親の価値観に同化すれば、何も問題はない。それはそれでうま
くいく。親は子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う。子どもは子どもで、「産んでいた
だきました」「育てていただきました」と言う。そういう親子はうまくいく。しかしいつもいつも子ど
もが親の考えに同化するとは限らない。問題はそのときだ。こうした価値観の違いは、宗教戦
争に似た様相をおびることがある。互いに妥協しない。妥協できない。親子でも価値観が衝突
すると、行きつくところまで行く。もっともそこまで至らなくても、無意識であるにせよ、親の押し
つけがましい子育て観は、親子の間にキレツを入れることが多い。ある男性(四〇歳)はこう言
った。「何がいやかといって、おやじに、『お前には大学の学費で、三〇〇〇万円もかけたから
な』と言われるくらいいやなことはない」と。

 つまり依存型の子育てを受けた子どもは、自分が今度は親になったとき、子どもに対して依
存型の子育てをするのみならず、自分自身も子どもに依存するようになる。親が壮年期には、
親自身がもつパワーでそれほど依存心は目立たないが、老年期になると、それが出てくる。冒
頭にあげた女性がその例である。

 子どもの自立を考えるなら、同時に親自身も自立しなければならない。子どもに向かって、
「あなたはあなたの人生を生きなさい」と教える前に、親自身も「私は私の人生を生きる」という
姿勢を見せなければならない。わかりやすく言えば、親が自立しないで、どうやって子どもの自
立を求めることができるかということになる。


**************************************

(後書き)

 こうした依存型の子育てで問題なのは、総じてみれば、日本人は、マザコンタイプの男性が
多いということ。四〇歳になっても、五〇歳になっても、「お母さん、お母さん」と、親離れできな
い男性は少なくない。自分ではマザコンと気づいていない点、さらにそれが親孝行のあかしと
考えている点が、悲劇といえば悲劇。マザコンの子どもをもちながら、「いい息子をもった」と喜
ぶ親。一方、マザコンに育てられながら、「それが親孝行」と思い込む子ども。このおかしさ。日
本人はいつになったら、このおかしさに気づくのだろうか。

 よく日本では、「老いては子に従え」と言う。本当にそうだろうか。この格言を裏から読むと、
「老いるまでは子に従わなくてもいい」ということになる。そうではない。
 老いても、子に従わなくてもいい。親は親は最後の最後まで、自分の道を行く。そして子ども
が正しいときには、いくら子どもが幼くても、親は子どもに従わねばならない。そういう謙虚さ
が、親子のきずなを深める。「老いては子に従え」という格言の背景には、親自身がもつ傲慢さ
や、依存への願望が隠されていることに注意!。

**************************************
おまけ


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(326)
 
コンピュータウィルス

 このところ(〇二年五月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一応、二
重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウィルス攻撃を
受けながら、いろいろなことを考える。

 よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対策を論じ
ていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウィルスをばらまい
て楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、それほど強い正義感がある
とも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男と、そんなに違うとも思えない。
どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男になっていたかもしれない。人間のも
つ正義感などというものは、そういうものだ。

 もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なのだろう
が、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっともこの私でも、簡単
なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ちあげのプログラムを組み込
めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖のプログラムを書き込めばよい。
言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二男にしても、高校生のとき、すでに自
分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治していた。だからたいしたことないと言えばた
いしたことはないが、それにしても「もったいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。

 つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルスが入った
メールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連絡が入る。問題
はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@××からのメール、
件名△△にはウィルスが混入していました……」と。そこで私は、その相手に対して、その内容
を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はそのつど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィ
ルスに汚染されている可能性があります」などと、返信を打っていた。しかしこのところそれが
多くなり、そういう親切がわずらわしくなってきた。で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロ
バイダーからの報告そのものを削除するようにしている。で、ハタと考える。「私もクールになっ
たものだ」と。いや、こうしたクールさは、コンピュータの世界では常識で、へたな温情(スケベ
心)をもつと、命取りにすらなりかねない。(事実、過去において、何度かそういう経験があるが
……。)だから、あやしげなメールは、容赦なく削除する。しなければならない。そしてそれがど
こかで、私が本来もっている、やさしい人間性(?)を削ってしまうように感ずるのだ。あああ…
…。
 このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

***************************************


ご案内

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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ことなどはわかっていませんが、出版社が見つかりました。
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講演会のお知らせ

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6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

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ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
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(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

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件名:子育て情報(はやし浩司)5-11

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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。このマガジンが、みなさ
んの子育てで、お役にたてることを願っています。

********************************

親には三つの役目がありますね。

親は子どもの前を歩く……子どものガイドとして、
親は子どものうしろを歩く……子どもの保護者として
親は子どもの横を歩く……子どもの友として。

昔、オーストラリアの友人がいつもそう言っていました。
で、日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意ですが、
横を歩くのが苦手?

今回は、「子どもの心をつかむ」をテーマにマガジンを考えてみました。

題して、「子育てで失敗する人・成功する人」

********************************

子育てで失敗する人・成功する人

*********************************

あなたは子どもの心に静かに耳を傾けていますか?

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを
大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。そして「……のハズ」というハズ論で、子
どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝する
ハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、「ノー」
のサインを出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをは
ねのけてしまう。

 少しショッキングな内容ですが、どうか勇気を出してお読みください。

*********************************

親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし
た。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、
読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も
部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんど
うがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、
当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費
ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反し
て、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最
近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇
歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプ
リントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、
時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だ
と、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は
何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一
緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。
それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今
度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつ
ど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

 投書に話をもどす。
 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えて
みれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとはっきり言えば、ひとりよがり
な子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親
の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、
犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩い
ても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリン
トを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを
大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。そして「……のハズ」というハズ論で、子
どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝する
ハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、サイン
を出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけて
しまう。

 このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けな
いから、それがわかる。私「明日の休みはどう過ごしますか?」、母「夫の仕事が休みだから、
近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、私「緑花木センター……です
か?」、母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから
……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息
子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかも
しれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはき
びしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであ
ろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとっ
て、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望
んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。が、もう一つ問題が残
る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないというこ
と。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体
何だったの?」という言葉が、それを表している。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(331)

プラス型とマイナス型

 情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張
状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒
が不安定になる。で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずっ
たりするタイプの子どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を
解消しようとする動き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、
後者をマイナス型として考えるようにしている。

 ……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。この言葉を最初に使
うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。子どもの世界には、「分
離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混
乱状態)になったりする。年長児についていうなら、一五〜二〇人に一人くらいの割で経験す
る。その子どもを調べていたときのことだが、症状が、(1)興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイ
プと、(2)オドオドし混乱状態になるタイプの子どもがいることがわかった。そのときワーワーと
外に向かって叫ぶ子どもを、私は「プラス型」、内にこもって、混乱状態になる子どもを、「マイ
ナス型」とした。

 この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれ
るタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すように
なるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えるこ
とができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識
ハズレになりやすいなど。

 ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラ
ス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。いじめに
ついても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプをマイナス
型に分けるなど。また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引きこもってし
まう子どもをマイナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状を別とする
と、共通点が多い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。
 こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん
役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。
 
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前回の「恩着せがましい子育て」について、3人の読者の方から、ご意見をいただきました。
ありがとうございました。

「老いては子に従え」について、「目からウロコが落ちた」(F県S市のMさん)という意見も届き
ました。少し過激な意見だったかもしれませんが、要するに「老いたら、ささいなことは気にせ
ず、もっと大きなテーマを考えながら生きよう」ということですね。大きなテーマをかかえていれ
ば、ささいなことは気にならなくなります。「子どものことで心をわずらわすのはやめよう」という
ことです。

老齢は明らかに迅速なり。われわれに必要以上に切迫する……プラトン「饗宴」

もう一作、「ファミリス」で発表した原稿を添付しておきます。すでにお読みいただいた方には
重複しますが、お許しください。

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(6)親子のきずなが切れるとき

●親に反抗するのは、子どもの自由?
 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗
してはいけない」と考えている高校生は、5%。この数字を、アメリカや中国と比較してみると、
親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国15%。親に反抗してはいけない……アメリカ8
2%、中国84%(「日本青少年研究所」九八年調査)。日本だけは、親に反抗してもよいと考え
ている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけないと考えている高校生が、ダントツに少な
い。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家
O氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそう
なのか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。

●受験が破壊する子どもの心
 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストをもって帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。さらに「あんたを幼稚園児のときから、高い月謝を払って
英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子
どもからやる気をなくす。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親
子の信頼感、さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「8
5%」という数字は、まさにその結果であるとみてよい。

●親の責任を追及する子ども
 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には二人の娘がいた。一人は大学一年生、もう一人は高校三年生だった。R
氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費
がむずかしくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の
娘はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんた
の義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻ま
で、「生活ができない」と言って、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。
「家族って、何ですかねえ……」と。

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」という言葉にしても、
いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を変えてみたら…
…。たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気
楽にやりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子ども
がテストの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりな
よ」と。この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでや
る気を起こす。   

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ご案内

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
       ̄ ̄  ̄ ̄
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件名:子育て情報(はやし浩司)5-14

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
 ================          
★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−5−14号(046)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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先日、小4の子どもたちに、算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と質問したら、
何を思ったか一人の子どもがこう言った。「三角関係!」と。ドキッとして、「三角関係って何だ」
と聞くと、こう話してくれた。「男が二人と女が一人の関係だよ」と。すると別の子どもが、「いい
や、女が二人で、男が一人の関係だ」と。そのうち皆が、ワイワイやりだして、収拾がつかなく
なってしまった。「今時(いまどき)の子どもは、何を考えているんだ!」と、叱ると、今度はこん
な歌を歌い始めた。「♪今時娘は、一日5食。朝昼三時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌
は?」と聞くと、「先生、遅れてる〜ウ。こんな歌知らないの〜オ」と。(私の日記より)

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今回は、今度の島田市での講演会のレジュメができましたので、少し長いですが
それをお届けします。講演で使う下原稿のようなものです。

島田市での講演会に、おいでください。お待ちしてします。

5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

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親子の断絶を防ぐ、三つの鉄則

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三つの失敗

 子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。
ある母親が娘(高校一年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて母親を
無視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわか
っているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでし
ょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。「いつ、だれがあんたに
そんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その一。

 父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校三年生になった娘に、
父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。「こうなった
のは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 私を大学へやる
のは、あんたの役目でしょ」と。そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼ん
で、「お父さんのことをわかってあげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときか
ら、さんざん勉強しろ、勉強しろと言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもない
のに、進学塾へ入れさせられた。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどう
だったとそんなことばかり。この状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『もう勉
強しなくていい』って、どういうこと。そんなことを言うの許されるの!」と。これが失敗、その二。

 Yさん(女性四〇歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医者にする
のが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかりとした設計図を
もち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさんにしてみれば、明けて
も暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「うるさい」の取っ組みあいもしたと
いう。が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさんは
息子に勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思いはどこか
にありましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許してくれると思って
いました」と。で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽
きてしまった。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に
「家庭教師でも何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣いて頼
んだが、程度ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その三.

 こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失敗、あ
るいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。


断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがあ
る。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあ
い、教えあい、守りあい、支えあうという五つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその
機能を果たさなくなる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあ
う。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこ
で親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こうい
う状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれ
に反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。

 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない
状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父
親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆
らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくない
が、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江
戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込
まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついてい
る人は少なくない。

 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子
どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親
は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子
どもの受験競争に狂奔する親すらいる。価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見
よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という
状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあ
い、教えあい、守りあい、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あ
との問題はすべてマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考
えてはいけない。


親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ

 親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)相互不
信がある。

 まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子ども
を妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセット
レコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生ま
れると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの
口に押し込む親がいる。「もうすぐ三時間五〇分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かない
のかしら……。もう四時間なのに……」と。

 そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」
「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知ってい
る」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考え
る。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。このタイプの母親
は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親は、子どもの横か、
うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手をぐいぐいと引きなが
ら歩く。あるいはこんな会話をする。

 私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、
会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう
言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込ん
できて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。
 いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そ
してそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるよ
うになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連
れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをし
てくれと頼んだ!」と。

つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があっ
た。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリント
を三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間
ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。こうしたケースでは、私
は「プリントは二枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを
三枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子どもは、それを知ってい
る。

親子の断絶の三要素、(2)価値観の衝突

 日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識うちにも依存性を
もたせ、それが子育ての基本であると考えている。たとえばこの日本では、親にベタベタと甘え
る子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思
わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場に
ある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子どもの自立は遅れる。が、この日本では、「依
存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番
組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながら
に、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京
へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と
言っていた。私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親
はすばらしい人だなと思った。しかし一〇分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き
起こってくるのを感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親
は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたの
かもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』と
いうのがある。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はな
い?

 で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、
子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子
どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そ
のまま子育てに反映される。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせること
だ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先
日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った六〇歳くらいの女性が、五歳くらいの孫に
こう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすること
が、子どもを愛することだと誤解している人は多い。

 そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日
本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若
い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、一九%に過ぎない(総
理府、平成九年調査)。どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつ
けても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観
の衝突へと進む。


親子の断絶の三要素、(3)信頼関係の喪失

 子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れ
るということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子
どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは
長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミの
ようなものだ。イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」
というのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなた
のことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思ってい
ると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。

 昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日
常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子ども
が床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさ
ずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数
日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。
いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけ
ると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ〜!」と言って手を振ったりした。

 子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を
信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、
子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日
からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を
繰り返す。子どもに向かっては、「あなたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返
す。これを数か月、あるいは半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言える
ようになったとき、あなたの子どもはその「いい子」になっている。


親子のリズムを取り戻すために(1)

 昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には三つの役目がある。一つ目は親は
子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロ
テクター)として。そして三つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つ
が、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前
の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。
たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(六〇歳くらい)
が、五歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチ
ョ、楽チイネ」と。五歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱
いしてよいものか。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。
同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大
切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関
係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。
子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。

 日本には親意識という言葉がある。この親意識には、二つの意味がある。一つは「親として
の自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう一つは、「私は親だ」式に、子ど
もに向かって親の権威を押しつける親意識。この親意識が強ければ強いほど、親は、子ども
の横に立つことができなくなる。というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男
が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国と
いう特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語
すらない。あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言
うまでもなく、この日本ではたった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに
徹底した支配、従属関係を築く。

 が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一
例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも二〇〇万枚(CBS
ソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、三〇〇万枚以上」という
ことだそうだ。あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の
世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代
(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。


親子のリズムを取り戻すために(2)

 尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なの
か」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。
そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラ
ス壊して回った」と歌う。問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそ
れにかわる新しい価値観をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親
や母親の混乱の原因となっていった。

 最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろ
な統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤ
ボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが
食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学六年生までにたったの一度し
かない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい
……! 

 教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それ
にかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。
教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親
が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと
思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。

 で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え
方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方を
つくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくては
いけないと考える。

 そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。
基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの
前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。子どもに向かって、「〜
〜しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と甘くささやくのではな
く、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心を確かめながら行動
する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子どものうしろを歩く。こう
した謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。


価値観の衝突を防ぐにはどうするか(1)

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも
このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。
 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド
ラマは視聴率を、二〇%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど
痛快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」
と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(七〇歳)は、
息子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済に
あててしまった。息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子
のお金を使って何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。
「たとえ親でも悪いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことが
あっても、子どもに頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観
が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし
れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。ここにも書いたように、下のものが
上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれないが、たいていは下のものは、上の
ものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶった分だけ、上のものは下のものの心
がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツが入る。そしてそのキレツが長い時
間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生六年生一〇人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん
が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親
なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝る
べきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もう流れを変えることはできない。


価値観の衝突を防ぐにはどうするか(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。たとえ
ば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかが
すいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのものが何
とかしてくれるのだろう。同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わ
ない。「先生、おしっこオ〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日
本人はそこまで依存性の強い民族ということにもなる。で、こうした依存性の強い子どもが生ま
れる背景には、それを容認する甘い家庭環境がある。もっと言えば、親自身も、潜在的にだれ
かに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。もっとも親
が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。ある女性(六五
歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々しい声でこう言う。
「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのもの
だから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、
自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そ
んなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を
果たしたことになる。親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、
強要するのもいけない。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心
配をするというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には
日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなこと
をしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%
にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメ
リカでは、何と六三%である。(ほかにフィリッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、
タイ五九%、ドイツ三八%、スウェーデン三七%、日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応
じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということ
になるのだが……。)欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、
大きな転換期にきているとみるべきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないというkとおになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。


子どもを信ずるということ(1)
 
 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか
……? その方法はあるのか……? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、
ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育て
の中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカの
この地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、
私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段
階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなか
った。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメ
リカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……い
いだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由など
ない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私
は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができ
るようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子が
それを、私に教えてくれた。


子どもを信ずるということ(2)

 人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう言った。
「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らし
いが、それはともかく、私は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたよう
に思う。「フォ・ギブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」
は、「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」と。

 ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の頭の中
を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子ど
もはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任ではないか」と。とたん、私
はその「何」が、何であるかがわかった。

 あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許してやれば、
喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その人に許してもらえ
れば、あなたの心が軽くなる人たちだ。つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と
(許される人)の関係で成り立っている。そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいや
なことを忘れることができたら、この世の中は何とすばらしい世の中になることか。……と言っ
ても、私のような凡人には、そこまでできない。できないが、自分の子どもに対してなら、でき
る。私はいつしか、できの悪い息子たちのことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で念
ずるようになった。「許して忘れる」と。つまりその「何」についてだが、私はこう解釈した。「人に
愛を与えるために許し、人から愛を得るために忘れる」と。子どもについて言えば、「子どもに
愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」と。これは私の勝手な解釈による
ものだが、しかし子どもを愛するということは、そういうことではないだろうか。そしてその度量、
言いかえると、どこまで子どもを許し、そしてどこまで忘れることができるかによって、親の愛の
深さが決まる……。

 もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子どもに好き勝手
なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかにあなたの子どもができ
が悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた自身のこととして、受け入れ
てしまえということ。「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考
えている間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。一方、あなたの子どももまた、心を開
かない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえば、あなたの子どもも救われるが、
あなたも救われる。何だかこみいった話をしてしまったようだが、子育てがどこかギクシャクし
たら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけで、あなたはその先に、
出口の光を見いだすはずだ。


子育ての目標

 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人
には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、
そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだ
けでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私
は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そう
いうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じ
ゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせい
ぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部
屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いてい
る。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。
が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもた
ちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度
をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こうい
う家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。


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ご案内

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
       ̄ ̄  ̄ ̄
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件名:子育て情報(はやし浩司)5-18

彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論
 ================          
★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−5−18号(047)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

今日(5・18)はこれから島田市へ行きます。講演するとき一番気をつかうのは、
その日の体調です。体調が悪いと、頭がぼんやりしてしまいます。以前、一度
風邪薬をのんででかけたことがありますが、頭がボーッとしてしまい、途中で
自分で何を話しているかわからなくなってしまったことがあります。2時間、緊張感
を持続させるのは、たいへんなことです。

********************************

(マガジン読者の方より、こんなメールが届いています。
うれしかったので、許可をもらって、掲載します。)

======================================

 「インタ−ネットで「子育て」と検索したら
  赤ちゃん関連の情報が多い中「子供の心を育てる」
  と言うタイトルを見つけて先生を知りました。

  ホ−ムペ−ジを何度も読み「親子断絶」という内容に
  動揺しながら子どものこころについての質問をしました。
  でも本当に気になっていたのは攻撃的な態度のことで
  それを私自身が受け止められず先生には言わずにメ−ル
  をしたのですが、先生から「かなりの緊張状態」と返事が来て
  そこで初めて、私自身の長男への子育てのあり方を
  受け止め、今の状況を判断する事が出来ました。

  今頃またメ−ルしたのは、本当に今頃になって先生の
  言われる事がよ--くわかったからです。
  確かに質問してから私も反省して長男の接し方を変えたことで
  乱暴な態度はひと月くらいでなくなったのですが
  それでも心はまだつかめずにいました。

  毎週届く子育て情報マガジンを読んでいるうちに
  (以前も子育てに悩むと図書館でよくその関連本を読んでは
  わかった気になり反省して、頭では理解しているつもりなのに
  行動が伴わない)
  いい意味で洗脳されていくんですね、行動も身についてきたようです。
  多分とても自然に。(今までは無理矢理いいお母さんをしようとしていた)
  だから今、子供が沢山話しをしてくれます。
  きっと今までも話してくれていたのでしょうが、私が聞こうとしなかった
  と反省しています。
  
  今日配信された「子育てを失敗する人」もほんとうに私の事を
  言われているようで思わず笑ってしまいました。

  でも今は子供の心に耳を傾けています。
  でも「静かに」というのがまだ怪しくて・・・・つい一言・・・
  
  長くなってしまいましたが言いたかったのは
  先生のホ−ムペ−ジに出会えてよかった事と
  子育てマガジンがまめに送られて、本当によかった事です。
  感謝しています。ありがとうございました。
  
  (富山県 KYより)

  ほかの読者の方々からのメールは、HPの目次→読者よりを、ご覧ください。
  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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互いに心を開くということはむずかしいですね。

ところであなたのお子さんは、あなたの前でしたいことをしていますか?
あなたに対して、言いたいことを言っていますか?
そしてあなたはそれを、受け入れていますか?

もしそうでないというなら、あなたの親子関係は、かなり危機的な状態と
いってもよいのかもしれません。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(353)

心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしいときはうれ
しいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をそのままぶつけることが
できる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳)がいきなり私にこう聞いた。「林君、
君のワイフは、君の前で『おなら』を出すかね?」と。驚いて私が、「うちの女房はそういうことは
しないです……」とあわてて答えると、そばにいた皆まで一斉に、「そりゃあ、かわいそうだ。君
の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。子どもが
悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使えないほどまで
に、子どもを追いつめてはいけない。一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に
心を開いているのだ」と、それを許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんな
ことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を
開く。

 そこで大切なことは、心というのは、「開く心」と、もう一方で、それを受け止める「開いた心」
がないと、かよいあわない。子どもが心を開いたら、同じように親のほうも心を開く。それはちょ
うどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、会
話をすることもできない。R氏(四五歳)はこう言う。「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言
います。親のメンツにこだわって、あれこれ世間体をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつ
かろうとするのですが、いつもその本音が母の心のカベにぶつかって、そこではね返されてし
まいます。私もさみしいですが、母もかわいそうな人だと思います」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。そして同
じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めているかということ。も
しあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソをついたり、さ
らには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた自身のことをかなり反
省する。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、相手の心をそのまま
受け入れる。またそれでこそ、親子であり、家族ということになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまりぼく
の前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えてこう言った。
「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だと思うわ」と。ま
あ、そういう考え方もあるのかもしれない。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(354)

心を開く(2)

 心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相手に対し
ては、相手のすべてを受け入れるということ。少しきわどい話になって恐縮だが、『おなら』があ
る。ふつう自分のおならは、気にならない。小学生に聞いても、全員が例外なく、「自分のは、
いいにおいだ」と言う。しかし問題は、自分以外の人のおならだ。

 もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であっても、そ
れは関係ない。しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。さらに親しい
友人や、尊敬する人になると変ってくる。昔、恩師のM先生(女性)がこう話してくれた。「私は
女学生のとき、好きな先生がいた。好きで好きでたまらなかった。が、その先生がある日、私
のノートを上からのぞいたとき、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私はその鼻くそを見たと
き、どういうわけかうれしくてならなかった」と。相手を受け入れるといういことは、そういうことを
いう?

 そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入れて
いるだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻がおならを出
したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならのように、「いいにお
い」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。実のところ、私も女房の
おならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くもたってからだ。自分のにおいのよ
うに感ずることができるようになったのは、ごく最近になってからだ。女房はめったに私の前で
はしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。で、若いころはふとんの中でそれ
されると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息をしたり、ときには窓を開け放って、ガス
を追い出したりしていた。今も「平気」とまではいかないが、「またやったな」という思いながら
も、そのまま眠ることができる。

 問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。こういう
とき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。親に受け入れてもらえない
子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえると、親にすら心を開いてもらえない子
どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。そういう意味で、子どもは心の冷たい子どもに
なる。もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を見せ
るようになる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、消える。そう
いう意味で、もしあなたがあなたの子どもに心を閉じているなら、それは「あるべき」親の姿勢
ではない。「努力して」というほど簡単な問題ではないかもしれないが、しかしあなたの子どもの
ためにも努力する。

 方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これを日常
的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。


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男は仕事、女は家事……こんな偏見が、いまだにこの日本をのさばっています。
日本型の悪しき出世主義の産物です。もっと言えば、封建制度の名残(なごり)?
しかし家庭に閉じ込められた女性たちのストレスは、相当なもの。それを理解しない
と、世の男性諸君、たいへんなことになりますよ!

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(355)

女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きで
しかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、二割
近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(二〇〇〇)によると、「掃除、洗
濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上。「夫も家事や育児を平
等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる。が、その反面、「反対だ」と答えた女性
も二三・三%もいる。

 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事を負担
することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家事を平等に
負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしていればそれでい
い」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってくる。今の日本の現状
は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに居なおりすぎている。
中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の中でデーンと座っていれば
いい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、その仕事第一主義におぼれ
るあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。

 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演のあと、私
にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)が言うと、家
族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくしていてくれなければ、困
るのです」と。男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができ
ますか」とも。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こ
うも言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきている
のです。むずかしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。

 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ三〇歳そこそこの男性。今の日
本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認めていない。
その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼の考え方のほうが、よ
っぽど後進国的だ。それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。
夫に不満をもつ妻もふえている。

 厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」(一九九八年)による
と、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回
一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の
家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。当然だ。

 ちなみに……

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 

(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について国立社会保障人口問題研究所の調査・
九八年)

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ご案内

●島田市の青年会議所の人たちが、たいへん熱心に講演会の準備をしてくれて
います。県の教育委員会へ働きかけてくれたり、周辺の幼稚園や小中学校を
回ったりしてくれています。チラシも配布し、宣伝もしてくれています。その熱意が
うれしいというか、私も少なからず、心を打たれました。

 お近くの方で、もし時間の都合のつく方がいらっしゃれば、どうかおいでください。
また島田市周辺の方で、お知りあいの方がいらしゃれば、どうか講演会の連絡を
してあげてください。よろしくお願いします。なお当日は予約なしで入場していただ
けると思いますが、念のため、
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)
まで、連絡してくださるとうれしいです。

 なおこの講演会は、静岡県教育委員会の後援事業になりました。

 島田市では「断絶を防ぐ、三つの鉄則」を話します。

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講演会のお知らせ

 5月からあちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

なおもし島田市周辺の方がいらっしゃれば、
5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の「ニュース」より
(島田市青年会議所・問い合わせ先……0547−35−6359)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

5・18……島田市青年会議所、プラザおおるり・大ホール(14:30〜16:30)※

5・17……三ヶ日町教育委員会・母親教室

5・16……大阪市育和学園幼稚園

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

ほとんど参加無料(費用は主催者負担)です。各主催者に連絡いただければ、
自由に聴講していただけると思います。当日、直接おいでくださっても結構です。
5月18日・島田市の会場は、600人まで入れますので、どうかおいでください。

※印……一般参加自由のおおがかりな講演会です。どうかおいでください。
お待ちしています!
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

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件名:子育て情報(はやし浩司)5-20

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今日(19日)は朝は雨。やることもなく、山荘にこもって原稿を書きました。
今日は「わだかまり」と「子どもの表情」などについて考えてみました。あちこち
で講演をした折、その主催者の方と話題になったテーマです。子どもを見るとき、
その見方のヒントになればうれしいです。
 
 雨があがれば、山荘のペンキ塗りをするのですが……。昼の料理は
シーフードカレーです。女房が横で、「味はみなくていいの?」と聞いています
が、うまくても、まずくても、ひとつしか作らないので、私は食べるまで味見は
しません。言い忘れましたが、山荘では、炊事、洗濯、料理すべて私がします。

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子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(356)

わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しかし実際
には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約二〇万倍※もの潜在意識によって
「動かされている」。こんなことがあった。

 J君(小三)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜日にいっしょ
に釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんかが始まってしまうの
です。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、まず息子がワーツと泣き声を
あげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』という声が聞こえてくるのです」と。

 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪いことを
していないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞くと、父親は父
親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J君が人をバカにした
ような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」と。

 そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑談して
いると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、いじめにあっ
ていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだった」と。J君の父
親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったのだが)、J君の父親は、
無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中に感じていた。そしてそれ
がこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。

 こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。わだかまり
にせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあやつる。子育ても
まさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると思い込んでいるが、結
局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。問題は繰り返すことではなく、その中
でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの形で、子育てに悪い影響を与えることであ
る。が、これも本当の問題ではない。だれだって、無数のわだかまりをかかえている。わだかま
りのない人など、いない。そこで本当の問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そ
のわだかまりに振りまわされるまま、同じ失敗を繰り返すことである。

 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じように失
敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。何かあるは
ずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間がかかるが、それ
で問題は解決する。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(358)

子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子どもは、
やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔を
する。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこの
「表情」には、いろいろな問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、全体
の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題もあり、一概
に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ的確ではない
かと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変えない。うれしいときも
悲しいときも、無表情のまま行動する、など。

 原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。それはテレビをじっと見
入っている幼児を観察すればわかる。彼らはおもしろがっているはずだというときでも、またこ
わがっているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ入ってからも
そうで、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あたかもテレビでも見てい
るかのような感じで先生の方をじっと見ている。このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が
弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴もある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」とい
うような話し方をする。こうした症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見
ていましたね」と言うことがある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚く
が、タネを明かせば、何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて
園や学校生活になれてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊離であ
る。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無表情のままで
ある、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れることが多い。たとえ
ばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたまま、心の中ではまった
く別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離現象が現れたら、かなり深刻な問
題として、子どもの心を考える。

 とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いやだった
ら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみやすい子どもをすな
おな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということになる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(359)

親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのまま、スーッ
と心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、一般に、「親しみ
のもてる子ども」という。一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感
ずる子どももいる。ものの考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子
「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲
があるから、いい天気ではない」と。

 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうかという
こと。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の交流が、互
いの親近感をます。そうでなければそうでない。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、親し
みのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと思っている
だろうか。こんなチェックテストを用意してみた。

(1)あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したくないことに
ついては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。

(2)あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求めてきたり、
甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。

(3)あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもがなごやか
な言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。

 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているということに
なる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方を反省する。
「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピリピリと子どもを監
視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに対して心を開いていない
ばあいがある。子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険
な状態であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけるな
どの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに心を開くこ
とをしないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。

 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考えてい
るかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしているだけで、はっ
きりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。もしそうなればなった
で、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを考えるときには、そういう問
題も含まれることを忘れてはいけない。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(360)

被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(三二歳女性)が、子ども(四歳)と道
路を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられてしまった。子ど
もはひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少なくてすんだが、やがて
深刻な後遺症があらわれた。子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしま
った。事故のとき、脳のある部分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、
その事故から五、六年になるが、その状態はほとんどかわっていない」と。

 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人の話
として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなくてよかった」と
思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。ふつうは(「ふつう」はとい
う言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考える。しかし心配性の人は、(2)のよ
うに考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広げていく。「歩道といっても安全ではない」「う
ちの子もフラフラと歩くタイプだから心配だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」な
ど。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていないかを反省
する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのものをゆがめるこ
とが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。ある母親は、子ども
(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れた。そこで心配になり、そ
のクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多くあたると、おとになってから皮膚
ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小六)が修学旅行に行っている間、心配で一睡も
できなかったという。「どうして?」と私が聞くと、「あの子が皆にいじめられているのではないか
と心配でなりませんでした」と。

 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄想性が
他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中一)が不登校
児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩のようにB男の母親に
電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではない。夜中の二時とか三時。しかも
その電話が、ときには一時間とか二時間も続いたという。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽
い段階でそれに気づき、そこでブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが
(2)のように考える傾向があれば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかけ
る。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


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講演会のお知らせ

あちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

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件名:子育て情報(はやし浩司)5-22

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5月24日、竜洋町、なぎの木会館で講演をします。
午前9時開場、9:20〜11:20まで。
お近くの方は、ぜひおいでください。
おいでになる方は、要連絡……0538−66−5333、山下様まで
(静岡県教育員会後援事業になりました。)

********************************

いつも購読してくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは、「家族」。
この「家族論」に自分なりの結論を出しておきたいと考えました。
皆さんがご家庭で議論をなさるとき、ひとつの参考になればうれしいです。

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家族って、何?

 映画『ザ・ストレート・ストーリー』の中で、主人公のストレートがこう言う。「一本の枝はすぐ折
れる。しかしその枝でもたばねると、簡単には折れない。それが家族だ」と。

***************************************

(以下の2作★印は、以前、中日新聞に発表したコラムです。)

★子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(366)

「日本の教育はバカげている」・日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しか
し問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」
と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加
えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリ
カ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒
がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒というこ
とになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エ
デュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

 同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

(注)オーストラリアでは、夫の会社のパーティでも、妻同伴が原則。ただし夫が40〜50歳に
なると、「妻のほうがめんどうがり、ついてこないこともある」(友人弁)とのこと。しかし20〜30
代の若い夫婦のばあい、ほとんど、同伴。また妻が働いているとき、妻の会社のパーティに
は、「夫は100%同伴」(同)とのこと。日本のような、「女は仕事に口を出すな」式の常識(非常
識?)は、オーストラリアでは通用しない。



★子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(367)

家族のつながりを守る法

●ルービン報道官の退任 
 二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のス
ポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を
決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!
 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫
は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲に
いた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち
 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こ
しただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービ
ン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくま
でには、まだまだ道は遠い。

***************************************

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(361)

心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今
でいう、アルコール依存症だったのか? 三〜四日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大
声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっ
くり返したこともある。私と六歳年上の姉は、そのたびに二階の奥にある物干し台に身を潜
め、私は「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、
一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。

 が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回さ
れることである。たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定
になると、夜がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛で
ならない。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう
自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じ
ながらも、気力でカバーしてしまった。が、五〇歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えて
くる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そ
んなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつ
も、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私
は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなけ
れば、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私を
つくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。
が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうこと
は言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。
さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにし
て、キズ口は深くなる。

 私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しか
し父は、先にも書いたように、三〜四日ごとに酒を飲んで暴れた。だから五四歳になった今で
も、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃん、こわいよオ、
姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。五四歳になった今でも、
だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(362)
 
「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の経営者(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責してい
る場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その経
営者が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言
葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流
すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその経営者の、そういう言い方は卑怯だと思う。強い立場のものが、一方的に弱い立場
のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするなら、子どもは
親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間関係。昔の
人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。切れないと思
っているのは、親だけで、また親はその幻想の上に安住してしまい、子どもの心を見失うケー
スはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれのおかげでメシを食っ
ていかれるか、それがわかっているか」と言うのと同じ。たしかにそうかもしれないが、夫がそ
れを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を教えるのは、親
として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア
ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間
としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育て
をすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊
かなものになる。

 私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という意識
はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言うことはあっ
ても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気持ちはどこに
もないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ
くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親
孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん
なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ
の重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の経営者の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(363)

親孝行否定論者?

 私はよく親孝行否定論者と誤解される。ときどきEメールでも、そう書いてくる人がいる。しか
し事実は逆で、私は二四歳のときから、収入の約五〇〜三〇%を、岐阜の実家に仕送りして
きた。四五歳のときまでそれを続けた。記憶にあるかぎりでは、少なくとも二七歳のときから、
実家での冠婚葬祭、法事の費用、改築の費用ども、すべて負担してきた。田舎のことで、そう
いう行事だけはことさら派手にする。法事にしても、たいてい料亭を借りきってする。私には決
して楽な額ではなかった。そのつどいつも、貯金通帳はカラになった。

 私がなぜそうしたかということだが、だれかが私に命令したというわけではない。私は「子が
親のめんどうをみるのは当たり前」「子が家の心配をするのは当たり前」という、当時の世間的
な常識(?)を心のどこかで感じたからこそ、それをしてきた。しかしそれはものすごい重圧感
だった。女房はただの一度も不平や不満を漏らさなかったが、経済的負担感も、相当なものだ
った。私はそういう重圧感なり負担感を知っているからこそ、自分の息子たちには、そういう思
いをさせたくない。だから私は自分の息子たちに、あえて言う。「親孝行? ……そんなバカな
ことは考えなくていい。家の心配? ……そんなバカなことは考えなくていい。お前たちはお前
たちで、自分の人生を思いっきり、前向きに生きろ。たった一度しかない人生だから、思う存分
生きろ」と。

 子どもが親や家のために犠牲になるのは、決して美徳ではない。もしそれが美徳なら、子ど
もは子どもで自分の人生を犠牲にすることになり、それがまた順送りに繰り返され、結局はど
の世代も、自分の人生をつかめなくなってしまう。いや、あなたはひょっとしたら、親や家のた
めに犠牲になっているかもしれない。しかしあなたはそれを、あなたの子どもに求めてはいけ
ない。強要してはいけない。親子といえども、人間関係が基本。その人間関係の中から、自然
に互いの尊敬心が生まれ、その上で、子どもが親の心配をしたり、家のめんどうをみるという
のであれば、それはまた別の問題。もっといえば、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親
に孝行しないからとか、家のめんどうをみないからといって、その子どもを責めてはいけない。

 それぞれの親子や家庭には、あなたがいくら知恵をふりしぼっても、理解できない複雑な事
情が潜んでいる。たとえばE氏(五八歳)。E氏はこのところ父の世話を疎遠にしているが、そ
れについて親類の叔父や叔母たちに、電話で「子が親のめんどうをみるのは当たり前だろ」
と、説教されている。E氏はこう言う。「私は父の子ではないのです。祖父と母の間に生まれた、
不倫の子なんです。私の家庭にはそういう複雑ないきさつがあるのです。しかしそういう話を、
親類の人に話せますか。父もまだ生きていますから」と。

 安易な親孝行論は、その人を苦しめることもある。この結論は、今でも一歩も譲る気はない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(364)

安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故
郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみる
のはあたりまえ」など。しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるい
はそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の
子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている(東京都精神医学
総合研究所の調査・〇〇年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、
兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に
帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の
子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」
「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。たまたまあなた
が心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみ
てはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きず
って生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそうい
う人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(三八歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんを
もうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待
を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのこ
ろには母の居場所もわからなかったという。Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸
福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが
想像できる、その範囲を超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよ
いかわからなかった。

 「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日
本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何
が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。安易に、つまり何も
考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの
日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。
こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもな
りかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのも
のをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基
本である。

(※……私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約一〇%(私の母
親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が
合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを
虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)そう
だ。)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(365)

アメリカ論

 よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主義を口
にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁判ザタになっ
ているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。

 これに反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家族がし
っかりしているとはならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女性ががまんして
いるからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想もまだ残ってい
る。たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだ
けで即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近くにいるオースト
ラリア人に聞いてみることだ。

 つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。アメリカ
には、それこそ地区ごとに、「コート」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数万の小さな町にさ
え、ある。そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断してもら
おうではないか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっているから、
夫婦であっても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。

 さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると主張し
ている人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本の二倍の広さ
がある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。一方、アメリカ人の目から見ると、
日本も東南アジアも区別できない。区別されない。インドネシアで暴動が起きると、アメリカ人
は、日本もそれに巻き込まれていると思う。同じようにカルフォニア州の一都市で何か事件が
起きたとしても、決して、アメリカ全土で起きているわけではない。先日もアメリカへ行ったら、
知人のF氏(アメリカ人)はこう言った。「日本人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるので
は」と。そして「ハリウッド映画だけを見て、それがアメリカと思ってほしくない」とも。

 たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘れては
いけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。それは東京には
「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。先のテキサス州では、人口の四〇%がヒスパ
ニックが占めている。もちろん中国系、日系などのアジア人も多い。白人ばかりがアメリカ人で
はないことは、常識だ。そういう他民族が集合して、「アメリカ人」というアメリカ人をつくってい
る。単一民族しか知らない日本人とでは、そもそも「国民」意識そのものがちがう。言いかえる
と、日本人対アメリカ人というように、そもそも対等に考えることすら正しくない。

 冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。

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講演会のお知らせ

あちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会(予定)※

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
       ̄ ̄  ̄ ̄
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件名:子育て情報(はやし浩司)5-24

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 251人
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          /井\
         〔井井井〕
    MMMMM \井/
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 ○ q ・ ・ p ‖  
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ━━○━━━━━━━○━━━━━━━
    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 82人    
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    今回から、E-マガ、メルマガ、共通内容とします。

(どちらか一つという方は、E-マガのほうをご購読ください。
購読の仕方は、私のサイトのトップページから、マガジンコーナー
へ。)

よりアカデミックな(?)マガジンをご希望の方は、「はやし浩司の世界」を
どうかあわせて、ご愛読ください。お申し込みは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページより、「マガジン購読」コーナーへ、お進みください。

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02−5−24号(051)
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      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会 053−433−5945、村木様まで)

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今回のテーマは、「考える」です。

利口な子どもと、賢い子どもは、まったく別!
そんな視点から、「考える」について、いくつかの原稿をまとめてみました。

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子どもを賢い子にする法
(知識と思考を区別せよ!)思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度でき
た、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしい
と話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行
くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、
「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思ってい
た。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考え
て、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの
 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある
子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わな
い。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言ってい
る。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、
教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)
●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本
になっている。戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わ
っていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育
である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけ
ん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人に
よっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らな
い。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。
 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるというこ
とは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜
九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」
(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(373)

攻撃的に生きる人、防衛的に生きる人

 ほぼ三〇年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、S氏から、そ
の三〇年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。会話そのものがかみあわない。話が
表面的な部分で流れていくといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日
で五万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今
のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う
子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間
の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口
にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこ
る)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえ
ばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分
からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし二〇年、三〇年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようにな
る。それが「結果」として表れてくるからだ。先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからな
いかもしれないが)、今のS氏は、この三〇年間の生きざまの結果でしかない。攻撃的に生き
る人と、防衛的に生きる人とでは、自ずと結果はちがってくる。

 帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」
と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(374)

思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方
診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分が
それぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというの
だ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される
古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用を
コントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すの
は危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけ
ると、つぎのようになる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情
報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方で
いう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に
思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。もちろんいくら
頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、帯状回という
ことになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い人」というとき
は、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のことをいう。が、
考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切である。それぞ
れが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけである。
 
 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一
部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では
「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(375)

考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によると
ころが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がな
いということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはい
る。おとなでも考える力のないおとなはいる。

 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたとき
のこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三
個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言っ
た。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。

 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄
なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべってい
るかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来す
る情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。まれに気のきいたことを言うこ
ともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。あるいは他人の言ったことを受け売りしている
だけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみればわかる。目つきそのもの
が、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからといって、そういうタレントたち
が軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言っているのでもない。)

 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざり
にされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにするこ
と」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進
める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親
で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生
によく質問するのですよ」と言う。)その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりに
できる子どもを、「よくできる子」と評価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイス
イと泳いでいった。しかしこんなのは教育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇
は、こうした指導を教育と思い込んでしまったところにある。

 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」
を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。ま
たそうでなければならない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


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考える子どもにするポイント

(1)いつも、「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」と問いかける。
(2)子どもが何か意見を言ったら、「それはいいわね」「おもしろいね」と、ほめて伸ばす。

子どもに相談すること、問いかけることは、「親の恥」でも何でもない。もしそういう意識がある
なら、それこそ、誤解。あなたは子どもを対等の、一人の人間とし迎え入れ、子どもの友とし
て、子どもの横を歩く。それが子どもを考える子どもにするポイントということになる。あなたの
子どもも、それを待っている! 

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講演会のお知らせ

あちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
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件名:子育て情報(はやし浩司)5-26

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
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    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 255人
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         〔井井井〕
    MMMMM \井/
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 ○ q ・ ・ p ‖  
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 82人    
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    今回から、E-マガ、メルマガ、共通内容とします。

(どちらか一つという方は、E-マガのほうをご購読ください。
購読の仕方は、私のサイトのトップページから、マガジンコーナー
へ。)

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どうかあわせて、ご愛読ください。お申し込みは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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02−5−26号(052)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
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今回のテーマは、「子どもの心」です。
子どもの非行を防ぐ法について、考えてみました。
「うちの子はだいじょうぶ」と思う前に、ぜひ、一度、
読んでみてください。

親子の間にキレツを感じたら、なおそうと思わないこと。今の状態を
より悪くしないことだけを考えて、半年単位で様子をみる。一度閉じた
心を開くのは、容易ではありません。無理をすればするほど逆効果!

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子どもの非行を防ぐ法(無理、強制は避けろ!)

子どもが非行に走るとき  

●日々の生活の積み重ねで決まる
 よい子(?)も、そうでない子(?)も、大きな違いがあるようで、それほど違いはない。日々の
生活の積み重ねで、よい子はよい子になり、そうでない子はそうでなくなる。たとえば非行。盗
み、いじめ、暴力、喫煙、性犯罪、集団非行など。親が「うちの子に限って……」「まさか……」
と思っているうちに、子どもは非行に走るようになる。しかもある日、突然に、だ。それはちょう
ど、ものが臨界点を超えて、突然、爆発するのに似ている。

●こぼれた水は戻らない
 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼる
ように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→
(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴
行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮
がちに、しかも隠れて悪いことをしていた子どもでも、(叱られる)→(居なおる)→(さらに叱ら
れる)の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきこと
は、「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれがわからない。「なおそう」とか、
「元に戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に
無理を重ねる……。

●症状は一挙に悪化する
 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変
調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年
に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも前兆がないわけではない。その一
つ、生活習慣がだらしなくなる。たとえば目標や規則が守れない(貯金を使ってしまう。時間に
ルーズになる)、自己中心的(ゲームに負けると怒る。わがままで自分勝手)になり、無礼、無
作法な態度(おとなをなめるような言動、暴言)が目立つようになる。この段階で家庭騒動、家
庭崩壊など、子どもを取り巻く環境が不安定になると、症状は一挙に悪化する。

●特徴
 その特徴としては、(1)拒否的態度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「イラネ
エ〜」と拒否する。意識的に拒否するというよりは、条件反射的に拒否する)、(2)破滅的態度
(ものの考え方が、投げやりになり、他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関
心になる。他人への迷惑に無頓着になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、
(3)自閉的態度(自分のカラに閉じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「殺」などと
いう、どこか悪魔的な言葉に鋭い反応を示すようになる。「家族が迷惑すれば、結局はあなた
も損なのだ」と話しても、このタイプの子どもにはそれが理解できない。親のサイフからお金を
抜き取って、それを使い込むなど)、(4)野獣的態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが
鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツ
は、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をするようになる)など。心の中はいつも緊張状態
にあって、ささいなことで激怒したり、キレやすくなる。また一度激怒したり、キレたりすると、感
情をコントロールできなくなることが多い。

●プラス型とマイナス型
 もっともこうした症状が「表」に出る子どもは、まだよいほうだ。中には「内」にこもる子どもが
いる。前者をプラス型というなら、後者はマイナス型ということになる。威圧的な家庭環境、親
の過干渉、過関心が日常的に続くと、子どもの心は閉塞的になり、マイナス型になる。家の中
に引きこもったり、陰湿ないじめや、動物への虐待などを日常的に繰り返したりする。妄想をも
ちやすく、ものの考え方が極端になりやすい。私がA君(小一)に、「ブランコを横取りされまし
た。そういうときあなたはどうしますか」と聞いたときのこと。A君はこうつぶやいた。「そういうヤ
ツは、ぶん殴ってやればいい。どうせ口で言ってもわかんねえ」と。

●家庭生活の猛省を!
 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければ
ならない。しかしこれが難しい。たいていの親は原因を外へ求めようとする。「友だちが悪い」
「うちの子は、そそのかされているだけ」と。しかし反省すべきは、まず家庭のあり方である。
で、このタイプの親は、大きく次の二つのタイプに分けることができる。

(1)エリートタイプ……一つは、エリート意識が強く、他人の話に耳を傾けないタイプ。独断意
識が強い(※)。このタイプの親は、私のような立場の者がアドバイスしても、ムダ。「子どものこ
とは私が一番よく知っている」という確信のもと、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたに
は本当のことがわかっていない」と、はねのけてしまう。本来そうならないためにも、ほかの父
母との交流を多くして、風通しをよくしなければならない。が、その交流もしない。あるいはして
も形式的。見栄、メンツ、世間体を優先させてしまう。

(2)無責任タイプ……もう一つは、無責任で無教養なタイプ。その自覚がないだけではなく、さ
らに強制的に子どもをなおそうとする。暴力を加えることも多い。家庭の秩序そのものが、崩壊
している。ある中学校の校長は私にこう言った。「本当はこのタイプの親ほど、懇談会などにも
出席してほしいのですが、このタイプの親ほど来てくれません」と。子育てそのものから逃げて
しまう。あるいは子どもの言いなりになってしまう。あとはこの悪循環。盲目的な溺愛が、子ども
の変化を見落としてしまうこともある。私が「どうもよくない遊びをしているようですよ」と話したと
き、「私では何も言えません。先生のほうから言ってください」と頼んできた母親もいた。

●最後の「糸」を切らない
 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自
分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨て
られた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら
(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛して
いますからね」「どんなことがあっても、私はあなたのそばにいますからね」という姿勢を、徹底
的に貫く。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう
性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおらせる。そのためにも最後の「糸」は切っては
いけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧のように、子どもは心のより所をなくしてしま
う。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なおそう」とは思わないこと。現在の症状を
今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様子をみる。

 一般に、この非行も含めて、「心の問題」は、一年単位(一年でも短いほうだが……)で、その
推移を見守る。無理をすれば、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、
症状はさらにドロ沼化する。そしてその分、子どもの立ちなおりは遅れる。

※……特に最近の傾向として、「(1)外からとくに指摘される外形的問題は見られない、(2)親
は高学歴で経済的に安定している、(3)教育熱心で学校にも協力的である、(4)親の過保護、
過度の期待が潜在している」(日本教育新聞社・教育ファイル)ということも指摘されている。

(参考)
●ふえる「いきなり型」の非行
 二〇〇一年度版『青少年白書』によれば、「最近の少年非行の特徴として、凶悪犯で検挙さ
れた少年のうち、過去に非行歴のない少年が全体の約半数を占めている」という。白書はそれ
について、「一見おとなしくて目立たない『ふつうの子』が、内面に不満やストレスを抱え、それ
が爆発して起きる『いきなり型』の非行が新たに生じてきている」と分析している。

 そして最近の非行少年の共通点として、(1)自己中心的な価値観をもち、規範意識や被害
者に対する贖罪感(罪をあがなう意識)が低い、(2)コミュニケーション能力が低いことをあげ
ている。その要因としては、「少年の内面的な特徴について、対人関係がうまく結べないことを
あげ、パソコンや携帯電話の普及で、性や暴力に関する有害情報に接しやすい環境になって
いる」と、パソコンや携帯電話の弊害を指摘している。ちなみに浜松市の西隣に湖西市という
人口が四万人の町がある。その町の高校三年生に聞いてみたところ、二クラス計七二人のう
ち、携帯電話を持っていないのは、五人のみだそうだ(二〇〇一年一一月)。普及率は、九
四%ということになる。「携帯電話を持っていない人はどういう人か」と質問すると、「友だちが
いないヤツ」「変わり者」「つきあいの悪いヤツ」という答が返ってきた。


***************************************

家庭は心いやす場所

 子どもの世界は、(1)家庭を中心とする第一世界、(2)園や学校を中心とする第二世界、そ
して(3)友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世
界を中心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)

 第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭
は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならな
い。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第
三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。その結果、子どもは独特の症状を示すよう
になる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安として……。)

(第一段階)秘密が多くなる。つごうの悪いことや、失敗を、隠すようになる。親のいないところ
で体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠す。会話が減り、親からみて、
「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズしてはっきりしない」とかいうよ
うな様子になる。

(第二段階)親の存在を、あからさまに嫌うようになり、帰宅拒否(意識的なものというよりは、
無意識に拒否するようになる。たとえば園や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をす
るなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒し
たりする。あるいは反対に自分の部屋に引きこもるような様子を見せる。夜間の外出が目立つ
ようになり、門限がルーズになる。

(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだ
けもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にか
なったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、集団による
徘徊など。親子の関係は、いつも一触即発の状態になり、ささいなことで大喧嘩になる。会話
そのものができなくなる。

 最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、
非行や、子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親が無
理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重く
なる。

 要はこうならないように、(1)家庭は心をいやす場であることを大切にし、(2)子ども自身の
「逃げ場」を大切にする。ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになる
が、その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はそ
の逃げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけな
い。子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心
を守る。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



「生徒の持ちものを検査をせよ」・逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。親がこの逃げ場を平気で
侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出ということにもなり
かねない。そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ
場へ逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりし
てもいけない。子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保でき
ないとわかると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱られ
ると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬
小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももい
た。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れ
て、家出した。これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別
できる。が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛
省しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省す
る。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちも
のを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバン
の中など、のぞけるものではない。私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたこと
がない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするの
が、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。それが
わかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それをしては
いけない。子どもの尊厳を守るために。


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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(376)

子どもを一人の人間としてみる

 子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなって
あらわれる。

 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くな
り、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤
解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。「おばあ
ちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママに
は内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もい
た。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認める
こと。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう
視点で、子どもをみる。育てる。

 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従
の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だ
け、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言え
ば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。子どもを子どもあつかいすれば
するほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう子だ」というつかみどろころのこ
とを、「核」というが、そのつかみどころが遅れる。教える側からすると、「何を考えているかわ
からない子」という感じになる。そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくな
る。わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、おとなになる。このことはたとえば同年齢
の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生は、まるで
おとなと子どもほどの違いがある。

 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。
「別格」というと、聞こえはよいが、実際には、一人の人間として認めてもらえなかった。で、女
性は戦後、その地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終
わるわけではない。こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。
そして今度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世
代連鎖はつづく……。

 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと
言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そう
であってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。日本型の子育て観は、
決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させるという意味では、いろい
ろと問題がある。それがわかってほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(377)

親像

 子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子どもに冷
淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。

 このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入っていない
人とみる。つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい家庭をつくろ
う」「いい親でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子どもも疲れる。そしてその
結果、子育てで失敗しやすい。

 しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人のほう
が少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失敗を繰り
返すこと。たとえば暴力がある。子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を
受けたケースが多い。これを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てと
いうのは、親から子どもへと代々、繰り返される。

 そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因を自分
の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になるころから、自
分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言って遠ざけてきた。ま
た別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そういう過
去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこう言う。「子育ての
し方がわかりません」と。

 が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめること
がでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気負いが強
いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てをしながらも、い
つも心のどこかに戸惑いを感じていた。しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分
をコントロールできるようになった。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の
自分は子どもを受け入れていないぞ」と。「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間
が解決してくれる。繰り返すが、まずいのは、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その
過去に振りまわされることである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会 053−433−5945、村木様まで)

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講演会のお知らせ

あちこちで講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

5・24……竜洋町4園合同講演会

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

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件名:子育て情報(はやし浩司)5−28

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02−5−28号(053)
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      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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情報の洪水に溺れない

 テレビのクイズ番組。テーマは、どこかの国の料理道具。それをことさらおおげさに取り上げ
て、ああでもない、こうでもないという議論がつづく。ヒマつぶしには、それなりにおもしろいが、
そういう情報がいったい、何の役にたつというのだろうか。……と考えるのは、ヤボなことだ。
が、幼児教育にも、同じような側面がある。

 二〇〇二年の五月。私の手元にはいくつかの女性雑誌がある。その中からいくつかの記事
を拾ってみると……。「私は冷え性です。おむつをかえるとき、子どもがかわいそうです。どうす
れば手を温めることができますか」「階段をおりるとき、三歳の子どもは、一段ごとすわりながら
おります。手すりを使っておりるようにさせるには、どうすればいいでしょうか」「遊戯会で、親子
のきずなを深めるビデオのとり方を教えて」と。

 こうした情報は、一見役にたつかのようにみえるが、その実、へたをすると、情報の洪水に巻
き込まれてしまい、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。それはちょうど中華料理と和
食とイタリア料理をミキサーにかけて、ぐちゃぐちゃにしてしまうようなものだ。が、それではすま
ない。こうした情報に溺れると、思考能力そのものが停止する。一見考えているようだが、その
つど情報に引きまわされ、自分がどこへ向かっているのかさえわからなくなってしまう。まさに
「溺れた状態」になる。

 そこで子育てをするときには、いつも目標を定め、方向性をもたせる。「形」をつくれとか、「設
計図」をつくれというのではない。いつも自分の子育てを高い視点からみおろし、自分が今、ど
こにいるかを知る。それはちょうど、旅をするときの地図のようなものだ。それがないと、迷子
になるばかりか、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。たとえば不登校の問題。

 たいていの親は自分の子どもが不登校児になったりすると、狂乱状態になる。その気持ちは
わからないでもないが、今、アメリカだけでも、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学
習する子ども)が二〇〇万人を超えたとされる。ドイツやイタリアではクラブ制度(日本でいえば
各種おけいこ塾)が、学校教育と同じ、あるいはそれ以上に整備されている。カナダもオースト
ラリアもそうだ。さらにアメリカでは、学校の設立そのものが自由化され、バウチャースクール、
チャータースクールなどもある。「不登校を悪」と決めてかかること自体、時代遅れ。時代錯
誤。国際常識にはずれている。だからといって不登校を支持するわけではないが、しかしそう
いう視点でみると、不登校に対する見方も変わってくる。高い視点でものを考えるというのはそ
ういうことをいう。またそういう視点があると、少なくとも、「狂乱状態」にはならないですむ。

 テレビのクイズ番組を見ながら、あなたも一度、ここに書いたようなことを考えてみてほしい。

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子育てのコツ

子どもの運動能力

 子どもの運動能力は、敏捷(びんしょう)性で決まる。敏捷性があれば、ほぼどのスポーツも
できるようになる。反対にその敏捷性がないと、努力の割には、スポーツはうまくならない。で、
その敏捷性を育てるには、子どもは、はだしにして育てる。反対に、靴下に分厚い靴底の靴を
はかせて、どうやって敏捷性を育てるというのか。それがわからなければ、分厚い手袋をはめ
て、パソコンのキーボードやピアノの鍵盤をたたいてみればよい。しかもその時期というのは、
〇〜二歳までに決まる。ある子ども(男児)は二歳のときには、うしろむきにスキップして走るこ
とができた。お母さんに秘訣を聞くと、「うちの子は雨の日でもはだしで遊んでいます」ということ
だった。



子どもの国語力

 子どもの国語力は、母親が決める。もっと正確には、母親の会話能力が決める。将来、国語
が得意な子どもにしたかったら、「ほら、バス、バス、靴は?」という言い方ではなく、「もうすぐ
バスがきます。あなたは靴をはいて、外でバスを待ちます」と、正しい言い方で言い切ってあげ
る。こうした日常的な会話が、子どもの国語力の基礎となる。その時期も、やはり〇〜二歳が
重要。この時期、できるだけ赤ちゃん言葉を避け、できるだけ豊かな言葉で話しかける。たとえ
ば夕日を見ても、「きれい、きれい」だけではなく、「すばらしいね。感動的だね。ロマンチックだ
ね」などと、いろいろな言い方で言いかえてみる、など。

 心のやさしい子どもにしたかったら、心豊かで、穏やかな家庭環境を大切にする。子どもは
絶対的な安心感(つまり子どもの側からみて、疑いをいだかない安心感)の中で、心をはぐく
む。『慈愛は母のひざに始まる』と言ったのは※だが、全幅の信頼感と、全幅の愛情に包まれ
て育った子どもは、話していても、ほっとするようなぬくもりを覚える。心が開いているから、親
切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのまま子どもの心にしみこ
んでいくのがわかる。あとは会話の中で、だれかを喜ばすことを教えていけばよい。たとえば買
い物に行っても、「これがあるとパパは、きっと喜ぶわね」「これを買ってあげるけど、半分はお
姉さんに分けてあげようね」と。やさしい子どもというのは、自然な形で、だれかを喜ばすことが
できる子どものことをいう。
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頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、「サイエンス」という雑誌に、「ガムをかむと頭がよくなる」という
研究論文が発表された。ガムをかむことにより、脳への血行が刺激され、ついで脳の活動が
活発になる。その結果、頭がよくなるというものだった。素人の私が考えても、合理性のある内
容だった。そこでこの話を懇談会の席ですると、数人の母親が、「では……」と言って、毎日子
どもにガムをかませるようになった。

 その結果だが、A君(ガムをかみ始めたのは年中児のとき)は、小学三年生になるころには、
本当に頭がよくなってしまった。もう一人そういう男の子もいたが、この方法は、どこかボンヤリ
していて、ものごとに対する反応の鈍い子どもに有効である。(こう断言するのは危険なことか
もしれないが、A君について言えば、年中児のときには、まるで反応がなく、一〇人中でも最下
位をフラフラしているような子どもだった。その子どもが小学三年になるころには、反対に、一
〇人中でも、最上位になるほど反応が鋭くなった。)



計算力をつける方法

 計算力は、訓練で伸びる。訓練すればするほど、計算は速くなる。で、その計算力を伸ばす
カギが、「早数え」。言いかえると、幼児期は、この早数えの練習をするとよい。たとえば手をパ
ンパンと叩いて、それを数えさせるなど。少し練習すると、一〇秒前後の間に、三〇くらいまで
のものを数えることができるようになる。最初は「ひとつ、ふたつ……」と数えていた子どもが、
「イチ、ニイ……」、さらに「イ、ニ……」と進み、やがて「ピッ、ピッ……」と信号化して数えること
ができるようになる。こうなると、「2+3」の問題も、「ピッ、ピッと、ピッ、ピッ、ピッで5!」と計
算できるようになる。反対に早数えが苦手な子どもに、足し算や引き算を教えても、苦労の割
には計算は速くならない。



子どもの姿勢をよくする方法(集中力も!)

 少し暑くなると、体をくねくねさせ、座っているだけでもたいへんと思われる子どもがでてくる。
中には机の上のぺたんと体をふせてしまう子どももいる。そういう子どもを見ると、親は、「どう
してうちの子は、ああも行儀が悪いのでしょうか」と言う。そして子どもに向かっては、「もっと行
儀よくしなさい」と叱る。しかしこれは行儀の問題ではない。このタイプの子どもは、まずカルシ
ウム不足を疑ってみる。

 筋肉の緊張を保つのが、カルシウムイオンである。たとえば指を動かすとき、脳の指令を受
けて、指の神経はカルシウムイオンを放出する。このカルシウムイオンが、筋肉を動かす。(実
際にはもう少し複雑なメカニズムでだが、簡単に言えばそういうことになる。)が、このカリシウ
ムイオンが不足すると、筋肉が緊張を保つことができなくなり、ついで姿勢が悪くなる。もしあな
たの子どもにそのような症状が出ていたら、(1)骨っぽい食生活にこころがけ、(2)カルシウム
の大敵であるリン酸食品を減らし、(3)白砂糖の多い、甘い食生活を改める。子どもによって
は、数日から一週間のうちに、みちがえるほど姿勢がよくなる。



子どもの運筆能力

 子どもの運筆能力は、丸(○)を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムー
ズなきれいな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。
ちなみに縦線を描くときときと、横線を描くときは、手や指、手首の動きはまったく違う。幼児は
縦線が苦手で、かつ曲線となると、かなり練習をしないと描けない。

 その運筆能力を養うには、ぬり絵が最適。こまかい部分を、縦線、横線、曲線をまじえなが
ら、ていねいにぬるように指導する。この運筆能力のあるなしは、満四〜五歳前後にはわかる
ようになる。この時期の訓練を大切にする。それ以後は、書きグセが定着してしまい、なおす
のがむずかしくなる。



子どもの母性を育てる方法

 母性(父性でもよい)のあるなしは、ぬいぐるみの人形を、そっと手渡してみるとわかる。母性
が育っている子どもは、そのぬいぐるみを、さもいとおしいといった様子で、じょうずに抱く。中
には頬をすりよせたり、赤ちゃんの世話をするような様子を見せる子どももいる。しかし母性の
育っていない子どもは、ぬいぐるみを見せても反応を示さないばかりか、中には投げて遊んだ
り、足でキックしたりする子どももいる。全体の約八〇%が、ぬいぐるみに温かい反応を示し、
約二〇%が反応を示さないことがわかっている(年長児〜小学三年生)。

 ぬいぐるみには不思議な力がある。もし「うちの子は心配だ」と思っているなら、一度、ぬいぐ
るみを与えてみるとよい。コツは、一度子どもの前で、大切そうにそのぬいぐるみの世話をす
る様子を見せてから渡すこと。あるいは世話のし方を教えるとよい。まずいのは買ってきたま
ま、袋に入れてポイと渡すこと。ちなみに約八〇%の子どもが、日常的にぬいぐるみと遊び、そ
のうち約半数が、「ぬいぐるみ大好き!」と答えている。



知的好奇心を刺激する方法

 子どもの知的好奇心を伸ばすためには、「アレッ!」と思う意外性を多くする。「マンネリ化し
た単調な生活は、知的好奇心の敵」と思うこと。決してお金をかけrということではない。意外性
は、日常生活のほんのささいなところにある。ある母親は、おもちゃのトラックの上に、お寿司
を並べた。また別の母親は、毎日違った弁当を、子どものために用意した。私も以前、オース
トラリアの友人がホームステイしたとき、彼らが白いご飯の上に、ココアとミルクをかけて食べ
ているのをみて、心底驚いたことがある。こうした意外性が、子どもの知的好奇心を刺激する。

 なお最近よく右脳教育が話題になるが、一方で、頭の中でイメージが乱舞してしまい、ものご
とを論理的かつ分析的に考えられない子どもがふえていることを忘れてはならない。「テレビな
どの映像文化が過剰なまでに子どもの世界を包んでいる今、あえて右脳教育は必要ないので
はないか」(九州T氏)という疑問も多く出されている。私もこの意見には賛成である。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(379)

家族の悪口は言わない

 ある母親は娘(小四)に、いつもこう言っていた。「お父さんは、ただの倉庫番よ。お父さんの
給料が少ないから、お母さん、苦労しているのよ」と。「お父さんは大学を出てないから、苦労し
てるのよ。あなたはお父さんのような苦労をしないでね」と言った母親もいた。

 母親は、自分の子どもを味方にしたり、自分の夢や希望をかなえてもらいため、そう言ってい
たのだろうが、そういう言い方をすると、娘は父親の言うことは聞かなくなるばかりか、それ以
上に母親の言うことを聞かなくなる。仮にそのとき、娘が同情したり、納得するフリを見せたとし
ても、それはあくまでもフリ。夫婦が一枚岩でも子育てがむずかしい時代に、こういう状態で、
どうして満足な子育てができるというのか。

 たとえそうであっても、母親は子どもの前では、父親を立てる。決して封建的なことを言ってい
るのではない。互いに高めあって、つまり高度な次元で尊敬しあってはじめて、「平等」が成り
立つ。こういうケースでも、母親は子どもにはこう言う。「お父さんは、私たちのためにがんばっ
ていてくれるのよ」とか、「お母さんはお父さんの考え方が好きよ。会社でもみんなに尊敬され
ているのよ」と。

 同じように、学校の先生についても、悪口を言ってはいけない。子どもが何か、悪口を言って
も、相づちを打ってもいけない。「あなたたちが悪いからでしょ」と言って、はねのける。あなた
が学校の先生の悪口を言うと、その言葉はどんな形であれ、(あるいは子どもの態度をとおし
て)、先生に伝わる。教育は人間関係で決まる。そういう話が先生に伝わると、先生は確実に
やる気をなくす。そればかりではない。子ども自身が、先生に従わなくなる。そうなればなったと
き、教育は崩壊する。

 親にせよ、先生にせよ、悪口は、それを言えば言うほど、その人を見苦しくする。子育てにつ
いて言えば、マイナスになることはあっても、プラスになることは何もない。とくに子どもの前で
は、だれの悪口にせよ、言わないことこそ、賢明。子どもの前では、その人のよい面だけを見
て、それをほめるようにする。そういう姿勢が、他方で子どもを伸ばす。
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7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
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7・20……伊平小学校

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6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

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件名:子育て情報(はやし浩司)5-30

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今日の話題

●子どもを伸ばす会話、子どもをつぶす会話
●「今を生きる」生き方を考える

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友人のT氏の弟氏は、四〇歳のときに、それまでの会社勤めをやめ、
単身、マレーシアのクアランプールに渡り、そこで中古のヨットを
購入。さらにそこで知り合ったフランス人の女性と意気投合し、そ
の話をT氏から聞いたときには、インド洋を航海中とのこと。私は
めったに、「いいなア〜」とは思わない性格ですが、この話を聞いた
ときには、「いいなア〜」と思いました。
その弟氏は独身だったから、そういうことができたのかもしれませ
ん。それに航海といっても、それほどロマンチックなものではない
でしょう。まさに命がけの冒険です。しかし私はそういう生き方を
する人に、限りない共感を覚えます。

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読者の皆さんへ

●このマガジンはお役にたっていますか? このところ毎週、少しずつですが
読者の方の人数が多くなり、やりがいがでてきました。またそのつど多くの
方から、「励ましのメール」や、「お礼のメール」をいただき、それがますま
す私のやる気をふるいたたせています。ありがとうございます。いろいろな
本や記事を書いてきましたが、これほどまでに読者の人の「数」や「声」が
直接届くのは、はじめての経験です。この先、どこまでつづけられるかわか
りませんが、できるかぎりがんばってこのマガジンを書いてみたいと考えて
います。これからもよろしくお願いします。

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●「家族」を大切にしながら、自分の人生を生きる……。どこか矛盾しているように
感じますが、だれしもその限界の中で、懸命に生きているのかもしれませんね。今
回は、それをテーマに考えてみました。あわせて皆さんの子育ての場で、私の意見
がお役にたてれば、こんなうれしいことはありません。なお※印の原稿は、以前、
新聞などで発表したものです。

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子どもを伸ばす会話術

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(親の価値観を変える)
●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。
●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)
●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。
●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句)
●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う)
●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。
●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る)
●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。
●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。
●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。
●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。
●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
のプラスの暗示をかける)
●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、
直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法な
ど。あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子ども
には、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えて
あげようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子
どもに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。

***************************************

※今を生きる子育て論

 頭からちょうちんをぶらさげて、キンキラ金の化粧をすることを、個性とは言わない。個性とは
バイタリティ。「私は私」という生きざまを貫くバイタリティをいう。結果としてその人は自分流の
生きざまを作るが、それはあくまでも結果。私の友人のことを書く。

 私はある時期、二人の仲間と、ある財界人のブレーンとして働いたことがある。一人は秋元
氏。日韓ユネスコ交換学生の一年、先輩。もう一人はピーター氏。メルボルン大学時代の一
年、後輩。私たちは札幌オリンピック(七二年)のあとの、国家プロジェクトの企画を任された。
が、ニクソンショックで計画はとん挫。私たちは散り散りになったが、それから二〇年後。秋元
氏は四〇歳そこそこの若さで、日本ペプシコの副社長に就任。またピーター氏は、オーストラリ
アで「ベンティーン」という宝石加工販売会社を起こし、やはり四〇歳そこそこの若さで、巨億の
財を築いた。オーストラリア政府から、取り扱い高ナンバーワンで、表彰されている。

 三〇年前の当時を思い出して、彼らが特別の人間であったかどうかと言われても、私はそう
は思わない。見た感じでも、ごくふつうの青年だった。しいて言えば、彼らはいつも何かの目標
をもっていたし、その目標に向かってつき進む、強烈なバイタリティをもっていた。秋元氏は副
社長になったあと、あのマイケル・ジャクソンを販売促進のために日本へ連れてきた。ピーター
氏は稼ぐだけ稼いだあと、会社を売り払い、今はシドニー郊外で、悠々自適の隠居生活をして
いる。生きざまを見たばあい、私は彼らほど個性的な生き方をしている人を、ほかに知らな
い。が、問題がないわけではない。

 実は私のことだが、この私とて、当時は彼らに勝るとも劣らないほどの、バイタリティをもって
いた。が、結果としてみると、彼ら二人は個性の花を開かせることができたが、私はできなかっ
た。理由は簡単だ。秋元氏は、その後、外資系の会社を渡り歩いた。ピーター氏は、オースト
ラリアへ帰った。つまり彼らの周囲には、彼らのバイタリティを受け入れる環境があった。しか
し私にはなかった。私が「幼稚園の教師になる」と告げたとき、母は電話口の向こうで、泣き崩
れてしまった。学生時代の友人(?)たちは、「あのはやしは頭がおかしい」と笑った。高校時代
の担任まで、同窓会で会うと、「お前だけはわけのわからない人生を送っているな」と、冷やや
かに言ってのけた。

 世間は、「個性を伸ばせ」という。しかし個性とは何か、まず第一に、それがわかっていない。
次に個性をもった人間を、受け入れる度量も、ない。この三〇年間で日本もかなり変わった
が、しかし欧米とくらべると、貧弱だ。いまだに肩書き社会に出世主義。それに権威主義がハ
バをきかせている。組織に属さず、肩書きもない人間は、この日本では相手にされない。い
や、その前に排斥されてしまう。

 そんなわけで、個性を伸ばすということは、教育だけの問題ではない。せいぜい教育でできる
ことといえば、バイタリティを大切にすること。繰り返すが、その後、その子どもがどんな「人」に
なるかは、子ども自身の問題であって、教育の問題ではない。



※今を生きる子育て論(2)

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論の
ある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映る
のは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、
心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そ
ういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切では
ないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。



今を生きる子育て論(3)

 仕事をしているときは、休みの日のことばかり。それはわかる。しかしこのタイプの人は、休
みになると、今度は仕事のことしか考えない。だから休みの日を、休みの日として休むことがで
きない。もともと「今」を生きるという姿勢そのものがない。いつも「今」を未来のために犠牲に
するという生き方をする。しかしこういう生き方は、すでに子どものときから始まり、そして老人
になってからもつづく。

 A氏(五八歳)は、いつもこう言っている。「私は退職したら、女房とシベリア鉄道に乗り、モス
クワまで行く」と。しかし私は、A氏は、退職してからも、モスクワまでは行かないだろうと思う。
仮に行ったとしても、その道中では、帰国後の心配ばかりするに違いない。「今を生きる」という
生きザマにせよ、「未来のために今を犠牲にする」という生きザマにせよ、それはまさに「生き
ザマ」の問題であって、そんなに簡単に変えられるものではない。A氏について言うなら、今ま
で、「未来のために今を犠牲にする」という生き方を日常的にしてきた。そのA氏が退職したと
たん、その生きザマを変えて、「今を生きる」などということは、できるはずもない。

 ……そこで私たち自身はどうなのかという問題にぶつかる。私たちは本当に「今」を生きてい
るだろうか。あるいはあなたの子どもでもよい。私たちは自分の子どもに、「今を大切にしろ」と
教えているだろうか。子どもたちはそれにこたえて、今を大切に生きているだろうか。ある母親
はこう言った。「日曜日などに子どもが家でゴロゴロしていると、つい、『宿題はやったの?』、
『今度のテストはだいじょうぶなの?』と言ってしまう」と。親として子どもの「明日」を心配してそ
う言うが、こうした言い方は、少しずつだが、しかし確実に積み重なって、その子どもの生きザ
マをつくる。子ども自身もいつか、「休むのは、仕事のため」と考えるようになる。

 当然のことだが、人生には限りがある。しかしいつか突然、その人生が終わるわけではな
い。健康も少しずつむしばまれ、気力も弱くなる。先のA氏にしても、定年後があるとは限らな
い。この私にしても、五〇歳をすぎるころから、ガクンと気力が落ちたように思う。何かにつけて
新しいことをするのが、おっくうになってきた。

 日本人は戦後、ある意味で、「今をがむしゃらに犠牲にして」生きてきた。会社人間、企業戦
士という言葉もそこから生まれ、それがまたもてはやされた。そういう親たちが、第二世代をつ
くり、今、第三世代をつくりつつある。こうした生きザマに疑問をもつ人もふえてはきたが、しか
し一方で、その生きザマを引きずっている人も多い。仕事第一主義が悪いというわけではない
が、今でも「仕事」を理由に、平気で家族を犠牲にし、人生そのものまで犠牲にしている人も多
い。仕事は大切なものだが、「何のために仕事をするのか」という原点を忘れると、人生そのも
のまで棒に振ってしまうことになる。



「子どもたちへ」

見てごらん、やさしくゆれる緑の木々
感じてごらん、肌をさする初夏のそよ風
聞いてごらん、楽しく遊ぶ小鳥のさえずり
それが「今」なんだよ

明日があるって?
昨日があるって?
本当かな?
本当にあるのかな?
あるというのなら、どこにあるのかな?

「明日」というクサリを解き放ってみようよ
「昨日」というクサリを解き放ってみようよ
解き放って、「今」を懸命に生きてみようよ
「明日」がなくても、悲しむことはないよ
「昨日」がどんなものであっても、嘆くことはないよ
明日がどんなものであれ、今の君は、今の君
昨日がどんなものであれ、今の君は、今の君

大きく息を吸って
目をしっかりと開いて
地面を強く足でたたいて
「今」を懸命に生きてみようよ
結果など、気にすることはないよ
結果はかならずあとからついてくる
心も体も、あとからついてくる

だからね、「今」を大切に生きようよ
ただひたすら自分に誠実に
ただひたすら自分に正直に
ただひたすら自分に素直に
だってね、今、ぼくたちはこうして生きているのだから……

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おまけ

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(389)

心の貧しい若者たち

 こんなバラエティ番組があった。 

 若いカップルのうち、男が携帯電話をテーブルに置いたまま、席を離れる。時間は一〇分だ
が、その間に相手の女性が、それを盗み見するかどうかを確かめるという番組である。喫茶店
かどこかの一室だが、あちこちに隠しカメラがセットしてあり、女性の行動はもちろん、さらにど
こを盗み見しているかまでわかるようになっていた(〇二年五月)。

 何とも低俗きわまりない番組だが、それ以上に、司会の男といい、出てくる男女といい、こうし
てコメントするのも、なさけないほど低劣な出演者だった。一片の知性も理性も感じなかった。
それはともかく、案の定というか、その番組で顔を出した女性の全員が、その盗み見をしてい
た。中には何のためらいもなく、平気で盗み見している女性もいた。結論は、「あなたの恋人
も、あなたの携帯電話を盗み見している」(レポーター)ということだった。その番組を見終わっ
たあと、私は何とも言われない不快感に襲われた。「人を信じろ」という内容の番組ならともか
く、「人を疑え」という内容の番組だった。こういう番組が、何の恥じらいも抵抗もなく、テレビと
いう最新機器を使って、全国に垂れ流される恐ろしさ。この浜松でも、地方都市の悲しさという
か、「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。地方都市の地方に住む人が、その地
方をバカにしているから話にならない。あるいは地方の価値を認めていない。タレントの世界に
は、こんな隠語がある。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。

 話はそれたが、私はその番組を見ながら、「時間をムダにしたくない」という思いから、こんな
ことを考えた。

 一般論から言えば、「誠実さのない人間」「道徳心や倫理観に欠ける人間」は、心の貧しい幼
少期を過ごしたとみてよい。犬でも、愛犬家のもとで手厚い愛情を受けて育った犬ほど、忠誠
心が強くなる。態度も大きく、どっしりとした落ち着きがある。そうでない犬は、忠誠心も弱い。
だれにでもヘラヘラとシッポを振る。同じように、こういう番組の中で、平気で相手の携帯電話
を盗み見する女性というのは、それだけ心の貧しい家庭環境で育った女性とみてよい。そうい
う意味では、かわいそうな女性ということになる。生まれながらにして、「人を疑う」という姿勢が
身についている。一見美しいファッションに身を包んでいたが、その目つきには醜悪さが満ちあ
ふれていた。いや、もう一歩踏み込むと、こんなことも言える。

 ああいう番組をプロデュースすることができる人間もまた、心のさみしい人たちだということ。
恐らく受験戦争だけを勝ち抜いて、テレビ局という花形企業に就職したのだろう。頭はキレる
が、心を育てることができなかった……? 日本の思想や文化をリードしているという誇りも自
負心もない。ただただ「これでいいのか?」という疑問ばかりが残る、あと味の悪い番組だっ
た。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(391)

仲間に入れない子ども

 小学生の低学年児でも、仲間がワイワイ騒いでいるとき、その輪に入ることができず、その
周囲で静かにしている子どもは、一〇人の中に二人はいる。適当に相づちを打ったり、軽く反
応することはあっても、自分から話題を投げかけたり、話してかけていくことはない。対人恐怖
症とか、性格的に萎縮しているといったふうでもない。で、よく観察すると、いくつかの特徴があ
るのがわかる。そのひとつが、自分の周囲を小さくすることで、防衛線をはるということ。静か
におとなしくすることによって、自分に話題の火の粉がかからないようにしているのがわかる。
そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

 心はいつも緊張していて、その緊張をほぐすことができない。もっと心を開けばよいのにと思
うが、その前の段階で、心をふさいでしまう。だからといって社会性がまったくないわけではな
い。別の集団や、あるいは小人数の気を許した仲間の間では、結構騒いだりすることができ
る。一方、情緒の何らかの障害があるとき、たとえばここにあげた対人恐怖症の子どものばあ
いは、集団がかわっても心を開くことができない。

 そこでこの段階で、二つの仮説が考えられる。ひとつは、このタイプの子どもを、軽い情緒障
害と位置づける考え方。もうひとつは、まったく別の症状と位置づける考え方。心の緊張感がと
れないというのは、情緒障害児に共通してみられる症状で、それが「障害」と呼べるほども重く
ないと考えることには合理性がある。実際のところ、かん黙児が、自分の周囲に防衛線を張
り、他者の侵入を許さないという症状と、どこか似ている。

 また「まったく別の症状」と位置づけるのは、言うまでもなく、それが「問題だ」と言えるほどの
問題ではないことによる。このタイプの子どもはどこにでもいるし、またいたところでどうというこ
とはない。ただ親の中には、「どうしてうちの子は、みんなの輪の中に入っていけないのでしょう
か」と相談してくるケースは多い。また集団の中では精神的に疲労しやすく、その分、家へ帰っ
てからなどに、親の前では乱暴な言葉をつかったり、ぐずったりすることはある。が、その程
度。集団から離れると、このタイプの子どもは再び自分の世界に戻ることができる。

 ……というように子どもの心の世界は、複雑で、それだけにまだ未解明の部分が多い。だか
ら「おもしろい」というのは不謹慎な言い方になるかもしれないが、「さらに調べてみよう」という
気にはなる。そういう意味では心がひかれる。

 ついでながら、この問題について言うなら、集団になじめないからといって、おおげさに考える
必要はない。だれしも得意、不得意というのはある。集団の中でワイワイ騒ぐから、それでよい
ということにはならない。騒げないからいけないということにもならない。そういう視点で、自分
の子どもは自分の子どもと割り切ることも、大切である。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/) 

***************************************

講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
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件名:子育て情報(はやし浩司)6-1

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
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    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 269人
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         〔井井井〕
    MMMMM \井/
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 ○ q ・ ・ p ‖  
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
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    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 79人    
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02−6−1号(055)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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今日の話題

●問題のある子ども
●弱者の視点で……
●ジュース、アイス、待った!

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安易に甘い食品を子どもに与えていませんか。夏になると、自分の体をもてあまし、体を
クネクネさせる子どもが急増します。もちろん集中力もなく、ダラダラする……。まず疑って
みるべきは、カリシウムイオンです。

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問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での
講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教え
る側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかしいとい
う思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。それに「あなたの子ではな
いか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに自分の子どもは、自分の子
どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわけで、たまたまあなたの子育
てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。相手が大学の教授であったりす
ると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない
(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。それこそ
ただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。その無意識
であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『教育論は、教育で失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役にた
つ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、
ほとんど役にたたない。が、一般世間の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話
をもとに自分の子育てを組みたてる。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべっ
たときのことなど考えない。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺
症が残るなどということは考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い
人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から
読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。そういう
意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう視点が、いつかあ
なたの子育てを救うことになる。



弱者の立場で考える

 学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢を
もてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

 実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。(中日新聞で発表済)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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親をなおす、子をなおす

 子どもに何か問題があると、ほとんどの親は子どもをなおそうとする。「うちの子はハキがあ
りません」「うちの子は消極的です」「うちの子は内弁慶です」「うちの子は勉強をしたがりませ
ん」「うちの子は乱暴です」などなど。もちろん情緒障害児や精神障害児と呼ばれる子どもは別
だが、こうしたケースでは、子どもをなおそうと思わないこと。まず親自身が自らをなおす。こん
なケースがある。

 その母親の子ども(小五女児)が、親のはげしい過干渉と過負担から、ある日突然、無気力
症候群におちいり、そのまま学校へ行かなくなってしまった。私にあれこれ相談があったが、そ
の一方で、その母親は中二の息子の受験競争に狂奔していた。その相談があった夜も、「こ
れから息子を塾へ迎えにいかねばなりませんから」と、あわただしく私の家から出ていった。
「兄は別」と考えているようだったが、その兄だって妹のようになる確率はきわめて高い。

 さらに親というのは身勝手なもの(失礼!)。少しよくなると、「もっと」とか、「さらに」とか言い
出す。やっと長い不登校から抜け出し、何とか学校へ行くようになった子ども(小二男児)がい
た。そんなある日、居間で新聞を読んでいると、母親から電話がかかってきた。てっきり礼の電
話だと思って受話器をとると、母親はこう言った。「何とか午前中は授業を受けるようになった
のですが、どうしても給食はいやだと言って、給食を食べようとしません。学校から電話がかか
ってきて、今は、保健室にいるそうです。何とか給食を食べるようにさせたいのですが……」
と。

 もっとも子どものことがよくわかっていてくれるなら、私も救われる。しかし実際には、子ども
のことがまったくわかっていない親も多い。以前、場面かん黙児の子ども(年中男児)がいた。
ふとしたきっかけで、貝殻を閉ざすように、かん黙してしまう。たまたま母親が参観にきていた
ので、子どもの問題点に気づいてもらおうと、その子どもがかん黙する姿を、それとなく見ても
らった。が、その夜、母親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたはうちの息子を萎
縮させてしまった。あんな子どもにしてしまったのは、あなたのせいだ。どうしてくれる!」と。

 子どもの問題という言葉はよく聞かれる。しかし実際には、子どもの問題イコール、親の問題
である。これはもう三〇年以上も子どもの問題にかかわってきた「私」の結論ととらえてもらって
よい。少なくとも、子どもだけを見ていたのでは、子どもの問題は解決しない。

(私は過去三〇年以上、無数の子育て相談に応じてきたが、こうした子育て相談で、だれから
も、一円の報酬も受けたことはない。受け取ったこともない。念のため。)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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部屋の中はまるでクモの巣みたい!

砂糖は白い麻薬

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏にな
り、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると
考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された
砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ
白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そ
のインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑
制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったと
きのことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてで
しょう?」と。U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過
剰行動性が強くみられた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみ
る。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それ
で残したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。
そこで計算してみるとU君は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していること
がわかった。かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめ
た。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをく
れ、ビスケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻
薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれ
だった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指
示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のよう
に、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを問いかけ
ても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。
母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」
と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖の
ないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなく
ても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜
一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮
性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて
手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウム
の多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメも
と。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえる
ほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸
食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ
排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。
たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスク
リーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるた
め)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよ
くするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をお
だやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりすると
き、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れ
て対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分
な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなど
ということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂
糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、
それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイ
ライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなど
の原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のよ
うに愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖
の量が多く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白
砂糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の
脳水腫をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神
疲労しやすく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の
発育は不良、機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。
子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



(実際あった、ケースより)

「私に包丁を投げつけます!」・発作的に暴れる子ども

 ある日の午後。一人の母親がやってきて、青ざめた顔で、こう言った。「娘(年中
児)が、包丁を投げつけます! どうしたらよいでしょうか」と。話を聞くと、どう
やら「ピアノのレッスン」というのが、キーワードになっているようだった。母親が
その言葉を口にしただけで、子どもは激変した。「その直前までは、ふだんと変わり
ないのですが、私が『ピアノのレッスンをしようね』と言ったとたん、別人のように
なって暴れるのです」と。

 典型的なかんしゃく発作による家庭内暴力である。このタイプの子どもは、幼稚園
や保育園などの「外」の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずることが多
い。柔和でおとなしく、静かで、その上、従順だ。しかもたいてい繊細な感覚をもっ
ていて、頭も悪くない。ほとんどの先生は、「ものわかりがよく、すなおなよい子」
という評価をくだす。しかしこの「よい子」というのが、クセ者である。子どもはそ
の「よい子」を演じながら、その分、大きなストレスを自分の中にため込む。そして
そのストレスが心をゆがめる。つまり表情とは裏腹に、心はいつも緊張状態にあっ
て、それが何らかの形で刺激されたとき、暴発する。ふつうの激怒と違うのは、子ど
も自身の人格が変わってしまったかのようになること。瞬間的にそうなる。表情も、
冷たく、すごみのある顔つきになる。

 ついでながら子どもの、そしておとなの人格というのは、さまざまな経験や体験、
それに苦労を通して完成される。つまり生まれながらにして、人格者というのはいな
いし、いわんや幼児では、さらにいない。もしあなたが、どこかの幼児を見て、「よ
くできた子」という印象を受けたら、それは仮面と思って、まずまちがいない。つま
り表面的な様子には、だまされないこと。

 ふつう情緒の安定している子どもは、外の世界でも、また家の中の世界でも、同じ
ような様子を見せる。言いかえると、もし外の世界と家の中の世界と、子どもが別人
のようであると感じたら、その子どもの情緒には、どこか問題があると思ってよい。
あるいは子どもの情緒は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときを見て、判断
する。運動会のあとでも、いつもと変わりないというのであれば、情緒の安定した子
どもとみる。不安定な子どもはそういうとき、ぐずったり、神経質になったりする。

 なお私はその母親には、こうアドバイスした。「カルシウムやマグネシウム分の多
い食生活にこころがけながら、スキンシップを大切にすること。次に、これ以上、症
状をこじらせないように、家ではおさえつけないこと。暴れたら、『ああ、この子は
外の世界では、がんばっているのだ』と思いなおして、温かく包んであげること。
叱ったり、怒ったりしないで、言うべきことは冷静に言いながらも、その範囲にとど
めること。このタイプの子どもは、スレスレのところまではしますが、しかし一線を
こえて、あなたに危害を加えるようなことはしません。暴れたからといって、あわて
ないこと。ピアノのレッスンについては、もちろん、もう何も言ってはいけません」
と。

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おまけ

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(392)

 ある母親の相談からこんな手紙を受け取った。手紙というより、ある団体が集めた、相談用
紙だった。そのひとつ。

 「年中の男のです。ひらがなの書き順がめちゃめちゃ。なおしてあげようとすると、大声で泣
いて暴れて抵抗します。それに手と足の指の爪をかむクセがどうしてもなおりません。何かあ
ると、やたらと『頭が痛い』と言い、『じゃあ、病院へ行こうか』と声をかけると、『いい』と言いま
す。おかげで私は毎日、子どもを怒ってばかり。親が怒りすぎるのは、どうしたらよいでしょう
か。このところ、私の言うことなど何も聞いてくれません。気にくわないことがあると、手当たり
次第にものを投げつけたりします」と。

 順に考えれば、(1)大声で泣いて暴れるのは、かんしゃく発作。(2)手と足の指の爪をかむ
のは、神経症による代償行為。(3)「頭が痛い」というのは、本当に痛ければ、やはり神経症、
もしくは何らかの恐怖症の初期症状。(4)親が怒ってばかりいるのは、家庭教育そのものが、
すでに危険な状態に入っている。(5)「私の言うことは何も聞いてくれない」というのは、親子断
絶の初期症状などなど。(6)書き順を教えるのが、文字教育と思い込みすぎている点も、気に
なる。こういう指導法は、子どもを文字嫌いにする。さらには国語嫌いにする。エビでタイをつる
前に、エビを食べてしまうような指導法といってもよい。この時期大切なことは、文字は楽しい、
本はおもしろいという前向きな姿勢を育てること。トメ、ハネ、ハライをうるさく言い過ぎると、子
どもは文字に対して恐怖心をもつことすらある。ちなみに年中児で、「名前を書いてごらん」と指
示すると、約二〇%の子どもが、顔を曇らせ、体をこわばらせることがわかっている。中には
涙ぐむ子どもすらいる。一度、こうなると、以後、文字(本や国語)が好きになるということは、ま
ずない。

 が、それ以上に気になるのは、この母親は、子どものリズムというものが、まったくわかって
いない。いつも「自分が正しい」という大前提で、自分の子育て法を子どもに押しつけている。
子どもは子どもで、親にあたふたと引っ張りまわされているだけ。親子の間に、こういう不協和
音が流れると、あとはそれが底なしの悪循環となって、家庭教育は完全に崩壊する。あと数年
もすれば、体格も大きくなり、親の手には負えなくなる。子どもは「ウッセエ、このババア、サッ
サと、小づかい、よこせ!」と、言うようになるかもしれない。

 こういうケースでは、(1)〜(6)の症状は、いわば表面的な症状。基本的には、母親が子ども
のリズムで生活していない。言いかえると、これらの問題を解決しようとするなら、まず子ども
のリズムで生活すること。親意識が強ければ、それを改める。さらに母親自身に何か大きなわ
だかまりがあるのかもしれない。あればそれが何であるかを知る。子どもをなおそうと思うので
はなく、自分自身をなおす。あとは少し時間がかかるが、それでなおる。年中児といえば、なお
すための、そのギリギリの年齢とみてよい。

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

6・1……大福寺保育園(三ケ日)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
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件名:子育て情報(はやし浩司)6-3

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02−6−3号(056)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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今日のテーマ、「意識」

●金沢学生新聞の連載が、12回目を迎えました。
●あなたの親意識は、どのタイプ?
●ご注意! 武士道の復活

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毎日、ワールドカップの試合を見ていますが、一日三試合(昨日)も見ると、さすが少し
あきてきました。あす4日は、いよいよ日本対ベルギー戦ですが、それまで緊張感
を持続できるかどうか? 私はもともと球技が苦手です。子どものころ一度、野球の硬式
ボールで、デッドボールをくらってから、球技がすべて苦手になってしまいました。

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金沢学生新聞2002年6月号より

日本の全体主義(総理府の使節団がやってきた)

●総理府の使節団
 一〇月へ入ると、メルボルンの気候は、不安定になる。そんなある日、領事館のほうから連
絡が入り、日本の総理府から派遣された使節団が来るから、私のほうで接待してほしいと言っ
てきた。が、ハウスの事務に相談すると、「ハウスとしては、歓迎しない」とのこと。英語で「歓迎
しない」というのは、「いやだ」という意味。たとえば「I don't like you.」というのは、「好きではな
い」という意味ではない。「嫌いだ」という意味だ。「not」の意味そのものが、違う。

 そこで話を聞くと、昨年やってきた使節団の評判が悪かったからだという。「日本人は排他的
で、ハウスの学生と打ち解けない」というのが、その理由だった。が、大学の上部ルートからの
要請もあって、結局は私のハウスで、彼らを迎え入れることになった。日本人の留学生は、私
一人だけだった。彼らは、「内閣総理大臣の使節団」ということを、全面に歌っていた。

 その日は来た。が、その前夜に、メンジス・オーストラリア元首相が夕食に来たこともあって、
日本の使節団のことは、ほとんど話題にならなかった。が、私は心中、穏やかではなかった。
当時いろいろな使節団が、日本からやってきたが、どの使節団も、オーストラリアから見ると、
どこか異様だった。おそろいのスーツを着て、無表情で、そのくせいばっていた。オーストラリア
の学生があれこれ話しかけても、ニヤニヤ笑っているだけ。そして案の定、その使節団もそう
だった。彼らがハウスへ入ってくるとき、私はたまたまコモンルームにいて、彼らを見たが、や
はり紺色のおそろいのスーツを着ていた。しかも胸には、マッチ箱大の日本の国旗が縫いこん
でいた。

●国粋主義か、それとも……?
 外国で生活するようになると、日本人は二つのタイプに分かれるという。井口領事がそう話し
てくれた。一つは、国粋主義者になる日本人。日本の国旗を見ただけで涙をこぼすタイプ。もう
一つは、日本人であることを忘れてしまうタイプ。このタイプは、その国に徹底的に同化しようと
する。私はそのときは、後者のタイプだった。はじめのころは前者だったが、気がついたら、そ
うなっていた。そういう意味で、私は日本の使節団を、オーストラリア人の目を通して見ていた。
使節団は、あれこれ私に感謝していたが、私は感謝される立場ではなかった。一人の男性は
「あなたは、世話好きな人ですね」と言ったが、しかし私は見るに見かねて、つまりやむをえず
接待しただけだ。使節団は当たり構わず、日本のバッジを配っていたが、心の中で、何度、
「ヤメロ!」と叫んだことか。使節団は、ハウスの中では一列に並んで整然と歩いていたが、心
の中で、何度「ヤメロ!」と叫んだことか。日本の使節団は、そういうことがまったくわかってい
ない。

 使節団がホテルへ帰ったあと、コモンルームで雑誌を読んでいると、一人のオーストラリア人
が恐る恐る話しかけてきた。「ヒロシ、ああいう連中をどう思うか」と。そこで私がすかさず、「ヤ
ッキィ(イヤだ)」と答えると、その学生は、「君がそう言ってくれて、安心した」とだけ言った。

 当時の日本は、東京オリンピックを成功させ、新幹線を走らせ、まさに高度成長期へと突入
していた。日本も必死だったが、しかし同時に日本は過去の亡霊をまだ引きずっていた。全体
主義という亡霊である。日本をあの忌まわしい戦争に駆り立てた、あの全体主義である。「皆と
同じことをしていれば安全」という、あの全体主義である。その全体主義的な考え方が、当時の
日本人にはまだ色濃く残っていた。


(後書き)こうした留学記は、当時の日記をもとに書いていますが、当時の日記の中で、
「日本人の権威主義」について、私はすでに疑問をもっていたことを知りました。日本人
は、この権威主義に弱いですね。あの「水戸黄門」が、いまだに20%以上も視聴率を
稼いでいるというのが、その事実のあらわれです。三つ葉葵の紋章を見せて、「控えおろ
う!」と一喝すれば、皆が頭をさげる……? 総理府から派遣された使節団は、オースト
ラリアで、まさにそれをしていたわけです。しかし本文の中にも書いたように、こうした
権威主義的なものの考え方(発想)は、オーストラリアでは通用しません。通用するのは
それなりのレベルの国だけです。

 水戸黄門や忠臣蔵は、メルボルン大学の日本学科(東洋学部の一部)でもよく話題に
なりました。で、ある日一人の学生が私にこう質問しました。「ヒロシ、水戸黄門が悪い
ことをしたら、君たち日本人はどうするのか。それでも従うのか」と。……あなたならこの
質問にどう答えますか?


ほかの作品は、(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
目次→「私の青春時代」へとお進みください。

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親意識について考えました。
親意識といっても、中身はさまざまですね。
そんなことがわかっていただければうれしいです。
これがわかると、あなた自身のことがよくわかるようになりますよ。
もちろん子育てでも役にたつはずです。


悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママ
は苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに
豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということにな
る。以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生
の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後
者ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
          悪玉親意識  非依存型親意識
                    依存型親意識   押しつけ型親意識
                                コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

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さてさて、今、教育の世界にも復古主義が台頭してきています。ご存知ですか?
ある地方では、地域をあげて武士道の復活を提唱しています。
学校の先生たち20人前後が集まり、本まで出版して、その啓蒙運動にとりくんで
います。もちろん私は、そういう運動に反対しているわけではありません。人それ
ぞれです。しかし……。

で、私は私なりの考え方をまとめてみました。みなさんが、私の考えに納得されるの
も、またされないのも、それはみなさんの自由(当然ですね!)です。復古主義の
中核になっている、山鹿素行の「武教小学」の一部を紹介します。日本の武士道教育
がどういうものか、それを知っておくのも、この際、大切なことですね。「私は武教小学
を知りません」では、議論になりませんから、ね。



日本の武士道を説く人たち

 江戸時代に山鹿素行という人物が、「武教小学」という本を書いた。これは朱子の「小学」を
模範として、武士の子弟のしつけ教育を目的として書かれた本である。内容は、(1)夙起夜
寝、(2)燕居、(3)言語応退、(4)行往坐臥、(5)衣食居、(6)財宝器物、(7)飲食色欲、(8)
放鷹狩猟、(9)興受、(10)子孫教戒の一〇章からなっている。この目録からもわかるように、
この本は行儀作法など日常や健康への心がまえを説いたものだと思えばよい。またここでいう
小学というのは、内篇と外篇の分かれ、内篇は、(1)立教、(2)明倫、(3)敬身、(4)稽古の四
巻、また外篇は、(5)嘉言、(6)善行の、計六巻から成り立っている。その中の一節を、とりあ
げてみる。

 「横渠張先生いわく、小児を教ふるには、
  まず、安祥恭敬ならしむるを要す。
  今世、学講せず、男女幼より便ち、
  驕惰に懐了し、長ずるに至りて益々狂狼なり、
  ただ未だすべて子弟のことを
  なさざるがために、すなわち、その親において、
  己の物我ありて肯て屈下せず、病根常にあり」(「嘉言」)と。

 わかりやすく言うと、「横渠張先生がいわれるには、子どもを教育しようとしたら、まず人に対
して従順に、人をつつしみ敬うことを教える。が、最近は、学問もせず、男の子も女の子も、幼
いころから怠惰で、歳をとるにつれて、ますます狂暴になっていく。こうした子弟の教育をしない
ことにあわせて、つまり親自身も我欲が強く、頭をさげることをしないところに、問題の原因が
ある」と。(何とも意味不明な難解な文章なので、訳は適当につけた。)

 この教育書について、私はあえてここでは何もコメントをつけない。ただこういうことは言え
る。「意識」というのは、いいかげんなものだということ。私はこの山鹿素行の「武教小学」を読
んでいたとき、それなりに説得力があるのに驚いた。「正しい」とか、「まちがっている」とかいう
ことではなく、「住み心地の違い」のようなものだ。日本の家もスペインの家も、住んでみると、
それなりに住み心地は悪くない。家の形や間取り、使い勝手はまったく違うはずなのに、しばら
く住んでみると、それがわからなくなる。意識も同じようなもので、少しだけ自分の視点を変えて
もると、山鹿素行の「武教小学」も、それなりに「おもしろい」ということ。

 あとは読者のみなさんの判断に任せる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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こうした日本の動きを、もう少しグローバルな視点で考えてみたのが、つぎです。
ものの視点を地球的な高さに置くと、また日本の姿もよく見えるのではないでしょうか?
少し難解な文章なので、恐縮なのですが、ぜひ読んでいただきたいです。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(398)

アメリカの家族主義、そして日本

 一九七〇年はじめ、アメリカは、ベトナム戦争でつまずく。それは戦後、アメリカがはじめて経
験した手痛い「つまずき」でもあった。が、話したいことはこのことではない。そのつまずきと平
行して、あのヒッピー運動に代表される「カウンター・カルチャ」の時代をアメリカは迎えることに
なる。「アメリカン・ドリーム」の酔いからさめると同時に、それまでの価値観が、ことごとく否定さ
れ始めた。離婚率の増加、同性愛、未婚の母、麻薬、性道徳の乱れなど。まさにアメリカは混
乱の時期を迎えたわけだが、ここでアメリカは二つの道に分かれた。

 ひとつは、新しい価値観の創造、もうひとつは、古きよき家族主義の復活である。前者はとも
かくも、後者は、ベンジャミン・フランクリンの家族主義に代表されるものの考え方で、それ以前
からアメリカ人の精神的バックボーンにもなっていた。そのためこの家族主義は割とすんなりと
アメリカ人に支持された。たとえばそれを受けてアメリカのクリントン大統領は、「強い家族をも
てば、アメリカはより強くなる」(金沢学生新聞社説指摘)と述べている。

 で、それから約三〇年。日本は、ちょうど三〇年遅れで、アメリカのあとを追いかけている。
平成元年とともに始まった大不況とともに、日本は、前後はじめて「つまずき」を経験したが、そ
れはベトナム戦争で敗北したころのアメリカそのものと言ってよい。エリート社会の崩壊、既存
価値観の否定、さらに家族の崩壊と離婚率の増加などなど。教育そのものもデッドロック(暗
礁)に乗りあげた。ただこの時点で、アメリカと日本の違いは、アメリカは社会そのものを自由
化競争の波の中に置くことで、民間活力を最大限利用したということ。一方、日本は、明治以
来の官僚機構の中で、いわば「コップの中の改革」をめざしたということ。たとえば教育にして
も、アメリカでは学校の設立そのものも、自由化した。一方、日本では、少子化などを理由に、
設立の認可基準をさらに強化した。この違いがやがてどう出るかは、もう少し時間の流れをみ
なければわからないが、ここでアメリカと同じように、日本も二つの道を歩み始めたというの
は、たいへんおもしろい。

 ひとつは、新しい価値観の創造。もうひとつは、古きよき時代(?)への復活である。ただしそ
の内容は、アメリカと正反対である。日本でいう新しい価値観の創造は、いわゆる家族主義の
台頭であり、一方、古きよき時代への復活は、旧来型の封建意識へもどることを意味する。こ
れは極端な例だが、日本の教育者の中には、「武士道こそ、日本古来の文化」と称して、家庭
教育そのものを、その「文化」に復帰させようという動きすらある。

 これからの日本がどの道を進むかは、実際のところ私にはわからない。しかしこれだけは言
える。世界には「世界の流れ」というものがある。そしてその流れは、「グローバル化」をめざし
てつき進んでいる。その流れは、もうだれにも止めることはできない。


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おまけ

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(308)

意識の違い

 意識は脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、仮に自分の意識がズレていても、それに
気づくことは、まずない。とくに教育の世界では、そうだ。

 今から三〇年前、私はオーストラリアの大学で学んでいたときのことだが、向こうの教授たち
は平気で机の上に座っていた。机に足をかけて座っている教授すらいた。今でこそ笑い話だ
が、こうした光景は当時の日本の常識では考えられないことだった。さらにその少し前、東京オ
リンピックがあった(一九六四年)。その入場式のときのこと。日本の選手団は一糸乱れぬ入
場行進をして、高い評価(?)を受けた。当時ですら、アメリカの選手団はバラバラだった。私
はそのとき高校生だったが、「アメリカの選手たちはだらしない」と思った。しかし……。

 一方、一〇年ほど前だが、こんなこともあった。アメリカ人の女性が私に、「ヒロシ、不気味だ
った」と言って、こんな話をしてくれた。何でもその女性が海で泳いでいたときのこと。どこかの
女子高校生の一団が、海水浴にきたというのだ。「どうして?」と聞くと、その女性は、「みんな、
ブルーの水着を着ていた!」と。つまりその女性は、日本の高校生たちがみな、おそろいのブ
ルーの水着を着ていたことが、不気味だったというのだ。が、私には、その女性の意識が理解
できなかった。「日本ではあたりまえのことだ」とさえ思った。思って、「では、アメリカではどうな
のか」と聞くと、こう言った。「アメリカでは、みんなバラバラの水着を着ている」と。

 このアメリカ人の女性の意識については、それからしばらくしてから、理解できるようになっ
た。ある日のこと、当時のマスコミをにぎわしていたO教団という宗教団体があった。その教団
の信者たちが、どこかふつうでない白い衣装を身にまとい、頭にこれまたふつうでない装置
(?)をつけて、道を歩いていた。その様子がテレビで報道されたときのこと。そのときだ。私に
はそれがぞっとするほど不気味に見えた。と、同時に、「ああ、あのときあのアメリカ人の女性
が感じた不気味さというのは、これだったのだ」と思った。

 意識というのは、そういうものだ。人にはそれぞれに意識があり、その意識を基準にしてもの
を考える。しかしその意識というのは、決して絶対的なものではない。その人の意識というの
は、常に変わるものであり、またそういう前提で自分の意識をとらえる。今、おかしいと思って
いることでも、意識が変わると、おかしくなくなる。反対に、今、おかしくないことでも、意識が変
わると、おかしくなる。たとえば今、北朝鮮の人たちが、一糸乱れぬマスゲームをしているのを
見たりすると、それを美しいと思う前に、心のどこかで違和感を覚えてしまう。が、もし三〇年前
の私なら、それを美しいと思うかもしれないのだが……、などなど。

 進歩するということは、いつも自分の意識を疑ってみることではないか。言いかえると、自分
の意識を疑わない人には、進歩はない。とくに教育の世界では、そうだ。

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

6・6……都筑保育園(三ケ日)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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      MMMMM ┏━━━━━━┓
   (( MMMMM ┃次回もよろしく┃
     q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\   ┛
   (_\ ̄Σ▽乃 ̄/_)
    w( ̄ ̄人 ̄ ̄)w
       ̄ ̄  ̄ ̄
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件名:子育て情報(はやし浩司)6-5

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 278人
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         〔井井井〕
    MMMMM \井/
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 ○ q ・ ・ p ‖  
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★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−6−5号(057)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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今日のテーマ、「不安」

●子育てには「不安」はつきものですね。生きることそのものが、いつも不安との戦い
  であると言っても過言ではありません。その不安。どうしようと考えるのではなく、また
  考えたところで、どうにもならない。だからじょうずにつきあうしかないですね。「不安」と
  友だちになって、仲よくつきあう……、それが私の対処法です。

●毎日が不安なのは、決してあなただけではないですよ。みんな不安なのです。その不安
  を何とかごまかしながら、みんな、がんばっている。実のところ、私もそうです。健康の
  こと、老後のこと、生活のこと、仕事のこと、家族のこと、子どものこと、……などなど。
  私だって、ときどき、泣きたくなります。いえ、疲れて、自分でもどうしたらいいかわから
  なくなるときがあります。しかし最後の最後のところで、ふんばる。歯をくしばって、ふん
  ばる。だって、そうするしかないでしょ。そして朝を迎えて、「ああ、よかった」と思うのです。
  「ああ、生きていて、よかった」とです。みなさんは、いかがですか?

●私のばあい、不安神経症もあって、何か不安なことがあると、簡単にパニック状態になり
  ます。そういう自分の弱点を知っていますから、できるだけ不安のタネをつくらないように
  心がけています。先手、先手で、不安と戦うのですが、考えてみれば、結局は気が小さい
  からですね。

●今日は、その「不安」の最中にいるあなたのために、今まで書いた原稿の中から、いくつ
  を選んで送ります。これらの原稿が、あなたの心を安らかにすることができれば、うれしい
  です。(以前にお読みくださった方は、重複をどうかお許しください。)

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子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのこ
とだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教え
てくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がな
いため、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、
それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹
いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生
も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわ
からなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 子育てとい
うのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいなあ」と思ってし
まう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レストランや新
幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだった
なあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

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生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこ
にいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをして
いる……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価
値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決す
る。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

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 Ξミ 彡  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
 ⊂'J゜⊃< ぼくらは生きている!〉
  \〜丿 ◯\______/
  /∀m⌒ノ
  \二◯ ̄
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┌勹┘├┐│
└┴─┘[ ̄]
      ̄ 

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家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人
には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、
そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだ
けでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私
は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そう
いうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じ
ゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせい
ぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部
屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書いている。
「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもた
ちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度
をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こうい
う家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。


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浜松百撰6月号掲載コラムより

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に

●死を理解できるのは、三歳以後
 「死」をどう定義するかによってもちがうが、三歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。
飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(三歳男
児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(三歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と
言った子ども(三歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようになるのは、三歳以後だが、し
かしその概念はおとなとはかなり違ったものである。三〜七歳の子どもにとって「死」は、生活
の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族
の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心
 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終を迎えたとき、
子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。ちなみに小学五
年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、八人全員が、「こわくない」
「私は死なない」と答えた。一人「六〇歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がい
た。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいや
だ」「それは困る」と答えた。

●死は厳粛に
 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。もてあそんで
もいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼っていた小鳥が死
んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは
「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。

 死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をてい
ねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれ
ば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして生きることの大切さを
 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。

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(先の原稿と一部ダブりますが、お許しください。)

    ,-──、
   //(())ハ☆
  ((_  _ ))\
  / cθ  θ ぅ )
 ( (^ ι ^ ) /
  \_ヽ ▽ ∠ノ
   _>ーイ_
  < \ー/ >、
  / \ V /  ヽ
 ( ( ι^ν ) )

私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか?
それ以上、何を望むか

●子育てで失敗した
 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言
う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに
答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」
と。
 これ
まで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう
親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。
それ以上、何を望むのか」と。

●母親とのきずなが虐待の原因?
 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査
によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何ら
かの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に
走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、そ
れ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというの
は、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、
「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめてマレ
だ。

●子育てが人生を豊かに
 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつ
まらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子ども
は私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入
れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん
悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてく
れた。もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠
に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのようなさみ
しさを覚える。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろ
いろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たち
のおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に
進めばよい。
 
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(もうひとつ、法句経を引用して書いたのが、つぎの原稿です。)


いつになったら、できるの! 
己こそ、己のよるべ

●自由とは、「己による」こと
 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

●考えさせない過干渉ママ
 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、
子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」、母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。
おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」、私、再び、子どもに向かって、「楽し
かったかな」、母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いな
さい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫
と、今でいう「できちゃった婚」をした。どこか不本意な結婚だった。だから子どもが何か失敗す
るたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱ってい
た。

●行動させない過保護ママ
 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、「すぐ風邪をひく」。

●責任をとらせない溺愛ママ
 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親は、「子ども(小六男児)が合宿訓練に
でかけた夜、涙がポロポロと出て眠れなかった」と言った。私が「どうしてですか?」と聞くと、こ
う言った。「あの子は私がいないと何もできない子です。みんなにいじめられているのではない
かと思うと、かわいそうで、かわいそうで……」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害
事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪い
と言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、
ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

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おまけ

育児から解放されたい!
子どもは甘えるもの

●自然な「甘え」
 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、
「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受
けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい
柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、
そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●抱かれない子ども
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど
感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨
床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

●原因は「抱っこバンド」?
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。
 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会)

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ご覧ください。
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9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

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7・20……伊平小学校

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6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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件名:子育て情報(はやし浩司)6-7

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今日のテーマ、「常識」

●みなさんも、今もっている「常識」を、一度、疑ってみませんか。ときとして旧来の常識が
  みなさんの新しい生き方のじゃまになることがあります。今日は、そんな「常識」について
  考えてみました。参考にしていただければ、うれしいです。

●心のキズについて考えてみました


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子はかすがい?

 コの字型の大型のクギを、かすがいという。夫婦の間を、ちょうどそのかすがいのように子ど
もがつなぎとめるので、「子はかすがい」という。しかし本当にそうか? 中には、子どもがいる
ため、離婚したくても離婚できず、悶々と苦しんでいる夫婦がいる。こういうケースでは、子は
かすがいどころか、子は足かせということになる。つまり「子はかすがい」は、「夫婦は別れるも
のではない」が、前提になっている。しかし「夫婦だって別れることもある」が、前提になると、
「子はかすがい」説は吹っ飛んでしまう。多少ニュアンスは違うが、日本には、「子は三界の首
かせ」ということわざもある。「親というのは、子どもを思う心で、一生の自由を奪われるものだ」
(事典)という意味だ。

 どちらにせよ、こうした言い方をすることにより、人はものの本質を見誤る。とくに人と人の関
係は、安易なことわざや、格言で決めてかかってはいけない。日本人はどうしても、ものごとを
「型」にはめて考える傾向が強い。そのほうが考えることを省略できるからだ。便利といえば便
利だが、その便利さに溺れるあまり。自分を見失う。たとえば年配の女性が、わかったようなフ
リをして、「子はかすがいだからねえ」と言ったりする。あなたもそう言われたことがあるだろう。
しかし実のところ、その女性は何もわかっていない。何も考えていない。こうした例は、ほかに
もある。

 「親なら子どもを愛しているはず」「子を思わない親はいない」「親子の縁など、切れるもので
はない」「子が親のめんどうをみるのは当たり前」などなど。こうした言い方は、それなりの家庭
にいる人がよく使う。しかしみながみな、それなりの家庭にいるとはかぎらない。たとえば今、人
知れず、わが子を愛することができず苦しんでいる母親は、七〜一〇%はいる。はっきりとし
た統計があるわけではないが、「子どもなんてうんざり」「わが子でも、もう顔もみたくない」と思
っている親も、同じくらいはいる。さらに「子が親のめんどうをみるのは当たり前」という常識
(?)に甘えて、それを暗に子どもに強制している親となると、いくらでもいる。あるいは子ども
自身がその常識にがんじがらめになって、苦しんでいる人も多い。

 日本人は今、旧来の家庭観から急速に脱皮しようとしている。しかしそのとき、こうした旧来
の常識(?)が、まさに足かせになることが多い。その一例として、ここでは「子はかすがい」と
いうことわざを取りあげたが、新しい家庭観をもつということは、こうした旧来の家庭観がもつク
サリを、ひとつひとつ、ほぐしていくことでもある。それをしないと、結局は、流れそのものが、そ
のつど、せき止められてしまう。「子はかずがいではない」、また「かすがいであってはならな
い」。つまりそういうふうに子どもを利用するのは、子どもに対して、失礼というもの。あなたの
子どもだって、それを望まないだろう。ものごとは、あくまでも本質をみて、考える。判断する。



フリーハンドの人生
 
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行
論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ
のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの
勝手。子どもの問題。

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、
本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ
こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親
はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である。
欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきてい
るとみるべきではないのか。



子離れできない親

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか
しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ
んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分
は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言う
のに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言
うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

 子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見
ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。私たちは親と
いう立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠
牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望
まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。
あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あ
なたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。
 
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不安の構造

 生きることには不安はつきものか。若いころは若いころで、自分の将来に大きな不安感をも
つ。結婚してからも、そして子どもをもってからも、この不安はつきることがない。それはちょう
ど健康と病気のような関係ではないか。健康だと思っていても、どこかに病気、あるいはそのタ
ネのようなものがある。本当に健康だと思える日のほうが、少ない。言いかえると、その不安が
あるからこそ、人はその不安と戦うことで、生きる力を得る。もしまったく不安のない状態に落と
されたら、その人は生きる気力さえなくしてしまうかもしれない。いや、不安と戦うたびに、人は
強くなる。とくに子育てにおいては、そうだ。こんなことがあった。

 アメリカにいる二男からある日、こんなメールが届いた。「一六輪の大型トラックが、ぼくの車
にバックアップしてきて、ぼくの車はめちゃめちゃになってしまった」と。「バックアップ」の意味
を、私は「追突」ととらえた。私は大事故を想像し、すぐ電話を入れたが、つながらない。ますま
す不安になり、アメリカ人の友人にも、様子を調べるよう依頼した。当時ガールフレンドもいた
ので、そちらにも電話した。が、アメリカは真夜中のことで、思うように連絡がとれない。気ばか
りがあせって、頭の中はパニック状態になった。

 で、(アメリカの)翌朝、電話がやっとつながった。話を聞くと、「ガソリンスタンドで停車してい
たら、前にいた大型トラックがバックしてきて、自分の車の前部にぶつかった」ということだっ
た。「バックアップ」の意味が違っていた。私はひとまず安心したが、それ以後、どういうわけ
か、二男の運転のことでは心配にならなくなった。それまでの私は、「交通事故を起こすのでは
ないか」と、毎日のように、そればかりを心配していた。が、その事件以来、そういう心配をしな
くなった。ほかに以前は、二男が日本とアメリカを往復するたびに、飛行機事故を心配したが、
一度、二男が乗るべき飛行機に乗らず、しかも乗客名簿に名前がないことを知って、おお騒ぎ
したことがある。そのときも、二男はただ飛行機に乗り遅れただけということがわかって、安心
したが、以後、二男の飛行機では心配しなくなった。……などなど。

 親というのは、子どものことで心配させられるたびに、そしてその心配を克服するたびに、大
きく成長(?)するものらしい。「あきらめる」ということかもしれない。つまりそういう形で、人生
の一部、一部を、子どもに手渡しながら、子離れしていく。

 さて今、私は老後のことを考えると、不安でならない。あと一〇年は戦えるとしても、その先の
設計図がまったくわからない。へたをすると、それ以後は収入さえなくなるかもしれない。しか
し、だ。そういう不安があるから、今こうして、仕事をする。懸命に仕事をする。安楽に暮らせる
年金が手に入るとわかったら、恐らくこうまでは仕事をしないだろう。不安であることが悪いこと
ばかりではないようだ。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(414)

子どもの心が不安定になるとき

 子どもの心をキズつけるものに、恐怖、嫉妬、不安の三つがある。言いかえると、この三つ
は、家庭教育ではタブー。

 はげしい家庭騒動、夫婦げんか、叱責は、そのまま子どもにとっては恐怖体験となる。また
子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭環境で、心をはぐくむことができる。「絶対的」と
いうのは、疑いをいだかないという意味。しかしその安心感がゆらぐと、子どもの心はゆがむ。
すねる、いじける、ひねくれる、つっぱるなど。その一つに赤ちゃんがえりと言われる、よく知ら
れた現象がある。下の子どもが生まれたことなどにより、上の子どもが、赤ちゃんぽくなったり
することをいう。しかしたいていのケースでは、その程度ではすまない。すまないことは、たとえ
ばあなたの夫に愛人ができた状態を想像してみればわかる。あなたは平静でいられるだろう
か。もっともおとなのばあいは、理性の範囲で処理できるが、子どものばあいは、それが本能
の領域まで影響を与える。赤ちゃんがえりがこじれると、精神状態そのものがおかしくなること
がある。

 叱責も、ある一定の範囲、つまり親子のきずながしっかりしていて、その範囲でなされるなら
問題はない。しかしその範囲を超えると、子どもの心に深刻な影響を与える。ある女の子(ニ
歳児)は、母親に強く叱られたのが原因で、一人二役の、ひとり言を言うようになってしまった。
母親は「気持ちが悪い」と言ったが、一度こういう症状を示すと、なおすのは容易ではない。ほ
かにやはり強く叱られたため、自閉傾向(意味もなく、ニヤニヤと笑うなど)を示すようになった
男の子(年中児)もいた。

 とくに〇歳から少年少女期へ移行する満五歳前後までは、この三つについては、慎重でなけ
ればならない。心豊かで、おだやかな家庭環境を大切にする。とくにここにあげたような恐怖体
験は、冒頭にタブーと書いたが、タブー中のタブーと心得る。

 さらに万が一キズつけてしまったら、つぎの二つに注意する。ひとつは、同じようなキズを繰り
返しつけないこと。繰り返せば繰り返すほど、キズは深くなり、長く残る。もう一つはキズのこと
を気にしないこと。このタイプのキズは、遠ざかること(できるだけ忘れること)で、対処する。そ
のほうが立なおりを促す。親が気にすればするほど、やはりキズは深くなり、長く残る。

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おまけのページ

最後の受験指導

 ある日ふと見ると、三男がさみしそうにパソコンをいじっていた。どこかうわの空という感じだ
った。そこで私が「大学なんてものはね、行ける大学へ行けばいいのだよ」と声をかけると、三
男はしばらく黙ったあと、こう言った。「パパ、ぼくを、中学三年のときのように、しぼってよ」と。

 三男は市内でも一番という進学高校へは入ったものの、ほとんど勉強しなかった。部活に生
徒会活動、そんなことばかりしていた。そのときも高校の文化祭の実行委員長をして、ちょうど
それが終わったときだった。部活も山岳部に属し、その部長を務めていた。中学の終わりまで
は私も三男の成績を知っていたが、高校へ入ってからは成績表すら見たことがなかった。女房
の話では、「英語以外は、クラスでもビリよ」ということだった。三男が苦しんでいる姿が私にも
よくわかった。三男がこれから高校三年生になるという三月のはじめのことだった。

 私は「わかった。しかし明日からではない。これからだよ」と言うと、三男は元気よくうなずい
た。私は受験指導に関しては自信があった。恐らく私の右に出る教師はいないと思っている。
英語にしても、数学にしても、予習なしで高校三年生を教えられる教師は、そんなにいない。
が、私はできた。ポイントもコツも知り尽くしている。しかしそれをさかのぼる一〇年ほど前、大
学の受験指導とは縁を切った。むなしい稼業だった。

 私はその夜、三男の勉強を四時間みた。つぎつぎとプリントをつくり、それを三男につぎつぎ
とさせるという指導法である。私が本気で指導するときは、いつもこの方法をつかう。しかし五
〇歳を過ぎた私には決して楽な指導法ではない。一、二時間もこれをすると、ヘトヘトに疲れ
る。が、私は私よりも、三男の様子が気になった。黙々と従う姿を見ながら、私は私で懸命にプ
リントを作った。が、予定の四時間が終わると、三男はそれまで見せたことがないすがすがしさ
を私に見せた。「明日も四時間するよ」と私が言うと、三男はうれしそうにうなずいた。

 それから一か月、私はかかさず毎晩四〜五時間、三男の受験勉強をみた。土日は、七〜八
時間になることもあった。最初の数週間は英語だけ。それから少しずつ数学へと範囲を広げて
いった。「得意な科目からすればいい」と私は言った。「まず英語をかたづけよう」と。で、英語
は高校三年の教科書は、二週間程度で終わった。つづく数一、数二Bもつぎの数週間で終わ
った。山のようになったプリントを見ながら、三男はうれしそうだった。毎晩勉強が終わると、プ
リントの枚数を札束でも数えるかのように一枚一枚数えていた。しかしさすがの私も体力の限
界を感じ始めていた。三男は私が仕事から帰るのを待ちながら、それまで自分のベッドで眠っ
た。そんなわけで三男の受験勉強を始めるのは、午後一〇時ごろということになった。そして
朝方の二時、三時前後までつづく。三男はともかくも、私も頭を使うため、脳が覚醒してしま
い、眠られない日がつづいた。三か月目に入ると、勉強時間はさらに五時間から六時間へとふ
えた。私も最後の気力をふりしぼって、三男と対峙した。「これが最後の受験指導だ」と。

 そのころになると高校での模擬試験にも、少しずつだが効果が見え始めた。志望校はY大の
建設学部。三男はいつしか宇宙工学をしたいと言っていた。しかしそれまでの模擬試験の結果
はEランク。Aランクが合格圏、Bランクが合格可能圏。Cランクは努力圏。D、Eランクは番外
で、「とても無理」という状態だった。

 が、三男は、私がギブアップしてからも、つまり私は四か月目に入るとき、「とてもつきあいき
れない」と、三男から離れたあとも、ひとりで受験勉強をつづけた。それは私から見ても、もの
すごいがんばり方だった。学校の帰りに、ひとりで予備校の自習室へしのび込み、そこで毎晩
夜一一時まで勉強した。時間数にすれば、毎晩七時間ということになる。あとになって三男はこ
う言った。「毎晩、頭が熱くなりすぎて、気がヘンになりそうだった」と。

 で、夏休みが終わるころには、Cランクになり、Bランクに入るようになった。さらにセンター試
験を受けるころにはAランクになった。その結果だが、三男は、Y大の工学部へ、センター試験
の結果では、学部二位の成績で合格した。東大の工学部へも楽に入れる成績だった。しかし
それが私の最後の受験指導の終わりでもあった。

 三男が合格発表を受けたとき、私は女房にこう言った。「これでぼくは、父親としてやりのこし
たことはない」と。うれしかったというより、親としての満足感のほうが強かった。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(402)

政治家へのワイロ

 ある県のある都市での話。もう時効になったと思うから話す。今から三〇年ほど前には、そ
の都市の市議会議員への謝礼は、一回の口利きで、一〇〜一五万円(当時)と相場が決まっ
ていた。たとえば就学前の学校区変更でも、正当な手続きをふむと、最低でも二〜三か月は
かかった。しかしこれではA小学校への入試には間にあわない……というようなとき、そのスジ
の人の紹介で、親は市議会議員の自宅へ走る。そうするとたいてい一、二週間のうちには、学
校区の変更ができた。そのときの謝礼もやはり、一〇〜一五万円だった。もちろんこうしたこと
をよしとしない議員もいただろうが、この話をしてくれた人は、「そういう議員はこの町にはいな
かったなア」と言った。

 今朝の新聞(〇二年六月)によれば、国会議員の鈴木M氏も、同じように謝礼を受け取って
いたという。その額、六〇〇万円! 一回の口利きで、である。しかもその謝礼を払った会社
は、いままでほとんど話題になったことがない会社である。ということは、鈴木M氏は、無数
の、こうした謝礼を受け取っていたのではないかという疑惑がわいてくる。……と言っても、私
は驚かない。三〇年前の市議会議員が一〇万円とするなら、現在の国会議員が六〇〇万円
というのは、それなりに連続性がある。この世界にはこの世界の、ルールや相場というものが
あるらしい。それがよいとか悪いとか言う前に(悪いに決まっているが)、政治というのは、そう
いう「しくみ」で動くらしい。

 だからといって、私は政治家が悪いといっているのではない。私はたびたび自分の頭の中
で、こんなシミュレーションをしてみる。仮に目の前に数一〇〇万円の現金が置かれたとする。
そのときたった一回の電話でそれが自分のものになるとしたら、それを断わる勇気が、私には
あるか、と。で、何度シミュレーションしても答は同じ。「私にはその勇気はない」だった。恐らく
私のように、来月の生活費はともかくも、これから先、老後をどうやって過ごそうかと考えてい
る人なら、多分、私と同じことを考えるだろうと思う。いわんや来月の生活費をどうしようと考え
ている人なら、数一〇〇万でなくても、数一〇万円でもありがたい。あるいはあなたならこういう
ばあい、どうするか?

 こうした人間の弱さをコントロールするには、厳罰主義しかない。たった一回でもワイロを受
け取ったら、一〇年の懲役刑にするとか、そういうふうにする。私にしても、一〇年の懲役刑は
こわい。もしそうなら、数一〇〇〇万円でも、私は受け取らない。机の上に積まれた札束を見
ただけで、私はふるえあがるだろう。

 幸か不幸か(本当のところ、どちらかよくわからないが)、私はいまだかって、そういう苦しい
(?)立場に置かれたことがない。また自分のそうした弱さを知っているから、私は政治家には
なれない。仮にワイロを断わったとすると、あとで後悔するかもしれない。「ああ、あのときもら
っておけばよかった」と。だから要するに、そういう世界とは近づかないことだと心に決めてい
る。ちなみに私は過去三〇年間、無数の子育て相談に応じてきたが、一度だって、お金を請求
したことも、受け取ったこともない。念のため。

***************************************

講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会)

***************************************

講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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件名:子育て情報(はやし浩司)6-9

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今日のテーマ、「勉強が苦手な子ども」

●今回は子どもの勉強について考えてみました。まだ発表できるほど、私自身の
  考えが熟していませんが、一つの参考にしていただければうれしいです。この
  原稿を叩き台にして、また別の機会に考えてみます。

●勉強が苦手……といっても、いろいろなタイプがあります。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ、など。

  まだほかにもいろいろなタイプの子どもがいるかもしれませんが、ここではよく
  観察される四つのタイプの子どもについて、考えてみます。

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考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段
階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では
1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分
で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。そこ
までヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいと
いった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の
問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。

 今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に
一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会
話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼん
やりとした様子も見られない。ただ「考える」ということだけができない。……できないというよ
り、さらによく観察すると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつ
かめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。


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勉強が苦手な子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

 しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこ
ない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうし
た子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つま
りこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で大切なの
は、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力
を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることがで
きる点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているときとい
うのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

 何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよ
いかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

 パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなん
だかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

 歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその
場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。


(1)思考力そのものが散漫なタイプ

 思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕
事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういう
ときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコー
ヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は
上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがど
うでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

 もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口
にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけで
はない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるい
は妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、
「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできな
い。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてし
まう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

 思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうし
ようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題について
は、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべって
いるようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよ
い。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことな
ら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう
指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプ
の子どもの対処法ということになる。


(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

 何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよ
いかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度
(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをし
た。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

 一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも
学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。し
かし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、
自分でも何をしているかわからなくなる。

 このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば
「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますかという問題のとき、しばらく
は分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフ
リをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような
行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはそ
の繰り返し……。

 一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはい
くつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させた
りすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこ
であなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろう
か。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すと
いう方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みます
か」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段
階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかっ
た」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときは
それこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。

 しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針
は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わっ
たりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっている
ようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」とな
り、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するし
かないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。


(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

 パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がな
んだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.
txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接
インストールのこと」と。

 このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことがで
きない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という
意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何
か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角
の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたよう
に、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげて
ください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、
まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなけ
ればならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。
このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

 そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学
習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンし
たところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほ
ど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「こ
こが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法は
ないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか
夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。
占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そ
ういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たない
のかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というの
は、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。
子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子
どもは、受身になる。


(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについ
てはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化
という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はス
ムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを
書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴
力を使って解決しようとするかも?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンであ
る。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のア
ルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう
子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚
える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚え
ようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こ
んなことがわかる。

 「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪
いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の
中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。が、このタイプの子どもは、その「反復」をしな
い。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶さ
れる情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、
認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記
憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、
反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり反復しないという行為そのものが、パ
ターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と
考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いて
ごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある
種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになる
だけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えて
も、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができて
しまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、
ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところ
にある。
 


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子どもに勉強ぐせをつける法(五悪に気をつけろ!)

子どもが勉強から逃げるとき 

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉
 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。いかにも勉強しているという
フリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しかしその実、何もしていない。
何も考えていない。次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラ
しているだけ。マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時
間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなム
ダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつ
ぶすなど。

●一時間で計算問題を数問!
 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ
ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い
親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワ
ークブックを持ってきた。見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも
子どもの能力を超えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけ
で勉強がよくできるようになると思っていたらしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼん
やりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り
返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の
段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易でない。

●意欲を奪う五つの原因
 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)過
関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過剰期待
(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも親が先に決め
てしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ
は誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶
をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度
な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては
誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでな
ければやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ
ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しな
い」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時
間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ
ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

●変わる「勉強」への意識
 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か
ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには
「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育
はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も
変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で
子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそ
れを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリ
ーダーになった。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言う
と、「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられる
から、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別
にして、今はそういう時代なのだ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。

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| / \ |│ちぇ〜    │
q ・ ・ p│つまんないの〜│
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 (│ : │)
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子どものやる気を引き出す法(四悪を避けろ!)

子どもがやる気をなくすとき 

●学習の四悪
 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超
えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テスト
で百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「お隣のA君は、もうカタカ
ナが書けるのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実に
やる気をなくす。勉強嫌いになる。

●無理・強制・条件・比較
(1)無理……子どもに与える教材やワークは、子どもの能力より、ワンランクさげるのがコツ。
できる、できないよりも、子どもが勉強を楽しんだかどうかを大切にする。イギリスの格言にも、
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』というのがある。前向きに学習する子どもは伸びるし、そうでない
子どもは伸びない。しかも子どもというのは一度うしろ向きになると、いくら時間とお金をかけて
も、一方的にムダになるだけ。親があせればあせるほど、かえって勉強から遠ざかってしまう。
そういうのをこの世界では、「空回り」というが、この空回りを感じたら、さらに思いきって内容を
ワンランクさげる。

(2)強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ま
せることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要
するに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子
どもの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のう
ち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきら
めが子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。

(3)条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかも
しれないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの
財力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、
「勉強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」
という意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生す
らいた。そうなる。反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、
「勉強は自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、
結局は子どもを自立させる原動力となる。

(4)比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人
の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そう
なればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。

 ……というのは、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしな
がら生きる民族も少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時
代を経験したためにそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だ
から、私は幸福」「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。たとえ
ば日本人は、「あなたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりすると、そ
れだけでへんに納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要するに、
無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目で見
れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。

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  I  : ヽ_/  ┫重要!┃
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おまけのページ

忠臣蔵論

 浅野さん(浅野内匠頭)が、吉良さん(吉良上野介)に、どんな恨みがあったかは知らない
が、ナイフ(刀)で切りかかった。傷害事件である。が、ただの傷害事件でなかったのは、何と
いても、場所が悪かった。浅野さんが吉良さんに切りかかったのは、もっとも権威のある場所と
される松之大廊下。今風に言えば、国会の中の廊下のようなところだった。浅野さんは、即
刻、守衛に取り押さえられ、逮捕、拘束。

 ここから問題である。浅野さんは、そのあと死刑(切腹)。「たかが傷害事件で死刑とは!」
と、今の人ならそう思うかもしれない。しかし三〇〇年前(元禄一四年、一七〇一年)の法律で
は、そうなっていた。が、ここで注意しなければならないのは、浅野さんを死刑にしたのは、吉
良さんではない。浅野さんを死刑にしたのは、当時の幕府である。そしてその結果、浅野家は
閉鎖(城地召しあげ)。今風に言えば、法人組織の解散ということになり、その結果、四二九人
(藩士)の失業者が出た。自治体の首長が死刑にあたいするような犯罪を犯したため、その自
治体がつぶれた。もともと何かと問題のある自治体だった。わかりやすく言えばそういうことだ
が、なぜ首長の交代だけですませなかったのか? 少なくとも自治体の職員たちにまで責任を
とらされることはなかった。……と、考えるのはヤボなこと。当時の主従関係は、下の者が上の
者に徹底的な忠誠を誓うことで成りたっていた。今でもその片鱗はヤクザの世界に残ってい
る。親分だけを取り替えるなどということは、制度的にもありえなかった。

 で、いよいよ核心部分。浅野さんの子分たちは、どういうわけか吉良さんに復讐を誓い、最終
的には吉良さんを暗殺した。「吉良さんが浅野さんをいじめたから、浅野さんはやむにやまれ
ず刀を抜いたのだ」というのが、その根拠になっている(「仮名手本忠臣蔵」)。そうでもしなけ
れば、話のつじつまが合わないからだ。なぜなら繰り返すが、浅野さんを処刑にしたのは、吉
良さんではない。幕府である。だったら、なぜ浅野さんの子分たちは、幕府に文句を言わなか
ったのかということになる。「死刑というのは重過ぎる」とか、「吉良が悪いのだ」とか。もっとも
当時は封建時代。幕府にたてつくということは、制度そのもの否定につながる。自分たちが武
士という超特権階級にいながら、その幕府を批判するなどということはありえない。そこで、そ
の矛先を、吉良さんに向けた。

 ……日本人にはなじみのある物語だが、しかしオーストラリア人にはそうでなかった。一度、
この話が友人の中で話題になったとき、私は彼らの質問攻めの中で、最終的には説明できな
くなってしまった。ひとつには、彼らにもそういう主従関係はあるが、契約で成りたっている。つ
まり彼らの論理からすれば、「軽率な振るまいで子分の職場を台なしにした浅野さん自身に、
責任がある」ということになる。

 さてあなたなら、こうした疑問にどう答えるだろうか。彼らにはたいへん理解しがたい物語だ
が、その理解しがたいところが、そのまま日本のわかりにくさの原点にもなっている。「日本異
質論」も、こんなところから生まれた。


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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与信小学校(予定)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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 \´(〃 ▽ 〃) /〜〜
  \  ̄Σ▽乃 ̄\/〜〜/
   \  :  ξ)
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   ┃ByeBye┃
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件名:子育て情報(はやし浩司)6-11

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 285人
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          /井\
         〔井井井〕
    MMMMM \井/
   | ⌒ ⌒ | ‖
 ○ q ・ ・ p ‖  
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 80人    
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02−6−11号(060)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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●今日のテーマは「雑感」
この数日で考えたことを、送ります。

●ところであなたはUFOを信じますか?
よく私は「評論家がそういうことを言ってはいけない」と言われますが、
見たものは見たのです。それも女房と一緒に、です。そのときの記事
を、ここに載せておきます。(※)印の記事は、中日新聞で発表した
ものです。お笑いください。

●学習内容が三割程度削減されましたが、それから三か月。そろそろその
結果があらわれてきました。最初は「簡単になった!」と子どもたちは
喜んでいましたが、しかしそれは四月、五月だけ。六月に入ると、もう
そういう声は聞かれなくなりました。こうして日本の子どもたちの学力
は限りなく低下していく……?

メニュー
【1】今どきの子どもたち
【2】見たぞ、UFO
【3】今、子どもの世界では
【4】子育て雑感

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【1】
まあねえ……と言ったきり、言葉が出ません。今どきの子どもたちの現状について書きます。


今どきの子どもたち

 「騒いでる子どもは、チンチンをハサミで切るぞ」と私が言ったときのこと。一人の女の子(小
五)が、「私にはないわ」と言った。ふつうはここで会話が終わるはずだったが、そのときはそう
ではなかった。すかさず別の男の子が、こう叫んだ。「何、言ってるんだ! クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 今どきの子どもたちの性知識は、ふつうではない。先日も、一人の男の子がニヤニヤ笑いな
がら、「先生、フェラって知っている?」と。「何だ、それ!」と言い返すと、「知ってるくせに……」
と、笑いつづけていた。

 今どき、小学生で、「セックス」を知らない子どもはいない。これはもう一〇年近くも前のことだ
が、一人の女子中学生が、私にこう聞いた。「先生は純情か?」と。そこで私が「そうだ」と言う
と、「そんなハズないでしょう。子どもがいるクセに!」と。直後、私はその意味がわからなかっ
た。が、しばらく考えてやっと理解できた。さらにこんなことも。

 ある日、一人の女子大生が会いたいと電話をかけてきた。「どうしても相談したいことがある」
と。そこで会って話を聞くと、「先生の知り合いで、私を援助交際してくれる人はいないか?」と。
「先生、あなたでもいい。一か月二〇万円ならいい」と。私の教え子だったが、美しい女の子だ
った。……そう思っていた。そういう私のプライベートな「思い」が、どこかで伝わり、それが誤解
されてしまったらしい。

 私はもうこの種の話にはうんざり。私とて「ふつうの男」だから、興味がないわけではない。し
かしここまで性が乱れてくると、もう手の施しようがない。それはちょうど、野に放たれた小鳥の
ようなものだ。つかまえることすら、できない。

 ……あのアダムとイブが、禁断の実を食べたという説話は、こういった状況を言ったものか。
しかしここで考え方を一転させて、「性そのものなど、何でもない」という前提に立つと、話が変
わる。思いきって、「性」を、単なる排泄行為と考えてはどうか。毎日小便や大便をするように、
人は、セックスをする、と。アダムとイブについて言うなら、禁断の実を禁断の実とするから、話
がおかしくなる。小鳥について言うなら、カゴの中に閉じ込めておこうとすことのほうが、おかし
い、と。

 この問題については、また別の機会に考える。しかしこんな事実もあることを忘れないでほし
い。アメリカの中西部に、アーカンソー州という州がある。その州に、H州立大学がある。その
H州立大学でのこと。フットボールクラブのメンバー六〇人を調べたところ、そのうち一五人(二
五%)が、HIV(エイズ)検査で陽性だったという(二〇〇〇年)。たいへんな数だし、きわめて深
刻な問題といってもよい。しかしそれはそのまま日本の、近未来の姿でもある。野放しがよいと
いうわけではない。

(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


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【2】
UFOは、オカルトや心霊現象と同じに考える人がいますが、私はUFOだけは
こうした現象とは切り離して考えています。というのものです、私は見たからです。
見たものは見たのであって、どうしようもないです。ウソまで書いて、自分のコラムを
汚したくないし、またウソを書いても、私には損になることはあっても、得になることは
何もないのです。そのUFOについて書きます。


UFO

 私と女房は、巨大なUFOを目撃している。このことは、新聞のコラム(中日新聞東海版※)に
書いたので、興味がある人は、それを読んでほしい。で、そのあと、つまり新聞のコラムに書い
たあと、「同じものを見た」という人物が、二人も名乗り出てきた。見た場所と時間は違っていた
が、地図でそのUFOが飛んだ方向を調べたら、私が見たのは、正確に真西から真東に、そし
て彼らの見たのは、正確に真東から真西に飛んでいることがわかった。それはともかくも、「見
たものは見た」(コラム)。

 しかし、だ。それほどまでに衝撃的な事件であったにもかかわらず、私にとっては、それほど
衝撃的ではなかった。(同じものを見たと名乗り出てきた人には、衝撃的だったようだ。二人と
も、それで人生観が変わってしまったと言っていた。一人は、そのあとインドへ仏教の研究に出
かけている。)私にとっては、子どものころ、飛行機を見たときの衝撃のほうが、ずっと強かっ
たように思う。だから今、あの夜のことを思い出しても、「まあ、確かに見たなあ」という程度の
印象しかない。「見た、見た」と騒がなければならないほど、重大なできごとでもないと思ってい
る。

 しかし改めて考えてみると、やはりこれは重大なことだ。私が見たUFOは、ハバだけでも、一
〜二キロメートルはあった。正確な大きさはわからないが、そこらのジャンボジェットの大きさで
はない。しかもその消え方が、ふつうではなかった。(これについては、先の二人も同じように
証言している。)まるで空の中に、溶け込むかのようにして消えた。私といっしょに目撃した女
房も、「飛行機のようにだんだん遠ざかって消えたのではない」と言っている。……となると、あ
のUFOはいったい、何だったのか?

 私も女房も丸い窓のようなものを見ている。で、それが本当に窓だとすると、あのUFOの中
には、それなりの知的生物がいたということになる。しかもその知的生物は、人間よりはるかに
知的であるはずだ。私が見たUFOは、音もなく、途中からは猛スピードで飛び去っていった。
人間が常識とする乗り物とは、まるで違っていた。いやいや、回りくどい言い方はやめよう。

 宇宙人は、確実に、いる。それも地球からきわめて近い距離に、いる。そして私たち人間を、
どういう形でかはわからないが、観察している。ただ私にはわからないのは、どうしてもっと
堂々と出てこないかということ。人間が混乱するのを避けるためと言う研究家もいるが、もうこ
こまで正体がバレているのだから、出てきてもよいのではないか。あるいはほかに、出てこら
れない理由があるのかもしれない。それは私にはわからないが、しかしコソコソと隠れるように
して地球へくる必要はない。……いや、これとて私の勝手な解釈なのかもしれない。が、少なく
とも私は、以来、「宇宙人はいる」という前提で、ものを考えるようになった。この話は、あくまで
も余談。教育論とは関係ない。ははは。

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中日新聞東海版の記事より(※)(2001年発表済み)


見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、
それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとした
ら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。
「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたとい
う。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲む
ように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。私がヨタカだと思った
のは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反
対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOと
は思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、ま
さかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。が、このことを矢追純一氏(U
FO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイ
トで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレク
ターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房はその中の一枚の
写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見
たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソ
ということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっ
ても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野
だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国
語にも翻訳されている。そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えて
いる。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、
私はそれについて書いてみた。

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         ■  こんな形で、左から右へ飛んでいった……

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【3】
学習内容が三割削減され、子どもたちの負担も三割減ったというが……。
本当に子どもたちに負担は減ったのか。子どもたちの学力はどうなのか。


学習内容の三割削減

 学習内容の三割削減が始まった(二〇〇二年春)。具体的には、たとえば小学六年生の算
数では、今までは(1)分数の掛け算、割り算をしていたのが、分数の足し算、引き算になった。
(2)円すいや角すいなどの立体の体積の計算をしていたのが、立方体や直方体の体積になっ
た。教える側の実感としても、ガクンと楽になった。三割という数字だけをみると、六年掛ける
〇・三で、一・八年、つまり約二年分の学習内容が削減されたことになる。単純に計算すれば、
今までの小学六年生は、小学四年生のレベルになったことになる。削減のし方にもいろいろあ
るが、これはもう大削減というにふさわしい。

 で、教える側もそうだが、学ぶ子どもたちも驚いた。それぞれの学年の子どもたちが、「簡単
になった」と喜んでいた。が、喜んでいたのは、四月、五月だけ。六月に入ると、もう様子が変
わってきた。学習内容が簡単になったはずなのに、「簡単だ」と言う子どもが減り、前と同じよう
に、「わからない」「できない」という子どもがふえ始めた。つまり削減されたものの、今度はそ
のレベルで、またもとの状態に戻ってしまった。私はこの現象に、改めて驚いた。で、私は、こ
んなことを考えた。

 サングラスをかけると、かけたとたんというのは、サングラスの色に周囲が見える。しかししば
らくかけたままにしていると、やがてサングラスをかけていること自体を忘れる。と、同時に、周
囲の色は、それなりにもとの色のように見えてくる。仮に青いサングラスをかけていても、赤い
花は赤く、ピンクの花はピンクに見えてくる。もちろん青い空も青い空に見えてくる。

 生活もそうで、忙しい人も、そうでない人も、それぞれの生活をしばらくつづけていると、それ
なりにヒマに感じたり、忙しく感じたりする。仕事量がへったとか、あるいは労働時間がへった
からといって、楽になるとは限らない。しばらくそういう状態がつづくと、新しい環境にそれなりに
体もなれてしまう。子どもの世界も、同じ。

 話を戻すが、「ゆとり教育」の名のもとに、今回の三割削減は実施された。しかし本当にそれ
が「ゆとり」になったかどうかと問われれば、私は、なっていないと思う。もう少し時間が経過し
なければ結果ははっきりしないが、しかしこの六月の段階をみても、それは言える。つまり今回
の三割削減は、結局はその一方で、問題の根本的な解決を先送りしただけではないのか。少
なくとも肝心の子どもたちは、楽になったとは思っていない。与えられた環境になれるにつれ
て、その環境の中からその「ゆとり」は消える。そしてやがて、もとの状態にもどる……。

 が、ここで考えなければならないのは、こうした削減を繰り返すうちに、日本の子どもたちの
学力はますます低下し、教育水準も低下するということ。日本に追いつけ、日本を追い越せと
がんばっている国にとっては、まことにつごうがよい三割削減だが、それは同時に日本が衰退
することを意味する。日本よ、日本人よ、本当に、それでよいのか。

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学校の先生たちは、同じ公務員といいながら、本当に忙しい。忙しすぎる。この忙しさ
から解放してあげないと、先生が窒息してしまう。病院のドクターのように、教師は教室
で、教育のみに専念できるような環境を用意してあげないと、本当に日本の教育はダメ
になってしまう!


教育の実情

 K県(静岡県ではない)に住む、I氏(私立幼稚園理事長)が、こんな話をしてくれた。何でもI氏
がある小学校の校庭の横に車をとめて、校庭の様子を見ていたときのこと。チャイムの音とも
に、校庭で体育の授業(小五?)が始まったという。見ていると、チャイムの音が鳴り終わって
から、教師と数人の生徒が、とび箱とマットを外へ運びだし始めた。その間、一〇分前後。教
師が生徒を並べて、とび箱のとび方を実演してみせたのは、さらにそのあと一〇分くらいしてか
ら。生徒たちはそれぞれが勝手に動き回り、とても教師の話を聞いているようでもなかったとい
う。で、指導(?)は、同じく一〇分ほどで終わり、そのあとしばらくすると、今度は片づけが始ま
った。で、チャイムが鳴るころには、運動場はきれいに片づいていた……。I氏はこう言った。
「子どもたちがとび箱をとんだのは、正味一〇分もなかったのでは」と。

 ここまで書いて終わると、その教師の指導ぶりを批判する人がいるかもしれない。「何て、だ
らしない授業だ!」と。しかし実際のところ、こうした光景は、今、日本のどこでも見られる。多
かれ少なかれ、ごく標準的な「風景」と言ってもよい。しかし教師だけを責めるわけにはいかな
い。こんな事実もある。

 この私ですら、活発盛りの小学生を相手に授業をすると、ものの一時間でヘトヘトに疲れてし
まう。彼らがもつエネルギーは、一人ずつだけをみても、おとなの数倍はある。そういう子ども
を、三〇〜三五人も相手にして指導するというのは、まさに重労働。いかに重労働であるか
は、たった一人の子どもをもてあましているあなた自身が、一番よく知っているはずである。
が、そういう重労働を、学校の教師はそれこそ毎時間している。それも朝八時から、夕方六時
まで。が、それで終わるわけではない。生活指導、家庭教育指導、成績管理などなど。しかも
上からの管理、また管理。ある女性教師(小学校)はこう言った。「毎日、携帯電話に入るメー
ルの返事を書くだけでも、夕食後一時間はかかります」と。また別の女性教師(小学校)は、
「子どもが生きるの死ぬのという家庭問題をかかえて、授業どころではありません」と言った。
「授業中だけが、息を抜ける時間です」と言った男性教師(小学校)もいた。

 要するに、日本の教育の問題は、日本自体がかかえる構造的な問題であるということ。現象
面だけをみて、それを問題にしても意味はないということ。その構造的な問題が基本にあって、
ここにあげたK県でのような授業が蔓延(まんえん)化している。言いかえると、その構造的な
問題を解決しないかぎり、日本の教育はよくならなし、改革もない。さらに言えば、日本の未来
に明日はない。なぜならその明日をつくるのは、まさに今の子どもたちだからである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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【4】子育て雑感

親の自己中心性

 「自己中心」という言葉がある。自分を中心にものを考えることをいう。その自己中心性に
は、二つの方向性がある。(1)社会的自己中心性と、(2)時間的自己中心性の二つである。
何ともカタイ話になりそうだが、要するに、自分のまわりのことだけしかものを考えないのが、
社会的自己中心性。自分の時代を中心にしかものを考えないのが、時間的自己中心性とい
う。この(2)の時間的自己中心性というのは、私が考えた。親を見ているときに気づいた。こん
な人がいた。

 「子どもを育てるのは、自分の老後のため」と、その女性(五〇歳)は言った。もう少し別の言
い方をしたが、結論をまとめると、そういうことになる。つまり「自分の老後のめんどうをみてく
れるような子どもを育てるのが、子育てだ」と。たいへん親意識の強い人だった。「子どもが親
のめんどうをみるのは当たり前」という前提で、すべてを考えていた。だから他人の子どもを評
価するときも、親のそばにいて、親孝行する子どもを、「できのいい子」。そうでない子どもを、
「できの悪い子」とした。つまりその女性は、自分の時代を中心にしかものを考えていない。こ
れが私がいう、時間的自己中心性である。ほかにもこんな例がある。

 ある女性(六〇歳)は、病弱な息子(三〇歳)と二人暮しをしていた。たしかに病弱は病弱だっ
たが、そのためその女性はお決まりの溺愛と過干渉。息子は超マザコンタイプの、ハキのない
男性になった。その男性について、その女性はいつもこう言っている。「私が死ぬときは、息子
も一緒に死にます」と。つまりそれくらい親子のきずなが太く、その女性は親として息子をあと
に残しては死ねない、と。そこで私がその女性に、「息子さんには息子さんの人生というものが
あるでしょう。それはどうするのですか」と聞くと、その女性はこう言った。「息子の心は、私が一
番よく知っています」「私が死ねば、息子は不幸になるだけです」と。

 この女性もまた、自分の時代を中心にしかものを考えていないのがわかる。つぎの世代に、
よりよき時代を残す、あるいは伝えていくという姿勢がどこにもない。一見、息子の将来を心配
しているようにみえるが、その実、子どもの将来など、まるで考えていない。自分が死んだら、
あとは野となれ、山となれというわけである。もし本当に息子の将来を心配するなら、息子を自
立させるために、親としてもっとほかにすることがあるはずである。それもしないで、つまり手厚
い親の庇護(ひご)のもとだけに子どもを置き、その子どもを溺愛するのは、まさにここでいう自
己中心性ということになる。

 こうして自己中心性をふたつに分けて考えると、親が子育てで見せる自己中心性を、もう少し
詳しく理解することができる。あなたも一度、身のまわりの人で、この見方を利用してみてはど
うだろうか。

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親の思い込み

 「残り勉強」というのがある。たとえば勉強がじゅうぶん消化できなかった子どもを、放課後残
して、勉強させるのが、それ。教師はその残り勉強を、子どものためと思ってするかもしれな
い。が、子ども自身は、そうは思わない。バツととらえる。だから教師が子どもを残り勉強させ
ればさせるほど、やり方をまちがえると、かえって子どもをマイナス方向に追いやってしまう。こ
ういうのを意識のズレという。家庭教育でも、同じような意識のズレが起きるときがある。たとえ
ば親が子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言うとき。

 親は子どものため(?)を考えて、「勉強しなさい」と言うかもしれない。しかし一日の学校生活
を終えて、やっと家に帰ってきた子どもに、それを言うのは、どうか? 反対の立場で考えてみ
れば、それがわかる。あなたが外で仕事をして、家に帰ってきたとする。そのときあなたの妻
(あるいは夫)が、あなたに向って、「もっと仕事をしなさい」と言ったら、あなたはどう感ずるだ
ろうか。妻(あるいは夫)が、あなたのためにそう言ってくれると、あなたは思うだろうか。

 一般的に、子どもの前ばかりを歩く親は、何でもかんでも、親が先に決めてしまう。「子どもの
ことは私が一番、よく知っている」と。子どもが保育園や幼稚園へ通うようになると、子どもの気
持ちや意思を確かめることなく、「ほら、算数教室」「ほら、英語教室」とやりだす。やめるときも
そうだ。親が勝手につぎの教室に申し込み書を出したあと、子どもにはこう言う。「来月から
は、今のA教室をやめて、B教室へ行きますからね。B教室の先生のほうが、いい先生だから」
と。

 子どもは親の傲慢(ごうまん)さに、引っ張りまわされているだけ。が、本当の悲劇はここから
始まる。こういうケースでは、親は、「子どもは自分に感謝しているはず」と思い込む。「子ども
の心をつかんでいるはず」と思い込む。そしてそうすることが、子どもにとって最善と思い込む。
しかし思い込みは思い込み。子どもの心はもっと別のところにある。やがて親子はこんな会話
をするようになる。親「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっ
ているの。私が高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ。それがわか
っているの!」、子「いつ、だれがお前にそんなことをしてくれと、頼んだア!」と。

 もっともこのように反発する子どもは、まだよいほうだ。中には、親の言うままになって、かぎ
りなく依存心をもつ子どもがいる。そうなればなったで、それこそ家庭教育は大失敗。子どもが
依存心をもてばもつほど、子どもの自立は遅れる。要するに親の「思い込み」に注意。「子ども
のため」と思い込んでいることでも、結局は子どものためになっていないことは、実に多い。どう
かご注意!

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依存心という魔物

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの成績は伸び悩む。理由の第一。こ
のタイプの子どもは、与えられることになれ、また与えられてからすることになれている。万事
が受身で、そのため、たとえば自分の頭の中に、自分で「学習の地図」をつくることができな
い。自分が何のために、またどういう方向性をもって勉強しているかが、わからない。どこにい
るかさえわからなくなってしまう子どもすら、いる。こんな小学生(小四男子)がいた。何かの問
題を解いていて、それをまちがえたらしい。

 子「まちがえたところは、消すのですか」、私「そうだ」、子「消しゴムで消すのですか」、私「そ
うだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」、子「計算式も消すのですか」、私「それはい
い」と。

 あるいは中学生になると、こんな会話をする。

 子「今日は、どこを勉強するのですか」、私「この前のつづきをしないさい」、子「……」と。そこ
でどんな勉強を始めるかと待っているのだが、一〇分たっても、二〇分たっても、一向に勉強
を始める気配がない。そこで私がしびれを切らせて、「何か、勉強を始めたら?」とうながすと、
「どこで終わったか、忘れました」と。

 こうした依存性は、すでに年中児(四歳児)のときにあらわれる。原因のほとんどは、過保護
と親の先走り。何でもかんでも、「先へ、先へ」と親が、しすぎるほど用意してしまう。子どもはそ
れに引っ張りまわされているだけ。が、なおたちの悪いことに、そういう親の姿勢を批判して
も、それに気づく親は、まずいない。たいていの親は、「自分は子どものために正しいことをし
ている」と思い込んでいる。しかもそうした世話をするのが、親の務めと誤解している。ある母
親はこう言った。「あの子は、生まれつきああいう子ですから……」と。子どもに生まれつきも、
生まれつきもない。そういう子どもにしたのは、親自身なのだ。それに気づいていない。

 子どもに依存心がつくかどうかは、結局は、子育てのリズムで決まる。そういったリズム(過
保護傾向、先走り傾向)があれば、できるだけ早い時期にそれに気づく。そしてそのリズムを
変える。勉強ができる、できないは、あくまでもその結果でしかない。

(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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おまけのページ

あなたの未成年の娘が、七〇歳の男性と交際していると知ったら、あなたは親として
どう思うだろうか。この問題は、そういう視点で考えてみてほしい。「うちの娘はそういう
ことはしない」と高をくくるのはどうか。あるいはあなたは「相手が人間国宝なら、いい」と
それを許すだろうか。あくまでも「あなたの娘」のこととして考えてみてほしい。女性は
決して、男の「おもちゃ」ではない。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(429)

男の不倫

 歌舞伎役者のG氏(七〇歳、人間国宝)が、五一歳年下の若い女性と、不倫関係(?)にある
という。写真週刊誌にフォーカスされ、それで今(〇二年六月)、世間で騒がれている。昼のワ
イドショーでも取りあげられた。見ると、G氏は悪びれるようすでもなく、ヘラヘラと笑いながら、
「若い女性にもてないようでは、芸もできない」などというようなことを言っていた。おとなの交際
していたのは事実だろう。別れ際、ホテルのドアのところで、G氏はその女性に、チンチンを出
して見せていた(写真週刊誌「F」)。

 が、私が驚いたことはそのことではない。そのワイドショーは街の人の声と称して、一〇人近
い男性にインタビューしていたが、だれひとりとて、そのG氏を責める男がいなかったことだ。責
めるどころか、「うらやましい」「自分もしてみたい」「敬服する」「尊敬する」「芸のこやしになるの
では」と。司会の男まで、「男のカガミ」とまで言い切った。モラルの崩壊というよりも、その前提
となる倫理観も道徳心もない。思考能力さえ、ない。どの人も通俗的な情報を、そのまま受け
売りしているだけ。またそういうことを軽く言うのが、「人生の経験者」とでも思っているようなフ
シすらある。

 不倫するなら、命がけで、しかも哲学をもってすればよい。しかも「この女性しかいない」と、
世界で最高の女性とすればよい。妻が許すとか許さないとかいうことではなく、自分の人間性
をかけてすればよい。もしそれがまちがっているというのなら、人間であることがまちがってい
る……、そこまで言い切れるような、そんな不倫をすればよい。が、七〇歳の老人が、顔中コ
ラーゲンを打ち込んだようなテカテカな顔をして、しかも人間国宝の看板をぶらさげて、何という
ぶざまなことよ。相手の女性は、孫よりも年齢が下? 不倫が発覚しても、一言の哲学めいた
思想を口にすることもできない。日本人も、この程度かと、ただただあきれる。彼は人間国宝と
いう立場で、いったい何を人に教えてきたというのか。彼の妻は、今、日本国の大臣までしてい
る。夫婦そろって、一着数一〇万円もする(多分?)ような服や着物を着て、好き勝手なことを
している。そういうリーダーや政治家に、庶民の、その生活のいったい何がわかるというのか。

 私はあえて言う。G氏は男のカガミでも何でもない。いや、彼が自分の名誉と地位と財力にも
のを言わせて何をしようと、それは彼の勝手。しかし一般庶民のあなたよ、ああいう人物を評
価してはいけない。あなたがああいう人物にシッポを振れば振るほど、それはあなたの敗北を
意味する。それこそああいう人物の思うツボ。彼らはあなたのような、名誉も地位も財力もない
人たちを食いものにして生きているだけ。もし私がここでいうことがまちがっていると思うなら、
あなたが男性なら、あなたの妻や娘に聞いてみることだ。「女性は男のトイレか?」と。あなた
が女性なら、……もう言うまでもないだろう。その怒りを、もっと外に向かって表現してほしい。

 そうそうアメリカでは、一八歳未満の女性とセックスをすれば、理由のいかんを問わず、即逮
捕、即投獄である。G氏の愛人は、ギリギリの一九歳だった。念のため。

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会、連絡先、万ごく幼稚園)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与進小学校(予定)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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件名:子育て情報(はやし浩司)6-13

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    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 289人
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02−6−13号(061)
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メニュー
【1】子どもたちへ
【2】生きる哲学
【3】以前に発表した原稿より
【4】子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司

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【1】

子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ

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ぼくは 裸

ぼくは、はじめっから、
裸で生きてきたから、
なくすものは、何もない。
名誉も、地位も、肩書きも、
何も、ない。
だから、ね。
みんなは、ね。
ぼく自身を見てくれる。
ぼくは、見たとおりのぼく、だよ。
だから、ぼくは、本当に気楽さ。
この気楽さが、ね。
ぼくの、財産というわけ。

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子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


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【2】
生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、そ
れが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すれば
よい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」という
が、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその
「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や
倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たと
えば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数一〇万もの
間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生
きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しか
もその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人
も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもってい
る。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静
かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって
私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口
論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とその
ときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私
はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だ
った。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車
で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。


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【3】
子どもに善と悪を教えるとき※

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。つまり子どもの世界をよくしたいと思っ
たら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりや
すい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒
が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。その教師はその教師の
信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、
そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉
強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たち
のように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまった
ら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもし
ろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が
残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通
いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘
が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言っ
た。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許
せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめ
でたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

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子どもに生きる意味を教えるとき※

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの
高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たか
がボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、そ
れほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この
世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ
の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争
と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に
意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの
箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生
の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日
その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私た
ちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教える
ことがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手
たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味は
ない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶ
し。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私た
ちに教えてくれる。

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【4】
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(434)

指導方法

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅
(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、
「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ
天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗
教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判
断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というの
が、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそ
が、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、
である。たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。
あるいは、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽
いことを、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれない
が、実のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に
加工して言葉にしているだけ。「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」その
ものと言ってもよい。だからたいていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることその
ものを放棄している人も、少なくない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙
二先生も、「日本の教育の欠陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも「パンセ」の中で、「思考こそ
が、人間の偉大さをなす」と書いている。私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の
英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし
自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私
は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えて
いる。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の
方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。言うまでもなく、私たちの
体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみついている。その常識に
耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間はやがて真理にたどりつく
ことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの参考意見にすぎないが…
…。

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(441)

神々との対話

 女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶときに、神
の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房がこう言っ
た。「ほかの人たちはどうなるの?」と。

 地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」という説
が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(たった数年!)は、
ふつうではない。この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度
にまでなってしまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三〜四度。最大
で六度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」がやっ
てくる。

 「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
 「どうして?」と女房。
 「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれば、だれ
だって神様を信ずるようになる」
 「死んでからでは、遅いということ?」
 「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。それ
から信じても、遅くはない」
 「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているのではない
かしら」

 私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や海を
泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほうがまちがって
いる。たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとしてい
る。医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を治したり、神
の国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめてしまう。あのトルストイ
も『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いている。

 しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間どこ
ろか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほうがおかしい。
あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。

 この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究極の
命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なものであって
も、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」がある。神様
に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなものだ。あとの判断は、
それこそ神様に任せればよい。

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おまけのページ

科学者は本当のことを言っているか?

 二〇〇二年のはじめ、オーストラリアのメルボルンでは、四〇度を越える猛暑がつづいた。
たった三〇年前には、温暖な気候で知られていた、あのメルボルンで、である。そして今年、六
月になったばかりというのに、岐阜市では、三〇度を超える暑い日が、もう三日もつづいてい
る。昨日(六月五日)は、三三度もあったという。私はその岐阜で生まれ育ったが、私が子ども
のころは、梅雨があけて、だいたい七月二〇日ごろにならないと、めったに三〇度を超えるこ
とはなかった。しかも八月一五日のお盆の日が過ぎると、水温はともかくも、風が肌寒くなり、
川で泳ぐことはできなかった。それが今では、九月の終わりまで、三〇度を超える日々がつづ
く。科学者たちは、温暖化を問題にしながらも、「それほど気温はあがっていない」ことを強調し
ている。しかし本当に、そうか?

 たった二年前とくらべても、今年はビワの収穫が、二週間もはやかった(静岡県)。野生のジ
ャスミンの開花は、一週間もはやかった。昔は小学校の入学式に桜の花が満開になったもの
だが、今では三月の終わりには桜の花は散る。こうした変化は、今では常識だし、年配の、つ
まりは三〇年前、四〇年前の気候をよく知っている人ほど、「おかしい?」と思い始めている。
実のところ、私もその一人だが、私にはもう一つ、こんな根拠がある。

 私は昔、メルボルン大学のインターナショナルハウスにいた。大学のカレッジの一つだが、そ
こには毎週のようにノーベル賞級の科学者がやってきては、しばらくホテルがわりに利用して
いた。(もっとも外国では、ノーベル賞など、それほど珍しくない。当時、あのアデレード大学だ
けでも、八人前後の受賞者がいたし、メルボルン大学には、もっとたくさんいた。)その中の一
人が、ある日、部屋に遊びに行くと、こんな話をしてくれた。何でもローマ会議の帰りにメルボ
ルン大学へ寄ったということだった。ローマ会議というのは、世界の最先端で活躍する科学者
が、世界的規模の問題を討議する会議のことだと思えばよい。その会議には、表向きの公開
会議と、それにもう一つ、非公開でなされる「秘密会議」の二つがある。その秘密会議で、食糧
問題と地球の温暖化が議論されたという(一九七〇年)。

 そのとき聞いた内容はここには書くことはできない。できないが、それから三〇年後の今の
現状を、ほぼ正確に言い当てているものだった。当時はまだ、雰囲気的には、「そんなことは
ありえない」という考え方が支配的だった。「ハワイ上空の二酸化炭素も、まったくといってよい
ほどふえていない」という調査結果(根拠)も示されていた。しかしそれがどうもそうではないの
ではという状況(?)になってきた。が、何よりもここで注目してほしいのは、「非公開でなされる
秘密会議」が、こうした科学者の議論の場では、常識だということ。つまり、私たちの耳に届く
情報などというものは、ある意味で限られたものでしかないということ。そういう意味で、「本当
にそうか?」と疑ってみることは、大切なことだ。

 さて、これから先、地球はどうなるか? 一説によると、気温がわずかでも上昇すると、不測
の事態が、また別の不測の事態を生み、気温は加速度的に、しかも二次曲線的に上昇すると
いう。ひとつの例がシベリアのツンドラ地帯の凍土の融解である。もし凍土が融解しはじめた
ら、地中のメタンガスが大量に空中に放出され、たいへんなことになる。(ここでは「たいへんな
ことになる」程度のことしか書けないが……。)つまり公表された科学者の予想では、西暦二一
〇〇年までに、気温は三〜四度上昇するということになっているが、どうもその程度ではすまな
いのではないだろうかということ。私は以前、だれからか、「二一〇〇年には、地球の気温は四
〇〇度(四〇度のまちがいではない、四〇〇度)になる」という話すら聞いたことがある。そうな
れば人類どころか、地球が金星のようになって、あらゆる生物が死滅する! 今は、まだ「とん
でもない話」ということになっているが、ここ三〇〜四〇年の変化をみただけでも、「ありえない
話」と片づけるわけにもいかない。結論から先に言えば、地球温暖化は、予想以上に、はるか
に深刻な問題になりつつあると考えるほうが正しい。

 もちろん科学者や政治家は、何とか(?)するだろうが、しかし自国の不況すら何ともできない
日本の政治家をみていると、こうした地球的規模の温暖化に、何かできるとはとても思えない。
科学者にしても、それ以上に、政治的には無力である。それにこんな意見もある。「今、仮に温
暖化の原因になっている化石燃料(ガソリン、石炭など)の使用をすべてやめても、温暖化を
少しは遅らせることはできても、止めることはできない」と。つまり「もう手遅れだ」と。いろいろな
説が飛び交っていることは事実だが、最後の最後のところで、私はこう考える。「私の世代はと
もかくも、これからの子どもたちがかわいそうだ」と。「かわいそう」というより、「申し訳ない」とい
う気持ちにすらなる。この地球温暖化の問題よりは規模が小さいが、日本が抱える借金が、も
うすぐ一〇〇〇兆円を超える。日本の年収が五〇兆円だから、たとえていうなら、年収五〇〇
万円の人が、約一億円の借金をかかえるようなものだ。一億円の借金がどういう額のものか
は、あなたならわかるはずだ。国だけではない。この浜松市の借金も、二〇〇〇億円を超えた
(二〇〇一年度)。人口六〇万人の都市だから、老人も子どもも含めて、市の借金が一人当た
り、三三〇万円ということになる。こうした傾向はどこの市町村でもほぼ同じようなものだが、そ
れにしても! いや、繰り返すが、こうした人的な問題すら解決できない日本の政府に、地球
温暖化を解決できるとは、私にはとても思えない。わずかな私利私欲にかられ、個人的な名門
名利にとりつかれ、政治そのものをゆがめている政治家はいくらでもいる。それこそ戦争にな
れば、まっさきに逃げるような雰囲気をもつ政治家が、一方で平和を口にし、防衛を論ずるか
ら、話がおかしくなる。話はそれたが、地球温暖化の問題は、こうした政治の稚拙さの、そのず
っと先にある。では、どうするか?

 私たちは私たちで、身辺を「美しくする」。いつかもっと深刻に地球温暖化が問題になったと
き、そしてつぎの世代の人たちに、その責任を追及されたとき、「私は違う」と言えるような状態
を、今から用意する。もちろん私だってときどきは車に乗るが、しかし三〇年以上、往復一二キ
ロの距離を自転車通勤している。買い物するときも、めったに車には乗らない。家庭でも、クー
ラーは使っていない。たった一円でも借金はしたことはない。ゴミやツバを道路へ捨てたことは
ない。……こうしたやり方は、まさに焼け石に水的な行為であるかもしれないが、しかしこういう
ことは言える。

 こうした生きザマを用意しておくことによって、いざというときになっても、後悔だけはしなくて
すむ。ひょっとしたら人類は滅亡するかもしれない。(あるいは何らかの方策がとられ、滅亡し
ないかもしれない。)そのときになって、そうでない人たちよりは、すがすがしい気持ちで、最期
のときを迎えられる。「私にも責任はある。しかし私は私で、できるかぎりのことをした」という思
いの中で、少しは自分をなぐさめられるかもしれない。それにもし、日本人や世界の人たちが、
みな、こういう姿勢をもったら、何か対策をたてたときも、そういう姿勢がないときよりも、はる
かにスムーズにその対策を実行できるかもしれない。もっとはっきり言えば、そういうときのた
めに、私たちは私たちで、そういう心の準備をし、その準備に向かって少しずつ、行動を始め
る。

 私は科学者でもないし、政治家でもない。ただの庶民だ。地位も肩書きもない。だからといっ
てこうした問題から逃げるわけではないが、しかしその庶民の私たちが、そういう自覚をもつと
ころに、意義がある。反対に「だれかが何とかしてくれるだろう」とか、「私には関係ない」という
姿勢では、それこそつぎの世代の人たちに、あまりにも無責任というものではないのか。それ
こそあとになって責任を追及されたとき、私たちは何と言って、それに答えるのか?

 今日も蒸し暑い(六月六日)。昨日乗ったタクシーの運転手も、「もう真夏日ですね」と言った。
あなたもそういう会話をしているだろうが、あなたはそれを、どんな気持ちでしているだろうか。
少しだけみんなといっしょに、考えてみよう。なぜなら、この問題は私やあなたの子どもたちの
未来に関係する、重大な問題だからである。そうそう数日前から私の家の近くでも、やらなくて
もよいと思われるような道路工事が始まった。道路がますますピカピカになるという「喜び」より
は、「また借金がふえるのだろうな」という心配ばかり、先にたつ。何かこうしたムダな工事に反
対する手だてはないものかといろいろ考えるが、それがない。私一人がいくら叫んでも、政治と
いうのは、もっと大きな流れの中で動く。……動いていく。それこそ私も一票の力しかないが、
車の窓からタバコの灰を外へ捨てている人も、一票の力をもっている。こういう人たちとどうや
って戦い、その流れを変えていくことができるのか、私にはその方法がわからない。この問題
は、これからも真剣に考えてみたい。

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会、連絡先、万ごく幼稚園)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

10・10……富士市、田子浦小学校(中学校)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

6・14……浜松市立与進小学校(予定)

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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    MMMMM
 m | ⌒ ⌒ |
( ̄\q ・ ・ p
 \´(〃 ▽ 〃) /〜〜
  \  ̄Σ▽乃 ̄\/〜〜/
   \  :  ξ)
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   ┃ByeBye┃









件名:子育て情報(はやし浩司)6-15

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
    子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数 292人
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          /井\
         〔井井井〕
    MMMMM \井/
   | ⌒ ⌒ | ‖
 ○ q ・ ・ p ‖  
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
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    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 81人    
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   上、二つの、E-マガとメルマガは同じ内容です。

(どちらか一つという方は、E-マガのほうをご購読ください。
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どうかあわせて、ご愛読ください。お申し込みは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−6−17号(063)
★★★★★★★★★★★★★★★★★
      by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)

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●女性の解放

メニュー

【1】母親としての生きがい
【2】アイドリングから抜け出る & 育児ノイローゼ
【3】夫に不満 & 男女平等
【4】三つ子の魂、一〇〇まで

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【1】
母親としての生きがい

奈良県にお住まいの、Nさん(37歳)からこんなメールを
いただきました。どの人も、共通に悩んでおられる問題かも
しれないと思い、今回は、この問題(母親の自立)について
考えてみます。Nさんから了解をいただき、転載します。

「はじめまして。
小学校2年生と、4歳の子供の母親です。37歳です。
先生のメールマガジンをとても興味深く拝見しています。
 
毎日、子供たちの様子を見ていて一度ご意見を伺いたくてメールしました。
7歳になる息子の同級生の母親は、大体仕事を持っています。
子供たちが帰宅するころ(2年生なので3時前後ですが)、
家には誰もいない子供もいます。
晴れている日はいいのですが、先日の雨の日には家に入れないといって
私のうちで夕方まで遊んでました。
祖父母がいる家の子供は、そういう心配はないのですが、
私が知っていることを、まったく知らないでいる母親もいます。
親に黙って貯金箱からお金をだし使っている子(1000〜2000円)、
その子について回っておごってもらっている子もいます。
 
確かに子供たちは大きくなり、手がかからなくなりました。
私が家に居たって、友達と遊ぶのに息子は夢中です。
主人の両親と同居しているので、私が働く事は難しい事ではないとも思っています。
まだ4歳の弟がいるので、この子を3年保育でどこかに預かってもらい、
お店を経営をしている両親を手伝える程度に働く道もあるかなと考えたりもします。
そして時々考えます。
母親が家にいる意味は何なんだろう、私が家にいるという事は大切な事なのだろうか、
自分に言い訳をしているだけではないのか……
「三つ子の魂百まで」という言葉も今は死語だと聞きました。
私の周りにいる子供たちの様子を見ていると、
母親不在というのが何か影響しているのかな思ったりもしますが、
資格やキャリアのある女性が仕事を続ける事は当たり前だと思うし、
続けたいと思う気持ちもわかるつもりです。
 
先生は、母親が仕事を持つという事、母親の家庭での役割・意味をどのように考えますか。
なにか、ご意見・アドバイス・ご指摘をいただければ幸いです。
長々とすいません。
ご活躍、応援させて頂きます。失礼します。」
 
++++++++++++++++++++++++++++++++

はやし浩司より、Nさんへ

少し前、K町という、農村地帯の中にある町で、講演をしました。
そのあと主催者の教育委員会の担当者(40歳前)が私に
こう言いました。
 
「このあたりは、三世代同居家族がほとんどだ。そうでなくても
嫁と舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)の関係がむずかしい、
ヘンな知恵を女性につけてくれるな」と。「みんな(うるさい家庭から逃れて)
息抜きに講演に来ているだけだから、はやし先生の話術でハハハと笑える
ような話をしてくれればいい」とも。ていねいな言い方でしたが、ああいうのを
インギン無礼というのですね。
 
不愉快だったというより、これには私は驚きました。しかしね、Nさん、
これが現実の世界なのですね。まだまだ日本は後進国(?)ですね。
 
昔から日本では、「女、子ども」と言い、男の世界という一般世界から
切り離して考えてきました。女性は戦後、ある程度の地位を確立しましたが
しかしまだまだ……というところではないでしょうか。
 
子どもと言うのは皮肉なもので、母親が外に向かって(必ずしも
外で働かなくても)、生き生きと活動していると、子どもも伸びます。
その心だけは忘れないでくださいね。応援します。
 
この問題は、いろいろ考えさせられました。
次回のマガジンで、とりあげてみたいと考えています。
よろしいでしょうか?

はやし浩司
 
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【2】
明日が今日の繰り返し……?
そんな味気ない毎日。
何かをしたい。何かをしなければならない。
しかしその「何か」が、なんであるかわからない。
……そんなふうに悩んでいる母親は多いですね。
みんな、結局は、生きがいを求めて生きている……?
それが何であるかわからないまま、です。


アイドリングから抜け出る法(アクセルを踏め!)
 
母親がアイドリングするとき(新聞発表済み) 
 
●アイドリングする母親
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四
歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような
恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始
め、数年後、これまた何となく結婚した。
 
●マディソン郡の橋
 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無
神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キ
ンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認
めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。
 
●不完全燃焼症候群
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。
 
昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏
は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」へ
の執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、い
つまでも重く、心をふさぐ。
 
●思い切ってアクセルを踏む
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、
道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になるこ
とはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、な
い。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終
着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。
 
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育児が重労働であることは、母親ならみんな知っている。
知らないのは、夫だけ。そんな重労働の中で、育児ノイ
ローゼになる母親も多い。
夫たちよ、もっと妻を理解せよ!


育児ノイローゼから自分を守る法(夫よ、妻を理解せよ!)

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    
 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭
をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中
で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」
 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしな
い」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさん
に任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ
 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見ら
れたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子ども
が間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠
 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

   /⌒⌒^ヽ
  / 八))))ハ
  | | ー ー||(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
  | | ・ ・||( 子育てって、たいへんよ)
  | |"   )||(_________)
  | |  o 丿|。o
  |川|`ー-イ川


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【3】
夫たちよ、
「男は仕事だけをしていれば、それでいい」と考えて
いるなら、それこそ、偏見。その偏見が、少しずつだ
ふぁ、夫婦の間に、キレツを入れる。
夫たちよ、妻たちの不満は相当なものだ。
それに早く気づかないと、たいへんなことになるぞ!
ああああ、私は知らないぞ!


夫に不満?

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなん
か、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわ
サ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこ
のかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペー
パーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五
〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳
以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をして
いないとみてよい。この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くも
っている。男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんな
ところへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自ら
が、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もい
るという(同調査)。

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査
では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という
夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

      w
vvvvvv   Ξ   vvvvvv
\●/  / \  \●/
 巛〜 ≡⌒・⌒≡ 〜彡
  \\⊂'ι°⊃//
   ‖\\▽//‖
   ‖ 井∨井 ‖
  /  井井井  \
  \_/〓〓〓\_/
   (__⊥__)
男は仕事、仕事、はははは!
仕事して、出世すればいいの!

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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(450)

男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリ
ーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であ
るからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっと
ベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らさ
れた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。このことを女房に話す
と、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、
ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だ
から」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっ
ている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、
女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念す
べきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した
「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。

 「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回
一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の
家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。

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【4】
冒頭のNさんのメールの中に、「三つ子の魂、一〇〇までは死語」と
ありました。それについて、反論しておきます。


飼い犬考察(「自分」発見のために)※

 私は二匹の犬を飼っている。一匹は保健所で処分される寸前のものを、もらってきた犬。こ
れをA犬とする。もう一匹は、親の愛をたっぷり受け、愛情豊かな家庭で生まれた犬。これをB
犬とする。これらA犬とB犬は、まったく性格が違う。
 
 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。
 
 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らんぷりして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。
 
 人間も犬と同じと言ったらいいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらいいのか、同じような
ことが人間の子どもにも観察される。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、
性格というのは、一度できあがると、その後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にた
とえるなら、育児拒否、無視、冷淡を経験した犬だ。心に大きなキズを負っている。一方B犬
は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った。一見、愛想は悪いが、人間に心を許している。だか
ら、そういうことができる。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬
は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。
 
 人間も成長とともに、自分のことがよくわかってくると、自分という人間が、遠い昔にできあが
ったということがわかる。高校生や中学生のときではない。もっと前だ。小学生のときでもな
い。しかし四、五歳を境に急激に記憶が薄れていく。ちょうどモヤのかかった闇に吸い込まれ
ていくように、記憶が薄れていく。つまりそれから以前は、はっきりしない。「自分」という人間
は、どうやらそのあたりで完成したようだ、と。「だから幼児教育は重要だ」と、ここで書けば、
私が犬の話を持ちだした意図が、見え見えになってしまう。事実、その通りだと思うが、しかし
あまりにもはっきりとそう書くと、この世の中、反発を買う。「三つ子の魂、百まで」と書くだけで
も、抗議が殺到する。だからどう書いたらいいのか、わからないが、そういうことだ。
 
 ただ人間の場合、経験や知識で、自分の姿を客観的に見ることができる。そして自分の努力
で、自分自身を変えることができる。私はそういう可能性まで、否定しているのではない。どん
な人も幼児期の暗い思い出の一つや二つは背負っている。完ぺきな家庭で愛情豊かに育った
人のほうが、少ない。そういうことも考えながら、あなた自分自身の心の中を旅してみてほし
い。きっと新しい「あなた」を発見ができると思う。

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おまけのページ

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(448)

肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識にもなっている。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」
と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを言えば、歓迎されると思っていたらし
い。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。が、
その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団のし
たことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだのと
同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある日、ひ
とりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それでも
日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のう
ちにそうしているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものとい
うことになる。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明
しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しな
いとき、それは親子の間に大きなキレツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほ
ど、子どもは親の前で仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から
離れる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中に
は、権威主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあ
るほど、その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

     MMMMM     ┌──────┐
    | ^ ^ |    |なるほど〜 │
((○ q ・ ・ p /  |そうなんだ。│
  ┌┐(″ ο ゛)/ポン!└──┬───┘
  |└──Σ▽乃 ̄∠___   ─┘
((└──┐ :⊆⊇、〉
     └───\/
          ″

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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

6月16日(日) 9:30〜11:00 袋井市総合センターにて講演 
          (主催 袋井市教育員会 0538−44−3140)

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会、連絡先、万ごく幼稚園)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

10・10……富士市、田子浦小学校(中学校)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

6・16……袋井市教育委員会子育て講演会※

6・15……蒲幼稚園

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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    MMMMM
 m | ⌒ ⌒ |
( ̄\q ・ ・ p
 \´(〃 ▽ 〃) /〜〜
  \  ̄Σ▽乃 ̄\/〜〜/
   \  :  ξ)
   ┏━━┻━━━┓
   ┃   Bye   ┃
   ┗━━━━━━┛

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件名:子育て情報(はやし浩司)6-17

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
 子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数(Nr. of Readers) 296人
  How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
  Degital Magazine for Parents who are brinnging up Children in the Forefront Line 
 ================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
          /井\
         〔井井井〕
    MMMMM \井/Hi! I am Hiroshi, and through this magazine you may know
   | ⌒ ⌒ | ‖ what is happening among parents in Japan,with some knowledge
 ○ q ・ ・ p ‖   how to cope with Kids and how to bring up children at home.
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)      
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ━━○━━━━━━━○━━━━━━━
    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 80人     
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   上、二つの、E-マガとメルマガは同じ内容です。

(どちらか一つという方は、E-マガのほうをご購読ください。
購読の仕方は、私のサイトのトップページから、マガジンコーナーへ。)

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どうかあわせて、ご愛読ください。お申し込みは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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published periodically by Hiroshi Hayashi, for which I thank you veru much.
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★★★★★★★★★★★★★★★★★
02−6−17号(063)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayahsi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
Key Words to Privare Room in my Website are, C-X-I

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先週だけでも、カナダ在住のSさんをはじめ、フランス、スペインに住んで
おられる方よりメールが届いています。アメリカに住んでいる二男夫婦の
ためにも、今回より、英語版を充実させることにしました。

●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazien is translated into English
  for your vonvenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home conutry. Hirsoshi

メニュー

【1】ドラ息子診断テスト(How to cope with spoiled kids)
【2】古い世代との対立(Coflict with the old generation)
【3】スパルタ方式への疑問(Question to Sparta Method)
【4】善悪の意識(Righteous and Wrongness)
【E】English Version

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【1】
あなたの子どもは、だいじょうぶ?
日本では、ドラ息子、ドラ娘でない子どもをさがすほうが
むずかしいとされています。飽食と、ぜいたくが、こうした
子どもをつくったと考えられます。
そこで診断テスト……

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子どもの心(子どものドラ息子度)を知る、5つのテスト(小・中学生版)(試作版)

子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示すことがあります。そういう行動を手が
かりに、子どもの心の中を知ろうというのが、このテストです。ぜひご家庭で、活用してみてくだ
さい。

(1)子どもにある程度まとまったお小遣いを渡したとします。小学生で1000円、中学生で50
00円程度とします。そのときあなたの子どもは……。

大切に貯金しておこうといった様子を見せる。……0点
すぐには使わないで、あれこれ楽しみにするようだ。……1点
前からほしかったものを見つけて、買ってくる。……2点
意味もないものを、即座に買ってきて、それを楽しむ。……3点


(2)子どもが自分の部屋から出たあと、子どもの部屋を観察してみてください。特に電気製品
などの使い方をみてください。

こまめに電気を消し、節約している。0点
たいていは消すが、ときどきつけっぱなし。11点
たいていつけっぱなしだが、消すこともある。2点
電気、コタツ、クーラー、テレビなどは、つけっぱなし。3点


(3)日ごろの子どもの様子をみたとき、あなたの子どもは、家族とのかかわりかたをどのよう
にしていますか。

犠牲的精神が強く、家族を喜ばせようとする行動が多い。0点
まあまあ積極的に家族のことを喜んだり、祝ったりする。1点
言いつければ家族のことをするが、あまりやりたがらない。2点
自分の誕生日には敏感だが、ほかの家族の誕生日には関心がない。3点


(4)何もすることがない休み(日曜日)に、あなたの子どもは、どのような様子を見せますか。
子どもの行動を観察してみてください。

好んで家族の仕事をする。仕事をいとわない。0点
言いつければ、それなりに仕事を分担してやってくれる。1点
ほとんど自分のことだけ。頼めば、何とかしてくれる。2点
自分のことだけ。家族のことはまったくしない。3点


(5)子どもが好んで食べる食べ物、友人関係を観察してみてください。ある程度の好き嫌い
は、だれにでもつきものですが……。

好き嫌いはなく、だれとも仲よくできるようだ。0点
不平、不満は少なく、がまん強いほうだと思う。1点
たいてい好き嫌いがあって、それをよく口にする。2点
好き嫌いがきわめてはっきりしていて、扱いにくい。3点
                                         
★結果はいかがでしたか。
点数が15〜12点かなりのドラ息子(娘)とみます。
   11〜 9点ドラ息子の一歩手前とみます。
    8〜 6点 日本の子どもとしては平均的です。
    5〜 0点忍耐強く、すばらしい子どもです。


調査結果:   
★ドラ息子(娘)の特徴は、自分勝手でわがまま。享楽的(その場だけの楽しみを喜ぶ)などが
あります。ものごとの許容範囲が狭くなり、特に人間関係が小さくなります。「あいつはいやだ」
とか、「あいつは嫌いだ」とかいう発言が多くなり、嫌った相手は徹底的に嫌うという様子を見せ
ます。一方で、「自分は大切にされるべきだ」という態度が多くなり、そうでないと、不平や不満
をタラタラと言ったりします。俗に言う、「何とかしてくれ言葉」(食事を求めるときも、「腹がへっ
たア〜(だから何とかしろ)」と言うなど)や、「何かない言葉」(「何とかしろ」と相手に求める言い
方。「何かナ〜イ」「何かおもしろいものナ〜イ」と言うなど)が多くなります。


★子どもがドラ息子化すれば、将来それで損をするのは子ども自信であることを忘れてはなり
ません。そのためにも、子どものかわいさに溺れないこと。「使えば使うほど子どもはよくなる」
と考え、日常的に家事の分担をさせます。「子どもに楽な思いをさせるのが親の愛」とか、「い
やなことをさせないのが親の愛」と考えているなら、そういうまちがった子育て観は今すぐ、改
めます。

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参考

子どもがドラ息子になるとき

●ドラ息子・ドラ娘

 教育の世界には、誤解がまん延している。その一つが「忍耐力」。ある日一人の母親が私の
ところにやってきて、こう言った。「うちの子はサッカーだと、一日中している。忍耐力はあるは
ずだ。そういう力を、勉強のほうに向けさせたいが、どうしたらいいか」と。しかしそういう力は、
忍耐力とは言わない。その子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって忍耐力とは、い
やなことをする力のことをいう。試しにあなたの子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミ
を始末して!」と。風呂場の排水口にたまった、毛玉でもよい。そのときあなたの子どもが、「ハ
ーイ」と言って、それを手で始末できれば、よし。あなたの子どもは忍耐力のある子どもというこ
とになる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。理由は簡単だ。もともと学習には、ある
程度の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だから、である。

 子どもは使えば使うほど、すばらしい子になる。忍耐力もそこから生まれる。が、今の子ども
たちは、家の手伝いをしない。……というより、させることが、ない。ある母親はこう言った。「掃
除は掃除機で、ものの一〇分ですんでしまう。洗濯も全自動、料理も電子レンジ、食器も食器
洗い機に任せている。何をさせるのですか」と。「料理のときキッチンの前でウロウロされると、
かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と言った母親すらいた。しかしこういうス
キをねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。その症状は、

(1)自己中心的(自分勝手でわがまま)、
(2)退行的(目標や規則が守れない。生活習慣がだらしなくなり、無礼、無作法。依存心が強
い割に、無責任になる)、
(3)ものの考え方が消費的(一時的な楽しみに走りやすい)になり、
(4)バランス感覚(ものごとを静かに考えて、正しく判断する感覚)が消える、など。
 
 子どもは自分で苦労をして、はじめて他人の苦労が理解できるようになる。これも試しに、子
どもの前で重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのとき「ママ、手伝ってあげる」と走り寄って
くれば、よし。しかしそういうあなたの姿を、見て見ぬフリをしたり、ゲームに夢中になっている
ようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘と見てよい。今は、体も小さく、あな
たの支配下で、おとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。

●バランス感覚を大切に
 子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)生活感のある生活に心
がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせ
る。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意
識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。(3)忍耐力をつけさせる
ため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを守らせる。(5)不自由であることが、生活の
基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、(6)バランスのある生活に心がける。こ
こでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさとやさしさが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもは、先に書いたバランス感覚をなくす。

 もし今、あなたが「子どもに楽をさせるのが、親の愛」などと誤解しているようなら、今すぐ、そ
ういうまちがった子育て観は改めたほうがよい。子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、
将来苦労するのは、結局は子ども自身ということを忘れてはならない。

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【2】
講演をすると、よく、そのあと、あれこれ意見をもらいます。
皆さんが皆、私の意見に賛成してくださるとは限らない……、
それが子育て講演のこわいところです。そういう意見の中から
いくつかを拾ってみます。

*****************************

古い世代との対立

 講演をしていると、いろいろな人から抗議を受ける。(たいていは質問という形だが、「私はそ
うは思わない」「林の意見にはついていけない」というのが多い。そういうのも含めて、ここでは
「抗議」と呼んでいる。)

 しかしそのほとんどは、五〇代、六〇代の男性からのもの。私の意見は、世の男性たちに
は、支持されないようだ。この数か月だけでも、こんな抗議があった。

●「『母さんの歌』(窪田聡作詞、作曲)の歌はすばらしい歌だ」(私は何も、その歌を否定して
いるのではない。)
●「父親は家で、威厳があることこそ重要だ」(威厳というのは、互いの間に尊敬の念があって
はじめて生まれる。親の権威を一方的に子どもに押しつけるのはどうか。)
●「子どもの人生は子どものものとはいうが、実際には、子どもに老後のめんどうをみてもらわ
ねばならない」(親孝行を否定しているのではない。強要してはいけないと言っている。)
●「妻たちに、ヘンな知恵をつけてほしくない。そうでなくても、妻と両親(祖父母)との関係がむ
ずかしい」(言語道断!)
●「林は親孝行を否定するが、親孝行は日本人の美徳である」(献身的、犠牲的な孝行を、子
どもに求めてはいけない。強要してはいけない。あくまでも「心」の問題。心を通いあわせること
こそ、真の孝行ではないのか。)
●「夫は仕事で疲れて帰ってくる。その上、家事を分担せよというのは、現実的ではない」(最
初から何もしなくてよいという意識と、分担しなければならないが、それができないという意識で
は、おのずと違いがでてくる。夫は、家事、育児のたいへんさをもっと理解すべきと私は言って
いる。)
●「産んでいただきましたと子どもが親に感謝するのは、当然だ」(恩着せがましい子育ては、
親子の間にキレツを入れることになるから注意したいと私は言っている。それでもかまわない
というのなら、私もかまわない。)
●「親子のきずなは切れない。親子の縁など、切れない」(しかしそういう日本的な常識(?)の
中で苦しんでいる子どもも多い。こうした常識を子どもに押しつけてはいけない。)
●「母性は本能だ。どんな親でも、子どもを愛しているはず」(もしそうなら、虐待などないはず
だが……。)
●「子どもにもっときびしくし、子どもをきたえるべきだ」(きびしくすれば、それでよいという考え
では、これからの子どもを指導することはできない。)
●「子どもの世界が乱れているのは、甘やかしが原因。親が子どもの友になるなんて、とんで
もない」(ひとりの人間として、認めようと、私は言っている。)ほか。

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【3】
「子どもをもっときびしく育てろ」という、安易な子育て法は
まかりとおっています。しかしきびしくsれば、それでよいと
いうものではありません。こうした子育て法を説く人は、実際
には子どもを教えたことがない人ではないかと思います。
(言いすぎですが……)。想像だけで子育て論を組み立てて
もらっては困ります。

******************************

スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本の特異性は、外国の
子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学
校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こういう
国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。

 が、この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利に
なったが、その分、子どものできる仕事が減った。私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言った
ときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機
でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食
材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘にな
る。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」こと
ができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、
乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あ
なたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日
本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパ
ルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ども
にすべき教育ではない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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教師は聖職者か?

 知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとな
ったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。

 この性欲をコントロールすることは、不可能? よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするとい
うが、禁欲などできるものではないし、またそれをしたところで、それがどうだというのか。知性
(大脳新新皮質)の活動が、すばらしくなるということはない。もともと脳の中でも、機能する部
分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性はアンドロゲンで、女性はエストロゲンと
プロゲステロンによって、コントロールされている。)あるいはホルモンをコントロールすれば、
性行動そのものもコントロールできることになるが、それは可能なのか。いや、可能かどうかを
論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性欲があるから、聖職者や出家者として失格
だとか、性欲がないから失格でないと考えるほうが、おかしい。

 私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さ
んと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、
性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日
常生活の中でうまくコントロールできるかどうかということ。これについては、まさに「知性」がか
らんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行動」の間には、一定の距離がある。この距離こそ
が、知性ということになる。

 ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近
は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着
に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。そういうとき目のやり場
に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを相談すると、その教師は
こう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。

 一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、と
もかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性が
あるということにはならないが、しかしこんなことはある。

 私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろ
んのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をし
てきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。つまり平常心で、風呂の
中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)とくに相手を、「母親」と意識し
たとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい現象だと思う。長い前置きにな
ったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私はこうした議論そのものが、ナン
センスだと思う。


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【4】
子どもは大きくなればなるほど、常識から遠ざかる……?
こんなショッキングな調査結果が公表されました。

******************************

薬物の使用は個人の自由?

 文部科学省の調査によれば、覚せい剤などの薬物使用について、「他人に迷惑をかけてい
ないので、個人の自由」とする割合は、つぎのようであったという(平成一二年、小学校の高学
年、中高校生生、計七三〇〇〇人について、一一月調査)。

 高校一年生……一〇・七%
 高校二年生……一一・五%
 高校三年生……一三・〇%、と。

 学年があがるごとに、割合が高くなるが、同様の傾向は、高校生女子のほか、小中学生でも
みられる。つまり、学年があがるにつれて、「心のタガ」がよりはずれるということ? 同じ調査
によれば、「薬物を使ったり、もったりすることを『悪いことだ』と答えた高校生はつぎのようであ
った。

 高校一年生……五九・九%
 高校二年生……五七・二%
 高校三年生……五五・六%、と。

 反対に、学年があがるごとに、割合が低くなっている。

 よく「日本はアメリカとくらべて、薬物を使用する子どもが少ない。自由主義のアメリカのほう
が、かえって善悪の判断のできない子どもにする」と言われる。しかしこの日本で、たまたま薬
物の使用が少ないのは、子どもたちの善悪の判断によるものというよりは、取り締まりのきび
しさによるところが大きい。もし仮に、アメリカ並に、薬物が一般社会に蔓延(まんえん)するよ
うになったら、日本の若者たちは、はるかに急速に薬物に浸透していくと思われる。ひとつの例
として、援助交際と呼ばれる「売春」がある。

 問題は、学年が高くなるにつれて、なぜこうした「善悪」の判断にうとくなり、また自分にブレー
キをかけることができなくなるか、である。神戸大学のK教授は、「さまざまな悩みをかかえる高
校生が、薬物使用に共感できる部分があるいからだろう」(日本教育新聞))とコメントを寄せて
いるが、私はもっと問題の「根」は深いと思う。これについては、また別の機会に考えてみるこ
とにする。

***************************************************************************

善玉依存心、悪玉依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きていかれない、か弱き存在なのか。もちろんその程度
は、人さまざま。何かにどっぷりと依存しながら生きている人もいれば、そうでない人もいる。し
かし本当の問題は、何に依存するか、だ。

 その依存心には、善玉依存心と悪玉依存心がある。悪玉のほうが話しやすいので、悪玉依
存心について先に書く。

モノ、金、地位、名誉、財産など、自分を離れたものに依存するのを、悪玉依存心という。家
柄、宗教に依存するもの、これに含めてよい。このタイプの依存は、その対象物がゆらいだと
き、自分自身もゆらぐという心配がある。これは極端な例だが、熱心な信仰者が、その信仰に
疑問をもったとき、精神的な混乱(狂乱)状態になることはよく知られている。

 しかし自分自身に依存するのには、そういう心配はない。そういう意味で、自分自身に依存す
ることを、善玉依存心という。こんなことがある。

 私はときどき講演している最中に、多くの聴衆を前にして、ふとこんなことを思う。「どうして私
がこんなところに立っているのだろう」と。私には私を背後から支える、名誉も地位も肩書きも
ない。何もない。そういう私が、なぜ立っているか、と。そういうときかろうじて私を支えているの
は、「私ほど、子育ての現場を踏んだ人間はいない」という思いと、「私は今朝も朝、五時から
原稿を書いたではないか。そんなことをしている人間がほかにいない」というなぐさめである。
そのつど、心のどこかで自分を励ましながら、自分を立てなおす。

 自分に依存するというのは、だれにも「私の中から私を奪えない」ということ。そういう意味で
は、強い。悪玉依存心と違って、なくすことを心配する必要はない。裏切られることもない。だ
から……と書くと、手前味噌のようになってしまうが、同じ依存心をもつなら、善玉依存心のほ
うがよいに決まっている。

 で、問題は、夫(あるいは妻)や、子どもに依存するのはどうかという問題。私たちは依存した
くなくても、いつの間にか依存することになるかもしれないが、原則としては依存しないほうがよ
いのでは……? 家族については、どうなのかという問題については、まだ私にもよくわからな
いので、また別の機会に考えることにする。
 

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【For English Readers】(roughly translateded by Mr IBM)

I am sure my Japanese is excellent but my English is not good enough but you may know 
what I have been thinking through this column.

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A good dependence, a bad dependence 

 Is man the delicate existence which cannot make a living if not dependent on something? 
of course it depends on how much or deeply the man relies uopn it. There are some 
persons who are alive while it is dependent on something fully and throughly, and there is a 
person who is not so. However, a true problem is what the man depend on.
 
 There are a good dependence and a bad dependence as the dependence. Since it is easy 
to speak about the way of a villain, it writes previously about a bad dependence. 

 Monochrome, gold, a status, honor, property, etc. call it a bad dependence that it is 
dependent on what left itself. You may include in the thing and this depending on birth and 
religion. Dependence of this type has a fear of saying that he also swings, when the subject 
swings. Although this is an extreme example, when an eager believer has a question in the 
faith, it is known well that it will be in a mental confusion (madness) state. 

 However, such worries cannot be found in being dependent on oneself. In such meaning, it 
is called good dependence that it is dependent on itself. There is such a thing. 

 I make it the midst on which a lecture is sometimes given in a front many audiences and 
consider such a thing suddenly. "Why do I stand on such a place?" I do not have the honor, 
the status, or title which support me from the back, either. There is nothing, but I am the 
one who has the more experiences than any other people. Didn't " I write the manuscript 
from 5:00 in the morning this morning? The thought may support me from the back. There is 
no human being with whom I stepped on the spot of child bringing up", the human being who 
is doing such a thing says that he is not in others" -- it drops off -- it awakes and comes 
out Each time, he is reorganized, encouraging himself by somewhere in hearts. 

 That it is dependent on itself should say also to whom, "I cannot be taken out of me." In 
such meaning, it is strong. Unlike a bad dependence, it does not need to be afraid to lose. It 
is not betrayed. therefore, the good dependence is better if it has the same dependence 
although it will become like self-praise, when it is written as .... it is alike and was decided 

 The problem how it is that come out and a problem is dependent on a husband (or wife) 
and a child. With one with it better or not to depend on these families. About this problem 
how to be about a family, since I do not yet understand well, either, it will consider at 
another opportunity.

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Use of a medicine(drags) is individual freedom. 

 since trouble is not made to "others about medicine use of a psycho-stimulant etc. 
according to investigation of Education Ministry of Japan-- individual freedom -- the rate 
made into " says that it was as follows (it will investigate in 11 months for common Seiichi 
two years about a total of the upper classes of an elementary school, a junior-and-senior-
high-schools student student, and 73000 persons) 

First-year student in a high school .... 10.7% 
Second-year student in a high school .. 11.5% 
Third-year student in a high school .. 13.0%. 

 Although a rate becomes high whenever a grade goes up, the same tendency is seen also 
by the small junior high school student besides a high school student lady. That is, it says [ 
that "the hoop of the heart" separates more as a grade goes up ].  The " high school 
student who answered [ using or having a medicine and ] "It is bad" was as follows. 
According to the same investigation 

 First-year student in a high school .... 59.9% 
Second-year student in a high school .. 57.2% 
Third-year student in a high school .. 55.6%. 

 On the contrary, the rate is low whenever a grade goes up. 

 "Japan has well few children who use a medicine compared with the United States. It is 
said that the way in the liberal United States makes it the child who cannot do judgment of 
good and evil on the contrary." However, the thing with little [ by chance ] use of a 
medicine has the place large in this Japan depended on the severity of control rather than 
what is depended on judgment of children's good and evil. With it being temporary, if a 
medicine comes to spread in general society . Japanese young men will be considered to 
permeate a medicine quickly far a [ the American average ]. There is "prostitution" called 
compensated dating as one example. 

 As for a problem, a grade becomes high -- it is alike, it takes and becomes unacquainted [ 
why ] to judgment of such "good and evil", and brakes cannot be applied to themselves, and 
it becomes him, or comes out the professor of K of Kobe University -- "-- there is a 
portion to which the high school student who holds various troubles can sympathize with 
medicine use -- it will be because it is -- although " (Japanese educational newspaper) and 
the comment are sent, I regard the "root" of a problem as deep more About this, it will 
consider at another opportunity. 

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おまけのページ



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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。


7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
          (主催 浜松市市立幼稚園連合会、連絡先、万ごく幼稚園)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

10・10……富士市、田子浦小学校(中学校)

9・未定……静岡梨花幼稚園

7・未定……浜松市東部公民館母親教室

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

ほかに内野小学校、南部公民館、北浜南小学校など。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。



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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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    MMMMM
 m | ⌒ ⌒ |
( ̄\q ・ ・ p
 \´(〃 ▽ 〃) /〜〜
  \  ̄Σ▽乃 ̄\/〜〜/
   \  :  ξ)
   ┏━━┻━━━┓
   ┃   Bye   ┃
   ┗━━━━━━┛

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件名:H. Hayashi, Japan-子育て情報(はやし浩司)6-20

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
 ===○=======○====KW(8)
 子育て最前線の育児論byはやし浩司(E−マガ)……読者数(Nr. of Readers) 299人
  How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
  Digital Magazine for Parents who are brinnging up Children in the Forefront Line 
 ================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
          /井\
         〔井井井〕
    MMMMM \井/Hi! I am Hiroshi, and through this magazine you may know
   | ⌒ ⌒ | ‖ what is happening among parents in Japan,with some knowledge
 ○ q ・ ・ p ‖   how to cope with Kids and how to bring up children at home.
⊆⊇ (〃 ▽ 〃) ξ)      
 \u ̄ ̄⊆V⊇ ̄ ̄レ/
   ̄丶  :  厂 ̄
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    最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ) ……読者数 80人     
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02−6−20号(064)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayahsi
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キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

●Hello, my friends overseas!
  From this edition on, my magazien is translated into English
  for your vonvenience. I hope you may enjoy this magazine 
  in your home conutry. Hiroshi

メニュー

【1】子を思う、親心(Love your child, but how?)
【2】見えない過去(Unseeable Past which controls your mind)
【3】自然教育について(On Nature)
【4】考えない子ども(Dull Kids)
【E】English Version

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【1】
子どものことを思わない親はいないという。
それはそうだが、しかし問題は、その思い方。
親が子どもを思う思い方には、二種類ある。
たとえば……。あの野口英世の母親は、英世に
「帰ってきてくれ」と何度も懇願している。日本では
「子を思う母の気持ち」と、母親の手紙のカガミの
ように考えられている。しかし……

***********************

子を思う、親心

 遠くに離れて暮らす息子や娘に、(1)「帰ってきてくれ」とそのつど懇願する親もいれば、(2)
「親や家のことは心配しなくてもいいから、帰ってくるな」と言い放つ親もいる。あなたというよ
り、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。

 少し乱暴な言い方かもしれないが、結論を先に言えば、子離れできず、依存心の強い親は、
(1)のタイプということになる。旧来型の日本人は、たいていこのタイプとみてよい。一方、独立
心が旺盛で、前向きに生きている親は、(2)のタイプということになる。

【依存型の親】自分でもだれかに依存したいという、潜在的な願望が、無意識にも、子どもの依
存性を容認するようになる。このタイプの親は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい
子イコール、よい子とする。そしてそのつど、これまた無意識のうちにも、子どもに対して、「産
んでやった」「育ててやった」と、恩を着せる。(子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもら
った」と言うようになり、さらに「親のめんどうをみるのは子の役目」などと公言したりする。自分
自身が、マザコンになっているケースも多い。)

【非依存型の親】子育てをしながらも、じょうずに子離れをする。「私の人生は私のもの」という
考え方が強く、その一方で、子どもには、「あなたの人生はあなたのもの」という考え方をする。
外国で活躍している息子に対して、「私が死ぬまで、日本に帰ってくるな」と言いつけた親もい
た。このタイプの親は、自分の子どもが自分のために犠牲的になるのを、望まない。そういう犠
牲的な姿をみると、かえってそれをつらく思ったりする。

 あなたや、あなたの親がどちらのタイプであるにせよ、これは意識の中でも、脳のCPU(中央
演算部)にかかわる問題。だからたがいに、たがいが理解できない。(1)のタイプの親からみ
れば、遠くで生活する子どもを、「親不孝な子ども」ととらえる。一方、(2)のタイプの親からみ
れば、(1)の親の心が理解できない。どちらも「親心」が基本にはなっているとはいうものの、
依存性があるかないかで、子どもへの対処のし方が、一八〇度違う。

 さてさて、あなたというより、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。

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【2】
私たちは、知らず知らずのうちに、
無意識下にある潜在意識に操られている。
そしてそれらはあなたの過去と密接に
結びついている。私はそれを「見えない過去」と
呼ぶ。
あなたにとって、見えない過去とは……?

**********************

見えない過去

 あなたの、ごく日常的な生活を、できれば他人の目で観察してみてほしい。「私は私」と決め
てかかる前に、謙虚な気持ちで、観察してみてほしい。そのとき、あなたはそれでも、「私は私」
と言いきることができるだろうか。

 私たちは無数の過去をもっている。もっているだけならまだしも、その過去に引きずりまわさ
れている。つまり日常的な生活というのは、あくまでもその結果でしかない。たとえば……。

 NHKに『昼どき、日本』※という番組があった。司会者とタレントが、地方を訪れ、その地方
の名物や名物料理を楽しむという番組であった。私はあの番組が、どうしても好きになれなか
った。しばらく見ていると、やがて不愉快になった。が、長い間、その理由がわからなかった。
が、ある日、その理由に気づいた。

 私は若いころ、あるテレビ放送局で下請けの仕事を手伝ったことがある。そのときのこと。私
は「いつか、大きな仕事をさせてもらえるのではないか」「テレビの表舞台に立たせてもらえる
のではないか」という期待をもっていた。そのため、犬のようにシッポを振った。いや、まさに犬
そのものだった。

 一方、テレビ局の人たちは、そういう私の「下心」を見抜いていた。そして何だかんだと理由を
つけては、この浜松へやってきた。いわゆる「たかり」である。私は内心ではたかりと知りつつ
も、飲み食いの接待はもちろんのこと、さらには宿泊のめんどうまでみた。短い期間だったが、
延べにすれば、一〇〇人以上もの人を接待しただろうか。が、結局は利用されただけ。

 あの『昼どき、日本』を見ているとき、私は無意識のうちにも、あの当時の「東京人」のずうず
うしさを思い出していたのかもしれない。慣れた口調で、ぺラぺラと調子のよいことを言って、
地方の人間をおだてる。「おしいですね」「こんなところに住んでみたいですね」「空気は新鮮
で、うらやましい」と。地方の人間は地方の人間で、その言葉に乗せられるまま、相手がNHK
の人間というだけで、手厚くもてなす。……それはまさに、自分自身の姿でもあった。

 これはほんの一例だが、私たちはそのつど、過去のわだかまりにこだわりながら生きてい
る。ひょっとしたら、「私」という部分のほうが少ないのかもしれない。趣味や好みはもちろんの
こと、不安になったり、悩んだり、苦しんだりすることも、すべて、どこかで過去のこだわりにつ
ながっている。そこでもあなたが、心のどこかに「自分でない私」を見つけたら、それが自分の
過去とどこかで結びついていないかをさぐってみるとよい。何か、あるはずである。私はそれを
「見えない過去」と呼んでいる。その過去に気づくことは、自分を知る、第一歩でもある。それは
ある意味で、こわいことかもしれないが、勇気を出して、自分を見つめてみる。たいていの心の
問題は、それで解決する。


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【3】
 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」
という言うのは、その人の勝手だが、それを外国
の人に押しつけてはいけない。

 外国を歩いてみると、彼らの自然観は、日本人
と一八〇度違うのがわかる。日本以外のほとんど
の国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相
手なのだ。ブラジルでもそうだ。彼らはあのジャン
グルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼ら
にすれば、自然は、「脅威」であり、「敵」なのだ。
このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっ
きりする。そういう国で、「自然を大切にしましょう」
「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、
アホか?」と笑われる。

******************************

自然教育について

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季
節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で四〇分足らずのところだが、この二つの生活
はまるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であること
が、当たり前。大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナ
リが落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路
舗装も浄化槽の清掃も、自分でする。こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかも
しれない。しかし実際には、T村での生活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きてい
る」という実感がともなう。庭に出したベンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶ
ホトトギスを見ていると、生きている喜びさえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな
る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、とも
かくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。女房は「あなたも歳よ
…」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように思
う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そういう自
分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす
ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。
数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な
ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。
 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

この「自然教育」は、もうひとつのマガジンである「はやし浩司の世界」でも
さらに詳しく書いています。興味をもってくださる方は、どうかそちらも、お読み
ください。

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【4】
今、自らは考えようとしない子どもがふえている。
そういう子どもは、当然のことながら、学習面でも
伸び悩む。あなたの子どもはだいじょうぶか?

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考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段
階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では
1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分
で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。そこ
までヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいと
いった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の
問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力
そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だ
ちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊
富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。ただ「考え
る」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣
そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。


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考えない子ども(2)

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。しかしこの
分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこない。さらに
特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした子どもにラ
ベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこうした見方
は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、診断では
なく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことがで
きるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることがで
きるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっていると
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。何かの事件
がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなく
なることがある。それが(2)の状態。パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言
葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。
歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場
だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

上の(1)〜(4)のタイプの子どもへの対処法については、
サイト、子育て ONE POINT アドバイス! の(420)〜以後に
詳述しておきました。
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【For English Readers】(roughly translateded by Mr IBM)

Parental affection which considers a child 

 The son who separates and lives in the distance, and a daughter have the parents for 
whom it entreats (1) "come back" each time, and there are parents who declare (2) "don't 
come back since the thing of parents or a house may not be worried." Which types are your 
parents rather than you? 

 Although it may be a somewhat violent way of speaking, if a conclusion is said previously, it 
cannot stop overprotection of children but the strong parents of a dependence will call it 
the type of (1). A former type Japanese may regard it as this type mostly. The parents 
toward whom it is full of an independent spirit and it is positively valid on the other hand will 
call it the type of (2). 

[Dependent parents] Also unconsciously, a potential wish [ say / that he also wants to be 
dependent on someone ] comes to admit a child's dependability. This type of parents are 
taken as the child equal sign which presumes upon parents all over, dear child equal sign, 
and a good child. And this and while it is unconscious, it dresses with an obligation to a child 
each time, saying "it bore" and "it raised." (A child is a child, comes to say "I had you bear
" and "I had you raise", and declares further "It is a child's duty to see parents' trouble" 
etc.) He is mother complex in many cases.   

[Parents of non-dependence] Though child bringing up is carried out, it stops overprotection 
of children well. The view "my life is my thing" is strong, is one of these, and has a view "
your life is your thing" of a child. There were also parents who told "Not to come back to 
Japan until I die" to the son who is playing an active part in the foreign country. This type 
of parents do not desire for his child to become self-sacrificing because of himself. If such a 
self-sacrificing sight is caught, I will regard it as hard on the contrary. 

 the parents of yours and you are which types -- an imitation -- the problem in 
connection with [ in this ] cerebral CPU (central operation part) also in the inside of 
consciousness Therefore, each cannot understand mutually. If it sees from the parents of 
the type of (1), the child who lives in the distance will be arrested with "an undutiful child." 
On the other hand, if it sees from the parents of the type of (2), you cannot understand the 
heart of the parents of (1). Although "parental affection" has both been to foundations, how 
to carry out dealing with a child is different 180 degrees by whether it is dependable or 
there is nothing. 

 now, you --- which types are your parents?

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About natural education 

 A wild jasmine will temporarily in May be in all glory. It is a sweet smell. After it finishes, it 
is the season of a field strawberry. And a hototgisu (a summer bird) comes to fly empty 
soon .... 

 It comes to lead a double life in a Hamamatsu in the city and an Inasa-cho T village, and 
has already been six years. A weekday works in the city and it passes in T village a 
weekend. Making it distance, these two lives are different by car completely but the place of 
a little less than 40 minutes. A life in the city has a convenient natural thing. A life in T 
village has an inconvenient natural thing. Whenever heavy rain falls, water stops. Of course, 
water withers at the period of water shortage of winter. Whenever thunder falls, power fails. 
The ant made the nest in the electric pole of a telegraph pole, then power failed the other 
day. Road pavement also carries out cleaning of a septic tank personally. When it writes like 
this, there may be those who think "a country life is serious." However, the life in T village is 
more pleasant in fact. The feelings of "being alive" always follow on a life in T village. It sits 
on the bench taken out to the yard, and even valid joy will be memorized if the summer 
bird which flies is seen, crying with "ti-ti-pi-pi-pee" 

 coming out -- my case -- why -- like this -- until -- say whether to be country intention 
type human being no, city life -- in any way -- like this -- being also alike -- the skin is not 
suited The head becomes painful only by walking several hours in bustle of a town. It gets 
tired. A signboard garish to exhaust gas. It is the bad smell of a dining-room town etc. to it. 
The skin is not suited although it is variously anyway. Beginning the country life, the 
tendency became still strong. a wife -- "-- you -- age -- although it is called --" -- 
somehow -- so much -- coming out -- it seems that there is nothing I think that I am 
returning to my "starting point" now. As a child, I played in it until the day was always at a 
loss for the heart of the mountains in Gifu. The fish was taken.   

 It comes out and the word natural "education" is often used now. However, even if it 
comes to the training camp center in line and Yamama have per several 100 persons, I think 
that I do not become natural education. Even the child who dislikes such experience on the 
contrary comes out. In order for natural education to be natural education, you have to 
support the "starting point" in a child. It lives in the world where a man's sign is not felt, 
leisurely during several days or beyond [ it ] in between. He is supported, doing a selfish 
thing. Such experience serves as the starting point only after it sinks in into the body. 
 .... I like the voice of summer cicada. If it cries and voice is heard, sleeping [ which it is 
called kana kana kana ] will also become regrettable. The voice is also flowing the inside in 
nearby woods calmly tonight. 
(Hiroshi's site:http://www2.wbs.ne.jp/-hhayashi/)   

It is also writing still in detail this "" whose nature educational" is another magazine being 
Hiroshi's world." How or your place should also read those who get interested. 


Sorry for incomplete translation!
This is not my fault, but IBM's.

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おまけのページ

こんな短編を書いてみました。

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バーチャルリアリィティの世界(ショートストーリィ)



 講演会場へ入ったら、たまたまどこかの劇団がリハーサルをしていた。予定の時刻まで、ま
だ時間があった。私はそのリハーサルを、うしろのほうの席で見ることにした。神様をテーマに
した、風刺劇のようだった。中央に身をかがめた神様らしき人を、多くの若者が取り囲んで、何
やら大声で叫びあっていた。

 ふと人の気配を感じてうしろを見ると、一人の同年齢の男がそこにすわっていた。瞬間、目と
目があった。少し座席の位置が高かったこともある。私を見おろすようにして、「あなたは?」と
その男は私に聞いた。私も劇団の関係者だと思ったらしい。そこで私が、「いえ、夕方ここで講
演することになっているものです」と言うと、その男は返事もしないで、そのまま黙ってしまった。

 舞台では、ひっきりなしに会話が飛び交っていた。いわゆる「劇団演技」といわれるもので、ど
こかわざとらしく、どこか不自然な演技だった。一人の男がこう叫んだ。「神は幻想だ」「神こ
そ、我々の発明品だ」と。

 どれくらい時間が流れただろうか。三時からは、私たちがその会場を使うことになっている。
時計を見ると、その三時になるところだった。また人の気配を感じてうしろを見ると、先ほどの
男が席を立つところだった。また視線があったので、軽く会釈すると、再びその男が私に話し
かけてきた。

 「あなたは神か?」と。この質問には驚いたが、私は「あなたがそう思うのなら、それに近い」
と言ってしまった。言うべき言葉ではなかった。するとその男は、またあの笑みを浮かべて、こ
う言った。

 「あんたのような頭のおかしい人間がいるから、世の中がおかしくなる。だいたい神などという
ものは、存在しない。この見えるもの、感ずるもの、聞こえるものが、すべて。それを現実とい
う。あなたのような神ぶったインテリこそ、人間の敵だ」

 能弁な男だった。私が「それがこの劇のテーマですか」と聞くと、「そうだ」と。そして席を立ち
ながら、こう言った。まさに神すらも恐れない、ふてぶてしい言い方だった。「あんたは本物のバ
カだよ。ここで講演の講師をするらしいが、あんたのようなバカがする講演に、どれだけの意味
があるというのか」と。そこで私が、「あなたの見ている世界が、すべて幻想だったら、あなたは
どうしますか」と聞くと、「だからお前は、頭がおかしい……ありえない」と。

 そこで私はぐっと息を吸い込んだ。ときどき、夢を見ながら、それが夢だと気づくときがある。
そのときがそうだった。そして目をゆっくりと開いた。白い光が視界全体に広がった。先ほどの
男の動きが止まったと思うと同時に、その顔が光に包まれた。私はさらに大きく目を開いた。
朝だった。時計の時刻は七時半を示していた。


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講演会においでください。おいでになるときは、一度、主催者に連絡してください。
多分(いいかげんな言い方ですみません)、自由に聴講していただけると思います。

7月4日(木)……浜松市市立幼稚園PTA連合会にて講演
  (主催 浜松市市立幼稚園連合会、連絡先、万ごく幼稚園)

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講演会のお知らせ

各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。

2・20……内野小学校

11・21……北浜南小学校

10・10……富士市、田子浦小学校(中学校)

9・未定……静岡梨花幼稚園

9・11……蜆塚幼稚園

8・20……南部公民館

7・30……国立身体障害者リハビリセンター(埼玉県所沢市)

7・23……浜松市東部公民館母親教室

7・20……伊平小学校

7・4……浜松市市立幼稚園PTA連合会

6・23……有玉幼稚園

ほか、横浜市(2個所)、愛知県豊田市、浜松市医療センター内での講演
を予定しています。詳しくは順次、サイトの「ニュース」で報告します。

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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。

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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県内の方)、あるいは

(株)静岡教育出版社 рO54−281−8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。

〒422−8006 静岡市曲金5−5−38、静岡教育出版社

       一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。

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  以上、コマーシャルばかりで、すみません! がんばっています!
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    MMMMM
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   \  :  ξ)
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